バンガードの休日

 今日の西太洋は、実に平和そのものであった。
 空は青く晴れ渡り、海上を吹き抜ける風も穏やかそのもの。四方見渡す限りが海ばかりという景色には少々飽き飽きしてきた頃合いではあるが、まだ暫くはこのままの予定だ。
 その日、愛用の曲刀の代わりに釣竿を装備したハリードは、整備点検と休憩を兼ねて停止中のバンガードの縁から、釣り糸を海原に垂らしてぼけっとしていた。
 四魔貴族の一柱である魔海侯フォルネウスを激闘の末に打ち破ったカタリナら一行を乗せたバンガードが陸に辿り着くまで、あと一週間程度はかかるらしい。

「釣れているか?」

 特に何を考えるでもなく海を見つめていたハリードに、ふと声がかかる。
 それに気がついてハリードが声のした方を見やると、そこには彼と同じく釣竿を装着した状態のシャールがいた。
 ハリードは彼の言葉に対し、自分の脇に置かれた木製の桶を視線で指し示す。そこには、澄んだ水だけが揺蕩っているのみだった。

「ボウズか。猛将トルネードも、釣りは不得手なのだな」
「砂漠の民に釣りスキルまで求めるなんて、そりゃいくらなんでも無茶振りってもんだ」

 ハリードがそういうと、シャールはそれもそうだなと微かに笑いながら近くに腰を下ろし、彼とは違う方角へ向けて、徐に釣り針を放った。

「まぁ、そういう俺も血筋はナジュも混じっているから、釣りは得意とは言い難いがな」
「・・・だろうな。しかし食料が心許ないって話らしいから、このままボウズってわけにもいくまい。なんとか釣り上げんとな」

 流石に釣果無しでは帰れまいと、二人はしばらくそこから無言で釣りに集中することにした。
 ところで話は変わるが、ハリードはこのシャールという男に対し、どこか自分と近しいものを感じているのだった。
 名前や風体から生まれの地域が近いのだろうということは無論予測できたのだが、単にそういうことではない。どちらかと言えば姿形というよりは、その行動や生き様、とでもいうのだろうか。そういった部分に、どこか共感を覚える部分が多いように感じるのだ。
 だが、ハリード自身はこの十年は半ば世捨て人みたいな生活を送ってきた身分であるので、そんな自分に共感を覚えられるのも迷惑なものだろうなと考えて、結果一人で皮肉めいた笑みを浮かべる。

「なんだ、何か面白いことでもあったか?」

 どうやら、表情をみられていたらしい。シャールにそう問いかけられ、ハリードは肩を竦めた。

「いや、別になんでもない。気にしないでくれ」
「そうか」

 短く言葉を交わすと、また暫く二人の間には沈黙が舞い降りる。
 元がそこまで口数の多くない男であるシャールは、こうして一緒にいても静かで、面倒ではないのがいい。ハリードは昔っから、男女問わず姦しいのは苦手であった。
 だがその割にロアーヌの一件に端を発するこの一年の生活の変貌の中では、とびきり煩いエレンとの二人旅から始まり、随分と賑やかだったな、等と思い返す。そしてそんな賑やかさにも慣れてきている自分を思うと、なんだかんだ騒がしいのにも抗体が出来てきたのかもしれない。
 そんなことを考えながら、一向に反応を示してくれない釣竿を弄んでいると、またしても背後からハリードに近づくものの気配があった。

「お二人とも、釣れてますか?」

 そこに現れたのは、昼食が入っていると思しき籠を持ったミューズだった。
 籠を持つ彼女の両腕には合成術の反動の影響でまだ包帯が巻かれているが、もう傷は殆ど塞がっているらしい。
 シャールの主人である彼女もまたフォルネウス討伐を成した一人であるが、改めてこうして見る限りではとてもそうは思えないほど、清廉でお淑やかなだけの令嬢である。

「お昼、持ってきました。キリのいいところで休憩にしませんか?」
「ありがとうございます、ミューズ様」
「・・・キリもなにも、今も休憩しているようなもんだ」

 それでは、とミューズが持ってきた籠から大きめのサンドイッチを取り出して二人に差し出すと、二人はそれぞれサンドイッチを受け取って一気に頬張る。
 炙られた薄切りのベーコンを挟んだサンドイッチに舌鼓を打ちながら、三人は口数少ないながらに昼食のひとときを楽しんでいた。

「・・・ハリードさんとシャールさんって、案外、仲いいですよね」
「あー、そういえば確かにそうね。年も近いらしいし気が合うんじゃない?」

 たまたまそんな様子を見回りで目撃しながら、フェアリーとカタリナはそんな会話を繰り広げる。

「男同士の友情モノって、胸が熱くなりますよね。どこか別の世界では彼らが親友同士だったとか・・・そんな設定だったりしたら、なおいいですね」
「そんな後だし設定あっても、こっちが困っちゃうだけなのよね・・・」

 何が困るのかはさておき、昼食を続ける彼らを遠目に見ながら、二人はそんなことをいいつつ見回りを続けるために歩き去っていったのだった。

「なぁボストンよ。お前、陸に着いたらどうすんだ?」

 海面に接する部分に設けられた船着場付近でバンガードの向かう先を見つめていたブラックは、丁度海の中から顔を出したロブスター族の戦士、ボストンに向かってそう問いかけてみた。
現在のバンガードは、直前のフォルネウス討伐の際に備蓄の術酒が完全に切れたことにより、玄武術士の力だけで動かすことが困難になっていた。そこで、ロブスター族であるボストンの持つ玄武の加護によって、動力の補助を受けている状態なのだ。
 それにより、術士の魔力回復とボストンの術力回復のために、こうして一日のうち数時間を停船しながら陸に戻っている最中であったのだ。

「まぁ、こうして島の外に出ることになったのも何かの縁だ。陸に行ってからはこのバンガードを拠点に、見聞を広めようと思っている」
「はぁん・・・しかしお前、その風体だと魔物と間違われるんじゃねぇか?」

 ブラックがそう指摘すると、ボストンはブラックの足のすぐ近くに置いてあった木の桶に、ハサミで捕らえた魚を入れながら唸った。
 このバンガードではボストンは既に住人からは歴とした「ロブスター族」として認識されており、少ないながら町民との会話や交流もできている。だがそれはカタリナらと行動を共にしていたからであって、これと同じ状況がバンガード以外でも通用するとは、彼自身も思ってはいなかった。

「そうだな・・・まぁ、ここ以外で人里に寄りつこうとは思わんよ。それに水竜には遅れを取ったが、こう見えて並大抵の海棲の妖魔風情ならば遅れを取らない程度には腕に自信もある。自衛はできるさ」

 海から上がって軽く伸びをしたボストンは、触覚部分を髭のようにハサミで弄びながらそういった。

「なるほどな。ならよ、お前、海賊やらねぇか?」

 そんなボストンを見ながら、ブラックは唐突にそういった。ボストンが首を傾げる仕草をすると、ブラックは腕を組んでボストンに向き直り、不敵に笑って見せた。

「こうして力を取り戻せた恩もあるからここの連中には暫く手を貸そうと思っているが、それが終われば俺は海賊稼業に戻る。そん時には、航海士が欲しくてな」
「海賊というのも航海士というのもどういうモノなのかよくわからないから、なんとも言えないな」

 ボストンがそう言いながらハサミをカチカチと鳴らすと、ブラックは豪快に笑い飛ばしながら腰に手を回した。

「なぁに、面白おかしく海で生きていくのが海賊さ。お前みたいに玄武の加護を持った奴がいれば、海に生きるものにとっては何よりもありがたいしな」
「成る程、海に生きるものを海賊というのか。だが、それならば私は既に海賊ではないのか?」
「はっ、そりゃロブスターとしての生き方だろうが。人間の、それもこのブラック様流の海賊生活は、スリル満点でめちゃくちゃ面白いぜ?」

 ブラックのその自信たっぷりの言いように、ボストンは暫し考える仕草をする。
 ボストンが知っているこのブラックという男は、海底宮でのフォルネウス討伐を終えてこのバンガードに戻ってきた時からの、極々短い間だけの付き合いだ。討伐に向かった際の、彼が知っていたハーマンという男は、ブラック曰く、死んだらしい。その代わりに、このブラックという男が現れたのだ。
 つまりは左足と共に生命力を取り戻したハーマンの本当の姿がこのブラックなのだが、ただやはり、この男に関してボストンは殆ど何も知らないと言っていい。
 ハーマンというのは、失った己の左足や仲間の仇を取ることしか考えていない、復讐心に駆られた男だった。それが、ボストンの知るハーマンの全てだった。
 だがこのブラックという男は、そうではない。もう彼には復讐する相手もいないし、取り戻すべき左足などもない。だから、そういう意味ではハーマンとは全くの別人なのだ。
 このブラックという男がハーマンの願いを成就した存在であるならば、ではこの男は、一体何をしようというのだろうか。

「ブラックは、その海賊というものになって何をするつもりなのだ?」

 知らないのならば、聞くのが手っ取り早い。だからボストンは、そのまま聞いてみた。
 するとブラックは待ってましたとばかりにニヤリと笑うと、いつものように懐から取り出した煙草に火をつけ、美味そうに吸い込んだ煙を長く細く吐き出しながら海へと視線を移す。

「そりゃあお前、やることは一つよ」

 

「・・・やっぱり、海賊王になるんですかね?」
「え、うーん・・・でも麦わら帽子が似合う感じじゃないし・・・」

 見回り途中に今度はブラックとボストンを見かけたフェアリーとカタリナは、彼らの会話の一部始終を小耳に挟みながらそんな会話を繰り広げていた。

「しかし不思議です。どうして人間の海賊というのは、相棒に人間以外を選びたがるんでしょうね」
「あー、それゲッコ族的な話? まぁ別に好んで選んでいるわけじゃないと思うけれど・・・確かにボストンもやたら紳士な感じだし、キャラ的にもバッチリよね」

 残念ながらブラックがその後に何をいったのかは波の音でかき消されてしまったので聞こえなかったが、故に二人は無責任に色々と憶測を交えながら話しつつ、巡回を続けていくのであった。

 

 

「・・・入るぞ」

 ノックの後にガチャリと扉を開けてボルカノが部屋に入ると、その中にいたのは、ベッドの上で上半身だけ起き上がり、包帯でぐるぐる巻きにされた両腕で不便そうに本を捲っているウンディーネだった。
 彼女の両腕の怪我は今回のフォルネウス討伐における被害の中で最も酷く、また魔術士としての活動にも大きく制限がかかるほどに、魔力の一時的な減少も見て取れていた。なので他の面子がある程度回復している今も、彼女だけは両腕をほとんど自由に動かせずにいる日々が続いている。

「ディー姉、また本を読んでいるのか・・・。あまり無理はしないでくれよ」
「・・・仕方ないじゃない。ベッドの上ばかりでは、やることもないんだもの」

 彼女の両腕は肘から先が骨までズタズタになっている状態だったらしく、ミューズらの懸命の治療の結果、なんとか後遺症の心配がなさそうな程度までは治すことができた。だがそれでも、医者の見立てでは回復まであと二ヶ月近くは費やすだろうとのことで、その間は思うように両腕を使えない状態が続くのだそうだ。

「それは、自業自得だ。ぶっつけ本番で解明しきっていない古代の合成術を試すなんて、無謀にも程がある。大体ディー姉は・・・」
「その説教なら、何度も聞いたわ。いい加減にして頂戴よ」

 数日に一回は、ボルカノからこの説教を耳にする。それがとても鬱陶しく感じられて、ウンディーネは心底嫌そうな顔をしながら彼の言葉を遮った。
 無論自分が軽率な行動をしたことは十分解っているのだが、それでも彼にここまで執拗に言われる筋合いはないと思うのだ。というかあれがなければ今ここに生きて帰ることもなかったと思えば、それが最善の選択であったとも言える。だからこそ、ここまで彼に言われるのもおかしな話ではないかとウンディーネは不満に思っていた。

「とういか、なんで毎度毎度貴方が食事を運んでくるのよ。貴方あれでしょ、魔導技師・・・だっけ、あれなんでしょう。ならこんなところに来てないで、ちゃんと艦橋で仕事していなさいよ」

 繰り返すが両腕が使えないウンディーネは、食事をするのも一苦労なのだ。なので毎度の食事は運んできてくれた人に食べさせてもらうことになるわけだが、なぜか毎日の昼食に関しては、必ずボルカノが運んでくるのである。彼自身はこのバンガードを動かす要の役割を果たしているので、その身は忙しいはずだ。なのに一々こうしてここに来ることが非常に不可解なのである。

「今は停船中だ。やることはない」
「だったら・・・休んでいなさいよ。動いている間、忙しいんでしょう?」

 ウンディーネがそういうと、ボルカノはそれにはすぐには答えず、手元の野菜スープをスプーンで掬った。

「ちゃんと休んでいる。俺よりも、実際に魔力供給を行ってくれている術士たちの方が大変さ。この時間は彼らを休ませてやりたい。はい、あーん」
「・・・・・・・」

 なにやら不機嫌そうな顔でボルカノを睨み付けるウンディーネに、ボルカノは困ったように笑みを浮かべる。

「給仕をしてくれる女性もいるんだが、他の皆の昼食を作るのに忙しい。俺では嫌かもしれないが、勘弁してくれディー姉」
「べ・・・別に、嫌だとは言っていないわよ」

 差し出されたスプーンに口をつけると、ボルカノは慣れた手つきでウンディーネにスープを飲ませ、パンを千切っては食べさせていく。

「そうか、てっきり嫌がられているのかと思っていたけれど」
「・・・違うわよ。ただ、なんか悔しいだけ」

 そういってそっぽを向くウンディーネに、ボルカノはうっすらと微笑んだ。

「そう言えば昔、俺が風邪ひいた時にこうしてディー姉に食べさせてもらったことがあったな。あの時と、逆だな」
「・・・そんな昔のこと、もう覚えていないわ」

 嘘だ。しっかりと覚えている。
 まだ自分も十代だった頃だ。生意気盛りだったボルカノが風邪をひいて寝込んだというので揶揄いがてらに見舞いに行ったのだが、思ったより熱があって苦しそうだったので、内心とても心配したのを今もはっきりと覚えている。
 結局心配でその場をすぐに離れることができず、術で氷枕を作ってやって額にも冷たい水を滞留させ、熱が落ち着くまでそばにいたのだ。その途中で、彼の親が作った食事を引き受け、彼に食べさせてやった。

「・・・あの時は可愛いものだったのにね」
「・・・何か言ったか?」

 ふと口に出たことに対し、ボルカノがパンを差し出しながら首を傾げる。

「・・・なんでもないわよ」

 それをパクリと咥えながら、ウンディーネは話をはぐらかす。ボルカノも何度か聞き直してみたが結局教えてくれず、そのまま食事は終了となった。

「じゃあ、俺は戻るよ」
「・・・」

 すっかり平らげられたお皿を重ねると、ボルカノはベッド脇の椅子から立ち上がった。そしてベッド脇に置いてあったウンディーネの読みかけの本を、また彼女の足の上あたりに戻してやる。

「本を読むなとも言わないが・・・あまり無理はしないでくれよ、ディー姉」

 そう言って部屋を去ろうとするボルカノに、ウンディーネは視線を投げかける。

「・・・ありがと」

 そして短くそれだけいうと、聞き取れなかったのかボルカノが振り返って首を傾げる。

「何かいったか?」
「・・・なんでもないわよ!早く貴方も休憩しなさい!」

 相変わらずの調子のウンディーネに苦笑しながら、ボルカノは了解と返して部屋を後にしていったのだった。

 

「・・・あれでは、ツンディーネさんですね」
「あ、上手いじゃないフェアリー」

 彼らの様子を丁度見かけていた見回り中のフェアリーとカタリナは、去っていくボルカノの背中を見送りながらそんなことを話していた。

「というかウンディーネさん、もう液体くらいなら操れるから水とかスープとかは自分で摂れちゃうんですよね」
「へー、術って便利なのね。でも、なら何故大人しく食べさせられているのかしら・・・って、その手の疑問は野暮ってものよね」

 そうですね、と言って微笑むフェアリーにカタリナも笑みを返しながら、二人は見回りを続けるためにその場を後にした。

 間も無く、バンガードは再始動して大陸へと再度進行を開始する予定だ。

 

 

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VS筋肉だるま 南国大決戦

 

 高らかに浮かび上がった布張りのボール目掛け、燦々とビーチを照らす太陽を背にしてしなやかに、かつ力強くカタリナが飛び上がる。
 そして大きく後ろに反らせた右腕が最大のインパクトを得られるであろう地点で思いきり振り抜かれ、その衝撃を真芯に受けたボールは、相手に反応する隙すら与えず彼女の狙い通りの場所へと砂埃と共にめり込んだ。

「・・・ゲームセットォォォ!!」

 審判が何度かの瞬きの後に興奮した声でそう叫ぶと、次いで周囲の観客からビーチ全体を揺らす怒号のような歓声が沸き起こる。

「いーよっしゃあ!いよいよ次は決勝だ!」

 カタリナとエレンがコート上でハイタッチをするのを見ながら、コート脇のチームベンチに陣取っていたポールは彼女等の勝利を我が身の事のように喜び、隣のハリードの肩に組みかかった。
 それをたいそう迷惑そうな顔で受けたハリードは、ポールと反対側の手に持っていたタオルを歩み寄ってくるカタリナ達に投げてよこす。

「・・・さて、と。次が正念場ね」

 そう言ったエレンが顔を向ける先へとカタリナも視線を傾ければ、そこには観客席の中央に位置するVIP席から自分たちに視線を向ける二人組の男の姿があった。
 よく焼けた小麦色の肌に、必要以上に増量されたような躍動する全身の筋肉。その筋肉に包まれた体を惜しげもなく見せびらかし、ただ唯一ブーメランパンツだけが最低限を隠している。そして口元から時折輝き覗く冗談のように白い歯をキラリとさせながら、周囲に群がる観客達に時折愛想を振りまいている。そんな男二人は、そっくり同じような見た目であった。それが、腕組みをしながらカタリナ達を見つめている。
 彼等はカタリナ達が今の試合で決勝進出を決める前に、既にもう一方の決勝枠を勝ち取っていたチームだった。
 つまり、決勝での対戦相手だ。

「・・・あー、やっぱだめ。私あれ、生理的に駄目」

 ものの二秒で顔を背けたカタリナは、フェアリーが渡してきてくれた水を飲みながら、強烈に日を照らす太陽を恨めしそうに睨んだ。

「・・・もうちょっと、日焼け止め塗っとこうかしら・・・」

 

 

 グレートビーチバレー大会。
 確か、このお祭り騒ぎはそんな名称だったとカタリナは記憶している。
 わざわざ足場の悪いビーチに色の違う砂でラインを引き、一定の高さまで設置された魚とり網のようなもの(ネットというらしい)を挟んで二人一組のチームが互いの陣地にボールを叩きつけるスポーツの事を、ビーチバレーと言うらしい。
 なんでも、ここグレートアーチ地方においては魔王生誕以前から存在するとすら言われる由緒正しい伝統競技なのだそうだ。
 十五年前の死蝕にて壊滅的な経済的打撃を被ったここグレートアーチにて死蝕の翌年から復興のシンボルになるようにと毎年開催されているというこの大会には、毎年主催運営を行っているグレートビーチバレー大会運営委員会が優勝者に対して若干の賞金と共に地元協賛企業が提供する様々な賞品を用意しており、例年大きな盛り上がりを見せているのだそうだ。
 特にここ最近は各国からも観戦客がくるなど、観光客招致による経済効果も生み出している。
 このような大会があることを宿泊中のホテルバランタインのオーナーから聞いたのは、すっかりオーナーと仲良くなったポールだった。
 なにしろハーマンの協力を無事に取り付けることが出来たもののピドナに戻る船の出港まで日数が開いてしまっていた一行だったものだから、暇な事も手伝い興味本位でせっかくだからと参加してみる事にしたのだった。

「やっぱチーム編成はカタリナさんとエレンちゃんで大正解だったな!」

 ここにいる間は相変わらずハデハデしいシャツにハーフパンツというラフな出立ちのポールが、選手用ベンチに設置された大きなビーチパラソルの下で休むカタリナとエレンに声をかけた。
 元々大会には男女の制約がなかったので当初はポールとハリードで出場しようかと話していたのだが、何故か参加申請ギリギリのタイミングになってポールが急にカタリナ達が出場するべきだと言い出し、そのままなし崩し的に彼がエントリーを済ませてしまったのだ。
 しかしそこは責任感と最近断れない性格に定評のあるカタリナであるからして、存外素直に、元々ノリノリだったエレンにも押される形でビーチバレーの正式競技服(?)である水着に身を包んだ。
 ちなみに水着は、こんな事もあろうかとピドナで買っておいた淡い紫のグラデーションが印象的なパレオ付きビキニだ。デザインに関しては選別に同行していたモニカとサラのお墨付きであり、大人っぽさが漂う中にも可愛らしさや健康的なお色気も忘れない、ガーリーな一品である。
 エレンはエレンでトップは燃える様な赤いビキニと、下はデニムのホットパンツ。そして何処から仕入れたのかダークブラウンのサンバイザーという、一見して只者ではないビーチバレー玄人の風格を漂わせている格好だ。
 大会当日に彼女等がこの格好でビーチに現れると、観客席からは少なからずどよめきが起こった。元々が男ばかりの参加者で運営も毎回花役を用意はするもののこれが毎度地元の小麦ギャルと言った様相の中、肌も色白で抜群にスタイルの良い彼女等は相当に目立った。
 そしてその二人が大会が始まってみれば、あろう事か地元の猛者どもを抑えて破竹の快進撃。おかげで一気に大会の熱気はエスカレートしていったのだ。

「あれ、そう言えばコーチは?」

 決勝前のクールタイム中、ふとエレンが周囲を見回しながらそう言った。

「そういえば、暫く見てないです。開会式の時はいたのですが・・・」

 カタリナ達の隣で休んでいたフェアリーが可愛らしく首を傾げながら答えると、エレンもそれに習って小さく首を傾げる。
 実は今回の彼女等の快進撃は、このコーチなる人物の多大なる助力があったからこその成果だといえる。
 そのコーチなる人物こそは、知る人ぞ知るグレートアーチはサウスビーチの一匹狼、ハーマンである。
 彼はカタリナ達がエントリーしてから大会当日までの少ない日数の間で、二人に徹底的にビーチバレーの基礎を叩き込んだ。元が運動神経の塊の様な二人であるからして覚えが早かったのは勿論なのだが、しかしこれほど迄の快進撃はコーチたるハーマンの的確な指導が無ければ叶わなかっただろう。
 そんなハーマンは教え子達の勇姿を見るためにこの会場にも足を運んでいたはずなのだが、トーナメント形式での本選試合が始まってからは彼女等の前に姿を表していなかった。

「ま、どっかでお酒でも飲んでるのかな。戻ってきた頃には優勝報告でもしてあげましょっか」

 この後行われる決戦における自分たちの勝利を確信しているエレンがそう呑気に言うと、特にそれを否定する気もなくカタリナも同意した。

「そうね・・・さて、もうそろそろ時間かしら」

 そう言ってカタリナが見つめる先には、にわかに騒がしくなり始めた決勝コートがある。
 対戦相手は正直あんまりじっくりと見たくない相手だが、真正面で対峙する以上は直視は避けられないだろう。
 極力早めにケリをつけてしまおうと考えながら、カタリナは立ち上がった。

 

 外は雲一つない快晴。だというのに店内はいつも通り薄暗く、漂い続ける紫煙のせいで空気も悪い。
 そんな自分のこよなく愛する汚い場末のバーのカウンターでダークラムをロックで傾けながら、ハーマンは相変わらず香りのどぎつい煙草をゆっくりと燻らせていた。普段はここは喧嘩が起こったとき以外は非常に静かなものだが、今日ばかりは遠方からの騒音がここまで届く。

「毎年毎年、飽きもせずにうるせぇな・・・」

 バーのマスターがグラスを磨きながらそう呟くと、ハーマンはにやりと笑った。

「・・第一回大会から第五回まで不動の連続チャンピオンだったお前が、何言ってやがる。引退してなけりゃまだあそこにいたんじゃねえのか?」
「うるせぇ爺。相方が鮫に喰われっちまったんじゃ引退するしかねーだろうが」

 愛想悪くそう言いながらグラス磨きを続ける。だがそんなマスターの背後にある様々な酒の瓶が並べられた棚の隅には、無造作に置かれた小さな優勝トロフィーが並んでいる。お世辞にも掃除が行き届いているとは言い難いこの店内で、しかしそのトロフィーだけは受賞当時の輝きを失っていない。

「ところであんたこそ、いかねーのかよ。教え子、出てるんだろ?」

 マスターがそういうと、ハーマンは返事代わりに煙草を深く吸い込む。
 そしてそのままゆっくりと紫煙を周辺に撒き散らし、グラスの中身を一気に煽った。

「ま、あいつらの優勝に間違いはねぇんだ。一々見に行く必要もない・・・って言いてえところだが、確かに今年はちょっと見に行ってやってもいいかもしれねぇな」

 そういってハーマンはカツンと音を立てて空のグラスを置くと、カウンターから立ち上がる。

「おい、代金」
「馬鹿言え。後で優勝賞金持ってきてしこたま呑んでやるから、そこで汚ねぇグラスを磨きながら待ってろ」

 ハーマンはそう吐き捨てると、舌打ちをしつつもまんざらでもなさそうな表情の店主を無視し、バーを後にした。

 

 

「さぁさぁいよいよやって参りました!!第十五回グレートビーチバレー大会、決勝戦!!」

 司会の絶叫に、負けず劣らず周囲の観客が歓声で応える。朝の早い時間から予選を含めて進められてきた試合も残すところあと一試合となり、南天高くから砂浜を照らす太陽もこの最後の一試合を今か今かと待ち望んでいるようだ。

「今年も大多数の予想通りに大会2連覇のサザンティンバー兄弟は3連覇を賭けて順調にここまで来たが、対する相手はいつもとはひと味もふた味も違うぞぉぉ!他のベテラン勢を押さえ込み我々の予測を大きく裏切り、エントリー期限直前に駆け込み参加をしてきたこちらのビューティフォーガールズが、ままままさかの快進撃!この決勝の舞台に堂々のし上がってきたぁぁああ!」

 再度、司会の絶叫と共に観客の大歓声が唸りを上げる。
 その大歓声を受けながら、設置されたネットを挟んで対峙する男女二人組。

「なんと今大会出場のために態々ピドナからやって来たという彼女たち!最早実力はここに立っている以上は明らか!いや、まだ底知れない!つまり、この決勝戦の行方は誰にも分からないぞぉぉおお!」

 興奮冷めやらぬ司会の絶好調の煽りに観客の歓声も鳴り止まない。その歓声を馴れたように全身の筋肉で受け止めながら、サザンティンバー兄弟と呼ばれた男二人は天に輝く太陽に負けず劣らずキラリと光る白い歯を惜しげもなく晒しつつカタリナとエレンを見つめる。
 対するカタリナエレンは、屈伸をしたり肩を回しながら開始のホイッスルを待っていた。

「・・・あの二人、やっぱり今までのとは段違いで強そうね」

 エレンがサンバイザー越しに相手を見ながら言うと、カタリナは軽く頷きながら腕の筋を伸ばした。

「経験値では劣るけれど、身軽さは負けないわ。翻弄していきましょう」

 極力相手のことを見ないように脇に視線を向けながらそう答えたカタリナは、ふと視界の隅に見覚えのある人物を捉えた。
 ハーマンだった。

「あ、コーチ」
「え、どこどこ・・・あ、ほんとだ!」

 相変わらず義足とは思えぬ歩行速度で観客の波を縫うように移動していったハーマンは、そのまま躊躇うことなくコート脇の関係者席まで進んでいく。
 すると、それに気づいたらしい司会進行がハーマンに振り返り、ここでも大声を張り上げる。

「おおーっと、ここでハーマンコーチの登場だぁぁ!」

 その言葉にその場の全員の視線がハーマンへと注がれるが、当の本人はそんなことは一切構わずにマイペースに進んでいき、チームメイト用ベンチへと腰掛けた。

「ハーマンって意外とここじゃ有名人なのね・・・って、え?」

 その様子を見ていたエレンが暢気にそういった直後、驚きの声を上げる。
 ハーマンがいつも通りのふてぶてしい態度でどかりと座り込んだチームベンチは、ポールとハリードが陣取っていたカタリナ達のチームベンチではなく、なんと相手であるサザンティンバー兄弟チームのベンチだったのだ。

「大会優勝チームの中でも歴代最強と名高いサザンティンバー兄弟を世に送り出した鬼教官ハーマンコーチも、この一戦は見る価値ありとご来場だぁぁ!!」

 俄然盛り上がる会場と司会の言葉に、カタリナ達四人は驚愕の表情をする。

「え・・・え?」

 状況を理解できずに疑問符を浮かべるエレンに対し、カタリナは目を細めながらハーマンを見つめる。だがハーマンはその視線には応えず、にやりとしながらサザンティンバー兄弟に視線を送っていた。

「役者は揃ったぁぁぁあああ!それでは第十五回グレードビーチバレー大会決勝戦、試合開始だぁぁぁああああ!!」

 そのまま倒れてしまうんじゃないかと心配になる程顔を真っ赤にして叫び狂う司会の号令と共に、ホイッスルが鳴り響く。
 サザンティンバー兄弟のサーブから、試合開始だ。

 

 ズバン、とボールが弾け飛んでしまいそうな衝撃音と共に撃ち放たれたスパイクが、ボスッという鈍い音と共に砂浜にめり込む。

「18-3!コートチェンジ!」

 審判のコールに、会場が沸く。
 しかしその歓声は試合開始当初のものよりも大分抑えられていた。
 なにせ既にワンサイドゲームの気配が漂っているのだから、無理もないだろう。
 体にへばり付いた砂を落としながら、カタリナとエレンは大差をつけられたスコアボードを横切ってコートを入れ替わった。
 ビーチバレーのルールは3セットマッチの2セット先取制で、1,2セットは21点がマッチポイント、3セット目のみ15点がマッチポイントとなる。
 コートチェンジのタイミングは両者得点の合計が7の倍数になった時。3セット目のみ5の倍数になった時に行われる。
 現在は1セット目の終盤。完全にサザンティンバー兄弟のペースの試合となっていた。

「くっそ・・・何よあいつら、さっきまでの試合と全然違う・・・。すっごい強い・・・」

 エレンがサンバイザーとネット越しに余裕の表情でこちらを見つめるサザンティンバー兄弟を睨みつけながら、恨めしげにぼやいた。
 それに無言で頷いたカタリナは、如何すればこの状況を逆転できるかを脳内で必死に考えていた。

(・・・基本的な動きはそんなに変わらない。いえ、寧ろ素早さは私たちの方に分がある。競技経験による先読みの差はあれど、やはり相手もコーチから訓練を受けているだけあって私達と基礎の動きはそれほど違わない。これは速度で補うのは十分可能な範囲。でも・・・)

 それでも、自分たちと目の前の兄弟とでは決定的な違いがあった。
 それこそは、スパイクのパワーだ。
 エレンが言うようにこれまでの試合では隠してきたのか、それとも抑も使う必要がなかったのか。
 兎に角この決勝戦においてサザンティンバー兄弟が放ってきたスパイクは、これまで見てきたどのスパイクよりも圧倒的な威力を持っていた。なにしろそのスパイクに体がついてこず、彼女らはただただ弄ばれるようにここまで得点を許してしまっていたというわけなのだ。
 ただ、ここまでで分かってきたこともある。それは、あのスパイクは恐らく個の動きだけで成せるものではないだろう、ということだった。それこそ、あの二人だからこそ出来る芸当なのだ。
 幾年も共に修練を積んだであろう二人だからこそ生まれる阿吽の呼吸から繰り出されるその技は、正しくチームプレーの真髄、即ち連携技だといえる。これこそが、今の自分たちと相手との決定的な違いなのだ。
 つまりこの試合に自分たちが勝つには、まず第一に自分たちもこの試合の中で彼らと同じ域に達する必要がある。だが、それだけでは最早足りない。なにしろ自分たちは現時点で点数負けをしている。彼らと同じ域に今から直ぐ追いつけたとしても、点の取り合いでは押し切られて終わるだけだ。だからこそ自分たちは、彼らよりも更に上の次元に到達しなければならない。
 つまり、今ここで先に成さねばならないことがあるのだ。
 あのスパイクに至るまでの流れ、立ち位置。其れ等の中に確かに存在しているはずの起死回生の糸口を、なんとしてもここで見つけ出さねばならない。

(・・・見切る)

 頭の中で、そう呟く。もしかしたら、それは小さく口に出したかも知れない。兎に角そう決心したカタリナは、すっと姿勢を正して背後のエレンに振り返った。すると、エレンもカタリナの動きに反応して迎撃姿勢を解く。

「エレン、前お願い」
「え・・・いいけど、どしたの?」

 突然の立ち位置変更に疑問符を浮かべながらも、素直に了承するエレン。
 それまでネット際は背丈が高い方がブロックに向いているからとカタリナが担当していたが、それを入れ替えた形だ。
 そして後ろ側に移動したカタリナは、ボールだけではなく相手のコート全体を見るようにしながら姿勢を低くした。

「・・・ほう」

 その様子を見てハーマンがニヤリとするのを、隣り合わせのチームベンチで最も彼に近い位置に座っていたフェアリーは見逃さなかった。

《・・・カタリナさん、コーチがカタリナさんの動きに反応しました》

 突然脳内に響いてきた念話にカタリナはぴくりとしたが、それがフェアリーのものだと分かると小さく頷いた。

《・・・少なくともさっきよりは正解に近づいたかもしれないってわけね・・・。ギャラリーには悪いけど、このセットは捨てる。その代わり、ここで絶対に見極めるわ・・・!》

 サザンティンバー兄弟のサーブで再開されたゲームは、やはり先ほどまでと変わらぬ結果だった。
 レシーブからのこちらのスパイクでは止めをさせず、そこからサザンティンバー兄弟の強烈なスパイクによってカタリナサイドのコートにボールがめり込む。

「・・・19-3!」

 審判のコールが、短いホイッスルの後に一瞬の間を置いて叫ばれた。
 結果は先ほぼと同じく、サザンティンバー兄弟の得点。審判のコールに合わせてスコアボードが変えられる光景も同じ。だが、先程までとは明らかに違う点が一点あった。
 それはコート後方に位置したカタリナが、彼らのスパイクに対して一切の反応を見せず、微動だにしなかったことだった。先ほどまでそこに居たエレンは相手のスパイクに必死に食らいつこうと何度も砂浜にダイブしていたものだから、一転してのその光景は周囲にとっては途轍もなく異様に映った。

「・・・おいおいなんだ、カタリナさん試合諦めちまったのかぁ・・・?」

 ポールが肩を竦めながらそう言うと、ハリードは眼光鋭くカタリナを見つめながら、否定の言葉を口にする。

「・・・いや、あいつはそんなタマじゃないだろう。何かを見ていた、ってのが近そうだ」

 そんな二人の会話する様子を尻目に、フェアリーはコート上と隣のハーマンを交互に観察していた。

《・・・コーチ、ニヤニヤしてます。なんだか、ちょっと嬉しそうです》
《何それ気持ち悪い・・・。でも、今はっきりと見えたわ。次で少し、仕掛ける》

 そう意気込んだカタリナは、審判のホイッスルを合図に再び放たれた相手の強烈なサーブを無難に捌く。
 そのままこれまで通り綺麗な流れでエレンのトス、そしてカタリナのスパイクと続くが、それも相手にうまく捌かれる。
 そしてサザンティンバー兄弟は完成された滑らかな動きで以て、再び強烈なスパイクを叩き込んできた。ここまでは、このセットで何度も繰り返された光景。
 そして先程までと同じく、彼らの放ったスパイクはとんでもないほどの衝撃で以てビーチの砂を派手に舞い上げるはずだった。
 しかし。

 バシンッ

 弾かれたボールが、浮かび上がった。
 完全にインパクトを殺されたボールは直前のスピードが冗談のようにふわりと浮かび上がり、しかしその光景を見逃さなかったエレンが駆け寄るも距離が間に合わず砂浜に静かに着地した。
 後に残されたのは、スパイク前の立ち位置から僅かに動いて腕を伸ばした体勢のカタリナだった。

「・・・見切ったか」
《・・・見切ったわ》

 フェアリーが感知した中でカタリナがそう脳内で呟いたのと、ハーマンが小さくそう呟いたのは、全くの同時だった。

「・・・20-3! マッチポイント!」

 ホイッスル後の審判のコールに、ポールが頭を抱えた。

「くぁー!惜しかったなー!今のスパイク何とか上手く触れたのになぁー!しっかし、こりゃもうダメかねぇ・・・」

 そう落胆の表情とともに漏らすポールに、しかしハリードはゆっくりとかぶりを振る。

「・・・いや、どうやらそう言うわけでもなさそうだぜ・・・?」

 カタリナの様子に目敏く気付いたハリードがそう言いながら口の端を釣り上げるのと、マッチポイントサーブが放たれるのは、ほぼ同時だった。

「・・・21-3! サ、サザンティンバー!」

 審判の第一セット終了を告げるコールに、しかし会場は先程までのような歓声を上げることはなかった。
 会場の視線は全て、カタリナに注がれていた。
 正確には、その右手。
 決して大きすぎるわけではないカタリナの掌でしっかりと受け止められたボールに、会場全員の視線は集中していたのだ。
 その様子に誰より驚愕していたのは、彼女らに相対するサザンティンバー兄弟。そしてその様子に誰より上機嫌になったのは、誰あろうハーマンだった。

「・・・カタリナさん」
「・・・あいつらのスパイクは、『見切った』わ。あとは、攻めるだけ。ね、エレン。ちょっといい?」

 ベンチに戻ってきて早速次のセットの作戦を話し合うカタリナたちに、すっかりチームのマネージャーポジションとなっているフェアリーが甲斐甲斐しく飲み物を手渡す。
 それを笑顔で受け取りながら作戦会議を続ける二人は、大差で敗れた第一セットの事など全く意に介さない様子だ。
 反面、サザンティンバー兄弟はセットを獲ったにも関わらず、試合開始前の余裕が全くなくなってしまっていた。今までにない相手の行動に、明らかに動揺を隠し切れていない様子だ。

「おいてめぇら、なにあの程度でびびってんだ!」

 目の前で情けなくも焦りを隠せない二人に、ハーマンが立ち上がりながら一喝する。
 それにびくりと反応したサザンティンバー兄弟は、普段からの習性なのか脊髄反射の勢いで直立の姿勢をとる。

「・・・相手は恐らくお前たちの連携技ダブルインパクトの見切りと、最後のあれで極意も会得してきたはずだ。次からはエレンにも止められるぞ」
「そ、そんな・・・」
「コ、コーチ・・・我々は一体どうすれば・・・」

 ハーマンの言葉になお一層の動揺を隠せぬ二人に、しかしハーマンは再度一喝した。

「ど阿呆が!やることは決まってんだよ!違う技を編み出すんだ!いいか、 彼奴らは確かに規格外の化け物だ。たかだか一セットでお前たちの連携技を見切って来やがった。だがなぁ・・・お前達がこれまで血反吐吐きながら努力してきた全てが、こんなところで終わるのか!?違ぇだろうが!!」

 ハーマンのその力強い言葉に、二人はびくりと筋肉を震わせる。

「一セットは獲った。だから次のセットさえ抑え込めばお前らの勝ちだ。だから・・・やるしかねぇだろうが。この一セットを獲るための技を、生み出すしかねぇだろうが。・・・違うかぁ!?」

 他の全てを圧倒するほどのハーマンの強烈な叫びがその場に響き渡り、思わず観客までもが黙ってしまう。そしてその場が異様な静寂と熱気に包まれるなか、ハーマンの叫びを全身で受け止めたサザンティンバー兄弟はどちらからともなく向き合い、そしてキラリと光る白い歯を見せ合って笑った。

「・・・そうだ、俺たちは」
「・・・無敵のマッスル」
『サザンティンバー兄弟!』
「そうだ!お前らはこの俺が育てた最強の兄弟。ぽっと出の女二人組なんぞに好き勝手させてんじゃねーぞ!」

 ハーマンの力強い言葉に確りと頷いた兄弟は、完全に取り戻した自信を筋肉に乗せてポージングをし、そして高らかに笑った。

「・・・筋肉が気持ち悪い」
「うん、気持ち悪い」
「き、聞こえちゃいますよ・・・!」

 作戦会議しながらその様子を見ていたカタリナとエレンの辛辣な感想に、フェアリーがあわあわしながら反応する。
 間も無く、第二セットが開始される時間だ。

 

 灼熱の炎天下の中で開始のホイッスルが鳴り響いた第二セットは、正に熾烈を極めた。
 序盤は完全にカタリナ&エレンペアのペース。サザンティンバー兄弟のアタックを完全に見切った二人はパーフェクトに相手の必殺アタックを防ぎきり、更には二人同時に攻撃を仕掛けるフェイントを混ぜたエックス攻撃までもをその場で完成させ、一気に攻勢に出たのだ。これにより第二セット序盤はカタリナらが有利な状態で15-6までの得点差でコートチェンジを迎えることとなった。
 しかし、防戦一方だったサザンティンバー兄弟は、第二セット終盤にきて新たになんと新たな連携技、時間差攻撃を編み出した。
 これにより双方がアタックの乱れ打ちとなり、辛くもこのセットを勝ち取ったのは前半リードを作れていたカタリナエレンペアだった。

「さぁさぁさぁさぁ!遂にやって参りました最終セットォォォオオオ!まさかまさかの展開の連続だったこの第十五回グレートビーチバレー大会も、これが最終セットだぁぁぁああ!」

 史上嘗てないほどに白熱した試合展開に興奮を抑えきれない司会の絶叫も、それに反応して波打つ観客の歓声も、ベンチで最終セットに向けて集中する四人には全く届いてはいなかった。

「・・・流石にチャンピオンね。この土壇場で新たな技・・・傲らず鍛錬と挑戦を繰り返す姿勢には感服するわ」
「うん・・・でも、負けないよ。あたし達だってまだまだやれる」

 フェアリーに手渡された水を口に含みながら、カタリナとエレンは言葉少なにそう言いあった。
 その様子を横目に、ハリードはもう一方のベンチに視線を向ける。
 そこでは汗だくのまま座りもせず相変わらず直立姿勢の兄弟に檄を飛ばすハーマンの姿があった。

「新技おせぇぞ!もう後がねぇ!最終セットは一気に畳み掛けろ!」
『はいっ!』

 最早今のサザンティンバー兄弟には、ディフェンディングチャンピオンの余裕など欠片も無かった。
 代わりにあるのはただ、未知なる対戦相手に対するチャレンジ精神。
 その様子を同じく眺めながら、ポールは半眼で肩を竦める。

「ああなった相手は、こえーな。しっかし・・・あんのオッサン、どっちの味方なんだか」
「・・・さぁな」

 ハリードはポールの真似をするように軽く肩を竦め、コートへと視線を戻す。
 それを合図とするかのように、両チームは再びコートへと舞い戻った。
 ネット際へと陣取ったカタリナは、最終セット開始のホイッスルを待ちながら改めて対戦相手であるサザンティンバー兄弟を真っ直ぐに見据える。
 最早、彼らには最初に感じていた嫌悪感は一切抱かない。その代わりに感じるのは、只々一プレイヤーとしてのリスペクトだけだ。

(・・・あのアタックを見切った時点で勝ったと思った。でも彼等はその劣勢に果敢に抗い、この土壇場で新技を編み出してきた。あとは先に互いのアタックを見切った方が勝つ・・・。絶対に負けないわ・・・!)

