魔術理論談義

 

 四魔貴族の一柱、魔海侯フォルネウスの打倒。
 その難事を成し遂げるために一路西太洋を西の最果てへと航行する海上要塞バンガードには、この大遠征を行うという最中にも残留を決意したキャプテン以下数名の勇気あるバンガード住人以外にも、実に多くの者達が使命のために乗り込んでいる。
 この遠征を主導しているカタリナやハーマンらも当然その類であるのだが、その実、外部搭乗者で最も多くを占めるのは、モウゼスの魔術ギルドから来た者たちだった。
 特にこのバンガードを動かす主軸となる玄武術を扱う水術士が最も数多く、次いでバンガードの整備を目的とした技師もとい火術士たちが数名。
 これら人員は、地図上ではバンガードの南方に位置し世界最大の魔術ギルドを抱える学術都市モウゼスの中でも稀代の天才と称される二人、玄武術士ウンディーネと朱鳥術士ボルカノが連れてきた者たちである。

「しかし、お前らってつい最近まで歪み合ってたんじゃないのか?それがいきなりこんななって、仲良くできるもんなのか?」

 唐突にそう口を開いたのは、ハリードだった。
 バンガードの甲板部分にあたる市街地エリアの片隅に佇む、酒家グッドフェローズ。その店内で、珍しくカウンターではなくテーブル席の椅子に座りながらウィスキーのロックを傾けていた彼は、同席している休憩中らしい水術士と火術士の二人に、そんな素朴な疑問を投げかけたのである。
 彼が唐突にそんな疑問を投げかけたのは、言ってみれば当然のことなのかもしれない。
 なにしろこのバンガードで日夜忙しなく動き回る彼ら両術士チームは、側から見てもチームワークは完璧で、完全に意気投合してこのバンガード運用に当たっているのである。
 しかしながらハリードの記憶では、彼らはつい先日までモウゼスという一都市の南北を分つほどの大騒動を演じていた陣営同士だったはずだ。
 それが今は共同任務に従事し、休憩時間にはこうして同じ卓を囲んで酒盛りをしている始末。これでは流石に、疑問の一つや二つくらいは出てこようというものだろう。

「いやー、そうなんすけどね。っても元々はウンディーネ様がバチバチやっていただけなんで、実際あんまり俺らは・・・なぁ」
「あーぶっちゃけうちもそんな感じっす。ボルカノ様が一歩も引かなくて・・・。てか今回来たのもボルカノ様が勝手に決められて、自分ら連れてこられただけですし・・・。いえまぁ望んで仕えてるんで、文句あるとかじゃないんすけどね?」

 両術士は、ハリードとお互いの顔を交互に見合わせながら、口々にそう語る。
 稼働に膨大な魔力を消費するバンガードを動かすために集まった水術士の数は、実に三十六人にも上る。
 彼らは三交代制勤務の形をとっており、動力供給、休憩、睡眠というローテーションで業務に当たっていた。そしてその彼らを補助するために動き回るサポートチームを、ボルカノが連れてきた火術士たちが担っている。
 彼らの業務の中で思いのほか重要なのが、この休憩セクションだ。
 水術士たちは連続八時間にも及ぶバンガードへの魔力供給というハードワークをこなし、結果すっからかんになった魔力を、次のローテーションまでに短時間で回復させねばならない。
 そこで、術具の扱いにおいては右に出る者がいないとまで言われるボルカノの指導の元、火術士たちサポートチームが独自調合し霊酒相当にまで効能を高めた特製術酒を休憩時間に飲み、次の魔力供給の順番までに失った魔力を回復させるのである。
 つまり、業務内容に酒盛りが強制的に加わっているのだ。
 下戸には辛い仕様だが、この世界で魔力回復のための術具といえば、残念ながら術酒しか存在しない。そんな事情もあるので、実は魔術士には海賊などにも負けず劣らず酒に強いものが割と多い、という裏話もあったりする。
 そんなわけでこのグッドフェローズは自然と、勤務交代して休憩する術士たちの貴重な憩いの場として、二十四時間稼働をすることになったのであった。
 この酒家の店主は何やら事情があるのか、強い使命感からこの街に残ったという街の住人の一人だ。その店主たる彼がいない間も、厚意で店は開けてくれている。
 所定位置へのキャッシュオン形式で、店にあるものならドリンクメイクはご自由に、というやつだ。
 お陰で長い海路の間でも酒にありつけると、ハリードはほぼ毎日ここに顔を出している。もうすっかり術士たちとも、顔馴染みの気安い仲だ。

「ていうか元々、そんなに仲が悪いとか無かったもんな、俺ら」
「それな。あ、ハリードさんはあんま関わってないと思うんすけど、今回居ないんすがモウゼスは地術四術式は全てにちゃんと派閥があって、天術の専門研究施設もあるんすよ。魔術ギルドの総本山もうちにあるんで、そこが色々調整とかも行なってて、ぶっちゃけ派閥同士が仲悪いとかあんまなかったんすよね」

 術士たちの話す内容は、どうもハリードが脳内に思い描いていた業界泥沼事情のようなものとは異なる様子だった。

「じゃあなにか。俺らが介入した時が、たまたまバチってただけってことなのか?」

 続けてハリードが尋ねると、二人の術師はこれまた息ぴったりに頷いてみせた。

「まぁ・・・そういうことになりますね。あれほんと突然だったんで、俺らもびっくりしましたよ。ウンディーネ様もボルカノ様も、魔術史に確実に名が残るほど本当に凄い方々なんで、その二人が十年ぶりに、しかもほぼ同時にご帰還なされたって時は、こりゃもう街を上げてお祝いでもしようかって雰囲気になったくらいだったんすけどね」
「あー、その話こっちにも来てたわ。それが一転、帰ってきたと思ったらいきなりあんなゴリゴリ対立が始まっちゃって。でもあの二人に意見できるような実力を持った人も正直、今のギルドにはいないんすよね・・・」

 二人共が苦笑しながら肩を竦めてそう言い、手元のグラスを傾ける。
 何だか大変そうな業界事情にハリードも半ば同情するような表情をしながら、つまみに用意していたローストナッツを口の中に放り込んだ。

「はぁーん・・・それが今じゃあ、息ぴったりに共同作業ねぇ。お上に振り回されるお前らも大変だなぁ」
「あはは・・・でもまぁ、本当はお互いリスペクトがあるのは俺らも察してたんで、どっかのタイミングで折り合いはつくだろうとは思ってましたけどね。ウンディーネ様、対立している間も何だかんだずっとボルカノ様のことぶつぶつ口に出しながら心配してて、何かすごい必死だったんすよ。あんなの見せられたら、本当に歪みあってるなんて思えないっすよ」
「それな!ボルカノ様もまんまそれだったわ!」

 水術士がそういいながら笑っているところに火術士も同意して盛り上がっていると、不意にカランカランと音を立てて、店の扉が開く。
 ハリードがチラリとそちらに目線を向けると、入ってきたのは連れ立っての二人。
 ウンディーネと、ボルカノだった。

「おっと、噂をすれば御両人か」

 多少声量を絞ってハリードがそういうと、術士二人も無言で頷きながら何気なく二人へと視線を向けた。
 だが当の二人は何やら熱く議論を交わしながら歩いており、テーブル席の三人には軽く視線をやってご苦労様と簡単な労いの言葉を掛けただけで、そそくさとカウンター席の一番奥に二人並んで陣取って座った。

「うわ、二人してここにくるなんて珍しいっすね」
「うっわ、二人で何話すんだろ。めっちゃ気になるけど、そろそろ就寝時間なんすよねー」
「・・・ふぅん、やっぱ仲いいんじゃねえか。面白そうな話だったら、あとで会った時に教えてやるよ」

 そろそろ休憩時間が終わるとのことで、術士二人が名残惜しそうに席を立つのをグラスを掲げながら見送ったハリードは、何気なくカウンターの二人の会話へとこっそり耳を傾けることとした。

 

 

——酒家に赴く、少し前——

 バンガード艦橋から程近い位置にある、彼女専用にあてがわれた一室。その室内でウンディーネは忙しなく、机の端に積み上げられた何冊もの本を手に取っては開き、パラパラと捲っては閉じ、を繰り返していた。
 そこまで広くない机の中央に陣取っているのは、如何にも古めかしい装丁が施された書物。
 それは、商都ヤーマスにてキャンディらの活躍によりドフォーレ商会の裏倉庫から回収され、その後カタリナによって彼女の元に持ち込まれた古代魔術書であった。

「・・・・・・ふぅ」

 一頻り書物の山と格闘していたウンディーネは、ふと燭台の火が視界の端で揺らめいたのを感じ、息を吐きながら顔を上げた。
 どうやら、思ったよりも作業に集中しすぎていたようだ。先程火を灯したばかりだと記憶していた燭台の蝋燭が、もう今にもその役割を終えようとしている。
 ウンディーネは両手の指を組みながら思い切り上に伸ばしてぐっと背伸びをし、次いですっかり冷めてしまった机の端の珈琲を一口啜った。
 その表情は、明らかに消化不良の様子である。ウンディーネ自身は自覚していないが、意外と彼女は思っていることが顔に出やすいタイプだ。
 ところで何故そんな表情なのかと言われれば、なにしろ時間の消費に対して作業の進捗が非常に芳しくない、と彼女が感じているからに他ならなかった。
 古文書に書いてあることの大筋は、実は既に解読を終えている。この古文書には、現代には伝わっていない魔術の秘技が書き記されているのだ。
 彼女の元に持ち込まれた古文書は、二冊。それらには丁度、玄武と朱鳥の秘術に関して書き記されているであろう、ということまではもう分かっている。
 また、術の構成に当たって複属性の記述が見受けられることから、これは彼女が専攻する「連携術」の延長線上にある陣形術式であろう、という予測まではついていた。
 だが、そこから先が問題だった。
 肝心の術式発動に関する理論的な記載が、この本には殆どないのである。
 かと言って特段中身が欠落しているわけでもない様子なので、元からこの本にはその記載が無いのであろう。全く、魔導書としては欠陥品も甚だしい。編纂者をどついてやりたい気分だ。
 だが、文句を言ったところで問題は解決しない。
 そうなると、あとは不明な箇所を現代に伝わる魔術理論から推測し補填するしかないわけなのだが、その解明作業が遅々として進まない、というわけなのだ。

「もっと関連してそうな書物を持ってくるべきだったわ・・・」

 モウゼスにある彼女の館には、多くの魔術書がある。今回のフォルネウス討伐を目的とした遠征にはこの古代魔術書の中身がなんらかの役に立つのではと踏んでいたウンディーネは、目的地に辿り着くまでにその解読をせんとして、モウゼスから解読に役立ちそうな蔵書をバンガードに持ち込んでいたのだ。
 だが、持ってきた蔵書に書いてある内容だけでは、どうにも魔術理論構成が上手くいかないのである。
 手詰まり感を抱えながら口元に手を添えて考えを煮詰めていると、そこに、元から半開きだった背後の扉をコンコンとノックする音が響いた。

「・・・ディー姉、今大丈夫か?」

 それは、最近特に聴き慣れた声だった。
 しかしそれにすぐには敢えて応えずに、軽く眉間に皺をよせてわざわざ苦々しい表情を作り、そして椅子の背もたれ越しに半分だけ振り向いてから重々しく口を開いた。

「・・・いい加減、そのディー姉っていうのやめなさいよ」
「あぁ・・・クセでな、すまない」

 あまり悪びれた様子もなくそう返しながら部屋に入ってきたのは、上品に切り揃えられた赤髪をした青年-ボルカノだった。
 魔術の徒としては彼女の後輩にあたる青年で、専攻は朱鳥術。伝説の玄武術師ヴァッサールの再来とすら言われるウンディーネをして、間違いなく天才だと認めることができる類稀なる才覚の持ち主だ。
 因みにウンディーネとは一回りほど歳が離れているものの、同じ時代に二人の天才が誕生したということでモウゼスではよく同格に扱われることが多く、年上のウンディーネとしては何とも歯痒い思いをしてきたものだ。
 とはいえ彼女にとっては年の離れた弟のような存在であったこともあり、彼女が十代の頃には少年ボルカノに術のいろはを教えてあげたりしたこともあった。
 その当時から既に、天才たるボルカノが教えを請うのも同じく天才である彼女くらいしかいなかった、という事情もある。
 そんなわけでボルカノがウンディーネのことを「ディー姉」と呼ぶのは、その当時の名残である。今となっては、その当時そう呼ばれてちょっと喜んでいた自分を殴り飛ばしてやりたいとウンディーネは密かに思っていた。

「ふん・・・まぁいいわ。でも少なくとも、他人の前ではそう呼ばないで。お互い、今は立場ってものがあるでしょう。で・・・何か用?」

 ウンディーネが半身だけ振り向いた姿勢のまま半眼で問いかけると、ボルカノはそんな彼女の様子など気にすることなく部屋に入ってきて、手に持っていた紙切れをウンディーネに差し出した。
 それは、バンガード内部の地図のようだった。

「少しバンガードの構造で気になる場所があって、一度ディー姉にも見てもらおうと思ったんだが・・・何か調べ物か?」

 机の中央に広げられた古文書に目を止めたボルカノは、ウンディーネの座っている椅子の背もたれに片手をつきながら興味深げに身を乗り出し、書物を覗き込む。
 彼の腕がウンディーネの横髪をさらりと掠めるくらいにはいきなり近づいてきたものだから、ウンディーネは一瞬固まりながらも、動揺を表に出さぬように極力自然体を意識しつつ、彼のみる本へと合わせて視線を移した。

「ええ、ちょっとね・・・そうだ、丁度いいわ。少しこの古文書の内容について、貴方の意見を聞かせて頂戴。持ってきた書物と照らし合わせただけだと、どうにも得心いかないのよ」
「なんだ、ディー姉が俺を頼ってくるなんて珍しいな。明日はスコールか?」
「五月蝿い。無駄口叩くなら頼まないわ」
「そんなツンケンしないでくれ。どれどれ、このページか。解読メモは?」

 身を乗り出した姿勢のまま、ボルカノはウンディーネが仏頂面で差し出したメモを受け取る。そしてそのメモと古文書の文字列を、交互に指でなぞるようにしながら読んでいく。彼自身も古文書の類には慣れ親しんでおり、こうなるとあとは話が早いはずだ。
 だが、それはともかく。
 先ほどから、少々お互いの距離が近すぎるようだとウンディーネは感じていた。
 別に自分は気にしないが、しかしここの部屋の扉は今、半開きなのである。もし外から通りすがりの誰かがうっかり部屋の中を見たとしたら、ちょっと二人の距離が近すぎるのを、不審に思うかもしれない。

(いや不審って何よ。別にそういうのじゃあるまいし)

 そういうのではないので、自分から変に気を使ってわざわざ距離を取るのもおかしい。それではまるで、そういうのを此方が気にしてしまっているみたいに受け取れてしまうではないか。

「これは驚いたな・・・古代魔術の秘技書か。でも、確かに記述が抽象的だな。うーむ・・・何となくイメージできないでは無い気もするが・・・。因みに、ここまでをディー姉はどう解釈しているんだ?」

 しかし、外から見えてしまった時には変な勘違いをされかねない程に近い距離というのは流石に問題だと言えなくも無いので、やはりここは多少なりとも此方が椅子を引いたりして距離を取るべきか。いや、しかしながら今更距離をとったところで、それはそれでもう手遅れ感満載で不自然なのではないか。万が一にも、この察しの良い憎たらしい後輩に変な勘ぐりでも入れられてしまったら、これはもう一生の不覚といっても差し支えない。それはだめだ。絶対にだめだ。阻止しなければならない。

「おい、ディー姉・・・?」
「・・・え? わ!」

 至近距離でこちらを覗き込むように顔を近づけていたボルカノにようやっと気が付き、ウンディーネはガタンと音を立てながら椅子ごと後退ろうとする。
 しかし、思いのほかしっかりした椅子の足は後ろ二本だけで傾いてしまい、ウンディーネはそのまま椅子ごと後ろに倒れそうになってしまった。

「お・・・っと」

 それを、ボルカノが造作もなくウンディーネの手を取り、自分の方へと引き寄せる。
 ガタン、と大きく音を立てて椅子が後ろに倒れるのと同時、ウンディーネは間一髪ボルカノに抱き竦められるような格好で難を逃れた。
 結果、先ほど以上に密着したような状態になってしまっている。

「あー・・・すまない。そんな驚くとは思わなくて」
「・・・・・・」

 一瞬の沈黙が、部屋の中に訪れた。
 そして、その間すっかり固まるウンディーネ。
 ウンディーネがこの小憎らしい後輩と再会したのは、ほぼ十年ぶりのことであった。お互いに、モウゼスを離れていたのである。
 その間もギルド支部を通じ文書での連絡は取り合っていたが、姿をお互いに見たのは本当に十年ぶりなのだ。
 そして二ヶ月ほど前に訪れたその再会の場面は、それはそれは最悪の形であった。
 双方の意思疎通不足から始まった悶着は街を巻き込む騒動に発展してしまい、今となっては本当に恥じ入るばかりである。
 そんな騒動から、今度は殆ど間を置かずにこのバンガードに乗り込んでいるものだから、実は改めてボルカノをまじまじと見るようなタイミングなど、ここまで殆どなかったと言える。
 不意に抱き竦められた気恥ずかしさと、そして今更ながら相手の大きな変化を目の当たりにして、ウンディーネはすっかり黙りこくってしまった。

(・・・なによこいつ・・・十年前、私が旅に出た時は、まだ私よりも背が小さかったのに・・・)

 抱き合ったような格好の二人には、明確な身長差があった。以前は自分の方が背が高かったのに、いつの間にか頭ひとつ分はボルカノに身長を抜かれていたのだ。
 それに以前は魔術士らしく自分と一緒で華奢だと思っていたその腕も、今はこうして彼女の体を支えても何とも無いくらいには、逞しくなっている。
 声だって、そうだ。凄く低くなった。昔は鳥が囀るような可愛らしいソプラノだったはずなのに。
 そう言えば声色だけじゃなく、口調そのものも少し変わっているではないか。なんだかちょっとキザったらしくなってて、それがなぜだか癪に障る。以前はもっと、生意気だけど可愛げのある喋り方だったのに。
 本当に、色んな所が凄く変わったと思う。それなのに名前の呼び方だけが昔と変わっていないのは、なんだかとても見た目の変化とアンバランスで、ちょっと可笑しい。
 自分の知らない間に、弟分はこんなにも成長したんだなと、何故だかこんな時にふと思ってしまった。
 そこに至り、あまりの後輩の変化ぶりに実は自分の方がついていけていなくて、なんだか後輩への態度が空回りしていたのかもしれないな、なんて。ふと冷静にそんなことを考えたりもする。
 そのまま、数秒の時がお互いの間をゆっくりと流れた。

「・・・・・・離して」
「あ・・・すまない」

 言われて初めてボルカノは腕の力を緩め、ウンディーネは彼の腕から解放された。
 いきなりのことだったから、自分でもびっくりして顔が紅潮してしまったのがわかる。気づかれていなければいいが。

「別に・・・。まぁ、支えてくれてありがと」
「・・・あぁ」

 そそくさと衣服の乱れを整えながら、ウンディーネは平然を装って椅子を起き上がらせた。
 少し、気まずい。何か話題を振らなければ。

「で・・・その古文書、貴方の見解を聞かせて欲しいんだけど」
「え、あぁ、だからディー姉の考察を聞こうと・・・まぁいい。これはディー姉のほうが想像ついていると思うが、陣形魔術だと思う。これは朱鳥術の書のようだが、実際重要なのは、恐らく朱鳥の力を誘導する天術の配置とバランスだと考えられるな」

 そう言いながら、ボルカノは先程持ってきたバンガードの内部地図らしき紙切れを広げた。

「丁度ディー姉に見てもらおうと思っていたのが、ひょっとしたらヒントになるかも知れない。どうもバンガードの水晶から各機関への魔力の伝わり方に、一定の法則があるようなんだ。それがこの地図でメモした場所だと視覚的に良くわかる。これが、ひょっとしたら陣形術に関連するんじゃないかと思ってな」
「それは興味深いわね。案内してもらえる?」

 とにかくこの部屋の空気を脱したかったウンディーネは、古文書を手にとって我先にと部屋の出口まで進んだ。
 それに合わせてボルカノが続くも、ふとウンディーネが部屋の扉の前で立ち止まる。

「・・・ディー姉?」

 彼女が止まったので、その背中のすぐ後ろにボルカノも立ち止まる。そしてボルカノが不思議そうに首を傾げると、ウンディーネは顔半分だけ後ろに振り返り、ボルカノを見上げた。

「・・・貴方、お酒は少しくらい飲めるようになったの?」
「え、まぁ・・・それなりには」

 この世界で魔術士と酒は、切っても切れない関係だ。術酒を飲めない者は一人前の魔術士にはなれないとすら言われており、魔術士を志す者は小さな頃から水に薄めた術酒を飲みながら体に慣れさせていくほどである。
 彼女の覚えているボルカノは、やっと術酒の慣らし始めをしたくらいの時節だった。初めて術酒の水割りを飲んだ時の彼などは、それはそれは珍妙な表情をしていたものだ。
 何故だかふとこのタイミングで、それを思い出したのである。

「・・・やっぱり案内は、明日お願い。だから、今日はちょっと付き合いなさいよ」

 そう言いながらグラスを傾ける仕草をしてみせると、キョトンとした様子で二度三度瞬きをしたボルカノは、次いでふっと微笑む。
 少し、その笑顔には昔の彼の面影が残っているような気がした。

「オーケーだ、受けて立とう」

 ボルカノの返事を聞いてウンディーネも僅かに口の端を上げるように笑ってみせると、部屋を後にした。
 十年の間に彼がどれだけ変わったのか、それとも、実はそんなに変わってないのか。
 何の因果か、こうして今、一緒に居るのだ。それを確かめる程度の時間を、ほんの少し設けることくらいは、なにも問題ないはずだ。
 心持ち足早にウンディーネがバンガード上部エリアに向かって歩いていくのを、ボルカノもまた軽い足取りで後を着いていった。

 

 

「・・・でまぁ、来てからずっとあの調子なんだよ」

 グッドフェローズのテーブル席には、相変わらずのハリードと、カタリナ、ミューズ、シャールが座っていた。

「聞こえてくる限り、ずーっと魔術の小難しい話ばっかしてんだよ。男と女がバーのカウンターで並んで飲んでるってのに、全く色気も何もないぜ。そうは思わんか?」

 ハリードはその様子を最初から見ていたらしく、何杯目かのウィスキーをグラスに注ぎながら肩を竦めてそう言った。
 巡回を終えて合流していたカタリナら三人は、それぞれグラスを片手に彼の問いかけに対して思案する。

「うーん・・・まぁ、あの二人にとってはそれが共通の話題なのだろうし、その話で盛り上がるのは仕方ないんじゃないかしら。私だって騎士団の同期と飲む時は、大抵訓練の話ばかりだったわよ」

 ロアーヌの騎士団仲間を思い出しながら、カタリナはハリードにそう相槌を打つ。どちらかと言えばカタリナも、そういう話題には疎い方だという自覚はある。

「あー・・・お前さんは想像がつくな。意見を求める相手が悪かった。シャールはどうだ?」
「俺に聞くな」

 このつれない態度である。
 しかし、その隣で瞳を輝かせているミューズがいるので、これ以上シャールに追求は、するだけ無駄だろう。

「私はあのお二人、いい雰囲気だと思います。実はウンディーネさんが結構ボルカノさんへの接し方に戸惑っている感じが普段からあって、それがもどかしくてポイント高いですよね。ボルカノさんも不器用っぽいですけど、ウンディーネさんよりは直球な気がするんですけどね」

 この辺りの話題に関してはサラに大分仕込まれているのか、流石の鋭い観察眼でミューズは二人を評する。
 なんのポイントが高いのかはいまいち分からないが、何となく言いたいことが分かるような気がするかな、とカタリナなどは思った。

「でも・・・あれはあれで楽しそうじゃない。モウゼスで初めて会った時とは比べ物にならないくらい、二人とも生き生きした顔しているわ」
「はん、そんなもんかね。ま、当人らがそれでいいならいいんだろうが・・・。少しは外野も盛り上がるような展開があってもいいと思うけどな。なぁシャール」
「だから俺に聞くな」

 静かにグラスを傾けながら釣れない反応を返すシャールにハリードは再度肩を竦めて苦笑し、もう一度、ちらりとカウンター席へ視線を向ける。

 

「だから、俺が思うに陣形魔術は天術のコントロール量が重要であって・・・」
「ちょっと待ちなさいよ、だってそれじゃあ根本的な魔術媒介の定義から見直す必要が・・・」

 結局、十年の変化なんて互いに微塵も探ることなんてなく。
 酒も入ってすっかり饒舌になり、数時間に渡って二人は魔術理論について、熱く激論を交わし続けた。
 その姿を、変わるがわる休憩に入ってきた術師たちが背後で生暖かく見守っていることなどは、露ほども知らず。

 

 

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バンガードの休日

 今日の西太洋は、実に平和そのものであった。
 空は青く晴れ渡り、海上を吹き抜ける風も穏やかそのもの。四方見渡す限りが海ばかりという景色には少々飽き飽きしてきた頃合いではあるが、まだ暫くはこのままの予定だ。
 その日、愛用の曲刀の代わりに釣竿を装備したハリードは、整備点検と休憩を兼ねて停止中のバンガードの縁から、釣り糸を海原に垂らしてぼけっとしていた。
 四魔貴族の一柱である魔海侯フォルネウスを激闘の末に打ち破ったカタリナら一行を乗せたバンガードが陸に辿り着くまで、あと一週間程度はかかるらしい。

「釣れているか?」

 特に何を考えるでもなく海を見つめていたハリードに、ふと声がかかる。
 それに気がついてハリードが声のした方を見やると、そこには彼と同じく釣竿を装着した状態のシャールがいた。
 ハリードは彼の言葉に対し、自分の脇に置かれた木製の桶を視線で指し示す。そこには、澄んだ水だけが揺蕩っているのみだった。

「ボウズか。猛将トルネードも、釣りは不得手なのだな」
「砂漠の民に釣りスキルまで求めるなんて、そりゃいくらなんでも無茶振りってもんだ」

 ハリードがそういうと、シャールはそれもそうだなと微かに笑いながら近くに腰を下ろし、彼とは違う方角へ向けて、徐に釣り針を放った。

「まぁ、そういう俺も血筋はナジュも混じっているから、釣りは得意とは言い難いがな」
「・・・だろうな。しかし食料が心許ないって話らしいから、このままボウズってわけにもいくまい。なんとか釣り上げんとな」

 流石に釣果無しでは帰れまいと、二人はしばらくそこから無言で釣りに集中することにした。
 ところで話は変わるが、ハリードはこのシャールという男に対し、どこか自分と近しいものを感じているのだった。
 名前や風体から生まれの地域が近いのだろうということは無論予測できたのだが、単にそういうことではない。どちらかと言えば姿形というよりは、その行動や生き様、とでもいうのだろうか。そういった部分に、どこか共感を覚える部分が多いように感じるのだ。
 だが、ハリード自身はこの十年は半ば世捨て人みたいな生活を送ってきた身分であるので、そんな自分に共感を覚えられるのも迷惑なものだろうなと考えて、結果一人で皮肉めいた笑みを浮かべる。

「なんだ、何か面白いことでもあったか?」

 どうやら、表情をみられていたらしい。シャールにそう問いかけられ、ハリードは肩を竦めた。

「いや、別になんでもない。気にしないでくれ」
「そうか」

 短く言葉を交わすと、また暫く二人の間には沈黙が舞い降りる。
 元がそこまで口数の多くない男であるシャールは、こうして一緒にいても静かで、面倒ではないのがいい。ハリードは昔っから、男女問わず姦しいのは苦手であった。
 だがその割にロアーヌの一件に端を発するこの一年の生活の変貌の中では、とびきり煩いエレンとの二人旅から始まり、随分と賑やかだったな、等と思い返す。そしてそんな賑やかさにも慣れてきている自分を思うと、なんだかんだ騒がしいのにも抗体が出来てきたのかもしれない。
 そんなことを考えながら、一向に反応を示してくれない釣竿を弄んでいると、またしても背後からハリードに近づくものの気配があった。

「お二人とも、釣れてますか?」

 そこに現れたのは、昼食が入っていると思しき籠を持ったミューズだった。
 籠を持つ彼女の両腕には合成術の反動の影響でまだ包帯が巻かれているが、もう傷は殆ど塞がっているらしい。
 シャールの主人である彼女もまたフォルネウス討伐を成した一人であるが、改めてこうして見る限りではとてもそうは思えないほど、清廉でお淑やかなだけの令嬢である。

「お昼、持ってきました。キリのいいところで休憩にしませんか?」
「ありがとうございます、ミューズ様」
「・・・キリもなにも、今も休憩しているようなもんだ」

 それでは、とミューズが持ってきた籠から大きめのサンドイッチを取り出して二人に差し出すと、二人はそれぞれサンドイッチを受け取って一気に頬張る。
 炙られた薄切りのベーコンを挟んだサンドイッチに舌鼓を打ちながら、三人は口数少ないながらに昼食のひとときを楽しんでいた。

「・・・ハリードさんとシャールさんって、案外、仲いいですよね」
「あー、そういえば確かにそうね。年も近いらしいし気が合うんじゃない?」

 たまたまそんな様子を見回りで目撃しながら、フェアリーとカタリナはそんな会話を繰り広げる。

「男同士の友情モノって、胸が熱くなりますよね。どこか別の世界では彼らが親友同士だったとか・・・そんな設定だったりしたら、なおいいですね」
「そんな後だし設定あっても、こっちが困っちゃうだけなのよね・・・」

 何が困るのかはさておき、昼食を続ける彼らを遠目に見ながら、二人はそんなことをいいつつ見回りを続けるために歩き去っていったのだった。

「なぁボストンよ。お前、陸に着いたらどうすんだ?」

 海面に接する部分に設けられた船着場付近でバンガードの向かう先を見つめていたブラックは、丁度海の中から顔を出したロブスター族の戦士、ボストンに向かってそう問いかけてみた。
現在のバンガードは、直前のフォルネウス討伐の際に備蓄の術酒が完全に切れたことにより、玄武術士の力だけで動かすことが困難になっていた。そこで、ロブスター族であるボストンの持つ玄武の加護によって、動力の補助を受けている状態なのだ。
 それにより、術士の魔力回復とボストンの術力回復のために、こうして一日のうち数時間を停船しながら陸に戻っている最中であったのだ。

「まぁ、こうして島の外に出ることになったのも何かの縁だ。陸に行ってからはこのバンガードを拠点に、見聞を広めようと思っている」
「はぁん・・・しかしお前、その風体だと魔物と間違われるんじゃねぇか?」

 ブラックがそう指摘すると、ボストンはブラックの足のすぐ近くに置いてあった木の桶に、ハサミで捕らえた魚を入れながら唸った。
 このバンガードではボストンは既に住人からは歴とした「ロブスター族」として認識されており、少ないながら町民との会話や交流もできている。だがそれはカタリナらと行動を共にしていたからであって、これと同じ状況がバンガード以外でも通用するとは、彼自身も思ってはいなかった。

「そうだな・・・まぁ、ここ以外で人里に寄りつこうとは思わんよ。それに水竜には遅れを取ったが、こう見えて並大抵の海棲の妖魔風情ならば遅れを取らない程度には腕に自信もある。自衛はできるさ」

 海から上がって軽く伸びをしたボストンは、触覚部分を髭のようにハサミで弄びながらそういった。

「なるほどな。ならよ、お前、海賊やらねぇか?」

 そんなボストンを見ながら、ブラックは唐突にそういった。ボストンが首を傾げる仕草をすると、ブラックは腕を組んでボストンに向き直り、不敵に笑って見せた。

「こうして力を取り戻せた恩もあるからここの連中には暫く手を貸そうと思っているが、それが終われば俺は海賊稼業に戻る。そん時には、航海士が欲しくてな」
「海賊というのも航海士というのもどういうモノなのかよくわからないから、なんとも言えないな」

 ボストンがそう言いながらハサミをカチカチと鳴らすと、ブラックは豪快に笑い飛ばしながら腰に手を回した。

「なぁに、面白おかしく海で生きていくのが海賊さ。お前みたいに玄武の加護を持った奴がいれば、海に生きるものにとっては何よりもありがたいしな」
「成る程、海に生きるものを海賊というのか。だが、それならば私は既に海賊ではないのか?」
「はっ、そりゃロブスターとしての生き方だろうが。人間の、それもこのブラック様流の海賊生活は、スリル満点でめちゃくちゃ面白いぜ?」

 ブラックのその自信たっぷりの言いように、ボストンは暫し考える仕草をする。
 ボストンが知っているこのブラックという男は、海底宮でのフォルネウス討伐を終えてこのバンガードに戻ってきた時からの、極々短い間だけの付き合いだ。討伐に向かった際の、彼が知っていたハーマンという男は、ブラック曰く、死んだらしい。その代わりに、このブラックという男が現れたのだ。
 つまりは左足と共に生命力を取り戻したハーマンの本当の姿がこのブラックなのだが、ただやはり、この男に関してボストンは殆ど何も知らないと言っていい。
 ハーマンというのは、失った己の左足や仲間の仇を取ることしか考えていない、復讐心に駆られた男だった。それが、ボストンの知るハーマンの全てだった。
 だがこのブラックという男は、そうではない。もう彼には復讐する相手もいないし、取り戻すべき左足などもない。だから、そういう意味ではハーマンとは全くの別人なのだ。
 このブラックという男がハーマンの願いを成就した存在であるならば、ではこの男は、一体何をしようというのだろうか。

