はじまりの理由

 

私が騎士になった理由?」

 三百年の昔に四魔貴族をアビスへと退けた聖王が今も眠る地、聖都ランス。その脇を通って遥か南東のファルスまで抜ける長大なるイスカル河に沿い、内陸都市スタンレーへと向かって南下する道中の、小さな宿場。
 テーブルの向かいから唐突に発せられたエレンの質問に、カタリナは手にしていたエールジョッキを傾けながら疑問符と共に応えた。エレンは、うんうんと頷きながら言葉を続ける。

「うん。女騎士ってカタリナさんの他に聞いたことないし、不思議だなって思ってたんだよね」

 エレンの疑問は、まぁご最もであろう。何しろ当のカタリナ自身、自分以外に女騎士など現役では誰も知らない。
 そもそもにして、女の身で軍人を志すこと自体、このご時世では全く異質なことであるのだ。
 更には現存する歴史書を顧みても、女性で名を残した軍人は片手で数えるほどもいない。因みにその中で最も著名な人物といえば、彼女の祖国ロアーヌの初代侯妃ヒルダ=アウスバッハだ。かの聖王十二将の一人とも云われる、生粋の戦人である。
 しかしその後は侯国に於いても女性軍人の排出はなく、他国にもその例は同様に見当たらない。そこにきてカタリナの存在を不思議に思うなという方が、無理があろうというものだった。
 しかして、それを聞かれたカタリナは答えに詰まるというよりは、まるで質問自体を懐かしむような表情をして微笑み、エールジョッキの中身を飲み干した。

「おい、あまり他人の過去をがっついて聞くもんじゃあないぜ」

 そう言いつつ横から割って入ったのは、同じくエールジョッキを手にしたハリードだった。
 それは長年傭兵である彼も色々とこの手の質問には身に覚えがあろうことが伺える、随分と気の利いた注意にも思われた。

「他人の過去なんて聞いても、大抵いいことはない。第一そこで『実はコソ泥やってました』みたいな話を聞いたら、お互い気まずいだけだろうよ」
「いやいや一々そこで俺へのディスを挟まなくてもいいよな⁉︎」

 突如として予想外の流れ弾を被弾した元盗賊のポールが必死に抗議の声を上げるが、生憎とそこは誰も反応してはくれない。
 憤慨するポールを他所に、カタリナは小さく肩を竦め、エールのおかわりを店主に頼んだ。

「別に構わないわ。今まで何百回と受けた質問だし、特に隠しているわけでもないもの」

 即座に運ばれてきた追加のエールジョッキを受け取って一口含み、カタリナはリラックスした様子でテーブルに頬杖をつきながら、ゆっくりと口を開いた。

「まぁ、特に面白い話じゃあないけれど・・・」

 カタリナはエレンに分かるようにと、現在の騎士の概要から簡単に説明することとした。
 ロアーヌに限らず、現在の各国都市の軍事力とは、主に常備軍によってのみ成り立っている。
 常備軍は基本的に貴族階級を中心として構成され、あとは必要に応じ民間の傭兵を雇うくらいで、民間人の兵役などは存在していない。
 聖王歴以前の戦乱の世には一斉徴兵が主であったが、聖王の時代以降には目立った戦乱もなく、魔物討伐も徐々に落ち着いていった。そうなると莫大なコストの掛かる軍事力の維持自体が、各国で重要視されなくなっていったのだ。

「メッサーナ諸国の数百年にも渡る秩序統制は、まぁ見事なものだった。祖国ゲッシアは聖王の教えに属さぬ国だが、その高潔な意志が世界中で長きに渡り浸透している様には、敬意を表さずにはいられなかったがね・・・ま、それも昔の話だが」

 カタリナの説明を横で聞きながら、軍備縮小の背景についてハリードが何やら昔を思い出すような口調で呟く。
 六百年前、魔王の時代を生きたとされる英雄アル=アワドを祖とするゲッシア朝ナジュ王国は、メッサーナ諸国とは異なる教えを尊ぶ国だった。しかし彼らとメッサーナ諸国は聖王の時代から現在に至るまでの三百年に渡り、良い関係を築いていた。
 それは偏に、四魔貴族を退け世界を安寧へと導いた聖王という存在が大きく影響してのことだ。

「てことはつまり、カタリナさんが騎士になった理由は、必要に迫られて・・・とかじゃないってことになるの?」
 エレンはこれまでの説明から、そのように発言する。カタリナは、素直に頷いた。

「そうね、少なくともロアーヌでは魔物討伐の頻度などはこの十年程で増えてきたけれど、急激な兵力の増強が求められていたわけではないわ」

 即座に同意されたことで、エレンはいよいよ不思議そうな顔をしながらカタリナに続きをせがんだ。

「私が騎士を志した切っ掛けは、まぁ月並みだけど・・・死食よ」
「死食・・・」

 カタリナの言葉を繰り返すように呟きながら、エレンは神妙な様子で口を噤んだ。
 三百年に一度、この世界を襲うとされる大災害。それこそが、死食と呼ばれる天体現象であった。
 死の星が太陽を覆い隠すその時、世界から全ての新しい生命が失われる。
 半ば伝説と化していたその災厄は、聖王誕生から三百年後、即ち今より十六年前、伝説通りに再び世界を襲った。そしてこれもまた伝承の通りに、世界中の新しい生命を無慈悲に奪い去った。
 その苦々しい記憶は今の世を生きる人々全てに深く刻み込まれ、そして世界を緩やかに混沌へと導き始めている。

「当時の私は十歳にも満たない歳で、あの世界を覆った絶望的な瘴気を前にこの世の終わりを感じ、強く恐怖したわ。それはもう盛大に、年甲斐もなく泣きじゃくってしまってね。両親や召使も大変だったというのに、とても心配させてしまったの」

 間もなく思春期を迎えようという時に、抗いようのない絶望を目の当たりにした記憶。それは、彼女の脳裏に強烈に焼きついた。
 一頻り恐怖し、死食の光景を思い出しては迫る死に怯え毎夜泣くことを繰り返し、そろそろ涙も枯れ果てるのではないかと思われた、ある夜。
 その日も泣き疲れて眠った彼女の枕元に、何者かが立ったのだという。
 そしてその者は、カタリナに『何事かを囁いた』のであった。

「実は、その時何て言われたのかは、一切覚えていないの。でも朝起きた時、私は死食への恐怖心が消えて、もう涙を流さなくなっていたわ。そしてただ、この国を守る為に出来ることをしなければならない、って・・・。その強烈な使命感だけが、自分の中に残っていたのよ」
「へぇ・・・そりゃ所謂、天啓ってやつかい?」

 塩漬けされた干し肉を齧りながら、ポールが言う。どうかしらねと苦笑しながら自分も干し肉の皿に手を伸ばし、そんな大袈裟なものじゃないだろうけれど、と続けた。
「でも、本当に理由はそれだけなの。私に出来ることをして、災厄からロアーヌを守りたい。唯その想いに突き動かされて騎士を志し、両親を必死に説得したわ。そりゃあ最初はもうね、死食で気が狂ったんじゃないかーって凄い心配されて」

 それは当然そうだろうな、とハリードも苦笑混じりに頷いた。
 貴族に生まれた女の生涯というものは兎に角、家の発展のために嫁ぐことに尽きる。それは、この世界ならばどの国でも同一の常識だ。それこそ生まれた時には婚約者も決まり十五の年には嫁ぐ、というのも全く珍しくはない。
 それがある日突然にその宿命を否定し騎士を目指す、等と宣うのであれば、ご両親の心配は然もありなん、といったところだろう。

「お父様とお母様には本当に感謝しているし、尊敬しているわ。何しろ、最後には私の我儘をお認め下さったのだもの。ただまぁ、周りの貴族連中からは相変わらず気狂い扱いをされているけれどね」
「あたしもシノンでは自警団やってたけど、それだって何人かからは『女が自警団なんて』って言われたくらいだもん。ましてや騎士になるなんて、本当に大変そう・・・」

 自身の経験に照らし合わせて想像してみたのか、エレンは眉を見事な八の字に歪めて見せながらそう言った。
 一方のカタリナは、自分の席の後ろに立てかけてある大剣へと視線を僅かに向けながら、軽く微笑み返した。

「まぁ幸い、騎士団の皆には良くしてもらったわ。同期連中もそうだし、将軍の方々も剣の腕で判断して下さったお陰で、あんまり余計な事に神経すり減らさずに済んだもの。弊害があったとしたら、ちょっと口が悪くなっちゃったことくらいかしら。剣を抱えて男連中と年中一緒にいると、どうしても、ね?」

 そういって悪戯っぽく微笑んで見せるカタリナに、エレンも思わず笑顔で応える。

「あたしは、ロアーヌの謁見の間で会ったカタリナさんよりも、今のカタリナさんのが断然好きだな。貴族の人って、やっぱとっつきにくい感じがするもん。モニカ様は、そうでもなかったけど」

 そのあけすけな物言いには、思わずその場の一同が苦笑してみせる。だが、そのように思うのはエレン以外も同様であった。

「確かにカタリナさん、あんまり貴族って感じはしないよな。あーいや、いい意味でよ?」
「お高くとまっていないのは、確かに好感は持てるがな。というかそんなことよりも、一介の騎士とは到底思えん腕っ節なことの方が俺は余程、気になるけどな」
 ポールが頷きながらそう言うと、ハリードも同調する。

「強い女って、かっこいいじゃない。あたしもそうなりたいわ」
「いやエレンちゃん、もう十分強いけどね・・・」

 鼻息を荒くしながら張り切るエレンに、ポールが冷ややかな視線と共にツッコミを入れる。

「でも、国を守るはずがいつの間にか四魔貴族がどうのなんて話に首を突っ込んでしまっていて、自分でも最近、何してんのかなって思っちゃうこともあるけどね。一刻でも早くマスカレイドをご返上しなければならないっていうのに・・・」

 カタリナがそう言いながら少々俯き加減になると、それをいち早く察したハリードとエレンがカタリナの横に座るポールに向かって目配せをする。
 それに肩を竦めて反応してみせたポールは、店主に声をかけて全員分のエールおかわりを頼んだ。
 酒が入って祖国の話題になると、カタリナは必ずどこかで自虐し出す傾向がある。このことを、彼らは彼女と行動を共にしたこの数週間で既に学んでいたのだ。このまま続くと、どんどんカタリナは自虐の沼に沈んでいくばかりなのである。

「よーし、しっかたねぇなー。じゃあ次は、俺とニーナの馴れ初めの話をしちゃうかな!」
「死ぬほど興味がない内容だが、まぁ今は聞いてやるとするか」
「死ぬほど興味がない話題だけど、あたしも今はそれで我慢するわ」
「じゃあ俺に振るなよなあんたら⁉︎」

 せっかくの話題転換を一撃粉砕されたポールが抗議の声を上げると、一同に笑いが起きる。

 その時だった。
 俄かに外が騒がしくなっている様子に気がついたエレンが、怪訝そうな顔をしながら窓枠へと視線を向ける。
 はたしてその窓枠の向こうには、片手に松明、もう片手には見るからに粗雑な作りの短剣などを持った野盗と思しき集団が、この小さな宿場へと略奪しにきた様子であったのだ。

「ほう・・・ポールの惚気話よりは余程面白そうなイベントじゃないか。おいカタリナ、いくぞ」
「・・・人がいい気分で飲んでいるところに、随分と無粋ね。まぁいいわ、気晴らしにはなりそうだもの」

 ハリードに急かされるようにして立ち上がったカタリナは、大剣を手にして扉へと向かう。
 その陰で、店の隅で怯える店主に用心棒代として今日の飲み食い金をチャラでどうだと声を掛けるハリード。それを見かけてすかさずハリードの頭を叩くエレン。
「・・・ほんと、カタリナさん達と旅をしていると退屈しないねぇ・・・」

 ポールは其々の様子を見ながら肩を竦め、自分も腰に下げたロングソードを抜き放つ。
 こうしてカタリナとの旅に出てから、彼は幾度も予想外のトラブルを経験してきた。いい加減その目紛しさにも慣れ始めている自分に対しても苦笑を向けつつ、恐らくはこれからもその中心に居続けるであろう人物へと、改めて視線を向けた。
 視線の先で先頭を行くカタリナは、躊躇いなく野盗の前に躍り出ると、手にした大剣を大上段に振りかぶりながら口を開いたのであった。

「生憎と、貴方達に物を差し出すためにここにきているわけではないの。さぁ、観念なさい!」

 

 

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シノンのハロウィン

 

「毎年思ってたけど、トムがこういうのちゃんとやるのって・・・ちょっと意外だよね」

 首から下は簡素な黒い魔女のローブと、頭部は特徴的なとんがり帽子という出立ちのサラが、ふと、そんなことを言った。
 彼女が視線を向けた先には、彼女と殆ど同じような真っ黒のローブにフードまでついた衣装に身を包んだ、幼馴染であるトーマスの姿がある。彼のこの格好は、魔女ではなく死神を模したものだ。

「そうかな。うーん・・・こういう催しが出来るようになったのは、シノンが昔よりも豊かになった証だからね。それで、気持ちが高揚するからかもしれないな。っていうか、俺は元から案外こういうの好きなんだけどな」
「あは、言われてみれば確かにトムって、意外とイベント事、好きだったかも」

 そう言って微笑んだサラは、手元に視線を落として作業を再開する。彼女が作っているそれは、簡素な壁掛け用の装飾品のようだった。既に多く作られた同様の装飾たちは、最後の飾り付けを今か今かと待っている。

 今日は、ハロウィンである。
 普段は慎ましい暮らしをしているシノンでも、この日は開拓の仕事を休みとし、ちょっとしたお祭り気分で一日を過ごすのだ。
 ミュルスやロアーヌではもっと派手な装飾と共に様々な催しが開かれるのだが、生憎と開拓地であるシノンでは、そんなに大それたことは出来ない。
 なのでトーマスらは毎年、自警団として集合によく使う行きつけの酒場で身内だけで細やかに楽しもう、という催しを開いているのであった。
 ちなみにこの酒場の店主は、毎年この時期は首都ロアーヌで開かれる祭りへ出稼ぎに向かっている。なので毎年この日は、この小屋を好きに使っていいということになっているのだ。

「そういえば、エレンとユリアンは?」

 着々と料理の用意を進めながらトーマスが尋ねると、サラは同じく手元を動かしながら応えた。

「お姉ちゃんとユリアンは、村でダックアップルやってると思うよ」
「あぁ・・・そういえば毎年やっているもんな。衣装のままやってなければいいけど」

 ダックアップルとは、水を張った大きな桶に浮かべた林檎を口だけで掴むという、この時期に行われる定番の余興だ。
 娯楽の少ないシノンでは案外これも盛り上がるのだが、これをすると衣装まで濡れるのでサラは苦手であったし、トーマスは眼鏡をかけているものだから同じく好んで参加はしない。なので、シノン自警団四人の中では、毎年参加しているのはエレンとユリアンなのであった。
 去年も盛大に濡れ散らかしてきたものだから、小屋の床まで濡れたものである。

「衣装は多分、後で着ると思うよ。今年はおばあちゃんが新しく縫ってくれたから、お姉ちゃんも着るの楽しみにしてたし」
「なるほど、それなら安心かな」

 シノンのハロウィンの仮装は、基本的に男性は死神、女性は魔女で統一されている。
 ロアーヌやミュルスではもっと多彩な仮装があるらしいが、そのような装飾を入手するのも難しいシノンでは、ローブ一枚で済む簡素なものくらいしか用意が出来ないのだ。
 しかし結果として、一番元々のハロウィンらしい衣装に纏まっているとも言える。

「そういえばハロウィンって、聖王歴の制定以前の風習なんだっけ」
「そうだね。文献によれば昔、今日が年の暮れで、明日からが新年の初め・・・とされている地方があったらしい。その地方のお祭りが後年、今みたいなハロウィンに変化したとされているね」

 ふとサラが何気なく口に出した疑問に、トーマスが竈門の火の具合を確かめながら答えた。

「その日には世界に、現世の人間には見えない門が開き、そこから死んだ祖先が家に帰ってくるんだそうだ。ただ、その門からは同時に招かれざる客ともいうべき、悪い精霊や魔女も来てしまう。それらから身を守るため、その招かれざる客に扮して難を逃れようとした・・・というのが、仮装の始まりだとされているようだね」

 わからないことをトーマスに聞くと、このように大抵のことは実に明快な説明が返ってくる。それをサラはいつも、ただただ尊敬の念を抱いて見てしまうのだ。
 彼に倣って彼女もそれなりに本を読むが、全く彼の知識量には追いつける気がしない。いつかは自分もこうしてさっと答えてみたいなと、密かにサラは思うのであった。

「そういえば、サラは新しく縫ってもらってはいないのかい?」

 どうやら焼成の間に時間が出来たらしいトーマスが、彼女の方へと近づきながら言った。
 なぜそんなことを聞いたかと言えば、エレンは新しい衣装を縫ってもらったという話なのに、サラの着ている魔女のローブは、去年と同じもののように見えたからだ。なので単純に、そこを疑問に思っただけなのである。

「え・・・っと、実はこの下に着てるんだけど。ちょっと・・・恥ずかしくて」
「恥ずかしい・・・?」

 トーマスが彼女の隣に腰掛けて装飾作りを手伝いながら首を傾げてそう問いかけると、サラは少し俯き気味になりながら小さく頷いた。

「お姉ちゃんがリクエストしたんだけど、あの、ミュルスや城下町とかで流行っているみたいな今風のやつ・・・らしいんだけどね・・・」
「今風」

 何やら、俄然興味が湧いてきた様子のトーマスは、サラの言葉を断片的に鸚鵡返ししながら聞き返す。

「うん・・・。えっとね、化け猫の衣装、なんだけど」
「化け猫」

 トーマスは装飾を作っている手を止めて、おもむろに眼鏡のブリッジ部分を人差し指でくいっとしてみせた。
 これはちょっと、是が非でも見たいと思ったのである。
 彼は、何かのスイッチが入るときには大抵この仕草をする。それは眼鏡を掛けている人は大抵これがスイッチらしいという様式美に倣ったものであるそうだ。
 だが・・・と、彼は考えた。
 こうして恥ずかしがっている時のサラは結構強情なもので、下手をしたら今日はこのまま魔女ローブを羽織ったまま、新衣装のお披露目なしで過ごそうとする可能性も、否定はできない。
 ここで本当ならば、サラの可愛い姿を見るという目的を達成するためには大いに頼りになるはずの同志であるシスコンエレンは、多分家で既に衣装を着たサラを見ているはず。
 だから、サラが嫌がるならば無理にこの場で披露させようとはしないだろうと予測された。
 むしろシスコンが過ぎて、男には見せようとしない、まである。
 自分の衣装は見せつけながらも、テンション上がった男共を一切寄せ付けないくせに、全く傍若無人なシスコンだ。
 そうなるとつまり、サラの化け猫仮装姿が非公開お蔵入りになる可能性は、そこそこ高いのではないか。
 このようにトーマスは、頭の中で瞬時に考えた。
 ならばつまり、二人だけの今こそが。この瞬間こそが、確実にサラの化け猫衣装を拝む最大の好機であるのでは。
 トーマスは、そう結論付けた。

「・・・サラ、俺にサラの衣装を見せてほしいな」
「えっ・・・」

 単刀直入に物申してきたトーマスに、サラは思わず作業の手を止めて振り向いた。
 その先に眼鏡のレンズ越しに見える、サラを真っ直ぐに見つめるトーマスの瞳は、真剣そのものだ。

「え・・・っと、あの、でも、まだお姉ちゃんたち来てないし」
「勿論、タダで、とは言わないさ」

 ローブの胸元を押さえるようにしながら少し警戒気味のサラを宥めるように、トーマスは再び眼鏡をくいっとしながら、壁に掛けられた時計に視線を向けた。

「もし今ここで衣装を見せてくれたら・・・間も無く焼き上がる本日のデザートを、焼き立てのタイミングで試食させることもやぶさかではない・・・と言ったら?」
「今日のデザート・・・。ひ、ひょっとして・・・!」

 可愛く眉間に皺を寄せ、顎に手を当て一瞬考えるサラ。だが直ぐにその答えに見当がついたのか、彼女は驚愕の様相でトーマスに向き直る。

「そう。今日はハロウィンさ。そして今、竈門で焼成しているのは、パイだ。ならば自ずと・・・その正体はわかるね?」
「・・・パンプキンパイ・・・!!」

 まるで「卑怯な!」とでも言いたげな表情をしながら、サラはトーマスを見つめ返す。
 何を隠そう、サラの大好物こそが、そのパンプキンパイなのであった。
 特にこの時期は夏と比べ甘みの強いカボチャが収穫できる季節である。
 ハロウィンではジャックオーランタンの飾りよりも、トリックオアトリートよりも、何よりその後に後始末として食べる大量のカボチャ料理の方が密かに楽しみであるサラとしては、料理にも長けるトーマスの作ったパンプキンパイともなると、正に至宝と言っても過言ではない代物なのである。

「普段は、事前に焼いておいたものを最後に出すからね。当然、冷めたパイだ。勿論冷めても美味しいように作ってはいるんだけど、焼成直後のホクホクでサクサクのパンプキンパイもまた、絶品なんだよ。これがこちらの用意できるカードだとしたら、如何かな?」
「・・・うぅ・・・っ!」

 それでもサラは抵抗する素振りを一応見せてはみたものの、残念ながら既に勝負は決していた。
 勝利を確信して静かに微笑むトーマスへと向き直ったサラは、ゆっくりとその場から立ち上がった。そのままおずおずと自らの被っているとんがり帽子へと手を伸ばした彼女は、帽子の先を摘み、すっと取り去る。
 すると、帽子の中からは彼女の可愛らしい栗色の髪以外に、ぴょこんと飛び出す二つの突起装飾が現れたのだ。

(猫耳・・・だと・・・!?)

 トーマスは眼鏡の奥で瞳を今年最大級に刮目させながら、その内心では力強く拳を握りしめ天に向かい雄叫びを上げる。
 しかし当然、表面上は柔和な笑顔の完璧なポーカーフェイスだ。

「そ、そんな見ないで・・・」

 火を吹きそうなほどに顔を紅潮させたサラは、しかし竈門から既に良い香りを漂わせてくるパンプキンパイの誘惑には全く抗えず、続けて首元のローブの留め具をゆっくりと外す。
 留め具を外すと呆気なく黒いローブは、はらりと彼女の足元に滑り落ちた。
 そしてその中に在ったのは、どうやら黒い羊毛を用いて作られたらしいふわふわの生地で縫い上げられた、非常に可愛らしい衣装だった。
 しかしそれを見て、ここで流石のトーマスも思わず固まってしまう。
 無理もない。何しろ彼女が身に纏う衣装は、胸のあたりと腰のあたりを覆うのが精々で、腹部や大腿部より下は肌が曝け出された状態の実に大胆な代物だったからだ。

「お姉ちゃんと二人分作ったら羊毛が足りなくなっちゃったみたいで・・・お腹とか、出ちゃったの。だから、ほんと恥ずかしくて・・・。・・・・・・・ト、トム・・・?」

 相変わらず顔を赤らめたままのサラの目の前で数瞬固まったままでいたトーマスは、怪訝な表情で自分を呼ぶサラの声でハッと気がついたように瞬きをすると、ゆっくりとしゃがみ込んで彼女の足元に落ちたローブを拾い上げ、そのままサラに羽織らせてあげた。

「とても・・・可愛い衣装だね。ただ・・・確かにちょっと体を覆う面積が少ないから、これはちょっと・・・寒そうだ」

 そう言いながら首元で留め具を締め直してあげるトーマスを、まだ紅潮したままの表情のサラは上目使いで見上げる。

「か、可愛かった・・・?」
「・・・あぁ、とても」

 そう応えて微笑んだトーマスは、それではこちらもと言いながら、どこか急ぎ足でカウンターの向こうにある竈門へと向かった。

(・・・いや、あれは反則だろう。ユリアンには見せられないな・・・)

 極力平静を保ちながら彼女の前から動いたつもりだが、しかし遂にトーマスは竈門の前にしゃがみ込んだところで無意識に破顔してしまい、片手で顔面を抑えた。

(あぁ、可愛かったな・・・。いや、可愛い。うん・・・可愛いしか出ないな。ていうか危なかった・・・変な声出すところだった・・・。いやしかし、完全に脳裏に焼き付けてしまった・・・)

 脳内で騒がしく思考を巡らせながら、先程の映像を反芻させるトーマス。
 というか恐らく、エレンはそもそも男衆にはサラのこの格好は見せるつもりはなかったのではないかとすら思う。恐らくは彼女も同じ格好をしているだろうから、村の男たちにはそれだけで十分ではあろうし。
 しかしトーマスにとっては、サラの方が思いのほか攻撃力が高かったようだ。

「・・・トム?」

 今度は竈門の前でしゃがみ込んだまま動かない様子のトーマスを不審に思ったのか、サラはキッチンカウンターの前まで歩み寄って、上からトーマスを覗き込んだ。

「・・・あ、あぁ、すまない。さぁ、約束の焼きたてパンプキンパイだ。二人が来ないうちに、召し上がれ」

 声をかけられて現実に意識を戻したトーマスは、竈門から出したパイを早速切り分け、器に乗せてサラの前に差し出した。
 するとみるみるサラの表情は笑顔に溢れ、香ばしい焼き立ての香りを楽しむようにパイの前に顔を寄せて香りを嗅いでいる。

「熱いから、気をつけてお食べ」
「はーい! いただきます!」

 先程までの羞恥心はどこへやら、あっという間に上機嫌になったサラはフォークを片手にパンプキンパイ攻略へと取り掛かった。

(猫の手みたいな装飾も欲しいな・・・あとは、しっぽみたいなのも・・・。近いうちにミュルスあたり行ってみるか・・・時期が終われば色々安く売っているだろうし、来年使えるかもしれない・・・)

 サラが美味しそうにパイを食べる様を見ながら、トーマスは脳内でばっちり保存されたサラの猫娘姿に様々なアイテムを当てはめつつ、妄想に耽るのであった。

 

 

「ちょっと、もう少し薪になりそうな枝を集めてから入りましょ」
「え、足りないか?」
「いいから。ほら、いくわよ!」

 小屋の扉の前で立ち止まったかと思えば、なんでかエレンは急にそんなことを言い出した。
 ダックアップルで髪もびしょ濡れのユリアンは、早いところ暖炉の火に当たりたいところであったが、エレンに急かされるようにして渋々森へと進路を反転させたのであった。

 

 

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ピドナの休日(夜)

 

 世界各国の文化が幾重にも交差する、文明の坩堝、ピドナ。
 多種多様な地域から移民が集まり形成されている世界最大国家メッサーナの首都が誇る広大な城下町では、その各地方から人と共に渡ってきた文化を元に、実に様々な催しが季節毎に行われていた。

「これは・・・一体なんのお祭りなの・・・?」

 訳もわからぬままに、浴衣と呼ばれる何処かの民族衣装らしき装束を纏わされたカタリナが、そう問うた。
 すると、彼女の手を引きながら小走りに進んでいた同じく浴衣姿のサラは、もう片方の手に持つふわふわとした白い雲のようなもの(わたあめ、というらしい)を高らかに振りかざした。
 そしてピドナメインストリートの両側をこれでもかと埋め尽くすように居並ぶ屋台群をふわふわで勢いよく指し示して、こう言い放ったのだ。

「これはお祭りじゃなくて、縁日です!」
「えん・・・?」

 残念ながら、それはカタリナの知らない単語であった。
 どうもロアーヌのこと以外にはそれなりに疎いらしい、ということを最近とみに自覚しているカタリナは、その聞き慣れぬ単語を耳にして、早々にこれ以上の追求は諦めることとした。
 ただ、こちらが追及するかどうかは別として、サラは親切にも説明を続けてくれる。

「縁日っていうのは特定の神様と特に縁のある日、って意味らしくて、この浴衣と合わせて、どうやら東方に所縁のある催しらしいです!」
「東方・・・それでこの格好というわけね」

 着慣れぬ浴衣というものに加え、機能性としては如何なものかと思われる程の小ささである巾着袋や、動くには不便でしかないと思われる帯周りの紐飾りなど、彼女の全く知らない装着具が多い。
 それらも、東方の発祥という事であれば存じていないのも頷けるというものだ。

「なんでも東方には神様が八百万もいるとかで、それら全てに縁日があるとかなんとか。それって最早、毎日がお客様感謝デーみたいな感じですよね!」
「え・・・そ、そうね。まぁよくわからないけれど・・・つまり、今日はおめでたい日なのね?」
「そうです!」

 サラの実に快活な返事にカタリナは思わず笑みを零しながら、それならば承知とばかりに周囲の屋台へと目を向けた。

 早速彼女の目についたのは、周囲の屋台よりもやけに立派な構えをした、大きめサイズの屋台だ。
 当然その大きさから目につく人も多いのか、屋台の前には中々の人混みができている。してその奥で集客を捌いている人物には、なんと見覚えがあるのであった。

「あら、ノーラさん?」
「お、来たねカタリナ。サラも一緒かい。二人とも一回どうだい!?」

 流石はピドナでも老舗中の老舗である、レオナルド工房。こうした街の催しには、いい場所取りで参加しているようだ。周辺に比べて屋台の作りが立派なのも、ノーラのものならば頷ける。
 して、その立派な屋台上部の大きな看板には、こう書かれていた。

「型抜き・・・?」
「そう、型抜きだよ。最高難易度の聖王の槍の型を抜けたら、ダマスカス製の実寸大聖王の槍レプリカをプレゼントしているよ!」
「いやそれ原価どうなってるのよ」

 思わずカタリナも突っ込んでしまう大盤振る舞いな景品を狙ってか、小さな子供に混じって大人も幾人か、型抜きとやらに挑戦している様子だった。

「・・・って、シャールさん?」
「・・・・・・」

 その中でも一際大きな体つきで目立つ男性の姿に心当たりがあったので名前を呼んでみると、しかし極限状態にて集中しているせいか、男性は無反応であった。
 するとその代わりに、隣にしゃがみこんで一緒に型抜きをしていたらしい、紺を基調とした浴衣姿に美しい海色の髪をアップに束ねた女性が、男性の体の影からひょいっと顔を上げた。

「ミューズ様!?」
「これはカタリナ様、ご機嫌よう。シャールったら、さっきからずっとこれをやっているのです。私も一緒にやっているのですけれど、これとても難しいのですね。どうやらシャールは毎年挑戦しているようなのですが・・・」

 シャールの背中越しにカタリナとサラがその手元を覗き込むと、彼は先の尖った針金のようなものを巧みに扱い、薄い板状の菓子らしきものを、そこに描かれた線に沿って慎重に削っている。

「・・・あ、割れた」

 サラが呟く。
 槍の先端を模したらしい、いやに細い部分の攻略にかかっていたシャールだったが、無常にもそこで彼のチャレンジは終了したようだった。

「・・・親方、槍の型、もう一枚だ」
「まいど!」

 シャールのリトライを快く受けたノーラは、小銭を受け取って新しい型を出す。その間に割れた菓子を口の中に放り込んだシャールは、再び黙々と目の前の型に集中し出した。

「あ、ミューズ様うまーい!」

 サラの声に誘われてシャールの隣をみると、そこでは見事にチューリップの型を抜いて景品だと思われる花の種をもらい満足げなミューズ。
 これはしばらくシャールが動きそうもないので、型抜きには後ほどお邪魔することにし、一旦二人はその場を後にした。

 

「モニカ様!」

 道中の屋台にあったピドナ名物の魔王殿まんじゅうを二人で食べながら歩いていると、道行く先には先んじてハンス家を出ていたモニカとユリアンに出会った。モニカもしっかりと浴衣を着込んでおり、ユリアンは甚兵衛というらしい軽装の衣装を身に纏っている。
 先に二人の姿に気がついたカタリナが履き慣れない下駄でゆっくりと駆け寄ると、仲睦まじい様子で手を繋いで歩いていた二人は、同時に振り向いた。