 背後の様子を伺えば、エレンも全く同じことを考えているであろうことがその表情から窺える。
 それは無論、相手も一緒のはずだ。
 そして歓声鳴り止まぬ中、最終セット開始のホイッスルが鳴り響いた。

「っりゃぁあああ!」

 気合一閃、玄人顔負けのジャンプサーブを絶妙なコースで放つエレン。
 しかしそれを無難に捌いたサザンティンバー兄弟は新たな新技、時間差アタックを仕掛けてくる。
 カタリナはなんとかタイミングを合わせてブロックしようとするが、これは難なく躱される。
 そして放たれたアタックは、しっかりとカタリナらのコートに突き刺さった。

「・・・1-0!」

 ホイッスルと共に、審判の緊張を隠し切れぬ声が響く。その声に、しかし観客は一際静かにコートを見つめるだけだった。
 それはまるで、第一セット終盤のデジャヴか。
 サザンティンバー兄弟のアタックに微動だにせず、ただ只管にその動きとボールだけを見つめていたエレンの姿を、その場の全員が固唾を飲んで見守っていた。
 そして彼女の口の端が僅かにつり上がった事に気がついたのは、ハーマンくらいのものであった。

「・・・化け物め」

 その小さなつぶやきに、フェアリーの耳がぴくりと反応する。

《・・・コーチが毒吐きました。エレンさん、『見切った』みたいです》

 フェアリーが思念でそう伝えてくるのを受けたカタリナは、背後に陣取る心強い相方に思わず舌を巻く。
 これで、相手の新技もほぼ完封する事が可能になった。このまま行けば、彼女たちの勝ちは確定だ。
 だが恐らくはこの事実にハーマンとほぼ同時に気付いたであろうネットの向こうのサザンティンバー兄弟は、それでいてなんら表情を崩す事はなかった。

《・・・まだ分からない、か》
《・・・え?》

 カタリナの直感による呟きに、フェアリーが疑問符を返す。
 そしてそれは矢張り、正しい読みだった。
 次のラリーで見事に相手のアタックを捌いたエレンに観客が湧き上がった直後、彼女らの必殺アタックは逆にサザンティンバー兄弟によって止められたのだった。

「と、止めたぁぁぁあああ!!チャンピオンが止めたー!これは本当に試合の行方が分からないぞぉぉぉおおお!!」

 もう二度とこんな試合は見られないんじゃないか。まるでそう言いたげなほど全身全霊をかけた司会のシャウトが会場全体に響き渡り、それに一歩遅れてうねる波のように広がる観客の大歓声。その渦中にて、なおもラリーは続いていく。

 

 

 日没も近くなり、グレートアーチのビーチ全体が夕暮れに照らされる頃。
 油を暫く差していないであろうことが窺える取れかけの蝶番が、スイングドアを押してきた人物に対して店主の代わりに歓迎ついでの耳障りな悲鳴を上げた。
 すっかり聞き慣れたものの不快なことに変わりはないその音に遠慮なく顔を顰めながら、彼がこよなく愛する薄汚い場末のバーに、まるで我が家に帰ってくるかのように慣れた様子でハーマンは入っていく。

「よう、待たせたな」

 昼前と違って店内には今はぽつぽつと客がおり、彼らはそう声を上げながら入ってきたハーマンを見ると、それぞれがグラスを傾けていた手を下ろして彼へと向き直った。彼らは分かっているのだ。今日の主役が、彼であると言うことを。
 そして最後にハーマンへと視線を投げかけたのは、カウンターの中でグラスを磨いていたマスターだった。
 マスターが自分に視線を向けたことを確認したハーマンは、徐にその右手に持っていた物体を放り投げる。
 緩く回転しながら放物線を描いた物体を難なくマスターが片手でキャッチすると、それはこの薄暗い店内には似つかわしくないほどきらきらと輝く、赤珊瑚製のトロフィーだった。

「モルガンブラック、ロックで」

 カウンター席にどかりと座り込みながらいつもと変わらぬダークラムをオーダーし、マスターの反応も見ずに懐から煙草を取り出して火をつけるハーマン。だが程なくしてボトルを持ち上げる音、氷を弄る音、そしてグラスに張られた氷の上に液体が注がれる耳に心地よい音から自分のドリンクがしっかり作られ始めたことを確認すると、にやりとしながら面を上げた。

 

 

 今年も予定通り開催された第十五回グレートビーチバレー大会は天候にも恵まれ、例年通り・・・いや、例年以上に大盛況のうちに幕を閉じた。
 優勝タッグは事前オッズの一番人気であり、グレートアーチが誇る地元の英雄サザンティンバー兄弟だ。今大会の優勝にて通算三度目、三連覇という堂々の結果となっている。
 しかし、今大会の目玉はディフェンディングチャンピオンたる彼らではなかった。
 なんと言っても今大会の台風の目は、決勝戦にてサザンティンバー兄弟と熾烈な戦いを繰り広げた、初出場の謎の美女タッグだ。
 大会エントリー期限ぎりぎりに参加を表明してきたという彼女らは、なんと今大会のためにピドナからやってきたとのことだった。そして彼女らは予選にて並みいる地元の強豪達を次々と打ち負かし、迎えた決勝戦では最終セットの最後の最後までサザンティンバー兄弟を追い詰め、その場の誰にも勝負の行方が予測できない大接戦を展開した。
 運営に確認してみたところ地元以外から参加したチームがここまでの大躍進をしてみせた例は今までになく、大会始まって以来初の出来事と言うことだ。更にはこれほど白熱した試合は今まで見たことがないと今大会の観客は満場一致で賞賛しており、既に一部では伝説の一戦とすら言われている。
 これに敬意を表し、グレートビーチバレー運営委員会は急遽その場にて特別賞を設けて彼女たちにも簡易的なトロフィーを贈るという素晴らしい機転を見せてくれ、集まった観客共々、大いに二人を称えた。
 余談となるが、グレートビーチバレー大会の醍醐味の一つとして大会終了後にその場で選手や観客、運営も交えて大がかりなバーベキューを催すというイベントがある。これは地元の高級ホテルバランタインが食材提供を取り仕切るもので筆者も毎年このイベントまで参加するが、今年はこのバーベキューも例年以上の大盛況であった。
 特に印象的だったのは、決勝戦を通じて互いを認め合ったサザンティンバー兄弟と美女二人が様々な人々に囲まれながらおおいに飲んで食べて語らい、観客とも非常に和やかに接していたところだ。ここ五年ほどこの大会を取材しているが、歴代の優勝者と同じくサザンティンバー兄弟もどこか超然とした雰囲気で周囲の人間とは距離を置いている節があったものだが、今年の彼らは非常に和やかに周囲とコミュニケーションを図っており、チャンピオン自身にも今回の大会は非常に良い経験になったようだ。
 ただ惜しむらくは、美女二人が顔出しNGだということだろう。無論その辺りは本人達の意思を尊重するのだが、随行したカメラマンもこれには非常に残念がっていた。
 ただし、インタビューの際に来年の出場について伺うと前向きに検討するという旨のお言葉を頂けたので、彼女らの素顔が気になる読者の皆様も是非、来年はグレートアーチへと足を運んでみては如何だろうか。(試合のハイライトは裏面中央の特集にて)

「・・・だってさ」

 ハンス家の大会議室にて行われていた会議も終わり皆が寛ぐ中、エレンはメッサーナジャーナルのスポーツ欄を読み上げた後、窓際で物珍しげに外を眺めていたフェアリーにそう声をかけた。

「なかなか体験できない経験をさせてもらえて私は大満足でしたが、結果自体は惜しかったですね」
「そうだねー。でもあれは仕方ないよね。カタリナさん、トラウマレベルなんじゃないかなー」

 記事やそこに載っている写真を見返しながら、エレンが当時を思い出すように振り返る。
 試合の最終セットは、正に熾烈を極めた。お互いがお互いの必殺スパイクを見切りそれが決定打とならなくなったため、その必殺スパイクをすらフェイントに用いた非常に高度な戦いが展開された。競技経験値に優れるサザンティンバー兄弟の動きにもカタリナチームは類い希なる素早さを武器に必死の食らいつきで互角以上に渡り合い、正に勝負の行方はその場の誰にも分からないという状況であった。
 だがその彼らの非常にハイレベルな動きに、最終最後についてこれず、遂には根を上げてしまったものがあった。
 それこそは、サザンティンバー兄弟が身につけていた、極小サイズのブーメランパンツだったのだ。

「相手がアタックで飛び上がった瞬間だったし、ネット際で完全に至近距離だったよねー。あたしは逆光であんまり見えなかったけど、カタリナさんはモロだよ、モロ」
「アタックされたボールを掴み取って相手の方の、その・・・股間に投げつけたときは、何事かと思いました・・・」

 当然そこでカタリナチームは1点ペナルティだったわけだが、それが決定打となって軍配はサザンティンバー兄弟に上がったのだった。

「あははは、あたしなんかは昔っから男女お構いなく遊んでたからそういうのも割かし見慣れているけど、カタリナさんってそういうの意外と耐性ないのがまた可愛いよね」
「確かにカタリナさんのそういう部分は、ちょっとずるいなって思うことはありますね」

 エレンとフェアリーが当の本人がここに居ないのをいいことに好き勝手感想を言いながら笑い合っていると、その話題に引かれてか周囲の女子が続々と彼女らの周りに寄ってきた。

「カタリナがどうかしましたの?」
「えっとねー、この間グレートアーチでビーチバレーやってきたんだけどね、その時の試合が記事になっててさー」
「記事になっているのですか。凄いですね。ところでそのびーちばれー、とはどの様なものなのですか?」
「あ、ミューズ様も知らないことあるってなんか新鮮。えっとね、ビーチバレーっていうのはねー」
 聞き慣れぬ単語に小首を傾げるモニカとミューズに対し、エレンが得意げに説明を始める。そしてそのまま話の輪にサラやノーラも加わり、女子同士での会話に花が咲いていった。

「お姉ちゃんばっかりいいなー、面白そう!」
「というかしっかり水着は活用したんだね。選んでもらった甲斐があったじゃないか」
「来年は私もいってみたいですわ」
「それでは、私達も是非来年はビーチバレーというものをしてみましょう」

 気がつけば午後のお茶会の様相を呈してきた会議室でハンス家の執事がお替わりのティーを注いで回る中、ハーマンは自分に話を振られるのを面倒がって、そそくさと会議室を後にした。

 

 

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妖精談話・その2 「種族の多様性に見る様々な生態、及び生活圏についての考察」

 

「雪だるまと・・・ろぶすたー?」

 世界地図の南方に位置する広大なる神秘の密林の入口であるアケと一大リゾート地グレートアーチを結び、海賊の出没報告も多い危険な海路。その海路で現在運航している唯一の定期便の船内には常々そうであろう事が伺えるような実に無駄の無い積み込み具合で、乗客より優先して物資ばかりが所狭しと積み上げられている。
 密林の入り口として以外にもアケはスパイスの産地として世界的に有名であり、このスパイスの取引額は温海を離れれば離れるほど一気に跳ね上がっていく。それだけの金の卵であるが故に、グレートアーチ行きのこの定期船内に所狭しと積み上げられている木箱の実におおよそ八割がアケ産の各種スパイスであるらしい。これらは一度こうしてグレートアーチへ運ばれた後、温海を渡って世界中へと出荷されて行くそうだ。
 アケのように辺境と言っても差し支えなさそうな場所で数日に一本の定期便があるのは、このスパイスのためと言っても過言ではないだろう。因みに帰りのアケ行きの便には、アケでは中々手に入らない食材、金属類や羊毛等の生活物資が積み込まれるのだそうだ。
 そういうわけで香辛料満載で運行しているこのグレートアーチ行きの船内において、温海漂流からジャングルそして妖精の里を経てアケへと辿り着いたカタリナとフェアリーの二人は、有り難いことに地元の船長の厚意で船底近くに一室を当てがってもらうことが出来た。女と少女の二人旅に何か特別な事情を察してくれたのかもしれない。
 ゆったりと進む船に揺られながら二人は、船室内で取り留めのない世間話に興じていた。

「はい、そうです。世界中に散らばる幾つかの伝記でもその存在は示唆されていますが、私たち以外にも実はこの世界には幾つかの種族が確かに暮らしています。そしてその場所は例外なく、人間の生活圏とは隔離されています」

 へぇー、とカタリナが感心したようなお馴染みの反応をすると、フェアリーは少し誇らしげな表情を見せながらスカーフの下に畳まれた羽をピクリと震わせた。
 二人は堆く積まれた木箱にほぼ全方向の壁面を占拠された船室内で小さな丸テーブルに向かい合って座り、珈琲とアケ特製の砂糖を塗した揚げパンをツマミに話に花を咲かせていた。

「うーん・・・一瞬ロブスターのほうが謎に思えたけど、寧ろ問題は雪だるまよね。雪だるまは、なんで種族扱いなのかしら。っていうかそもそも動くの?」

 そもそも雪だるまは生物ではない。降り積もった雪から人間が作り出した造形物の一つである。それがあろう事か種族としてこの世界のどこかに存在しているなどと、いくら妖精の言葉であったとしても到底信じられるものではない。
 そのように当然出てきたカタリナの問いかけに、フェアリーは直ぐさまこくりと頷いた。

「はい、動きます。雪だるまはロブスター族よりもおそらく私達妖精に近い存在でして、吹雪の中で精霊が可視化されるにあたって、そのような姿になったそうです」
「あぁーなるほどね。精霊の一種と考えればいいわけなのね」

 雪だるまなんてものは、カタリナは小さい頃に家の庭園に降り積もった雪で給仕と一緒に作ったことがあるくらいだ。それがまさか種族として数えられるような存在であるとは露程も思わず、ましてやそれが精霊の一種ときたものだ。事実は小説よりも奇なりとはこの事と、カタリナは少し感動してしまった。
 そんなカタリナの驚いている表情に非常に満足気な笑みを浮かべたフェアリーは、得意げに人差し指を立てながら続けた。

「より正確性を増して表現するなら、精霊と魔法生物の中間・・・のような存在でしょうか。私たちのように通常生活圏・・・所謂縄張りの外側で活動することは殆ど出来ず、氷点下でない場所ではその存在を保てないそうです」

 どうやら自分が小さい頃に作った雪だるまは、種族としてのそれではなかったようだ。何しろ彼女の実家の庭園は常時氷点下などではなく、四季折々の気温や風景があるロアーヌだ。自分で作った雪だるまがしゃべり出すなんてファンタジックなことが起こるのならば是非とも体感してみたいなどと思った矢先であったので少しだけそれに残念がってみるが、よくよく思い返せば人の生活圏とは隔離されていると先に言われた気がする。
 仕切り直すことにした。

「となると、ロブスター族も精霊の一種なの?」
「それは・・・諸説あるようです。水精の一種であるという説と、あとは魔族の一種であるという説です」
「魔族・・・」

 抑もロブスター族とは、見た目は名前の通りロブスターというわけでもないのだそうだ。
 その生態はなんと二足歩行であり、鋏に当たる部分が大きく発達して両腕のようになっているのだという。その特徴から端的に姿形を表現すれば「周囲がドン引きするくらい本気で全身ロブスターの仮装をした人」と言うのが最もそれらしい容姿の説明であるらしい。
 併せて背格好も人間のそれに近いらしく、更には頑強な甲殻と強靭な筋力をその身に兼ね備え、挙げ句に水術も操るという。
 前段の雪だるまよりも、より戦闘に特化した種族と捉えて間違いないようだ。

「とはいえまぁ、精霊説の方が有力みたいです。私達も最初はサハギンの様な変化に近いのではないかと考えていましたが、しかし彼らはどうやら彼らの生活圏とされる西太洋において周辺に生息する魔物と対立しているそうなのです。つまり、アビスの瘴気を嫌っているのです。ご存じの通り、魔族がアビスの瘴気を嫌うということは基本的にあり得ません。なので精霊説が浮上しました」
「なるほどね。なんか精霊ってもっとこう半透明なふわっとしたものだと勝手に思っていたのだけれど、意外と何でもありな感じなのね」

 カタリナがそのような感想を述べると、フェアリーはそうですねと同意しながら柔らかくクスクスと笑った。

「あとは私も殆ど詳細は知らないのですが・・・この世界にはゾウ族という種族も存在していると聞いたことがあります」
「ゾウ・・・?」

 聞き慣れない単語に、カタリナは小さく首を傾げる。ゾウと言うのが動物の一種であることは知っているのだが、そもそもそのゾウという動物を実はカタリナは実際に見たことがなかったのだ。
 世界を形作る動物の一種で蛇と亀の上に乗って世界を支えているとかどうとかどこかの宗教上の世界図で見たことがあるくらいであるが、生憎とそういった分野にそこまで興味がなかったカタリナには、さして記憶に留まるほどの印象としては残っていなかった。

「種族としての歴史はどうやら最も新しいようでして、魔王の時代から聖王の時代の間に主な発見報告が相次いでいることから、そのあたりの時代に何らかの原因によって突如現れた、という説が有力だそうです」
「突如・・・って、種族ってそんな唐突に生まれちゃうものなの?」

 神様の気まぐれにしても流石にそれは適当すぎやしないかとカタリナが半ばあきれ顔で言うと、フェアリーはそうですねと答えて笑った。
 このゾウ族なる存在は、ロブスター族に似たように象の姿の二足歩行生物であるそうなのだが、その生態は殆どが謎に包まれているそうだ。

「雪だるまは北海に。ロブスター族は西太洋に。妖精族は密林に。そしてゾウ族はカタリナさんの故郷ロアーヌのずっと東、聖王様も復興を諦めたという巨大な腐海のどこかにコミュニティを築いているそうです」

 フェアリーは懐から上質な紙と艶のある不思議なインキを取り出し、ゾウ族らしき絵を紙の上に描いていく。
 巨大な耳に、顔面の中央から突起している異様な部位。これはフェアリーによると鼻であるそうだ。姿だけ見れば完全な異形なのであるが、主な発見報告によるとその気性は非常に温厚であるらしい、とのことだ。

「しかも腐海は基本的に非常に瘴気の濃い、およそ生物の生存には非合理的な条件をこれでもかってくらいに詰め込んだ危険地区です。その瘴気の濃度は魔族を以ってしても低級なものであれば脳に異常を来し発狂する程だとか・・・。そんな中にいて平然としている彼らと仮に協力関係を築ければアビスへ対抗する非常に強力な鍵となるのではないか、などと考えて発見に躍起になった時期も人間の中ではあったそうですよ」

 フェアリーの講釈に、これはカタリナも聞き覚えがあったのか、細かく何度か頷く。

「あぁ、メッサーナ王国主導の腐海遠征ね。概要くらいならば私も聞いたことがあるわ。確か・・・腐海に手を出してはならぬーっていう地元のおばあちゃんを無視していった結果、遠征団は全滅しちゃったのよね」
「え、そんな風の谷みたいな話でしたっけ・・・?」
「あれ、違った?」

 微妙にお互いの知識にムラがあるようで首をひねる二人だったが、この話題を突き詰めることにさして興味も無かったのか、話題は次へと移っていった。

「あとは・・・あ、これはどうなのかしら。種族って感じはあんまりしないけど、伯爵様とか」
「あ、吸血鬼ってやつですね。確かに彼らも人間でもなければ魔族ともまた違う存在ですが・・・なにせレオニードさんしか公には存在が確認されていませんし、種として数えていいものかは疑問ですね」
「あーでも、伝説の通り・・・っていうのかしら。レオニード城内には伯爵様の眷属?っていうのは数多く住んでいたわよ。私、実は伯爵様に二、三回お会いしたことがあるのだけど、そこには伯爵様に近いと思われる人型の何かが沢山、共に住んでいたわ」

 昔を思い出すように中空に視線を向けながらカタリナがそう言うと、フェアリーは興味深そうに椅子から身を乗り出した。

「それは凄いですよカタリナさん・・・!」
「え、そうなの・・・?」

 予想外のフェアリーの勢いに思わず身をそらせたカタリナは、伯爵に会うことがそんなに凄いことだったのかと思う。
 確かに彼女が過去にあったことのあるレオニード伯爵という人物は通常の人間とほとんど関わることなく城の中で暮らしており、年に一度行われる舞踏会以外で彼の姿を見ることは公にはまずないという。無論そういったものとは別に個人的な訪問が無いわけでもなかろうが、数百年を生きる人物に対して確かに世間に伝わる情報は非常に少ないようには感じる。
 そう思ったままの感想をフェアリーに述べると、彼女は大仰に頷いて見せた。

「そうなんです。あんなに存在は有名なのに、その実態はほぼ全くと言っていいほど世界に伝わっていないんです。ですので現在世に広まっている伯爵に纏わる伝記は、その殆どがフィクションだとされているんです。でも伝説の通りレオニードさん、又はその眷属さんが吸血行為によって個体数の増加を図っていたとなれば、それは立派に種族として数えられると思います!・・・あぁ、いつか私も行ってお会いしてみたいです」

 こういうのを心ここにあらずというのだろうか、フェアリーは両手を胸の前で組みながら狭苦しい船室の天井へと視線を向け、誰に言うわけでもなく最後にはそう口走っていた。
 本当にこの妖精は見聞を広げ自分たちの知らないことを経験することが好きなんだなとフェアリーの様子を眺めていたカタリナは、ふと頭に浮かんだ質問を口にした。

「フェアリーは、妖精族以外の種で一番気になるのはどの種族なの?」
「それは勿論、人間です」

 まるで聞かれるのを待っていたかと勘ぐるほどあっさりと、さも当然とばかりにそう答えてくるフェアリー。そのあまりの切り返しっぷりに、カタリナは瞳の瞬きで応じた。

「今言った種族たちは其々が内部でどのような事情があるのかは分かりませんが、私たち妖精族や、ともすれば魔族をも含めて一様に共通する部分があります。それは・・・自ずと既存のコミュニティの外に出ようとはしない事です。まるで、最初からその様に誰かに言い聞かせられてでもいるかの様に、そこだけは一緒なんです」

 妖精の言葉に、なるほど言われてみればとカタリナは珈琲を啜りながら頷いた。

「・・・でも、人間は違います。進化をし続けています。ある時は野心であり、ある時は冒険心であり、またある時は新たな希望であり。何かに導かれて、人間は既存の殻を破っていきます。それが何故なのか、興味の尽きないところです」

 フェアリーの瞳は、彼女にとって今言ったことがどれだけ凄いことなのかを物語るように、爛々と輝いている。その瞳に正面からのぞき込まれたカタリナはと言えば、自分としては至極当然に思っていたことをそのように言われ、なんともいえぬ不思議な面持ちでいた。
 だが彼女がここに至る前に見た妖精の住まう大樹は正に人間には不可侵の領域であり、そこに至るまでの道筋もまた、住まう世界を隔てるに十分な環境であった。それは間違いなく妖精族が外界との繋がりを断つために作り上げたものに違いない。
 だが、いつか人間はあそこを見つけるだろう。この三百年で人間がアビスから取り戻し、また広げた生活圏は非常に広大だ。寧ろその急先鋒とも言えるのが彼女の祖国ロアーヌであり、開拓民によって日々切り開かれていくシノンの地は、そう遠くない未来には腐海にも到達することだろう。

「・・・そうね、確かにそうかもしれない。だとしたら私たち人間もまた、誰かに言い聞かせられて未だ見ぬどこかを目指しているのかもしれないわね?」
「はい、きっとそうなんだと思います!」

 本当にそうだとしたら、それはきっと素敵なことです。そう付け加えて華やかに微笑むフェアリーに、つられてカタリナも微笑み返す。

「とはいえ、こうして妖精族のフェアリーに会えたわけだし、そのうち他の種族にも会うことがあるのかしら・・・?」
「可能性は、十二分にあると思います。今後カタリナさんがもし四魔貴族を討伐するという選択肢を選び進んでいくことになるのならば、聖王様が紡いだ伝説をなぞっていくことになるはずです」

 伝説によれば各種族と四魔貴族との確執というものは、意外と散見されるそうだ。最も代表的なもので言えば、密林に住まう妖精族と魔炎長アウナスの関係である。魔炎長の居城である火術要塞へと続く密林の迷路を唯一辿ることが出来るのが妖精族であり、そのため妖精族は常に魔族と敵対している。
 そして他にも広大なる西太洋のどこかに存在するとされる魔海候フォルネウスの居城である海底宮の座標を唯一知るのは世界の最果てに住まう民とされ、一説によればこれがロブスター族ではないかと言われている。
 また雪だるま族は聖王が用いた武具の一つとされる聖王遺物、氷の剣を守護しているとされており、北の最果てに住まうと伝説にあるそうだ。氷の剣はアビスの炎を受けても決して溶けることのない唯一無二の剣とも伝えられており、聖王による魔炎長アウナス討伐の際には妖精の弓と共に活躍した武具であるという。

「なるほどね、確かにその感じだと、そのうち会えるのかも知れないわね」
「はい。私はあわよくば、そこにもご一緒できればと考えてます」

 フェアリーが屈託のない笑顔でそう言うと、カタリナは苦笑いをしながら肩を竦めて見せた。

「何時になるかは分からないから、気長に待って頂戴ね」
「はい」

 素直にそう返してから珈琲を啜るフェアリーに併せ、カタリナもゆっくりと珈琲の味を楽しむ。
 アケの珈琲豆は深煎りがいいと船長直々のお勧めで入れてもらった一杯だ。
 奥行きのある苦みと共に口内に広がる芳醇な香りを楽しみながら、まったりと一息つく。

「・・・・・・・」
「・・・・・・・」

 ふとカタリナが落ち着かない様子で周囲を見渡すと、フェアリーがそれにならってゆっくりと周囲に視線を走らせ、そのあとでカタリナに向き直った。そしてそのまま視線でどうかしたのか、と問いかけてみる。

「・・・いや、なんか普段こうしてまったりしていると、どうもそろそろ、何かしらの騒動に巻き込まれる気がしちゃって」
「あー・・・典型的なトラブルメーカー体質っぽいですもんね、カタリナさん。確かにこの辺の海域は海賊の出没も頻発する地域だそうなので、確かにグレートアーチにたどり着くまでに一騒動あるかもしれませんね」
「・・・ええ、そんな気がしちゃって、どうもそわそわするのよね」

 騒動に巻き込まれやすい体質らしいことを最近自覚しているカタリナがため息をつきながらそう言うと、フェアリーはそれを肯定しながらクスクスと笑って応える。

 しかし彼女のそれは今回は杞憂であったようで、船旅は順調に進み、二人の乗る船は滞りなく予定日にグレートアーチへと入港したのだった。

 

 

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妖精談話・その1 「恋愛の捉え方から見る種族の相違性と類似性」

 

「そういえば妖精族にも、人間との恋物語とかがあるんですよ」
「妖精と人間の・・・恋物語?」

 大きくくり抜かれた大樹の部屋の床の木目から蔦が飛び出し、それが何本も絡まることで形作られた椅子とテーブル。そしてテーブルの中央には大きな籠にこんもりと盛られた、彩もよく種類も多岐にわたる沢山の果物が誇らしげに陣取っている。
 程よい弾力があって抜群の座り心地である蔦の椅子に腰掛け寛いでいたカタリナは、果物の盛り合わせの中から苺を摘まんで今まさに口に放り込まんという姿勢のまま、フェアリーの唐突なその言葉を繰り返して動きを止めた。

「そうです。日常的というような程では有りませんが、この地で私達は昔からアケなどに暮らす方々とは関わる機会がありました。それと潮流の関係なのか温海で船が漂流したりすると、遭難者がジャングルに流れ着くことも稀にあったりしますし」

此方は木の幹の間から咲き出た花弁に触れるか触れないかといった具合でふわりと腰掛けながらカタリナの口が半開きな表情に真面目に頷き返すのは、三百年の時を経て訪れた外界の客人をもてなす妖精の里一日観光ガイドさんこと、フェアリーである。

「そんなわけでして、私達妖精族は人と関わる機会というものが意外に多くあります。ご覧の通りに私たちは外見は人間のそれとよく似ています。なので長い歴史の中に幾つか、そのような物語が点在しています」

へぇーと脊髄反射な反応を見せながら、カタリナは手元のティーカップに口をつける。妖精のいれるティーは、罠にさえ気をつければとても美味しい。それを身を以て学んだ彼女は、今度はフェアリーが一人で作る様をじっと隣で見つめ続けながら、しっかり安全確認をしたのだ。

「でも・・・人間側はさておき、その場合って妖精側には恋愛感情って生まれるものなの?」

 ふと思ったことを、思ったままに何気なく口にしてみる。
 確かに姿形は妖精も人間のそれとよく似てはいるが、精神構造だったり生態系だったりとか諸々の問題というのは起きないものなのだろうか、と思ってしまったのだ。
 そもそも妖精って人間みたいにお腹から生まれてくるものなのか、なんて疑問がカタリナにはあるわけなのである。これでも彼女は、妖精ってお花から生まれるんじゃなかったのか的な乙女思考の持ち主だったりする。

「うーんとですね・・・そこは確かに諸説ありますね。ただこれまでの出来事を元に推察すれば妖精は矢張り基本的には人間と違いまして・・・例えば人間によく見られるような恋愛感情の表現の一つとしての生殖活動等は、私達は好んでは行いません。どちらかと言えばストイックに精神的な繋がりのみを求める傾向にあるようですね。肉欲も恋愛のベースとして割合強く存在するであろう人間側とは、やはりそこの感じ方は違うようです」
「いきなり生々しい話になったわね・・・」

 臆面なくフェアリーがそう言うと、カタリナは少し目を細めながら苦笑いをする。
 するとフェアリーはひざの上で手を組み、続けてふわりと笑った。

「それでも、そういう出来事があったというのはすごい事だと思うんです。言ってしまえば元来私達の精神的な依り代というものは長も含めて、この大樹だけです。それがそうして外部から訪れた何かに新たな執着や依存が生まれたというのは、種族的には私は・・・進化、と表現しても良いと感じます」
「成る程ね。そうかもしれないわね。でもそういう考え方って、こういったコミュニティ内では珍しいのではないのかしら?」

 カタリナがそう尋ねると、フェアリーは確かにそうですねと頷いた。種族として外世界におらずにこういった活動拠点のみで生活が成り立っているコミュニティは、大なり小なり外来を拒む傾向にある。
 その辺りの感覚は、彼女にも分かるのだ。なにしろカタリナ自身も、どちらかと言えば閉鎖的な気質である「貴族」というコミュニティの中で基本的に育ってきた人間だからだ。
 それでも彼女がこれまで育ったコミュニティ内とは異なる感覚にこうして共感を持てるのは、貴族であると同時に騎士として実力社会に身をおいてきたからに他ならない。
 とすると逆にフェアリーがこの里で育ちながらもこういった考え方を持つのは、彼女がここ妖精の里の長に「お転婆」だと形容されたところからきているのだろうか。

「私達妖精は発生時までの記憶を共有しているとは先日お話ししたかと思いますが、それはあくまでもこの大樹に蓄積された大まかなものに過ぎず、またリアルタイムでの思考や感情の共有といった様な事も成されません。故に発声、又は念話による言語を操ります。因みに今は私自身のこうした考えというのは、あんまり皆にいい顔はされませんね」

 苦笑いとも取れる笑みを浮かべながらフェアリーが膝の上で手を組み直しながら言うと、カタリナはティーカップに口をつけながら言葉にならない相槌をうった。
 妖精同士はとても仲が良さそうに見えるし(実際に仲は良いのだろうとは思うけど)意見の対立なんて何も起こらなそうにカタリナには思えたものだが、意外とコミュニティ内での思惑の交差というのは人間のそれと同じく存在しているようだ。

「あ、そうですカタリナさん」

 ぽん、と手を合わせながらフェアリーが唐突にカタリナの名を呼んだ。ところどころこういう仕草がどうにも人間くさくて、とてもカタリナには非常に可愛らしく映る。
 なあに、とカタリナがふんわり応えると、フェアリーは花弁からするりと滑り落ちるようにして降りながら浮き上がると、大きく開けた木の窓に体を向けた。

「今お話しした人と妖精の恋物語の所縁の場所の一つが里からそう遠くない場所にあるのですが、そこが実は私のお気に入りの場所なんです。里はもうそんなに見る場所があるわけでもないので、良ければこれから行ってみませんか?」

 なるほど行動力に定評のある彼女らしい突然の提案に、カタリナはもちろんすぐに頷いた。この辺りの観光案内は、フェアリーにすべてお任せする事にしているからだ。

「では、参りましょう!」

 ふわりと窓の外へ飛び出したフェアリーに連れられるように、カタリナも風を受けて重力の檻を抜け、窓から身を乗り出した。

 