「ブラックは、その海賊というものになって何をするつもりなのだ?」

 知らないのならば、聞くのが手っ取り早い。だからボストンは、そのまま聞いてみた。
 するとブラックは待ってましたとばかりにニヤリと笑うと、いつものように懐から取り出した煙草に火をつけ、美味そうに吸い込んだ煙を長く細く吐き出しながら海へと視線を移す。

「そりゃあお前、やることは一つよ」

 

「・・・やっぱり、海賊王になるんですかね?」
「え、うーん・・・でも麦わら帽子が似合う感じじゃないし・・・」

 見回り途中に今度はブラックとボストンを見かけたフェアリーとカタリナは、彼らの会話の一部始終を小耳に挟みながらそんな会話を繰り広げていた。

「しかし不思議です。どうして人間の海賊というのは、相棒に人間以外を選びたがるんでしょうね」
「あー、それゲッコ族的な話? まぁ別に好んで選んでいるわけじゃないと思うけれど・・・確かにボストンもやたら紳士な感じだし、キャラ的にもバッチリよね」

 残念ながらブラックがその後に何をいったのかは波の音でかき消されてしまったので聞こえなかったが、故に二人は無責任に色々と憶測を交えながら話しつつ、巡回を続けていくのであった。

 

 

「・・・入るぞ」

 ノックの後にガチャリと扉を開けてボルカノが部屋に入ると、その中にいたのは、ベッドの上で上半身だけ起き上がり、包帯でぐるぐる巻きにされた両腕で不便そうに本を捲っているウンディーネだった。
 彼女の両腕の怪我は今回のフォルネウス討伐における被害の中で最も酷く、また魔術士としての活動にも大きく制限がかかるほどに、魔力の一時的な減少も見て取れていた。なので他の面子がある程度回復している今も、彼女だけは両腕をほとんど自由に動かせずにいる日々が続いている。

「ディー姉、また本を読んでいるのか・・・。あまり無理はしないでくれよ」
「・・・仕方ないじゃない。ベッドの上ばかりでは、やることもないんだもの」

 彼女の両腕は肘から先が骨までズタズタになっている状態だったらしく、ミューズらの懸命の治療の結果、なんとか後遺症の心配がなさそうな程度までは治すことができた。だがそれでも、医者の見立てでは回復まであと二ヶ月近くは費やすだろうとのことで、その間は思うように両腕を使えない状態が続くのだそうだ。

「それは、自業自得だ。ぶっつけ本番で解明しきっていない古代の合成術を試すなんて、無謀にも程がある。大体ディー姉は・・・」
「その説教なら、何度も聞いたわ。いい加減にして頂戴よ」

 数日に一回は、ボルカノからこの説教を耳にする。それがとても鬱陶しく感じられて、ウンディーネは心底嫌そうな顔をしながら彼の言葉を遮った。
 無論自分が軽率な行動をしたことは十分解っているのだが、それでも彼にここまで執拗に言われる筋合いはないと思うのだ。というかあれがなければ今ここに生きて帰ることもなかったと思えば、それが最善の選択であったとも言える。だからこそ、ここまで彼に言われるのもおかしな話ではないかとウンディーネは不満に思っていた。

「とういか、なんで毎度毎度貴方が食事を運んでくるのよ。貴方あれでしょ、魔導技師・・・だっけ、あれなんでしょう。ならこんなところに来てないで、ちゃんと艦橋で仕事していなさいよ」

 繰り返すが両腕が使えないウンディーネは、食事をするのも一苦労なのだ。なので毎度の食事は運んできてくれた人に食べさせてもらうことになるわけだが、なぜか毎日の昼食に関しては、必ずボルカノが運んでくるのである。彼自身はこのバンガードを動かす要の役割を果たしているので、その身は忙しいはずだ。なのに一々こうしてここに来ることが非常に不可解なのである。

「今は停船中だ。やることはない」
「だったら・・・休んでいなさいよ。動いている間、忙しいんでしょう?」

 ウンディーネがそういうと、ボルカノはそれにはすぐには答えず、手元の野菜スープをスプーンで掬った。

「ちゃんと休んでいる。俺よりも、実際に魔力供給を行ってくれている術士たちの方が大変さ。この時間は彼らを休ませてやりたい。はい、あーん」
「・・・・・・・」

 なにやら不機嫌そうな顔でボルカノを睨み付けるウンディーネに、ボルカノは困ったように笑みを浮かべる。

「給仕をしてくれる女性もいるんだが、他の皆の昼食を作るのに忙しい。俺では嫌かもしれないが、勘弁してくれディー姉」
「べ・・・別に、嫌だとは言っていないわよ」

 差し出されたスプーンに口をつけると、ボルカノは慣れた手つきでウンディーネにスープを飲ませ、パンを千切っては食べさせていく。

「そうか、てっきり嫌がられているのかと思っていたけれど」
「・・・違うわよ。ただ、なんか悔しいだけ」

 そういってそっぽを向くウンディーネに、ボルカノはうっすらと微笑んだ。

「そう言えば昔、俺が風邪ひいた時にこうしてディー姉に食べさせてもらったことがあったな。あの時と、逆だな」
「・・・そんな昔のこと、もう覚えていないわ」

 嘘だ。しっかりと覚えている。
 まだ自分も十代だった頃だ。生意気盛りだったボルカノが風邪をひいて寝込んだというので揶揄いがてらに見舞いに行ったのだが、思ったより熱があって苦しそうだったので、内心とても心配したのを今もはっきりと覚えている。
 結局心配でその場をすぐに離れることができず、術で氷枕を作ってやって額にも冷たい水を滞留させ、熱が落ち着くまでそばにいたのだ。その途中で、彼の親が作った食事を引き受け、彼に食べさせてやった。

「・・・あの時は可愛いものだったのにね」
「・・・何か言ったか?」

 ふと口に出たことに対し、ボルカノがパンを差し出しながら首を傾げる。

「・・・なんでもないわよ」

 それをパクリと咥えながら、ウンディーネは話をはぐらかす。ボルカノも何度か聞き直してみたが結局教えてくれず、そのまま食事は終了となった。

「じゃあ、俺は戻るよ」
「・・・」

 すっかり平らげられたお皿を重ねると、ボルカノはベッド脇の椅子から立ち上がった。そしてベッド脇に置いてあったウンディーネの読みかけの本を、また彼女の足の上あたりに戻してやる。

「本を読むなとも言わないが・・・あまり無理はしないでくれよ、ディー姉」

 そう言って部屋を去ろうとするボルカノに、ウンディーネは視線を投げかける。

「・・・ありがと」

 そして短くそれだけいうと、聞き取れなかったのかボルカノが振り返って首を傾げる。

「何かいったか?」
「・・・なんでもないわよ!早く貴方も休憩しなさい!」

 相変わらずの調子のウンディーネに苦笑しながら、ボルカノは了解と返して部屋を後にしていったのだった。

 

「・・・あれでは、ツンディーネさんですね」
「あ、上手いじゃないフェアリー」

 彼らの様子を丁度見かけていた見回り中のフェアリーとカタリナは、去っていくボルカノの背中を見送りながらそんなことを話していた。

「というかウンディーネさん、もう液体くらいなら操れるから水とかスープとかは自分で摂れちゃうんですよね」
「へー、術って便利なのね。でも、なら何故大人しく食べさせられているのかしら・・・って、その手の疑問は野暮ってものよね」

 そうですね、と言って微笑むフェアリーにカタリナも笑みを返しながら、二人は見回りを続けるためにその場を後にした。

 間も無く、バンガードは再始動して大陸へと再度進行を開始する予定だ。

 

 

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第九章・6 -全てを見通す男-

 

 ドンッ!!

 木製の扉を打ち破る勢いで蹴り開け、鼻息荒くバンガード商業ギルド会館の一室へと乱暴に踏み込んできたのは、誰あろうバイロン卿その人だった。
 とはいえ余りにその有様が先日までの彼とかけ離れていることから、その場にいた誰しもが一瞬、彼がバイロンであるということに気付けなかったほどである。
 顔こそ同じで、着ている衣服も確かにウィルミントン製のハイブランドスーツなのだが、しかしいつもの紳士然とした姿勢や振る舞いは、完全にどこかへと消え失せてしまっていた。
 余程急いでここにきたのか、帽子も被らず頭髪は乱れ、興奮からか目は醜く充血し、呼吸も荒い。
 そして手にした杖をまるで棍棒代わりのように握りしめながら、獣じみた前傾姿勢で周囲を威嚇しているのだ。
 その様相はまるで、癇癪を起こして暴れ回らんとする悪徳商人もかくや、というような有様であった。
 その姿を見て、場違いにも思わず失笑してしまったのは、かつての自分の姿をそこに垣間見てしまったからか。
 内心でそう自嘲しながら、ラブ=ドフォーレは至極落ち着いた様子で深くソファに腰掛けたまま、戯けるように大仰に両手を広げて驚いてみせた。

「これはこれは、バイロン卿。随分と遅いご到着でしたな。よもや来られないのではないかと、少々心配してしまいましたよ」
「!!!?・・・貴様、貴様が仕組んだのか!!??」

 ラブの様子を見たバイロンは烈火の如くに怒りの表情へ変わり、手にした杖を振り上げながらラブへと迫る。
 しかしラブの背後に控えていた屈強なボディガードに遮られ、更には慌てたバンガード商業ギルドの職員にも背後から身を押さえられたことで、それ以上ラブに接近することは出来なかった。
 だが彼の怒りは、そんなことで欠片も収まることはない。
 バイロンはギルド職員に羽交い締めにされたまま、半ば叫ぶように口汚くラブを問いただした。

「貴様が!!貴様のような品性の欠片もない豚如きが、この私とフルブライトを嵌めたのか!!??」
「おやおや・・・嵌めたとはまた、とんだ濡れ衣ですな。私が聞き及んでいる限り、今回の事はあくまで御社内での揉め事だと理解しておりますが、ねぇ?」
「き・・・貴様ぁぁぁああああ!!!!!!!」

 ラブの言葉にバイロンは絶叫し、その後は歯が砕けそうなほどに強く口内を噛み締め、力任せに杖を床に叩きつける。
 その様子が大層面白かったのか、自らの性根の悪さを自覚しているラブはニヤリと下卑た笑みを浮かべながら、膝に手をついてゆっくりと立ち上がった。

「私はね、こう聞きましたよ、バイロン卿。何でも・・・どうしたことか今回のトレード終結後、普通なら即座に商業ギルドを通じて動くはずのオーラムが微動だにしない。何故かと言えば、今回のトレード決着と同時にウィルミントン本店以外のほぼ全ての支店で、傘下企業が商会からの離脱を表明してしまったからだ、と。それ故、本店口座の残高だけではトレードで提示したオーラムが用意できなかったから、だそうですねぇ?」
「これは!! これは全く悪質で卑劣な!!! 神聖なる商いの道理を無視した物件独立工作だッ!!! このようなことは断じてッ!! 断じて認められるようなものではないッッ!!!!!!」

 これまた叫ぶようにバイロンが喚き散らすと、対するラブは実に愉快そうに瞳を歪ませながら、さも同情するかのような声色でバイロンへと語りかける。

「えぇえぇ、そうでしょうとも。これはとても悪質な独立工作でしょう。ただし・・・それをトレード相手ではなく身内が起こしたとなると・・・ふふふ、これには全く同情の余地がありませんがなぁ・・・!」

 ついには抑えきれずに、声を上げて笑い出したラブ。それをバイロンは脳が茹で上がりそうなほどに顔全体を熱で赤らめながら、憤怒の表情で睨みつけた。
 全ては、ラブの言う通りであった。
 トレード終結宣言によってバイロンが勝利を確信したその時、既にフルブライト商会の内部では、全てが覆っていた。
 商業ギルドによる正式なトレード終結の報が各国へ発せられる同時に、今回は未曾有の巨額トレードであることから各国に散らばるフルブライト商会傘下の企業に対し、各国商業ギルド支部口座を通じてトレード資金の拠出要請及び集金が行われる算段であった。
 しかしあろうことか、この資金集約要請を商会全体の六割もの傘下企業が全面拒否したのである。
 つまり、物件独立をされたのだ。
 これによりトレードで提示したオーラムの拠出が不可能になったフルブライト商会の醜態は世界中に瞬く間に伝播し、トレード結果以上に各国権力者の耳目を強く引きつけた。

「しかもどうやら独立した企業群、御社の会長が立ち上げた『フルブライト二十三世商会』という名の企業に参画していらっしゃるとか。加えてその企業、なにやら各地の御社残留企業やリブロフ、ナジュ周辺の特定企業に対して既にトレードを仕掛けているそうですなぁ。これでは、ご自慢のリーグからも資金は出せませんな・・・?」

 そういってまたしても笑い出すラブに対し、バイロンは今度こそ言葉にならない叫びを上げながら殴り掛からんとする。
 しかし呆気なくボディガードに弾かれて尻餅をついたバイロンは、血管をはち切れんばかりに顔中に浮かび上がらせながら、ゆっくりと立ち上がった。
 その瞳には、怒りを通り越した狂気が宿っている。
 思わず、その瞳を見たラブは真顔に戻って口を噤んでしまった。

「お前達のような屑に・・・私の・・・私の崇高な目的など、永遠に理解出来まい。もはやこれで、人類の間違いを正すことは不可能になった。人類は、遠からず自らの愚かさによって滅ぶことになる・・・!」

 力なく横に首を振ってそう言い捨てながら、バイロンは懐から細く小さな笛を取り出した。
 場にそぐわない妙な行動に誰もが首を傾げる中、何故かラブだけはバイロンのその動作に、只ならぬ狂気を感じ取った。

「おい、それを止めさせろ!」

 慌ててラブが言葉を発するが、それを聞いたボディガードの反応は遅い。ボディガードが動き出す前に、バイロンはその笛を力一杯に吹き鳴らした。
 その笛の音は、その場にいる者にはほとんど聞こえない。
 冷や汗をかくラブと、それ以外の面々が変わらず怪訝な顔をしていると、それをみて気が狂れたように笑い出したバイロンは、杖を振り翳しながら叫んだ。

「今のはなぁ、外に控えさせているデーモン種族を呼び起こす笛だ・・・愚かな人間たちには聞こえない。お前達は、全員ここで死ね。私は貴様らの死を見届けてからアビスへと降り、人類が滅ぶ様をも虚しく見届けてやろう・・・!」

 その言葉と同時に、建物の外から俄かに人の叫び声が聞こえてくる。

「ふ、ふははははははは!!私の救済を台無しにした人類に、裁きを・・・!!」

 翳した杖の先端をラブへと向けて、高笑いしながら叫ぶバイロン。
 後退りをしながら逃走の手段を即座に模索するラブ。
 何が起きたのかも分からず慌てるばかりのその他の面々。
 だが、どうしたことだろうか。
 バイロンの宣言に反して、外からは最初に叫び声が一度聞こえたきり、そのあとは荘厳なる破壊のコンチェルトも、愚かなる人類の成す悲痛なアンサンブルも、全く聞こえてこない。
 部屋の外からは何やら微かな騒めきだけが、控えめに届いてくるのみであった。

「・・・・・・ぁぁ?」

 求めてやまない悲鳴と惨劇が一向に訪れないことに対し、なんとも気の抜けた声を上げながらバイロンは周囲を見渡す。
 するとそんな彼に応えるかのように、開け放たれたままの扉から何かが、徐に部屋に飛び込んできた。
 その場の視線の全てが、一斉にそれに注がれる。
 飛び込んできたものは、無惨に切り落とされた大型デーモン種族の、未だ血の滴る頭部だった。

「ひ、ひぃぃ!!?」

 最も扉の間近にいたバイロンが、悍ましい表情で絶命しているデーモン種の頭に驚いて再び尻餅をつく。
 するとその後に、扉から部屋の中へと何者かが足を踏み入れてきた。
 その手には先に投げ込まれたものと同じく、恐らくは一瞬のうちに命を奪われ驚愕の表情を残すしかなかったであろう、二体目のデーモン種の頭部。
 それを手に現れた人物は、色素の薄い肌の色をした細身の女だった。
 女は身につけている衣服こそバンガード市民と殆ど変わらぬのだが、彼女の足元を覆うグリーブから発せられる微風に揺れる美しい銀髪が、明らかにこの地方の民ではないということを示している。
 その佇まいには一分の隙もなく、身体は細身なれど強靭にしてしなやか。武具を手に構えてはいないが、腰には小型の剣帯を下げており、見目美しい装飾の小型剣が納まっている。
 デーモン種の亡骸を持ってそこに現れたのは、グゥエインとの戦闘で破損した装備の代わりに街で買った適当な服を身に纏った、カタリナだった。

「・・・全く、街中でなんてもの呼び出してんのよ」

 呆れたようにそう言ったカタリナは、手にしていたもう一つのデーモン種の頭部も床に放り投げ、それらの召喚者であるバイロンへ冷めた視線を向けた。

「貴方が、バイロン卿ね。私の名は、カタリナ=ラウラン。ロアーヌの騎士よ。縁あってバンガードキャプテン直々の依頼を受け、貴方をアビスリーグなる犯罪集団と結託した罪により、この場にて捕縛します」
「・・・え・・・?」

 カタリナがそう言い終わると、彼女の後ろから出てきた二人の衛兵がバイロンを取り押さえ、その手首に縄をかける。
 だが、そうされている間もバイロンは全くこの事態が飲み込めていない様子で、突如現れたカタリナを呆けたように見つめていた。
 バイロンが従えていた従者は、デーモン種族が擬態していたものだ。その数は二体。人間には戦鬼と呼ばれ恐れられる、殆ど伝説上の存在とも言えるほどの凶悪な悪魔である。
 この戦鬼が二体もいれば、このバンガードやウィルミントンなどの都市をすら壊滅させることは難しくない。一介の都市国家が持つような数百人規模の衛兵隊など、問題なく薙ぎ払える程の力を有した存在なのである。
 これほどの強力な悪魔を従えるものは、アビスリーグに与する者の中でもバイロンをおいて他にはいないだろう。
 それが、目の前に突然現れたロアーヌ騎士を名乗る一人の女に、あっさり斬られたというではないか。
 目の前に転がる首がそれを事実たらしめているが、しかしそんなことを普通の人間が出来るはずなどないということも、バイロンは知っている。
 そこで、漸くバイロンは思い出した。

「ロアーヌ騎士・・・そうか貴様が・・・火術要塞を制圧し、魔海侯フォルネウスと魔龍公ビューネイを退けたという・・・」
「さぁ、どうかしら・・・。衛兵さん、あとは任せるわ」

 そう言いながら衛兵に目配せすると、衛兵は捕縛したバイロンを連れ、足早にその場を後にした。

「ふぅー・・・流石に、肝が冷えたな・・・」

 一連の様子を黙って見届けていたラブは、額の冷や汗を袖で拭いながら深く息をはいた。

「流石、というべきかしら。貴方はこの展開、分かっていたみたいね?」
「・・・まぁな。何しろ一歩間違えていれば、あそこに居たのは俺だったわけだからな」

 カタリナが懐から取り出した手拭いでデーモン種を掴んでいた手を拭きながら話しかけると、ラブはこれまた自嘲気味に笑みを浮かべながらそう応えつつ、すっかり気が抜けたようにどかりとソファに座り直した。

「・・・いや、俺もそこまで馬鹿じゃねぇ。間違えることは、もうない。商いにしろ修羅場にしろ、お前らに刃向かおうなんて気は、もう微塵も起きねぇよ」
「あら、随分と殊勝なことね」
「ふん・・・」

 これ以上お前とお喋りをつもりはない。そう態度で表しながらラブがそっぽを向くと、カタリナは軽く肩を竦めた後、特に何を話すでもなくその場を後にする。
 あとに残されたのは、終始何が起こったのか分からずに怯えていた可哀想な商業ギルド職員と、変わらずラブの後ろに控えるボディーガードたちだけだ。

(・・・刃向かう、か。自分で言っといて馬鹿らしい・・・。忌々しいことこの上ないが・・・俺には、あいつらに刃向って自分のタマがある未来が全く見えねぇ。俺にはアビスの連中なんぞよりも彼奴らの方が、余程恐ろしいものに見えるぜ・・・)

 無意識にラブは、自分の上着の内側に入れている数枚の書簡へと手を伸ばしていた。
 その書簡は、このトレードについてラブへの指示が認められた、ピドナ本社からの指示書であった。
 当然その指示書を書いたのは、副社長であるトーマスである。

(幾重にも張られた伏線と仕掛け。結果がどんなパターンであっても、それら幾重にも張られた糸に操られ、帰結する結果は大枠では同じだ・・・。そして最も恐ろしいのは、その結果へと辿り着くためとなったならば、何ら躊躇なく昨日までの成功を全て切り捨てる決断力・・・。無論、俺が離反をした場合のシナリオもあの男の頭にはあったことだろう・・・。その時、俺は間違いなくあのバイロンと同じ道か、それを上回る悪夢の中に・・・)

 それは想像するだけで、とても恐ろしいことだ。
 ラブはその恐ろしい想像を否定するように小さく首を振り、目を瞑って深呼吸をする。
 ラブがこの場に至るまでに行った具体的な行動は、概ねラブ自身の独断によるものが多かった。
 というのも、どちらかといえばトーマスから送られてきた指示書は、具体的な行動にはあまり触れられていなかったからなのだ。
 こうするように仕向けて欲しい、するとこうなると思うので、次にはああなるように流れを作って欲しい。なお、その手段は基本的に任せる。
 そういった「方向性の指示」が主であったのである。
 しかし、その方向性のチャートが恐ろしいほどに細かい。
 膨大な事前調査データと、それを元にした方向性提示への反応予測。資金の流れや情報の伝達速度を見切った変動予測と、此方からのアクションのタイミング指示。それらを元にした様々な市場関心変化の可能性と、このトレードを取り巻く市場と世論全体をも見据えた展開予測。
 実のところ、それらが記された何通かの指示書を見る間にラブは、トーマスに逆らおうという気など完全に消え失せてしまっていた。

(見ている世界そのものが、完全に俺の理解を超えている。これは・・・ここに書いてあるのは最早、予言みたいなもんだ。一体どこまで視えたなら、この膨大な可能性を掌握してここまでの道筋を描くことが出来るってんだ・・・?)

 彼が今日ここで命拾いをしたのも、何しろトーマスの采配があってのことだった。
 そこに至った手段は、全く分からない。
 全く分からないが、トーマスはウィルミントンで起こったというフルブライト商会本館襲撃事件を殆ど発生と同時に知り得ていて、そこで起こったフルブライト二十三世による新生フルブライト商会設立すらをも読んでおり、このトレードの決着が調印後に覆ることを、一か月前のピドナから「視て」いた。
 早馬で自分が一連の流れを知り得た頃には、状況を既にトーマスから聞いているというロアーヌ騎士を名乗る女が彼の前に現れ、これから起こるかもしれない有事に備えての護衛を担うなどと言われたのである。
 聞けばこの女の名前は、カタリナというではないか。
 カタリナといえば、このカタリナカンパニーの社長の名だ。確かに、その女の顔は以前にメッサーナジャーナルで見た覚えがあった。
 社長を配下の護衛に起用するなんて馬鹿げた采配もそうだが、なにしろここまでの全てを、流通が途絶し陸の孤島と化したピドナから指示しているなど、今この段階になっても全く信じることが出来ない。
 今この場で後を振り返ったら、実は部屋の隅にトーマスが隠れてました、とでもいう方が、余程得心がいくというものだ。

「・・・・・・」

 一応、後ろを振り返ってみる。
 しかし、そこには誰もいる様子はない。

「・・・おい」

 視線を前に戻して気を取り直したラブは、未だ呆けているギルド職員へと声をかけた。

「は、はい?」
「トレード相手が指定金額を振り込まなかった場合はどうなるんだ」
「あ・・・はい、えっと・・・。・・・ルールブックのトレード決着について書かれた第十七条二項で、何らかの事情によりトレード決着金の納付を行えない状況が確定した場合は、これを白紙撤回の上、商会ギルド調査の上で・・・」

 職員が手元にルールブックを取り出して中身を確認しながら読み出すと、その途中でラブは煩わしそうに手を振った。

「後のことは、今はどうでもいい。つまり今回のトレードは、ノーゲームでいいんだな?」
「は・・・はい、そうなります。カタリナカンパニー様は不履行を受けた側になりますので、後日当ギルドを通じて先方からの違約金を受け取る権利が・・・」

 しかしラブは職員の言葉を最後まで聞く気もなく、さっさと立ち上がると扉へ向けて歩き出した。

「後のことは、ピドナ本社とやりとりしてくれ。どうせ流通断絶すらも、間も無く終わりに向かうんだろうからな。俺はもう、お役御免だ」

 ラブは不機嫌そうにそう言いながら立ち止まって、懐からシガーを取り出す。すかさずボディーガードがシガーの端をカットし、もう一人が朱鳥術を組み込ませた魔術具で火を起こした。
 シガーを火に当て、何度か吸って煙が立つと、ラブは勢いよく煙を口内に含み、鼻から吐き出す。

(・・・俺だって、このまま終わる訳にはいかねぇ。トーマスどころか、あのキャンディの小娘にまで舐められたままじゃ、絶対に終われねぇ。とっととヤーマスに戻って、仕事に取り掛からなきゃな・・・。裏稼業になくとも、このドフォーレこそが最も優れた商会だってことを証明してやる・・・そして売上でアイツらの鼻っ柱をへし折ってやるさ・・・)

 既に、新たなビジネスプランはある。そこでの早期垂直立ち上げを脳裏にありありと描きながら、ラブは葉巻を咥えながら足早にバンガードの商業ギルド会館を後にした。

 

 

「ゲヒ・・・ギャヒ・・・ッ!!」

 鈍色の一閃が、寸分違わず人型に擬態した悪魔の頭蓋を貫く。
 小さく断末魔の悲鳴をあげた悪魔は、シャールが放った槍の一撃で呆気なく絶命した。
 その間に同じくミューズとトーマスが、それぞれ術と槍で周囲にいた小型の魔精を屠る。

「・・・よし、討ち漏らしはなさそうだ」

 シャールが周囲を警戒しながらも魔物の気配を感じないことを伝えると、トーマスも同じく周囲にそれらしい気配がないことを確認して折りたたみ式の槍を畳んだ。

 彼らが踏み込んだのは、ピドナ旧市街の片隅にある、ほとんど倒壊間近のような有様の簡素な荒屋だった。その荒屋の外には、申し訳程度に誂えられた木製の看板に「魔王殿観光組合事務所」と書かれている。

「蓋を開けてみればありきたり・・・とも感じますが。しかし企業としての活動実態があまりに無さすぎて、盲点でしたね。灯台下暗し、の助言がなければ、発見が致命的に遅れていたかも知れません」

 そう呟きながらトーマスは、魔物の血飛沫で汚れた卓上の書面を手に取った。そこには、全く利益が出ていない様子の見窄らしい数字が並んだ、空白の目立つ決算表が記してある。

「企業としてのオーラムの動きを見る限りでは、ナジュ地方あたりに本部を置いているものと想定されていましたが・・・リーグの指示役は、ここだったのですね」

 トーマスに倣ってミューズも近くの棚の中身を検分しながら、誰に当てるでもなく呟いた。

「魔物が商売に携わっているどころか、世界規模の同盟まで結成しているとは・・・。この事例以後も、再発を防ぐべく警戒せねばならんな」

 シャールは二人に物品の探索を任せて荒屋の中を警戒するようにしながら、奥の部屋へと慎重に歩を進める。

「・・・トーマス殿、ミューズ様、こちらへ」

 そして奥の部屋に進んだシャールから声をかけられ、二人は一瞬顔を見合わせてからシャールの元へと向かう。
 ちょうど荒屋の奥まった部屋の入り口に立っていたシャールは、近づいてきた二人の気配を察すると体ごと避けるようにして、自らの目線の先にあったものを二人にも見せた。
 元は物置の用途かと思われる狭いその小部屋は、殆どものが置かれておらず、ただ部屋の中央には青白く鳴動する紋様が描かれた不気味な円形の物体が、悍ましい瘴気を微かに漂わせながら鎮座していた。

「これは一体、なんなのでしょう・・・」

 明らかに異様な空気を察してか、ミューズはシャールの後ろに控えたままでそう呟く。
 その判断は賢明だと思いながら、しかしトーマスは歩を進めてシャールよりも先、鳴動する円形の物体に近づいた。

「トーマス殿、あまり近づいては」
「いえ・・・大丈夫です。これは恐らく、魔王殿の深部へと移動するための魔導器です」

 トーマス自身の身に覚えがあるわけではないが、彼にはこれが何なのか、なんとなく分かっていた。自分の中にいつの間にか紛れ込んでいる何者かの記憶が、この台座型の魔導器の正体を教えてくれるのだ。
 だが、辛うじて分かるのは移動用魔導器、という部分までだった。
 これが魔王殿のどこに繋がっていて、それは往復可能なものなのか、片道なのか。人が利用しても大丈夫なものなのか、そうではないのか。
 それら詳細に関するような情報は、掠れた記憶からは判別することは不可能だった。

「・・・これは、ここで壊しましょう。新たに魔物がここから現れても厄介です」

 そう言いながらトーマスが再び槍を取り出そうとすると、それを左手で制したシャールは銀の手に構えた槍を狭い通路で器用に振り上げ、上半身のバネを使って紋章の台座に鋭く突き立てた。
 ガシャリ…と慣れない類の手応えがあり、その後すぐに台座から鳴動は失われ、魔導器はどうやらその機能を永遠に失ったようだ。

「・・・これで、終わったのか?」

 破壊した台座から槍を引き抜きつつ、シャールはどうにも釈然としない様子で、小さくそう呟いた。

「そうですね、これでアビスリーグについては、一先ず元凶を絶ったかと思います。残党と思しき企業もリブロフとナジュに絞られましたので、あとはキャンディとポールが仕留めるでしょう」

 だが、しかし。
 そんな言葉を口にする寸前で飲み込むように少し俯き、トーマスは物言わぬ台座へと視線を落とした。

(・・・このアビスリーグは、魔物が人間に対して、同じ文化レベルでの謀略が可能であるということの証明に他ならない。いや・・・これほどの大規模な行動に移すまでフルブライト二十三世様しか気が付けなかった時点で、もはや人を超える策謀を巡らせることが出来るようになっていると言っていい。そして、恐らくこれを仕掛けたのは・・・)

 ふっと顔を上げたトーマスは、まるで壁の向こうを見るように視線を中空に投げる。
 この粗末な荒屋の先には、スラム化した旧市街の住人ですら好んで立ち入りはしない。なぜならその先には、未だ立ち消えぬ瘴気を漂わせた暗黒時代の遺物、魔王殿が佇んでいるからだ。
 今にも崩れ落ちそうな壁の向こうにあるであろう魔王殿へ視線を向けながら、トーマスは己の中にある妙な確信について、密かに戦慄を覚えていた。

(仕掛けたのは恐らく・・・四魔貴族、魔戦士公アラケスで間違いない。俺の記憶に紛れ込んだ何者かの記憶が、そう告げている・・・)

 現代に生きる人類が知ることのできる四魔貴族に纏わる逸話は、主には聖王記の中に記された聖王による討伐譚と、その前時代について書かれた魔王伝記なる章などに、簡潔な記載があるのみだ。
 そこに記されるアラケスの討伐譚では、聖王三傑たるパウルスの手引きにより魔王殿へと進軍した聖王によって討ち取られた、としか描かれていない。
 また魔戦士公という爵位名からか、後世に生まれた様々な創作物でも、非常に好戦的な存在として描かる事が多いのがアラケス公の常だ。
 しかし、実際の魔戦士公は、そんな単純な存在ではない。

(・・・むしろ他の魔貴族のように天空、海中、密林などの進軍不可能な立地ではなく、唯一進軍が安易な魔王殿に居を構えながら、聖王を最後まで苦しめた存在だ・・・。その事実が指し示すところはつまり、武は元より、そこに知略をも兼ね備えた恐ろしい将であるということ・・・)

 経済界において特段に大きな事変となった、ドフォーレ商会の台頭やアビスリーグの暗躍。これらがそもそも魔戦士公の仕掛けた罠の一つであろうと、今になってトーマスは確信していた。
 奇しくも、聖王記の順をなぞるかのようにして四魔貴族をアビスへと追い返すことに成功しているカタリナらであるが、どうにもトーマスには、この最後の四魔貴族が圧倒的に不気味な存在に思えてならなかった。

(正直、他の魔貴族とは相対する上で難易度が桁違いにも感じる・・・。魔物に加え人をすら動かしてマネーゲームを展開するほど人界に精通し、更にはアビスの魔物を自在に動かすことのできる圧倒的な暴力を兼ね備えた存在・・・。いくらカタリナ様といえど、力一本で押し通せる存在であるとはどうしても思えない・・・)

「・・・トーマス様?」

 壁を見つめたまますっかり押し黙ってしまったトーマスを心配するように、ミューズが傍からトーマスを覗き込む。

「あぁ・・・失礼、なんでもありません。目ぼしい書面を回収して引き上げましょう。この後も、やることは山積みです」

 ミューズの声で物思いから現実に引き戻されたトーマスは気を取り直し、その場から踵を返して書類の散乱した部屋へと戻っていった。

 

 

 終わってみれば、それはまるでお祭り騒ぎのような出来事であった。
 ドフォーレ商会の時を遥かに上回る規模の経済戦争の裏で、一時はメッサーナ王国の存亡すらが揺れ動いていたというのに。
 それがいざ終わってみたら、まるで一夜の熱狂がすっかり醒めてしまったかのように、各方面では静かに粛々と後片付けが行われているのだ。
 正しくそれは非日常の熱に浮かされたお祭り騒ぎそのもので、今はその翌朝に訪れる一抹の虚しさそのもののように、トーマスには感じられた。

