お転婆令嬢と青年騎士

 

「ミューズ様!ミューズ様!」

 給仕のマリスンが自分の名前を呼びながら宮廷の庭を右往左往するのを、ミューズは息を殺して身動きをしないように注意しつつ、木の上からにんまりとした表情で眺めていた。

「ミューズ様!ミューズ様!・・・もう、どこに行ったのかしら・・・」

 やがてマリスンが諦めて別の場所を探しに向かうとミューズはその場で一息ついて、木の葉の間から差し込む陽の光を眩しそうに見上げた。

「マリスンには悪いけれど・・・こんな天気のいい日にサロンで篭りっきりなんて勿体無いわ」

 その日、ミューズはピドナ宮殿で毎週開かれる淑女サロンに足を運んだのだが、あまりにいい天気に誘われて思わず外に飛び出して来てしまった。
 いつもの通りに宮廷の渡り殿を歩いていた時に空を見上げたら、流行のドレスに身を包んだレディ達が競い合うように自らを誇示しつつ宮廷に入っていく様をお日様が笑っている気がして、ふと自分がその中に混じっているのが少しだけ億劫になったのだ。
 そうして気がついたら庭先まで駆けていて、慌てて追いかけてきた給仕のマリスンを撒くために手ごろな高さの木を見つけて、飛び乗ったのだった。

「そうだ、折角だし宮殿内を探検してみようかしら」

 普段はあまりこんなことをしないので内心少し高揚しながら、ふとそう思い立ったミューズはいそいそと木から降りてお尻のあたりを軽く手で払い、サロンとは反対方向に歩き出した。

 

 父であるクレメンスが王宮の近衛軍団を率いている立場上、ミューズは世界最大国家であるこのメッサーナ王国の中心地たるピドナ王宮内でも、周囲とは別格の扱いを受けていた。
 王の血族によるロイヤリティの存在しない王国であるこのメッサーナでは、他国とは幾分異なる宮廷内事情が渦巻いていた。
 この国では次期国王を養子相続で選出するところから、宮廷内では次なる王を見極め、如何にその人物に取り入るかが次期治世の元での派閥の進退に大きく関わる。
 次なる王に重宝される事こそ、世界最大国家であるこのメッサーナ王国での最も大きなステータスなのだ。
 そして今現在の次期メッサーナ国王として最も有力視されているのが、古くからのメッサーナの名族に名の上がるクラウディウス家の現当主、クレメンス=クラウディウス。ピドナの王宮近衛軍団長にして、ミューズの父親であった。
 メッサーナ王国は現在の世界地図上の実に三割もの面積を支配しており、その領土内には複数の軍団が駐在して各地の治安を守っている。
 代表的な所は王宮お膝元の近衛軍団、北のファルス軍団とスタンレー軍団、南はリブロフ軍団、そして近年は温海地方の海上を監視する目的でピドナの南西にあるエデッサ島にも砦を設けて軍団が配置された。
 そんな中でここ数世代の流れとして、養子として次期国王に迎えられる人物は必ずピドナの近衛軍団長を歴任している。つまり近衛軍団長とは、次期国王のポストと同格と見なされていたのだ。

(つまり、お父様の未来は確約されていた・・・。アルバートおじさまがお亡くなりになるまでは・・・)

 七年前、偉大なるメッサーナの王であるアルバート王が崩御した。その前年に全世界を襲った大災害、「死蝕」による心労が祟ったという。
 アルバート王は治世としては非常に保守的な政治を好んだが、ミューズは幼い頃の記憶ながらも彼の事が嫌いではなかった。
 良くお菓子をくれて、そしていつも必ず頭を撫でてくれたのを覚えている。
 だが彼はその崩御までに、少なくとも二つの過ちを犯したと世間に言われている。
 一つは、死蝕の直前に死蝕を予言した天文学者を火炙りの刑に処した事。もう一つは、養子を正式に指名しなかった事だ。
 死蝕に備えるチャンスを無碍にした愚王と世間には罵られ、更には次期国王を書面により選出しなかった事で、あれから七年経つ今も、この国に新たな王はまだいない。
 継承の為されぬままに王を無くした大国は今、立国からこれまでに歴史上類を見ない規模の内乱という癌を抱え、大きく軋み始めていた。
 その内訳は主に、事実上の次期国王が決定していたクレメンスを支持する者と、正式な継承号令がなかった事を理由に異を唱える者達との間で起きている対立が其れに当たる。

(・・・お陰で、今では私を割れ物のように扱う方と、敵意満載で見つめる方ばかり。最近はサロンにも顔を出し辛くなった気がするわ・・・)

 通常は齢十五辺りから通い始める王宮のサロンもミューズは十二歳で通い始め、その教養も今では同年代の誰もが及びつかないものを持ち、周囲の年上のレディを相手に社交界を渡り歩いてきた。しかし近年は以前にも増してクレメンスに気に入られたい、もしくは弱みを握りたい一心で彼女に接近する人物が数多く、ミューズは最近特にそういったものを疎ましく感じてしまっていたのだった。
 そんな王宮内の華やかさと内乱による血生臭さが混同する空気にいよいよ耐えきれなくなっていた彼女は、ついうっかり、あまりの陽気に誘惑されてしまったのだろう。

「まぁ・・・あれは、近衛軍団の実技演習ね。お父様はいらっしゃるかしら」

 もやもやした気持ちを抱えながら当ても無く歩いていたミューズは、普段聞き慣れない金属音に誘われて庭園から下に顔を覗かせた。するとそこでは、近衛軍団の面々による訓練が行われている真っ最中であった。

 その場で軍団長である父の姿を捜し求めてみるが、如何せんここの位置は人を見分けるには距離があった。

「・・・遠くて見辛いわ。もう少し近くに行ってみましょう」

 早速キョロキョロと周囲を見渡して下に降りる階段を発見したミューズは、嬉々として下っていった。
 別段ここで父に会いたいと考えたわけではないが、あまり父が普段はこういったものを彼女に見せたがらないものだから、逆に興味をそそられたのだ。

 

「ここはどこかしら・・・」

 近くから訓練の音は聞こえていたものの、今一近くに出られずにウロウロしているうちに、ミューズはすっかり方向感覚を失って王宮の庭園内で迷子になってしまった。
 昔からクレメンスは必要以上にはミューズを王宮内には近付けなかった為に、彼女にはここの構造があまり分からないのだ。
 内乱中は元より、その前でもミューズの立場は良からぬ事を考える輩にも狙われやすい。そう言った意味ではクレメンスの判断は勿論正しいのだが。

「うーん、どうしましょう・・・」

 しかしそんな父の心配とは裏腹に今一緊張感に欠ける声でそう呟いたミューズは、気を取り直してあたりを散策する事にした。ピドナの庭園は一年を通して様々な花が咲き誇ることで有名で、自分でも花を育てているミューズには興味の尽きない場所でもあったのだ。

「あら、ステキな薔薇! 何の品種かしら・・・」

 早速庭園の一角に見慣れない淡い紅色の薔薇を見つけ、駆け寄る。それは彼女が知る品種にはない形をしており、色合いもとても美しい。手元に図鑑があれば良かったのに、なんて事を思ってみたが、今は無いので、兎に角帰って調べられるようにこの薔薇を目に焼き付ける事にした。
 そうして暫く飽きもせずに薔薇を眺めていると、背後に人の気配を感じた。しかしミューズがそれに気がついた時には、その人物は何時の間にやら彼女の横に立ち、薔薇に目を落としていた。

「・・・珍しい薔薇だろう? これにはまだ名前はない。昨年に作出されたものだ。クレメンス様がいたく気に入っていてな。名前をそう・・・ご息女のお名前にするんだ、なんて仰っておられたな」

 それは少し低めで、よく通る声だった。見上げると、日に焼けた浅黒い肌に鋭い眼光を湛えた、精悍な顔付きの青年が立っていた。

「まぁ、それではこの薔薇の名前は、『ミューズ』になるの?」
「そうなるな。クレメンス様のご息女であるミューズ様を私は拝見した事こそないが、きっとこの薔薇に似てさぞお美しいのだろう」
「まぁ・・・殿方に直に其の様に仰られると、恥ずかしいわ」

 照れ照れしながらミューズが顔を赤らめて笑いかけると、そこで漸くミューズへと視線を向けた青年は、目を点にして彼女を見つめた。
 青年の瞳には、艶やかな海色の髪をした白い肌の少女が映る。
 数秒の間見つめ合ってから、やっとの事で青年は口を開いた。

「えっ・・・と、え・・・まさか、ミューズ・・・様・・・?」
「はい。あ、申し遅れました。私、ミューズ=クラウディア=クラウディウスと申します」

 ゆっくりと立ち上がってドレスの裾をつまみ上げながら優雅にお辞儀をしたミューズに、青年は今一度驚愕の表情をして、次の瞬間には即座に二歩後退して地に膝をついて俯いた。

「た、大変失礼を致しました! 私は近衛軍団所属の騎士、シャールと申します!そ、その・・・このような時間にこのような場所におられたものですから、城仕えの者の親族かと勘違いをし・・・まさかミューズ様ご本人とは露知らず、大変なご、ご無礼の数々を・・・」

 慌てふためきながら口早にそう言ったシャールだったが、クスクスという笑い声が聞こえてきて、思わず顔をあげた。
 するとそこには、鈴を転がしたような可愛らしい声で可笑しそうに笑うミューズの姿。
 そんな彼女にひどく困惑した表情を向けたシャールがまた可笑しくて、ミューズは暫くの間は笑いを抑えられなかった。

「ふ、ふふ、ご、ごめんなさい。あんまり切り替わりが機敏だったものだから・・・、お、可笑しくって・・・」
「は、はぁ・・・」

 漸く笑いが収まってきた所で、ミューズはぺこりとシャールに頭を下げながら言った。
 対するシャールは膝をついて地面を見たままで不動の構えだ。

「シャールさんって、お父様からお名前は聞いた事があるわ。近年の近衛軍団所属の騎士の中でも群を抜いた実力の持ち主で、将来有望な方だ、って」
「いえ、滅相も御座いません。まだ私などは・・・」

 そう言って只管に頭を垂れるばかりのシャールに合わせて、ミューズはその顔を覗き込むように屈みこんだ。

「・・・ねぇ、シャールさんは薔薇に詳しいの?」
「いえ、そう言うわけでは・・・。ただ、クレメンス様がよくミューズ様のお話をなさって、ミューズ様は花がお好きだと聞かされているうちに、この庭園にあるもの位は自然と・・・」
「まぁ、お父様ったら、存外親馬鹿なのね」

 近衛軍団長も、愛娘にかかれば形無しのようだ。
 父親をそう評したミューズは、目線を合わせずに俯くシャールに向かって再度語りかけた。

「ねぇ、シャールさん」
「ミューズ様。どうか、私のことはシャールとお呼びください」
「じゃあ、シャール。こちらを向いて?」

 ミューズのその言葉に、おずおずとシャールが顔をあげる。すると、目と鼻の先の位置にミューズの顔があり、その藍色の瞳が自分を映しこんでいた。

「・・・!?」

 驚いてすぐに顔を戻し、更に後退りしようとするシャールの顔に、それを阻むようにミューズの両手が添えられた。

「お父様は、人と話す時に目を合わせるな、と教えているのかしら?」
「・・・・・・いえ」

 シャールが瞬きをしながら顔をあげて答えると、ミューズはにこりと微笑んだ。

「シャールの瞳って、黒いのね。生まれはナジュ?」
「・・・いえ、私自身はピドナの生まれですが、血筋にあるとは聞いております・・・」
「そうなの。ナジュの血は勇敢だと言われるものね。きっと貴方の戦う姿は、とても雄々しいのでしょうね」

 そこで漸くミューズはシャールの顔から手を離し、再び薔薇へと目を移した。

「ねぇ、この薔薇の苗って、お願いしたら分けてもらえるかしら」
「ええ、大丈夫でしょう。早急に、私から庭師に進言しておきます」

 シャールのその言葉に再度にこりと笑うと、ミューズはすっと立ち上がった。

「どうせなら、今から頼みに行ってみましょう。ねぇ、シャール」

 そう言って屈んでいるままのシャールに、ミューズは片手を差し出す。

「一緒に、来てくれる?」

 シャールは狐につままれたような表情でそれをみていたが、数秒のためらいのあと、目を細めてその手を控えめに取りながら立ち上がった。

「・・・お供いたします」
「ふふ、それじゃあ、よろしくお願いしますね」

 そう言って可笑しそうに笑うミューズに相変わらずシャールは困惑気味の表情だったが、ひとつ肩を竦めると、庭師が居るであろう詰め所の方向へと向き直った。

「それでは、こちらです。ミューズ様」

 そういってミューズも此方に足を向けたのを確認すると、シャールは彼女に歩調を合わせてゆっくりと歩き出した。
 きょろきょろと見慣れない庭園を眺めながら、詰め所に行き着くまでにミューズは道すがらよく喋った。

「ところでシャールは訓練中だったの?」

「え、まぁ、そうですね。丁度実技が終わったので、今は休憩中ですが・・・」

「そうなの。それはごめんなさい、休憩中に」

「いえ、とんでもない。むしろ・・・私は運が良かったのでしょう」

「え?」

「・・・いえ、なんでもないです。ところで先程あちらでミューズ様の名前を呼んでいる給仕がいましたが・・・」

「あ、そういえばマリスンのことすっかり忘れていたわ・・・。まぁ、大丈夫よ、うん」

 

 

「・・・というのが、私とシャールが初めて会った時のことなのですよ」
「うわー、なんかすっっごいロマンチックです!」

 椅子に腰掛けて紅茶を飲みながらミューズの話を聞いていたサラは、すっかり興奮した様子で相槌を打つ。美味しい紅茶が手に入ったからとトーマスにお使いを頼まれて来たのだが、すっかり彼女はミューズとのおしゃべりに夢中になってしまっていた。