 

 妖精という存在が現在に至るまでに記されている史実に初めて現れたのは、これも聖王の時代だとされている。
 時の支配者であった四魔貴族の一人、魔炎長アウナスが潜むと目される密林の奥に聳え立つ火術要塞へ聖王軍が侵攻する際、ジャングルの危機に奮起し迷える森の中で聖王軍の導き手を自ら名乗り出たのが妖精なのだ。
 しかし、それとは別に妖精をある種の土地神、又は神の使いと捉えた土着の信仰はこの聖王記に描かれた逸話よりはるか昔から存在しているようで、口伝等によって代々伝えられてきた様々な逸話や風習が密林の入り口とされるアケなどにはあるのだという。
 因みに、こうして伝わる話の多くは妖精の悪戯に纏わるものであり、悪い子には妖精がお仕置きに来るぞ、といった具合に躾のために親が子へと聞かせるようなものが多いのだとか。
 しかし、一部毛色の違う伝記も残されている。
 それこそが、妖精と人間の恋物語であるのだそうだ。

「身分や文化の違う二人が落ちる恋物語には結末として悲恋が多いように感じますが、妖精と人間のそれも御他聞に洩れず、そのような話が多くを占めています。ですがこの先で生まれたとされる恋には、恐らくそれは当てはまりませんでした」

 せせらぐ小川を軽やかに飛び越え、辺りを極彩色の蝶々が軽やかに舞う様を横目に歩きながら、カタリナは里の中よりことさらに饒舌なフェアリーの話に耳を傾ける。
 そうして道無き道を導かれて樹々の間を抜けた先には、小さな泉の畔が広がっていた。
 鬱蒼と生い茂る葉の間から降り注ぐ陽光が湖の水面でゆらゆらと輝き、辺りには微かな霧が漂っていてその光を淡く周囲に拡散させている。散らばった光は幾重にも重なり七色の変化を繰り返し、緩やかな風に擦れる葉の音と湧き出る泉のせせらぎが、まるでフェアリーとカタリナを迎えるように周囲に木霊する。
 幻想的、等という言葉で片付けるにはあまりに神秘的なその光景に、カタリナは我知らず息を漏らした。

「・・・ジャングルっていうのは、随分と絶景に事欠かない処なのね」

 カタリナのそんな感想にたいそう満足気に微笑んだフェアリーは、手を後ろに組みながら羽を震わせた。

「ここで、何処か遠い土地から海を渡って漂流してきた男性の旅人とアールヴ族の妖精が出会い、互いが一目で恋に落ちたそうです。男性は肌が浅黒いので、ナジュ方面の出身ですかね」
「・・・会ったこと、あるの?」

 まるでその人物を見たことがあるといったような表現に、畔にしゃがみ込んで泉の水中をまじまじと眺めていたカタリナはフェアリーに振り返った。

「直接ではありませんが、この泉には主さんがお住まいでして。その主さんが拝見したことがあるそうで、教えてもらいました」
「・・・ヌシさん?」

 カタリナがフェアリーの言葉を繰り返してそう言った直後、ざぱーんと泉の水面を盛大に揺らしながらカタリナの身長近くはありそうな魚が、勢いよく中空へと飛び出した。ゆうにカタリナの身長を越えるほどの高度まで躍り出たその魚は重力に引き戻される寸前に大きく身を翻し、そのままの姿勢で吸い込まれる様に泉の水面を打った。
 音に反応してそちらに向き直った瞬間にきらきらと光るその魚に思わず見惚れたカタリナは、そのまま着水の勢いで跳ねた泉の水を思いっきり正面から被ることとなった。
 数秒後、先の拍子に頭の上に乗っかったらしい水草を片手でつまみ上げながら、カタリナはもう一度フェアリーに振り返った。
 なんとフェアリーは、さっきよりも後ろに下がっている。ちゃっかり彼女は跳ね水を避けたようだ。

「・・・それで、ヌシさんは喋れるの?」
「言語は操れません。ただ思念で語りかければ、返ってきます。主さんはここに七十年近くお住まいだそうで、この湖畔で起こった出来事は大抵覚えているみたいです」

 思念による意思疎通が同族以外にも成立するなどと、さり気にとんでもない特殊技術を聞いてしまった様な気がするが、取り敢えずそこは今は流すことにした。

「なるほどね。それで、結局その二人は幸せに暮らしたのかしら」
「それは、残念ながらわかりません。少なくとも私が見聞きした限りでは、二人でジャングルを出て以来の消息は知りません。ですが・・・」

 言いながら泉の上へと移動したフェアリーは、再び手を後ろで組みながらカタリナに振り返って、にこりと笑った。

「古い伝聞を除けば、近年ではこのお話と私自身以外に妖精がジャングルを出た話はなかったので、私の経験則から言えば、恐らくは幸せになったんだと思います」
「・・・つい最近まで人間の手によって捕まってた割には、随分と楽観的解釈なのね」

 こちらも微笑みながら言うと、フェアリーは泉の水面から伸びた蔦のくびれに触れる様に腰をかけた。

「ふふ、外の世界にはこうして私などでは予期出来ないような素晴らしい出会いがあります。勿論すべてが良いことばかりではないのでしょうが・・・そのせいで本来備えている素晴らしさまでもが損なわれるわけでは、ないと思います」
「・・・貴女のその考え、私は好きよ」

 衣服にまだ残っていた水滴を手で払い、ゆっくりと立ち上がりながらフェアリーの言葉に朗らかに応える。
 彼女にとって人ならざる存在との会話は魔族、魔神を数えて妖精で三種族目となるが、ここにきて妖精が自分とは別の種族などとは全く思えなく感じていた。それだけフェアリーはカタリナが想像していた以上にしなやかな思考の持ち主で、よき話し相手だと感じるからだ。

「妖精と人が・・・様々な形でそんな風に惹かれ合うのなら、実は互いの起源は思ったより近いものなのかもしれないわね」
「はい、そうであれば素敵だなって思います」

 そう答えて微笑んだフェアリーはひょいと蔦から飛び降り、泉の上に立つ様にゆっくりと浮かんでからカタリナのそばまで戻ってきた。そしてここまで来た道を指差し、口を開く。

「帰り道、少し寄り道していきませんか? 大樹の近くに、お花の群生地があるんです。摘んでいきましょう」
「ええ、そうしましょうか」

 これまた唐突な提案だったが、もちろんこれにもカタリナは二つ返事で同意した。花摘みなどもう十年以上もした覚えがないが、この密林に広がる花々とやらはきっと見事な眺めで以て、今度も十二分に彼女を楽しませてくれることだろう。

「では、参りましょう!」

 ふわりとその場で一回転しながらそう言ったフェアリーにカタリナも笑顔で応え、二人は泉を後にした。
 うっすら靄の立ち込める泉には、二人を見送る様に再び小さく跳ね上がる主の姿があった。

 

 

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第十章・6 -聖杯を求めて-

 

 城の地下へと向かうエレンらを見送った後、カタリナは外が見える場所を求め、客間からさらに奥を進んだ。
 道案内には好都合とばかりに天体望遠鏡を担いでちゃっかり後をついてくるヨハンネスとともに、程なくして城上部のバルコニーへ出る。
 そこは宵闇の空とボドールイの街並みが一望できる、非常に見晴らしのいい場所であった。

(さて・・・グゥエインを呼べって言われても、ここからルーブまで移動してたらそれだけで二ヶ月くらいはかかるわけだし・・・)

 手際良く天体望遠鏡を設置していくヨハンネスの横で、カタリナは一応思い悩む。
 しかし思い悩んだところで、カタリナにはグゥエインのような飛行能力も、フェアリーのような念話能力もないので、自力での解決策は全く出てこない。

(・・・となると、大人しく彼女の力を借りるしかないわよね)

 早々に自力手段を断念したカタリナは、腰に携えた太刀・月下美人を静かに抜刀した。
 間も無く新月を迎えようとするポドールイの宵闇と月下美人の刀身が織り成すコントラストは、とても幻想的で美しい。
 一頻りその雅を楽しんだ後、カタリナは月下美人をゆっくりと正眼に構え、その刀身へ意識を集中させていく。
 すると月下美人が放つ独特の霊威がじんわりと周囲へ広がり始め、仄かに刃が明るみを帯びていった。
 これは、ロアーヌでカタリナがフェアリーと別れる時に交わした、連絡の合図。
 妖精族が精霊銀を用いて鍛えたといわれる名刀、月下美人。他の素材では決して作り上げられない唯一無二と言ってもいい切れ味を誇るその太刀は、他の武具にはない独特の霊威を備えている。
 その霊威は、妖精族にとっては聖王遺物級の武具が発する力場と同じほどに、遥か遠くの距離からでも存在を感じ取る事ができるのだそうだ。
 精神統一し刀に意識を集中してから、幾許か。
 カタリナの中にすっかり聴き慣れた、鳥の囀りのように可憐な声が響き渡った。

《カタリナさん!元気になられたんですか!?》
《久しぶり・・・ってほどでもないわね、フェアリー。色々と心配かけてごめんなさい。ちゃんと話さなければならない事がいっぱいあるんだけど、一先ず頼りたい事があって・・・》

 目を閉じたまま、嬉々とした表情が瞼の裏に浮かぶような声の様子に、自然とカタリナも笑みを漏らしながら返答をする。
 フェアリーとは、ロアーヌに帰ってから間も無く別れていた。カタリナは宮廷に戻り、フェアリーは族長たちが避難している腐海近くの臨時集落へと向かったのだ。
 その時のカタリナは己の気持ちに蓋をしていたものだから、別れ際のフェアリーには随分と心配を掛けてしまっていた。

《・・・なるほど。グゥエインさんに、ポドールイのお城にいくようお願いすればいいんですね!・・・っていうかカタリナさんずるいです!ポドールイ私も行ってみたかったです!》
《ほんとごめんなさいね、埋め合わせは必ずするから・・・》

 冒険心旺盛なフェアリーにしっかりとお叱りをいただき、カタリナは脳内で謝り倒す。

《絶対ですよ!・・・っとまぁ、少し待ってくださいね、グゥエインさん、どんな力場だったかな・・・・・・あー、よし、ちゃんと位置わかりそうです。ちょっと話しかけてみます・・・・・・・・・あ、すぐいくそうです!》
《すぐ行くって・・・まぁ、気長に待つことにするわ。急なお願いを聞いてくれてありがとうね、フェアリー》
《お安い御用です!でも埋め合わせはちゃんとお願いします!》

 あれよあれよという間に、グゥエインとの連絡手配は済んでしまった。全くもって、便利なものである。
 なんだかこういう妖精族だからこその念話能力なども、場合によっては魔導器などで実現させることができるのだろうか、などとふと思ってみたりもする。
 しかしそんなことを教授に言おうものなら、嬉々として妖精族を追いかけ回して研究しそうだなぁなどとカタリナは想像し、これは決して教授には言うまいと心に誓った。

「・・・刀を構えながら一人でにやにやしている姿って、はたから見るとなかなか気持ち悪いもんですね」

 気がつけば天体望遠鏡を設置し終わり一息ついていたヨハンネスが、月下美人を構えたままのカタリナに向かってそう言い放った。
 その声で現実に引き戻されたカタリナは、いそいそと月下美人を納刀してヨハンネスに向き直る。

「・・・放っておいてちょうだい。っていうか、ここにきても星の観測なのね」
「はい、それが私の生業ですから。それにここでは、今までにはない観測ができそうですので」
「今までにない観測・・・?」

 その言葉に少しばかり興味が惹かれたカタリナが首を傾げると、ヨハンネスは天を見上げながら語り出した。

「はい。ここは一日中星の観測が出来る場所のようです。つまり、本来今の季節には見られない星も見えるということです。ここならば、より詳細な星のズレに関する情報収集が出来ると思います」
「星のズレ、か・・・」

 言葉を繰り返しながら、カタリナも宵闇の空を見上げる。
 ヨハンネスのいう星のズレとはすなわち、アビスゲートの力が引き起こすものであるのだ、という。
 世界に散らばる四つのゲートが閉じ、本来ならばここで星のズレとやらは無くなったはずだった。しかし、未だそれはあるのだという。
 これこそが、第五のゲートの存在を裏付ける一番の証明でもある。

「・・・第五のゲートは、最もアビスの瘴気が濃く渦巻いている・・・か」

 ぽつりと、カタリナが呟く。
 それは、ピドナを発つ前にトーマスから聞いた内容だった。
 トーマスはアラケスの言葉と行動を一つ一つ振り返り、それがサラのもとに辿り着く何かのヒントにならないかと考え、皆に共有していた。
 まず四魔貴族は、そもそも第五のゲートの存在を知らなかったであろう、とトーマスは結論付けた。
 その根拠は、アラケスの狙いがゲート四つを前提として成立するよう練られていたからだという。
 果たして四者の綿密な連携の末なのか、それとも魔戦士公の独自采配であるのか。
 いずれにせよ、四魔貴族のゲートは一つずつ閉じられ、魔王殿に座する白虎のアビスゲートが最後に残った。
 そこに至るまでに幾つもの人類存亡危機が波状的に世界各地へと押し寄せ、世界に不安と疑心、そして恐怖を撒き散らした。
 そうして蓄積された全ての負の瘴気は残ったアビスゲートに集約され、遂にはアビスへ繋がる門を開く。
 アラケスはそれを目論み、計画通りあの場にサラたちを誘き寄せた。
 だがそんな四魔貴族の目論見を狂わせる事実が、あの場で致命的な誤算を生み出した。
 それ即ち、彼らも知り得ぬ第五のアビスゲートの存在だ。そのゲートが在ることで、アラケスの想定よりも瘴気の集約が足りていなかった。
 それにより白虎のゲートは即座に開ききらず、その隙をついてサラは自分ごとゲートの向こうから門を閉じるという捨て身の行動をとった。
 そうしてあとに残ったのが、アビスの瘴気が噴き出さんとして集まるであろう、第五のゲートだ。

(・・・第五のゲートについて分かっていることは、四魔貴族すら知らなかったこと。ゲートそのものが不安定であること。恐らく聖王様もその存在に気づきつつ、結局そのままにされていたと思われること。そしてもう一つ、不確定情報でトーマスが最も気にしていたのが・・・)

 トーマスが最もアラケスの言葉で気に留めていたものは、『此度貴様らの術式が齎した星と次元のズレでは、ゲート四つが同時に開くことは不可能』という言葉だった。
 これは明らかに、四魔貴族やアビスではなく人間サイドが何らかの術式で星と次元のズレとやらを引き起こした、という意味に取れる。

(星のズレは、ゲートから漏れ出す力が引き起こす現象・・・それは、ヨハンネスも以前言っていたこと。そして、ゲートが開くきっかけとなったのは、三百年に一度の大厄災、死蝕。この一連の流れの中に、人間が何らかの術式を用いて関わっている・・・その解明のヒントになりうるのが、この第五のゲートなのではないか。トーマスは、そう結論付けていた)

 考えてもカタリナには分からないことだらけであるが、それでも今は、その第五のゲートとやらを目指すしかない。
 そのためにエレンたちは聖杯を目指し、そして教授らも尽力してくれているのだ。

(そんな最中、一体私には何の役割があるっていうのかしら・・・)

 手渡された鍵のことを思い浮かべながら、カタリナはまもなく消え入るであろう月の最後の欠片を、力なく見上げていた。

 

 

「ギャギャギャギャッッ」
「っっさい!!!」

 頭上から迫り来る巨大蝙蝠の頭部を、エレンは狙い澄ました斧の一薙ぎで吹き飛ばした。
 頭部を失いながら壁に打ち付けられ蝙蝠が絶命する間に、他に四匹いた蝙蝠も次々と凄惨な最後を遂げていく。
 曲刀で切り刻まれ、エストックで滅多刺しにされ、斧と蒼龍術で錐揉みにされ、太刀で一刀両断にされ。
 あっという間に巨大蝙蝠たちの墓場となった部屋を抜け、エレンたちは歩みを止めずに地下へ続く階段を降りていく。
 すると通路の先の階層は、これまでの道と比べて驚くほど広大な空間であった。この城の本体はここから下層なのである、と思い知るには十分な広さだ。

「・・・ガラッと雰囲気が変わったな。瘴気も一段と濃くなりやがった。こりゃ諸王の都よりも死霊まみれっぽいな」

 中央が吹き抜けの作りで下へ下へと降っていく長い階段のフロアへ出ると、ハリードが分かりやすく眉を顰めながら呟く。
 見下ろせど暗く暗く、どこまで降るとも分からぬ吹き抜け。そこを通って地下深くから吹き上がってくる生温い風には、微かな腐臭が混じっている。

「この辺、魔物いなそうね」

 先頭を行くエレンが慎重に階段を降りながら呟くと、すぐ後ろを歩いているロビンがそれに合わせて頷く。

「確かに魔物はいなそうだが・・・一歩降りる毎に、何とも言えない気持ち悪さが増していくのを感じるな。アイマスクが今までにないくらいにピリつくよ」
「え、そのマスク、感覚あるんですか・・・?」

 ロビンのすぐ後ろを歩く少年が、別の意味でホラーを感じるような発言をする。
 その後ろで呑気に煙草を燻らしながら歩いていたブラックは、ふと吸っていた煙草を指で摘み、無造作に吹き抜けへと放り投げる。
 火種がついたままの煙草がクルクルと風に弄ばれながら吹き抜けを落ちていく様を、一行はなんとなく視線で追う。
 だが、程なくして煙草は火種ごと暗闇に吸い込まれ、見えなくなった。

「こりゃ相当下まで続いているみたいだな。この先にアビスゲートがあるなんて言われても、不思議に感じないくらいだ」

 最後尾のハリードはそう言いながら階段の手すりへと手をかけ、手すりから向こう側の下層に続く手すりへと飛び移り、エレンを追い越していく。

「あ、ちょっと待ってよ」

 それを追いかけるようにエレンが駆け出すと、二人に釣られて一行は吹き抜けのフロアを一気に降っていった。
 未だ底の知れぬ吹き抜けを尻目に道なりのまま進むと、開いた先は腐臭が立ち込める薄暗い階層へと繋がっていた。

「おっと、ここからが本番みたいだな」

 そう言いながらカムシーンを抜き放つハリードの視線の先には、腐りかけの体から瘴気を撒き散らして侵入者を睨む、巨大にして醜悪な死せる魔物。
 その数は、三体。

「油断するなよ」
「こっちの台詞」

 腰に括り付けていた斧を構えながら、エレンがハリードの横に並び立つ。
 しかし、その間を縫うようにしていち早く飛び出す、一つの影があった。

「正面、仕留めます」

 その言葉と共に抜刀しながら飛び出した少年は、流れるような動作で正面の魔物を横薙ぎ一閃に払い抜ける。その軌道は何者にも妨げられることなく、三体いた魔物のうち一体が上下に断たれ、腐肉へと還る。
 その動きに呼応するようにハリードとエレンも一足で飛び出し、疾風の如き滅多斬り、正面から真っ二つにて、両翼にいた魔物を瞬時に滅する。

「・・・あのガキ、はえぇな」
「あぁ、そして動きに全く無駄がない。あれは、強いな・・・」

 三人の勇姿を眺めるに徹していたブラックとロビンは、特段に先攻した少年の動きに思わず賛辞を送る。
 ここまで少年が戦う姿を殆ど見てこなかった反動もあろうと思うが、それにしても今の初動の迅さは目を見張るものがあった。

「・・・あのお姉さん・・・カタリナさんに渡す前、指輪は僕がもっていたから・・・大抵の技術は、僕の中にも流れ込んでいるんだ」

 それは、カタリナに渡した王家の指輪のことを指しているのだろう。
 聖都ランスの聖王家から指輪を受け取り魔王殿でカタリナに渡すまでの所有者は、確かにこの少年であった。
 その間に指輪が持つ記憶の中から戦闘に関するものを受け取った、ということなのだろう。

「なるほどな。あの指輪は八つの光だけでなく、宿命の子にも作用する代物だったというわけか」

 自身をして指輪から流れ込む記憶を保有するハリードが、今度は通路の先に待ち構える腐った赤竜へと視線を移しながら世間話のように喋る。

「じゃあ戦力として不足はないな。この階層、一気に駆け抜けるぞ!」

 そう号令を飛ばしたハリードを先頭にして、五人はそれぞれの得物を手に魔物へと突撃していった。
 道行く先には巨大な死竜、腐肉を餌とする無機質の溶解生物、恐ろしさの中に美しさを併せ持った邪精など、それだけでポドールイ地方そのものが滅んでしまいそうなほどに凶悪な魔物が次々と立ちはだかる。
 しかしそれらをしても彼らの足を止めるには至らず、五人は比較的順調に地下階層を攻略していった。
 どうやら先ほどの吹き抜けを中心に降っていくように通路が続いているようで、何度も吹き抜けの箇所に戻るようにしながら、下へ下へと降っていく。
 意外なことに地下階層の道中にはいくつか生活を目的としたような部屋が配置されており、そこにはまるで部屋に住んでいるかのように寛ぐ邪精らの姿が見られ、その不気味な様子が一層この城の異質さを際立たせていた。

「・・・しかし夜の王が支配する領域ってのは、とんでもないもんだな。斬っても斬っても、ここの死霊がいなくなる気配なぞ微塵も感じられない」
「うん・・・これほんと無限に湧いてくるんじゃないかって思うくらい。しかも、全然こっちに敵意ないのもいるし」

 流石にここまで大量の数を相手にした反動か、肩で息を吐くようにしながらハリードとエレンが愚痴るように呟く。

「この辺の死霊は一先ず居なくなったようだし、少し休憩しよう」

 エストックを鞘に納めながらこちらも一息つきたい様子のロビンが提案すると、一行は思い思いに近場で腰を下ろした。

「ここは・・・書庫みたいだね」

 見渡す限り本棚で埋め尽くされたその空間には、一体いつからあるのか、そして誰に読まれることを待っているのかも知れない本たちが、所狭しと並べられていた。

「なんでもここの城主は、魔王との面識もあるっていうじゃねえか。その頃の本なんかあったら、学者先生相手に結構高く捌けるんじゃねぇか?」

 ブラックが煙草を燻らせながら俗なことを言うと、満更でもなさそうな表情をしながら手近な本を手に取るハリード。

「ちょっと、コソ泥みたいなのやめてよね」

 隣に座るエレンに肘で突かれながらハリードはパラパラと本の頁を捲るが、残念なことにそこに書いてある文字が何を意味しているのか、彼には皆目見当もつかない。

「値打ちがあるかどうかは兎も角、書いてあることは全くわからんな」
「ふん・・・案外、ここの死霊どもの日記かもしれんぞ。それじゃあ二束三文にもならねーな」

 くっくっと嗤いながら煙草を燻らし続けるブラックの向かいで、少年もまた近くの本を手に取り、古めかしい表紙へと視線を落とす。

「・・・何かの記録、みたいだね。世界・・・魔術・・・死・・・」
「ふむ・・・それこそ魔王の時代からここがあるのだとしたら、六百年の間の様々な記録なのかもしれないな。・・・・・・ッッ!!??」

 本を手に取る周囲とは対照的にエストックの手入れをしていたロビンは、座った姿勢のまま思わずびくりと体を震わせた。
 その拍子に、ガシャリ、とエストックの鞘がロビンの膝から下に落ちる。
 それに皆が注目しようとすると、なんと彼らが座っていたあたりをちょうど結ぶ中心に悠然と立っている城主、レオニードの姿があった。

『・・・!!???』

 あまりの驚きに、その場のほか四人もすぐには動けない。
 全く気配を感じなかった。
 いつからそこにいたのか、その場の誰も、まるでわからなかったのだ。

「・・・こいつは一本取られたな。いくら殺気がないにしたって、剣の届く範囲の動きに俺が気づけないなんて、ちょっと自信無くすぜ」

 流石のハリードもお手上げだという様子で肩を竦めると、エレンはエレンでレオニードの立ち姿に隙の一つでも見つけてやろうと凝視している。
 そうこうしているうちに、ふっと、ブラックが咥えていた煙草の火が消える。

「ここは古い本が多いからね、すまないが火は遠慮してもらえるかな」

 レオニードが不敵に微笑みながらブラックへ視線を寄越すと、ブラックは憮然とした様子で腕を組む。

「火は駄目ったってよ、そこらじゅうに灯りを焚いてんじゃねえか」

 突如現れたレオニードよりも消された煙草の火のほうが気になる様子のブラックが文句を垂れると、レオニードは周囲を照らす壁のランプへと視線をやった。

「あれは鬼火の棲家だ。この城にいる火は全て鬼火だよ。だから、彼らに仇なす者以外が燃えることはない」
「・・・さいですか」

 シケモクを専用ケースに仕舞い込みながらブラックが引き下がるのを他所に、レオニードは少年へと音もなく歩み寄り、見下ろした。

「・・・あの、なんですか」

 実に居心地悪そうに少年がレオニードを見上げると、レオニードは無言のまま少年の瞳の奥を見通すように僅かに眼を細める。
 すると間も無く、少年は視線を逸らすように顔を下げてしまった。

「なるほど。私たちが君に僅かに恐怖を感じるのは、やはり君が破壊を司るからか」
「・・・・・・」

 一人呟いた様子のレオニードの言葉に少年が沈黙で答えると、すぐにレオニードも興味をなくしたように少年の前から後退った。

「ねぇ、伯爵様」

 そこに、エレンが声をかける。
 レオニードが声に合わせて視線を投げかけると、エレンは胡座を組んだまま腕を突っ張って前のめりにバランスをとり、じっとレオニードを見つめる。

「こういうときってさ、何か用事があるから来るんだよね。流石に、そこのおっさんの煙草消しに来ただけじゃないでしょ?」

 明け透けなエレンの物言いに流石のハリードも苦笑いをする中、レオニードは寛大な様子で微笑んだ。

「その通りだとも、娘よ」

レオニードはエレンというより、その場の全員に語りかけるように口をひらく。

「ふふ・・・そこの少年ならばもしかしたら、この先にいるモノを葬ってくれるかも知れないと思ってね。まずはそれを確かめに来たのだ。あとは・・・少し君たちと話をしようと思ったまでだよ。来客を饗すのも、城主の務めだからね」
「この先にいるモノ、ねぇ。一々意味深な物言いだこって」

 突っかかるブラックを気にする様子もまるでなく、レオニードは次にエレンとハリードへと向き合う。

「神に選ばれし光、立つ。その数、八なるべし・・・。君たちは聖王らが残した、さながら神の尖兵とも言うべき存在なのだろうが・・・今はもう、その意思とは関係なく動いているようだね」
「・・・生憎と俺は、聖王の信者ではない。俺が信仰するのは、祖国の英雄アル=アワド王のみだ。神だか聖王だかが俺を選んだってのは、なんかの手違いだと思うがね」

 立てた片膝の上に腕を乗せながらハリードが皮肉混じりに言うと、レオニードは片眉を僅かに揺らし、こくりと頷いた。

「アル=アワド。懐かしい名だ。聖王の時代より前、あの者こそが間違いなく人の身で最も精強であった」
「おいおい・・・まさかあんた、アル=アワド王と面識があるとか言うんじゃ・・・」

 思わぬ反応にハリードが食いつこうとしたところ、今度はそれを片腕で制してエレンが身を乗り出す。

「そういえば伯爵様は、宿命の子って何かわかるの!?魔王とか聖王様とかとも会ったことあるんでしょ!?」
「ふむ、そうだな・・・魔王や聖王にせよ、そこなる少年や、其方の妹にせよ。単に宿星が他人と違っただけと言えば、それまでだ」

 レオニードの回答に、エレンは憮然とした表情で返す。

「ふふ。随分と不服そうだな。だが、私とて全てを知っているわけではないのだ。君らよりも、多少長生きしているだけだからね」
「・・・では質問を変えてみよう、ロード・ポドールイよ。此度の宿命の子は、なぜ二人いるのだと思う。是非、貴方の見解を聞いてみたい」

 それまで会話に加わっていなかったロビンが声を上げると、レオニードはそっと自分の顎に手を当てて考える仕草をしてみせた。

「いい質問だ。そうだな・・・まず二人という点が偶然なのか必然なのか、を考える必要があるが、見ての通り私はロマンチストでね。そこは必然だと確信している」

 どのあたりが見ての通りなのかロビンには皆目見当がつかなかったが、一先ずそこは置いておくことにする。
 レオニードは続けた。

「魔王は死を定めとし、聖王は生を定めとした。そして此度宿命の子が負うべき定めは・・・恐らく、二つある。だから宿命の子も二人が必然。私は、そう考えている」
「負うべき定めが、二つ・・・」

 ロビンは言葉を繰り返しながら、そっと隣の少年を見やる。
 しかし少年は俯いたまま、ただただ地面の一点を見つめるばかりだった。

「・・・その少年は、言うなれば破壊の定めを背負っている。死は命ある者にしか齎されぬが、破壊は全てに齎される。であれば差し詰め対の定めとは・・・創造、といったところか。これもまた、命ある者に関わらず全てに齎されるもの」

 レオニードの言葉を、一同は無言で聞く。
 破壊と創造を少年とサラが司っているということは、ピドナで少年から直接聞いていたことだ。しかしそれを全く別の知見から洞察するこのレオニードという存在は、なんとも末恐ろしい存在に感じられた。

「そして此度の宿命の子が背負う定めは、まだ何も世界に影響を及ぼしていない。四魔貴族の幻影と君たちの戦いは、いわば序章のようなものだろう」
「あれで序章とは・・・随分な言いようだ」

 カタリナに次いで四魔貴族との交戦経験を持つハリードが、その戦闘の凄まじさを思い返しながら肩を竦める。
 しかし確かに、その戦いには宿命の子が全面的に関わったわけではなかった。

「つまり伯爵様は、この後に何かが起こるって考えているのね?」

 エレンが真っ直ぐに見つめながら問いかけると、レオニードはいかにもと言わんばかりに頷いてみせた。

「何が、という点までは判らぬ。だが・・・世界を揺るがす何かが起こるだろうという確信は、ある」

 それに・・・と呟きながら、レオニードは実に愉快そうに笑みを作ってみせた。

「なにしろそうでなくては、面白くない」
「・・・けっ、まるっきり高みの見物だな。いいご身分だこって」

 その反応を見たブラックが、心底嫌なものを見るかのように悪態を吐く。因みに実際にレオニードは爵位を持っているので言葉通り良い身分であるのだが、今そこに突っ込む人物は流石にここにはいないようだ。

「いや、それは伯爵位だし身分は高いだろう」

 いた。
 ロビンのエストックよりも鋭い突っ込みに、然しもの大海賊ブラックもたじたじの様子で頭を掻いてみせた。

「うん・・・なんか、ちょっと安心した。少なくともその何かが起こるまでは、あの子は・・・サラは、生きてるはずだから」

 エレンはそう呟くと、すくりと立ち上がった。
 束の間の休憩の終わりを悟り、各々も先へ進むべく立ち上がる。

「ありがとう伯爵様、色々話してくれて」
「礼には及ばぬ。それでは、この先でもう一度会えることを楽しみにしていよう」

 レオニードはそう言うと、頭から灰になり瞬く間に崩れ落ちていった。

「いや去り方怖いな」

 ここはロビンが冷静に反応するが、他の面々は気にするでもなく準備を整える。

「・・・それじゃ、行きましょ」

 

 書庫を後にした一行は、更に下の階層を目指して潜り続けた。
 そのまま何事もなく三階層ほどを一気に降り、その先にある妙に冷気が流れ込んでくる扉を開ける。
 するとそこは、雪積もる丘の斜面に迫り出すようにして作られた、小さい中庭へと繋がっていた。

「へぇー外にでるんだ。面白い作りね」
「一本道に近いが、随分と入り組んで作られている城だな。城主の性格を表しているのかね」
「いや絶対そういうの聞かれてる気がするから言わない方がいいと思うんだが・・・」

 書庫からここまでは魔物との交戦もなかったことで、一行は多少気持ちも軽やかに中庭を抜けていく。
 広くない中庭を突っ切っていくと、あからさまに下へ向かうための階段のみがある、小さな部屋の扉へと辿り着く。
 そしてその先の扉を押し開け再び城内へと入ったところで一瞬、誰もが緊張で凍りついたように固まった。
 全員が、そこに蠢く重苦しい怨嗟の念で察したのだ。
 この階段を降りた先に、この城の『真なる主』がいるということを。

「・・・伯爵様が言っていたの、絶対コイツよね・・・」

 可動域を確保するため素早く階段を降り、斧を右手に構えて僅かに腰を落としながら、エレンは吹き出る冷や汗を空いた腕で拭う。

「・・・だな。こりゃ下手したら魔貴族と同格だぞ・・・」

 同じくカムシーンを抜き放ちながらじりじりとエレンの横に移動しつつ、ハリードが唸った。

「骸骨か・・・相性が悪いな。私は撹乱に回ろう」

 エストックを抜き放ちながらロビンが一歩前に出ると、一同は無言で頷く。
 そうして戦闘体制に入った五人の視線の先には、異様な存在感を放つ巨大な骸骨群が在った。
 群の構成は上下に分かれており、下段には白骨化した大型のガーゴイルが三体、古びた玉座を担ぐようにして陣を組んでいる。そしてその上段に座し対峙する五人を見やるは、これまた巨大な人骨のアンデッドであった。
 そのアンデッドは美しい宵闇の外套を羽織り、頭蓋には威厳ある冠を身につけている。
 生前はさぞ大人物であったろうことを窺わせるその佇まいは、瘴気に塗れたアンデッドであるにも関わらず、どこか気品めいたものすら感じられた。
 ギチリ、と骨同士が擦り合う音がした、その直後。

「・・・くるぞ!!」

 ハリードが叫ぶと同時、全くもって予想外の速度でアンデッドは五人に向かい突進を繰り出してきた。

「ーー早いッッ!!?」

 正面からそれを引き受けにかかったロビンは、すんでのところでマントをはためかせ回避し、更に身を翻し様に先頭のガーゴイル頭部へ強烈な一突きを見舞う。
 しかし、ガキンッと乾いた音が響くだけで、損傷は殆ど与えられなかった。

「っらぁ!!」

 同時にロビンの左右から相手側面へ飛び出したエレンとブラックが、それぞれの片手斧で遠心力をたっぷり乗せた横薙ぎの一撃を放つ。
 狙い通りこちら一撃は左右のガーゴイルの頭部を砕き飛ばすが、しかし頭部を失ってなおガーゴイルの白骨はまるで動きを止める様子がない。

「足を狙え!!」

 隙を窺いながらハリードが叫ぶと同時、前面に躍り出た少年がその勢いを活かした強烈な振り下ろしの一撃を、先頭のガーゴイル下半身へと叩き込む。
 骨片が飛び散り腰から下を砕かれたガーゴイルは姿勢を崩し、そして玉座もまた傾く。これを待っていたとばかりに、ハリードは上段のアンデッドへ向けて駆け出した。
 だがその瞬間、上に座していたアンデッドはガーゴイルごと蹴り飛ばして後方へ飛び上がり、同時に両手を突き出す。

「ッ、避けろ!!!」

 前に飛び出した勢いをなんとか殺して横に転がりながらハリードが言うと同時、他四人も大きく飛び退る。
 直後、彼らが立っていた場所には無数の鋭い骨片が矢のように降り注ぎ、石畳を盛大に抉りとった。
 その間にガーゴイル二体が玉座を持ち直してアンデッドの元に戻り、一方で下半身が砕かれたガーゴイルは灰となってその場に崩れ落ち、瞬く間に二体のガーゴイルの位置に集まり再構築される。

「・・・下はキリがなさそうだな」

 腰を落とし臨戦体制のまま、愛用のバイキングアクスを左右の手で弄ぶように持ち替えながらブラックが呟く。
 今の様子からその通りだろうと判断した五人は、上段に座するアンデッドへの一点集中へ狙いを変えた。

「浮かせます!」

 先ず動いたのは、少年だ。
 太刀を石畳に突き立て、地を這う強烈な衝撃波を飛ばす。その範囲は広大で、横に避ける道筋を与えていない。
 案の定、衝撃波を避けるようにガーゴイルたちが飛び上がったところへ、再び左右から同時にエレンとブラックが連携し、おおきく振りかぶって斧を投擲する。

ガキンッ

 強烈な回転を帯びた斧が上段のアンデッドを襲うが、しかし届くことなく弾き返される。どうやらアンデッドが左右に広げた腕から、骨の刃を網状に飛ばしたようだった。
 更にアンデッドは降下しながら両手で印を結び、なんらかの術法を発動する仕草を見せた。

「させない!」

 瞬時に反応したロビンが飛び出し、目にも止まらぬ速度で猛烈な物量の刺突をアンデッドとガーゴイルに向かって見舞う。
 武具としての相性が悪く損傷は殆ど与えられないが、それでも対処を余儀なくさせることで相手の術法を阻害することには成功したようだった。
 術を阻まれて着地したアンデッドは、邪魔者を排除すべくロビンに狙いを定め、再び強烈な突進を仕掛ける。
 だがそれは先ほどと同じく紙一重でロビンに回避され、僅かながら反撃の一突きでガーゴイルの骨片が削られた。
 しかし今度はアンデッドが引かずその場に留まり、頭蓋の隙間からどす黒い霧を噴出する。

「離れろ!」

 尋常ではないその様子を察したハリードが慌てて叫ぶが、それよりも霧状の何かがアンデッドの周囲一帯へと飛散される方が僅かに早かった。

「くっ・・・」

 慌てて飛び退ったロビンが、口元を押さえて膝をつく。
 それに合わせるように、初撃同様にサイドから狙おうと構えていたエレンとブラックも膝をつき、苦しそうに咳込みはじめた。

「猛毒か・・・いや、それだけじゃない・・・身体中が熱くなっていく・・・神経毒の類だな・・・」

 当然ながら隙を突くために一定の間合いを保っていたハリードも、その未知の攻撃を受けていた。
 だが戦闘経験の差か人生経験の差か、ハリードは首に下げていた筒状の装飾を素早く引きちぎり、中に仕込んでいた万能薬を飲み干していた。