「まぁ、カタリナ!」
「あ、カ、カタリナ様!ユカタ、よよよよくお似合いですね・・・!」
「・・・そう言った台詞は、貴方はモニカ様だけに送っていればいいのよ」

 つい先日モニカとの真剣交際が発覚したユリアンに対し、一応のけじめは心の中でつけていたカタリナ。だが一方のユリアンはまだ慣れない様子でカタリナに接しており、どうにも二人の間の会話はまだ、ぎこちなさが残るものだった。

「お二人で縁日を回っておられたのですか?」
「ええ。いま丁度、あの遊戯をやろうと思っていましたの。カタリナとサラ様も一緒に如何ですか?」

 そういってモニカが指し示した屋台には、射的、と書かれた看板が大きく脇に立っていた。
 どうやら小さな長い筒の先に詰めた小さなコルクのようなものを内部のバネ細工で打ち出し、離れた的に当てるという遊戯のようだ。要は的当てパチンコのようなものか、とカタリナは理解した。

『イグザクトバレット!!』

 そしてその射的屋では、何やら一人の参加客を中心に異様な盛り上がりを見せているようだった。
 その参加者が技名らしき叫びと共に放ったコルクの弾丸は、物理法則を欠片も気にした様子のない軌道で幾度にも跳弾を重ね、同時に七つもの的を容赦無く落としていく。
 これには脇に控える店主も真っ青の様子だ。

「あ、トム!」

 その姿に気がついたサラが一目散に駆け寄った先には、下手をしたら槍よりもさまになっているのではないかというほど似合った様子で遊戯用の筒(銃、というらしい)を構えた浴衣姿のトーマスの姿があった。

「サラ、来てたのか。浴衣、よく似合っているじゃないか・・・っと、これはモニカ様にカタリナ様、お恥ずかしいところを見られてしまいましたね」
「いえ・・・ていうかトーマス、それ凄く上手いのね」

 カタリナはとても意外なものを見た、という様子でそう言った。その間にもトーマスの手元には、先程落としたと思しきいくつかの景品が半泣きの店主によって並べられていく。
 正直、上手いとかそういう次元の話だとも思えなかったが、彼女にはそれ以上に適切な表現が思い浮かばなかった。これを相手取る店主には、同情の余地しかない。

「うおートム凄いな! 俺も丁度それをやろうと思っていたんだ。勝負しようぜ!」
「ユリアン様、頑張ってくださいませ!」

 そして意気揚々とトーマスに勝負を挑むユリアンと、無邪気にそれを応援するモニカ。
 まさか今のインペリアルな奥義を見てもまだトーマスに勝負を挑もうというのか、とカタリナは側から見て軽く戦慄を覚えた。
 しかしてモニカ様の伴侶ともなれば、その意気や良し。ならば微力ながら、自分も応援することとしよう。とは言え、このままではトーマスの圧勝は免れないのも確か。そこでカタリナは、一計を案じることとした。

「それでは、折角ですから男女ペアでやってみては如何でしょう。モニカ様とユリアンペア、そしてトーマスとサラのペアで」
「え!!?」

 その提案に誰より先に驚いた様子でこちらに振り返ったのは、サラだった。
 その表情に浮かんだ薄い朱色を目敏く確認したカタリナは、そんなつもりもなかったのだがこれは思わぬファインプレーをしたかな、と自画自賛しながら、サラの両肩を押してトーマスの隣につけた。

「トーマスも、それでいいわね?」
「ええ、よろこんで。サラ、一緒にやろうか」
「えええ・・・う、うん」

 これで、トーマスが圧勝するということは無くなっただろう。彼の性格からして、モニカ様やペア相手の顔を立てないということはあり得ない。まぁこんなことをせずとも彼はきっとそうしたのかもしれないが、念には念を、というものだ。
 それに思わぬ副産物も見れたし、とカタリナは俯き加減のサラを見ながら思った。
 正直、ピドナで再会して以降の快活な彼女しか印象にないカタリナは、このように内向的な様子を見せる彼女のことを非常に珍しいと思う。
 こちらの方が年相応で可愛らしく見えるというものだが、とはいえ快活な彼女もまた魅力的ではあるので、これは珍しく微笑ましい一面が見られたな、という程度に留めておくこととした。

「私は、ポールが出しているっていう屋台に顔を出してくるわ。トーマス、お手柔らかにね」
「仰せのままに」

 ロアーヌ式の敬礼の仕草をしながらそういうトーマスに安心すると、カタリナは皆に手を振ってその場を後にした。

 

「お、やっと来たかカタリナさん!」

 港にほど近い広場の一等地と思しき立地に展開していたのは、屋台というか最早ちょっとした食事処のような規模の出店だった。
 その店頭で串焼き肉らしきものを焼きながら器用に集客を捌いていたポールは、いち早く人混みからカタリナの姿に気がつき、手を振ってきたのである。

「こんな大きなところを開いているなんて、凄いじゃないポール。貴方、これで食べていけるんじゃない?」
「いやいや、ここあれなんだ、ヴィンサントの屋台出店なんだよ。此間盛り上がった時に仲良くなってさ。したらこの縁日で出店仕切るやつが足りてないってんで、今日だけ引き受けたってわけよ。上がりの分け前もあるしな。ほいこれ、とりあえず来店サービスの魔王せんべいね」

 なるほど、ピドナきってのパブであるヴィンサントの出店する屋台ともなれば、この好立地も頷けるというものだ。というか、そこに早速付け入るポールの要領の良さにも感心しきりであるわけだが。
 とはいえ今そこについて追求するのも、野暮というものであろう。ここは細かいことを気にせず差し出された煎餅を早速頬張りながら、カタリナは木製のテーブルがいくつも並んだ店内へと視線を向けた。
 店内はヴィンサント本店にも負けない様子で随分と混み合っているが、どうやら特に、中央付近の卓が盛り上がりを見せている様子だった。

「あぁ、もう始まっているぜ・・・カタリナさんも参加してくれば?」
「参加って、何に・・・?」

 此方の問いに意味深な笑みだけで返してくるポールに嫌な予感を過ぎらせつつも、カタリナは一先ず奥に進んだ。
 すると先程の大いに盛り上がっていたテーブルでは、今まさにアームレスリングの雌雄が決せられようとしていた所であった。
 ズシンッ、というやけに重い音と共に殆ど体ごとテーブルに叩き伏せられた男は、その勢いのままひっくり返るようにして地べたに転がった。
 その対岸で勝利の雄叫びを上げながら腕を振り上げ、もう片方の手に持ったジョッキで早速ビールを豪快に胃の中へ流し込むその人物こそ、誰あろうエレンであったのだ。

「よう!」
「あー、カタリナさん遅ーい!!」
「あー・・・うん、お待たせ」

 快活に空のジョッキを掲げながら挨拶をしてくるエレンのすぐ後ろで同じくジョッキを上げながら声をかけてきたのは、無論のことハリードであった。
 もうこの構図の時点でカタリナには、ここで今何が起こっているのかが手に取るように分かってしまうというものである。

「今日の飲み代は、これでチャラにするつもりなの?」
「おっと、野暮なことをいうんじゃないぜ・・・さぁさぁ、この力自慢の怪力娘に勝てるって奴はいないのか!?ピドナの男はこれで終わりなのか!?」
「だれが怪力娘よ!!」

 散々な言われようにエレンが抗議するが、ハリードはその頭を抑えるように撫でながら新たな挑戦者(犠牲者、というべきか)を呼び込んでいる。
 そしてその傍ではちゃっかり、引き倒された男から酒代を回収し、新たなビールジョッキを店員に頼んでいたのであった。

「ほれ、こいつは俺の奢りだ」
「・・・エレンの、でしょ」

 そうして運ばれてきたジョッキを各々が持ち、乾杯の音頭と共に三人ともが一気に飲み干す。
 流石はヴィンサント出店の屋台。金の出どころは兎も角、エールの品質はしっかりしていてとても美味い。

「お前さんも挑戦していくか?」
「勝てる気がしないもの。お代だけ出すわ」

 カタリナとて、大剣を得物とする騎士だ。これでも己の筋力には、相応の自信がある。しかしながらエレンのそれは、どうにも自分とは別格のようだ。
 巨大なグレートアックスすら軽々と振り回すその筋力は、カタリナの同期の騎士団連中でも恐らく敵わないだろう。
 というより、武具を振るう筋力と腕相撲に勝つための筋力というのは厳密に言えば別物なのだが、彼女の筋力の場合はそういう細かい次元の話ですらないような気もする。

「貴方こそ、挑戦したらどうなのよ」
「馬鹿言え、俺が今こいつを負かしちまったら、後の酒が有料になっちまうだろうが」
「あっそ・・・」

 実際ハリードはかなりの長身で体格にも優れており、当然その筋力も相当なものだろう。しかしこの男は曲刀という対人戦闘に特化した武具を好み、その上で大型の魔物と単騎で渡り合うほどの身のこなしを発揮する機動力を備えている。
 つまりこの男の得意とする戦闘スタイルは、一撃の重さよりも手数による乱撃を得手とする戦い方だ。その戦ぶりはさながら暴風のようで、彼の異名がトルネードというのも言い得て妙だというものである。
 さてそうなれば、その戦闘スタイルを可能とするための身体バランスを維持することを考えたら、特定箇所に必要以上の筋力があるとは考え難いというもの。
 自身をして疾さを活かした戦闘を得意とするカタリナだからこそ、余計な筋肉をつけない事の重要性が痛く理解できるのだ。
 となれば実際に二人が勝負したとしたら、これはひょっとしたらひょっとするのかも知れないな、等とカタリナは二杯目のジョッキを傾けながら考察してみた。

「・・・おいお前、まさか俺が負けるなんて考えてないだろうな?」

 そんなカタリナの脳内を見透かしたか、ハリードが彼女の顔を覗き込むようにしながら声をかけてくる。
 それに対して、清々しいほどに心底鬱陶しそうな表情で綺麗な八の字に眉を顰めながら、カタリナはあからさまに仰反るようにしてハリードから距離をとった。

「そうだ・・・といったらどうするのよ」
「そりゃあ流石に聞き捨てならんな。おいエレン、次は俺が相手をしてやろう」
「おーし、やっと来たわねおっさん!」

 結局は自分もやりたくてうずうずしていた口であった様子のハリードは、カタリナの安い挑発に乗っかる形で結局エレンとの勝負に興じることとなった。
 が、さしてその勝負の行方に興味があるわけでもないカタリナは、腕を慣らしているエレンにそっと耳打ちだけしてから、さっさとその場を離れることとしたのであった。

 

 

 メインストリートの喧騒を抜けて比較的人の少ない堤防まで足を伸ばしたカタリナは、道中で買ったアビスあめを舐めながら、屋台の松明を時折水面に反射させている薄暗いヨルド海へと視線を向けた。

(・・・全く、このピドナという街は催事に事欠かないわね・・・)

 こうして騒がしい場所に身を置いていると、ふと静寂が恋しくなる時がある。そうするといつも彼女は人混みを離れ、遥か離れた地から祖国ロアーヌへと一人、想いを馳せるのだ。
 自らが全うせねばならない使命を思えば、そのような感情を抱くことすら、本来は憚られるのだろう。だがそれでも、こうして不慣れな異文化に触れていると、時折その反動で祖国を懐かしんでしまうのである。
 ロアーヌでも、このピドナほど頻繁ではないが建国祭や葡萄収穫祭など、年に幾度か国全体で行う催しはある。
 都市の規模からして勿論ピドナよりは幾分か小規模なものだが、それでも彼女には祖国の行事がとても好ましく感じられてしまう。
 ひょっとしたら、もう二度と見ることの叶わないかもしれないものだからこそ、余計にそう思うのだろうか。

(・・・いけない。こんなことでは)

 隙あらば顔を覗かせてくる、仄暗い感情。それを跳ね除けるように、カタリナは小さく頭を振る。
 彼女が今歩んでいるのは、マスカレイド奪還のための茨の道。国宝を自責により盗難された罪は、その旅路の果てに粛清を受けることで最終的に清算されるのだ。そんな事は、最初から分かっている。
 だからこそ、その最中にこうして息抜きの時間があるなんて、とても有難いことだと思わなければならない。旅のその後など、今は考えている余裕などないのだ。
 だというのに、いつもこうして祖国に想いを馳せた後には、余計なことを考えてしまう。
 それは何一つとっても良くないことだと考えたカタリナは、先程の屋台に戻って飲み直そうと思い直し、くるりと踵を返した。
 その時だった。
 唐突に、夜空一面が白く紅く、鮮やかに燃えた。

「!?」

 突然の閃光に驚いたカタリナが視線を光の方へ向けるのと同時に、今度は閃光の後を追うようにして、ドーンという轟音と振動が彼女の元まで届いてくる。
 光はそこから連続して幾度も宙に弾け、夜空を盛大に燃やしながら四方八方に飛び散り、バチバチと音を立てながら大気を焦がしていく。

「これが、打ち上げ花火というものなのですね。私、初めて見ました」

 その圧巻の光景に、すっかり立ち止まったままでカタリナが見入っていると、いつの間にか彼女の隣には同じくして花火を見上げるミューズと、それに付き従うシャールの姿があった。

「モウゼスの魔術ギルドが開発した、朱鳥の魔力を宿した砂を用いて作られたものだそうですね。実物は俺も初めてみましたが、これは凄いですね。なんとか取引できないかな・・・」

 その後ろからは、同じく物珍しそうに花火を見ながら顎に手を添えているトーマスと、そんな彼の浴衣の袖を掴みながら一緒に空を見上げるサラの姿。

「凄い・・・メッサーナではこんなことまで出来ているのですね。いつかロアーヌに持ち帰ってみたいですわ」

 同じく花火を見上げながら感嘆の声をあげるモニカと、何やら射的の景品らしき大量のぬいぐるみを持っているユリアン。

「もう終わり? もっと飛ばさないのかしら!」

 どうやら先程の屋台からジョッキを持ち出してきたらしいエレンとハリードの姿も、気がつけばすぐ近くにあった。
 いつの間にやら、この旅の中で得た仲間が、彼女の周りには揃い踏みになっている。

「おーい」

 そこへ、手を振りながらこちらに歩いてくるポールとノーラの姿が見えた。

「花火始まっちまってウチもノーラの姐さんとこも暇になっちまったからさ、こっちで飲み直そうぜ」

 そういうことならば、丁度そのつもりであったし渡りに船というものだ。
 早速ポールに向かい片手をあげて答えたカタリナは、周囲の皆にも誘いの視線を向けた後に、一歩前へと歩き出す。
 今は、マスカレイドを奪還するための茨の道中。その終わりには、何があるのかも分からない。
 ただ間違いなく、この旅路が一人ではないということは存外のことであり、望外のことである。不覚にもそんなことを今になって改めて痛感したカタリナは、今自分がどんな顔をしているかを他人に見られたくないのか、我先に、と足早に先頭を歩いて行ったのであった。

 

「・・・おい、お前だろう、さっきエレンに助言したの。流石にあいつ相手に手首は、俺でも無理だぞ!」
「あら、貴方と違ってエレンは連戦だったんだから、それくらい当然のハンデだと思っていってみただけよ。因みに私エレンに賭けてたから、一杯奢りなさいよね」
「は!? 聞いてねぇぞ!」

 大人気なく喧しい様子のハリードを雑に去なしながら、カタリナはモニカら華やかな女性陣の浴衣姿をツマミにしつつ、悠々とジョッキを傾けるのであった。

 

 

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魔術理論談義

 

 四魔貴族の一柱、魔海侯フォルネウスの打倒。
 その難事を成し遂げるために一路西太洋を西の最果てへと航行する海上要塞バンガードには、この大遠征を行うという最中にも残留を決意したキャプテン以下数名の勇気あるバンガード住人以外にも、実に多くの者達が使命のために乗り込んでいる。
 この遠征を主導しているカタリナやハーマンらも当然その類であるのだが、その実、外部搭乗者で最も多くを占めるのは、モウゼスの魔術ギルドから来た者たちだった。
 特にこのバンガードを動かす主軸となる玄武術を扱う水術士が最も数多く、次いでバンガードの整備を目的とした技師もとい火術士たちが数名。
 これら人員は、地図上ではバンガードの南方に位置し世界最大の魔術ギルドを抱える学術都市モウゼスの中でも稀代の天才と称される二人、玄武術士ウンディーネと朱鳥術士ボルカノが連れてきた者たちである。

「しかし、お前らってつい最近まで歪み合ってたんじゃないのか?それがいきなりこんななって、仲良くできるもんなのか?」

 唐突にそう口を開いたのは、ハリードだった。
 バンガードの甲板部分にあたる市街地エリアの片隅に佇む、酒家グッドフェローズ。その店内で、珍しくカウンターではなくテーブル席の椅子に座りながらウィスキーのロックを傾けていた彼は、同席している休憩中らしい水術士と火術士の二人に、そんな素朴な疑問を投げかけたのである。
 彼が唐突にそんな疑問を投げかけたのは、言ってみれば当然のことなのかもしれない。
 なにしろこのバンガードで日夜忙しなく動き回る彼ら両術士チームは、側から見てもチームワークは完璧で、完全に意気投合してこのバンガード運用に当たっているのである。
 しかしながらハリードの記憶では、彼らはつい先日までモウゼスという一都市の南北を分つほどの大騒動を演じていた陣営同士だったはずだ。
 それが今は共同任務に従事し、休憩時間にはこうして同じ卓を囲んで酒盛りをしている始末。これでは流石に、疑問の一つや二つくらいは出てこようというものだろう。

「いやー、そうなんすけどね。っても元々はウンディーネ様がバチバチやっていただけなんで、実際あんまり俺らは・・・なぁ」
「あーぶっちゃけうちもそんな感じっす。ボルカノ様が一歩も引かなくて・・・。てか今回来たのもボルカノ様が勝手に決められて、自分ら連れてこられただけですし・・・。いえまぁ望んで仕えてるんで、文句あるとかじゃないんすけどね?」

 両術士は、ハリードとお互いの顔を交互に見合わせながら、口々にそう語る。
 稼働に膨大な魔力を消費するバンガードを動かすために集まった水術士の数は、実に三十六人にも上る。
 彼らは三交代制勤務の形をとっており、動力供給、休憩、睡眠というローテーションで業務に当たっていた。そしてその彼らを補助するために動き回るサポートチームを、ボルカノが連れてきた火術士たちが担っている。
 彼らの業務の中で思いのほか重要なのが、この休憩セクションだ。
 水術士たちは連続八時間にも及ぶバンガードへの魔力供給というハードワークをこなし、結果すっからかんになった魔力を、次のローテーションまでに短時間で回復させねばならない。
 そこで、術具の扱いにおいては右に出る者がいないとまで言われるボルカノの指導の元、火術士たちサポートチームが独自調合し霊酒相当にまで効能を高めた特製術酒を休憩時間に飲み、次の魔力供給の順番までに失った魔力を回復させるのである。
 つまり、業務内容に酒盛りが強制的に加わっているのだ。
 下戸には辛い仕様だが、この世界で魔力回復のための術具といえば、残念ながら術酒しか存在しない。そんな事情もあるので、実は魔術士には海賊などにも負けず劣らず酒に強いものが割と多い、という裏話もあったりする。
 そんなわけでこのグッドフェローズは自然と、勤務交代して休憩する術士たちの貴重な憩いの場として、二十四時間稼働をすることになったのであった。
 この酒家の店主は何やら事情があるのか、強い使命感からこの街に残ったという街の住人の一人だ。その店主たる彼がいない間も、厚意で店は開けてくれている。
 所定位置へのキャッシュオン形式で、店にあるものならドリンクメイクはご自由に、というやつだ。
 お陰で長い海路の間でも酒にありつけると、ハリードはほぼ毎日ここに顔を出している。もうすっかり術士たちとも、顔馴染みの気安い仲だ。

「ていうか元々、そんなに仲が悪いとか無かったもんな、俺ら」
「それな。あ、ハリードさんはあんま関わってないと思うんすけど、今回居ないんすがモウゼスは地術四術式は全てにちゃんと派閥があって、天術の専門研究施設もあるんすよ。魔術ギルドの総本山もうちにあるんで、そこが色々調整とかも行なってて、ぶっちゃけ派閥同士が仲悪いとかあんまなかったんすよね」

 術士たちの話す内容は、どうもハリードが脳内に思い描いていた業界泥沼事情のようなものとは異なる様子だった。

「じゃあなにか。俺らが介入した時が、たまたまバチってただけってことなのか?」

 続けてハリードが尋ねると、二人の術師はこれまた息ぴったりに頷いてみせた。

「まぁ・・・そういうことになりますね。あれほんと突然だったんで、俺らもびっくりしましたよ。ウンディーネ様もボルカノ様も、魔術史に確実に名が残るほど本当に凄い方々なんで、その二人が十年ぶりに、しかもほぼ同時にご帰還なされたって時は、こりゃもう街を上げてお祝いでもしようかって雰囲気になったくらいだったんすけどね」
「あー、その話こっちにも来てたわ。それが一転、帰ってきたと思ったらいきなりあんなゴリゴリ対立が始まっちゃって。でもあの二人に意見できるような実力を持った人も正直、今のギルドにはいないんすよね・・・」

 二人共が苦笑しながら肩を竦めてそう言い、手元のグラスを傾ける。
 何だか大変そうな業界事情にハリードも半ば同情するような表情をしながら、つまみに用意していたローストナッツを口の中に放り込んだ。

「はぁーん・・・それが今じゃあ、息ぴったりに共同作業ねぇ。お上に振り回されるお前らも大変だなぁ」
「あはは・・・でもまぁ、本当はお互いリスペクトがあるのは俺らも察してたんで、どっかのタイミングで折り合いはつくだろうとは思ってましたけどね。ウンディーネ様、対立している間も何だかんだずっとボルカノ様のことぶつぶつ口に出しながら心配してて、何かすごい必死だったんすよ。あんなの見せられたら、本当に歪みあってるなんて思えないっすよ」
「それな!ボルカノ様もまんまそれだったわ!」

 水術士がそういいながら笑っているところに火術士も同意して盛り上がっていると、不意にカランカランと音を立てて、店の扉が開く。
 ハリードがチラリとそちらに目線を向けると、入ってきたのは連れ立っての二人。
 ウンディーネと、ボルカノだった。

「おっと、噂をすれば御両人か」

 多少声量を絞ってハリードがそういうと、術士二人も無言で頷きながら何気なく二人へと視線を向けた。
 だが当の二人は何やら熱く議論を交わしながら歩いており、テーブル席の三人には軽く視線をやってご苦労様と簡単な労いの言葉を掛けただけで、そそくさとカウンター席の一番奥に二人並んで陣取って座った。

「うわ、二人してここにくるなんて珍しいっすね」
「うっわ、二人で何話すんだろ。めっちゃ気になるけど、そろそろ就寝時間なんすよねー」
「・・・ふぅん、やっぱ仲いいんじゃねえか。面白そうな話だったら、あとで会った時に教えてやるよ」

 そろそろ休憩時間が終わるとのことで、術士二人が名残惜しそうに席を立つのをグラスを掲げながら見送ったハリードは、何気なくカウンターの二人の会話へとこっそり耳を傾けることとした。

 

 

——酒家に赴く、少し前——

 バンガード艦橋から程近い位置にある、彼女専用にあてがわれた一室。その室内でウンディーネは忙しなく、机の端に積み上げられた何冊もの本を手に取っては開き、パラパラと捲っては閉じ、を繰り返していた。
 そこまで広くない机の中央に陣取っているのは、如何にも古めかしい装丁が施された書物。
 それは、商都ヤーマスにてキャンディらの活躍によりドフォーレ商会の裏倉庫から回収され、その後カタリナによって彼女の元に持ち込まれた古代魔術書であった。

「・・・・・・ふぅ」

 一頻り書物の山と格闘していたウンディーネは、ふと燭台の火が視界の端で揺らめいたのを感じ、息を吐きながら顔を上げた。
 どうやら、思ったよりも作業に集中しすぎていたようだ。先程火を灯したばかりだと記憶していた燭台の蝋燭が、もう今にもその役割を終えようとしている。
 ウンディーネは両手の指を組みながら思い切り上に伸ばしてぐっと背伸びをし、次いですっかり冷めてしまった机の端の珈琲を一口啜った。
 その表情は、明らかに消化不良の様子である。ウンディーネ自身は自覚していないが、意外と彼女は思っていることが顔に出やすいタイプだ。
 ところで何故そんな表情なのかと言われれば、なにしろ時間の消費に対して作業の進捗が非常に芳しくない、と彼女が感じているからに他ならなかった。
 古文書に書いてあることの大筋は、実は既に解読を終えている。この古文書には、現代には伝わっていない魔術の秘技が書き記されているのだ。
 彼女の元に持ち込まれた古文書は、二冊。それらには丁度、玄武と朱鳥の秘術に関して書き記されているであろう、ということまではもう分かっている。
 また、術の構成に当たって複属性の記述が見受けられることから、これは彼女が専攻する「連携術」の延長線上にある陣形術式であろう、という予測まではついていた。
 だが、そこから先が問題だった。
 肝心の術式発動に関する理論的な記載が、この本には殆どないのである。
 かと言って特段中身が欠落しているわけでもない様子なので、元からこの本にはその記載が無いのであろう。全く、魔導書としては欠陥品も甚だしい。編纂者をどついてやりたい気分だ。
 だが、文句を言ったところで問題は解決しない。
 そうなると、あとは不明な箇所を現代に伝わる魔術理論から推測し補填するしかないわけなのだが、その解明作業が遅々として進まない、というわけなのだ。

「もっと関連してそうな書物を持ってくるべきだったわ・・・」

 モウゼスにある彼女の館には、多くの魔術書がある。今回のフォルネウス討伐を目的とした遠征にはこの古代魔術書の中身がなんらかの役に立つのではと踏んでいたウンディーネは、目的地に辿り着くまでにその解読をせんとして、モウゼスから解読に役立ちそうな蔵書をバンガードに持ち込んでいたのだ。
 だが、持ってきた蔵書に書いてある内容だけでは、どうにも魔術理論構成が上手くいかないのである。
 手詰まり感を抱えながら口元に手を添えて考えを煮詰めていると、そこに、元から半開きだった背後の扉をコンコンとノックする音が響いた。

「・・・ディー姉、今大丈夫か?」

 それは、最近特に聴き慣れた声だった。
 しかしそれにすぐには敢えて応えずに、軽く眉間に皺をよせてわざわざ苦々しい表情を作り、そして椅子の背もたれ越しに半分だけ振り向いてから重々しく口を開いた。

「・・・いい加減、そのディー姉っていうのやめなさいよ」
「あぁ・・・クセでな、すまない」

 あまり悪びれた様子もなくそう返しながら部屋に入ってきたのは、上品に切り揃えられた赤髪をした青年-ボルカノだった。
 魔術の徒としては彼女の後輩にあたる青年で、専攻は朱鳥術。伝説の玄武術師ヴァッサールの再来とすら言われるウンディーネをして、間違いなく天才だと認めることができる類稀なる才覚の持ち主だ。
 因みにウンディーネとは一回りほど歳が離れているものの、同じ時代に二人の天才が誕生したということでモウゼスではよく同格に扱われることが多く、年上のウンディーネとしては何とも歯痒い思いをしてきたものだ。
 とはいえ彼女にとっては年の離れた弟のような存在であったこともあり、彼女が十代の頃には少年ボルカノに術のいろはを教えてあげたりしたこともあった。
 その当時から既に、天才たるボルカノが教えを請うのも同じく天才である彼女くらいしかいなかった、という事情もある。
 そんなわけでボルカノがウンディーネのことを「ディー姉」と呼ぶのは、その当時の名残である。今となっては、その当時そう呼ばれてちょっと喜んでいた自分を殴り飛ばしてやりたいとウンディーネは密かに思っていた。

「ふん・・・まぁいいわ。でも少なくとも、他人の前ではそう呼ばないで。お互い、今は立場ってものがあるでしょう。で・・・何か用?」

 ウンディーネが半身だけ振り向いた姿勢のまま半眼で問いかけると、ボルカノはそんな彼女の様子など気にすることなく部屋に入ってきて、手に持っていた紙切れをウンディーネに差し出した。
 それは、バンガード内部の地図のようだった。

「少しバンガードの構造で気になる場所があって、一度ディー姉にも見てもらおうと思ったんだが・・・何か調べ物か?」

 机の中央に広げられた古文書に目を止めたボルカノは、ウンディーネの座っている椅子の背もたれに片手をつきながら興味深げに身を乗り出し、書物を覗き込む。
 彼の腕がウンディーネの横髪をさらりと掠めるくらいにはいきなり近づいてきたものだから、ウンディーネは一瞬固まりながらも、動揺を表に出さぬように極力自然体を意識しつつ、彼のみる本へと合わせて視線を移した。

「ええ、ちょっとね・・・そうだ、丁度いいわ。少しこの古文書の内容について、貴方の意見を聞かせて頂戴。持ってきた書物と照らし合わせただけだと、どうにも得心いかないのよ」
「なんだ、ディー姉が俺を頼ってくるなんて珍しいな。明日はスコールか?」
「五月蝿い。無駄口叩くなら頼まないわ」
「そんなツンケンしないでくれ。どれどれ、このページか。解読メモは?」

 身を乗り出した姿勢のまま、ボルカノはウンディーネが仏頂面で差し出したメモを受け取る。そしてそのメモと古文書の文字列を、交互に指でなぞるようにしながら読んでいく。彼自身も古文書の類には慣れ親しんでおり、こうなるとあとは話が早いはずだ。
 だが、それはともかく。
 先ほどから、少々お互いの距離が近すぎるようだとウンディーネは感じていた。
 別に自分は気にしないが、しかしここの部屋の扉は今、半開きなのである。もし外から通りすがりの誰かがうっかり部屋の中を見たとしたら、ちょっと二人の距離が近すぎるのを、不審に思うかもしれない。

(いや不審って何よ。別にそういうのじゃあるまいし)

 そういうのではないので、自分から変に気を使ってわざわざ距離を取るのもおかしい。それではまるで、そういうのを此方が気にしてしまっているみたいに受け取れてしまうではないか。

「これは驚いたな・・・古代魔術の秘技書か。でも、確かに記述が抽象的だな。うーむ・・・何となくイメージできないでは無い気もするが・・・。因みに、ここまでをディー姉はどう解釈しているんだ?」

 しかし、外から見えてしまった時には変な勘違いをされかねない程に近い距離というのは流石に問題だと言えなくも無いので、やはりここは多少なりとも此方が椅子を引いたりして距離を取るべきか。いや、しかしながら今更距離をとったところで、それはそれでもう手遅れ感満載で不自然なのではないか。万が一にも、この察しの良い憎たらしい後輩に変な勘ぐりでも入れられてしまったら、これはもう一生の不覚といっても差し支えない。それはだめだ。絶対にだめだ。阻止しなければならない。

「おい、ディー姉・・・?」
「・・・え? わ!」

 至近距離でこちらを覗き込むように顔を近づけていたボルカノにようやっと気が付き、ウンディーネはガタンと音を立てながら椅子ごと後退ろうとする。
 しかし、思いのほかしっかりした椅子の足は後ろ二本だけで傾いてしまい、ウンディーネはそのまま椅子ごと後ろに倒れそうになってしまった。

「お・・・っと」

 それを、ボルカノが造作もなくウンディーネの手を取り、自分の方へと引き寄せる。
 ガタン、と大きく音を立てて椅子が後ろに倒れるのと同時、ウンディーネは間一髪ボルカノに抱き竦められるような格好で難を逃れた。
 結果、先ほど以上に密着したような状態になってしまっている。