「じゃあじゃあ、あの裏庭で育てている薔薇ってもしかして・・・」
「ええ、あれが『ミューズ』です。自分の名前って思うと恥ずかしいですけれど、今は愛着も湧いてしまって」
「うわー、うわー!素敵!」

 窓から見える薔薇に目を向けながら、サラは俄然瞳をキラキラさせた。

「因みにその時って、ミューズ様はおいくつだったんですか?」
「ええと、七年前のことですから・・・私が十五で、シャールが二十三ですね」

 指折り数えるミューズに、サラは椅子に座りなおして居住まいを正すと、腕を組みながら眉間に皺を寄せた。

「八歳差かぁ・・・全ッ然イケますね」
「イケる?何がイケるのでしょう?」
「あ、いえ、なんでもないんです独り言です・・・あ、でも今の私と同じくらいの頃にサロン通いとか、やっぱりミューズ様ってすごいところで育ったんですね」

 サラが慌てて話題を変えると、これにはミューズは苦笑を漏らした。

「ピドナ王宮は世界中の流行が集中する場所でしたけど、サロンは話題こそ事欠かないものの、すこし節操が無さ過ぎた感じはしますね。個人的には、ロアーヌやウィルミントンなどの文学サロンや芸術サロン等に憧れました」

 ミューズはそういうが、生まれてこの方シノンを出たことが無かったサラには今一想像が難しかった。なにせ社交界とは無縁の開拓村生活だったからだ。とはいえ同じ村の出身のトーマスなどはそういった場所に出てもむしろ問題なさそうだし、最近出会った女性陣でもモニカやカタリナなどは生粋の社交界出身者だ。となるとサラと同じ感覚に陥りそうなのは、姉のエレンと友人のユリアンくらいか。ハリードは、お金が絡めば社交界でも何でも居そうな気がする。
 と、そこに部屋をノックする音が聞こえ、ミューズの返事を待ってからシャールが顔を覗かせた。

「あ、シャールさん!今、シャールさんとミューズ様の出会いの話を聞いていたんです!」

 出会い頭に興奮気味にそうまくし立てるサラに、シャールは目をぱちくりさせた後に、目じりに皺を寄せた。

「あぁ、王宮での話か。ミューズ様は、ゴンやミッチにもその話をよくするんだ。なかなかその頃のミューズ様は、お転婆だろう」
「まぁ、シャールったら!」

 珍しく柔らかな笑みと共にそう話すシャールに、ミューズが可愛く頬を膨らませる。そんな二人を思わずニヤニヤしながら眺めるサラだったが、気付けばいつの間にやら夕刻が迫る頃合となっており、それを知らせに来たシャールに案内されてこの日は旧市街を後にすることにした。

 

「ところでシャールさんは、ミューズ様のこと好きなんですか?」

 新市街に向かう道すがら、耐え切れずにサラは直球の質問をぶつけてみた。シャールはそんなサラの質問を聞いて、何故か得意そうに笑う。

「それは、秘密だ」
「あら、つれないわ」

 どうやら、この手の質問はされ慣れているようだ。見事に打ち返されたサラは、しかしうんうんと一人で満足げに頷いた。

「でも、その方が周囲のやきもき感がたまらないから、むしろいいですね。色々考えるだけで、顔がにやけちゃいます」
「・・・ふっ、これは参ったな。サラ殿はトーマス殿よりもこの手の話題には一枚上手か」
「えへへ、最近は恋愛小説を読むのが趣味なんです。でも、事実は小説より奇なり・・・でしたっけ。今日はミューズ様のお話を聞いて、それを実感しちゃいました。」

 そんなサラの様子に苦笑しながら返したシャールは、新市街へと続く階段までサラを送り届けると、ゆっくりと階段を上っていくサラの背中に向かって最後にこう言った。

「ただ、勘違いしないでくれ。私が今もこうしてミューズ様の下にいる理由は、ミューズ様が私の主であるという・・・その一点に限る、ということを」

 その言葉に、サラは振り向いてにっこりと笑った。

「今は、それでいいんじゃないですか?」

 その言葉に、シャールは参ったと両手を肩の上まで挙げながら応えた。そのまま上機嫌な様子で階段を上っていって最後に振り向いて手を振るサラに応えてから、シャールはふぅと一息ついて、主の待つ家へと引き返していく。

「今はそれでいい、か。全く、最近の若いものには敵わんな・・・。私も年を取ったものだ」

 

「ねぇミッチ、私ってお転婆かしら?」
「おてんば?なぁにそれ、おかしの名前?」
「えぇ、そんな感じ・・・」
「うん!じゃあおてんば!」

 シャールを待つ間、主はクッキー片手に、同じくクッキーをほお張る小さな隣人にそんなことを聞きながら、まだぷっくり膨れていた。

 

 

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第九章・7 -ロアーヌ侯の名代-

 

 ただ一条の光すらも届かぬ、黒く、重く、深い、どこまでも只管に続くかのような暗闇。
 まるで死蝕の只中にでもあるかのような絶望感に覆われたその場所は、その空間そのものが、生きとし生けるものの介在を頑なに拒んでいるかのようだ。
 そんな、外界から断絶された醜悪なる地の底。その最も深き場所に揺蕩う暗黒の、中心部。
 気がつけばそこには、圧倒的な存在感を漂わせながら蠢く、四つの気配があった。

「忌々しい・・・」
「あぁ、全くだ・・・三百年前でさえ、これほどの忌々しさはなかった」
「しかしこれも、定めのうちじゃ・・・」
「・・・そう。我らが宿願のための、定められた通過点だ」

 言葉短かに、其々が呟く。

「ふん・・・兎も角、残るゲートは一つに集約された。我らの宿願さえ叶うなら、あとは好きにやればいい」

 何者かが発したその言葉と共に、三つの気配がその場から消える。
 残された一つの気配は、深い闇と静寂に身を任せ、ただそこに佇んでいた。

「好きに、か。無論、そうさせてもらおう。何しろ、三百年も待ち侘びたのだからな・・・」

 どこかに愉悦の響きを感じさせる声を残し、気がつけばそこには何者の気配もなくなった。後には、ただただ深い深淵が横たわっているだけであった。

 

 

 アビスリーグの騒動が収束してから二ヶ月近くが経ち、世界が新緑の季節を迎えんとしている頃。
 各国での様々な任務や情報収集を終えた面々は、その殆どがピドナへと帰還していた。
 しかしながら、その場には戻ってきていない者も幾人かおり、その者らについては現在どこにいて何をしているのか、という点すらも分かっていない。
 それはつまり、ヤーマスで一人別れたサラと、それを追うようにピドナを去ったエレンとハリードであった。
 サラの行方は既に半年以上もの間、ようとして知れず。その目撃情報は、失踪直後にキャンディがファルスピドナ間の宿場町で夜間に見たというのが最後だ。
 一方のエレンハリードの両者については、どうやら旧ナジュ王国首都である神王の塔に向かったという情報までは商業ギルドを通じ得られているが、その後の足取りは矢張り掴めていなかった。
 出来ることならば、今すぐにでも彼女らを探すために全ての業務を投げ出してしまいたいとすら、トーマスは考えている。
 だが、それは己以外の誰もが望まぬこと。
 また、自分が今ここで他の全てを投げ出すことが情勢にどれほどの影響を及ぼすかも理解しているからこそ、彼は動けないし、動かない。
 その大いなる内と外の気持ちがせめぎ合う矛盾を振り払うかのように、トーマスは目の前の新たなる課題へと一心不乱に向かっていた。
 そこに、コンコン、と扉をノックする音が響く。

「どうぞ」

 目の前の書簡に視線を向けたままトーマスが入室を促すと、程なくして扉が開かれ、見慣れた二人が部屋の中へ入ってきた。

「あぁ・・・お二人とも、戻られましたか」

 静かに開かれたドアから部屋の中に入ってきた二人、ミューズとシャールを認めると、トーマスは書簡へと向かっていた意識と手を休め、彼女らに向かい合った。
 酷く疲れた様子のミューズに部屋のソファへの着座を促したシャールは、次いでトーマスへと視線を向けると簡単に状況説明を行う。

「一先ず、旧市街の住人の避難は今朝時点でほぼ完了した。あの辺りをねぐらにしていたならず者共も、流石に異変を察知したのか市外へ散っていったようだ。今の旧市街には、鼠一匹も居やしないだろう」
「短期間での迅速な準備と誘導対応、本当にお疲れ様でした。これも全て、ミューズ様の人望のお陰です」
「いえ・・・旧市街の方々は、その殆どが何らかの事情で新市街を追われた方々。同じ境遇である私だったから、偶々耳を傾けてくれたに過ぎません」

 ミューズは自らの疲れを吐き出すように一息つくと、トーマスにそう答える。
 当然ながら旧市街の住人がそれだけの共通点でミューズの言葉を聞き入れたわけはないとトーマスには分かっているが、今はミューズの返事に浅く頷くに留めた。

「私の方からはこの数日で纏まった状況を含めた現状整理と共有を行えればと思いますが、今日は休まれて明日にしましょうか?」
「いえ、大丈夫です。お聞かせください」

 ミューズの気丈な返事に、トーマスは再度軽く頷いてから手元の書簡をまとめ、ミューズらと対面のソファへ移動し座り直した。

「では・・・。魔王殿から漏れ出した謎の瘴気の影響範囲ですが、現在は旧市街地のおよそ七割ほどまで達しています。おそらくあと一週間程で旧市街全体を飲み込み、此方にまで瘴気が到達するでしょう。次に増加した魔物の活動ですが、現時点ではまだ魔王殿より外に範囲を広げている様子は見受けられません。ただ、魔王殿上空を竜種の群れが飛行していたとの新たな目撃証言があり、一週間前に比べても内部の魔物数は増しているとみて間違いないでしょう」
「・・・道理で、この数日ずっと銀の手がひりついているわけだ・・・」

 トーマスの言葉に、シャールは視線を険しくしながら自らの右腕に装着された銀の手を見る。するとまるでそれに応えるかのように、カシャリ、と銀の手が僅かに鳴った。

 事の起こりは、かれこれ二週間ほど前に遡る。
 突如ピドナ旧市街の奥に聳える旧時代の遺物・魔王殿から、膨大な量の瘴気が外部へと溢れ出し始めたのだ。
 巷ではこれを昨年始めの似たような騒ぎに準え、『第二の予兆』として恐れ慄いた。
 そこから程なくして、溢れ出る瘴気に触れた魔王殿近隣の旧市街住民が謎の体調不良を訴えて倒れはじめた。
 そこからは、ピドナ全体が恐怖と混乱に陥るのに、そう大した時間は掛からなかった。
 即座に旧市街の閉鎖や、更には魔王殿を旧市街ごと焼き討ちしろなどの過激な声も宮廷内で噴出し、それに激昂したミューズがクラウディウス家の所有する土地を用い旧市街の住民を避難させる案を、ルートヴィッヒ軍団長に即日直訴。ルートヴィッヒ軍団長は、同日にこれを承認。
 そこからミューズは今日まで、カタリナカンパニーの全面的な協力を得ながら避難に必要な物資の確保、宮廷内や新市街で根強い『旧市街住民を流入させることへの不安』への説得、そして旧市街住民への避難対応などに奔走していたのであった。

「そしてこちらの軍備状況ですが・・・現時点で近衛騎士団以外の兵力は未だなく、近隣のファルスやスタンレー軍からの援軍についても、ほぼ期待は出来ないだろうとの軍団長の見解です」
「ふん・・・元々あの両軍をけしかけて消耗させたのはルートヴィッヒ自身だ。自業自得だな」

 シャールが忌々しそうに表情を歪めながらそういうと、対して今は至極冷静な様子のミューズが、片目を瞑りながらシャールに視線を投げかけた。

「シャール、今はそのようなことを言っている時ではありません」
「は・・・申し訳ございません」

 ピシャリと飛ばされた主人の言葉に、シャールは姿勢を正して直立する。
 その見慣れぬやりとりに、トーマスは彼女がこの二週間で実に様々な、望まぬ経験というものをしてきたであろうことを感じた。
 特段、彼女が苦心したであろう点は、新市街の有力者や宮廷貴族への説得に違いない。
 自分とは根本から価値観の異なる人種への説得と物事の調整とは、清廉なる彼女にとって大いなる苦行であったはずだ。
 当然ながらこれによる一切の責任をクラウディウスが持つことを条件とされたであろうし、そしてなんらか起こる、もしくは意図的に「起きた」とされるであろう騒動を全て彼女の責任とし、彼女の宮廷内での発言権を弱めていく思惑が貴族や有力者連中にあることも、間違いないだろう。
 己の既得権益を守ろうとする有力者の思考や行動は、常にそうしたものだ。
 ミューズの隣で直立しているシャールなどは、彼女がそうした跳梁跋扈の世界に身を投じている様に、実のところ誰よりも一番心を痛めている。
 それでもきっと彼は、ここまでに愚痴の一つも吐いてこなかったに違いないのだ。
 なのでどうしても心が気安くなるこの瞬間に宮廷事情の話を振ったのは、ちょっと配慮が足りなかったか。そんな風に、トーマスは少し己の言動を省みた。
 しかしなんにせよ、この二週間で旧市街住民の避難完了を成し得たのは、今のミューズの確かな調整手腕である。その結果として勝ち得た冷静さが彼女に似合うとは到底思えないが、しかし彼女は今は自らそれを望み、その仮面を被っているのだ。
 だとしたらこちらが今そのことを下手に心配するのは、むしろ失礼にあたるのだろう。