「全員とっとと薬を飲め!緑の小瓶のやつだ!」

 ハリードがエレンを庇うように位置取りを変えながら叫ぶ。
 猛毒に加えて神経作用もある攻撃のようで、見渡せば皆が一様に体の自由を部分的に奪われ、なんとか後ろに下がるのが精一杯という様子である。薬は常備させてあるものの、一時的に動きを制限された代償は大きい。
 当然これを好機と捉えたアンデッドは、先ず最も近いロビンを仕留めるため、彼に向かって大きく飛び上がった。
 それは非常に単純な踏みつけるという行為だが、あの巨体で踏みつけられれば、それこそ人間の骨など跡形もなく粉砕されることだろう。

「・・・ッ!!」

 しかしそれに合わせて空中に飛び上がった少年の渾身の切り返しにより、アンデッドの巨体は狙いのやや手前の石畳を踏み抜く結果となった。

「テレーズ、動けるのか!?」

 薬の作用も、一瞬というわけではない。なので自身も今は回避専念の構えだったハリードが、驚いた様子で少年を見やる。
 少年も確かに先の攻撃は受けたはずだが、その動きからは一切その影響を感じない。何か特殊な状態異常耐性でも持っているのだろうか。
 だがハリードの言葉に応えるより、アンデッドと同じタイミングで着地した少年はすかさず腰を低く落とし、前方へと踏み込んだ。
 そしてガーゴイル三体の大腿部を一気に両断するように、豪快に払い抜ける。
 少年の放った太刀筋を彩るように派手に骨片が舞い散り、再度ガーゴイルらが崩れたことでアンデッドが後方に飛び退く。
 すると少年はアンデッドと後ろ四人の間に立ち、短く息を吐いた。

「・・・・・・」

 無言のまま少年は太刀をゆっくりと脇構えに変え、間も無く足が再生したガーゴイルと、その上部に依然として座するアンデッドへと対峙する。

(・・・僕の宿命は、果たせなかったと思っていた・・・)

 少年は、思う。
 サラと出会い、旅をした。
 それは束の間の時間であったが、間違いなく彼の人生の中で最も素晴らしい時間であった。
 その短い旅の果てに、己が身を賭してゲートを閉じるという宿命を帯びていることは、分かっていた。だからこそ、それに向かうまでの僅かな刻を、少年は何より尊いものだと感じていたのだ。
 だが。
 その旅の終着地点で、少年は宿命に準ずることが出来なかった。
 彼の宿命は、果たされなかった。

(いや・・・違う。僕の宿命は、この先にあるんだ。さっきの吸血鬼も、そう言っていた)

 構えた太刀に、力を込める。
 すると刀身は間も無く天地六術式が混ざり合い、混沌の波動を纏う。そして触れるもの全てを崩壊に誘う魔剣へと、その存在を変貌させていった。

(サラが創った三百年の平和を、僕が壊す・・・多分、そういう宿命なんだ。それはサラが望まないことだろうけど・・・僕は、そうすると決めた。だから、ここで立ち止まっている時間は・・・ない)

 少年の刀身が纏う混沌を認識したアンデッドは、しかしどうしたことか反撃の素振りを見せず、少年を見つめるようにして動かない。

(・・・?・・・あぁ、そうか。君は、壊れたがっていたのか)

「・・・なら、望み通りにしてあげる。僕にできるのは、これくらいだから」

 別れの言葉を告げ、軽やかに、飛び上がる。
 空中で大きく体を捻り回転し、少年はアンデッドへ何の変哲もない袈裟斬りを放った。

『グォォォォオオ・・・ォォ・・・』

 その太刀筋を正面から受けたアンデッドは、小さく呻き声をあげる。
 すると間も無く斬痕から全身に広がるようにゆっくりと身体が灰と化していき、さらさらと崩れ落ちていった。
 最後まで残っていたのは頭蓋、そこにあった空洞の眼底。
 その奥で光っていた怨嗟の赤黒い光は、己を滅した目前の少年ではなく、もっと遠く。宵闇の向こうにある何かを見つめるようにしながら、灰と共に静かに消えていった。

「・・・とんでもない手を持ってたもんだな・・・」

 あまりの展開に毒気も抜かれた様子のハリードが、起き上がるエレンを手助けしながら言った。

「・・・うん。でもあれ隙だらけになるから、当てるの大変なんだ。アラケスは構えすらさせてくれなかった」

 少年は太刀を仕舞いながら、他の面々が起き上がるのを手伝いつつ応える。

「・・・おめぇが宿命の子ってのは、どうもデマじゃなかったらしいな。今やっと納得したぜ」

 起き抜けに、こちらこそが薬だとでも言わんばかりに煙草へ火をつけながら、ブラックが呟く。

「状態異常の対処が甘かった・・・これは今後の教訓だな。とにかく助かったよテレーズ、ありがとう」

 緩んだバンダナを締め直すようにしながら、ロビンも少年に助けられつつ起き上がった。
 そして既に起き上がりながら憮然とした表情をしていたエレンも、気を取り直した様子で大きく息を吐く。

「・・・ふぅー。あたしもまだまだだ。こんなんじゃ、サラに笑われちゃうね。ありがと、テレーズ」

 エレンの礼に対して短く「うん」とだけ返事した少年は、滅んだアンデッドの背後に続く通路へと視線を向けた。
 もう間も無く訪れるであろう新月と共に、彼らが索る聖杯は、もう目と鼻の先に現れるはずだ。

 

 

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第十章・1 -三百年の平和-

 

 聖王歴三百十七年、赤火の月。
 歴史上二度目となった四魔貴族と人類の戦いはここに決し、世界からアビスの脅威は去った。
 この事が世界中に伝わるのに大した時間が掛かることはなく、きっと一ヶ月ほどもすれば世界中が喜びに満ち溢れる事だろう。
 かの聖王記に記されしパウルスの予言、それに導かれし八つの光は見事、その使命を成し遂げた。大いなる邪悪を打ち倒し、アビスの彼方に封じたのだ。
 英雄はこれより各地を凱旋し、大いに民の祝福を受け、三百年先までこの偉業は語り継がれるに違いない。

「・・・そう簡単に、この英雄譚はめでたしめでたし、となるのでしょうかねぇ?」

 暗く陰気な石作りの空間の中で、何者かが呟く。その声色は、どこか愉しげだ。

「かつて歴史上初めて死蝕を生き延びた祝福の子は、長じて破壊を齎す魔王と化した。そして魔王の再来を恐れられた忌み子は、世界を救う聖王となった。さて・・・此度の宿命の子と救世の英雄は一体、何者になるのでしょう」

 一人くすくすと嗤い声を上げ、そこからは見えない空を見上げるような仕草をする。

「サーガは、まだ終わっていませんよね?」

 それは予言か呪いか、はたまた切なる願望か。
 誰にも聞かれることのない孤独な空間で呟かれたその言葉は、間も無く暗闇にひっそりと、跡形もなく溶け落ちていった。

 

 

 再び世界に迫ろうとしていた危機は、パウルスの予言にて示された存在である八つの光によって、見事退けられた。
 最終決戦の場となったのは、メッサーナ王国首都ピドナの旧市街にある魔王殿の奥深く。四魔貴族の一柱である魔戦士公アラケスか守護すると言われる、最も人類生活圏の側にあったアビスゲート。
 人類勝利の知らせはメッサーナ王宮を通じて瞬く間に世界に発信され、世界各地の新聞社も連日この吉報を一面で報じた。
 世界は、文字通り歓喜に包まれた。

 その知らせから、二週間が経っていた。

「それでは皆様・・・本当に、お世話になりました」

 間も無く出航の時間となるキャラック船を背に深々と一礼するモニカに従い、すぐ後ろに控えていたカタリナも深々と礼をする。それを見た隣のユリアンも、釣られてぎこちない礼をした。

「・・・帰りの道中も、どうかお気をつけ下さい」

 そう言いながら少し寂しげに微笑んでみせたトーマスは、礼をした後に俯いたままのユリアンへと視線を移す。

「ユリアン・・・モニカ様をしっかり守ってくれよ。何かあったら、すぐ俺に連絡をくれ」
「・・・あぁ、わかったよトム」

 自分がこうしてトーマスらと別れる状況に、どこか非現実的な感覚を未だに抱いている様子のユリアン。しかしそれでも彼はしっかりとトーマスと視線を交え、力強く頷く。

「カンパニーも、寂しくなりますね」

 何故か当然のように見送り一向に加わりトーマスの横に立っていたフルブライト二十三世が、心底残念そうな顔でカタリナに視線を向ける。
 カタリナはこれに対して会心の出来映えだと自画自賛できるほどの嫌そうな顔で返し、それから一転、今度はニコリと微笑む。

「ご心配なく、フルブライト二十三世様。カンパニーは近く代表権をトーマスに移し、合わせて社名も変更する予定ですので」
「それが残念なのだよ」

 そんな貴方の趣向など知ったことではないのです、と表情で物語りながら、カタリナは恭しく無言で一礼した。

「・・・エレンやハリード様たちは、もう行ったのですね」

 その場で周囲を軽く見渡したモニカが、こちらも少し寂しそうに微笑みながら呟く。

「・・・はい。ただエレンたちとは定期的に連絡を取りますので、何かあればモニカ様にも直ぐにお伝えします」

 トーマスとモニカがそんな話をしている横で足早にカタリナへと近づいたノーラは、臆面もなくその場でカタリナをしっかりと抱きしめた。
 鍛え上げられたノーラの筋肉による締め付けは常人なら少し痛がりそうなものだが、カタリナはされるがままにしながら微かにはにかみ、そっと彼女を抱きしめ返す。

「・・・カタリナ、本当にありがとう。あの時あんたが来てなかったら聖王の槍も取り戻せなかったし、こうして工房が復活することもなかったよ」
「ノーラさん・・・」
「さん、はおよしよ。ノーラでいい。またいつでもおいでよ。マスカレイド程じゃないけどさ、あんたにぴったりの武具はいつでも何度でも、あたしが仕立ててあげる」
「えぇ・・・ありがとう、ノーラ。また必ず寄らせてもらうわ」

 抱擁の後にしっかりと二人は握手を交わし、お土産代わりにと昼食用のサンドイッチが入ったバスケットを持たされる。

「昨夜ご挨拶はさせていただきましたが、ミューズ様とシャール様にも、改めてどうぞよろしくお伝えください」

 残念ながら公務の関係でこの場にはいない二人のことを思いモニカが言うと、それにもトーマスがしっかりと頷いた。

「おーい、そろそろ出港だってよー」

 乗船用の登り台から身を乗り出してモニカ達に声をかけてきたのは、ポールだ。そしてその背後には、キャンディの姿もある。

「キャンディ、あんたがいないと帳簿の整理が詰まっちまうんだから、早めに帰ってきとくれよ!」
「分かってるよ親方!」

 ノーラが大きく手を振りながら声をかけると、合わせるようにぱたぱたとオーバーサイズの袖を振りながらキャンディが応える。
 ポールとキャンディの二人はカンパニーとしての所用などもあって、モニカらと共にロアーヌへ向かう予定だ。
 ポールの声かけに伴い、モニカは名残惜しげにトーマスらを見渡してから最後にもう一度深々と一礼をし、そしてゆっくり船へと向かっていく。
 それに続いてカタリナ、ユリアン、そしてその後ろに控えていたフェアリーも続いていった。
 その様子を、口を真一文字に結びながらじっと眺めていたトーマスは、やがて船へと乗り込む渡し板が外され錨が上げられ、船が港湾を離れるまでずっと、同じ表情のまま見送っていた。
 対照的にその場では笑顔での見送りをしていたノーラが、徐々に離れていく船を見ながらふと真顔になり、そして遂には眉間に皺を寄せる。

「・・・自分たちの国を救ってくれた英雄たちの見送りだってのに、王宮の連中は誰一人来やしない。それどころか邪魔モノ扱いだなんてさ・・・本当にあたしらの国はどうかしてるって思っちまうよ」

 忌々しげにそうつぶやいたノーラの隣で、トーマスは手癖で眼鏡の位置を直し、瞳を細める。

「・・・そうですね。事情があるとはいえ、釈然としない気持ちになるのは俺も同じです」

 二人の表情を曇らせているのは、まさに目の前で行われていたモニカの慌ただしい帰郷劇の内情であった。

「世間的には死亡したとされていたモニカ様の生存が公式に知れ渡り、且つメッサーナ王国へ助力を提案するロアーヌ侯国大使という便宜上の役割も終わった以上、モニカ様については一刻も早い今後の対策が必要ですからね・・・」

 およそ一年ほど前、ツヴァイク公爵子息との婚儀のためにモニカを乗せた船がツヴァイクへ向かう途上、魔物に襲われて沈没した。
 これによりモニカ姫は船もろとも海中に没し、その短い人生を終えた。
 これが、つい最近までのモニカに対する世間的な認知であった。
 だが真実は異なり、モニカは辛うじて生きていた。
 この時点でモニカに示された道は二つ。過去の自分と決別し、人知れず生きていくか。若しくは真実を公表し、元の立場に戻るか。
 ユリアンという生涯を誓い合うパートナーを得たモニカは、一度は母国を捨て彼と共に生きることも考えた。しかし彼女はやはり王者の資質を引き継いだ、英雄の子孫だ。結局は、己の幸福のみに甘んじていられる気質ではなかった。
 それゆえモニカの生存はトーマスを通じ秘密裏にミカエルにも共有され、それ以降は公的な復帰の機会を窺うこととなったのだ。
 そして訪れたのが、此度のピドナ瘴気蔓延に端を発する、急遽のアラケス討伐という難事。
 アビスリーグ事件から立ち直りつつあるピドナへの被害を最小限に抑えるべく、カタリナら人類最強戦力の早期投入による可及的速やかな制圧の実行。且つ、この機にメッサーナ王国に対して数ヶ月前の物資援助の借りも返せる、ロアーヌ侯国的最適解で物事を進めていく。
 これらを実現するにあたり、本件がモニカの表舞台復帰も兼ねる絶好の機会であろうとミカエルは判断した。
 数ヶ月前、四魔貴族ビューネイ率いる魔物郡と交戦、危機的状態にあったロアーヌ軍へルートヴィッヒが支援物資を送ったことへの返礼。そこでルートヴィッヒが一筋縄ではいかない要望を行なってくるであろうことは、考えるまでもなく分かっていた。
 それを牽制しつつアラケスによる世界的被害も抑えるならば、カタリナの戦力を返礼として一時提供することが最も効果的であったし、そのための対ルートヴィッヒ折衝という大役も、侯爵の妹であるモニカならば格式としてなんら問題はない。
 そしてなによりも。
 モニカの復帰とはつまり、かのロード・ツヴァイク、即ちツヴァイク公爵子息との婚儀・・・これを無視してまで生存の事実を伏す必要があったとツヴァイク公国に納得させる事情を、なんとしても成立させねばならなかった。
 これは国家間勢力バランス的には、相応の難事だ。
 十分な大義名分と共に証明できる、正に千載一遇の機会でなければならないだろう。

「モニカ様が伝説の八つの光の一人であり、それを聖王家との連携により知り得て魔物共から保護したのが、メッサーナの名族たるクラウディウス家のミューズ様だった・・・。その筋書きだからこそ、最後の四魔貴族であるアラケスとの対決までは余計な危険に巻き込まれぬよう伏して隠匿した点にも、国際的なバランスが取れる。そこまでが、俺たちの想定です」

 メッサーナ王国に次ぐ大国であり、自軍の強化にも余念がないツヴァイク公国。彼の国に事情を黙認させるための筋書きが、トーマスの言う想定だ。
 トーマスの言う通りにクラウディウス家とロアーヌ侯家が示し合わせれば自動的に、ミューズを陣営に引き入れたメッサーナ近衛軍団もこれに同調せざるを得ない。
 そうしてメッサーナまで巻き込めばこそ、ツヴァイク公国も事情に一定の配慮をせざるを得ず、必要以上の政治的駆け引きが出来なくなる、というわけだ。
 こうして今に至るまでの事情については、一定の解決が見込めていた。
 だがそれはあくまで、アビスの脅威という強力な楔があってのこと。
 それが消え去り隠匿すべき事情も解消されれば、メッサーナとしては自国内でモニカを庇護し続ける理由はない。
 むしろ国内にいられるだけで、ツヴァイクにいらぬ因縁をつけられる口実となりかねない。つまり、政争要因となってしまうのだ。
 となれば後のことは、自国内でやって欲しい。つまり、一刻も早くロアーヌへ帰国願いたいと考えるのが自然だった。
 事実、アラケス討伐を知らせた翌日には態々ルートヴィッヒの署名まで付けて、送迎用に要人専用キャラック船を手配させる旨の書状が使者からハンス邸に届いた。
 即刻お帰りいただきたい、という明確な意思表示だろう。
 こうした事情により、モニカは必要最低限の準備だけを終えて早々に帰国することとなったのであった。

「我々フルブライトとしては、カタリナカンパニーと改めて同盟を組んだ上で、今最も勢いのある国家であるロアーヌに大々的に進出するいい機会でもある。なので、悪いことばかりでもないけれどね。それに世界は間違いなく、君たちが齎した平和に歓喜しているんだ。我々もそれに倣い、このような展開もいい方向に捉えていくしかないだろう」
「・・・・・・そう、ですね」

 フルブライト二十三世の言葉に、トーマスはまるで自分に言い聞かせるように呟きながら浅く頷く。
 世界全体は、確かにこれから三百年、気兼ねなく前に進むことが出来るのだろう。
 世界中がそれを素直に受け入れ歓喜しているのも、もちろん知っている。
 だが、しかし。

(・・・この平和を喜ぶ・・・俺が・・・?)

 ゆっくりとした仕草で眼鏡の位置を直すように手を添えながら少し俯き、すっと目を閉じる。
 すると今も鮮明に、二週間前のあの光景が、瞼の裏にありありと映し出されるのだ。

「・・・・・・・・・冗談じゃない・・・。俺は必ず・・・助ける」

 閉じた時と同じようにゆっくりと目を開き、沖合に出てかなり小さくなった船影へと視線を向ける。
 トーマスは無意識に両の拳をぎゅっと握り締め、風にかき消されるような小さな声で、そう呟いていた。

 

 

 モニカ一行を乗せたキャラック船が、ヨルド海をロアーヌ領ミュルスへ向けて出航したのと同刻。
 それより一足早く同海をツヴァイク公国へ向け出航していたキャラベル船の甲板上に、どの船員よりも我が物顔で艦首に立ち波を見つめる男の姿があった。

「んー確かにこのヨルド海っつーのは、温海や西太洋と勝手が違うな。この波風じゃあ、西より小型で縦帆メインの方が有利だってのも頷けるぜ」

 南国人特有の艶がある黒髪を潮風に揺れるに任せながら、ブラックは全身で航海を堪能していた。
 彼が十年ほど前に主だって活動していた海域と異なる、四つの内海の中で最も奥まった海域であるヨルド海。
 ロアーヌ地方やポドールイ地方を結ぶ航路となるこの海は、外海である西太洋から最も離れた内陸側に位置している。そのためか、海風や波の調子が他の海と異なり航行難易度が高く、また沿岸部では座礁などの危険性も大きい海域だ。
 そのため大型船舶よりも中型以下の船体が海域との相性も良く、帆も横帆ではなく小回りのきく縦帆が好まれる。

「あの・・・お客さん、あんまその辺に立たれてると」
「あぁ!?海の上で俺に指図すんじゃねぇ!!!」

 明らかに堅気ではない様子のブラックに対して懸命に話しかけた船員に向かい、ブラックは理不尽極まりない一喝をする。
 慌てて逃げていく船員の背を不機嫌そうに睨みつけたブラックは、再び海風を満喫するように船首へと向きを戻した。

「ちょっと、あんまり騒ぎとか起こさないでよね」
「あぁ!?」

 背後から掛けられた声にブラックがまたしても不機嫌そうに応じると、今度は全く彼の恫喝にも怯む様子のない人影が、お構いなしに近くまで歩み寄ってきた。

「なんだ、エレンか。お前はこの波でも全然酔わないんだな」
「まぁね。このくらいの揺れとかは全然平気」

 エレンが腰に手を当てながらそう言うと、その後ろから長身の男も近づいてくる。
 いつも通り腰にカムシーンをぶら下げたハリードであった。

「斧は得物に合わせた重心の移動が重要だからな。体幹や平衡感覚が鍛えられるから、こういう時にも役立つんだろう」
「はん、俺様と同じ斧を扱うなんつーおっかねぇ女は趣味じゃねぇな」
「奇遇ね、あたしもあんたは全然趣味じゃないから安心して」

 ブラックの軽口にエレンが軽妙な返しをすると、ブラックは満更でもない様子でニヤリと笑いながらエレン達に向き直る。

「ふん、そういやお前の趣味は、長身黒髪の砂漠の民だったな?」
「・・・うっさいわね。ほっときなさいよ」

 何があったのかは知らないが、半年ほど前にピドナを飛び出していき、その後二週間前に一緒に帰ってきたかと思えば。
 どうもこの二人、距離感が以前と違う。
 実はブラックという男、そういうところに異様な察しの良さを発揮するのであった。
 とはいえ、恐らくこの二人の関係の変化はブラックでなくとも分かったことだろう。
 二週間前に突然帰ってきたかと思えばそのまま魔王殿に向かった後、エレンは強烈な瘴気中毒による昏睡状態で、ハリードによってハンス邸に担ぎ込まれてきた。
 なんでも魔王の斧を使用した代償らしく、エレンが魔王の斧と共にハンス邸から持っていった聖王遺物である栄光の杖の加護がなければ、命そのものが危なかったそうだ。
 そうしてエレンはミューズによる天術の治療魔術を受けながら三日三晩ほど意識が戻らぬまま寝込んでいたわけだが、その間、彼女の元を離れず献身的に世話をしていたのが、誰あろうハリードだったのである。
 普段の彼を思うと非常に意外な光景だとも思えたが、その様子を見ていたシャールが呟いたことを、ブラックは印象深く覚えている。
 曰く「守護する対象を定めた者は、ああなるものだ」だそうだ。
 ブラックにはそういう対象がいたことはないし今後も予定はないが、そういう理由で船を降りる団員を彼は何度か見送ってきた。だからなのか、存外すんなりと理解することはできる。

「別にいいじゃねえか。惚れたやつが近くにいるってのは、悪いもんじゃねえんだろう?」

 それははたして、どちらに投げかけた言葉なのか。
 ハリードもエレンもお互いをちらりと見たかと思うと、満更でもなさそうな顔でうっすらと笑みを浮かべ、すぐ元の表情に戻る。
 あぁ、やだやだ。こんな感じのナチュラルな惚気オーラを浴びながら暫く行動を共にすることになるのかと思うと、気が滅入るというものだ。

「ったく・・・見てるだけで腹一杯だぜ。なぁお前もそう思うだろ、ロビン」

 エレン達の少し後方、右舷側甲板の縁にへばり付いている瀕死のロビンへと、ブラックが声をかける。
 もう吐き出すものがないのか、時折口から胃液をぽたぽたと海面に滴らせながらぐったりしていたロビンは、無言で右手だけ上げてブラックの声に反応した。残念ながら、喋れる状態ではないようだ。

「・・・こいつはツヴァイクに着くまでダメそうだな。そうするとあと話し相手になりそうなのは・・・」

 そう言いながらブラックは、ぐるりと甲板を見渡す。
 するとその視界の端、甲板の後方に、線の細い人影を見出す。

「あの辛気臭せぇガキだけか・・・」

 一人甲板の後方に立ち海面を眺めているのは、見慣れない衣服を纏った少年。
 二週間前のあの日、魔王殿から帰ってきた五人の中の一人。カタリナ、トーマス、ハリード、エレンと、そしてあの見慣れぬ衣服に身を包んだ、謎の少年。
 少年は、自分のことをテレーズと名乗った。なんでも、サラが少年にそう名付けたのだそうだ。
 常に下を向き、陰気で口数少なく、やっと喋ったかと思えば口から出てくるのは辛気臭い言葉ばかり。率直に言って、ブラックが最も嫌いなタイプの人種だ。

「・・・けっ、楽しい旅になりそうだぜ」

 手癖なのかガリガリと耳の後ろあたりを掻きながら、ブラックはもう一度、広大なヨルド海へと半眼で視線を投げかけた。

 

 

 ピドナを出航してから五日ほどで、モニカらを乗せた船は無事にミュルス港へ入港した。
 カタリナとしては実に一年半ぶりに訪れたミュルスだが、なんだか以前訪れた時よりも活気があるようにも感じられる。
 いや、それはあの時の自分が周りを確りと見られておらず、今になってちゃんと見たからそう思うだけなのかもしれない。なにしろあの時は、自らの不手際で奪われてしまったマスカレイドを取り戻すため、殆ど当てもなくこの街を彷徨っていただけなのだから。

「それじゃあ俺とキャンディは、すこしばかりミュルスに滞在してからロアーヌへ向かうよ。まぁ、この先はいよいよ立場が違うから会える保証もないだろうけどな。とにかく、道中気をつけてな」

 ミュルスの東門からロアーヌへ向け侯族専用の馬車に乗り込むモニカ、カタリナ、ユリアン、フェアリーを見送るように、ポールとキャンディが手を振る。

「いいえ、必ずロアーヌ宮殿を訪ねてくださいませ。お二人のことは、しっかり城の者に話しておきますわ」

 モニカはそう言いながら少し寂しげに微笑むと、トーマスらの時と同じく一礼し、馬車に乗り込んだ。

「・・・ユリアン、この先結構大変だと思うけどさ、がんばれよな」
「・・・あぁ。お前も元気でな、ポール。キャンディも、またな」
「うん、またねー」

 年も近かったからか色々と気が合ったらしいユリアンとポールは、互いに固く握手を交わしながら短い別れの言葉を送り合う。
 そしてユリアンも馬車に乗り込んだあと、ポールはカタリナに向かい合った。

「カタリナさんよ・・・あんたとは妙な縁だったが、いよいよここでお別れなんだな」
「そうね・・・カンパニーの方は、トーマスと共によろしく頼むわ。ただし、まだまだ未熟なんだから剣の鍛錬も怠らないこと。あと、忙しくても折を見てキドラントには定期的に帰ること。ニーナちゃんをあまり寂しがらせてはダメよ」
「おいおい、お袋かっての・・・まぁ、分かってるよ。もう昔の俺じゃないつもりだ。しっかりやるさ」

 そう言いながら差し出されたポールの右手を、カタリナはしっかりと握り返す。
 小煩く言ったが、こうして一年以上もさまざまな旅を共にしてきたこの男ならば、きっとこれからも上手くやれることだろう。少なくとも自分よりは器用に立ち回れるだろうな、という確信もある。

「フェアリー、ウチ絶対いつか妖精の里行くからね」
「はい、キャンディさんが来る時は、新しい妖精の里を案内しますね」

 いつの間にか目端に大粒の涙を浮かべ、キャンディがフェアリーの手を両手で握りながら語りかけている。
 フェアリーが何歳なのかなどは聞いたこともないが、確かに二人は見た目の年頃は似ている。というか、フェアリーの方が幼く見えるくらいだ。なのでキャンディにとってフェアリーは、歳の近い友人というイメージだったのだろう。別れを惜しむのも頷けるというものだ。

「それじゃあ、二人とも元気でね」

 短く別れを告げ、カタリナとフェアリーも馬車に乗り込む。
 そして間も無く馬車は、ロアーヌへ向けて走り始めた。急ぎ便であればロアーヌとミュルス間は日中いっぱいを使って駆け抜けることも可能だが、それは流石に乗客にも負荷がかかる。なので今回は、途中に宿場を挟んで明日の午後にロアーヌに着く予定だ。

「・・・本当に、寂しくなりますわね」
「モニカ・・・」

 長く美しい睫毛が儚げに揺らめき、それに合わせて艶やかな金色の横髪が顔にかかる。それを気にしない様子で少し俯きながら呟いたモニカに、隣のユリアンがそっと彼女の手を握ってやった。
 この一年半ほどの間には、本当にいろんなことがあった。
 それはカタリナにしてもそうだが、他の面々にしてもそうだったはずだ。
 皆に多くの苦難があり、それと同じく多くの出会いもあり、とても短い言葉では言い表すことができないような、沢山の事を経験してきた。
 特にモニカはその立場ゆえに他者とは異なる心労があったことも想像に難くなく、更にはこの先にも幾つかの困難が待ち受けているのが目に見えている。
 だから尚のこと、束の間の楽しかった日々が強く思い出されるのだろう。
 カタリナは自分も彼女に長く仕えた家臣の一人として、これからもその支えにならなければいけないと心を新たにする。例え、関わり方がどのような形に変わろうとも。
 それからは馬車の中で殆ど会話らしい会話もなく、馬車はかつて世界を救った英雄の一人が先陣を切って駆けたとされるミュルスロアーヌ間を結ぶメイン街道、フェルディナント街道をゆっくりと進んでいった。

(・・・・・・私は、これからどうするべきなのだろう)

 馬車の外に流れる風景をぼんやりと眺めながら、カタリナはふと、そんなことを思う。
 これはミュルスへ向かう船の中から、いや、そのもっと前から考えていたことであった。
 王家の指輪を受け取ってから始まった八つの光としての使命は、四魔貴族を打ち倒したことで果たされたはずだ。そして、それを成したら聖剣マスカレイドを返上するとミカエルに約束したのだから、まずはそれをする。それは、既に決まっていることだ。
 だが、その先はどうするべきなのだろうか。
 まず以て、もう旅に出る前の状況に戻れないのは明らかだ。これは、旅の途中にも何度か思いを馳せたことでもある。
 そもそも彼女が最も長く側に仕えた主人たるモニカは、ユリアンと生涯を共にするという固い決意を秘めて帰国の途についている。つまりこの先、彼女の最も近くにいるべきはそもそも自分ではなく、彼なのだ。
 もちろん、そう易々と事が運ぶとは考えてはいない。侯族たるモニカと開拓民であるユリアンでは、あまりにも身分が異なる。
 それこそ、平民出身の母を持つミカエルやモニカが幼い頃に苦しめられてきた境遇以上の過酷さが、そこには待ち構えていることだろう。
 故にミカエルがそのまま許すことは、まず考えられない。
 だが仮にミカエルが認めなかったとしても、モニカはもうそれに従うことはないだろう。彼女は今も誰より兄を敬愛しているが、しかしそれだけが彼女の心の拠り所ではなくなったのもまた、事実なのだから。
 そしてきっと、ミカエルもまたモニカの意思を今なら何らかの形で尊重するような気もしていた。
 旅に出る前に比べれば、カタリナにも少しは世界のこと、経済のこと、国家のことなどが見えるようになったから尚の事、そう考えるのかもしれない。
 確かに一年半前のあの時、モニカをツヴァイクへ嫁がせるという判断は、彼女の身の安全にとって最も良い選択だったのだろうと思う。その上で国家間の勢力バランスにも悪影響の出ない、状況的に最善と思わせる采配だ。
 きっとモニカもその意図が分かっていたから、悩み、涙し、それでも最後は承諾したのだろう。
 だが、時と共に状況は変わった。
 この一年半だけでもロアーヌの国力は急激に増大し、魔物の活動が沈静化していくであろう今後は、更なる躍進が確実視される。
 その勢いに当然ながらツヴァイクを含めた諸国は危機感を抱き様々な形でロアーヌへと関わってくるであろうが、今の国力とナジュ地方へ跨る流通網を得たミカエルの外交手腕ならば、さしたる問題にはならないだろう。
 つまり、ツヴァイクに対しても過度に下手に出る必要はもうないのだ。
 となればモニカという人格をむざむざ不幸に誘う選択肢を、ミカエルが取るはずはない。カタリナにはそんな、根拠のない確信があった。

(二人のことに関しては、私も微力ながら口添えはさせていただこう・・・)

 それはかつて、ピドナのパブ・ヴィンサントでユリアンにも約束したことだ。モニカの幸せを願う気持ちならば、ミカエルにだって負けないつもりではいる。

(・・・だけど、私自身は・・・)

 自分のこととなると、また話は別だった。
 ロアーヌ侯国にとってカタリナ=ラウランという元侍女にして騎士は、建国時から伝わる国宝を一時紛失させた罪人でもある。通常ならば、相応の処罰をされるのが妥当であろう。

(そりゃあ言い渡されれば斬首だろうと受け入れる覚悟だけれど・・・ミカエル様はお優しいから、それをしないだろうことも薄々分かってる。それに八つの光という聖王教会における最上級の特性を考慮すれば、私には相応の利用価値もあるわ・・・だからこそミカエル様がお示しになられる道に従い、これからも剣としてロアーヌに尽くせるのならば。それは何も迷うことなんてない、とても幸福なこと・・・)

 そう、迷うようなことではない。
 だというのに、彼女は何よりまず最初に、こう思ったのだ。
 自分はこれからどうするべきなのであろうか、と。
 世界には、三百年の平和が訪れた。我々はそれを喜びとともに受け入れ、其々が前を向いていかなければならない。
 そのはずなのに、彼女の中には、とても大きなしこりがある。
 そしてその原因も、実のところ凡その目星はついていた。

『あたしはサラを探す。生きてるなら必ず探し出して、絶対に連れ戻す』

 二週間前、あの決戦から数日後。
 ハンス邸でそう言い放ったエレンの言葉には一切の淀みがなく、他の全てを犠牲してでもそれを成し遂げるという強い決意がそこにあった。
 例えそれが全世界から非難される行為であっても、彼女にはそんなことは一切関係ないのだ。ただ彼女がそうするべきと確信したから、行動するだけ。
 その強い意思と言葉を前に、カタリナは何も言うことができなかった。

(私には、あんな言葉を紡ぐことは出来ない・・・私は、ロアーヌの剣なのだから・・・)

 八つの光としての使命を果たした今、これからは改めて一人の騎士として、誠心誠意ロアーヌ侯国に仕える。それが自分の、正しく行うべきこと。

(なのに・・・なぜ私は、今も迷っているのだろう・・・)

 

 

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第八章・10 -竜騎士-

 

 タフターン山とロアーヌの間に敷かれた、長大なるロアーヌ騎士団の防衛拠点。ここに駐屯するロアーヌ軍を取り巻く戦況情勢は、直近のある時を境に一変した。
 第一の転機は、年明け早々にメッサーナ王国からの支援物資が拠点に届いた時点である。
 大量の戦線支援物資と同時に届けられた書簡によれば、これはメッサーナ王国近衛軍団長ルートヴィッヒをはじめとした諸侯とその同盟国の代表が年末にピドナ王宮にて行うコングレス(ロアーヌ侯国は今回は戦時につき欠席した)によって全会一致で採択された結果だという。
 これを即座に受け入れる決断をしたミカエルからの補足によると、この採択の背景には六年前に没落したはずのメッサーナ名族であるクラウディウス家が一枚噛んでいるとの事だった。
 また、本物資の輸送作業を実質的に担ったのは近衛軍団直下の輸送隊ではなく、ピドナに本社を置く「カタリナカンパニー」という企業であることも付記されていた。
 現地拠点の総指揮を務めるブラッドレー将軍は、これらを確認後、即座に物資の分配を開始。
 兵力の補填こそなかったものの豊富に揃った食糧や武器防具、崩れた砦の修繕用材木などを用い、兵の士気を保ちながら強固な防衛ラインを敷き直し、崩れかけていた魔物との戦闘情勢を持ち直しにかかった。
 そしてこれより更に数日の後、第二の転機が訪れた。
 その日、突如として明らかに魔物の攻勢が急速に弱まったことを、前線の兵士たちは計らずも一斉に肌感で察知した。
 それまでは軍として纏まっていた魔物たちは、まるで唐突に知性を失ったかのように疎らな侵攻を行うようになったのだ。隊列や種族ごとの編成などの概念も消え失せ、只々闘争本能に従い個別に襲い掛かるばかりとなったのである。
 当然これは、この戦で殊更に屈強さを増した歴戦のロアーヌ騎士団によって、全く危なげもなく各個撃破されていった。

 そして、魔物の攻勢が鈍化した更に翌日。
 油断しないまでも明らかな希望を見出しつつ警邏についていた物見の兵から、敵軍襲来を知らせる警鐘が鳴り響いた。
 しかも、それは昨日のような鈍化した攻勢などではなかった。
 平時ならば魔物の動静が鈍化するはずの日中に、あろう事か巨大な竜が一頭、突如として防衛戦線上に姿を現したのである。
 その姿は遠目からでも分かるほどの見事な巨躯であり、歴戦のロアーヌ騎士たちはその竜が間違いなく巨龍種であろうということを即座に見抜いた。

「馬鹿な、何故このタイミングで巨龍種なんて・・・!」

 防衛隊の先陣を担うコリンズ将軍は愛用の騎兵槍を強く握り締めながら、苦々しそうに呻く。
 小型、中型種の魔物を対象とした戦闘経験は、ロアーヌ騎士団は他国の追随を許さぬほどに積んでいる。だが大型種ともなると、話は全く別だ。
 そもそも大型種に分類される魔物は、極端にその個体数が少ない。
 人類の生活圏に近い場所での生息も、まずしていない。
 巨人種、デーモン種、巨龍種など、その存在が認識されているもの自体も非常に少ない。主にその存在が見られるのは、語り継がれる伝説や童話の中ばかりだ。
 それがまさか人類生活圏の近いこの戦線に降り立とうなどと、騎士団の誰もが全く予想だにしていなかった。

「広く半円状に歩兵を展開後、中央と左右の要所に騎馬隊を配置。分散突撃し、巨龍種が用いるとされる殲滅砲への対策とする。空中に飛ばれたら手の打ちようがない。地上にいる間に可能な限り損傷を加え、相手が退くのを狙うしかあるまい」

 自らも兜を深く被り、自らの直線上に座する竜を高台から睨みながらブラッドレーが口早に作戦を発すると、それに伴い各部隊を率いる将は持ち場に着くべくその場を駆け出した。

「俺は正面を担当する。必ず一撃、見舞ってみせる」
「・・・頼む、コリンズ。お互い死線ばかり潜るが、必ず生きてまた会おう」
「応よ」

 互いに短くそう言い合い、コリンズは己の愛馬に跨り、迷いなく隊列の先頭へと向かう。
 激動の一年の間に起こった数多の戦で打ち立てた輝かしい戦績から、ロアーヌ騎士団でも最強との噂が立つ「速攻のコリンズ」率いる第一騎馬隊。
 その最強の名を持つ騎馬隊の面々は、誰一人とて怯えた様子もなく、この一大局面の先頭を牽引せんとし真正面から竜へと相対した。

(・・・こりゃあ、リブロフの砦で神王教団相手にした時くらいやべえ感じだ。あの時は詩人さんが助けてくれたが、今回はそういうわけにも行かんだろう。果たして俺の槍が、あのデカブツに届くかどうか・・・やるしかねぇな・・・!)