「あー・・・すまない。そんな驚くとは思わなくて」
「・・・・・・」

 一瞬の沈黙が、部屋の中に訪れた。
 そして、その間すっかり固まるウンディーネ。
 ウンディーネがこの小憎らしい後輩と再会したのは、ほぼ十年ぶりのことであった。お互いに、モウゼスを離れていたのである。
 その間もギルド支部を通じ文書での連絡は取り合っていたが、姿をお互いに見たのは本当に十年ぶりなのだ。
 そして二ヶ月ほど前に訪れたその再会の場面は、それはそれは最悪の形であった。
 双方の意思疎通不足から始まった悶着は街を巻き込む騒動に発展してしまい、今となっては本当に恥じ入るばかりである。
 そんな騒動から、今度は殆ど間を置かずにこのバンガードに乗り込んでいるものだから、実は改めてボルカノをまじまじと見るようなタイミングなど、ここまで殆どなかったと言える。
 不意に抱き竦められた気恥ずかしさと、そして今更ながら相手の大きな変化を目の当たりにして、ウンディーネはすっかり黙りこくってしまった。

(・・・なによこいつ・・・十年前、私が旅に出た時は、まだ私よりも背が小さかったのに・・・)

 抱き合ったような格好の二人には、明確な身長差があった。以前は自分の方が背が高かったのに、いつの間にか頭ひとつ分はボルカノに身長を抜かれていたのだ。
 それに以前は魔術士らしく自分と一緒で華奢だと思っていたその腕も、今はこうして彼女の体を支えても何とも無いくらいには、逞しくなっている。
 声だって、そうだ。凄く低くなった。昔は鳥が囀るような可愛らしいソプラノだったはずなのに。
 そう言えば声色だけじゃなく、口調そのものも少し変わっているではないか。なんだかちょっとキザったらしくなってて、それがなぜだか癪に障る。以前はもっと、生意気だけど可愛げのある喋り方だったのに。
 本当に、色んな所が凄く変わったと思う。それなのに名前の呼び方だけが昔と変わっていないのは、なんだかとても見た目の変化とアンバランスで、ちょっと可笑しい。
 自分の知らない間に、弟分はこんなにも成長したんだなと、何故だかこんな時にふと思ってしまった。
 そこに至り、あまりの後輩の変化ぶりに実は自分の方がついていけていなくて、なんだか後輩への態度が空回りしていたのかもしれないな、なんて。ふと冷静にそんなことを考えたりもする。
 そのまま、数秒の時がお互いの間をゆっくりと流れた。

「・・・・・・離して」
「あ・・・すまない」

 言われて初めてボルカノは腕の力を緩め、ウンディーネは彼の腕から解放された。
 いきなりのことだったから、自分でもびっくりして顔が紅潮してしまったのがわかる。気づかれていなければいいが。

「別に・・・。まぁ、支えてくれてありがと」
「・・・あぁ」

 そそくさと衣服の乱れを整えながら、ウンディーネは平然を装って椅子を起き上がらせた。
 少し、気まずい。何か話題を振らなければ。

「で・・・その古文書、貴方の見解を聞かせて欲しいんだけど」
「え、あぁ、だからディー姉の考察を聞こうと・・・まぁいい。これはディー姉のほうが想像ついていると思うが、陣形魔術だと思う。これは朱鳥術の書のようだが、実際重要なのは、恐らく朱鳥の力を誘導する天術の配置とバランスだと考えられるな」

 そう言いながら、ボルカノは先程持ってきたバンガードの内部地図らしき紙切れを広げた。

「丁度ディー姉に見てもらおうと思っていたのが、ひょっとしたらヒントになるかも知れない。どうもバンガードの水晶から各機関への魔力の伝わり方に、一定の法則があるようなんだ。それがこの地図でメモした場所だと視覚的に良くわかる。これが、ひょっとしたら陣形術に関連するんじゃないかと思ってな」
「それは興味深いわね。案内してもらえる?」

 とにかくこの部屋の空気を脱したかったウンディーネは、古文書を手にとって我先にと部屋の出口まで進んだ。
 それに合わせてボルカノが続くも、ふとウンディーネが部屋の扉の前で立ち止まる。

「・・・ディー姉?」

 彼女が止まったので、その背中のすぐ後ろにボルカノも立ち止まる。そしてボルカノが不思議そうに首を傾げると、ウンディーネは顔半分だけ後ろに振り返り、ボルカノを見上げた。

「・・・貴方、お酒は少しくらい飲めるようになったの?」
「え、まぁ・・・それなりには」

 この世界で魔術士と酒は、切っても切れない関係だ。術酒を飲めない者は一人前の魔術士にはなれないとすら言われており、魔術士を志す者は小さな頃から水に薄めた術酒を飲みながら体に慣れさせていくほどである。
 彼女の覚えているボルカノは、やっと術酒の慣らし始めをしたくらいの時節だった。初めて術酒の水割りを飲んだ時の彼などは、それはそれは珍妙な表情をしていたものだ。
 何故だかふとこのタイミングで、それを思い出したのである。

「・・・やっぱり案内は、明日お願い。だから、今日はちょっと付き合いなさいよ」

 そう言いながらグラスを傾ける仕草をしてみせると、キョトンとした様子で二度三度瞬きをしたボルカノは、次いでふっと微笑む。
 少し、その笑顔には昔の彼の面影が残っているような気がした。

「オーケーだ、受けて立とう」

 ボルカノの返事を聞いてウンディーネも僅かに口の端を上げるように笑ってみせると、部屋を後にした。
 十年の間に彼がどれだけ変わったのか、それとも、実はそんなに変わってないのか。
 何の因果か、こうして今、一緒に居るのだ。それを確かめる程度の時間を、ほんの少し設けることくらいは、なにも問題ないはずだ。
 心持ち足早にウンディーネがバンガード上部エリアに向かって歩いていくのを、ボルカノもまた軽い足取りで後を着いていった。

 

 

「・・・でまぁ、来てからずっとあの調子なんだよ」

 グッドフェローズのテーブル席には、相変わらずのハリードと、カタリナ、ミューズ、シャールが座っていた。

「聞こえてくる限り、ずーっと魔術の小難しい話ばっかしてんだよ。男と女がバーのカウンターで並んで飲んでるってのに、全く色気も何もないぜ。そうは思わんか?」

 ハリードはその様子を最初から見ていたらしく、何杯目かのウィスキーをグラスに注ぎながら肩を竦めてそう言った。
 巡回を終えて合流していたカタリナら三人は、それぞれグラスを片手に彼の問いかけに対して思案する。

「うーん・・・まぁ、あの二人にとってはそれが共通の話題なのだろうし、その話で盛り上がるのは仕方ないんじゃないかしら。私だって騎士団の同期と飲む時は、大抵訓練の話ばかりだったわよ」

 ロアーヌの騎士団仲間を思い出しながら、カタリナはハリードにそう相槌を打つ。どちらかと言えばカタリナも、そういう話題には疎い方だという自覚はある。

「あー・・・お前さんは想像がつくな。意見を求める相手が悪かった。シャールはどうだ?」
「俺に聞くな」

 このつれない態度である。
 しかし、その隣で瞳を輝かせているミューズがいるので、これ以上シャールに追求は、するだけ無駄だろう。

「私はあのお二人、いい雰囲気だと思います。実はウンディーネさんが結構ボルカノさんへの接し方に戸惑っている感じが普段からあって、それがもどかしくてポイント高いですよね。ボルカノさんも不器用っぽいですけど、ウンディーネさんよりは直球な気がするんですけどね」

 この辺りの話題に関してはサラに大分仕込まれているのか、流石の鋭い観察眼でミューズは二人を評する。
 なんのポイントが高いのかはいまいち分からないが、何となく言いたいことが分かるような気がするかな、とカタリナなどは思った。

「でも・・・あれはあれで楽しそうじゃない。モウゼスで初めて会った時とは比べ物にならないくらい、二人とも生き生きした顔しているわ」
「はん、そんなもんかね。ま、当人らがそれでいいならいいんだろうが・・・。少しは外野も盛り上がるような展開があってもいいと思うけどな。なぁシャール」
「だから俺に聞くな」

 静かにグラスを傾けながら釣れない反応を返すシャールにハリードは再度肩を竦めて苦笑し、もう一度、ちらりとカウンター席へ視線を向ける。

 

「だから、俺が思うに陣形魔術は天術のコントロール量が重要であって・・・」
「ちょっと待ちなさいよ、だってそれじゃあ根本的な魔術媒介の定義から見直す必要が・・・」

 結局、十年の変化なんて互いに微塵も探ることなんてなく。
 酒も入ってすっかり饒舌になり、数時間に渡って二人は魔術理論について、熱く激論を交わし続けた。
 その姿を、変わるがわる休憩に入ってきた術師たちが背後で生暖かく見守っていることなどは、露ほども知らず。

 

 

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お料理教室・その2

 

 世界地図の南南西エリア一帯の大部分を占める、広大なる密林地帯。
 そこは未だ人類が深く立ち入ることを許されておらず、様々な動植物が独自に自由な進化を遂げ続ける、正に生命の坩堝だ。
 人類にとっては未踏であるが故に様々な謎に包まれたこの密林には、数百年を経て幾つかの伝説が語り継がれていた。
 まず一つ世界的に有名なのは、この密林の奥深くには四魔貴族が一柱である魔炎長アウナスの居城、火術要塞が鎮座しているとされるものだ。
 これは聖王記に語られる逸話を中心として民衆には広く信じられており、その伝説を裏付けるかのように、密林の深部に近づけば近づくほど、突然に瘴気が濃くなっていくという事象が一部探検家によって観測されている。
 他には、主に現地の土着信仰を基盤としたものの中に、妖精族の住処が密林のどこかにあるという伝説がある。これも、聖王記にその一部の記載がある。
 密林に最も隣接した人類生活圏の一つであるアケの村には、小さな子供を拐かす存在としての悪戯好きな妖精の描写が、口伝を中心に幾つか残されているのだそうだ。
 しかし、そのような謎めいた伝説が幾つもある密林にそれでも人が惹かれるのは、その危険を上回る大きな魅力がこの密林に詰まっているからに他ならないのである。

「特にアケはね、なんてったってスパイスがいいの。ここのスパイスを味わっちゃったら最後、他じゃあ全然物足りなくて、アケのスパイスでしかキメられなくなっちゃうの」
「その表現には大いに疑問の余地が残るけど、とてもいいものなんだな、っていうのは伝わってくるよ」

 先ほどから三角巾を装着した少女-サラは只管に前後に手を動かし続けながら、スパイスの魅力とやらを語り続けている。
 少年-テレーズはその所作をじっと見つめながら、彼女の話にいつも通り耳を傾けては、的確な反応を返していた。
 先ほどからサラはずっと、乾燥した葉っぱや根のようなものを細かく刻んでは、鉄製の円盤に木製の取っ手がついた不思議な道具でごりごりと擦り潰している。それを受けている器の方もどうやら専用のものらしく、円盤がちょうどはまるように縦に深い溝を作った構造のものだ。
 それをあんまりテレーズが不思議そうに見ていたからか、サラはにこりと微笑みながら続けた。

「これはね、薬研(やげん)っていうの。薬草を粉末状にするのが本来の用途なんだけど、スパイスにも使えるのよね。あ、ちなみによく居酒屋とか焼き鳥屋とかにあるやげん軟骨っていうのはね、この薬研に軟骨の形が似ているから、っていうのが部位の名前の由来なのよ!」
「へぇ、そうなんだね。知らなかったよ」

 こうして楽しそうに話しているサラは、見ているだけでいつの間にか、此方まで楽しい気持ちになってくるから不思議だ。テレーズはつくづくそんなふうに感じ入りながら、引き続きサラの手元を見ていた。
 因みにテレーズには、サラのしゃべる話の意味を実際には半分も理解できていないことが多い。
 因みに先ほどのものも、そうだ。薬研という道具についてはなんとなく理解できたが、その後の内容はよくわからなかった。
 ただサラは本当に物知りなので、きっと自分が知らないだけで、いざかやとかやきとりやというものが街にはあるのだろう。やげん軟骨という部位もそもそも少年は存在すら知らなかったが、とり、と言っていたので鳥の部位なんだろうな、くらいに軽く受け止めていた。
 サラと旅をするようになってからは彼女の口から発せられる情報量が多すぎて、テレーズはその一つ一つに深く追求をしても埒があかないということを割と最初に学んだのであった。この受け流しスキルは最早、極意習得相当と言っても過言ではなくなってきているだろう。

「ところで、今日はそのスパイスでキマっちゃうの?」
「ええそうよ!一度は本格的なのを作ってみたかったの!」

 爛々と瞳を輝かせながら食い気味に言葉を返してくるサラの勢いに気圧されつつ、しかし出来上がる料理はとても楽しみにしている。
 正直に言って一人旅の時は、まともな食事になんてありつけていなかった。人と関わる事を避け続けてきた彼には、料理の知識なんていうものは皆無だったのだ。
 だからこそ、彼女と旅をするようになってからの食生活の劇的な向上ぶりには、ただただ舌を巻いているテレーズであった。

 二人がいるのは、宿として借り受けたアケの村の一画にある空き家だ。普段から無人のようだが、貸し出し用なだけあり一通りの家事をこなすための道具は揃っているようだった。
 貸主によれば、此処は観光地というわけではないので、偶に訪れる行商人が来た時などに泊まっていく場所なのだという。
 因みに自分たち以前に泊まっていったのは、行商人ではなく戦士風の女性と小柄な少女の二人組だったらしい。

「本格的なのって、一体どんなものを・・・?」
「ふふ、それはできてからのお楽しみよ!」

 大抵の場合はこんな感じで、料理中はあまり答えを教えてはくれない。なのでテレーズは自分の知識量ではやっても無駄だと分かりつつも、周囲に用意された材料から彼女が何を作るのかを予測してみることにした。

(えっと、用意されているのは・・・乾燥させたいくつかの葉っぱや根みたいなものと、青い唐辛子と、にんにく、ナス、パプリカ、ズッキーニ。あとはぶつ切りにされた鶏肉と、塩漬けされた小さな魚の切身・・・。調味料らしきものは、なんか独特の匂いがする茶色い液体と、甘い香りがする白い液体に、あとはお砂糖・・・。これは・・・うん、やっぱり何が出来上がるのか、僕には全く分からないな)

 案の定、材料から全く完成品の想像がつかないテレーズは、大人しく座して待つことにした。
 しかし、サラと旅をしていることでいろんな野菜などの名前を覚えただけでも、個人的には凄い進歩なのだと思う。

「よーし、こんなもんかな!」

 どうやら粉末にする作業を終えたらしいサラは、大袈裟に額を腕で拭いながらそう言った。

「お疲れ様。そろそろ僕もさっきのやつの続き・・・する?」
「そうね、頃合い!さすが、分かってきてるね!」

 サラに褒められると、胸の内がこそばゆくなる。誰かに褒められたことなんてなかった少年にとって、そんなちょっとした会話がこの上なく好きなのだ。
 でもそれで自分が照れている顔を見られるのはとても恥ずかしいので、テレーズはそそくさと後ろを向き、大きな葉を被せてある物体の前に移動した。
 これはサラがスパイスを擦り始める前に指示されて捏ねておいた、パン生地だ。サラがいうには、これで出来るパンは普通のパンと違い、ナン、と言うらしい。

「本当はタンドール窯で焼くのが本場らしいんだけど、流石にそれはないからフライパンで焼けるサイズにしましょ」
「え、あ、うん。そうだね」

 タンドール云々は良く分からなかったので流すことにし、兎に角言われるままに生地を四等分して打ち粉をし、丸い棒で伸ばしていく。ナンとは平べったい形をしているのだそうだ。
 その間に、サラは手際良くスパイス各種に茶色い液体と刻んだ魚の切身の塩漬けを加え、ボウルの中で擦り合わせる様にして混ぜていく。元々香りが強めの茶色い液体とスパイスやニンニクなどが絡まり、薄らと独特な香りが部屋の中に立ちこめていった。なにやら、これは確かに食欲を刺激されるような香りだ。

「アケのスパイスにはね、いろんな効能があるって言われているの。美容にもいいし、消化も良くなるわ。例えばターメリック・・・まぁウコンのことなんだけど、これなんかはお酒飲む前に摂取しておくとアルコール分解を助けてくれたりするわ!」
「お腹が満たされる以外の効果もあるなんて、凄いんだね」

 特に酒を嗜まないテレーズにとってはターメリックとやらの効能はそこまでお世話になることはないだろうが、もし必要な時が訪れたら、ありがたく使わせていただこうとは思った。まぁ、その際にどこで手に入れるのかすら彼には皆目検討もつかないのだが。

「あ、そしたら野菜乱切りにしてもらえる?ズッキーニだけ輪切りかな。厚さは指先半分くらい」
「うん、わかった」

 手早く四等分した生地を伸ばし終えたテレーズは、ペーストを作っているサラの隣で野菜を切っていく。
 生まれてこの方、気がついた時には身に付けていた片刃の大型武具しか刃物を持ったことがなかった彼も、今ではすっかり包丁の扱いにも慣れたものだ。
 野菜の切り方にも色々あるらしく、乱切りというのは取り敢えず野菜を横に寝かせ、くるくる回しながら斜めに切っていけばいい、とテレーズは理解している。
 料理というのは切り方や熱の通し方にもいろんな手法があって、奥が深い。サラがいうには、家族で暮らす人々はみんな、毎日何かしらをこうして作っているのだそうだ。しかも一日二度という頻度であるのだとか。それは、とても大変なことだと思う。
 しかもその中心を担うのは現在はその殆どが女性であり、料理は作業の一端に過ぎず、その他にも様々な家事労働や内職があるのだという。

「主婦って、思っているよりとんでもない労働なのよ。ただ土をほじくり返し、木を切り倒したら後は飲んでいられる男衆の方がある意味楽かも。テレーズは、見えない家事にもちゃんと注目してあげた方がいいって覚えておいてね!」
「うん、そうするよ」

 見えない家事とやらがどのようなものを指すのかはいまいち分からなかったが、兎に角自分のやれる事をやれば良いのだろう、と彼は理解した。
 そうこうしているうちにサラはぐるぐるとかき混ぜていたペーストを作り終えたらしく、手際良く竈門に火をつけて鍋に油をひいて熱していく。
 そこに、先ほどまで作っていたペーストを半分程入れて炒める。すると、熱せられたペーストからは先ほどとは比べものにならないくらい、スパイシーで芳しい香りが立ち上がっていった。
 思わずテレーズは、ごくりと唾を飲み込む。これは、絶対に美味しいやつだ。そう五感が確信しているのが、いやでも分かる。
 しかしながら、未だにこれが何の料理なのかは、どうにも確信が持てないでいた。

「ふふ、見慣れないスパイスばっかりだもんね、まだ分からないかな?」

 ちらりと横目に此方を見て、その表情から内心を読んだらしいサラが、悪戯っぽく笑いながら言う。
 テレーズは素直にこくりと頷き、そろりそろりと近付いてサラの肩越しに鍋の中の様子を伺った。そこでは、緑色のペーストがふつふつと熱せられている。
 サラはそこに、今度は白い液体を入れていく。すると、甘い香りとスパイシーな香りが程よく混ざり合い、色味も合わせて薄くなっていった。
 此処に後は具材を入れて完成、となるなら、見た目は薄緑色のシチューといったところか。でもスパイスをふんだんに使うなら、シチューというよりは、あれかもしれない。

「・・・カレー?」
「ふふ、正解!これはね、グリーンカレーっていうのよ!」

 思ったよりそのまんまの名前だなぁと思いながらも、見たことのない色のカレーには強く興味をそそられる。
 サラによれば、カレーが嫌いな男の子はいない、とのことだ。実際に自分は一度食べさせてもらってからは感動しきりで、確かにカレーは文句なしに好物の一つになったと言える。
 このカレーは色こそ見慣れたカレーとは違うが、食欲を大いにそそるスパイシーな香りは、カレーとしてのポテンシャルを十分に秘めているといっていいだろう。
 更に残りのペーストを入れて沸騰させ、鶏肉を入れて火を通していく。

「よっし、そろそろナンも焼いちゃおっか」
「うん」

 徐々に近づいてきたと思われる完成の時を内心では今か今かと心待ちにしながら、サラの隣でフライパンを熱し、薄く伸ばしてあった生地を焼いていく。

「結構焦げやすいと思うから、火との距離に気をつけてね」
「うん、わかった」

 都度サラの助言を受けながら、焦げ付かない様に細心の注意を払いつつナンを焼いていく。
 その間にサラは野菜や残りの調味料を鍋に加え、いよいよ最後の仕上げに掛かっていった。
 彼女と旅を始めて、最初のうちは一から十まで料理を作ってもらってばかりであったが、こうして自分にも出来ることが増えてくると、ほんの少しは役に立てている気がして嬉しくなってくる。こんな風に思うのはきっと後にも先にも、彼女の隣でだけなんだろうな、と思った。
 因みに、サラはもともと料理をすることが好きなのだそうで、特に彼女から手伝いを積極的に求められたというようなことはない。ただ、彼女が料理をしている間は為す術なく呆然と待っているだけの自分を見るに見かねて、よかったら一緒にやってみるか、と態々声をかけてくれたのだ。
 なので、本当は彼女一人で全部出来ることではある。
 でも、サラは自分が手伝うと喜んでくれるのだ。
 彼女は以前に笑いながら、言っていた。料理は誰かのためにやるのもいいけれど、誰かと一緒にやるのも凄く楽しいんだよ、と。
 今まさに、本当にその通りだな、と思う。
 こんな穏やかな時間がずっと続いたら、それはどれほど素晴らしくて、幸せなことなのだろうか。
 そんな空想を無意識に思い描いてしまうたびに、彼はいつも思い出す。自らが、そんなことを願えるような立場にはいないのだということを。

「ほら、焦げちゃうよ!」
「え・・・あっ」

 サラの声で我に帰ると、目の前には香ばしい香りを放つナン。慌てて、フライパンの中で薄く煙をあげているナンをひっくり返した。
 少々黒く焦げ付いた部分が表面にできてしまったが、ちらりと隣のサラに視線を寄越すと、両手を広げてセーフのジェスチャー。どうやら、許されたようだ。

「油断大敵、ね。さ、こっちは完成!」

 一足先にサラの方が終わったようで、残りのナンを手分けしてぱぱっと焼き上げていく。
 そして四枚のナンが焼き上がったところでカレーを別皿に盛りつけ、完成だ。

「じゃじゃーん、サラさん特製グリーンカレーです!」
「おぉー」

 腰に手を当てながら高らかに料理名を発するサラに、テレーズはパチパチと手を叩きながら歓声を上げる。スパイスの香りと、それを中和するようなどこか甘い香りの混在する、実に不思議な香りのカレーだ。

「この甘い香りはね、ココナッツっていうの。熱帯地域が主な産地なんだけど、これからとれるココナッツミルクがこのカレーのポイントなのよ!さぁ、召し上がれ!そこそこ辛いと思うから、気をつけてね!」
「・・・じゃあ、いただきます」

 期待を胸に、まずは木製のスプーンで掬って一口。

「・・・・・・!!」

 口に入れた瞬間、口内全体に広がる豊かなスパイスの香りと、ココナッツとやらの甘み。そして、予想よりも強烈な辛さ。

「・・・の、のみもの・・・!」

 あまりの辛さに、テレーズは慌てて用意されていたサトウキビを絞ったジュースを、ぐっと喉に流し込んだ。甘さのある飲み物が口内の辛みを中和してくれはするが、それでもまだ辛さは口の中に残っているようだった。

「ふふ、ナンに付けながら、ゆっくり食べてね」

 テレーズの姿を見てくすくすと笑いながら、サラはナンを食べやすいサイズに千切ってカレーにつけながら食べていく。それをみて、テレーズは自分もそれに倣うようにした。
 千切ったナンをカレーに浸して、一口。
 今度は、先程よりも覚悟ができていたからか、ある程度味わいながら食べることができた。相変わらず辛いのだが、しかしその絡みの中に様々な旨みが溶け出していることが、この一口ではっきりとわかる。

(・・・これは・・・美味しい・・・!)

 辛いものはそこまで得意ではないテレーズだったが、このカレーは別格だと判断した。この辛さは、この料理には必要なファクターだ。青唐辛子やその他いくつものスパイスが織りなす辛味が複雑な味を生み出し、それをココナッツの甘みが包み込んで、丁度よく辛さと旨さのバランスを保っている。そしてごろごろとした野菜や鶏肉が、カレーとしての歯応えの楽しみをしっかりと齎してくれるのである。
 気がつけばテレーズは、飲み物と交互に無言で食べ続け、あっという間にグリーンカレーを完食してしまっていた。

「辛い・・・けど、美味しかった・・・!」
「へへーん、そうでしょー。ま、私も初めて作ってみたんだけど、これは中々上手くいったね!」

 サラも満足げに頷きながら、テレーズに遅れて完食する。
 テレーズはすっかり全身に汗をかきながら、はしたないとは分かりつつも両手を広げてごろんと後ろに倒れ、中空を見上げた。

(・・・美味しいものを食べてこうして寝転がるなんて、以前からしたら本当に考えられないな・・・)

 サラと旅を始めてから、まだ一月少々といったところだったか。曲がりなりにも凡そ十六年を生きてきたテレーズからしたら、これはまだほんの短い期間ではある。
 しかし、この僅かな旅の中で彼の人生は、今までとは全く別のものへと成り変わり始めているのも事実だ。
 その変化はとても尊いもののようであり、とても恐ろしいもののようでもある。一度得てしまえば、失うことを酷く恐れてしまう禁断の果実のようだ。
 しかし、この度には終わりがちゃんとあって、その時にどうなるのかは分からないけれど、少なくとも今の状態は消えて無くなるのも確かなのだ。
 その時、果たして自分はどうなってしまうのだろうか。
 こんな自問を、彼はこの一ヶ月ほどはずっと繰り返している。
 答えば、出ない。

「そういえばココナッツミルク余ってるなー。ね、テレーズ。デザート食べる?」

 サラが、少しこちらに身を乗り出しながら自分を覗き込むようにして聞いてくる。直ぐ様それに反応して起き上がり、同意するように大きく首を縦に振った。

「おっけ。じゃあぱぱっと作っちゃお。・・・一緒に作る?」
「・・・作る」

 サラの言葉にこれまた肯定の意を大きく示しながら、平らげた食器を片しつつ台所へと向かう。
 今はまだ、答えは出ない。
 だが、いつかは出さなければならないのも、確かなのである。そしてその答えを出してしまったら、きっとこの旅はその時点で終わりを迎えてしまいそうな気がするのだ。
 それを望んでいないのは、自分だけなのだろうか。
 それとも彼女も少しくらいは、そう望んでくれているのだろうか。
 そんなこと、恐ろしくて聞くことなんて絶対できない。だから、もしそうだったらちょっとだけ嬉しいな、と思うに留めておく。そう思うくらいの我儘は、ひょっとしたら許されるかもしれない。

「ほら、なにぼーっとしてるの、こっちこっちー」
「あ、うん、直ぐいくよ」

 今はこうして、彼女の声に導かれるに任せていよう。その心地よさに身を委ねながら、来るべき時のために、覚悟だけはしておこう。
 その時がきたら、自分は彼女の望むようにするのだろうか。それとも、彼女を裏切ることになるのだろうか。
 そのいずれの選択をするのかは分からないが、少なくとも、彼女のためになることをするべきだ、ということだけは分かっている。
 それだけは揺るがないのだ、と自分に言い聞かせながら、テレーズは鼻歌を唄うサラの隣に立って手伝いを始めた。

 

 

サラさんの作ったグリーンカレー(3-4人分)

グリーンカレーペースト・・・薬研で色々ごりごりするよりこっちの方が楽だよ!メープロイっていうメーカーがおすすめ!カルディとかでも手に入るよ!
鳥もも肉・・・400g前後。一口大に切り分け!
ピーマン・・・1個。細切り!
パプリカ・・・1個。これも細切り!赤でも黄でも、好きな色でいいよ!
なすorズッキーニ・・・2本。1.5cmくらいで輪切り!
たけのこ水煮・・・1パック
ココナッツミルク・・・400ml
ナンプラー・・・大さじ2
ライムリーフ・・・2枚くらい。バイマックルともいうよ。こぶみかんの葉!
砂糖・・・大さじ2。ココナッツシュガーならなおよし! 
鶏ガラスープの素・・・大さじ1 
あとはお好みで、仕上げに生バジルとかいいよ!辛さ調節に牛乳あってもいいよ!

ナンorライス・・・ナンもいいけど、白いご飯で食べるのもとっても美味しいよ!

①おっきめのフライパンにココナッツミルクを半分弱くらい火にかけて、煮立ってきたらペーストを全部入れて溶かします!

②溶かし終わったら鶏もも肉を入れて、火が通るまで煮込みます!蓋して、弱火で7−8分かな?

③鶏肉に火が通ったら、残りのココナッツミルクとお野菜とか筍とかライムリーフとか全入れして、中火で煮込みます!5分くらい? ここで牛乳をお好みで入れておくと味がマイルドになるよ!

④煮込んだ後に、ナンプラーとか砂糖とかガラスープとか、残りの調味料をいれます!弱火で煮込みながら味見!

⑤仕上げに、あれば生バジル入れて混ぜるとより味わい深くなります!

⑥ナン、ご飯とともに召し上がれ!