「・・・なので、つい先日戻られたカタリナ様に、早速ですが宮廷へと赴いていただいています」
「おぉ、カタリナ殿も戻られたか。しかし、なぜ宮廷に?」

 頼もしい戦友の帰還に先ずは喜んだシャールだったが、そこで感じた疑問をそのまま口にする。
 すると、それにはトーマスより先にミューズが浅く頷きながら答えた。

「カタリナ様が、ロアーヌへの物資の見返り・・・ということですね」
「仰る通りです。ですので侯国の名代として、モニカ様がカタリナ様と共に向かいました」

 トーマスはミューズの言葉にうっすらと笑みを浮かべながら答え、手元の書簡をそのままミューズへと手渡した。

「一応手元にある現時点までの情報はお渡ししておきますが、矢張り今は少しおやすみください。せめて、カタリナ様たちがお戻りになられるまでは」
「そうですね・・・お気遣いありがとうございます。それではシャール、いきましょう」
「はっ」

 トーマスから書簡を受け取ったミューズはシャールの手を借りて立ち上がり、ゆっくりとした足取りで部屋を後にする。
 その様子を立ち上がって見届けたトーマスは再度心の中で彼女を労いながら、再び自らの机に戻り作業を再開した。

(当然ながらルートヴィッヒ軍団長との話は、一筋縄では行かないだろう。しかし、きっとモニカ様ならば大丈夫なはずだ・・・)

 如何せん他者の行動を心配しがちなトーマスは、結局作業にあまり手がつかずにもんもんと他の考え事をしながら時間を過ごしてしまうのであった。

 

 

「お初にお目にかかりますわ、ルートヴィッヒ近衛軍団長閣下。わたくし、モニカ=アウスバッハと申します。本日は我が兄にしてロアーヌ侯国侯爵、ミカエル=アウスバッハ=フォン=ロアーヌの名代として、この場に参りました」

 ずらりと武装した衛兵が壁際を埋め尽くした、伝統あるピドナ王宮の謁見の間。モニカはその場に立ち、多くの物珍しそうな視線を浴びながら、ルートヴィッヒに相対していた。
 来る前はピドナ王宮の謁見の間がどれほどのものなのかと思ったものだが、調度品や装飾こそ確かに見事であるものの、こうして立ってみると事前予想したほど広大ではない。何ならロアーヌ宮廷の謁見の間とそこまで大きくは違わないのではないか、などとモニカには感じられた。
 なので思いの外自分から近い距離感で玉座の脇に立つ軍服姿のルートヴィッヒをじっくり観察しつつ、モニカは口上と共に優雅にドレスの裾をつまみながら恭しく一礼をしてみせる。

(ふぅん・・・公的な挨拶の場でも玉座には座らずその脇に立ち、その格好もあくまで貴族然としたものではなく軍服なのですわね・・・。既にメッサーナ王気取りをしていないのは、まだ好感が持てますわ)

「良くぞピドナ王宮へ参られた、モニカ=アウスバッハ殿。流石は噂に聞くロアーヌの華、その噂以上に実物はお美しい。斯様な軍服で出迎えてしまった無骨な軍人の無礼を、どうか許していただきたい」
「いいえ、とんでもございません」

 相手の世辞に短くそう答えながら、モニカはスッと背筋を正す。
 それに合わせてルートヴィッヒも口を結び、彼女の次の言葉を待った。

「先ずは閣下に、我が国を代表して御礼を申し上げたく存じます。先般、我が国と魔物との長期戦線へ貴重な物資の援助を頂きましたこと、誠にありがとうございました。御援助頂いた物資によって戦線が回復し防衛に成功したことは、閣下のお力無くしては成し得なかったことであると、わたくしどもは確信しております」
「いや、対四魔貴族軍との戦線ともなれば、それは言わば世界共通の宿敵。我らとしては聖王様の時より共に歩んできた古き友へ、当然のように手を差し伸べたに過ぎない」
「勿体ないお言葉です」

 にこやかに、そして自然な様子で会話を弾ませる両者。
 ルートヴィッヒの近くに控えていた副軍団長マルセロは、いま世界で最もメッサーナ王に近い自らの主人を前にして、これほどまで威風堂々たるロアーヌの姫の姿に、内心では大きく舌を巻いていた。
 ルートヴィッヒが近衛軍団長としてピドナに君臨してからというもの、各国要人がこの謁見の間に詰め掛けぬ月は一度もなかった。そして、訪れた誰しもが一様にルートヴィッヒの覚えをよくしようと、執拗に主人の顔色を窺ってきたものだった。
 だが、この姫にはそのような打算の素振りは全く見受けられない。
 無論、だからといって無礼というような言葉とは正反対の気品に溢れ、それは単に彼女が見目麗しいからという話では全くない。言うなれば一国を治める侯家の生まれという血筋からくる、揺るぎない誇りと風格。
 佇まい一つから、そこまで感じさせるのだ。
 ロアーヌといえば先代に勝る名君と名高いミカエル侯が特段に有名だが、その妹君までがこのような傑物の風格を漂わせているとは、ロアーヌ侯国は矢張り国家としての要人層が厚いと感じざるを得ない。
 何しろ、その層の厚さを最も代表する存在が、この姫の後ろに今も控えているのだから。

「そこで、我が国としましては閣下からの多大なる恩義に最大限報いるため、いま最もピドナに必要だと確信する我が国の剣とともに、本日ここに馳せ参じた次第でございますわ・・・カタリナ、前へ」
「はっ」

 モニカが自らの背後に向かい声をかけると、彼女の後ろで片膝をつき待機していたカタリナが立ち上がった。
 そしてモニカの横に立ち、ルートヴィッヒへ向かい騎士式の一礼をする。

「お初にお目にかかります、ルートヴィッヒ近衛軍団長閣下。ロアーヌ侯国が騎士、カタリナ=ラウランと申します。お目通り叶い、光栄に存じます」
「おぉ・・・カタリナ殿、お噂はかねがね聞いている。あの十二将ヒルダ様以来の侯国女騎士にして、既に複数の四魔貴族を討伐せし英雄。こうして生ける伝説に会えたこと、こちらこそ光栄に思おう」

 そう言いながらルートヴィッヒは玉座のある壇からカタリナらと同じ高さに降り、一歩カタリナへと近いてみせた。

(・・・あら、少し声色が変わりましたわね・・・。強く美しきに憧れを抱く・・・そうした極一般的な男性のサガは、この方にもご健在のようですわ。でもダメ、カタリナはお兄様のものですわよ)

 内心では一言一句全てに感覚を研ぎ澄ませながら笑顔を絶やさないモニカは、口上を述べたカタリナが半歩下がるのを待ってから再度口を開く。

「ピドナは現在、旧時代の遺物である魔王殿から発せられる強大な瘴気の影響を受け、混乱の途上にあられるかと存じます。魔物の集結もあるとのことで、瘴気と合わせ、通常の軍勢で対抗するには困難を極める状況のご様子。そこで、我が国の誇る最強の剣であれば今のピドナを必ずお救い差し上げることができると思い、それを以て先般の恩義に報いたいと考えております」

 モニカが言葉を述べると、ルートヴィッヒはふむ、と息を吐きながら声を出した。

「残念ですが・・・モニカ姫、それは少々、道理の通らぬ申し出ですな。確かにその者の実力は、今のピドナを救う最も有力な手立てであることに間違いない。しかしその者はロアーヌの騎士であると同時に、我がピドナで商売を営む、我らの内に居る者でもある。我が国内に在る人と物は喫緊の際、近衛軍団長の名の下に徴発権限を我々は有している。つまりその者は我が国においては徴発対象であり、援助対象としてお受けする者とは成り得ません」

 ルートヴィッヒが如何にも人好きされそうな柔和な顔で、しかしモニカの申し出そのものの正当性を全否定する。
 対してモニカは二、三度瞬きをしたものの、顔色ひとつ崩さない。

「あら・・・閣下、それはまた異なことを申されておりますわ。そうした法は当然我が国にもございますが、その論法に当て嵌めてしまうと、御援助頂いた支援物資がミュルスの港についた瞬間から、我が国の徴発対象となってしまいます。聖王様がコングレスで認めし爵位国はメッサーナ王国と共に、相互に協力を惜しまず、決して争うべからず。その大原則の元、わたくしどもはお互いの持てる自国資源を、時に惜しみなく分け与う。此度の双方が直面した危機とは、それに基づくものであると、我が国は解釈しておりますわ」

 モニカのこの言葉に、謁見の間全体が大きくざわついた。
 国家毎の法を持ち出したルートヴィッヒに対し、唯一の国際規範である聖王の教えを軸にモニカは話をしてきているのだ。
 言うまでもないことだが、総合的な国力でメッサーナとロアーヌの双方が争えば、メッサーナの圧勝である。仮にここでルートヴィッヒの機嫌を損ねてロアーヌに何らかの経済的報復を行うなどということがあった場合、他国もそれに追随する可能性は高く、そうなればロアーヌなどはひとたまりもあるまい。

(・・・でも、それは昨年までの話ですわ。我がロアーヌはお兄様が爵位を継いでから、この一年あまりの間に大きく勢力を伸ばしている。単に報復措置など行おうものなら、とても痛いしっぺ返しがありますわ)

 にこやかに舌戦を交わすその最中、モニカは心の中に敬愛する兄であるミカエルの姿を思い浮かべながら、揺るがぬ意志を体内に錬成し続けていた。

(・・・とは言え、この理屈では少々分が悪いのも事実。メッサーナを中心とする聖王様により救いをもたらされた各国は、確かに聖王記という『絶対規範』を持っていますわ。言うなれば、これは世界共通の法典。ただし・・・この三百年で風化したしきたりや解釈の分化などが幾つも起こっており、実際問題として国家同士の取り決めに持ち出す交渉材料としては、些か決定打に欠けるのが正直なところ。精々が、建前上の合意根拠として誓約書面の末筆に記載される類のもの)

 モニカのこの見立ては、非常に正しい。
 聖王の教えは今も様々な場面で世界に影響を及ぼし、人々の生活や分化に根付いたものとなっている。だが、こと国家としての取り決めという分野については、正味が建前として用いられる程度のものだ。決して違えることの許されない世界憲法、という程の代物ではない。

「ふふ、流石はモニカ姫、フェルディナント様に連なる敬虔なる聖王教徒であらせられる。しかし、国家の機能や権限は三百年も以前に定められた『お約束』では全く網羅しきれないほどに拡大、変容しているのが今の国際常識です。結論として、先般の我らからの援助物資を貴国は徴発対象としていない。まぁ元々貴国にはなかった物資ですから、それが国際的にも正しいでしょう」

 ルートヴィッヒは後ろに手を組み、あくまで柔和な表情を崩さずに続けた。

「しかし此の者の場合は、根本から条件が異なる。此の者は現在ピドナに活動の拠点を置いているだけではなく、ピドナで経営を行うことで利も得ている。商業ギルドを通じて我が国に本店登記されたカンパニーとして税も納めているし、実際に幾つかの国家事業にも加担したことで、国外では知り得ないピドナ内の情報も有している・・・。そのような存在を有事の際に徴発対象としない国家は、今のこの世界には何処にもございませんよ、モニカ姫」

 ルートヴィッヒは、饒舌に語る。
 国家同士の国力を背景とした軍事経済、国家間取引実績による戦略遊戯において、ルートヴィッヒは圧倒的な実力を持っているのだということを、改めて実感させられた。

「そこで・・・です、モニカ姫。貴国にはもう少し別の援助をお願いしたいと考えているのです。直近、貴国はナジュ方面へと遠征し大きく影響力を拡大しておられる様子。あの神王教団教長ティベリウス殿とも友好条約を結ばれたとか。ついては・・・是非ともミカエル侯のお力を借り、我が国へナジュからの援軍を要請させていただきたいのです。本来ならば世界最強の誉れ高いロアーヌ騎士団のご助力を願いたいところですが、件の長期戦線で大きく疲弊もしていることでしょうからね」

 ナジュからの援軍を要請する。
 これが何を意味するのか、この場において分からぬ者は居ないであろう。つまりこれは、神王教団の協力を仰ぐ、と言うことだ。
 メッサーナでは昨年、様々な面で優遇措置を施し蜜月を築いていた神王教団ピドナ支部の壊滅という、大きな政治的内紛を起こしている。これによるルートヴィッヒ政権への世論反発影響は非常に大きく、火消しや情報統制に苦心したことは、宮廷内ではまだまだ記憶に新しいことだろう。
 そのような国民感情を背景とした最中、ロアーヌから援軍が送られてきたのが神王教団の兵力だとしたら。

(まず確実に、メッサーナ国民のヘイトがロアーヌに向きますわね・・・)

 ピドナとしては未だ記憶に新しい、神王教団との禍根。これを蒸し返すようなことを他国が行おうものならば、世論が国内批判ではなく国外批判に傾くことは、想像に難くない。

(ふぅん・・・クラウディウス家の復権という痛みは伴ったものの、ミューズ様を取り込み世論からの反応をフラットに戻した次は、更に自国のヘイトを外部に分散させ、あとはそれを煽ることで政権としての支持を回復・・・といったところですわね)

 しかもこれは見え方を操作すれば、完全にロアーヌからの『侵略』とも捉えかねられない。
 何しろ此度の魔王殿の問題は、徴発対象としているカタリナという戦力を以って挑むことで、既に一定の勝率を確保している。万が一これが功を奏さなかった場合は撤退戦の中でナジュからの援軍も必要になるだろうが、仮にカタリナのみでこの危機を想定通りに脱したとあれば、このタイミングで訪れたナジュからの援軍は『自国の危機に乗じた神王教団とロアーヌの侵略軍』と市井の目に映ることだろう。
 あとはそれを起点として、如何様にも国際情勢を煽ることができよう。
 これならばどう転んだところで、ロアーヌの勢力を削ぐことができる、

(なるほど・・・自国の危機をすら、外交のその後を見据えて利用する。野心あふれる施政者としては、ある意味あっぱれですわ。まぁでも、お兄様には敵いませんけれど・・・。とまぁ、相手の表面上の狙いは解りましたわ。でも・・・本当に見据えたいのは、その先ですわね)

 モニカは、瞬時の間に思考を巡らせていく。
 ルートヴィッヒがロアーヌの権勢を削ぐ動きをしようとしている。それは今の申し出から読むことが出来た。
 だが、今更メッサーナ王国がそれをする必要が、いったいどこに在るのか。
 それをすることで、ルートヴィッヒはその先に何を成そうとしているのか。
 それが目下一番の関心事であった。
 このまま行けばルートヴィッヒがメッサーナ王を名乗る日は、そう遠くないだろう。そこに、ロアーヌという国の勢力は殆ど関係しない。
 当然ロアーヌがそこに反対をするという可能性はあるが、それこそ一国が反対したところでどうしようもない情勢を、この男ならば容易く整えられるだろう。
 なので、ここでロアーヌを弱体化させる目的は、そういう点とは別のところにあるはずだ。

(ロアーヌを弱体化させることで得られるメリット・・・この男が目指す、その先とは・・・?)