(・・・今回は辛うじて切り抜けたか・・・)

 連日の後処理に奔走する中、どうにも眠りが浅く目覚めてしまったトーマスは、一人早朝のピドナ市街地を港の方へ向けて歩きながら物思いに耽る。
 既にアビスリーグを中心とした騒動の終焉から、あっという間に一ヶ月が経とうとしていた。
 その間にカタリナカンパニーの支援を受けて再建の道を歩み出したアルフォンソ海運とメッサーナキャラバンは、取り急ぎ同業他社から船舶や馬車の買い付けを行い、あっという間にピドナの流通は回復。既にピドナ港は、以前と変わりの無い様相を取り戻し始めている。
 メッサーナ王宮からの緊急出庫の継続もあり、銀行機能も危機を脱出。ピドナ内部での経済混乱自体も収束へと向かっている。
 それに伴い各国の動向もピドナ流通断絶以前の状態に表向きは戻り、世界は本当に、まるで何事もなかったかのように振る舞っているのである。
 アビスの魔物が裏で糸を引いていることにすら気が付かず、秘密裏にアビスリーグと取引を行っていた形跡がある各国の要人たち。彼らを今回どうにかすることは、出来ないだろう。
 彼らのように権力ばかり持つ短慮な存在は確かに今後も世界に対するリスクではあるが、恐らくそれは今後ルートヴィッヒ軍団長らが対処をしていく事柄であり、自分たちがこれ以上の関わりを持つことは現時点ではないだろうとトーマスは考えていた。

(・・・ナジュとリブロフ方面でも、アビスリーグの要所を落とす目的でポールとキャンディが上手くトレードを仕切ってくれた。結果として当社の利益は今期も伸長したしな・・・)

 ここは結局相手も本丸でなかったためか想定以上に順調に進み、現地のアビスリーグを根絶すると同時にリブロフ、ナジュ方面にカンパニーの基盤を作ることに成功した。
 これでカタリナカンパニーは、現在描かれている地図上の全地域へと商圏を広げたことになる。これは経済界でも、フルブライト商会に次いで歴史上二社目となる偉業だ。

(そしてそのフルブライト商会は、フルブライト二十三世様を真なる盟主とした新生フルブライト商会へと生まれ変わり、まるで何事もなかったかのように世界一を維持している)

 かねてよりフルブライト二十三世は、父である二十二世からの完全な脱却と実権継承を目論んでいた。それは、出会った頃より分かっていたことだ。
 そのために彼は表向きの無気力を演じ、放蕩外遊と称して世界各地を精力的に回り、水面下で強かに準備を進めていたのである。
 彼の中ではもっと完璧に準備が終わってから事を起こしたかったという展望はあったのだろうが、それを押してこのタイミングで奮起を選択してくれたことは、今回の事態収拾に向けて大いに助かったというもの。
 彼の英断を、心から称えたい。

(準備不足など微塵も感じさせないほど、鮮やかな旧母体の取り込みだった。既に新会社の登記社名もフルブライト商会に戻してしまったというのだから、世間的にはフルブライト商会の中で何が起こったのかさえ、全く分かっていない者が殆どだろうな・・・。そしてバイロンという右腕を失った二十二世様には残念ながら、再起の道はないだろう。勘付いた者がいても、これではもう何ができるわけでもないのは確実だ・・・)

 当然フルブライト二十三世とて、あの極限状況を利用するつもりで勝負に出たのだろう。
 確かにあそこでバイロンごと仕留めるのは、彼の覇道を成すためには良い機会であった。此方が助かったと同時に、彼方も助かったというわけだ。
 正しく、有意義なトレードが出来たと言えるだろう。

「・・・本当に元通りだな」

 気がつけば、港に辿り着いていた。
 既に船舶周辺では人々が忙しなく荷下ろしと搬入に追われており、一ヶ月前の閑散とした港など本当になかったかのようだ。
 トーマスはその様子をみて思わず呟き、次には人混みを避けるようにして大型港湾地区とは反対の小型船用港へと歩み出し、そこで丁度良さそうな小さな埠頭を見かけると、その桟橋の先端まで行ってから徐に、その場に腰を下ろした。

「・・・・・・」

 なに故かトーマスの中には、上手く表現のできない不安が渦巻いていた。
 それは、旧市街であの転送用魔導器を見た時から一ヶ月の間、ずっと彼の中に渦巻いているのだ。

「・・・何かお悩みですか?」

 誰もいない事を確認してから腰掛けたはずの埠頭桟橋であったが、トーマスの背後から、不意にそんな声がかかった。

「・・・何だか貴方が来るのではないかと、少し期待していましたよ」

 トーマスはその声に振り向かず、しかし誰なのか分かっているように答える。

「ふふ・・・お見通しでしたか。カタリナさんは毎回、とても驚いてくれるのですがね」

 そう言いながら桟橋の先端に座るトーマスの横まで歩み寄ってきたのは、朝の閑散とした港にはとても不釣り合いな鮮やかな衣装を見に纏った人物。
 聖王記詠みを自称する詩人だった。

「今回の件、貴方の言葉には大いに助けていただきました。ありがとうございます」
「いえいえ、私は特にはなにも。事態を解決へと導いたのは、間違いなく貴方の手腕によるところでしょう」
「私の手腕・・・ですか」

 詩人の言葉に、トーマスは思わず苦笑する。苦笑というよりもはや、それは自嘲に近いのかもしれない。
 何しろ、彼は今回の件について、まるで自分の力が及ぶような出来事ではなかったなと、いま改めて感じているからだった。

「貴方は、一体何者なのですか?」

 思わず口をついて、そう尋ねる。
 トーマスがこうして詩人と会うのは、もう四度目になるか。
 最初は、ピドナの老舗パブ、ヴィンサントだ。あれは確か、ユリアンとモニカのために開いたささやかな祝宴の席だった。
 次に会ったのは海上要塞と化したバンガードにて、カタリナへロアーヌの危機を知らせに向かった時。そして前回は、このピドナが大いなる混乱に陥る直前だったと記憶している。
 こうして会うのは確かに四度目ではあるが、しかしこの人物が一体何者であり、なにを目的としているのか。それは今の彼にすら、全く掴めるところではないのだ。
 彼はそれを、恐らくとても驚異的な事なのだろうと感じている。

「以前にもここで、カタリナさんに同じ事を問われましたねぇ」

 実に呑気な様子の声色で、詩人はそう言いながら自分の顎を撫でた。
 どうやら、真面に答える気はないようだ。
 トーマスがそう判断して答えを待つでもなく海面へ視線を投げかけていると、詩人はくるりと反転し、海原へ背を向けた。

「まぁそれはまた、いずれ。とはいえ・・・貴方はその時が来る前に、気づくかもしれませんね。何しろ貴方は、どうやら最も色濃く稀代の策謀家の記憶を引き出しているようですからね」

 詩人はそうとだけ言うと、ゆっくりと歩き出した。
 トーマスは肩越しに横目で詩人の後ろ姿を見るが、そこに映るのはやはり、単に派手な衣服と特徴的なとんがり帽子を身につけただけの人物だ。

「あぁ、そうです。現れたからには一応、何かタメになりそうな助言をしておきましょうかね。希少な私の役どころですし」

 そう言って立ち止まった詩人は、トーマスと同じように肩越しで彼を見返しながら、ゆったりとした様子で微笑みながら口を開いた。

「もし今後、皆さんに鍵が必要になったなら。それは、きっとポドールイにあります」
「鍵・・・?」

 ここまでと全く脈絡のないその言葉に、トーマスは思わず上体ごと捻って詩人へと視線を向ける。
 だがそれに対して詩人は帽子を目深に被り直して会釈してみせただけで、再び市街地へと向けて歩き出してしまった。
 トーマスはその後ろ姿をしばし見つめていたが、しかし後を追ったところで仕方がないのだろうなと思い直し、ゆるやかに揺蕩う水面へと向き直った。
 詩人の言葉の意味は、もちろん気に掛かる。
 鍵とは一体、なにを指しているのか。
 ポドールイといえばあのヴァンパイアであるレオニード伯爵の領地だが、鍵と彼とは何か関係があるものなのだろうか。

「・・・まぁいいか」

 そう呟き、トーマスは後頭部に回した手を組み、ごろんと埠頭の桟橋に寝転がった。
 今は、あまり何かを考える気分になれない。
 ただ相変わらず彼の中にある得体の知れない不安と、それをどうにかしようとする彼の中の彼ではない部分との鬩ぎ合いがあって、それをずっと観客席から本当の自分が鑑賞しているような気分だ。
 それを腹の中に抱えながらこの一ヶ月間、いやもっと前から、トーマスは動き続けていた。
 彼は分かっているのだ。
 自分が、元々そこまで強い人間ではないという事を。
 今回の事態にここまで冷静に対処できたのは、本来の自分を超えた八つの光としての授かり物のおかげだ。
 誰よりも素早く情報の収集と伝達が世界中にできたのも、フェアリーの持つ念話能力とそれを中継することができる聖王遺物という強大なオーパーツがあって、初めて成立したものだ。
 それもこれも全部、トーマスが持っていたものではない。
 そういう過ぎた力をトーマスという名の凡人が無理矢理扱っているのだから、そろそろ無理が祟ってくるのではないかな、なんて。
 本当はそんな展開を、少し期待すらしている。

「ユリアン・・・エレン・・・」

 不意に、今は離れている同郷の仲間を想う。
 物事全てに直向きな男友達と、妹想いの男まさりな女友達。彼らと始めたシノンの自警団での日々が、今はとても懐かしい。
 そしてピドナにきてから今に至るまでの怒涛の日々を思い返し、自分の中の不安はなんなのかという部分について、少し認めたくない程度にはすんなりと、自分の中で腑に落ちたのだった。

「サラ・・・」

 ピドナに於いてはよく気の利く秘書であり、同郷の仲間としては活動的な他二人の陰に隠れながらも、その実は芯のしっかりした考えを持つ利発的な妹分。
 そんなサラが彼の元を離れたのも、もう半年以上前の話になる。ピドナに来てからも一緒だった彼女とここまで離れているのは、今までになかった事だ。
 気がつけばひょっこり帰ってくるんじゃないかなんて、今も常に頭のどこかで期待している自分がいる。

「・・・そうだ。俺は弱いし、一人では何ができるわけでもない。それが分かっていれば、まだ大丈夫だ・・・」

 先ほどまでの朝焼けからすっかり青く染め上がった空へ、小さくそう呟く。
 彼の言葉は海風に吹かれ、まるでトーマスの儚い願望もろとも打ち消してしまうかのように、霧散していく。
 そのまま海風と波の音に体を預けながら目を瞑ると、トーマスは束の間の浅い眠りに落ちていった。

 

 

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第九章・5 -敗北-

 

 全世界が注目する、歴史上類を見ない巨額レートで争われたトレード。
 その記念すべき会場となったバンガード商業ギルド会館の一室にて今まさに、その史上最大トレード終了の調印が成されようとしていた。
 この歴史的なトレードは、通常の開催期間とほぼ変わらず凡そ一ヶ月間の中で行われた。
 期間中で両社の間に積み上がったオーラム総額は、なんとここ十年の過去トレード累計額を全て合わせても全く及ばぬほどで、まさしく未踏の領域であった。
 そんなトレードが終結する様子を、至極満足そうな表情でソファに腰掛けながら見下ろしていたバイロンは、その脳裏でゆっくりと、ここまでのことについてを思い返していた。

 バイロンが真なる目的に向けて動き出したここ十数年の中でも、この数ヶ月間は正に正念場。実に、激動の日々であった。
 ただ、それは当然に予想されていた事でもある。
 一年ほど前にピドナ旧市街で起こった、『予兆』。
 全世界へと向けて発せられたあの知らせこそが、世界を取り巻く激動の時代の訪れを告げるものであったのは、明らかだった。
 それに伴い、彼はいつどこで何が起きても良いように急遽の様々な仕込みを行ってきた。そしてその結実が、今まさに目の前で成されようとしているのだ。
 着地としては十分に満足のいくものになったわけだが、しかしここまでの道は決して平坦ではなかった。
 その中でも特段、彼の中で大きく想定外であると判断した出来事が、三つだ。
 まず一つ目は、カタリナカンパニーという無名の新興会社がフルブライト商会にトレードを挑むという、まさに理解不能の暴挙に出たこと。
 激動の時代だからこそというべきか、これは最も大きな想定外であり、そして同時に好都合な想定外でもあった。
 何しろ、アビスリーグという力を利用してフルブライト商会掌握を企てている彼にとって、これは己の『品格』を高める儀式として絶大な利用価値があると考えられたからだ。
 バイロンという男は、ウィルミントンきっての紳士であり、公私共に品位を重んじる。特に商売事に関しては、彼としても確固たる矜持があるのだ。
 例えばドフォーレ商会のような、野蛮で品位の欠片もない、下賎な商い。
 あのような所業は、全く彼の好むところではない。それでいて同じアビスリーグの同志などと、冗談だとしても耐え難い思いだ。
 同じく大規模商会として名の上がるラザイエフ商会も、駄目だ。あそこはドフォーレほど品性下劣ではないが、残念なことにあそこの一族経営者層は類稀なる才覚を持つ者を欠き、その商いの様子からは全く矜持の類が感じられない。このまま無能な一族経営が続けば、自ら手を下さずとも自ずと衰退していくのは、火を見るより明らかだろう。
 そんな彼が最も好ましく思っていたのは、今は亡きクラウディウス商会であった。
 家系や土地柄のためか些か政治力に頼った運営ではあったものの、その商いの仕方には確かな品格があった。ルートヴィッヒ政変により当主が命を落としたことは個人的には非常に残念ではあったが、いずれは排除すべき存在であったことから、心の中で静かに手向けたものだ。
 このような趣向を持つバイロンという男が、世界一の商会であるフルブライト商会を手中に納める。
 この偉業を成し遂げるにあたり、そこには絶対に譲れない条件があった。
 それは即ち、世界中の誰もが彼を世界一の商会の真なる主として歓迎する形での台頭、である。
 聖王の時代から続く、商会の伝統に則った早期の世代交代。それにより一見表舞台に出ることのなくなった旧知の先代会長と、片や実務能力皆無の当代会長。
 その間にいて実質的な商会の実務担当筆頭である彼は、既に経営者としての実力という意味ならば、フルブライト商会を掌握するには申し分ないであろう。
 それは、商業ギルドに属する者であれば誰しもが口にせずとも理解していることであった。
 だが、それだけでは全く駄目なのだ。
 名実共に世界一であり、伝説の聖王の系譜にも連なる、由緒正しい唯一無二の歴史を歩む商会。
 斯様に品格高きフルブライト商会であるからこそ、その当主の名を一族以外の者が引き継ぐには、世界が諸手を挙げて受け入れるような大義名分。即ち、相応の格というものが必要なのである。
 それをバイロンという男が世界に対して示すのに、この誰もが注目する史上最大規模のトレードを越える舞台は、恐らくない。
 そう彼は考えたのであった。

 次に想定外であったのは、そのカタリナカンパニーとのトレードの場に現れた、ラブ=ドフォーレという男の存在だ。
 ラブの父であるモンテロ=ドフォーレが魔物の擬態となっていることは、アビスリーグによる情報網でバイロンも把握していた。故に、単なる商売敵という以上の関心で、彼はドフォーレ商会の動向を十数年注視してきたのである。
 そして昨年、モンテロに扮した魔獣が討たれたと聞いた時、これでドフォーレ商会は完全に終わったなと考えていたのだ。
 しかしてその息子がまさか父の狂気を受け継ぎ、よもやカタリナカンパニーの中に潜伏していようとは。
 これは、彼にとっても全く想定外であった。
 そして当然ながらこれも、彼にとっては実に歓迎するべき想定外だと言えるだろう。
 ラブがカタリナカンパニーの内部で情報を操作し此方と連携することで、トレードの勝敗が更に確固たるものとなるのは間違いないからだ。
 無論、元よりバイロンはラブなどという外的要因を利用せずとも、カタリナカンパニーとのトレードに勝つ算段を確りと確保していた。
 なにしろ彼は商会資産以外に、アビスリーグが保有する莫大な資金を秘密裏に同盟支援金として利用できるのである。
 その保有総額は実に、フルブライト商会総資産の倍額に迫る程にもなる。
 今回カタリナカンパニーが打って出た、ヤーマス塩鉱を担保にする、というこれまでに例をみない集金手法。その着眼点には確かにえらく関心したものだが、それでも此方の資金量を上回ることは不可能だろう。
 ドフォーレ商会とのトレード直後で自社資金の不足に陥っているカタリナカンパニーが、流通孤立状態である今のピドナ王宮と組んで出せるであろう額。
 これは精々が二十億オーラムあたりまでであろう、とバイロンは踏んでいた。対して同盟資金と自社資産を合わせればその倍額まで確保できる彼には、その時点で一分の隙もなかったのである。
 だが、トレードとは単なる物量戦ではない。
 トレード開始前やその期間内に様々な駆け引きが存在しており、それによって着地をどう定めていくかを様々な要素を元に導き出す、芸術品にも近い唯一性のある工程を踏むのである。
 時には一筋縄では行かず、物量ではなく時代の風によって結果が変わるといったようなトレードも、彼は何度も見てきた。
 故に今回の要素の中に入ってきたラブ=ドフォーレという存在は、彼にとっても一世一代であるこのトレードを更に確固たる勝利に導くために時代が齎した要素であると捉えた。
 精々彼も上手く扱い、このトレードの先を理想の展開へ導くべく、事を運ぶだけだ。

 そして最後の想定外は、フルブライト商会の当代会長であるフルブライト二十三世である。
 これは三つの想定外の中で唯一、歓迎すべきではない想定外であるといえた。
 名ばかりの会長風情が、身の程を弁えずに商会内で何やら嗅ぎ回っている様子である、ということ。これは比較的早い段階で、彼の耳にも届いていた。
 そこで彼はフルブライト二十三世を、この機に抹殺することを段取りに加えて実行に移したのである。
 だが驚くべきことに、フルブライト二十三世はそれに抗い生き残った。
 思い描いた通りの着地にならぬこと。それは実に、歓迎すべきでない想定外である。
 とはいえバイロンは、その程度で取り乱すような肝の小さな男ではない。紳士は、無様に喚くことなどあってはならないのだ。
 初手は確実性に欠けるものの騒ぎになり難い手段として、暗殺者による襲撃を採用した。
 そして次には、多少の騒ぎや事後処理が面倒ではあるものの、そのぶん確実性の高い魔物を用いた襲撃を行なった。
 この二つの襲撃を、なんとあのフルブライト二十三世は乗り切ったというのである。
 バイロンの知る甘ったれの小生意気な「ブライトJr」からは考えられない、まさに奇跡としか言いようがない展開だ。魔物をけしかけてウィルミントンからバンガードに戻る最中、襲撃の失敗を聞いた時は、流石に我が耳を疑ったというものだ。
 雇われの暗殺者はともかく、騎士団でもなければ相手にもならない強力な魔獣らを如何にして退けたのか。それは、相応に興味が湧くところではあった。
 まさかとは思うが、ここ最近で噂に聞く四魔貴族討伐の英雄と言われる何処ぞの騎士にでも、たまたま助けてもらったのだろうか。
 この点、仔細に関する興味は尽きない。
 だが、それすらもバイロンは予定外の楽しみとして受け入れようと思えた。
 商売とは、ゆめゆめ想定通りには運ばないものだ。それをこれまでの経験によって深く理解しているからこそ、この状況変化をも加味しながら、バイロンは新たにシナリオを描くだけなのだ。
 何事も、全て筋書き通りでは面白くもない。
 だからこそバイロンはフルブライト二十三世の処遇を今回は急がず、先ずはこのトレードを確実に美しく終えるつもりでいた。
 例え生き延びたフルブライト二十三世がどのように足掻いたとしても、今更このトレードの大勢を崩すことなど出来はしない。そして此方がウィルミントンの街を盾にしていると思い込ませている以上、向こうは迂闊に手を出すことも出来ないのだ。
 陰に隠れて何をこそこそとしていたのか、その理由までは知るところではないが、この程度のシナリオ変更ならば大きな支障はない。

 斯様に想定外の要素がいくつかあったものの、あとはどのようにこのトレードの終結を大々的に世界に喧伝するか、である。
 それこそ、フルブライト二十三世のように各国を外遊し、改めて各地の商業ギルドを通じその存在感を直に知らしめるのも悪くない。
 あとは近々、改めてフルブライト親子に舞台から退場してもらえば、自ずと世界の方から新たな当主を求めるだろう。
 その時こそ、彼が最も輝く時なのでなる。
 脳内でそれらの構想を練っている間にも、バイロンの目の前でトレード終結の調印の準備が、間も無く終了するところであった。

「・・・そ、それでは双方合意の元、フルブライト商会による買収阻止の成立にて本トレードの終結をここに宣言し、双方の調印後は速やかに提示資金を商業ギルド経由で共通口座に納付・・・後にフルブライト商会主導にて権利譲渡取引を行なってください。よろしいですね・・・?」

 立会人となるギルド会館職員の強張った様子の宣言に、バイロンは何の問題もないという様子で頷き、テーブルの向かいにいるラブ=ドフォーレがそれに追随する形で同じく頷いた。
 立会人は今まで見たことがないだろうと思われる擬似オーラム貨幣の山を前に緊張しているのだろうが、反面バイロンとしては少々物足りない結果に終わったな、とも感じていた。
 彼らの目の前に積み上がっている擬似オーラムは、総計で大凡二十五億オーラム分ほど。
 無論、これまでの歴史上でも最も多くのオーラムが積み上げられたトレードであることには、何の疑いの余地もない。
 昨年にあったカタリナカンパニーとドフォーレ商会のトレードでは、これまた歴史上類を見ない額面として合計五億オーラム程が積み上がったと聞き及んでいるが、今回その五倍ともなれば、記録としては当然だろう。
 しかし、元から相手の倍額までを想定していたバイロンからすれば、少々物足りない額で終わったな、というのが正直な感想でもあった。
 今回の提示額面はフルブライト商会が十四億オーラム、カタリナカンパニーが十一億オーラムとなっている。
 ラブが元々このトレードに挑む際の初期裁量として本社から落とされていた額面は、十億オーラムだった。これは、おもてなしを受けた夜に本人から直接、聞き及んでいたことだ。
 つまり着地としてはそこから追加で一億を乗せた格好ではあるが、恐らくそこからもっと積もうと思えば本社に掛け合って積むことはできたのであろう。
 だがラブとしては、最早「そこまで接戦を演じる義理もない」というところなのだろう。
 彼はこの『茶番』をとっとと終わらせ、この後アビスリーグから秘密裏に受ける予定の融資でドフォーレ商会を独立復活させたいのだ。
 実際このトレードの後半二週間ほどは、その殆どがトレード後の話し合いに終始した。これらの内容を先んじて突き詰めたのは用心深いラブが望んだ事だが、その中でラブが想像以上に実務能力に長け、またきめ細やかな論旨進行を行う人物であると発見できたのは、今後の利用想定を固める上では僥倖というものであろう。
 そしてその調整も終わった今となっては、ラブとしては一刻も早く計画を実現させたいことだろう。となるとこのトレードをこれ以上長引かせるなど、一切望まない事であった。
 バイロンとしてはもう少し競り合いによる盛り上がりがあってもいいかとは思っていたが、とはいえこの時点でも歴史上類を見ない最高額トレードであることに変わりはない。ここは、彼の早る気持ちを優先してやっていいだろうと考えた。
 今後バイロンが率いるフルブライト商会としても、ドフォーレという存在がいることは何かと都合が良いことが多い。なので、ドフォーレ復活が早いに越したこともないのは確かだ。

「そ・・・それではここに、これにて本トレード商談の終了を宣言いたします。双方、速やかに拠出資産の納付手続きをお願いいたします」

 立会人であるギルド会館職員の宣言に則り、バイロンとラブの双方はゆっくりと立ち上がってお互いに視線を僅かに交わらせ、積み上げられた擬似オーラム金貨越しに形ばかりの握手を交わしたのであった。

 

 

 全世界が注目した史上最大のトレードは、挑戦者であるカタリナカンパニーではなく、受け手であるフルブライト商会の勝利によって決着した。
 このニュースがそれこそ瞬く間に、世界中にあらゆる手段で伝播していくのに、左程も時間はかからなかった。
 むしろこのトレードの結果をいち早く知るためだけに、各国の特使がバンガードに連日詰めかけていた程である。特使らは幾人もが入れ替わり立ち替わりとなって、段階的な情勢進捗を逐一母国へ連絡し続けていた。
 故に商業ギルドが正式な結果発表を行う頃には既に、各国には大勢が決したことは情報として持ち帰られていたのである。
 ここまで各国が欲しがる今回のトレード勝敗の結果が意味するものは当然ながら、単なる企業同士の勝ち負け、などということではない。
 確かに経済界の今後を占うトレードとしても、今回の勝負は十二分に注目に値する催事ではあっただろう。
 だが今回の結果の真なる価値とは、このトレードの裏に公然と隠されていた『流通孤立によるピドナ弱体化の真偽』である。
 史上三度目となる大災害・死蝕の発生から十七年が過ぎ、アビスの魔物が日夜じりじりと勢力を拡大させていく途上。
 人類の行く末には陰鬱なる暗雲が立ち込めんとしたその最中、ロアーヌ軍による四魔貴族ビューネイの撃退という、人類にとって非常に喜ばしい知らせで幕を開けた本年。
 しかしながら、そこから急転直下で起こったのがピドナ経済危機だった。
 その結果としてアルフォンソ海運とメッサーナキャラバンが経営破綻を起こし、この二大陸海運の破綻により、ピドナを介して世界を繋いでいた流通大動脈は、実に呆気なく断たれてしまった。
 これにより俄然、打倒ルートヴィッヒに色めきたったメッサーナ王国の各都市軍団長を中心に、世界中の主要都市国家のほぼ全てが、メッサーナ王国首都ピドナへの武力侵攻を考えたのである。
 なにしろこの数年間、世界はずっと指を咥えながら見てきたのだ。
 血生臭い政変の結果ピドナを手中にし、その圧倒的な地の利を最大限に活用した狡猾な政策によってルートヴィッヒが世界に振り翳してきた、絶大なる権勢を。
 それは誰しもが羨むほどに圧倒的、かつ魅惑的なものであった。
 そのピドナが今、大いに弱っているのだとしたら。
 なればこの機を活かしルートヴィッヒに代わって偉大なる栄華を欲さぬ権力者など、逆にどれほど居るというのだろうか。
 加えて言うなら、ピドナが経済危機と流通孤立により世界中心都市としての機能を果たせていないという状況は、支配者たるルートヴィッヒの大いなる失態に他ならない。それを救済するという大義名分が通るこの状況ならば、かつてのルートヴィッヒのように私欲に塗れた侵略者の謗りを世論から受けることもないだろう。
 あまりにも状況が、揃っているのであった。
 とはいえ、それでも。
 これだけの条件が揃っていてもなお各国は、如何せん動くに動けないでいた。
 何しろ相手取るのは、あの狡猾なるルートヴィッヒである。
 これら状況の全て、若しくは何れかが「彼の仕掛けたブラフ」である可能性が、どうしても否定出来ないのだ。
 それでなくとも昨年からこの年始にかけての一年ほどで、ピドナでは実に目紛しい情勢の変化があった。
 ピドナ旧市街で突如として起こった、膨大なアビス瘴気の暴走。
 一部では『予兆』とも呼ばれるこの現象の発生を皮切りに、次には近年ピドナで隆盛を誇っていた神王教団支部の壊滅による政権への少なくないダメージ。そして年の後半にはヤーマスの悪徳商会として名高かったドフォーレ商会の成敗によって世間に存在感を示した、前近衞軍団長クレメンス=クラウディウスの娘、ミューズ=クラウディア=クラウディウスの世論台頭。
 そして年末のコングレスにて全世界に向け示された、ルートヴィッヒとミューズの共存体制確立という急転直下の展開。
 これら怒涛の情勢変動により、各国権力者は非常に注意深く興味深く、メッサーナの中心都市へと熱視線を注いでいた。
 そんな中で起きたのが、今回の一連の騒動である。
 ピドナのメインバンクまでが機能停止に追い込まれるほどの経済危機、世界最大の陸海運の破綻による流通断絶と続いて、仕舞いにはなんと、絶対的窮地にあるはずのピドナに本店を置くカタリナカンパニーによる、世界最大企業フルブライト商会へのトレード開始宣言ときた。
 カタリナカンパニーは公言こそされていないが、近衞軍団と最も深く繋がる企業であるとの噂が、昨年末のコングレス以降は絶えなかった。
 そんな企業による過去に類を見ない超大型トレード勃発となれば、当然その背後には近衞軍団がついているであろうと見るのは、少しも可笑しな話ではない。
 この危機的状況の最中に斯様なトレードを行う余裕など、果たして今のピドナにはあるのかどうか。
 これは、経済危機を隠すためのブラフなのか。
 それとも、ブラフだと思わせて挙兵したところを制圧するために張った、狡猾なる罠なのか。
 仮にこれが二重ブラフだとしたら、踊らされた国は只では済まないだろう。
 それどころか、その国の蛮行を理由に世論を味方につけ、更なる流通規制強化へとルートヴィッヒが舵を切る未来までもが、安易に予測がつく。
 だがしかし、単なる危機を隠すためのブラフならば、今こそがピドナを手中に収める千載一遇の機会に他ならないのである。
 その真偽の見極めのためにこそ、このトレードは嘗てないほどに世界の注目を集めたのである。

「・・・だが、そんなことはどうでも良い」

 バイロンはホテルバンガード最上階客室の窓際に立ち、眼下に広がるバンガードの街並みと、その向こうに広がる広大な外海へと向けて小さく呟いた。
 その言葉の通り、彼にとってはそんな凡人たちの事情などは本当にどうでも良いことであった。
 勿論この計略をあの状況から打ち立て実行に移したルートヴィッヒの機転と才覚、そして胆力たるや、流石という他ないとは彼も感じ入っている。
 実際は、単なる時間稼ぎが目的であったとしても。それでもこの計略は、用意周到な準備の上で世界経済の崩壊と人間同士の分断を目的としたアビスリーグ最大の悲願の結実を、チェックメイト寸前から一ヶ月以上も遅らせてみせたのだ。
 これは正に驚嘆、そして賞賛に値する見事な手腕であろう。
 アビスリーグはこの計画のために世界各国の要人に対し、世間に溶け込んだフロント企業を通じて数年もの間、極秘に接触してきた。
 世界中のリーグ拠点と連動して着実に情報を統制操作し、それらを各国要人に都合よくリークしながら、人類世界の中心に位置するメッサーナ王国首都ピドナを機能停止に追い込むその時を、密かに待ち続けていたのだ。
 仮に自分もリーグと同じくそれを悲願としていたのならば、今回のルートヴィッヒには大いに「してやられた」と感じた事だろう。
 しかし繰り返すが、彼にとってはそのようなアビスリーグの悲願もルートヴィッヒの機転も、両者の思惑の中で一喜一憂する凡愚共のことも、全てどうでもよい事だ。
 このトレードの結果により、各国が我先にとピドナへ侵攻し、間も無くアビスリーグ本体の悲願は成就するのだろう。
 そして団結を失った人類は、救世の英雄再誕を自ら否定するのだ。
 かつて聖王がアビスに勝利した背後にあったような人類の結束は、即時には不可能となる。
 人類はその後、間も無くアビスに敗れ、再び四魔貴族による恐怖支配の時代が訪れることになる。

「・・・これで、人類は正しい道を歩むことができる」

 バイロンはこれから起こるであろうことは、破壊と創造である、と捉えていた。
 今の人類の進んでいる道は、生物として全く正しくない。
 無価値な『血筋』や『家柄』などというものに大いなる価値があると信じ込み、個の持ちうる可能性を捨ててしまった。
 才ある者がその才を活かせず朽ち、無価値なものを信じて才能を蔑ろにしてきた凡愚が我が物顔で世界に蔓延っている。そんな人類の先にあるのは、生物としての衰退に他ならない。
 それを止めるには、一度今の世界を、間違いごと壊すしかないのである。そして真に力あるものが始まりの荒野に立ち、全てをやり直す。
 バイロンは、それを望んでいた。
 しかし彼自身には、剣を振るう力はない。
 だから嘗ての聖王のように四魔貴族を打ち倒すのは、彼の役目ではないのだ。それは、次なる宿命の子の役割となるのだろう。
 バイロンは、聖王の後に人類が進むべき道筋を築いたフルブライト十二世や、聖王三傑にも数えられた初代メッサーナ国王パウルスの役を担うつもりでいた。
 彼が最も敬愛する歴史上の人物こそ、聖王三傑にして初代メッサーナ王国の主、建国王パウルスだ。血を捨てきれなかったフルブライトと違い、パウルスはメッサーナの王位継承に養子制度を採用したという点で、非常に素晴らしい。
 これは当時どころか今の時代であっても実に画期的で、人類が正しい道を歩むために必要な決断の第一歩だとバイロンは今も信じて疑わない。
 そして、経済こそが人類の持ちうる力の中で最も素晴らしい力であるのも事実だ。フルブライトは我が子可愛さからか血筋を尊重してしまった点こそ愚かであるが、それでも世界一の力を手にしているということは非常に評価ができる。聖王の伝説に連なるという品格も、申し分ない。
 だからこそ、その力をバイロンが手にし、四魔貴族によって現在の間違った世界が壊され、それを十数年の後に当代の宿命の子が追い払った、まさにその時。
 その時にこそ、人類が正しく歩める道筋を、このバイロンが示す。

「そう、これは人類の救済だ。私にしか成しえぬ、救済。私こそが正しい道を築くための、人類の道標に相応しい」

 不意に、笑みが漏れそうになる。
 バイロンはあくまで上品に口元に手を当て、深く呼吸をして気を落ち着けようとした。
 まだだ、まだ笑う時ではない。
 彼が高らかに笑い祝杯を上げるのは、首都ピドナが陥落したその時であると、以前から決めているのだ。
 大いなる破壊と創造の序曲開演の時にこそ、人類のために祝杯を上げるべきなのだ。
 それまでは、素知らぬ顔でフルブライト商会のことだけを考える振りをしていればいい。
 こうして笑みを堪えるのに痛く苦労するのも、あと数週間程度の辛抱なのだ。

 

 

「組織における属人化や権力の集中というのは、なんとも厄介なものなんだな・・・」

 ピドナ商業地区にある邸宅のテラスで日光浴がてら一人紅茶を啜りつつ、トーマスはティーソーサーの柄に目を落としながら、小さくそう呟いた。
 未曾有の流通断絶という極限状況にあってか、普段ならばビジネスマンの往来が絶えないはずのピドナ商業地区メイン通りも、今は実に静かなものだった。
 この静けさを「不気味」と見ることも出来るのだろうが、トーマスはこの静謐さが何やらシノンの穏やかなさまを思い起こさせるようで、むしろ好ましいとさえ感じていた。
 そんな時には、自分は矢張り生粋の田舎育ちなのだなぁ等と思い、薄らと顔に笑みが浮かぶ。

「まぁ・・・お陰で遂に眠れる獅子が動いたということなら、結果オーライか。いやむしろ想定より良くなった・・・かな?」

 どうしてこうも、計画とは想定通りに行かぬものなのだろう。
 そんなことを思いながら、一方では手元に置かれた二つの書簡に書かれていた報告の内容を、脳内で繰り返し分析し続ける。
 この時点で各方面の最適化に向けた準備は完了しているが、それでも情報と状況は常に動き続けるものだ。目まぐるしく変わる状況を常に加味し、その瞬間瞬間で、最も効果的な一手を打ち続ける。
 なにしろ今この瞬間こそが、一手間違えてしまえば全てが崩壊するかもしれないほどの、とても刺激的な局面なのだから。
 ただその中にあって、トーマスは自分でも拍子抜けするほどに冷静だった。
 自分にはこれほどの胆力があっただろうか、などと、トーマスは素っ頓狂なことを考えてみる。だがそれにはすぐに答えがでる。そこまでの胆力は、間違いなく無かった。
 自分の一手が、世界最大国家の命運を分けてしまうかもしれない。そんな超極限の状況に在って、たかだか一介の開拓村の豪農の跡取りに過ぎない自分が相対し、こうも平然としていられるわけなどないのだ。
 今持っている知識や戦略は、確かにその大凡が自己研鑽の中で身につけてきたことだ。それを元にこの一年ほどは試行錯誤を繰り返して経験を積み、より成長してきた。それは確かに、自分の大いなる糧となっている。
 だが今の自分の精神状態は、明らかにそんな程度の経験値で獲得できるようなものではない。
 どう見ても、生まれてからこれまでの経験を以てして自分が相対するには、この案件は荷が勝ちすぎている。到底、冷静な判断や分析が出来るとは思えない。
 だが、トーマスには断言できる。今の自分は、至極冷静そのものだ。そしてその理由も、おおよそ見当がついている。
 彼はこれくらいの危機的で刺激的な状況を、どうやら『知っている』ようなのだ。この空気に、懐かしさすら感じるほどなのである。
 その感覚を頼りに思い起こすと、脳裏に薄らと過ぎるのは、生と死の狭間で繰り返され続ける極限状態の軍議の風景。
 数多に渡り歩く戦は常に、勝つか死ぬかの二者択一。そしてその繰り返しの先には人類の勝敗という究極の分かれ道。己の選択がそれを決定づける。そのような極限の空気の中で生き続けたような、そんな記憶が薄らと思い起こされる。

(恐らくこれは、聖王十二将の記憶なんだろうな。俺もそうだが、ユリアンやモニカ様たちも急激な身体能力の向上や覚えのない戦闘技術の発現を体験したという。これの契機は完全に、ピドナでカタリナ様と再度の合流を果たしたあの時だ。夢の中で聖王様と思しき方が俺たちに語りかけたあの時に、恐らく聖王十二将の力の片鱗が『八つの光』と目される者たちに継承された。中身はてっきり戦闘技術だけかと思っていたけれど、こんなふうに記憶も薄らと継承されているとは。道理で、一国が滅ぶか否かって程度では動じなくなってしまったはずだ。しかし、記憶の継承なんてしたら人格すら変わってしまうんじゃないか・・・? 俺はどうやらまだ許容範囲内で済んでいるみたいだけど、みんなは大丈夫なのかな・・・。適正とか考えられているのだろうか・・・?)