 

 

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ピドナの夜

 

 世界最大の王国メッサーナ、その首都ピドナ。
 現在発行されている世界地図のほぼ中央に位置し、四つの内海への流通の要となるこの世界最大の都市には、静かな夜というものが訪れることは殆どない。
 よくよく不夜城にも喩えられるような、実に旺盛な繁華街地区が幾つかこの都市には存在しており、其々の地区には其々の住民が根付き、往々にピドナの夜を楽しむのだ。

 区画分けとしてピドナは王宮を拝する北部に行けば行くほどに富裕層の居住する地区となっており、最も王宮に近い貴族街から、商業地区、中流階級地区と南に下り、其処からは半円状に職人街や平民街、港関係者の棲まう地区が東西に広がり、その中や間間に、数多くの酒家が存在している。
 其処で提供される酒や料理も実にバリエーション豊かなもので、正にこのピドナという都市が世界の中心、文化の坩堝であるという事を感じることができるのであった。

 今宵、そんな数ある酒家の中でも、決して治安が良いとは言えない南東の旧市街地区に程近い職人街の一角にある、今にも崩れそうな風体の(というよりは既に屋根の端の部分は崩れている)酒家に、何気なくふらりと立ち寄る男の姿があった。

 男の名は、ブラック。十年程前に温海地方で名を馳せた知る人ぞ知る大海賊にして、恐らくは三度目の死蝕の後に最も早く四魔貴族の脅威に直面したであろう人物だ。
 その肩書きに相応しく、一見して表の世界に生きている様子がないことが、見ただけで分かるような空気を漂わせる。そんな空気を身に纏った男の姿を見た店の中の先客は、しかし特に彼に対して敵意を向けたりするわけでもなく、すぐに目の前の杯に視線を戻して思い思いに飲み続ける。
 職人街周辺の酒家は文字通り職人肌の連中を主な客層としている様で、比較的こうした落ち着いている客層が多く、彼としては繁華街に在りがちな面倒な絡みもないので、最近は特にピドナの中でも足繁く通う区画だ。
 海賊という素性から、彼のことを全てにおいて粗野な乱暴者と認識する輩は多いが、実のところブラック自身は、手下と大騒ぎする飲みの席も嫌いでは無いが、一人で酒を飲む時は何方かといえば静かな場所を好む。
 海賊が良く酒を飲むのは、実は酒好きという以前に海上での水分補給手段という事情が主だ。
 何しろ長期間の航海にあたっては水より腐り難いから、という保存性に重点を置いた理由が主であることは船乗りなら誰しもが知るところであろうが、しかしブラックにはそんなことは、どうでもよかった。
 つまりは彼の場合は単純に、酒が好きなだけなのだ。
 彼にとって酒とは、煙草と合わせて趣向品の部類であり、決して単なる水分補給や馬鹿騒ぎのお供、というわけでは無い。

 さてそんな趣向を持つ彼はこの店には初めて入ったわけだが、ここは外観といい店内の小汚さの具合といい、下手に小綺麗な場所よりも余程、彼には好感が持てる。そして客層が比較的に静かなのも、いい。
 早速どこか座れそうな場所はないかと店内に視線を巡らせると、狭い店内で唯一、カウンターの一席が空いている様だった。隣も席が空いている様子だが、誰かの飲みかけと思しきグラスが置いたままだ。恐らくは客が居て、厠にでも行っているのだろう。
 迷わずブラックは其処に向かい、立て付けの悪い椅子に半分ほど腰掛ける。そしてカウンター内の筋肉質のマスターに向かい小銭を出しながら、エールビールを所望した。
 ピドナで提供されるエールは世界各国から流入するので店によって趣向特徴があるが、こうした小さな店には大抵、マスターが好みで選んだ一種類しか扱いがない。ピドナに着いてから飲みまわっている中で情報を聞いて周り、どうやらここで自分好みのエールが扱われているという話を耳にして彼はここに足を運んできたのであった。
 因みに、主にツヴァイク産が世界的にも有名なラガーと呼ばれるタイプのビールは、彼はあまり好きではない。
 ラガービールはすっきりとした喉越しが特徴で近年巷で広く流行しているのだが、どうもエールに比べて濃厚さや芳醇さに欠け、彼としてはどうにも物足りなさを感じてしまうのだ。
 程なくしてカウンターの向こうから無言で突き出されたエールグラスを、先ずは見下ろす。その色はかなり濃いめで、ほぼ黒といっていい。
 これは当たりかな、と内心でひっそりほくそ笑む。近頃の彼は、一部のエール好きの間で流行り出しているスタウト式エールがマイブームなのだ。
 先ずは一口飲む。すると、予想通りの濃厚な苦味が口の中を支配する。それと同時に、鼻腔にはふんわりとカラメル香が広がり、飲み込んだ後には後に引く軽やかな苦味と爽快感が喉に抜けていく。
 美味い。これはまた来よう。
 ブラックは心中でそのように決めつつ、いつもの様に懐から煙草を取り出す。
 彼の煙草ケースは、ここ十年ほど使っている少し年季の入った木製の一点物だ。その中身も、彼の地元である温海地方の、特に海岸沿いの地域で吸われる事が多い独特な甘い香りのする銘柄であり、その香りは今や入れ物である木箱にもしっかりと染み付いている。
 ピドナに来るにあたって実は彼が密かに最も心配していたのは、この煙草がこちらにもあるのかどうか、という事であった。が、其処は流石の文化の坩堝。多少探しはしたものの、難なく専門店にて自分の吸っている銘柄を手に入れることが出来たのである。
 火を付けると、彼の煙草の特徴でぱちぱちと軽く火が弾ける。その音を聴きながら煙を先ず口に含み、そして肺一杯に注ぎ込む。そして目を軽く細めながら、ゆっくりと煙を吐き出した。
 うっすらとした煙と一緒に彼の周囲に、彼の煙草独特の甘ったるい香りが広がる。これは一般的な煙草にはあまり無い香りで、好みが分かれる香りだ。温海のアケに近い地方で作られる、現地で採れる香料を使った煙草である。
 この辺りではあまり慣れない香りにマスターも思わず眉間に皺を寄せて一瞬こちらに視線を向けるが、かといって何か言うわけでも無い。これも喜ばしい事だ。
 ブラックはこの煙草と酒の組み合わせに勝る程の快楽とは、それこそ海賊稼業でお宝を手にした時くらいだろうと本気で思っている。

「おや、やっぱりあんたかい」

 ブラックが一頻り煙草と酒を交互に口に含んで味と香りを堪能していると、そこにどうやら彼に向かって放たれたらしい声が届く。
 こんな所で出くわす様な知り合いなど、この街にいた記憶がない。だが一応は、軽く顔をそちらに向けてみせた。
 すると其処には、一人の女が居た。
 が、その姿は飲み屋で期待する様なドレスや化粧を施している様子の一切ない、なんなら周囲の男も顔負けの逞しい二の腕を惜しげもなく、これ見よがしに晒した状態である。
 現れたのは、レオナルド工房の若き女親方、ノーラであった。

「・・・なんだ、お前か」
「なんだお前か、とは随分とご挨拶だね」

 特にこちらのそんな様子に構う様子もなく流しながら、ブラックの隣の席に腰掛ける。どうやら、隣の席に元々座っていたのは彼女だった様だ。
 ブラックはノーラとは正直なところ、そこまでの面識はない。
 今の彼が一時的な拠点とするメッサーナベント家のハンス邸にて何度か顔を合わせた事があるくらいで、大して話をしたわけでもない。なので、彼女が名の知れた工房の親方であるらしい、という事以外は特に何も知らなかった。

「あんたの吸ってる煙草くっさいから、遠くからでもすぐ分かったよ」
「けっ!」

 職人らしく距離感のないぶっきらぼうなノーラの物言いに、ブラックは定番の返しをする。この煙草の香りについてはよく言われるので、返しも手短に手慣れたものだ。
 ノーラも特にそれ以上煙草の香りに何か言うわけでもなく、手元にあった杯を一気に飲み干しておかわりを催促する様にカウンター前に突き出し、続いて懐から何かを取り出す。
 その動きにちらりと視線を向けると、彼女が取り出したのは真鍮製と思しき小さな箱だった。
 ノーラは手慣れた様子でそれを開けて中に入っていた煙草を取り出すと、すぐ近くに置いてある燭台の蝋燭から火を貰って煙草に火をつける。
 ブラックは常に何処でも吸うことができる様に朱鳥の加護を宿した小型の火打ち金と石を持っており、かなり小さな動作で火の生成が出来るようにしている。だがその代物は実の所、術具として大変に高価な物だ。なので大抵の場合はノーラの様に、何処かから火をもらって点けるのが普通である。
 こうした酒家のカウンターや各テーブルに用意されている蝋燭は灯りの側面もありつつ、大抵はその役目も同時に担っている事が殆どなのである。
 ノーラは先程のブラックと同じ様に煙を肺に送り込み、そして豪快に中空へと吐き出した。その香りは、ブラックからすれば随分と古臭い物だった。それこそ、彼が幼い頃からあったような代物である。

「・・・若けぇくせに、随分と古臭いのを吸ってんだな」
「ああ、これかい・・・まぁね。先代の親方・・・父さんが吸ってたものさ。あたしは煙草っていってもこれしか知らないよ」

 煙草は嗜好品としてはそれなりに広く分布しており、それこそ地域を問わず世界各地で手に入る。安価な粗悪品から高級志向の物まで多くの種類があるが、当然ながらその銘柄には流行というものもある。ここ最近の流行りはハーブなどのフレーバーを混ぜ込んだ物で、元は貴族の間で流行りだったものがここ数年で民間にも流れてきた様な物だ。
 ブラックが吸っているものは、言ってみれば今の流行りを突き詰めすぎた様な物であるが、これは温海地方の密林付近では割と昔から吸われているもので、実の所は他人の煙草にどうこう言えるほど新しい様な代物では無い。
 だが、そんなブラックからしてもノーラが吸っている銘柄は、自分よりも上の世代が主に吸っていた様なものだ。

「まぁ、今更これから他の煙草なんて移れないしね」

 そういいながら、ノーラはお代わりとして勝手にカウンターから出てきたグラスの中身を舐める様に一口啜り、そして美味そうに煙草を吸う。
 彼女の吸っている煙草は現存の銘柄の中では特段に味と煙の濃さがある物なので、確かにそれに慣れたら他のものは物足りないだろう。
 しかも、一緒に飲んでいるのが見る限りどうやらウイスキーとなれば、これはもう根っからの好き者だといえる。
 軽く興味を唆られたので、ブラックは話しかけてみることにした。

「そいつは何を飲んでんだ?」
「これかい。こいつはスタンレーウイスキーさ。あんたの煙草も甘い系なら、合うかもね」

 ふぅん、と返しながらブラックは彼女のグラスを一瞥する。
 ウイスキーは、作られる場所によって特色が分かれる。主に原材料は麦やとうもろこしだが、その麦の種類やブレンド具合、泥炭の活用などによって様々な種類があり、原産地として最も有名であり数多くの蒸留所を抱えるのは北西のルーブ地方だ。
 聖王歴以降は主に聖王教会の修道院で作られていたものが、いつしかその製造を主な生業とする者たちの台頭によって様々に変化をしていった。現在では主にルーブ地方、ガーター半島、イスカル河周辺が主たる産地となっている。
 どちらかと言えばイスカル地方の製造はルーブに比べて歴史が浅く、とうもろこしを主原料として作る。特に内側を焦がした新樽に寝かせるのがノーラの飲んでいるスタンレー式の特徴で、ルーブに比べ濃い色合いと力強い香ばしさがある。
 確かに甘いニュアンスも感じるウイスキーなのでブラックもスタンレーウイスキーは嫌いではないが、しかし彼は最も愛する酒を既に定めている。

「俺にとっての命の水は、既に席が埋まってるんだよ。マスター、俺にはラムをくれ」

 すっかり空いてしまった杯を自分も突き返しながら、彼もいつもの流れでオーダーをする。

「はん、陸にいても船乗りは飲むものが変わらないんだねぇ」

 ノーラはブラックのオーダーを聞いて何やら上機嫌そうに笑いながら、自分の杯を傾けた。
 サトウキビを原料とするラム酒は、特に長期間の航海を行う船乗りにとっては水より腐りにくく安価で入手でき、更には長期航海に起こりがちな壊血病の予防薬であるという迷信も手伝い、広く親しまれている。

「あれだ、ラム酒って壊血病の特効薬なんでしょ?」
「ふん。お前な、そりゃ迷信だぜ。こいつは確かに命の水だが、アレの薬はコレじゃねえ。ライムだ」

 ノーラの言葉に、ブラックは鼻で笑いながらそう応える。
 因みに壊血病とは長期間の航海をする船乗りに最も恐れられた疾病である。そしてその予防にはラム酒が良いという迷信が今も広く信じられているのだが、ブラックの言う通りラム酒そのものは実のところ全く関係ない。
 質の低いものも多い安価なラム酒を「飲めるシロモノ」にする為に入れる「割りもの」として扱われたライムジュースに含まれるビタミンCがその予防効果の正解なのであるが、とはいえブラックはそんなことまでは知らない。
 彼は記憶が定かではない位の幼少から親の顔すら知らない海賊であり、まだ酒も飲めない頃にライムジュースだけ飲んで壊血病を乗り切った経験をしている。その比較経験則から、彼は正解を知り得ていたのだ。

「ま、船乗りでも壊血病に効くのは本当はライムだってことを知らん奴ばっかりだけどな。静海あたりの海軍連中なんかは、その勘違いのせいでラム酒が昼飯に必ず配られるんだぜ」
「へえ、それは知らなかったよ。あんた見かけによらず物知りなんだね」

 一言多いノーラに対し、ブラックはふんと鼻を鳴らして煙草を燻らせる。

「つーかな、今の海じゃあ海賊ですら長い航海は避けてる始末さ。魔物が怖いってんでな。今の海にはケツの穴の小せえ奴らしかいないぜ」
「そりゃまあ、仕方ないんじゃないの?何しろ、命あっての物種ってやつでしょ。てかそんなこと言ったらさ、あんたがそれを作った原因なんじゃないのさ?」
「あん?」

 ノーラの予想外の指摘に、ブラックは杯を傾けながら半眼で眉を顰める。

「十年前にあんたが消息を絶った時なんてさ、あたしらみたいな無関係の業界のとこにまで噂が回ってきたくらいだったよ。あの大海賊ブラックがフォルネウスにやられた、ってね。そうなればもう、ブラックを超える海賊でもなければ海の魔物に挑もうなんて考えなくなるのは、自然な話なんじゃないのかい?」
「ふん・・・まぁ、それは確かに一理あるかもな」

 つまり、未だこの海に於いて悪名高き海賊ブラックを超える存在は出てきていない、という事なのだ。そういう事ならば、まあ確かに気分が悪いようには思わない。
 だが、それでも矢張り話は別だ。

「だが、気に入らねえのは変わらねぇな。そもそも海賊ってのは、なりたくてなるもんじゃねえ。海賊になる奴には、最初っからそれしか選択肢なんてねぇんだよ。だったら、海の上で死ぬことにビビるなんざ馬鹿げてるぜ」

 ラムを傾けながらブラックが言うと、ノーラも何やら同調するようにクスリと笑いながら杯を傾けた。

「それしか選択肢がないってのは、まぁ分かる気がするけどね。あたしだって父さんが鍛冶屋だったから、自分もそうなるってことしか考えてなかったし。まぁ父さんは別の道を望んでたっぽいけれど、小さい頃から父さんの背中を見て育ったあたしが鍛冶屋以外の職に着くなんて、想像もできなかったし」
「ふぅん・・・しかし、女鍛冶屋ってのは確かに珍しいしな。お前、兄弟はいねぇのか」
「あぁ、いないよ。っつか父さんも口には出しちゃいなかったけどさ、本当は跡継ぎには息子が欲しかったと思うんだよね。メッサーナの鍛冶場は別に女人禁制ってわけじゃないけど、基本的には男社会だしね」

 別にそれをやっかんでるとかじゃないけど、と付け加えながら煙草に火を付け、何語っちゃってんだろうねとノーラは苦笑いをする。
 だがブラックは、特にそれを笑うことはしなかった。

「別に男だ女だなんてのは、生きる上で関係ねーだろうさ。なるべくしてなるのに、そんな小せえことは問題じゃねぇ」
「へぇ・・・なんか意外だねぇ。大抵の男はあたしのことを珍獣でも見るような目でしか見ないし、特に同業者はこっちが女ってだけで舐めてくるけどね」

 女だてらに、というような言葉を何度も受けてきたからか、ノーラはそういうのには慣れてはいる。それほどノーラはこうした偏見には常に直面してきた。なので、こういう否定の仕方をしてくるブラックという男が、単純に物珍しく感じたのだ。

「そんなこといったら、こちとら海賊ってだけで世間からは鼻つまみもんだぜ。だが、俺はそんなものを気にしたことはこれっぽっちもねぇな。海賊はどこまで行っても海賊だ。誰がなんと言おうが、それ以上でもそれ以下でもねぇ。お前も、鍛冶屋はどこまで行ったって鍛冶屋なんじゃねぇのか?」
「ふふ、そうだね。その通りだよ」

 あっけらかんとしたブラックの物言いに、ノーラは思わず笑いながら応えた。

「あんた、案外気持ちいいやつじゃんか。今度うちに寄りなよ。そしたら得物のメンテしてあげるよ」
「はっ、生言ってんじゃねぇ。まぁお前、腕はいいらしいからな。カタリナとかの剣もお前が鍛えたんだろ。気が向いたら顔出してやるよ」
「あぁ、カンパニーは最早うちの大のお得意さんだからね。カタリナなんかピドナに来る度に装備がこれでもかってくらいボロッボロになっているもんだから、全く作り甲斐があるってもんだよ」

 快活に笑いながらノーラが言うと、ブラックもカタリナの海底宮などでの戦い振りを思い返しながら上機嫌に同意する。

「そりゃあそうだろうな。あんな調子で戦ばっかりやってりゃ、装備や体がいくつあっても足りたもんじゃねぇ。ありゃあ人間ってより、鬼神の類だ。それこそ女だなんて思えねぇ、の代表格だろうよ」
「あんた、それ本人の前でいったら絶対ぶっ飛ばされるよ」
「はん、上等だぜ。何しろ若返った俺様は無敵だからな」
「はっ、それこそ自分で言ってりゃ世話ないね」

 二人して調子よく言い合っては豪快に笑い、その後も杯を何度も空けながら煙を燻らせつつ、カタリナを中心としたハンス家に集まる人間を中心とした他愛もない話題で盛り上がる。

「それにカタリナはああ見えて、すごく繊細だよ」
「なんだなんだ、お前ら柄にもなく女特有の恋話にでも花を咲かせたか?」
「ちがうっての。そんなこと直接話さなくても、なんとなくわかんでしょ」
「馬鹿言うな、そんなのが男にわかったらな、男女のいざこざなんて起きねーんだよ」
「はっ、違いないねぇ!」

 そうして何度も笑いながら杯を傾け、結果この飲みの席は普段より帰りが遅いので心配になったケーンがノーラを店に迎えに来るまで続いたのであった。

 

 

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お料理教室・その1

 

 トリオール海から運ばれてくる微かな潮風に木々が揺らめく、長閑な午後。
 大都市リブロフを中心に栄えるトゥイク半島の、人通りの多いメイン街道から少し離れた、小さな宿場町。その街の、とある宿に設けられた厨房に、旅の者と思しき若い男女の姿があった。

「サラちゃんのぉ・・・三分クッキングー」
「わー」

 お洒落なカウンターキッチン式の厨房の中に布陣するは、長い髪をを後ろにまとめて三角巾を結いだ、サラと名乗る少女の姿があった。
 そして大仰に料理開始の宣誓を行った彼女に対して如何せん感情の乗らない様子で歓声を上げながらぱちぱちと拍手を行ったのは、異国情緒あふれる服装に身を包んだ少年だ。

「ちょっとテレーズ、反応が適当じゃない?」
「え、いや、サラに言われた通りにやったつもりだったんだけど・・・」

 旅の道中、やれ無表情だの声に抑揚がないだのと日々散々に言われ続けている少年-テレーズは、今回こそは事前に示し合わせた通りに好演を果たしたと思っていた。が、その矢先のこの痛烈なバッシングに、流石の彼もこれは心外だと言わんばかりに抗議の声を上げた。
 だが、その抗議の声色も彼の生来の気性を表したものなのかイマイチ迫力に欠けるもので、残念ながらその思いが目の前の少女-サラに響くことはない様子である。

「違うでしょ。そこはもっとこう、わぁぁぁぁ!みたいな感じがリアクションとしては相応しいと思うの」
「僕は・・・やっぱりサラには相応しくない・・・」
「あ、その辺の反応は面倒だからもう次に行くわ!」
「・・・それこそ僕の扱いが適当すぎない・・・?」

 文句を言うだけ言って次の工程に進んでしまうサラに対しテレーズは今度も渾身の抗議を行うが、当然それでサラが聞き入れてくれるわけもなく。
 まぁそんなことは、この数週間という短い期間ではあるものの彼女と一緒に旅をしてきた中で、既に分かっていることだ。その旅の道中の会話の中で、一度たりとも彼が会話の主導権を握ったことがない。
 特段彼はそれに関して不満を抱くような性格ではないが、流石に今の扱いはちょっと酷いのではないかなぁ、と頭の片隅で考えては、そんな考えと真逆になぜか表情は薄く、はにかんでいる。となると実はそれほどこんな扱いも嫌じゃないのかな、と自己考察するが、その先にあるのはサラ流に言えば「ドM」というあまり喜ばしくない属性であるらしいので、彼はここで一旦、これに関する考察をやめた。

 さて気を取り直し、今回彼女の目の前に並べられた食材はなんなのかとテレーズは厨房を覗き込む。
 まず目に着いたのは、籠に入れられた卵、マッシュルーム、玉ねぎ、ニンニク、香草類だ。そしてその隣には、そのままかぶりついても美味しそうな、厚切りのベーコン。
 脇には赤ワインと思われるものが入った壺と、汲んできた水。

「今日は何を作るの?」
「へへーん、それは、出来てからのお楽しみです」

 テレーズの問いにサラはお決まりのフレーズで答えながら、足下の炉に薪を焼べる。そしてちりちりと灯った小さい火がしっかりと広がるのを一時眺めて確認し、やがて立ち上がってそのほかの食材の準備に取り掛かる。

「前から思っていたんだけれど・・・魔術で火をつけた方が早くない?」

 テレーズは、ここ最近で常々疑問に思っていたことを試しに聞いてみることにした。
 サラは、魔術を扱える。それも『全ての属性』を扱うことが可能なので、朱鳥術で火を付けることができるし、なんなら以外にも様々なことが魔術で行えるのだ。
 テレーズは彼自身も抱える力の特異性から、それが二人の中では別に不思議なことだとは感じていない。しかし普通の人からしたらそれは有り得ない、あってはならないことであり、どうやら「普通はそういうもの」なのだ、と言うことも一応認識はしている。
 だからそれを他言しようなどとは勿論露ほどにも思わないが、しかしこういう時は便利ならば使えばいいのでは、とも、単純に思うのだ。

「だめだめ。こう言うのはね、普通につけた方が美味しいの」
「・・・そういうもの?」
「そーいうもの!」

 彼女のそんな言い分はテレーズには腹の底から理解ができる代物ではなかったが、とはいえ自分には彼女のように料理を作る腕がないので、そういうものなのかと納得することにする。

「大体、魔術なんて普通の人は使えないんだから、それを調理過程に組み込もうってこと自体が間違っているのよ。そうは思わない?」
「そっか、そういうものなんだね」

 どうやら自分が世間常識に酷く疎いらしい、ということは流石に自覚していたテレーズだったので、こんな時は彼女の言い分に素直に従うことにしている。
 魔術とは本来は貴族階級でもなければ学ぶこともない高等学問であり、農民、平民が簡単に扱えるようなものではない。
 無論、遺伝や突発性の適正で魔術の扱いに優れるものは貴族以外からでも一定数排出されるのだろうが、それらも魔術を学んだり感じたりする機会さえなければ、その才を開花させることなく一生を終えるのだ。
 ちなみに現在のように才があれば金銭を払うことで魔術を扱えるようになったのも聖王の時代以降のここ数十年の話であり、それまでは本当に極々限られた存在のみが魔術を継承させていたのだという。

「っていうか、トゥイクって本当に土地が豊か。綺麗な水源も豊富だし、農作物もこんなにあるし」
「普通はないの?」
「ないない。シノンじゃ水なんて貴重品だから、みんな普段はビール飲んでたし」
「そ、そういうものなんだね」

 リゾート地としても栄えるトゥイク半島は、水源に恵まれた豊かな土地だ。気候も温暖で農業も盛んであるので、冬を越すことにも食糧事情で大きな苦労もない。
 それに比べてサラが育ったロアーヌ東方、シノンの開拓村は、生きるには厳しい環境だった。土地は貧しく、腐りやすい飲み水は酒より希少価値があり高い上に、作物の育ちも悪いので穀物で冬を越すことはできない。なので畜産の中心は繁殖力に優れる豚であり、冬を迎える時には村総出で豚を屠畜し塩漬けして冬を越す。

「小麦なんて中々育たないないからライ麦ばかりで、パンも硬いしね。それでも、食べるものがそもそもなかった小さな頃に比べれば、最近は随分とよくなってきたほうだけれど」
「そういう経験がないから、僕にはあんまり想像がつかないな」

 物心ついた時から旅を続けていたテレーズは、自分とは違う世界に住んでいたサラの言葉に、そんな漠然とした感想を抱く。

「私は逆。こんなふうに旅をしたことがあんまりないから、いろんな土地を見てきたテレーズの話のほうが、面白いけどね」
「・・・そうかな」

 自分の話に、楽しいことなんてひとつもない。テレーズは本気でそう思う。どこに行っても、彼の目の前には常に死が首をもたげるのだ。
 だからこうして君といることも、本当は不安で不安で、仕方がないんだ。そんな表情が、すぐに彼は顔に出る。
 そんなときは、サラが調理の手を止め、手招きをするのだ。

「・・・?」

 彼女の手招きに応じて厨房へカウンター越しに身を乗り出したテレーズに、サラは何かが付着した人差し指を突き出し、そのまま彼の口に咥えさせる。

「!?・・・・かっら!!?」
「ふふ、唐辛子」

 丁度手元で唐辛子を刻んでいたようで、それをテレーズの口に突っ込んだサラは、予測通りの反応を得たとばかりに笑う。

「これから美味しい料理を食べるってのに、辛気臭い顔しないの。ほらこれ混ぜて、パンを切って塗ってちょうだい」

 そういってサラから差し出されたのは、オリーブオイルとすり下ろされたニンニク、そして今朝買ったばかりのバゲットだ。この二つを掛け合わせたら出来上がるであろう香ばしいガーリックバゲットを想像したテレーズは一気に食欲を刺激され、いそいそとそれらを手に取ってオイルとニンニクを混ぜ始める。
 その間にサラは切り分けたマッシュルームとベーコンを順番に炒め、香ばしい匂いが厨房に漂い始めた。

「サラは、料理をいっぱい知っているんだね」
「うーん、いっぱいって言うわけじゃないけどね。トムが料理できるから、トムから教わったものが一番おおいかな」
「あぁ、トムさんね」

 トムというのは、サラの口からよく出てくる同郷の幼なじみの中の一人だ。トムさんは料理もできるのか、なんか何でもできる人だなぁ、とテレーズは平々凡々な感想を抱く。
 何でもそのトムさん、サラが言うには今は会社を運営しているらしい。兎に角物知りで会社も運営していて更には料理まで出来るなんて、テレーズには全く想像のつかないほど雲の上の人物のようだ。
 因みにそのトムさんの仕事をサラも手伝っていたらしく、彼女もまた自分と同年代とは思えないような知識を披露することがある。その片鱗はこの旅を始めてからの短い期間でも、如実に実感できている。なにしろ彼ら二人の旅の路銀は、サラが別地域から運んできた特産物の売買や物々交換によってその大凡が成り立っているからだ。
 色んな地域の特産物や物価のレート(この辺りがテレーズにはイマイチ理解できていないが)をサラは把握しており、それが大いにこの旅のクオリティを引き上げている。一人で貧しい旅をしていた頃とは、大違いだ。

「・・・因みに、冒頭に宣言していた三分はとうに過ぎているけれど、これって元々三分で終わる料理なの?」
「え、終わるわけないよ、見てわかるでしょ」

 なにを意味のわからないことを言っているの、という感じに怪訝な顔のサラに対し、テレーズは世の理不尽を垣間見た気持ちになって憮然とした表情をする。

「三分クッキングっていうのは、言葉の綾というか、料理を主軸にした展開の際によく用いられる常套句みたいなものよ」
「そ、そういうものなんだ」
「うん、そういうものなの。色んな媒体や物語でもよく使われる表現ね。テレーズも覚えておくといいよ」

 彼女がそういうなら、きっと多分そうなのだろう。テレーズはここも、納得することにした。
 なにせ、これでも多少は文字を理解して本を読めるテレーズから見ても、彼女は大変な読書家だ。旅の最中も、暇を見つけては本を読んでいることが多い。本の趣向は雑食気味で大体なんでも読み漁っている印象だが、最も好きなジャンルはフィクションの物語なのだとか。きっと「三分クッキング」とは、そんな物語によく出てくるのだろう。

「そもそも実際の三分クッキングだって、事前に材料の仕込みもしていれば調理過程もすっとばして『そしてこちらが完成したものです』とか何食わぬ顔でやっているわけで、何が三分なのかってそりゃ放送時間でしょって話なのよね。あれは言うなれば、放送時間の兼ね合いで三分で掻い摘んで紹介するクッキング、だと思うわけ。テレーズもそう思わない?」
「あ、うん。そうだね」

 彼女が言っていることは大半テレーズにはわからないことばかりだったが、こう言う時のサラには突っ込んだところで何の意味もないのだ、ということだけはテレーズにも既にわかってきた。なので、無難な提携文での返事をすることにしている。
 だよねーそうだよねーと、彼の同意に気を良くしながらふんふんと鼻歌を歌いつつ卵を沸騰するかしないかといったあたりの湯の中に割り入れるサラ。
 ちなみに彼女が歌う幾つかの鼻歌の中で最も回数が多いのは、アーバロン、アーバロン、うーるわしのー、というフレーズである。なんでも、彼女のお気に入りの物語のテーマソング(?)らしい。
 そんなふうにご機嫌な様子で、湯が沸騰し切らないように卵を割り入れた鍋を持ち上げて火加減を絶妙に調節しながら卵を温めていく。ここまでくれば、やっとテレーズにもこの料理の全体像がわかってきた。

「これは・・・わかった。ポーチドエッグだね」
「せいかーい。あ、パン焼いちゃってー」

 サラに促されるままに、テレーズはガーリックオイルをたっぷり塗ったパンを窯に入れて焼く。その間にサラは別で炒めていた各材料にワインを足して煮詰めていたものを塩胡椒で整え、先ほどのベーコンらと合わせていく。
 そしてそれらを皿に盛ったものの中央に形よく仕上がったポーチドエッグを乗せ、丁度ガーリックが香ばしく焦げ始めたパンを取り出して、添える。

「じゃーん、ポーチドエッグとベーコンの赤ワインソース仕立てでーす」
「おぉー、美味しそう」

 出来上がった料理を並べて食卓についた二人は、食前の挨拶もそこそこに早速と料理の制覇に取り掛かる。
 様々な香草と共に炒めた具材に絡むソースが実に香ばしく、これが肉厚なベーコンとよく合う。それを中央に鎮座するポーチドエッグに崩して絡めると、また風味が変わってまろやかになり、再び香ばしいソースを身体中が求めて食欲が大きく刺激されるのだ。
 スプーンで掬ったそれをしばし堪能した後、口いっぱいにガーリックトーストを頬張る。バゲットはいい具合に外はパリパリで中が柔らかく、その断面にはたっぷりのガーリックオイルが良く染みていて、これもいくらでも食べられてしまいそうだ。

「・・・んんん、美味しい」
「ふふん、当然」

 何しろトムに教えてもらったレシピなのだから、とサラが自慢げに言うのを聞きながら、テレーズは年頃の男子よろしく、どんどんと皿の中身を平らげていく。

「ま、地元ではもっと質素に作ったものだけどね。ここは作物も多いから色々手が加えられるし、料理も楽しいわ。香草はまだまだ色々試してみたいくらい」
「これは、シノン料理なの?」
「うーん・・・別にシノンだけの料理ってわけじゃないと思うけれど。特にベーコンとかソーセージなんかは、痩せた土地の定番食材だからね、よく食べたよ。こう言うふうにアレンジするようになったのは、卵が安定して取れるようになってからかな」

 こうして彼女の話を聞いていると、テレーズにも世界のなんたるか、というものが何となく分かったような気になってくる。世界には、いろいろな場所にいろいろな人が住み、その土地柄に添った色々な生活があるのだ。
 これまでも確かに旅をしてきたものの、そんな当たり前のものに意識を向ける余裕すら全くなかった彼には、サラとの旅は毎日が発見の連続だ。
 世界とは、こんなにも色々なものが溢れていたのか、と思う。

 そして、そんな色々なものが等しく彼の前では消えてしまうことも、痛いほど分かっている。なにより今は、それが恐ろしい。

「テレーズ」

 名前を呼ばれて顔を上げる。このテレーズという名前も、サラが付けてくれたものだ。だから、サラがいなくなったら、そう呼ぶ人は居なくなるのだろう。
 ふとそんなことを思いながら揚げた顔を、サラのデコピンが急襲する。
 パチン、と小気味良い音が鳴り、指が弾かれた。

「・・・いたい」
「テレーズは何を考えているのか、ほんと言葉より顔の方が分かりやすいよね」
「・・・・・・」

 いつも、こうだ。自分がその時のことを考えると、サラは何かしらでその思考を中断させてくる。
 だから、彼はいつもここで考えるのをやめる。
 本当は、考えておかなくてはならないのに。
 覚悟をしておかなければならないのに。
 だってそうしなければ、今度こそ自分は耐えられないかもしれないから。
 それでも、彼女が望むなら、今は考えないことにするのだ。

「さぁ、食べたら出立の支度をしてしまいましょう。世界はいちいち、私たちを待っていてはくれないわ」
「あぁ、わかったよ」

 次の宿場町では何を作ろうかな、と今から考えを巡らせ始めるサラに薄らと微笑み返しながら、テレーズはもう一度ガーリックトーストに齧り付く。

 今は、考えない。
 なぜなら、彼女がそう望むから。
 いや、彼女が望む以上に、自分がそう、心から望んでしまっているから。
 でもそんなことは、絶対に思ってはいけないことだ。
 だって自分には、そんな望みを抱く資格はないのだから。

 ただ、同じくして彼女の望みを拒否する資格もまた、彼にはないのだ。
 だから、今暫くこのままでいることは、仕方のないことなのである。
 彼はそう心に言い聞かせて、最後の一欠片となったガーリックトーストを口の中に放り込んだ。

