ピドナの夜

 

 世界最大の王国メッサーナ、その首都ピドナ。
 現在発行されている世界地図のほぼ中央に位置し、四つの内海への流通の要となるこの世界最大の都市には、静かな夜というものが訪れることは殆どない。
 よくよく不夜城にも喩えられるような、実に旺盛な繁華街地区が幾つかこの都市には存在しており、其々の地区には其々の住民が根付き、往々にピドナの夜を楽しむのだ。

 区画分けとしてピドナは王宮を拝する北部に行けば行くほどに富裕層の居住する地区となっており、最も王宮に近い貴族街から、商業地区、中流階級地区と南に下り、其処からは半円状に職人街や平民街、港関係者の棲まう地区が東西に広がり、その中や間間に、数多くの酒家が存在している。
 其処で提供される酒や料理も実にバリエーション豊かなもので、正にこのピドナという都市が世界の中心、文化の坩堝であるという事を感じることができるのであった。

 今宵、そんな数ある酒家の中でも、決して治安が良いとは言えない南東の旧市街地区に程近い職人街の一角にある、今にも崩れそうな風体の(というよりは既に屋根の端の部分は崩れている)酒家に、何気なくふらりと立ち寄る男の姿があった。

 男の名は、ブラック。十年程前に温海地方で名を馳せた知る人ぞ知る大海賊にして、恐らくは三度目の死蝕の後に最も早く四魔貴族の脅威に直面したであろう人物だ。
 その肩書きに相応しく、一見して表の世界に生きている様子がないことが、見ただけで分かるような空気を漂わせる。そんな空気を身に纏った男の姿を見た店の中の先客は、しかし特に彼に対して敵意を向けたりするわけでもなく、すぐに目の前の杯に視線を戻して思い思いに飲み続ける。
 職人街周辺の酒家は文字通り職人肌の連中を主な客層としている様で、比較的こうした落ち着いている客層が多く、彼としては繁華街に在りがちな面倒な絡みもないので、最近は特にピドナの中でも足繁く通う区画だ。
 海賊という素性から、彼のことを全てにおいて粗野な乱暴者と認識する輩は多いが、実のところブラック自身は、手下と大騒ぎする飲みの席も嫌いでは無いが、一人で酒を飲む時は何方かといえば静かな場所を好む。
 海賊が良く酒を飲むのは、実は酒好きという以前に海上での水分補給手段という事情が主だ。
 何しろ長期間の航海にあたっては水より腐り難いから、という保存性に重点を置いた理由が主であることは船乗りなら誰しもが知るところであろうが、しかしブラックにはそんなことは、どうでもよかった。
 つまりは彼の場合は単純に、酒が好きなだけなのだ。
 彼にとって酒とは、煙草と合わせて趣向品の部類であり、決して単なる水分補給や馬鹿騒ぎのお供、というわけでは無い。

 さてそんな趣向を持つ彼はこの店には初めて入ったわけだが、ここは外観といい店内の小汚さの具合といい、下手に小綺麗な場所よりも余程、彼には好感が持てる。そして客層が比較的に静かなのも、いい。
 早速どこか座れそうな場所はないかと店内に視線を巡らせると、狭い店内で唯一、カウンターの一席が空いている様だった。隣も席が空いている様子だが、誰かの飲みかけと思しきグラスが置いたままだ。恐らくは客が居て、厠にでも行っているのだろう。
 迷わずブラックは其処に向かい、立て付けの悪い椅子に半分ほど腰掛ける。そしてカウンター内の筋肉質のマスターに向かい小銭を出しながら、エールビールを所望した。
 ピドナで提供されるエールは世界各国から流入するので店によって趣向特徴があるが、こうした小さな店には大抵、マスターが好みで選んだ一種類しか扱いがない。ピドナに着いてから飲みまわっている中で情報を聞いて周り、どうやらここで自分好みのエールが扱われているという話を耳にして彼はここに足を運んできたのであった。
 因みに、主にツヴァイク産が世界的にも有名なラガーと呼ばれるタイプのビールは、彼はあまり好きではない。
 ラガービールはすっきりとした喉越しが特徴で近年巷で広く流行しているのだが、どうもエールに比べて濃厚さや芳醇さに欠け、彼としてはどうにも物足りなさを感じてしまうのだ。
 程なくしてカウンターの向こうから無言で突き出されたエールグラスを、先ずは見下ろす。その色はかなり濃いめで、ほぼ黒といっていい。
 これは当たりかな、と内心でひっそりほくそ笑む。近頃の彼は、一部のエール好きの間で流行り出しているスタウト式エールがマイブームなのだ。
 先ずは一口飲む。すると、予想通りの濃厚な苦味が口の中を支配する。それと同時に、鼻腔にはふんわりとカラメル香が広がり、飲み込んだ後には後に引く軽やかな苦味と爽快感が喉に抜けていく。
 美味い。これはまた来よう。
 ブラックは心中でそのように決めつつ、いつもの様に懐から煙草を取り出す。
 彼の煙草ケースは、ここ十年ほど使っている少し年季の入った木製の一点物だ。その中身も、彼の地元である温海地方の、特に海岸沿いの地域で吸われる事が多い独特な甘い香りのする銘柄であり、その香りは今や入れ物である木箱にもしっかりと染み付いている。
 ピドナに来るにあたって実は彼が密かに最も心配していたのは、この煙草がこちらにもあるのかどうか、という事であった。が、其処は流石の文化の坩堝。多少探しはしたものの、難なく専門店にて自分の吸っている銘柄を手に入れることが出来たのである。
 火を付けると、彼の煙草の特徴でぱちぱちと軽く火が弾ける。その音を聴きながら煙を先ず口に含み、そして肺一杯に注ぎ込む。そして目を軽く細めながら、ゆっくりと煙を吐き出した。
 うっすらとした煙と一緒に彼の周囲に、彼の煙草独特の甘ったるい香りが広がる。これは一般的な煙草にはあまり無い香りで、好みが分かれる香りだ。温海のアケに近い地方で作られる、現地で採れる香料を使った煙草である。
 この辺りではあまり慣れない香りにマスターも思わず眉間に皺を寄せて一瞬こちらに視線を向けるが、かといって何か言うわけでも無い。これも喜ばしい事だ。
 ブラックはこの煙草と酒の組み合わせに勝る程の快楽とは、それこそ海賊稼業でお宝を手にした時くらいだろうと本気で思っている。

「おや、やっぱりあんたかい」

 ブラックが一頻り煙草と酒を交互に口に含んで味と香りを堪能していると、そこにどうやら彼に向かって放たれたらしい声が届く。
 こんな所で出くわす様な知り合いなど、この街にいた記憶がない。だが一応は、軽く顔をそちらに向けてみせた。
 すると其処には、一人の女が居た。
 が、その姿は飲み屋で期待する様なドレスや化粧を施している様子の一切ない、なんなら周囲の男も顔負けの逞しい二の腕を惜しげもなく、これ見よがしに晒した状態である。
 現れたのは、レオナルド工房の若き女親方、ノーラであった。

「・・・なんだ、お前か」
「なんだお前か、とは随分とご挨拶だね」

 特にこちらのそんな様子に構う様子もなく流しながら、ブラックの隣の席に腰掛ける。どうやら、隣の席に元々座っていたのは彼女だった様だ。
 ブラックはノーラとは正直なところ、そこまでの面識はない。
 今の彼が一時的な拠点とするメッサーナベント家のハンス邸にて何度か顔を合わせた事があるくらいで、大して話をしたわけでもない。なので、彼女が名の知れた工房の親方であるらしい、という事以外は特に何も知らなかった。

「あんたの吸ってる煙草くっさいから、遠くからでもすぐ分かったよ」
「けっ!」

 職人らしく距離感のないぶっきらぼうなノーラの物言いに、ブラックは定番の返しをする。この煙草の香りについてはよく言われるので、返しも手短に手慣れたものだ。
 ノーラも特にそれ以上煙草の香りに何か言うわけでもなく、手元にあった杯を一気に飲み干しておかわりを催促する様にカウンター前に突き出し、続いて懐から何かを取り出す。
 その動きにちらりと視線を向けると、彼女が取り出したのは真鍮製と思しき小さな箱だった。
 ノーラは手慣れた様子でそれを開けて中に入っていた煙草を取り出すと、すぐ近くに置いてある燭台の蝋燭から火を貰って煙草に火をつける。
 ブラックは常に何処でも吸うことができる様に朱鳥の加護を宿した小型の火打ち金と石を持っており、かなり小さな動作で火の生成が出来るようにしている。だがその代物は実の所、術具として大変に高価な物だ。なので大抵の場合はノーラの様に、何処かから火をもらって点けるのが普通である。
 こうした酒家のカウンターや各テーブルに用意されている蝋燭は灯りの側面もありつつ、大抵はその役目も同時に担っている事が殆どなのである。
 ノーラは先程のブラックと同じ様に煙を肺に送り込み、そして豪快に中空へと吐き出した。その香りは、ブラックからすれば随分と古臭い物だった。それこそ、彼が幼い頃からあったような代物である。

「・・・若けぇくせに、随分と古臭いのを吸ってんだな」
「ああ、これかい・・・まぁね。先代の親方・・・父さんが吸ってたものさ。あたしは煙草っていってもこれしか知らないよ」

 煙草は嗜好品としてはそれなりに広く分布しており、それこそ地域を問わず世界各地で手に入る。安価な粗悪品から高級志向の物まで多くの種類があるが、当然ながらその銘柄には流行というものもある。ここ最近の流行りはハーブなどのフレーバーを混ぜ込んだ物で、元は貴族の間で流行りだったものがここ数年で民間にも流れてきた様な物だ。
 ブラックが吸っているものは、言ってみれば今の流行りを突き詰めすぎた様な物であるが、これは温海地方の密林付近では割と昔から吸われているもので、実の所は他人の煙草にどうこう言えるほど新しい様な代物では無い。
 だが、そんなブラックからしてもノーラが吸っている銘柄は、自分よりも上の世代が主に吸っていた様なものだ。

「まぁ、今更これから他の煙草なんて移れないしね」

 そういいながら、ノーラはお代わりとして勝手にカウンターから出てきたグラスの中身を舐める様に一口啜り、そして美味そうに煙草を吸う。
 彼女の吸っている煙草は現存の銘柄の中では特段に味と煙の濃さがある物なので、確かにそれに慣れたら他のものは物足りないだろう。
 しかも、一緒に飲んでいるのが見る限りどうやらウイスキーとなれば、これはもう根っからの好き者だといえる。
 軽く興味を唆られたので、ブラックは話しかけてみることにした。

「そいつは何を飲んでんだ?」
「これかい。こいつはスタンレーウイスキーさ。あんたの煙草も甘い系なら、合うかもね」

 ふぅん、と返しながらブラックは彼女のグラスを一瞥する。
 ウイスキーは、作られる場所によって特色が分かれる。主に原材料は麦やとうもろこしだが、その麦の種類やブレンド具合、泥炭の活用などによって様々な種類があり、原産地として最も有名であり数多くの蒸留所を抱えるのは北西のルーブ地方だ。
 聖王歴以降は主に聖王教会の修道院で作られていたものが、いつしかその製造を主な生業とする者たちの台頭によって様々に変化をしていった。現在では主にルーブ地方、ガーター半島、イスカル河周辺が主たる産地となっている。
 どちらかと言えばイスカル地方の製造はルーブに比べて歴史が浅く、とうもろこしを主原料として作る。特に内側を焦がした新樽に寝かせるのがノーラの飲んでいるスタンレー式の特徴で、ルーブに比べ濃い色合いと力強い香ばしさがある。
 確かに甘いニュアンスも感じるウイスキーなのでブラックもスタンレーウイスキーは嫌いではないが、しかし彼は最も愛する酒を既に定めている。

「俺にとっての命の水は、既に席が埋まってるんだよ。マスター、俺にはラムをくれ」

 すっかり空いてしまった杯を自分も突き返しながら、彼もいつもの流れでオーダーをする。

「はん、陸にいても船乗りは飲むものが変わらないんだねぇ」

 ノーラはブラックのオーダーを聞いて何やら上機嫌そうに笑いながら、自分の杯を傾けた。
 サトウキビを原料とするラム酒は、特に長期間の航海を行う船乗りにとっては水より腐りにくく安価で入手でき、更には長期航海に起こりがちな壊血病の予防薬であるという迷信も手伝い、広く親しまれている。

「あれだ、ラム酒って壊血病の特効薬なんでしょ?」
「ふん。お前な、そりゃ迷信だぜ。こいつは確かに命の水だが、アレの薬はコレじゃねえ。ライムだ」

 ノーラの言葉に、ブラックは鼻で笑いながらそう応える。
 因みに壊血病とは長期間の航海をする船乗りに最も恐れられた疾病である。そしてその予防にはラム酒が良いという迷信が今も広く信じられているのだが、ブラックの言う通りラム酒そのものは実のところ全く関係ない。
 質の低いものも多い安価なラム酒を「飲めるシロモノ」にする為に入れる「割りもの」として扱われたライムジュースに含まれるビタミンCがその予防効果の正解なのであるが、とはいえブラックはそんなことまでは知らない。
 彼は記憶が定かではない位の幼少から親の顔すら知らない海賊であり、まだ酒も飲めない頃にライムジュースだけ飲んで壊血病を乗り切った経験をしている。その比較経験則から、彼は正解を知り得ていたのだ。

「ま、船乗りでも壊血病に効くのは本当はライムだってことを知らん奴ばっかりだけどな。静海あたりの海軍連中なんかは、その勘違いのせいでラム酒が昼飯に必ず配られるんだぜ」
「へえ、それは知らなかったよ。あんた見かけによらず物知りなんだね」

 一言多いノーラに対し、ブラックはふんと鼻を鳴らして煙草を燻らせる。

「つーかな、今の海じゃあ海賊ですら長い航海は避けてる始末さ。魔物が怖いってんでな。今の海にはケツの穴の小せえ奴らしかいないぜ」
「そりゃまあ、仕方ないんじゃないの?何しろ、命あっての物種ってやつでしょ。てかそんなこと言ったらさ、あんたがそれを作った原因なんじゃないのさ?」
「あん?」

 ノーラの予想外の指摘に、ブラックは杯を傾けながら半眼で眉を顰める。

「十年前にあんたが消息を絶った時なんてさ、あたしらみたいな無関係の業界のとこにまで噂が回ってきたくらいだったよ。あの大海賊ブラックがフォルネウスにやられた、ってね。そうなればもう、ブラックを超える海賊でもなければ海の魔物に挑もうなんて考えなくなるのは、自然な話なんじゃないのかい?」
「ふん・・・まぁ、それは確かに一理あるかもな」

 つまり、未だこの海に於いて悪名高き海賊ブラックを超える存在は出てきていない、という事なのだ。そういう事ならば、まあ確かに気分が悪いようには思わない。
 だが、それでも矢張り話は別だ。

「だが、気に入らねえのは変わらねぇな。そもそも海賊ってのは、なりたくてなるもんじゃねえ。海賊になる奴には、最初っからそれしか選択肢なんてねぇんだよ。だったら、海の上で死ぬことにビビるなんざ馬鹿げてるぜ」

 ラムを傾けながらブラックが言うと、ノーラも何やら同調するようにクスリと笑いながら杯を傾けた。

「それしか選択肢がないってのは、まぁ分かる気がするけどね。あたしだって父さんが鍛冶屋だったから、自分もそうなるってことしか考えてなかったし。まぁ父さんは別の道を望んでたっぽいけれど、小さい頃から父さんの背中を見て育ったあたしが鍛冶屋以外の職に着くなんて、想像もできなかったし」
「ふぅん・・・しかし、女鍛冶屋ってのは確かに珍しいしな。お前、兄弟はいねぇのか」
「あぁ、いないよ。っつか父さんも口には出しちゃいなかったけどさ、本当は跡継ぎには息子が欲しかったと思うんだよね。メッサーナの鍛冶場は別に女人禁制ってわけじゃないけど、基本的には男社会だしね」

 別にそれをやっかんでるとかじゃないけど、と付け加えながら煙草に火を付け、何語っちゃってんだろうねとノーラは苦笑いをする。
 だがブラックは、特にそれを笑うことはしなかった。

「別に男だ女だなんてのは、生きる上で関係ねーだろうさ。なるべくしてなるのに、そんな小せえことは問題じゃねぇ」
「へぇ・・・なんか意外だねぇ。大抵の男はあたしのことを珍獣でも見るような目でしか見ないし、特に同業者はこっちが女ってだけで舐めてくるけどね」

 女だてらに、というような言葉を何度も受けてきたからか、ノーラはそういうのには慣れてはいる。それほどノーラはこうした偏見には常に直面してきた。なので、こういう否定の仕方をしてくるブラックという男が、単純に物珍しく感じたのだ。

「そんなこといったら、こちとら海賊ってだけで世間からは鼻つまみもんだぜ。だが、俺はそんなものを気にしたことはこれっぽっちもねぇな。海賊はどこまで行っても海賊だ。誰がなんと言おうが、それ以上でもそれ以下でもねぇ。お前も、鍛冶屋はどこまで行ったって鍛冶屋なんじゃねぇのか?」
「ふふ、そうだね。その通りだよ」

 あっけらかんとしたブラックの物言いに、ノーラは思わず笑いながら応えた。

「あんた、案外気持ちいいやつじゃんか。今度うちに寄りなよ。そしたら得物のメンテしてあげるよ」
「はっ、生言ってんじゃねぇ。まぁお前、腕はいいらしいからな。カタリナとかの剣もお前が鍛えたんだろ。気が向いたら顔出してやるよ」
「あぁ、カンパニーは最早うちの大のお得意さんだからね。カタリナなんかピドナに来る度に装備がこれでもかってくらいボロッボロになっているもんだから、全く作り甲斐があるってもんだよ」

 快活に笑いながらノーラが言うと、ブラックもカタリナの海底宮などでの戦い振りを思い返しながら上機嫌に同意する。

「そりゃあそうだろうな。あんな調子で戦ばっかりやってりゃ、装備や体がいくつあっても足りたもんじゃねぇ。ありゃあ人間ってより、鬼神の類だ。それこそ女だなんて思えねぇ、の代表格だろうよ」
「あんた、それ本人の前でいったら絶対ぶっ飛ばされるよ」
「はん、上等だぜ。何しろ若返った俺様は無敵だからな」
「はっ、それこそ自分で言ってりゃ世話ないね」

 二人して調子よく言い合っては豪快に笑い、その後も杯を何度も空けながら煙を燻らせつつ、カタリナを中心としたハンス家に集まる人間を中心とした他愛もない話題で盛り上がる。

「それにカタリナはああ見えて、すごく繊細だよ」
「なんだなんだ、お前ら柄にもなく女特有の恋話にでも花を咲かせたか?」
「ちがうっての。そんなこと直接話さなくても、なんとなくわかんでしょ」
「馬鹿言うな、そんなのが男にわかったらな、男女のいざこざなんて起きねーんだよ」
「はっ、違いないねぇ!」

 そうして何度も笑いながら杯を傾け、結果この飲みの席は普段より帰りが遅いので心配になったケーンがノーラを店に迎えに来るまで続いたのであった。

 

 

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バンガードの休日

 今日の西太洋は、実に平和そのものであった。
 空は青く晴れ渡り、海上を吹き抜ける風も穏やかそのもの。四方見渡す限りが海ばかりという景色には少々飽き飽きしてきた頃合いではあるが、まだ暫くはこのままの予定だ。
 その日、愛用の曲刀の代わりに釣竿を装備したハリードは、整備点検と休憩を兼ねて停止中のバンガードの縁から、釣り糸を海原に垂らしてぼけっとしていた。
 四魔貴族の一柱である魔海侯フォルネウスを激闘の末に打ち破ったカタリナら一行を乗せたバンガードが陸に辿り着くまで、あと一週間程度はかかるらしい。

「釣れているか?」

 特に何を考えるでもなく海を見つめていたハリードに、ふと声がかかる。
 それに気がついてハリードが声のした方を見やると、そこには彼と同じく釣竿を装着した状態のシャールがいた。
 ハリードは彼の言葉に対し、自分の脇に置かれた木製の桶を視線で指し示す。そこには、澄んだ水だけが揺蕩っているのみだった。

「ボウズか。猛将トルネードも、釣りは不得手なのだな」
「砂漠の民に釣りスキルまで求めるなんて、そりゃいくらなんでも無茶振りってもんだ」

 ハリードがそういうと、シャールはそれもそうだなと微かに笑いながら近くに腰を下ろし、彼とは違う方角へ向けて、徐に釣り針を放った。

「まぁ、そういう俺も血筋はナジュも混じっているから、釣りは得意とは言い難いがな」
「・・・だろうな。しかし食料が心許ないって話らしいから、このままボウズってわけにもいくまい。なんとか釣り上げんとな」

 流石に釣果無しでは帰れまいと、二人はしばらくそこから無言で釣りに集中することにした。
 ところで話は変わるが、ハリードはこのシャールという男に対し、どこか自分と近しいものを感じているのだった。
 名前や風体から生まれの地域が近いのだろうということは無論予測できたのだが、単にそういうことではない。どちらかと言えば姿形というよりは、その行動や生き様、とでもいうのだろうか。そういった部分に、どこか共感を覚える部分が多いように感じるのだ。
 だが、ハリード自身はこの十年は半ば世捨て人みたいな生活を送ってきた身分であるので、そんな自分に共感を覚えられるのも迷惑なものだろうなと考えて、結果一人で皮肉めいた笑みを浮かべる。

「なんだ、何か面白いことでもあったか?」

 どうやら、表情をみられていたらしい。シャールにそう問いかけられ、ハリードは肩を竦めた。

「いや、別になんでもない。気にしないでくれ」
「そうか」

 短く言葉を交わすと、また暫く二人の間には沈黙が舞い降りる。
 元がそこまで口数の多くない男であるシャールは、こうして一緒にいても静かで、面倒ではないのがいい。ハリードは昔っから、男女問わず姦しいのは苦手であった。
 だがその割にロアーヌの一件に端を発するこの一年の生活の変貌の中では、とびきり煩いエレンとの二人旅から始まり、随分と賑やかだったな、等と思い返す。そしてそんな賑やかさにも慣れてきている自分を思うと、なんだかんだ騒がしいのにも抗体が出来てきたのかもしれない。
 そんなことを考えながら、一向に反応を示してくれない釣竿を弄んでいると、またしても背後からハリードに近づくものの気配があった。

「お二人とも、釣れてますか?」

 そこに現れたのは、昼食が入っていると思しき籠を持ったミューズだった。
 籠を持つ彼女の両腕には合成術の反動の影響でまだ包帯が巻かれているが、もう傷は殆ど塞がっているらしい。
 シャールの主人である彼女もまたフォルネウス討伐を成した一人であるが、改めてこうして見る限りではとてもそうは思えないほど、清廉でお淑やかなだけの令嬢である。

「お昼、持ってきました。キリのいいところで休憩にしませんか?」
「ありがとうございます、ミューズ様」
「・・・キリもなにも、今も休憩しているようなもんだ」

 それでは、とミューズが持ってきた籠から大きめのサンドイッチを取り出して二人に差し出すと、二人はそれぞれサンドイッチを受け取って一気に頬張る。
 炙られた薄切りのベーコンを挟んだサンドイッチに舌鼓を打ちながら、三人は口数少ないながらに昼食のひとときを楽しんでいた。

「・・・ハリードさんとシャールさんって、案外、仲いいですよね」
「あー、そういえば確かにそうね。年も近いらしいし気が合うんじゃない?」

 たまたまそんな様子を見回りで目撃しながら、フェアリーとカタリナはそんな会話を繰り広げる。

「男同士の友情モノって、胸が熱くなりますよね。どこか別の世界では彼らが親友同士だったとか・・・そんな設定だったりしたら、なおいいですね」
「そんな後だし設定あっても、こっちが困っちゃうだけなのよね・・・」

 何が困るのかはさておき、昼食を続ける彼らを遠目に見ながら、二人はそんなことをいいつつ見回りを続けるために歩き去っていったのだった。

「なぁボストンよ。お前、陸に着いたらどうすんだ?」

 海面に接する部分に設けられた船着場付近でバンガードの向かう先を見つめていたブラックは、丁度海の中から顔を出したロブスター族の戦士、ボストンに向かってそう問いかけてみた。
現在のバンガードは、直前のフォルネウス討伐の際に備蓄の術酒が完全に切れたことにより、玄武術士の力だけで動かすことが困難になっていた。そこで、ロブスター族であるボストンの持つ玄武の加護によって、動力の補助を受けている状態なのだ。
 それにより、術士の魔力回復とボストンの術力回復のために、こうして一日のうち数時間を停船しながら陸に戻っている最中であったのだ。

「まぁ、こうして島の外に出ることになったのも何かの縁だ。陸に行ってからはこのバンガードを拠点に、見聞を広めようと思っている」
「はぁん・・・しかしお前、その風体だと魔物と間違われるんじゃねぇか?」

 ブラックがそう指摘すると、ボストンはブラックの足のすぐ近くに置いてあった木の桶に、ハサミで捕らえた魚を入れながら唸った。
 このバンガードではボストンは既に住人からは歴とした「ロブスター族」として認識されており、少ないながら町民との会話や交流もできている。だがそれはカタリナらと行動を共にしていたからであって、これと同じ状況がバンガード以外でも通用するとは、彼自身も思ってはいなかった。

「そうだな・・・まぁ、ここ以外で人里に寄りつこうとは思わんよ。それに水竜には遅れを取ったが、こう見えて並大抵の海棲の妖魔風情ならば遅れを取らない程度には腕に自信もある。自衛はできるさ」

 海から上がって軽く伸びをしたボストンは、触覚部分を髭のようにハサミで弄びながらそういった。

「なるほどな。ならよ、お前、海賊やらねぇか?」

 そんなボストンを見ながら、ブラックは唐突にそういった。ボストンが首を傾げる仕草をすると、ブラックは腕を組んでボストンに向き直り、不敵に笑って見せた。

「こうして力を取り戻せた恩もあるからここの連中には暫く手を貸そうと思っているが、それが終われば俺は海賊稼業に戻る。そん時には、航海士が欲しくてな」
「海賊というのも航海士というのもどういうモノなのかよくわからないから、なんとも言えないな」

 ボストンがそう言いながらハサミをカチカチと鳴らすと、ブラックは豪快に笑い飛ばしながら腰に手を回した。

「なぁに、面白おかしく海で生きていくのが海賊さ。お前みたいに玄武の加護を持った奴がいれば、海に生きるものにとっては何よりもありがたいしな」
「成る程、海に生きるものを海賊というのか。だが、それならば私は既に海賊ではないのか?」
「はっ、そりゃロブスターとしての生き方だろうが。人間の、それもこのブラック様流の海賊生活は、スリル満点でめちゃくちゃ面白いぜ?」

 ブラックのその自信たっぷりの言いように、ボストンは暫し考える仕草をする。
 ボストンが知っているこのブラックという男は、海底宮でのフォルネウス討伐を終えてこのバンガードに戻ってきた時からの、極々短い間だけの付き合いだ。討伐に向かった際の、彼が知っていたハーマンという男は、ブラック曰く、死んだらしい。その代わりに、このブラックという男が現れたのだ。
 つまりは左足と共に生命力を取り戻したハーマンの本当の姿がこのブラックなのだが、ただやはり、この男に関してボストンは殆ど何も知らないと言っていい。
 ハーマンというのは、失った己の左足や仲間の仇を取ることしか考えていない、復讐心に駆られた男だった。それが、ボストンの知るハーマンの全てだった。
 だがこのブラックという男は、そうではない。もう彼には復讐する相手もいないし、取り戻すべき左足などもない。だから、そういう意味ではハーマンとは全くの別人なのだ。
 このブラックという男がハーマンの願いを成就した存在であるならば、ではこの男は、一体何をしようというのだろうか。

「ブラックは、その海賊というものになって何をするつもりなのだ?」

 知らないのならば、聞くのが手っ取り早い。だからボストンは、そのまま聞いてみた。
 するとブラックは待ってましたとばかりにニヤリと笑うと、いつものように懐から取り出した煙草に火をつけ、美味そうに吸い込んだ煙を長く細く吐き出しながら海へと視線を移す。

「そりゃあお前、やることは一つよ」

 

「・・・やっぱり、海賊王になるんですかね?」
「え、うーん・・・でも麦わら帽子が似合う感じじゃないし・・・」

 見回り途中に今度はブラックとボストンを見かけたフェアリーとカタリナは、彼らの会話の一部始終を小耳に挟みながらそんな会話を繰り広げていた。

「しかし不思議です。どうして人間の海賊というのは、相棒に人間以外を選びたがるんでしょうね」
「あー、それゲッコ族的な話? まぁ別に好んで選んでいるわけじゃないと思うけれど・・・確かにボストンもやたら紳士な感じだし、キャラ的にもバッチリよね」

 残念ながらブラックがその後に何をいったのかは波の音でかき消されてしまったので聞こえなかったが、故に二人は無責任に色々と憶測を交えながら話しつつ、巡回を続けていくのであった。

 

 

「・・・入るぞ」

 ノックの後にガチャリと扉を開けてボルカノが部屋に入ると、その中にいたのは、ベッドの上で上半身だけ起き上がり、包帯でぐるぐる巻きにされた両腕で不便そうに本を捲っているウンディーネだった。
 彼女の両腕の怪我は今回のフォルネウス討伐における被害の中で最も酷く、また魔術士としての活動にも大きく制限がかかるほどに、魔力の一時的な減少も見て取れていた。なので他の面子がある程度回復している今も、彼女だけは両腕をほとんど自由に動かせずにいる日々が続いている。

「ディー姉、また本を読んでいるのか・・・。あまり無理はしないでくれよ」
「・・・仕方ないじゃない。ベッドの上ばかりでは、やることもないんだもの」

 彼女の両腕は肘から先が骨までズタズタになっている状態だったらしく、ミューズらの懸命の治療の結果、なんとか後遺症の心配がなさそうな程度までは治すことができた。だがそれでも、医者の見立てでは回復まであと二ヶ月近くは費やすだろうとのことで、その間は思うように両腕を使えない状態が続くのだそうだ。

「それは、自業自得だ。ぶっつけ本番で解明しきっていない古代の合成術を試すなんて、無謀にも程がある。大体ディー姉は・・・」
「その説教なら、何度も聞いたわ。いい加減にして頂戴よ」

 数日に一回は、ボルカノからこの説教を耳にする。それがとても鬱陶しく感じられて、ウンディーネは心底嫌そうな顔をしながら彼の言葉を遮った。
 無論自分が軽率な行動をしたことは十分解っているのだが、それでも彼にここまで執拗に言われる筋合いはないと思うのだ。というかあれがなければ今ここに生きて帰ることもなかったと思えば、それが最善の選択であったとも言える。だからこそ、ここまで彼に言われるのもおかしな話ではないかとウンディーネは不満に思っていた。

「とういか、なんで毎度毎度貴方が食事を運んでくるのよ。貴方あれでしょ、魔導技師・・・だっけ、あれなんでしょう。ならこんなところに来てないで、ちゃんと艦橋で仕事していなさいよ」

 繰り返すが両腕が使えないウンディーネは、食事をするのも一苦労なのだ。なので毎度の食事は運んできてくれた人に食べさせてもらうことになるわけだが、なぜか毎日の昼食に関しては、必ずボルカノが運んでくるのである。彼自身はこのバンガードを動かす要の役割を果たしているので、その身は忙しいはずだ。なのに一々こうしてここに来ることが非常に不可解なのである。

「今は停船中だ。やることはない」
「だったら・・・休んでいなさいよ。動いている間、忙しいんでしょう?」

 ウンディーネがそういうと、ボルカノはそれにはすぐには答えず、手元の野菜スープをスプーンで掬った。

「ちゃんと休んでいる。俺よりも、実際に魔力供給を行ってくれている術士たちの方が大変さ。この時間は彼らを休ませてやりたい。はい、あーん」
「・・・・・・・」

 なにやら不機嫌そうな顔でボルカノを睨み付けるウンディーネに、ボルカノは困ったように笑みを浮かべる。

「給仕をしてくれる女性もいるんだが、他の皆の昼食を作るのに忙しい。俺では嫌かもしれないが、勘弁してくれディー姉」
「べ・・・別に、嫌だとは言っていないわよ」

 差し出されたスプーンに口をつけると、ボルカノは慣れた手つきでウンディーネにスープを飲ませ、パンを千切っては食べさせていく。

「そうか、てっきり嫌がられているのかと思っていたけれど」
「・・・違うわよ。ただ、なんか悔しいだけ」

 そういってそっぽを向くウンディーネに、ボルカノはうっすらと微笑んだ。

「そう言えば昔、俺が風邪ひいた時にこうしてディー姉に食べさせてもらったことがあったな。あの時と、逆だな」
「・・・そんな昔のこと、もう覚えていないわ」

 嘘だ。しっかりと覚えている。
 まだ自分も十代だった頃だ。生意気盛りだったボルカノが風邪をひいて寝込んだというので揶揄いがてらに見舞いに行ったのだが、思ったより熱があって苦しそうだったので、内心とても心配したのを今もはっきりと覚えている。
 結局心配でその場をすぐに離れることができず、術で氷枕を作ってやって額にも冷たい水を滞留させ、熱が落ち着くまでそばにいたのだ。その途中で、彼の親が作った食事を引き受け、彼に食べさせてやった。

「・・・あの時は可愛いものだったのにね」
「・・・何か言ったか?」

 ふと口に出たことに対し、ボルカノがパンを差し出しながら首を傾げる。

「・・・なんでもないわよ」

 それをパクリと咥えながら、ウンディーネは話をはぐらかす。ボルカノも何度か聞き直してみたが結局教えてくれず、そのまま食事は終了となった。

「じゃあ、俺は戻るよ」
「・・・」

 すっかり平らげられたお皿を重ねると、ボルカノはベッド脇の椅子から立ち上がった。そしてベッド脇に置いてあったウンディーネの読みかけの本を、また彼女の足の上あたりに戻してやる。

「本を読むなとも言わないが・・・あまり無理はしないでくれよ、ディー姉」

 そう言って部屋を去ろうとするボルカノに、ウンディーネは視線を投げかける。

「・・・ありがと」

 そして短くそれだけいうと、聞き取れなかったのかボルカノが振り返って首を傾げる。

「何かいったか?」
「・・・なんでもないわよ!早く貴方も休憩しなさい!」

 相変わらずの調子のウンディーネに苦笑しながら、ボルカノは了解と返して部屋を後にしていったのだった。

 

「・・・あれでは、ツンディーネさんですね」
「あ、上手いじゃないフェアリー」

 彼らの様子を丁度見かけていた見回り中のフェアリーとカタリナは、去っていくボルカノの背中を見送りながらそんなことを話していた。

「というかウンディーネさん、もう液体くらいなら操れるから水とかスープとかは自分で摂れちゃうんですよね」
「へー、術って便利なのね。でも、なら何故大人しく食べさせられているのかしら・・・って、その手の疑問は野暮ってものよね」

 そうですね、と言って微笑むフェアリーにカタリナも笑みを返しながら、二人は見回りを続けるためにその場を後にした。

 間も無く、バンガードは再始動して大陸へと再度進行を開始する予定だ。

 

 

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第十章・6 -聖杯を求めて-

 