 コリンズは可動式の面頬をカシャリと落とし、バイザー越しに竜を睨む。
 これまでの人生の回想をしているほどの時間的余裕は、ない。
 標的が飛ぶ前に何としても一撃を加え、退かせる。
 よし、と小さく呟いたコリンズは、突撃のラッパを吹かせるべく右手に持つ槍を高らかに掲げんとした。
 だが、彼がそれをする直前に、直線上に在る竜の異変にふと気が付いた。
 竜は、自らの周囲を囲む騎士団などまるで気にしていないかのように寝そべるような体制を取ったのだ。
 まるっきり、交戦意思がない有様である。
 それだけならば寧ろ好機であるとも取れるが、更に奇妙なことに、その竜の元から、一人の人影が真っ直ぐに此方へと歩いてくるではないか。
 その不思議な光景を凝視していたコリンズは、やがてその抜群に優れた視力で以って、その人物が何者であるのかを誰よりも早く見抜いてみせた。

「・・・おいおい、マジかよ・・・もう何が何だかわからねーな・・・」

 コリンズは呆れ返ったような表情をしつつ、周囲の騎兵に待機の指示を出して馬から降り、面頬を上げて兜を脱ぐ。
 そしてそのまま小脇に兜を抱えたままで待つ彼に気付いて正面から小走りに歩み寄ってきたのは、ロアーヌ騎士団が誇る紅一点にして自軍最強の騎士との誉高い、カタリナ=ラウランであった。

「・・・最近は一気に人間離れしてきたと思っていたが、まさかお前、ついに竜まで従えたってのか?」

 声が届く距離までお互いが近づくと、コリンズはすっかり緊張が解けてしまった様子で肩を竦めながら話しかけた。

「そんなわけないでしょ。あの竜は、ルーブのグゥエイン。四魔貴族ビューネイを討伐するために、協力してもらったの」

 コリンズの相変わらずの軽口に、思わずうっすらと笑みを浮かべながらカタリナが答える。

「いやそれ簡単に言うけどな・・・。っつかビューネイ・・・矢張りお前が討伐に動いていたか。ここの戦線も、突然襲撃が緩くなった。ということはつまり、やったのか」
「ええ、ビューネイは討伐したわ。その事を伝えにここに来たの。直ぐにミカエル様にもお伝えして頂戴」

 カタリナのその言葉を聞き、コリンズは肩に担いでいた槍をゆっくりと降ろしてから地面に刺し、大きく長く、息を吐く。
 それは、二ヶ月あまりにも及んだこの防衛戦線の終結を意味する所作でもあった。

「・・・騎兵隊から司令部へ通達!目の前の竜に交戦意思なし!及び、我が軍の騎士カタリナによる魔龍公ビューネイの討伐完了を確認、と!!」

 コリンズが半身を翻しながら後ろに控えていた部下にそう指示を飛ばすと、騎兵は一瞬の躊躇いの後に指令を受諾し、急ぎ馬を走らせていった。

「・・・やっぱお前はすげえよ、カタリナ。先ずはこの場を代表して礼を言わせてくれ。本当にありがとう」
「いいえ、私はロアーヌ騎士としての役目を果たしたまで。寧ろ私こそ、ここで魔物を食い止め切ってくれた貴方達を心から誇りに思うわ。我らがロアーヌを守ってくれて・・・本当にありがとう」

 そう言いながら二人ともが突き出した拳を軽くぶつけ合うと、自然と周囲からは歓声が湧き上がった。
 その歓声は瞬く間に波打つようにしながら防衛戦線を担う兵士全体に広がり、その場の全員が、この戦いの終焉を確信したのだった。

「奥にブラッドレー達もいる。行こうぜ。ミカエル様には一緒にご報告していくだろ?」

 そう言いながらコリンズがカタリナを誘うと、しかしカタリナはゆっくりと首を横に振った。

「いえ、私は一度、グゥエインと共にルーブへ戻るわ。そこに待たせている仲間もいるの。ミカエル様へのご報告は、任せていいかしら」

 カタリナのその言葉にコリンズはとても残念そうな表情を浮かべるが、かと言って引き止めることはしない。今の彼女の行動を此方の意思でどうにかできるなどと、コリンズは全く考えつきもしないからだ。

「そうか・・・残念だが、お前がそういうのならば仕方ないな」
「ええ。それと、タフターン山の頂上へ調査隊を派遣して頂戴。私が見た限りは山頂を覆っていた霧も完全に晴れ、ビューネイの根城も露わになっているわ。奥には、火術要塞と同じくゲートの存在も確認出来ている。教授やヨハンネスさんが動ければ、それが一番いいとは思うけれど」

 カタリナの言葉に確と頷いたコリンズは、手配を約束して二言三言を最後に交わし、互いに背を向けて別れた。
 そのまま竜の元へと小走りに戻っていくカタリナを背中越しに見送ったコリンズは、ふぅと一息つきながら、軽く空を見上げる。

「・・・こりゃもう実力ってか器そのものが離れすぎてて、流石にもう一回告るとか、無理そうじゃねーか・・・?」

 過去数度の挑戦失敗にも挫けなかったロアーヌ騎士団切っての成長株コリンズであったが、流石の彼をしても、挑まんとする壁の高さには苦笑を浮かべるしかなく、ぽりぽりと頭を掻くのであった。

 

 

 ロアーヌ防衛戦線へ勝利の報を届けてから三日の後、カタリナはグゥエインと共にルーブ山のグゥエインの住処へと舞い戻ってきた。
 瀕死の重傷を負っていたグゥエインの体を労りながらではあったが、それでも三日で地図のほとんど端から端まで移動できてしまうことには、改めて驚きを禁じ得ない。

「お二方とも、お帰りなさい!」

 グゥエインの財宝の間のすぐ近くの穴から降り立ったグゥエインとカタリナを見るや否や、その場にいたフェアリーが文字通り飛び上がりながら二人を出迎えた。

「ただいま、フェアリー」

 グゥエインの背から降り立ちフェアリーとハイタッチをしながら、カタリナは微笑みかける。
 その笑顔が示す意味を理解していたフェアリーは、キラキラと光る瞳の奥から溢れる好奇心を全く隠そうともせずに、カタリナの手を引くようにしながら問いかけた。

「ビューネイ討伐、本当にお疲れ様です!ロアーヌもこれで安泰ですね!して、ビューネイはどのような姿だったんですか!?空中では、どのような戦いだったんですか!?」

 矢継ぎ早の質問に対してカタリナは目の前の好奇心旺盛な妖精を落ち着かせるように「まぁまぁ」と言いながら、先ずはここまでの飛行をしてくれたグゥエインに感謝を述べるべく、振り返った。
 ビューネイから受けたグゥエインの傷は、途中寄った人里や偶然見つけた行商人などから買った傷薬を用い、ある程度は癒すことができている。だが、元の傷がかなり深かったこともあり、まだまだ完全な状態とは言い難かった。

「改めてグゥエインも、本当にお疲れ様。伝説に違わぬ戦ぶりだったわ」
『ふん、ビューネイの影など、相手にもならなかったな』

 怪我の度合いからしたら全くそのようには思わないが、それでも強がって見せるグゥエインの言葉には思わず苦笑しつつも微笑ましく思い、カタリナはそうね、と相槌を打つ。
 そのあとは暫く、予備の傷薬と共に入手しておいた食料を摘みつつ、ビューネイとの戦いの詳細を聞きたがる前のめりのフェアリーにカタリナとグゥエインが交互に応えながら、束の間の穏やかなひと時を過ごした。
 思い返すと、熾烈を極めたフォルネウスとの戦いから、まだひと月少々しか経っていないのだ。短期間の間にこうも命を削るような戦いを繰り返してきたということもあり、流石のカタリナも己の戦果を労う思いで、一際穏やかな気持ちで二人(?)と会話を重ねた。
 フォルネウス、ビューネイとも直接その場には居合わせなかったものの、フェアリーには様々な局面で大きく助けられていた。
 全ての生物と意思を交わすという妖精族の特殊な能力に頼らなければ、全くこれらの偉業を成し遂げることは出来なかったであろう。その分、フェアリーの質問攻めには夜通し全力で付き合ってあげるつもりだ。
 それに今回共に戦ったグゥエインは、全く予想していないほどに高潔な意思を持った戦友となった。
 種族の垣根を越え、カタリナはこの竜を真の友として心から認めていた。そしてそれは恐らくグゥエインもそう感じてくれているのであろうことが、確かに彼女にも感じられる。
 フェアリーを交えながら会話を繰り広げる中で、彼の竜が紡ぐ言葉の端々から、それが彼女にも伝わってくるのだ。命運を共にした者同士だけが恐らく感じられるであろう、互いを尊敬する想い。それが確かに、竜と人との間に出来ていたのである。
 魔龍公との戦いからその後のタフターン山の根城の様子など、三者の会話は夜更けまで途切れることなく続いた。

 

 そしてそのまま一夜が明けた、明朝。
 鮮やかに差し込む朝日に揺り起こされるようにして目が覚めたカタリナは、財宝の敷き詰まった寝床で静かに佇みながら此方を見下ろしているグゥエインの視線に気が付き、何かあるのかと視線で問いかけた。

『母は、どのような気持ちだったのだろうな』
「・・・?」

 紡がれたその言葉の意味を測りかねて首を傾げるカタリナに、しかしグゥエインは全く構わない様子で淡々と続けた。

『我はお前と会うまで、この背に人を乗せて闘おうなどとは、微塵も考えていなかった。それは恐らく、母も同じ考えであっただろう。だが母は聖王と出会い、聖王を背に乗せて闘った。我も今ならば、母がそのように思い直したこと、よく理解できる』

 グゥエインが何かを訴えかけたいと考えていることを察したカタリナは、立ち上がってグゥエインに向き直った。
 グゥエインは、続けた。

『だが、母は竜であり、聖王は人であった。それは我々も、変わらぬこと』

 グゥエインの真珠のように白い瞳は、変わらずカタリナを真っ直ぐに見つめている。その瞳は、どこか悲哀を交わらせた色のようにカタリナには思えた。

『我は、これから人を喰らいに行く』
「ちょ・・・いきなり何で!?」

 唐突なグゥエインの言葉に、カタリナは驚きを隠さずに声を上げた。

『知れたこと。戦で失った英気を養うには、蹂躙こそが至高。竜とは、そういうものだ』
「・・・・・・」

 決して、冗談を言っているわけではない。それは、カタリナにも分かった。
 竜という生物がどのような文化や常識を持ち、動くのかなど分からない。だがグゥエインの言葉には一切の偽りの様子はなく、きっとグゥエインからすれば、人を喰らうというのは正に竜たるが故に当然の行動なのであろうとも思える。
 この竜は、間違いなくこれから人を喰らうつもりなのだ。
 だが、それをそのまま良しとすることは、人間である彼女にはできないことでもあった。

『肉を食らい宝を奪うは竜なるが故の宿命。だからこそ母と聖王は対立し、その果てに母は、聖王によって殺された。お前とて、人を喰らう竜を許してはならぬのが貴様らの道理であるということは、分かっているはずだ』

 グゥエインの言葉は、全くその通りであるとカタリナにも理解できる。
 竜と人の関係性は、三百年の昔から、何一つとして変わってはいないのだ。
 それは、分かっている。
 それでも、このグゥエインという竜と出会ってからの、この一週間程度の短い時間。
 その中でカタリナは目の前の竜が持つ高潔な意思に尊敬の念を抱き、また竜からも自分という人間を認めた上で戰を共にしてくれたのだという確かな感覚が伝わってきていた。
 彼女はそれに、どこか甘い見通しを抱いてしまっていたのかも知れない。
 だがその感覚とは、矢張りドーラと聖王が嘗て抱いたものと同じであって、それはしかし竜と人という間柄を改変するようなものでは、ないというのか。

『だから、思うのだ。母は此の期に及び、どのような気持ちであったのだろうか、と』
「グゥエイン・・・」

 竜と人の精神がどのように触れ合い、又、どのように触れ合うことがないのか。そんな難しいことは、カタリナには全くわからない。それはきっと、グゥエインにしてもそうであるのだろう。
 だが数百年の昔、既に答えの出ているその問いかけであろうというのに、それでもグゥエインは考え、彼女に語っている。

『母は、聖王を疎み、憎しんだのであろうか。我は、今に至ってはそう思わぬ。母は恐らく今の我と同じように人への見方を変化させた。ただ、竜であるが故に、その宿命に従ったまでなのだ。それが今は、よく分かる。我が母は、偉大な竜であった』
「・・・では、他に何が分からないのだというの・・・?」

 カタリナが問いかけた。
 グゥエインは最初に、母がどのような気持ちであったのか、と問いかけてきた。だが今の言葉には、竜なるが故の宿命という、過去から続く絶対の正解しかない。
 グゥエインは、何か別の思考を内包しているのではないか。そのように思ったのだ。

『・・・宿命の、その先だ。我は宿命に従った母の最後を知っている。母は聖王の手によって殺された。その時、母は何と思ったのだろう。逆の場合があったとしてもだ。母が聖王を喰らい、今もなお生き続けていたとしたら、その時、母は何と思っていたのだろうか』

 宿命の、その先。そんなことは、至らなければ誰にも分からないのではないか。
 カタリナは素直にそう思った。
 何もそれは、竜と人だけではない。
 それ以外の様々な生物と、人。または、人同士や、それ以外の生物同士。それらの中にもいくつもの宿命というものが世界の凡ゆる生物にはあって、それらの行く先を否応なく決定付けている。
 当然ながらそれは今に始まったことではなく、過去から繰り返され続け、そしてこれから先も繰り返されていくものなのだろう。
 そのような絶対たる宿命を前にして、宿命のその後を思うことに、意味はあるのだろうか。
 だが、この竜はそれでも考えているのだ。

『宿命により、為すべき答えは出ている。しかし、その宿命を目の前にして、我と母は別の存在だ。我が思うことと母が思うこともまた、別なのであろう。今になって、ふとそれが気になってな』

 そう言い終わると、グゥエインは鈍色の表皮の内にある真紅の翼を広げ、力強く四肢で立ち上がった。

『確かめようではないか』
「・・・。ええ、分かったわ」

 竜と人間、所詮はこうなる定め。
 そんなことは、頭の片隅では既に分かっていた事。元より、場合によっては最初からそうなる覚悟でここに来たことも確かだ。
 無論それは目の前の竜も考えを同じくしており、その上で今こうして、自分に語りかけてくれているのだろう。
 これは言うなれば当初の想定を大きく逸れて、とても尊い事であった。
 宿命を辿ることを前にしてこうして言葉を交わせた事は、望外の喜びである事に他ならない。間違いなくそう断言できる。
 だが、それでも。
 それでも彼女は、矢張り心の奥底では納得がいかないでいるのだ。
 こうして数奇な運命の導きの上に巡り合い、ほんの一時であったとしても心を通わせた存在同士。それが予め定められたままに、他に為す術もなく、殺し合うしかないという宿命。
 このような理不尽が至極当然のような顔をして蔓延るこの現実に、彼女は強い苛立ちを覚えた。
 宿命というただ一点の理不尽のために、友と殺しあう事。
 これに怒らずして一体、他の何に怒れと言うのだろうか。

「・・・やってやろうじゃないの」

 そう言いながらカタリナはグゥエインを、そしてその先にある宿命とやらを強く睨みつけた。
 そして何故か彼女は即座に踵を返し、ここまで持ってきていた旅の荷物が置かれた壁際へと歩み寄る。
 そこには途中から不穏な気配を察知して二人のことを不安そうに見守っていたフェアリーが居たが、カタリナはそんなフェアリーには曖昧に微笑みかけただけだった。
 しゃがみ込んで荷物の脇においてあったマスカレイドを腰に付け、そして布に包んだ板状のものを荷から取り出し、普段はロングソードを装着している剣帯部分に括り付ける。
 その脇に置いてあった月下美人には手を伸ばす事なく、かなり身軽な状態で再びグゥエインの目の前に戻り、正面に対峙した。
 しかしなんとカタリナは、腰のマスカレイドを抜くことなく、ゆっくりとした動作で両手を軽く横に広げて見せたのである。

『・・・何のつもりだ』

 当然その様子を訝しむグゥエインに対し、カタリナは沸々と体の内側から湧き上がり続ける怒りの感情を隠さないままに睨み返した。

「なんのつもり、じゃないわよスカタン。見ればわかるでしょう。来いって言ってんのよ。大層な御託はいいから、さっさとその宿命とやらに則って、お得意のブレスで私を焼き殺してみせなさい」

 そのあまりの態度の変容ぶりに、グゥエインは虚をつかれた様子で思わず瞳を細めた。

『血迷ったか・・・』

 低く唸りながら、そう呟くグゥエイン。
 しかしまるでそんなことには構う様子もなく、仁王立ちの状態で目前の竜を睨みつけたカタリナは、怒りの感情のままに言葉を続けた。

「血迷ったですって?・・・お生憎様、私は至って正常よ。寧ろそっちこそなによ、さっきまで言っていた御大層なその竜の宿命とやらは、両手広げた仁王立ちの人間は対象外なのかしら。だとしたら随分と都合がいい代物なのね、竜の持つ宿命ってのは!!」

 小気味よく啖呵を切るカタリナ。これにはグゥエインも堪らずふしゅうと色めき立つように口角の端から炎を吹き出し、力を溜め込むように姿勢を低くした。

『・・・吠えよる。よかろう、では望み通りに焼き尽くしてくれる・・・さらばだ、強き人間よ!』

 言い終わると同時にグゥエインは大きく目を見開き、両の翼を大きく広げる。
 大気に溢れる力の元素を翼から取り込むようにしてグゥエインの胴体が内側から淡く光り輝き、竜の体内で純粋な破壊を伴う力へと変革したものが全身を巡り、そして口角へと登っていく。
 口角部から覗く鋭い牙の奥、大きく開け放たれた喉元の中から、溢れんほどの眩い光と共に強烈な雷撃が一直線に放たれた。
 仁王立ちの姿勢からでは全く避ける事も叶わないであろう至近距離からの雷撃一閃は、寸分違わずカタリナを貫いた。
 同時にその威力を証明するかのように強烈な衝撃波が周辺へと広がり、壁際にいたフェアリーは思わず抱えていた荷物ごとごろごろと転がり飛ばされてしまうほどだ。
 視界が塞がれるほどの土煙が巻き上がり、雷撃によって大きく貫かれ崩れた後方の洞窟が崩れる音が遅れて響き渡る。
 そして数秒間に渡り吐き出された一閃が終わり、その直線上にあった地面すらもが焼き爛れ広範囲で抉られた有様が見えるようになってきた頃。
 その雷撃の中心にあったものに、当のグゥエインは正しく目を疑うようにしながら対峙した。

『馬鹿な・・・』

 そこには、先程の仁王立ちの姿のままで何事もなかったかのように佇んでいるカタリナの姿があったのであった。
 カタリナは真っ直ぐにグゥエインを睨みつけたまま軽く咳き込み、舞い上がる土埃を払うように顔の前を掌で仰ぎ、そのまま耳の辺りの髪を何でもないかのように撫で付けた。

「なによ、今の。光る手品を見せろなんて、言った覚えはないわよ」

 カタリナの煽るような台詞に、グゥエインは暫しの沈黙の後、まるで笑うかのように口角を釣り上げ、青い炎を漏らした。

『・・・良いぞ、やるではないか人間!!それでこそ我が背に乗せた者に相応しい!!』

 そう捲し立てながら、グゥエインは歓喜に満ち溢れるかのように後ろ足で立ち上がり、これでもかというほどに翼を広げ、ルーブ山脈中の魔素を集めるようにその身に力を集束させていく。
 一方で竜はあくまでも冷静さを保ったまま、カタリナの周辺をつぶさに観察していた。
 焼け爛れ、未だ紅く明暗する抉り取られた射線上の地面は、どうしたことか彼女の周辺だけなにもなかったかのように残っている。
 何かしらの手段を用いて雷撃を防いだ、という事は確かだろう。
 だが彼女の後ろには再び地面の抉れる様が忽然と続き、その奥の洞窟の大規模な崩落を招いている。
 雷撃は確かにカタリナのいる場所を貫通した、ということだ。となると、まるで彼女の周りだけが何事もなかった、というような状態。非常に奇妙な光景だといえる。

(・・・物理的な防ぎ方ではない。だが、天地六術式に属する結界とも全く様子は異なるように見える・・・)

 体内に集束する力が張り裂けんばかりに稲妻の走りを伴って身体中を駆け巡る中、グゥエインは思考を続けながらカタリナの細部へと観察の目を向ける。

(足元が動いた様子もない。熱量は愚か、それに伴う衝撃波すら相殺しているようだ。これは最早防御というより・・・事象の無効化・・・いや、改変と言ってもいい。だが、それでは大いに不自然だ。あれほどの手段を持っているのならば、何故奴はそれをビューネイとの戦いで用いなかった・・・?)

 これをビューネイとの戦いに用いていたとしたら、戦局は大きく傾いたはずだ。あのように一か八かの決死の行動をせずとも、もっと楽に決着はついたはずである。

(であれば、何らかの制約があるので使わなかった、と見るべきか。確かにこれほどの効果であれば、それは頷ける。彼奴は腰に聖王遺物の剣を持ってはいるが、抜いていない。仮に抜いていないのではなく、抜けないのだ、としたらどうだ。攻撃を行うことができない、という制約。それならばビューネイとの戦闘で使わなかったのは分かる。そして恐らくそれを成し得ているのが・・・)

 グゥエインは、目敏くカタリナの装備の変化を確りと見抜いていた。

(腰に吊るした、あの布に包まれたもの。形状からすれば、盾か。恐らくはあれが、この状態を作り出している。そして何らかの代償を伴う異能の発動は、往々にしてアビスの力が源。となるとあの盾のようなものは・・・大方、魔王遺物といったところか。魔王遺物には、魔王の盾が存在するはずだ。その効果のほどまでは知らぬが、これほどの効果を齎すのであれば相応の品と見るべき。恐らく間違いはなかろう)

 青白くグゥエインの体が光り輝き、竜が蓄える力は正に最高潮に達しようとしていた。
 ビューネイが空を主戦場としたように、グゥエインの最も得意とする戦場は、この根城に他ならない。
 三百年に渡りグゥエインが棲み続けるこの地には主人たる竜の息吹が山岳全体に根付いており、この地でこそグゥエインの雷撃は最も力を発揮する。
 恐らく次の一撃は、先のビューネイの結界をも易々と破るほどの威力を内包しているものとなるだろう。

(アビスの瘴気は、人間には猛毒。しかも力の源が魔王遺物ともなれば、その影響被害は計り知れない。そうか・・・読めたぞ。彼奴、身につけている幾つもの聖王遺物で、それを相殺しておるのか。自らの身体とそれらを全て瘴気の相殺に回すことで盾の効果を引き出しておると見える)

 グゥエインは、再び口角を上げるようにして、その端から炎を溢れさせる。
 その様をカタリナは、冷や汗を垂らすようにしながら見つめていた。

《カタリナさん・・・》

 脳内に、フェアリーの念話が響く。念話であるというのに、その声色がひどく不安げであることが手に取るようにわかるのだから、面白いものだとカタリナは場違いに思った。

《グゥエインさん、魔王の盾の絡繰に気づいています・・・!》
《・・・でしょうね。あいつさっき、笑いやがったわ。気づいた上で、真正面からやるつもりよ》

 三百年の知見は伊達ではない、という事だろう。恐らくは先の防御が魔王の盾の齎す効果である事以外に、自分が何もできない状態であるということまで、見抜かれている様子だとカタリナは判断した。
 全く、この土壇場だというのにとんでも無く頭の回転の早い竜だな、などと呆れ半分に考えながら、しかしカタリナはその上で真正面から挑もうとするグゥエインの狙いが、手に取るように分かっていた。

《別に最初は、そんなつもりじゃなかったけどね。でもこれは、彼奴にとって最も相応しい決着の付け方かもしれないわ・・・》

 そう頭の中で呟きながら、カタリナは額を流れる汗を乱暴に腕で拭った。
 以前にはウンディーネとボルカノの魔術攻撃をこの手法で抑え切った事があるが、その際のこの盾による消耗は非常に大きなものだと感じていた。だが今、先程の雷撃を無効化するために魔王の盾が要求する代償は、既にその時の比ではない程の疲労感を彼女に齎している。
 身に付けている幾つかの聖王遺物の助けがなければ、とうに彼女は力尽きて倒れているだろう。

(・・・これは、我が母を殺した聖王の力との対峙でもある。聖王の時代から幾つも世代を重ね受け継がれてきた人間の力の結実ともいえる我が誇るべき戦友が、更に聖王の力をその身に纏い、我が前に立っているのだ。その力を打ち破り焼き尽くしてこそ、最強の竜であるということの証明に他ならぬ。宿命の先に立つのは、この我である・・・!!)

 内包する雷光によって全身が眩く光り輝くグゥエインは、いよいよその渦巻く力の奔流を解き放つべく、再び力強く四肢で足元の財宝を踏みしめた。
 目の前の相手を焼き尽くすまでは、雷撃を止めるつもりはない。グゥエインは己の存在を賭けて誓っていた。
 力の全てを放出し尽くし己が果てるか、魔王の力の代償に耐えられずカタリナが遺物ごと焼き尽くされるか。
 決着は、二つに一つだ。

「さぁ来なさいよ、グゥエイン!!!」
『ゆくぞ、カタリナよ!!!!』

 直後、その場の全てを覆う眩い閃光が、解き放たれた。
 許容量を大きく超えて溢れる力はグゥエインの身体中から血飛沫と共に吹き出し、だがそれをすらグゥエインは無理矢理に眼前の破壊の集束へと導く。
 天雷の如き轟音と共に放出された全てを焼き尽くさんとする雷光が、グゥエインの眼前の全てを飲み込みながら一直線にルーブ山を貫いた。
 その雷光は先の一撃で崩落を招いていた洞窟を今度こそ跡形もなく消し去り、正しく龍峰ルーブ山を真っ二つに切り裂く光刃となったのである。
 後にその光と衝撃波は天の怒りとも語り継がれ、世界を駆け巡ることとなるほどのものだった。
 その雷光の渦中にあり、カタリナは既に限界を訴え悲鳴をあげる全身を、その研ぎ澄まされた精神力だけでなんとか奮い立たせていた。

(耐えろ、耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ・・・!!!!!!!!)

 食いしばった口の間からはぼたぼたと血が滴り落ち、雷光を無効化せんとし激しく鳴動する魔王の盾は、しかし明らかにその出力を弱めていく。
 無効化の範囲は急速に狭まり、最早彼女の足元まで雷光が迫っている。
 ピシリ、と盾が音を立てた。
 事象の無効化の限界を迎えようとしている魔王の盾が、今にも砕け散ろうとしている音だ。

(耐えろ・・・!・・・私は、こんなところで死んでなどいられない・・・!!!)

 初めに肌が膨大な熱量を感じ、そして衝撃波となる風が彼女の髪を戦がせる。
 そして次には、間も無く砕けんとする魔王の盾の効果範囲を侵すように眩い白と青の閃光が、カタリナを包んでいった。
 盾の限界を察知したカタリナは、咄嗟の判断で腰のマスカレイドを抜き放ち、切っ先を目前へと突き出す。
 そして大きく上段へと構えをとったカタリナは、渾身の叫びと共にマスカレイドを振り下ろした。

「・・・ぉぉぉぉおおおおおおおおおおおお!!!!」

 遂には盾が砕け、事象の無効化を打ち破った雷光がカタリナを飲み込まんとする、その瞬間。
 彼女が振り下ろした聖剣マスカレイドは真紅の閃光を放ち、己を飲み込まんとしていた雷光を、真っ二つに切り裂いた。
 瞬間、巨大な力のぶつかり合いによって起こった爆風が、周囲の全てを吹き飛ばしていく。
 グゥエインの横あたりにまで荷物と共に避難していたフェアリーはそれに巻き込まれて再度後方へ吹き飛ばされ、またカタリナ自身も、爆風に煽られて吹き飛ばされそうになる。
 だが、彼女は残り僅かな力を振り絞り、その場に留まった。
 ここで吹き飛ばされるわけには、いかない。
 何故ならそれが彼女の勝利に他ならないと、彼女は確信していたからだ。
 その確信を、裏付けるかの如く。
 強烈な爆風の収束と共に、ルーブを切り裂いた雷光は、その終わりを迎えた。

「・・・・・・」

 巻き上がる大量の土煙と共に、粉々に砕けた魔王の盾の残骸がカタリナの足元へと落ちていく。
 彼女が身に付けていた外套は肩口から焼け落ち、両の腕を覆っていた小手や衣服も吹き飛ばされていた。
 だがそんなことには構わずに真紅の大剣となったマスカレイドの切先を地面に置いたカタリナは、徐々に落ち着いていく土煙の奥に居るであろうグゥエインを、ただ真っ直ぐに見つめていた。
 彼女の視線の先には、神域に迫らんとするほどの雷光を放ったグゥエインが、その持てる力を全て使い果たしたことを示すように、ぼろぼろと鈍色の表皮が崩れ落ちるままに佇んでいた。

『・・・見事だ』

 断続的に体から吹き出す流血を物ともせず、グゥエインはとても静かな調子で、そう言った。
 そしてその言葉と共に、竜の四肢はその体を支えることすら出来なくなり、ズシンと重い音を立てて財宝の上に倒れ伏す。
 カタリナはマスカレイドを地面に突き刺し、自らの全身の激痛を無理矢理に抑え込むようにしながら、グゥエインの元へふらつきつつも駆け寄って行った。

『・・・母の気持ちが、漸く判った』

 目の前に屈み込み竜の鼻先に手を当てるカタリナを認識し、グゥエインはひどく穏やかな声色で続ける。

『・・・滅びゆく定めならば、せめて友の腕の中で・・・。きっと母はこの時、そう思ったのだ』

 生命の輝きが今にも途絶えんとしているその瞳を、カタリナはじっと見つめていた。
 その様子が見えているのか否かも分からないが、グゥエインが今とても穏やかな気持ちであるのだということは伝わってくる。

『お前も、人間にしては中々だったぞ。聖王のように・・・』

 その言葉と共に、グゥエインはゆっくりと目を瞑る。
 そして、穏やかに眠るようにして、動かなくなった。

「・・・・・・」

 カタリナは竜のその言葉を聞いてから、直ぐ様自分の体に鞭打つようにして、立ち上がる。
 そして眼下に横たわるグゥエインを一瞥すると、未だ収まらぬ憤りと共に呟いた。

「・・・何、自分勝手なことばっか言ってんのよ・・・!」

 

 

 雷光によって一切の遮るものがなくなり、溢れんばかりの陽光がその場に満ちていた。
 陽光はあちらこちらに散らばる金銀の財宝に当たることで、更に方々へきらきらと光を反射している。
 全く冬を思わせぬその暖かい陽光に包まれながら、ゆっくりと竜は意識を覚醒させ、瞳を開いた。

『・・・・・・』

 何故、自分は瞳を開いたのか。
 それが、まず竜には分からなかった。
 自らの宿命に相対し、その宿命に従い自らの生命を終えた。
 それが、竜の持つ最後の記憶だった。
 だというのに、どうして再び、こうして自分は瞳を開いているのだというか。
 グゥエインは殆ど動く様子を見せぬ自らの身体の様子を簡潔に理解すると、痛くしんどそうに頭だけを少し上げ、自らの周囲へと視線を向けた。
 己の持つ渾身の力によって大部分が吹き飛ばされた、哀れな棲家の跡。
 もうすっかり熱が冷めた様子の、焼け爛れ黒ずんだ地面の痕跡。
 何やら自らの周囲に幾つも乱雑に転がる空の薬瓶と、どうやらその薬を幾重にも振り撒かれたらしく薬品の匂いがつんと鼻につく、自らの身体。
 そしてその脇で小さな火を焚いて囲んでいる、見覚えある二つの影。
 それが意味することを遅まきながら理解したグゥエインは、火の横に座るカタリナへと目を向けた。

「・・・やっと起きたわね」
『・・・何のつもりだ』

 何事もなかったかのように声をかけてきたカタリナに対し、グゥエインはあまり穏やかではない怒気を孕んだ声でそう言った。
 これは、明らかに宿命を貶める愚行である。
 そのようなものを許すほど誇りなき軟弱な思考を、グゥエインという竜は持ち合わせてなどいない。
 出来ることならば同時に威嚇の姿勢でもしてやるべきところなのだが、しかし生憎と体はそこまで自由に動いてくれる様子はない。

「・・・なんのつもり、じゃないわよ。貴方ね、自分だけ分かった風で勝手に終わるとか、自己中過ぎるわ。私は、そんなこと許した覚えはないのよ」

 大概こちらも辛そうにしながらゆっくりと立ち上がり、カタリナはグゥエインの目と鼻の先まで歩み寄る。

「貴方が聞いてきたのでしょう。宿命の先に何を思うのか、と。それは貴方だけの問いではなく、私の問いでもあるの。そしてね、私はそれにはこう答えるつもりなのよ。そんなの・・・くそったれだ、ってね」

 育ちの割にはあまりに汚い言葉を使うカタリナに、グゥエインは思わず閉口するような思いで、未だ相手の意図が理解できずに見つめ返した。

「全く何かある毎に宿命宿命宿命って・・・一体この世界の住民は、どんだけ宿命マニアなのよ。生憎と私はね、欠片も気に入らない宿命を『はいそうですか』って受け入れられるほど、寛容な人間ではないの。だから、それに抗おうとしているだけ」
『馬鹿な・・・そのようなことで竜たる我が宿命をも愚弄すガッッ!!??』

 激昂し声を上げたグゥエインの頭部を、なんとカタリナは握りしめた拳で思い切り殴り飛ばした。
 表皮の鱗が二、三枚飛び散るほどの威力で殴られたグゥエインは言葉を遮られ、そして殴ったカタリナの拳もまた、硬質な鱗によって切れたのか血が流れ出す。

「負けたくせに、一丁前に意見述べてんじゃないわよ。制された者は、制した者に従う。それこそが対峙した二者の間にある、ただ一つの不問律よ」

 なんとも理不尽な物言いだが、しかしそんな屁理屈ではこの事態を到底納得することなど出来ない。
 そう考えたグゥエインは、再び睨みつけるようにカタリナを見た。

『それでも抗えぬ宿命は、ある。我らはその理の中で生きているに過ぎぬのだ』
「・・・生憎私は、それが本当に抗えぬ宿命なのかどうかをこの目で確かめるまで、納得なんてする気はないわ。だから」

 まだ利用していない薬瓶を足元から拾い、その中身を手の甲に垂らしながら、カタリナは言った。

「だから、一緒に来なさい、グゥエイン」
『・・・何を・・・何を世迷い言を・・・。そもそも竜と人とでは何もかもが違・・・』
「違わないわよ」

 相手の言葉を遮るようにはっきりと言いながら、カタリナは薬瓶の残りを、今しがた自分で殴り飛ばしたグゥエインの頭部に乱暴に振りかけた。
 それは瞬く間に魔術的効能を伴って竜の傷口に染み込み、そこに癒しを齎していく。

「・・・ほら、こうして私にも貴方にも傷薬、ちゃんと効くじゃない。それに貴方と私は何方も目は二つで鼻と口は一つだし、手足も四本で一緒。まぁ図体の大きさとか翼の有無とか細かい違いあはあるけれど・・・何より、この世界に住まい、この世界が強いる宿命とやらに翻弄される存在であるという意味では、何も変わらないわ」

 言っていることは、あまりに大雑把で無茶苦茶だ。
 無茶苦茶でしかないのだが、しかし己の命運を握られたグゥエインには、反論する材料がない。

「私は、気に入らないことには抗う主義なのよ。確かに世の中には多くの不条理が蔓延り、それに従わざるを得ない人々もこの目で見てきたわ。でもね、だからって自分も無条件でそれに身を委ねるなんてのは、真っ平ごめんなの。この身に不条理な宿命が降りかかるというのであれば、それを真っ向から斬り伏せに征く」

 およそ騎士らしからぬその言動に、グゥエインは最早呆れを通り越して諦めの境地に達しようとしながらカタリナを見つめた。
 その視線を受け、カタリナは真っ直ぐに見返しながら続けた。

「だから貴方も、暫く付き合いなさい。無論、私に負けたんだから異論は認めないわよ」

 両の手を腰に当てがい、仁王立ちで言い切る。
 グゥエインはその言葉には只々呆れるばかりで、よもや人と竜とはこうまで精神構造が違うものなのか、と思ったものだった。
 だが、それこそが人の進化というものであるのかもしれない、とも考える。
 竜とは違いこの三百年で何世代にも渡って歩みを連ね、そして、この世界の宿命をすら超えようとするもの。
 それが、人間という生物なのかもしれない。
 そう考え直したグゥエインは、ゆっくりと瞬きをした後、静かに首を垂れた。
 その行動が意味するところを理解したカタリナは、その鼻先にゆっくりと手を置き、不敵に微笑んでみせる。

「安心なさい。ロアーヌ軍はばっちり三食昼寝付き。そんな悲観するほど悪い待遇じゃあないわ」

 後の世に数多の吟遊詩人が競って歌い上げたという、パウルスの予言に導かれし八つの光の英雄譚の中でも、屈指の人気を誇る語り詩。
 この世界で、後にも先にも唯一人となる、竜騎士の誕生。
 これが、その瞬間であった。