 

 

サラさんの作ったポーチドエッグの赤ワインソースかけ(二人分)

卵・・・二個(市販の温泉卵とかで代用してもOKだよ)
マッシュルーム・・・二個(石附をとって、どちらも薄くスライスしてね)
ベーコン・・・1パック(5mm角or1cmスライス。できればブロックベーコン推奨)
玉ねぎ・・・1/4カットをみじん切り
ニンニク・・・1片みじん切りorチューブ2~3cm
香草・・・ローリエ1枚、タイム1枝or小さじ1
グラニュー糖・・・小さじ1
バター・・・15g(半分にして、調理用と仕上げ用に)
塩胡椒・・・ソースの仕上げ用にお好みで適量
唐辛子・・・お好みでどうぞ
赤ワイン、水・・・各100cc
オリーブオイル・・・適量(適量ってわかりづらいよね。ひょいってくらいでいいよ)

ガーリックトースト・・・市販でも。バゲットにガーリックオイルを塗って焼いても。焼き立てが断然おすすめ

①フライパンにバターを引き、マッシュルームを炒めて取り出しておき、そのままベーコンも炒め、これも取り出しておく。これがメインの具材。

②ソース作り。そのままフライパンにオリーブオイル、ニンニク、唐辛子(入れる人だけ)を炒め、ニンニクの香りが立ってきたら玉ねぎをいれて炒める。玉ねぎがしんなりしてきたら、香草、石附を入れて更に炒める。

③薄力粉(分量外)を軽く振り入れて軽く合わせたのち、赤ワインと水を投入。半分程度まで煮詰める。あく取りをしながら、焦げないように火加減に気をつけて。

④別の鍋にフライパンの中身を漉す。絞るようにしっかりと漉してね。弱火にかけながらグラニュー糖、バター、塩胡椒で味を整えたら、ソース完成。まぁ、漉し器なかったり面倒だったらそのまま入れちゃってもいいんだけどね。

⑤鍋に湯を沸かし、沸騰する前に卵を割り入れます。鍋底にくっ付いたりしないように、平皿をお湯の底に沈めておくと形が整いやすいよ。お湯は沸騰させず、鍋底から泡が出てくる程度を維持してね。沸騰してると卵が硬くなっちゃうよ。五分ほど待ってね。形崩れるから混ぜないで。入れるときや取り出す時に網杓子があると便利だよ。

⑥ベーコン、マッシュルームにポーチドエッグを乗せ、ソースをかけて完成。ガーリックトーストと共にどうぞ。

 

 

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バンガードの休日

 今日の西太洋は、実に平和そのものであった。
 空は青く晴れ渡り、海上を吹き抜ける風も穏やかそのもの。四方見渡す限りが海ばかりという景色には少々飽き飽きしてきた頃合いではあるが、まだ暫くはこのままの予定だ。
 その日、愛用の曲刀の代わりに釣竿を装備したハリードは、整備点検と休憩を兼ねて停止中のバンガードの縁から、釣り糸を海原に垂らしてぼけっとしていた。
 四魔貴族の一柱である魔海侯フォルネウスを激闘の末に打ち破ったカタリナら一行を乗せたバンガードが陸に辿り着くまで、あと一週間程度はかかるらしい。

「釣れているか?」

 特に何を考えるでもなく海を見つめていたハリードに、ふと声がかかる。
 それに気がついてハリードが声のした方を見やると、そこには彼と同じく釣竿を装着した状態のシャールがいた。
 ハリードは彼の言葉に対し、自分の脇に置かれた木製の桶を視線で指し示す。そこには、澄んだ水だけが揺蕩っているのみだった。

「ボウズか。猛将トルネードも、釣りは不得手なのだな」
「砂漠の民に釣りスキルまで求めるなんて、そりゃいくらなんでも無茶振りってもんだ」

 ハリードがそういうと、シャールはそれもそうだなと微かに笑いながら近くに腰を下ろし、彼とは違う方角へ向けて、徐に釣り針を放った。

「まぁ、そういう俺も血筋はナジュも混じっているから、釣りは得意とは言い難いがな」
「・・・だろうな。しかし食料が心許ないって話らしいから、このままボウズってわけにもいくまい。なんとか釣り上げんとな」

 流石に釣果無しでは帰れまいと、二人はしばらくそこから無言で釣りに集中することにした。
 ところで話は変わるが、ハリードはこのシャールという男に対し、どこか自分と近しいものを感じているのだった。
 名前や風体から生まれの地域が近いのだろうということは無論予測できたのだが、単にそういうことではない。どちらかと言えば姿形というよりは、その行動や生き様、とでもいうのだろうか。そういった部分に、どこか共感を覚える部分が多いように感じるのだ。
 だが、ハリード自身はこの十年は半ば世捨て人みたいな生活を送ってきた身分であるので、そんな自分に共感を覚えられるのも迷惑なものだろうなと考えて、結果一人で皮肉めいた笑みを浮かべる。

「なんだ、何か面白いことでもあったか?」

 どうやら、表情をみられていたらしい。シャールにそう問いかけられ、ハリードは肩を竦めた。

「いや、別になんでもない。気にしないでくれ」
「そうか」

 短く言葉を交わすと、また暫く二人の間には沈黙が舞い降りる。
 元がそこまで口数の多くない男であるシャールは、こうして一緒にいても静かで、面倒ではないのがいい。ハリードは昔っから、男女問わず姦しいのは苦手であった。
 だがその割にロアーヌの一件に端を発するこの一年の生活の変貌の中では、とびきり煩いエレンとの二人旅から始まり、随分と賑やかだったな、等と思い返す。そしてそんな賑やかさにも慣れてきている自分を思うと、なんだかんだ騒がしいのにも抗体が出来てきたのかもしれない。
 そんなことを考えながら、一向に反応を示してくれない釣竿を弄んでいると、またしても背後からハリードに近づくものの気配があった。

「お二人とも、釣れてますか?」

 そこに現れたのは、昼食が入っていると思しき籠を持ったミューズだった。
 籠を持つ彼女の両腕には合成術の反動の影響でまだ包帯が巻かれているが、もう傷は殆ど塞がっているらしい。
 シャールの主人である彼女もまたフォルネウス討伐を成した一人であるが、改めてこうして見る限りではとてもそうは思えないほど、清廉でお淑やかなだけの令嬢である。

「お昼、持ってきました。キリのいいところで休憩にしませんか?」
「ありがとうございます、ミューズ様」
「・・・キリもなにも、今も休憩しているようなもんだ」

 それでは、とミューズが持ってきた籠から大きめのサンドイッチを取り出して二人に差し出すと、二人はそれぞれサンドイッチを受け取って一気に頬張る。
 炙られた薄切りのベーコンを挟んだサンドイッチに舌鼓を打ちながら、三人は口数少ないながらに昼食のひとときを楽しんでいた。

「・・・ハリードさんとシャールさんって、案外、仲いいですよね」
「あー、そういえば確かにそうね。年も近いらしいし気が合うんじゃない?」

 たまたまそんな様子を見回りで目撃しながら、フェアリーとカタリナはそんな会話を繰り広げる。

「男同士の友情モノって、胸が熱くなりますよね。どこか別の世界では彼らが親友同士だったとか・・・そんな設定だったりしたら、なおいいですね」
「そんな後だし設定あっても、こっちが困っちゃうだけなのよね・・・」

 何が困るのかはさておき、昼食を続ける彼らを遠目に見ながら、二人はそんなことをいいつつ見回りを続けるために歩き去っていったのだった。

「なぁボストンよ。お前、陸に着いたらどうすんだ?」

 海面に接する部分に設けられた船着場付近でバンガードの向かう先を見つめていたブラックは、丁度海の中から顔を出したロブスター族の戦士、ボストンに向かってそう問いかけてみた。
現在のバンガードは、直前のフォルネウス討伐の際に備蓄の術酒が完全に切れたことにより、玄武術士の力だけで動かすことが困難になっていた。そこで、ロブスター族であるボストンの持つ玄武の加護によって、動力の補助を受けている状態なのだ。
 それにより、術士の魔力回復とボストンの術力回復のために、こうして一日のうち数時間を停船しながら陸に戻っている最中であったのだ。

「まぁ、こうして島の外に出ることになったのも何かの縁だ。陸に行ってからはこのバンガードを拠点に、見聞を広めようと思っている」
「はぁん・・・しかしお前、その風体だと魔物と間違われるんじゃねぇか?」

 ブラックがそう指摘すると、ボストンはブラックの足のすぐ近くに置いてあった木の桶に、ハサミで捕らえた魚を入れながら唸った。
 このバンガードではボストンは既に住人からは歴とした「ロブスター族」として認識されており、少ないながら町民との会話や交流もできている。だがそれはカタリナらと行動を共にしていたからであって、これと同じ状況がバンガード以外でも通用するとは、彼自身も思ってはいなかった。

「そうだな・・・まぁ、ここ以外で人里に寄りつこうとは思わんよ。それに水竜には遅れを取ったが、こう見えて並大抵の海棲の妖魔風情ならば遅れを取らない程度には腕に自信もある。自衛はできるさ」

 海から上がって軽く伸びをしたボストンは、触覚部分を髭のようにハサミで弄びながらそういった。

「なるほどな。ならよ、お前、海賊やらねぇか?」

 そんなボストンを見ながら、ブラックは唐突にそういった。ボストンが首を傾げる仕草をすると、ブラックは腕を組んでボストンに向き直り、不敵に笑って見せた。

「こうして力を取り戻せた恩もあるからここの連中には暫く手を貸そうと思っているが、それが終われば俺は海賊稼業に戻る。そん時には、航海士が欲しくてな」
「海賊というのも航海士というのもどういうモノなのかよくわからないから、なんとも言えないな」

 ボストンがそう言いながらハサミをカチカチと鳴らすと、ブラックは豪快に笑い飛ばしながら腰に手を回した。

「なぁに、面白おかしく海で生きていくのが海賊さ。お前みたいに玄武の加護を持った奴がいれば、海に生きるものにとっては何よりもありがたいしな」
「成る程、海に生きるものを海賊というのか。だが、それならば私は既に海賊ではないのか?」
「はっ、そりゃロブスターとしての生き方だろうが。人間の、それもこのブラック様流の海賊生活は、スリル満点でめちゃくちゃ面白いぜ?」

 ブラックのその自信たっぷりの言いように、ボストンは暫し考える仕草をする。
 ボストンが知っているこのブラックという男は、海底宮でのフォルネウス討伐を終えてこのバンガードに戻ってきた時からの、極々短い間だけの付き合いだ。討伐に向かった際の、彼が知っていたハーマンという男は、ブラック曰く、死んだらしい。その代わりに、このブラックという男が現れたのだ。
 つまりは左足と共に生命力を取り戻したハーマンの本当の姿がこのブラックなのだが、ただやはり、この男に関してボストンは殆ど何も知らないと言っていい。
 ハーマンというのは、失った己の左足や仲間の仇を取ることしか考えていない、復讐心に駆られた男だった。それが、ボストンの知るハーマンの全てだった。
 だがこのブラックという男は、そうではない。もう彼には復讐する相手もいないし、取り戻すべき左足などもない。だから、そういう意味ではハーマンとは全くの別人なのだ。
 このブラックという男がハーマンの願いを成就した存在であるならば、ではこの男は、一体何をしようというのだろうか。

「ブラックは、その海賊というものになって何をするつもりなのだ?」

 知らないのならば、聞くのが手っ取り早い。だからボストンは、そのまま聞いてみた。
 するとブラックは待ってましたとばかりにニヤリと笑うと、いつものように懐から取り出した煙草に火をつけ、美味そうに吸い込んだ煙を長く細く吐き出しながら海へと視線を移す。

「そりゃあお前、やることは一つよ」

 

「・・・やっぱり、海賊王になるんですかね?」
「え、うーん・・・でも麦わら帽子が似合う感じじゃないし・・・」

 見回り途中に今度はブラックとボストンを見かけたフェアリーとカタリナは、彼らの会話の一部始終を小耳に挟みながらそんな会話を繰り広げていた。

「しかし不思議です。どうして人間の海賊というのは、相棒に人間以外を選びたがるんでしょうね」
「あー、それゲッコ族的な話? まぁ別に好んで選んでいるわけじゃないと思うけれど・・・確かにボストンもやたら紳士な感じだし、キャラ的にもバッチリよね」

 残念ながらブラックがその後に何をいったのかは波の音でかき消されてしまったので聞こえなかったが、故に二人は無責任に色々と憶測を交えながら話しつつ、巡回を続けていくのであった。

 

 

「・・・入るぞ」

 ノックの後にガチャリと扉を開けてボルカノが部屋に入ると、その中にいたのは、ベッドの上で上半身だけ起き上がり、包帯でぐるぐる巻きにされた両腕で不便そうに本を捲っているウンディーネだった。
 彼女の両腕の怪我は今回のフォルネウス討伐における被害の中で最も酷く、また魔術士としての活動にも大きく制限がかかるほどに、魔力の一時的な減少も見て取れていた。なので他の面子がある程度回復している今も、彼女だけは両腕をほとんど自由に動かせずにいる日々が続いている。

「ディー姉、また本を読んでいるのか・・・。あまり無理はしないでくれよ」
「・・・仕方ないじゃない。ベッドの上ばかりでは、やることもないんだもの」

 彼女の両腕は肘から先が骨までズタズタになっている状態だったらしく、ミューズらの懸命の治療の結果、なんとか後遺症の心配がなさそうな程度までは治すことができた。だがそれでも、医者の見立てでは回復まであと二ヶ月近くは費やすだろうとのことで、その間は思うように両腕を使えない状態が続くのだそうだ。

「それは、自業自得だ。ぶっつけ本番で解明しきっていない古代の合成術を試すなんて、無謀にも程がある。大体ディー姉は・・・」
「その説教なら、何度も聞いたわ。いい加減にして頂戴よ」

 数日に一回は、ボルカノからこの説教を耳にする。それがとても鬱陶しく感じられて、ウンディーネは心底嫌そうな顔をしながら彼の言葉を遮った。
 無論自分が軽率な行動をしたことは十分解っているのだが、それでも彼にここまで執拗に言われる筋合いはないと思うのだ。というかあれがなければ今ここに生きて帰ることもなかったと思えば、それが最善の選択であったとも言える。だからこそ、ここまで彼に言われるのもおかしな話ではないかとウンディーネは不満に思っていた。

「とういか、なんで毎度毎度貴方が食事を運んでくるのよ。貴方あれでしょ、魔導技師・・・だっけ、あれなんでしょう。ならこんなところに来てないで、ちゃんと艦橋で仕事していなさいよ」

 繰り返すが両腕が使えないウンディーネは、食事をするのも一苦労なのだ。なので毎度の食事は運んできてくれた人に食べさせてもらうことになるわけだが、なぜか毎日の昼食に関しては、必ずボルカノが運んでくるのである。彼自身はこのバンガードを動かす要の役割を果たしているので、その身は忙しいはずだ。なのに一々こうしてここに来ることが非常に不可解なのである。

「今は停船中だ。やることはない」
「だったら・・・休んでいなさいよ。動いている間、忙しいんでしょう?」

 ウンディーネがそういうと、ボルカノはそれにはすぐには答えず、手元の野菜スープをスプーンで掬った。

「ちゃんと休んでいる。俺よりも、実際に魔力供給を行ってくれている術士たちの方が大変さ。この時間は彼らを休ませてやりたい。はい、あーん」
「・・・・・・・」

 なにやら不機嫌そうな顔でボルカノを睨み付けるウンディーネに、ボルカノは困ったように笑みを浮かべる。

「給仕をしてくれる女性もいるんだが、他の皆の昼食を作るのに忙しい。俺では嫌かもしれないが、勘弁してくれディー姉」
「べ・・・別に、嫌だとは言っていないわよ」

 差し出されたスプーンに口をつけると、ボルカノは慣れた手つきでウンディーネにスープを飲ませ、パンを千切っては食べさせていく。

「そうか、てっきり嫌がられているのかと思っていたけれど」
「・・・違うわよ。ただ、なんか悔しいだけ」

 そういってそっぽを向くウンディーネに、ボルカノはうっすらと微笑んだ。

「そう言えば昔、俺が風邪ひいた時にこうしてディー姉に食べさせてもらったことがあったな。あの時と、逆だな」
「・・・そんな昔のこと、もう覚えていないわ」

 嘘だ。しっかりと覚えている。
 まだ自分も十代だった頃だ。生意気盛りだったボルカノが風邪をひいて寝込んだというので揶揄いがてらに見舞いに行ったのだが、思ったより熱があって苦しそうだったので、内心とても心配したのを今もはっきりと覚えている。
 結局心配でその場をすぐに離れることができず、術で氷枕を作ってやって額にも冷たい水を滞留させ、熱が落ち着くまでそばにいたのだ。その途中で、彼の親が作った食事を引き受け、彼に食べさせてやった。

「・・・あの時は可愛いものだったのにね」
「・・・何か言ったか?」

 ふと口に出たことに対し、ボルカノがパンを差し出しながら首を傾げる。

「・・・なんでもないわよ」

 それをパクリと咥えながら、ウンディーネは話をはぐらかす。ボルカノも何度か聞き直してみたが結局教えてくれず、そのまま食事は終了となった。

「じゃあ、俺は戻るよ」
「・・・」

 すっかり平らげられたお皿を重ねると、ボルカノはベッド脇の椅子から立ち上がった。そしてベッド脇に置いてあったウンディーネの読みかけの本を、また彼女の足の上あたりに戻してやる。

「本を読むなとも言わないが・・・あまり無理はしないでくれよ、ディー姉」

 そう言って部屋を去ろうとするボルカノに、ウンディーネは視線を投げかける。

「・・・ありがと」

 そして短くそれだけいうと、聞き取れなかったのかボルカノが振り返って首を傾げる。

「何かいったか?」
「・・・なんでもないわよ!早く貴方も休憩しなさい!」

 相変わらずの調子のウンディーネに苦笑しながら、ボルカノは了解と返して部屋を後にしていったのだった。

 

「・・・あれでは、ツンディーネさんですね」
「あ、上手いじゃないフェアリー」

 彼らの様子を丁度見かけていた見回り中のフェアリーとカタリナは、去っていくボルカノの背中を見送りながらそんなことを話していた。

「というかウンディーネさん、もう液体くらいなら操れるから水とかスープとかは自分で摂れちゃうんですよね」
「へー、術って便利なのね。でも、なら何故大人しく食べさせられているのかしら・・・って、その手の疑問は野暮ってものよね」

 そうですね、と言って微笑むフェアリーにカタリナも笑みを返しながら、二人は見回りを続けるためにその場を後にした。

 間も無く、バンガードは再始動して大陸へと再度進行を開始する予定だ。

 

 

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la Saint Valentin

 

「はぁ・・・」

 それは、ロアーヌ地方に冬の合間の安らかなひと時を齎す暖かな陽光が差し込む、実に朗らかな昼下がりのことだった。
 その日差しに似つかわしくなく随分と物憂げな溜息を吐いたロアーヌの華たるモニカの様子に、窓から庭園の様子を眺めていた侍女のカタリナは何事かと振り返る。

「どうかなされたのですか、モニカ様」

 いつもと同じ様に優しい口調でそう問われたモニカは、なにやら酷く億劫な様子で、お気に入りの椅子に多少だらしなくもたれ掛かった。
 こんな姿は彼女が最も敬愛する兄であるミカエルを始め、他の誰にも見せられないだろうな、とカタリナは密かに思っている。だが普段から侯爵の娘として相応しい教養を身に付けるべく厳しい教育を受けている彼女のことを思えばこそ、自室で、且つ周りには護衛兼侍女である自分しかいないときくらいは黙認してやりたいとも思うのであった。
 それにすっかり甘んじた様子で椅子にもたれ掛かったモニカは、たっぷりと間を置いた後に、ぽつりと呟いた。

「いいえ、そろそろわたくしが一年で一番憂鬱な季節が来るのねって、そう思っただけ」
「一年で一番、ですか・・・。あぁ・・・そう言えば来月は、もうサンヴァロンタンですね」

 そういえばもうそんな時期か、とカタリナは部屋に置かれた仕掛け時計へと目を向ける。今はまだ新たな年が始まって間もない頃合いだが、ここ数年のモニカは毎回この時期になるとこうなるものだから、カタリナにもいい加減直ぐに察しがつく様になってしまった。
 新たなる年を祝う月の翌月、冬の終わりを告げる月の始まりから十四を数えた日には毎年、サンヴァロンタンという民間を中心として催される催事がある。
 これはロアーヌに限らず世界中で行われるものだが、これは土地によって若干呼び名に違いがあった。因みにメッサーナ王国首都を始めとした多くの都市国家では「セントバレンタイン」と呼ばれることが多いようだ。

「そうよ。なんであんな催しが、この世の中には存在するのかしら。迷惑な話だとは思わない、ねぇカタリナ?」

 余程、サンヴァロンタンが嫌なのだろう。モニカはひどく憤慨した様子で毒づいた。
 彼女がここまであからさまな不快感を表に出すのは非常に珍しいことだが、確かにここ数年の彼女の心労を鑑みれば、このような反応になるのも多分に致し方ないのではないかとカタリナにも感じられた。
 各国の風土や伝承の違いなどによりこの催事における主となる内容は多少形を変えるが、世界中に共通するこの催事のテーマは、ずばり「愛」である。
 各国においては、この「愛」に因んだ様々な催しが開かれるのが、古くからの習わしなのだ。
 そしてこのロアーヌにおけるサンヴァロンタンという催事の内容は、これがまたあからさまに「男女の愛」を焦点とした催しなのである。
 その主な内容は、男性が最愛の女性へ花束やその他様々な贈り物をする、というものであった。
 それは既に結婚している夫婦に於いては夫から妻へ贈るものであったり、交際中の男性から女性へ贈るものであったり、また、しばしば男性から意中の女性への愛の告白にも用いられるのだ。
 そして、今年で齢十六を数えんとする絶賛婚期到来中のモニカの元へは、ここ数年来は其れこそ文字通り山の様な贈り物の数々が各国各領の貴族から届けられるのだ。無論それは単なる求愛であるだけでなく政略の絡んだ代物でもあるが故、彼女はその贈り物一つ一つに対しても無碍にするわけにはいかず、丁寧に対応せざるを得ないという現状なのであった。

「もう、本っ当に嫌気がさしているの。なんとかならないものかしら・・・」

 普段は侯爵の娘としての立場を重々に弁え、如何なる立ち居振舞いについても敬愛する兄の為に愚痴一つ零さないモニカである。しかしその彼女をして、このサンヴァロンタンという催しは度し難いものであるのだった。

「そうですね・・・お立場からすればある意味宿命に近いものとは言え、最近は贈り物も年々増えていく傾向にありますし・・・流石に何か手を打ちたいですね。しかし、相手に『贈るな』というわけにもまいりませんし・・・」

 腕を組み、細い顎に指先を当てながらカタリナは暫し思考する。
 そしてじっくりと考えること十数秒、カタリナは武人として潔く諦めの表情を見せた。

「何も思いつきませんね」
「せめてもう少し考えて頂戴よカタリナぁー」

 その表情ときっぱりした答えにモニカが絶望の表情を浮かべながら縋り付くように声を上げると、カタリナは腰に手を当ててもう一度うーんと唸ってみた。とは言え考える姿勢を変えたからといって、そう都合よく新たなアイディアなど浮かんでくるわけでもない。
 だがモニカは本気で今の状況に辟易しているのも確かであり、出来ることならばなんとかしてあげたいと思うのも正直なところであった。

「そうですね・・・では何ができそうなのか、一先ず情報収集をして参ります。モニカ様はその間暫し、詩作を嗜んでおられてください。今なら素敵な詩が出来るかもしれませんよ」
「そうね、今ならきっと、後世に残るような恨めしい詩が浮かびそうだわ」

 何のことはなく、丁度詩作の稽古の時間になったので、宮仕えの詩人がモニカの部屋に顔を出したところなのであった。
 詩人が何のことであろうかと目を瞬かせているのを他所に、カタリナはモニカの部屋を後にした。

 

 なにしろ自分は、これまでサンヴァロンタンという行事にあまり縁の無い人生を送ってきた。
 カタリナは自分のこれまでの半生を振り返り、そのように考えていた。
 幼少の頃は、父から毎年この時期に大きな花束を受け取って嬉しかったことを、今も覚えている。母と共に両手いっぱいの花束を父から受け取って直ぐにその香りを嗅ぐと、まるで自分の腕の中に一足早く春が舞い込んだような気がして、意味もなく喜んだものだった。
 だが彼女はその後に幼くして死蝕を経験し、世の中が混乱に陥る中でロアーヌという国を守るべく騎士を志した時から、所謂一般的な女の歩むべき人生とは決別したのだ。
 それ以来、サンヴァロンタンという行事について彼女が自ずと何かをするということは、一切無かった。
 とはいえ紆余曲折を経て騎士団候補生となってからモニカの側に使えるまでのこの十数年の間には、彼女の元にも毎年随分と花が届けられたものだ。
 有り体に言ってしまえば、彼女は非常に容姿に優れている。そして当初から方々より様々な反感を買いつつも、今となってはフランツ侯の勅命による侯族付きの護衛騎士である。その容姿と立場も手伝い、その実はモニカにも匹敵するのではと思われるほど、今も彼女宛に毎年多くの花束が届けられていた。
 だが彼女は騎士を志したその時から今に至るまで、それら一切の受け取りを問答無用で拒否している。
 無論のこと対外的には、彼女は騎士という立場であると同時に、紛う事なきロアーヌ貴族の一人である。その立ち位置からすれば彼女もこうした行事には本来、少なからず関わらなければならない都合はある。
 だが彼女は、その志と引き換えにして貴族としての自分を捨てたのだ。
 抑も騎士になると公言した時点で、周囲からは「非常識」「貴族の面汚し」「女が騎士になれるわけもない」、果ては「死蝕で気が狂ってしまった」等々、実に散々に言われたものだった。なのに、そういう部分は当たり前に付き合えという『常識』が納得いかないというのもある。
 無論その中で彼女が騎士となることを最終的に肯定してくれた両親には、幾ら感謝してもし足りないと感じている。だが、それに対して自分が出来る恩返しとは、志した通りに騎士となりロアーヌの剣として恥じない生を全うすることだと考えていた。
 そこに貴族としての自分など今更、ほんの少しも介在する余地はないのだ。
 ロアーヌの剣は、花を受け取る立場などではない。国民皆に希望と安らぎを与えるロアーヌの華を守ることこそが、剣たる自分の立場である。
 カタリナはその信念から、このサンヴァロンタンという行事には関わることもなかったのだ。
 さて前置きが長くなったが、それ故に彼女はこのサンヴァロンタンというものについて兎に角、疎いのである。
 なので先ずは改めて、このサンヴァロンタンというものが今現在、世界でどのような行事として存在しているのか。その情報収集から始めることにしたのだ。
 そのために彼女が向かったのは、日夜宮廷内の様々な場所で忙しなく活動する給仕たちのレストスペースだった。
 宮仕えの給仕という仕事は、実に様々に宮廷内外の情報をいち早く仕入れる事に卓越した職業であると彼女は理解している。
 なにしろ彼女達にかかれば、本日のフランツ侯の昼食の献立から宮廷正門の門番とその彼女の昨夜の痴話喧嘩の詳細までも朝飯前に、そして今の城下町の流行りやメッサーナから流れてくる流行の最先端まででさえも当たり前に把握しているのだ。
 その諜報部顔負けの情報網は一体どのようにして形成されているのか、カタリナは常々不思議に思っているものだった。
 そしてそんな彼女達からサンヴァロンタン・・・諸外国のバレンタインについての最近の傾向を聞いていくと、なんともロアーヌとはまた違った趣である事が徐々に分かってきた。

「女性から男性へ愛の告白をする・・・のですか」

 なんと給仕が言うには、今の世の中の最新トレンドはロアーヌのそれとは全くの真逆とも言える志向のようなのである。
 戸惑いを隠せぬカタリナの言いように同調するように、給仕は続けた。

「そうなんですよカタリナ様。でも女性からアプローチをかけるなんて、ちょっとがっついてて下品な感じがしますわよねぇ」
「え、えぇ、そうね」

 給仕の勢いに押され気味になりながらも、実際は確かにそうだなと感じながらカタリナは同意した。
 ロアーヌでは昔から変わらず、サンヴァロンタンとは男性から女性へのアプローチをするための催しであった。だから、その感覚がそう易々と抜けるわけもないのである。なので給仕や彼女がそう感じてしまうのは、至極当然のことなのだ。
 しかし、だからこそ其処に、今回の問題を如何にかする為の活路があるのではないか。そうカタリナは発想を変えてみることにし、聞き込みを継続する。

「もう少し詳しく知りたいわ。因みに、メッサーナでも贈り物はやっぱり花なのかしら?」

 ロアーヌにおける女性へのこの時期の贈り物の定番といえば、矢張り花である。
 まるで送り主の愛をその大きさで表したかのような豪勢な色取り取りの花束もいいが、対照的にシンプルな一輪の赤い薔薇を情熱的に装飾したものなども、趣があって良い。
 とは言えそれを逆に女性から男性へ送るというのは、矢張り違和感を覚えてしまうのだが。
 そんなことをあれこれ考えながら返答を待つカタリナに対し紡がれた給仕の答えは、なんとも意外なものであった。

「それがですねぇ、最近はなんと、ショコラが贈り物の流行りだそうなんですよ!」
「まぁ、ショコラ!」

 うっかり反応する声が大きくなってしまったと、カタリナは自分の口を上品に手で抑えながら居住いを正した。
 突然声が跳ね上がったことに目の前の給仕も、何事かと首をかしげる。

「まぁ、どうかなさいましたか?」
「い、いえ、なんでもないわ」

 努めて笑顔のまま流すことにしたカタリナは、そのまま二言三言交わしてから給仕に礼を言って別れた。

(贈り物にショコラ・・・成る程。この要素は、私ならうまく利用できる気がするわ・・・。でも、それをモニカ様から諸外国に示すとなると、思いの外規模が大きくなるわね・・・どうしたものかしら)

 一人宮廷の通路に立って考えを巡らせていたカタリナは、ともあれ一先ずモニカの様子を見るべく部屋へと踵を返した。

 

 明くる日、一日勉強で部屋に缶詰であるモニカに恨めしそうに見送られながら、カタリナはロアーヌが世界に誇るロアーヌ宮廷庭園の中央噴水近くにある、石造りの屋根付きベンチにいた。これは所謂東屋の様なもので、一般的にはガゼボと呼ばれる。ロアーヌ庭園の素晴らしい景観に合わせ、このガゼボも実に見事な彫刻の造りとなっている。
 このロアーヌ宮廷の前に広がる庭園は「世界で最も美しい庭園」とも言われ、広大な範囲に軸線を元に左右対称に幾何学模様の池や著名な庭師による植栽や彫刻が配置され、見るものを魅了して止まない。
 日付や時間帯を限定して市民にも庭園の大部分は解放されており、この庭園の美しさこそがロアーヌの栄華を象徴するのだと市民も感じ入ることができる。
 しかしカタリナは、なにも庭園の景観を堪能しに来たのではない。それどころか視線は自らの手元に落とし、自らが昨夜のうちに纏めた計画概要と要点を見ながら延々考えを巡らせていたのであった。

(・・・ううん、客観的視点から不足部分の洗い出しも行いたいわ・・・。でもその前に、メインとなるショコラトリーを選出しなければ・・・)