 城の地下へと向かうエレンらを見送った後、カタリナは外が見える場所を求め、客間からさらに奥を進んだ。
 道案内には好都合とばかりに天体望遠鏡を担いでちゃっかり後をついてくるヨハンネスとともに、程なくして城上部のバルコニーへ出る。
 そこは宵闇の空とボドールイの街並みが一望できる、非常に見晴らしのいい場所であった。

(さて・・・グゥエインを呼べって言われても、ここからルーブまで移動してたらそれだけで二ヶ月くらいはかかるわけだし・・・)

 手際良く天体望遠鏡を設置していくヨハンネスの横で、カタリナは一応思い悩む。
 しかし思い悩んだところで、カタリナにはグゥエインのような飛行能力も、フェアリーのような念話能力もないので、自力での解決策は全く出てこない。

(・・・となると、大人しく彼女の力を借りるしかないわよね)

 早々に自力手段を断念したカタリナは、腰に携えた太刀・月下美人を静かに抜刀した。
 間も無く新月を迎えようとするポドールイの宵闇と月下美人の刀身が織り成すコントラストは、とても幻想的で美しい。
 一頻りその雅を楽しんだ後、カタリナは月下美人をゆっくりと正眼に構え、その刀身へ意識を集中させていく。
 すると月下美人が放つ独特の霊威がじんわりと周囲へ広がり始め、仄かに刃が明るみを帯びていった。
 これは、ロアーヌでカタリナがフェアリーと別れる時に交わした、連絡の合図。
 妖精族が精霊銀を用いて鍛えたといわれる名刀、月下美人。他の素材では決して作り上げられない唯一無二と言ってもいい切れ味を誇るその太刀は、他の武具にはない独特の霊威を備えている。
 その霊威は、妖精族にとっては聖王遺物級の武具が発する力場と同じほどに、遥か遠くの距離からでも存在を感じ取る事ができるのだそうだ。
 精神統一し刀に意識を集中してから、幾許か。
 カタリナの中にすっかり聴き慣れた、鳥の囀りのように可憐な声が響き渡った。

《カタリナさん!元気になられたんですか!?》
《久しぶり・・・ってほどでもないわね、フェアリー。色々と心配かけてごめんなさい。ちゃんと話さなければならない事がいっぱいあるんだけど、一先ず頼りたい事があって・・・》

 目を閉じたまま、嬉々とした表情が瞼の裏に浮かぶような声の様子に、自然とカタリナも笑みを漏らしながら返答をする。
 フェアリーとは、ロアーヌに帰ってから間も無く別れていた。カタリナは宮廷に戻り、フェアリーは族長たちが避難している腐海近くの臨時集落へと向かったのだ。
 その時のカタリナは己の気持ちに蓋をしていたものだから、別れ際のフェアリーには随分と心配を掛けてしまっていた。

《・・・なるほど。グゥエインさんに、ポドールイのお城にいくようお願いすればいいんですね!・・・っていうかカタリナさんずるいです!ポドールイ私も行ってみたかったです!》
《ほんとごめんなさいね、埋め合わせは必ずするから・・・》

 冒険心旺盛なフェアリーにしっかりとお叱りをいただき、カタリナは脳内で謝り倒す。

《絶対ですよ!・・・っとまぁ、少し待ってくださいね、グゥエインさん、どんな力場だったかな・・・・・・あー、よし、ちゃんと位置わかりそうです。ちょっと話しかけてみます・・・・・・・・・あ、すぐいくそうです!》
《すぐ行くって・・・まぁ、気長に待つことにするわ。急なお願いを聞いてくれてありがとうね、フェアリー》
《お安い御用です!でも埋め合わせはちゃんとお願いします!》

 あれよあれよという間に、グゥエインとの連絡手配は済んでしまった。全くもって、便利なものである。
 なんだかこういう妖精族だからこその念話能力なども、場合によっては魔導器などで実現させることができるのだろうか、などとふと思ってみたりもする。
 しかしそんなことを教授に言おうものなら、嬉々として妖精族を追いかけ回して研究しそうだなぁなどとカタリナは想像し、これは決して教授には言うまいと心に誓った。

「・・・刀を構えながら一人でにやにやしている姿って、はたから見るとなかなか気持ち悪いもんですね」

 気がつけば天体望遠鏡を設置し終わり一息ついていたヨハンネスが、月下美人を構えたままのカタリナに向かってそう言い放った。
 その声で現実に引き戻されたカタリナは、いそいそと月下美人を納刀してヨハンネスに向き直る。

「・・・放っておいてちょうだい。っていうか、ここにきても星の観測なのね」
「はい、それが私の生業ですから。それにここでは、今までにはない観測ができそうですので」
「今までにない観測・・・?」

 その言葉に少しばかり興味が惹かれたカタリナが首を傾げると、ヨハンネスは天を見上げながら語り出した。

「はい。ここは一日中星の観測が出来る場所のようです。つまり、本来今の季節には見られない星も見えるということです。ここならば、より詳細な星のズレに関する情報収集が出来ると思います」
「星のズレ、か・・・」

 言葉を繰り返しながら、カタリナも宵闇の空を見上げる。
 ヨハンネスのいう星のズレとはすなわち、アビスゲートの力が引き起こすものであるのだ、という。
 世界に散らばる四つのゲートが閉じ、本来ならばここで星のズレとやらは無くなったはずだった。しかし、未だそれはあるのだという。
 これこそが、第五のゲートの存在を裏付ける一番の証明でもある。

「・・・第五のゲートは、最もアビスの瘴気が濃く渦巻いている・・・か」

 ぽつりと、カタリナが呟く。
 それは、ピドナを発つ前にトーマスから聞いた内容だった。
 トーマスはアラケスの言葉と行動を一つ一つ振り返り、それがサラのもとに辿り着く何かのヒントにならないかと考え、皆に共有していた。
 まず四魔貴族は、そもそも第五のゲートの存在を知らなかったであろう、とトーマスは結論付けた。
 その根拠は、アラケスの狙いがゲート四つを前提として成立するよう練られていたからだという。
 果たして四者の綿密な連携の末なのか、それとも魔戦士公の独自采配であるのか。
 いずれにせよ、四魔貴族のゲートは一つずつ閉じられ、魔王殿に座する白虎のアビスゲートが最後に残った。
 そこに至るまでに幾つもの人類存亡危機が波状的に世界各地へと押し寄せ、世界に不安と疑心、そして恐怖を撒き散らした。
 そうして蓄積された全ての負の瘴気は残ったアビスゲートに集約され、遂にはアビスへ繋がる門を開く。
 アラケスはそれを目論み、計画通りあの場にサラたちを誘き寄せた。
 だがそんな四魔貴族の目論見を狂わせる事実が、あの場で致命的な誤算を生み出した。
 それ即ち、彼らも知り得ぬ第五のアビスゲートの存在だ。そのゲートが在ることで、アラケスの想定よりも瘴気の集約が足りていなかった。
 それにより白虎のゲートは即座に開ききらず、その隙をついてサラは自分ごとゲートの向こうから門を閉じるという捨て身の行動をとった。
 そうしてあとに残ったのが、アビスの瘴気が噴き出さんとして集まるであろう、第五のゲートだ。

(・・・第五のゲートについて分かっていることは、四魔貴族すら知らなかったこと。ゲートそのものが不安定であること。恐らく聖王様もその存在に気づきつつ、結局そのままにされていたと思われること。そしてもう一つ、不確定情報でトーマスが最も気にしていたのが・・・)

 トーマスが最もアラケスの言葉で気に留めていたものは、『此度貴様らの術式が齎した星と次元のズレでは、ゲート四つが同時に開くことは不可能』という言葉だった。
 これは明らかに、四魔貴族やアビスではなく人間サイドが何らかの術式で星と次元のズレとやらを引き起こした、という意味に取れる。

(星のズレは、ゲートから漏れ出す力が引き起こす現象・・・それは、ヨハンネスも以前言っていたこと。そして、ゲートが開くきっかけとなったのは、三百年に一度の大厄災、死蝕。この一連の流れの中に、人間が何らかの術式を用いて関わっている・・・その解明のヒントになりうるのが、この第五のゲートなのではないか。トーマスは、そう結論付けていた)

 考えてもカタリナには分からないことだらけであるが、それでも今は、その第五のゲートとやらを目指すしかない。
 そのためにエレンたちは聖杯を目指し、そして教授らも尽力してくれているのだ。

(そんな最中、一体私には何の役割があるっていうのかしら・・・)

 手渡された鍵のことを思い浮かべながら、カタリナはまもなく消え入るであろう月の最後の欠片を、力なく見上げていた。

 

 

「ギャギャギャギャッッ」
「っっさい!!!」

 頭上から迫り来る巨大蝙蝠の頭部を、エレンは狙い澄ました斧の一薙ぎで吹き飛ばした。
 頭部を失いながら壁に打ち付けられ蝙蝠が絶命する間に、他に四匹いた蝙蝠も次々と凄惨な最後を遂げていく。
 曲刀で切り刻まれ、エストックで滅多刺しにされ、斧と蒼龍術で錐揉みにされ、太刀で一刀両断にされ。
 あっという間に巨大蝙蝠たちの墓場となった部屋を抜け、エレンたちは歩みを止めずに地下へ続く階段を降りていく。
 すると通路の先の階層は、これまでの道と比べて驚くほど広大な空間であった。この城の本体はここから下層なのである、と思い知るには十分な広さだ。

「・・・ガラッと雰囲気が変わったな。瘴気も一段と濃くなりやがった。こりゃ諸王の都よりも死霊まみれっぽいな」

 中央が吹き抜けの作りで下へ下へと降っていく長い階段のフロアへ出ると、ハリードが分かりやすく眉を顰めながら呟く。
 見下ろせど暗く暗く、どこまで降るとも分からぬ吹き抜け。そこを通って地下深くから吹き上がってくる生温い風には、微かな腐臭が混じっている。

「この辺、魔物いなそうね」

 先頭を行くエレンが慎重に階段を降りながら呟くと、すぐ後ろを歩いているロビンがそれに合わせて頷く。

「確かに魔物はいなそうだが・・・一歩降りる毎に、何とも言えない気持ち悪さが増していくのを感じるな。アイマスクが今までにないくらいにピリつくよ」
「え、そのマスク、感覚あるんですか・・・?」

 ロビンのすぐ後ろを歩く少年が、別の意味でホラーを感じるような発言をする。
 その後ろで呑気に煙草を燻らしながら歩いていたブラックは、ふと吸っていた煙草を指で摘み、無造作に吹き抜けへと放り投げる。
 火種がついたままの煙草がクルクルと風に弄ばれながら吹き抜けを落ちていく様を、一行はなんとなく視線で追う。
 だが、程なくして煙草は火種ごと暗闇に吸い込まれ、見えなくなった。

「こりゃ相当下まで続いているみたいだな。この先にアビスゲートがあるなんて言われても、不思議に感じないくらいだ」

 最後尾のハリードはそう言いながら階段の手すりへと手をかけ、手すりから向こう側の下層に続く手すりへと飛び移り、エレンを追い越していく。

「あ、ちょっと待ってよ」

 それを追いかけるようにエレンが駆け出すと、二人に釣られて一行は吹き抜けのフロアを一気に降っていった。
 未だ底の知れぬ吹き抜けを尻目に道なりのまま進むと、開いた先は腐臭が立ち込める薄暗い階層へと繋がっていた。

「おっと、ここからが本番みたいだな」

 そう言いながらカムシーンを抜き放つハリードの視線の先には、腐りかけの体から瘴気を撒き散らして侵入者を睨む、巨大にして醜悪な死せる魔物。
 その数は、三体。

「油断するなよ」
「こっちの台詞」

 腰に括り付けていた斧を構えながら、エレンがハリードの横に並び立つ。
 しかし、その間を縫うようにしていち早く飛び出す、一つの影があった。

「正面、仕留めます」

 その言葉と共に抜刀しながら飛び出した少年は、流れるような動作で正面の魔物を横薙ぎ一閃に払い抜ける。その軌道は何者にも妨げられることなく、三体いた魔物のうち一体が上下に断たれ、腐肉へと還る。
 その動きに呼応するようにハリードとエレンも一足で飛び出し、疾風の如き滅多斬り、正面から真っ二つにて、両翼にいた魔物を瞬時に滅する。

「・・・あのガキ、はえぇな」
「あぁ、そして動きに全く無駄がない。あれは、強いな・・・」

 三人の勇姿を眺めるに徹していたブラックとロビンは、特段に先攻した少年の動きに思わず賛辞を送る。
 ここまで少年が戦う姿を殆ど見てこなかった反動もあろうと思うが、それにしても今の初動の迅さは目を見張るものがあった。

「・・・あのお姉さん・・・カタリナさんに渡す前、指輪は僕がもっていたから・・・大抵の技術は、僕の中にも流れ込んでいるんだ」

 それは、カタリナに渡した王家の指輪のことを指しているのだろう。
 聖都ランスの聖王家から指輪を受け取り魔王殿でカタリナに渡すまでの所有者は、確かにこの少年であった。
 その間に指輪が持つ記憶の中から戦闘に関するものを受け取った、ということなのだろう。

「なるほどな。あの指輪は八つの光だけでなく、宿命の子にも作用する代物だったというわけか」

 自身をして指輪から流れ込む記憶を保有するハリードが、今度は通路の先に待ち構える腐った赤竜へと視線を移しながら世間話のように喋る。

「じゃあ戦力として不足はないな。この階層、一気に駆け抜けるぞ!」

 そう号令を飛ばしたハリードを先頭にして、五人はそれぞれの得物を手に魔物へと突撃していった。
 道行く先には巨大な死竜、腐肉を餌とする無機質の溶解生物、恐ろしさの中に美しさを併せ持った邪精など、それだけでポドールイ地方そのものが滅んでしまいそうなほどに凶悪な魔物が次々と立ちはだかる。
 しかしそれらをしても彼らの足を止めるには至らず、五人は比較的順調に地下階層を攻略していった。
 どうやら先ほどの吹き抜けを中心に降っていくように通路が続いているようで、何度も吹き抜けの箇所に戻るようにしながら、下へ下へと降っていく。
 意外なことに地下階層の道中にはいくつか生活を目的としたような部屋が配置されており、そこにはまるで部屋に住んでいるかのように寛ぐ邪精らの姿が見られ、その不気味な様子が一層この城の異質さを際立たせていた。

「・・・しかし夜の王が支配する領域ってのは、とんでもないもんだな。斬っても斬っても、ここの死霊がいなくなる気配なぞ微塵も感じられない」
「うん・・・これほんと無限に湧いてくるんじゃないかって思うくらい。しかも、全然こっちに敵意ないのもいるし」

 流石にここまで大量の数を相手にした反動か、肩で息を吐くようにしながらハリードとエレンが愚痴るように呟く。

「この辺の死霊は一先ず居なくなったようだし、少し休憩しよう」

 エストックを鞘に納めながらこちらも一息つきたい様子のロビンが提案すると、一行は思い思いに近場で腰を下ろした。

「ここは・・・書庫みたいだね」

 見渡す限り本棚で埋め尽くされたその空間には、一体いつからあるのか、そして誰に読まれることを待っているのかも知れない本たちが、所狭しと並べられていた。

「なんでもここの城主は、魔王との面識もあるっていうじゃねえか。その頃の本なんかあったら、学者先生相手に結構高く捌けるんじゃねぇか?」

 ブラックが煙草を燻らせながら俗なことを言うと、満更でもなさそうな表情をしながら手近な本を手に取るハリード。

「ちょっと、コソ泥みたいなのやめてよね」

 隣に座るエレンに肘で突かれながらハリードはパラパラと本の頁を捲るが、残念なことにそこに書いてある文字が何を意味しているのか、彼には皆目見当もつかない。

「値打ちがあるかどうかは兎も角、書いてあることは全くわからんな」
「ふん・・・案外、ここの死霊どもの日記かもしれんぞ。それじゃあ二束三文にもならねーな」

 くっくっと嗤いながら煙草を燻らし続けるブラックの向かいで、少年もまた近くの本を手に取り、古めかしい表紙へと視線を落とす。

「・・・何かの記録、みたいだね。世界・・・魔術・・・死・・・」
「ふむ・・・それこそ魔王の時代からここがあるのだとしたら、六百年の間の様々な記録なのかもしれないな。・・・・・・ッッ!!??」

 本を手に取る周囲とは対照的にエストックの手入れをしていたロビンは、座った姿勢のまま思わずびくりと体を震わせた。
 その拍子に、ガシャリ、とエストックの鞘がロビンの膝から下に落ちる。
 それに皆が注目しようとすると、なんと彼らが座っていたあたりをちょうど結ぶ中心に悠然と立っている城主、レオニードの姿があった。

『・・・!!???』

 あまりの驚きに、その場のほか四人もすぐには動けない。
 全く気配を感じなかった。
 いつからそこにいたのか、その場の誰も、まるでわからなかったのだ。

「・・・こいつは一本取られたな。いくら殺気がないにしたって、剣の届く範囲の動きに俺が気づけないなんて、ちょっと自信無くすぜ」

 流石のハリードもお手上げだという様子で肩を竦めると、エレンはエレンでレオニードの立ち姿に隙の一つでも見つけてやろうと凝視している。
 そうこうしているうちに、ふっと、ブラックが咥えていた煙草の火が消える。

「ここは古い本が多いからね、すまないが火は遠慮してもらえるかな」

 レオニードが不敵に微笑みながらブラックへ視線を寄越すと、ブラックは憮然とした様子で腕を組む。

「火は駄目ったってよ、そこらじゅうに灯りを焚いてんじゃねえか」

 突如現れたレオニードよりも消された煙草の火のほうが気になる様子のブラックが文句を垂れると、レオニードは周囲を照らす壁のランプへと視線をやった。

「あれは鬼火の棲家だ。この城にいる火は全て鬼火だよ。だから、彼らに仇なす者以外が燃えることはない」
「・・・さいですか」

 シケモクを専用ケースに仕舞い込みながらブラックが引き下がるのを他所に、レオニードは少年へと音もなく歩み寄り、見下ろした。

「・・・あの、なんですか」

 実に居心地悪そうに少年がレオニードを見上げると、レオニードは無言のまま少年の瞳の奥を見通すように僅かに眼を細める。
 すると間も無く、少年は視線を逸らすように顔を下げてしまった。

「なるほど。私たちが君に僅かに恐怖を感じるのは、やはり君が破壊を司るからか」
「・・・・・・」

 一人呟いた様子のレオニードの言葉に少年が沈黙で答えると、すぐにレオニードも興味をなくしたように少年の前から後退った。

「ねぇ、伯爵様」

 そこに、エレンが声をかける。
 レオニードが声に合わせて視線を投げかけると、エレンは胡座を組んだまま腕を突っ張って前のめりにバランスをとり、じっとレオニードを見つめる。

「こういうときってさ、何か用事があるから来るんだよね。流石に、そこのおっさんの煙草消しに来ただけじゃないでしょ?」

 明け透けなエレンの物言いに流石のハリードも苦笑いをする中、レオニードは寛大な様子で微笑んだ。

「その通りだとも、娘よ」

レオニードはエレンというより、その場の全員に語りかけるように口をひらく。

「ふふ・・・そこの少年ならばもしかしたら、この先にいるモノを葬ってくれるかも知れないと思ってね。まずはそれを確かめに来たのだ。あとは・・・少し君たちと話をしようと思ったまでだよ。来客を饗すのも、城主の務めだからね」
「この先にいるモノ、ねぇ。一々意味深な物言いだこって」

 突っかかるブラックを気にする様子もまるでなく、レオニードは次にエレンとハリードへと向き合う。

「神に選ばれし光、立つ。その数、八なるべし・・・。君たちは聖王らが残した、さながら神の尖兵とも言うべき存在なのだろうが・・・今はもう、その意思とは関係なく動いているようだね」
「・・・生憎と俺は、聖王の信者ではない。俺が信仰するのは、祖国の英雄アル=アワド王のみだ。神だか聖王だかが俺を選んだってのは、なんかの手違いだと思うがね」

 立てた片膝の上に腕を乗せながらハリードが皮肉混じりに言うと、レオニードは片眉を僅かに揺らし、こくりと頷いた。

「アル=アワド。懐かしい名だ。聖王の時代より前、あの者こそが間違いなく人の身で最も精強であった」
「おいおい・・・まさかあんた、アル=アワド王と面識があるとか言うんじゃ・・・」

 思わぬ反応にハリードが食いつこうとしたところ、今度はそれを片腕で制してエレンが身を乗り出す。

「そういえば伯爵様は、宿命の子って何かわかるの!?魔王とか聖王様とかとも会ったことあるんでしょ!?」
「ふむ、そうだな・・・魔王や聖王にせよ、そこなる少年や、其方の妹にせよ。単に宿星が他人と違っただけと言えば、それまでだ」

 レオニードの回答に、エレンは憮然とした表情で返す。

「ふふ。随分と不服そうだな。だが、私とて全てを知っているわけではないのだ。君らよりも、多少長生きしているだけだからね」
「・・・では質問を変えてみよう、ロード・ポドールイよ。此度の宿命の子は、なぜ二人いるのだと思う。是非、貴方の見解を聞いてみたい」

 それまで会話に加わっていなかったロビンが声を上げると、レオニードはそっと自分の顎に手を当てて考える仕草をしてみせた。

「いい質問だ。そうだな・・・まず二人という点が偶然なのか必然なのか、を考える必要があるが、見ての通り私はロマンチストでね。そこは必然だと確信している」

 どのあたりが見ての通りなのかロビンには皆目見当がつかなかったが、一先ずそこは置いておくことにする。
 レオニードは続けた。

「魔王は死を定めとし、聖王は生を定めとした。そして此度宿命の子が負うべき定めは・・・恐らく、二つある。だから宿命の子も二人が必然。私は、そう考えている」
「負うべき定めが、二つ・・・」

 ロビンは言葉を繰り返しながら、そっと隣の少年を見やる。
 しかし少年は俯いたまま、ただただ地面の一点を見つめるばかりだった。

「・・・その少年は、言うなれば破壊の定めを背負っている。死は命ある者にしか齎されぬが、破壊は全てに齎される。であれば差し詰め対の定めとは・・・創造、といったところか。これもまた、命ある者に関わらず全てに齎されるもの」

 レオニードの言葉を、一同は無言で聞く。
 破壊と創造を少年とサラが司っているということは、ピドナで少年から直接聞いていたことだ。しかしそれを全く別の知見から洞察するこのレオニードという存在は、なんとも末恐ろしい存在に感じられた。

「そして此度の宿命の子が背負う定めは、まだ何も世界に影響を及ぼしていない。四魔貴族の幻影と君たちの戦いは、いわば序章のようなものだろう」
「あれで序章とは・・・随分な言いようだ」

 カタリナに次いで四魔貴族との交戦経験を持つハリードが、その戦闘の凄まじさを思い返しながら肩を竦める。
 しかし確かに、その戦いには宿命の子が全面的に関わったわけではなかった。

「つまり伯爵様は、この後に何かが起こるって考えているのね?」

 エレンが真っ直ぐに見つめながら問いかけると、レオニードはいかにもと言わんばかりに頷いてみせた。

「何が、という点までは判らぬ。だが・・・世界を揺るがす何かが起こるだろうという確信は、ある」

 それに・・・と呟きながら、レオニードは実に愉快そうに笑みを作ってみせた。

「なにしろそうでなくては、面白くない」
「・・・けっ、まるっきり高みの見物だな。いいご身分だこって」

 その反応を見たブラックが、心底嫌なものを見るかのように悪態を吐く。因みに実際にレオニードは爵位を持っているので言葉通り良い身分であるのだが、今そこに突っ込む人物は流石にここにはいないようだ。

「いや、それは伯爵位だし身分は高いだろう」

 いた。
 ロビンのエストックよりも鋭い突っ込みに、然しもの大海賊ブラックもたじたじの様子で頭を掻いてみせた。

「うん・・・なんか、ちょっと安心した。少なくともその何かが起こるまでは、あの子は・・・サラは、生きてるはずだから」

 エレンはそう呟くと、すくりと立ち上がった。
 束の間の休憩の終わりを悟り、各々も先へ進むべく立ち上がる。

「ありがとう伯爵様、色々話してくれて」
「礼には及ばぬ。それでは、この先でもう一度会えることを楽しみにしていよう」

 レオニードはそう言うと、頭から灰になり瞬く間に崩れ落ちていった。

「いや去り方怖いな」

 ここはロビンが冷静に反応するが、他の面々は気にするでもなく準備を整える。

「・・・それじゃ、行きましょ」

 

 書庫を後にした一行は、更に下の階層を目指して潜り続けた。
 そのまま何事もなく三階層ほどを一気に降り、その先にある妙に冷気が流れ込んでくる扉を開ける。
 するとそこは、雪積もる丘の斜面に迫り出すようにして作られた、小さい中庭へと繋がっていた。

「へぇー外にでるんだ。面白い作りね」
「一本道に近いが、随分と入り組んで作られている城だな。城主の性格を表しているのかね」
「いや絶対そういうの聞かれてる気がするから言わない方がいいと思うんだが・・・」

 書庫からここまでは魔物との交戦もなかったことで、一行は多少気持ちも軽やかに中庭を抜けていく。
 広くない中庭を突っ切っていくと、あからさまに下へ向かうための階段のみがある、小さな部屋の扉へと辿り着く。
 そしてその先の扉を押し開け再び城内へと入ったところで一瞬、誰もが緊張で凍りついたように固まった。
 全員が、そこに蠢く重苦しい怨嗟の念で察したのだ。
 この階段を降りた先に、この城の『真なる主』がいるということを。

「・・・伯爵様が言っていたの、絶対コイツよね・・・」

 可動域を確保するため素早く階段を降り、斧を右手に構えて僅かに腰を落としながら、エレンは吹き出る冷や汗を空いた腕で拭う。

「・・・だな。こりゃ下手したら魔貴族と同格だぞ・・・」

 同じくカムシーンを抜き放ちながらじりじりとエレンの横に移動しつつ、ハリードが唸った。

「骸骨か・・・相性が悪いな。私は撹乱に回ろう」

 エストックを抜き放ちながらロビンが一歩前に出ると、一同は無言で頷く。
 そうして戦闘体制に入った五人の視線の先には、異様な存在感を放つ巨大な骸骨群が在った。
 群の構成は上下に分かれており、下段には白骨化した大型のガーゴイルが三体、古びた玉座を担ぐようにして陣を組んでいる。そしてその上段に座し対峙する五人を見やるは、これまた巨大な人骨のアンデッドであった。
 そのアンデッドは美しい宵闇の外套を羽織り、頭蓋には威厳ある冠を身につけている。
 生前はさぞ大人物であったろうことを窺わせるその佇まいは、瘴気に塗れたアンデッドであるにも関わらず、どこか気品めいたものすら感じられた。
 ギチリ、と骨同士が擦り合う音がした、その直後。

「・・・くるぞ!!」

 ハリードが叫ぶと同時、全くもって予想外の速度でアンデッドは五人に向かい突進を繰り出してきた。

「ーー早いッッ!!?」

 正面からそれを引き受けにかかったロビンは、すんでのところでマントをはためかせ回避し、更に身を翻し様に先頭のガーゴイル頭部へ強烈な一突きを見舞う。
 しかし、ガキンッと乾いた音が響くだけで、損傷は殆ど与えられなかった。

「っらぁ!!」

 同時にロビンの左右から相手側面へ飛び出したエレンとブラックが、それぞれの片手斧で遠心力をたっぷり乗せた横薙ぎの一撃を放つ。
 狙い通りこちら一撃は左右のガーゴイルの頭部を砕き飛ばすが、しかし頭部を失ってなおガーゴイルの白骨はまるで動きを止める様子がない。

「足を狙え!!」

 隙を窺いながらハリードが叫ぶと同時、前面に躍り出た少年がその勢いを活かした強烈な振り下ろしの一撃を、先頭のガーゴイル下半身へと叩き込む。
 骨片が飛び散り腰から下を砕かれたガーゴイルは姿勢を崩し、そして玉座もまた傾く。これを待っていたとばかりに、ハリードは上段のアンデッドへ向けて駆け出した。
 だがその瞬間、上に座していたアンデッドはガーゴイルごと蹴り飛ばして後方へ飛び上がり、同時に両手を突き出す。

「ッ、避けろ!!!」

 前に飛び出した勢いをなんとか殺して横に転がりながらハリードが言うと同時、他四人も大きく飛び退る。
 直後、彼らが立っていた場所には無数の鋭い骨片が矢のように降り注ぎ、石畳を盛大に抉りとった。
 その間にガーゴイル二体が玉座を持ち直してアンデッドの元に戻り、一方で下半身が砕かれたガーゴイルは灰となってその場に崩れ落ち、瞬く間に二体のガーゴイルの位置に集まり再構築される。

「・・・下はキリがなさそうだな」

 腰を落とし臨戦体制のまま、愛用のバイキングアクスを左右の手で弄ぶように持ち替えながらブラックが呟く。
 今の様子からその通りだろうと判断した五人は、上段に座するアンデッドへの一点集中へ狙いを変えた。

「浮かせます!」

 先ず動いたのは、少年だ。
 太刀を石畳に突き立て、地を這う強烈な衝撃波を飛ばす。その範囲は広大で、横に避ける道筋を与えていない。
 案の定、衝撃波を避けるようにガーゴイルたちが飛び上がったところへ、再び左右から同時にエレンとブラックが連携し、おおきく振りかぶって斧を投擲する。

ガキンッ

 強烈な回転を帯びた斧が上段のアンデッドを襲うが、しかし届くことなく弾き返される。どうやらアンデッドが左右に広げた腕から、骨の刃を網状に飛ばしたようだった。
 更にアンデッドは降下しながら両手で印を結び、なんらかの術法を発動する仕草を見せた。

「させない!」

 瞬時に反応したロビンが飛び出し、目にも止まらぬ速度で猛烈な物量の刺突をアンデッドとガーゴイルに向かって見舞う。
 武具としての相性が悪く損傷は殆ど与えられないが、それでも対処を余儀なくさせることで相手の術法を阻害することには成功したようだった。
 術を阻まれて着地したアンデッドは、邪魔者を排除すべくロビンに狙いを定め、再び強烈な突進を仕掛ける。
 だがそれは先ほどと同じく紙一重でロビンに回避され、僅かながら反撃の一突きでガーゴイルの骨片が削られた。
 しかし今度はアンデッドが引かずその場に留まり、頭蓋の隙間からどす黒い霧を噴出する。

「離れろ!」

 尋常ではないその様子を察したハリードが慌てて叫ぶが、それよりも霧状の何かがアンデッドの周囲一帯へと飛散される方が僅かに早かった。

「くっ・・・」

 慌てて飛び退ったロビンが、口元を押さえて膝をつく。
 それに合わせるように、初撃同様にサイドから狙おうと構えていたエレンとブラックも膝をつき、苦しそうに咳込みはじめた。

「猛毒か・・・いや、それだけじゃない・・・身体中が熱くなっていく・・・神経毒の類だな・・・」

 当然ながら隙を突くために一定の間合いを保っていたハリードも、その未知の攻撃を受けていた。
 だが戦闘経験の差か人生経験の差か、ハリードは首に下げていた筒状の装飾を素早く引きちぎり、中に仕込んでいた万能薬を飲み干していた。

「全員とっとと薬を飲め!緑の小瓶のやつだ!」

 ハリードがエレンを庇うように位置取りを変えながら叫ぶ。
 猛毒に加えて神経作用もある攻撃のようで、見渡せば皆が一様に体の自由を部分的に奪われ、なんとか後ろに下がるのが精一杯という様子である。薬は常備させてあるものの、一時的に動きを制限された代償は大きい。
 当然これを好機と捉えたアンデッドは、先ず最も近いロビンを仕留めるため、彼に向かって大きく飛び上がった。
 それは非常に単純な踏みつけるという行為だが、あの巨体で踏みつけられれば、それこそ人間の骨など跡形もなく粉砕されることだろう。

「・・・ッ!!」

 しかしそれに合わせて空中に飛び上がった少年の渾身の切り返しにより、アンデッドの巨体は狙いのやや手前の石畳を踏み抜く結果となった。

「テレーズ、動けるのか!?」

 薬の作用も、一瞬というわけではない。なので自身も今は回避専念の構えだったハリードが、驚いた様子で少年を見やる。
 少年も確かに先の攻撃は受けたはずだが、その動きからは一切その影響を感じない。何か特殊な状態異常耐性でも持っているのだろうか。
 だがハリードの言葉に応えるより、アンデッドと同じタイミングで着地した少年はすかさず腰を低く落とし、前方へと踏み込んだ。
 そしてガーゴイル三体の大腿部を一気に両断するように、豪快に払い抜ける。
 少年の放った太刀筋を彩るように派手に骨片が舞い散り、再度ガーゴイルらが崩れたことでアンデッドが後方に飛び退く。
 すると少年はアンデッドと後ろ四人の間に立ち、短く息を吐いた。

「・・・・・・」

 無言のまま少年は太刀をゆっくりと脇構えに変え、間も無く足が再生したガーゴイルと、その上部に依然として座するアンデッドへと対峙する。

(・・・僕の宿命は、果たせなかったと思っていた・・・)

 少年は、思う。
 サラと出会い、旅をした。
 それは束の間の時間であったが、間違いなく彼の人生の中で最も素晴らしい時間であった。
 その短い旅の果てに、己が身を賭してゲートを閉じるという宿命を帯びていることは、分かっていた。だからこそ、それに向かうまでの僅かな刻を、少年は何より尊いものだと感じていたのだ。
 だが。
 その旅の終着地点で、少年は宿命に準ずることが出来なかった。
 彼の宿命は、果たされなかった。

(いや・・・違う。僕の宿命は、この先にあるんだ。さっきの吸血鬼も、そう言っていた)

 構えた太刀に、力を込める。
 すると刀身は間も無く天地六術式が混ざり合い、混沌の波動を纏う。そして触れるもの全てを崩壊に誘う魔剣へと、その存在を変貌させていった。

(サラが創った三百年の平和を、僕が壊す・・・多分、そういう宿命なんだ。それはサラが望まないことだろうけど・・・僕は、そうすると決めた。だから、ここで立ち止まっている時間は・・・ない)

 少年の刀身が纏う混沌を認識したアンデッドは、しかしどうしたことか反撃の素振りを見せず、少年を見つめるようにして動かない。

(・・・?・・・あぁ、そうか。君は、壊れたがっていたのか)

「・・・なら、望み通りにしてあげる。僕にできるのは、これくらいだから」

 別れの言葉を告げ、軽やかに、飛び上がる。
 空中で大きく体を捻り回転し、少年はアンデッドへ何の変哲もない袈裟斬りを放った。

『グォォォォオオ・・・ォォ・・・』

 その太刀筋を正面から受けたアンデッドは、小さく呻き声をあげる。
 すると間も無く斬痕から全身に広がるようにゆっくりと身体が灰と化していき、さらさらと崩れ落ちていった。
 最後まで残っていたのは頭蓋、そこにあった空洞の眼底。
 その奥で光っていた怨嗟の赤黒い光は、己を滅した目前の少年ではなく、もっと遠く。宵闇の向こうにある何かを見つめるようにしながら、灰と共に静かに消えていった。