 

 

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第八章・5 -夢語りのシェヘラザーデ-

 

 松明の明かりを頼りに長い階段状の岩肌を慎重に降りていった先には、自然の洞窟とは思えぬ程、いかにも不自然に何者かによって踏み整えられたような平らな足場が広がっていた。そしてその足場に立つと同時に、酷く焼けつくように肌に纏わりついていた空気が一気に重苦しさを増していくのを、カタリナは確かに感じていた。

(・・・この重圧、まるで四魔貴族に相対するかのよう。これが世界に名高い竜の気配か・・・)

 最早この奥にグゥエインがいるであろうことは明白であり、カタリナは空間が思いの外広々としており動き易さがあることに胸を撫で下ろしながら、いざという時のための算段を頭の中にいつくか思い浮かべつつ、気配の濃くなっていく方へと進む。
 すると程なくして、これまでは松明の明かり以外に全く頼るもののなかった暗黒の視界の中に、ふと煌く光の筋がいくつか見えてきた。

「・・・奥に、何かあるわ」
「・・・そのようですね」

 小声でフェアリーと囁きあいながら慎重に光の方へと進んでいくと、やがてその光の正体は、洞窟の天井に空いた穴から差し込む陽光に照らされた大量の貴金属だということが分かった。
 そして同時に、その後ろに『在る』ものへと強制的に視線が移る。
 そこには、煌びやかに輝く膨大な量の貴金属類にて積み上げられた小高い丘の上に、陽光を浴びながら四肢で鎮座し首をもたげてカタリナ達を見つめる、一頭の雄々しき巨龍の姿が在った。
 ある種の神々しさすら纏ったその姿を、カタリナは固唾を飲みながら視界に収める。
 竜の外皮部分は如何にも頑強そうな鈍色の鱗に覆われているが、首筋から腹部へと向かう部分は仄かに燃える炎の色をしている。
 その全身はカタリナの優に数倍はあろうと思われる大きさであるものの、しかし鈍重な印象は一切受けられない。寧ろ外皮の色彩と相まって、その姿は一振りの鋭利にして巨大な剣を思わせるようだった。
 そんな感想を抱きながらカタリナが竜を見ていると、ほんの一瞬、互いに視線が交わる。
 すると竜は、まるで来訪者たちを歓迎するかのようにその両翼を大きく開いて後ろ立ちになり、そのままゆっくりとカタリナを真正面に据えるように姿勢を変えて座り直してみせた。
 広げてみれば外皮とは全く異なる美しい深紅の翼が織りなす竜の姿は、まさかこの存在が世間に忌み嫌われる悪竜であろうことなど全く信じられないかのように神々しくすら思われ、またその姿でどうしようもなく追憶の念にも駆られ、カタリナは暫しその姿に意識を奪われたのだった。
 すると言葉を紡げずにいたカタリナの前にフェアリーが先ず飛び出し、竜の頭部の真正面まで飛び上がりながら、竜へと語りかけるように見つめる。元々の予定通り、先ずはフェアリーから念話での意思疎通を図ろうとしたのだ。
 だがその行動に反応した竜は、フェアリーの言葉をかき消すように、大きく鼻息を吐いた。

『良い。人語は交わせる』

 陽光に照らされるその外皮を僅かに震わせ、竜の声が空間に響く。その声は想像していたよりも若く精力旺盛なようにも聞こえ、また老成した賢人のようにも聞こえる。人では出すことができぬであろう、不思議な声色だった。

「・・・ここまで導いてくれたのは、やっぱり貴方だったんですね」

 竜の言葉を受けて頷いたフェアリーが声を上げると、竜はそれに答えるようにして視線を細めた。

『人間だけで来ていたのならば、単に『帰れ』としか言わなかっただろうがな。我が住処に妖精族の来訪など、三百年生きてきた中でも初めての経験だ。こんな機会を逃す手はあるまい』

 竜はちらりとカタリナへ視線を投げかけると、フェアリーへと向き直ってそう言った。
 その様子からカタリナは、どうにも自分が殆ど相手にされていない様子であるを察して大変に不服に感じる。が、しかしてそんな事もあろうかとフェアリーに同行してもらったのは矢張り己の賢い選択であったと思い直した。更には相手が人語を解し操ることができることは正に僥倖であると判断し、カタリナも負けじと一歩前に出る。

「私はロアーヌの騎士、カタリナ=ラウランと申します。貴方が・・・ドーラの子グゥエイン、ですね」
『・・・如何にも。我が母はドーラであり、我こそがグゥエインだ。人間よ、妖精族を連れ、一体ここに何をしに来た。まさかその矮小な体一つでこのグゥエインを討伐し、我が財宝を奪いにでも来たか?』

 まるでせせら嗤うかのように口角を震わせながら、グゥエインが言葉を発する。その言葉と共にグゥエインから発せられる圧が目に見えるように上昇し、思わず体が勝手に臨戦体勢に移行しようとする。それを理性で懸命に抑え付け、カタリナは首を横に振って見せた。

「いいえ、そのような用件ではありません。私は、かつて聖王様が辿ってきたであろう道を歩み、貴方と話をする為にここまで来ました」
『・・・聖王。我が母を滅せし者の道を辿ってきたとなれば、矢張り我を滅しに来たということではないのか?』
「わた・・・!・・・いえ、聖王様は・・・決して望んでドーラを滅したわけではありません。ただ・・・今はそのような話をしに来たわけでも、ありません」

 不意に訪れた大きな感情の揺らぎに、思わずカタリナは眉間を摘むようにして頭を押さえる。今までにないほどの記憶の混濁に軽い目眩を覚えながらも、それを振り払うように軽く頭を振ってからカタリナはグゥエインへと向き直った。

「・・・私は今世界に再び訪れている未曾有の危機に対し、この世界に住む者同士として此れを共に乗り越えたいと願い、ここに馳せ参じました」

 言葉と共に自らに敵意がないことを示すかのように両手を広げて見せ、カタリナはグゥエインを見上げながら続ける。

「確かに聖王様は、貴方の母を討ちました。故に私達人間を憎む気持ちがあろうことは、理解しています。そしてまた我々人間も、数多の同胞を貴方に喰いちぎられました。故に我々の中にも貴方を忌む者がいるのも事実です。ですが・・・それでも今この時に於いては、四魔貴族という共通の敵を討ち果たす為、我々は今一度手を取り合う事が出来るのではないかと、私は信じています。どうか、貴方の言葉をお聞かせ願えませんか」

 カタリナの口上を静かに聞いていたグゥエインは、まるで何事もなかったかのように翼の付け根部分を口先で掻き、そしてカタリナに向き直った。

『・・・アビスゲートは開き始めているが、魔貴族自身が通り抜けてくるには小さすぎる。それで奴らは、おのれの影をこの世界に送りこんできている。宿命の子を見つけだし、ゲートを完全に開くつもりだ。そうなれば、ゲートを閉じることは出来なくなる。今のうちということだ』

 グゥエインの語る言葉にカタリナとフェアリーが目を瞬いていると、グゥエインはまるで人が笑うのと同じような仕草で口元を歪め、火炎混じりの息を薄っすらと吐き出した。

『・・・確かに、母ドーラは聖王と共にビューネイを倒した。そして最後には聖王に殺された。人間とは勝手なものだ。だが、それを我は特にどうとも思わぬ。竜と人とは、予めそういう宿命であると我は解している』

 グゥエインが淡々とそう語るのを聴きながら、カタリナは何故だか胸が強く締め付けられるような想いに駆られるのを感じていた。それは果たして聖王の記憶が齎す感情であるのか、それとも自分の心からくるものなのか。その判別は、彼女にはつかない。
 竜は語りを続けた。

『我は四魔貴族共がアビスゲートを開こうとも、貴様ら人間が憎しみに駆られ我を討伐しに来ようとも、何れも一向に構わぬのだ。それもまた、その者たちが持つ宿命なれば。だが・・・この世界の空に君臨するべきは、誇り高き我ら竜。ビューネイが我が物顔でこの空を飛び回るのはガマンならん。協力してやってもいいぞ』

 グゥエインのその言葉にカタリナが目を見開きながら一歩歩み出ようとするが、しかしグゥエインはそれを羽ばたく風圧で制した。

『協力はしてやってもいい。が・・・其れには先ず、貴様が我の協力者足り得るのか、その実力を試させてもらおう』

 ただそれだけ言うと、徐にグゥエインは足元の金貨を撒き散らすように力強く四肢で立ち、その圧倒的な力を示さんが如くカタリナを視線で射抜いた。
 その姿をみたカタリナは、むしろ好都合とばかりにふっと笑みを浮かべたかと思うと、ここまで抱えてきていた荷を脇に下ろして聖剣マスカレイドを抜き放つ。そして隣まで下がってきたフェアリーに控えているように伝えると、グゥエインに正面から対峙した。

「戦うつもりで来たわけではないけれど・・・貴方がそう言うのならば、示さぬ訳にはいかないでしょうね。私が貴方と共に戦うのに相応しいか、判断を願うわ」

 

 

 世界中が新たなる年の幕開けを間近に控えたその日、メッサーナ王国首都ピドナの新市街を見下ろすピドナ王宮内部にて開かれた各国要人を招いての年次会議は、ここ数年で最も波乱を予感させる様相を見せたのであった。
 この会議終了直後には瞬く間に様々な情報筋を通じて世界中に会議の様子が広まっていったのだが、何しろその内容というのは、まさに近年のメッサーナ界隈の政治的な均衡を一気に崩しかねない程のものとなった。
 歴史上三度目の死蝕直後に、現在までで最後のメッサーナ王となるアルバート王が崩御し、そこから十年を超えて今も続いている王国の内乱。その中で、旧アルバート王の系譜にて最大派閥であり五年前にルートヴィッヒ軍に破れる形で没落したはずのクラウディウス家。そのクラウディウス家がなんとこの度、宮廷内の中央政権に復帰するという事実が会議の冒頭で大々的に示されたのだ。
 しかもその当主には、今現在で最も市井の支持を一身に集めている、前近衛軍団長クレメンス=クラウディウスの一人娘であるミューズ=クラウディア=クラウディウスが立つことも同時に会議内で発表された。
 とはいえ、ここまでの内容は遅かれ早かれあり得ることであろうとは、既に世論の一部では囁かれ始めてもいた。
 その背景には、直近でのルートヴィッヒ政権の急激な求心力の低下がある。
 元より武力侵攻を発端とした血生臭い政変によって誕生したルートヴィッヒ政権は、リブロフ以外の殆どの各都市軍団長からその存在を受け入れられてはいなかった。しかしピドナの実効支配直後から彼が行ってきた中央集権を強固とするための様々な駆け引きや政策に他軍団長は個別に対抗する術を持たず、かといって横の繋がりも希薄な彼らは結局のところ、この五年間真綿で首を絞められ続けてきたのだ。
 それが、数ヶ月前に起こった神王教団ピドナ支部崩壊事件を発端とするルートヴィッヒ政権への不信感の上昇で、急に風向きが変わった。
 奇しくもこの事件の半年ほど前から、ピドナの名門メッサーナベント家が出資し旧クラウディウス商会所属の企業群を母体とした「カタリナカンパニー」の経済界台頭が大きく世界に報じられており、大規模な商いを行う貴族の間では事件による現政権への不信感の上昇と相まって、クラウディウスの系列が何かしらの形で復活するのではないか、とは実しやかに囁かれていたのであった。
 そして二月ほど前に起きた商都ヤーマスでのドフォーレ商会壊滅事件にて、いよいよ満を持してクラウディウス家の直系ミューズが大々的に事件解決の立役者として表舞台に立ち、これも瞬く間に世界に報じられた。
 これによりクラウディウスの復活を望む世論は、一気に過熱膨張していったのだ。
 故にクラウディウス家の政界復帰ということ自体は、ある意味で世間が望んだ通りの展開であるとも言える。
 問題なのは、復帰と共に示された今後の動きについてだった。
 曰く。

『クラウディウス家はルートヴィッヒ軍団長と歩みを共にし、今世界に訪れようとしている危機にメッサーナの総力を上げ立ち向かう所存』

 このように、会議で発表が為されたのである。
 これには各国の要人等も大きく驚愕した。これでは、まんまとクラウディウスがルートヴィッヒに飲み込まれただけの形になってしまったからだ。
 世論が待ち望んだ革命は為されず、ルートヴィッヒ一強体制が更に強化されるだけだと言うことになる。
 誰もが、そう感じた。
 だがこの事態を一層混迷極めさせる内容が、クラウディウス復活に伴っての具体的な今後の活動についてだった。
 先ず告知されたのは、復帰に伴う旧クラウディウス家領地の返還と、そして故クレメンス卿の名誉復活を意図としたであろう記念碑の市内建築。ここ迄は単にクラウディウスに気を回したかのような内容だったが、その後に行われた宮廷の活動方針説明を中心的に語ったのは、なんとルートヴィッヒではなく、ミューズだった。
 彼女の口から発表されたのは、現在ピドナの東方に位置する同盟国家ロアーヌ侯国にて展開されている、推定四魔貴族軍とロアーヌ軍の戦線への経済的支援の即時実施だった。
 これは現在の国際世論にとって最も取り扱いの難しい話題であり、迂闊にこれに触ることは一国の立場ですら、ある種のタブーであるというような空気感で扱われていた。
 なにしろ昨今のアビス勢力による蹂躙は、世界の予測を超えて多岐にわたり大きな被害をもたらしているのだ。そんな話題に対し今世間で最も求心力のあるミューズが力強く宣言した内容は、正に「アビス勢力への徹底抗戦」であった。
 この宣言には、大きな響めきが会議全体を支配した。
 そして次には、ミューズに対する抗議の声でその場は溢れかえったのだ。
 世界最大の王国メッサーナがアビスへの交戦意思を見せるとなれば、これに対するアビスからの報復は文字通り全世界に波及するとして間違いないだろう。そのような世界が確実に流血を伴う決議を正式なコングレスなく突如として宣言した新参のミューズに対し、その場に参加していた面々は当然のように声を荒げた。
 だが、その直後に発せられたミューズの言葉に、その場の全員は押し黙らざるを得なかった。

「認識してください。既に、この世界はアビスによる攻撃に晒されています。これは最早、他人事ではないのです。例えば私が立ち会ったドフォーレの事件は、魔物が既に都市部の人々の暮らしにまで入り込んでいた証拠に他なりません。また、ロアーヌが狙われたのは現戦線が初めてではなく、年始にあったゴドウィンの変自体がアビスの手のものが黒幕となり、裏で糸を引いていたものでした。更に言うならば、ピドナにて春先に起きた『予兆』。これこそ皆様も聞き及んでいるはずです。私はこの予兆に、間近で立ち会いました。その時に現れた悍ましきアビスの魔物は、四魔貴族の復活を明確に示唆しました。そして先月・・・ついに本格的な魔貴族の侵攻が、西の都市、バンガードで起こったのです」

 そうしてミューズがその場に出したのは、魔術師が写したと思しき一枚の写真だった。
 そこには、大地が強引に引き裂かれたかのような様相で険しく切り立った崖と、その先の海面に浮かぶ巨大なバンガードの全景が映し出されていた。
 陸続きのバンガードしか知らぬ彼らの常識の中には一切ない、まるで天変地異でも起こったかのような異様な光景を映し出すその写真を見て大いに響めく面々を前に、ミューズは再度声を張り上げた。

「私には、勝算があります。既に聞き及んでいる方も中にはいるかも知れませんが、四魔貴族のうち、二柱をアビスへと追い返すことに我々は成功しています。バンガードを襲った魔海侯フォルネウスの討伐には、私も同行しました。この写真は、その時に起動した聖王様の作りし伝説の移動要塞バンガードのものです。そして今、魔貴族の二柱をその手で退けた英傑が、ロアーヌ南東のタフターンに巣食うとされる魔龍公ビューネイの討伐に向かっています。ロアーヌの戦線は、それが成し遂げられるまで持たせればいいのです。またロアーヌの復興を迅速に補助することで、我々には一切の隙なしとアビスに知らしめ、二次被害の拡大を防ぐこともできます。既に戦は、始まっているのです。いつどの国が巻き込まれても、おかしくないのです。ならば一刻も早く終わらせねば、被害は拡大するだけ。どうか各国の英知と勇気の、一致団結を」

 その会議に集まった参加者の一人は、後にこの時のミューズの姿についてこう語ったという。

『他の参加者に比べ年端も行かぬ娘でしかないはずのミューズ殿だが、しかし皆を導かんと力強く声を上げるその姿は、はっきりと往年のクレメンス卿を感じさせた。その場の誰もが彼女の言葉に耳を傾けその言葉を受け入れたのは、決して後ろに控えていたルートヴィッヒ卿の影響というだけではないだろう』

 彼の言葉の示した通りに、ミューズの力強い言葉を以ってその場の全員の意思は固まった。魔物の被害は既に各国間の流通にも大きく被害を与えており、遅かれ早かれ手を打たねば国が衰退することは誰もが感じていたところではあったのだ。
 この後は、大まかな今後の行動計画が示された。まず今回の作戦で実際に物資の収集や運搬等の実務を行うのはカタリナカンパニーが中心となって担い、財源や物資は近衛軍団が主に現在備蓄から提供する。なのでこの場に集まった各国代表には、これに関わるオーダーがあった際の優先的な物資融資をお願いしたい、という程度に留められ、それには反対するものはいなかった。
 そして、ここで殊更大きく世間を驚かせたのは、その財源や物資の出どころと共に、カタリナカンパニーがその存在感を大きく世界に知らしめた要因でもある『フルブライト商会同盟』の破棄をその場で宣言した事だった。
 ここに関してはカンパニーを代表して会議に出席していたトーマス=ベント副社長が議中で言及しており、世界経済の一致団結をする上で最も合理的な選択が取引の限定化を招く同盟からの独立であり、これにより同盟に囚われない多方面との連携や取引が可能となる、とのことだった。
 また同盟の破棄により特段カンパニーがピドナ王宮と密接につながる訳ではない、との見解も同時に示した。これは、どこか一部との密接な関わりこそが経済の停滞を招くのだ、というトーマスの主張を殊更に強調させる格好となった。
 更には同様の事態が今後も起こることを想定し各国各地からの多方向即時支援を可能とするため、来期に施行予定であった鉄鋼類への特定品目追徴拡大(作者注:第四章参照)の無期限見送り・・・つまり、実質的な廃止が発表された。
 この知らせには主に各地の軍団長が大いに響めき、そして大いに歓迎した。近年において最も各国軍が殺気立っていた主たる原因となる制度の施政破棄が示されたことで、殊更軍団長等はこの結果を導いたミューズに称賛を送り、勇み喜んでの協力を申し出ることとなる。

 例年であればこの会議以降は連日の宴が催されるのが通例であるものの、今回に至っては世界的な有事とのことで、不安を与えぬよう市街地でのみ通常開催とし宮廷内では明日以降の宴席は控えるように通達がなされ、本会議は解散となった。
 即座に会議での内容を行動に移すとし他国参加者に先んじて一人慌ただしくその場を後にしたトーマスは、そのまま誰と接触することもなく真っ直ぐに早足で宮廷を後にした。
 そして丁度入り口の門を潜り出たところで、衛兵と世間話をするようにしながらその場に待っていたポールと合流する。
 そしてそのまま何気ない様子で会話を交わしながら少し離れて衛兵と距離を取ったところで、トーマスは視線を鋭くしてポールに語りかける。

「・・・参加者は事前情報通り、十七人だ。名簿通りだね」
「了解。んじゃあこっちはこっちで始めるとしますかね」
「ああ、頼むよ。俺もロアーヌへの諸々支援手続きが終わったら直ぐそちらに合流する」
「畏まり。それまでに何かしらは掴んでおきますぜ、副社長」

 短く、互いにそれだけの会話を交わす。するとポールは曲がり角を曲がって衛兵から姿が見えなくなったところで、するりと路地裏に姿を消してしまった。
 それを横目に見届けたトーマスは、ふと立ち止まって宮廷の方へと振り返る。
 宮廷内に残ったミューズと護衛のシャールは、これから各国要人らと軽く懇親会が催されるのでそれに参加する予定だ。流石に一介の商売人でしかない自分がその場に居合わせるわけにも行かないので、そこでの首尾は彼女に任せるしかない。
 だが、先ほどの会議での発言の様子を見ている限り、問題はないだろうとトーマスは踏んでいた。

(年の始め頃に旧市街でお会いした時は病弱さも手伝い、まさに『深窓の令嬢』といった様子だったが・・・。この一年で彼女も、五年・・・いや、六年前の呪縛から解き放たれ、その身に背負った宿命と向き合うことで急激な成長を促されたようだ。おじいさまの言いつけがこれで果たされたのかはまだ決まったわけではないだろうが、一先ず心配はないようだな。まぁ、とは言え相手はあのルートヴィッヒ軍団長だ・・・あの方はどうも、計り知れないほどの何かを感じる。油断はせずにいかないとな・・・)

 一頻り物思いに耽った後、トーマスは気を取り直して商業地区へと姿勢を向け、深呼吸をする。この後は、彼も寝る間も惜しんで各種物資の調達計画と即実行へ向けた調整を行わなければならない。相応の気合を入れねば、対処できない物量だろう。

「さて、集中しないとな。ここからまた暫くは慌ただしくなりそうだ」

 そう自分を奮い立たせるように言い聞かせると、急ぎ足で歩き始めた。

 

 

 温暖な気候のトゥイク半島東岸に位置し、南西に広がる密林からもたらされる豊かな実りや南東のナジュ砂漠との交易を中心に栄える、交易都市リブロフ。
 多彩な気候特性からなる様々な特産品と共に西のウィルミントンにも負けず劣らず芸術文化発信地としての顔も持つこの都市では、今や世界三大商家にも数えられるラザイエフ商会を筆頭に様々な企業が集まり、またピドナのルートヴィッヒ軍団長とも比較的良好な関係値を築く事で堅実な成長を遂げていた。

(・・・全く、ここは相変わらず呑気なものだな)

 実に十年近くぶりにこの都市の土を踏んだハリードは、自身の記憶にある十年前と殆ど変わらずの豊かな街並みを『呑気』と表現しつつ、どこか冷めた目で見回していた。

(ここも、本当はあまり来たくない場所だったがなぁ・・・)

 そんな事を自身こそ呑気に思いながら、とても見覚えのある道を歩く。
 リブロフの港に降り立ったと思えば早速情報収集に向かうと言い出したエレンと合流場所の宿だけ決めて別れたハリードは、どうしたものかと思案した後に、特に自分にはすることなどないのだということに思い至り軽い絶望を味わい、そして当てもなく歩き出したのだった。
 しかし、それがかえって良くなかった。
 こうして当てもなくゆっくりと歩き出すと、その視界に入ってくる様々なものが、彼の脳裏に眠っていた多くの過去の光景を呼び覚ますのである。
 彼にとってこのリブロフという街は、それほどに思い出が、ありすぎるのだ。
 なにしろハリードという男は、このリブロフという街に、まだ十代の若かりし頃から頻繁に通い詰めたものだった。
 ゲッシア王朝の王族の一人として生を受けたハリードは若き日の頃、有り体にいってしまえば旧態依然とした王朝の様相に、言いようのない窮屈さを感じていた。
 勘違いはしないでほしいが、彼は自身の生まれや待遇に不満があったことなどは全くなかった。
 王位継承権は下位ながらもゲッシア王族としての宮殿暮らしには一切の不自由もなく、その身近には心から愛するファティーマ姫がおり、また建国の英雄アル=アワドに憧れて始めた剣の修行も、とてもやり甲斐がある。
 つまるところ、彼はとても充実した生活を送っていたのだ。
 だがその一方で、歴史を見返せば見返すほどに建国からこの三百年の間に大きな変化のないゲッシアの日常は、若く好奇心に溢れた彼を十分に満足させるには至らなかったのも事実だった。
 そうして必然的に彼は外の世界に強い興味を持ち、当時の数少ない貿易相手である隣国リブロフへ、何かと理由をつけては出向くようになっていた。
 当時すでに貿易都市として世界的に名が知れていたリブロフでは、ピドナほどではないにせよ実に多くの文化の流通があった。それらの多くはゲッシア内部に流入してくることはなく、故国の中にいては知ることができないものばかりで、そして彼の興味を大いに引き立てるものばかりだったのだ。故に彼は自分の好奇心を大いに満たすことにすっかり夢中となり、リブロフへと足繁く通った。

(・・・彼奴に会ったのも、その時だった)

 そうして何度もリブロフへと出向いている最中で、ハリードはある時、一人の青年騎士と出会った。
 青年はルートヴィッヒという名前で、年も自分と近いこともあり、お互い直ぐに意気投合をした。
 騎士ルートヴィッヒは地元のリブロフ軍団に所属しており、元は騎士の家柄というわけでもないところから一念発起し、軍に志願したのだという。もう既にその時点で、人が生きる道の全てが生まれや血筋で決まるゲッシアからすれば考えられないような世界であり、そのような可能性に溢れる外界への興味は加速度的に増していった。

(・・・あの頃はルートヴィッヒと毎日のようにこのリブロフ中を駆け回ったものだ。彼奴をゲッシア宮殿に招いた時も、宮殿内の保守派の爺様達には随分と苦い顔をされたものだったな)

 単なる部外者を宮殿内に立ち入らせることなど、ゲッシアの常識には全く有り得ないことであった。
 故に一見そのようなことは全くの不可能のようにも思えたものだが、意地になって諦めきれなかったハリードはなんと王朝のそれまでの歴史を隈なく調べ上げ、その中で遂に類似の過去の事例を発見し、ルートヴィッヒと『義兄弟の契り』を結ぶことで半強制的に身内とし、彼の宮殿内への出入りを可能とした。
 宮殿内でルートヴィッヒはハリードの予想通りファティーマ姫とも直ぐに意気投合し、王宮ではよく三人で行動を共にしたものだった。
 あの頃はそう、彼の人生の中で、最も充実していた瞬間だったのかも知れない。

(・・・くだらん)

 いくつもの街の光景から思い起こされる様々な望郷の念を振り払うようにしながら、しかしハリードはそれでも自然と彼の知る場所へと足を向けてしまう。彼の体が、彼の向かう場所を覚えているのだ。
 中央の大通りを城門のある南に下り、突き当たったところを大街道へ続く城門がある西方面とは反対の南東に向かって伸びる小道に入り、道の両側にうず高く積み上げられた色とりどりの煉瓦で作られた細く緩い階段を下っていく。
 世間的にはかなりの高身長であるハリードであっても空しか見えないその階段道を暫く下っていくと、やがて突如として視界が開け、開放感のある小さな展望広場にたどり着く。
 そこは切り立った小さな崖に作られた場所で、晴れた日にはそこから南東のアクバー峠を一望できる隠れた絶景の名所なのだ。
 その展望広場には、シェヘラザーデという名の小さな店がある。そこはナジュの血を引く女主人が切り盛りする酒家で、彼女の語る古いナジュ地方の物語を夜毎客が杯を傾けながら静かに聞き入る、これも地元ではひっそりと名の知れた場所だ。
 彼がここに通い詰めたのも十年以上も前のことだが、こうして無意識のうちに足を向けると矢張りそこには、その馴染みの店が十年前と変わらぬ姿のままあった。在りし日から変わらぬ懐かしい光景にハリードは思わずうっすらと笑みを浮かべながら、カランと鈴の音を立てて店の戸をくぐる。
 ナジュ名産の織物を基調として作られた六席程度の小さなカウンターと二人掛けのテーブル席が二つほどあるだけの小ぢんまりとした店内の様子も、カウンターの中でゆっくりと水煙草を蒸している女主人の有様も、その水煙草独特の心地よい香りで満たされた店内も、まるで十年前そのままだ。
 思わずハリードは、ここは時が止まっているのではないかと勘違いをしてしまうところだった。
 店内にはカウンター席に客が一人いるだけで、他には女主人だけ。まず女主人と視線が絡み、彼女はハリードのことを見ると、ほんの少しだけ視線を細めた。その瞳は怪訝な様子のそれではなく、どこか愛おしみ、慈しむような光を奥に宿している。
 そして次に、他の来店客が物珍しげでもあるかの様子でカウンターから此方へと視線を遣した客の男が、ハリードの顔を見たことで見る見るうちに驚きの表情へと変わり、遂にはガタリと席から立ち上がった。
 そして驚いた表情を崩さずそのままに、大きく口を開く。

「ハリード様!」

 男は、これまた特徴的な砂漠の民の格好をしていた。年の頃は五十あたりに差し掛かろうかというところか。その顔に深く刻まれた皺が、強烈な日差しの中で生きる砂漠民特有の年輪を感じさせた。
 そして何よりその男の顔を見た瞬間に、ハリードも思わず破顔する。
 彼は、まだゲッシア王朝が存在していた時に宮殿によく出入りしていた、王国のお抱え商人だったのだ。十年の時が過ぎたことで多少は老け込んだようにも見えるが、それでもこの顔は忘れない。何しろハリードが外の世界に興味を持つきっかけを与えてくれたのは、彼が宮殿内に齎す様々な異国の品だったからだ。

「おお、久しぶりだな。元気にしているか?」
「はい。ハリード様もお元気そうで何よりです」

 そのままハリードもカウンター席へと腰掛けると、女主人は無言で彼の前に木製の杯を出し、陶器に入った酒と水を順番に注ぐ。すると単体では透明だった酒が水と混ざることで白濁し、独特の色合いを示す。
 これはアラックと呼ばれるナジュ地方で古くから作られる蒸留酒で、この店には基本的にこのアラックしか酒は置いていない。最も、このアラックにもしっかりと等級があり、この店で出されるアラックは品質が良い。均等な白濁は、品質の良いアラックでしか見られないのである。
 続いて突き出されるメゼと呼ばれる前菜も、この店ではおなじみのくるみと唐辛子のペーストだ。思えばハリードはこれにどハマりして、足繁くここに通い始めたのだった。
 この店は、本当に十年前となにも変わっていないのだなとハリードは思う。そうして杯を傾けメゼを摘み、久しぶりに再開した商人の男とこの十年のことなどを語り合った。
 そうして幾度か杯を空にしたところで、ふと会話が途切れたところに男は、思い出したかのようにハリードに語りかけた。

「そういえばハリード様、ファティーマ様が生きているという噂をご存じですか?」
「・・・!?」

 突然のその言葉に、ハリードは思わず杯を傾ける手を止めて目を見開く。そして、直ぐにそのような反応をした己を蔑むように口の端を吊り上げて笑い、杯の中身を一気に飲み干す。

「噂ではファティーマ様が諸王の都にいるというのです。ハリード様は諸王の都の場所をご存じのはず。もしも、噂が本当なら・・・」

 続いて発せられた男のその言葉を聞いて、ハリードはもう一度口の端を吊り上げ、もう一杯を女主人に催促する仕草をしながら男に語り返した。

「あそこは生きている者の行く所ではない。ただの噂だ」

 諸王の都とは、ゲッシアの英雄アル=アワドを初代とした歴々の王族たちの眠る、神聖なるゲッシア王族の墓所・・・所謂ネクロポリスだ。歴代の王が愛用した多くの品々なども共に眠ることから盗掘の被害を警戒し、その場所はゲッシア宮殿のなかでも直系の王族と、王族に近しい極一部のものしか場所を知らない。
 ハリードは王族故に確かにその場所を知ってはいるが、しかしナジュ砂漠の中心地である旧ゲッシア王朝首都にして現在は神王の塔が立つハマール湖の辺りからある特定の時間帯の陽の光を目標に出発することで導かれる諸王の都には、その過酷さから相応の準備をせねば辿り着くことが抑も困難を極める上に、その近くには真面な水源もなく、辿り着いても帰ることがまた困難なのだ。
 それでもそこにゲッシアの王族が命がけで向かうのは、同じく王族の誰かが没し、その身を埋葬する時のみ。
 文字通り、生きている者のいく所ではないのだ。
 それを知っているからこそ、ハリードは目の前の男の話を笑い飛ばす。だが目の前の男も歳のせいか涙脆くなっているようで、昔の話をしてはその栄華を懐かしみ、今はもう無き故郷を思って瞳を潤ませる。そして、一頻り話した後に男は、こういうのだった。

「仮に居ないのならばそれはそれ。ですがこの噂を確かめられるのも、今はもうハリード様だけなのです。ぜひ、諸王の都へ!」
「全く、酔いすぎだぞ。昔よりも酒が弱くなったのではないか?」

 ハリードはどうやら同じ話を繰り返すようになってきた男を宥める様にしながら、自分の杯の中身を飲み干して女主人に勘定を渡した。

「すまないな、今日は王妃の昔語りを聞くほど時間がない。連れがいるものでな。また寄らせてもらおう」

 女主人にそういってから男にも別れの挨拶をし、懐かしの店を後にする。
 外に出ると、もうすっかり陽が落ちていた。どうやらそれなりの時間、この店に居た様だ。
 展望広場で軽く風に当たると、直ぐにきた道を戻って中央通りへ向かう。
 それなりの時間シェヘラザーデに居たので酒の量もそこそこ飲んだはずなのだが、どういうわけか全く酔えないでいる。それもこれも、きっと商人の男がつまらない話をするからだ。

「姫が‥‥生きている‥‥」

 ハリードは自分でも気付かぬ間の無意識にそう呟き、次にはそんなことを言ったことすら忘れた様子で、あとは無言で道を戻っていった。

 やがてどの程度の時間を歩いていたのかも定かではないうちに、気がつけば彼は本日の宿泊場所であるホテルリブロフへと辿り着いていた。ちなみにこのリブロフには同じ名前の宿が何箇所かあるのだが、その中でもハリードが選んだのは最も質素な、あわや民家かと思うほどの規模のものである。
 そしてその宿の入り口の前では、これ以上にないほど分かりやすく憤慨の表情を浮かべたエレンが仁王立ちしながら、歩いてきたハリードを睨みつけていたのだ。

「ちょっと!随分と遅かったじゃないの!」
「ん、ああ、すまんな」

 時間の感覚があまり無かったのかハリードはそんなに悪いとも思っていない様子で、一言そう言った。それは普段ならばたっぷりとエレンの怒りの火に油を注ぐ言動のはずだが、しかしどうしたことかエレンは額に青筋を立ててはいるものの、それ以上の追求をする様子はなかった。
 その代わりエレンはつかつかとハリードの前まで歩み寄ると、至近距離からハリードの顔を見上げる。
 そして、唐突にこう言い放つのであった。

「ハリード、あたしをあんたの故郷まで連れていって。嫌とは言わせないわ」

 

 

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第八章・4 -駆け落ち?-

 

「カタリナさん、あそこに洞窟の入り口らしきものが見えます・・・!」

 頭髪と思しき部分が無数の蛇で構成された悍しい半人半妖の姿の魔物を斬り捨てたカタリナは、慣れない高所での連続戦闘に息を切らせながらフェアリーの言葉に従って、指差された方角へと目を向ける。するとその先には、確かに山肌に唐突な穴がぽっかりと口を開けている部分があった。

「やっと入り口ね・・・。全く、もっと通行の便を考えた場所に用意してもらいたいものだわ・・・」

 よもや人が来訪することなど、さしもの悪竜も想定外であろうことは当然わかってはいるものの、この過酷な状況には毒吐かずにはいられない様子でカタリナは剣の汚れを振り払いながら呟いた。
 二人が麓の宿場町を発ってから、凡そ五日ほどが経過していた。
 登山の嗜みなど当然ないカタリナは宿場宿の主人から女子供だけでの登山を強く止められたが、それでも行かぬわけにはいかないからと無理やりに今は使われていない荒れ果てた登山道跡を聞き出し、また平時に狩人や鉱夫らが使っていたという中間キャンプ地を経由して高い標高に体を慣れさせつつ、ここまで辿り着いていた。
 確かに空気は平地よりも格段に薄く、この酸素濃度に体を適応させるために時間を費やすことになったのは非常にもどかしかったものだが、一方で幸いなことに、このルーブという山はこれほどの高所にあっても、驚くことに全く寒くなかった。
 近年で噴火の知らせがあったわけではないものの、このルーブ山は今も活動を続ける活火山であり、比較的地面から近い部分に溶岩流があると推定されている。そのため、山肌は思った以上に暖かさを保っているらしい、という説明を宿場宿で受けた。
 だがそれだけでは、この高所に突風の吹き荒れる中でも凍えずに済む、ということは本来あり得ないだろう。
 この通常ではあり得ない気候の原因こそが、詰まるところは、このルーブに棲まう竜の為せる奇跡であるのだという。
 巨龍種はその規格外の体を自在に操るために、体温が非常に高いだろう、ということが研究者の間では定説となっている。そのため巨龍種の多くは、其々の独自器官の他に、その活動を可能とするのに必要とされる膨大な熱量を体内で生成するのだそうだ。
 そしてそれは、体内器官による生物的な熱量の生み出し方だけではなく、朱鳥の加護を生まれながらにして備えている場合が殆どであろうことまでが、最近の研究で凡そ判明しているのだという。
 そして当然その熱量を効率的に維持するには、その棲み家も同じく温暖であるということが大体の場合において必須条件になる。
 そのため、巨龍種が住う場所はその巨龍種の持つ朱鳥の加護の強さに応じて、周囲の気温すら高くなることが多い。この現象が、巨龍の活動における術的な要因の介在を立証する証拠ともなっている。
 これらの理由が、このルーブという山がこの寒気にこの標高にあっても、あまり寒さを感じさせないという結果に繋がっているのであった。

「あっつ・・・ここ本当に冬の山なわけ・・・?」

 そう言った事情を知識としては仕入れていたものの、いざ洞窟内に足を踏み入れてみるとその熱気はよもや冬のそれとは全く無縁に思え、まるで密林にあった火術要塞にでも入り込んだのではないかと思えるほどだ。
 都合よく階段状になっていた箇所を危なげなく下り、程なくして外部の光が届かなくなったところでフェアリーが松明に火を灯しながら奥の様子を観察する。