 彼女の思いついた計画とは、メッサーナのサンヴァロンタンの流行をロアーヌに取り入れ、ロアーヌの特産品であるショコラを世界に売り出す、というものだった。そしてこの広告旗振りをモニカにやってもらう事で、今後は世界基準に合わせ送り先や品を女性側が選定するという能動的なアプローチをロアーヌ侯室の主流とすることにより、モニカのサンヴァロンタンの負担を減らそうという目論見だ。
 ショコラというキーワードからこの計画を思い付いたのは、我ながら実に素晴らしい案だとカタリナは考えていた。
 ロアーヌという国は抑も、何を隠そうショコラに並々ならぬ情熱を注いできた国なのである。
 ロアーヌで有名な食品産業といえば兎角、第一にワインが挙げられるが、実の所は侯国内にはワイナリーと同じくらい、その筋にとっては世界的に有名なショコラトリーが数多くある。
 しかもそのほぼ全てが現在ロアーヌのみでの営業なので、国外には殆ど流通していない物ばかりだ。
 そして奇しくもカタリナ当人は、ある諸事情によりロアーヌ内のショコラトリーのほぼ全てを網羅する知識を内包している。
 つまりこれは、彼女だからこそ思いつくことが出来た作戦であるといえよう。
 だが、彼女はその着想から次に進むための第一歩で、既に躓いてしまっていた。
 この計画を成し遂げるには、大きく三つの課題をクリアしなくてはならないと現時点で彼女は考えている。
 第一に、売り出しのメインとなるショコラを作るショコラトリーの選定だ。
 これは彼女にとって非常に困難な作業だった。
 なにしろ彼女にはお勧めのショコラトリーがいくつもありすぎて、何処も甲乙付け難いというジレンマがある。既にカタリナは、ここで大いに頭を悩ませることとなっていた。
 更にその次には、流通経路の確保がある。メッサーナ諸国へと広く売り出すのであるからして、当然そこまでショコラを運ばなくてはならない。
 輸出品目としてはワインと同様に嗜好品の扱いで良いと思われるので難しい事ではないと予測できるが、なにしろ彼女にはその手のツテがない。これは実家に相談してみるしかないか、と考えていた。
 そして最後に、宣伝広告展開である。
 モニカを顔役にするのは良いとしても、それをどうやってこの短期間に宣伝するのか、と言うのが問題だ。
 計画の本番となるサンヴァロンタンまでの期間は後一ヶ月少々しか無く、中長期的な広告戦略は立てられない。そうなると何か一度でインパクトのある宣伝手法が欲しいが、それも彼女のまるっきり専門外の分野なのだ。
 なんにせよ、ショコラトリーの選定の時点で頭を悩ませてしまっている彼女にとっては、この上なく途方も無い話なのであった。
 そして悩めども悩めども、一向に答えは出ない。そうして彼女がもう小一時間悩み始めそうになっているところに、彼女のいる場所に近づく何者かの気配があった。
 それに気付いたカタリナが顔を上げると、其処に現れたのは美しい金色の長髪を簡素に後ろで一括りにしたラフな出で立ちの青年、モニカの兄であり次期侯爵と目されるフランツ侯の第一子、ミカエルであった。

「これはご機嫌麗しゅう御座います、ミカエル様」

 即座に立ち上がりドレスの裾をつまんで優雅にカタリナが一礼すると、ミカエルはそれに片手を上げて応えた。そしてそのまま通り過ぎるわけでもなく、彼女の前で立ち止まったのだった。

「このようなところに一人でいるのは珍しいな、カタリナ。何かあったのか?」

 普段であれば片時もモニカの元を離れないカタリナが単独行動をしている時は、大抵何かの別命を帯びている。それをミカエルは知っていた。
 ミカエルからしてみればその別命に要らぬ干渉をしようというわけではないだろうが、何か手助けができるならば、という程度の心算で恐らく話しかけてくれたのだろう。
 普段は表情を崩すことが殆どなく周囲からは冷徹に見られがちな彼だが、芯ではこのようにとてもお優しいことを自分は知っている。
 それをどこか誇らしく思いながら、今回の彼の行動もそういった優しさなのだと受け取ったカタリナは、ここは一つ、分不相応という恥を忍んで彼の厚意に甘えようかと考えた。何しろミカエルは古今東西の様々な分野において博識であるので、今回彼女が抱えている難題についても解決の糸口になる智慧があるかもしれない。
 それに元より、第三者意見を聞いて計画の補強をしたいとは丁度考えていたところだ。
 とはいえ、話し方には多少気をつけねばなるまい。
 なにしろ本来の話の発端はモニカがこの行事を酷く嫌がったことから始まっているものだが、それ自体をミカエルに知られることは、モニカは望まないだろう。そうなれば、それとは違う視点から自分がこの計画を思いついた、という背景が必要になる。
 カタリナは頭の中を多少整理し、ミカエルに計画についての話題を振ることにした。

「はい。実は・・・」

 彼女の生家であるロアーヌ貴族の一門ラウラン家が日頃から懇意にしているショコラトリー(勿論そこが彼女の一番の推しであり、実際にラウラン家はお得意様でもある)からサンヴァロンタンをきっかけにした全世界向け拡販についての相談を受けモニカとも話していたが、自分には専門外の知識も多分に必要で悩んでいる・・・と、それとなく設定を練り、先ほどの三つの要素も交えて相談を持ちかけた。
 それに対してカタリナの真正面に座ったミカエルは思いの外真剣にその話に耳を傾けてくれ、カタリナはどのような数奇な運命のいたずらか、ショコラの話題でミカエルとこのような時間を共有していることを何処か不思議に感じながらも、心持ち高揚した様子で話をした。
 そうして一通り話し終えると、ミカエルは腕を組み、そこに掛かる前髪を指先で弄りながら、ふむ、と息を吐いて数秒考えた。
 考え事をする時に前髪を弄るのは彼の無意識の癖であるらしいが、それを知っているのはせいぜい、モニカとカタリナくらいだ。
 そして次に、カタリナを真っ直ぐ見つめる。その視線にカタリナが全力で平静を装いながら柔和な笑みで返すと、ミカエルはカタリナに向かってすらりと、人差し指と中指を立ててみせた。

「・・・概ね、良い案だと私も感じる。流通や宣伝も、侯室と繋がりのある商家を頼れば何とかなるだろう。だが、今の話にはもう二つ程、押さえておきたい要素があるように思う」

 別にそんな意図があるわけではないのだろうが、それじゃあまるでピースサインですミカエル様可愛いです尊いです、とカタリナの脳内では補正の掛かった眼前の光景に対し死力を尽くして平静を装うという大戦争が行われつつも、辛うじて冷静さが上回り反応を返す。

「お、押さえておきたい要素・・・で御座いますか。ミカエル様、是非ともその部分につきまして、この無知なカタリナめにご教示頂けませんでしょうか」

 カタリナという人物を知る人間に言わせれば、彼女のこの言葉は随分と珍しいものであった。
 何しろ彼女は、人に教えを請うのが心底下手なのである。なのでこういう場面というのは、ついぞ知り合いの誰も想像がつかないものであった。
 抑も、なまじ大抵のことは初見で人並み以上に熟してしまうものだから、彼女は誰かに教えを請うことが殆ど無い。
 無論騎士団所属となってからの剣の稽古は他の候補生と同様に教官から受けたのだが、カタリナは女性としては平均以上の身長ではあるものの、周囲の男性候補生に比べれば華奢な部類。故に彼女は独学で指導の意図を理解し、自分に置き換えた型へと常に練り直しを行なった。なので彼女の剣の型と技術は、騎士団の教えるそれとは幾分か異なるものとなっている。
 なので教えられたはずの彼女の剣の技術すら、殆ど独自のものといえるのだ。
 そんな彼女がこうも素直にミカエルに教えを請うたのには、無論のこと明確な理由がある。
 それはつまり、単純にミカエルと話せる機会を嬉しく思ったからなのであった。
 しかもその話題がサンヴァロンタンとくれば、なかなかどうして、これではまるで『普通の男女の会話』の様ではないだろうか。そこに少なからず心の高揚を感じる程度には、彼女は存外乙女なのである。
 因みに付け加えるならば、ショコラにおいて彼女の右に出るものは中々いないという自負からくる、純粋な対抗心も少々混じってはいた。なにしろ彼女は諸事情によりショコラについては非常に詳しい。だからこそ、その自分が考えるショコラ拡販計画(もはやモニカの気苦労を減らすというのは二次的な目的にすり替わったようだ)については、少なからず自信がある。それについて彼女が思いつかぬ「二つの要素」というミカエルの意見がもしショコラそのものに関わるものならば、彼女にも言うべき意見はあるはずなのだ。

「よかろう。それではそうだな・・・時間が惜しい。移動しながら話すとしよう」
「え、あ、はい。畏まりました」

 そう言って颯爽と立ち上がって歩き出したミカエルに、カタリナは何事かと思いながらも付いていくことにした。

 

 そのままなんとミカエルは真っ直ぐ宮廷とは反対方面に庭園を抜け、何故か妙に慣れた様子で正門ではなく人目につかぬ、庭師がよく使う小さな出入り口から城下町へと抜け出したのだ。その際、庭師の小屋に何故かあった小綺麗なローブを当然のように手に取り身に纏っており、一応身分を隠してのお忍びのようだ。
 一緒に予備らしいローブを纏ったカタリナは、ミカエルに促されるままに彼女が今回の相談の大元と称したショコラトリーへと足を運んだ。

「おや、ラウラン家のお嬢様ではありませんか。随分と久しぶりですね」
「お久しぶりです、ジャンおじさま。相変わらず繁盛しておられる様ですね」

 何故か目の前まで来たというのに「外観をよく見たい」と言って離れたミカエルを不思議に思いつつ上品な鈴の音を響かせて扉を入ると、そこでは芳醇なカカオの香りが充満する魅惑の店内で顔馴染みのショコラティエが出迎えてくれた。
 彼女自身久方ぶりに訪れた店内にディスプレイされたショコラは、そのどれもが作りたての芳しい香りと艶のある色合いで、見るだけでも思わずカタリナは笑みがこぼれてしまう。
 店内にはそのショコラを求めて多くの人が来店しており、カタリナもあまり長居しては不味かろうと二言三言のみ交わして最も小さなショコラの包みを買うと、後ろ髪を引かれる思いでその楽園を後にした。
 そして外で待っていたミカエルの要望により、すぐ近くにある緑豊かで小さな公共庭園のベンチで休むことにした。

「どうぞ、此方が先程のショコラトリーの主人、ジャン=ピエール・エヴァン氏によるショコラです」

 カタリナは膝の上にシルクのハンカチを広げ、小さなショコラの包みを紐解き一つミカエルに差し出す。それを受け取ったミカエルはそれを口に含み、品定めをするべくしっかりと吟味をする。
 ミカエル自身はショコラについて特段詳しいわけでは無いが、そのショコラは彼が今までに食したどのショコラよりも芳醇であり濃厚であり、しかし全くしつこくも無く軽やかな口溶けで、ともすればワインとのマリアージュにも十二分に通ずるのでは無いかと感じるほどだ。
 一言で言えば、それは彼がこれまで食したショコラの中で最も素晴らしいショコラだと言えるだろう。
 これは食していると思わず笑みがこぼれそうになるな等とミカエルが感じながら隣に座るカタリナを見てみると、カタリナは少し得意げな表情だ。彼女の選別眼は、間違いなく一級品だろう。

「確かに、これは素晴らしいショコラだ。それは、全く疑う余地もない」
「ミカエル様にそう仰っていただけて、光栄でございます」

 まるで我が事の様にショコラを褒められたことに得意げに反応するカタリナだったが、しかし彼女はその上で、即座に居住まいを正し冷静になった。

「それではミカエル様、二つの要素ものというのを、教えていただけませんでしょうか」

 そう、そこなのだ。
 彼女はその実、頭のどこかでうっすらと確信していた。抑もミカエルがこのショコラを、酷評するわけはないだろうということを。それに関して彼女は、己の剣の腕と並ぶ程に絶対の自信があった。
 であるからこそ、あとは一体なにが足りていないものなのか。
 真剣な様子で見つめるカタリナの視線を受け、ミカエルはふむ、とひとつ息をついた。

「まず第一は、供給力の確保だ。先のショコラトリーは、残念ながら今回の計画を実行するに足る生産量の増加に対応できるマニュファクチュールを持っている様には見えなかった」
「供給力・・・ですか・・・」

 それは、彼女には思いつきもしなかった部分だった。なのでその要素がどの様に関わってくるのかがいまいち想像し難く、カタリナはミカエルの言葉をそのまま鸚鵡返しにした。

「そう、供給力だ。先程の計画では諸外国へ向けショコラの売り出しを行うということだったが、その実現の為には、メッサーナという世界最大の流通市場に供給出来るだけの生産を請け負えるマニュファクチュール・・・つまり、製造所が必要になるだろう。だが、このショコラは偉大なショコラティエの手によるハンドメイドが織りなす、言わば一つの『作品』だ。個の出来は無論文句のつけようがないが、これをメッサーナという巨大な市場に売り出すには、供給が全く追いつかないだろう。無論、希少価値は一つの武器に成り得る。だが、サンヴァロンタンという大衆を中心として世界的に催される行事においては、その強みはミスマッチだ。大多数の大衆を巻き込んだ需要を狙って国家として前面に出せるものには、どうしても供給力という側面が必要不可欠に思う」

 ミカエルの言葉は、正にその通りだった。
 そもそもカタリナがJPHのショコラを好む理由には、偉大なるショコラティエがその人生をかけて仕上げてきた至高の作品性に惹かれ、その作品に出会えたことに感謝するという気持ちがある。
 それはつまり「その様な希少な作品に出会えた自らの幸運」を含んだ上での充足感なのではないだろうか。
 そうなると彼女が考えるこの計画には、「彼女が真に愛するショコラ」は抑も始めから出番などないのだ。
 カタリナは、己の考えがなんと浅はかであったことかと大いに悔やみ、力なく首を垂れる。

「正に、ミカエル様の仰る通りです・・・。それでは、この計画は・・・」
「実に実行のしがいがある、というものだな」

 カタリナが言いかけたところに、ミカエルは被せる様に語気を強めてそう断じた。
 カタリナがその言葉に目を大きく瞬かせていると、ミカエルはカタリナの膝の上に広げられた宝石の様な仕上がりのショコラをひとつまみ取り上げ、口に運ぶ。
 そしてその味を存分に堪能した後、不敵で、そしてどこか少年の様な笑みを浮かべてみせた。その表情にカタリナが思わず視線を外せずにいると、ミカエルは口を開いた。

「私は、ロアーヌのワインは世界一だと考えている。そして、このショコラもまた、間違いなく世界一のショコラであろうと確信した。違うか?」
「もちろん、ロアーヌのショコラは世界一です」

 カタリナは、ミカエルの言葉に即座に同意した。それに満足げに頷くと、彼はベンチの背もたれに片腕を乗せながら、もう片方の手でワインのボトルを持つ手を真似てみせた。

「ロアーヌの偉大なるシャトーが作り出す至高のワインは、このロアーヌという大地への感謝と、法と伝統に則した製法、生産者の弛まぬ品質向上に懸ける努力、適正条件下での慎重なボトル保管、そしてテーブルにおける正しいサーブがあってこそ、真の味わいを発揮する。だが、それに出会うには多くの条件が必要であり、時間と金と、運が絡む。つまり、大衆向けではない」

 カタリナは、ミカエルのその言葉に浅く頷きながら、なんとなくミカエルが言いたいことが分かってきた気がした。

「だからこそロアーヌには、多くの民に親しまれる愛すべきヴァンドターブル・・・大衆向けワインが溢れている。かく言う私も、普段飲みは此方の方が好みでな。その日の気分や、目の前の食事に合わせて銘柄を選ぶのも楽しいものだ。そして私は同時に、確信しているのだ。ロアーヌのヴァンドターブルは、他国のどのテーブルワインにも負けぬ、とな」
「つまり、大衆向けショコラ・・・いわばショコラドターブルを作ろうという事ですね」

 カタリナの返答に、ミカエルは然りと言わんばかりに頷いて微笑んだ。

「さて、先ずは供給の問題を解消せねば、二つ目の不足要素を知る以前の問題だ。特に設備だけでなく製法や品質等、ここから先は職人とカタリナの見識が必要になる。先ほどのショコラティエに、これの実現の可能性について詳しく話を聞きたい。行こう」
「はい!」

 ミカエルが今一体頭の中で何を考え実行しようとしているのか、カタリナには全く分からない。だが、ミカエルの征く道は正しいということをカタリナは知っている。なので、迷わず彼女はミカエルに付き従うこととした。

 

 

 一週間後。
 ロアーヌ領西方ヨルド海沿岸、貿易都市ミュルス。
 ロアーヌ領内で最も大きな港を有し、日々膨大な数の品々が船によって日夜行き来するこの港町に、ミカエル、カタリナ、そしてモニカはお忍び衣装で馬車から降り立った。
 そして彼らの乗っていた馬車の後ろにはもう一台の馬車がおり、そこからはラウラン家一押しのジャン氏をはじめとした、数名のロアーヌ屈指のショコラティエ達が降り立つ。

 この一週間、カタリナはその殆どの時間をミカエルと共に過ごしていた。
 これを役得と言わずして、何というのか。何にせよ本来の目的を思わず忘れそうになる程度にはショコラの如く甘美な日々だったな、と能天気に振り返っていた。
 因みにその間モニカの護衛にはミカエルの影を含めた騎士団生え抜きの面々(どうやらコリンズらも駆り出されたらしい)が担当し、ミカエルとカタリナは計画遂行の為にロアーヌの各所を回った。
 先ず真っ先に商談を行い、今回の計画に賛同してくれたショコラティエのジャン氏を同行者として加え、一行は計画の基盤となるマニュファクチュールの確保に乗り出した。
 ジャン氏が品質を維持しつつ生産量を確保する為に示した複数の条件を満たす候補地の中から、ミカエルは自身の人脈を頼りにロアーヌ南方の霊峰タフターンから流れる河のほとりにあるロアーヌ製粉場が所有する作業所の一部を確保することに成功した。
 特に製粉の際に扱う流水動力の石臼等の設備が今回の計画には必要不可欠で、仕入れたあとの大量のカカオをすり潰したり撹拌したりするのに必要なのだそうだ。この行程を時間をかけて継続し行う事によってショコラの味は劇的に変わる、というのがロアーヌ流ショコラの拘りだ。
 ジャン氏は実のところ以前からこの施設には目をつけていたそうなのだが、何分普段の忙しさにかまけてしまい行動に移す機会がなく、手を拱いていたのだという。だからこそ今回の話は渡りに船だったと大いに喜ぶ姿は、まるではしゃぐ子供のようだと、ミカエルとカタリナは顔を見合わせて微笑んだものだった。
 そして最後に製粉場にはないカカオを炒るための竃作りを指示し、これでマニュファクチュールの目処は立った。
 次に一行はロアーヌ市街地に戻り、本計画を共に行ってくれるショコラティエの同志を集めることにした。
 なにしろ、繰り返すがこの計画には量を確保することが大前提としての必須条件である。かといって、何も知らない素人がいきなり行えるほどショコラ作りはその味わい程には甘くないのである。ある程度の行程は未経験でも問題ない部分もあるが、仕上げの調温(テンパリング、というらしい)はどうしてもショコラを知る者にしか任せられない、というのが、ジャン氏の拘りポイントなのだ。
 ここではジャン氏はもとより、ロアーヌにある多くのショコラトリーを網羅しているカタリナが各個職人の縁を繋ぎ、元よりショコラティエとして名を馳せるジャン氏に集うようにして、若く才能に溢れた何人ものショコラティエがものの数日で集まったのだった。
 そして設備と人員の目処が立った一行は、いよいよ製造前の最終工程であるいくつかの要素を補完する為に、このミュルスへとやってきたのである。

「港町なんて久しぶりですわ!」

 今回の外出のために無理矢理詰め込んだ連日の壮絶な勉強から解放され、モニカは水を得た魚の如くに珍しくはしゃぐ様子を見せながら街を見渡した。

「さて、ここからは一時別行動だ。各々のやるべき事を成そう。カタリナよ、良い成果を期待しているぞ」
「はっ、お任せ下さい」

 ミカエルはカタリナの返事に満足げに頷くとモニカを連れ、まるで観光客の様子で市場の露店冷やかしに向かっていった。
 その背中を微笑ましく見送ったカタリナは、表情を引き締めてショコラティエ一同へと振り返る。

「それでは、参りましょう」

 そのまま彼女らが向かったのは、ミュルスが誇るロアーヌ最大級の食品専門市場だ。
 ここには世界中からありとあらゆる食材が輸入され、ロアーヌ各地へと運ばれていくのだ。
 職人一行の目的は、二つ。
 先ず一つ目は、ミュルス近郊で手に入る限りのカカオの確保であった。
 製造場所と設備に関しては一応の目処が立った状態だが、とは言えショコラの原材料であるカカオがなくては話にならない。
 その為、グレートアーチやアケ方面からミュルスに入るカカオを可能な限り集めなければならないのだ。
 事前に輸入食品の買い付けに強いコネクションを持つ商人を中心に仕入れ専用チームが動いているが、市場にあるそのほかのものも可能な限り回収しようという魂胆だった。
 そしてもう一つの目的は、「メッサーナにおけるリアルタイムなショコラやその他菓子の流行り」に関する調査である。
 この調査こそが、ミカエルが示唆した「二つ目の要素」なのだ。
 確かに、ロアーヌのショコラは素晴らしい。だがそれは、その歴史を知り、それに親しんでいるからこそ解る部分も多くある。
 故にそのまま伝統に傲っただけの商品では、世界の大衆に広く受け入れられることはないだろう。
 これが、ミカエルの指摘であった。
 そういった市井の視線を意識した指摘にはカタリナもハッとさせられる部分があり、とても共感が持てる。

「ロアーヌの伝統と、世界最先端の融合。そして何より、大衆に広く親しまれるショコラの提供。実に、やり甲斐のある仕事です」

 仕入れ班と別れて食品を見て回りながらジャン氏がそう言うのを、カタリナは深く頷きながら肯定する。
 これから彼らが作るショコラドターブルとは、単に彼らのこれまでの『作品』の簡易量産型であってはならない。量産を可能としつつも世界に認められる品質の維持と、誇るべき伝統を守りつつも、その伝統に囚われ過ぎない新たな可能性を示さなければならないのだ。
 その為には、甘味における世界動向を知ることは必要不可欠であろう。
 それが、ミカエルの言であった。
 カタリナとジャン氏はその言に習い、他国のショコラに関する情報やそれ以外の現在の流行を含めて見て回ることとした。

「あとは世界への流通を睨むとなれば、ある程度の保存に関しても注意をしなければなりますまい。本来であれば相応の試行錯誤が必要でしょうが・・・」

 そう言いながらジャン氏が目を留めたのは、様々な果物が砂糖漬けにされた菓子を並べている露店だった。
 なかなか面白いお菓子だなぁと思いながらカタリナがそれを見ていると、ジャン氏は試食を勧められてカタリナと共に一つ口にする。
 それは、オレンジの皮を用いた菓子だった。
 砂糖の甘さが目立つが、その中にほのかな果物の皮の苦味が加わり、味わいに幅が出ている。

「最近は漸く死蝕前に近い程度まで砂糖の供給が安定してきたので、このような菓子も出てきているのですね。砂糖は塩ほどではないにしろ防腐の効果がありますから、これの使い方や分量はピドナへの輸出を狙う上で重要なポイントです」

 基本的にロアーヌで現在地産地消されているショコラは、調理から二、三日程度のうちに食されることを前提に作られている。使用している原材料的にも、そこを超えると痛みが進み、味も格段に落ちるのだ。
 しかしショコラをピドナへ運ぶには、西への潮流があるヨルド海を最短ルートで渡っても三日は掛かる。抑もロアーヌで作ったショコラを箱詰めしてからミュルスへ運び、そこから輸出したとなれば、ピドナへ届けられる頃には品質が大幅に下がったものとなってしまうのだ。
 そこを改善するためには、今までとは材料を工夫した調理が必要となる。

「ある程度そこは予測していましたが、これは使えるかもしれないです」

 ジャン氏はその露天商から砂糖漬けを何種類か購入すると、再び歩き出した。
 特に露店を回っていて目を引くのは、果実系食品のバリエーションが多いことだ。レモンやオレンジなどの定番果実が大勢を占めるが、中にはロアーヌ産のフランボワーズもある。
 カタリナがフランボワーズの赤みに誘われてそれを見下ろしていると、ジャン氏もそれに倣って露店に所狭しと敷き詰められたフランボワーズを一つ手に取った。

「甘酸っぱいフランボワーズはショコラとも相性が良さそうだ。これも使ってみましょう」
「どんなショコラが出来上がるのか、楽しみです」

 まるで少年のような瞳の光で食品を見つめるジャン氏を横目に見ながら、カタリナは彼女こそまるで幼い少女のように目を輝かせながらそう言った。

 

「全く、久方ぶりに連絡をいただいたかと思えば、相変わらず行動の読めないお方ですね。まあ、仕上がりは期待していてください。あと織工房のオーナーにも、どうぞよろしくとお伝えください」
「有難う、期待している」

 ミュルス最大の港の一画を買い上げている、ロアーヌ最大の造船所であるガーフィールドの事務所エリアの一室。
 そこで事前に手紙にて依頼をしていた作業を終えた後の相手の言葉に、ミカエルはにこりとも微笑まずにそう謝辞を述べた。
 それに連なり、一方のモニカは花のような笑みを浮かべてぺこりと頭を下げる。

「有難うございます。よろしくお願いいたします!」
「こうしてロアーヌの華から感謝をされるなど、この身に余る光栄です。それでは早速、我々は写真を元に制作に取り掛かります」

 談笑しながら出口へと向かい、最後にそう言って一礼しその場を離れていった男を見送る。
 するとモニカは当然のように颯爽と馬車に戻ろうとするミカエルの腕を掴んで全力で引き止め、半ば無理やり港方面への散歩に連行した。

「・・・ねぇお兄様、何故今回はここまでお手を差し伸べてくださったの?」

 人と荷が忙しなく行き交う賑やかな港の一角をのんびりと歩きながら、モニカは周囲に気を配りながら彼女をエスコートするミカエルへ、そう投げ掛けた。
 今回のカタリナの計画がモニカの我儘に起因していることなど、きっと既に兄はお見通しだろう。モニカは、そう確信していた。
 兄が優しいことを彼女は知っているが、しかしそれは何にでも手を差し伸べるような「甘さ」とは全く違うものだ。だから普段の兄であれば、こんな事には手を貸すとは思えないのも事実であった。
 無論兄がこうして今彼女の隣を歩いてくれていることは彼女にとっては何物にも変えがたい程に喜ばしいことであり、幸福なことだ。だが彼女には前述の通り、兎に角なぜ今という状態が実現しているのか、ということが疑問だったのだ。
 だがミカエルはそんなモニカの胸中を察してか、安心しろというように彼女の美しい金髪を撫でた。

「無論、私には私なりの思惑があってのこと。今回のこの件は、私にとっても非常に好都合だと考えているよ」
「好都合、ですか。差し支えなければ、是非ご教示いただきたいですわ」

 モニカが兄を見上げながらそう言うと、ミカエルは軽く肩をすくめながら微笑んだ。

「そうだな・・・この案件では、ロアーヌからミュルスまでの陸運を司るロアーヌ社と、ヨルド海を渡るためのミュルス海運。宣伝のためにガーフィールド造船所と、ロアーヌ織工房。製品パッケージを担当するアダムス製紙・・・。ざっと挙げても、これだけのロアーヌおよびミュルスの企業群と繋がりを持つことができた。商人は何より、利益によって信頼を得られる。ロアーヌにとって今後の国力の発展には、商人の力が必要不可欠だ。その彼らとこうして密な関係を築くことは、宮廷内で父上が日々耐えられておられる退屈な定例会議よりも、余程有意義だといえよう」
「まぁ、お父様が聞いたらきっとお嘆きになるわ!」

 そう反応しながらモニカが華やかに笑うと、ミカエルは彼を知る者にしか判断がつかない程度の僅かな微笑みを絶やさず、そんなモニカを見つめる。そうして見つめられるのが大好きなモニカは、充足感を覚えながらも、最後に少し悪戯っぽい笑みを浮かべて兄を見据えた。

「お兄様にも有益なものであることが分かって、モニカはとても安心いたしました。それではわたくしも、気兼ねなくお兄様にご相談が出来ますわ!」

 モニカは何故か上機嫌そうに満面の笑みを浮かべ、隣を歩くミカエルの袖を軽く掴みながらそう言った。
 対するミカエルは、そんなモニカに視線を投げかけながらも珍しく相手の意図が読めず、怪訝そうな顔をしてみせるのだった。

 

 

 かつて、バレンタインという行事がこれほどまでに盛り上がったことはあっただろうか。
 少なくとも筆者の知る限りでは、これ程の盛り上がりは生まれてこの方、経験した事がない。
 そんな本年のバレンタインの火付け役は、今やこのピドナで知らぬ者はいないであろうというほどの人気を博した本場ロアーヌのショコラ、「Les joyaux de Lorane」・・・ロアーヌの甘い宝石、だ。
 今更ではあるが紹介しておくと、このショコラ(敢えてチョコレートではなく、ショコラと呼ばせてもらいたい)はヨルド海の向こうのロアーヌ侯国にて国一番の美女と名高い、アウスバッハ侯爵家のモニカ姫がプロデュースを行ったという代物だ。
 抑もあまり出回っていなかったのでこれまでご存知なかった読者の皆様もいるかもしれないが、ロアーヌ侯国はワインに留まらずショコラの本場としても名高く、侯国内では幾人ものショコラティエが腕を競い合っているのだ。
 そんなショコラの本場ロアーヌでも最も有名なショコラティエの1人であるジャン=ピエール•エヴァン氏がこの度モニカ姫の呼びかけに応じ、一気に賛同者が集い国を挙げての一大事業にまで一気に盛り上がったのが、このロアーヌの甘い宝石である。
 勿論そうして作られたショコラを筆者も上陸初日に頂いたが、お世辞ではなくこんなに美味しいショコラは生まれてこの方、食べた事がない。
 そして従来の地産地消型の製法を覆し、日持ちがして且つ本場のクオリティを損なわず、寧ろ世間の流行を幾つも取り入れ数々の大胆なアレンジをしてみせた総合監修のジャン氏を始めとするショコラティエチームには、正しく脱帽の一言だ。
 特にフランボワーズをはじめとした色鮮やかな幾つもの果実を閉じ込めたボンボンショコラが敷き詰められた目にも美味しい甘い宝石の箱詰めは、大人にも子供にも大人気であった。
 正直、余り馴染みがない我々ピドナ市民から見たロアーヌという国は、厳格で拘りの強い頑固なイメージを抱く事が多いだろう。
 斯様に素晴らしいロアーヌのショコラが今まで大きなブームにならなかった理由も、正にそこにあるのではないかと筆者は考えている。
 何しろ彼らの作るショコラは、あくまで地産地消の代物だったのだ。クラシカルな製法では確かに日持ちせず流通には向かないから仕方ないし、ロアーヌのショコラティエはそこに敢えて変化を齎そうとは考えてこなかった。
 それは「古き良き伝統」と言いつつも、一方で様々な品種を意欲的に取り入れる同国のワイン程の飽くなき情熱を感じる分野では無かったのも事実だ。
 だが、モニカ姫は大いなる勇気で以ってそれを否定した。そしてそれに多くのショコラティエが賛同したという事実こそが、最早一種の革命とすら言えるだろう。筆者はそのチャレンジ精神にこそ、この上ない賞賛を送りたい。
 そして筆者がそれと同じくらいにとても感心しているのが、今回の宣伝方法だ。
 電撃的、且つピドナ市民の度肝を抜いたあのド派手なプロモーション方法こそ、今回の一大ムーブメントの立役者だと確信している。
 これこそ既にピドナ中が知っている事実であろうが、突如として現れた輸入用大型帆船の帆にも、船体にも、それこそ至る所に大きくモニカ姫の肖像が描かれた「パッケージ船」の入港には、港全体が度肝を抜かれたものだ。
 製品のメインイメージキャラクターであるモニカ姫を前面に押し出した実に華やかな演出は細部にわたるまで徹底されており、船から降ろされる木箱、港の特設販売所の装飾、そしてそこに並べられたショコラが包まれた包装紙に至るまで、美しく微笑むモニカ姫の表情が描かれているのだ。
 特に広告塔として一週間近く停泊したパッケージ船を一目見ようと訪れた見物客で、港は連日大いに賑わっていた。
 失礼な話かもしれないが、正直、ロアーヌという国にここまで革新的な伝統の変革、プロモーションを生み出す人物がいたという事が驚きでならない。モニカ姫は確かに発起人なのかもしれないが、しかしまだ彼女は経験浅く年若いはず。なれば、この一連の動きの裏には必ず別の仕掛け人が居るのではないか、と筆者は睨んでいる。
 そうなると今後も、このロアーヌの甘い宝石を取り巻く様々な動きには、逐次注目していきたいところだ。
 とはいえ、今は兎に角目の前のショコラを味わう事に専念することをお勧めする。こうしてこの記事を書いている今も、傍らにはジャン氏による此度の新作「オランジェット」がある。何しろ筆者はこれが一番のお気に入りなのだ。読者の皆様も、お気に入りの一粒を見つけられただろうか。(モニカ姫特別インタビュー記事は二面にて掲載)