「・・・とんでもない手を持ってたもんだな・・・」

 あまりの展開に毒気も抜かれた様子のハリードが、起き上がるエレンを手助けしながら言った。

「・・・うん。でもあれ隙だらけになるから、当てるの大変なんだ。アラケスは構えすらさせてくれなかった」

 少年は太刀を仕舞いながら、他の面々が起き上がるのを手伝いつつ応える。

「・・・おめぇが宿命の子ってのは、どうもデマじゃなかったらしいな。今やっと納得したぜ」

 起き抜けに、こちらこそが薬だとでも言わんばかりに煙草へ火をつけながら、ブラックが呟く。

「状態異常の対処が甘かった・・・これは今後の教訓だな。とにかく助かったよテレーズ、ありがとう」

 緩んだバンダナを締め直すようにしながら、ロビンも少年に助けられつつ起き上がった。
 そして既に起き上がりながら憮然とした表情をしていたエレンも、気を取り直した様子で大きく息を吐く。

「・・・ふぅー。あたしもまだまだだ。こんなんじゃ、サラに笑われちゃうね。ありがと、テレーズ」

 エレンの礼に対して短く「うん」とだけ返事した少年は、滅んだアンデッドの背後に続く通路へと視線を向けた。
 もう間も無く訪れるであろう新月と共に、彼らが索る聖杯は、もう目と鼻の先に現れるはずだ。

 

 

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第十章・5 -吸血鬼の城-

 

 それは遠い昔のある刻、何の前触れもなく、唐突に訪れた。
 思い思いにその日を過ごしていた住民たちが、突如として闇に蠢く虚空を、成す術なく見上げる中。街、そして国全体が、ゆっくりと、まるでそっと腕に抱かれるかのように、宵闇に包まれていった。
 それがいつ起こったことなのか、覚えているものは誰一人として、もう生きてはいない。
 少なくとも、人としては。
 街に残る古文書の記録に残っている限りでは、数百年程度は昔の話だ。人が何世代か生まれて死ぬには十分なほどの時間を、この街はずっと、宵闇に包まれてきた。
 時を刻むことを忘れた街。そう呼ばれるこの地に訪れたものは、誰しもが時間感覚を多少なり狂わされてしまう。
 柔らかい上質な絹に包まれているかのように、心地良い宵闇。そんな宵闇に抱かれ、ひとたび眠れば二度と目を覚まさぬような錯覚に襲われる者もいるという。
 その宵闇に抱かれる街の名は、古都ポドールイ。
 世界地図では最北東に位置し、現存する都市の中では最も長い歴史を持つ、雪深い古の都。
 そして、おそらく世界中で唯一、人類以外の存在が公的に治める人類生活都市でもある。

 

 ふわりふわりと雪が舞い降る丘の上に、いかにも古めかしい作りの古城があった。
 古都ポドールイの北門から進んだ丘の上にあるその城には、この地一帯を治める領主、レオニード伯爵が住んでいる。
 この地に住む民でさえ一生に一度その姿を見られるかどうか、というほどには出不精な領主だ。
 しかして、そんな領主に対する領民からの信頼は、他に類を見ない程に厚い。この地に限っていえば、恐らくは聖王以上の信仰を集めていると言っても過言ではないだろう。
 その際たる所以は、この地が長く平穏であり続けた、という点に拠る。なにしろこの地の平穏は、かの魔王と四魔貴族に支配された暗黒時代でさえ、殆ど変わらず保ち続けられたのだ。
 その事実に何よりの感謝を子々孫々へ口伝してきた住民らは、たとえ一生に一度すら会えずとも、領主たるレオニード伯爵への畏敬を忘れることはない。
 ただそれも、外部から来た者には関係のない話だ。

「たのもー」

 間も無く新月を迎えようとしている宵闇の下、一見すると廃墟かと見紛うほど静かな古城の正面門前に、カタリナは立っていた。
 しかして訪問の約束を取り付けているわけでもないので、開門を願う声への応答もなく、門は固く閉ざされたまま。そもそも、門番も誰もいない始末である。
 まぁ、この城はいつきてもそうだったが。
 思えば訪問の作法など貴族然とした習慣から自分は随分と遠退いたものだな、などと変な気付きを得て一人うっすらと笑みを浮かべながら、カタリナは改めて周囲を観察する。
 直ぐ目についたのは、降雪具合に反して他より積もりの少ない門前の空間。
 即ち門前の積雪は最近払われたと思われる形跡であり、直近で人か、若しくは人ならざる何かの出入りがここからあった様子なのが見受けられた。
 顔見知り、と言うほどでもないが、カタリナはこの城に住まう住人を幾人か見知っている。
 彼らが(人ならざるもの達をまるで人間のように”幾人”、”彼ら”と呼ぶべきか否か、カタリナはもう気にしないことにしていた)出入りしているだけ、とも考えられる。
 だがカタリナには漠然と、いや、ほぼ確信として、この痕跡は外部からの来訪者によるものであろうと考えていた。

「ねぇちょっと、早く開けてよ。いつまでもこんなところにいたら、お肌に悪いわ」
「ええ、早く入りましょう。一刻も早く落ち着いて、この空をつぶさに観察せねばなりません」

 思案を重ねるカタリナの後ろで、とかく好き勝手に喚く同行者二名。
 キドラントで色々とあった教授はともかく、ヨハンネスも中々に癖があるなということを、ロアーヌからここまでの旅路でカタリナは察していた。これは妹であるアンナの苦労が窺い知れる、というものだ。
 何かに特化した人というのは、その分何かを持っていないものだったりするのだなぁ。無論、ミカエル様以外。ミカエル様は完璧なのだ。
 などと自分の事も棚に上げてカタリナは思うのであった。
 とはいえ確かに、ポドールイ地方の外気は厳しい。この地域は滅多に吹雪く事はないそうだが、それでもしんと冷えた空気が常に体を包み込む事に、なんら変わりはない。
 冷えた体は動きが極端に鈍くなる。それは時として命取りにもなり得る。
 つまりは、あまり長く外にいたくないというのはカタリナとしても同意ではあった。
 しかし、目の前には呼びかけに応えず閉じたままの城門。
 なんとか打開策を模索せんと腕を組み、数秒。
 考えに考えたカタリナは、やがて意を決したように浅く頷いた。

「仕方ないわ、ぶち破ろう」

 潔くそう言い放ち、一歩下がる。
 深く腰を落とし、腰に携えた太刀、月下美人の鞘元に左手を添える。
 澱みない太刀筋にて、一閃で切り崩す。その明確なイメージを鮮やかに脳内で描き、あとはそれを現実とすべく柄に手をかける。

ギギギギギ……

 すると、いかにも稼働限界を迎えた様子の蝶番が悲鳴にも似た断末魔をかき鳴らし、固く閉ざされていた門がゆっくりと開きはじめたのであった。

(・・・予想通り、来たことは分かっていたみたいね。ちょっと乱暴な御願いの仕方だったけれど、まぁ伯爵様も人を驚かせるのお好きな方だし、おあいこよね)

 薄々こうなることを予測していたカタリナは、すぐに抜刀態勢を解く。
 だが、開き切った門の先には人影らしきものは一切なく、薄暗く不気味なエントランスの様子が認められるだけだ。
 かと言って、じゃあ誰がこの城門を開けたのか等という類の疑問は、この城においては野暮というものであろう。

「まるでホラーハウスね」

 教授が興味薄げにそういうと、カタリナは浅く肩を竦めた。

「まぁ吸血鬼の城だし。多少は、ね」

 軽口を叩いたあとに視線を軽く交差させ、三人は城内へと足を踏み入れていった。

 

 苔むした堀、古い城門、その先に広がるエントランスと、年季の入ったクローク室。
 それらは全て、彼女の記憶にある光景そのままだ。

(ここに来たのは数年ぶりだけれど、それがつい先日のようにも感じられる・・・。ここは、本当に何も変わらないのね)

 謁見の間へと続く、よく手入れがされた真紅の絨毯に視線を落としながら、カタリナは思う。
 ロアーヌ侯国とポドールイ伯爵領とはロアーヌ建国から間もない頃より友好条約を結んでおり、自由通行や交易などのやり取りがある。
 カタリナはそうした国交の一環であったり、もう少しだけ個人的な事情などで、過去何度かこの地に訪れた経験があった。

(・・・周囲には何者の気配も感じない。これでは本当にホラーハウスね)

 以前彼女が来た時には人為らざるモノたちがこの城に従事していたはずだが、そのモノたちが見当たらない事だけが、以前と違う事だった。

「・・・・・・」

 三者三様に周囲を物珍しげに眺めながら、特段の会話もないまま奥へと進む。
 レオニードの住まう城は、ロアーヌやピドナ王宮などのように大きな作りではない。エントランスを抜け、階段を上がり、通路の両脇に控える不気味な甲冑の間を通って少し歩けば、そのまま城主と謁見することができる空間へとつながっている、といった作りだ。
 その一本道をレッドカーペットに沿って進んだ先。
 そこには、まるで彼女たちの到着を今か今かと待ちわびていたかのような様子で、領主レオニード伯爵が城主の座に腰掛けて片肘をつき、真紅の瞳で来訪者を見据えていた。
 それを視界に認めつつ前進したカタリナは、適度な距離を保って立ち止まると姿勢を正し、ゆっくりと跪き、首を垂れた。
 すると意外や意外、非常識が服を着て歩いているかと思われた後ろの二人も、背後で膝を落としているようだ。

「ようこそ、我が城へ。久しいな、ロアーヌの騎士カタリナよ」

 レオニードが歓迎の意を表すように短くそう発すると、カタリナは面をあげ、うっすらと微笑んだ。

「お久しゅうございます。卿におかれましては、お変わりないようで」

 普段ならば社交辞令的な言い回しなのかもしれないが、目の前の存在に関しては本当に何も変わらないものだから、まさか言葉の意味そのままでこうした表現を使う時が来ようとは、などと一人可笑しく思う。

「ふふ・・・今日は、随分と珍しい者たちを従えているな。この世界に本来あらざる欲望を宿す二人か、これは面白い」

 随分と大仰な言い回しで教授とヨハンネスを眺めながら、レオニードは言葉通り可笑しそうに微笑む。

「お初にお目にかかりますわ、ロード・ポドールイ。貴方様を目の敵にする隣国から来た非礼、どうか寛大な御心でお許しいただけますと幸いです」
「同じく、お初にお目にかかります。お会いできて光栄です」

 二人がそれぞれ挨拶をすると、レオニードは変わらず笑みを湛えながら、視線をカタリナに移した。

「さて、カタリナよ。それでは此度の来訪の理由を、聞こうではないか」

 宵闇を宿した二つの瞳で真っ直ぐに見つめられたカタリナは、その瞳に吸い込まれそうになる感覚をどこか懐かしく感じながら、強く意識を保つ。
 そして再度首を垂れ、言葉を紡いだ。

「・・・聖杯を、借り受けに参りました」

 短い言葉。
 そして、暫しの沈黙。
 レオニードは微かな笑みを湛えたまま、カタリナをじっと見つめている。
 カタリナはその視線を真っ向から受けながら、少し下に向けた視線を動かさない。
 それはほんの数秒のことであったのだと思うが、視線を受けるカタリナからすると、一夜とも二夜とも思えるような時間にすら思えた。

「時折、そのような用向きで来訪する者たちがいる。二度と会うこともないので、普段は目的も問わずに好きにさせているのだが・・・既に人の身に余る強大な力を操り、かの四魔貴族をも退けた其方が、今になって聖杯を求むる理由・・・些か興味が湧くな」

 そう言って立ち上がったレオニードは、音も立てずに数歩、カタリナへと歩み寄った。

「問おう、騎士カタリナよ。其方は何のために、聖杯を求むのだ」

 レオニードの言葉に合わせて顔を上げたカタリナは、少し物悲しげな微笑みを湛えながら口を開く。

「お答えする前に、一つ訂正をさせてください。わたくしはもう、ロアーヌの騎士ではございません。国を離れ、今は放浪の身でございます」

 カタリナの言葉に、レオニードは薄っすらと目を細める。
 まるでカタリナの表情から何かを探ろうとするかのようにじっと見つめ、やがて一人勝手に納得したように、ふむ、と浅く頷いた。

「・・・ふふ、そうであったか。では再度問おう。剣士カタリナよ、其方がそうまでして聖杯を求むる理由とは、如何なるものか?」

 核心を突くべく放たれたその質問に、カタリナは視線を逸らす事なく真っ直ぐに応える。

「ゲートの先にある深淵・・・アビスへ、向かうためです」

 その瞬間。
 しんと静まり返っていた城の、ずっとずっと下の方。
 暗く蠢く地下から、異様な唸りが響き渡った気がした。
 それはまるで、アビスという言葉にこの城が反応したかのようだ。
 果たしてそれは憎悪からくる唸りのようであり、しかし歓喜に打ち震えるもののようにも感じられる。
 その唸りを受けてのことなのかは不明だが、先ほどよりもさらに目を細め、そして口元には隠し切れぬ嗜虐的な笑みを浮かべたレオニードは、徐に己の懐へと手を忍び込ませた。
 そしてすぐに小さな布包みを取り出すと、隠せぬ笑みを湛えたまま、カタリナに語りかける。無造作にカタリナへと差し出す。

「・・・聖杯を持っていくことを許可しよう。しかし、聖杯を取りに行く役目は其方ではない。先に同じ目的でここを訪れている者達がいるので、其奴らに任せるが良い。それより其方には、もっと相応しい役割がある」

 その言葉を受けながら、カタリナは差し出された包みを両手に賜る。
 無言で促されるままにその包みを解くと、そこには、黒く古めかしい鍵があった。

(・・・鍵・・・もしかしてトーマスが言っていた・・・?)

 カタリナが唐突に差し出された鍵を手にしながら考えを巡らせていると、その様子をすら面白がるようにレオニードは笑みを絶やさない。

「ふふ・・・其方は、かの龍峰ルーブに棲まうドーラの子と盟約を結んでいるはずだな。その竜をここに呼びたまえ。鍵を使うべき場所に行くには、翼をもつ者の力が必要だ」

 そう言いながらこれまた音もなく座へと戻ったレオニードは、ふわりと腰掛け肘をつき、引き続き上機嫌な様子で妖艶に微笑んだ。

「そうと決まれば、早速客間にいる者たちに伝えてくれ。ポドールイが新月を迎える時、聖杯は地下の私の部屋にある。そちらまで来てもらおう。ぜひ生きたままたどりついて欲しいな」

 城の地下と聞き、カタリナは思わず眉を顰める。
 この城の地下には過去に潜った事があるが、その時の苦々しい記憶が蘇ってきたのだ。
 とはいえ、今はそんな苦い思い出を噛み締めている場合でもない。
 なにより、分からないことだらけだ。
 突然に渡された鍵が何なのか。グゥエインの助けを借りなければならない場所とは、何処なのか。聖杯を取る以外の相応しい役割とは、一体何のことなのか。
 とにかくこれらの新たな疑問について、聞けるものならば是非とも詳しく聞きたい。だが、それについて目の前の存在は応える気が毛頭なさそうなことも、その様子から明らかだ。
 自分にもっと学があればここまでの会話から何か分かったのかもしれないが、などと少しは思いつつ。しかしながら、いい加減こういった謎だらけの展開にもカタリナは手慣れたものだ。
 こういう時は、とにかく先に進むのみ、である。

「承知いたしました。お伝えします」

 レオニードの言葉にカタリナが短く応えると、レオニードは満足げな微笑みを湛え、次の瞬間には足元から灰と化し、崩れるようにして、その場から消えていってしまった。

ハハハハハハ……

 そうして広間に残されたレオニードの実に愉快そうな嗤い声を跪いたまま聞き届けたカタリナは、その声が聞こえなくなってから、ゆっくりと立ち上がる。
 それに合わせ、後ろで控えていた教授とヨハンネスも立ち上がった。

「・・・それでは、まずは客間に向かいましょう」

 

ギィィィィィ…

 か弱い魔物の断末魔にも似た蝶番の悲鳴を聞きながら、客間の扉をゆっくりと開ける。
 はたしてそこには、ある程度予想済みとも言える先客たちが、思い思いの様子で寛いでいた。

「え・・・カタリナさん・・・!?」
「やっぱり、来ていると思っていたわ。エレン」

 まず第一に声を掛けてきたのは、どうにも落ち着かない様子でベッドに腰掛けていたエレンであった。

「どうして、カタリナさんがここに・・・?」
「それは・・・後で説明するわ」

 そう言いながら、カタリナは部屋の中の面々を順に確認していく。
 まず視界に入ってきたのは、ハリードだ。
 一見ラフな様子で壁に寄りかかって立っているが、最もその位置は部屋の扉から近い場所で、それは彼の得物である曲刀の一閃が届く距離でもある。常に警戒を怠らない、実に傭兵らしい立ち位置だ。
 そして部屋の奥には、エレンと同じくベッドに腰掛けている少年と、覆面の男。
 魔王殿で出会い、そして魔王殿で再会した謎の少年。その正体は、三百年に一度生まれる『宿命の子』だという。
 未だその事実に現実感はないが、これまでに彼女自身が体験したさまざまな出来事が、それを事実と裏付けている。
 その近くに立つ覆面の男については、カタリナは見知ってはいない。ただ、ミューズらからそれらしい話を聞いてはいたので、恐らくヤーマス出身の者だろう、という事は見当がついた。
 あとはこの場にいないが、微かにこの部屋には、特定個人を彷彿とさせる独特の嫌な残り香がある。それは彼女の苦手な煙草の匂い。つまりは海賊ブラックも、この一行に加わっているようだ。

「・・・どうやらこれでやっと役者が揃った、って事らしいな」

 そう言い放ったのは、ハリードだった。

「役者・・・?」
「あぁ。俺たちがここに来たのは数日前だが、城主に『新月まで待て』とだけ言われて、そのまま今に至っているのさ。空の様子からして、新月は明日だ。このタイミングでお前が来たってことは、そういうことだろう」

 ハリードの言葉を肯定するように、その場の面々が無言で頷く。
 一体なぜレオニードがそのようなことを言っているのかも全くの不明なことであるが、もうそんな細かいことについて気にしているのもきっと、時間の無駄なのだろう。
 素早く思考を切り替えたカタリナは、一先ず城主の言葉を彼らに伝えることにした。

「先ほど、伯爵様に謁見してきたわ。私も、聖杯を借り受けに来たの。でもその役目は私ではなく貴女たちだ、と言われたわ。聖杯はポドールイが新月を迎える時に、地下の伯爵様の私室にあるから、そこまで取りに来てほしいって」
「ほう・・・で、お前は何をするんだ?」

 ハリードの問いかけに、カタリナは小さく肩を竦めながら、ポシェットに入れていた黒鍵を取り出した。

「その場で、これを渡されたわ。これが使える場所に行け、と。場所も、ここではないみたい」
「鍵・・・? え、それが鍵なの!?じゃあ聖杯は鍵ではないってこと!?」

 カタリナが取り出した黒鍵を見て、エレンが立ち上がりながら反応する。
 鍵は、ポドールイにある。ピドナでトーマスが詩人から聞いたというその言葉だけを頼りに、エレンもカタリナもここに来た。
 鍵が何であるのかというのは分からないが、ポドールイにあって他には無いものといえば、まず思いつくのが聖王遺物・聖杯なのである。それほどまでに、レオニード伯爵が聖杯を保持している事は有名な話だ。
 だがカタリナが受け取ったものこそが件の『鍵』なのだとしたら、そもそも聖杯なんていらない。その鍵が使える先へ行こう。早く、早く。
 エレンの声からは、そんな溢れんばかりの感情が読み取れるほどの、わかりやすい悲痛な響きがあった。
 だが、そこに別のところから、声がかかる。

「いいえ、聖杯は間違いなく、私たちが必要としている鍵よ」

 そう言いながら部屋へと入ってきたのは、カタリナの後に続いていた教授であった。
 それに続き、ヨハンネスもいそいそと部屋に滑り込んでくる。

「え、ヨハンネスさん、と・・・誰・・・?」

 唐突に登場した二人に、エレンは更なる疑問符を頭上に浮かべながら目を白黒とさせる。
 エレンやハリードは、ヨハンネスのことは見知っていたのだろう。だが、この中で教授を知っている者は確かにいない。
 ということで、カタリナは軽く捕捉を行うことにした。

「あー、こちらの方ね、普段はツヴァイクの西の森に住んでいる方で、教授って呼ばれているの」
「そう、西の森の大天才とは、私のことよ」
「あ、ついでに私は、ランスを拠点としている天文学者のヨハンネスといいます。はじめまして。エレンさんハリードさんは、ご無沙汰してます」

 その自己紹介に、各々が反応を返す。

「教授・・・あぁ、あの術戦車を作ったという魔導科学者か。驚いた、案外若いんだな」
「あーあの鉄馬車の人かぁ、なんかイメージと違う感じ」 

 エレンとハリードが二人して腕を組みながらそういうと、なぜかそれを褒め言葉と受け取った様子の教授がふふんと腰に手を添える。

「二人とも、なかなかキャラが濃そうだな」
「ロビンさんは、それ言える立場じゃないと思います・・・」

 一方冷静な様子のロビンと少年は、少し遠巻きに話の進行を見守っているようだ。

「で、教授さんよ。あんた今・・・聖杯は鍵だ、と言い切ったな。そこについては当然、説明してくれるんだろ?」

 場が混乱しそうなところをハリードが軌道修正し、的確に質問を飛ばす。
 その場の皆の視線が教授に注がれると、視線を浴びた教授はまんざらでもなさそうな様子でゆっくりと部屋の中へ進み、部屋の中心辺りに陣取った。
 そこに自然な様子でするっと帯同したヨハンネスは、持っていた教授の荷物から手際良く何らかの魔導器らしき物体と珈琲カップを取り出していく。
 そうして茶器が展開されていくのを尻目に、教授は豊かな胸部の下で腕を組みながら、その場の皆へと視線を巡らせた。

「いいでしょう。特別にこの私が、凡人にもわかるように説明してあげるわ」

 

 聖杯。
 それは、聖王の血が注がれたという逸話が残る、聖王遺物の中でも特段に有名な品の一つだ。
 所有者が血を好む吸血鬼レオニードである、という話題性も手伝い、広く世俗にも知られている聖王遺物であるが、一方でその効力面については、殆ど知られていない。
 この聖杯には、僅かな『力』を無尽蔵に生み出すという、他の聖王遺物とは全く異なる奇跡の顕現があるとされている。
 カタリナが使用していた聖剣マスカレイドや、星々の力を宿すとされる宝刀・七星剣。アラケスの魔槍を鍛え直して作られたとされる聖王の槍など、いずれも強力な武具だとされる聖王遺物。これら遺物は、基本的に使用者の術力や気力などを動力として大きな力を発現させる仕組みの魔導器である。
 対してこの聖杯は、使用者を必要とせず独立して力を生み出し続けるという点で、聖王遺物としても魔導器としても、全く異質な代物なのである。

「魔導科学を研究開発する上で、まず最初に考えるべき問題。それが、魔導器の動力をどう確保するか・・・だったわよね」

 ちゃっかり自分も珈琲を啜りながら、教授の近くの椅子に腰掛けたカタリナが呟く。
 それはもちろん、教授からの受け売りだった。
 既存の道具や術式では全く太刀打ちできない類稀なる効果を発現する、魔導器という存在。
 しかし、その魔導器も所詮は『使用者』と『燃料』が無くては動かない。
 如何に強力な兵器であろうと、動かなければ、それはガラクタと一緒だ。

「そう。聖王遺物は確かにとても高度に内部設計された精密な構造の魔導器で、それが発現する力は、まさに比類なき力。それこそ、新しき神にもなれるかもしれない力でしょう」

 カタリナの言葉を引き継ぐように、教授が使い古された古典を引用しながら口を開く。
 それは、ポドールイへと旅立つ前にロアーヌ宮廷の庭園で聞いた内容の繰り返しだ。

「しかしながら使用者と燃料の提供を必要とする時点で、仕組みとしては原始的です。教授はこの仕組みをもとに、魔導器を世代に分けて呼称しているそうです」

 ヨハンネスが的確に捕捉を入れると、教授は浅く頷いた。

「その通り。聖王遺物といっても、仕組み自体はとてもシンプル。仕組みで分類するなら魔導器の原点・・・即ち、第一世代魔導器ね。ただ、他の第一世代魔導器と比較しても内部構造が圧倒的に複雑化しており、それによる効果の飛躍的な向上が実現されているという点で、聖王遺物に関しては第二世代魔導器とした方がいいでしょうね」

 教授が言うには、世界中にある様々な高等術具、即ち魔導器の大半は『第一世代』なのだそうだ。
 第一世代の定義とは即ち『使用者』と『使用者による動力提供』の二つが揃って初めて発動する、一般的な魔導器に期待される効果を発動する代物、である。
 そして第二世代とは、第一世代と同じ要件で発動するものの、その効果が第一世代から飛躍的に向上しているものを指し、マスカレイド等の聖王遺物がそれにあたる、と言うのが先ほどの教授の弁である。
 そして教授が直近で研究してきた魔導器構造を、彼女自身は『第三世代』と定義しているそうだ。

「第三世代の画期的なところは、使用者若しくは動力のいずれか、或いは両方を従来と異なるアプローチで調達し発動する、という点。例えば、私が作り上げたスーパーウルトr」
「ドラゴンマシーン」
「・・・などが、それに当たるわ」

 カタリナの容赦ない切り込みに、教授が少々眉間に皺を寄せながらも話を続ける。
 教授が研究の末に作り上げ、キドラントで起きたいけにえ事件の詫びとして今はカタリナが借り受けている、術戦車。
 戦車といっても車体を引く馬は無く、使用者は必要なものの動力は朱鳥術力による半永久駆動機構を搭載したという、世界に二つとない鉄製の戦車だ。朱鳥術力の外部補給は必要だが、必ずしも使用者そのもの術力を必要とするわけではないという点が非常に画期的なのである。
 あれこそが、現代魔導科学における最先端の代物なのだそうだ。ちなみに教授がいうところの術戦車の正式名称は、スーパーウルトラデラックスファイナルロマンシングドラゴンマシーン、である。
 確かに、その圧倒的な異質さはこの世界にあるまじきものであると、カタリナにもよく分かる。
 あれを初めて見たハリードは、量産化されたとしたら戦の常識が覆る、と断言していたものだ。
 また、術戦車ほど突飛な代物ではないにせよ、ツヴァイクの西にある教授の館付近に設置された、教授お手製の自動照明。あれも地術の力を活用し、使用者もなく自動で点灯する独立駆動型照明機器だ。
 こうした代物を、教授は第三世代魔導器と呼称しているのである。

「そしてその進化系こそが・・・第四世代魔導器。第三世代と比べて飛躍的に向上した性能を持ち、さらに自律発動する魔導器よ」

 そこまで言ってから優雅に珈琲を啜る教授の言葉を続けるように、カタリナが皆に向かって補足する。

「でまぁ、その第四世代魔導器とやらの最たる例が・・・あのアビスゲートなのだそうよ」
「アビスゲートが・・・魔導器・・・?」

 カタリナの言葉に、話についてくるのがやっと、と言った様子のエレンが分身剣の如き疑問符を頭上に浮かべる。
 密林の火術要塞と、タフターン山頂。そこにある二つのアビスゲートを調べた教授とヨハンネスは、その正体が巨大な魔導器であると結論付けた。
 主たる四魔貴族が不在でも独立駆動し、ゲートそのものを含む収容施設全体を自動修復し、三百年周期でアビスと世界を繋がんとする巨大装置。
 残念ながらその動力源の特定には未だ至っていないものの、その機構について教授は大凡の予測はついたと語る。

「アビスゲートの調査によって、私の魔導科学理論は飛躍的に進化したわ。今の私になら、この手で第四世代魔導器を作り上げることも不可能ではないでしょう」
「その為に、わざわざバンガードまで行ったそうだものね。なんでも、そこでずいぶん派手に立ち回ったって聞いたけど」

 カタリナがそう言いながら珈琲を啜ると、教授も合わせて肩を竦めながら珈琲を口につけた。

「バンガード内部を見たことで、魔導器同士の連結発動という仕組みも理解したわ。ま・・・あれを三百年前の人類が作り上げたってとこだけが、にわかには信じられないけれど」

 教授が言うには、海上都市バンガード本体も、その中枢に位置するイルカ像も、いずれも魔導器なのだそうだ。つまりバンガードとは、複数の魔導器によって稼働する複合魔導器ということになる。
 聖王教会が伝播する聖王記によれば、聖王は神より十三の武具を与えられた、とある。それが現在の聖王遺物とされているのだが、実のところ聖王記には十三の武具全てが記されているわけではない。
 この未記載の聖王遺物については考古学や神学など各分野識者の間でしばしば格好の議論の的となる部分であり、それはそれは様々な仮説が立っては消え、現在に至るまで述べられている。
 そこにおいて今回教授は、その効力の異常さ(即ち第二世代相当の効力)という類似性から、バンガードとイルカ像も聖王遺物の括りなのではないか、という識者顔負けの考察を立てたのであった。
 それはこれまで神秘学者を中心に行われてきた議論に一石を投じる実に新しい視点だなと、カタリナは感じたものであった。
 そもそも言われてみれば、神より与えられし十三の武具以外にも聖王縁のものがあってもいいわけで、とすれば聖王遺物イコール十三の武具と限定する理由すらない。であれば、あまり聖王記の記述ばかりに囚われる必要はないのかもな、などと、聖王教会の神父が聞いたら泡を吹いて卒倒しそうなことをカタリナは考えていた。

「あの機構はそのまま、第四世代魔導器の開発に応用できる。となるとあと肝心なのが、結局は動力の確保よ。そして、この課題解決の鍵になり得るものこそが・・・」
「件の聖杯・・・というわけか」

 ハリードの合いの手にも教授は満足そうに頷きながら、再び珈琲を啜る。

「・・・なぁるほどな、バンガードでいうところの玄武術士の役割を聖杯に担わせれば、動力問題は解決ってワケか」

 突然かかった声に皆が部屋の入り口へと振り向くと、そこにはいつの間にやら、ドア部分に寄りかかったブラックがいた。
 教授が挑発するような視線をブラックに向けながら微笑むと、対するブラックはこちらも笑みを浮かべながら部屋へと入ってくる。

「つまりおめぇ、それでアビスに攻め込む『船』を作ろうっつーわけだな。聖王が海底宮に攻め込むために、あのバンガードを作ったように」
「あら、粗野な見た目の割に理解が早いのね」

 教授が実に楽しそうに口角を上げながら微笑んで挑発するが、ブラックはそれを一笑に付した。

「ふん、御託はいい。それよか流石に、これ以上は体がなまっちまう。明日が新月なら、もう城の地下とやらに行こうぜ。何しろここは、海の底に巣食う死霊みてーな気配がうじゃうじゃありすぎて気色悪りぃ」

 それには全く同感だと言わんばかりにハリードやロビンらが頷く中、普段ならいの一番に部屋を飛び出しそうなはずのエレンは、彼らに同調せずにカタリナを見つめていた。

「・・・まだわかんない事が多いけど、とにかくサラを助けるのに聖杯が必要なら、それを取りにいくのはあたし達の役目。でも・・・カタリナさんは何をするの?」

 エレンの言葉を受けて、カタリナは彼女に振り返る。
 カタリナを見つめるその瞳は、一切の曇りがない真っ直ぐな光を湛えている。
 その光は、カタリナからすれば眩しすぎて、直視をするのが躊躇われるほどのもの。
 事実そのような光を見失い、己の本当の意志を一瞬でも閉ざした者だからこその後ろめたさがあるカタリナは、少し節目がちになった後にエレンへ向き合った。

「・・・正直にいうと、これから私が何を為すべきか、私にも分からない。ただ私は・・・私も、サラを助けたい。その想いは、一緒よ」

 瞳を見つめ返しながら、カタリナは毅然として答える。
 エレンはその言葉と視線を受け取るように数回瞬きすると、やがて小さく頷いた。

「・・・ありがとう。助けは一人でも多い方がありがたいわ」

 エレンは短くそういうと、すくりと立ち上がった。
 それに合わせてロビンや少年らも、近くの荷物を素早く手繰り寄せる。

「そうと決まれば、はやいとこ行きましょ。サラが、待ちくたびれちゃうわ」

 

 

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第十章・4 -ツヴァイクトーナメント-

 

「ざッけんじゃないわよ!!」

 ニス塗りで丁寧に磨き上げられた分厚い木製カウンターを、あわや割ってしまうのではないかという勢いで振り下ろされた、固い握り拳。そして、ドゴンッという重苦しい衝撃音。からの、エレンの怒号。
 北の大国ツヴァイク公国首都でも随一の売上を誇る大箱パブ、ツヴァイクホールに響き渡ったその怒声は、闘技場目当ての荒くれ者が集まることで有名なこのパブの客ですらも思わず驚き振り返るほどだった。
 しかし、注意したいだろうに可哀想にもすっかり怯えて行動に移せない店員の代わりに、やおら大人の余裕を漂わせる声がエレンにかけられた。

「ちったぁ落ち着けよ。いちいち怒鳴っても仕方ねぇだろうが」

 荒ぶるエレンを宥めるようにそう諭したのは、意外にもブラックだった。
 これはブラック本人にとっても中々意外なことであったが、どうやら彼は老齢のような期間を十年ほど過ごしたことで、以前の喧嘩っ早さがすっかり身を潜めたらしい、ということを自覚していた。
 とはいえ、その間であっても小指の爪の先程もフォルネウスに対する憎悪は鈍らなかったので、芯となる強固な意思は不変なのだ。逆にそういった自分の芯を堅持するためにも、他のことに対しては無駄に熱くならなくなった、というのが正解なのかも知れない。
 何にせよ余裕のある海の男というのは悪いコンセプトではないので、ブラックは存外自分のそうした変化を楽しんでいた。

「でも時間がないの。関所を押し通るしかないわ」
「だからやめろっての」

 まるで聞き分けのない子供のように我を曲げないエレンを尻目に、ブラックはツヴァイク特製のラガービールを喉に流し込みながらツッコミを入れる。
 普段の彼はラガーよりエール式のビールを好むのだが、流石にラガーの本場ツヴァイクに来てこれを飲まない手はない。ツヴァイクのラガーは、他国流通品よりも非常に喉越しがいい。これはこれで流石に美味いなぁ、などと感じながら、エレンの怨念ひしめく愚痴を適当に受け流していた。

「通行許可が出ないとなると、あと考えられるのは認可商隊に同行するとかだろう。だが、それはそれでハードルが高そうだな・・・」

 ブラックの隣でこちらもビールを傾けながら、相変わらずマスク姿のロビンが呟く。彼のトレードマークたるアイマスクスタイルは行く先々で少なからず奇異の視線を向けられるが、流石に一行はそんな視線にも慣れてきた感があった。
 因みに、意外にも酒好きのブラックに負けず劣らずロビンもツヴァイクビールをかなり真剣に味わったり、カウンター内の設備の様子やバーテンダーの動きを頻りに気にしている。ひょっとしてそういうの自体に興味があるのだろうか、などとブラックは思う。

「・・・・・・」

 ロビンの更に隣、カウンター席の一番端に座った少年は、目の前に出されたミルクをじっと見つめたまま、相変わらず無言でいた。
 突然魔王殿からカタリナらと共に帰ってきたこの少年のことは、正直なところ未だによくわからない。聞くところによればこの少年が世界の命運を左右する宿命の子とやららしいが、ブラックにはとてもそんな大層な人物には思えなかった。
 だが、少なくとも少年の瞳にはどこか危うげながらも、揺るがぬ意志の光が宿っている。
 そういう光を持っている奴は、まぁ多分、大丈夫だ。ブラックは己の経験則から、それを識っていた。だから、この期に及んでこの少年についてああだこうだと言うつもりは毛頭ない。