「・・・どうやら、火山ガスが吹き出している箇所が其処彼処にあるようです。慎重に進みましょう」
「厄介ね・・・。松明で引火とかしなきゃいいけれど」

 カタリナは洞窟内での妖魔の襲撃に備えマスカレイドを小剣の状態で構えながら、足元に気をつけつつ進む。
 そうして進むにつれ、思ったよりもこの洞窟は広々とした空間が広がっており、天井も高いことが分かってきた。その予想外の広さに軽く感嘆しながらカタリナが見渡していると、フェアリーは周囲が広く見渡せるように浮かび上がり、そして何かに耳を済ませるように目を閉じた。

「この空洞は、どうやら溶岩が流れた後に出来たものだそうです」
「溶岩が・・・、ねぇ。正に自然のなせる技ってわけね」

 カタリナが知る溶岩とは、それこそ火術要塞の至る所に湧き出ていたものだが、それが山を流れこのような巨大な空洞を作るなどということは、彼女にはまるで想像もつかないことであった。

「地表を流れる溶岩の表層が冷えて固まっても、その下では熱量を保ったままの溶岩が流れ続け、こうした空洞を作り上げるのだそうです」

 フェアリーの話を興味深く聞きながら注意を怠らず進んでいくが、多少の足元の危うさを除けば、この空洞は非常に快適なものだった。何しろ、山中では幾度となく出会った妖魔の類が、この空洞内では全く存在していないからだ。

「通常ならばこうした山中の空洞には魔物や暗闇を好む生物が入り込むのですが、この空洞の中はあまりにも竜の気が強すぎて、他の生物が寄り付かないのだそうです」
「なるほどね・・・。ていうかフェアリー、それ一体どこから得ている情報なの・・・?」

 とてもためになる話ばかりなのだが、ふとその情報の出所が気になってカタリナが中空のフェアリーに問いかけてみる。するとフェアリーは二度三度瞬きをした後、首を傾げた。

「さぁ・・・この空洞の中にある、何かだと思います。周辺に思念を飛ばしたら返ってきたので、正確には・・・」

 他の生物が寄り付かない、という前提なのに返ってくるその念とやらこそ随分と怪しい気もするのだが、とりあえずそこに突っ込んでも仕方がないだろうという結論に達したカタリナは、適当に相槌を打って先に進むことにした。
 時折岩肌から噴出している火山性のガスを避けるように進んでいくと、更に奥へと二人を誘う段差が現れる。

「・・・この奥のほうから、とても強大な気配を感じます・・・。恐らく、グゥエインのものかと思われます」
「この空洞で大当たりだった、ってことね。兎に角、進みましょう」

 果たして、話し合いというものが成立するのかどうか。
 出たところ勝負の感は否めないが、ここまできたからには覚悟を決めてやるしかないなと腹を括ったカタリナは、慎重に歩を進めた。

 

 

「ふざけないで!!サラは今一体何処にいるの!!!?」

 ピドナ商業地区の一画にてカタリナ・カンパニーの事務所も兼ねるハンス家の一室から、エレンの悲痛な叫び声が部屋の外まで木霊する。
 トーマスとユリアンが宥めるために彼女に相対しているが、先ほどから何度も似たような叫びが聞こえてきていることから察するに、その効果は極めて薄い様子だ。
 やがて、衝突音にも似たような響きと共に勢いよく開かれた扉から飛び出してきたエレンは、その先の広間で彼女らの様子を心配しながら待っていたモニカらを殆ど無視するように通り抜け、一目散に外へと行ってしまった。

「・・・エレン・・・」

 その様子を止められるはずもなく、モニカがただただ心配そうな様子でエレンが去っていったあとの扉を見つめる。
 飛び出してきたエレンに遅れるようにして部屋から出てきたトーマスとユリアンは、非常にバツが悪そうな表情で広間の一行に合流した。
 その場に集まっていたのは彼ら以外に、モニカ、ポール、ロビン、ミューズ、シャール、ブラックだ。
 ミューズらよりも一足早く、エレンら一行は目的であった氷の剣を携えてピドナへと帰ってきていた。
 彼女らの所持していた古代魔術書に関しては引き続き聖都ランスの天文学者ヨハンネスの兄妹であるアンナが解読を進めてくれており、これは子細分かり次第ピドナへと連絡をしてくれるように話がついていた。それを受けてピドナに一度戻ろうという事の運びとなりピドナへと戻ったエレン達だったのだが、トーマスらが居ないことを受けて待機をしていたのだった。
 だが、数日後にいよいよ帰ってきたトーマスらの表情は何やら非常に複雑な様子であり、これは何か事情があるのだな、ということは出迎えた誰もが感じた。
 無論それは帰路におけるルートヴィッヒとの対談によるものであるが、それとは別に予想外にトーマスらの一行の中に最愛の妹の姿を見かけなかったエレンがその事について問うと、トーマスらは更に悲痛な表情を浮かべながら、サラから届いた書状を苦々しい様子でエレンに見せたのだった。

「・・・わたくし、エレンを見てきますわ」

 そう言ってモニカが小走りで広間を後にすると、それを為す術なく見送ったその場の面々は軽く互いに視線を交わし、なんともバツが悪そうに肩を竦ませた。

「・・・ったくガキのお守りじゃあねえんだからよ、キーキーうるせぇな」
「いやまぁそうは言ってもよ、そう簡単に割り切れるもんじゃないだろうさ、血の繋がった姉妹なんだから。ってかほんとにあんた、ハーマンの爺さんなのか・・・?」

 一人飄々と、いつもの調子で煙草に火をつけながら一連の騒動を見ていたブラックが言うのに合わせ、ポールが嗜めるようにいいながらも半分疑いの眼差しでブラックを眺める。
 その感想はユリアンも同様に抱いていたが、彼と初めて会ったロビンはそんなことを露ほども知らず、事も無げに腕を組むのみだった。

「・・・一旦、エレンはモニカ様にお任せしましょう。我々が追いかけても、ああなったエレンは間違いなく聞かないでしょうから」
「・・・同感だ」

 トーマスのその言葉に、ユリアンも深く頷きながら同意する。シノンの若衆の中では最早常識であるのだが、このように気分を害した時のエレンの取り扱いは、非常に繊細なものなのだ。微に入り細を穿つ、というものである。
 そして大抵の場合、周囲が必死に試みるエレンへの接触では状況の改善に一切繋がらない。これには、とにかく時間が必要なのだ。
 彼女の機嫌の回復はいつだって、サラを心配する自発的な気持ちが発端となって起こる。
 自分がこんな事では、サラを守れない。サラの元に戻ろう。その思考によってのみ彼女は機嫌を取り戻し、やがて皆の輪に戻ってくる。
 昔からトーマスは、そんなエレンの行動基準を特段に心配していたものであった。
 もしサラがエレンの元から居なくなったとしたら、エレンは一体どうするのだろうか、と。
 その答えは、この年の始まり、およそ一年前から始まったこの旅の中で多少の変化として彼女に蓄積されてきたはずだが、今ここに至っては矢張り彼女の根本は変わっていないのだと彼には感じ取れた。

「・・・分かった。じゃあこっちはこっちで、必要な話を整理しちまいたい。ヤーマス以降に起こったことを、先ずは聞かせてくれ」

 シノン出身組らの様子からエレンの対応に頷いたポールは、仕切り直すようにそう言って、皆にテーブルにつくように促した。

 

 ああして、幾ら声を荒げて周囲の全てを拒絶したとしても、何も状況は良くなんて、ならない。
 そんなことは、誰よりも自分自身が、痛いほど一番わかっている。だって、愚かしいほどに何度も何度も、それを彼女は繰り返してきたのだから。
 だから毎度毎度、大人げなくこんなことをしている自分をどこか頭の中で冷静な自分が思いっきり冷めた様子で見下ろしていて、本当にそんな自分のことが世界で一番、嫌になる。
 だが、それでも。
 それでもこれは自分にとって必要な、ある種の「儀式」のようなものなのだ。
 こうして兎に角周囲の雑音から一旦離れて自分一人になり物事を見つめ直すことで、全てを投げ出して只々喚き散らしてしまうだけの愚かな自分を何とか抑えるのだ。
 そうして一頻り自分の中で自分をこき下ろした後、暫く何も考えずにただただ気分が落ち込む時間が続く。そうして幾ばくかの時間が過ぎ、いい加減そうしていることに飽きたら、いよいよそこから、これからの自分がやるべきことを考えるのだ。
 手段なんて、なんだって、どうだっていい。
 兎に角重要なのは、やるべき事が何なのか。
 彼女は先ず、それだけしか考えない。
 それが定まれば、あとは我武者羅に前進するだけだ。

(・・・何をするべきって、勿論今直ぐにサラを探しにいく。それ以外の選択肢なんてないわ)

 ハンス邸を飛び出して当ても無く歩きながら、ぐるぐると思考の堂々巡りを繰り返していたエレンは、気がつけば潮風に誘われるままに港まで辿り着いていた。
 サラが、ひょっとしてその辺りにいないものか。
 そんな有り得るわけのない妄想と共に、エレンは何げなく港を見渡しながら続けて歩いた。
 思えばロアーヌでの事件からこの一年で何度も行き来したピドナの港だが、流石に世界一の港は何度来てもその広大さに驚くばかりだ。
 何しろ、同時に数百人を乗船させることが可能なガレオンシップを数十隻も停めることができる程の巨大な港だ。じっくりと見て回るだけで、それこそ一日を費やしてしまうことだろう。
 港には等配置に灯台や検問塔が立っており、そこでは常にピドナ港専任の水先人が行き来の絶えない大小の船舶を忙しなく曳船誘導している。
 その行き来する船を何気なく見ているだけでも、時間はあっという間に過ぎ去ってしまいそうだ。
 港はいくつかの区画に分けられており、停船区画だけでも世界各地のどこに向かうかで場所が異なる。例えばヤーマスやウィルミントン等の大規模な商都が点在し最も往来の多い静海地方との行き来をする船が一番市場に近い区画に位置しており、次いで香辛料を中心とした貿易や観光渡航が盛んな温海地方往来用の区画。そしてピドナの位置するマイカン半島からトリオール海を挟んで南にあるトゥイク半島の都市国家リブロフとの定期便区画の向こうに、ロアーヌやツヴァイク等のヨルド海を往来する航海船がある。
 実のところ船ではロアーヌとの行き来をしていないエレンは、何気なく興味を惹かれて港の奥に位置するヨルド海方面へ向かう船の区画へと歩いていった。
 ぼんやりと眺めているうちに気がついたのだが、こちらの区画に停まっている船は、静海方面に行く船に比べて帆の配置が特徴的だ。
 北のツヴァイク地方から吹き降りる風が特徴的なヨルド海は東西間の航海で真後ろからの風を捉えることが難しく、更には南東のタフターン山から吹く風と海上で頻繁にぶつかり複雑な気流を生み出すので、それに適時対応できる縦帆が採用されているのである。
 無論そんなことなど全く知らないエレンは、形の違う帆の数々を物珍しげに眺めながら歩いて行き、そしてその向かっていた先に突然に、見知った姿を視界に捉えた。

「・・・あれ、ハリード・・・?」

 視線の先には、遠目から見ても分かる特徴的なナジュの衣服に身を包んだ長身の男、ハリードが船着場におり、停泊している客船の近くで船員となにやら話をしているところのようだった。
 今回はピドナ港の圧巻ぶりのお陰でいつもよりもずっと早く気分が晴れていたので、エレンは特に考えるまでもなく、そのままハリードの方へと歩いて向かっていった。

「おっさん、久しぶり。なにしてんの?」
「・・・エレンか」

 ハリードはヤーマスに向かったエレンらとは別でトーマスらピドナ組と行動を共にしていたはずだが、そういえばトーマスらがハンス邸に帰ってきたときには、何処にも彼の姿はなかった。
 しかしそれ以前にサラのことで頭がいっぱいだったエレンはすっかりハリードのことを失念していたのだが、こうして数ヶ月ぶりに会うハリードは、どこか以前の彼とは様子が違うように彼女には思われた。

「なにしてんのよ、こんなとこで」
「別に」

 いやこんなところにいて別にってことはないでしょう、とエレンは思ったものだが、しかしそれを口に出すことなく彼女は目の前の男の様子を窺った。
 どうも、普段とは様子が違うように思ったのだ。
 抑もハリードと会うの自体が数ヶ月ぶりではあるが、その手前まで半年あまり行動を共にしていた彼女から見ると、明らかにこの男の様子は普段と異なる。なんというか、その表情や声色から、以前は常日頃感じていた彼の余裕が感じられないのだ。
 他人の余裕のあるなしが分かる程度には自分の冷静さは戻っているな、等と場違いな分析を頭の隅に追いやり、エレンは次に一歩引いたように姿勢を仰け反らせながら、その場の状況を見極めんとする。
 ハリードは、普段通りの格好だ。この男は常に軽装で、旅のために余計なものを殆ど持ち歩かない。しかし、腰の曲刀カムシーン(本当は違うらしいが、ハリードがそう言い続けるのでエレンもカムシーンと呼ぶことに慣れてしまった)は散歩だろうが遠出だろうが持ち歩いているので、つまりこの姿からは彼の行く先の検討はつきそうにない。
 視線を、彼の周囲に移す。
 彼女らが今立っている場所は、ピドナ港の中でも何方かと言えば奥まった位置だと言える。つまり、敢えて用事がなければ普通はこない場所だと言えるだろう。
 まぁ、そこにまさかの敢えて特段の用事がないのにふらっと来てしまった自分自身がいる時点でこの推察には致命的な矛盾があるような気もするのだが、そこは一旦置いておいて考える。彼女が元々見てみようと思っていたヨルド海方面への船着場は、此処からもう少しだけ奥にある。現在位置はその手前にある区画であり、このマイカン半島の南に広がるトリオール海を挟んで向かいにあるトゥイク半島へと向かう船舶の船着場だ。
 トゥイク半島に向かう船は、基本的に一箇所にしか寄港しない。リブロフだ。
 そしてハリードは自分が話しかける直前まで、傍にいる船員と話をしていた。
 つまりこの場所から察するに、ハリードはここで船に乗ろうとしていた、というようにも見受けられる。

「で、どうするんですかい、旦那」
「あぁ・・・頼む」

 丁度エレンの思考を証明するかのように、恰幅の良い港の船員が小首を傾げながらハリードに声をかける。するとハリードはそれに応え、短く頷いた。

「じゃ、前金で100オーラムいただきますぜ」
「あぁ」

 短くそういって、そのまま懐から素直にオーラム金貨を出して払うハリード。
 これはもう確定で、今のこの男は様子が明らかに可笑しいということにエレンは思い至る。
 如何に世界的に船旅が高額化している状況があるとはいえ、この守銭奴が100オーラム程の大金を一銭たりとも値切ることもなく即払いするなど、普段ならば絶対にあり得ない。
 何しろこの男との旅の幕開けであったミュルスからツヴァイクへの渡航の際も、一切合切船旅の質は求めないから最も安い客室がいい、なんなら船員用の雑魚寝部屋でも良いから兎に角、極限まで安くしろ。そのように乗船案内人に迫っていたほどの男だ。
 仮にも女連れで旅に赴く初っ端からあの光景は一周回って清々しいなとエレンは思ったものだが、そんな彼の通常が、今は全く垣間見えない。
 エレンという女はどうも「女の勘」という類の色恋沙汰に特化した第六感は持ち合わせていないのだが、逆にそういう話題以外の事ならば驚くほど勘が鋭い時がある。
 それが、今だった。

「ハリード、故郷に戻るの?」
「・・・・・・何のことだ」

 唐突なエレンの質問に、ハリードは一瞬答えるのを躊躇うかのようにして言葉を紡いだ。
 一丁前に平然を装おうとしている様子だが、彼女にはそんな内部の揺らぎもお見通しだ。

「おっさん、なんか無くしたって顔してる」
「・・・・・・」

 エレンに唐突にそう言われ、ハリードは何やら憮然とした表情で眉間に皺を寄せる。
 全く、年甲斐もなく表情のわかりやすい男だ。
 だが諦め悪くハリードも一つ息を吐き、それによって冷静さを取り戻して口を開こうとするが、それにもエレンが空かさず牽制した。

「誤魔化しは要らないからね。あたしには分かるの。だってあたしが、そうだから」

 エレンは、彼女の中で絶対の確信を持っていた。この男は、恐らく今、何か大きなものを『無くして』いる。
 お互いに生まれも育ちも年齢も性別も、何もかもが違う。だがそれだと言うのに今のこの男は、自分と全く同じ表情をしているのだ。
 自分だってこんなことを話している余裕は本当は一秒たりともないというのに、まるでこの男の様子は、そんな風に無様に焦るばかりの自分自身を見せつけられているようで、皮肉なほどに彼女は先ほどまでの心中の荒れ模様が嘘のように冷静さを取り戻していた。

「・・・そう、だったな」

 エレンの言い様に全く以て返す言葉を失っていたハリードは、漸く絞り出すようにして、そう言った。
 その納得しきりという雰囲気の言葉がまるで、元々お互いそうであったことを今更思い出したかのような言い草だったものだから、エレンはどうにもその部分には納得がいかずに眉間に皺を寄せる。自分で言っておいてなんだが、このおっさんなんかに自分のそんな姿を見せた覚えは、特にないはずなのだが。

「ふ・・・そんな顔するな。俺にも分かっていることくらいあるんだ」

 エレンが考えていることが表情からあまりにも分かり易く読み取れるので思わず口をついて息が零れ、そのまま言葉を紡ぐ。全く、この女と関わると小難しく悩んでいる自分がどこか馬鹿らしく思えてきてしまう。
 だが、それでも勿論、彼の抱えている空白は何も埋まらない。
 そしてそれは、一方のエレンも同じことなのだ。
 しかし、そういう場合にとりあえず一歩踏み出すためのきっかけを、何かを変えるための手段を、エレンという女は知っている。
 このハリードという男に、既に教えられているのだ。

「一緒に行ってあげる」
「・・・あ?」

 エレンのいきなりの言葉に、ハリードは思わず声を上げる。

「とりあえず船でリブロフに 行くんでしょ。私もそっちに用事あるの。だから、一緒に行ってあげる。さぁ、いきましょ」
「お、おい・・・」

 ハリードが声をかける間も無く、エレンは乗船口へと向かって歩き出してしまった。しかもなんと船賃を要求する船員に対して、連れが一緒に払う、とでも言うような仕草でハリードの指さす始末だ。
 そして当然のように船員がハリードに向かってにやりと笑いかけながら手を差し出してくると、暫し呆気にとられていたハリードは成す術もなく船員に追加の船賃を手渡したのであった。

(サラが寄越してきた手紙は、リブロフが出処だってトムは言っていた。もう二ヶ月以上も前のことらしいけど、このご時世に女の子の一人旅なんて絶対に目立つわ。足取りが辿れる可能性は、けっして低くはないはず)

 エレンは背後に追い付きながら何やら執拗に抗議の声を上げているハリードを半ば無視するようにしながら歩を進めつつ、思考していた。

(あの子はトムの元で成長して、一年前よりとても逞しくなったと思う。多分あたしなんかより色々と知っていることも多い。でも、それだから安心なんて・・・全く出来ない。あの子をこのまま信じて戻るのを待つなんて、できっこない)

 ロアーヌで喧嘩別れをしてから数ヶ月後にピドナで合流して以降、エレンの目から見てもサラはとても活き活きとしていた。カタリナカンパニーの秘書役として精力的に働きながら、周囲のいろんな人物との交流にも積極的だった。以前の臆病だった性格からは信じられないほど、随分と変わったように感じられたものだ。
 だが、姉としてそんな妹の変化を好ましく思うと同時に、一方では何とも形容し難い小さな違和感が頭の片隅にずっとあったのも事実なのだ。

(あたしだけが取り残されていく、みたいな醜いだけの感情じゃない。いや、それがあたしのなかに全くないわけではないのも事実だけど、兎に角この違和感は・・・そんなんじゃないのよ。もっと漠然としていて掴みにくいけれど無視することは絶対にできない・・・そう、直感みたいなもの)

 今ここでサラを追いかけなければ、もう二度とサラとは会えなくなってしまう。
 大袈裟ではなくそれが本当に起こるかもしれないというような、そんな焦燥感。
 エレンは今この時になって、この直感は全く正しいのだと殆ど確信していた。

「おい、聞いてんのかエレン!」
「なによ、煩いわね!」

 いよいよ肩を掴まれながら制止され、そこで漸くエレンは彼女を引き止めてきたハリードに向かって罵声を浴びせながら振り返る。
 対して、まさか自分の正当極まる抗議に対して『煩いわね』などと乱雑な返しをされるとは思ってもみなかったハリードは大層面食らったようで、言わんとしていた言葉もすぐには出てこなかったようだった。

「なによ、もう船賃払っちゃったんでしょ。ならいつまでも女々しいこと言わないでよ」
「いやお前女々しいとかそういう・・・つかお前、俺が何でリブロフに行くのかとか・・・」
「目的は、リブロフじゃないでしょ」

 ぴしゃりとハリードの言葉を遮るように、エレンがそう断言する。
 するとハリードはその言葉が図星であることを肯定するかのように、続く言葉を発せられずに押し黙った。

「ていうか、どうせ目的なんてないんでしょ。分かるわよ。だって顔にそう書いてあるもの」
「・・・・・・」

 エレンのずけずけとした物言いに、しかしハリードは返す言葉がない。
 だがそこでエレンは追撃をするでもなく、なにを思ったかハリードの手を取り、甲板へと歩いていく。

「お、おい、なんなんだ」

 自分よりも歳が十以上も下の娘に手を引かれるという構図に困惑しながらハリードが声を上げるが、そんなことは知ったことではないエレンは、問答無用で彼を船首付近の甲板の縁まで連れて行った。
 そして船の縁に手をかけられるあたりで立ち止まり、船上を吹き抜ける潮風を全身で受けながら、これから船が向かわんとしている南へと視線を向ける。

「ほら、海を見て風に当たれば、気分も変わるわ」
「・・・お前なぁ・・・」

 ハリードはすっかり呆れた様子でエレンに何かを言おうとするが、しかしエレンはこちらに視線を合わせようともせずに、南の水平へと瞳を向けている。
 その様子を見て又しても彼女にかける言葉を失ったハリードは、結局他にやれることもなく、彼女に倣って南へと視線を傾けた。
 そこには、最近はやたらと見慣れたピドナの港の風景と、そしてその先に広がるトリオール海の景色。
 船の上ということで高さは違えど、先ほども見ていた光景だ。そこに吹き抜ける風も、別段先ほどのものと何が変わるわけでもない。
 だが、それだというのにこれは、一体どうしたことだろう。
 ついさっきまでの自分よりも確かに彼は今、その心が不思議と落ち着いており、静かに前を向いているのだ。

「ね。気分、変わったでしょ」

 その様子を見抜くように横目でハリードをちらりと覗いたエレンは、口の端を吊り上げるようにしながら、ニヤリと笑って見せる。因みにこれはハリードの笑い顔の真似なのだが、本人が思っている以上に全く似ていないので本人にはこれっぽっちも伝わっていない。
 だが自分の中に不思議と冷静さが宿っていることを確かに実感していたハリードは、エレンに応えるように自分の未熟さを皮肉って口の端を吊り上げて返し、そしてエレンの頭をがしがしと乱暴に撫でる。

「やだちょっ、なにすんのよ!」
「礼だ、とっとけ」

 これには予想通りに喚き散らすエレンに対し、ハリードはどこ吹く風で海へ視線を向ける。

「・・・礼を言われる筋合いなんてないわ。まだ何も変わっていない。変えていくのは、これからでしょ」

 乱された頭頂部の髪を整えるように手櫛で流し、トレードマークのポニーテールを結び直しながらエレンが言う。
 対してハリードは肩を竦めながら、一つ息を吐く。

「変わったじゃねえか」

 腰に身につけたカムシーンと名付けている曲刀に手を触れ、半身をエレンへと向ける。

「さっきまで一人だったのが、今は二人だ。これは大きな変化だろうよ」
「ふん・・・一年前のことくらいは、覚えていたみたいね。ボケてなくて安心したわ!」

 ハリードの言葉にエレンは満面の笑みで応え、そしてふと真面目な面持ちに戻って海を見た。

「あたしは、サラを探す。おっさんも向こうで用事が終わったら、手伝ってよね」
「俺よりも目的が明確な分、分かりやすくていいな。前金次第では、考えてやろう」
「おっさん、あたしにそんな金があると思ってんの?」

 そうして他愛のない会話をしながら二人が出港を待っているところに、ふと視界の端に市街地の方面から走ってくる鮮やかな布地の色の衣服を身に纏った人物の姿が映った。
 どうやらその人物は声を発しながら向かって来ていたようで、エレンがその姿にしっかりと気づいた時には、その聞き覚えのある声が耳に届いていた。

「エレンーーー!!」
「あ、モニカ!!」

 走り寄ってきたモニカの姿を認めたエレンは、船の縁から身を乗り出すようにして大きく片手を振った。

「エレン、いったいどこへ行くのです!?ハリード様まで!」
「モニカ!あたし、サラを探しに行くわ!おっさんも野暮用よ!どうかトムに宜しく言っておいて!」

 エレンがモニカに向かって声をあげている合間に、いよいよ二人の乗った船の出港を知らせる鐘の音が辺りに響き渡る。
 もうそこから先は、何やら叫んでいるらしいモニカの声も全く聞こえず、エレンは体全体を使うようにして目一杯手を振るだけだ。

「お前、仮にも母国の侯族を呼び捨てって、まずくないか?」
「いいのよ、第一モニカから言ってきたんだし。ってかおっさん、そういうの気にするタチだっけ?傭兵ってどっちかっていうと反体制主義じゃないの?」
「いやまぁ一般的にはそうかも知れんが、俺にも一応、事情っつうもんがあってだな・・・」

 なんでか気安く呼び合っている二人の様子をみてハリードは思わず突っ込むが、思いの外鋭い返しが来たものだから口籠ってしまう。
 そのまま視線を戻し、港が見えなくなるまでモニカに手を振り続けるエレンを尻目にハリードは船の食堂へと向かうことにした。
 何しろ、予期せぬ出費で二人分の船賃を出すことになったのだ。これはしっかりと元を取らなければ、やっていられないというものなのである。

 

「なーるほどな・・・。状況は大凡、分かったよ」

 ハンス邸にて行われていた話し合いの中で、ウィルミントンからピドナに辿り着くまでの話を聞き終えたポールは、ゆっくりとそう言った。そして自分の中で考えを纏めるようにコツコツと指先で米神の辺りを突きながら、状況整理とこの後に行うべき行動の指針について思考する。

「・・・しかしまぁ、なんつーか流石はルートヴィッヒだな。一本取られた・・・ってか、全く予想だにしなかった行動だわ」
「あぁ。ただ彼の今回の決断は、我々の向かう方向と限りなく近いのも確かだ。今の我々に選べる選択肢は殆どないが、前向きに捉えるしかないだろうね」

 トーマスの見解にポールは薄く頷きながら、しかし直後に彼の隣で視線を落としたまま表情を固くしているままのミューズへと視線を移した。
 当然その更に隣に控えるシャールも同じような表情であり、彼女等からしたらこの状況の好転の仕方は、そう簡単に受け入れられるものではないだろうことが窺える。
 だが、やるからにはそれを飲み込み、理解してもらわねばならないだろう。なので、単刀直入に聞いてみることにした。

「ミューズさんとシャールさん。あんた達は、どう思っているんだ?」
「・・・・・・・」

 二人はポールの問いかけに、しばし無言で応える。だが、ポールは特に答えを急がせようともしない。こういう問題は自分で答えを出さなければならないのだ、ということを、彼はキドラントでの騒動から経験している。
 やがて、ミューズが面を上げた。

「私は、この機を逃すべきではないと、理解しています」

 短く答えるその様子を、ポールは見つめる。
 彼女の瞳には、迷っている様子はない。
 隣のシャールもまた、そんな主君を真っ直ぐに見つめている。既に彼は主君の意志に従うと決めているのだ。

「当然、油断はしません。あの男がいつ我々に仇をなす行動を起こすのか、わかりませんから。でも今暫くは、あの男の提案に乗りましょう。それが我々のためであり、メッサーナの為になると私は理解しています」
「・・・あぁ、そうだな。兎に角こいつはチャンスだ。これを機に逆にこちらがあちらさんを喰っちまうつもりでいこうぜ」

 最愛の父を討った仇に対し、この若い娘はしっかりと折り合いをつけようとしている。それのなんと気丈で、聡明なことか。
 仮に自分があの時にニーナを失った上で祖父や教授と対峙していたら、たとえ全ての事情を知ったところで、彼らに対し何もしないでいられる保証などないと感じてしまうだろう。

「・・・じゃあ、やることは決まっているわけだ。明日のピドナ宮殿でのなんとかの集いとやらで、予定通りロアーヌの戦線への経済的支援を進めるんだな?」
「その通りだよ。そこまでは既にルートヴィッヒ軍団長とも話をしている。今年は現在魔物と交戦中のロアーヌを除いたほぼ全ての主要都市の要人が集まっているらしいから、行動を促す効果は相当に高いだろう」

 ポールの問いかけにトーマスが頷きながらそういうと、ポールは手元の紅茶を一口飲んでから両腕を組んで背もたれに寄り掛かった。

「となると、そこからは例のアビスリーグとやらに関する情報を探っていかなきゃならないな。んー・・・こりゃヤーマスでドフォーレ捌いてもらっているキャンディにも協力を仰いだほうがよさそうだ。ロビン、済まないが一度書簡を持ってヤーマスに渡ってもらえるか?」
「構わない。街がどうなっているのかも気になるしね」

 ロビンの快諾を得ると、今度はブラックへと視線を移す。

「ハーマン・・・じゃないんだよな。ブラック、でいいんだっけ」
「ブラック様でもいいぜ」
「オーケーブラック様、お宅は俺に付き合ってもらうよ。潜って情報収集をするのに、あんたの雷名はめちゃくちゃ役立ちそうだしな」

 軽口に軽快に返してくるポールにブラックがふんと一息吐いて反応すると、ポールはそれに肩を竦めて返しながら話を纏めにかかる。

「よし、ロビンとブラックと俺はすぐにでも動き出そう。情報が上がり次第共有するから、トーマスの旦那はミューズ様やモニカ様を頼むよ。それじゃあ・・・」

 そう言って席を立とうとした丁度その頃合いになって、息を切らせた様子のモニカが帰ってきたところだった。

「モニカ!エレンはどうだった?」

 彼女の姿にいち早く反応したユリアンが問いかけると、モニカは何やら彼女にしては珍しく呆けた様子で、ぽつりとつぶやいた。

「エレンとハリード様が・・・駆け落ちしてしまいました」
「・・・え?」

 モニカの突然の衝撃的な告白に、その場の一同は凍りついたように固まってしまった。

 

 

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第八章・3 -十年前の悪夢-

 

「・・・こんなものでいいですか?」
「ええ、ありがとう。すっきりしたわ」

 世界でも指折りの標高を誇るルーブ山の麓にある実に簡素な宿場宿に、カタリナとフェアリーは登山の準備をするために立ち寄っていた。
 ルーブ山には、こうした幾つかの小規模な宿場が複数の登山ルート上に点在しており、その殆どは様々な鉱山資源の宝庫であるルーブ山脈と商都ヤーマスとを行き来する鉱山作業員や、その作業員らを商売相手とする行商人達の憩いの場として機能している。
 更に以前にはもっと大きな宿場町や農村もちらほらとあったようだが、ルーブ山に棲む悪竜グゥエインによる断続的な被害によって、そのような規模の人里はこの数十年で縮小の一途を辿っていた。
 なので今となっては、最低限の機能を有する簡素な宿と鉱山作業員の作業用に設えられた何もない広場だけがあるのみの殺風景な場所が殆どだ。
 翌朝には直ぐ出発する予定で一泊の宿を取っていたカタリナは、宿の裏手でフェアリーに散髪を頼んでいた。ロアーヌを旅立ってからこの一年ほどですっかり伸びてきていた髪を、旅立った時と同程度まで切り揃えるためだ。

「人間の美的感覚は私たち妖精にはあまり分かりませんが、カタリナさんの髪はとても美しいと思います。なんだか、勿体ない気がしますね」

 自分の頭の後ろあたりを手で触りながらカット部分の具合を確かめて礼を言うカタリナに対し、フェアリーは率直にそんな感想を抱いて口にした。だが、カタリナはそれには少し困ったような顔をして微笑む。

「・・・長い髪は、確かに人間の間では女性を美しく彩るために用いられる慣習ね。髪は女の命、なんて言葉もあるほどよ」
「え、じゃあ今私、カタリナさんの命を切ったんですか・・・!? ひょっとしてLP減りました!?」

 フェアリーのいうえるぴーというものがなんなのかはカタリナにはいまいち理解が及ばなかったが、兎に角そんなに心配するようなものではない、と優しく付け加えた。
 彼女にとって長い髪とは言わば、「かつての自分」を表すものだ。つまりはロアーヌ貴族であり、モニカの侍女であり、そして不相応な幻想を抱く愚か者であった彼女の象徴のようなもの。そんな自分と、少なくとも心の内では確りと決別をする意味で、あの夜に髪を切り落としたのだ。そんな彼女からしてみれば、長い髪に一切の執着などないのである。
 むしろ今となっては短い髪の方が動きやすさもあるし、当たり前だが戦闘には此方の方が適しているなと感じるほどなので、必要に迫られなければ今後も髪を伸ばすということはしないだろうな、とすら考えていた。

「そういえばカタリナさん」

 髪を切るために彼女の首から下を覆っていた布を払いながら、フェアリーが問いかける。

「今更になって聞くのもあれだとは思うんですが、グゥエインという竜は、普通の竜とはどの様に異なるのですか?」

 妖精族の中でも聖王に纏わる記憶は聖王記の内容を中心として継承されており、聖王が四魔貴族の一柱である魔龍公ビューネイを打ち倒すために巨龍ドーラと共闘をしたということは知られている。だが、基本的に人界との接触を絶ってきた妖精族では、この三百年の間に人間を苦しめてきた悪竜グゥエインという存在のことを、殆ど知らなかったのだ。

「うぅん、実は私もそれほど、グゥエインという竜について知っているわけではないのよね」

 フェアリーの問いに何とか応えようと頭の中で考えを巡らせながら、自身も散髪の後片付けをしつつ思考を巡らせた。
 カタリナの知るグゥエインという竜に関する情報は、それこそ世間で噂される悪評以上のものは殆どない。十数年に一度程度の頻度でルーブ周辺を中心として人里を荒らし周り、血肉を喰らい宝物を奪う存在。それだけだ。
 大前提として竜種とは、人に仇為す存在としては異形の中にあって最も恐れられる種族である。
 中でも一部の「巨龍種」と呼ばれる存在が非常に突出した存在感を放っており、その数は基本的に極少数でありながら、個体ごとの脅威は他の妖魔と比肩するべくもないほど強大なものである。
 巨龍種とは巨人族にも全く引けを取らない体躯を持ちながら、その強靭な翼によって飛行能力を持つ。この時点で人類が対抗することそのものが馬鹿らしくなってくるほどの脅威ではるが、更には多くの巨龍種が体内に個体別の独自器官を持っている。主にそれは捕食行動の際に活用される器官だが、猛毒、電流、炎など、それらをブレス状にして口腔部から放射するという、およそ生物としては正に規格外の攻撃手段を持つ。
 グゥエインという竜は、この巨龍種に分類される竜であるとされている。
 ただこのグゥエインという竜に関してが殊更に特別視されている理由としては、他の巨龍種と比べても非常に独特な活動の記録による。
 前述の通りグゥエインは人里を定期的に襲うが、実のところ他の巨龍種にはこのような行動は殆ど観測されていない。また、通常の捕食行動とは別に金銀宝飾物等を意図的に奪うことから、流石に人間にあるような金銭的な意図はないとしながらも、その物質の希少価値を理解する知能を持っているのではないか、と推察されている。
 竜種の研究者によれば、その集めた財の量によって己の力の誇示を表しているのではないか、とも言われている。
 このように、グゥエインという竜は他の巨龍種ともまた異なる存在として、人々に恐れられる存在なのだ。
 そのようなことをフェアリーに話しながら、しかし今回改めて詩人からグゥエインとの対話を提案されたカタリナには、このグゥエインという存在に対して、驚くほど嫌悪感を抱いていなかった。

(・・・それはおそらく、聖王様の記憶が関係しているんでしょうね・・・)

 当然カタリナもグゥエインという竜の存在は幼少の頃から聞き及んでいた。丁度、自身がロアーヌ騎士団候補生であった十年ほど前の時分にグゥエインの人里襲撃の報を聞いていたこともあり、それが悪しき存在である、ということも当然に認識はしている。
 だが此度の詩人からの提案を受けた時に、彼女はグゥエインに対して嫌悪感や拒絶感を抱くことがなかった。何なら寧ろその逆ですらあり、その名を酷く懐かしく感じるような感覚すら覚えたのだ。
 それも、ハリードが指摘したようにグゥエインが友人の子・・・つまり、巨龍ドーラの子であるとするのならば、違和感もない。
 聖王の中ではグゥエインとは、あくまで友人の子であり、人間を脅かす悪竜ではないのだ。その記憶、感覚が指輪を通じて自分にも流れ込んでいるということならば、なんの不思議もない。
 そしてその辺りの事実だけを切り取って考えるならば、グゥエインが天空にて相対するビューネイを討つために自分たちとの共闘という判断に至る可能性は、十分にあるだろう。今回の要請に一定の信憑性があると感じられるのは、そういった部分が大きい。

「・・・でも、今のグゥエインにとって人間とは、寧ろビューネイ以上に憎いのではないでしょうか・・・?」

 カタリナの話を聞きながら、フェアリーがそう呟く。
 カタリナも気になっているのは、正にそこなのであった。
 聖王記によれば、聖王と共にビューネイを討った巨龍ドーラもまた、人里を襲う悪竜であったとされる。そして最終的には聖王の手によって、その命を終えているとされる。
 こうなってくると、何しろグゥエインにとっては、人間とはつまり親殺しの仇敵だということであるはずだ。その上であっても、ドーラと同じように人間に協力をするなどという筋書きは、果たして本当に成立するのだろうか。