 ここまで、ルートヴィッヒが喋り終えてから数秒。そろそろ、静寂も限界か。

(・・・ふぅ、残念ながらわたくしには今この場この瞬間で、そこを読み切ることは叶いませんわね。きっとお兄様であればその先まで瞬時に読み、この場でもっと情報を引き出せるのでしょうが・・・口惜しいですわ)

 ふっ、とモニカが小さな吐息を漏らすと、その場の全員の視線が彼女に注目する。
 それを意識したのかしていないのか、モニカは姿勢を崩すことなく凛としたまま、より一層華やかに微笑んで見せた。

「ふふ、閣下・・・少々思い違いをなされておられるご様子ですわ」
「・・・ほう、思い違い」

 ルートヴィッヒもまた表情ひとつ崩すことなくモニカに問い返すと、モニカは「はい」と言いながら頷く。

「我が国の誇る騎士、カタリナの取り扱いについて閣下が唐突に言及なされたものですから、わたくしもカタリナについて、我が国としての見解を述べたに過ぎません。それにつきましては近年の国際情勢を鑑みた閣下の知見、とても学びになりますわ。ですが・・・わたくしは元々、カタリナを我が国からの援助してご提案は、しておりません」

 モニカの言葉に、周囲の衛兵や副軍団長マルセロなどは眉間に皺を寄せながら考える。しかし一方のルートヴィッヒは、少し長めの瞬きをひとつする間だけ考えを巡らせ、一言、呟いた。

「・・・・・・言葉の通り、剣、か」
「仰る通りでございます」

 モニカのその言葉と共に、カタリナが再度モニカの横に並び立つように半歩進み、鞘に納められた状態のマスカレイドを胸の高さに掲げた。

「聖王遺物が一つにして我が国の至宝、聖剣マスカレイド。騎士カタリナが魔龍公らを討伐出来たのは、彼女と共にこの剣があってこその事でございます。よもや・・・閣下は聖王様所縁のこの剣までを徴発対象と仰っているわけでは、御座いませんね?」

 モニカのその言葉に、謁見の間に控える衛兵らから再度、小さくないざわめきが巻き起こった。
 聖王記を軸とする規範については、先にルートヴィッヒが指摘したように現在の国際情勢上で強い影響力は持ってない。
 だが、聖王を拝する世界の象徴であり所有者が明確に定められた聖王遺物についてとなると、全く事情は異なってくるのだ。
 例えばレオナルド工房が所有権を持つ聖王遺物、聖王の槍。
 この聖王の槍については、例えピドナ内部にある聖王遺物であろうと、メッサーナ王の個人意向で徴発を行う権限はない。
 それは、聖王が四魔貴族討伐後に開いたコングレスで決められた中でも、最も遵守するべき重大事項として定められたものだ。
 それだけ聖王遺物というものが強大な力を持ち、管理所有権限が絶対的なものなのである。
 故に、ロアーヌ侯家のみがその管理権限を持つマスカレイドについては、侯家以外の誰も取り扱いについて言及する権限を持ち合わせてはいない。
 それだけは三百年たった今も、その先も、永劫変わることはない。

「・・・もちろん、私とてその剣を徴発しようなどとは、微塵も考えてはおりませんよ」

 ルートヴィッヒは相変わらず表情を崩さぬままそう言い、カタリナへと視線を向けた。

「カタリナ殿。パウルス王の予言に記されし八つの光である貴女でも矢張り、魔戦士公に相対するにはその剣が必要か」

 次にはモニカを除いたその場の全ての視線が、カタリナへと注がれる。
 カタリナは視線が集まりきったことを確認してから、ルートヴィッヒの言葉に静かに頷いてみせた。

「・・・はい、閣下。例えピドナが誇る世界一の工房レオナルドの主が打った当代最高の剣であったとしても、四魔貴族に突き立てることは全く敵いません。この剣が無ければ、私などが四魔貴族と相対することは、不可能でしょう。もしこの場での抜剣をご許可いただけるのであれば、そのご証明も可能です」
「ほう、証明・・・許可しよう」

 内心では溢れでる興味を隠しきれぬルートヴィッヒがそう言うと、カタリナはモニカからも距離を取るように数歩下がり、すらりと鞘からマスカレイドを抜き放った。
 その美しい装飾の小剣は確かに見るものの目を見張る装飾美だが、しかしそれでも単なる小剣だった。
 その様を観衆たちが小首を傾げながら見守っていると、カタリナは小さくそっと、囁いた。

「・・・起きなさい、マスカレイド」

 その瞬間であった。
 マスカレイドを中心として謁見の真全体に広がった赤い閃光と強烈な風圧に、居並んでいた衛兵の半数は後ろにガシャリと音を立て尻餅をつき、残りは大きく姿勢を崩した。
 一方、その場から動きこそしなかったものの赤い光から視界を腕で庇ったルートヴィッヒが、閃光と風圧の後にカタリナへと視線を向け直す。
 するとそこには先ほどの小剣ではなく、真紅の刀身を持つ長大な剣が現れていた。
 その姿はあまりに神々しく、美しい。そしてなにより、聖剣マスカレイドの放つ圧倒的な神威の如き存在感に、場の誰しもが飲み込まれている。
 眼前の光景を見たと同時、もはや言われるまでもなく、誰しもが確信させられていた。
 この剣であればこそアビスの脅威にも対することが出来、この剣でなければそれは全く不可能であろう、と。

「・・・なるほど。確かに、我々はこの剣の力を借りなければならないようだ」

 ルートヴィッヒが浅く頷きながらそう言うと、カタリナは一礼しながらマスカレイドの刀身をそっと撫でる。
 するとマスカレイドは淡く発光しながら、瞬く間に元の小剣の姿へと戻っていったのであった。

「・・・如何でしょう、閣下。我が国からのご提案、お気に入りいただけましたでしょうか?」

 その場で唯一、姿勢すらも微動だにしていなかったモニカが、風圧で乱れた髪とドレスの裾をさっと整えてからルートヴィッヒに向き直ってそう言った。

「・・・ロアーヌの国宝、聖剣マスカレイドをお貸しいただけるとは、これ以上ない望外の喜びです、モニカ姫。是非ともそのご提案を、受けさせて頂きたい。先ほどの我々からの要望は、お忘れ頂いて結構です」

 ルートヴィッヒは相変わらず柔和な表情でうっすらと微笑みながらそう言い、対するモニカも極上の笑顔で応える。

「閣下の御恩に報いることができること、我が兄ミカエルもさぞ喜ぶことでしょう。カタリナ、聖剣マスカレイドと共に、立派に勤めを果たしなさい」
「はっ」

 カタリナがモニカの言葉に応えて敬礼の姿勢をとると、満足げに微笑んだモニカはルートヴィッヒに向き直り、優雅に一礼をした。

「それでは閣下、わたくしはこれ以上の長居をしてもお邪魔になってしまいますから、これにて失礼させていただきたく存じます。ピドナと近衛軍団の皆様のご武運を、お祈りしておりますわ」
「モニカ姫の祈りこそ、我らが百万の援軍を得たようなもの。この危機を脱した暁には、是非とも御礼の席を設けさせていただきたいものです」
「はい、その時は喜んで」

 そのままモニカが帰途につくと、続いてカタリナもルートヴィッヒに向かい一礼をした。

「では、私も役目を果たしに向かいます。故国ロアーヌの名にかけて、必ずや閣下へ吉報を持ち帰って参りましょう。それでは」

 それだけ言い終わると、モニカの後を追うようにしてカタリナも即座にその場を後にする。
 謁見の間に集まっていた仕官や衛兵たちは未だ先ほどのマスカレイド覚醒の衝撃に気を取られているようで、そのなかで一人ルートヴィッヒは、ふっと思わず笑みを漏らした。

「ふふ・・・なるほど。八つの光とは武力のみの英傑にあらず、か。良い仲間に恵まれたな・・・ハリードよ」

 

 

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第八章・5 -夢語りのシェヘラザーデ-

 

 松明の明かりを頼りに長い階段状の岩肌を慎重に降りていった先には、自然の洞窟とは思えぬ程、いかにも不自然に何者かによって踏み整えられたような平らな足場が広がっていた。そしてその足場に立つと同時に、酷く焼けつくように肌に纏わりついていた空気が一気に重苦しさを増していくのを、カタリナは確かに感じていた。

(・・・この重圧、まるで四魔貴族に相対するかのよう。これが世界に名高い竜の気配か・・・)

 最早この奥にグゥエインがいるであろうことは明白であり、カタリナは空間が思いの外広々としており動き易さがあることに胸を撫で下ろしながら、いざという時のための算段を頭の中にいつくか思い浮かべつつ、気配の濃くなっていく方へと進む。
 すると程なくして、これまでは松明の明かり以外に全く頼るもののなかった暗黒の視界の中に、ふと煌く光の筋がいくつか見えてきた。

「・・・奥に、何かあるわ」
「・・・そのようですね」

 小声でフェアリーと囁きあいながら慎重に光の方へと進んでいくと、やがてその光の正体は、洞窟の天井に空いた穴から差し込む陽光に照らされた大量の貴金属だということが分かった。
 そして同時に、その後ろに『在る』ものへと強制的に視線が移る。
 そこには、煌びやかに輝く膨大な量の貴金属類にて積み上げられた小高い丘の上に、陽光を浴びながら四肢で鎮座し首をもたげてカタリナ達を見つめる、一頭の雄々しき巨龍の姿が在った。
 ある種の神々しさすら纏ったその姿を、カタリナは固唾を飲みながら視界に収める。
 竜の外皮部分は如何にも頑強そうな鈍色の鱗に覆われているが、首筋から腹部へと向かう部分は仄かに燃える炎の色をしている。
 その全身はカタリナの優に数倍はあろうと思われる大きさであるものの、しかし鈍重な印象は一切受けられない。寧ろ外皮の色彩と相まって、その姿は一振りの鋭利にして巨大な剣を思わせるようだった。
 そんな感想を抱きながらカタリナが竜を見ていると、ほんの一瞬、互いに視線が交わる。
 すると竜は、まるで来訪者たちを歓迎するかのようにその両翼を大きく開いて後ろ立ちになり、そのままゆっくりとカタリナを真正面に据えるように姿勢を変えて座り直してみせた。
 広げてみれば外皮とは全く異なる美しい深紅の翼が織りなす竜の姿は、まさかこの存在が世間に忌み嫌われる悪竜であろうことなど全く信じられないかのように神々しくすら思われ、またその姿でどうしようもなく追憶の念にも駆られ、カタリナは暫しその姿に意識を奪われたのだった。
 すると言葉を紡げずにいたカタリナの前にフェアリーが先ず飛び出し、竜の頭部の真正面まで飛び上がりながら、竜へと語りかけるように見つめる。元々の予定通り、先ずはフェアリーから念話での意思疎通を図ろうとしたのだ。
 だがその行動に反応した竜は、フェアリーの言葉をかき消すように、大きく鼻息を吐いた。

『良い。人語は交わせる』

 陽光に照らされるその外皮を僅かに震わせ、竜の声が空間に響く。その声は想像していたよりも若く精力旺盛なようにも聞こえ、また老成した賢人のようにも聞こえる。人では出すことができぬであろう、不思議な声色だった。

「・・・ここまで導いてくれたのは、やっぱり貴方だったんですね」

 竜の言葉を受けて頷いたフェアリーが声を上げると、竜はそれに答えるようにして視線を細めた。

『人間だけで来ていたのならば、単に『帰れ』としか言わなかっただろうがな。我が住処に妖精族の来訪など、三百年生きてきた中でも初めての経験だ。こんな機会を逃す手はあるまい』

 竜はちらりとカタリナへ視線を投げかけると、フェアリーへと向き直ってそう言った。
 その様子からカタリナは、どうにも自分が殆ど相手にされていない様子であるを察して大変に不服に感じる。が、しかしてそんな事もあろうかとフェアリーに同行してもらったのは矢張り己の賢い選択であったと思い直した。更には相手が人語を解し操ることができることは正に僥倖であると判断し、カタリナも負けじと一歩前に出る。

「私はロアーヌの騎士、カタリナ=ラウランと申します。貴方が・・・ドーラの子グゥエイン、ですね」
『・・・如何にも。我が母はドーラであり、我こそがグゥエインだ。人間よ、妖精族を連れ、一体ここに何をしに来た。まさかその矮小な体一つでこのグゥエインを討伐し、我が財宝を奪いにでも来たか?』

 まるでせせら嗤うかのように口角を震わせながら、グゥエインが言葉を発する。その言葉と共にグゥエインから発せられる圧が目に見えるように上昇し、思わず体が勝手に臨戦体勢に移行しようとする。それを理性で懸命に抑え付け、カタリナは首を横に振って見せた。

「いいえ、そのような用件ではありません。私は、かつて聖王様が辿ってきたであろう道を歩み、貴方と話をする為にここまで来ました」
『・・・聖王。我が母を滅せし者の道を辿ってきたとなれば、矢張り我を滅しに来たということではないのか?』
「わた・・・!・・・いえ、聖王様は・・・決して望んでドーラを滅したわけではありません。ただ・・・今はそのような話をしに来たわけでも、ありません」