「・・・ま、焦るのはわからねーでもないが、ちっとばかし待つってことも覚えるんだな。目先ばかりを見て焦って悪い潮目を引いちまうと、うっかり暗礁ってのが相場だぜ」

 ブラックはエレンに向けてそう言いながら、あくまでマイペースにグラスを傾ける。

 魔王殿でアラケスとの死闘が終わった後、モニカらが急遽ロアーヌへと帰る日の、早朝。
 モニカらよりも一足早くピドナを発ったエレン一行は、その数日後にはツヴァイク入りを果たしていた。
 そのままエレンたちは最短ルートでポドールイへ向かおうとしたが、かくして、そこで親切なツヴァイクの門番に必死に止められたのであった。
 門番曰く、ツヴァイク領とポドールイ領の間の関所は現在封鎖されており、無許可の通り抜けは重罪に問われる、と。
 しかし実のところ、それ自体はピドナで既にトーマスから聞いていたことであった。その上でエレンは、以前ハリードらと共にシノンからポドールイまで徒歩で抜けた経験があるので、細い山道などに入り込めばなんとかなるだろうと読み、意気揚々とツヴァイクへ赴いたのだった。
 しかしエレンたちを止めてくれた門番によると、どうやらそう簡単にはいかないらしい。
 先ずツヴァイク-ポドールイ間の関所は防衛線を兼ねていて数が多く、主な山道は全て網羅されている。そして関所間の境界線を人間が通ると、何故か最寄りの関所に越境が分かるようになっているのだという。これによりポドールイ方面への無断通り抜け、及びポドールイからの密入国者はその全てが国境警備隊に捕縛され、厳罰を受けることになるのだそうだ。

「越境探知のために、西の森に住むといかいう天才教授が作った魔導器を使ってるっつってたな」
「教授・・・あの術戦車を作ったとかいう人よね・・・」

 以前ランスでカタリナと合流した際に術戦車を実際に見たエレンは、その常識から逸脱した技術力だけは目にしていた。
 なので、越境が確実に暴かれるというのは本当なのだろうということは、何となく想像できる。そして先ほどからブラックの言うことも、勿論分かる。
 しかし、だからといってここまで来て突破口なく動けないなんていうことは、絶対に認められない。
 最悪、例えツヴァイクという国自体を敵に回すことになろうとも、エレンは絶対にポドールイへ行く覚悟であった。
 とはいえ、それでサラを救出するという目的が阻害されてしまっては元も子もないのも事実。それくらいは流石に分かっているので、エレンとしても即座に強硬手段に踏み切ることができずに悩んでいたのである。

『な・・・なんだこいつら・・・!?』
『見世物小屋かなにかか・・・?』

 答えの出ない迷路に迷い込んだエレンが苛立ちばかりを募らせていたところに、突如ツヴァイクホール店内が異様なざわつきと、少し冷んやりとした空気に包まれた。
 そのざわつきの震源は、どうやら店の入口のようだ。
 最奥のカウンター席にいたエレンたちは一番最後にそのざわつきに気付き、何事かと視線を向ける。
 するとそこには、確かに誰もが声を上げて驚きそうな様相の、いかにも個性的な二つの人影が入店していた。
 そしてその二つの人影を、なんとエレンはいずれも見知っていた。

「え・・・ウォード、ゆきだるま!!」

 エレンが思わず、彼らの名前を叫ぶ。
 すると、その声に反応して店内中の客と共に二つの人影がエレンの方を向いた。
 一人は、甲殻類の魔物から削り出したと思しき奇抜極まりない鎧を身に着けた、見上げるほどの大男。腕に覚えのある冒険者が集まるこのツヴァイクでも明らかに周囲より頭一つ飛び抜けた長身と強靭な体躯は、北方の過酷な大地が育んだ屈強な戦士ここに在りと雄弁に語っている。
 そしてもう一つの影は、丸い。ひたすらに丸い。白い大きな丸が、二つ重なっている。それは誰がどこからどう見ても、とても立派な雪だるまだった。ただ通常の雪だるまと一つだけ明らかに異なる特徴があるとすれば、それはこの雪だるまが、自立して動いている、という点だ。
 入口前で野次馬に囲まれていたウォードとゆきだるまの二人は、周囲の反応などものともせずにそのまま店内を奥へと突き進み、エレンたちの前に立ち止まった。

「おぉ、エレンにロビンじゃねえか!久しぶりだなぁ!」
「エレン、ロビン、ひさしぶりなのだ!」
「え、ちょっと二人ともなんでここにいんの!ってかゆきだるま、こんなとこ居て大丈夫なの!?溶けない!!?」

 突然登場した珍客にブラックと少年までもが流石に驚いた表情を見せる中、エレンとロビンはまるで旧友を迎え入れるかのようにその二人と親しげに抱擁を交わし、挨拶を交わす。

「おいおい、なんだこりゃ。ボストン以上に意味がわからねぇ生き物だな・・・っつか生き物なのか・・・?」

 二人の珍客、特にゆきだるまを見ながらさすがのブラックも驚嘆の面持ちで呟く。しかしその辺りの問答を散々雪の街で行ったエレンとロビンは、もはや至極当たり前のように二人に接していた。

「永久結晶があるから、全然大丈夫なのだ」
「いやよぉ、俺はあれからも何度か顔出しに行ってたんだがよ。こいつが雪の街から出てみたいっつーから、今は俺の仕事に付き合ってもらってるんだ。しっかしまぁ、こんな感じでどこに行っても注目の的でなぁ。お陰で狩りよか、小遣い稼ぎの行商が捗る捗る」

 やいのやいのと四人が盛り上がっている様を遠巻きに見物していた野次馬たちも、徐々にその非現実的な光景に慣れてくると、ちらちらと様子を伺いながらも其々に再び飲み始める。アビスゲートの活性化により瘴気に侵された精霊の眷属なども蔓延る昨今ゆえか、ゆきだるまの姿にも驚きはすれど腰を抜かすほどのことではない、というところなのであろう。

「なんだなんだ、随分と騒がしいじゃ・・・おいおいなんだぁこのデカい雪だるまは?」

 丁度そこに、別行動をしていたハリードが帰ってきた。
 そして他の客と同じく、異様な二人の存在にしっかりと驚きの声を上げるのであった。

「あ、おかえり。ってかどこいってたのよ」

 思わぬ知り合いの登場で機嫌を少しばかり持ち直したエレンがハリードに声を掛けると、ハリードはニヤリと笑みを浮かべてエレンに視線をよこした。

「何処ってそりゃお前、ポドールイに行くための手段を探してやっていたに決まってるだろ。いいネタ持ってきてやったんだから、感謝しろよな」
「え、なに、なんかいい方法見つかったの!?」

 唐突に発せられたハリードの台詞に、エレンは彼の狙い通り大層驚いたような表情を浮かべながらハリードへと食い気味に詰め寄る。
 どうどう、と逸るエレンを片手で制しながら、ハリードは先にカウンターにチップを投げ、ツヴァイクラガーを所望する。
 すると即座に出てきたジョッキを片手で受け取り早速、豪快に胃の中へと注ぎ込む。ゴクゴクと喉を鳴らしてジョッキ半分程を飲み、ふぅーっと一息ついてから、もう一度口の端を吊り上げて笑みを作った。

「俺らで出るぞ、ツヴァイクトーナメントに!」

 

 

『さぁいよいよ始まりました、第六十三回ツヴァイクトーナメント!! 今回は過去に類を見ないほどの屈強なチームが複数エントリーしているとのことで、今までにない盛り上がりを見せることは必至!!! 観客の皆様の熱量も最高潮に達しているのが、わたくし司会のもとにまでビンビン伝わってきます!!!』

——ウォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!!!——

『ではさっそくの第一回戦、いきなり初参戦チーム「エレンと愉快な仲間たち」の登場だぁぁぁぁぁああ!!!』

「いやいや待て待て、なんでこうなるんだよ!!?」

 ツヴァイクの誇る特製コロシアムの観客席が超満員と大歓声で埋まる中、やたらとテンションの高い司会の絶叫とともに戦闘エリアへと送り出されたウォードは、当然の困惑具合で空に向かい世の中の理不尽を叫んだ。 

『なんとこのチーム、セコンドにあの高名な傭兵トルネードを起用したという今大会注目の優勝候補!先鋒のウォード選手もユーステルムでは名の知られた狩人だそうで、これはいきなり本気度マックスだぁぁぁぁぁあああ!!!』

「えぇい、くそッ!!もうどうにでもなれ!!このウォード様に喧嘩売ろうってぇ命知らずな輩は、一体何処のどいつだ!?」

 やけくそ気味にウォードが愛用のツヴァイハンダーを構えると、今度は司会が彼と反対側のエリアゲートに振り向いた。

『さぁそしてそんな今大会注目チームと対決するのは、大会優勝経験もあるベテランチーム、超女軍団だぁぁぁああああああ!!!』
「ちょっとまて、あれ人間じゃねえぞぉ!!??」

 司会のアナウンスと共にゲートから出てきたのは、なんと妖精族の亜種と蛇型の魔物で構成された混合チームであった。

『ご存知の通り、本トーナメントでは一定の参加クオリティを保つ目的で人間以外のエントリーも導入しております!! その中でもこの超女軍団は数々の強豪チームを屠ってきた、指折りのツワモノたちだ!!!さぁ先鋒のダンサー選手と対するウォード選手は、どのような戦いを繰り広げてくれるのか!!!??』
「こっちはなにもご存知じゃねえよ!!!ふざけんなッ!!!」

——ウォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!!!——

 全力で抗議の声を上げるウォードに対し、しかしそれを気合の雄叫びと受け取った観客たちはさらなるボルテージアップで歓声を上げる。

『それでは第六十三回ツヴァイクトーナメント、第一回戦開始の宣言を我らがロード、ツヴァイク公から賜ります!!』

 司会の誘導に応じ、最も闘技場を見下ろすのに最適な位置に設えられた専用席に座した壮年の男が立ち上がり、片手を上げて高らかに宣言した。

「始めーい!!」

 幾度も発せられたウォードの魂の叫びは欠片も受け入れられることなく、無慈悲に第一回戦開始の宣言とともに、ゴングが鳴り響く。
 すろと相対するダンサーは、軽やかにステップを踏みながらリズムに乗り、舞うようにウォードとの距離を一気に詰めてきた。

「くそっ・・・このウォード様を舐めんなよ・・・!!」

 覚悟を決め、高らかに咆哮したウォードがツヴァイハンダーを大上段に構えながら対戦相手を迎え撃たんとしていた、その最中。
 ゲートの奥にある控室ではウォードの応援になど欠片も興味がない様子で、エレンら他の出場メンバーが揃って話し込んでいたのであった。

「ってか、本当にこれでポドールイに行けるんでしょうね?」

 未だ疑心暗鬼の様子のエレンがふんぞり返った様子で座っているハリードへ釘を刺すように言うと、ハリードはふふんと不敵な笑みを浮かべた。

「エレンお前、以前ツヴァイクで変な動物を売っぱらったハンターを覚えているか?」
「ん?・・・あー、そういえばいたわね。あのときは稼がせてもらったわ!」

 それはハリードと共にロアーヌを出て間もない頃、ランスを目指しながらも先ずは依頼の豊富なツヴァイクで路銀稼ぎを行っていた時の話である。
 エレンは当時目の前に積み上げられたオーラムの山を思い出し、思わず口元を緩めた。
 エレンのこういう仕草は若干ハリードに似てきているな、とブラックなどは時折感じたりもするが、それを言っても多分色々と面倒になるだけなので態々言うことはない。

「なんでもあいつ、あそこから更に上乗せて国のお偉いさんに売り捌いて儲けたらしい。なんでその礼も兼ねてってことで、色々と情報を落としてもらったのさ」

 ハリードが聞き出したところによると、こうだ。
 ツヴァイク公爵は自国が定めた認可商隊以外のポドールイとの通行を全面的に禁じているが、ここに実は、唯一の例外が存在するそうだ。
 それこそが、国主たるツヴァイク公爵の勅令を受けた「聖杯奪還隊」である。
 聖杯とは、ポドールイの領主レオニード伯爵が所有する聖王遺物のことだ。聖王の血が注がれたという逸話を持つその聖王遺物は他の遺物とは一風異なる特性を持っており、その杯からは枯れることなく『力』が湧き続けるのだという。
 ヴァンパイアであるレオニードを忌諱するツヴァイク公は、人間でないということを理由にレオニードが聖王遺物を持つに相応しくない存在であると決めつけ、この聖杯を奪うことの出来る実力者を募った。
 だが、懸賞金に目が眩んで集まった程度の傭兵たちではレオニード伯爵に近づくことさえ叶わず、彼のもとに集う死霊に軽くあしらわれてしまう。
 幾度かその失敗を繰り返した後にツヴァイク公が考案した対策の一つが、このツヴァイクトーナメントであった。
 このトーナメントを勝ち残るほどの猛者であれば、レオニード伯爵から聖杯を奪うことが出来るに違いない。そう考えたツヴァイク公の主導で始められたこのトーナメントには、実のところ今まで一般参加から勝利したチームは存在しないらしい。

「俺等の一回戦相手の超女軍団や、その他だとドラゴンズ、そしてツヴァイク公国最強部隊『じごくの壁』とかの運営側が仕込んだチームが、トーナメントの優勝常連らしい。興行としても利回りが良く、公爵自身も剣闘狂いらしくてな、こいつは元の目的が達成されずとも定期開催されているんだそうだ」
「つまり、そいつらを全部ぶっ飛ばして奪還隊とやらになれば、お上公認で堂々と関所を通れるってワケか」

 椅子ではなくテーブルの上に片足を上げて座りながら話を聞いてたブラックがそう纏めると、ハリードは浅く頷いた。

「あぁ。しかも、優勝賞金が一万オーラムもでる。こいつは正に一石二鳥だぜ」
「あんた絶対それが目的でしょ!」

 カムシーンの刃より鋭いエレンの指摘にハリードが性懲りも無く反論を始め、控室内がいつもの様にガヤガヤとし始める。
 しかしそんな賑やかさとは全く無縁の様子で、一番端にある椅子に腰掛けたまま微動だにしないでいた少年がボソリと呟く。

「その聖杯が・・・『鍵』なのかな・・・」

 少年の近くにいて微かにその声が聞こえたゆきだるまが、少年に身を寄せる。

「鍵って、一体なんのことなのだ?」

 ゆきだるまの質問に、少年は素直にそちらへと反応を向ける。
 少年はどうにもあまり人好きしない性格らしいが、なぜかゆきだるまとは会った直後から、随分と気安く接している様子であった。

「・・・僕にも、よく分からない。でもトムさんが言っていたんだ。少し前に、鍵はポドールイにあると聞いた、って」

 そもそもエレンたちがポドールイを目指している理由こそが、その『鍵』だった。
 エレンと少年は、アビスゲートの向こうへと消えたサラを助け出す、という共通の目的を持っている。しかし、一体どうすればサラの元に辿り着けるのかという具体的手段については、全く見当もつかない状態だった。
 そこで藁にも縋ろうということで追いかけることにしたのが、この『鍵』という情報であったのだ。

「もし僕たちに鍵が必要になったら、それはきっとポドールイにある・・・トムさんは、詩人さんからそう聞いたと言っていた。詩人さんがなんでそんなことを言ったのか、その鍵っていうのが一体なんなのか、そもそもそれがサラの元にたどり着くためのものなのか・・・それはトムさんも分からないって言ってた。でも、今の僕たちにはそれくらいしか縋れるものが・・・」
「大丈夫よ、テレーズ」

 いつの間にか、ハリードたちと話していたはずのエレンが少年とゆきだるまの前にいた。

「トムが、その詩人の言葉は賭けるに値する情報だって言った。だから大丈夫。必ずあたし達は、サラの元に辿り着くわ。そのためにもテレーズ、あんたが必要なの。あの子の鼓動を感じることが出来る、あんたの助けが」

 エレンの真っ直ぐな言葉を聞いた少年は、小さく、しかし力強く頷く。
 それをみて満足そうに頷き返したエレンは、腰に手を当てて控室の扉へと視線を向けた。

「まずはポドールイに辿り着くことだけを考えましょ。となると早いとこトーナメントとやらを終わらせたいけど、今どんな感じなのかしら」

———ゥォォォォォォォォォォォォォォォッッ!!!!!!———

 まるでエレンの声に応えるかのように、扉の向こうからは会場の一際の盛り上がりを伝える歓声が響いてきた。
 そして急報を知らせるべくバタバタと駆ける足音が近づき、勢いよく控え室の扉が開け放たれる。

「先鋒ウォード選手が相手チーム主将の石化攻撃により敗退!次鋒ゆきだるま選手、準備お願いします!!」

 駆け込んできた係員の知らせに選手一同は互いの顔を見合わせ、気合を新たにするのであった。

 

 

『さぁさぁ一体誰が予想したのかこの展開を!!!!!!第六十三回ツヴァイクトーナメント決勝戦の対戦カードは、こいつらだ!!!!』

——ウォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!!!——

 これまでで最も大きな歓声を一身に受けつつ決勝戦に挑む選手らが東西ゲートから入場し、闘技場中央を挟んで睨み合う。

『西側ゲートから登場したのはなんとなんと!!由緒あるこのツヴァイクトーナメント初出場にしていきなり決勝戦まで勝ち抜いてきた今大会注目のダークホース、エレンと愉快な仲間たちだぁぁぁぁあああ!!!!』

「今更だがよ、このチーム名はどうにかならなかったのかぁ・・・?」

 随分と気の抜けたチーム名にブラックが真っ当な突っ込みを入れるが、最早そんなことを気にしている観客は一人もいない様子である。
 なにしろここまで、未だ大将が出ることすらなく圧倒的な実力差で常連チームらを叩きのめしてきたチームの実力は、もはや疑う余地のないものとしてこの場に集まった観客らに認識されているからだ。
 初戦の超女軍団戦は、大将になんと伝説級の魔物であるメデゥーサが配置されていたことでウォード、ゆきだるまと立て続けに石化されたものの、中堅であるロビンが得意のレディーキラーっぷりを発揮し、撃破。
 続く二回戦目はゴブリンズという名前の、そのままゴブリン種で構成されたチームであった。どうもこのゴブリンズについては強い場合と弱い場合があるという事前情報をハリードが掴んでいたが、今回は弱い構成だったようで、ウォードの一人抜きで難なく撃破。
 そして準決勝は、なんと龍種で構成されたドラゴンズというチームと対戦することとなった。このチームはなんといっても副将である大型龍種レッドドラゴンが花形であり、一体どんな絡繰でこれほどの魔物をこんなところに連れてきたのかと考えずにはいられなかった。
 しかしこれについては相性の問題か、レッドドラゴンまで辿り着いて早々に退却したウォードに続くゆきだるまが永久結晶の力により相手の炎を寄せ付けず、誰もが予想だにしないワンサイドゲーム展開となったのであった。
 そんなこんなでロビン以降に配置された副将ブラック、大将エレンの出番がないまま辿り着いた、トーナメント決勝戦。

『そして東ゲートから登場したのは、勿論このチーム!!!!我がツヴァイクの誇る最強部隊!!!!専用特殊装甲【ヴァンツァー】に身を包んだ六機の英雄!!皆様お待ちかね、じごくの壁だぁぁぁぁぁぁあああああああ!!!!!!』

——ウォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!!!——

 一際大きな歓声を受けながらエレンたちに立ちはだかったのは、金属製の全身鎧に身を包んだ六人の人物。しかしその鎧は、エレンたちが見慣れたものとは随分と様相の異なる、やけに仰々しい代物だった。
 それもそのはず。何を隠そう彼らの纏う鎧もまた、教授による作品の一つであった。なので正確には彼らが纏っているものは鎧ではなく、術戦車などと同じく魔導器に分類される代物なのである。
 その名も、戦闘歩行魔導装甲ヴァンダーパンツァー、通称【ヴァンツァー】だ。
 この魔導装甲にはタイプ別に三つの特徴が備わっており、それぞれ支援型、近接射撃型、格闘型に分けられるのだという。
 ヴァンツァーを身に纏う彼らはその特色を余すことなく発揮した連携攻撃を用いることで、数々の苛烈な戦いから自軍を守り、自らも生き残ってきたのだそうだ。
 その風評を裏打ちするかのように絶対的な自信を漂わせた立ち姿を見定めるように睨みながら、腕を組んだハリードが呟く。

「ツヴァイク公国軍第六十四機動戦隊、通称じごくの壁・・・。俺は直接戦場で見たわけじゃないが、傭兵の中では割りかし有名な連中だ。ここ十年ほどのツヴァイクが絡む北方の戦で、あいつらの名前を聞かない戦場はなかったというぜ」

 ハリードの言葉を聞きながらエレンも油断の一切ない視線で相手を睨みつけていると、どうしたことか相手の一人が試合開始の合図を待たず、こちらへゆっくりと歩み寄ってきた。
 何事かと眉を顰めながらもエレンとハリードがそれに応えるように一歩前に出ると、二人の前で立ち止まった鎧は、思いの外軽快な動作で右手を差し出してきた。

「お初にお目にかかる、傭兵トルネード。俺の名はグリーグ。あんたと戦えることを光栄に思う」
「グリーグ・・・噂は聞いてるぜ。怒れる雄牛【マッド・ブル】の名を冠する、じごくの壁の隊長機だな。俺も界隈ではトルネードなんて呼ばれるが、名はハリードというんだ。よろしくな」

 差し出された手をハリードが握り返し、固く握手を交わす。
 そしてマッドブルが自陣へ戻っていくのと同時、司会が改めて声を張る。

『さぁ両チームが固い握手を交わしたところで、決勝戦のルール説明です!!!!じごくの壁と決勝戦で対戦する場合はご存知の通り特殊ルールが適用され、セコンドまで参加しての集団サバイバル戦となります!!』

 司会の宣言に並行し、なんとコロシアムの闘技フィールド内に施されていたらしい仕掛けが発動し、地面から鋼鉄製と思しき障害物のオブジェクトがいくつも現れ、両チームの視界を遮った。

「だからなんもご存じじゃねーっつーの・・・」

 最初から振り回され続けたウォードが諦めの境地のような表情で呟くが、当然そんな声はハイテンションな司会には欠片も届かない。

『両チームどちらかが全員戦闘不能となるまで続くサバイバル戦、間も無くスタートです!!では両チーム、配置についてください!!』

 なんら事前説明がされないまま勝手に話が進んでいくが、それに対していやに冷静な様子のエレンは、先ほどのハリードと同じく胸の前で腕を組んだまま、闘技フィールド内の障害物を見ながら口を開いた。

「・・・あいつら、持ってる得物が三種類に分かれていたわ。近接型、中距離、遠距離ってとこかしら。わざわざ集団戦にしたってことは、二人か三人で動く戦法で来るって考えた方が良さそうね」

 エレンの的確な予測にニヤリと笑みを浮かべながら、ハリードは同じく腕を組んだまま顎に手を当てた。

「いい推察だ。となると大抵はインファイトを仕掛けてくる奴が隙を作り、中距離役が仕留め役。んで、それら連携を阻害されないように長距離担当が獲物周囲を威嚇する、ってところか」
「・・・向こうがその戦法で来るなら、こっちも術が使える俺様とゆきだるまが分かれた方がよさそうだな。あとはどう分ける」

 ハリードに続いてブラックが顎の無精髭を弄りながら何やら愉しそうに言うと、既にレイピアを抜き放って臨戦体勢のロビンが一歩前に出る。

「であれば、速度を出せる私とハリードが分かれ、一撃の重さを活かせるエレンとウォードが同じく分かれる編成でどうだろう」

 この提案には、その場の全員が即座に首を縦に振る。

「異論はないのだ」
「俺もそれでいい。とっとと終わらせちまいたいぜ」

 結果、エレンとロビンにゆきだるま、ハリードとウォードにブラック、という編成で左右に分かれ、相手を迎え撃つ作戦に落ち着いた。
 そしてエレンチームがフィールドに散開したのを確認した司会がツヴァイク公に合図を送ると、間も無くツヴァイク公爵が立ち上がり、闘技開始の宣言を行った。

「始めーい!!」

 間の抜けた掛け声に反し、戦闘そのものは初手から大きな動きがあったか、コロシアムの観客のいきなりの熱狂ぶりにハリードらが身構える。
 すると、その予測を裏切らない様子で何か固いものが岩の上をかけるようなガキンガキンという音が響き渡り、カムシーンを抜き放ったハリードとツヴァイハンダーを構えたウォードが背中合わせに周囲を警戒した。

「HEY!!Tornado!!」
「ッ!!」

 突如、上空からの声。
 それに即座に反応したハリードが背後のウォードを踏み台にするようにして横に飛ぶと、それに合わせてウォードもハリードに蹴り飛ばされる形で反対側に倒れ込む。
 その直後、先ほどまで二人が立っていた場所目掛けて巨大な鉄甲が衝撃音と共に振り下ろされた。

ズガァンッッッ

 地面がしっかりと抉れている様子を尻目に体制を素早く建て直したハリードが抜き身のカムシーンを構えると、その剣先に現れたのは先ほどのマッドブルは別のヴァンツァーだった。
 どうやら、地面から迫り上がった障害物の上を飛び移るようにしてここまで一気に移動してきたようだ。流石に、このフィールドでは戦い慣れているということか。

「Hoo!!今のを避けられたか。流石トルネードの名前は伊達じゃないな」
「ふん、そりゃあどうも。お前は・・・近接型か。振り分け的には恐らく隊二番手のウィナー機が向こう側で、隊長機マッドブルチームがこっちの相手をしてくれるんだろう?なら、お前がグリーグに飼われているって噂の【ストレイキャット】だな?」
「Hey・・・その冗談は笑えないぜ」

 ストレイキャットの名を冠する近接戦闘型ヴァンツァーが、不機嫌を丸出しにした声色でハリードに向かい拳を構える。彼もまた隊長機【マッドブル】を支援する近接型ヴァンツァーとして数々の戦功を上げてきた、これまた北の戦線でその名を知らないものはいない存在である。
 しかし戦場と闘技場の違いで勘が鈍っているのか、彼のすぐ近くで起き上がったウォードがツヴァイハンダーを振りかざしているのも見えていないらしく、少々短気な性格のようだ。
 しかし、そんな彼の支援もまた、チームの役割なのだろう。
 それを証明するように、ツヴァイハンダーを振り下ろさんとしたウォードに向かって高速で飛来する岩石弾があった。

「けっ、見え見えなんだよ!」

 そう言いつつ右手を突き出したブラックから発せられる風の矢が、飛来する岩石弾を貫き砕く。
 しかしその攻防に気付いたストレイキャットが素早く飛び退ったことで、ウォードの一撃は虚しく地面を削ることとなった。

「いきなり突っ込みすぎだぞ、ストレイキャット」

 続いて後方の障害物の裏から出てきたヴァンツァーの声に、ストレイキャットはガシャリと音を立てて肩を竦める。

「飼い主のお出まし、だな。もう少し躾けをした方がいいんじゃないか?」
「ふふ、うちは狂犬揃いでな、俺も手を焼いているのさ」

 そう言いながら構えるマッドブルと共に、ストレイキャットも深く腰を落として臨戦体制に入る。
 今は視界には入っていないが、目の前の二機以外に先ほどの岩石弾を飛ばしてきたやつが近くの障害物の裏に隠れているはずだ。

(まぁそいつの相手は、ブラックに任せるとして・・・。ううん、俺がこの二機を同時に相手しちまってもいいが、それではつまらんしな・・・ウォードにもう少し働いてもらうか。さて、エレンは上手く捌いているか・・・?)

 右手に持ったカムシーンを少し浮かせては何度も握り直すようにして弄びながら、ハリードは自分たちと逆方向に展開したエレンらのことを思うのであった。
 まさに、それはハリードがそう考えた瞬間だった。

ガキィィィィーーーーーーーンッ
——ウォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!!!——

 金属同士の衝突を思わせる聞き慣れない衝撃音と共に、明らかに会場の歓声が一段階跳ね上がる。
 響き渡った常識外れの衝撃音もさることながら、明らかに勝負の行方を左右するような何かがあったと予想される観客の盛り上がりに、思わずハリードらも、衝撃音がした方向へと顔を向けた。

『な・・・なななななぁぁぁぁぁぁんとおぉぉぉぉおお!!これは凄いぞぉぉぉッ!!!!この闘技場専用に作られた最高硬度のフィールドオブジェクトが、まさかの真っ二つにぶち割られたぁぁぁぁぁぁああああ!!』

「なに・・・この鋼鉄の塊を真っ二つだと・・・?」

 絶叫する司会の解説の聞きながら、流石のハリードも俄かには信じられないと言った様子で周囲のオブジェクトへと視線を配る。
 頑強なヴァンツァーが飛び乗ってもびくりともしない頑強なオブジェクトを割るなんて、実際可能なことなのだろうか。これほどの厚みの鋼鉄ともなると、巨龍種の分厚い鱗をすら上回る強度だろうに。

『凄まじい威力の斬撃を披露したのは、エレンと愉快な仲間たちの主将、エレン選手だぁぁぁぁぁああ!!!! これには思わずヴァンツァー【ナッシング】機も腰を抜かして起き上がれないぃぃいい!!!!』

 続いて叫ばれる名前を聞き、ヴァンツァーたちが戦慄の様子を見せる一方で、ハリードらは苦笑いを浮かべる。

「おいおい・・・エレンのやつ、こいつを薪割りと同じテンションでぶち割ったっつーのかよ!!はっはっは、ダイナミックじゃねえか!!」
「いやこれ割れねぇだろ・・・剣のがポッキリいくって・・・」

 ブラックが豪快に笑い飛ばし、ウォードがオブジェクトを剣先でコツコツと叩きながら呆れた声を上げた。
 そんな二人を他所に、ハリードはその場の全員が戦意を削がれたその一瞬で、素早く思案する。
 例えば四魔貴族や巨龍種のような規格外の存在でもないかぎり、戦場というのは個の武力で勝負が決まることはない。
 まずは数、つまり物量が最も重要で、それに応じて選択肢が広がる戦略、次に戦術と続く。他には自軍の練度なども並行して重要度が高く、個の武力とは実際、一般的な重要度としてはかなり後ろにくる。
 だが稀に、個の武力が戦術や戦略レベルに達することがあるのだ。
 それは実際非常に稀なことだが、何度か歴史にはそうした事例もある。ハリードが敬愛してやまないゲッシア建国の英雄アル=アワドなど、まさにその典型と言えるだろう。
 そうした存在が戦場で起こす何らかの行動は、そのまま両軍全体のモラルをも左右するような一手と成すことが可能だ。
 例えばそう、今この瞬間などのように。

「なぁマッドブル。このチームの主将が俺じゃなくてエレンっつー女である理由が、あんたには分かるか?」
「・・・何?」

 左足に重心を移して腰に当て、まるで世間話のようにハリードが問いかける。
 対して臨戦体勢こそ崩さないものの、すっかり戦意が削がれた様子を隠しきれていないマッドブルは、ついその問いかけに反応してしまった。

「なに・・・簡単な話さ」

 カムシーンの背を肩に乗せ、ハリードはにやりと口の端を釣り上げながら言った。

「俺よりあいつの方が強いからだ」
「・・・ふっ、まさかそのような・・・」

 しかしマッドブルは、そのまま否定の言葉を言い切ることができなかった。なにしろ今まさに、前代未聞の脅威的な破壊力を目の当たりにしたばかりなのだ。
 仮にあの攻撃を自分が受けていたらと思うと、思わず背筋が凍りつく。
 まさか、あの世界的に有名な傭兵トルネードにも並ぶほどの存在がいて、しかもその二人がタッグを組んでいるとは。まず自分がトルネードに対して敵うかどうかも不明だというのに、それを超えるような相手など、ヴァンツァー【ウィナー】が率いる逆サイドチームにはあまりに荷が勝ちすぎる。
 瞬時にそこまで思考し、一層表情を険しくするマッドブル。

「あいつが次に振るう斧は、確実にヴァンツァーの誰かをぶった斬るだろう。そうなりゃ、間違いなくそいつは再起不能だろうな。そうならんうちに俺らを倒して助けに行くか、それとも手っ取り早く降参するか。早いところ決めることを強くお勧めしておくぜ」
「・・・くっ」

 続けて発せられたハリードの言葉に明らかに動揺した様子のマッドブルは、しかしそれでも戦場で敵に背中を見せるようなことはしない、生粋の戦士であった。
 ここまでに削がれた戦意をなんとか奮い立たせ、手にした武器を構え直し、周囲のヴァンツァーに号令をかける。その姿は正しく隊長機に相応しいと、敵ながらハリードも感じ入るほどだ。
 だが性急な判断には必ず綻びがあり、乱れがあり、そして隙がある。
 それこそが、ハリードの狙いだ。
 人間同士の戦で無類の強さを誇る傭兵将トルネードの真骨頂、正にここにあり。

「ストレイキャット、ハッピーラング、一気に仕留めるぞ、デルタアタックだ!!」

 マッドブルの決死の覚悟を受け、ハリード、ウォード、ブラックは一様に得物を構え、臨戦体勢に入った。

 

 

「お、おれたちの戦法が通用しないとは・・・」

 ガックリと肩を落とし、真っ二つに割られた得物を地面に突き刺したマッドブルが、力無く呟く。
 その姿を前にしながらカムシーンを悠々と踊らせて納刀したハリードは、いつものようにニヤリと口の端を釣り上げた。

『決まっっっっったぁぁぁぁあああああ!!!! なんとなんとなんと、第六十三回ツヴァイクトーナメント優勝チームは、初出場のダークホース、エレンと愉快な仲間達だぁぁぁぁああああ!!!!』

——ウォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!!!——

 もはや絶叫を通りこして息も絶え絶えといった感のある司会の怒号に合わせ、会場全体が揺れるような歓声に包まれる。
 その最中にも驚くほど俊敏に闘技フィールドは片付けられていき、あれよあれよという間にエレンたちは壇上から見下ろすツヴァイク公爵の前に立たされていた。

「見事であったぞ。褒美を授けよう、近こう。わしの顔をほりこんだありがたい優勝メダルだ」

 代表して一歩前に出たエレンが受け取ったのは、しっかりとした重量を持ったゴールド製のメダルだった。何度かハリードと共に貴金属に触れたことがある彼女は、直感でこれが本物のゴールドで出来ているであろうことを察した。
 造形のセンスは最悪といって差し支えないが、これは換金すれば相当なオーラムになる。それを確信したエレンは、内心で思わずほくそ笑む。

「あとこちら、副賞の一万オーラムです」

 続けてコロシアムスタッフからオーラムの詰まった袋をハリードが受け取り、これまた悪役の見本のような笑みを浮かべる。その笑顔の邪悪さは、本職のはずのブラックですら堪らず眉を顰めてしまうほどだ。
 そんな様子の二人を他所に、何やら興奮した様子で身を乗り出してきたのは、先ほどエレンにゴールドメダルを授与したばかりのツヴァイク公であった。