「トーマス様」

 一人物思いに耽っているところに、彼を呼ぶ声がかかる。呼びかけに応えるようにトーマスが背後に視線を投げかけると、そこにはこのハンス邸に仕える執事が立っていた。
 彼は長らくメッサーナベント家に仕える執事で、この国でトーマスが最も信用を置く人間の一人だ。流石に現在のような状況でもその物腰は大層落ち着いた様子で、これこそ年の功がなせる姿勢というものだろう。

「御用命の調査結果が届きました」
「そうか、ありがとう」

 執事から手渡されたのは、簡素な封を施された新たな書簡。
 素早くその封を解き文面へと視線を走らせると、見る見るうちにトーマスの瞳は細まっていった。

「灯台下暗し・・・か。なるほど、矢張りあの詩人殿の言葉は、金言だったな。全く、彼は一体何者なのか・・・いや、今はそれを考える時じゃ無いな」

 ティーカップに残っていた紅茶をぐっと飲み干し、トーマスは三通の書簡を手に取って立ち上がった。

「さて、仕上げだ・・・爺、みんなを会議室に呼んでくれ」
「畏まりました」

 椅子の背に掛けていた外套を羽織り直したトーマスは、少しずり落ちていた眼鏡を鼻根の定位置に人差し指で戻しながら、足早にテラスを後にした。

 

 

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第九章・3 -お・も・て・な・し-

 

「・・・しかしこれはまた、実に煌びやかな宴席ですな」

 そこは果たしてこの世か、はたまた楽園か。
 老紳士は、見たこともないような火を使わぬ照明器具で華やかに装飾された宴会場と、その中央舞台の上で楽人もなく流れる音楽に合わせて踊る金髪の女性を眺めながら、豪奢な料理が盛られたテーブルの向かいに腰掛けるラブ=ドフォーレへと声をかけた。

「いえいえ、本来ならばバンガード全てを貸し切ってでもおもてなしを差し上げたかったところですよ、バイロン卿」

 ラブはそう答えながら、優雅にヴィンテージワインが注がれたグラスを傾けた。
 今宵の主賓であるこの老紳士は、フルブライト商会要職であると同時に商業都市国家ウィルミントンの執政議会議員を代々務める名家、バイロン家の当主だ。
 その名はウィルミントンで最も名のあるホテルに冠せられているほどで、フルブライト商会においても数代に渡り並々ならぬ功績を共に築き上げてきた家柄でもある。
 このバイロン卿を筆頭に、この日は総勢百名にも迫ろうかというほどのフルブライト商会関係者をこの会場に招いており、各々が最高級の料理と酒、そして数々の趣向を凝らした催しに興じている。
 トレードの際によく用いられるお持て成しの規模としては、間違いなく史上最大だと言えるだろう。

「あの舞台上で踊っておられるのは・・・ひょっとして、かの有名なプロフェッサーですかな?」
「流石はバイロン卿、博識でいらっしゃる。あのツヴァイク公をパトロンとして射止めたというダンスだそうで、私も初めて拝見しましたが、確かにこれは一見の価値がありますな」

 教授がダンスを踊る舞台周辺には、確かに会場にいる大半の来賓が集まっており、大変な盛り上がりを見せていた。
 それは例えば場末の酒場で見られるような、聞き慣れたフィドルやギターに合わせて舞う踊り子のそれとは、全く様相の異なったものであった。
 楽人など周辺に一人も見当たらないというのに、何処からともなく流れ出てくる複数の楽器が奏でる音楽に合わせ、時に激しく、時にムーディーに変調していく演奏に併せて一心不乱に踊り上げている。
 更に、色彩豊かに変化しながら予め敷かれた導線上を動き回る照明演出が場を盛り上げ、そのステージを、嘗てない至上のエンターテイメントへと昇華させているのだ。
 これら音響器具や照明等も教授の自前機材であるらしく、確かにその未知なる演出はこれまで見たことがないようなもの故に、ステージ周辺は異様なほどの盛り上がりを見せていた。

「この後もこの会場では様々な催しを準備しておりますが・・・実はバイロン卿には、このバンガードでしか体験できない特別な席をご用意させていただいてましてな。よろしければ今から、其方へご案内さしあげても?」
「ほう・・・それは楽しみですな」

 そう答えるバイロンに対しラブは上機嫌な様子でグラスの中身を飲み干し、ゆっくりと席から立ち上がった。

「折角ですから、そこで少し面白いお話でもさせていただきましょう。ただ、席の装飾が非常に繊細な場所でしてな。ご同伴は最小限に留めていただけると有り難いのですが」
「・・・では、私と執事のみで向かいましょう。よろしいかな?」
「ええ、もちろんですとも」

 ラブの言葉から何かの意図を察したのか、バイロンは自らの顎髭を撫でつけながら応じつつ立ち上がった。
 そのまま二人と連れの執事は盛り上がりを見せる会場を後にし、すぐ目の前の中央広場へと向かう。
 そこには大きな噴水と巨大なイルカ像が鎮座しており、すぐ近くには護衛が立つ小さな入口があった。

「・・・聖王記に記された伝説の通りに目覚めしバンガードは、この表向きの市街地ではなく、その内部こそが伝説の本懐。今宵、その最も素晴らしい眺望へと、卿をご案内しましょう」

 入口を守る護衛がラブの姿を見てゆっくりと扉を開けると、ラブは仰々しい口上を述べながら、バイロンを中へと招いた。

 

 

 ハンス邸での会議から、二週間ほどが経過していた。
 船や荷馬車の往来が殆ど無くなっていることで、以前からすれば不気味なほどに静かな日中が過ぎ、そして太陽が遠く静海の向こうへ、ゆっくり落ちていった後のピドナ市街。
 このような状況の中、それでも日々の労働を終えた市民たちで中央通りは、にわかに賑やかさを増していく。
 特に、中央通りの中でも集客の良い一等地に店舗を構える老舗パブ、ヴィン・サントには、今日も多くの市民が日中の疲れや不安を癒しに立ち寄っては、思い思いに杯を傾けていた。
 ピドナ全体が未曾有の流通危機に晒されていても、人は一時の憩いを求めてしまうものなのだろうか。

「・・・今頃、バンガードじゃ宴会とかしてる頃かなぁ。なーんかさ、こうしてトレードの結果を待つだけってのも、けっこー落ち着かないよね」

 そんな喧騒に紛れて、テーブルの一箇所に集まった、風変わりな四人の面々。
 その中でも一際奇抜な服装で且つ幼い少女・キャンディは、テーブルの上で頬杖をつきながら、言葉の通り落ち着かなげにそう言った。

「・・・まぁな。しかもその大役の実行者が、あのラブ=ドフォーレだってんだからよ・・・。まったくベントの旦那は肝が据わってるっつーかなんつーか・・・」

 キャンディの正面に座るポールはいつものように肩を竦めながらそう応えると、目の前のビアジョッキを手に取って豪快に傾ける。
 その隣で二人の会話に耳を傾けつつ、紫煙を燻らせながらウィスキーの杯を傾けていたノーラは、テーブルの上に視線を向けた。
 目の前の小さなテーブル上に並べられているのは、バンラスの悪そうな木製の皿にこれでもかというほど盛られた蒸かし芋と、塩漬け肉、鱈の塩漬け、そして芋に振りかける用の塩が少量入った、小皿。

「しっかし・・・塩、ねぇ。前に確かキャンディも言っていたけどさ、こいつが本当にそんなに大きな金を動かすものになるんだねぇ・・・」
「ま、塩がなけりゃなんもかんもすぐ腐っちまって、海に長期間出ることなんてできなかったしな。船乗りにとっちゃ、確かに死活問題だな」

 塩漬けの鱈を一切れ摘み上げて口に放り込みながら、ブラックがノーラに続く。
 それにはポールも、うんうんと頷いてみせた。

「あぁ。それこそ俺の生まれのキドラントなんざ、作物は殆ど育たない土地だからな・・・こんな感じに塩漬けした肉と鱈がなきゃ、あそこじゃ冬すら越せない。正に命の源なんだよな、塩ってのは」

 集まった四者は思い思いにそんなことを言いながら、目の前のつまみと杯を交互に口に運ぶ。

 二週間ほど前にハンス邸でトーマスから明かされた、このピドナ未曾有の危機における、起死回生の為の一手。
 それこそが、カタリナカンパニーからフルブライト商会へのトレード攻勢という、正に前代未聞の超難事だった。
 これを実行に移すにあたり、前年のドフォーレとの対決で殆どの自社資金を放出してしまったカタリナカンパニーが持ち出す、この史上最大規模トレードへの、資金源。
 果たしてこれについてトーマスが提示したものこそ、正に今この食卓に並んでいる『塩』であった。
 より正確を記すならば、ドフォーレ商会所有物件の一つで、現在は一連の騒動により閉鎖しているヤーマス塩鉱から取れる岩塩の『優先取引契約権』というものである。
 全世界の食糧保存事情等に欠かすことのできない『塩』を供給するにあたり、その大規模な生産地というものは実際のところ、この世界では非常に数が少ない。
 この三百年の歴史を顧みても、独自に安定した塩の確保調達手段を保持しているのは、世界を見渡してもツヴァイクとナジュ地方くらいのもので、それ以外は海棲魔物の襲撃と隣り合わせとなり危険度が高い沿岸の塩田事業が主である。
 そんな中、死蝕直後の海運事業拡大を発端とした急成長の末にドフォーレが採掘に成功したのが、件のヤーマス塩鉱であった。
 ドフォーレはここで採れた岩塩を精製し、それを麻薬と少しずつ混ぜながら流通させることで人類を蝕んでいくという大悪行のため、利益度外視で世界中に自社製の塩を供給拡大させていった。
 加えて、元より魔物襲撃の危険性を孕んでいた世界各所の沿岸塩田を、ドフォーレは裏で魔物と組んで集中的に襲撃までしていたのだ。
 それを示す証言も、神王教団ピドナ支部の残党から取れている。
 このように塩に関わる価格操作がこの十年内で秘密裏に行われていた実態が複数判明しており、その影響により塩の供給状態や価格は近年で大きく変動していたのであった。
 ここまでが、世間に未だ秘匿されている、一連のドフォーレ買収劇の裏に潜む真相である。
 だが、仮に、だ。
 仮にドフォーレがそんな悪事を考えず、真っ当に適正価格としてこの塩鉱から出る塩を扱っていたとしたら。
 もしそうしていたならば、それこそ冗談ではなく『一国が建つ』程の、途方もない財を生み出したことであろう。
 この世界における塩鉱とはそれほどまでの、正に金脈にも等しい代物であるのだ。
 事実、現在ヤーマス塩鉱からの供給が途絶えているこの数ヶ月で、世界中の塩の価格は既に倍以上に高騰している。
 その状態にあって安定供給が見込める塩鉱となれば、正にどの商会や国も、喉から手が出るほど欲しいことであろう。

「ヤーマス塩鉱は、現在判明している塩鉱規模としては恐らく世界最大級だからな。ドフォーレはそれを別の目的で使っていたが、本来ならばもっと莫大な利益を生み出せる代物だ。本来ならカンパニーの主力産業として慎重に扱うべきだろうが・・・」
「それを、まさか代理戦争の餌に仕立てちゃうとはねー。ほんとおっそろしいよね、トーマスさんは」

 ポールの言葉にキャンディが果汁で薄めた白ワインの杯を傾けつつ返すと、それには一同が何の疑いの余地もない様子で深く頷いた。
 この塩鉱取引権をオーラム代わりにトレードのテーブルに乗せることで、フルブライトへ対抗して見せよう、というのがトーマスの狙いなのである。
 だが、これを効果的に利用するには、カタリナカンパニーとフルブライトという二社の対立だけでは、残念ながら成り立たない。
 もう一つの要素が、必要だ。
 ここでトーマスが打診をしたのは、誰あろう、世界最大国家メッサーナ王国にて実権を握る、ルートヴィッヒ軍団長その人であった。
 この時トーマスは既にルートヴィッヒへ内々で取引を持ちかけており、仮にメッサーナがこれの優先取引契約権を買った場合の仮提示額面として『十億オーラム』を一時的な条件として引き出していたのである。

「しかもこの取引の恐ろしいのは、塩鉱が麻薬工場と一緒くたになって混ぜ物を世界に流出させていたっつー証拠を、俺たちだけが握っている・・・ってところよ。こいつは、ルートヴィッヒ政権にとって最も表に出てほしくない情報だ。その証拠がこっちにある以上、まだまだ提示額は引き上げにいくことが可能だろうよ」

 腕を組み、周囲を気にしてかテーブルに乗り出すようにしてポールが小声で言うと、反対に気にした様子もなくガタンと音を立てて同じく身を乗り出したキャンディが、うんうんとそれに応えた。

「そこだよね! もし取引権を他の誰かが抑えちゃったら、そこらへんが漏れて世界に全バレする危険性があるもん。そしたらドフォーレを止められなかった今のメッサーナ王宮を、いよいよ誰も信用しなくなっちゃう。そうなんない為にどんだけお金積んでも止めにくるってのは、分かりきってるハナシだよね」
「だーばかたれ!声抑えろっつの・・・。だがまぁ、その通りだな。つまり今回のこのトレードは、カタリナカンパニーとフルブライト商会のトレードっつーより、疑似的なメッサーナとフルブライトのトレードだ。まさかドフォーレ退治の土産をここで使うとは、全く旦那には毎度、度肝を抜かれるよ・・・」

 ポールとキャンディが興奮を抑えられずはしゃぐように盛り上がる様子を尻目に、ノーラとブラックはそれぞれに呆れたような苦笑いをしながら酒の入った杯を傾ける。だが、彼らのいうことは確かな事実なのだ。
 つまり今回トーマスが言い出したこのトレード案は決して無謀な挑戦などではなく、しっかりとした根拠やこれまでの下準備を基にした、勝機を見据えた行動ということなのである。
 それ自体には、トーマスの説明を受けた誰もが彼の手腕に驚嘆し、この勝負への確かな希望を見出したのだ。
 しかし。
 それでも今ここに至り未だ腕を組んでどこか憮然とした表情のノーラは、咥え煙草で呟いた。

「しかしさ。そんな奥の手まで使った世紀の一大トレードだよ? それを、よりにもよってあのドフォーレに任せるってのはね・・・。あたしには、やっぱりちょっとその狙いまではわかんないけどね」

 ノーラの疑問は、最もであろう。そして、そこにブラックが口の端から煙を吐き出しながら同調した。

「まぁそいつには同感だな。それこそトレードの実行役は、発案した副社長様やポール、なんならこのキャンディ嬢ちゃんでもいい。もっと人選のしようがあったんじゃねーか?」

 根元近くまで灰になった吸い殻を椅子の下に落として踏みつけると、途切らせる様子もなく続けて新しい煙草に火を点けながらブラックは続けた。

「俺が言うのもなんだがな。悪人てのは・・・どこまで行っても悪人だ。俺は直接ラブ=ドフォーレってやつを見たことはねぇし、洗脳されてただかなんだかも知らねぇけどよ。どうであれ長く裏家業に浸かってきた奴が、そう簡単にお利口な常識ってやつに従うなんざ・・・思わねぇ方がいいぜ?」

 彼のその言葉には、その場の他の誰にも持たせることのできない、ある種の凄みのようなものが宿っている。

「まぁなんつーか・・・毒には毒を、みたいな感覚だとは思うけどな・・・」

 ブラックの言葉に、どこかいつもと違って歯切れの悪い様子で答えたポールは、フォークに刺した塩漬け肉を口の中に放り込み、エールで一気に流し込んだ。

 

 すっかり陽が落ち、いつにも増して辺りを通る人影が殆どない、ピドナの商業区通り。
 賑やかさを保つ中央通りとは対照的に辺りの大半を暗闇が覆う中で、煌々と明かりが灯るハンス邸の奥まった箇所にある一室。ここにも、四人が集まり杯を交わしている。

「・・・確かに、人選がドフォーレというのは、私も些か気になるところではある。フルブライトとの対決の可能性まで見えていたならば、正直あのままキャンディさんがヤーマスからウィルミントンに向かう方が良かったのではないだろうか?」

 ロビンが陶器製の杯を傾けながら、正面で同じく脚付きのグラスでワインを傾けていたトーマスに向かい、真っ直ぐな瞳で問いかける。

「・・・キャンディやポールには此方でやって欲しいことがある、とのことだったが。それにしても他に選択肢がなかったものか、と思ってしまうのは・・・私も同感だな」

 トーマスがその言葉にどう返答しようかと考えを巡らせていると、控えめな様子でシャールもロビンの言葉に同意するように口を開いた。
 ちなみにこの場でシャールが飲んでいるのは、水だ。別に彼は酒が飲めない訳でも弱い訳でもないが、水が飲めるならば水がいい、というタイプの人間である。スラム街では清潔な水自体がなかなか飲めない、というのも理由にはあるかもしれないが。
 そんな二人の様子とトーマスの表情を交互に見ながら、ミューズは暖かい紅茶にブランデーを数滴垂らしたものを静かに口に運んでいる。

「・・・そうですね。今後の流れに関することなので、この面子ならば、他言無用ということでご説明しましょう。ドフォーレに任せた理由は、勿論いくつかあります」

 トーマスはテーブルに並べられたカットチーズを雑に口に放り込みながら、語り始めた。
 まず、キャンディやポールにトレードを任せなかった理由。
 これは、トレードの後に控える行動に関してどうしても彼らが必要である、というのが最大の理由だ。
 このトレードに思惑通り勝利することができたとして、そのあとはリブロフやナジュあたりの地域にアビスリーグの大凡の拠点が絞られる。そこを速やかに叩くには、どうしてもトレードの知識を備えた人員を派遣する必要があるのだ。
 カタリナカンパニーの中で言えば、現状でそれを担えるのはトーマス、キャンディ、ポールの三人くらいのものなのである。
 とはいえ流石にトーマスがここから動くわけにはいかないので、後の二人に手分けしてそれを実行してもらう、というのが彼の頭の中にある絵だ。
 なにしろフルブライトとのトレード終了からアビスリーグ補足までの猶予期間は、非常に僅かな期間であるだろうと、トーマスは踏んでいる。
 今回のトレードに勝利すれば、確かに此度の大勢は決するだろう。
 だが、ここまで事前に何も此方に悟らせずにピドナの孤立まで事を運んでみせた程の用意周到な集団が、そう簡単に尻尾を掴ませるとは、彼には考えられないでいた。
 大勢が決してから、アビスリーグが地下に潜るまでの、僅かな隙。
 ここを突いて彼らを炙り出し、ここで徹底的に叩き、壊滅させる。それが出来なければ、彼らは再び水面下で次なる企みを進める事であろう。
 何より、ここで逃してしまった後で彼らが次に手を打つとしたら、先ずは今回の解決に動いた面々を個々に暗殺等で動く可能性が非常に高くなる。
 それを阻止するには、ここで必ず仕留めなければならないのだ。
 そのためには速度が最重要で、本来ならばもっと人員がいくらでも欲しいほどである。
 ここに、サラがいてくれたなら。何度もそんなことをトーマスは頭の中で考えたものだが、しかし無い物ねだりをしても仕方がない。

「なるほど・・・ここで仕留めるには、そうするしかなかったということか。それは、理解できる。悪は根絶をしない限り、再び悪巧みをするものだからね」

 ロビンは感心したように小さく何度も頷き、腕を組みながら感想を述べる。

「キャンディとポールがそこに必要なのは分かったが、ではこのトレードの実行者にドフォーレを人選した理由はなんなのだろうか。それもやはりトレードの知識云々という点だけで、そこに人格的な選択要素はなかった、ということに・・・?」
「・・・いえ。ご指摘の通り、当然その不安要素はあります」

 続けて述べられたシャールの鋭い指摘に、トーマスは隠す様子もなく少し困ったような顔で笑いながら応えた。

「ラブ氏は、トレードに関する知識や技術的な能力は元より、今回の相手であるフルブライト商会に関する様々な情報やコネクションも備えており、この局面での配役としては最適解であると言えます。いくら此方の資金的な手札が強力であるとはいえ、それを扱う人物が素人では話になりません。此度のトレードに勝算を見出すという点では彼しか選択肢がなかった・・・というのは、正直なところです」

 そこまで言ってワイングラスの中身をトーマスが飲み干すと、すかさずロビンがやたらと手慣れた仕草でボトルからトーマスのグラスへとワインをサーブする。
 トーマスは恐縮しながらそれを見届けて礼を言い、再度グラスを手に取ってから続けた。

「そして、シャールさんやロビンさんが仰る懸念点も、当然理解しています。例えば今の彼に、ある程度の裁量を持たせた場合。その時彼は、一体どう考え、どう行動するだろうか・・・。それが、今回の采配の鍵になります」

 ラブ氏の父であるモンテロ=ドフォーレが魔物に乗っ取られる前の情報は、何もない。
 そうなると彼の人となりというものは、魔物に操られていた以降で判断するしかないのだ。これについてトーマスは、キャンディがヤーマスに滞在している間、定期的に彼の人となりについて、彼女に観察してもらった結果を手紙で受け取っていた。
 それによればラブ=ドフォーレという人物は、実に「みたまんま」である、というのがキャンディの見解であった。
 でっぷりと脂の乗った身体のあちこちに散りばめた悪趣味なほどに輝く装飾品、己の欲望に非常に忠実で終始傲慢な態度、財力や権力を盾にした人の見下し方。
 それらは魔物に操られていた時となんら変わらぬ・・・つまり、紛う事なき彼自身の性分である、と。

「・・・不安しか抱かない情報だな・・・」

 シャールがそう言うと、それにはミューズとロビンも頷いた。
 トーマスが続ける。
 キャンディが観察してきた短い期間の中でも、彼の行動基準というものが、なんとなく見えてきたのだという。
 彼は先に述べた通りの性分ではあるものの、しかし仕事は驚くほどよく行うのだ。
 現地ではキャンディが監査役を兼ねて活動していたが、その下で動くラブという人物は、実に勤勉に働いていたのである。その働きぶりは、全く他の追随を許さぬほど圧倒的なものであった。
 というより、他が働けていなさすぎる、ということにキャンディは早々に気がついた。
 それは個々の能力云々というより、仕事そのものに慣れてすらいない、といった様相なのだ。
 つまりは驚くべきことに、彼以外に商会経営というものについて尺たる知識を持つものは、ドフォーレ商会の中には一人もいなかったのである。
 それらの状況について不思議に思ったキャンディがラブに尋ねたところ、彼は臆面もなく、こう言ってのけたのだという。

『市長も含めて、この町はグズ共の集まりだ。そして俺は、グズ共のやるグズグズした作業を見ているのが一番イラつくんだよ。だから俺がやっているんだ。この町は俺がいなけりゃ、今だに小さな漁村止まりだったろうさ。それこそ、バンガードのマッキントッシュあたりに食い物にされてただろうな』

 これは、彼の行動基準を表す非常に有用な言葉であろうと、トーマスは感じた。
 彼は、間違いなく優秀だ。いくら魔物に操られていたからといって、彼にそもそも能力がなければ、ドフォーレ商会はこの短期間でここまで大きく成長などしなかった。
 だが一方で、彼は指導者としての性格に向くとは言えない。自分の右腕になるような人物を一切用意していないことが、その確固たる証左だ。しかも、彼はそれでよし、とするきらいがある。
 つまり、彼の中には自分の理想とする水準があり、それに到達するための自己努力を惜しまないという性質が垣間見える。
 強い自己顕示欲。それを事実たらしめる実績と行動力。自らに及ばぬものを見下し、歯牙にも掛けない選民思想。それらで形作られているのが、ラブ=ドフォーレという人物だ。

「私がそこから導き出した道筋は、彼が望む水準の舞台を用意すること、です。彼が踊るに値する舞台を用意すれば、彼は演者として必ずそこに立つ。私が彼にそれを示すことができるかどうかが、今回彼を采配する上での鍵というわけです。私の器が知れてしまえば、彼は此方の意図せぬ動きをするでしょう」
「それはなんとも・・・我々には想像すら難しい話だな」

 トーマスの言葉を聞きながら、シャールはすっかり眉を顰めつつ唸った。
 彼の覚えているラブとは、最初で最後、ヤーマスでの一連の騒ぎの最後の瞬間だ。それはそれは大層な情けない姿で、キャンディの前で尻餅をついている小悪党丸出しの男、というだけであった。
 それについてつい口を滑らせると、ミューズは酒が効いてきたのか少し上機嫌な様子で相槌を打った。

「だからこそ、トーマス様の狙いに沿うのかもしれませんよ、シャール。物事が自分の想定の上をいく場合には、人としての弱さをちゃんと露呈する。それは、統べる上で活用すべき、有用な特徴です」

 流石は超名門の家系といったところか。帝王学を納めたミューズのその指摘は、非常に説得力があるものであった。
 シャールは、それにこくりと頷く。

「なるほど、確かにミューズ様の仰る通りかもしれません。しかしいずれにせよ・・・私たちに今できるのは、待つことだけですね」

 

 

「強い自己顕示欲。それに見合う実力。そして、それを裏付ける実力主義と排他思想。しかし・・・君にとってはそのどれもが、真実の姿ではない。この席で改めて、そう感じ入るよ」

 地上の宴とは打って変わり、静寂に満たされた、海の中。
 その中にあって、うっすらと青白い光に満たされ、分厚い硝子の壁の向こうから仄暗い海の中を泳ぐ魚たちが、しきりに中の様子を伺うように周辺を遊泳している。
 移動要塞バンガードの海中艦橋に特別に用意された、この世でただ一箇所と言っていいであろう景色を堪能できる、至高の宴席。
 その席について実に満足そうな表情を浮かべたバイロンは、テーブルの向かいに座るラブに向かい、なんでもない様子でそう言った。
 バイロンの言葉を受け、ラブは咥えた葉巻から鼻腔を通じて大量の煙を吐き出し、実に鋭い視線を相手に向けながら口の端を吊り上げる。

「・・・バイロン卿。お察しの通り私はね、こんな下らんトレードなぞに興味はないのです。カタリナカンパニーはヤーマス塩鉱を餌にメッサーナの近衛軍団から資金を巻き上げるつもりだが、それで結果フルブライトに勝ったとしても、私にはなんの関係もない」
「心中、お察ししましょう。此の期に及んで今更メッサーナの犬というのは、些かドフォーレのご子息には不釣り合いだとは感じていたところです。そのお姿には亡き父上もさぞ、お嘆きでしょう」

 バイロンが眉ひとつ動かさずにラブを見返しながらそう言ってのけると、ラブは今度は上機嫌そうに笑い、そして葉巻を蒸した。

「はっはっはっは。流石はバイロン卿、矢張りフルブライトで話すならば貴方様ですな。それでは・・・そろそろ本題に入りましょうか」

 そう言ってラブが左手を軽く上げると、側に控えていた執事が一礼をしながらその場を立ち去っていく。それを見たバイロンもまた、側に控えさせていた執事を艦橋の外へと下がらせた。
 それを横目に見届けたラブは、テーブルの上に両腕を乗り出すように乗せて両の指を組み合わせ、微動だにせぬバイロンへと向かって語りかけた。

「貴方がフルブライトを手中にし、私は再びヤーマスをこの手にする。私は今宵の宴を、そのための門出の宴にしたいと考えているのです」

 ラブが、まるで確認でもするかのように静かにそう語りかける。
 すると、よく動いていた表情筋と違って一度も感情らしきものを示していなかったバイロンの瞳が、ここで微かに色めきたった。

「・・・私がフルブライトを手中に・・・とは、また酔狂なことを。既にフルブライト二十三世様が、社を率いておられますよ」
「バイロン卿。ここでそんな寝言はもう、無しにしましょうよ」

 テーブルに乗せた両肘を支点にしながらさらに身を乗り出すようにしながら、ラブはバイロンの瞳を覗き込む。

「カタリナカンパニーの連中は、大きな勘違いをしている。そもそも、アビスリーグと我々ドフォーレが・・・繋がっていないわけがない」

 ラブのその言葉に、バイロンの瞳は殊更に大きく揺らいでみせた。

「屈辱でしたよ・・・奴らの元で、一時とはいえ道化を演じるのはね。だが、その甲斐あって私はこうしてここに来た。今日この場を皮切りに、愚かな我が父では成し得なかった、完全なる経済の混沌と支配・・・それを私は、この手で成し遂げる」

 バイロンの瞳を射るように見ながら一気にそう捲し立てたラブは、そこで一息つくように身体を椅子の背に預けるように引き下げた。
 そしてうっすらと青い光が差し込んで怪しく赤紫に変色して見えるワイングラスを掲げ、一気に飲み干す。
 その様子を無言で見つめていたバイロンは、うっすらと目を細めるばかりだ。その視線は、いかにもラブを値踏みしている様子である。