 不意に訪れた大きな感情の揺らぎに、思わずカタリナは眉間を摘むようにして頭を押さえる。今までにないほどの記憶の混濁に軽い目眩を覚えながらも、それを振り払うように軽く頭を振ってからカタリナはグゥエインへと向き直った。

「・・・私は今世界に再び訪れている未曾有の危機に対し、この世界に住む者同士として此れを共に乗り越えたいと願い、ここに馳せ参じました」

 言葉と共に自らに敵意がないことを示すかのように両手を広げて見せ、カタリナはグゥエインを見上げながら続ける。

「確かに聖王様は、貴方の母を討ちました。故に私達人間を憎む気持ちがあろうことは、理解しています。そしてまた我々人間も、数多の同胞を貴方に喰いちぎられました。故に我々の中にも貴方を忌む者がいるのも事実です。ですが・・・それでも今この時に於いては、四魔貴族という共通の敵を討ち果たす為、我々は今一度手を取り合う事が出来るのではないかと、私は信じています。どうか、貴方の言葉をお聞かせ願えませんか」

 カタリナの口上を静かに聞いていたグゥエインは、まるで何事もなかったかのように翼の付け根部分を口先で掻き、そしてカタリナに向き直った。

『・・・アビスゲートは開き始めているが、魔貴族自身が通り抜けてくるには小さすぎる。それで奴らは、おのれの影をこの世界に送りこんできている。宿命の子を見つけだし、ゲートを完全に開くつもりだ。そうなれば、ゲートを閉じることは出来なくなる。今のうちということだ』

 グゥエインの語る言葉にカタリナとフェアリーが目を瞬いていると、グゥエインはまるで人が笑うのと同じような仕草で口元を歪め、火炎混じりの息を薄っすらと吐き出した。

『・・・確かに、母ドーラは聖王と共にビューネイを倒した。そして最後には聖王に殺された。人間とは勝手なものだ。だが、それを我は特にどうとも思わぬ。竜と人とは、予めそういう宿命であると我は解している』

 グゥエインが淡々とそう語るのを聴きながら、カタリナは何故だか胸が強く締め付けられるような想いに駆られるのを感じていた。それは果たして聖王の記憶が齎す感情であるのか、それとも自分の心からくるものなのか。その判別は、彼女にはつかない。
 竜は語りを続けた。

『我は四魔貴族共がアビスゲートを開こうとも、貴様ら人間が憎しみに駆られ我を討伐しに来ようとも、何れも一向に構わぬのだ。それもまた、その者たちが持つ宿命なれば。だが・・・この世界の空に君臨するべきは、誇り高き我ら竜。ビューネイが我が物顔でこの空を飛び回るのはガマンならん。協力してやってもいいぞ』

 グゥエインのその言葉にカタリナが目を見開きながら一歩歩み出ようとするが、しかしグゥエインはそれを羽ばたく風圧で制した。

『協力はしてやってもいい。が・・・其れには先ず、貴様が我の協力者足り得るのか、その実力を試させてもらおう』

 ただそれだけ言うと、徐にグゥエインは足元の金貨を撒き散らすように力強く四肢で立ち、その圧倒的な力を示さんが如くカタリナを視線で射抜いた。
 その姿をみたカタリナは、むしろ好都合とばかりにふっと笑みを浮かべたかと思うと、ここまで抱えてきていた荷を脇に下ろして聖剣マスカレイドを抜き放つ。そして隣まで下がってきたフェアリーに控えているように伝えると、グゥエインに正面から対峙した。

「戦うつもりで来たわけではないけれど・・・貴方がそう言うのならば、示さぬ訳にはいかないでしょうね。私が貴方と共に戦うのに相応しいか、判断を願うわ」

 

 

 世界中が新たなる年の幕開けを間近に控えたその日、メッサーナ王国首都ピドナの新市街を見下ろすピドナ王宮内部にて開かれた各国要人を招いての年次会議は、ここ数年で最も波乱を予感させる様相を見せたのであった。
 この会議終了直後には瞬く間に様々な情報筋を通じて世界中に会議の様子が広まっていったのだが、何しろその内容というのは、まさに近年のメッサーナ界隈の政治的な均衡を一気に崩しかねない程のものとなった。
 歴史上三度目の死蝕直後に、現在までで最後のメッサーナ王となるアルバート王が崩御し、そこから十年を超えて今も続いている王国の内乱。その中で、旧アルバート王の系譜にて最大派閥であり五年前にルートヴィッヒ軍に破れる形で没落したはずのクラウディウス家。そのクラウディウス家がなんとこの度、宮廷内の中央政権に復帰するという事実が会議の冒頭で大々的に示されたのだ。
 しかもその当主には、今現在で最も市井の支持を一身に集めている、前近衛軍団長クレメンス=クラウディウスの一人娘であるミューズ=クラウディア=クラウディウスが立つことも同時に会議内で発表された。
 とはいえ、ここまでの内容は遅かれ早かれあり得ることであろうとは、既に世論の一部では囁かれ始めてもいた。
 その背景には、直近でのルートヴィッヒ政権の急激な求心力の低下がある。
 元より武力侵攻を発端とした血生臭い政変によって誕生したルートヴィッヒ政権は、リブロフ以外の殆どの各都市軍団長からその存在を受け入れられてはいなかった。しかしピドナの実効支配直後から彼が行ってきた中央集権を強固とするための様々な駆け引きや政策に他軍団長は個別に対抗する術を持たず、かといって横の繋がりも希薄な彼らは結局のところ、この五年間真綿で首を絞められ続けてきたのだ。
 それが、数ヶ月前に起こった神王教団ピドナ支部崩壊事件を発端とするルートヴィッヒ政権への不信感の上昇で、急に風向きが変わった。
 奇しくもこの事件の半年ほど前から、ピドナの名門メッサーナベント家が出資し旧クラウディウス商会所属の企業群を母体とした「カタリナカンパニー」の経済界台頭が大きく世界に報じられており、大規模な商いを行う貴族の間では事件による現政権への不信感の上昇と相まって、クラウディウスの系列が何かしらの形で復活するのではないか、とは実しやかに囁かれていたのであった。
 そして二月ほど前に起きた商都ヤーマスでのドフォーレ商会壊滅事件にて、いよいよ満を持してクラウディウス家の直系ミューズが大々的に事件解決の立役者として表舞台に立ち、これも瞬く間に世界に報じられた。
 これによりクラウディウスの復活を望む世論は、一気に過熱膨張していったのだ。
 故にクラウディウス家の政界復帰ということ自体は、ある意味で世間が望んだ通りの展開であるとも言える。
 問題なのは、復帰と共に示された今後の動きについてだった。
 曰く。

『クラウディウス家はルートヴィッヒ軍団長と歩みを共にし、今世界に訪れようとしている危機にメッサーナの総力を上げ立ち向かう所存』

 このように、会議で発表が為されたのである。
 これには各国の要人等も大きく驚愕した。これでは、まんまとクラウディウスがルートヴィッヒに飲み込まれただけの形になってしまったからだ。
 世論が待ち望んだ革命は為されず、ルートヴィッヒ一強体制が更に強化されるだけだと言うことになる。
 誰もが、そう感じた。
 だがこの事態を一層混迷極めさせる内容が、クラウディウス復活に伴っての具体的な今後の活動についてだった。
 先ず告知されたのは、復帰に伴う旧クラウディウス家領地の返還と、そして故クレメンス卿の名誉復活を意図としたであろう記念碑の市内建築。ここ迄は単にクラウディウスに気を回したかのような内容だったが、その後に行われた宮廷の活動方針説明を中心的に語ったのは、なんとルートヴィッヒではなく、ミューズだった。
 彼女の口から発表されたのは、現在ピドナの東方に位置する同盟国家ロアーヌ侯国にて展開されている、推定四魔貴族軍とロアーヌ軍の戦線への経済的支援の即時実施だった。
 これは現在の国際世論にとって最も取り扱いの難しい話題であり、迂闊にこれに触ることは一国の立場ですら、ある種のタブーであるというような空気感で扱われていた。
 なにしろ昨今のアビス勢力による蹂躙は、世界の予測を超えて多岐にわたり大きな被害をもたらしているのだ。そんな話題に対し今世間で最も求心力のあるミューズが力強く宣言した内容は、正に「アビス勢力への徹底抗戦」であった。
 この宣言には、大きな響めきが会議全体を支配した。
 そして次には、ミューズに対する抗議の声でその場は溢れかえったのだ。
 世界最大の王国メッサーナがアビスへの交戦意思を見せるとなれば、これに対するアビスからの報復は文字通り全世界に波及するとして間違いないだろう。そのような世界が確実に流血を伴う決議を正式なコングレスなく突如として宣言した新参のミューズに対し、その場に参加していた面々は当然のように声を荒げた。
 だが、その直後に発せられたミューズの言葉に、その場の全員は押し黙らざるを得なかった。

「認識してください。既に、この世界はアビスによる攻撃に晒されています。これは最早、他人事ではないのです。例えば私が立ち会ったドフォーレの事件は、魔物が既に都市部の人々の暮らしにまで入り込んでいた証拠に他なりません。また、ロアーヌが狙われたのは現戦線が初めてではなく、年始にあったゴドウィンの変自体がアビスの手のものが黒幕となり、裏で糸を引いていたものでした。更に言うならば、ピドナにて春先に起きた『予兆』。これこそ皆様も聞き及んでいるはずです。私はこの予兆に、間近で立ち会いました。その時に現れた悍ましきアビスの魔物は、四魔貴族の復活を明確に示唆しました。そして先月・・・ついに本格的な魔貴族の侵攻が、西の都市、バンガードで起こったのです」

 そうしてミューズがその場に出したのは、魔術師が写したと思しき一枚の写真だった。
 そこには、大地が強引に引き裂かれたかのような様相で険しく切り立った崖と、その先の海面に浮かぶ巨大なバンガードの全景が映し出されていた。
 陸続きのバンガードしか知らぬ彼らの常識の中には一切ない、まるで天変地異でも起こったかのような異様な光景を映し出すその写真を見て大いに響めく面々を前に、ミューズは再度声を張り上げた。

「私には、勝算があります。既に聞き及んでいる方も中にはいるかも知れませんが、四魔貴族のうち、二柱をアビスへと追い返すことに我々は成功しています。バンガードを襲った魔海侯フォルネウスの討伐には、私も同行しました。この写真は、その時に起動した聖王様の作りし伝説の移動要塞バンガードのものです。そして今、魔貴族の二柱をその手で退けた英傑が、ロアーヌ南東のタフターンに巣食うとされる魔龍公ビューネイの討伐に向かっています。ロアーヌの戦線は、それが成し遂げられるまで持たせればいいのです。またロアーヌの復興を迅速に補助することで、我々には一切の隙なしとアビスに知らしめ、二次被害の拡大を防ぐこともできます。既に戦は、始まっているのです。いつどの国が巻き込まれても、おかしくないのです。ならば一刻も早く終わらせねば、被害は拡大するだけ。どうか各国の英知と勇気の、一致団結を」

 その会議に集まった参加者の一人は、後にこの時のミューズの姿についてこう語ったという。

『他の参加者に比べ年端も行かぬ娘でしかないはずのミューズ殿だが、しかし皆を導かんと力強く声を上げるその姿は、はっきりと往年のクレメンス卿を感じさせた。その場の誰もが彼女の言葉に耳を傾けその言葉を受け入れたのは、決して後ろに控えていたルートヴィッヒ卿の影響というだけではないだろう』

 彼の言葉の示した通りに、ミューズの力強い言葉を以ってその場の全員の意思は固まった。魔物の被害は既に各国間の流通にも大きく被害を与えており、遅かれ早かれ手を打たねば国が衰退することは誰もが感じていたところではあったのだ。
 この後は、大まかな今後の行動計画が示された。まず今回の作戦で実際に物資の収集や運搬等の実務を行うのはカタリナカンパニーが中心となって担い、財源や物資は近衛軍団が主に現在備蓄から提供する。なのでこの場に集まった各国代表には、これに関わるオーダーがあった際の優先的な物資融資をお願いしたい、という程度に留められ、それには反対するものはいなかった。
 そして、ここで殊更大きく世間を驚かせたのは、その財源や物資の出どころと共に、カタリナカンパニーがその存在感を大きく世界に知らしめた要因でもある『フルブライト商会同盟』の破棄をその場で宣言した事だった。
 ここに関してはカンパニーを代表して会議に出席していたトーマス=ベント副社長が議中で言及しており、世界経済の一致団結をする上で最も合理的な選択が取引の限定化を招く同盟からの独立であり、これにより同盟に囚われない多方面との連携や取引が可能となる、とのことだった。
 また同盟の破棄により特段カンパニーがピドナ王宮と密接につながる訳ではない、との見解も同時に示した。これは、どこか一部との密接な関わりこそが経済の停滞を招くのだ、というトーマスの主張を殊更に強調させる格好となった。
 更には同様の事態が今後も起こることを想定し各国各地からの多方向即時支援を可能とするため、来期に施行予定であった鉄鋼類への特定品目追徴拡大(作者注:第四章参照)の無期限見送り・・・つまり、実質的な廃止が発表された。
 この知らせには主に各地の軍団長が大いに響めき、そして大いに歓迎した。近年において最も各国軍が殺気立っていた主たる原因となる制度の施政破棄が示されたことで、殊更軍団長等はこの結果を導いたミューズに称賛を送り、勇み喜んでの協力を申し出ることとなる。