 

 

 ロアーヌ宮廷庭園の中央噴水近くの石造りのガゼボで、珍しくメッサーナジャーナルなど読みながらやきもきした様子で何かを待っていたモニカは、庭園の植木の陰からミカエルが現れたのを視界の端に捉えると、思わず立ち上がって兄に向かい大きく手を振った。
 カタリナはそんなモニカの様子を微笑ましく思いながら、台車に乗せられた茶器の準備を進める。
 サンヴァロンタンの喧騒が過ぎたある日の午後、事前にモニカが提案していたお疲れ様会がこのロアーヌ庭園にて催されることとなった。
 とはいえ、その参加者は僅か三人。会の発起人であるモニカとカタリナ、そしてミカエルだけだ。
 本来ならばジャン氏をはじめとしたショコラティエの皆も招待したいところであったのだが、ピドナでのプロモーション直後に各方面からの発注が幾つも飛び交い、ついには本来なら期間限定だった筈の臨時マニュファクチュールを共同で買い上げて発注に対応することが、サンヴァロンタン前に既に決定してしまった。それにより彼らはサンヴァロンタンが終わった今も、連日大忙しなのである。とてもではないが、この茶会に顔を出せるような状況ではないのであった。
 ちなみに、モニカは彼女をメインキャラクターとして起用した今回のショコラブランド「Les joyaux de Lorane」の営利運営権の全てを今回の製作チームに委譲しており、今後営業において彼女が直接関わることはない。せいぜい、新しいパッケージの写真を年に数回撮る程度だろう。
 そしてモニカとカタリナは当初の思惑通り、来年からはこのショコラを宮廷から発注し、こちらから送り先を選ぶという手法に切り替えていく予定だ。
 いよいよミカエルが直ぐ近くまで来ると、モニカは待ちきれないと行った様子でガゼボを飛び出し、小走りに駆け寄った。

「ようこそお兄様!」
「ご機嫌麗しゅうございます、ミカエル様」

 兄のもとに駆け寄りガゼボへと招き入れるモニカと、恭しくドレスの裾を持ち上げながら一礼するカタリナ。

「済まないな、少し遅れたか」
「いいえ、そんな事はありませんわ。丁度良い頃合いです。さぁ、お茶にしましょう!」

 ミカエルを石造りの椅子に座らせながらモニカがそういうのに合わせて、茶会が開始された。
 とはいえ特に何か特別なものが用意されているわけでもなく、カタリナが用意した紅茶とモニカが用意したスイーツをいただきながら三名は今回の一連の苦労話に花を咲かせるのであった。
 特に話題に上がったのは、ジャン氏をはじめとしたショコラティエの面々についてだ。
 ミュルスでの市場視察の後、今までのクラシックなショコラを覆す様々なアイディアが若いショコラティエから次々に発案された。その結果として今回の製品化にこぎ着けたのは、まだほんの一部に過ぎなかったのである。ジャン氏もそんな若い情熱に触発され、すっかり新たなショコラの制作にのめり込んでしまったのだという。
 総出で過密スケジュールの中でショコラを作っている間も、少ない暇を見つけては数人で集まって今後の新作の話をしているものだから、職人というのは皆こういうものなのだなぁとカタリナ達は感心したものだった。
 しかしカタリナが、そういえば今日のお茶請けに件のショコラ達を並べなかったのは敢えてなのかしら、等とふと考えていた、その時。
 話が途切れた一瞬のその間に、モニカが不意に立ち上がった。

「お兄様、お花を摘んで参りますわ」
「・・・あぁ、行ってくるといい」

 余りに不自然なタイミングで立ち上がったモニカが唐突にモニカがそう言って歩き出すと、ミカエルは何やら含みのある表情でそれを見送った。しかしカタリナが兎に角それにお供しようと椅子から立ち上がると、モニカは明確に片手を突き出して遠慮する。

「大丈夫ですわ。カタリナはお兄様と一緒に待っていてちょうだい」

 カタリナがそれに答える間も無く、足早にモニカは植木の陰に消えてしまう。突然の事に流れが全く読めず呆然とした様子で立ち尽くすこととなったカタリナは、ミカエルに促され取り敢えず椅子に座りなおした。

「許せ。モニカの立っての希望でな」

 その場に残った二人してモニカの去った先を見つめていると、不意に笑みを漏らしながらミカエルがそう言った。
 唐突なその台詞にカタリナが全く意味を理解出来ずに瞼を瞬かせていると、ミカエルはそんな様子のカタリナに構わず、何処からか小さな包みを取り出した。
 そしてその包みをそのまま、カタリナの前に置く。

「・・・これは」
「ショコラだ。私が作った」
「えっ!!?」

 ミカエルが作ったショコラ。それは果たして、奉るべき国宝か何かだろうか。
 カタリナは眼前に展開された現実が瞬時に彼女の処理能力を超えた様子で、そんな突拍子も無いことを考えていた。
 そしてたっぷり数秒固まった後、申し訳ありませんと言いながらわたわたとする。しかしその動きに、なんら意味はない様だ。

「私の見立てではカタリナは相当にショコラが好きなのだと思ったが、違ったか?」
「え、あ、いえ・・・好きです、けれど・・・何故それをミカエル様が・・・?」

 そう、カタリナは兎に角甘いものに目がなかった。
 それは彼女自身も、大いに自覚をしていることだ。故に彼女はその甘いもの好きが長じて国内のショコラトリーの殆どを制覇しており、その味を知っている。だが騎士を目指してからはこれも自制をし、敢えてあまり食べないようにしていたのだ。
 だというのに、一体なぜそれをよりにもよってミカエルが知っているというのか。一体何時如何なる時に、この秘密が流出したのか。ロアーヌの騎士として一生の不覚である。
 この様に彼女の慌てる様が珍しいのか、ミカエルはうっすらと笑いながら肩を竦めた。

「いや、偶々そう思っただけだ。偶々な」

 ミカエルは含みのある様子で、そう言った。
 と言うかあそこまであからさまであれば今回の事業に携わった全員が気付いていただろうな、という事までは敢えて言わずに、ミカエルはそのまま流れでショコラをカタリナに勧める。

「初めての試みであったが、中々上手くできたと思うぞ。何しろ、レシピはジャン氏のものだからな」
「・・・頂いても、宜しいのでしょうか」
「無論だ」

 ミカエルに再度促され、カタリナは包みの中からショコラを一粒つまみ上げ、恐る恐るといった様子ながらも上品に口に運ぶ。
 口の中に入れるとショコラはその役目を果たすべく甘美な味わいと共に溶け広がり、彼女に幸福を齎す。その品質が間違いなくロアーヌの愛するショコラであることを、その味わいが証明している。

「元来、我々のサンヴァロンタンには花ということだが、カタリナにはこちらが良いかと思ってな」
「・・・こ、光栄です」

 ミカエルの言葉にも、カタリナは直接彼を見ることができず、間をもたせたい気持ちでもう一粒ショコラを口に運ぶ。
 とても美味しい。
 一体全体どういう事情でこんなことになっているのかは、彼女には全くわからない。しかし確実に言えるのは、自分は一生分の運を使い果たしただろうな、という事である。
 このように現実逃避めいた事をカタリナが考えながら目を伏せているところに、間を見計らってか何やら意味深な笑みを浮かべながら、そそくさとモニカが戻ってきた。

「うふふふ、お邪魔してしまったかしら」
「え、あ、モニカ様お帰りなさいませ」

 わたわたとしながらカタリナがモニカを迎え入れると、モニカはカタリナとミカエル、そしてカタリナの前に置かれたショコラを見て随分と機嫌が良さそうに笑みを浮かべつつ座った。

「ふふふ、やはりロアーヌのサンヴァロンタンといえば、男性からの贈り物ですわよね」
「そうだな。そういうわけで、モニカにも渡しておこう」
「えっ!?」

 唐突にミカエルから差し出された第二の小さな包みに、今度はモニカが素っ頓狂な声をあげる。

「ショコラだ。私が作った」
「それは知ってますわ!・・・というか、そういう事ではなくて!」

 何やら声を上げているモニカに、処理能力が未だ止まった状態のカタリナは何が起こっているのか当然理解できずに目の前の兄妹を交互に見つめる。

「いや、折角作るのなら、と思ってな。なにもカタリナだけに渡す、という話ではなかっただろう?」
「それはそうですけれど、そうでもなくて!」

 今度はモニカがミカエルにショコラを勧められて、普段の彼女にはない表情で慌てふためいている。
 そうですよねモニカ様もそうなりますよね不意打ちズルすぎますよね、と一人納得の表情を浮かべながら目の前の兄妹二人の仲睦まじい様子を眼福としつつ、カタリナはもう一つまみ、甘い宝石を口にした。

 

 

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宵闇の国、月下の騎士団

 

 しんしんと雪の降り積もる雪原は踏みしめられた足跡を即座に白く上塗りしていき、重苦しく灰色に染め上げられた空からは今が日中だとは思えぬほどに、ちっとも光が漏れてこない。
 ロアーヌ北方の関所を抜けてから数日。
 本行軍演習の折り返し地点となるポドールイへと向け、ロアーヌ騎士団はその日の予定を突然の降雪によって大幅に遅らされてしまったものの、着々と行軍していた。
 今登っている峠を越えれば間も無く街が見えるはずなので其処まではこのまま突っ切ってしまおうという指揮官の判断の元に、彼らはこの悪天候の中で速度を緩める事なく前進する。通常の歩行よりも雪が体力を余計に奪うため非常に過酷な行程だが、そのような事態でも脱落する者もなければ弱音を吐く者すらも居ない。それは、彼らが一人の例外もなく強靭に鍛え上げられた屈強なる騎士であることを示していた。
 本行軍演習の現在の指揮官はパットンという男で、間も無く世代交代を迎えるロアーヌ騎士団の新世代の中の気鋭の一人だ。因みに本行軍演習に参加している騎士達はほぼ全てが新世代組で構成されており、パットンも勿論その同期である。今回は幾つかのルートを交代して幾人かが指揮をとりながら進める形をとっており、中間地点たるポドールイまでが彼のターンだというわけだ。
 ところで如何せんこのパットンという男は好戦的な性格で突撃陣形を好み、その行軍も荒々しさが垣間見える。
 それはこの降雪の中の強行軍にも十二分に現れており、これにはあとで文句をつてやろうなどと皆が一様に考えているなどという事は、この雪の中の行軍の正当性を確信して止まないパットンには想像もつかぬ事であった。
 一行はポドールイに到着後予め用意された場所にて宿を取り、翌日には領主である伯爵の元に挨拶に訪れてから現地で演習を行い、その完了を以てロアーヌへと帰還する予定だ。
 やがて一行は長く険しかった峠を登りきり、そこから眼下に仄かに明かりの灯る街を見下ろす。
 気がつけば辺りに降る雪は穏やかな表情へと移ろい、見上げれば立ち込めていた暗雲も疎らになっている。
 辺りには宵闇が訪れ、それまで無言であった騎士達の間にも俄かに安堵の表情が垣間見えた。

「・・・あーつっかれた!おいパットン!無茶苦茶だぞお前!」

 雪除けの帽子を取りさってバタバタとはたきながら早速文句を飛ばしたのは、タウラスだ。
 血気盛んな世代の中では一番の慎重派であり、突撃思考のパットンとは真逆の防御に重点を置いた陣形や戦術を好む。因みにこの両者は全く意見が合わないことから、何かにつけ突飛な提案をするパットンに最初に突っかかるのが常にこのタウラスなので、パットンは彼のことを自分と同じく好戦的な性格だと捉えている。

「何をいう。この行軍のお陰で夜中を待たずにポドールイにたどり着けたんだろうが」
「アホか。ここは元々夜中にもならないし昼間にもならないだろ」
「アホとはなんだ、アホとは!」
「おーおーアホをアホと言って何が悪いんだ!?」

 次第に子供の喧嘩の様を呈し始めるそれは最早恒例行事のようなもので、誰もそんな二人の言い争いに口を挟もうとは思わない。
 そんな二人の口喧嘩を慣れた様子で聞き流しながら、本演習に参加する紅一点であるカタリナはタウラスと同じく雪除けの帽子をとりさった。そうする事で帽子の中で窮屈そうにしていた長い銀髪を漸く外気に解放してやりつつ、彼女はもう一度ゆっくりと空を見上げる。
 そこには、タウラスの言うように昼間でもなければ夜中と言うほどまで暗すぎるわけでもない、俗に『宵闇』と言われる空がある。このポドールイと言う街の周辺は、どうした訳か一年を通して常にこの状態を維持している。ここには昼が訪れることもなければ、真夜中が訪れることもない。まるでここだけ時が止まっているかのように、ずっとこの宵闇が横たわっているのだという。
 まるで眠りを誘う揺り籠のように穏やかに身を包むその宵闇に、カタリナは不思議と安心感を覚える。それが人ならざるものと隣り合わせの感覚であることを知っているはずの彼女だったが、それでもこの宵闇は、あまりに優しい。

「・・・大体一年ぶり、か・・・」

 煌々と輝く宙空の月を見上げ、小さく呟く。するとまるでその声に歓喜するように降り注ぐ雪の結晶が一陣の風によってふわりと舞い上がり、ポドールイの街の明かりへと吸い込まれていった。

 

 

 ギギギ・・・と具合の悪そうな不快な音を立てながら開いた扉の中に積もった埃の厚みや内装の古めかしさから、この場所は長らく使われていなかった事が伺える。入り口近くの一部だけが物置として利用されている様だが、それ以外の空間の大部分は伽藍堂だ。
 ここはすぐ横に建つ宿の納屋を増改築して作られた、大所帯宿泊用の別棟だという。
 死蝕以前はこうした行軍演習も頻繁に行われており毎年お世話になっていたらしいのだが、死蝕以後は情勢や予算の関係上行われていなかったためここも使われる事がなく、長いこと放置されていたらしい。
 二人の口喧嘩もそこそこに無事街にたどり着いた一行は宿の主人に挨拶を済ませたあと、まず本日世話になるここの掃除を全員で始めた。大の大人が十数人も集まっていたので何ら滞る事なく、掃除は一時間程度ですんなりと終わらせた。あとは明日にこの地を治める伯爵への謁見を行うまでは自由時間となるので、若き騎士達は本演習の束の間の休息を求めて街へと繰り出す算段をしていた。

「カタリナ。久しぶりに一杯付き合えよ」

 行軍用の装備を解いて軽くなった肩を回しながらそう声をかけてきたのは、コリンズだった。
 彼はカタリナと年齢的にも近く、騎士団候補生時代から数えて十年来の付き合いになる。
 このコリンズという青年は疾風の如き速攻戦術を尊び、フラッグ戦の様な演習では右に出るものがない程の実力を誇っている。並びに同期の中でも飛び抜けて統率力があり、周囲にも気の利く兄貴分だ。だが、多少うっかり屋なのが玉に瑕といったところか。
 因みに彼は過去に三度ほどカタリナに思いの丈の告白をし、三度とも振られている。それでも一切めげる様子のないところがまた、彼の長所でもあるのだろう。

「あ、うん。行くけど・・・少し街を見回ってから合流してもいいかしら」
「おう。じゃあここの宿の隣んところで飲んでるぜ。おーい、いこーぜブラッドレー」

 コリンズはカタリナの返答に軽快に頷いたかと思うと、奥で荷物の整理をしていた青年に声をかけた。
 呼ばれて振り向いたブラッドレーは返事をする代わりに軽く手を上げ、寝床の準備を終えてからこちらに歩いてくる。
 コリンズと幼馴染であるというこのブラッドレーという青年は、本演習の筆頭指揮官を任されている。すべての面で優秀な成績を収める彼は昔から器用貧乏と呼ばれてきたが、それを自らの持ち味として凡ゆる戦術や陣形指揮に通じ、また同世代の若き騎士達の特性をよく把握して臨機応変な作戦立案と采配の妙を発揮してきた。それらを最大限に活かして癖の強い今の世代の騎士団をよく纏め、本行軍演習に於いてもよく率いている。

「お前がいつ潰れても大丈夫にしておいたぞ」

 後方の寝床を親指で指しながらブラッドレーがにやりと笑って言うと、コリンズも思わず口の端を吊り上げる。

「はっ、そいつは有難いな。何なら二人分用意しておいてもいいんだぜ。お前とカタリナをそこに転がしてやる」
「馬鹿言え、カタリナは別室だ」
「わーってるよ。相変わらず冗談が通じねぇなぁ」

 以前であればカタリナも同じくこの場所で皆と共に雑魚寝であっただろうし彼女自身は全くそれで問題ないと考えていたが、今回彼女だけ宿の一室を拝借する事になったのは他の面子の総意であるらしい。
 その理由をカタリナが聞こうとするまでもなくブラッドレーが面と向かって彼女に「寝ているお前は目の毒だからな」と言い放ったものだから、これには有無を言わさず従わざるを得なかった。
 二人が軽口を叩きながら出て行くのを見送ったカタリナは、自身も行軍用装備をその場に纏めて宿泊施設をあとにした。

 

 この町に舞い降りる雪と、それに余すこと無くその身を預ける純白の街並みは、とても幻想的で、只々美しい。
 町を包む宵闇を見上げれば、薄らと広がる雲の合間から顔を覗かせる、煌々と輝く大きな月。月齢は満月を過ぎ、これから下弦に向かわんとする所か。
 今年もまた、この地で舞踏会は開かれたのだろうか。そんな事を、カタリナは考える。
 このポドールイでは年に一度、領主たるレオニード伯爵がその居城にて催す絢爛なる舞踏会がある。その舞踏会にて伯爵の目に留まった女性は伯爵の甘美なる吸血行為によって夜の眷属へと生まれ変わり、永遠の命と美しさを得る。
 そう、このポドールイの地を治めるレオニード伯爵とは、世に言う吸血鬼であるのだ。
 それ故このポドールイという地は夜の王たる彼の領地として在るべく常に宵闇を纏い、その居城は現世と常世の狭間に存在しているとも言われている。
 カタリナは周囲に視線を巡らせながら、ゆっくりとした足取りで商店街を抜けていった。
 降り積もる純白と宵闇で此処は一見どこも同じ風景に見えてしまうものだから、時折立ち止まって一年前の己の記憶の在り処を手探りしては、またゆっくりと歩き出す。
 人通りの疎らな中央広場を抜け、まるで童話の中の世界のようにクラシカルな作りの宿屋通りに入る。しかし宿屋通りと言っても、今は開店休業のような状態で何処も空室だらけだ。
 この宿屋通りが最も賑わうのは年に一度、舞踏会の開かれる直前。それ以外の期間は宿を閉めてしまっているところも多い。
 静かな宿屋通りを抜けて行った先には、ぽつぽつと民家が立ち並ぶ地区がある。
 絶え間なく降り積もる雪を踏みしめながら向かった先には、一軒の家。その庭先には、老人と大きな一頭の犬、そして数頭の子犬がそれらの周りを駆け回りながら戯れていた。

「おや・・・」
「・・・お久しぶりです」

 カタリナの気配に気がついて顔を上げた老人が気がついたのに合わせ、彼女は軽くお辞儀をした。
 飼い主の動きに合わせて来訪者に気がついた子犬が、直ぐ様好奇心をむき出しにして彼女の足元に駆け寄る。

「子犬が、生まれたんですね」
「あぁ」

 すり寄ってくる子犬たちをしゃがみ込んで撫でながら、ふと昨年の事を思い出す。
 昨年の舞踏会にこのポドールイを訪れた彼女は、この老人に宿を提供してもらったのだ。
 その時は子犬はおらず、確か大型犬が二頭だったと記憶している。
 その時にいたはずのもう一頭が見当たらないので老人に聞いてみると、彼は表情を変えずに言った。

「死んだよ」
「・・・そうでしたか」

 老人の当然の事のような物言いに多少面食らいながらも、カタリナは首を垂れる。
 宵闇の国の住民は、死に関する観念もまた自分たちとは別なのだろうか。ふと、そんな事を考えながらじゃれ付く子犬を撫でた。
 そのまま一言二言だけ交わし、カタリナはその場を立ち去った。名残惜しそうに彼女を見つめながら尻尾を振る子犬を背にして宿屋通りまで戻ったカタリナは、中央広場を今度は入口方面に折れていく。
 居並ぶ服飾店も今はすっかり閑古鳥が鳴いているようで、窓から店内を覗いても店員も見当たらない。降り注ぐ雪以外には何の動きもないその光景を見ていると、まるでここも時間が止まってしまったかのように感じる。
 そんなことを思いながら歩いて行った先には、やはり一年前と何も変わらぬ様子でひっそりと宝飾類を飾り並べた店の軒先が見えて来た。

「いらっしゃいませ。あら・・・貴女は確か、目利きのお嬢さんね」
「・・・覚えて下さっていたのですか。どうも、お久しぶりです」

 以前と全く変わらぬ様子の店主である老淑女に、カタリナは会釈を返す。
 こちらもまた、一年前に立ち寄った場所であった。
 ここの宝飾類は品揃えが見事であったことを覚えていたので、また立ち寄りたいと彼女は考えていたのだ。ロアーヌで待つモニカへの手土産には、此処以上の場所が思いつかない。

「ふふ、中央通りを抜けてこんな町の外れまで足を延ばすお客様はそんなに多くないですもの。その上貴女ほどの選別眼をもった人なら、当然覚えているわ」
「・・・光栄です」

 以前とは違ったデザインも散見される宝飾台をゆっくりと眺めながら、一年前に購入したものは送り主にも非常に好評であったことを店主に伝える。すると店主は上品に笑みを浮かべ、今年入荷したという新作を踏まえて幾つかの商品を並べながらそれぞれの特徴を語っていった。
 どれも素晴らしい細工のものばかりであったが、矢張り原石の持ち味を良く表しているシンプルなものに目がいく。

「では・・・これとこれ、あと、こちらも頂けますか?」
「まぁ・・・相変わらず良い目でいらっしゃるわね。今回は、男性へのプレゼントかしら?」

 今回彼女が選んだのは三つの装飾品だ。確かに三つ目は男性が身につけても可笑しくないシンプルなものだが、流石にこの店主は聡い。
 カタリナは何となく気恥ずかしさを感じて笑みを浮かべながら会釈で誤魔化し、以前と同じく相場に比べて安価な代金を支払い店を後にした。
 携帯していた鞄に購入品を仕舞い、ゆっくりとした足取りで町の中央通りへと歩いて行く。
 道中ふと空を見上げれば、街を包む宵闇が視界に揺らめいた。
 ふんわりと舞い降りてくる小さな雪の結晶を見つめ、自らの目前に降り注ぐそれを手のひらで受け止めようとする。

 その時、世界が唐突に揺れた。

(・・・何!?)

 驚きの表情を浮かべながら、慌てて姿勢を保とうとする。体勢が安定し辛い雪道で姿勢を低くしながら体の均衡を保つようにしている間、時間にすれば数秒程だろうか。視界が細かく縦横に揺れた。

(地震か・・・珍しいな・・・)

 揺れが漸く治まってきた頃合いを確認し、カタリナはゆっくりと姿勢を戻した。
 周囲を見渡すと、積雪地域に良くあるとんがり屋根に積もっていた雪が道端に落ちており、近くの店の軒先に吊るされた看板はまだ揺れている。
 街の様子を観察しつつ余震があるかも知れないと多少警戒をしながら中央通りまで歩いたカタリナは、そこで何やら前方が騒がしいことに気がつき、視線を送る。
 それは、彼女らが世話になる予定だった宿舎の方向だった。

 

「・・・さーて、どうするかー」

 抱えていた荷物を勢いよく地面に下ろして一息つき、コリンズは後方に向き直った。
 そこには、先の地震によって倒壊を起こした宿舎の木片が折り重なっていた。これらは倒壊直後にロアーヌ騎士団によって周辺家屋や通行の邪魔にならぬように集められたものだった。
 地震が治まってからここまでの作業は小一時間ほど。自分たちの荷物と隣接する宿が置いていた荷物も可能な限りは引き出したところで、宿の人間が用意してくれたホットワインで体を温めながら騎士達は一箇所に集まった。

「改めて、今日の寝床はどうしたものか」

 ブラッドレーがそう言うと、騎士団の面々は方々で唸った。
 残念ながら皆が生粋のロアーヌ民であり、この辺りの土地勘も知り合いもないので、そのあたりは頼れない。
 中央広場からは「宿屋通り」と言われる一画が存在しているが、この時期は運営しておらず、所有者はその大半が出稼ぎに出ているのか利用交渉も抑もできない。

「流石に、ここで野営は厳しいな。凍えてしまう。かと言って、この人数で泊まれる場所なんてなぁ・・・」

 タウラスがホットワインを口に含んで、そう言った。それは変わりようのない事実で、皆が一様に項垂れる。

「カマクラでも作るか!あったかいらしいぞ」
「・・・お前のその楽観も、今は指摘する気にならんなぁ」
「なんだと!?」

 パットンの思いつきにタウラスが疲れた表情で反応すると、それにパットンが突っかかる。しかし寒さ故かそれも長続きはせず、直ぐまた方策を求めて唸り始めた。
 そこで皆と同じくホットワインを飲みながら荷物の上に座って唸っていたカタリナは、唐突に、その場の空気が変わったことを感じ取った。
 自分たちを包み込む宵闇が、その『濃度』を増したように感じられたのだ。
 そしてそれと同時、その場に珍客が現れたことを察知して思わず身震いをしながら立ち上がった。

「・・・おや、これはこれはカタリナ様。お久しゅう御座います」

 カタリナが振り返った先には、態とらしく(まるで、さも人間であるかのように)寒気除けの暖かそうなコートを羽織った老年の紳士が立っていた。
 カタリナは全身に感じる強烈な違和感をものの数秒でなんとか押さえ込み、平然とした風に直立して老紳士に向かい合った。

「・・・ご無沙汰しております。して、レオニード城の執事である貴方が、何故此方へ?」

 カタリナとその老紳士を交互に見ている他のロアーヌ騎士の皆の前で、会話が続く。

「先に、地震がありましたので。伯爵様が城下町の様子を気にかけておられましたものですから」
「・・・そうですか。隅々まで確認したわけではありませんが、目に見えた被害はここだけの模様です」

 道の端に積み上げられた瓦礫に一瞬だけ視線を向けながら地震後ここまでの状況を軽く説明するカタリナに、老執事は薄く頷いた。

「左様でしたか。それは我らポドールイの民を手助けして頂き、誠に有難う御座います」

 そう言って深々とお辞儀をする老執事に会釈を返したカタリナに、すくりと上半身を起き上がらせた老執事は優雅に腕を伸ばした後に、考え込むようにそっと自らの顎に指を当てた。そのあまりに自然で不自然な光景にカタリナが以前と変わらず違和感を感じていると、老執事はカタリナを、そしてその他のロアーヌ騎士達を見つめて言った。

「して、その話からすると・・・我らを助けてくださった英雄が今宵安らかに休める場所を確保できていないものとお見受け致します。それでしたら、如何でしょう。我らが城へいらしては。伯爵様も歓迎されることでしょう」

 老執事のその申し出に、思わずカタリナはぎょっとする。あの城に、泊まるというのか。そんな事をして自分たちは、果たして正気のまま戻ってくることができるのだろうか。
 背後で他の皆がこの老執事の申し出を有難がっているのを余所にカタリナだけが一人戦慄気味にそのような事を考えていると、まるで老執事はそんな彼女の思考を理解しているかのように自然な笑みを浮かべて見せた。

「ご心配なく。無事に舞踏会を終え、我が城と我が同胞は安らいでおります。あの城が少々騒がしくなるのは、年に一度、舞踏会の時のみ。今は、心身ともに安らかにお休み頂けましょう」

 そう言って不気味な微笑みを絶やさぬ老執事に、カタリナは数度の瞬きの後、折れるように小さく頷いた。

「・・・申し出、有り難く思います。是非、お言葉に甘えさせて頂いて宜しいでしょうか」
「ええ。それでは早速、御案内いたしましょう。ロアーヌと此処では気温が違いますからな、冷えすぎても体に毒でしょうからな」

 カタリナの言葉に満足そうに頷いた老執事か踵を返しゆっくりと歩き出すと、ロアーヌ騎士団の面々は荷物を持ち上げてその後に続いた。

 

 

「編成はどうする?」
「予定通り五人編成を三部隊でいこう。内訳は・・・」

 城の一室を借りてブラッドレーを中心に円陣を組みながら軍議が開かれる中、胸の下で腕を組みつつ直立姿勢でそれに耳を傾ける振りをしながらカタリナはなぜこのような事になってしまったのか、とばかり己に問うていた。
 事の始まりは、地震。そう、地震であった。
 その地震のおかげで元々の宿泊予定だった城下町の宿舎が崩れ、執事の厚意もあり恐れ多くもレオニード城に宿を求める事になったのだ。
 そして本遠征の折り返し地点であるこのポドールイでは、元来戦闘演習用の洞窟があり、そこで少人数編成部隊運用の演習をしてからロアーヌへと帰還する予定であった。その内容としては古来伝統的な五人編成を一括りとした部隊編成でその洞窟を攻略し、最深部まで行って戻ってくる、というものだ。
 この洞窟周辺も無論、領地管理は伯爵たるレオニードが行なっている。なので伝統的に遠征軍はレオニードに謁見してからその洞窟へと向かうのだ。
 しかし、ここで第二の誤算が発生した。
 先の地震により、この演習用洞窟までもが内部崩落を起こしたというのだ。その事実は、一夜の宿の御礼とともに演習実施の報告を行いにブラッドレーがレオニードに謁見した際に発覚した。
 レオニードはその席で崩落の事実をブラッドレーに伝え、そして彼が押し黙り今後の動きについて考えているところにある一つの提案をしたのであった。

「しかし、この城の地下ってのはそんな物々しい場所なのか?」

 コリンズは、そういいながらカタリナへと視線を向けた。それに倣ってその場の全員から視線を受けたカタリナは、言葉に詰まる。
 レオニードが提案してきた内容というのは、なんとこのレオニード城の地下空間を演習に利用してはどうか、というものだった。
 曰く『しばらく使っていない間に、どうも地狼か何かが住み着いている気配があってね。城のものではなかなか手が出せず困っていたところでもある。どうだろう、謝礼も出すのでここはひとつ、演習代わりに地狼討伐を引き受けてはくれないかな?』だそうだ。

「え、まぁ・・・ちょっと、物騒・・・かしら」

 実際のところはちょっとどころではないのだが、確かに一年前に彼女が訪れた時よりは、城内に漂っていた甘く優しく強制的に包み込んでくるような感覚は薄い。これならば以前のような危険は少ないかもしれない。
 それにレオニードは、少なくとも今の時点の彼女の私見では無益な殺生を好むタイプではない。ロアーヌとの関係値もあるわけであるし、そう滅多な提案はして来ないだろう。そう踏んだカタリナは、でも大丈夫よ、と周囲に微笑んで見せた。
 それをみて頷き返したブラッドレーが話を続ける。