「もう一つ、優勝者に頼みがある」

 その言葉に、待ってましたとばかりにエレンとハリードの二人が視線を向ける。

「君らほどの強者であれば、聖王遺物として名高い『聖杯』のことは聞いたことがあるだろう。それが今、ポドールイのバンパイアの下にある。聖王遺物とは、我々人類の至宝だ。あんなモンスターに聖王遺物を握らせておくわけにはいかん」

 そう語るツヴァイク公の表情は見る見るうちに怒りに打ち震えるように怒気を増し、赤らんでいった。

「なんとしても我ら人類の元に絶対に取り戻すのだ。だが、かのバンパイアは卑怯にも城に閉じこもり、闇に紛れ、非常に狡猾だ。故に一筋縄ではいかず、我々も手を拱いている。どうか、強者たる君たちの力を貸してほしい」

 ツヴァイク公は正しく自らに絶対の正義があるかのように語るが、実際にポドールイのレオニード伯爵に会ったことがあるエレンからすると、果たして本当にあの伯爵がそのような存在なのかどうか、すぐには判断が付かなかった。

「報酬は?」

 すかさずハリードが、短く質問する。
 その無礼な態度に公爵の周囲が色めき立つが、中心にいるツヴァイク公はなんら気にすることなく片手をあげて周りの臣下を制し、にやりと笑う。

「無事に聖杯を我が元に持ってきた暁には、今渡した優勝賞金の倍額を更に出そう。また、聖杯以外にもバンパイアめは多くの財宝を隠し持っていると聞く。だが、わしはそれらには興味がない。聖杯以外のものは、自由にしてくれてかまわぬ」

 ツヴァイク公の言葉に、ハリードはこれまたニヤリと笑みを浮かべる。

「二万オーラムと財宝か・・・いいだろう、承った」
「おぉ、それではよろしく頼むぞ。ポドールイへ向かう関所は、そのゴールドメダルを見せれば通行可能だ。是非とも聖杯奪還隊として、任務を果たしてくれ」

 ツヴァイク公とハリードはお互いに笑顔を交わし、すぐさま一行はその場を颯爽と立ち去ることにする。
 いつまでも鳴り止まぬ観客のスタンディングオベーションに見送られて出てきたコロシアム出口では、少年がすでに旅支度を整えて全員分の荷物も用意しつつ、今か今かとエレン達を待っていた。
 そこに合流するとエレンは無言で少年に向かって片手を翳し、ぱちんと軽くハイタッチを交わしてから即座に荷物を手際よく背負っていく。

「なんだかよく分からんが、まぁ頑張れよ」
「また会おう、必ずなのだ」

 気持ち程度の分け前をハリードから受け取ったウォードとゆきだるまに城門で見送られつつ、エレン達は意気揚々と東へ向かい歩き出した。

「よし・・・それじゃあいくわよ、ポドールイへ!」

 

 

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第十章・1 -三百年の平和-

 

 聖王歴三百十七年、赤火の月。
 歴史上二度目となった四魔貴族と人類の戦いはここに決し、世界からアビスの脅威は去った。
 この事が世界中に伝わるのに大した時間が掛かることはなく、きっと一ヶ月ほどもすれば世界中が喜びに満ち溢れる事だろう。
 かの聖王記に記されしパウルスの予言、それに導かれし八つの光は見事、その使命を成し遂げた。大いなる邪悪を打ち倒し、アビスの彼方に封じたのだ。
 英雄はこれより各地を凱旋し、大いに民の祝福を受け、三百年先までこの偉業は語り継がれるに違いない。

「・・・そう簡単に、この英雄譚はめでたしめでたし、となるのでしょうかねぇ?」

 暗く陰気な石作りの空間の中で、何者かが呟く。その声色は、どこか愉しげだ。

「かつて歴史上初めて死蝕を生き延びた祝福の子は、長じて破壊を齎す魔王と化した。そして魔王の再来を恐れられた忌み子は、世界を救う聖王となった。さて・・・此度の宿命の子と救世の英雄は一体、何者になるのでしょう」

 一人くすくすと嗤い声を上げ、そこからは見えない空を見上げるような仕草をする。

「サーガは、まだ終わっていませんよね?」

 それは予言か呪いか、はたまた切なる願望か。
 誰にも聞かれることのない孤独な空間で呟かれたその言葉は、間も無く暗闇にひっそりと、跡形もなく溶け落ちていった。

 

 

 再び世界に迫ろうとしていた危機は、パウルスの予言にて示された存在である八つの光によって、見事退けられた。
 最終決戦の場となったのは、メッサーナ王国首都ピドナの旧市街にある魔王殿の奥深く。四魔貴族の一柱である魔戦士公アラケスか守護すると言われる、最も人類生活圏の側にあったアビスゲート。
 人類勝利の知らせはメッサーナ王宮を通じて瞬く間に世界に発信され、世界各地の新聞社も連日この吉報を一面で報じた。
 世界は、文字通り歓喜に包まれた。

 その知らせから、二週間が経っていた。

「それでは皆様・・・本当に、お世話になりました」

 間も無く出航の時間となるキャラック船を背に深々と一礼するモニカに従い、すぐ後ろに控えていたカタリナも深々と礼をする。それを見た隣のユリアンも、釣られてぎこちない礼をした。

「・・・帰りの道中も、どうかお気をつけ下さい」

 そう言いながら少し寂しげに微笑んでみせたトーマスは、礼をした後に俯いたままのユリアンへと視線を移す。

「ユリアン・・・モニカ様をしっかり守ってくれよ。何かあったら、すぐ俺に連絡をくれ」
「・・・あぁ、わかったよトム」

 自分がこうしてトーマスらと別れる状況に、どこか非現実的な感覚を未だに抱いている様子のユリアン。しかしそれでも彼はしっかりとトーマスと視線を交え、力強く頷く。

「カンパニーも、寂しくなりますね」

 何故か当然のように見送り一向に加わりトーマスの横に立っていたフルブライト二十三世が、心底残念そうな顔でカタリナに視線を向ける。
 カタリナはこれに対して会心の出来映えだと自画自賛できるほどの嫌そうな顔で返し、それから一転、今度はニコリと微笑む。

「ご心配なく、フルブライト二十三世様。カンパニーは近く代表権をトーマスに移し、合わせて社名も変更する予定ですので」
「それが残念なのだよ」

 そんな貴方の趣向など知ったことではないのです、と表情で物語りながら、カタリナは恭しく無言で一礼した。

「・・・エレンやハリード様たちは、もう行ったのですね」

 その場で周囲を軽く見渡したモニカが、こちらも少し寂しそうに微笑みながら呟く。

「・・・はい。ただエレンたちとは定期的に連絡を取りますので、何かあればモニカ様にも直ぐにお伝えします」

 トーマスとモニカがそんな話をしている横で足早にカタリナへと近づいたノーラは、臆面もなくその場でカタリナをしっかりと抱きしめた。
 鍛え上げられたノーラの筋肉による締め付けは常人なら少し痛がりそうなものだが、カタリナはされるがままにしながら微かにはにかみ、そっと彼女を抱きしめ返す。

「・・・カタリナ、本当にありがとう。あの時あんたが来てなかったら聖王の槍も取り戻せなかったし、こうして工房が復活することもなかったよ」
「ノーラさん・・・」
「さん、はおよしよ。ノーラでいい。またいつでもおいでよ。マスカレイド程じゃないけどさ、あんたにぴったりの武具はいつでも何度でも、あたしが仕立ててあげる」
「えぇ・・・ありがとう、ノーラ。また必ず寄らせてもらうわ」

 抱擁の後にしっかりと二人は握手を交わし、お土産代わりにと昼食用のサンドイッチが入ったバスケットを持たされる。

「昨夜ご挨拶はさせていただきましたが、ミューズ様とシャール様にも、改めてどうぞよろしくお伝えください」

 残念ながら公務の関係でこの場にはいない二人のことを思いモニカが言うと、それにもトーマスがしっかりと頷いた。

「おーい、そろそろ出港だってよー」

 乗船用の登り台から身を乗り出してモニカ達に声をかけてきたのは、ポールだ。そしてその背後には、キャンディの姿もある。

「キャンディ、あんたがいないと帳簿の整理が詰まっちまうんだから、早めに帰ってきとくれよ!」
「分かってるよ親方!」

 ノーラが大きく手を振りながら声をかけると、合わせるようにぱたぱたとオーバーサイズの袖を振りながらキャンディが応える。
 ポールとキャンディの二人はカンパニーとしての所用などもあって、モニカらと共にロアーヌへ向かう予定だ。
 ポールの声かけに伴い、モニカは名残惜しげにトーマスらを見渡してから最後にもう一度深々と一礼をし、そしてゆっくり船へと向かっていく。
 それに続いてカタリナ、ユリアン、そしてその後ろに控えていたフェアリーも続いていった。
 その様子を、口を真一文字に結びながらじっと眺めていたトーマスは、やがて船へと乗り込む渡し板が外され錨が上げられ、船が港湾を離れるまでずっと、同じ表情のまま見送っていた。
 対照的にその場では笑顔での見送りをしていたノーラが、徐々に離れていく船を見ながらふと真顔になり、そして遂には眉間に皺を寄せる。

「・・・自分たちの国を救ってくれた英雄たちの見送りだってのに、王宮の連中は誰一人来やしない。それどころか邪魔モノ扱いだなんてさ・・・本当にあたしらの国はどうかしてるって思っちまうよ」

 忌々しげにそうつぶやいたノーラの隣で、トーマスは手癖で眼鏡の位置を直し、瞳を細める。

「・・・そうですね。事情があるとはいえ、釈然としない気持ちになるのは俺も同じです」

 二人の表情を曇らせているのは、まさに目の前で行われていたモニカの慌ただしい帰郷劇の内情であった。

「世間的には死亡したとされていたモニカ様の生存が公式に知れ渡り、且つメッサーナ王国へ助力を提案するロアーヌ侯国大使という便宜上の役割も終わった以上、モニカ様については一刻も早い今後の対策が必要ですからね・・・」

 およそ一年ほど前、ツヴァイク公爵子息との婚儀のためにモニカを乗せた船がツヴァイクへ向かう途上、魔物に襲われて沈没した。
 これによりモニカ姫は船もろとも海中に没し、その短い人生を終えた。
 これが、つい最近までのモニカに対する世間的な認知であった。
 だが真実は異なり、モニカは辛うじて生きていた。
 この時点でモニカに示された道は二つ。過去の自分と決別し、人知れず生きていくか。若しくは真実を公表し、元の立場に戻るか。
 ユリアンという生涯を誓い合うパートナーを得たモニカは、一度は母国を捨て彼と共に生きることも考えた。しかし彼女はやはり王者の資質を引き継いだ、英雄の子孫だ。結局は、己の幸福のみに甘んじていられる気質ではなかった。
 それゆえモニカの生存はトーマスを通じ秘密裏にミカエルにも共有され、それ以降は公的な復帰の機会を窺うこととなったのだ。
 そして訪れたのが、此度のピドナ瘴気蔓延に端を発する、急遽のアラケス討伐という難事。
 アビスリーグ事件から立ち直りつつあるピドナへの被害を最小限に抑えるべく、カタリナら人類最強戦力の早期投入による可及的速やかな制圧の実行。且つ、この機にメッサーナ王国に対して数ヶ月前の物資援助の借りも返せる、ロアーヌ侯国的最適解で物事を進めていく。
 これらを実現するにあたり、本件がモニカの表舞台復帰も兼ねる絶好の機会であろうとミカエルは判断した。
 数ヶ月前、四魔貴族ビューネイ率いる魔物郡と交戦、危機的状態にあったロアーヌ軍へルートヴィッヒが支援物資を送ったことへの返礼。そこでルートヴィッヒが一筋縄ではいかない要望を行なってくるであろうことは、考えるまでもなく分かっていた。
 それを牽制しつつアラケスによる世界的被害も抑えるならば、カタリナの戦力を返礼として一時提供することが最も効果的であったし、そのための対ルートヴィッヒ折衝という大役も、侯爵の妹であるモニカならば格式としてなんら問題はない。
 そしてなによりも。
 モニカの復帰とはつまり、かのロード・ツヴァイク、即ちツヴァイク公爵子息との婚儀・・・これを無視してまで生存の事実を伏す必要があったとツヴァイク公国に納得させる事情を、なんとしても成立させねばならなかった。
 これは国家間勢力バランス的には、相応の難事だ。
 十分な大義名分と共に証明できる、正に千載一遇の機会でなければならないだろう。

「モニカ様が伝説の八つの光の一人であり、それを聖王家との連携により知り得て魔物共から保護したのが、メッサーナの名族たるクラウディウス家のミューズ様だった・・・。その筋書きだからこそ、最後の四魔貴族であるアラケスとの対決までは余計な危険に巻き込まれぬよう伏して隠匿した点にも、国際的なバランスが取れる。そこまでが、俺たちの想定です」

 メッサーナ王国に次ぐ大国であり、自軍の強化にも余念がないツヴァイク公国。彼の国に事情を黙認させるための筋書きが、トーマスの言う想定だ。
 トーマスの言う通りにクラウディウス家とロアーヌ侯家が示し合わせれば自動的に、ミューズを陣営に引き入れたメッサーナ近衛軍団もこれに同調せざるを得ない。
 そうしてメッサーナまで巻き込めばこそ、ツヴァイク公国も事情に一定の配慮をせざるを得ず、必要以上の政治的駆け引きが出来なくなる、というわけだ。
 こうして今に至るまでの事情については、一定の解決が見込めていた。
 だがそれはあくまで、アビスの脅威という強力な楔があってのこと。
 それが消え去り隠匿すべき事情も解消されれば、メッサーナとしては自国内でモニカを庇護し続ける理由はない。
 むしろ国内にいられるだけで、ツヴァイクにいらぬ因縁をつけられる口実となりかねない。つまり、政争要因となってしまうのだ。
 となれば後のことは、自国内でやって欲しい。つまり、一刻も早くロアーヌへ帰国願いたいと考えるのが自然だった。
 事実、アラケス討伐を知らせた翌日には態々ルートヴィッヒの署名まで付けて、送迎用に要人専用キャラック船を手配させる旨の書状が使者からハンス邸に届いた。
 即刻お帰りいただきたい、という明確な意思表示だろう。
 こうした事情により、モニカは必要最低限の準備だけを終えて早々に帰国することとなったのであった。

「我々フルブライトとしては、カタリナカンパニーと改めて同盟を組んだ上で、今最も勢いのある国家であるロアーヌに大々的に進出するいい機会でもある。なので、悪いことばかりでもないけれどね。それに世界は間違いなく、君たちが齎した平和に歓喜しているんだ。我々もそれに倣い、このような展開もいい方向に捉えていくしかないだろう」
「・・・・・・そう、ですね」

 フルブライト二十三世の言葉に、トーマスはまるで自分に言い聞かせるように呟きながら浅く頷く。
 世界全体は、確かにこれから三百年、気兼ねなく前に進むことが出来るのだろう。
 世界中がそれを素直に受け入れ歓喜しているのも、もちろん知っている。
 だが、しかし。

(・・・この平和を喜ぶ・・・俺が・・・?)

 ゆっくりとした仕草で眼鏡の位置を直すように手を添えながら少し俯き、すっと目を閉じる。
 すると今も鮮明に、二週間前のあの光景が、瞼の裏にありありと映し出されるのだ。

「・・・・・・・・・冗談じゃない・・・。俺は必ず・・・助ける」

 閉じた時と同じようにゆっくりと目を開き、沖合に出てかなり小さくなった船影へと視線を向ける。
 トーマスは無意識に両の拳をぎゅっと握り締め、風にかき消されるような小さな声で、そう呟いていた。

 

 

 モニカ一行を乗せたキャラック船が、ヨルド海をロアーヌ領ミュルスへ向けて出航したのと同刻。
 それより一足早く同海をツヴァイク公国へ向け出航していたキャラベル船の甲板上に、どの船員よりも我が物顔で艦首に立ち波を見つめる男の姿があった。

「んー確かにこのヨルド海っつーのは、温海や西太洋と勝手が違うな。この波風じゃあ、西より小型で縦帆メインの方が有利だってのも頷けるぜ」

 南国人特有の艶がある黒髪を潮風に揺れるに任せながら、ブラックは全身で航海を堪能していた。
 彼が十年ほど前に主だって活動していた海域と異なる、四つの内海の中で最も奥まった海域であるヨルド海。
 ロアーヌ地方やポドールイ地方を結ぶ航路となるこの海は、外海である西太洋から最も離れた内陸側に位置している。そのためか、海風や波の調子が他の海と異なり航行難易度が高く、また沿岸部では座礁などの危険性も大きい海域だ。
 そのため大型船舶よりも中型以下の船体が海域との相性も良く、帆も横帆ではなく小回りのきく縦帆が好まれる。

「あの・・・お客さん、あんまその辺に立たれてると」
「あぁ!?海の上で俺に指図すんじゃねぇ!!!」

 明らかに堅気ではない様子のブラックに対して懸命に話しかけた船員に向かい、ブラックは理不尽極まりない一喝をする。
 慌てて逃げていく船員の背を不機嫌そうに睨みつけたブラックは、再び海風を満喫するように船首へと向きを戻した。

「ちょっと、あんまり騒ぎとか起こさないでよね」
「あぁ!?」

 背後から掛けられた声にブラックがまたしても不機嫌そうに応じると、今度は全く彼の恫喝にも怯む様子のない人影が、お構いなしに近くまで歩み寄ってきた。

「なんだ、エレンか。お前はこの波でも全然酔わないんだな」
「まぁね。このくらいの揺れとかは全然平気」

 エレンが腰に手を当てながらそう言うと、その後ろから長身の男も近づいてくる。
 いつも通り腰にカムシーンをぶら下げたハリードであった。

「斧は得物に合わせた重心の移動が重要だからな。体幹や平衡感覚が鍛えられるから、こういう時にも役立つんだろう」
「はん、俺様と同じ斧を扱うなんつーおっかねぇ女は趣味じゃねぇな」
「奇遇ね、あたしもあんたは全然趣味じゃないから安心して」

 ブラックの軽口にエレンが軽妙な返しをすると、ブラックは満更でもない様子でニヤリと笑いながらエレン達に向き直る。

「ふん、そういやお前の趣味は、長身黒髪の砂漠の民だったな?」
「・・・うっさいわね。ほっときなさいよ」

 何があったのかは知らないが、半年ほど前にピドナを飛び出していき、その後二週間前に一緒に帰ってきたかと思えば。
 どうもこの二人、距離感が以前と違う。
 実はブラックという男、そういうところに異様な察しの良さを発揮するのであった。
 とはいえ、恐らくこの二人の関係の変化はブラックでなくとも分かったことだろう。
 二週間前に突然帰ってきたかと思えばそのまま魔王殿に向かった後、エレンは強烈な瘴気中毒による昏睡状態で、ハリードによってハンス邸に担ぎ込まれてきた。
 なんでも魔王の斧を使用した代償らしく、エレンが魔王の斧と共にハンス邸から持っていった聖王遺物である栄光の杖の加護がなければ、命そのものが危なかったそうだ。
 そうしてエレンはミューズによる天術の治療魔術を受けながら三日三晩ほど意識が戻らぬまま寝込んでいたわけだが、その間、彼女の元を離れず献身的に世話をしていたのが、誰あろうハリードだったのである。
 普段の彼を思うと非常に意外な光景だとも思えたが、その様子を見ていたシャールが呟いたことを、ブラックは印象深く覚えている。
 曰く「守護する対象を定めた者は、ああなるものだ」だそうだ。
 ブラックにはそういう対象がいたことはないし今後も予定はないが、そういう理由で船を降りる団員を彼は何度か見送ってきた。だからなのか、存外すんなりと理解することはできる。

「別にいいじゃねえか。惚れたやつが近くにいるってのは、悪いもんじゃねえんだろう?」

 それははたして、どちらに投げかけた言葉なのか。
 ハリードもエレンもお互いをちらりと見たかと思うと、満更でもなさそうな顔でうっすらと笑みを浮かべ、すぐ元の表情に戻る。
 あぁ、やだやだ。こんな感じのナチュラルな惚気オーラを浴びながら暫く行動を共にすることになるのかと思うと、気が滅入るというものだ。

「ったく・・・見てるだけで腹一杯だぜ。なぁお前もそう思うだろ、ロビン」

 エレン達の少し後方、右舷側甲板の縁にへばり付いている瀕死のロビンへと、ブラックが声をかける。
 もう吐き出すものがないのか、時折口から胃液をぽたぽたと海面に滴らせながらぐったりしていたロビンは、無言で右手だけ上げてブラックの声に反応した。残念ながら、喋れる状態ではないようだ。

「・・・こいつはツヴァイクに着くまでダメそうだな。そうするとあと話し相手になりそうなのは・・・」

 そう言いながらブラックは、ぐるりと甲板を見渡す。
 するとその視界の端、甲板の後方に、線の細い人影を見出す。

「あの辛気臭せぇガキだけか・・・」

 一人甲板の後方に立ち海面を眺めているのは、見慣れない衣服を纏った少年。
 二週間前のあの日、魔王殿から帰ってきた五人の中の一人。カタリナ、トーマス、ハリード、エレンと、そしてあの見慣れぬ衣服に身を包んだ、謎の少年。
 少年は、自分のことをテレーズと名乗った。なんでも、サラが少年にそう名付けたのだそうだ。
 常に下を向き、陰気で口数少なく、やっと喋ったかと思えば口から出てくるのは辛気臭い言葉ばかり。率直に言って、ブラックが最も嫌いなタイプの人種だ。

「・・・けっ、楽しい旅になりそうだぜ」

 手癖なのかガリガリと耳の後ろあたりを掻きながら、ブラックはもう一度、広大なヨルド海へと半眼で視線を投げかけた。

 

 

 ピドナを出航してから五日ほどで、モニカらを乗せた船は無事にミュルス港へ入港した。
 カタリナとしては実に一年半ぶりに訪れたミュルスだが、なんだか以前訪れた時よりも活気があるようにも感じられる。
 いや、それはあの時の自分が周りを確りと見られておらず、今になってちゃんと見たからそう思うだけなのかもしれない。なにしろあの時は、自らの不手際で奪われてしまったマスカレイドを取り戻すため、殆ど当てもなくこの街を彷徨っていただけなのだから。

「それじゃあ俺とキャンディは、すこしばかりミュルスに滞在してからロアーヌへ向かうよ。まぁ、この先はいよいよ立場が違うから会える保証もないだろうけどな。とにかく、道中気をつけてな」

 ミュルスの東門からロアーヌへ向け侯族専用の馬車に乗り込むモニカ、カタリナ、ユリアン、フェアリーを見送るように、ポールとキャンディが手を振る。

「いいえ、必ずロアーヌ宮殿を訪ねてくださいませ。お二人のことは、しっかり城の者に話しておきますわ」

 モニカはそう言いながら少し寂しげに微笑むと、トーマスらの時と同じく一礼し、馬車に乗り込んだ。

「・・・ユリアン、この先結構大変だと思うけどさ、がんばれよな」
「・・・あぁ。お前も元気でな、ポール。キャンディも、またな」
「うん、またねー」

 年も近かったからか色々と気が合ったらしいユリアンとポールは、互いに固く握手を交わしながら短い別れの言葉を送り合う。
 そしてユリアンも馬車に乗り込んだあと、ポールはカタリナに向かい合った。

「カタリナさんよ・・・あんたとは妙な縁だったが、いよいよここでお別れなんだな」
「そうね・・・カンパニーの方は、トーマスと共によろしく頼むわ。ただし、まだまだ未熟なんだから剣の鍛錬も怠らないこと。あと、忙しくても折を見てキドラントには定期的に帰ること。ニーナちゃんをあまり寂しがらせてはダメよ」
「おいおい、お袋かっての・・・まぁ、分かってるよ。もう昔の俺じゃないつもりだ。しっかりやるさ」

 そう言いながら差し出されたポールの右手を、カタリナはしっかりと握り返す。
 小煩く言ったが、こうして一年以上もさまざまな旅を共にしてきたこの男ならば、きっとこれからも上手くやれることだろう。少なくとも自分よりは器用に立ち回れるだろうな、という確信もある。

「フェアリー、ウチ絶対いつか妖精の里行くからね」
「はい、キャンディさんが来る時は、新しい妖精の里を案内しますね」

 いつの間にか目端に大粒の涙を浮かべ、キャンディがフェアリーの手を両手で握りながら語りかけている。
 フェアリーが何歳なのかなどは聞いたこともないが、確かに二人は見た目の年頃は似ている。というか、フェアリーの方が幼く見えるくらいだ。なのでキャンディにとってフェアリーは、歳の近い友人というイメージだったのだろう。別れを惜しむのも頷けるというものだ。

「それじゃあ、二人とも元気でね」

 短く別れを告げ、カタリナとフェアリーも馬車に乗り込む。
 そして間も無く馬車は、ロアーヌへ向けて走り始めた。急ぎ便であればロアーヌとミュルス間は日中いっぱいを使って駆け抜けることも可能だが、それは流石に乗客にも負荷がかかる。なので今回は、途中に宿場を挟んで明日の午後にロアーヌに着く予定だ。

「・・・本当に、寂しくなりますわね」
「モニカ・・・」

 長く美しい睫毛が儚げに揺らめき、それに合わせて艶やかな金色の横髪が顔にかかる。それを気にしない様子で少し俯きながら呟いたモニカに、隣のユリアンがそっと彼女の手を握ってやった。
 この一年半ほどの間には、本当にいろんなことがあった。
 それはカタリナにしてもそうだが、他の面々にしてもそうだったはずだ。
 皆に多くの苦難があり、それと同じく多くの出会いもあり、とても短い言葉では言い表すことができないような、沢山の事を経験してきた。
 特にモニカはその立場ゆえに他者とは異なる心労があったことも想像に難くなく、更にはこの先にも幾つかの困難が待ち受けているのが目に見えている。
 だから尚のこと、束の間の楽しかった日々が強く思い出されるのだろう。
 カタリナは自分も彼女に長く仕えた家臣の一人として、これからもその支えにならなければいけないと心を新たにする。例え、関わり方がどのような形に変わろうとも。
 それからは馬車の中で殆ど会話らしい会話もなく、馬車はかつて世界を救った英雄の一人が先陣を切って駆けたとされるミュルスロアーヌ間を結ぶメイン街道、フェルディナント街道をゆっくりと進んでいった。

(・・・・・・私は、これからどうするべきなのだろう)

 馬車の外に流れる風景をぼんやりと眺めながら、カタリナはふと、そんなことを思う。
 これはミュルスへ向かう船の中から、いや、そのもっと前から考えていたことであった。
 王家の指輪を受け取ってから始まった八つの光としての使命は、四魔貴族を打ち倒したことで果たされたはずだ。そして、それを成したら聖剣マスカレイドを返上するとミカエルに約束したのだから、まずはそれをする。それは、既に決まっていることだ。
 だが、その先はどうするべきなのだろうか。
 まず以て、もう旅に出る前の状況に戻れないのは明らかだ。これは、旅の途中にも何度か思いを馳せたことでもある。
 そもそも彼女が最も長く側に仕えた主人たるモニカは、ユリアンと生涯を共にするという固い決意を秘めて帰国の途についている。つまりこの先、彼女の最も近くにいるべきはそもそも自分ではなく、彼なのだ。
 もちろん、そう易々と事が運ぶとは考えてはいない。侯族たるモニカと開拓民であるユリアンでは、あまりにも身分が異なる。
 それこそ、平民出身の母を持つミカエルやモニカが幼い頃に苦しめられてきた境遇以上の過酷さが、そこには待ち構えていることだろう。
 故にミカエルがそのまま許すことは、まず考えられない。
 だが仮にミカエルが認めなかったとしても、モニカはもうそれに従うことはないだろう。彼女は今も誰より兄を敬愛しているが、しかしそれだけが彼女の心の拠り所ではなくなったのもまた、事実なのだから。
 そしてきっと、ミカエルもまたモニカの意思を今なら何らかの形で尊重するような気もしていた。
 旅に出る前に比べれば、カタリナにも少しは世界のこと、経済のこと、国家のことなどが見えるようになったから尚の事、そう考えるのかもしれない。
 確かに一年半前のあの時、モニカをツヴァイクへ嫁がせるという判断は、彼女の身の安全にとって最も良い選択だったのだろうと思う。その上で国家間の勢力バランスにも悪影響の出ない、状況的に最善と思わせる采配だ。
 きっとモニカもその意図が分かっていたから、悩み、涙し、それでも最後は承諾したのだろう。
 だが、時と共に状況は変わった。
 この一年半だけでもロアーヌの国力は急激に増大し、魔物の活動が沈静化していくであろう今後は、更なる躍進が確実視される。
 その勢いに当然ながらツヴァイクを含めた諸国は危機感を抱き様々な形でロアーヌへと関わってくるであろうが、今の国力とナジュ地方へ跨る流通網を得たミカエルの外交手腕ならば、さしたる問題にはならないだろう。
 つまり、ツヴァイクに対しても過度に下手に出る必要はもうないのだ。
 となればモニカという人格をむざむざ不幸に誘う選択肢を、ミカエルが取るはずはない。カタリナにはそんな、根拠のない確信があった。

(二人のことに関しては、私も微力ながら口添えはさせていただこう・・・)

 それはかつて、ピドナのパブ・ヴィンサントでユリアンにも約束したことだ。モニカの幸せを願う気持ちならば、ミカエルにだって負けないつもりではいる。

(・・・だけど、私自身は・・・)

 自分のこととなると、また話は別だった。
 ロアーヌ侯国にとってカタリナ=ラウランという元侍女にして騎士は、建国時から伝わる国宝を一時紛失させた罪人でもある。通常ならば、相応の処罰をされるのが妥当であろう。

(そりゃあ言い渡されれば斬首だろうと受け入れる覚悟だけれど・・・ミカエル様はお優しいから、それをしないだろうことも薄々分かってる。それに八つの光という聖王教会における最上級の特性を考慮すれば、私には相応の利用価値もあるわ・・・だからこそミカエル様がお示しになられる道に従い、これからも剣としてロアーヌに尽くせるのならば。それは何も迷うことなんてない、とても幸福なこと・・・)

 そう、迷うようなことではない。
 だというのに、彼女は何よりまず最初に、こう思ったのだ。
 自分はこれからどうするべきなのであろうか、と。
 世界には、三百年の平和が訪れた。我々はそれを喜びとともに受け入れ、其々が前を向いていかなければならない。
 そのはずなのに、彼女の中には、とても大きなしこりがある。
 そしてその原因も、実のところ凡その目星はついていた。

『あたしはサラを探す。生きてるなら必ず探し出して、絶対に連れ戻す』

 二週間前、あの決戦から数日後。
 ハンス邸でそう言い放ったエレンの言葉には一切の淀みがなく、他の全てを犠牲してでもそれを成し遂げるという強い決意がそこにあった。
 例えそれが全世界から非難される行為であっても、彼女にはそんなことは一切関係ないのだ。ただ彼女がそうするべきと確信したから、行動するだけ。
 その強い意思と言葉を前に、カタリナは何も言うことができなかった。

(私には、あんな言葉を紡ぐことは出来ない・・・私は、ロアーヌの剣なのだから・・・)

 八つの光としての使命を果たした今、これからは改めて一人の騎士として、誠心誠意ロアーヌ侯国に仕える。それが自分の、正しく行うべきこと。

(なのに・・・なぜ私は、今も迷っているのだろう・・・)

 

 

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第九章・3 -お・も・て・な・し-

 

「・・・しかしこれはまた、実に煌びやかな宴席ですな」

 そこは果たしてこの世か、はたまた楽園か。
 老紳士は、見たこともないような火を使わぬ照明器具で華やかに装飾された宴会場と、その中央舞台の上で楽人もなく流れる音楽に合わせて踊る金髪の女性を眺めながら、豪奢な料理が盛られたテーブルの向かいに腰掛けるラブ=ドフォーレへと声をかけた。

「いえいえ、本来ならばバンガード全てを貸し切ってでもおもてなしを差し上げたかったところですよ、バイロン卿」

 ラブはそう答えながら、優雅にヴィンテージワインが注がれたグラスを傾けた。
 今宵の主賓であるこの老紳士は、フルブライト商会要職であると同時に商業都市国家ウィルミントンの執政議会議員を代々務める名家、バイロン家の当主だ。
 その名はウィルミントンで最も名のあるホテルに冠せられているほどで、フルブライト商会においても数代に渡り並々ならぬ功績を共に築き上げてきた家柄でもある。
 このバイロン卿を筆頭に、この日は総勢百名にも迫ろうかというほどのフルブライト商会関係者をこの会場に招いており、各々が最高級の料理と酒、そして数々の趣向を凝らした催しに興じている。
 トレードの際によく用いられるお持て成しの規模としては、間違いなく史上最大だと言えるだろう。

「あの舞台上で踊っておられるのは・・・ひょっとして、かの有名なプロフェッサーですかな?」
「流石はバイロン卿、博識でいらっしゃる。あのツヴァイク公をパトロンとして射止めたというダンスだそうで、私も初めて拝見しましたが、確かにこれは一見の価値がありますな」

 教授がダンスを踊る舞台周辺には、確かに会場にいる大半の来賓が集まっており、大変な盛り上がりを見せていた。
 それは例えば場末の酒場で見られるような、聞き慣れたフィドルやギターに合わせて舞う踊り子のそれとは、全く様相の異なったものであった。
 楽人など周辺に一人も見当たらないというのに、何処からともなく流れ出てくる複数の楽器が奏でる音楽に合わせ、時に激しく、時にムーディーに変調していく演奏に併せて一心不乱に踊り上げている。
 更に、色彩豊かに変化しながら予め敷かれた導線上を動き回る照明演出が場を盛り上げ、そのステージを、嘗てない至上のエンターテイメントへと昇華させているのだ。
 これら音響器具や照明等も教授の自前機材であるらしく、確かにその未知なる演出はこれまで見たことがないようなもの故に、ステージ周辺は異様なほどの盛り上がりを見せていた。

「この後もこの会場では様々な催しを準備しておりますが・・・実はバイロン卿には、このバンガードでしか体験できない特別な席をご用意させていただいてましてな。よろしければ今から、其方へご案内さしあげても?」
「ほう・・・それは楽しみですな」

 そう答えるバイロンに対しラブは上機嫌な様子でグラスの中身を飲み干し、ゆっくりと席から立ち上がった。

「折角ですから、そこで少し面白いお話でもさせていただきましょう。ただ、席の装飾が非常に繊細な場所でしてな。ご同伴は最小限に留めていただけると有り難いのですが」
「・・・では、私と執事のみで向かいましょう。よろしいかな?」
「ええ、もちろんですとも」

 ラブの言葉から何かの意図を察したのか、バイロンは自らの顎髭を撫でつけながら応じつつ立ち上がった。
 そのまま二人と連れの執事は盛り上がりを見せる会場を後にし、すぐ目の前の中央広場へと向かう。
 そこには大きな噴水と巨大なイルカ像が鎮座しており、すぐ近くには護衛が立つ小さな入口があった。

「・・・聖王記に記された伝説の通りに目覚めしバンガードは、この表向きの市街地ではなく、その内部こそが伝説の本懐。今宵、その最も素晴らしい眺望へと、卿をご案内しましょう」

 入口を守る護衛がラブの姿を見てゆっくりと扉を開けると、ラブは仰々しい口上を述べながら、バイロンを中へと招いた。

 