 例年であればこの会議以降は連日の宴が催されるのが通例であるものの、今回に至っては世界的な有事とのことで、不安を与えぬよう市街地でのみ通常開催とし宮廷内では明日以降の宴席は控えるように通達がなされ、本会議は解散となった。
 即座に会議での内容を行動に移すとし他国参加者に先んじて一人慌ただしくその場を後にしたトーマスは、そのまま誰と接触することもなく真っ直ぐに早足で宮廷を後にした。
 そして丁度入り口の門を潜り出たところで、衛兵と世間話をするようにしながらその場に待っていたポールと合流する。
 そしてそのまま何気ない様子で会話を交わしながら少し離れて衛兵と距離を取ったところで、トーマスは視線を鋭くしてポールに語りかける。

「・・・参加者は事前情報通り、十七人だ。名簿通りだね」
「了解。んじゃあこっちはこっちで始めるとしますかね」
「ああ、頼むよ。俺もロアーヌへの諸々支援手続きが終わったら直ぐそちらに合流する」
「畏まり。それまでに何かしらは掴んでおきますぜ、副社長」

 短く、互いにそれだけの会話を交わす。するとポールは曲がり角を曲がって衛兵から姿が見えなくなったところで、するりと路地裏に姿を消してしまった。
 それを横目に見届けたトーマスは、ふと立ち止まって宮廷の方へと振り返る。
 宮廷内に残ったミューズと護衛のシャールは、これから各国要人らと軽く懇親会が催されるのでそれに参加する予定だ。流石に一介の商売人でしかない自分がその場に居合わせるわけにも行かないので、そこでの首尾は彼女に任せるしかない。
 だが、先ほどの会議での発言の様子を見ている限り、問題はないだろうとトーマスは踏んでいた。

(年の始め頃に旧市街でお会いした時は病弱さも手伝い、まさに『深窓の令嬢』といった様子だったが・・・。この一年で彼女も、五年・・・いや、六年前の呪縛から解き放たれ、その身に背負った宿命と向き合うことで急激な成長を促されたようだ。おじいさまの言いつけがこれで果たされたのかはまだ決まったわけではないだろうが、一先ず心配はないようだな。まぁ、とは言え相手はあのルートヴィッヒ軍団長だ・・・あの方はどうも、計り知れないほどの何かを感じる。油断はせずにいかないとな・・・)

 一頻り物思いに耽った後、トーマスは気を取り直して商業地区へと姿勢を向け、深呼吸をする。この後は、彼も寝る間も惜しんで各種物資の調達計画と即実行へ向けた調整を行わなければならない。相応の気合を入れねば、対処できない物量だろう。

「さて、集中しないとな。ここからまた暫くは慌ただしくなりそうだ」

 そう自分を奮い立たせるように言い聞かせると、急ぎ足で歩き始めた。

 

 

 温暖な気候のトゥイク半島東岸に位置し、南西に広がる密林からもたらされる豊かな実りや南東のナジュ砂漠との交易を中心に栄える、交易都市リブロフ。
 多彩な気候特性からなる様々な特産品と共に西のウィルミントンにも負けず劣らず芸術文化発信地としての顔も持つこの都市では、今や世界三大商家にも数えられるラザイエフ商会を筆頭に様々な企業が集まり、またピドナのルートヴィッヒ軍団長とも比較的良好な関係値を築く事で堅実な成長を遂げていた。

(・・・全く、ここは相変わらず呑気なものだな)

 実に十年近くぶりにこの都市の土を踏んだハリードは、自身の記憶にある十年前と殆ど変わらずの豊かな街並みを『呑気』と表現しつつ、どこか冷めた目で見回していた。

(ここも、本当はあまり来たくない場所だったがなぁ・・・)

 そんな事を自身こそ呑気に思いながら、とても見覚えのある道を歩く。
 リブロフの港に降り立ったと思えば早速情報収集に向かうと言い出したエレンと合流場所の宿だけ決めて別れたハリードは、どうしたものかと思案した後に、特に自分にはすることなどないのだということに思い至り軽い絶望を味わい、そして当てもなく歩き出したのだった。
 しかし、それがかえって良くなかった。
 こうして当てもなくゆっくりと歩き出すと、その視界に入ってくる様々なものが、彼の脳裏に眠っていた多くの過去の光景を呼び覚ますのである。
 彼にとってこのリブロフという街は、それほどに思い出が、ありすぎるのだ。
 なにしろハリードという男は、このリブロフという街に、まだ十代の若かりし頃から頻繁に通い詰めたものだった。
 ゲッシア王朝の王族の一人として生を受けたハリードは若き日の頃、有り体にいってしまえば旧態依然とした王朝の様相に、言いようのない窮屈さを感じていた。
 勘違いはしないでほしいが、彼は自身の生まれや待遇に不満があったことなどは全くなかった。
 王位継承権は下位ながらもゲッシア王族としての宮殿暮らしには一切の不自由もなく、その身近には心から愛するファティーマ姫がおり、また建国の英雄アル=アワドに憧れて始めた剣の修行も、とてもやり甲斐がある。
 つまるところ、彼はとても充実した生活を送っていたのだ。
 だがその一方で、歴史を見返せば見返すほどに建国からこの三百年の間に大きな変化のないゲッシアの日常は、若く好奇心に溢れた彼を十分に満足させるには至らなかったのも事実だった。
 そうして必然的に彼は外の世界に強い興味を持ち、当時の数少ない貿易相手である隣国リブロフへ、何かと理由をつけては出向くようになっていた。
 当時すでに貿易都市として世界的に名が知れていたリブロフでは、ピドナほどではないにせよ実に多くの文化の流通があった。それらの多くはゲッシア内部に流入してくることはなく、故国の中にいては知ることができないものばかりで、そして彼の興味を大いに引き立てるものばかりだったのだ。故に彼は自分の好奇心を大いに満たすことにすっかり夢中となり、リブロフへと足繁く通った。

(・・・彼奴に会ったのも、その時だった)

 そうして何度もリブロフへと出向いている最中で、ハリードはある時、一人の青年騎士と出会った。
 青年はルートヴィッヒという名前で、年も自分と近いこともあり、お互い直ぐに意気投合をした。
 騎士ルートヴィッヒは地元のリブロフ軍団に所属しており、元は騎士の家柄というわけでもないところから一念発起し、軍に志願したのだという。もう既にその時点で、人が生きる道の全てが生まれや血筋で決まるゲッシアからすれば考えられないような世界であり、そのような可能性に溢れる外界への興味は加速度的に増していった。

(・・・あの頃はルートヴィッヒと毎日のようにこのリブロフ中を駆け回ったものだ。彼奴をゲッシア宮殿に招いた時も、宮殿内の保守派の爺様達には随分と苦い顔をされたものだったな)

 単なる部外者を宮殿内に立ち入らせることなど、ゲッシアの常識には全く有り得ないことであった。
 故に一見そのようなことは全くの不可能のようにも思えたものだが、意地になって諦めきれなかったハリードはなんと王朝のそれまでの歴史を隈なく調べ上げ、その中で遂に類似の過去の事例を発見し、ルートヴィッヒと『義兄弟の契り』を結ぶことで半強制的に身内とし、彼の宮殿内への出入りを可能とした。
 宮殿内でルートヴィッヒはハリードの予想通りファティーマ姫とも直ぐに意気投合し、王宮ではよく三人で行動を共にしたものだった。
 あの頃はそう、彼の人生の中で、最も充実していた瞬間だったのかも知れない。

(・・・くだらん)

 いくつもの街の光景から思い起こされる様々な望郷の念を振り払うようにしながら、しかしハリードはそれでも自然と彼の知る場所へと足を向けてしまう。彼の体が、彼の向かう場所を覚えているのだ。
 中央の大通りを城門のある南に下り、突き当たったところを大街道へ続く城門がある西方面とは反対の南東に向かって伸びる小道に入り、道の両側にうず高く積み上げられた色とりどりの煉瓦で作られた細く緩い階段を下っていく。
 世間的にはかなりの高身長であるハリードであっても空しか見えないその階段道を暫く下っていくと、やがて突如として視界が開け、開放感のある小さな展望広場にたどり着く。
 そこは切り立った小さな崖に作られた場所で、晴れた日にはそこから南東のアクバー峠を一望できる隠れた絶景の名所なのだ。
 その展望広場には、シェヘラザーデという名の小さな店がある。そこはナジュの血を引く女主人が切り盛りする酒家で、彼女の語る古いナジュ地方の物語を夜毎客が杯を傾けながら静かに聞き入る、これも地元ではひっそりと名の知れた場所だ。
 彼がここに通い詰めたのも十年以上も前のことだが、こうして無意識のうちに足を向けると矢張りそこには、その馴染みの店が十年前と変わらぬ姿のままあった。在りし日から変わらぬ懐かしい光景にハリードは思わずうっすらと笑みを浮かべながら、カランと鈴の音を立てて店の戸をくぐる。
 ナジュ名産の織物を基調として作られた六席程度の小さなカウンターと二人掛けのテーブル席が二つほどあるだけの小ぢんまりとした店内の様子も、カウンターの中でゆっくりと水煙草を蒸している女主人の有様も、その水煙草独特の心地よい香りで満たされた店内も、まるで十年前そのままだ。
 思わずハリードは、ここは時が止まっているのではないかと勘違いをしてしまうところだった。
 店内にはカウンター席に客が一人いるだけで、他には女主人だけ。まず女主人と視線が絡み、彼女はハリードのことを見ると、ほんの少しだけ視線を細めた。その瞳は怪訝な様子のそれではなく、どこか愛おしみ、慈しむような光を奥に宿している。
 そして次に、他の来店客が物珍しげでもあるかの様子でカウンターから此方へと視線を遣した客の男が、ハリードの顔を見たことで見る見るうちに驚きの表情へと変わり、遂にはガタリと席から立ち上がった。
 そして驚いた表情を崩さずそのままに、大きく口を開く。

「ハリード様!」

 男は、これまた特徴的な砂漠の民の格好をしていた。年の頃は五十あたりに差し掛かろうかというところか。その顔に深く刻まれた皺が、強烈な日差しの中で生きる砂漠民特有の年輪を感じさせた。
 そして何よりその男の顔を見た瞬間に、ハリードも思わず破顔する。
 彼は、まだゲッシア王朝が存在していた時に宮殿によく出入りしていた、王国のお抱え商人だったのだ。十年の時が過ぎたことで多少は老け込んだようにも見えるが、それでもこの顔は忘れない。何しろハリードが外の世界に興味を持つきっかけを与えてくれたのは、彼が宮殿内に齎す様々な異国の品だったからだ。

「おお、久しぶりだな。元気にしているか?」
「はい。ハリード様もお元気そうで何よりです」

 そのままハリードもカウンター席へと腰掛けると、女主人は無言で彼の前に木製の杯を出し、陶器に入った酒と水を順番に注ぐ。すると単体では透明だった酒が水と混ざることで白濁し、独特の色合いを示す。
 これはアラックと呼ばれるナジュ地方で古くから作られる蒸留酒で、この店には基本的にこのアラックしか酒は置いていない。最も、このアラックにもしっかりと等級があり、この店で出されるアラックは品質が良い。均等な白濁は、品質の良いアラックでしか見られないのである。
 続いて突き出されるメゼと呼ばれる前菜も、この店ではおなじみのくるみと唐辛子のペーストだ。思えばハリードはこれにどハマりして、足繁くここに通い始めたのだった。
 この店は、本当に十年前となにも変わっていないのだなとハリードは思う。そうして杯を傾けメゼを摘み、久しぶりに再開した商人の男とこの十年のことなどを語り合った。
 そうして幾度か杯を空にしたところで、ふと会話が途切れたところに男は、思い出したかのようにハリードに語りかけた。

「そういえばハリード様、ファティーマ様が生きているという噂をご存じですか?」
「・・・!?」

 突然のその言葉に、ハリードは思わず杯を傾ける手を止めて目を見開く。そして、直ぐにそのような反応をした己を蔑むように口の端を吊り上げて笑い、杯の中身を一気に飲み干す。

「噂ではファティーマ様が諸王の都にいるというのです。ハリード様は諸王の都の場所をご存じのはず。もしも、噂が本当なら・・・」

 続いて発せられた男のその言葉を聞いて、ハリードはもう一度口の端を吊り上げ、もう一杯を女主人に催促する仕草をしながら男に語り返した。

「あそこは生きている者の行く所ではない。ただの噂だ」

 諸王の都とは、ゲッシアの英雄アル=アワドを初代とした歴々の王族たちの眠る、神聖なるゲッシア王族の墓所・・・所謂ネクロポリスだ。歴代の王が愛用した多くの品々なども共に眠ることから盗掘の被害を警戒し、その場所はゲッシア宮殿のなかでも直系の王族と、王族に近しい極一部のものしか場所を知らない。
 ハリードは王族故に確かにその場所を知ってはいるが、しかしナジュ砂漠の中心地である旧ゲッシア王朝首都にして現在は神王の塔が立つハマール湖の辺りからある特定の時間帯の陽の光を目標に出発することで導かれる諸王の都には、その過酷さから相応の準備をせねば辿り着くことが抑も困難を極める上に、その近くには真面な水源もなく、辿り着いても帰ることがまた困難なのだ。
 それでもそこにゲッシアの王族が命がけで向かうのは、同じく王族の誰かが没し、その身を埋葬する時のみ。
 文字通り、生きている者のいく所ではないのだ。
 それを知っているからこそ、ハリードは目の前の男の話を笑い飛ばす。だが目の前の男も歳のせいか涙脆くなっているようで、昔の話をしてはその栄華を懐かしみ、今はもう無き故郷を思って瞳を潤ませる。そして、一頻り話した後に男は、こういうのだった。

「仮に居ないのならばそれはそれ。ですがこの噂を確かめられるのも、今はもうハリード様だけなのです。ぜひ、諸王の都へ!」
「全く、酔いすぎだぞ。昔よりも酒が弱くなったのではないか?」