「・・・アビスリーグ参画者は、その大いなる意志によって動いており、相互になんら連絡をとっているわけでもない。ただ、目的が同じだからこそ、行き着く先も必ず同じ。だからこそ私には分かるんですよ、バイロン卿」

 火の消えていた葉巻を再び蒸すように数度火元で空気を通し、そしてゆっくりとその煙を鼻腔に通した後、ラブはぐにゃりと悪虐しく口を歪ませた。

「いや・・・我らがアビスリーグ同志、バイロン殿。そうお呼びするべきですかな」

 ラブの言葉に呼応し、バイロンは僅かに口を歪ませ、その瞳を一層怪しく光らせた。

 

 

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第九章・2 -不敵な微笑み-

 

 カタリナカンパニーが世界最大の企業となり、強制的に経済結束を主導してアビスリーグに対抗する。
 最早、絵空事にすら等しいようなトーマスのその発言に、ハンス邸の会議室に集まった全員がトーマスに向かい驚愕と疑問とを伴う視線を向けた。

「おいおい・・・ベントの旦那、今の今でその方針ってのは、流石に無理がないか・・・?」

 あまりに荒唐無稽と思われるその発言に、さしものカンパニー敏腕営業部長ポールも、薄らと冷や汗を浮かべながらトーマスに苦言を呈する。
 トーマスとほぼ等しい程にカンパニーの内部状況を理解していると言って間違いない彼から見ても、様々な側面からその方針は、今の段階で採るべきものではないと思えたからだ。
 周囲の皆も、彼ほどではないにせよその空気感はわかっているのか、それが集合した疑問符として現れている。
 しかし。
 突如そこに、トーマスの爆弾発言に大いに賛同する声が、予想外のところから聞こえてきた。

「めっちゃ面白そうじゃん。それ、ウチも混ぜてよ」

 その声に驚いたトーマス以外の一同が部屋の入り口へと振り替えると、そこには、右腕に愛用のクマちゃんを抱えながら精一杯胸を張って仁王立ちをしてみせる少女、キャンディの姿があった。
 彼女の後ろには、ローブを羽織ったロビンも控えている。

「キャンディ、帰ってたのかい!」

 ノーラが最初に声をかけると、キャンディは大きく手を上げながらノーラに視線を返し、そのまま会議室の空いた椅子に向かっていく。
 そしてその場に集まった一同を素早く確認し、当然の流れの様にブラックに視線を止めた。

「ってか、おっさん誰?」
「けっ、その台詞はいい加減聞き飽きたぜ」

 ハーマンの時の彼しか知らないキャンディが疑問に思うのは当然だが、当のブラックはあまりに聞かれ過ぎたその誰何に、真面に答える気がない様子であった。
 気を利かせたミューズが簡単に経緯と正体とを説明してやると、キャンディは暫し興味深そうにブラックの全身や左足あたりを見回した後、その場での疑問追及は諦めた様子で改めて椅子へと腰掛ける。

「・・・っと、遅くなっちゃってごめん。ちょっと仕込みに時間掛かっちゃった。でも今の話ってことなら、ちゃんと手紙の通りに準備はばっちしだよ」

 キャンディが腰を下ろしながらトーマスに向けたその言葉に、ポールは再び疑問符を頭に浮かべる。

「仕込み・・・? キャンディ、そりゃ一体なんのことだ?」

 昨年の暮れ。
 ドフォーレ商会の一連の事件以降、ヤーマスにて商会立て直しその他の事後処理等をしてもらっていたキャンディへと書簡を届けるようロビンに託したのは、誰あろうポールなのだ。
 これは丁度、昨年末のコングレスが開かれる直前のことであったので、その時点でのルートヴィッヒとの協調体制などの現状を伝えると共に、連動してヤーマス内での新たな調査を依頼するためのものであった。
 なので、今のピドナの状況を見越した類の依頼など、そこに記した覚えは彼には全くなかったのだ。

「あぁ・・・ポール。それは俺が、別でロビンに手紙を渡していたんだ」

 即座にトーマスが名乗り出ると、ポールは首を傾げながらその内容を問うた。
 だが、トーマスに先んじてそれに嬉々として応えたのは、テーブルに大きく身を乗り出してきたキャンディであった。

「そ、ポールからのとは別で、トーマスさんからの手紙があったの。中に書かれていたのはね・・・フルブライト商会への探りと、何個かの仕込みについてだよ」

 ニヤリと笑みを浮かべながらのキャンディのその言葉に、場の一同は改めてトーマスへと視線を向ける。
 特段その中でも、ポールの瞳は全く驚きを隠すつもりもないほど大きく見開かれたもので、これにはトーマスも思わず苦笑いを浮かべてしまうほどであった。

「おいおい、まさか旦那のいう世界最大って・・・。てかキャンディが既に仕込みをしているっつーことは、この展開まで・・・あんたは読んでたってのか・・・!?」
「・・・いや、全てを読んでいたなんてことはないさ。ただ、フルブライト二十三世様からの依頼を受けた時点で、我々が選択する可能性の一つ、としては考えていた。だからいざという時の為に、キャンディに幾つかお願いをしていたまでだよ」

 トーマスとポールの会話は、キャンディを除いたその場の面々には今一、内容の理解に苦しむものであった。そこで、キャンディと同じく空いた席に腰をかけたロビンが口を開く。

「確かに私が書簡を渡したし、ヤーマスではキャンディさんに頼まれて色々と調べに動いたが・・・。あれらの調査には、一体どんな意図があったのだ・・・?」

 ロビンの言葉に今度こそトーマスが応えようとしたが、しかしそこに、やたら興奮気味のポールが割って入った。
 そんな彼の表情は、どこか呆れたような引き攣ったような、そんな表情だ。

「そんなん・・・もう決まってる。トーマスの旦那・・・あんた、フルブライト商会を『買う』つもりだな・・・?」
「な・・・フルブライト商会を!!?」

 とんでもないことを言い出したポールに、思わずシャールが驚きの声を上げた。それと同時に、ぱきり、と音がして彼の装着する銀の手が、持っていたティーカップのハンドルを割ってしまう。
 その声色が含むのは、単なる驚きの感情だけではない。お前たちは、なんたる不敬、なんたる畏れ多いことを口走るのか。その様な感情の方が、寧ろ一番に読み取れるような声だった。
 これは何も、シャールだけがそう感じるということではない。恐らくは世界中で大多数の人間が、彼と同じく感じることであろう。
 フルブライト商会という存在は、それだけこの世界にとって特別な存在なのだ。
 何しろ先ず、この世界で経済に関わる者ともなれば、フルブライト商会の名声とその偉大さを知らぬ等という不届き者は、まず間違いなく存在しないだろう。
 それどころか、例えば商い事とは全く無縁の、それもフルブライト商会の本拠地であるウィルミントンから遠く離れた貧しい農村に住まうような子供たち。その子供たちでさえ、酒場で謳う流れの吟遊詩人や聖王教会で教えられる数々の逸話の中で、その名前程度は耳にしている子供の方が圧倒的に多いはずだ。
 三百年の昔、人類が四魔貴族との死闘を繰り広げたその最中。様々な場面で宿命の子たる聖王を助け、時の世界経済を纏めあげ、聖王軍の勝利に貢献した偉大なる存在。
 それが、フルブライト商会なのである。
 その威光は今も全世界に届いており、この三百年、世界の経済界を常に牽引してきた存在。まさに、名実ともに世界一の企業とは即ち、フルブライト商会のことを指すのだ。
 そのフルブライトを、買収する。
 それが、トーマスの狙いであろうとポールは言ったのである。
 あまりに突拍子がなく、そして荒唐無稽に聞こえてしまうのも無理はないことであった。
 そしてそこに、今度はノーラが理解に苦しむ様な表情で声を上げた。

「ちょっと待っておくれよ。あたしにはその狙いとかあんま良く分からないんだけどさ・・・でも今は、兎に角ピドナの状況を何とかするのが先決なんじゃないかって感じるんだけど、違うのかい?」
「うむ・・・私もノーラ殿と同じ考えだ。単に優先順位として、今は一刻も早くアルフォンソ海運などへの融資などを起点に状況打開をするべきではないのか?」

 ノーラに続き、シャールも執事にティーカップを交換してもらいながらそう付け加えた。
 確かにこの流通の孤立状態を打開しなければ、ピドナの状況はどんどん悪くなるばかりだ。そこを先ずどうにかしなければならないと考えるのは、至極当然のことの様に思われた。
 だがしかし、それは実際には悪手である。
 そうトーマスは確信していた。そこをしっかりと説明せねば、この先の意図にも理解は示してもらえまい。
 トーマスはそう思い、テーブルの上で両手を組み直しながら腰を据えて解説を行おうとする。
 が、そこでミューズが他者とは少し様子の異なる視線で、自分のことをじっと見つめていることに気がついた。その瞳は他者と同じく疑問を持つというよりは、此方の考えを既に察しており、その答え合わせを待つというような色合いだ。
 なので思い直したトーマスは彼女に発言を促す様に、彼女に視線を合わせてから眉を上げ、薄く微笑んで見せる。
 勿論ここは自分から説明しても構わない場面だが、ミューズを介した方が話が早かろうと判断したからである。彼女の持つ魅力、言い換えれば生まれつきのカリスマ性というのは、本人が思う以上に大きいことを彼は知っていた。
 ミューズはトーマスの意図を汲み取り多少驚いた様子だったが、即座にそれに返す様に、浅く頷いた。

「では・・・私からご説明します。恐らく・・・トーマス様の狙いは、より大局を見据えたものです」

 ミューズの開口に皆の視線が集まると、彼女はその場の一人一人に視線を移しながら語り始めた。

「確かに現在のピドナは、流通の断絶によって一時的に外部から孤立しています。この状況は早急に打開しなければ、先の通り他国に侵攻の口実を与える様なもの。それは、紛れもない事実です。ですが、初手で流通改善への着手は根本解決どころか・・・一時凌ぎにすらならない可能性が高いのです」

 ミューズの語ったことは、こうだ。
 アルフォンソ海運やメッサーナキャラバンへの融資、若しくは買収という選択肢。これを現時点で行うことによって得られる効果は、流通の改善までには全く至らない。
 そもそも魔物に破壊された多くの荷馬車や船は直ぐに作り直せるわけではないし、人々に植え付けられた襲撃への恐怖心もまた、修復には相応の時間が掛かる。つまり融資か買収の何れかを行ったところで、即座に以前の状態に戻る、ということはないのだ。
 そして何より、仮に流通環境が以前と同様まで即座に整ったところで、結局のところ魔物に再度襲われるリスクそのものは、全く改善されていない。
 そうなると、作っては破壊されて、の圧倒的に不利な消耗戦を強いられる可能性が高く、襲撃を恐れた従業員の業務拒否も当然考慮せねばならず、それらへの対策が別途必要になってくる。
 単純に、これでは非効率極まりない結果が見えているという話なのであった。

「・・・対して、トーマス様の言うフルブライト商会へのトレードには、その困難さに比例した大きな利点が、三点ほど考えられます。先ず一点目は・・・アビスリーグの組織規模をより正確に読み取り、その正体に近づくこと。つまりは、事態の根本解決を確実に進められることです」

 これの根拠は単純だ。
 まず世界最大企業たるフルブライト商会の買収が仮に成功した場合、フルブライト傘下の世界各国企業をそのままカタリナカンパニーに組み込むこととなる。
 実のところ、複数地方を跨ぐ規模で企業運営をしている商会は数えるほどしかなく、直近ではフルブライト、ドフォーレ、ラザイエフ、そしてカタリナカンパニーがそれに該当する程度だった。
 このうちドフォーレは既にカタリナカンパニーが買収しており、事実上カタリナカンパニーは規模だけで言えば既に世界二位の企業規模となる。そこが更にフルブライトを買収するとなれば、世界に散らばる企業のかなり多くをグループに抱えるということになるのだ。
 そして現時点で、カタリナカンパニー内にアビスリーグからの接触がないことは内部監査済みである。
 これはフルブライト二十三世から話を聞いた直後にトーマスが全支店の昨年帳簿を直接隅から隅まで確認しているので、間違いないことだった。
 アビスリーグは世界各国で活動しつつ同盟範囲を広げておきながらも、世界第二位の規模にまで広がっているカタリナカンパニーと一切接触がない。これは、その事実に安堵する反面で、非常に不可解でもあった。
 それこそ「意図的に避けている」とでも考えない限りは。
 これは、トーマスは事実その通りなのだろうと踏んでいた。
 カタリナカンパニーに関われば、必ず尻尾を掴まれる。それを向こうが理解しているから、敢えて避けているのだ。
 これには思わず、敵ながらいい判断だ、とトーマスはほくそ笑んだものであった。
 トーマスが副社長として実質的に全権を握るカタリナカンパニーは、その内部規律と監査の精度において、他企業では全く比肩できないほどに高度精密化されている。
 元よりこれは、トーマスがフルブライト商会の歴史的な威光と世界に及ぼした影響に多大なる感銘を受け、企業という組織がその影響度からして持たざるを得ぬ「世界に対する社会的責任」を果たす上で絶対に必要であると考え、徹底して実行しているからに他ならなかった。
 経済という巨大な力を持つからこそ、それを統制するための仕組みと外部影響はしっかりと考えねばならない。その気概と実行の精度が、蓋を開ければ既にフルブライトのそれを凌駕していた。それだけの話なのであった。
 そのカタリナカンパニーがフルブライト商会を買収すれば、フルブライト商会の中にアビスリーグの手が伸びている場合、必ず買収の最中に分離するだろう。
 そうするとその分離企業を最優先調査対象としつつ、残りはラザイエフ商会関連企業と、各都市にある独立企業群、そして旧ナジュ王国領の企業群あたりまで絞ることが出来る。
 ここへの調査も買収と並行して行う事で、アビスリーグの本丸へと確実に迫ることができる筈なのだ。先ずはこれなくして、事態の根本的な解決には至らないのである。

「第二に、フルブライト商会の浄化救済を行うことができます。フルブライトとアビスリーグを切り離すことができれば、商会に残り内部調査をされているフルブライト二十三世様のご安全を確保することができるでしょう。最初にアビスリーグの存在を察知したあの方の安全を確保し、改めてその助力を得る事で、更なる迅速な真相解明が期待できるものと考えられます」

 買収によりフルブライト内部に巣食うアビスリーグの手のものを切り離せられれば、これは可能であろう。
 フルブライト商会という存在は、今後も世界にとっては必ず必要になる。そしてそれを統率すべきは当然ながら自分などではなく、高潔なるフルブライト十二世の意志を継がんと奮闘するフルブライト二十三世でなければならない。そうトーマスは考えていた。彼を危険から救い出すことは、正に世界の今後を左右する一大事であるのだ。

「最後に・・・他国のピドナ侵攻判断を遅らせる効果、です。他国が攻め入るまでの猶予ですが・・・恐らくはあと一ヶ月もこの状況が続けば、何れかの都市の軍団が攻め上がってくる可能性はかなり高まるでしょう。ピドナの現在の異変状況は、あと一週間もしないうちに各国に広まります。若しくはアビスリーグが裏から手を引き、既に各都市国家に侵攻を煽っている可能性も考えられます。戦の準備には従来なら短くとも半年程の準備期間を要するとされますが、混乱を突いて各国家の常備軍と備蓄だけで攻め上げるなら、そこまで時間は掛からないでしょう。つまり、その前に彼らを思いとどまらせる何らかの『事件』が必要です。このトレードは、それも兼ねているのだと考えられますが・・・如何でしょうか」
「・・・全くその通りです。ミューズ様、流石のご慧眼ですね」

 こちらの狙いを細部に至り把握してみせたミューズに内心では舌を巻く思いだが、トーマスはそれを望外に嬉しく思いながら微笑み返した。
 三百年の間に渡り世界経済を牽引してきたフルブライト商会への、トレード勃発。これは、全世界が注目せざるを得ない一大事になることは間違いがない。
 そして今回特に重要なのは、それを行うのがピドナに本店を置くカタリナカンパニーである、という点だ。
 奇しくも昨年末のコングレスによってルートヴィッヒ軍団長と、世論に英雄視されるミューズの繋がりが大々的に世界へと示された。そしてその場に、一企業人に過ぎないはずのトーマスが立っていたことを知らぬ各国要人は、居ない。
 経済界においてはカンパニーとクラウディウス家の繋がりは元から判明していたことなので、そこに大きく疑問を抱く者はいなかったであろう。
 そしてそのカタリナカンパニーが、この世界からの孤立状態の渦中にあって、フルブライト商会へトレードを仕掛ける。
 これはつまり、それを実行するだけの余裕がピドナにはある、という事実を世界に知らしめることに他ならない。
 流通と経済の危機という客観的事実と大いに相反するこの事態が起これば、各国は否が応にも慎重に出方を探らざるを得なくなる、というわけである。
 更にいうならば、昨年末コングレスの場でトーマスはカンパニーとフルブライトの同盟破棄を宣言している。この宣言が、ここで予想外に外交思惑に響いてくる。
 コングレスの場では『特段この同盟破棄がカンパニーと近衛軍団との新たな蜜月を表すものではない』との補足を敢えて行っている。だが、ここに至ってカタリナカンパニー対フルブライトのトレードなどが起これば、あの補足が信ずるに値する、などと愚直に考える者の方が少ないのは、火を見るよりも明らかだ。
 これらの意味するところはつまり、この経済危機が『事実なのかフェイクなのか』を各国は何としても見極めなければならなくなる、ということだ。

「・・・旦那、狙いはわかった。だが、肝心のトレードに充てる資金は一体どうするつもりなんだ。ドフォーレ買収の影響はガッツリ残っている。即座に動かせるオーラムは、ぶっちゃけ殆どないはずだが・・・?」

 頭に被っている帽子の特徴的な突起部分を手で弄りながら話を食い入るように聞いていたポールは、一呼吸置いてからトーマスに向かい冷静に問うた。
 彼の指摘は、実に的確だ。なにしろトレードを行うには、ただでさえ莫大な資金が必要になる。そして今回のトレードで狙い通りの効果を目論み行うとなれば、前回ドフォーレの倍以上の稼働資金が必要になるのは間違いない。
 残念ながらカタリナカンパニーにそのような資金は、ない。それはカンパニー内部の情報を把握しているポールには、聞くまでもなく分かりきっていることだった。
 更には、唯一の隠し球であった旧クラウディウス家縁の者たちからの融資も、ドフォーレ戦で用いてしまったのでもう期待はできない。
 その上で、フルブライトに勝負を挑むだけの資金が確保できるとは、到底思えなかったのであった。

「そうだね・・・ただそこは、一応は策があるんだ」

 トーマスは、どこか不敵に笑いながら言った。その表情が大層不気味に見えてしまい、ポールは思わず背筋に震えを感じながら、怖いもの見たさで次の言葉を所望した。

「・・・旦那、一体どうするつもりなんだ・・・?」
「・・・簡単なことさ。ドフォーレが敢えてやらなかった手段を、我々がやるだけだよ」

 そうしてトーマスが少し俯きながら微笑む様は、その場の誰もに等しく、恐ろしいもののように映ったのであった。

 

 

 三百年の昔、かの聖王三傑たる玄武術師ヴァッサールの発案から作り上げ、そこから二度に渡り魔海侯フォルネウス討伐という偉業を成し遂げた海上要塞都市バンガード。
 建造から三百年の時を経て、つい最近に再び大地の鎖を断ち切ったバンガードは、ルーブ地方とガーター半島を結ぶ要所兼、新たに内海と西太洋の海上直通路として、世界中から大いに注目される地となっていた。
 今宵、その海上都市の中でも最も高貴なホテルの宴会場にて、非常に豪奢な催しが開かれていた。

「ようこそおいで下さいました。誠に細やかなおもてなしではありますが、今宵は是非とも楽しんでいかれてください」

 ホテル前に到着した数台の馬車による一団を仰々しい一礼とともにエントランスで迎えたのは、その夜の催しを開いた主催の男だった。
 その男は、非常に肥えた身体をこれでもかと着飾っており、煌びやかな衣服と数々の宝飾品がその動きに合わせてジャラジャラと音を立てている。
 その装飾品だけで開拓民が一生暮らすに困らないであろうほどのものであるが、それらを全く惜しげのない様子でひけらかしながら、ゆっくりと顔を上げた男は馬車から降りてきた今宵のゲスト一団に改めて向き直る。

「・・・まさか、我々がこうして貴殿のおもてなしを受けることになろうとは。以前ならば、思いもしませんでしたな」

 馬車から降りてきたゲストの中で、明らかに周囲と異なる風格を漂わせた老紳士が、ホストの男に向かって軽い会釈をしながらそう告げる。
 この老紳士こそ、世界第一位の企業規模を誇るフルブライト商会の、営業本部長を任される人物であった。フルブライト商会の現会長の先代にあたるフルブライト二十二世の時代から長年辣腕を震ったとされる、業界内ではかなり名の通った大御所である。

「ははは、全く同感です。生前の父は、よく貴方のことを愛憎混じりに語っていましたよ。数奇な運命の末にこうして私が貴方に持て成しの場を用意できたこと、光栄に思います」
「それはそれは・・・ふふ、貴殿も随分と棘が抜けて、ご成長なされた様子。今宵この時ばかりは、日中の闘争を忘れて楽しませていただくとしよう」

 表面上の口上とは全く異なる剣呑な雰囲気を纏った両者は、しかし互いに固く握手を交わしながら微笑んだ。
 商業ギルドに申請された瞬間から世界を震撼させた、フルブライト商会とカタリナカンパニーによる、世紀の一大トレード。
 その実施会場として指定されたこの海上都市バンガードにて、本トレードのカタリナカンパニー側代表として挑む人物こそ、今宵のホストであった。

「・・・さぁ、どうぞお入りください」

 そう言いながらゲスト一団をホテル従業員に会場内へと案内させ、男は会場入りする一団の背中をじっと見ながら、やがて懐から葉巻を一本取り出す。
 彼の側に控えていた執事が慣れた手つきで葉巻の吸い口をシガーカッターで切り落とし、火をつけた。
 何度か吸って火のついた葉巻から、たっぷりの煙を鼻腔を通じて燻らせる。そうしながら男は、どこか憎らしげな表情を浮かべながら、一人その場で凄みをきかせた。

「・・・ったく、どいつもこいつもこの俺様を舐めくさりやがって。今に見てやがれよ・・・」

 世界で最も注目される史上最大のトレードを仕切る、カタリナカンパニー側の人物。
 今こうして葉巻を燻らせるその人物こそは、つい最近まで世界第二位規模の巨大企業を一手に率いていた経済界随一の剛腕、ラブ=ドフォーレその人であった。
 ラブは吐き捨てるようにそう言うと、その「剛腕」の名に似つかわしく実に含みのある笑みを浮かべながら、火をつけたばかりの葉巻を惜しげもなく地面に放り捨て、ゆっくりとした足取りで賑やかさを増す会場へと入っていった。

 

 

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第八章・1 -ロアーヌの危機-

 

 ロアーヌ侯国の首都ロアーヌから南東へエルブール山脈を仰ぎながら三日ほど徒歩行軍した所に、一部が沼地にもなっている広大な湿地平原が広がっている。
 四魔貴族が一柱、魔龍公ビューネイの居城があるとの伝説が残る、聖王記所縁の巡礼地でもある霊峰タフターンへと向かう一本道以外には宿場宿も何もない、古ロアーヌから風景の変わらぬ未開拓地だ。
 だがこの平原に突如として、湿地帯をほぼ斜めに切り裂くかの様に北東から南西へと伸びる長大な木製の簡易防壁が現在、進行形で築かれていた。
 その木製の防壁は短期間の間にも部分的に幾度かの崩壊と再建を繰り返し、既に丸一月以上もの間、ロアーヌ南方とナジュ砂漠を隔てる雄大なるエルブール山脈の最も高い峰を誇る霊峰タフターンより散発的に侵攻してくる妖魔の大群から、ロアーヌ侯国領地と其処に住う民を守るための絶対防衛線として機能している。
 この長大な防衛線のすぐ後方には相互の距離を開けて幾つかの幕舎が設置され、そこでは幾人もの名だたるロアーヌ士官が交代で日夜指揮を奮っているのであった。

「戻ったぜ・・・」

 直前に沼地を走り回っていたのか、酷く全身が汚れた様子の男が、大層くたびれた様子で幕舎の中へと入ってきた。
 丁度幕舎の中で防衛線の補強、改修の計画を練るために戦場図と睨み合っていた、ロアーヌ騎士にして本防衛線の指揮を務める将の一人でもあるタウラスが其方を見遣る。そして幕舎の入り口を潜り入ってきた人物に対し、珍しく随分と覇気のない声を上げながら戻ってきたものだな、と思いながらも、手元の作業を止めて片手を上げつつ迎えた。

「あぁ、よく無事に帰ってくれたよ、コリンズ。悪いな、タフターン攻略班から態々こっちの防衛線に回ってきてもらって」

 タウラスの言葉に、彼と同じくロアーヌ騎士にして軍に於いては准将を務めるコリンズは、とんでもないという様にかぶりを振り、そして次には力なく項垂れながら、ここで一際大きくため息を吐いた。

「俺やパットン等の師団は、攻めてなんぼの歩兵と騎兵が中心だ。山岳地帯じゃ騎兵は使えねぇし、挙句に攻める相手が霧に隠れているんじゃ、役立たずのタダ飯食らいみたいなもんさ。准将を拝命してから初の戦だってのに、ほんと、情けない限りだよ。だから、こうして国の役に立つ仕事があるだけ有難いってもんだ・・・。いまいち調子は出ねぇけどな・・・」

 国家の一大事というこの場面に於いて自分の得意とする戦ができない事が余程堪えているのか、コリンズは自分の近くの木箱に浅く腰掛けながら心底悔しそうな様子で小さくそう言った。
 彼がここまで弱気な様子を、彼の同期であるタウラスは今まで見た事がない。だが、それも今は仕方がないのだろうか、とも思う。
 何しろ、直近一ヶ月のこの防衛戦とそれを取り巻く周辺の有り様は、お世辞にも良い流れなどとは言えない状態が続いているからだ。
 悪化の一途を辿る世界情勢を鑑みて行われた軍事演習中の謎の強襲に端を発し、ロアーヌ侯国がトゥイク半島の貿易都市リブロフの軍団を相手取った連戦の末、逆賊マクシムスの目論みを打破し神王教団教長ティベリウスとの間に和睦協定を結んでから、二ヶ月弱が経つかどうかという頃。
 この戦線は、そのような折に突如として開かれた。
 これまでの定期的な魔物討伐とは全く異なる規模での群を、いや、軍を成した妖魔の強襲を受けたロアーヌ侯国は、直ぐ様侯爵ミカエルの大号令の元、国民総動員体制での防衛戦線を即時形成するに至った。
 その後、一次戦線を驚くほど速やかな迎撃戦に持ち込み国土の損害を最小限に抑えてみせたミカエルは、その妖魔の軍勢が南方エルブール山脈の特に南東の方角から攻めてきたこと、また、交戦した妖魔軍には特徴として珍しい有翼種が多く見られ、この有翼種がロアーヌに保管されている過去の書物に記されていた「ビューネイの精」という存在に酷似しているという事を根拠に、交戦対象を『魔龍公ビューネイ軍』と断定。
 奇しくも、この半月ほど前にロアーヌ宮廷騎士カタリナ=ラウランを中心としたアビス軍勢討伐軍の活躍により地図上では南端に位置する広大な密林の奥にて全滅の危機に瀕していた妖精族の救出、及び四魔貴族魔炎長アウナスの居城である火術要塞の占拠という歴史的偉業を成し遂げていたロアーヌ軍は、その戦勝報を世界へ向けて逸早く発信していた。ミカエルは本迎撃戦をこれに連なる一大有事として、「対四魔貴族戦線」と呼称。全世界へ向け発信し、各国からの援軍を募りながら開戦をしたのであった。
 だが最初の迎撃こそ成功したものの、その後に肝心の攻めるべき相手の拠点が全く定まらず、戦線は早々に膠着した。
 ロアーヌ軍は攻め手を欠いたことで否応なしに後手に回り、この防衛線にて相手の出方を待つことを余儀無くされたのだ。
 タフターン山のある南東の様々な箇所から昼夜問わず攻め入る妖魔に対して幾度も防戦を余儀無くされ、補給線を確保しながら長大な防衛線を建築し、ロアーヌ軍はこの一ヶ月余りを耐え抜いてきている。
 だがいい加減に兵の疲労度も限界に達しており、防衛線には乱れも散見される様になってきていた。
 前線には負傷者も増え、疲労を抱えたままの連戦も祟り、戦死者もこの半月ほどは増加傾向にある。
 そして何より、未だこの状況の打開策が一向に見つからないという現実こそが、戦場の士気を著しく下げ続けているのだった。

「・・・で、援軍の方はどうなんだ?」

 くたびれた様子で懐から取り出した給水筒を煽り、コリンズが言葉の割には全く期待した様子もなくタウラスに尋ねる。
 その問いに対してすぐには答えられなかったタウラスだったが、コリンズのこの問いには別方向から応えるものがあった。
 不意に二人の会話を割って幕舎に入ってきたのは、彼らと同期の騎士にしてロアーヌ軍少将に就くブラッドレーだった。

「流れの傭兵や東部開拓民を中心とした周辺農村からの義勇兵は徐々に集まりつつあるが、国家としての援軍は未だ無いようだ」
「・・・けっ。しがない東国の事なんざ知らねーってか。これじゃあ、アビスの思う壺だぜ」

 コリンズの返答に、ブラッドレーは、これはとても良くない傾向だなと感じる。
 ここ最近の度重なる戦の主戦場を踏破してきたロアーヌ騎士団の「黄金世代」とされる彼の同期である騎士コリンズは、軍の中でも格段に人望が厚い将の一人だ。
 その直向きな性格と信念に強い忠誠を抱く騎士は多く、そんな彼のこうした後ろ向きな発言は、軍の少なくない範囲で良くない影響を及ぼすだろう。
 だが、それを直ぐに諫める様な万能の言葉を、ブラッドレーは持っていなかった。
 勿論、上辺だけの言葉をかけるなら、それは幾らでも出来る。だが、この一月の惨状は先の通りだ。
 コリンズの指揮する軍からも当然少なくない数の殉職者が出ており、その事実に対して生半可な慰めや諫めなど、意味を為さないどころか更なる士気の減少にも直結するのだ。
 何より、この戦線の展望の暗さを最も感じているのは、誰あろう戦線を預かる最高指揮官であるブラッドレー自身でもある。
 しかし彼は、弱音は吐かない。だが、他者にかけるほどの言葉まで、彼は持たない。

「・・・現在、ミカエル様がタフターン山の奥にあると目されるビューネイの居城を少数精鋭にて潜入攻略するための勇士を募っている。今の我々は、これが動くまで何としてもこの戦線を死守しなくてはならない」
「あぁ、分かってる。分かってるんだけどよ・・・」

 コリンズ自身も、ブラッドレーが感じる事を理解していないわけではない。
 だが、それでも彼には、そんないつ動き出すのかも分からないものだけでは、彼が失った部下の家族へ向ける顔がないのだ。

「あぁ、畜生・・・。俺に、カタリナみたいな力があればな・・・」

 コリンズが呟く。
 言葉にしながら彼が頭の中に思い描いたのは、軽鎧を纏い真紅の大剣を翳しながら隊の先陣を切る、女騎士の姿だった。
 現在、先の火術要塞攻略までに渡る多大なる功績により宮廷護衛騎士団長の地位に就くカタリナは、彼の直ぐ下の世代の後輩に当たる。コリンズは彼女とは、騎士団候補生時代から十年以上を数える長い付き合いのある間柄だ。
 彼女はつい先日まで、とある事情により一年弱ほどロアーヌを離れていた。その事情自体は詳しくは聞かされていなかったが、神王教団との戦の折に再会を果たした時に、大体の事情は本人から聞いていた。
 その事情はさておき、その間にカタリナが経てきた経験は、兎角、凄まじいものであった。
 一年ほど前、世界的にアビスの魔物の本格的な目覚めを感じさせた、メッサーナ王国首都ピドナにてあった「予兆」の中心に彼女はおり、その後、聖王の故郷である聖都ランスにて聖王家子孫から正式に依頼を受け、以降は四魔貴族を討伐するための旅路を歩んできたという。
 その旅の中で神王教団のピドナ支部長マクシムスが隠し持っていた幾つもの聖王遺物を奪還し、彼女は遂に四魔貴族の一人である魔炎長アウナスの居城を攻略するという伝説級の偉業を成し遂げたのだ。
 その中身には、実のところ幾つか誇張表現があり、細部は訂正するべき部分もあることは彼は無論知るところではあるが、それでも彼女が世界各地で成してきた事は紛れもない事実である。
 そして何より、神王教団との最終決戦の地であったナジュ砂漠にて彼女と再会した時、コリンズは一目彼女を見て、瞬時に理解したのだ。彼女は、もう彼の全く及ばぬ領域にいる存在であるのだ、という事を。

「聖王記に記される『八つの光』の顕現・・・か。ミカエル様は、ロアーヌよりそれが誕生したと、そう各国へと報を出した。聖王家も、それに応じて事実を認める声明を出してくれたそうだ。その効果が、今回の勇士募集に影響をしてくれればよかったんだがな・・・」