 

 ハンス邸での会議から、二週間ほどが経過していた。
 船や荷馬車の往来が殆ど無くなっていることで、以前からすれば不気味なほどに静かな日中が過ぎ、そして太陽が遠く静海の向こうへ、ゆっくり落ちていった後のピドナ市街。
 このような状況の中、それでも日々の労働を終えた市民たちで中央通りは、にわかに賑やかさを増していく。
 特に、中央通りの中でも集客の良い一等地に店舗を構える老舗パブ、ヴィン・サントには、今日も多くの市民が日中の疲れや不安を癒しに立ち寄っては、思い思いに杯を傾けていた。
 ピドナ全体が未曾有の流通危機に晒されていても、人は一時の憩いを求めてしまうものなのだろうか。

「・・・今頃、バンガードじゃ宴会とかしてる頃かなぁ。なーんかさ、こうしてトレードの結果を待つだけってのも、けっこー落ち着かないよね」

 そんな喧騒に紛れて、テーブルの一箇所に集まった、風変わりな四人の面々。
 その中でも一際奇抜な服装で且つ幼い少女・キャンディは、テーブルの上で頬杖をつきながら、言葉の通り落ち着かなげにそう言った。

「・・・まぁな。しかもその大役の実行者が、あのラブ=ドフォーレだってんだからよ・・・。まったくベントの旦那は肝が据わってるっつーかなんつーか・・・」

 キャンディの正面に座るポールはいつものように肩を竦めながらそう応えると、目の前のビアジョッキを手に取って豪快に傾ける。
 その隣で二人の会話に耳を傾けつつ、紫煙を燻らせながらウィスキーの杯を傾けていたノーラは、テーブルの上に視線を向けた。
 目の前の小さなテーブル上に並べられているのは、バンラスの悪そうな木製の皿にこれでもかというほど盛られた蒸かし芋と、塩漬け肉、鱈の塩漬け、そして芋に振りかける用の塩が少量入った、小皿。

「しっかし・・・塩、ねぇ。前に確かキャンディも言っていたけどさ、こいつが本当にそんなに大きな金を動かすものになるんだねぇ・・・」
「ま、塩がなけりゃなんもかんもすぐ腐っちまって、海に長期間出ることなんてできなかったしな。船乗りにとっちゃ、確かに死活問題だな」

 塩漬けの鱈を一切れ摘み上げて口に放り込みながら、ブラックがノーラに続く。
 それにはポールも、うんうんと頷いてみせた。

「あぁ。それこそ俺の生まれのキドラントなんざ、作物は殆ど育たない土地だからな・・・こんな感じに塩漬けした肉と鱈がなきゃ、あそこじゃ冬すら越せない。正に命の源なんだよな、塩ってのは」

 集まった四者は思い思いにそんなことを言いながら、目の前のつまみと杯を交互に口に運ぶ。

 二週間ほど前にハンス邸でトーマスから明かされた、このピドナ未曾有の危機における、起死回生の為の一手。
 それこそが、カタリナカンパニーからフルブライト商会へのトレード攻勢という、正に前代未聞の超難事だった。
 これを実行に移すにあたり、前年のドフォーレとの対決で殆どの自社資金を放出してしまったカタリナカンパニーが持ち出す、この史上最大規模トレードへの、資金源。
 果たしてこれについてトーマスが提示したものこそ、正に今この食卓に並んでいる『塩』であった。
 より正確を記すならば、ドフォーレ商会所有物件の一つで、現在は一連の騒動により閉鎖しているヤーマス塩鉱から取れる岩塩の『優先取引契約権』というものである。
 全世界の食糧保存事情等に欠かすことのできない『塩』を供給するにあたり、その大規模な生産地というものは実際のところ、この世界では非常に数が少ない。
 この三百年の歴史を顧みても、独自に安定した塩の確保調達手段を保持しているのは、世界を見渡してもツヴァイクとナジュ地方くらいのもので、それ以外は海棲魔物の襲撃と隣り合わせとなり危険度が高い沿岸の塩田事業が主である。
 そんな中、死蝕直後の海運事業拡大を発端とした急成長の末にドフォーレが採掘に成功したのが、件のヤーマス塩鉱であった。
 ドフォーレはここで採れた岩塩を精製し、それを麻薬と少しずつ混ぜながら流通させることで人類を蝕んでいくという大悪行のため、利益度外視で世界中に自社製の塩を供給拡大させていった。
 加えて、元より魔物襲撃の危険性を孕んでいた世界各所の沿岸塩田を、ドフォーレは裏で魔物と組んで集中的に襲撃までしていたのだ。
 それを示す証言も、神王教団ピドナ支部の残党から取れている。
 このように塩に関わる価格操作がこの十年内で秘密裏に行われていた実態が複数判明しており、その影響により塩の供給状態や価格は近年で大きく変動していたのであった。
 ここまでが、世間に未だ秘匿されている、一連のドフォーレ買収劇の裏に潜む真相である。
 だが、仮に、だ。
 仮にドフォーレがそんな悪事を考えず、真っ当に適正価格としてこの塩鉱から出る塩を扱っていたとしたら。
 もしそうしていたならば、それこそ冗談ではなく『一国が建つ』程の、途方もない財を生み出したことであろう。
 この世界における塩鉱とはそれほどまでの、正に金脈にも等しい代物であるのだ。
 事実、現在ヤーマス塩鉱からの供給が途絶えているこの数ヶ月で、世界中の塩の価格は既に倍以上に高騰している。
 その状態にあって安定供給が見込める塩鉱となれば、正にどの商会や国も、喉から手が出るほど欲しいことであろう。

「ヤーマス塩鉱は、現在判明している塩鉱規模としては恐らく世界最大級だからな。ドフォーレはそれを別の目的で使っていたが、本来ならばもっと莫大な利益を生み出せる代物だ。本来ならカンパニーの主力産業として慎重に扱うべきだろうが・・・」
「それを、まさか代理戦争の餌に仕立てちゃうとはねー。ほんとおっそろしいよね、トーマスさんは」

 ポールの言葉にキャンディが果汁で薄めた白ワインの杯を傾けつつ返すと、それには一同が何の疑いの余地もない様子で深く頷いた。
 この塩鉱取引権をオーラム代わりにトレードのテーブルに乗せることで、フルブライトへ対抗して見せよう、というのがトーマスの狙いなのである。
 だが、これを効果的に利用するには、カタリナカンパニーとフルブライトという二社の対立だけでは、残念ながら成り立たない。
 もう一つの要素が、必要だ。
 ここでトーマスが打診をしたのは、誰あろう、世界最大国家メッサーナ王国にて実権を握る、ルートヴィッヒ軍団長その人であった。
 この時トーマスは既にルートヴィッヒへ内々で取引を持ちかけており、仮にメッサーナがこれの優先取引契約権を買った場合の仮提示額面として『十億オーラム』を一時的な条件として引き出していたのである。

「しかもこの取引の恐ろしいのは、塩鉱が麻薬工場と一緒くたになって混ぜ物を世界に流出させていたっつー証拠を、俺たちだけが握っている・・・ってところよ。こいつは、ルートヴィッヒ政権にとって最も表に出てほしくない情報だ。その証拠がこっちにある以上、まだまだ提示額は引き上げにいくことが可能だろうよ」

 腕を組み、周囲を気にしてかテーブルに乗り出すようにしてポールが小声で言うと、反対に気にした様子もなくガタンと音を立てて同じく身を乗り出したキャンディが、うんうんとそれに応えた。

「そこだよね! もし取引権を他の誰かが抑えちゃったら、そこらへんが漏れて世界に全バレする危険性があるもん。そしたらドフォーレを止められなかった今のメッサーナ王宮を、いよいよ誰も信用しなくなっちゃう。そうなんない為にどんだけお金積んでも止めにくるってのは、分かりきってるハナシだよね」
「だーばかたれ!声抑えろっつの・・・。だがまぁ、その通りだな。つまり今回のこのトレードは、カタリナカンパニーとフルブライト商会のトレードっつーより、疑似的なメッサーナとフルブライトのトレードだ。まさかドフォーレ退治の土産をここで使うとは、全く旦那には毎度、度肝を抜かれるよ・・・」

 ポールとキャンディが興奮を抑えられずはしゃぐように盛り上がる様子を尻目に、ノーラとブラックはそれぞれに呆れたような苦笑いをしながら酒の入った杯を傾ける。だが、彼らのいうことは確かな事実なのだ。
 つまり今回トーマスが言い出したこのトレード案は決して無謀な挑戦などではなく、しっかりとした根拠やこれまでの下準備を基にした、勝機を見据えた行動ということなのである。
 それ自体には、トーマスの説明を受けた誰もが彼の手腕に驚嘆し、この勝負への確かな希望を見出したのだ。
 しかし。
 それでも今ここに至り未だ腕を組んでどこか憮然とした表情のノーラは、咥え煙草で呟いた。

「しかしさ。そんな奥の手まで使った世紀の一大トレードだよ? それを、よりにもよってあのドフォーレに任せるってのはね・・・。あたしには、やっぱりちょっとその狙いまではわかんないけどね」

 ノーラの疑問は、最もであろう。そして、そこにブラックが口の端から煙を吐き出しながら同調した。

「まぁそいつには同感だな。それこそトレードの実行役は、発案した副社長様やポール、なんならこのキャンディ嬢ちゃんでもいい。もっと人選のしようがあったんじゃねーか?」

 根元近くまで灰になった吸い殻を椅子の下に落として踏みつけると、途切らせる様子もなく続けて新しい煙草に火を点けながらブラックは続けた。

「俺が言うのもなんだがな。悪人てのは・・・どこまで行っても悪人だ。俺は直接ラブ=ドフォーレってやつを見たことはねぇし、洗脳されてただかなんだかも知らねぇけどよ。どうであれ長く裏家業に浸かってきた奴が、そう簡単にお利口な常識ってやつに従うなんざ・・・思わねぇ方がいいぜ?」

 彼のその言葉には、その場の他の誰にも持たせることのできない、ある種の凄みのようなものが宿っている。

「まぁなんつーか・・・毒には毒を、みたいな感覚だとは思うけどな・・・」

 ブラックの言葉に、どこかいつもと違って歯切れの悪い様子で答えたポールは、フォークに刺した塩漬け肉を口の中に放り込み、エールで一気に流し込んだ。

 

 すっかり陽が落ち、いつにも増して辺りを通る人影が殆どない、ピドナの商業区通り。
 賑やかさを保つ中央通りとは対照的に辺りの大半を暗闇が覆う中で、煌々と明かりが灯るハンス邸の奥まった箇所にある一室。ここにも、四人が集まり杯を交わしている。

「・・・確かに、人選がドフォーレというのは、私も些か気になるところではある。フルブライトとの対決の可能性まで見えていたならば、正直あのままキャンディさんがヤーマスからウィルミントンに向かう方が良かったのではないだろうか?」

 ロビンが陶器製の杯を傾けながら、正面で同じく脚付きのグラスでワインを傾けていたトーマスに向かい、真っ直ぐな瞳で問いかける。

「・・・キャンディやポールには此方でやって欲しいことがある、とのことだったが。それにしても他に選択肢がなかったものか、と思ってしまうのは・・・私も同感だな」

 トーマスがその言葉にどう返答しようかと考えを巡らせていると、控えめな様子でシャールもロビンの言葉に同意するように口を開いた。
 ちなみにこの場でシャールが飲んでいるのは、水だ。別に彼は酒が飲めない訳でも弱い訳でもないが、水が飲めるならば水がいい、というタイプの人間である。スラム街では清潔な水自体がなかなか飲めない、というのも理由にはあるかもしれないが。
 そんな二人の様子とトーマスの表情を交互に見ながら、ミューズは暖かい紅茶にブランデーを数滴垂らしたものを静かに口に運んでいる。

「・・・そうですね。今後の流れに関することなので、この面子ならば、他言無用ということでご説明しましょう。ドフォーレに任せた理由は、勿論いくつかあります」

 トーマスはテーブルに並べられたカットチーズを雑に口に放り込みながら、語り始めた。
 まず、キャンディやポールにトレードを任せなかった理由。
 これは、トレードの後に控える行動に関してどうしても彼らが必要である、というのが最大の理由だ。
 このトレードに思惑通り勝利することができたとして、そのあとはリブロフやナジュあたりの地域にアビスリーグの大凡の拠点が絞られる。そこを速やかに叩くには、どうしてもトレードの知識を備えた人員を派遣する必要があるのだ。
 カタリナカンパニーの中で言えば、現状でそれを担えるのはトーマス、キャンディ、ポールの三人くらいのものなのである。
 とはいえ流石にトーマスがここから動くわけにはいかないので、後の二人に手分けしてそれを実行してもらう、というのが彼の頭の中にある絵だ。
 なにしろフルブライトとのトレード終了からアビスリーグ補足までの猶予期間は、非常に僅かな期間であるだろうと、トーマスは踏んでいる。
 今回のトレードに勝利すれば、確かに此度の大勢は決するだろう。
 だが、ここまで事前に何も此方に悟らせずにピドナの孤立まで事を運んでみせた程の用意周到な集団が、そう簡単に尻尾を掴ませるとは、彼には考えられないでいた。
 大勢が決してから、アビスリーグが地下に潜るまでの、僅かな隙。
 ここを突いて彼らを炙り出し、ここで徹底的に叩き、壊滅させる。それが出来なければ、彼らは再び水面下で次なる企みを進める事であろう。
 何より、ここで逃してしまった後で彼らが次に手を打つとしたら、先ずは今回の解決に動いた面々を個々に暗殺等で動く可能性が非常に高くなる。
 それを阻止するには、ここで必ず仕留めなければならないのだ。
 そのためには速度が最重要で、本来ならばもっと人員がいくらでも欲しいほどである。
 ここに、サラがいてくれたなら。何度もそんなことをトーマスは頭の中で考えたものだが、しかし無い物ねだりをしても仕方がない。

「なるほど・・・ここで仕留めるには、そうするしかなかったということか。それは、理解できる。悪は根絶をしない限り、再び悪巧みをするものだからね」

 ロビンは感心したように小さく何度も頷き、腕を組みながら感想を述べる。

「キャンディとポールがそこに必要なのは分かったが、ではこのトレードの実行者にドフォーレを人選した理由はなんなのだろうか。それもやはりトレードの知識云々という点だけで、そこに人格的な選択要素はなかった、ということに・・・?」
「・・・いえ。ご指摘の通り、当然その不安要素はあります」

 続けて述べられたシャールの鋭い指摘に、トーマスは隠す様子もなく少し困ったような顔で笑いながら応えた。

「ラブ氏は、トレードに関する知識や技術的な能力は元より、今回の相手であるフルブライト商会に関する様々な情報やコネクションも備えており、この局面での配役としては最適解であると言えます。いくら此方の資金的な手札が強力であるとはいえ、それを扱う人物が素人では話になりません。此度のトレードに勝算を見出すという点では彼しか選択肢がなかった・・・というのは、正直なところです」

 そこまで言ってワイングラスの中身をトーマスが飲み干すと、すかさずロビンがやたらと手慣れた仕草でボトルからトーマスのグラスへとワインをサーブする。
 トーマスは恐縮しながらそれを見届けて礼を言い、再度グラスを手に取ってから続けた。

「そして、シャールさんやロビンさんが仰る懸念点も、当然理解しています。例えば今の彼に、ある程度の裁量を持たせた場合。その時彼は、一体どう考え、どう行動するだろうか・・・。それが、今回の采配の鍵になります」

 ラブ氏の父であるモンテロ=ドフォーレが魔物に乗っ取られる前の情報は、何もない。
 そうなると彼の人となりというものは、魔物に操られていた以降で判断するしかないのだ。これについてトーマスは、キャンディがヤーマスに滞在している間、定期的に彼の人となりについて、彼女に観察してもらった結果を手紙で受け取っていた。
 それによればラブ=ドフォーレという人物は、実に「みたまんま」である、というのがキャンディの見解であった。
 でっぷりと脂の乗った身体のあちこちに散りばめた悪趣味なほどに輝く装飾品、己の欲望に非常に忠実で終始傲慢な態度、財力や権力を盾にした人の見下し方。
 それらは魔物に操られていた時となんら変わらぬ・・・つまり、紛う事なき彼自身の性分である、と。

「・・・不安しか抱かない情報だな・・・」

 シャールがそう言うと、それにはミューズとロビンも頷いた。
 トーマスが続ける。
 キャンディが観察してきた短い期間の中でも、彼の行動基準というものが、なんとなく見えてきたのだという。
 彼は先に述べた通りの性分ではあるものの、しかし仕事は驚くほどよく行うのだ。
 現地ではキャンディが監査役を兼ねて活動していたが、その下で動くラブという人物は、実に勤勉に働いていたのである。その働きぶりは、全く他の追随を許さぬほど圧倒的なものであった。
 というより、他が働けていなさすぎる、ということにキャンディは早々に気がついた。
 それは個々の能力云々というより、仕事そのものに慣れてすらいない、といった様相なのだ。
 つまりは驚くべきことに、彼以外に商会経営というものについて尺たる知識を持つものは、ドフォーレ商会の中には一人もいなかったのである。
 それらの状況について不思議に思ったキャンディがラブに尋ねたところ、彼は臆面もなく、こう言ってのけたのだという。

『市長も含めて、この町はグズ共の集まりだ。そして俺は、グズ共のやるグズグズした作業を見ているのが一番イラつくんだよ。だから俺がやっているんだ。この町は俺がいなけりゃ、今だに小さな漁村止まりだったろうさ。それこそ、バンガードのマッキントッシュあたりに食い物にされてただろうな』

 これは、彼の行動基準を表す非常に有用な言葉であろうと、トーマスは感じた。
 彼は、間違いなく優秀だ。いくら魔物に操られていたからといって、彼にそもそも能力がなければ、ドフォーレ商会はこの短期間でここまで大きく成長などしなかった。
 だが一方で、彼は指導者としての性格に向くとは言えない。自分の右腕になるような人物を一切用意していないことが、その確固たる証左だ。しかも、彼はそれでよし、とするきらいがある。
 つまり、彼の中には自分の理想とする水準があり、それに到達するための自己努力を惜しまないという性質が垣間見える。
 強い自己顕示欲。それを事実たらしめる実績と行動力。自らに及ばぬものを見下し、歯牙にも掛けない選民思想。それらで形作られているのが、ラブ=ドフォーレという人物だ。

「私がそこから導き出した道筋は、彼が望む水準の舞台を用意すること、です。彼が踊るに値する舞台を用意すれば、彼は演者として必ずそこに立つ。私が彼にそれを示すことができるかどうかが、今回彼を采配する上での鍵というわけです。私の器が知れてしまえば、彼は此方の意図せぬ動きをするでしょう」
「それはなんとも・・・我々には想像すら難しい話だな」

 トーマスの言葉を聞きながら、シャールはすっかり眉を顰めつつ唸った。
 彼の覚えているラブとは、最初で最後、ヤーマスでの一連の騒ぎの最後の瞬間だ。それはそれは大層な情けない姿で、キャンディの前で尻餅をついている小悪党丸出しの男、というだけであった。
 それについてつい口を滑らせると、ミューズは酒が効いてきたのか少し上機嫌な様子で相槌を打った。

「だからこそ、トーマス様の狙いに沿うのかもしれませんよ、シャール。物事が自分の想定の上をいく場合には、人としての弱さをちゃんと露呈する。それは、統べる上で活用すべき、有用な特徴です」

 流石は超名門の家系といったところか。帝王学を納めたミューズのその指摘は、非常に説得力があるものであった。
 シャールは、それにこくりと頷く。

「なるほど、確かにミューズ様の仰る通りかもしれません。しかしいずれにせよ・・・私たちに今できるのは、待つことだけですね」

 

 

「強い自己顕示欲。それに見合う実力。そして、それを裏付ける実力主義と排他思想。しかし・・・君にとってはそのどれもが、真実の姿ではない。この席で改めて、そう感じ入るよ」

 地上の宴とは打って変わり、静寂に満たされた、海の中。
 その中にあって、うっすらと青白い光に満たされ、分厚い硝子の壁の向こうから仄暗い海の中を泳ぐ魚たちが、しきりに中の様子を伺うように周辺を遊泳している。
 移動要塞バンガードの海中艦橋に特別に用意された、この世でただ一箇所と言っていいであろう景色を堪能できる、至高の宴席。
 その席について実に満足そうな表情を浮かべたバイロンは、テーブルの向かいに座るラブに向かい、なんでもない様子でそう言った。
 バイロンの言葉を受け、ラブは咥えた葉巻から鼻腔を通じて大量の煙を吐き出し、実に鋭い視線を相手に向けながら口の端を吊り上げる。

「・・・バイロン卿。お察しの通り私はね、こんな下らんトレードなぞに興味はないのです。カタリナカンパニーはヤーマス塩鉱を餌にメッサーナの近衛軍団から資金を巻き上げるつもりだが、それで結果フルブライトに勝ったとしても、私にはなんの関係もない」
「心中、お察ししましょう。此の期に及んで今更メッサーナの犬というのは、些かドフォーレのご子息には不釣り合いだとは感じていたところです。そのお姿には亡き父上もさぞ、お嘆きでしょう」

 バイロンが眉ひとつ動かさずにラブを見返しながらそう言ってのけると、ラブは今度は上機嫌そうに笑い、そして葉巻を蒸した。

「はっはっはっは。流石はバイロン卿、矢張りフルブライトで話すならば貴方様ですな。それでは・・・そろそろ本題に入りましょうか」

 そう言ってラブが左手を軽く上げると、側に控えていた執事が一礼をしながらその場を立ち去っていく。それを見たバイロンもまた、側に控えさせていた執事を艦橋の外へと下がらせた。
 それを横目に見届けたラブは、テーブルの上に両腕を乗り出すように乗せて両の指を組み合わせ、微動だにせぬバイロンへと向かって語りかけた。

「貴方がフルブライトを手中にし、私は再びヤーマスをこの手にする。私は今宵の宴を、そのための門出の宴にしたいと考えているのです」

 ラブが、まるで確認でもするかのように静かにそう語りかける。
 すると、よく動いていた表情筋と違って一度も感情らしきものを示していなかったバイロンの瞳が、ここで微かに色めきたった。

「・・・私がフルブライトを手中に・・・とは、また酔狂なことを。既にフルブライト二十三世様が、社を率いておられますよ」
「バイロン卿。ここでそんな寝言はもう、無しにしましょうよ」

 テーブルに乗せた両肘を支点にしながらさらに身を乗り出すようにしながら、ラブはバイロンの瞳を覗き込む。

「カタリナカンパニーの連中は、大きな勘違いをしている。そもそも、アビスリーグと我々ドフォーレが・・・繋がっていないわけがない」

 ラブのその言葉に、バイロンの瞳は殊更に大きく揺らいでみせた。

「屈辱でしたよ・・・奴らの元で、一時とはいえ道化を演じるのはね。だが、その甲斐あって私はこうしてここに来た。今日この場を皮切りに、愚かな我が父では成し得なかった、完全なる経済の混沌と支配・・・それを私は、この手で成し遂げる」

 バイロンの瞳を射るように見ながら一気にそう捲し立てたラブは、そこで一息つくように身体を椅子の背に預けるように引き下げた。
 そしてうっすらと青い光が差し込んで怪しく赤紫に変色して見えるワイングラスを掲げ、一気に飲み干す。
 その様子を無言で見つめていたバイロンは、うっすらと目を細めるばかりだ。その視線は、いかにもラブを値踏みしている様子である。

「・・・アビスリーグ参画者は、その大いなる意志によって動いており、相互になんら連絡をとっているわけでもない。ただ、目的が同じだからこそ、行き着く先も必ず同じ。だからこそ私には分かるんですよ、バイロン卿」

 火の消えていた葉巻を再び蒸すように数度火元で空気を通し、そしてゆっくりとその煙を鼻腔に通した後、ラブはぐにゃりと悪虐しく口を歪ませた。

「いや・・・我らがアビスリーグ同志、バイロン殿。そうお呼びするべきですかな」

 ラブの言葉に呼応し、バイロンは僅かに口を歪ませ、その瞳を一層怪しく光らせた。

 

 

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第九章・2 -不敵な微笑み-

 

 カタリナカンパニーが世界最大の企業となり、強制的に経済結束を主導してアビスリーグに対抗する。
 最早、絵空事にすら等しいようなトーマスのその発言に、ハンス邸の会議室に集まった全員がトーマスに向かい驚愕と疑問とを伴う視線を向けた。

「おいおい・・・ベントの旦那、今の今でその方針ってのは、流石に無理がないか・・・?」

 あまりに荒唐無稽と思われるその発言に、さしものカンパニー敏腕営業部長ポールも、薄らと冷や汗を浮かべながらトーマスに苦言を呈する。
 トーマスとほぼ等しい程にカンパニーの内部状況を理解していると言って間違いない彼から見ても、様々な側面からその方針は、今の段階で採るべきものではないと思えたからだ。
 周囲の皆も、彼ほどではないにせよその空気感はわかっているのか、それが集合した疑問符として現れている。
 しかし。
 突如そこに、トーマスの爆弾発言に大いに賛同する声が、予想外のところから聞こえてきた。

「めっちゃ面白そうじゃん。それ、ウチも混ぜてよ」

 その声に驚いたトーマス以外の一同が部屋の入り口へと振り替えると、そこには、右腕に愛用のクマちゃんを抱えながら精一杯胸を張って仁王立ちをしてみせる少女、キャンディの姿があった。
 彼女の後ろには、ローブを羽織ったロビンも控えている。

「キャンディ、帰ってたのかい!」

 ノーラが最初に声をかけると、キャンディは大きく手を上げながらノーラに視線を返し、そのまま会議室の空いた椅子に向かっていく。
 そしてその場に集まった一同を素早く確認し、当然の流れの様にブラックに視線を止めた。

「ってか、おっさん誰?」
「けっ、その台詞はいい加減聞き飽きたぜ」

 ハーマンの時の彼しか知らないキャンディが疑問に思うのは当然だが、当のブラックはあまりに聞かれ過ぎたその誰何に、真面に答える気がない様子であった。
 気を利かせたミューズが簡単に経緯と正体とを説明してやると、キャンディは暫し興味深そうにブラックの全身や左足あたりを見回した後、その場での疑問追及は諦めた様子で改めて椅子へと腰掛ける。

「・・・っと、遅くなっちゃってごめん。ちょっと仕込みに時間掛かっちゃった。でも今の話ってことなら、ちゃんと手紙の通りに準備はばっちしだよ」

 キャンディが腰を下ろしながらトーマスに向けたその言葉に、ポールは再び疑問符を頭に浮かべる。

「仕込み・・・? キャンディ、そりゃ一体なんのことだ?」

 昨年の暮れ。
 ドフォーレ商会の一連の事件以降、ヤーマスにて商会立て直しその他の事後処理等をしてもらっていたキャンディへと書簡を届けるようロビンに託したのは、誰あろうポールなのだ。
 これは丁度、昨年末のコングレスが開かれる直前のことであったので、その時点でのルートヴィッヒとの協調体制などの現状を伝えると共に、連動してヤーマス内での新たな調査を依頼するためのものであった。
 なので、今のピドナの状況を見越した類の依頼など、そこに記した覚えは彼には全くなかったのだ。

「あぁ・・・ポール。それは俺が、別でロビンに手紙を渡していたんだ」

 即座にトーマスが名乗り出ると、ポールは首を傾げながらその内容を問うた。
 だが、トーマスに先んじてそれに嬉々として応えたのは、テーブルに大きく身を乗り出してきたキャンディであった。

「そ、ポールからのとは別で、トーマスさんからの手紙があったの。中に書かれていたのはね・・・フルブライト商会への探りと、何個かの仕込みについてだよ」

 ニヤリと笑みを浮かべながらのキャンディのその言葉に、場の一同は改めてトーマスへと視線を向ける。
 特段その中でも、ポールの瞳は全く驚きを隠すつもりもないほど大きく見開かれたもので、これにはトーマスも思わず苦笑いを浮かべてしまうほどであった。

「おいおい、まさか旦那のいう世界最大って・・・。てかキャンディが既に仕込みをしているっつーことは、この展開まで・・・あんたは読んでたってのか・・・!?」
「・・・いや、全てを読んでいたなんてことはないさ。ただ、フルブライト二十三世様からの依頼を受けた時点で、我々が選択する可能性の一つ、としては考えていた。だからいざという時の為に、キャンディに幾つかお願いをしていたまでだよ」

 トーマスとポールの会話は、キャンディを除いたその場の面々には今一、内容の理解に苦しむものであった。そこで、キャンディと同じく空いた席に腰をかけたロビンが口を開く。

「確かに私が書簡を渡したし、ヤーマスではキャンディさんに頼まれて色々と調べに動いたが・・・。あれらの調査には、一体どんな意図があったのだ・・・?」

 ロビンの言葉に今度こそトーマスが応えようとしたが、しかしそこに、やたら興奮気味のポールが割って入った。
 そんな彼の表情は、どこか呆れたような引き攣ったような、そんな表情だ。

「そんなん・・・もう決まってる。トーマスの旦那・・・あんた、フルブライト商会を『買う』つもりだな・・・?」
「な・・・フルブライト商会を!!?」

 とんでもないことを言い出したポールに、思わずシャールが驚きの声を上げた。それと同時に、ぱきり、と音がして彼の装着する銀の手が、持っていたティーカップのハンドルを割ってしまう。
 その声色が含むのは、単なる驚きの感情だけではない。お前たちは、なんたる不敬、なんたる畏れ多いことを口走るのか。その様な感情の方が、寧ろ一番に読み取れるような声だった。
 これは何も、シャールだけがそう感じるということではない。恐らくは世界中で大多数の人間が、彼と同じく感じることであろう。
 フルブライト商会という存在は、それだけこの世界にとって特別な存在なのだ。
 何しろ先ず、この世界で経済に関わる者ともなれば、フルブライト商会の名声とその偉大さを知らぬ等という不届き者は、まず間違いなく存在しないだろう。
 それどころか、例えば商い事とは全く無縁の、それもフルブライト商会の本拠地であるウィルミントンから遠く離れた貧しい農村に住まうような子供たち。その子供たちでさえ、酒場で謳う流れの吟遊詩人や聖王教会で教えられる数々の逸話の中で、その名前程度は耳にしている子供の方が圧倒的に多いはずだ。
 三百年の昔、人類が四魔貴族との死闘を繰り広げたその最中。様々な場面で宿命の子たる聖王を助け、時の世界経済を纏めあげ、聖王軍の勝利に貢献した偉大なる存在。
 それが、フルブライト商会なのである。
 その威光は今も全世界に届いており、この三百年、世界の経済界を常に牽引してきた存在。まさに、名実ともに世界一の企業とは即ち、フルブライト商会のことを指すのだ。
 そのフルブライトを、買収する。
 それが、トーマスの狙いであろうとポールは言ったのである。
 あまりに突拍子がなく、そして荒唐無稽に聞こえてしまうのも無理はないことであった。
 そしてそこに、今度はノーラが理解に苦しむ様な表情で声を上げた。

「ちょっと待っておくれよ。あたしにはその狙いとかあんま良く分からないんだけどさ・・・でも今は、兎に角ピドナの状況を何とかするのが先決なんじゃないかって感じるんだけど、違うのかい?」
「うむ・・・私もノーラ殿と同じ考えだ。単に優先順位として、今は一刻も早くアルフォンソ海運などへの融資などを起点に状況打開をするべきではないのか?」

 ノーラに続き、シャールも執事にティーカップを交換してもらいながらそう付け加えた。
 確かにこの流通の孤立状態を打開しなければ、ピドナの状況はどんどん悪くなるばかりだ。そこを先ずどうにかしなければならないと考えるのは、至極当然のことの様に思われた。
 だがしかし、それは実際には悪手である。
 そうトーマスは確信していた。そこをしっかりと説明せねば、この先の意図にも理解は示してもらえまい。
 トーマスはそう思い、テーブルの上で両手を組み直しながら腰を据えて解説を行おうとする。
 が、そこでミューズが他者とは少し様子の異なる視線で、自分のことをじっと見つめていることに気がついた。その瞳は他者と同じく疑問を持つというよりは、此方の考えを既に察しており、その答え合わせを待つというような色合いだ。
 なので思い直したトーマスは彼女に発言を促す様に、彼女に視線を合わせてから眉を上げ、薄く微笑んで見せる。
 勿論ここは自分から説明しても構わない場面だが、ミューズを介した方が話が早かろうと判断したからである。彼女の持つ魅力、言い換えれば生まれつきのカリスマ性というのは、本人が思う以上に大きいことを彼は知っていた。
 ミューズはトーマスの意図を汲み取り多少驚いた様子だったが、即座にそれに返す様に、浅く頷いた。

「では・・・私からご説明します。恐らく・・・トーマス様の狙いは、より大局を見据えたものです」

 ミューズの開口に皆の視線が集まると、彼女はその場の一人一人に視線を移しながら語り始めた。

「確かに現在のピドナは、流通の断絶によって一時的に外部から孤立しています。この状況は早急に打開しなければ、先の通り他国に侵攻の口実を与える様なもの。それは、紛れもない事実です。ですが、初手で流通改善への着手は根本解決どころか・・・一時凌ぎにすらならない可能性が高いのです」

 ミューズの語ったことは、こうだ。
 アルフォンソ海運やメッサーナキャラバンへの融資、若しくは買収という選択肢。これを現時点で行うことによって得られる効果は、流通の改善までには全く至らない。
 そもそも魔物に破壊された多くの荷馬車や船は直ぐに作り直せるわけではないし、人々に植え付けられた襲撃への恐怖心もまた、修復には相応の時間が掛かる。つまり融資か買収の何れかを行ったところで、即座に以前の状態に戻る、ということはないのだ。
 そして何より、仮に流通環境が以前と同様まで即座に整ったところで、結局のところ魔物に再度襲われるリスクそのものは、全く改善されていない。
 そうなると、作っては破壊されて、の圧倒的に不利な消耗戦を強いられる可能性が高く、襲撃を恐れた従業員の業務拒否も当然考慮せねばならず、それらへの対策が別途必要になってくる。
 単純に、これでは非効率極まりない結果が見えているという話なのであった。

「・・・対して、トーマス様の言うフルブライト商会へのトレードには、その困難さに比例した大きな利点が、三点ほど考えられます。先ず一点目は・・・アビスリーグの組織規模をより正確に読み取り、その正体に近づくこと。つまりは、事態の根本解決を確実に進められることです」