 ハリードはどうやら同じ話を繰り返すようになってきた男を宥める様にしながら、自分の杯の中身を飲み干して女主人に勘定を渡した。

「すまないな、今日は王妃の昔語りを聞くほど時間がない。連れがいるものでな。また寄らせてもらおう」

 女主人にそういってから男にも別れの挨拶をし、懐かしの店を後にする。
 外に出ると、もうすっかり陽が落ちていた。どうやらそれなりの時間、この店に居た様だ。
 展望広場で軽く風に当たると、直ぐにきた道を戻って中央通りへ向かう。
 それなりの時間シェヘラザーデに居たので酒の量もそこそこ飲んだはずなのだが、どういうわけか全く酔えないでいる。それもこれも、きっと商人の男がつまらない話をするからだ。

「姫が‥‥生きている‥‥」

 ハリードは自分でも気付かぬ間の無意識にそう呟き、次にはそんなことを言ったことすら忘れた様子で、あとは無言で道を戻っていった。

 やがてどの程度の時間を歩いていたのかも定かではないうちに、気がつけば彼は本日の宿泊場所であるホテルリブロフへと辿り着いていた。ちなみにこのリブロフには同じ名前の宿が何箇所かあるのだが、その中でもハリードが選んだのは最も質素な、あわや民家かと思うほどの規模のものである。
 そしてその宿の入り口の前では、これ以上にないほど分かりやすく憤慨の表情を浮かべたエレンが仁王立ちしながら、歩いてきたハリードを睨みつけていたのだ。

「ちょっと!随分と遅かったじゃないの!」
「ん、ああ、すまんな」

 時間の感覚があまり無かったのかハリードはそんなに悪いとも思っていない様子で、一言そう言った。それは普段ならばたっぷりとエレンの怒りの火に油を注ぐ言動のはずだが、しかしどうしたことかエレンは額に青筋を立ててはいるものの、それ以上の追求をする様子はなかった。
 その代わりエレンはつかつかとハリードの前まで歩み寄ると、至近距離からハリードの顔を見上げる。
 そして、唐突にこう言い放つのであった。

「ハリード、あたしをあんたの故郷まで連れていって。嫌とは言わせないわ」

 

 

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第四章・6 -覚醒と決意-

 

 五年前、内乱の末に忠誠を誓った主を失い、自身も利き腕である右腕の腱を切られ、戦士としての命をも断たれた。
 当時の近衛騎士団で何年も寝食を共にした戦友たちはシャールに対するルートヴィッヒのこの仕打ちに我が身の事のように深く嘆き悲しみ、クレメンスの遺志を継いでクーデターの画策を何度も立ててはシャールに持ちかけてきた。
 だが、シャールは内乱直後の混乱期にそれらの中心にいて、それでもなお一等冷静だった。
 彼は互いの戦力差、組織力、基盤を見極め、戦を仕掛けたとしても勝負にもならぬ事を悟っていた。それは勿論シャールにとって腑が煮えくりかえるほどの怒りを覚える現実であったが、その激情を彼はついに一度も表に出しはしなかった。
 そして何度も発起を打診される内に、彼はいつしか戦友たちをなだめる側に回った。
 そうして一年が経ち二年が経った頃、戦友たちは立ち上がらずにミューズと静かに暮らすことを選んだシャールに、もう過去の闘志は消え失せたのだと落胆した。

「・・・!」

 荒ぶる獣の様な渾身の気迫と共に打ち出された強力無比な急所突きが、魔獣を吹き飛ばして壁に激突させる。そして振り返りざまに腕の振り抜きで飛翔した炎の刃が後方の獲物を捕らえて切り刻み、瞬く間にその全身を焼き焦がす。
 その身は常に戦の中で炎を纏い続け、残火の軌跡を撒き散らしながら縦横無尽に戦場を疾駆する。
 今シャールの中では、抑えつけてきた戦士の魂が歓喜に打ち震え、躍動していた。
 ピドナ近衛軍団に揺るがぬ存在感を示していた最強の騎士は、その冷静さで以て無理矢理眠らせていた荒ぶる魂を、今この時、解放したのだ。
 彼の闘志は、消えてなどいなかった。それどころか今ここに至って、かつてない程に猛り、燃え盛っていた。

「・・・出番ないわ」
「そうですねぇ・・・」

 一応注意深く周囲に気を配りながら武器は構えつつも、カタリナとトーマスは先ほどから何もしていなかった。
 近くに迫り来る敵は須らくシャールの槍の餌食となり、その様子を伺う遠くの敵は、月の光を纏ったミューズがその手に作り出した月影の弓矢によって、次々と撃ち抜かれていく。
 阿吽の呼吸で繰り出される遠近双方の攻めにより、次々と眼前の魔物は散っていった。
 つまり、あとの二人にやる事は残されていない。
 気を引き締めてはいるものの、暫くの間二人はこんな調子でシャール達の後をついて行くだけだった。
 そうして幾つかの通路を抜けて扉をくぐり、階段を登ると、ついに幻想の宮殿は終着点を迎えた。

「・・・いるわね」
「その様だ。危険ですからミューズ様はお下がりに・・・なりそうもないですね」

 扉を見上げたカタリナの言葉に応えながらゆっくり振り返ったシャールの先には、淡い紅色をした唇を真一文字に結んで真っ直ぐに扉を見据えるミューズの姿がある。

「・・・ここの主は、私を招いたのです。ならば、先ず私が対面しなければなりません」

 そう言ってミューズが扉に手をかけると、扉はそれに呼応して彼女を迎え入れる様に一人でに開いた。
 その扉の中は、ロアーヌの謁見の間にも似た、しかし遠い昔の更なる栄華を匂わせるような威厳に満ちた空間であった。
 そして、その部屋の奥にある上段、世界最大の王国メッサーナの栄光なる玉座には、一人の男が座っている。
 その人物を見た瞬間、ミューズとシャールは大きく目を見開いて駆け出した。

「お父様!」
「クレメンス様!」

 駆け出しながら声をあげる二人に驚きながらカタリナとトーマスがあわてて後を追うと、玉座の前まで先に到達した二人は其々が段上の男に語りかけた。

「・・・お父様、お父様なのですか・・・?」
『おぉ、ミューズ、ミューズではないか。待っていたよ。苦労をかけて済まなかったな・・・。もう大丈夫だ。私と共に来なさい』

 次いで、跪いたシャールが顔を上げて男を見上げる。

「クレメンス様・・・」
『シャールよ、よく今までミューズを守ってくれていた。これからまた、私と共に戦ってくれ』

 そう言って玉座から立ち上がった男はゆっくりとした足取りで二人に近づき、その後で後ろから駆け寄ってきたカタリナ達に視線をよこした。

『ところで君たちは、何方かな?』
「・・・ロアーヌの騎士、カタリナ=ラウランと申します」
「ベント家の一子、トーマスと申します」

 二人は素直に男に対して名乗りながら、その姿を注意深く見た。
 王国の要人らしい質の良い衣服に包まれてはいるが、それに似つかわしくなく良く鍛えられた長身の体躯に、深い皺の刻まれた柔和な顔立ち。そしてその瞳は確固たる意志を持った、指導者の瞳だ。
 この男がメッサーナの前近衛軍団長、クレメンス=クラウディウスなのだろうか。

『おぉ、トーマス君か。はっはっは、実は私はね、君がまだ生まれて間もない頃に一度挨拶をさせてもらったんだよ。我が盟友の偏屈男は息災かな?』

 クレメンスのその言葉に、トーマスは深々と礼をしながら答えた。

「・・・はい、シノンで元気に過ごしています」

 トーマスが手短にそう答えると、クレメンスはそうかそうかと上機嫌そうに笑った。

「しかしお父様、なぜこの様なところに・・・?」

 ミューズが問うと、クレメンスはふわりと笑いながらミューズの頭に手を置いた。

『ここで傷を癒しながら、お前を待っていたのだ。いずれ封印が解かれる銀の手を具現化する手伝いをする為に』
「手伝い・・・?」

 ミューズが緩やかに首を傾げると、クレメンスは目尻に皺を寄せながらゆっくりと頷いた。

『・・・銀の手がミューズの体に移ったことをお前が生まれてすぐに悟り、その後に死蝕が起こり、封印は緩んだ。それで封印が解けるのも時間の問題だと分かったので、その時お前が苦しまぬようにとな』

 クレメンスはあくまでも柔和に微笑みながらミューズの頭を撫でる。

『今まで辛い思いをさせたな、ミューズよ。後の事は全て任せておきなさい』

 力強くクレメンスが頷きながら言う。
 その言葉は彼の実力と意思の力に裏付けされたかのように頼もしい響きで、カタリナとトーマスは目の前のこの人物がクレメンスその人であろうということにようやく合点がいきはじめた。
 だが、なぜかミューズは逆にここで流麗な眉を、ぴくりと軽く震わせた。
 彼女の隣でそれに気がついたカタリナがシャールに視線をよこすと、シャールもまたその表情から忽然と油断と安堵がなくなり、クレメンスを見つめている。
 そしてミューズは二度三度と瞬きをした後、ゆっくりと後退りしてシャールの横に移動した。

『・・・どうしたのだ、ミューズよ』

 ミューズの様子にクレメンスが微笑みながら首を傾げると、対するミューズは真っ直ぐにクレメンスを見つめながらゆっくりと首を横に振った。

「・・・お父様は優しい父であると共に、偉大な指導者でもありました。周りに集まる人達は皆、お父様の下で働く事に誇りを持っていました」

 軽く拳を握りしめ、切なそうに瞳を潤ませながら続ける。

「お父様はいつも私に言ってくれました。『ミューズよ、できるか?』と。それに私が奮い立って答えれば、今みたいに頷いて、こう言ってくださったのです。『よし、頼むぞ』・・・と」

 シャールの右手に輝く銀の手に自らの手を重ね、昔のその光景を思い出す様に唇を噛む。
 そして次には、父譲りの強い意志が宿る瞳で真っ直ぐにクレメンスを見つめた。

「その誇りを与えてくれる言葉に、私もシャールも近衛軍団の皆も、奮い立ったのです。今もその言葉は優しいけれど、お父様は、そんな言葉は使わない。貴方はお父様では・・・ない。貴方は、誰?」

 ミューズがそう言い放った次の瞬間、柔らかな笑顔を湛えていたクレメンスはふっと消え去り、直後に玉座の前の空間の狭間から巨大にして醜悪な人型の魔物が姿を表した。

「・・・ほんと、何でもありなのね!」
「記憶まで覗き込んでの抱き込みですか・・・。実に趣味が悪い」

 カタリナとトーマスがミューズらの前に躍り出ながら悪態をつくと、目の前の魔物は大きく裂けた口元を醜く歪ませながら、嘲笑うかの様に瘴気を吐いた。

『楽しい夢の世界へようこそ・・・』

 突如として脳内に直接響くその言葉と共にいきなり繰り出された大振りの鉤爪が前の二人を捉えるが、それは甲高い金属同士の激突音と共にシャールの槍によって阻まれた。

「・・・クレメンス様の姿を一時でも装ったその罪、消し炭で済むと思うな!!」

 激昂したシャールは魔物に対してそう一喝すると、至近距離から渾身の突きを放つ。
 だがその切っ先が望む手応えを得る前に魔物の体は霧となって消え去り、次の瞬間にはカタリナ達のすぐ後ろに現れた。

「・・・!?」

 振り向きざまにカタリナとトーマスが攻撃を仕掛けるが、それもまた空を切り、魔物は消え去った。

『おぉぉ、ミューズ、ミューズはどこだ・・・』

 広間全体に響き渡る異様なその声と共に、魔物は四人の真上に姿を現す。
 それに素早く反応した戦士三人のうちシャールがミューズを抱えて其々三方に飛び退くと同時に、轟音を伴って空中から振り下ろされた魔物の腕が大理石の床を抉り取った。
 そこにすかさずシャールが朱鳥の刃を飛ばすが、それもまた霧となって消える魔物を捉える事ができない。

「槍も炎も通らぬか。夢の中とはいえ、出鱈目な・・・」

 シャールが思わず悪態をつきながらミューズを離すと、再び玉座の前に現れる魔物にミューズが向き合った。

「あれはきっと、私が生み出した幻影・・・。ならば、私がやってみます」

 名乗り出たミューズにシャールが心配そうな視線を向けると、ミューズは表情を引き締めながら心配ないと仕草で示した。

「・・・これでも私だって、聖王様に連なる勇士の子孫です。剣を振るう力は有りませんが、学と術法ならシャールにだって劣るとは思っていませんわ」

 そう言うと、先程の連戦で見せた月の光にミューズが再び包まれた。
 そこに魔物が突撃をかけるが、それはカタリナとトーマスが防ぐ。

「なんだか分からないけれど、ここはミューズ様に任せた方が良さそうかしら。攻撃は私達が遮断します」
「ミューズ様は存分に術にご集中下さい」
「有難うございます!よろしくお願いします・・・!」

 カタリナとトーマスに対してそういうと、ミューズは魔物に向かって右手を振り抜く。それと同時に彼女の影から何本もの漆黒の矢が放たれ、魔物を襲った。
 それらはやはり相手に届くことはなかったが、しかしその避け方は今までの様な霧散して行くものではなかった。
 漆黒の矢を避けて後ろに大きく飛び退いた魔物を睨んで、ミューズは再度矢を放つ。
 迫り来る矢をまたしても霧になることなく回り込んで避けた魔物はサイドからミューズに攻撃を仕掛けようとするが、それは迎え撃ったシャールによって呆気なく弾き返される。
 幾度かこの攻防が続いた後、数を重ねる毎に精密な射撃となっていったミューズの放つ矢が、遂に魔物の胴体を射抜いた。