 ブラッドレーが直近の宮廷内の動きを添えながら応えるが、コリンズは相変わらず投げやりな様子のまま、幕舎の天井を見上げた。

「それでも、世界は動かねぇ。結局、いざ自分の喉元に剣が突きつけられるまで、奴らは気付きやしねえんだ・・・。今の俺たちの様に、な」

 コリンズがそう呟いた所に、まるでこれで会話は終わりだとでも告げるかのように、大変慌てた様子で幕舎へと駆け込む兵があった。

「も、物見櫓から報告!前線に獣人族を中心とした妖魔の軍勢を視認!その数、凡そ三千!」

 兵を認めたブラッドレーが、その報告に即座に反応する。

「・・・ライブラ隊を核に二層防壁陣を布陣!またフォックス隊に伝令!別方面からの奇襲に備え、四方索敵!」
「はっ!ライブラ隊が二層防壁陣にて対応、及びフォックス隊にて四方索敵、了解いたしました!」

 伝令を復唱し兵が即座に幕舎を後にしていくと、ブラッドレーは自分も前線の確認をするためにロアーヌ侯国の紋章が刻まれた腰の剣を確認し、外套を翻した。

「我々は、伝説の英雄にはなれない。だが、故国を守る英雄にはなれる。今ここでそれを証明し続けることこそが、誇り高きロアーヌ騎士としての使命だ」

 ブラッドレーがそう言うと、コリンズはそれに応えるように即座に立ち上がり、己に言い聞かせる様に深く頷いた。

「分かってんだ・・・そんな事は。俺は、この国を守る為に騎士になった。それは、俺の中の絶対的な正義だ・・・。俺も行くぜ」
「助かる。タウラス、ライブラ隊の後方支援は任せるぞ」
「了解だよ、大将」

 ロアーヌ式敬礼をしながらのタウラスの返答に、ブラッドレーは彼の性格上は仕方がないのかもしれないが、律儀にも「自分は少将だ」と真顔で訂正を返すと、それに苦笑するタウラスを背に、コリンズと共に幕舎を後にした。

 

 

 海上要塞バンガードが四魔貴族フォルネウスの潜む海底宮の攻略から遂に大陸への帰還を果たしたのは、ロアーヌとビューネイ軍の戦線が敷かれてから大凡一ヶ月半程が経った頃だった。
 突如として大地が無慈悲に引き裂かれたかのような実に荒々しい様子で、ルーブ地方とガーター地方を隔てる広大な範囲に及ぶ断崖絶壁。
 地図上では、確かにここに、海上都市バンガードがあったはずだった。
 南北の相互地域交通網が突然に断絶された事で、多くの行商人が崖を前に一度立ち往生をしては近くの漁村からの渡し船に頼っていく中、この場所にて只一人、根気強く幾日にも渡って野営を続けていたトーマスは、西太洋の向こうから遂にその姿を現した海上要塞バンガードを沖合に見つけると、しかしそれに喜ぶでもなく兎に角必死に狼煙で合図を送り、それに彼方が気付いていることを願い、相手の反応を待つ前に大急ぎで小舟を出した。
 幸いな事に船首からそれに気がついた町民の知らせで無事にバンガードへと収納されたトーマスは、そこでおよそ二ヶ月少々振りに再会を果たしたカタリナに、簡潔に現在のロアーヌの状況を説明をした。
 すると話を聞いた彼女は一も二もなく急ぎロアーヌへと戻ろうと、即座に旅支度を整え始めたのだった。
 兎に角カタリナにとっては、故国の窮地に一刻でも早く駆けつけるという考えのみしか浮かばなかったのだ。
 だがそこに更に、彼女にとってはトーマス以上に全く予期せぬ来訪者があった。
 正に皆の制止を振り切って単身ロアーヌへと向かうべくバンガードの船着場から大陸に戻らんとしたカタリナの前に小舟に乗って唐突に現れたのは、特徴的な色合いのとんがり帽子を被った、聖王記詠みを自称する詩人であったのだ。

「やぁ、またお会いできましたね。カタリナさん」
「・・・!」

 そう言って小船から降りて、やおら優雅にお辞儀をしてみせる詩人に対し、カタリナは思わず反射的に腰の剣に手を掛けようとする。
 だが、そんな様子をすら面白がる様に詩人はケラケラと声を上げて笑いながら、相変わらず剽軽な様子で肩を竦めた。

「まぁまぁ、そんな怖い顔をしないで。今まで私があなたの目の前に現れて、事態が暗転した事、ありました?」

 これまでの例に漏れず、相変わらず人を喰った様なその物言いにカタリナは当然に憮然とした表情で返すが、それでも不思議とこの詩人の言葉には渋々と従ってしまうような、ある種の強制力を感じる。
 彼女と同じく、カタリナを説得せんとその場に集まっていたトーマス、フェアリー、ハリード、シャール、ミューズが一様に突然の来訪者に対し呆気にとられていると、当の詩人は随分とあっけらかんとした様子で船着場から市街地へと向かう階段へと、周囲の様子を全く気にせず勝手に歩き出した。

「まぁこんな所で立ち話も何ですから、皆さん座って話しましょう。バンガードといえば、歴史は浅いですがグッドフェローズのハーブティーが意外と馬鹿にできない味なんですよ?」

 そう言って颯爽と市街地へ向かい歩いていく詩人に益々周囲が困惑する中、意外にも最初に彼に続いたのがカタリナだった。
 トーマスからの話を聞いて以降は周囲の誰が何を言っても一切ここまで聞く耳を持たなかったカタリナが突如として素直に従う様には再度周囲が驚きつつ、しかし皆もその後についていくことにした。

 

「さて、現在ロアーヌに訪れている危機に関してですが」

 ハーブティーと一部面々にはエールが用意されるまで、のらりくらりと幾つもの追求を躱し続けた詩人は、自らの手元に用意されたティーカップを取り上げ、香りを楽しむ様に顔の前で薫せ、一口飲んでたっぷりと味を堪能したあとで、漸く口を開いた。
 その間、丁度彼の真正面に座っているカタリナの怒りの表情が余りに鬼気迫っており、次の瞬間には詩人に斬りかかるのではないかと肝を冷やしていた一同は、彼が漸く話題を切り出したことに大変安堵しつつ、カタリナと共に彼の言葉に耳を傾けた。

「このままでは、ロアーヌは確実に滅びます」

 ガタンッ、とカタリナは座っていた椅子を盛大に蹴飛ばして立ち上がる。
 そして周りが制止する間も無く、迷わず腰にあったマスカレイドを抜き、テーブル対岸の詩人へと突きつけた。

「・・・いい加減にして。これ以上無駄口を叩くなら、問答無用で斬るわ」

 彼女の声色には、一切の冗談めいた要素が含まれていない。
 突如として起こった修羅場に、グッドフェローズのマスターをはじめとしたその場の他の客は、その只事ではない様子に遠巻きに避難した。そして緊張感が支配する店内で外野が息を潜めて件のテーブルの様子を見る中、今まさに斬りかかられようとしている詩人は全く動じた様子もなく、又してもティーをゆっくりと啜り、音を立てずにカップを置いて、にこりと微笑んだ。

「なので、今からそれを回避する為の助言をしようと思います」

 その言葉から数秒、カタリナと詩人の視線が交錯した。
 カタリナはその視線から、目の前のこの男が一体何者で、何を考えているのかを推察しようとする。
 初めてこの詩人を名乗る男に会ったのは、確かピドナのパブだったと記憶している。その時は単なる流しの吟遊詩人としか思わなかったが、この詩人との意外に早い再会は、その一週間後の早朝だった。
 朝日の差し込む港にて彼と対峙した時、その謎めいた言葉と掴み所のない動きに、彼女は自分の心と体が翻弄されたことを今も強烈な印象として覚えている。だが、後にこの時の詩人の言葉に従ったことで、この後の展開の活路が開かれたのは事実だ。
 そして三度出会ったのは、彼女がこの旅の当初の目的を果たさんとする、正にその時。ナジュの神王の塔での事だった。
 この時も確かにこの男の助力を得ることで、神王の塔へと容易に潜入することが可能となった。その結果として彼女は逆賊マクシムスを打倒し、聖剣マスカレイドを取り戻すことができたのである。
 脳内で冷静に振り返ってみれば、ここ半年程で彼の言葉に従うことが事態の進展に大きく寄与してきたことは間違いない。だが、どうしてか彼女はこの目の前の吟遊詩人が好きになれそうにはなかった。
 しかし今はそのような呪詛を吐く時ではないと思い直し、カタリナがゆっくりとマスカレイドを納刀し後ろに倒れた椅子を引き戻すと、近くの面々も一先ずの危機が去った殊に安堵した様子で息を吐き、話の続きを促す。
 その様子をすら何処か楽しむ様に辺りを眺めた詩人は、徐に懐から一枚の随分と古びた地図を取り出した。

「さて・・・敬虔なる聖王教徒であるカタリナさんは、聖王記に記された四魔貴族ビューネイの討伐譚は、勿論ご存知ですよね?」
「・・・ええ」

 詩人の問いかけにカタリナが浅く頷きながら返すと、詩人はその返答に大変満足した様に大きく頷き返しながら、取り出した地図をさっとテーブル上に広げた。

「現在ロアーヌ領を攻め立てている妖魔の軍勢は、間違いなく魔龍公ビューネイの差し金でしょう。これは正直、いくら屈強なロアーヌ軍が何度迎え撃ったとしても、事態の根源であるビューネイを打倒しない限り、キリがないです。延々とアビスゲートより生まれいでる瘴気が招く妖魔の侵攻が、ロアーヌ軍を食い尽くすまで続くでしょう。従って、力の源となっているビューネイの打倒無くして、ロアーヌ軍に勝利は無いのです」

 そう言いながら詩人の手によって広げられた地図にカタリナが無言で視線を落とすと、其処には何やら山岳地帯を示す平面図が描かれていた。

「ですが、天空の支配者たるビューネイは常に空を舞っており、地上から彼の者を相手取ろうとしても、剣は愚か、弓すらも届きません」

 まるで詩を歌い上げるかの様な調子でそう語りながら、詩人はさながら歌劇の演者の様な仕草で以って、地図の一点を指し示した。

「ですから、カタリナさんは故国ロアーヌを救う為にも、ここを目指さなければなりません」

 その古びた地図に描かれている山岳地帯は、今まさに決死の戦が行われているというロアーヌ地方の霊峰タフターン山の様子とは何処か違ったものの様だった。
 それに大凡の察しがついていたカタリナが、視線を正面に戻し、彼に応える。

「龍峰ルーブの頂・・・。まさか私に、ここに行って聖王様のように竜の助力を得ろ、って言うの?」

 詩人が地図上で指し示しているのは、このバンガードから北に向かったルーブ地方にある、龍峰の名を冠するルーブ山だった。
 聖王記に綴られる四魔貴族ビューネイ討伐の章によれば、地上からビューネイを相手しようとした聖王に対し、肝心のビューネイは全くその様子を意に返さなかったのだという。
 天空の支配者である魔龍公は、地を這う存在に興味を示さず、全く相手にしようなどとしなかったのだ。

「左様。魔龍公に相対するのは、地に足をつけていては叶わぬということ。つまり、彼女のフィールドである天空にて戦いを挑まなければなりません」

 魔龍公ビューネイの様子に、地上からの戦いが不可能と悟った聖王は、当時のルーブ山に棲まう巨龍ドーラに助力を乞う為、ルーブの頂を目指した。
 そしてその冒険の末に巨龍ドーラの協力を取り付け、聖王はドーラの背に乗り大空へと羽ばたき、天空にて魔龍公ビューネイへと挑み、遂に勝利を手にした。

「さしもの魔龍公も、人と龍との力に屈した、という伝説。貴女は、これからこの伝説を準えなければならない。そうしなければ、危機に瀕した現在のロアーヌを救う事は出来ない、という訳です」

 詩人の言葉を脳内で反芻しながら、カタリナは目を細めて考える。
 今までこの男の言葉に従った時、確かに間違いなく彼女の直面する事態は拓けてきた。
 だが今回のこればかりは、如何なものだろうか。
 この聖王記の伝説は確かに彼女もよく知っている内容であるし、それに当てはめて詩人の言う理屈もわかる。だが、今の世に於いてこの伝説を準えるには、多分に事情が異なるということも、彼女は知っていた。だから、それが可能なのかどうかが、どうしても疑わしいのだ。
 そんな彼女の抱く疑問を代弁する様に口を開いたのは、彼女の隣に座って話を聞いていたミューズだった。

「あの・・・吟遊詩人様、一つ宜しいでしょうか」
「ええどうぞ、クラウディウス家の御令嬢様」

 ここまで名乗った事もなく、また会ったことすらない相手にそう言い当てられながら、不思議にそのこと自体は疑問にも思わず、ミューズは軽く頭を下げて言葉を続けた。

「現在ルーブ山には、悪竜グゥエインが棲むと聞いています。確か十年ほど前にも、ルーブ山の麓の小さな山村を蹂躙し滅ぼしたと世間で騒がれていたのを記憶しております。貴方はカタリナ様に、その様な人に仇為す竜と手を結べと、そう言っているのですか?」
「ええ、正にその通りです」

 間髪入れずに詩人がミューズの問いに答えると、一時、その場に沈黙が訪れる。
 現在のルーブを住処とする悪竜グゥエインの存在は、この地方のみならず、広く世界に知られているところだ。
 その存在が最初にいつ確認されたのかは現存する資料も無く不明であるものの、少なくともここ百年以上はルーブを住処としていることが過去の被害情報から分かっていた。
 悪竜グゥエインによる被害はループ地方をはじめとして、ウィルミントンを中心としたガーター半島や聖都ランスを横切るイスカル河沿岸地域に至るまで、広い範囲で確認されている。
 各地に祀られていた古代の財宝の数々を奪い、街や村を襲っては人肉を喰らい、為す術ない人間を嘲笑う様に土地を蹂躙し、ルーブ山へと戻っていく。
 その被害は十数年に一度程度の周期で訪れ、その活動期の度に、世界中の人々を恐怖のどん底に陥れてきた。
 四魔貴族が居なくなったこの三百年に於いては、人類にとってはなす術のないという意味では最大の脅威と言って間違いない存在なのだ。
 その様な人類に仇為す悪竜に、人が協力を求めることなど、果たして本当に可能なのだろうか。
 その事実はその場に集まる誰しもが知るところであり、ミューズやカタリナが抱く懐疑的な思いに全員が同調する様に押し黙った。
 だが以外にもその沈黙を破ったのは、一人ハーブティーの代りにエールを勢いよく飲み干したハリードだった。

「ルーブに残された、友人の子・・・か。つまりは聖王が言っていたのが、そのグゥエインという事なのか」

 ハリードのその言葉に、カタリナとトーマスがピクリと反応する。
 彼が言ったのは、嘗てピドナのハンス邸にて集まった際に彼女らが見た、王家の指輪に刻まれた聖王の語る映像にて聞いた言葉のことだった。
 それを知らぬミューズ等はハリードの言葉に対して当然思い当たる節がなく疑問符を浮かべるが、カタリナは確かにその映像を覚えていた。
 そうなると聖王の言っていた友人とは、人間ではなく巨龍ドーラのことであったということか。
 確かに、友人の子と言われてもそれが人間ならば、当然だが三百年も生きていられるはずもない。後世に現れる八つの光に対して紡ぐ言伝ならば、友人の子というのが人間を指していることの方が寧ろ可笑しい。そうなれば確かに、辻褄は合う。

「友人・・・ですか。そうですねぇ・・・確かに聖王にとっては、巨龍ドーラは友人と呼ぶに相応しい存在だったのかも知れません。ご存知の通り、聖王は魔龍公ビューネイ討伐の後に、聖王の再三の諫めを聞かず人里を襲ったドーラをもその手で屠っています。その際、聖王が竜の命を奪った折に流した涙と嗚咽は、ルーブ山中に響き渡ったと伝えられています。聖王記にすら其処まで記されるという事は、相応の関係性が其処にはあった、と見るべきなのかも知れませんね」

 詩人は話の流れからハリードの言葉に頷きつつ、聖王記の内容に準えながら語る。
 それは恐らく正しい見解なのだろうな、とカタリナも感じた。
 あの時の映像にて最後に「友人の子」について語っていた時の聖王は、『聖王』という神格化された存在というよりも、文字通りの友人の子を心配する一人の単なる人間の様にも見えたのだ。
 その聖王に、確かに彼女は頼み事をされていた。
 ならば、彼女に用意された答えは、最早一つだけだ。

「・・・分かったわ。ルーブ山に、行ってみましょう」
「ふふ、貴女ならば、そう言ってくれると思っていましたよ」

 まるで初めからその答えを知っていたかの様に微笑む詩人に対して、その思惑通りにことが運んでいることを思うと非常に腹立たしい気持ちが沸沸とカタリナの内面に沸き起こる。しかしこれを鍛え上げた強靭な理性でどうにか押さえ込みつつ、カタリナは立ち上がった。
 そうと決まれば、ほんの一時たりとも時間を無駄にしている余裕など、ないのだ。

 

 その日のうちに改めてグゥエインとの対話を図るための準備を行いバンガードを発ったカタリナは、バンガードから上陸したルーブ地方側の最寄りの宿場町から馬を駆り、真っ直ぐルーブ山へと向かった。
 今回彼女に同行するのは、フェアリーのみだ。
 フェアリーに同行を願ったのは、竜たるグゥエインとの対話に人語以外が必要となる可能性を考慮し、その場合の通訳を頼むためである。
 そして逆にフェアリー以外に同行者を連れてこなかったのは、グゥエインに対して此方は争う意志はない、ということを伝えるためだ。大人数で押し掛けても、無駄に対象の警戒心を煽るだけだろうというのが、カタリナの考えであった。
 また抑もトーマスに関しては、どうやらカタリナにロアーヌのことを伝えることが本来の目的というわけではなく、元々はガーター半島最大の都市国家であるウィルミントンに向かう予定だったようだ。そこで、ウィルミントンを本拠地とするフルブライト二十三世に、何らかの急用で呼ばれているらしい。
 今回は偶々それと同じタイミングでロアーヌの危機をピドナで知り得、急遽ウィルミントンに向かう前に、こうしてバンガードの帰還を待ってくれていたのだという。本当に彼には、感謝しかない。
 そして如何やらミューズとシャールにも同じくフルブライトからの熱烈な招待があったらしく、トーマスと三人でこのあとウィルミントンに向かう予定だ。
 合成術を放ったウンディーネはまだ両腕の状態が芳しくなく、治療が継続して必要な状況で迂闊に動けないので、ボルカノもそれに付き添っている。
 ブラックは見かけに寄らず律儀にも今回の恩を返すために暫くは付き合うと申し出てくれたが、それならば、とハリードと共にミューズの護衛についてもらうことにした。トーマスが言うには、今後更にミューズの身辺警護は強化をしていかなくてはならないから、どの事だ。

「こうしてカタリナさんと二人で旅をするのも、なんだか久しぶりな気がします」

 馬上でカタリナの手前にちょこんと腰掛けながら、フェアリーはそう言ってニコニコと微笑んだ。馬上でそんなに喋ったら舌を噛むわよ、と言おうかと思ったが、そう言えばフェアリーは常に多少浮いているので、馬の振動は関係ないのであった。カタリナはそのように思い返し、そういえばそうね、と短く言って微笑み返す。
 フェアリーとはグレートアーチに向かう船上で出会ったので、それももう既に四ヶ月近くも前の話だ。
 あの時の密林の大冒険も、思い返せばとんでもない経験だったな、とカタリナが思い返していると、フェアリーはカタリナを見上げるようにしながら口を開いた。

「今度は、竜との対面ですね。こんな時に不謹慎ですが、私はまた新しい世界が垣間見える様で、少し楽しみです」

 一人和やかにそう呟いたフェアリーは、改めて遠く北方に見えるルーブ山へと視線を向けた。カタリナもそれに合わせて、遠くの峰を視界に映す。
 二人は、ここから五日ほどでルーブ山へと到達する予定だ。

 

 

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第七章・9 -最果て-

 

 耳を擘く轟音と共に『空』へと流れ落ちる、見渡す限りの水。水。水。
 それは文字通り上下左右を見渡す限り、どこまでも、全く同じ光景だった。視界の続く限りその果てまでずっと、大量の水飛沫を伴い滝となって落ち続ける水があるばかり。このように水が落ち続けてしまっては、三日もすれば世界の海はすっかり干上がってしまうのではないか、と心配になるほどだ。
 そしてその滝の轟音の渦巻く中に、滝の轟音に比べたら実にわずかな音量にて、自然界には起こる筈のない異質な戦闘音が時折混じっていた。
 自分たちの数倍は高さがあろうかという巨大な水竜の放つ鋭い爪撃を、しかし最前線に立つカタリナとハリードは、滑りやすい濡れた足場にも関わらず難なく飛び回って躱していく。
 彼らの背後には依然として落ち続ける滝があり、その滝の合間から出っ張った岩場で彼らと対峙する巨大な水竜の背後には、ただ只管に青い空がある。
 その背後の空には、大地も、海もない。只管に、青空があるだけなのだ。それは、生物に生理的な恐怖をすら抱かせる『無』とも呼べる光景だ。
 動き回るカタリナとハリードに翻弄されて姿勢が崩れた水竜に向かい、シャールが己の魔力を込めた強烈な二段突きを放つ。するとその二段突きに込められた迸る気迫が、雄々しい二頭の龍の形に具現化し、衝撃波を伴って双龍が水竜を貫く。

「ギャオオオォォォォォ!!」

 シャールの一撃によって胴を抉られ苦痛に喘ぐ水竜へと向かい、更に追い打ちをかけるようにミューズとフェアリーが、その手にしていた麻袋を勢いよく水竜に向かって投げつけた。
 水竜が苦悶の声を上げつつもそれを打ち払うように尾を振るうが、麻袋は龍の尾に振れた瞬間、とんでもない威力で炸裂を起こす。それは、朱鳥術士ボルカノ特性の「火星の砂」と呼ばれる、特殊な岩石に朱鳥の力を内包させた魔道具であった。古くは四魔貴族であるアウナスの配下が用いたものであるとされるが、それを現代に蘇らせたボルカノが更に改良を加えた一品だ。
 炸裂の衝撃によって無残にも尾が吹き飛んだ水竜は、再度雄叫びをあげながら苦しみ踠くが、尾を失ったことで姿勢制御が出来ずに大きくよろけた。そこに止めとばかりに放たれたカタリナの払い抜けをもろに喰らい、水竜は呆気なく岩場から水飛沫と共に、何処とも分からぬ空の果てまで落ちていった。

「ふぅ・・・ここが世界の最果てっていうのは本当なのね・・・。なんかもう、来るところまで来たって感じだわ・・・」

 カタリナはそう呟きながら、水竜の落ちていった先を岩場の端から恐る恐る見つめる。
 背後は滝。正面は空。下を覗き込めば、そこは空虚なる果てなき奈落。
 そう、まさに世界のこの先には「何もない」のである。

 

 カタリナ達は今この世界の最果てにあるらしい、通称「最果ての島」にいた。
 ハーマンの示す通りに只管西太洋を西へと進んだバンガードは、人類が外海に進出してから現代に至るまで、ついぞ越えることのなかったとされる船乗り達の畏怖にして信仰の対象「玄武の怒り」を突破することに成功した。
「玄武の怒り」とは、陸を離れて外海の航海を続けると必ず遭遇すると言われる、巨大な嵐のことだ。
 例えどれだけ大型の船であろうとも、この未曾有の嵐によって荒れ狂う海に弄ばれ、沈没を免れない。まるで突如として神の逆鱗に触れたかのように荒れ狂う海原を見た人々は、それまでの穏やかな海との違いに慄き、強烈な畏怖を抱き、祈りによってその災厄を免れようとしてきた。故に古来より西方諸国では、外海での長期間の航海は徹底して避けられてきたという歴史がある。
 だがハーマンは、それを承知で西を目指した。彼には、それだけの確信があったのだ。
 結果として大方の予測通りに玄武の怒りに触れたのだが、さしもの玄武もこのバンガードを沈めることは叶わずだったのか、無事に嵐を通過する事ができたのであった。
 そして嵐を抜けた先に遂に見えたのが、この「最果ての島」だった。
 島に最接近するには座礁の危険性が高いとのことで、バンガードを沖に待機させながら小舟を出して一時間ほどで辿り着いたその島には、なんと驚くべきことに何者かの住居が幾つもあった。
 そしてその住居から出てきてカタリナ達を歓迎してくれたのは、なんとそこに住う先住民族「ロブスター族」であったのだ。
 ロブスター族とは、西方世界の中でもその存在を知っている人間は殆ど居ないであろうと思われる、不可思議な種族だ。かく言うカタリナも、存在を知っていたと言うよりはフェアリーからその存在を示唆されていた、というだけであったし、何しろ当のフェアリーにしても実物を見たのは妖精族の歴史にて初。あとは、古代文献で僅かばかりの其れらしき記述を見ていた、ウンディーネとボルカノ位だ。
 そしてもう一人、この中で誰よりも彼らロブスター族のことを知っている人物がいた。
 それこそが、ハーマンだった。
 因みに彼らはロブスターといっても、その姿は一般的な節足動物の様相を成しているわけではない。なんと彼らは、ロブスターと言える特徴を備えていながらも、驚くべきことに人間と同じく二足歩行であったのだ。また人間で言うところの両腕に当たる部分にはエビ科の特徴としある大きな鋏を持っており、しかし退化したのかそれ以外の複数の足は生えておらず、両足に当たる部分には、人間以上に逞しい『足』を持っている。
 カタリナはその姿を見て、かつてフェアリーから「周囲がドン引きするくらい本気で全身ロブスターの仮装をした人」と言われた通りそのまんまだな、等と多少ずれた感想を抱いた。
 そしてその容姿よりも更に一等驚くべきことに、なんと彼らは、人語を解した。

「見事だな、人の子らよ」

 それは、はたして拍手のつもりなのだろうか。両手と思しき部分の巨大な鋏をカチカチと小刻みに鳴らしながら滝の裏から現れたのは、ロブスター族の戦士だと名乗るボストンというものだった。

「我々のモードは玄武の水。水竜には通じなかったからな」
「いえ、あんなものが居ては、さぞ御不安だったでしょう。手遅れになる前に我々が来て良かったです」

 妙に紳士的な言葉遣いのボストンに対し、カタリナはすっかり人に接するのと同様の調子で受けあった。
 そこに、ボストンの背後からハーマンも現れる。

「・・・君は参戦しなくて良かったのかね、ハーマン」
「・・・けっ、俺が出る幕じゃねえんだよ」
「フォフォフォ、そうであったか」

 そして驚いた事に、ハーマンとボストンは顔見知りらしかった。なので、この最果ての島に辿り着いた折にも二人は、真っ先に声を掛け合っていた。
 この滝の洞窟に、フォルネウスが差し向けた水竜が巣喰い島を脅かしている事を最初に聞いたのも、彼だ。
 そして話を聞いたハーマンは間髪入れずに、何より先ずその水竜を仕留めることをカタリナに提案してきた。

「・・・ま、これであの時の借りはチャラだ。戻んぞ」

 吐き捨てるようにそういったハーマンは、相変わらず義足とは思えぬ俊敏な動作で踵を返して滝を潜っていく。

「・・・義理堅い男だ。過去にここに流れ着いた彼奴を介抱したのだが、それに恩義を感じていたようだ」
「ふぅん・・・」

 ボストンのその言葉に、カタリナは何だか意外なことを聞いたな、と考えながらハーマンの背中を視線で追う。
 彼がこの島の存在を知っていたのは何故なのかとは考えていたが、タネを明かせばつまり、ここに来た事が既にあったからなのである。
 ボストンによれば、十年ほど前に船の破片か何かに掴まり島の沖に流れ着いていたハーマンを、彼が最初に見つけて介抱してやったのだそうだ。
 当時の彼は全身に夥しい傷跡があり、そして左足は膝から下を鋭利な歯か何かで食い千切られるようにして失っていた。誰の目にも洋上で魔物に襲われたのだろうという事が、その様子からすぐに分かった。
 そして酷く衰弱していた彼を島で数週間に渡り介抱した後、玄武の祈りを込めた小舟に乗せて東へと送り出したのだった。
 彼らロブスター族は玄武の力を司る種族であり、彼らの祈りは「玄武の怒り」を鎮める事ができる。そして祈りは船の周囲にのみ、その向かう先への流れを生み出し、ハーマンはガーター半島の西岸へと漂着することに成功したのだそうだ。

「戻ってきたということは、矢張り彼奴は、フォルネウスに挑むつもりなのだな」

 ボストンのその言葉に、カタリナは浅く頷いて返す。
 そう、彼は間違いなく、四魔貴族が一柱である魔海侯フォルネウスに挑むつもりなのだ。
 その為にこそ彼はカタリナの要請に応じ、ここまで同行をしてくれたのに他ならない。
 そして彼がこの「最果ての島」に戻ってきたのは、何も彼らに恩を返しにきただけと言うわけではないらしい。それ以外にも、しっかりとした理由があるようだった。

「かつてここに流れ着いた時、彼奴は満身創痍にも関わらず自分の足と仲間の仇を討つと言い、直ぐにでもフォルネウスと相見えるつもりでいた。だが、フォルネウスは余りに強大だ。あの時の彼奴では、何の抵抗も出来ずに、ただ無駄に死に行くだけだった。我々はフォルネウスの住処である『海底宮』のあるポイントを知っているが、あれでは教えるだけ無駄。だから、フォルネウスに挑むに相応しい状態でまたここに戻ってこられたらポイントを教えてやると、あの時はそういって彼奴の世界へと返したのだ。まさか、本当に戻ってくるとは思いも寄らなかったがな・・・」

 あぁ、だからか。と、カタリナはここまでのボストンの話を聞きながら、この最果ての島に至るまでの船旅を思い返していた。
 ウンディーネが集めた玄武術士は、三十六人を三交代制でバンガードの動力確保を行なっていた。
 自らの担当時間帯でバンガードを動かした術士達は、魔力量がほぼ枯渇した状態で解放され、その後は食事など各々の時間を過ごし、最後にボルカノの調整した擬似霊酒を飲んで魔力回復を行い休息をとる。
 つまり一日に三回、バンガード内では業務内容としての酒盛りが開かれていたのだ。
 そしてその間カタリナ達は特にやる事もなく、食料確保を目的に釣りをしたり、剣の稽古をしたり、バンガード内部にある資料庫と思しき場所で調査をしたり、若しくは酒盛りに合流したりと、各々の自由に過ごしていた。
 そんな中でもハーマンは、カタリナ達の輪にも混じらず、また一番好みそうな酒盛りにも参加せず、ただただバンガードの船首にて自らの向かう先を眺め続けていた。
 彼女が特に印象深く思っているのは、航海が始まって一週間経った辺りの頃だ。それは、船首から海にラム酒を流しているハーマンの姿を見た時だった。
 まるでそれは誰かへの弔いのようにも思えたが、彼独特のどこか人を寄せ付けようとしない空気に、彼女もそこで声をかける気にはなれなかったのだ。
 つまりあれは、フォルネウスとの戦いの中で犠牲になった仲間への弔いだったのだろう。

「あれからあの男は、たったの十年で伝説のバンガードを引き連れてやって来て、そして今、この島の危機をも救った。あの男の覚悟に、我々も応えなければなるまい」

 滝へと繋がっていた洞窟を戻って島の表層へと出てきたところで、ボストンは外で何時もの様に煙をふかしながらこちらを待っていたらしいハーマンを見据え、そう言った。

「ハーマンよ。約束通り、海底宮のポイントを教えよう。だが、ポイントを教えたところでそこに先導するものが居なければ、海底宮へと辿り着くことは叶わないだろう。故に、わたしもバンガードに乗せてくれないかな?」
「・・・あん?」

 ボストンのその申し出に、ハーマンは煙を吐き出しながらそう呟いた。そして何を思ったのか、カタリナへと視線を投げかける。

「バンガードの主人は俺じゃねえ。其奴に聞け」

 いやいや、別に私も主人ってわけではないし。なんなら、ちゃんとバンガードにはキャプテンがいるし。とは言えず。
 カタリナは急に話を振られて、意味もなく勿体ぶって腕を組んでみた。
 とは言え、無論彼女にはこの申し出を断る理由など微塵も思いつくわけはないのであった。

「オーケー、一緒に行きましょう」

 そう快諾して、改めて握手をしようと手を差し伸べかけたが、ここで彼の鋏と握手したら自分の右手は恐らく無くなってしまうな、という事に思い至ったカタリナは、ボストンの肩の部分と思しき頑強な甲殻を軽く叩きながらそう告げた。

 

 

 ボストンの情報提供によって西太洋の、とある地点の海の奥深くに海底宮があるということが分かった。
 そしてそこに進軍するに向けて文字通りバンガード中を奔走することになったのは、実質的にバンガードの航海士的な立場にあるボルカノであった。
 最果ての島へと送り込んだ水龍が屠られたことがフォルネウスに伝わるのは、無論時間の問題であろうと考えられる。バンガード襲撃失敗、最果ての島の侵略失敗から時間が経てば経つほどに警戒度は上昇し、海底宮への侵攻は難易度を増していくだろうことが予測された。
 故に一行は海底宮のあるポイントがわかった以上は一刻も早く向かうべきという方針で一同意見は一致したのだが、ここで問題が一つ浮かび上がった。
 つまりは、「どうやって海の底にいくのか」ということである。

「聖王記のフォルネウス討伐の章には、『海底宮に攻め込んでフォルネウスを討った』っていう記述しかないのよね・・・相手を海上におびき出すのではなく、こちらが海底に攻め入る。魚にでもなれ、というのかしら・・・?」