「伯爵様からお預かりした見取り図によれば、地下部分も大きく分けて三つに分かれているようだ。地下水脈、焉道、地下墓地・・・だな。伯爵様は地下水脈あたりの地狼を駆除してくれればいいと仰っていたが、一晩の寝床の恩もある。三部隊でそれぞれ範囲を分けて、行けるところまで駆除を行いながら進んでいこうと思う」
「それならうちの部隊は当然地下墓地だな。最終地っぽいし」

 パットンがそう言うと、珍しくタウラスも即座に同意した。

「そうだな。ブラッドレーにコリンズ、それにお前と俺とあとはカタリナとなれば、この部隊が群を抜いて練度が高い。担当については異論はないな」
「だろ? ならあとは陣形どうする?」
「あー・・・俺、一度あれやってみたいんだよな。インペリアルクロス」
「うわでた。ほんとアバ伝好きだなーお前。しかしまぁあの陣形は今でこそ軍事採用されてないが、確かにバランス良さそうだな!」
「だと思うんだ。俺のパリイはあの陣形でこそ真価を発揮すると思うんだよ!」

 こうなると存外仲が良いタウラスとパットンは、なにやら共通の話題で盛り上がっているようだ。
 カタリナはそんな二人や他部隊への指示に動いているブラッドレーらを横目に、改めて地図に目を落とした。

(・・・礼拝堂からの入り口ではなくなっているわね。まぁあそこ通ったら拷問器具がある地下牢だから、流石に見せたくはない、か。しかし本当に大丈夫なのかしら・・・今更だけど心配になってきたわ・・・)

 カタリナのそんな心配をよそに演習会議は滞りなく進み、間も無く演習開始の運びとなった。

 

 先ほどから絶え間なく鼻をつく異臭は、一体何のものなのか。それは至る所に散見される腐った水と、血と、屍肉と。はたまた、それに群がる齧歯類の糞尿のものか。何れにせよ、それは魑魅魍魎の如き姿の妖魔を相手に此処まで進軍して来た若きロアーヌの精鋭たちをより一層に疲弊させるには十分なものだ。
 一言で言えば、情勢は最悪であった。
 先行部隊及び追従部隊は初期の地下水脈すら攻略できずに、おめおめと逃げ帰ってきた。
 しかしカタリナ達にも、それを責めることは出来なかった。なにしろ、そこにいたのは件の地狼だけではなかったのだ。闇に紛れて強襲をかけて来る巨大な蝙蝠や遥か昔の地層からアビスの瘴気に中てられて動き出した骸骨、同じく瘴気に狂った水霊等、訓練生上がりの若手が相手をするには荷が勝ちすぎていた。
 そこで急遽ブラッドレーは自部隊を先頭に配置。後続二部隊を行軍補助、補給地点確保に回し、全部隊一丸となっての攻略に作戦の変更をした。
 現状はこの作戦変更が功を奏し、結果ロアーヌ騎士団は地下墓地までの進軍を成功させるに至った。
 腐った土を盛ってそこに松明を突き刺し、その場の全員がやっとの思いで腰を下ろす。彼らの先に口を開けている空間は、今いる場所よりも更に深く暗い闇を抱いている。瘴気も一段と濃さを増しており、この先はこれまでの比ではない攻略難度を誇るであろうことが容易に伺えた。

「各自装備の点検を終えたら行くぞ。長期滞在は瘴気にやられそうだ。また、現存する前衛の傷薬が消費された時点で本演習を終了とする。備なしに進むには、ここは危険すぎる」

 ブラッドレーの指示に全員が浅く頷き、手早く損傷の確認を行う。
 演習用に用意した傷薬はその大多数が既に消費されており、城主レオニードから餞別に頂戴した高級傷薬も前線部隊各員に既に配布済みとなっていた。あとは補給線確保部隊が多少残すのみとなっている。
 因みに、特に敵の第一撃を受け止めるタウラスはその消費速度が最も高く、彼だけ少々消毒液臭い。
 短い休息を終えて迅速に準備を整えた部隊一行は、地下墓地へと足を踏み入れる。

「・・・やべぇな、これ」

 深淵の如き空間へと立ち入り数歩進んだコリンズが、堪らずそう呟く。
 その言葉に全力で同意する様に、他の四人も唾を飲み込んだ。
 重く、只管に重く黒く濁った瘴気。それが暗い通路内に満ち満ちている。
 全員がその瘴気をかき分ける様にして一歩ずつ進むが、今まで感じたことのない様などす黒い瘴気に、全身が『これ以上進んではならない』と危険信号を発しているのがわかる。

(幼い頃に見た死蝕とは違うけれど・・・これはもっと暗い・・・絶望。そう、誰かの絶望が形取られた様な・・・そんな瘴気)

 隊列の中央に位置しながら歩みを進めていたカタリナは、この深淵をそのように感じ取っていた。
 地下墓地とは、名の通りならば誰かの墓地であろうか。その誰かの死に絶望した者の意識が、この空間に満ちているのかもしれない。それは、ひょっとしたらこのポドールイの伯爵家に連なる何者かであろうか。
 しかし、伯爵家は遥か昔からレオニードその人が当主として座している。そうなれば、一体ここにある絶望とは、誰の、何のものなのであろうか。
 周囲の警戒は怠らずにそのようなことを考えながら、それでも果敢に隊は進んで行く。
 そして永遠にも思える暗い道のその先に、唐突に明かりのないどす黒くて広い空間が現れた。
 間違いない。この空間に、地下墓地の主がいる。そう五人は感じ取った。
 そういえば、ここまでの出鱈目な瘴気の渦の最中、何故か唯の一度も妖魔と遭遇することはなかった。それはきっと、ここの空間の主が静寂を好むからなのだろう。そうでもなければ、こんな馬鹿げた濃度の瘴気の中で何も起きないことの理由が全く以て説明できないのだ。
 だが、ここまで無作法にも戦装束で侵攻して来た余所者に、主がいつまでも座して待っているはずも無い。

「・・・くるわよ!」

 漆黒の闇の中に浮かび上がったのは、身の丈が人の倍はありそうな、骨のみに朽ちたガーゴイルの体。其れが、凸陣を成して三体。そして、その上には朽ちかけた宵闇の外套を纏った髑髏姿の異形の化け物が此方を見下ろしていた。
 そのあまりに異様な姿に騎士達が度肝を抜かれていたその刹那、異形の化け物はその巨体から全く想像できないほど素早く突進を繰り出して来た。

「うがっ!!?」

 分厚い金属を打ち砕くような凄まじい衝突音と共に、最前列にいたタウラスが全身鎧を纏ったまま構えた盾ごと軽々と後方へ吹き飛ばされる。
 それにカタリナが気づいたのはタウラスが自分の横を吹き飛んで行く様を横目に見ての事だったが、しかし負傷したであろう彼の元へと駆け寄る余裕など全く無かった。
 既に異形の化け物は、第二波を繰り出そうと彼女に狙いを定めていたからだ。

(・・・回避・・・出来ない・・・!)

 タウラスに比べカタリナは軽装であるが、今まさに繰り出されんとする異形の一撃はこの暗闇の中でも余りに素早く正確で、彼女の素早さを以てしても回避できる未来が全く想像できなかった。

「・・・ッ、マスカレイド!!」

 突撃してくる巨大なる異形に対し、カタリナは軽く後方に飛ぶように地を蹴り、手にしたマスカレイドを振り抜いた。
 直後、先ほどのタウラスと同じようにカタリナが後方に吹き飛ぶ。だが顕現した紅い刀身が重い一撃を受け止め、そして予め後方に飛んだ事で衝撃そのものはほぼ受け流すことに辛くも成功していた。
 空中でなんとか姿勢を持ち直し飛ばされた先の壁に両足をついたカタリナは、間髪を入れず横に飛ぶ。
 そこに一瞬遅れて異形の巨大な拳が大きな破砕音と共に打ち込まれ、壁面が砕け飛ぶ。

「うおおおおお!!」

 その隙を突き、コリンズ、パットン、ブラッドレーが陣を成す三体のガーゴイルの足に其々斬りかかる。
 そして狙い通り三体のガーゴイルの足を切り飛ばすと、そのまま崩れるように凸陣は解かれた。
 するとガーゴイルの上に乗っていた髑髏の異形が崩れるガーゴイルを足蹴にしながら後方に跳び退り、その何も映し出さない空虚なる眼底をガーゴイルを斬りつけた騎士達へと向けた。
 そして次の瞬間、髑髏が突き出した左の手から、何かが噴き出し始める。
 それが何なのかを騎士らが確認する前に、突如として強烈な目眩に彼らは襲われた。

「・・・ツ、これを吸い込むな!」

 ブラッドレーがその場の全員に知らせるように叫ぶ。だがそうして口を開いた拍子に彼が最も吸い込み、猛烈に咳き込んで間も無くその場に倒れこんでしまう。
 慌てて口元を押さえながらコリンズとパットンが倒れている二人を庇うように布陣するが、しかし片腕で口元を押さえていても呼吸をしている以上は徐々に吸い込んで行くのか、二人もそう間を置かずに膝から崩れ落ちてしまった。

(・・・くっ・・・私も少し吸い込んだか・・・。まずい・・・この状況、どうすれば・・・)

 彼らとは離れた場所に着地していたカタリナは、髑髏の繰り出した謎の攻撃を直接は浴びずに済んでいた。だが、軽い目眩を覚えたことから、多少の損害はあるようだった。そしてその損害の有無に関わらず、状況はあまりに絶望的だ。既に仲間の騎士は四人が倒れ、次には自分に向かって今の攻撃が放たれるのも時間の問題。なんとかしてあの攻撃を回避する方法はないものか。刹那の間に考えを巡らせる。
 だが今の彼女が持ちうる手札に、そんな方法は何も思い浮かばなかった。そもそも倒れた騎士達が何をされたのかすら、不明なのだ。

(・・・恐らくは毒、のようなもの。吸い込むな、とブラッドレーが叫んでいた・・・。気体か、粉末に近いようなものか。いずれにせよ、私にはそれを防護する装備はない・・・。しかも時間が経てば経つほど毒が回っていく感覚がある・・・だとしたら、先手必勝しか・・・!)

 大剣マスカレイドの柄を両手で握りしめ、軽い目眩を振り払うようにして軽く頭を振り、いざ突撃せんとしてカタリナは身を低く構えた。
 だが、彼女が飛び出すより一瞬早く、彼女と髑髏の間に宵闇の外套を纏った人物が颯爽と舞い降りた。

「助太刀しよう」
「・・・は、伯爵様!?」

 緋色の髪を靡かせながら突如として現れたのは、なんと城主レオニードだった。
 カタリナが驚きの声をあげると、レオニードは彼女に対して下がるよう指示を出し剣帯からレイピアを抜き放つ。

「あれは、死人ゴケだ。生身の人間が肺に吸い込むか肌に大量に付着すると、そこから全身が毒され次第に正気を失い、やがて死に至る」

 洒落にもならないその言葉に、しかし冗談のような雰囲気は微塵もない。カタリナは突撃体勢を解き、言われるままに後ろに下がった。
 それとは対照的に一歩前へと進んだレオニードは、突き出したレイピアで威嚇するようにしながら髑髏に対峙する。
 髑髏は何故かそれ以上死人ゴケとやらを吐き出すことはなく、レオニードも髑髏を睨むばかりで動かない。そうした膠着状態が、しばしの間続いた。

(何かの力の応酬が、彼らの間にあるみたい・・・。悍ましいほどの瘴気が彼らの間で、なにか目的をなして蠢いているような、そんな感覚・・・)

 カタリナはマスカレイドの大剣化を解き、堪らず地に膝をつきながらそのように感じた。このとてつもない量の瘴気に当てられたのか、または先の死人ゴケというもののせいなのか、体がうまく言うことを訊かなくなってきている。両者は未だ動かないが、この状態が長く続けば自分は元より、先に倒れた四人がより危険に思われた。
 そして彼女がそのような事に思いを巡らせた刹那、場の膠着を破ったのは、対峙する両者ではなかった。

『グォォォオオオオオオッ!!!』

 コリンズらに足を切り飛ばされたはずのガーゴイルの骸骨三体がここにきて足の再生を果たし、側面からレオニードに襲いかかってきたのだ。
 だが、それに対してレオニードは姿勢を崩さず一歩も動くこともなく、そのガーゴイルを一瞥しただけだった。
 それで、ガーゴイルは止まった。
 それは、後ろでその光景を見ているカタリナですら思わず背筋が凍るほどの、圧倒的な支配。王たる彼の一瞥だけでガーゴイル達はその力を理解し、畏れ、戦意を喪失してしまった。
 彼の視線が動いた事で揺らいだ瘴気に触れただけで、カタリナは途轍もない悪寒を感じた。それが真正面から繰り出されたのだとしたら、果たして正気を保つことなど出来るものなのだろうか。
 ガーゴイルが止まったことに大した興味も抱かず視線を異形の髑髏に戻したレオニードは、次には何故かレイピアを下ろしながら口を開いた。

「・・・やはり、私の不死者に対する支配も貴方には通じぬか。ここは長引くのが本意ではない。この場は退かせよう。それでよいかな?」

 レオニードがまるで異形の髑髏に話しかけるようにそう言うと、髑髏はしばし動かずにいたものの、次の瞬間には闇の中にするりと姿を消していった。それと同時に、ガーゴイルたちも一瞬にして崩れ、塵となった。
 その様子を見届けたレオニードは抜き身のレイピアを鞘に仕舞い、渦巻く瘴気の中で場違いなほど優雅にカタリナへと振り返る。

「よく此処まで来たものだ。君も彼らも、やはり人間においては非常に優秀なのだな」

 レオニードはまるで世間話でもしているかのように、そう言った。だが、カタリナが確認できたのはそこまでだった。彼女の意識は既に毒に侵され、朦朧としていたのだ。
 そしてこちらに近づいて来るレオニードの姿をぼんやりと映し出したのが、彼女がみたそこでの最後の光景だった。限界を迎えた彼女の体は全身が一斉に崩れ落ち、それと共に世界は暗転していった。

 

 

 身体が、燃えている。
 いや、燃えているのは自分ではなかった。自分ではない誰かが燃えているのを、自分は見ているのだ。
 燃える何者かの周囲には人があつまり、その燃える身体をずっと見続けていた。自分は、さらに離れた場所からそれを見ている。
 それは、とても悲しい光景であった。何故あれは燃えているのか。何故周りの人間はそれを見ているだけなのか。何故自分もまた、それを見ているだけなのか。
 悲しい。この世の全てが、ただただひたすらに悲しい。
 憎い。この世の全てが、ただただひたすらに憎い。
 だが、もういい。何もなかった事にしょう。全部、喰らうとしよう。

 そこで、ぷっつりと光は途切れた。

「目が覚めたようだね・・・何を、泣いているのだ?」

 うっすらと目を開ければ、目に映ったのは、天蓋。左に顔を向ければ、窓のない部屋に閉鎖感を感じさせぬように絵画や置物があり、次に右へと向けば、そこには小さなテーブルの上にワイングラスが乗っており、そのすぐ横には、緋色の艶やかな長髪を靡かせたレオニードが随分と寛いだ様子で椅子に腰掛け、こちらを見下ろしていた。
 そして、ひんやりと目尻を伝う感覚に、そこで初めて自分が涙を流していることにも気がついた。

「・・・ここは」
「君は以前にも来たことがあるはずだ。城の地下にある、私の私室だよ」

 もう一度、部屋を見渡す。言われてみれば、確かに見覚えがある調度品の数々だった。一年前には横目に眺めた天蓋付きベッドの寝心地はこういうものだったのか等と場違いに思い耽り、そしてレオニードへと向き直った。

「・・・他の騎士達は、どうなりましたでしょうか」
「案ずるな。全員無事だ。今は我が城の者達が治癒をしているよ。しかし生きた人間の世話をするのが久しいようだから、四苦八苦しているようだがね」

 真顔でレオニードがそう応える。これはポドーリアンジョークの類だろうか。しかしジョークにしては随分とタチが悪いなと感じたが、そこは追求せずに素直に礼を述べ、ゆっくりと上半身を起こそうとした。そこで初めて自分が一糸まとわぬ姿であることに気がつき、努めて冷静を装いつつ胸元を隠すように寝具で覆いながら起き上がった。

「・・・あの、伯爵様、恐れ入ります」
「ふむ、なんだね」

 体に特に異変がないことを心中で確認しつつ、レオニードに話しかける。彼は優雅にワインを傾けながら、気安く返事を返してくれた。あまりにこの状況を当たり前のように振舞っているが、駄目だ。この空気に、易々と流されてはいけない。

「何故、私はここにいるのでしょうか・・・?」

 他の騎士達と共に寝かされているのならばいざ知らず、なぜ彼女だけが一人、城主レオニードの私室で寝ているのか。しかも、全裸である。それは当然に感じるべき、大いなる違和感であった。
 特に体に違和感を感じてはいないが、よもや自分は既に吸血鬼にさせられてしまったのか。そんな不安も過るが、さもそれを見透かすようにレオニードは薄っすらと笑みを浮かべながら膝の上で手を組んでみせた。

「城の者が君をここまで運び、治癒を施した。君がどうやら、この城の深淵に縁があると感じたようだ。因みに、私は意識の無い者に手をかける様な無粋者ではないから、安心してよい」
「・・・そうでしたか、重ね重ね、有難う御座います」

 どうにも自分がここにいる理由になっているのか彼女にはいまいち分かりかねる返答であったが、聞き直しても同じ様な答えしか返ってこなさそうでもあったので、彼女はそのまま飲み込むことにした。取り敢えず吸血鬼にはなっていないらしいので、それで良しとすることにしたのだ。
 そして、次にはレオニードが差し出して来たハンカチをみて、そういえば自分は涙を流していたのだということを思い出した。浅くお辞儀をしながらそれを受け取り、目尻を拭う。もう既に涙は止まり彼女の感情を揺さぶるものはなかったが、彼女は起き上がる寸前まで見ていた夢のことを、目の前の人物に話そうと思った。

「夢を、見ました。誰かが・・・燃えている夢でした。私は、それを見ているだけでした」

 妙に、生々しい夢だった。鮮明に燃え揺れる炎の揺らめきを覚えている。その熱さを、肌が感じたことも。そして燃える何者かの周りにいた人々の、狂気が入り混じった声を。そして、その光景がどれほど悲しいもので、どれほど憎いものだったか。己の内に渦巻いた絶望が、如何に大きなものだったのか。
 レオニードは、カタリナのその話を静かに聞いているだけだった。そしてカタリナが夢に見た光景を話し終えると、テーブルに用意してあった真水をカタリナに勧め、自分はワインを一口、口に含む。

「・・・恐らくは地下で出会った『あれ』の瘴気に当てられて、そんな幻覚を見たのだろう」
「幻覚・・・ですか」
「そう、幻覚だよ。恐らくそれは、『あれ』の記憶だ」

 ひとりでにワインのデカンタが浮かび上がり、レオニードの手元のグラスに中身を注いでいく。そんな非現実的な光景を、ここならば当然こんなこともあるだろうと特に気にもとめずに横目に見ながら、カタリナはレオニードの言葉の続きを待った。

「『あれ』は、私の父だよ」

 そう短く言い切ったレオニードの言葉に、カタリナは何故だか妙に得心した。あのような異形の存在を親だと告げられたら普通ならば飛び上がるほど驚き、そして恐れ慄くといういものだろう。しかし彼女には、全くそのような気は起きなかった。それは、夢の中で感じた、あれの心象に触れたからだろうか。
 その様子に何処か満足気にも見える表情で頷いてみせたレオニードは、ワイングラスを片手に言葉を続ける。

 彼の父親は、彼と同じく夜の眷属であった。
 彼らの眷属は平時の姿形が人に近く、しかし人では非る者。彼ら夜の眷属は人の歴史の裏側に潜む様にして、常に人と共に存在し続けていた。
 彼らは不老不死の肉体を持ち、数年に一度、時折思い出した様に腹を空かせて人を喰らう。そして喰らえばまた闇に潜み、夜に世界を揺蕩う。そうして、永劫の時間を蠢き続ける者達。それが夜の眷属だった。
 彼らは基本的に繁殖をすることがない。己が朽ちる前に子孫を残し種を生き繋ぐという行動原理が、不老不死たる彼らには存在していないからだ。
 故に彼らには新たな個体が産まれることはなく、その数は常に一定。その眷属は、世に数体しか存在しない者だった。
 ある時、一つの個体が人里に降り立った。『食事』をする為だった。彼らは食事の際、人間社会で云うところの『旅人』を装い、人間の集まりの中に潜み、そして選定した獲物を闇に乗じて狩る。
 だが彼−この個体の姿形はまるっきり人間の青年だったので、彼、とする−が潜んだ村は、流行病の疫病に侵され、村全体が殆ど死に体となっていた。
 彼は、空腹だった。だが、このような状況では食事どころではない。疫病に冒された人間達はどれもがとても不味そうで、これでは食えたものではないと感じた。かといって今から雪深いその村を去り別の人間の集まる場所へと向かうのも、とても骨の折れる話だった。
 そこで、彼はふと考えた。
 彼らは悠久の時を生きるが故に、蓄える知識量も経験も、人間の比ではない。つまり彼は、今目の前の人間達が訳も分からず苦しんでいる疫病の治癒に関しての知識も、持ち合わせていた。
 だから彼は、他所に移動する面倒よりもこの病に倒れた人間を治し、そして食そうと、そう考えたのだ。
 熱帯や亜熱帯の地方と違って寒冷地には、通常の疫病は殆ど流行らない。菌類が媒介となる生物を通じて感染し辛いからだ。そもそも疫病を細菌が齎す物だということも人間は知らないようだが、彼は知っていた。だからこうして寒冷地で流行する病気は殆ど種類がなく、一つの解決方法さえ知っていれば何の事は無い代物だった。
 彼はそれこそ瞬く間に村の人間らを全て治してしまった。
 村の人間は、彼を神の御使いと讃えた。人々は彼を囲い、祝い、祭り上げた。
 彼は特段それに気をよくしたわけでもなかったが、しかしこの状況は非常に便利なのではないか、とは感じた。
 この状況を利用できるものかと思い彼は試しに、人間の中から一人を選び差し出すように、要求をしてみた。人間は、若い女の肉が最も柔らかく食べやすい。だから、若い女の贄を要求した。
 するとどうだ。その集団のなかの年頃の娘達は、我先にと名乗り出て来たのであった。これは彼にとって、とても興味深いことだった。これならば自分がここに居続ける限り、食事が非常に楽になるのではないか。そう考えた。
 そして彼は、その地に城を築くことにした。そして城に招かれた若き娘は、外に出ることは叶わないが、永遠の幸福を約束される。そのように村人に伝えた。
 彼がそうした動きをし始めると、彼の眷属も興味を持ち、その地に集まった。城が築かれ、そこには夜の眷属が住まい、毎年若い娘を一人差し出すことによってその地の繁栄を約束するようになった。
 村は城下町となり、そこはやがて、ポドールイという国となった。
 城に召し上げられる娘達は、毎年喜んでその身を捧げた。永遠という地獄をよくもまぁ求めるものだ、と、城の主人となった彼は思ったものだった。
 そしてある年、一人の娘が城に召し上げられた。
 その娘は、今までの娘と違い、彼に対して怯えた。私は永遠など欲しくは無いのです。そう、彼に告げたのだった。彼は今までと違う反応を示したその娘に小さな関心を抱き、直ぐには喰らわず娘を観察することにした。
 永遠を拒否した娘は、甲斐甲斐しく彼の身の回りの世話をした。人間以外を食したことのない彼が少女の作る料理を初めて口にした時など、今まで食べたどの人間よりも豊かな味だと感じた。だが、それで飢えは凌げなかった。そして、用意されたワインを飲んだ。まるで血の色のようなその飲み物は、しかし血などとはまったく違う果実味溢れる味わいで、彼は血が無いときに血の代わりに飲むのならばこれしかないと確信したほどだ。だが、これでも飢えは凌げなかった。
 娘は、永遠を恐れつつも、一方で彼を慕った。彼は自分を慕う娘を食すことを、いつの間にか考えなくなった。
 そして彼は娘と、子を成した。夜の眷属と人間の混血が誕生したのだ。玉のような赤子を産んだ娘はとても喜び、彼もそんな娘と赤子を見て己の行為と思想の変化を興味深く思った。
 だが彼は、食事をしなくなってから己の中の何かが時折酷く疼くようになっているのを感じていた。
 日に日に窶れ時折正気を失ったように暴れるようになった彼に対し、娘は自分を喰らって欲しいと申し出た。しかし彼は、それを拒否した。だが、頭で拒否ししようとも黒い衝動が、娘の華奢な体をいつ引き裂いてしまうか、彼には分からなかった。
 だから、彼は娘を城の外に逃がす事にした。そして同じ眷属のものに対し、自分が正気を失ったら滅してほしいと願い出た。彼の眷属は彼が何故そのような決断に至ったのか理解できなかったが、承諾した。
 そのまま彼は滅ぶつもりだったのだ。それで自分は娘を、人を喰らわずに済む。そう考えた。
 だが、彼よりも先に娘は死んだ。
 永遠なる幸を約束された城から歴史上ただ一人舞い戻った娘を、民は平穏を乱す凶兆と捉えたのだ。
 魔女として捕らえられた娘は、火刑に処された。
 娘が燃える最中に騒ぎを聞きつけ城下町へと駆けつけた彼は、そこで生まれて初めて涙というものを流した。涙とともに叫び、怒り狂い、異形へと変貌した。そしてその場の人間を片っ端から喰い千切る中、彼の言葉を聞き届けた他の眷属により、願い通りに滅ぼされた。
 だが彼の断末魔の怨念は彼の朽ちた肉体を真なる不死者へと変貌させ、その地にその魂を留まらせた。彼の眷属は、そうして不死者となった彼を、城の地下深くに封印した。彼らを以てしても、もはや彼を滅することは叶わなかったのだ。

 

「ふふ、退屈な話をしてしまったかな?」
「・・・いえ、お聞きできてよかったです。私の中に流れ込んできた感情の一端の正体が、分かりました」

 カタリナがそういって頭をさげると、レオニードは微かに笑みを浮かべながらワイングラスを傾けた。

「私は、いずれ父を滅する。だがこの数百年は、力を付けども付けども、あれを滅することは叶わない。聖なる力が効くのかとも考えたが、どうやらそういうわけでも無いようでね。かの聖杯を以てしても、あの存在を消し去ることは出来なかった」

 空になったワイングラスをテーブルに置き、レオニードはグラスを通じてその先をぼんやりと眺めるように視線を軽く落とした。

「だから、最近は考えを変えてみたのだ。力では滅せられぬのならば、他のなにかで父の怨念を解くことは出来ないものか、とね」
「・・・それでは、舞踏会はそのために・・・?」

 カタリナが思わずそう呟くと、レオニードは首を傾けるようにしてカタリナに視線を送り、彼女をして思わずどきりとするほど妖艶な笑みを浮かべて見せた。

「まぁ、あれは実益も兼ねているがね。我が眷属は今や人を喰らうことはないが、血を欲する故、そのためでもある。そしていつか父が母を見出したように、私が我が眷属に大いなる変化を齎すことで・・・何かがわかるかもしれない、と」

 レオニードが言わんとすることは、カタリナには全ては分からない。だが怨念というものが強い思念のことを指すのであれば、その元となった事象に対する何らかの解決方法を提示してやることでしか解放されることがないのは、理屈が解る気がする。そう思うと、今目の前にいる存在は確かに人間とは全く異なる生命であるものの、その魂の本質は同じところにあるのではないか。そのようにも、感じられてくる。

「そういえば、私は母の顔を覚えておらぬのだが・・・ここの執事長をしている者が君のことを、どことなく母に似ていると言っていたな。まぁ彼らに人間の顔の見分けがつくとは思わないから、大いに気のせいだと思うがね」

 レオニードのその言葉に、カタリナは思わず二、三度瞬きをしてみせた。ひょっとして自分をここに連れてきたのは、その執事長ではないだろうか。
 そんなことをカタリナが考えていると、レオニードはゆっくりと椅子から立ち上がった。

「さて、それでは私は失礼するとしよう。着替えはそこのクローゼットに入っているはずだ。準備が出来たら、上に来るといい」

 一方的にそれだけいい、レオニードはさっさと部屋を後にしてしまった。
 そうして一人部屋に残されたカタリナは、レオニードが去っていった扉をしばし眺めた後、徐に両手を広げて上半身をベッドに投げ出した。ぼすん、という音と共に柔らかな素材のベッドが彼女の全身を受け止めてくれ、その極上の寝心地は最高級の寝具のそれに間違いないと確信する。何も身につけていない状態でこのような行為、はしたないことこの上ない所業だと我ながら感じる。が、誰もいないから見られることもないというか、そもそもこの近くには生きた人間がいないのだから構うものか等と妙に開き直ったものだった。
 目が覚めた直後にも確認したが、体には特に違和感を感じない。疲労もなければ、あの異形から受けた「死人ゴケ」とかいうものの後遺症らしきものもなにもない。状態は、至って正常そのものだ。
 あの異形の化け物・・・レオニードの父は、あれほどの絶望とともに一体何年あの場所にいるのだろう。
 ふと、当面の心配事がなくなった頭でそんなことを考える。
 レオニードが生まれた直後だとしたら、通説では魔王とすら面識があるという噂を信ずるならば六百年は経っていることになる。そのような長い時間絶望に浸り続けた魂とは、果たして浄化するなどということが可能なものなのだろうか。
 あまりに途方もなく想像のつかないその内容に、カタリナはすぐさま考えることをやめた。彼女が考えたところで、この事態はなにも進展しない。それにここは常しえの宵闇が支配する、時を刻むことを忘れた街だ。時間という概念がそのまま通用するものとも思えない。
 ひょっとしたらこの宵闇は、そんな意味も持っているのだろうか。彼女がこの宵闇を優しいと感じたのは、これ自体が悲劇の二人の鎮魂を願ったものだからなのだろうか。
 そんなふうに次々と無責任に浮かんで来る想像を振り切るように、カタリナは勢い良く起き上がり、そのままベッドから立ち上がった。そして、部屋の壁に設えられた大きなクローゼットに視線を向ける。

「・・・準備って、なにかしら」

 

 

 その夜(といっても宵闇に覆われたポドールイには夜も何もないのだが)レオニード城では、城の地下の地狼を退治してくれたロアーヌ騎士たちに対して感謝の意を込めた、小さな宴が催された。
 年に一度の舞踏会には及ばぬ規模だが、城の執事や給仕たちは総出でポドールイ伝統の持て成しをし、大いにロアーヌ騎士たちを歓迎した。騎士達もその時ばかりは戦装束を脱ぎ、スーツに身を包んでその宴を楽しんだ。

 宴の最中には、特別に目立つ存在が二つ。
 一人は城主レオニードで、彼は黒を基調とした燕尾服に、宵闇の外套を羽織ったいつものスタイルだ。
 そしてもう一人は、妖しくも美しい真紅のドレスに身を包んだカタリナだった。彼女の纏う真紅のドレスは、まるで揺らめく炎のようだった。
 それはポドールイの古い風習に則ったもので、この地では寒気が強くなる前に長い冬を無事過ごせることを願い、祭りが催される。そこでは毎年、その年に染められた中で一番深くて赤い色のドレスに身を包んだ地元の娘が、炎を前に踊るのだ。それは、過去に非情の死を遂げた一人の娘に対する鎮魂のためなのだというが、その娘が一体何者なのかは地元の人々でさえ、もう誰も知るものはいない。
 そしてその赤いドレスの娘のダンスの相手役は、これも村に古くから伝わる宵闇の外套を纏った男性が務めるのが習わしだ。これも何故そのような格好で、これが誰を表しているのか、誰も知るものはいない。

 まるで古い童話の中の世界のように二人が手を取り合い優雅に踊る様を騎士達は囲い、ある者は囃し立て、ある者は大いに嘆いた。

 そうしてポドールイの宵闇は、いつ果てるとも分からず続いていく。

 

 

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