『おぉぉ、ミューズ、ミューズはどこだ・・・』

 貫かれた胴体から黒い霧を吐き出して苦しみ喘ぐ魔物の姿がそのまま霧散して消えたかと思えば、再びの声と共に腹部を抑えてしゃがみ込むクレメンスの姿がそこにあった。

「貴様・・・!!」

 怒りに燃えるシャールが槍を振り翳すが、突き出された槍はやはり霧散する相手に届く事がない。
 尚も追撃を加えようとするシャールをミューズが前に出る事で制し、喘ぎながら立ち上がる魔物に向き合った。

「・・・精神世界に住むのなら、その精神そのものを仕留めるまでです」

 その言葉と共に、ミューズの周囲に視認できそうな程の魔力の渦巻きが沸き起こる。
 その魔力の渦が巻き起こす不可思議な風に当てられたカタリナは、それが肌に触れた瞬間に背筋が凍りつく程の寒気を感じ取った。
 それに驚いて前方のミューズの姿をみれば、彼女の頭上にはうっすらと透けて精霊の姿が具現化していた。

「精霊召喚・・・。聖王三傑のヴァッサールが玄武召喚を成して以来、どんな術士も成し得なかった秘術だ・・・」

 シャールが若干上ずった声でそう言うと、張り詰めた表情のミューズは舞い浮かぶ自らの髪を邪魔そうに振り払って、精霊に勅令を下した。

「あの存在を、凍りつかせなさい」

 言いながら翳された右手の指し示す先、クレメンスの姿をした魔物に向かい、精霊が息吹を吹きかける。
 緩やかに吹き抜けていく白い息吹の道筋は空気すらも白く凍え、その先に有る標的は一瞬にして白い霧で覆われ、完全に見えなくなった。
 そうして閉ざされた空間が一陣の風によって再び姿を表すと、そこにはかすかに透けて凍り付いた魔物の姿があった。

『ミューズよ、愛しき娘よ・・・』

 ゆっくりとした足取りで氷像に歩み寄るミューズに、魔物の声が響く。
 それに対して鋭い視線を向けたミューズは、魔物の目の前に立つと、ゆっくりと右の拳を握りしめた。

「お父様は、もういないのよ!」

 その言葉と共に振り抜かれた拳が氷像に触れると、魔物は瞬時にして欠片も残さず粉々に砕け散っていった。
 その途端、主を失った幻想宮廷はその景色が徐々にぼやけていき、やがて全体が眩く白く掠れていく。

「・・・私の中にあった、妄執と願望・・・。それが、ここで形を成したのね・・・。弱い娘で申し訳ありません、お父様・・・。ミューズは、クラウディウス家の一子として強くなります」

 溶ける景色の中でミューズが放った言葉に、シャールの右腕にある銀の手が確かにゆらりと輝いて応えた。

 

 

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第四章・5 -夢の中のピドナ王宮-

 

 気がつくと、そこは大理石製の見事な装飾が為された廊下だった。
 ここに至るまでにどのくらいの時間意識がなかったのか、それはカタリナには分からない。
 だが今それを気にしても意味はなかろうと思い直し、隣でゆっくりと起き上がったトーマスに目配せだけで安否を問うた。

「・・・大丈夫です」

 そう言って立ち上がったトーマスは、周囲を見渡しながらずり落ちていた眼鏡の位置を正した。

「ここは・・・昨日幻に見た場所と、酷似した作りですね・・・。恐らくは、ピドナ宮殿です」
「という事は・・・ミューズ様と同じ場所の可能性は高いわね」

 言いながらいつもの癖で背中の大剣を背負い直したカタリナは、自分が何時の間にか鎧に包まれている事に気がつく。
えらくラフな格好でミューズ達の元へと駆けつけたはずだったのにと、彼女は大きく首を捻った。

「夢の中では常識は通用しそうもない、ですかね」

 同じく、ミューズの家に駆け込んできた時とは異なる武装を携えたトーマスが肩を竦めながら言った。

「そうみたいね。兎に角、急いでミューズ様とシャールさんを探しましょう」

 そう言ってとりあえず歩き出したカタリナに、トーマスもすぐさま続いた。

 

 ゴンと共に旧市街に駆けつけたのは、トーマス、サラ、エレン、ハリードの四人だった。
 だが小瓶に残された秘薬は僅かであり、せいぜいが二人分。カタリナは行くことを決めていたのでもう一人誰が行くかということになったのだが、集まった面子の中で強く同行を名乗り出たのは、やはりトーマスであった。

「シャール様!」

 何度目かの声をあげながら、切り捨てた醜い魔物を踏み越えてトーマスが辺りを見渡す。
 だがそれに対する返事はまたしても無く、二人は目配せだけで会話をし、先へ先へと進んでいた。
 当初は無人かと思われた幻想宮廷内には、驚くべきことに何人もの給仕達が日常のように歩き回っていた。だが其れらは須らくカタリナとトーマスの前で異形へと変貌し、襲いかかってきたのだ。
 そうして何度か襲撃を受ける最中にカタリナは、動きも素早く強靭な魔物を相手にして槍と術法で互角以上に渡り合うトーマスに目を見張った。
以前魔王殿に同行したときに武術の心得があることは聞きかじっていたが、正直これほどまでの使い手であるとは想像すらしていなかったのだ。その身のこなしと攻撃の威力たるや、歴戦の槍兵と宮廷魔術師が合わさったかのような印象さえある。
 それについて賛辞を送ると、トーマスはふっと笑いながら眼鏡の位置を正した。

「・・・いえ、実は私自身もこの戦闘技術にはつい先ほどまで覚えが無かったのです。ですが、何故か今は記憶にあるのです」

 まるでカタリナが魔王殿で経験した様なのと同じ事を、トーマスは言った。となればこれも恐らくは、王家の指輪があの映像と共に八つの光にもたらしたものなのだろう。
 しかし術法に関してはカタリナなどは元から才能がなく騎士候補生時代にすっぱりと諦めており、それは王家の指輪から記憶を受け継いだ今も変わらない。
 となると記憶による戦闘技術の継承も、ある程度は本人の才覚に左右される部分があるのだろうか。
 そんな事を考えながら足を進めていると、前方から剣戟の音が微かに響き渡ってきた。

「・・・誰かが戦っている!」
「行きましょう!」

 直ぐ様その場を駆け出した二人は、幾つか曲がり角を曲がった先のエントランスの端で、何匹もの魔物達が囲う一角を見つけた。
 それを見るや否や、カタリナとトーマスは注意を引くために雄叫びを上げながら全速力でそこに向かう。
 だが二人がそこに辿り着くより前に、魔物達は一斉に囲んでいた獲物に飛びかかった。

「シャールさん!」

 その光景を見ながらカタリナが叫ぶが、それで魔物が止まるわけではなく。
 しかしそう思われた状況に反して、魔物達は止まった。
それどころか、瞬くうちに飛び掛ったのとは逆方向に一斉に弾き飛ばされたのだ。

「!?」

 弾かれたうちの一匹が此方に飛んできたのをトーマスが槍の豪快なスイングで殴り飛ばすと、魔物達が先ほどまで囲んでいた中央には、灼熱の炎の壁に包まれたシャールと、その後ろで立ち竦んでいるミューズの姿があった。
 だがそちらに駆け寄る間もなく、魔物達は直ぐ様起き上がって新たに現れたカタリナ達にも敵意の篭った視線を向けてくる。

「先ずは片を付けるぞ!」

 すかさず飛んできたシャールの檄に、カタリナ達は其々魔物に対峙した。
 最初に動いたのは、カタリナだった。今やお家芸といってもいい程の練度を誇る神速の二段切りでカタリナが魔物の一匹を屠ると、同じタイミングでトーマスは玄武術によって作り出した雷球に魔物が怯んだところを、飛び上がって真上から狙い澄ました強力な一突きで仕留める。
 そうして二人がシャール達に振り返ると、そこでは襲い掛かってきた二匹を相手に身体ごと回りながら槍で切り刻んで飛ばし、炎を纏って加速しながら飛び上がるシャールの姿があった。そして上空から流星の如き槍の投擲で一匹を仕留め、その着地と同時に体勢を立て直したもう一匹が襲いかかるが、振りかぶられた前足の一撃をシャールはなんと右腕で受け止める。
 瞬間、シャールの身体から炎が噴き出し、襲い掛かってきた魔物の身を焦がした。
 そして悶え苦しむ魔物にシャールが地面に刺さった槍を抜いて止めを刺さんとしたところを、カタリナが先んじて一刀両断に切り捨てた。

「ミューズ様、シャール様!」

 剣の穢れを払い落とすカタリナの後ろから、トーマスが駆け寄る。
 するとシャールははにかむ様に笑い、やれやれといった表情で二人を迎えた。

「・・・予想はしていたが、やはり来られたか。済まないな」
「とんでもないです・・・。うまいこと、同じ空間に入れたようですね。ミューズ様、ご無事でしょうか?」

 カタリナがシャールに微笑みかけながら言ったあとにミューズに視線を移すと、ミューズは怯えながらも気丈に表情を引き締めている様子が伺えた。

「・・・皆さん、すみません。私などのために・・・」
「いえ、ミューズ様がご無事で何よりです。あとは早急に、ここから脱出する方法を模索しましょう」

 トーマスもミューズを安心させようと穏やかな口調で言うと、漸くミューズも多少表情を緩めた。
 そしてミューズは視線をシャールに向け、彼と視線を絡めてから同時に同じ方向を向く。

「・・・この先に、ここに私たちを呼んだホストが居ます。私を誘う声と、銀の手が指し示しているのです」
「・・・銀の手?」

 カタリナが聞き慣れない単語に首を傾げると、シャールがふわりとその右腕を上げて見せた。
 誘われるままにカタリナとトーマスがそれを見ると、シャールの右腕は生身ではなく、見事な意匠が隈なく施されて鈍く銀に輝く手甲に包まれていた。

「・・・私がここで意識を取り戻した時には、既に私の右腕にこれがついていた。すると驚いた事に、腱を切られたはずのこの腕が、全盛期を超える程の感度で動くようになっていたのだ」

 シャールのその言葉を聞きながら、カタリナは驚いた表情をしつつも先ほどのシャールの戦いぶりを思い返す。
 確かにあの身のこなしと槍捌きは、腕一本が使えない人間の動きではない。
 無論のこと、腕が二本動くからといってあの動きができる人間なんて殆ど居ないのだろうが。
 そんなカタリナの表情を読み取ってか、そこにはミューズが答えた。

「・・・銀の手は、聖王遺物の一つ。そして・・・私の中にあったものです」
「ミューズ様の中に・・・?」

 不可思議な表現にトーマスが首を傾げると、ミューズはコクリと頷いた。

「クラウディウス家は、古くからピドナにある名家でした。その歴史は三百年前に遡り、祖は、名をパウルス・クラウディウスといいます。名前で既にお気付きでしょうが、聖王三傑のパウルス様です」
「えぇえ!?」

 流石にこれには驚きの声を上げるカタリナ。その隣では、トーマスも器用にメガネのずれ具合で驚きを表している。

「・・・公にはされておらぬし、ピドナでもごく一部のものしか知らぬ事実だ。ミューズ様は正真正銘、初代メッサーナ国王様の直系の子孫であらせられる」

 ここに至り、何も隠すことはないと悟ったのだろう。シャールはミューズに代わって説明をしてくれた。
 血族による国家統治を選ばず養子継承を採用した初代メッサーナ国王パウルスは、早速自身の部下であったアウレリウスという青年に王位を譲り、一線を退いた。
 彼は後に宮廷からほど近い場所に邸宅を設け、そこで穏やかに余生を過ごしたと言われている。この養子継承制度はそもそもパウルスが子を生さなかったことに起因すると歴史学者は言い続けているが、しかしその実でパウルスは自身の血を次代へと受け継いでいたのだ。
 そしてそんな彼の余生の一方、コングレスが終わった後のピドナには王たる彼によって二つの聖王遺物が残された。
 一つは、聖王の槍。
これは聖王と共に槍を鍛えたレオナルド工房の初代マエストロに進呈され、長きに渡り工房のシンボルとして飾られることとなった。
 そしてもう一つは、銀の手。
 同じく聖王三傑のフェルディナントに負けず劣らずの豪傑とも云われたパウルスは、これを特に愛用していたと言われ、これは彼が個人的に保管することとなった。
 この銀の手とは聖王遺物の中でも特殊な代物で、使用者の装着箇所の筋力や器用さ等を飛躍的に高める効果があるものだ。パウルスはこれを利き腕でないほうにあてがい、両腕を利き腕として戦ったという。

「でもなんで、それがミューズ様の中に・・・?」

 カタリナが首を傾げながら聞くと、ミューズは少しだけ視線を落とした。

「パウルス様は、後の世にオーパーツとして比類なき力を発揮する聖王遺物がいたずらに人心を惑わすことを、予測しておりました。それを見越して、銀の手に封印を施されたのです。この封印は、再び銀の手が必要とされるその時まで、クラウディウスの名を継ぐものの血肉として溶け込み、受け継がれてきました」
「血肉って・・・、それじゃあ文字通り、体の中に埋まっていたということなのですか?」

 そんな馬鹿なとでも言いたそうな表情でカタリナが思わず口に出すと、ミューズは微かに首を横に振った。

「もちろん、実体を持っていたわけではありません。ですが、確かに私の中にあったのです。そしてこの封印は死蝕以降にいよいよ時を悟って自ら解かれ始め、それは思わぬ負荷となって私の体にずっとのし掛かっていました」

 そういいながらミューズがふわりと片手をあげると、それにあわせて戦士達三人の身に刻まれていた生傷が数瞬で消え去る。
 それに驚きながら皆がミューズをみると、彼女はニコリと笑いながら、ほとんど膨らまない二の腕で力こぶしを作って見せた。

「死蝕以降はずっと病気がちでしたが、今これよりは、その原因もなくなりました。これなら、私も皆さんをサポートできます。参りましょう」

 妙に元気に言い放って奥へと歩き始めたミューズに三人は驚いたように顔を見合わせ、次いで慌ててその後を追った。

 

 

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