 集合会議の場でカタリナがそう疑問を呈すると、その場に集まった一同はそれに対する回答を持ち合わせずに、一様に首を捻った。ボストンにその辺りの知恵がないかも当然聞いたのだが、彼らロブスター族の間でもそれに関する伝聞は特にないのだという。彼らは妖精族とは違い、特段長命種というわけではないようだ。なので聖王の時代に生きたものも、もう数世代前に遡るらしい。つまり彼らが知るのは、海底宮の場所のみ、なのだ。

「海底宮に着いてからは、まだ何とも言えないが・・・恐らく、海底宮まで向かうには天術の障壁と同様に、玄武の術を応用した何らかの仕掛けでこのバンガードを覆う、と考えられる」

 ボルカノがそう言うと、それに続けるようにウンディーネが口を開いた。

「私も同意見よ。このバンガードは、水を通さないほど各接続部に遮断性はない。つまり、そのまま水に浸かりながら海に潜れるような構造にはなっていないから、何らかの術式を用いてバンガード全体を水から守りつつ潜る、と考える方が自然なのよ。若しくは人だけを覆う限定的な術式の可能性も考えたけれど、それが可能なら抑もこんな馬鹿でかいバンガードなんてものを作る必要性がないわ。だから、このバンガードごと海底宮に突っ込む、と考える方が自然なわけね。まぁ、だからこそ海水に満たされているであろう海底宮に着いてからの探索方法が、いまいち想像つかないわけなのだけれど・・・」

 彼女の言葉にボルカノが全くの同意を示すように何度も深く頷きながら、やがて皆が黙ったところを見計らって素早く立ち上がった。

「俺はもう一度、艦橋でその起動術式がどこにあるのかを探してくる。一応、既に粗方の調査は終えているが、そのような仕掛けは現段階では見当たらなかった。となると隠されているか・・・若しくは、壊れている可能性がある」
「・・・それって、壊れていたらどうすんだ?」

 ハリードがそう言いながら首を傾げると、ボルカノは腰に手を当てながらハリードへ振り返り、啖呵を切った。

「直すしかあるまい。自慢じゃあないが、恐らくこの世界でそれができるとすれば俺か、あとは魔導器研究の分野で名高い、ツヴァイクのプロフェッサーくらいのものだろう」
「・・・大した自信だな。何か手伝えることがあれば言ってくれ。それまで俺は酒でも飲んでいることにする」
「言っておくが、霊酒は飲むなよ」

 なんでもボルカノがハリードに対してどこかツンケンした雰囲気なのは、出会い頭にハリードからモウゼスの一件の際に「護衛費」の名目で大金を巻き上げられたから、らしい。結局は双方の和解に一役買った、ということで納得の上その金額はそのまま彼らの懐に入ったわけだが、その時のハリードの態度があんまりにも悪役めいていたので、まだまだ年若いボルカノとしてはどこか腑に落ちない部分があるようだ。対するハリードも、どこかそれを分かった上で若人を揶揄っている節があり、カタリナからしてみればどちらもどちらだなぁと思うところではあった。そういうカタリナ自身も年齢的にはボルカノに近いはずだが、どうにも最近の彼女の考え方が老成しているのは、これも指輪の影響なのか何なのか。
 話が逸れたが、カタリナと同じくそれを雰囲気で理解しながらも、さっさと立ち去っていくボルカノを追うウンディーネの優しそうな視線から推し量る限りでは、彼のそう言った若気に満ちた行動も満更悪い影響ばかりではなさそうかな、という気もするが。

「私たちも、できる限り手伝いましょう。術が扱える人は付いてきて。今は推進力に術力を割いていない状態だから天術障壁のみの稼働状態だけれど、霊酒の残数がこの作戦の実行可能期間だと思った方がいいもの」

 ウンディーネのその言葉により、その場に集まっていた各々が動き出した。術に関して殆ど知識がないカタリナとハリード、フェアリーは決戦に備えた自主訓練に励むこととし、その間にボルカノを中心としてバンガード解析班が動き出した。
 とはいえ、その作業は非常に地道なものであった。
 何しろ、この時点で艦橋から起動が確認できた仕掛けはボルカノが全て把握しており、そしてそのどれもが玄武の術式を展開するものではなかった。
 また『幾つかの仕掛けの組み合わせにより起動するものなのかどうか』を想定し、考えうる限りの組み合わせや順番で各機能の起動実験を行ってみたが、これも矢張り望む成果は得られなかった。
 そこで残された可能性はボルカノの予測通り、隠されたか壊れた機能であるという結論に早々に辿り着き、この巨大なバンガードの内部構造を隅々まで虱潰しに調査していくという方針がとられた。
 この捜索には通常起動に関わる玄武術士を割くわけにはいかないので、ボルカノとウンディーネの他にカタリナ一行の中でも術の心得があるシャール、ミューズ、ハーマン、ボストンが協力して捜査に当たった。
 即ちその捜査方法とは、バンガードの通路を只管歩きながら魔力の流れを肌身で確認し、その流れが不自然に途切れていたり留まっている場所がないかを見極める、と言う作業だ。
 船長室から下ったバンガード内部は単純に艦橋のみがあるわけではなく、実に細かく多くの細い道が内部に存在している。そしてそれらの壁には艦橋と同様に、各部に魔力を伝える回路と思しき道筋が描かれている。なので、それらを辿ることで何れかのポイントを探り当てることができる、とボルカノは踏んだわけなのだ。
 ボルカノはこれを行うにあたり、巨大なバンガード内部をただ闇雲に探しても効率が悪いと考え、捜索範囲を一区画に定めて集中的にそこを全員で調べていく手法を取って捜査に当たった。

 

 しかしそこから瞬く間に一週間が過ぎ、一向に成果が得られず霊酒のストックが間も無く帰りに支障を来す危険域に達しようかという状況まで、あっという間に一行は追い込まれることとなった。

「・・・歩いて行ける区画は全て探索したというのに、本丸どころか小さな違和感の一つも見つからないとは・・・。まさか、バンガードで海底宮に向かうわけではないというのか・・・?」

 ここにきてまさかの基本仮説を根底から見直す必要性にまで迫られているが、しかし彼らに残された時間は殆どない。それこそ霊酒の備蓄状況から考えるに、今日中にでも答えが導き出されなければならないという状況なのであった。
 朝の定例会議で疲労感に包まれたボルカノその他が沈痛な面持ちで項垂れているのを見ながら、かといって特に出来ることがないカタリナは、当然そこに居た堪れなくなり、ひっそりとその場を後にして居住区へと向かった。

「・・・皆さん、かなり憔悴しておられるようです。私たちにもなにか出来ればいいんですが・・・」
「そうは言っても、術がからっきしの俺らにゃ捜査も何もできねーわけだし、下手に協力を申し出ても却って邪魔になるだけだろう。こう言う時は、信じて待つしかないのさ」

 カタリナと同じく場を後にしてきたフェアリーとハリードがそう語り合うのを他所に、カタリナも直ぐにはいつも通りの修練へと移る気が起きずに、気分転換に歩いた先に辿り着いた町の中央の噴水の淵に腰を下ろして空を見上げた。

「ううん、水に潜る、か。水、水、水・・・」

 そう呟きながら、カタリナはぐるりと自分の周囲を何気なく見渡す。その行動で何か解決策が見つかるとは流石に彼女も思わないが、それでも何かしらの気づきがないものかと、淡い期待を抱いての行動だ。
 それに倣うようにフェアリーとハリードも、特に当ても無く周囲を見渡した。
 そしてハリードがぽつりと、背後にある自分の腰掛けていた噴水を見ながら呟く。

「そう言えばこの噴水、水が枯れてるな」

 彼らがいたのは、街の中央に配置されている噴水広場である。
 治水のされた比較的大きな都市には大抵都市の中央付近にこういった噴水があり、現地住民の憩いの場として機能しているものだ。
 だがハリードが指摘する通り、このバンガードの噴水は故障故なのか、それとも陸から離れたからなのか、噴水に水が全く無いのであった。

「・・・それは、元々じゃよ」
「あ、キャプテンさんこんにちはです」

 声のした方向にいち早くフェアリーが振り返ると、其処にはこのバンガードの市長兼キャプテンが立っていた。
 彼は日中、こうして海上要塞となったバンガードを自分の足で見て回るのが最近の日課なのだ。

「この噴水は、わしが生まれる前から、街中で現在活きている水路の何処とも繋がっておらんでの。だから、そもそも水は出ないんじゃ」
「へぇ・・・じゃあ、一体なんのためにあるんだ?」

 ハリードが実に尤もな疑問を呈すると、キャプテンはお茶目に肩を竦めてみせた。

「さぁ、分からん。一応その天辺のところが外れて下のほうに続く穴は有るんじゃが、暗くてよく分からなくての」

 キャプテンは噴水の先端に視線を向けながら、笑い混じりにそう言った。
 それを聞いたカタリナは、じっと噴水の先端を見つめる。
 そこまで背の高く無い噴水の先端は、精々がカタリナの腰の高さ程度のものだ。だがカタリナは、そうしてじっくり噴水を見つめているうちに、ふとその光景に強烈な違和感を覚えた。

「・・・うーん。何か、足りない気がするわ」
「あん?」

 カタリナの唐突なその呟きに、ハリードが反応する。だがそんな反応を他所に、カタリナは枯れた噴水の中に足を踏み入れ、徐に噴水の天辺を掴み、持ち上げた。
 すると、特段固定されていなかった様子の天辺部分は思いの外すんなりと外れた。そしてそこには、キャプテンの言う通り確かに人の頭ひとつ入る程度の穴がぽっかりと空いていたのだ。
 カタリナが上からその穴を覗き込むと、穴の奥深くからはなんと、薄らと淡く青い光が漏れ出しているではないか。

「・・・何か、下の方で光っているわ」
「お、なんかお宝か?」

 皆が必死にバンガードの動かし方を探しているときに随分と不謹慎だなこの守銭奴は、とカタリナが思うのを他所にハリードがカタリナの横から穴を覗き込むと、確かに奥底から淡く青い光が漏れ出している。だが、その光についてハリードには即座に予測がついてしまった。

「・・・あれ、艦橋じゃねーか?」
「あぁ・・・位置的には、確かにそうかも」
「そうすると、これは通気口かなにか・・・でしょうか?」

 ハリードの予測に、カタリナとフェアリーが其々感想を述べる。

「で、何が足りないってんだ?」

 一頻り穴を眺めた後に、ハリードはカタリナの発言を振り返って尋ねる。すると、問われたカタリナは腕を組みつつ片手を顎に当てながら、数秒悩んだ。

「・・・何かが引っかかるんだけど、はっきりしないわ。ちょっと、艦橋に行ってみましょう」
「それも、指輪の『記憶』なのかねえ。案外それが問題解決の糸口なのかもな」

 ハリードの言葉は、満更でもない線を突いているのではないか、とカタリナも感じていた。
 抑も彼女はこれまでの人生で当然バンガードに足を踏み入れたこともないので、ここの光景に違和感を覚えることなど、あるはずも無いのだ。
 似たような景色との類似性から来る既視感かとも考えてみるものの、ロアーヌからあまり出たことのなかった彼女にしてみれば、他の街の景色に関する記憶はここ一年以内のものばかりなので、まだ忘れるにも早すぎる。
 だからこそこの感覚は、王家の指輪が持っている感覚なのではないかと考えるのも、そう破天荒な話ではないはずだ。
 そんなことを考えている間に、カタリナ達三人は早々に艦橋へと辿り着いた。
 其処には稼働を最小限に抑えるべく少数の玄武術士と、顔を突き合わせて相談をしている様子のウンディーネとボルカノが佇んでいた。
 彼女らの表情は矢張り疲労感も合わせ、明るくはない。

「・・・どうしたのだ」

 初めにカタリナ達に気がついたボルカノの呼びかけにカタリナが片手を上げて応えようとしたその矢先、ハリードがそれを遮るように艦橋の天井の一部を指差して声を上げた。

「お、あったぞ。あれだろう」

 ハリードの言葉にその場の全員が視線を彼の指の先に向けると、艦橋の天井には確かに、穴が開いていた。

「・・・通気口が、どうかしたのか」

 確かにそれは、誰がどう見ても通気口のようだ。
 だが、ボルカノがつまらなそうに穴を一瞥しながら吐き捨てるようにそう言う合間に、カタリナはその穴の真下に移動した。
 穴は、丁度イルカ像の直上に位置していた。

「あ、これよ、これ」

 カタリナは漸く胸の痞えが取れたような面持ちで、イルカ像と真上の穴を交互に見つめた。
 そして背後へと振り返り、ウンディーネとボルカノへ視線を向ける。

「これ、念じたら上に動いたりしないかしら」

 イルカ像の乗った台座を指差しながらの唐突なカタリナの申し出に二人は当然困惑の表情を見せたが、しかし彼女の目が真剣そのものであることを察して、試しに水晶にそのように意識を向けるよう近くの玄武術士に指示を出してみた。

ギギギ・・・

 すると驚くべきことに、程なくして台座がゆっくり上に上にと伸び始めたではないか。
 驚くウンディーネらを前に、そのまま台座はぴったりのサイズであった穴へと嵌り、しかしまだ上へと伸びていく。

「噴水に戻りましょう」

 カタリナがそう言うのを機に、ウンディーネらも共に市街区の噴水へと移動していった。
 そして彼女らが早足で噴水広場に舞い戻ったときには、艦橋から押し上げられたイルカ像がぴたりと噴水の天辺に収まっていた。

「・・・おい、何か可笑しいぞ」

 そのイルカ像を注意深く見ていたボルカノがそう指摘した正にその瞬間、なんとイルカ像が微細に振動しながら輝きを増し始め、その姿を変形させていく。

「翼が・・・」
「・・・生えましたね」

 カタリナの呟きに、フェアリーがそう答えながら自分の羽をぴくりと震わせる。
 なんと噴水の上に鎮座したイルカ像は、その背の部分から鳥の翼のようなものが生えた形に変形したのだ。
 そして更に、イルカ像の台座から見る見るうちに水が溢れ出し、枯れていた噴水に見る見るうちに水が満たされた。
 その様子を歩み寄って覗き込んだウンディーネは、はっとして背後のボルカノを呼んだ。

「ボルカノ、これを見て」
「・・・これは!」

 ウンディーネに続いてボルカノが噴水を覗き込むと、水で満たされた噴水にははっきりと、新たな魔力の流れを示す紋様が浮かび上がっていたのだ。
 二人は顔を見合わせると、どちらからともなく駆け出し、艦橋へと戻っていった。
 そんな彼女達の様子を眺めながら、カタリナは腰に手を当てて一息つく。

「どうやら、これで何とかなりそうね」
「そうなんですか?」

 今一流れの掴めていないフェアリーがそう尋ねると、カタリナは確信めいた様子で小さく頷いた。

「まぁ、少し待ってみましょう」

 カタリナがそう言ってから暫しののち、恐らくはウンディーネとボルカノの指示によって輝き出した翼の生えたイルカ像から放たれた青い光がバンガード全体を覆い、やがてバンガードが海中へと沈み出したのであった。

 

 

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第七章・8 -発進-

 

「・・・驚いた。これが船ですって・・・?」

 豊かな胸部の下でしなやかに組んでいた腕を無意識に解きながら、水術師ウンディーネはその空間を正しく圧倒される様な思いで見回した。
 空間全体から漏れ出でる様に仄かに青白い光が周囲を照らし、その場が全体的に微弱な鳴動を繰り返している。それはまるで、この部屋そのものが生きているのではないかと思えるほどに奇妙な動きだが、ウンディーネにはそれが何であるのか、大凡は分かっていた。

「ディー姉、ここは一体・・・」

 彼女の隣に付き従ったボルカノが、まるで自分の知らない異世界でも見ているかの様な表情で呟く。彼自身も世界を周り様々な遺跡を見てきたが、ここまで異様な場所は初めて目にするようだ。

「ここは・・・というかこのバンガードという街全体が、恐らくは・・・。俄かには、信じられないけれど・・・」

 ウンディーネが感嘆とした様子でそういうのを聴きながら彼女らに遅れてその空間に入ってきたカタリナは、彼女らの反応をまるで数日前の自分たちのように見ていた。
 一週間ほど前に初めて彼女がハーマンらと共にここに訪れた時も、一行はまるっきりウンディーネ等と同じような反応をしたものだ。
 だがその中でもカタリナだけは、このような空間に強烈な既視感を持っていた。
 それは彼女だけが見た魔王殿最深部や、火術要塞全体を照らす、あの微かな光と止まぬ鳴動。バンガード内部は、何処かそれと同じような感覚を覚えるのだ。
 これらの総称を、あれはそう、なんといったか。

「・・・これは船や、ましてや街などではないわ・・・。言うなればこの建造物全体が、超大型の魔導器ってところね」

 ウンディーネがそう呟くのを聞いて、カタリナは一人、そうだそうだとその言葉を脳内で反芻した。
 魔導器。それはカタリナがツヴァイクの西の森で教授から教えてもらったものだ。
 そしてその魔導器を扱う科学を世間では魔導科学と呼び、それは非常に古くからこの世界に存在が確認されていた科学分野である。しかし残念ながら現存する僅かな魔導器に関してもその構成理論の殆どが未解明であり、未だその大部分が謎に包まれているという。
 それら記憶と既視感の正体をカタリナがウンディーネらに話すと、ウンディーネは考えるように小さく唸りながら周囲を見渡した。

「・・・可能性の考察は勿論されていたけれど、いざ目の当たりにすると、圧巻の一言ね・・・」

 今やその大多数をカタリナ一行が所持している魔王遺物や聖王遺物は、これも大別すると所謂『魔導器』であるとされている。
 そして聖王記に記された数々の伝説の中でも一等理解の及ばぬ存在である「対魔海侯用決戦兵器バンガード」もまた聖王遺物であり、魔導器なのではないかとの説を唱える学者は一定数いたのだ。
 では抑も、聖王遺物とは何なのか。
 何しろこの疑問は、三百年前から数多くの学者の頭を悩ませてきた。
 いや、もっと言うならば六百年前の「魔王」という、四魔貴族をすら従える程の圧倒的な力を持ちながらも人の殻にあった存在を考察する時点で、今の人類にはどう足掻いても届き得ない未知の力が存在するのではないかと半ば諦め気味にすら考えられていた。
 例え世界一の名工が鍛えた武具と一流の戦士の一撃でも、天地六術式に精通した魔術師が放つ大魔術も、魔王や、そして聖王遺物のもつ力には遠く及ばないのだ。
 まだしも、その姿形からして規格外の四魔貴族の方が多少なりと力の根源への理解も及んでいるというものなのである。魔術の基本となる天地六術式とは異なる、人に害を為す瘴気・・・所謂「アビス」という属性。これを無尽蔵とも思えるほどにゲートから取り込み、行使する存在。それが四魔貴族だ。
 しかしそれらとも全く異なる力が、魔王や聖王遺物なのである。
 とは言え魔王遺物は、その殆どが長きに渡り行方知れずだった。そして存在の確認されていた幾つかの聖王遺物に関しては、聖王記に記された教えにより基本的に現在の所持者、若しくは資格あるもの以外の接触そのものが禁じられている。
 そんな状況の中で研究者が示した一つの推論が「聖王遺物=未知の魔導器」という説だった。
 つまりは、魔導科学そのものが不透明な分野であるからして、事実上のオーパーツ認定という事になる。

(まぁ、つまりマッドサイエンティストには御誂え向きの分野ってワケよね・・・)

 自分で依頼しておいて何だが、教授に火術要塞の調査を頼んだのは、これ以上ないほど的確であったとカタリナは確信している。
 きっと依頼さえすればこのバンガードのことも、勇み喜んで調査をする事だろう。
 同時に依頼をしたので一緒に居るはずのヨハンネスのことが多少気の毒には思えるが、まあ彼も一人黙々と研究を行うタイプの学者なので、恐らく大丈夫だろう。
 カタリナがそんなことを考えていると、ウンディーネは艦橋(ハーマンに言わせれば、ここは恐らくそうらしい)をしっかりと観察するように隅々まで歩き回った。
 この艦橋には入り口から正面を進んだ先に何かを設置するためのものと思われる台が設置してあり、その台を起点として左右対称になるように艦橋の中には等間隔に仄かに青白い光を灯す水晶の台が、合計六つある。
 其れ等の台や床、壁に至るまでをじっくりと調べたウンディーネは、一頻りそうした後になぜか、妙に艶のある吐息を漏らした。
 その吐息に反応して同じく艦橋を見て回っていたボルカノが何やら頭を掻きながら彼女の方を向くと、ウンディーネはうっとりとしたような視線で艦橋全体を眺めている。

「素晴らしい・・・ここは本当に素晴らしいわ」
「・・・?」

 その必要以上に艶めかしく何処か不穏な様子にカタリナが疑問符を浮かべていると、ボルカノは肩を竦めながらカタリナに助言をする。

「あぁ・・・あれはディー姉の癖だ。自分の興味が強く惹かれるものを見ると、大体ああなる。あまり気にしないでくれ」
「あら、そうなの・・・。なんだか貴方も、案外大変そうね」

 カタリナの憐れみを含んだような言葉にボルカノが「慣れている」とでも言いたげに諦め顔で答えたところに、遅れてハーマンが艦橋に入ってきた。

「・・・様子はどうだ」

 ウンディーネをここに呼んだのは誰あろう、このハーマンだった。
 この艦橋の存在が確認されるや否や直ぐにハーマンはバンガードからモウゼスへと伝書を出し、彼女らはそれに応えてここに来た。
 因みにハーマンはウンディーネのみを呼んだようだが、何故かボルカノも付いてきた事に対しては特に何も言及していないようだ。
 ハーマンの登場でどうやら我に帰った様子のウンディーネは、彼に歩み寄ると何かを悟ったような表情で、何かを欲しがるように片手をハーマンに向かって差し出した。

「オリハルコーン、貰い受けるわ」
「・・・よし、やろう」

 ハーマンはウンディーネの本心を理解しているのか、何のためらいもなく抱えていたオリハルコーン製のイルカを象った像を差し出した。
 それを受け取ったウンディーネは礼を述べるでもなく直ぐ様ハーマンに背を向け、艦橋の中央奥にある何も置かれていない台へと歩み寄る。そして徐に、イルカ像をその台の上へと置いた。
 あまりに確信めいた動きでそうしたものだから、一体何が起きるのかとカタリナは思わず固唾をのんで見守ったが、しかしそれだけでは特に何かが起こる気配もない。
 若干肩透かしを食ったような表情で訝しむ様子のハーマンと顔を見合わせるカタリナだったが、対してウンディーネはなんら気にする様子もなく、続けて部屋の中に等配置された水晶へと歩み寄った。

「・・・これは確かに魔導器ね。そして魔導器というものがどの様な構造であるのかを知りうる、素晴らしいヒントでもあるわ」

 そう言いながら、ウンディーネが水晶に触れる。すると幾許かの後、彼女が触れた水晶を起点に部屋に仄かな明かりを灯していた青が光量を一気に増し、鳴動が大きくなった。
 そしてミシミシと何かに罅が入る音が重苦しく何処かから響き、その次には同じく重苦しい轟音と共に、それまで真っ黒な壁だと思われていた外壁の外が大きく崩れ始めたのだ。
 そしてゆっくりと沈みゆく外壁(というよりは岩盤のようだ)の向こうに現れたのは、なんと微かに陽が差し込む海であった。
 この艦橋は、街の下部から海中に飛び出すようにして存在していたのだ。

「・・・すごい・・・。これ、全部硝子なの・・・?」

 カタリナは感嘆のため息をつきながら艦橋と海とを隔てる透明な外壁に歩み寄り、そこに触れる。すると非常に透明度の高い硝子に触れて手が止まり、その先には揺蕩う海藻や鳴動で散り散りに泳いでいく魚などが見えた。

「そういった精製技術にも確かに眼を見張るけれど、私が一番感心しているのはこれね」

 そういってウンディーネが視線で指し示したのは、地面に走っている紋様だった。
 その紋様は中央奥に配されたイルカ像と等配置された六つの水晶の台を繋ぐように描かれ、今は青くはっきりとした明かりを保っている。

「ディー姉・・・矢張りこれは、以前ディー姉の考察にあった・・・」

 ボルカノが紋様を見ながらそう呟くと、ウンディーネはまるで敢えて冷静を保つようにゆっくりと頷きながら応えた。

「ええ、これは恐らく私が研究している連携術の、その先にあるもの。そうね・・・陣形術、とでも言うのかしら。これが私の予想通りのものならば、オーパーツ化した魔導器には尽くこの理論が応用されている可能性が高いわ」

 ウンディーネがそう言いながら水晶から手を離すと、程なくして部屋を明るく照らしていた青い光は仄暗く鳴りを潜め、薄っすらとした光が灯るだけの元の状態に戻った。
 その様子を見て、次にウンディーネは自分の掌をじっと見つめる。その掌から感じるのは、僅かな疲労感。
 彼女の魔力総量は、この世界ではほとんど比肩されることのない領域にある。常人のそれと比較すること自体が馬鹿らしくなるほど、膨大なものだ。だがその彼女をして、今の一瞬この装置を作動させただけで僅かながらも疲労感を確かに感じる。そして、その作動装置である水晶が六基。
 ウンディーネは一頻りその感覚を体に刷り込んだ後、ハーマンへと視線を投げかけた。

「ねぇ、貴方はこれを動かすために私たちに協力を要請したのよね。一体これで、どこまで行こうと言うの?」

 問われたハーマンは、しばし無言で考えるような仕草をしながら、慣れた仕草で懐から煙草を取り出す。そして其れを咥えたところで、隣にいたカタリナに無慈悲にも煙草を口から引き抜かれてしまった。

「ちょっと、ここでは吸わないでって言ったでしょう」

 不快感を隠そうともせず、カタリナが煙草を摘みながらそう言う。実のところ彼女もミューズと同じく、と言うより実際はミューズ以上に煙草が苦手なのであった。
 なので自分も出入りすることが多い密閉空間でそうスパスパと煙草を吸われるのは、勘弁して欲しいのだ。
 ここに初めて入った時にそう言えばそんなことを忠告されたなと思い出したハーマンは、どこか調子が狂ったような表情をしながら頭を掻き、取り上げられた煙草を奪い取って大人しく仕舞いながら、うーんと唸った。

「・・・ま、何処にいくかは、動いてからのお楽しみだ。ただ言えることは、そうだな・・・。期間は正確とはいえねぇが、このデカブツが帆船と同程度の速度が出るなら、ここから往復で一ヶ月は掛からん筈だ」
「一ヶ月は掛からんって、簡単に言ってくれるわね」

 ウンディーネはもう一度自らの掌を見つめ、ゆっくりと握ったり指同士をこすりつけたりしながら、頭の中で大凡の計算を行っていく。自身が感じた疲労感と、それを六基で分散した場合の魔力消費量。それを長時間続ける際に必要になる魔力総量。
 やがてそれらに対しある程度の当たりをつけたウンディーネは、何故かハーマンではなくカタリナへと視線を向けた。

「魔術ギルドから、計三十六人の玄武術士を用意するわ。代わりに貴女、どうにかして術酒を・・・そうね、二百本程用意できないかしら」

 さらりととんでもないことを言い出すウンディーネに、カタリナは一瞬目を丸くした。
 術酒とはそもそも、通常の酒とは全く価格帯の異なる代物だ。なにしろ、その酒は術士の生命線である魔力を補充することができるという、正に奇跡の酒なのである。
 その精製にも抑も特殊な技術が必要であり、現在の魔術士の総人口と需要も相まって生産量はそう多くはない。当然その希少性に合わせて価格も常軌を逸しており、術酒一本あたりの平均取引額は、凡そ二百四十オーラム。これは実に、農業を営む平均的な一家の一ヶ月分の食費に相当する値段なのである。

「・・・ここで大宴会でも開く、って訳ではないようね。承知したわ。カンパニーの名にかけて、なんとかしてみる」

 しかしカタリナは、正面からしっかりとそう請け合った。
 ウンディーネは、けっして冗談をいっているようには見えない。彼女の中でバンガードを動かすにはそれが必要なのだと、そう判断した結果の要望なのだろう。魔術士としての感覚や経験値がないカタリナだからこそ、それは彼女の直感で信じるしかないのだ。
 その返答に満足そうに頷くウンディーネを他所に、さてどこから仕入れたものかとカタリナは腕組みしながら思案するのだった。

 

 

 ウンディーネの依頼から約二週間の後、今となっては忙しなく人の出入りが行われているバンガードの艦橋に、再びカタリナ達は立っていた。
 その場に現在集まっているのはカタリナとフェアリー、ウンディーネ、ボルカノとハーマン。そして十二人程の玄武術師だった。そして一応キャプテンもいた。
 ハリードやミューズ、シャールらは、街中(最早そこは『デッキ』と呼ぶべきなのかもしれないが)にて警戒任務と住民の最終避難調整に当たっている。
 この二週間で近隣の大都市であるウィルミントン、モウゼス、そしてヤーマスから可能な限りの術酒をかき集め、結果カタリナは二百三十本程の術酒を買い付けした。短期間での急な買い付けとなったが、直近で買収完了していたドフォーレを通じてルーブ地方から広く買い付けが可能になったことが、この期間で用意が整った要因として大きい。というよりむしろ、この買い付けに関しては他の問題に比べれば結果としては随分と容易だったなと今となってはカタリナは感じていた。
 まず何しろ長期間の航海になることが予測されるので、海上で可能な限り現物調達するものの、保存食や飲料の準備の方が大変だった。そして今回の事のあらましのバンガード市民への説明と、同時に可能な限り市外への避難を呼びかけた。無論、それへの反発も少なからずあったのは想像に難くない。
 しかしその間にもフォルネウス兵による小規模な威力偵察が相次ぎ、その頻度が徐々に増えてきていることからして、大規模な侵略が確かに近づいてきていることが誰の目からも予感された。この事実が市民世論を動かしたことは大きい。
 そしてウンディーネとボルカノがバンガードに集った術士を指揮してバンガードの根幹装置起動に際し数度の実験を経て、遂に必要な状況が本日で整ったのだ。

「ディー姉、機動担当の配置も完了した。いつでもいける」
「分かったわ。それじゃあ始めるわよ・・・総員発進準備!順次シンクロ開始!」

 最早ウンディーネさんは自分の事をディー姉と呼ばれることに対する抵抗がすっかり消え失せてしまったのだな、等とカタリナが場違いに思い耽っているのを他所に、ウンディーネの掛け声に合わせ、その場に集まった十二人の玄武術士が其々の目の前にある水晶の台へと触れる。
 そして魔導器に自らの魔力を同調させ始めると艦橋内部は一気に光度が増し、一面の硝子壁の向こうに仄暗く佇む海中が照らし出された。

「出力50%程度。矢張り、この程度では陸の楔は引き剥がせないか。まだまだ供給量上げていくぞ!」

 ウンディーネの隣で水晶の様子を見ながらボルカノがそう檄を飛ばすと、それに合わせて術士たちは更に水晶へと集中する。
 つい一月程前までは街を二分してまで争っていたにも関わらず突然和解した上に、今やまるでウンディーネの片腕面で彼女の横に陣取っているボルカノの事をウンディーネ配下のこの術士達はどう思っているんだろうか等と斜め上のことをカタリナが考えている間にも、出力は大地の鎖を引き剝がさんと徐々にではあるが上昇していく。
 だが、そのまま出力上昇を続けるより先に、あからさまに凶兆を告げるかの如くバタバタと忙しない様子で艦橋に駆け込んできたものがあった。
 市街地で警鐘任務に当たっていたハリードだった。

「おいでなすったぜ。西太洋方面からアホみたいな数のフォルネウス兵がこちらに侵攻中だ」
「なんですって!?」

 突然のハリードの報告に驚いたカタリナは、確認するように艦橋前方に視線を向ける。方角的には、イルカ像設置の台がある方向が西に位置しているのだ。
 だが其処からでは、薄暗くて揺蕩う海の向こうまでは見通せない。

「目測では五百前後ってとこだ。あと十分もすればここに到達しそうな速度だ」
「来やがったか・・・」

 ハリードの報告に対してハーマンが毒吐くようにそう言いながら踵を返し、市街地に出ようとする。
 だがそれを、カタリナが止めに入った。

「状況確認は私がしてくるわ。ハーマンとウンディーネさんは、兎に角一刻も早くバンガード始動をお願い。フェアリーもここに残って、伝達役を頼めるかしら」

 ハーマンを含めたその場の全員が指示に頷くと、カタリナは急かすハリードと共に急いで艦橋から駆け上がっていった。

「・・・続けましょう」

 それを横目で見送ったウンディーネは、仕切り直す様に配下の術士たちに指示を出す。
 彼女が見つめる先には、六基の水晶台とそれに魔力を同調させる術士達。この二週間に繰り返した実験過程にて、その水晶に流す魔力量によって光度が増し、その光度にて大凡の稼働出力が判断できることはわかっている。
 そして今の時点で既に出力はほぼ100%に近い状態まで上っており、今の状態でバンガードが動き出していないことについて、ウンディーネはどうするべきかという問答を脳内で繰り返していた。

(・・・予測していた以上にバンガードと陸地との接着力が強い。体感振動からして、どう見繕っても今一歩という雰囲気でもないわ・・・。大地の鎖からこの馬鹿でかい船を引き剥がすには、出力100%では足りないみたい。私が直接イルカ像に魔力を流し込めば一時的に出力を限界以上に上げること自体は可能だと思うけれど、正直この触媒が限界を超えた高出力にどれだけ耐えられるのか、わからない。ここで無茶をして触媒たるイルカ像が砕けてしまえば、バンガードは二度と動かなくなってしまうわ・・・)