「自分の親を殺した相手との共闘・・・か。目的を達成する為の手段としてそれが最良であったとしても、私たち人間はどうしても感情で動く生き物だわ。直ぐに納得なんて、私ならば出来ないかもしれない。人と竜の精神構造を同一に考えることは出来ないのでしょうけれど、もしグゥエインが噂通りに知性を持つ竜であるのならば、どんな判断をするのかしらね・・・」
「そうですね・・・人と竜とは、当然ながら異なる思考を持つ生物だと思います。でもこればっかりは、話をしてみないと予測がつきませんね・・・。あり得ない話ですが、仮に私たち妖精族が大樹を焼き払ったアウナスの陣営と何らかの事情で手を組まなければならない・・・なんてことになったら、それは種族として絶対に考えられないと判断するはずです」

 フェアリーの言葉に神妙な表情で返しながら、カタリナは北に聳える龍峰ルーブへと視線を投げかけた。
 その峰は分厚い黒雲によって覆い隠されており、その様はまるでこれからの世界の行く末を示すかのように、カタリナには思われた。

 

 

 静海、洋上。
 ウィルミントンとピドナを結ぶ航路にて。
 その厳重に武装された数隻の軍船が隊列を成して航海するその様は、まるでこれから大規模な海戦が始まるのではないかと思われるほどに雄々しく、そして荒々しく周囲の漁船からは映ったことだろう。
 その列を成す軍船の中央、一際に立派な軍船のその広々とした船内の一室で、トーマス、ミューズ、シャール、ハリード、ブラックは多くの近衛騎士に囲まれる中、近衛軍団長ルートヴィッヒと対談の席についていた。
 矢張りというべきかルートヴィッヒはトーマスの事も既に調べており、彼が名門メッサーナベント家の嫡子にして、現在経済界を引っ掻き回しているカタリナカンパニーの副社長を務めているということや、隣にいるミューズ等との繋がり、その経緯も、事細かく認識していた。
 その上でルートヴィッヒがこの席で切り出した言葉に、トーマスは思わず耳を疑った。

「クラウディウス家と・・・講和を結びたい・・・!?」
「その通りだ。無論、私が実質的にクレメンス卿の仇であるという事実がある以上、御息女であるミューズ殿においては簡単には受け入れられるものではないだろうということは理解している。だが、その上での提案だ」

 自分とテーブルを挟んで真正面に座するルートヴィッヒのその提案は、トーマスにとっては全く不可解なことであった。なにしろ、このような状況でそのような提案をされる謂れが、彼には全くわからなかったからだ。
 彼の隣に座って表情を固くしているミューズとシャールを視線で確認し、そしてトーマスは改めてルートヴィッヒへと向き直った。

「・・・ルートヴィッヒ軍団長殿。お言葉ですが、この状況で講和という提案には、些か疑問が残ります。正直に申し上げて、今貴方は、この場で我々を海の藻屑とする事もできる。講和どころか、今こそ完全にクラウディウスという家名をこの世界から消し去る事ができるでしょう。これまで貴方がクラウディウス家やその他、貴方に反抗的だった諸侯に行ってきたことを思えば、その渦中での講和という提案にどれほどの信憑性があるのか、私には図りかねます」

 ミューズらに気を遣う事もなく、トーマスは正直にその胸中を語った。この後に及んで、下手な腹の探り合いなどしている状況でもないのだ。
 とはいえ、彼らがこの場にいる近衛騎士団の剣の錆になるということは、あり得ない。
 仮にこの場にいる騎士全員が一斉にトーマスらに斬り掛かってきたとしても、正直この面子ならば負けることは有り得ない。それどころか、この中の誰か一人で相手の制圧すら可能だと思われる。なので、そのような心配しているわけではない。
 抑も、此方からの武力行使という選択肢を取るならば、ここに来る前にウィルミントンのホテルで既に実行していた。
 だが、そんなことをすれば自分たちはまんまと「メッサーナ王国への反逆者」という烙印を押され、全世界から指名手配されるのが落ちだ。それは今後の彼らの活動に取り返しのつかないほどの多大なる不利益を被ることになっただろう。
 だから敢えて、大人しく連行されてきたのである。
 だが今この場だけに限って言えば、さしものトーマスらとて、この船ごと周囲の軍船から大砲の集中砲火をされれば、それで一巻の終わりでもある。このような洋上で海に投げ出されれば、人の身では文字通り海の藻屑となることは免れない。
 それをトーマスと同じく理解しているはずのルートヴィッヒもまた、歯に衣着せぬトーマスの物言いに正面から答えるように薄く頷いた。

「確かに我々には、そう言った選択肢も取ることは可能だ。だが、その選択肢は双方に無益という結論に私は至った。だから、講和という提案をしているのだ」

 ぎりり、と強い歯軋りの音が聞こえる。それに気がついたトーマスが音のした方をみれば、そこには顔面が紅潮し激昂した様がありありとわかるシャールが、今にもルートヴィッヒに襲いかかりそうな様相だった。だが彼は己の膝を折れんばかりに握りしめながら自分を必死に律し、息を荒くしながらも、努めて冷静に口を開いた。

「ルートヴィッヒよ、俺は五年前のあの時、貴様に言ったはずだ。絶対に貴様の軍門になど降らん、と。貴様はその返答として、この俺の右腕の腱を切ったはずだ。それが今更、どの口でそのような戯言をいうのか!」

 己が主君と右腕の力を失った悲しみを背負った戦士は、今にも相手を貫かんとするような闘気を纏っている。そのあまりの覇気に、周囲の騎士達は思わず直立姿勢を崩して慄く。だが、その様にも一切動じる事なく悠然とルートヴィッヒは答えた。

「シャールよ。私は、お前の騎士としてのその誇り高さを、私なりに理解しているつもりだ。だから、此度は我が軍門に降れ、などとは言っておらぬ。あくまで、互いが対等の立場での講和を望んでいるのだ」

 ある意味では鉄面皮、とでもいうのだろうか。
 そんなことを考えながら、トーマスはルートヴィッヒとシャールのやり取りの様子を細かく観察していた。
 このルートヴィッヒという男は、見た目から推察できる年の頃は、恐らくハリード辺りとそう違わないだろう。
 世界最大の国家の実質的な支配者としては、あまりに若い。そういう意味では間違いなく、ミカエルなどと同様に時代に愛され、成る可くして頭角を現した傑物の一人であろう。
 ピドナの支配者となってからも継続した広報に余念がないこの男の顔は、宮殿主宰の催しの際の演説等でトーマスも何度か見かけている。
 その様は実に饒舌で多彩な話術に長け、その整った顔立ちも表情豊かで、人心を掌握することに長けた為政者だというのが、当初のイメージだった。
 だが今この場にて相対している彼の表情は、一体どうしたことだろう。
 確かに表面的には以前から見かける通りに、表情豊かに振る舞っているかのように見える。
 だがこの会談の間中、彼の表情の変化はなんというか、妙に無機質的なのだ。
 だが、いつもの精彩を欠いているというよりは、元が実はそうであったのではないか、と感じる様な違和感なのである。
 幾重にも移り変わる表情の一つ向こうには、一切変わることのない鉄面皮が存在している。今日の彼には、特に瞳にその様な印象があり、それで表面上の表情だけの変化に異様な不気味さを覚えてしまうのだ。
 そしてもう一つトーマスが気になるのは、その声だ。
 ルートヴィッヒのよく通る低めのテノールは耳に心地よく、人の心に語りかけるような響きを持っている。だがその声色は聞くものによっては何処か演技がかっていて、背後に狡猾さが透けて見える様にも感じられた。特にトーマスには最初からその様に感じられていたので、より強く印象に残っている。
 だが今この場に於いては、その声色から其れ等の印象を見出すことは出来ない。
 つまり彼の表情と声色から推察する限り、驚くべきことに彼は真にこの講和という話を推し進めようとしているようなのだ。
 それであるならば、とトーマスは緊迫した空気の中の二人を取り成すようにして身を乗り出した。

「ルートヴィッヒ軍団長殿。双方の講和とは、具体的にどのような条項の上での締結を想定されているのですか?」
「まず、現在近衛軍が管理しているクラウディウス家の屋敷、及び旧クラウディウス家統轄領の返還をさせてもらいたい。第二に、故クレメンス卿の名誉回復を目的としたピドナ新市街での石碑の建築を行わせていただきたい。第三に、今後クラウディウス商会を再興させるという方向性で動かれるならば、その活動に対する近衛軍団としての継続的な支援を約束したい。そして最後に、クラウディウス家が宮廷中枢への復権を望むのならば、それも歓迎しよう」

 それまでの彼にしては実に淡々と、ルートヴィッヒはそう語った。
 その内容は、ミューズ、シャール、そしてカンパニーにとって、全く以て歓迎することしかない条項だ。正直に言えば、あまりに条件が良すぎて此方を馬鹿にしているのかと思いたくなるくらいの提案内容だといえる。これではまるで、戦争の実質敗戦国が提示するような条項とすら言っていい。
 だがトーマスは、彼もまた対面するルートヴィッヒに倣って淡々と真顔のまま、当然のように問いかけた。

「では、我々に対してルートヴィッヒ軍団長殿が望むことは何でしょうか?」
「先の内容で友好条約を結ぶこと以上は、特段望んでいない。だが・・・強いていうならば、この講和と、そしてクラウディウス商会及びその大元であろうカタリナカンパニーへの公的支援という形で以て、一連の世間の軍団に対する反発が止むことを狙う、といったところだ。伝説の四魔貴族をも打倒した稀代の英雄に迎合しようという思考は、なにも特別なことではないということだ」

 その言葉に、トーマスは軽く目を見張る。
 何とこのルートヴィッヒという男は、どうやら既にカタリナらのフォルネウス討伐をすら、把握しているようだった。
 カタリナ達が死闘の末に西太洋から帰還してから、まだ一週間程度だ。それこそ世界では、バンガードが伝説の通りに移動要塞となったことすら未だ知らない人々で溢れかえっているであろう。だというのにこの男は恐らく、バンガードが動いた時から既に情報を得、そして事細かに集めていたのだ。であれば、あの崖でバンガードの帰還を待っていた自分もまた、その一挙一動を完全に把握されていたのだろうという理解に至る。
 だがそれらを踏まえても、この男が一体どのような腹積りであるのかは、相変わらずその表情からは読み取ることは叶わない。とは言え、当然このような場所でこれほどの男が、単なる冗談をいうわけでもないだろう。
 トーマスは短時間の間に目紛しく活動する己の思考を一度止め、冷静になるべく周囲の仲間の様子を伺った。
 ミューズとシャールは、矢張りというべきか怒りと当惑とが入り混じった様子だった。何しろ今のルートヴィッヒの言うことが全て叶うのならば、クラウディウスは五年前の状況を単純に取り戻すだけだということなのだ。
 更には、クラウディウス商会の活動に制限をかけるどころか、全面支援を行うとすら言っている。
 今の状態でクラウディウス商会を再興すれば、クラウディウス家が世論の支持を集めることは容易だ。その上でクラウディウス家が政への参加を行えるともなれば、世論の後押しを上手く用い様々な制度改革へと着手する事も将来的には可能だろう。
 その人気取りを共に行いたいというのは分かる部分ではあるが、それでもこれまでルートヴィッヒが首都ピドナで推し進めてきた様々な政策からは全く以て反していくに等しい提案でしかないし、正にトーマスらが以前に思い描いた通りの方向に進めることが出来る提案であるのだ。
 その出来すぎた内容に強烈な胡散臭さを感じるのは、ある意味で当然の感覚と言えるだろう。
 一方で更に視線を動かせば、ハリードとブラックは、なんらこの手の話には興味がない態度であるように思われた。
 案の定というべきなのか、ブラックは気ままに煙草を燻らせ、ルートヴィッヒの方を向いてもいない。その様を周囲の騎士が睨みつけている事も十中八九本人は分かっていながら、まるでそんな状況をすら面白おかしく楽しむかのように煙を吐き出すのみなのだ。
 そしてハリードは、腕を組んで静かに目を閉じている。まるで眠っているのかと思われるほど微動だにしていないが、その姿勢や纏う空気に一切の隙がないことは、見るだけで分かる。彼はどうやらルートヴィッヒと知らぬ仲ではないような雰囲気であったが、それが今の彼の態度に関係しているのだろうか。
 それらを見渡し終えたトーマスは、ルートヴィッヒに視線を戻した。

「・・・返答は、少々待っていただいても?」
「構わない。突如の話で、考えるところも多いだろう。ピドナに着くまでに決めてもらえればいい」

 これもまた呆気ないほど簡単に、ルートヴィッヒはこの場での返事を求めなかった。
 つまりこれは、彼の中ではこちらが考える時間を与えても何の問題もない、という認識であるということだ。
 トーマスはそこまでを確認すると、分かりましたとだけ述べて、席を立つ仕草をした。それに合わせてハリードとブラックも立ち上がろうとしたが、しかしそこで一人、一切動かないものがいた。
 ミューズだった。
 彼女は、真っ直ぐにルートヴィッヒを見つめ、そしてこの場において初めて口を開いた。

「ルートヴィッヒ軍団長、一つ、質問をよろしいですか」
「・・・伺おう」

 ルートヴィッヒもまた動く様子なく、姿勢を崩さずに彼女に応対した。そしてミューズは、短く質問を口にした。

「お父様を・・・クレメンス=クラウディウスを殺害指示したのは、貴方なのですか」

 しんと、その場が静まり返る。
 何も気にする事なく煙草を燻らせるブラック以外の面々が全て動きを止めたその空間で、ルートヴィッヒは深く息を吐き、そして浅く頷いた。

「直接の指示ではない。だが無論、深く関与はしているし、私が当時それを望んでいたのは事実だ。その真相も、他ならぬ貴女が望むならば語ろう」

 ひんやりと、その場の空気が冷たくなるのが誰しもに感じられた。それは気温で感じるようなものではなく、正に怖気を感じるといったような、そんな冷たさだ。
 それは、魂をすら凍りつかせるという月の精霊の息吹を行使することのできるミューズが、その身に宿す魔力を無意識に拡散させてしまった結果だった。
 だが彼女もまた、激昂の内にありながらも己を律したシャールと同じく、すぐにその魔力の胎動を収めてみせた。

「今は、そのお言葉だけで十分です」

 そういってミューズが立ち上がると、それに合わせてシャールも立ち上がった。そうして部屋の中にいる騎士らに見守られながら、トーマスら一行はその場から外に出て、当てがわれた船室へと案内されていった。
 去りゆく彼らを、ルートヴィッヒは、矢張り表情の読めぬ鉄面皮で見送るのみだった。

 

 

『食い止める、だと?! 背後からも追手が迫る!お前ひとりでどうこうできる数ではない!』

 辺り一体は、既に炎と怒号に支配されていた。
 ゲッシア独自の伝統的な染料で染め上げられた衣服はあっという間に煤で汚れ、挙句には数度となく斬り結んだ返り血で醜悪な斑模様を形成していた。
 歴史あるゲッシアの宮殿が無残にも崩れ去る様を横目に、瓦礫に塗れた道無き道を切り開き掻い潜るようにして、無我夢中で駆け抜ける。
 そしてついには背後からも前方からも悍ましき邪教徒が押し寄せてくることを察知したハリードは、姫と共に隣を走っていたルートヴィッヒが自分の言葉に珍しく冷静さを欠いた様子で怒鳴りつけるのを、場違いにもどこか可笑しささえ覚えながら聞いていた。
 或いは既に自分は、冷静な判断が出来ていないのかもしれない。頭のどこかでそう感じながらも、今の自分にできることはここでの足止めであり、姫を逃すにはこれしかないのだ、と己に言い聞かせ、怒るルートヴィッヒに向き直った。

『ルートヴィッヒ、頼みがある。姫を連れ、お前の祖国、メッサーナに逃げてくれ』
『ハリード!』

 ハリードの言葉に、姫が悲痛な声を上げる。勘弁してほしい。そんな声で名前を呼ばれたら、今し方の決意が、いとも簡単に揺らいでしまいそうになる。
 だが、それは絶対にできない。何より最優先するべきは、姫の命だ。
 自分の覚悟を目で悟ったのか、ルートヴィッヒは苦虫を噛み潰したような表情で、苦悶の声を上げた。

『よもや、我らを逃すための時をかせぐと?』
『なりませぬ!共にハリードも・・・!』

 ルートヴィッヒが決死の様子であるハリードに問いただすと同時に、姫が再度悲痛な声を上げる。だが、その声に応えてはならない。
 決して、応えてはならない。

 

 当てがわれた船室の椅子で船の揺れに身を任せ、浅い眠りに浸っていたハリードは、寝起きが最悪だと言いたげな表情で眉間にシワを寄せながら目を開いた。
 そのままの表情で窓の外を見やると、傾き始めているようだが、それでもまだ陽は高い。時刻は先ほどの会談が終わってから、そう経っていない様子だった。

(・・・見たくもないものを久しぶりに見たな・・・)

 既に微睡は去り、そして勿論、寝起きは最悪だ。このままの状態で無機質な狭い船室の中にいても、気が晴れることはないだろう。
 そう判断したハリードは、フォルネウス戦で折れたものの代わりにバンガードで新たに用意した曲刀を手にして、気分転換に甲板へと出向くことにした。たかだか気分転換にも自らの得物を欠かせない性分は我ながらどうかと思うが、ある意味で此処は敵地のようなものだ。用心には越したことはないだろう。
 そう自嘲気味に思いながら部屋を出ると、程なくして甲板へ向かう階段が通路の先にみえる。軍船内であるというのに一般船舶と比べて通路の広さに国力の強大さを垣間見て皮肉めいた笑みを浮かべながら、波風を求めて外へと登る。
 甲板に出ると、表にいる船員も疎らで、感傷に浸るにはこれ以上ないほどの場所だった。
 なんとはなしに甲板を歩いたハリードは、適当な船の縁に立ち尽くすと、遠く海の向こうに見える陸地へと視線を向けた。
 船の進行方向は、東。となると船の右舷である南側に見えるあの大陸は、南方の密林あたりだろうか。となるとその更に東には、彼の愛して止まない灼熱の故郷、ナジュ砂漠があるのであろう。
 今はもう彼には帰る場所のない、愛するべき故郷だ。

「・・・ハリードよ」

 幾ばくかの間そうしていると、ふと背後に人が近づく気配を感じた。そしてハリードが振り返る前に、先んじて彼を呼ぶ男の声が届く。
 その声は先ほども夢想の中で聞いたばかりだったので、一々振り返らずとも分かる。
 ルートヴィッヒだった。

「・・・何の用だ。今更になって、昔話でもしに来たのか?」

 そういってハリードが振り返ると、そこには先ほどまでの鎧ではなく軍服を纏い、武装も剣のみを腰に下げたルートヴィッヒがいた。先ほど見た時と変わらずの読めない表情のようだが、よく見れば幾分かは外面を省いている様にも見える。それは夢に見た十年前から全く変わっていないようで、しかし改めて見てみれば多少は老けたようにも感じる。ならばそれは、当然自分もそうなのだろうな、と考えた。
 そう。彼の故郷が滅びたあの戦争から、もう十年と言う歳月が流れているのだ。

「お互い、もうそんな間柄ではなかろう。それに俺とお前の間にあるのは、気楽に語れるほど懐かしむような話でもない」
「同意見だ」

 ならば何をしに来た、とは言わなかった。ルートヴィッヒという男はその優れた容姿に反して、昔から何方かといえば必要な時以外は無駄口を叩かぬ、行動派の男だ。だから彼がここに来たのは無論、単なる昔話などをしに来たわけではないのだろうということは、言うまでもなく察しはついている。
 なので、無言で先を促すようにハリードが視線を送ると、ルートヴィッヒはぴくりとも表情を変えずに歩き出し、ハリードの横に並び立って海へと視線を向けた。

「俺はあの時から今まで、何者にも屈しぬ強さを欲し、その為にここまで歩んできた」

 唐突に語り出したルートヴィッヒの言葉に、ハリードは船の縁にもたれ掛かりながら聞き耳を立てる。

「十年前のあの時、俺やお前は、弱かった。俺はあの凄惨な敗戦を経て、己の信を貫くには絶対的な強さが必要なのだと悟った」

 強さ。
 ルートヴィッヒのその言葉に、ハリードは微かに視線を細めた。
 確かに、あの時の自分は弱かった。そして、彼の祖国ゲッシアも自分と同じく、弱かった。
 だから、敗けたのだ。
 英雄アル=アワドの元で興り、数百年続いたゲッシア王朝の唐突な滅亡は、死蝕の数年後という時節も相まって、大いなる時代の変革を世界に印象付ける衝撃的な出来事であった。
 十六年前の死蝕によって、世界は全ての新たな命を失った。
 また悲劇はそれだけに止まらず、世界各地で急激な荒廃を理由とした悲惨な事件が相次いだ。そして、一部の人々はそんな世界を憂い、その救済を『神』に求めた。
 三百年前に四魔貴族から世界を救った聖王は、もういない。ならば今の世界を救うのは、次なる救世主に他ならない。それこそが、魔王を超え聖王をも超えた、神王である、として。
 敬虔なる聖王教国家であるメッサーナ王国の、時の王アルバートと近衛騎士団は、当然にその存在を排除しようとした。そしてメッサーナから迫害された彼らが流れ着いたのが、西方にて聖王を拝しない唯一の国家、ゲッシアだった。
 だが、ゲッシアは英雄アル=アワドが魔王を退けた時から自国力に傾倒する独立王朝であり、ここもまた、異教徒を受け入れることはなかった。
 各地での度重なる迫害に憤慨し、そして遂に蜂起した神王教団が起こした宗教戦争が、聖王暦三百五年のゲッシア戦役である。
 ゲッシア朝は、その長い歴史に浸かり、甘んじ、弱体化していた。その治世は有り体に言って排他的であり、古来からの厳格な階級制度も変わることなく、外部の文明の進化を積極的に受け入れることもなかった。
 確かに蜂起した神王教団は、ゲリラ戦に特化し自爆攻撃まで行う苛烈な戦線を築いた。だが、それでも本来、一国を相手取るには不足していたはずなのだ。それでも、彼らは勝った。
 つまりゲッシアは、その長年の己が傲慢により、自ら滅んだのである。当時の論者は、挙って知ったような口ぶりでそう言った。
 ハリードはその時に故郷、家族、愛する者の全てを失い、それでもついぞ彼自身だけは命を落とすことがなく、喪失感に苛まれながらこの十年という歳月を過ごしてきた。
 しかし、同じくあの時に大半のものを失ったはずのかつての義兄弟ルートヴィッヒは、今こうして世界最大の王国の軍団長として自分の隣に立っている。

「今のその姿が、お前の求めた強さなのか」

 視線は向けないまま、ハリードはそう呟いた。
 すると隣から、ふっと息を漏らす音が聞こえた。ルートヴィッヒが薄く笑った。
 堅物男が笑うと思いの外気色悪いものだな、等と思いながら、ハリードは彼の言葉を待った。

「そうだ。いや・・・そうだった、か」
「なんだ、今は違うのか」

 基本的には物事に対する回答が明快な男のはずだが、それにしてはえらく歯切れが悪い返事だなと感じてハリードが聞き返すと、ルートヴィッヒは先ほど浮かべた苦笑いを崩さぬままに続けた。

「ハリードよ。お前は、世界を救うのか?」

 唐突な質問だった。
 思わずハリードが何を言い出すのだとでも言いたげな顔でルートヴィッヒに視線を向けると、彼は至極真面目な様子でハリードに視線を向けていた。そこでハリードは改めて思い出す。この男は、昔から冗談の類をほとんど言わない男であった、と。

「悪いが、俺が『八つの光』とやらであることを根拠にそれを聞いているのならば・・・答えは否だ。まぁ、余程の前金の上での依頼ということならば、受けるかも知れんがな」

 自分の判断基準は、常に明確だ。
 金になるか、ならないか。それだけでしかない。
 ハリードは、改めて考えるまでもなくそう確信して返答した。
 実のところを言えば、今自分がこうしているのも半分以上は、それが目的である。己の思うところにより行動を共にした側面も確かにあるが、それでもカタリナらとの旅は、単純に様々な事件事案に遭遇することが多く、その中では通常の小さな依頼を幾つ請負っても全く届かないほどの多額の報償金を狙うことが出来た。しかも古代の遺跡やらに足を踏み入れることもあり、そこでの財宝回収も狙える。これなら、稼ぎの選択肢としてはトレジャーハンターも悪くないのではないかと考えてしまうほどだ。
 つい最近ではまさかの四魔貴族などを相手取ることになったが、あの海底宮でも少なくない宝物の回収を行えた。それは一年を只管傭兵業に費やしても、全く届かない様な額だ。戦場と同じく己の命を切り売りしてあれほどの財が稼げるのであれば、それは彼にとって何の不足もない事であった。
 その返答を聞いたルートヴィッヒは、何ら笑うこともなく、そうか、と言って頷いた。

「俺はな、恐らく世界を・・・救おうとしていたのだ」
「ほう・・・祖国の同胞をすら裏切るお前に、よもやそんな高尚な目的があるとは思わなかったな」

 ルートヴィッヒの渾身の冗談に、ハリードは大いに皮肉めいた笑いを浮かべてやる。
 ハリードのいう同胞への裏切りとは、五年前のルートヴィッヒによるピドナ上陸戦のことを指していた。
 当時、既に亡国の王族であるという身分を隠して傭兵業に身を費やしていたハリードは、この戦役でメッサーナ近衛軍団の側に雇われて戦場に馳せ参じていた。戦そのものは流石というべきか時の軍団長であるクレメンス=クラウディウス率いる近衛軍が堂々たる戦いでルートヴィッヒの率いる軍を退け、その際に隊列上翼にて傭兵部隊を率いていたハリードも、この時には大いに稼がせてもらったものだ。
 この時の戦いでは一部隊長であるハリードと敵軍総大将であるルートヴィッヒが直接顔を合わせることはなかったものの、しかし後にハリードは同じメッサーナの民であるはずの近衛軍を攻めたルートヴィッヒの行動がどうしても解せず、後のクレメンス急死によって台頭したルートヴィッヒのいるピドナ宮を尋ねたことがあった。だが、ハリードの何度かの訪問に対してルートヴィッヒが応じることは、ついに一度もなかったのである。
 だが、今更になってその時の真意などを問うつもりは、ハリードにはない。
 もう、そんなことは彼の中では、どうでもいいことなのだ。だが心のどこかで、そんな風に思う事自体が、己の中にあった国を思い民を思う情熱を過去のものとしてしまった何よりの証拠なのであろうな、と無意味に自虐的な感傷にも襲われる。

「・・・己の来た道に言い訳はしない。だが、強くあり何者にも負けぬということは、結果として救世主にすらなるのは世の常なる事だ。だが、俺がそれを目指し進んでいた道の先に、お前たちが忽然と現れた」
「・・・・・・」

 世界最大の大国メッサーナの王位が今や目前にあろうという男が、一体何の理由で自分たちを気にしようというのか。全く話が見えずにハリードが続きを待つと、ルートヴィッヒはハリードに向き直りながら言葉を続けた。

「お前を含む八つの光が、この年の初めに起こったロアーヌでのクーデターを端として活動を開始したことを知り、俺はお前たちの動向を探っていた」
「・・・流石に、情報は筒抜けか」

 これは、恐らくミカエルその人も八つの光であったことも既に知っていると見て良いだろう。メッサーナの間者は文字通り、世界各国各地に潜んでいるようだ。
 ハリードがそんな近衛軍団の情報網に感心していると、ルートヴィッヒはそれに対して皮肉めいた笑みを浮かべた。

「あぁ。だから知りたいことは当然知っているし、知りたくなかったこともまた、知っているのだ」
「知りたくなかったこと、だと?」

 ハリードが眉間に皺を寄せながら尋ねると、ルートヴィッヒは腕を組んで片足に重心を移しながら、どこか自嘲気味な様子で笑みを浮かべた。

「ハリード・・・お前は既に、四魔貴族をすら打倒する力を秘めているのだろう。いや・・・既にその一部の打倒を為した英雄であったな」

 それは、フォルネウスを討伐したことを言っているのだろう。それなら残念ながら自分の功績と言うには全く語弊がある、と言いかけたが、ハリードは今は黙って先を促すことにした。

「先んじてロアーヌもまた、南方密林にあるとされる幻の火術要塞を発見・制圧し、四魔貴族アウナスを打倒した。その際の討伐隊を率いていたのが、フォルネウス討伐にてお前と共にいたというロアーヌの騎士・・・聖剣マスカレイドの所有者であるカタリナ=ラウランであることも伝え聞いている」

 ハリードはルートヴィッヒの言を、黙って聴き続けた。
 そのアウナス討伐に関しても、その実はカタリナらが到着する直前に何者かによってアウナスは既に滅ぼされていたという事情があるのだが、流石にそこまでは伝わっていないらしい。とはいえ、全く舌を巻くには十分な情報収集能力だ。

「特に此度のフォルネウス討伐に関し、あの伝説の移動要塞バンガードを見事起動せしめたその手腕は、実に見事だった。直前のフォルネウス兵の侵攻によって二度と動かすことが叶わぬかもしれなかった、その間際での起動。あれは、どう足掻いてもあの時点の我々には為し得なかったことだ。もしあの時お前たちの機転がなくバンガードがアビスの魔の手に落ち破壊されていれば、最早その時点で世界を救う術が無くなっていただろう」
「・・・・・・ま、そうかもしれんな」

 ルートヴィッヒの言に則って思い返せば、確かにあれは瀬戸際の状況ではあった。
 もしバンガードがあのままフォルネウス兵によって破壊されてしまったとしたら、最果ての島へ辿り着くことも、深海にある海底宮への侵攻も、その全てが不可能になっていただろう。そして再び今の人類がバンガードと同等のものを作り出すには、先ず何よりも結束力というものがない。三百年前に聖王十二将であるフルブライト十二世が中心となって構築した世界経済の結束も、荒廃した世に争わんとする国の結束も、救世を願う人々の結束も。
 勿論、新たなバンガードを今のメッサーナ王国が単独で作り出せるのかといえば、それも現時点では不可能だと言い切れるだろう。それが、最も今のメッサーナを知るルートヴィッヒには解っているのだ。

「つまり、我らでは世界を救えなかった、ということだ。知りたくもなかった己の無力を、改めて思い知らされた」
「ふん・・・随分と殊勝なことだな」

 ハリードが率直に意見を述べると、ルートヴィッヒは何ら動揺することもなく、静かに頷いた。

「思えばもっと以前・・・妖精族を救った時にしても、そうだ。妖精族の里とやらがアウナス軍の侵攻を受けた際、奇しくもロアーヌが軍をトゥイク半島に駐屯させていた。残念ながら今のリブロフの軍は、腑抜けだ。あの時は、ロアーヌの軍でなければ妖精族を救うのは不可能だっただろう。そして火術要塞は、妖精族の助け無くして辿り着くことが適わないと聞く。あの時に妖精族が滅んでいれば、密林からアウナスの侵攻が全世界に広がったかも知れぬ。俺は別に運命論者ではないが、流石にこう立て続けに現実を目の当たりにすれば、宿命がお前達にあり、我らにないということくらいは、理解できる」

 ハリードはルートヴィッヒの言葉を聞きながら姿勢を変え、船の縁に両腕をついて体重を預けた。揺れる軍船の先に、先ほど垣間見た南の大陸を見る。

「これら事実を踏まえ俺は、今直面する脅威から世界を救うという点において、お前たちには及ばぬという結論に至った。だから、今お前たちと対立する道は無益だと判断したのだ」
「・・・だから俺たちを召し抱えるわけでもなく、ただ敵ではないという立ち位置を確保しようって腹か」
「そうだ」

 ルートヴィッヒの言葉には、微塵も嘘偽りがないのだろう。一人称も先ほどの会談の時とは違い、十年前に互いが義兄弟と呼び語り合っていた時のものだ。彼が今この場では本心の言葉を語っているのだろうということが、確かに感じられる。

「お前たちは、恐らく世界を救うのだろう。寧ろ・・・今のお前たちで救えぬのならば、メッサーナは愚か、他の誰にもそれは為し得ぬことだろう」
「ふん、まるで預言者のような口ぶりだな。さながら、初代メッサーナ王パウルスのようだ。流石は、次代メッサーナ国王様といったところか?」

 ハリードの皮肉たっぷりの言葉に、ルートヴィッヒは口の端だけを少しだけ吊り上げて笑った。こんな笑い方は、昔はしなかったな、とハリードは思う。十年で変わったのは、老けた意外にはこんなところか。

「俺は、メッサーナ王を継ぐつもりは、もうない」
「・・・ほう?」

 ここにきて、まさかその大役を自分ではなくミューズあたりにでも任せるつもりか、と思う。なら、それはやめた方がいいだろう、と即座にハリードは考えた。
 ミューズは確かに聡明な娘だが、その眩しすぎるほどの高潔さは、国というものを動かす時に、時に邪魔になるのだ。
 全てが正しさだけで動くほど、国家とは甘くはない。だが、その事実にあの娘は染まらないだろう。そしてそれは国の中枢という、この上無い豊かな苗床の中で跳梁跋扈する数多の役人共の不興を買い、疎まれるうちに絡め取られ失脚するのが落ちだ。それは嫌味ではなく、ハリードは本気でそう思っている。
 だが、ルートヴィッヒの続けた言葉は彼の想像を軽く超えるものだった。

「最近までは、そのつもりだった。それが俺の求める・・・己が歩むべき覇道だと考えていた。だが、それでは未来永劫、お前たちには並べぬだろうと悟った。故に俺は・・・今この世界を席巻する聖王崇拝と依存の歴史から脱却すべく、新たな国家を設立することにした」
「新たな・・・国?」

 その思いがけない言葉にハリードがルートヴィッヒへと視線を向けると、今度はルートヴィッヒが片手を船の縁に乗せて遠く南の大陸へと視線を向けた。

「お前たち八つの光によって世界が救われた後の新たな三百年にて、人類は、更なる強さを求め、進化しなくてはならない。そうしなければ、いつまでも人類はお前たちのような救世主を待つばかりの、弱き存在でしかない。しかし救世主とはどの場所、どの時代にも常にいるものではない。今のままでは、人が危機に瀕し、その時その場に救世主がいなければ、人は全てを諦め失わなくてはならない。それは、紛れもなく今の人類が抱える弱さだ。だから、それを脱却する為の新たな国を興す」

 それはまるで建国の英雄の言葉のようだな、と呑気にハリードは視線を波に移しながら感想を思う。
 確かにルートヴィッヒの言うことは、大枠では理解できる。
 特に己の力のみを信じてこの十年を生きてきたハリードからすれば、他者に頼らぬ生き方というのは、大いに共感しかない。自分以外の何かに拠り所を求めているという意味では、聖王崇拝を軸とした今のメッサーナ王国も神王教団も、大した違いはないと彼は思うのだ。
 だが一方でルートヴィッヒの考えは、かつて独立王朝を築いたゲッシアと、どのような違いがあるのだろうか、とも思う。
 己の力を信じ突き進んだ先に、ゲッシアは腐敗し弱体化の一途を辿り、そして滅んだ。
 隣に佇むかつての義兄弟が歩もうとするその道の先にも、結局はそのような結果が待っているのではないのか。そんなふうにも、彼には思えるのだ。
 だが恐らくは、そんな道を歩んだ一つの国家の滅亡を目の当たりにしているこの男だからこそ、そうはならぬための目算も、きっとあるのだろう。

「・・・お前は、どうするのだ」

 突然に話を振られて、ハリードは危うく素っ頓狂な声を上げるところだった。

「お前は、その旅の先に、何を為そうとしている?」

 単なる興味本位で聞いている様子は、ない。
 それが痛切なほど解るからこそ、ハリードはルートヴィッヒに視線を合わせることはしなかった。
 ルートヴィッヒは十年前の敗戦から、己の信じた覇道を歩み続けている。そしてその結果として一つの答えを見出した彼は、今それを自分に包み隠すことなく話している。
 そう、これは十年前に全てを失い、その覇道の最中で袂を分かった自分に対する、彼なりのけじめなのだろう。
 だが、ハリードにはそれに対する返答など、なかった。

「・・・俺は・・・」

 何を言おうとしたのか、自分でも分からない。
 ただ、何かを自分も言わなくてはならないという強迫観念に駆られて、声を出したに過ぎないのかもしれない。
 いや、本当にそうだろうか。自分は、何かを言いかけたのではないか。
 それは、一体何なのか。
 未だに夢に見る、十年前の悪夢。
 あの時に失った愛する祖国を再興するためと称して、どれだけ意地汚くとも傭兵業に費やしてきた日々。だが本当にそれは、今の自分の望みなのか。
 仮に祖国再建を果たしたとしても、そこにもう、自分が愛した人は、いない。
 それは、本当に自分の望むゲッシアなのか。
 しかしそうではないのだとしたら、ならば一体自分の望みとは、到るべき場所とは、一体何処なのか。
 数瞬の間に様々な思いが、頭の中を駆け巡る。
 だが、そこに答えはない。
 無意識のうちに腰に備えた曲刀の柄を握りながら、ハリードは結局、言葉に詰まってそれ以上は何も言えなかった。

「・・・ふ、お前にはまず、世界を救うという宿命があるのだったな。今は語らずとも、その先に見せてもらおう」

 違う。
 そんなことでは、ないのだ。
 兎に角、そう言おうとしてハリードはルートヴィッヒへと顔を向けた。しかしルートヴィッヒは既に彼に背を向け、歩き出していた。
 そして数歩進んだところで足を止め、ハリードへ振り向くことなく、ただ少しだけ上を向いて言葉を紡いだ。

「我々は・・・生きていくために、選ばなければならない。選ばず止まれば、死が待っているのみだ。だからこそ生きて前に進むには、それしかないのだ」
「・・・・・・」

 その言葉に対する返答を待つでもなく、ルートヴィッヒは歩き去っていった。
 ハリードもまた声を出すことなく、歩き去っていく彼の背中を見つめているのみであった。

 

 

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