 これの根拠は単純だ。
 まず世界最大企業たるフルブライト商会の買収が仮に成功した場合、フルブライト傘下の世界各国企業をそのままカタリナカンパニーに組み込むこととなる。
 実のところ、複数地方を跨ぐ規模で企業運営をしている商会は数えるほどしかなく、直近ではフルブライト、ドフォーレ、ラザイエフ、そしてカタリナカンパニーがそれに該当する程度だった。
 このうちドフォーレは既にカタリナカンパニーが買収しており、事実上カタリナカンパニーは規模だけで言えば既に世界二位の企業規模となる。そこが更にフルブライトを買収するとなれば、世界に散らばる企業のかなり多くをグループに抱えるということになるのだ。
 そして現時点で、カタリナカンパニー内にアビスリーグからの接触がないことは内部監査済みである。
 これはフルブライト二十三世から話を聞いた直後にトーマスが全支店の昨年帳簿を直接隅から隅まで確認しているので、間違いないことだった。
 アビスリーグは世界各国で活動しつつ同盟範囲を広げておきながらも、世界第二位の規模にまで広がっているカタリナカンパニーと一切接触がない。これは、その事実に安堵する反面で、非常に不可解でもあった。
 それこそ「意図的に避けている」とでも考えない限りは。
 これは、トーマスは事実その通りなのだろうと踏んでいた。
 カタリナカンパニーに関われば、必ず尻尾を掴まれる。それを向こうが理解しているから、敢えて避けているのだ。
 これには思わず、敵ながらいい判断だ、とトーマスはほくそ笑んだものであった。
 トーマスが副社長として実質的に全権を握るカタリナカンパニーは、その内部規律と監査の精度において、他企業では全く比肩できないほどに高度精密化されている。
 元よりこれは、トーマスがフルブライト商会の歴史的な威光と世界に及ぼした影響に多大なる感銘を受け、企業という組織がその影響度からして持たざるを得ぬ「世界に対する社会的責任」を果たす上で絶対に必要であると考え、徹底して実行しているからに他ならなかった。
 経済という巨大な力を持つからこそ、それを統制するための仕組みと外部影響はしっかりと考えねばならない。その気概と実行の精度が、蓋を開ければ既にフルブライトのそれを凌駕していた。それだけの話なのであった。
 そのカタリナカンパニーがフルブライト商会を買収すれば、フルブライト商会の中にアビスリーグの手が伸びている場合、必ず買収の最中に分離するだろう。
 そうするとその分離企業を最優先調査対象としつつ、残りはラザイエフ商会関連企業と、各都市にある独立企業群、そして旧ナジュ王国領の企業群あたりまで絞ることが出来る。
 ここへの調査も買収と並行して行う事で、アビスリーグの本丸へと確実に迫ることができる筈なのだ。先ずはこれなくして、事態の根本的な解決には至らないのである。

「第二に、フルブライト商会の浄化救済を行うことができます。フルブライトとアビスリーグを切り離すことができれば、商会に残り内部調査をされているフルブライト二十三世様のご安全を確保することができるでしょう。最初にアビスリーグの存在を察知したあの方の安全を確保し、改めてその助力を得る事で、更なる迅速な真相解明が期待できるものと考えられます」

 買収によりフルブライト内部に巣食うアビスリーグの手のものを切り離せられれば、これは可能であろう。
 フルブライト商会という存在は、今後も世界にとっては必ず必要になる。そしてそれを統率すべきは当然ながら自分などではなく、高潔なるフルブライト十二世の意志を継がんと奮闘するフルブライト二十三世でなければならない。そうトーマスは考えていた。彼を危険から救い出すことは、正に世界の今後を左右する一大事であるのだ。

「最後に・・・他国のピドナ侵攻判断を遅らせる効果、です。他国が攻め入るまでの猶予ですが・・・恐らくはあと一ヶ月もこの状況が続けば、何れかの都市の軍団が攻め上がってくる可能性はかなり高まるでしょう。ピドナの現在の異変状況は、あと一週間もしないうちに各国に広まります。若しくはアビスリーグが裏から手を引き、既に各都市国家に侵攻を煽っている可能性も考えられます。戦の準備には従来なら短くとも半年程の準備期間を要するとされますが、混乱を突いて各国家の常備軍と備蓄だけで攻め上げるなら、そこまで時間は掛からないでしょう。つまり、その前に彼らを思いとどまらせる何らかの『事件』が必要です。このトレードは、それも兼ねているのだと考えられますが・・・如何でしょうか」
「・・・全くその通りです。ミューズ様、流石のご慧眼ですね」

 こちらの狙いを細部に至り把握してみせたミューズに内心では舌を巻く思いだが、トーマスはそれを望外に嬉しく思いながら微笑み返した。
 三百年の間に渡り世界経済を牽引してきたフルブライト商会への、トレード勃発。これは、全世界が注目せざるを得ない一大事になることは間違いがない。
 そして今回特に重要なのは、それを行うのがピドナに本店を置くカタリナカンパニーである、という点だ。
 奇しくも昨年末のコングレスによってルートヴィッヒ軍団長と、世論に英雄視されるミューズの繋がりが大々的に世界へと示された。そしてその場に、一企業人に過ぎないはずのトーマスが立っていたことを知らぬ各国要人は、居ない。
 経済界においてはカンパニーとクラウディウス家の繋がりは元から判明していたことなので、そこに大きく疑問を抱く者はいなかったであろう。
 そしてそのカタリナカンパニーが、この世界からの孤立状態の渦中にあって、フルブライト商会へトレードを仕掛ける。
 これはつまり、それを実行するだけの余裕がピドナにはある、という事実を世界に知らしめることに他ならない。
 流通と経済の危機という客観的事実と大いに相反するこの事態が起これば、各国は否が応にも慎重に出方を探らざるを得なくなる、というわけである。
 更にいうならば、昨年末コングレスの場でトーマスはカンパニーとフルブライトの同盟破棄を宣言している。この宣言が、ここで予想外に外交思惑に響いてくる。
 コングレスの場では『特段この同盟破棄がカンパニーと近衛軍団との新たな蜜月を表すものではない』との補足を敢えて行っている。だが、ここに至ってカタリナカンパニー対フルブライトのトレードなどが起これば、あの補足が信ずるに値する、などと愚直に考える者の方が少ないのは、火を見るよりも明らかだ。
 これらの意味するところはつまり、この経済危機が『事実なのかフェイクなのか』を各国は何としても見極めなければならなくなる、ということだ。

「・・・旦那、狙いはわかった。だが、肝心のトレードに充てる資金は一体どうするつもりなんだ。ドフォーレ買収の影響はガッツリ残っている。即座に動かせるオーラムは、ぶっちゃけ殆どないはずだが・・・?」

 頭に被っている帽子の特徴的な突起部分を手で弄りながら話を食い入るように聞いていたポールは、一呼吸置いてからトーマスに向かい冷静に問うた。
 彼の指摘は、実に的確だ。なにしろトレードを行うには、ただでさえ莫大な資金が必要になる。そして今回のトレードで狙い通りの効果を目論み行うとなれば、前回ドフォーレの倍以上の稼働資金が必要になるのは間違いない。
 残念ながらカタリナカンパニーにそのような資金は、ない。それはカンパニー内部の情報を把握しているポールには、聞くまでもなく分かりきっていることだった。
 更には、唯一の隠し球であった旧クラウディウス家縁の者たちからの融資も、ドフォーレ戦で用いてしまったのでもう期待はできない。
 その上で、フルブライトに勝負を挑むだけの資金が確保できるとは、到底思えなかったのであった。

「そうだね・・・ただそこは、一応は策があるんだ」

 トーマスは、どこか不敵に笑いながら言った。その表情が大層不気味に見えてしまい、ポールは思わず背筋に震えを感じながら、怖いもの見たさで次の言葉を所望した。

「・・・旦那、一体どうするつもりなんだ・・・?」
「・・・簡単なことさ。ドフォーレが敢えてやらなかった手段を、我々がやるだけだよ」

 そうしてトーマスが少し俯きながら微笑む様は、その場の誰もに等しく、恐ろしいもののように映ったのであった。

 

 

 三百年の昔、かの聖王三傑たる玄武術師ヴァッサールの発案から作り上げ、そこから二度に渡り魔海侯フォルネウス討伐という偉業を成し遂げた海上要塞都市バンガード。
 建造から三百年の時を経て、つい最近に再び大地の鎖を断ち切ったバンガードは、ルーブ地方とガーター半島を結ぶ要所兼、新たに内海と西太洋の海上直通路として、世界中から大いに注目される地となっていた。
 今宵、その海上都市の中でも最も高貴なホテルの宴会場にて、非常に豪奢な催しが開かれていた。

「ようこそおいで下さいました。誠に細やかなおもてなしではありますが、今宵は是非とも楽しんでいかれてください」

 ホテル前に到着した数台の馬車による一団を仰々しい一礼とともにエントランスで迎えたのは、その夜の催しを開いた主催の男だった。
 その男は、非常に肥えた身体をこれでもかと着飾っており、煌びやかな衣服と数々の宝飾品がその動きに合わせてジャラジャラと音を立てている。
 その装飾品だけで開拓民が一生暮らすに困らないであろうほどのものであるが、それらを全く惜しげのない様子でひけらかしながら、ゆっくりと顔を上げた男は馬車から降りてきた今宵のゲスト一団に改めて向き直る。

「・・・まさか、我々がこうして貴殿のおもてなしを受けることになろうとは。以前ならば、思いもしませんでしたな」

 馬車から降りてきたゲストの中で、明らかに周囲と異なる風格を漂わせた老紳士が、ホストの男に向かって軽い会釈をしながらそう告げる。
 この老紳士こそ、世界第一位の企業規模を誇るフルブライト商会の、営業本部長を任される人物であった。フルブライト商会の現会長の先代にあたるフルブライト二十二世の時代から長年辣腕を震ったとされる、業界内ではかなり名の通った大御所である。

「ははは、全く同感です。生前の父は、よく貴方のことを愛憎混じりに語っていましたよ。数奇な運命の末にこうして私が貴方に持て成しの場を用意できたこと、光栄に思います」
「それはそれは・・・ふふ、貴殿も随分と棘が抜けて、ご成長なされた様子。今宵この時ばかりは、日中の闘争を忘れて楽しませていただくとしよう」

 表面上の口上とは全く異なる剣呑な雰囲気を纏った両者は、しかし互いに固く握手を交わしながら微笑んだ。
 商業ギルドに申請された瞬間から世界を震撼させた、フルブライト商会とカタリナカンパニーによる、世紀の一大トレード。
 その実施会場として指定されたこの海上都市バンガードにて、本トレードのカタリナカンパニー側代表として挑む人物こそ、今宵のホストであった。

「・・・さぁ、どうぞお入りください」

 そう言いながらゲスト一団をホテル従業員に会場内へと案内させ、男は会場入りする一団の背中をじっと見ながら、やがて懐から葉巻を一本取り出す。
 彼の側に控えていた執事が慣れた手つきで葉巻の吸い口をシガーカッターで切り落とし、火をつけた。
 何度か吸って火のついた葉巻から、たっぷりの煙を鼻腔を通じて燻らせる。そうしながら男は、どこか憎らしげな表情を浮かべながら、一人その場で凄みをきかせた。

「・・・ったく、どいつもこいつもこの俺様を舐めくさりやがって。今に見てやがれよ・・・」

 世界で最も注目される史上最大のトレードを仕切る、カタリナカンパニー側の人物。
 今こうして葉巻を燻らせるその人物こそは、つい最近まで世界第二位規模の巨大企業を一手に率いていた経済界随一の剛腕、ラブ=ドフォーレその人であった。
 ラブは吐き捨てるようにそう言うと、その「剛腕」の名に似つかわしく実に含みのある笑みを浮かべながら、火をつけたばかりの葉巻を惜しげもなく地面に放り捨て、ゆっくりとした足取りで賑やかさを増す会場へと入っていった。

 

 

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第九章・1 -ピドナ経済の崩壊-

 

 ロアーヌがビューネイ軍に勝利し、そして四魔貴族の魔龍公ビューネイが英雄的ロアーヌ騎士により討伐されたという知らせが世界中を駆け巡るのに、そう時間を要することはなかった。
 当の戦勝国ロアーヌでは普段の厳粛な雰囲気も流石に鳴りを潜め、全国民が数週間に渡ってその歴史的な勝利に酔いしれたという。
 それに準じるように、昨年末のピドナにおけるコングレスにて全会一致で対四魔貴族へと突き進むこととなった各国諸侯もまた、この戦勝の報に大きく胸を撫で下ろしたのであった。
 コングレスでは、その場を主導したミューズやルートヴィッヒ軍団長の威光に半ば流されるようにして意を揃えた者たちも多かったのが事実ではあった。だからそのような者たちこそ、内に秘めた不安や不信を吹き飛ばすかのようなこの勝利に喜び、勢いつくように宴を一月にも渡り開き続けた。
 が、しかし。

 最初にロアーヌの勝利を確信し、先んじて世界を対四魔貴族に向けて一致団結させたメッサーナ王国王都ピドナ。その中央商業ギルド会館では、勝利の宴とは真逆のような空前の大混乱が巻き起こっていたのであった。

『おい、港地区担当どこ行った!!!?』
『商館カウンターに倒産申請の列が出来ていて対処間に合ってないです!!!』
『ピドナバンクからの担当連絡員が全く来ません!!頭取も見つからないそうです!!!』

 絶え間なく飛び交う、怒号と喧騒。机の向こうが見えないほどに積み上げられた、未処理書面の山。突然全てを失い、絶望の表情を浮かべてその場に訪れた群衆。
 正に阿鼻叫喚という言葉がぴたりと嵌るかのような大混乱の中、商業ギルド職員だけが必死の形相で忙しなく会館内を駆け回っている。
 その光景を一つ上の階にあたるエントランスから大変に険しい表情で見下ろしていたトーマスは、やがてその表情を崩さぬままにその場を後にした。

 

 

 ロアーヌの勝利から、数える事、ひと月。
 たったのひと月。その間に、ピドナは世界の流通の中心から一気に孤立し、未曾有の経済的危機に直面していたのである。

「商業ギルドの方も、酷いものでした・・・。兎に角、ここで状況を一度整理しましょう」

 商業ギルド会館から戻ったトーマスは、ハンス邸の会議室にて待っていたミューズ、シャール、ポール、ブラック、ノーラを前にし、そう言いながらテーブルに腰掛けた。
 その場に集まった面々の表情は一様に、とても険しいものだ。

「・・・最初の異変は、年始間も無く起こったピドナ農産業の市場崩壊。前年から流通量減少の流れで徐々に相場値上げを続けていたはずの農産物が、突如世界中からピドナに大量安価に流れ込みました。これによりピドナ農家の生産物が売れず、彼らの生計が瞬時に立ち行かなくなった。これが、第一の異変です」

 年明けから急激に流れこんできた農作物によって、食料品を中心に急激な値下がりがピドナの市場に起こった。これにより、ピドナ農業系一次産業の売り上げは急激に落ち込んでいった。
 ここに連動して農業系への融資を主に行なっていた幾つかの小規模銀行が急速な預金引き出しと農家からの融資回収不履行による機能障害を起こし、これに危機感を覚えた他産業を生活の軸とする市民も、取引銀行から一斉に預金引き出しを開始。一気に複数の銀行が、同じく機能麻痺に追い込まれる事態となった。
 これに対し、事態を重く見たピドナ王宮は初動で破綻間近の各銀行を中心に緊急融資を即時決定。国庫からの緊急出資に踏み切った。
 当然これを速やかに主導したのはルートヴィッヒ軍団長であり、これにより一時的な混乱はなんとか収束に向かう。
 かのように思われた。
 だが、これはその後に続く更なる衝撃への序章に過ぎなかった。

「そして第二の異変は、ピドナ陸海運機能の麻痺・・・二大運送企業の、破綻です」

 一次産業への急激な痛手と、それに伴う中小銀行の機能麻痺。
 これと時期をほぼ同じくして、次にはなんと、陸路を中心としたピドナを行き来する輸送業への、魔物の集団による集中的な襲撃被害が頻発したのである。
 これにより特に多大な被害を受けたピドナ最大手の陸運であるメッサーナキャラバンが、一気に業務停止にまで陥った。これに連鎖し、ここへの出資を行なっていたピドナ銀行業の中心に位置するピドナバンクが一時的な融資窓口停止にまで追い込まれることとなった。
 そしてなお都合の悪いことに、この輸送物資は在庫過多により不動在庫となってしまったピドナ産の農作物を緊急に北部へと売るために起きた特需であったのだ。
 これにより、一時は国庫からの緊急出資によって首の皮一枚繋がったかの様に思えた一次産業従事者はその緊急補助をも無為に帰され、甚大な被害を受けたメッサーナキャラバンも大きく困窮に喘ぐこととなった。
 更に、これと並行するように海上経路にも同様の魔物襲撃の集中が勃発。
 この襲撃を何故かほぼ一手に受けることとなった海運最大手のアルフォンソ海運が、ここでまさかの経営破綻を起こすこととなったのである。
 アルフォンソ海運はピドナから各国への流通をほぼ一手に引き受ける、文字通り世界最大の海運企業であった。奇しくも彼らは、昨今各国の海運業が魔物の被害で成長停滞の中、自社商船団の海上輸送の安全性を売りに、各国海運への買収強化のため、大規模な投資を行なっていたのであった。
 この最中に魔物襲撃の集中という不幸が重なり、瞬く間に資金が回らなくなり破綻へと追い込まれたのである。
 この破綻の衝撃は、ピドナにとって非常に甚大なものであった。
 ピドナバンクはメッサーナキャラバンに続き出資最大手であるアルフォンソからの融資回収が困難になったことで、事実上の業務停止を余儀なくされた。これにはさしもの王宮も、これらまでを含めた莫大な補填は慎重に協議せざるを得ず、対応速度は否応なしに鈍化した。
 これらの状況が、現在に至る都市全体の経済混乱を加速度的に広げていったのである。

「・・・元々、ルートヴィッヒによる流通政策によって、ピドナ運送業は意図的にメッサーナキャラバンとアルフォンソ海運に集中二極化していた。だからこの二社が機能しなくなると、必然的にピドナの流通は一気に崩壊を起こすことになるってわけだ」

 苦虫を噛み潰したような表情で、帽子の端を弄りながらポールがそう補足する。
 彼のいう通り、ピドナの陸海運はこの五年程の間に、ルートヴィッヒによる法人税増加と流通免税符の組み合わせにより、資金力のある大手に受注が集中せざるを得ない仕組みとなっていた。
 これはピドナの流通を分かりやすく効率的に支配下に置くには、非常に有用な手段であった。それは確かであったが、ピドナ流通がこの二社に大きく依存するということでもある。
 結果として今回起きた魔物襲撃により、この二社が機能麻痺を起こしたことで、ピドナは流通において一気に外部から孤立させられることとなったのだ。

「これらにより、農産業、運送業と、それに連動して銀行までが連鎖破綻を起こした、と。ここまでが大体の現状だな。ま・・・うちは各国に販路があるからピドナに資金も集中してなかったことで最悪の事態を逃れているのが、不幸中の幸いだったけどな・・・」

 ポールが補足を終えると、その場に一時的な沈黙が訪れる。
 そこで、ノーラがおずおずと手を上げ、不安げな様子で呟いた。

「あのさ・・・ぶっちゃけうちの工房は親父の頃から銀行と取引してなかったからよく分からないんだけど、このあとって、一体何が起きるの・・・?」
「・・・銀行を介して操業資金を調達してきた企業群は、人件費その他の支払いが困難になり身動きを取れなくなります。つまり、ピドナで最も大きな銀行であるピドナバンクが麻痺状態となると、そこに依存する数多の企業がこの後、一気に連鎖破綻を起こします」

 トーマスが目前のティーカップから視線を動かさぬままに応えると、それに今度はシャールが反応する。

「つまり、ピドナ中に失業者が溢れることになる、というわけか」
「・・・その通りです。それにより民の国外流出や、犯罪に手を染める者の増加による治安の急激な悪化等、様々な悪影響が起こることでしょう。ただ、今の情勢だと事態はそれにすら留まらないでしょう」

 トーマスは、彼の懸念する最も重大な被害予測を静かに語り始めた。

「今ここでピドナが大幅な経済破綻を起こすということは、つまり『昨年末のコングレスで成立させた世界団結』の瓦解を意味します。元より各都市国家間の繋がりは、非常に不安定なバランスの上に成り立っていました。偏にこれを維持出来ていたのは、最も経済的に強大な力を手にしたピドナという存在があってこそです。王なきメッサーナ王国でこれを成し得たのは、確かにルートヴィッヒ軍団長の手腕によるところが大きいです。ですが・・・その経済的優位性がなくなってしまえば、如何にルートヴィッヒ軍団長といえども、その維持は不可能。他国がピドナに従う理由は、なくなります」

 元来、各都市の軍団長が王座を狙い牽制し合っていたのが、メッサーナ王国のこの十数年の背景であった。
 それを頭ひとつ抜きん出たルートヴィッヒと、更にはミューズという世論を味方につけた英雄の登場によって無理矢理に纏め上げたのが、昨年末の団結の一側面である。

「・・・それが崩壊するとなると、対四魔貴族体制は、昨年末のコングレス前に逆戻り、というわけか・・・」

 シャールがそう呟くと、隣に座っていたミューズが両手の拳を握りしめつつ、表情を曇らせながら小さく首を振った。

「いえ・・・恐らく事態は、もっと過酷になります。ピドナ経済が麻痺しルートヴィッヒの力が弱まるということは、他国からすればそれは『メッサーナ王国の王座を狙う格好の機会』に他なりません。奇しくも今、魔龍公ビューネイがカタリナ様によって打ち果たされ、残す四魔貴族は魔戦士公アラケスのみとなりました。つまり四魔貴族による脅威が減少しつつある今だからこそ、この機に乗じてピドナ侵攻を企てる国が出てくることは・・・予想に難くありません」
「・・・なんと、まさか・・・」

 ミューズの言葉に、シャールが思わず息を呑む。だがしかし、彼女の言葉を否定するような意見は、その場の誰からも出てくる様子はなかった。

「くっくっく・・・面白くなってきたじゃねえか」

 相変わらず煙草を燻らせながら、ブラックが不敵にせせら笑う。

「貴様、一体何が可笑しい・・・!」

 シャールが不快感を隠すことなくブラックを咎めるように声を荒げるが、対するブラックは特に意に介する様子もなく煙草を燻らせた。

「るっせぇな。護衛騎士様はご主人様を護ることだけ考えてろよ。この状態で一番危険になるのは、お前のご主人様だろうが」

 ブラックが眼光鋭く睨み返すと、それに一歩も引かぬ様子で視線を返したシャールは、しかし言い返すことは出来なかった。
 ミューズの予測が正しければこそ、ブラックの言うことは最もなのである。
 ピドナの力が弱まり、その隙を狙う者が現れるとなれば、真っ先に狙われる対象となるのがルートヴィッヒとミューズなのは明白だからだ。
 この二人がいなくなれば、いよいよ今のピドナ王宮は民から見放される。現政権は敢えなく崩壊し、民はそこに新たな君主を求めざるを得なくなるのだ。
 それを狙わない手など、ないのである。
 そして、狙われるうち一方は防衛に優れた丘陵の上に位置する王宮の中、強固な近衛軍団親衛隊に守られたルートヴィッヒ。その彼とは対照的に、組織的な後ろ盾に乏しいクラウディウス家。この情勢でミューズが真っ先に狙われる対象であることに、疑問を挟む余地もない。

「・・・ここで不和を起こすのは、やめてください。今は、この事態の解決に向けて一刻も早く動かなければならないのです」

 二人の間に割って入るように、トーマスが鋭く言い放った。
 ふん、と鼻息を鳴らして黙るブラックと、彼を睨みながらも椅子の背もたれに体を預けるシャール。
 二人の様子を見ながら小さくため息を吐いたトーマスは、円卓の上に広げられた数々の調書へと視線を移した。

「現状は今の通りですが、我々が行動を起こす為に着目せねばならないのは、この事態の詳細と、その首謀者です。今の時点で言えることといえば、この事態を起こしたのは先ず間違いなく、件のアビスリーグでしょう」

 アビスリーグ。
 フルブライト二十三世によって告げられた、未だ得体の知れぬこの経済同盟群の動向について、トーマスらは昨年末を契機に探りを入れていた。
 昨年のコングレスに機を得、その場に集まった各国の要人らに対し動向調査を実施した彼らは、その調査にてなんと、各国要人の『全て』で不審な企業団体との接触を確認するという衝撃の事実に至ったのである。
 それからの一ヶ月ほどでピドナ国内が急激な変動を迎えている中、トーマスらはその事態の全容把握と解決に向けた模索を続けてきたのであった。

「先のドフォーレの事例から見ても、ピドナ陸海運で集中的に起こった魔物の襲撃はアビスリーグによる意図的なものとみて、まず間違いないでしょう。そして恐らく、昨年から続いていた小麦その他の不作を装ったと思われる流通偽装についても、各都市国家への彼らの介入と無関係ではないと思われます。その狙いは、実に巧妙なものです。ルートヴィッヒ軍団長主導の経済政策が『想定通りの進行速度である』という様に見せかけた。その上で、この機を狙ったのでしょう」

 ルートヴィッヒによる経済政策とは、四つの内海を結ぶ世界の中心に位置するピドナ領土の流通優位性を最大限に活かし、死蝕からの生産的復興を世界が成し遂げるまでの間にピドナ経済を確固たるものに仕上げることを目的としていた。
 これは元より明らかなことで、ピドナ内外でもそれと分かっていながらも一切の手出しが出来ずにいた、ある種の聖域の様なものであった。
 死蝕によって壊滅的な打撃を受けた、世界各国の生産業。これらに対し自国生産物及び他国から買い付けた物資の不足地域への流通という形で急激な復興と成長を成し遂げたのが、ピドナという都市だ。
 死蝕によって、各地は非常に深刻な食糧不足、物資不足に陥った。その影響は未だに根強く各国に爪痕を残しており、近年の流通動向から見ても、死蝕前の水準に戻るにはまだ数年はかかるものと見られていたのである。
 その状況下にあってピドナという都市は、その間に立ち流通において巨大な利潤を得るのに、実に最適な条件を兼ね備えていたのであった。
 最も、これ自体はルートヴィッヒが始めたことではなく、その前任であったクレメンス=クラウディウス軍団長の時代から同様の経済政策が執られていた。それは、己の持てる手札を最大限に用い国家として生き残る上では、当然の選択であったとも言える。
 だが、それをより露骨に中央集権的な形へと変化させ強烈に他国を牽制したのが、ルートヴィッヒだったのだ。
 ルートヴィッヒが描いた図は、彼の目的を思えばこそ、なるほど実に見事なものだとトーマスも感じ入ったものだ。
 抑もルートヴィッヒは、各国の生産力がいずれ改善されることを最初から見越した上で、この政策を執っていた。各国の生産業が死蝕前の水準に戻れば、必ずそこから世界的な物資の余剰とデフレーションが起こり始める。
 その前までにピドナの生産業と流通による強固な経済力を確立し、いずれくる食料を中心とした生産力の世界的な安定と衰退を機に、工業製品を中心とした物資流通政策の整備と各種関税を軸とした経済操作へと舵を切る。
 これが、ルートヴィッヒの描いていた向こう数年の経済政策だった。
 これに関しては、トーマス以外にも幾人かの知恵者や他国執政者は気が付いていた事でもあった。だが、具体的な対抗策は全くと言っていいほど思いつかぬほどに、事前の用意が周到で、且つ徹底的なものであったのだ。
 それは当然、ルートヴィッヒも自負していたことだろう。だからこそ、そこを見事に突かれたのが今回の事態の真因である。そうトーマスは読んでいた。

「ルートヴィッヒ軍団長から見て、未だ現行の経済政策を続ける状態である、と読ませる。その為に、他国で小麦を始めとした、様々な物価操作を行なっていたのだと思われます」
「それに一体、どんな意味があったっていうんだい・・・?」

 再度ノーラが腕を組みながら疑問を呈すると、それにはポールが身を乗り出して補足を始めた。

「確証っつか結果からの解釈だが、要は『その他の動きを悟らせないこと』が目的だったんだろうな。仮に小麦その他の生産量や物価安定が市場で見え始めれば、当然それ以外の品目や、それに伴う各種事業の状況も含めて、一度総合的に精査して経済政策を段階的部分的に進めていく事になる。恐らく、それをされたら見つかるであろう仕掛けの発見率をがっつり下げる目的で、最も政策転換の判断基準として明確な農作物系の隠蔽工作を行なっていたんだと思うぜ」

 ポールの予測は概ねその通りだろう、とトーマスも踏んでいた。
 恐らく彼らの最初の狙いは、アルフォンソ海運の破綻であったのだろう。短期間にかき集めた情報だけでは詳細までは分からないが、少なくともアルフォンソ破綻に至るまでの一連の出来事は、偶々起こったことなどではない。全てが、初期から仕組まれていたと見るべきだ。
 そして、この後はブラックが指摘した通りの展開が訪れるのも、想像に難くない。
 そうなれば世界は、未だ四魔貴族の一柱を残したままに、愚かにも人同士の争いで混沌に向かうことになる。
 恐らくはアビスリーグの狙いこそが正にその状況であり、そしてその成就は、もう間近まで来ている。このように見て、間違いないだろう。

「・・・しかし、ここから一体どうするのだ。そこまで後手に回っているとなると、最早我々に何かできることなどあるのか・・・?」

 シャールがそう呟く。それは確かに一見その通りで、事が国を揺るがす問題ともなれば、当然その対処をするべきはルートヴィッヒだ。一介の企業が口を挟む様なことでは、ない。
 とは言え確かに今のミューズの立場であれば、口添え程度は出来るかもしれない。だが、先ず宮廷内の状況がここに集まっている面々には殆ど分かっていないのだ。宮廷内は確かにルートヴィッヒが最も力を持っているが、宮廷内事情とはそう簡単なものではないということを、ミューズ自身がよく分かっている。様々な思惑の交錯する中においては、正論が的外れである、ということなど幾らでもあるのだ。
 その状況から改めて確認し、宮廷に歩調を合わせて改めて対応を模索するなどということは、とてもではないがこの段階での良策とは言い難かった。
 むしろ、国力を基盤とした外交に関する手段と繋がりならば、今はルートヴィッヒにそのまま任せる方が余程、話がスムーズだろう。
 目を瞑り、天井を仰ぐ様に顔を上げる。トーマスが思考を巡らせ、何かを決める時の癖だ。
 外交側面はルートヴィッヒに任せる。であれば、そこで自分たちがやるべきは一つしかないと、トーマスは思い至った。

「他国との折衝は、軍団長にお任せしましょう。そこは、我々が出る幕ではありません。我々はフルブライト二十三世様とお話しした通り、企業の力でこの事態を解決させるために動きます」
「企業の力・・・って、旦那、一体何をするってんだ?」

 ポールが珍しくその意図を測りかねてトーマスに問うと、トーマスは右手中指で眼鏡をくいっと持ち上げる仕草をした。
 そして、大変に大真面目な顔つきでその場の面々に向かい、こう言い放ったのである。

「我々が、世界最大の企業となるのです。相手が世界経済・・・いえ、世界そのものの秩序を乱そうと画策するのであれば、我々はそれを捻じ伏せるほどの結束を強制的に、作り出してやるのです」

 

 

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第八章・6 -ゲッシアの地-

 

 夜間に起きた、もはや幾度目かも定かではない妖魔の急襲を辛くも退けた、明け方のロアーヌ南東、対四魔貴族軍のロアーヌ軍防衛線最前線。
 未だ戦火の収まる気配が全くないこの戦線に駐屯するロアーヌ侯国騎士団は、その朝、戦場に相応しく非常に厳かな年明けを迎えていた。
 例年ならば年始の幾つかの行事を宮廷内で行うのが騎士団の通例だったが、昨年からはそれも行っていない。
 何しろ昨年の今頃は、冬を前にして前ロアーヌ侯爵フランツが急逝しミカエルが新たなロアーヌ侯爵となり、年末に向けて急激に増加傾向にあった魔物の討伐のための遠征準備に明け暮れていたのだ。
 その時に『年始の国事を蔑ろにするとは何事だ』と場違いにも騒ぎ立てていた貴族院の御老体達は、直後に巻き起こったゴドウィンの変にて半数が粛清、再編された。思い返せば、あの出来事を発端に、この一年で一気に宮廷内情勢はミカエルによって纏まっていった。
 その間にも、ゴドウィンの変でも功を挙げた騎士団の紅一点が急遽宮廷を離れることになったり、また例年にはない度重なる軍事遠征があったり、そして侯爵ミカエルの最愛の妹にしてロアーヌの華と謳われた美しきモニカ姫の遭難事故という悲劇が起きたりなど、昨年を振り返れば本当に多くの激動があった。
 その上で今のこの戦線とくれば、これはもう今年の抱負は「生き残ること」あたりだろうか、などとブラッドレーは幕舎の中で苦笑いしながら、戦線の被害状況と物資の確認を卓上で思案していた。

「伝令、伝令ー!!」

 するとそこに、新年から司令官幕舎へと慌ただしく駆け込んでくる者があった。
 どうやら本国からの連絡らしい兵を幕舎で迎え入れたブラッドレーは、神妙な面持ちで駆け込んできた兵の呼吸が整うのを待った。
 連日の例に倣い昨夜もそうであったが、この苛烈極まる戦線を一望する物見の方面からは、この一ヶ月の間は引っ切りなしに妖魔襲撃の報が届いていたものの、しかし後方の首都側から急報の伝令兵が来ることは殆どなかった。
 なのでこの知らせが果たして良い知らせなのか悪い知らせなのか、どちらかと言えば常に最悪の知らせを想定している傾向のあるブラッドレーには皆目見当が付かなかったのである。

「ブ、ブラッドレー将軍・・・急報でございます・・・!」
「それはわかっている。内容を聞かせてくれ」

 駆け込んでくることに必死になりすぎたのか、やっとのことでそれだけ言いながらも息が上がったままの伝令兵に、態々ブラッドレーは水の入った杯を渡してやる。すると兵はそれを有難く頂戴し、一気に飲み干して漸くの様子で一息付いてから改めて姿勢を正した。

「ほ、本国防衛軍総司令ミカエル様より伝令です! 近く、友好国メッサーナ王国近衛軍からの物的支援が、ミュルスからこの戦線に直接送られてくる旨の伝令を承っております・・・!」
「・・・近衛軍、だと? まさか、ルートヴィッヒが動いたというのか?」

 訝しむように眉を顰めて言いつつ伝令兵が差し出してきた書簡を受け取り、封蝋が確かに近衛軍団のものである事を見定め、直ぐ様封を切り中身を確認する。
 すると確かに書簡の内容は冒頭の当たり障りない文面が多少ある以外は物的支援の条文が並んでおり、羅列されている支援物資は食料や武具、建築資材等を含めて相当の物量が記載されている。
 しかも、その輸送は既に行われている旨と、書簡発行の日付も明記されていた。
 ざっと中身を見たブラッドレーは、伝令兵に疑問符を投げかける。

「この日程だと、もう間も無く到着するような予定だが?」
「はい。ミュルス駐在軍からの連絡では、港へ物資と同時にこの書簡が届けられたそうです。即座に駐在軍から早馬にてミカエル様の元へ第一報が届き、ミカエル様はご自身宛の書簡をご確認の後、即座に輸送開始の許可をお出しになられつつ、自分を将軍の元へと寄越しました」
「そうか。ミカエル様からの書簡はあるか?」
「は、此方に」

 そう言って伝令はミカエルが持たせたであろう書簡を、ブラッドレーに手渡した。
 ブラッドレーが開いた書簡に視線を落とすと、確かにそれはミカエルの文字だ。それをみて一つ頷き、引き続きミカエルからの伝文に目を通す。
 彼ら将校は普段から偽計を看破する取り組みの一環として、ミカエルの文字は似せて書いてもそれと分かるように判別するべく訓練を行なっている。なのでこのミカエルからの書簡が無い限りは、基本的に指示を受け入れないのだ。

(・・・ミュルスについた商船の雇主は、近衛軍ではなくカタリナ・カンパニー・・・。なるほど、ミカエル様が即座に動かれたのはそういうことか。近衛軍だけが単独でこのような動きをしたとなれば、あまりのきな臭さに然しもの我が君とて即応はすまいな・・・。しかし、よりにもよって近衛軍との連動とは・・・カタリナめ、今度は一体何をしでかそうというんだ・・・?)

 彼は自分の同期の紅一点騎士の破天荒さに内心で苦笑を浮かべつつ、再びメッサーナからの書簡の中身を見返し、内容の熟知を行うこととした。

「よう・・・何かあったのか?」

 丁度そこへ、大きな欠伸をしながら騎士コリンズが幕舎へと入ってくる。彼は未明にあった強襲の迎撃に出ていたので今は休んでいたはずだが、物音に気がついて様子を見にきたのだろう。
 彼に限らずこの最前線で戦いを続けているロアーヌ兵は全員が大いに疲弊し、その中でいつ来るとも分からない襲撃に備え、常時神経を尖らせている。そんな疲れも取れない状況の中では、この物資支援は非常にありがたいものであった。

「ああ、丁度よかった。休んでいた所にすまないが・・・コリンズ、これを見てくれ」
「どれどれ・・・。・・・・・・・・・ふぅん、ルートヴィッヒが、ねぇ。でもミカエル様のご判断には間違いないようだな」

 コリンズもまたミカエルの筆跡を確認してから物資リストを見返し、ふむふむと唸りながらそんな感想を述べ、そして書簡をブラッドレーに返しながらふと表情を曇らせた。

「しかし、どうみるよ、これ」
「・・・ルートヴィッヒの思惑か?」

 ブラッドレーがそう返すと、コリンズは小さく頷いた。

「ああ。先ず思い当たるのは、これはロアーヌがメッサーナから大きな貸しを受けた、という事だよな。俺はその辺にあまり明るいわけじゃあないが、この物資の量は、ぶっちゃけロアーヌの国家予算で用意したら向こう二、三年は国民が貧しい暮らしを強いられる規模だと思う。これ程の支援物資を出しておいて単なる慈善だなんて、とてもじゃないがルートヴィッヒが考えるとは思えないよな」

 コリンズの予想外に鋭い意見に、ブラッドレーはこくりと頷いた。当然ながらミカエルはそう言ったことも把握の上でこれを受けているのであろうが、確かにこの物量は規格外だ。何か相応の見返りを求められることは、想像に難く無い。
 しかしブラッドレーには、これに関しては既に大凡の察しがついていた。

「そうだな。だが、それはもう決まっている様なものだろう。恐らくルートヴィッヒは・・・」

 そう続きを話そうとしたところで、今度は後衛見張からの伝令が駆け込んできた。

「将軍! ミュルスからの救援物資隊とやらが接近しており、早馬が受け入れ準備を要請して来ております!」
「もう来たのか・・・早いな。よし、妖魔の動きが鈍い日中が勝負だ。受け入れを進めてくれ。コリンズ、話はまた後で」
「了解。俺はもうちょっと寝とくわ」

 コリンズの言葉にブラッドレーはうっすらと笑いながら「そうしてくれ」と返しつつ、副官にその場を任せて物資隊の確認に向かって行った。

 

 

「ロアーヌからの見返りは既に確定している・・・?」
「ええ、そうです」

 ピドナ商業区ハンス邸のリビングにてトーマスと卓を交えていたシャールが確認するように聞き返すと、トーマスは肯定しつつ頷いた。
 近衛軍と連動してカンパニーが主導し進めていたロアーヌへの救援物資輸送手配は既に完了しており、現在はその後処理と今後の流れを確認するためにピドナ組がその場に集まっていた。

「一体その見返りってのは、何なのさ。物資リスト見せてもらったけど、ありゃピドナ商工会の決算書でも中々見ない数字だったよ。ロアーヌってのは、そんなに金持ちなのかい?」

 上品にティーカップを傾けながらノーラが首を傾げると、トーマスはそれに応えるようににこりとしながら、続いて隣に座るミューズに無言で視線を投げかけた。
 するとそれに気がついたミューズは少し怪訝そうな表情をしたかと思うと、直ぐにトーマスの意図に気がついてノーラへと向き直った。

「私からご説明します。今回の物資供給からロアーヌ侯国が求められるであろう見返りは、金銭ではありません。そもそも金銭的な見返りを要求するほどの備蓄がロアーヌ侯国にあれば、物資支援の意味自体があまりないと言えます。ですので今回メッサーナ王国が狙う見返りとは言わば・・・『戦力』としての役割です」
「戦力・・・?」

 ノーラはミューズの言葉をそのまま返しながら、変わらず理解の及んでいない表情をする。が、対するミューズはそれをよしとしつつ頷いた。

「今回メッサーナがロアーヌの戦線に自軍備蓄の大部分を支援物資として送ることを決めたのは、即ち『四魔貴族軍との全面対決』を始めるということを意味します」
「そうだね。だから年末の会議でも、お偉方が随分と紛糾したんだろう?」

 事前にその辺りの話は聞いていたのか、ノーラがミューズの言葉に同意するようにそう言う。
 すると今度はモニカが後を続けるように発言した。

「つまりメッサーナは、四魔貴族軍との戦いの最前線をロアーヌに担ってもらうつもりで支援をした、と言うことでしょうか?」

 モニカの言葉に、ミューズはゆっくりと頷いた。

「はい。そもそもメッサーナ王国は物資は豊富ですが、その兵力は各都市の軍団に分かれており、更にその各都市軍団の横の繋がりが現時点で非常に希薄だという特徴があります。これはアルバート王亡き後、各都市軍団長が権力の増加を狙うことで更に顕在化しました。またルートヴィッヒ軍団長もそれを把握の上で、この五年間は単純な軍事力の増強よりも各都市の連携阻害と物資の中央集約という政策を中心にその手腕を奮ってきました。半年少々前にあったファルスとスタンレーの戦などは、正にルートヴィッヒ軍団長が目論んだ展開だったと思います」
「・・・なるほどです。確かに近衛軍団が単純な軍備増強などを行えば、それは各都市軍の危機感を煽る事になりますわ。そうなると焦った各都市が動いて横の連携という中央への脅威を生み出してしまいかねなかった、ということですわね」

 モニカがミューズの説明でそう理解を示すと、トーマスとミューズ以外の面々は成程と頷いた。

「はい。ですので今のメッサーナには国力に見合ったほどの『纏まった精強な軍』というものが、敢えて欠けているのです。そこにおいてロアーヌ侯国の騎士団は、魔王に汚染されし東の地から現れる妖魔に長年対抗し続け、ゲッシア王朝を滅した神王教団との戦にも勝利し、更には密林にある伝説の火術要塞の攻略という快挙まで成し遂げています。彼等は最早、名実ともに世界最強の騎士団だと言えます」
「つまり、支援はするから戦の一番手は任せるぞ、ってことか・・・」

 ユリアンが腕を組みながらそう応えるのを聴きながら、ミューズが続ける。

「そしてミカエル侯は、間違い無くその意図を理解しており、利用すると思います」
「お兄様ならば、必ずそうしますわ。ルートヴィッヒ軍団長に出し抜かれるようなことは、天地がひっくり返っても有り得ませんわ」

 モニカが確信めいて同意すると、トーマスとユリアンは目線を合わせてふっと微笑む。

「そして今後、最も戦が起こる可能性があるのは、このピドナです」
「魔王殿か・・・」

 ミューズの隣に座っていたシャールが、呟く。
 このままロアーヌが魔龍公ビューネイ軍との戦いに勝利したとすれば、後に残る四魔貴族はピドナ旧市街に佇む魔王殿、その奥深くに潜むと目される、魔戦士公アラケスのみだ。

「アラケスが実際どの様な行動に出るのかは、まだ分かりません。ですが先のフォルネウスや現在のビューネイ軍の様な大規模戦闘が起こる様な事になれば、屈強な軍を持たぬメッサーナは非常に分が悪いです。しかも周辺都市国家軍は、いくら共同戦線に合意したと言えども、矢張り積極的な武力提供には消極的なはずです。そうなると、メッサーナが望む見返りは、明らかだという事になります」
「素晴らしい。よく把握していますね」

 ミューズが言い終えるのを待ってトーマスがそう締め括ると、ミューズは少々悪戯っぽい笑みを浮かべながらトーマスを横目で見た。

「全てトーマス様の教えです。丁度いいアウトプットの場だとお考えになったのはすぐ分かりましたから、別に構いませんよ」

 ミューズの思わぬ反応にトーマスも苦笑していると、そこに丁度、情報収集のために外に出ていたポールとブラックが帰ってきた。

「よう、話は進んでいるかい?」
「ああ、二人ともおかえり。丁度、メッサーナとロアーヌの今後の動きについて話していたところだよ」

 二人が空いている席に座るのを見ながらトーマスが状況を告げると、早速煙草に火をつけるブラックの横でポールが軽く頷いた。

「なるほどね。こっちの報告は後のほうがいいかい?」
「いや、今言ってくれて構わないよ」

 トーマスがポールに話を促すと、新しいティーカップが目の前に用意されたところでポールが懐からメモ書きを取り出しつつ口を開こうとする。
 その時だった。
 何やら、窓の外が急激に騒がしくなったのた。

「お・・・なんだ、何かあったのか?」

 特にその場にいる意味を感じていない様子だったブラックがいち早く、すくりと椅子から立ち上がって窓から外の様子を伺う。
 すると普段は実に平和な様子であるはずの商業区通りでは多くの通行人が、慄き後退りをしながら空を見上げていたのだった。
 そして更にそこへ、この館の主人でもあるトーマスの従兄弟にあたるハンスが慌てた様子で部屋に駆け込んできた。

「大変だ、魔物がピドナの空に・・・!!」
「なんだって・・・!?」

 ハンスの言葉に反応したトーマスを皮切りに、その場の一同が即座に立ち上がって外に向かう。
 入り口の大広間を抜けて扉を抜け、慌ただしく人々が逃げ惑う商業区の大通りに飛び出したトーマスが上空を仰ぎ見ると、そこには普段と変わらぬ一面のピドナの青空がある。
 そしてその青空の僅かな一点を、強烈な存在感を放つ一体の生物が占有していた。

「あれは・・・まさか・・・」

 トーマスがその存在を視認して、小さく呟く。
 丘の上のピドナ王宮よりもさらにずっと上空を飛ぶその生物は、地上からでもその大きさが分かるほどの体躯だ。
 大きく両翼を広げ、ともすれば優雅に滑空している様にすら見えるその様は、何かの物語の一節を彷彿とさせる様な光景でもある。
 突如としてピドナの上空に姿を表したそれは、一頭の巨大な竜だった。
 そして巨龍は特に高度を下げる様子もなく、下界から見上げる限りは非常に長閑な様子でピドナの空を横切っていく。
 北西の方角の空に見えていたそれは、地上でどよめく人間に興味などまるでない様子で、そのまま北東へと抜ける様だった。

「竜と人との力によって さしもの魔龍公も敗れ ゲートの彼方へ追いやられた・・・伝え上げたる詩の具現がよもやこの目で見られようとは、聖王記詠み冥利に尽きるというものですねぇ」

 その場の全員が上空の一点に視線を奪われていたところに、妙に間の抜けた声が響く。
 聞き覚えのあるその声に反応したトーマスが振り返ると、そこにははたして、数週間前にバンガードで会った詩人が立っていたのであった。

「貴方は・・・」
「やあ、これはどうもどうも」

 相変わらず周囲の空気とはどこかずれた雰囲気を持つ詩人の唐突な登場に、漸く周囲の面々も気がついて彼に視線を向ける。
 しかして詩人は名残惜しそうに再度空を東に抜けていく竜へと視線を投げかけた後、自らの脇に置いていた旅道具を持ち上げ、何事もなかったかのようにそのまま立ち去ろうとした。

「ま、待ってください。やはりあれは、悪竜グゥエインなのですか」

 トーマスは慌てて詩人を呼び止めるようにしつつ、目の前の詩人の言葉から上空の存在についての見解を口に出す。
 だが、詩人はその言葉を聴くと真顔になって考え込むように二度三度と瞬きをし、次に目を閉じてゆっくりと頭を横に振ってみせた。

「いいえ。あれは、英雄グゥエインの勇姿。彼の竜がこれから成すであろう偉業は、人類に限らず、この世界に住まう多くの生物が大いに讃えるものとなるでしょう。たとえその後に母であるドーラと同じ道を辿る宿命であったとしても、それはその時の話です」

 詩人の言葉に今度はトーマスが目を瞬きながら無言のまま返せずにいると、詩人は首を僅かに傾げながら、薄らと笑みを浮かべた。

「ふふ、少し意地悪な回答でしたね。しかし、そういうものなのです。その時、その時代によって、ものの捉え方は大きく変わります。そう・・・例えば、あの悪名高き魔王が『魔王』と呼ばれる前までは、世界で唯一死蝕に打ち勝った『祝福の子』として讃えられていたように」

 まるでトーマス達を煙に巻くように、いつも通り妙に芝居がかったような様子で身を翻しながらそう言うと、どうやら満足したのか詩人は再び立ち去る姿勢になった。
 だが歩き出すわけでも無く、半身だけトーマスへと振り返る。

「そうそう、貴方は空を見るのもいいですが、地にも目を向けると、欲している真実が見えるかもしれませんよ。灯台下暗し、というやつです」
「・・・それは、どういう」

 トーマスが詩人の言葉に疑問符を浮かべながら答えを求めようとしたその時、またしてもトーマスの従兄弟ハンスが、今度は館の中から郵便物を手に慌てた様子で飛び出してきた。

「トム、ポール!こんな時だが、ターゲットの動向が来たぞ!」
「!!」

 ハンスの言葉にトーマスとポールが敏感に反応してハンスの元に急ぎ駆け寄り、彼の持っていた封書に食い入るように目を通す。

「・・・・・・これは・・・」
「・・・あぁ、こいつは想像以上に不味そうだな」

 封書の中に記されていた内容を見て、二人は苦々しそうに眉間に皺を寄せる。その中身に書いてある内容が、余程彼らをそんな表情にさせるようなものなのだろう。

「・・・早急に動きを決めなければ。・・・詩人殿、また出来れば今度お話を」

 そう言いながらトーマスが振り向いた時には、既に詩人はその場から忽然と姿を消してしまっていた。

 

 

 エレンが首を後ろに直角まで折り曲げんという勢いで見上げども、聳え立つその無骨な塔の先端は一向に窺えず。
 直下から見上げる神王の塔は、彼女の想像を遥かに超えて、巨大だった。
 道中、遠目で見ていた時点でその大きさには驚いたものだったが、しかしこうして真下から見上げてみると全く印象は異なる。最早エレンには、これを人が作ったものであるなどとは到底思えなかった。それこそ彼女には、まるでピドナ旧市街に佇むあの魔王殿のように、異様にして不気味なものとして目に映ったのである。

「おい、いつまでもそんな胸糞悪いものを見上げてんじゃあないぜ。とっとと宿に行くぞ」

 物珍しげな様子のエレンとは対照的に、忌々しげにその塔を一瞥だけしたハリードは一言エレンにそう声かけすると、一人さっさと歩き出してしまった。

 二人はピドナからリブロフに渡るや否や、慌ただしく翌日には神王の塔へと向かう行商人の商隊に混じって出発し、アクバー峠のバザールを越え、数日後には旧ゲッシア王朝跡に佇む、この神王の塔へと辿り着いていた。
 ハリードとしては、またしても思ってすらいなかったところまで来てしまったものだ等と内心では頭を抱えたくなる思いだった。何しろこの地には、神王教団を討ち果たしてゲッシア王朝を再建するその日まで、来るつもりなど無かったのだから。
 だが、その目的はいつの間にか彼の中で、どこか叶うことのない夢物語の様な扱いへと変貌していた。それをルートヴィッヒとの対話の中で痛感したからこそ、彼は自身の下手な拘りを捨て、十年の時を経て再びこの地に立つことができたのだとも言える。

(・・・ここまで来ちまったからには、確かめざるを得ない・・・か。まさかこの俺が、まだ目の黒いうちに歴々の王が眠る諸王の都へ行くことになるとはな・・・)

 見るのも悍しく忌々しい塔を敢えて視界に入れないように横を通り過ぎながら、ハリードは宿へと向かいつつ、そんな物思いに耽る。そうして意識を別のところに向けていても、彼の体はなんの問題もなくこの街並みを覚えている。だから彼は迷いなく、街の北西あたりにある安宿のある地区へと向かっていった。
 この神王の塔は、かつてゲッシアの宮殿があった場所に、そのまま建てられている。なので、それ以外の街の構造は、かつてのゲッシア城下町そのままなのだ。
 宮殿を中心として円状に広がっていた旧ゲッシア城下の街並みは、大きく三つの区画に分かれる。
 一つは、アクバー峠からナジュ砂漠を横断してきた者を労うかのように華やかに出迎える、都の顔ともいえる西のバザール区画だ。ここには主たるナジュの産業の中心市場の他に、酒家、渡来者向けの宿などが集合している。アクバー峠にある巨大バザールよりは規模は小さいが、アクバー峠まで流通しないような希少性の高いものも西区市場では取り扱っている。
 しかしこの西区画で売られているものは何方かと言えば富裕層や観光客向けの価格設定のものも多く、居並ぶ商人も強かなものが多い。地元事情に聡い者は、ここではあまり物を買わない。
 そんな西区画から繋がる南北の区画は、国民の居住区だ。都市の南東に位置するナジュの命の源たるハマール湖にほど近い南区画には主に富裕層が住み、反対の北部区画には平民街と、所謂貧民街が広がっている。
 貧民街はどの都市にも大抵あるものだが、特にこのゲッシアの貧民街は酷いものだとハリードは思う。
 ゲッシアには独自の聖典に基づいた絶対的な階級制度が存在しており、国民は全てその枠組みの中で識別される。その中で、聖典により定められた階級にも属することの叶わないダリットと呼ばれる民が、最北部の隔離された区画に追いやられ非常に貧しく過酷な暮らしを強いられている。その暮らしの悲壮さは、ハリードが今まで見てきたどこの国よりも過酷だと思われたものだ。この階級制度は数多くの迫害の歴史を生んでおり、ハリードの愛するゲッシアにおける、負の側面だと言える。
 そして最後の東区画は産業区画となっており、偉大なるナジュ文化をふんだんに反映させた様々な工芸品を作る工房や、ハマール湖を水源としてナツメヤシや天然ゴム、珈琲豆等の栽培を行う農耕地が広がっている。
 ちなみに西区画よりもこの東区画で生産者と直接やり取りをする方が割安で商品を入手出来るので、その辺りの知識や繋がりがある者たちは、その殆どがこの東区画で売買をするのである。
 そんな区画分けであるからして、西の中でも平民街に近い北部側には安宿が、富裕街に近い南部には高級宿が点在している訳なのである。であれば当然ハリードが目指すのは、安い方なのだ。
 懐かしき街並みを肌で感じながら移動するハリードの後ろを、対照的に物珍しそうな動きで見渡しながらエレンが付いていく。
 因みにこの地へとハリードを誘った(連行したともいえる)エレンの目的は、当然ながら失踪した彼女の妹であるサラの手がかりを求めてのことだ。
 リブロフでは運良く直ぐに聞き込みからサラの行き先に関する手がかりを得ることができ、それによれば「やけに商売のうまい少女と少年の二人組が、西に向かった。そして一月もしないうちに戻ってきたかと思うと、今度は東へと向かって行った」とのことだった。
 この証言をくれたのは、リブロフの市場で小さな商いをしている露店の商人だった。その商人はサラから幾つか商品を買ったらしく、その特徴をしっかりと覚えていたのである。
 少年と一緒の二人旅、というのが思いがけず大きく気にかかったが、しかしその商人に細かく確認した限りの少女の特徴は、全くサラと一致するものであった。なんらかの理由でサラは、その少年とやらと共に旅をしているようだ。
 まさかとは思うが、ボーイフレンドとかなのだろうか。奥手ではあるが思い切りのある性格である妹のことなので、姉としてはその辺は少しモヤモヤする。
 ちなみに聞き込みや情報収集と言えば普通は酒場だと考えられがちだが、しかしサラは酒を殆ど嗜まない。なので聴き込み先として最初から酒場ではなく市場の商人に目星をつけていたエレンの作戦が、狙い通りにはまったと言える。
 そして更にエレンは「トーマスも見つけられていないということは、そこと関わりがなさそうなところから情報を集めに行った方がいい」という鋭い直感の元、露天市場の小規模露店から聴き込みを行うことにしたのも見事に功を奏したのだった。
 街の商業ギルドには多くの商人が登録しているので確かに情報は集まりやすいが、逆にその膨大な情報量の中では、細かい話は埋れてしまいがちになる。エレンは当然そんなことを知る由もなかったが、彼女の直感はそこを見抜いたのだ。
 若しくはトーマス側の聞き込みは少女一人に的を絞ったもので、少年との二人組、という状況が災いし情報網から抜け漏れてしまったのかもしれない。
 そういう意味では、やはりピドナで待ちぼうけなどせずに自分で動いたのは正解だったとエレンは実感したものだった。
 だがリブロフでは幸先良かったものの、そこからナジュへと向かう道中に立ち寄ったアクバー峠のバザールでは、サラに関わるような情報を得られることは無かった。可能性は低かろうが念のためロアーヌ地方へと続く北門にて聴き込みも行ったが、そこでも矢張り少年少女の二人組が関を通った目撃情報もなし。
 そもそもロアーヌ地方に向かうのならばリブロフからは海路の方が早い上に安全なので、やはり東に向かったならばこのまま旧ゲッシア王都を目指すべきだろうと再確認し、彼女はここまで足を運んできたのであった。

「この先の宿に部屋をとったら、俺は少々買い物に出る。お前は聴き込みか?」
「もち、そのつもり。ここって露店街はさっきのところだけ?」

 今しがた通り過ぎてきた西地区を振り返りながらエレンが訊くと、ハリードは軽く中空を見上げながら顎に手を当て、少し考える仕草を見せた。

「んー・・・メインは確かにあそこだが、東区画にも職人の直営店みたいなのがぽろぽろとあるな。価格はそっちの方が安いから、俺はこの後其方に行く予定だ」
「ふぅん・・・なら、あたしも先そっちいこうかな。案内してよ」

 サラならどちらに足を運ぶかを想像しつつハリードの情報を元に同行を決めたエレンは、早速ハリードが選定した激安宿エリアの中の一つの部屋に荷物を放り込むと、此方のことなどお構いなしの様子で宿を後にするハリードを追いかけた。
 普通ならこういう相手に気を使わない態度は旅の道連れとしては文句の一つも出そうなものだが、エレンはハリードのこう言った部分には最初こそ多少は面食らったものの、かといって特段不快感を抱いたことはなかった。
 一年ほど前のロアーヌからランスまでの二人旅の間に慣れてしまっていたという見方もあるが、それ以前に抑も彼女自身が、どこかハリードと似た気質をしているのが最も的確な理由なのかもしれない。
 こうして旅をする前まで、シノンの開拓村では正に自分こそがこうして周りの人間のことなどお構いなしに突き進んでいたというか、今振り返ってみれば大いに改善の余地があったのではないかと思わざるを得ないような、数々の我が道を行くっぷりを発揮していたものだった。
 別に、単にそうしたくてそうしていたかと言われると彼女的にはそうでもなく、いくつか考えることがあってのことだ。
 そもそも彼女の行動の理由は、単純だった。強くあろうとした、というだけである。
 そしてその強くあろうとした理由とは何よりも先ず、妹を守るためだ。また、引っ込み思案だったサラを導くためでもあり、その上で二人が生き抜くためであった。
 大凡、こんな理由で彼女は強くあろうとした。
 強いということは、己が先頭に立つということだ。
 先頭に立つ時に、躊躇いはあってはならない。躊躇えば、勇気が鈍り、足が竦む。だから、何かの行動を起こすときに立ち止まってまで考えたり誰かに伺いを立てたりするということを、基本的に彼女はしなかった。長く考えれば鈍るということを、彼女は経験から知っていた。
 またその一方で、率先して誰かに頼ることができるという状況を、羨ましいなと感じることもあった。
 頼ることそのものを悪いことだとは、彼女も思わない。そうしてうまくやっている者達をシノンの村でも見てきたし、この旅の中でも仲間と共に成し遂げることが増えていくことで彼女自身もその重要性は大いに学んだものだ。
 しかし、それは彼女にはできない。それができるのは、頼ることができる状況にいる人間だけだからだ。
 彼女の状況は、そうではない。彼女は、己が強くなろうとするその理由において、本当の意味で他人を頼ることなど出来はしない。
 だから、一人で強くなろうとした。
 まぁ、単にそういう動き方の方が己の性に合っている、という見方も無いわけではないが、決してそれだけなんてことはないのだ、ということを重ねて彼女は主張したいのである。
 その視点に照らし合わせると、ハリードの行動基準は彼女の見る限り、全く自分のそれと一致していた。
 彼もまた、最終的には自分以外を頼らないのである。
 動こうと思えば先ず自分が動くし、興味が湧かないことには基本的に惰性では動かない。また、自分が動くときに周囲が共に動くことを基本的に期待しないし、抑もそんな事を望みもしない。
 だから周囲には我が儘だとか冷淡に見られたりすることもあるが、かといってそんなつもりは本人には毛頭ないのだ。そういう生き方をしている、というだけなのである。
 事実、興味が湧けばハリードは実のところ結構な世話焼き気質だと感じるし、交渉などの世渡りも卒なくこなすし、必要とあらばパブリックな場所での礼儀作法も弁えている。
 だから、彼がさっさと宿を出るのは彼の目的があって、それについていくと言ったのはあくまで自分のほうであって。そこに、一々待ってもらう道理は毛ほどもない。なんなら逆の立場だったならば、自分も彼と同じようにするだろう。
 なので特にそう言うことは感じずに追いかけるわけたが、しかし追いついたら肘で小突いて「レディを待つくらいの態度は見せなさいよね」と茶化すのは忘れないのである。誰がレディだ、との返答にきっちり激昂するところまでがお約束でもあった。

 

 旧ゲッシア城下町の東区画は、最もハマール湖の水源に近いこともあってか農場区画がその多くを占めており、視界が非常に広々とした区画だった。この都市に辿り着くまでに延々と続いていた一面の砂漠風景とは全く打って変わって、水源の恩恵を受けていることで緑がとても豊かな様子が垣間見える。
 広大なナジュ砂漠の中に突如として現れる大きなハマール湖は、ナジュと北方のロアーヌ地方を分かつ雄大なるエルブール山脈からの雪解け水などが地下水として砂漠下に溜まり、やがて地表に湧き出たものだとされている。そのハマール湖のほとりに栄えるこの街は、まさに砂漠の中の楽園にも思える光景だった。
 エレンはロアーヌやピドナでは見たこともない不思議な形の樹木の群生を物珍しげに眺めたりしながら、ハリードと共に東区画に点在する職人たちの店の軒先を順に回る。
 そしてハリードが職人を半泣きにせんとするほど値切りに値切りながら買い物をする傍らで、エレンはリブロフと同じ要領で職人相手に聞き込みを行なっていった。
 だが今回もアクバー峠同様、思ったように情報が集まらず調査は難航することとなった。
 サラや彼女に同行する少年とやらの特徴をいろんな角度から説明してみても、そんな来客があったとは一向に聞かない。
 そうして聞き込みが連続して空振りになるにつれ、エレンの焦りは増していった。
 まさかサラは、ナジュに来ていないのだろうか。そんな最悪の予感が頭を過ぎる。
 いや、そんな悲観するのは良くないと、直ぐに思考を切り替える。それにまだ西区画での聞き込みも行っていないのだから、単に東区画側までは回ってきていない可能性だって十分にあるはずだ。
 だが、それでも心のうちに芽生えた焦りを消し去ることはできない。
 そのように焦りを募らせるエレンを他所に、ハリードは単身での砂漠越えに必要な物資を順調に買い集めていった。

「俺の用事は終わったから宿に帰るが、お前はどうする?」
「うん・・・西のバザールは・・・もう間に合わないか。あたしも今日は戻るかな」

 満足な成果を得られずにたいそう不満そうな表情のエレンを見ながら、しかしハリードは素知らぬ顔で歩き出す。
 ここまで付き合っている手前、自分にも手伝えることがあるのならば、それはやぶさかでは無いとハリードは思っている。
 だが、特に手伝えることがないのならば、生半可な慰めの言葉をかける事などはしない。場合によってはそれは嫌味にも聞こえるし、自分ならそう捉える。恐らくはエレンも、その性質だろうと思う。
 だから現時点で精々自分がしてやれるのは、酒家で愚痴を聞いてやることくらいだ。
 そう思いながら背後にエレンが付いてくるのを感じつつ宿へと戻る道すがら、ハリードはふと、何かを思い出したように目を瞬いた。

「・・・そういえば」
「なに、なんか情報!?」

 瞬間で食らい付いてくるエレンの叫び声にも似た反応を受け流しつつ、ハリードは歩みを止めずに続けた。

「まだ生きているのかは知らんが、十年前にバザール区画に情報屋がいたな。かなり抜け目ない奴だが、情報は確かだったはずだ」
「まだ居るとしたら何処に?」

 兎に角情報が欲しいエレンは、当然のように食い下がる。

「根城は西の城門近く、メインロード北沿いのマクハーだったはずだ」
「マクハー?」
「茶店の事だ。この国では本来あまり女の行く場所じゃあないが、お前なら問題ないだろ」
「わかったわ、ありがと」

 そう言うや否や、エレンは足早にハリードを追い越し、西区画への道を走っていった。
 その様子を無言で見送ったハリードは、肩に下げた荷物を持ち直して同じく西区画の宿へと向かう。

 

 程なくして戻った宿にて購入物に不足や問題がないかの確認を行い、それが終わると即座に宿の者を経由して砂漠の道中に連れていく駱駝の手配を行う。砂漠での荷運びに駱駝は必需品なのである。
 手際良く一通りの準備を終えたハリードは、後で文句を言われないように部屋に書き置きを残し、宿のすぐ向かいにある酒家に向かった。
 そこで、店では一種類しか扱っていないらしいアラックを飲みながら、頭の中ではゲッシア王族の間に口伝のみで伝わる唄を反芻させていた。

(諸王の都に辿り着くには、道中にあるとされるランドマークを2箇所経由する必要がある・・・。そこに辿り着くには口伝の通りなら、陽が南中を指し示す頃に出発し、南へ・・・そして陽が沈む頃に辿り着くという岩場の何処かに王家の紋が隠し彫られているから、それを目印に翌日南中より、今度は太陽を追いかけて歩き、陽が沈んだらそこからまっすぐ。その先にある岩陰のオアシスに王家の紋を見つけられれば、あとは南下した先にある・・・。王家に伝わる唄を解釈するとこんなところだな・・・)

 延々と同じ景色が続き、気温による揺らぎによって見通しの立たない砂漠は非常に迷いやすい。なので古くは太陽の動きに頼っての移動が主であったが、これは季節によっても当然ながら変わる。この唄も恐らくは夏季の唄なのだが、今は冬季だ。
 それらの対策として、ハリードは携帯型の象限儀を懐から取り出して眺めた。
 これは四分儀とも呼ばれ、地平と天体の角度などから大凡の現在位置や時刻を把握するものだ。船乗りや砂漠の民の必携道具である。
 砂漠以外ではあまり使うこともなかったが、いざ何処かで迷ってしまった時のためにと、彼は常にこれを携帯していた。

(・・・しかし、本当に行く意味など、有るのだろうか。いや・・・馬鹿げている。行く意味がないなんてことは、流石の俺も頭では分かっている。ただ、それでも行かねばならない気がすると言うだけなのか・・・)

 杯を傾けながら、ぼんやりとそんなことに思いを巡らせる。すると唐突に背後で、俄かにどよめきが起こった。
 そのどよめきの原因が彼には半ば予測がついていたが、一応確認をするように半眼で背中越しに軽く様子を見る。
 するとそこには、周囲の動揺をまるで意に介さない様子でずかずかとこちらへ向かって歩いてくるエレンの姿があった。
 予測通りである。
 今でこそゲッシアの法典はこの地から消え去り、特に外部からの来訪者を迎える西区画では大いに飲食店が繁盛し、男女関係なくナジュの食文化にも触れている。
 だが元々はこうした酒家などはゲッシアにはあまり数がなく、しかもそこへの来訪はその全てが男性に限られていたという歴史があった。
 特に今彼がいる場所はほぼ北区画に面する通りで西の観光区画中心部からは離れた場所であり、日中ですら外来者も殆ど立ち寄らない区画。どちらかと言えば、色濃くゲッシア文化が残っているような場所だ。そこにずかずかと外様の女一人で立ち入ってくるとなれば、その周囲の動揺ぶりもさもありなんといったところだろう。
 当然そんなことを知るはずもない(仮に知っていたとしても気にすることはないだろう)エレンは、カウンター席にいるハリードを見つけると足早に駆け寄った。
 そしてハリードの隣に勢いよく腰を下ろすと口早に店主へビールを頼み(因みにここにはアラックしかない)、ハリードへと視線を向けた。
 それとは別で、オーダーに戸惑った様子のまま自分に視線を向けてきた店主へ自分と同じアラックでいいと手振りで示しつつ、やや面倒くさそうな表情でハリードもエレンに視線を寄越す。
 するとエレンは開口一番に、こう宣った。

「ねぇ、あたしを諸王の都ってところに連れていって欲しい。行くんでしょ?」
「・・・・・・おい、なんでそんな話になるんだ。お前、サラを探すんだろうが」

 全く理解のできない話の進み方に流石のハリードも困惑の色を隠さず、エレンへと聞き返した。
 一方、目の前に出されたアラックに困惑していたエレンはハリードが飲んでいるのを見てそのまま一口飲み、不慣れな味に大層眉を顰めてみせながら、その表情のままハリードに向き合う。

「ハリードの言う情報屋ってのに会ってきたわ。でね、そいつに言われたの。神王教団のローブを一万オーラムで買うか、諸王の都に眠る財宝を何か一つ持ってきたら情報を売るって。そいつ、サラのこと見た感じだった。特徴知ってたもの。正直その場で締め上げようかと思ったけど、そういえばハリードが行くとか言ってたの思い出したの」
「・・・お前なぁ・・・完全に必死さにつけ込まれただけだろうそれは・・・」

 思わず軽い頭痛を覚えて米神に指を当てながら、ハリードは絞り出すようにそう言った。
 単なる直感ではあるが、恐らくこれは、偶然などではない。自分がこのエレンと共にこの街に帰ってきたことを、情報屋は知っていたと見るべきだろう。だからこそ、普通なら冗談にもならないような注文をつけてきたのだ。
 今更何のつもりで情報屋がそんなことを言い出したのかは、彼にも全くわからない。だが、確かに諸王の都は古ゲッシアを知る者の中ではエルドラド・・・つまりは黄金郷とされており、そこに眠る王家の財には相応の価値があると見るのもわかる。
 とはいえ、自分がそこに行くためにここに戻ってきたことなど知る由もないはずだと言うのに、何とも不可思議な話ではあった。どうにも、今考えたところで答えが出そうにもない。
 なのでそこについて考えることは一旦やめ、ハリードは目の前の杯を一気に飲み干すと、立ち上がった。

「ここで話すようなことではない。部屋に戻るぞ」

 

 

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