 ウンディーネが胸の下で腕を組みながら水晶に視線を合わせたまま思考する隣で、ボルカノもまた水晶を見つめながら思考していた。

(・・・こんな純度もサイズも馬鹿げたようなものではないが、希少石自体は、ほんの小さなカケラならば何種類かは見たことはある。確かに魔術触媒としては非常に優秀なものだが、しかしその耐久力に関しては未知の部分が多い。そもそも魔術士の常識としての魔術触媒とは、基本的に消耗品だ。恐らくオリハルコーンもその例に漏れず、我々の行うような触媒として用いれば数度の使用で黄金の輝きを失い砕け散るだろう。確かにあのイルカ像に関してはその規格外の大きさもさることながら、今回は媒介のアプローチが抑も従来と異なるので一概に我々の知識をそのまま当てはめることはできない。だが、それでも無理に負荷をかけてあの触媒が砕けることは絶対に避けねばならない。おそらくディー姉も同じ考えのはずだ。この膠着状態を打破するには、何かきっかけが必要。そのあたりの勘は、ディー姉の方が冴えている。ならば、俺は俺に出来ることをしなければな)

 変わらず考え込んでいるウンディーネを横目に、ボルカノは近くに設置していた机の上にあるメモを取り上げた。そこには、ここ二週間の実験データが纏められている。この情報を元に、オリハルコーンの特性に加えて彼が知る限りの魔術触媒知識を織り交ぜ、計算を行なっていく。
 出すべき答えは、触媒にとって無理のない範囲でウンディーネが最大出力で魔力供給を行える時間だ。
 これらの計算基準を出すことができるのは、古今東西の魔術触媒と錬成に特化した朱鳥術士であり、更にウンディーネの魔力放出量を詳細に知っているボルカノくらいのものだろう。

「・・・ディー姉。恐らくディー姉の最大出力同調にイルカ像が問題なく耐えられるのは、二十秒程度。それ以上は触媒に深刻な機能障害が発生する可能性が出てくる」
「・・・分かったわ、二十秒ね。あとは・・・その二十秒に賭けるきっかけがあれば・・・」

 彼のことを全面的に信用しているのか、全く疑う様子もなくボルカノの言葉を受けてウンディーネが硝子壁の向こうに視線を向けた、その瞬間だった。

ガツンッ

 分厚い硝子壁に衝撃音とともに勢いよく衝突してきたのは、醜悪な姿をした魚人のような妖魔だった。
 妖魔は単騎のようで、ガンガンと硝子を叩き鋭い爪を立てようとする。だが、その程度の攻撃ではこの艦橋部分はびくともしない。

「!!・・・フォ、フォルネウス兵・・・」
「もうここまで到達したか・・・。フェアリー、上の様子はどうなんだ!?」

 慄くウンディーネを気にしつつもボルカノが背後のフェアリーに振り向くと、フェアリーは両目を閉じながらふわりと浮いたまま、わずかに口を開いた。

「船首にて第一波と接敵。シャールさん達が交戦開始しました。個々の脅威は低いですが数が多いので、更に数の多い第二波にばらけて上陸されると厄介とのこと。カタリナさんはハリードさんと別れて北門へ、ハリードさんが南門へ向かったようです」
「正面が数で押し切られて全体にバラバラに街中まで侵入されてしまったら、バンガードを動かすどころではなくなってしまう・・・。く・・・一か八か、ディー姉の最大同調を限界突破して行うしかないのか・・・!」

 ボルカノがそう言った直後に、突如として艦橋全体が地震に見舞われたかのように大きく揺れた。

「な、なに!もうフォルネウス兵の攻撃なの!?」

 バランスを崩したウンディーネがボルカノの肩に摑まりながら周囲を見渡すが、特にフォルネウス兵がここまで侵入した様子はないようだ。
 慌てふためく術士達に水晶へと集中するようにウンディーネが声をかけている後ろで、フェアリーがボルカノに声をかけた。

「・・・あの、ボルカノさん。今の、カタリナさんの仕業みたいです」
「・・・なんだと・・・?」

 突然とんでもないことを言い出すフェアリーにボルカノが意味がわからないと言った様子で視線を合わせながら聞き返すと、フェアリーはふっと目を瞑り、数秒ののちに見開いた円らな瞳でボルカノを見つめ返した。

「北門付近で船と陸との接地面が緩むことを期待して、その場で地走りを放ったようです。少しは動いたか、と質問が来ました」
「・・・もっとその辺でぶっ放してと言って頂戴!」

 フェアリーの言葉に被せるように、ウンディーネが声を張り上げた。その言葉に驚いたように瞳を瞬かせながらウンディーネを見つめたフェアリーは、そのまま微笑みながら瞳を閉じる。
 それと同時にウンディーネはイルカ像へと駆け寄り、その本体へと手を添えながら前方の硝子壁の向こうを見つめる。
 先ほどまでそこにいたはずのフォルネウス兵は、直前の振動に反応してこの場を離れ、上陸へと行動を切り替えたようだ。その方が精神衛生上都合が良いと感じつつ、掌に精神を集中させていく。

「ボルカノ、集中するからカウントとって頂戴」
「了解」

 ボルカノの返事を殆ど待たずに、ウンディーネは掌以外の感覚を断ち、魔力をイルカ像に同調させる一点に集中し始めた。
 その直後、艦橋の中がこれまでに無いほどに蒼く光り輝き、その力強くも優しい光で壁の向こうの海が照らされる。
 なんと其処には一体どこから現れたのか、まるでバンガードが動き出すのを今か今かと待ちわびているかのような、イルカの群れが照らし出された。

「出力100%突破!もう少しだ、大地の鎖を断ち切れ!」

 ウンディーネと共に魔力を送り込む術士たちにも檄を飛ばしながら、ボルカノは艦橋全体の輝きに思わず行きを飲み込んだ。

「なんて魔力量だ・・・出力増大中・・・20・・・40・・・150%! 最大出力!」

 頭の中でカウントが十五を数えたところで、再度カタリナが放ったと思われる大きな振動が艦橋まで伝わってくる。
 それを感知したウンディーネが目を見開きながら更に集中すると、一瞬で収まるはずだった振動は寧ろその度合いを増し、更には地鳴りの様な音が大きく響いてきた。
 岩と岩が擦れる重苦しい音と、崩れた岩石が海に落ちて行く音。そして全ての魔力供給回路が稼働した艦橋に響く、巨大魔導器の鳴動音。
 そして固定された楔から放たれ大海原に飛び出し、その上で揺れ動くバンガード。
 聖王の時代から約三百年の時を超え、遂に海上要塞バンガードが、陸から離れた瞬間だった。

「ディー姉!」

 カウントをしていたボルカノの呼び声に合わせて、ウンディーネはイルカ像から手を離す。だがバンガード艦橋はウンディーネの魔力供給が無くなってもその輝きを保ち、そして西太洋目掛けて力強く進水し始めていた。

「・・・やったわね。ほらキャプテンさん、言うことがあるでしょう?」

 ウンディーネがそう言って振り返ると、近くにいたハーマンに肘で小突かれて漸く我に返った様子のバンガードキャプテンが、咳払いをして背筋を伸ばした。

「ゴ、ゴホン・・・。バンガード・・・発進!!」

 キャプテンの掛け声に、艦橋内の術士達が達成感と共に歓声を上げて応える。
 そんな一時的に空気が和んだ空間を横目に、何か変化がないか艦橋内を注意深く見渡していたボルカノは、バンガードが動き出したことによって今までは光が通っていなかった部分の回路が新たに淡く光っていることに気がついた。

「すまない、こちらに少し魔力が流れる様に意識してみてくれないか?」
「え、はい・・・やってみます」

 着目した部分に一番近い水晶を担当する二人組にボルカノがそう声をかけ、術士が戸惑いながらも意識をそちらに傾ける。
 するとそこに魔力がゆっくりと流れ込む様子が光で再現され、その壁際に埋め込まれていた水晶が光り輝いた。

「・・・船首にて交戦中のシャールさんから報告です。バンガード全体を覆う様に天術の障壁展開を確認。乗り込んできていたフォルネウス兵が無力化され、引き上げていくようです」

 フェアリーがボルカノに向かい、そう声をかける。
 その思わぬ朗報に、再び艦橋内は歓声に包まれた。

「成る程・・・アビスの瘴気を打ち消す仕掛けか。それなら、この巨大な船でもアビスの者に侵入されることはないな。素晴らしい」
「これで当面の航海は、安全そうね。でもそうなると其方への魔力供給も考えて編成を再度考えねばならないわ」

 ウンディーネの計算では、この船を動かすことについてのみ考えた魔力消費量を元に術士と術酒を集めている。それが他の機能も動かすとなれば、話は違ってくる事になるのだ。

「・・・それについては、俺に少し考えがある。俺なら集められた術酒に手を加えて、擬似的な霊酒を生成できる。恐らくこの障壁以外にも未発見の機能があるはずだから、それも見越して今のうちから作業に入ることにするよ」
「本当? 助かるわ」
「いや・・・こんなこと、なんでもないさ」

 ボルカノの提案にウンディーネが微笑みながら感謝の意を示すと、ボルカノはどこか無愛想な様子で応え、そそくさと艦橋を後にした。
 その背中を送ったウンディーネは、次にハーマンへと視線を投げかける。

「それで、どこへ行くの? バンガードで」
「最果ての島へ」

 間髪を入れずに、ハーマンはそう応えた。
 彼が艦橋の向こうに見つめる一点に、その最果ての島とやらがあるのだと言う。

「かつて、俺が流れ着いた島がある。兎に角、世界の果てまで西へ走り続けるのだ」

 

 

「バンガード、発進!! とか、私もちょっと言ってみたかったわ」
《ふふふ、キャプテンさんノリノリでしたよ》
「あは、すんごい想像できる」

 疎らに戦闘の痕跡が残った甲板部分で崩れた壁の一部に腰掛け、緩く心地よい潮風に当たりながら、カタリナはフェアリーとそんな軽口を交えつつバンガードの進む先、世界の最果てを見つめていた。

 

 

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第七章・7 -バンガード殺人事件-

 

 日中であるというのに何処か薄暗いその家屋の中には、数時間前に飛び散ったばかりであろうと思われる生々しい血痕が幾つも床や壁、そして家具にまで付着していた。
 室内に充満した血の匂いと外から運ばれてくる潮風が最悪な割合で混ざり合い、その不快指数はよもや瘴気の渦の中にいるのではないかと思うくらいにも感じられ、思わずカタリナは顔を顰める。
 かくして、海上都市バンガードの街を一夜にして恐怖のどん底に叩き落とした「新婚夫婦殺人事件」の現場を目の当たりにしたカタリナは、本件の調査の仕事を市から易々と引き受けたハリードに対し脳内で己の知る限りの呪詛を送りつけつつ、しかしそこは生真面目に現場検証を行っていた。

(・・・しかし、これは・・・)

 一通り部屋の中を慎重に観察したカタリナはどこか思い悩むように腕を組み、右手を顎に軽く触れさせながら思考する。
 モニカの専属護衛兼侍女になる以前、まだ彼女がロアーヌ騎士団候補生に所属していた時代。当時のカタリナは候補生としての鍛錬に励むとともに、訓練生に課せられた市街地の警護巡回等も積極的に行なっていた。
 彼女が騎士団候補生に所属していた頃は、奇しくも世界中が死蝕による混乱の真っ只中であった。史上最悪の天災にて失われた多くの命に心あるすべての者が嘆き、そしてアビスの瘴気の増加による妖魔の活性化に慄き、それらに乗じて人々の荒んだ心は治安の悪化という形で具現し、世界に蔓延っていたのだ。
 その中では歴史上でも類を見ないほどいち早く治安回復に努めた当時のロアーヌ侯フランツの元でさえ、城下町での傷害事件は当時、ままあることであった。そしてそれら事件の対処には、警護巡回を行なっていた騎士団候補生も人手不足を理由によく駆り出されたものだったのだ。
 その時に自分が対応した幾つもの事件の記憶を通して、彼女は今回の事件を見つめていた。

(なにかが、引っかかるのよね。今回の犯人の目的は、通常考えられるものとは違うように感じる・・・)

 殺害されたのは、この家に住んでいた男女の夫婦だそうだ。
 犯行現場は二箇所。家のすぐ外と、そして今彼女がいる寝室。夫婦の何方かが用を足したかなにかの瞬間に外で襲われたと見られる血痕があり、恐ろしいことにそこで襲われた被害者をわざわざ寝室まで引き摺っていき、そのままもう一人にも手を掛けたと見られる状況だった。
 犯行時間は深夜と見られ、特に現場の寝具周辺はかなり損壊が激しい状態だった。しかしそれ以外の箇所には特段荒らされた形跡がなく、化粧台や棚の類はまるで新しい一日の準備が始まるのを今か今かと待ち望んでいるようにも見えるほど、普段と変わりのない様相なのである。つまりは、金品の強盗が目的の犯行ではないであろう、という事が窺えるのだ。
 カタリナは、現場周囲の血痕へと視線を移した。

(・・・寝具周辺には、壁にまで派手に飛び散った血痕。そして、重量のある鋭利な刃物か何かで切り裂かれ砕けたと思われる寝具・・・。犯行に使われた凶器は、短剣とかそんな類のものではない。これは斧や戟、或いはもっと直接的な、そう、まるで大型の獣の爪のような・・・)

 彼女がその被害状況から予測を立てたその何れの凶器も、何しろ全く強盗に向くようなものではない。
 大抵の場合で強盗の使う凶器の定石は、短剣かそれに準ずる大きさの刃物だ。特に市街地での犯行となると、周囲の建物や障害物に太刀筋を阻害されない大きさであるということは、かなり重要である。彼女自身も、狭い空間では得意の大剣ではなくロングソードか、小回りのきくレイピアを用いた戦闘を心掛けている。
 対して重量のある武器はどうしても攻撃の初動で振りかぶる必要性があり、その威力と引き換えに素早さや隠密性を損ねる。軌道も大きく、何かにぶつかればその威力を大きく落とすことにもなる。それらの対価として、純粋な攻撃力に特化しているのだ。
 人間相手に犯行時間を短くしたい、そして極力隠密にしたいという行動には、全く以ってそぐわないわけである。

(強盗目的の線は、恐らくない。となると、殺すこと自体が目的だった・・・か。しかもこの凶器のチョイスは、かなり明確な殺意。その夫婦のどちらか、若しくは両方が、誰かに恨まれていた・・・色恋沙汰の私怨とかかしら・・・?)

 自分には縁のなさそうな犯行理由だな、等と思考が脇道に逸れつつもカタリナが事件のあらましについて想像を巡らせていると、いつの間にかその家屋の入り口に立つ人影があった。
 カタリナがその気配に直ぐに気づいて振り向くと、そこに居たのはこの調査を引き受けた張本人であり、そして肝心の現場をカタリナに任せて周辺の聞き込みを担当していた無責任の化身トルネードこと、ハリードであった。

「・・・何か手掛かりはあったの?」

 あからさまに不機嫌を匂わせる声色でカタリナが声をかけるが、数々の修羅場を潜り抜けてきたであろうハリードは、流石のどこ吹く風といった様子で応える。

「いや、今のところは特にないな。ここの夫婦は仲が良い事で評判でもあったようだが、特段それを恨む奴がいたという話も聞かない。そして似たような事件も直近にはなし。一応ギルドにも問い合わせてみたが、付近で強盗や野盗が出ているような情報もないな」

 ハリードが持ち帰ってきた情報は、残念ながら即座の解決につながるようなものではないようだ。
 カタリナは今の内容を元に、無言でもう少し推論を進めることにする。

(強盗でもなく、どうやら個人的な恨みの線もなし・・・。となれば、『殺人行為そのもの』が目的の可能性が高いか・・・)

 カタリナは改めて破壊された寝具をじっくりと見入るようにしゃがみ込み、その砕かれた断面を指先でなぞる。
 相当な殺意を持っていたのか、いくつもの断裂が刻まれた大小の木片がそこら中に散らばっている。
 しかし周囲を見渡せば、何度確認しようとも他の何処にも荒らされた形跡はない。

(・・・得物の選択は兎も角、犯行時間は極めて短時間。この威力で振り下ろされたら、即死だったでしょうね・・・)

 稀にある様な、所謂快楽殺人の可能性もあまり無いように彼女には感じられた。何故なら、この現場の様相を見る限りでは殺人行為そのものを楽しむにはあまりに呆気なく、そして彼女が感じるように凶器の選択は兎も角として、的確に最短で命を奪うための行動を行なっているようにしか思えないからだ。

(・・・仮に無差別に殺人そのものを目的とするなら、なお厄介ね。次の犯行場所を特定するのがかなり困難になるわ。殺せれば何処でも、誰でもいいって事だものね・・・。逆に付け入るなら、そこか・・・)

 ハリードがカタリナと同じく顔を顰めながら部屋の中を確認している横で、組んだ腕を小気味好く指でリズミカルに叩きながら今後の方策を考えていたカタリナは、一通り考えを煮詰めると、家屋の外へと出た。

「うん・・・試してみるかしらね」
「お、なにをするつもりなんだ?」

 カタリナに続いて出てきたハリードが彼女の呟きに反応すると、カタリナは腰に手を当てて姿勢を崩しながら肩を竦めた。

「次は、私達を殺しに来てもらうのよ」

 

 

 事件現場を出た足でそのまま調査の結果による推論を市長へと伝えたカタリナ達は、その夜、普通の宿では無く街離れの独立したコテージに泊まることとした。
 その上で南北にある街の出入り口には数人の衛兵を配備させ、日中に市民へ向けて夜間の戸締り厳重化も通達してもらい、街の中の警備を厳重にする。
 そして市街地には夜警巡回も行ってもらい、しかしその巡回経路には彼女らの泊まるコテージは含まれてはいないのだった。

「確かにこの状況で狙うのなら、このコテージが一番狙いやすいですね」

 皆で一つの部屋で寝ることが普段と違い楽しいようで、ミューズはどこか上機嫌な様子でベッドに腰掛けながらそう言った。

「まあ、昨日の今日で来るとは限らないですから、あまり期待もできないのですけれどね。というか、もう来ないならそれに越したことも無いのですが」

 カタリナもミューズの隣のベッドに腰掛けながら、談笑している。そして彼女らの間には、フラワースカーフを脱いでくつろいだ様子のフェアリーがふわふわと浮かびながら、二人の会話に耳を傾けていた。
 そして部屋を申し訳程度に二分する布製のパーテーションの向こうでは、ハリードとシャールが彼女らの会話をあえて聞かない様にと振舞いつつも、何やらどこか居心地悪げにしていた。

「・・・なぁ、一杯やるか?」

 不意にハリードが、腕を組んでベッドの上に坐禅を組みながら隣のベッドのシャールに声をかける。すると銀の手を乾いた布で丁寧に磨いていたシャールは、数秒ほど考える仕草を見せた。

「・・・いや、やめておこう」

 普段ならば即答しそうなものだが、どうやら居心地が悪いのは彼もそうらしく、珍しく躊躇しての回答だ。

「そうか・・・。しかし、あのジジイは何処に行ってんだろうなぁ」

 シャールに断りを入れられ少々残念そうにしたハリードだったが、ふと思い出したようにシャールのさらに隣にある、主のいないベッドを見つめながらそう呟いた。
 そこに本来いるはずなのは、モウゼスでの騒動の直後、このバンガードへ再び戻ることを強引に提案して推し進めた張本人である、ハーマンだ。
 無事に古代魔術書の解読をウンディーネに依頼出来たが矢張り時間がかかるとの事で、その間は構わないだろうと一行はハーマンの提案に添ってバンガードへと戻ってきていた。
 だがバンガードへと着いた途端、ハーマンは「用事がある」とだけ言い残し集団行動を離れ、それから既に三日ほど合流していないのだ。
 その間にこの様な事件が起き、戦慄するバンガード市内でハリードが調査依頼を引き受けてきた、という流れなのであった。

「さあな。まあ、彼が昔船乗りだったというのならばこのバンガードは聖地だ。恐らく昔馴染みでもいるのだろうさ」

 シャールはそこまで興味がない様子で、そうとだけ答えた。
 彼の言う聖地の由来は、この街が持つ伝説によるものだ。
 三百年の昔にバンガードと名付けられたこの都市は、かつて聖王とその仲間によって造られた、『対魔海侯用の決戦兵器』であったのだという。
 世界中の海を支配する魔海侯に対し七度船を作り七度挑むも悉く敗れた聖王は、七度目の遠征によって勇士チャールズ=フルブライトの戦死というあまりに大きな犠牲を払った後、偉大なる玄武術師ヴァッサールの助言によって島を沈まぬ船とする事にした。
 冒険の末に聖王は神器オリハルコーンを得、玄武術師の協力を得てついに島を動かすことに成功。その島をバンガードと名付け、魔海侯の住まう海底宮へと突入し、遂に魔海侯をアビスへと追い返すことに成功したのだ。
 これが、聖王記に語り継がれる「魔海侯フォルネウス討伐の編」である。
 それ故にこのバンガードは古今東西に於ける『世界最大の船』であるとされ、また広大なる西太洋と内海を結ぶ重要な流通拠点であることも手伝い、世界中の船乗りからは聖地として崇められているというわけなのだ。
 だがこの伝説から三百年が経った今、陸続きでルーブ地方とガーター半島を結ぶバンガードが元は「島」であり、その上「動く要塞」であるなどと言う突飛な伝説を信じるものは、現地住民の中でさえ殆ど居なかった。

「ったく、昔馴染みに会うために俺たちまでここに連れてきたってか。御大層な身分だぜ。そんじゃあこっちも精々、稼がせてもらわないとな」

 ハリードは投げやりな様子でそういうと、両手を頭の後ろに回してベッドに寝転がった。
 するとそのタイミングで、パーテーションの向こうから声が掛かる。

「そろそろ寝ましょう。其方も明かりを消して頂戴」
「あぁ、わかった」

 カタリナの声にシャールが応え、程なくして蝋燭の火が吹き消される。
 僅かな星明かりもコテージの中へは差し込んで来ず、室内はすっかり暗闇だ。
 その中にあって夜目が利くハリードは、矢張り眠れぬ様子で頭の後ろに両手を回したまま、ぼんやりと暗がりに浮かぶ屋根の梁を見つめていた。

(昔馴染みに会いに・・・ねぇ。どうにも、あれがそんなタマだとは思えねぇな。あいつは間違いなく、もっと何か明確な目的があってこのバンガードに来ている。モウゼスでの魔術師との話しぶりも、元からそうするつもりだったとしか思えないしな。あのイルカの像・・・オリハルコーンといったか。あれはそもそも、あの爺さんが俺らを連れていった洞窟にあった代物だ。あれが今回の行動の鍵なのは間違い無い様だが・・・)

 モウゼスでウンディーネに何らかの協力を取り付けたハーマンの行動がどのような意味を持つのか、ハリードはしばらく考えた。
 だが、彼の目から見てもあの老人の魂胆は全く底が知れない。というかむしろ、今だにハリードは疑問に思う時があるのだ。あの老人は本当に見たままの老人なのだろうか、と。
 なにしろその根拠は、ハーマンのあの眼だ。
 戦場に生き様々な人の生き死にを見て来たハリードは、その瞳にその人物の生命力・・・言い換えれば「生きる意思」のようなものが映し出されるということを本能で理解していた。
 キラキラした瞳の子供と、霞んだ瞳の老人。今にも息絶えんとする人の虚ろな眼光や、どの様な傷を負おうとも戦場から生きて帰る猛者の爛々たる瞳。生きているのにその意味を見出していないかのうような愚民の霞んだ瞳に、例え貧しくとも希望を抱く民の眩い瞳。
 それらの瞳を識るハリードからすれば、あのハーマンという男の瞳は、まるで老人のそれではないのだ。その生命力が凝縮されたかの様な瞳には、ともすれば自分と同じ様な匂いすら感じる。
 それは何かを失い、それを取り戻すために生き続ける者の匂いだ。

(あの爺さん、あの洞窟で「自分の左足はまだある」といっていた。そしてそれを回収するために恐らく必要だ、といっていたのが、あのイルカ像だ。オリハルコーンには、玄武の力を増幅する力があるらしい。そのためにウンディーネと協力関係を結び、そして次に向かったのがこのバンガード・・・。嘗て聖王三傑のヴァッサールが作り上げたという伝説の残るこの都市で、一体何をしようっていうんだかな・・・)

 そうして考えを巡らせていたハリードは、やがて不意にゆっくりと起き上がった。なんのことはない、用を足したくなっただけだ。周囲に迷惑をかけぬ様なるべく音を立てず気配を消しながら、コテージの外へと出ようとする。
 だが、扉の手前で少々傷んでいたらしい床板を踏みつけてしまい、ギシリと木材の軋む音がする。
 瞬間、準備していたかの様に朱鳥の炎で部屋中が照らされ、武器を構えたカタリナとシャールとフェアリー、そして詠唱に入らんとするミューズにハリードは囲まれた。

「・・・あー、すまん。トイレ」
「トイレなら寝る前に行ってよ、もう!」

 両手を上げながら戯けて言ってみせるハリードにカタリナが呆れた顔で武器を仕舞いながら悪態を吐き、再び明かりを消してそれぞれのベッドに戻ろうとする。

 だが全員がベッドに戻った直後、コテージの外からまるで突き刺す様な殺気が流れ込んでくるのをその場の全員が感じた。
 そして静まり返った中では異様に大きく響く水が滴る様な足音が、徐々に徐々にコテージへと近づいてくるのだ。
 それがいよいよ扉を開け中に入って来たと思われた瞬間、再びカタリナたちはシャールの明かりを合図に侵入者を武装して取り囲んだ。

「あまいわね!・・・って、こいつら・・・!?」

 そこに居たのは、人ではなかった。
 全身に帯びた水気。両腕の先に生えた巨大で鋭利な爪。全身を守るように生え揃った鱗。そして元は魚類と思われる、醜悪な顔。その様な姿の魔物が、三体その場にいた。
 カタリナは、この魔物と同じようなものを以前にも見たことがあった。
 それは嘗て彼女がピドナからグレートアーチに向かった際に船の上で遭遇した、フェアリーを襲おうとしていた魔物だ。だが、明らかにその時に出会ったものよりも目の前の魔物は凶悪さが増しているように見える。
 カタリナがその様な感想を抱くが、目の前の魔物はその様なことには無論全く構うことなく、それぞれが最も近い人物に襲い掛かった。
 だがそれぞれの魔物が振り下ろした爪はハリードの曲刀、シャールの銀の手、そしてカタリナのロングソードに阻まれた。

「外に押し出すぞ!」

 シャールの合図でカタリナとハリードが二匹を押し返すと、シャールは炎の障壁を展開しコテージの扉面ごと三匹の魔物を外へと吹き飛ばした。
 見た目通り熱属性は苦手なのか魔物が苦しんでいるところに、半壊したコテージから飛び出したハリードとカタリナ、フェアリーが一気に魔物へと距離を詰める。
 三者がそれぞれ勢いをつけて手持ちの得物を振り下ろすが、思いの外素早い魔物は後方に飛び退ることで三人の攻撃を回避する。
 だがその直後、魔物たちにとっては全く予期せぬことが起こった。
 突如として魔物の後方から吹き荒れた強烈な突風に、魔物はまるで巻き戻されるかの様にカタリナたちの前へと吹き飛ばされる。それを好機と見た三人が得物を振るうと、三匹の魔物はそれが致命傷となり思いの外呆気なく絶命した。

「・・・ハーマン!」

 魔物を切り捨てたカタリナが見つめるその先には、術式展開を行った直後と思われるハーマンが佇んでいた。
 だがハーマンはカタリナの声に反応するでもなく、そのまま彼女らに近づいて来たかのと思うとその数歩手前で足を止めた。
 そして目の前で絶命した魔物を見下ろし、何故か壮絶な笑みを浮かべる。

「・・・ハーマン、一体どうしたというの。此奴らのことを、なにか知っているの?」

 ハーマンのその様子を訝しんだカタリナがそういうと、ハーマンはお馴染みの仕草で煙草を取り出し火を付け、深々と煙を吸い込む。そして深呼吸の後の様にゆっくりと煙を細く長く中空へと吐き出した後、漸く口を開いた。

「あぁ、此奴らのことは・・・よく知っているぜ。此奴らは・・・フォルネウスの兵隊だ」
「フォルネウスの・・・兵隊・・・?」

 唐突に出て来たその単語を、カタリナは繰り返す。フォルネウスとは即ち、四魔貴族の一柱、魔海侯フォルネウスのことだろうか。いや、此の期に及んでそれ以外を意味することなどあるはずもなかろうとは思うが、しかしあまりに突拍子も無いものだから、俄かには信じられないといった様子で彼女は言葉にしたのだ。

「そう、フォルネウス兵だ。殺人事件だのと街中じゃあ騒がれていたようだが、こりゃ威力偵察だろうな。どうやら奴ら、ついに動き出したらしい」
「動き出したって・・・一体・・・。貴方は、何を知っているの・・・?」

 ハーマンの訳知り顔の様子にカタリナが首をかしげると、ハーマンは勿体振る様に煙草を燻らせながら、フォルネウス兵の死骸を踏みつける。

「此奴らはな、このバンガードを攻めるつもりなのさ」
「なんですって・・・!?」

 事も無げに言い放つハーマンに、その場の一同は一様に驚きを隠せずにいた。
 その反応が何処か可笑しく感じるのか、ハーマンはけらけらと笑いながら踏み付けていた死骸を蹴り飛ばす。

「お前たちはこれっぽっちも信じていやしねぇだろうがな、このバンガードってのは、伝説の通り船なのさ。それも唯一、魔海侯フォルネウスに対抗することができる史上最強の軍船だ。だから此奴らがこのバンガードを攻めるのは、当たり前なんだよ。こいつさえぶっ壊しちまえば、自分らに対抗出来る船はないんだからな」

 突如としてハーマンが言い放ったその内容は、言葉だけならば余りに現実離れしている様にしか聞こえない。だが、それを事実たらしめていると思わせる証拠が、彼の足元に転がっている魔物の死骸だ。
 魔物は間違いなく、海から現れた。その形状、様相、そしてカタリナが過去に見た同種の魔物の状態から考えても、それは間違いないだろう。そして海に生きる魔物がこうして陸地にまで徘徊することなど、今まで前例を聞いたことがない。全く彼らの生活圏から外れる行動なのだ。つまりそれは何らかの目的があって行われた事であるのは間違いない。

「此奴らは尖兵だろうな。此奴をぶっ殺したからには、いずれは帰ってこない此奴らを訝しんでもっと大量のフォルネウス兵が来るぞ。この街は、このままにしておけば一月も待たずに魔物に蹂躙されて終わりってわけだ」
「・・・内容の割に、随分とあんたは冷静だな。つまりあんたはこれが分かっていてここに来た、というわけだ。一体、これからここで何をしようっつーんだ?」

 彼がモウゼスからここへとまっすぐ向かって来た事を訝しんでいたハリードが問いかけると、しかしハーマンはハリードではなくカタリナの方を見ながらニヤリと笑った。

「・・・なぁロアーヌの騎士様よ、アンタはどうする。今なら別に、この街を見捨てて去る事も出来るぞ」

 ハーマンにそう問いかけられたカタリナは、手にしていたロングソードを血振りして仕舞うと、腰に手を当ててため息をついた。

「分かりきったことを聞かないで頂戴。それにどうせ貴方が最初に四魔貴族の話を私に振った時に見据えていたのは、これなのでしょう?」
「けっ、面白くねぇ女だ」

 カタリナがハーマンとグレートアーチで初めて会った時のことを思い出しながら応えると、存外ハーマンは言葉と裏腹に何やら満足したような表情で煙草を踏み潰した。

「粗方の調べはついている。明日、ここのキャプテンのところに行くぞ」
「キャプテン・・・あぁ、市長のことね」

 フォルネウス討伐の伝説に準えてここバンガードの市長は、自らのことを伝統的にキャプテンと呼称するのだそうだ。カタリナはあまり気にしていなかったが、ハーマンは意外とそういうところは律儀に呼ぶのだなと意外に思いながら、壁が崩れたコテージへと歩いていくハーマンをカタリナは視線で追った。
 戦闘により半壊したおかげで野宿の様な有様となってしまったが、まぁ星空を見上げながらベッドで眠るというのも案外乙なものかもしれないな等と思いながらカタリナもベッドへと向かっていった。

 

 

「フォルネウス兵に襲われた?! 何て事だ、どうやって街を守ったらいいんだ・・・!」

 昨夜の事件のあらましを伝えると、バンガードの市長もといキャプテンはすっかり頭を抱え込む様にしながら唸り始めてしまった。彼にとってこの報告は、単なる殺人事件などとは比べ物にならないほどに衝撃的な展開であることだろう。彼はこのバンガードが過去に巨大な船であったことを信じて疑わない希少な住民の一人であるが、だからこそフォルネウス兵が襲ってくるという話をすんなり信じ、そして嘆いたのだ。
 それに対し、カタリナは項垂れるキャプテンに視線を合わせる様にしゃがみ込みながら、彼の瞳を見つめて言った。

「キャプテン・・・動かしましょう、バンガードを。聖王様はフォルネウスと戦うためにバンガードを作ったのよ」

 カタリナも今は、このバンガードが船であるということを不思議と疑うことはなかった。ハリードもどうやら同じ様子であるし、フェアリーは既にこの街の様々な生命から情報を得ているようだ。ミューズとシャールは、二人もまた聖王遺物に関わったものとして特に疑う様子もなく佇んでいる。ハーマンはそんな彼らを一番後方から、黙って見つめていた。
 それら一同に会した面々を前に、キャプテンは先程までの絶望に塗り固められた表情から若干生気を取り戻したように瞳に僅かな光を取り戻した。

「うむ・・・出来るだろうか・・・君は、勿論協力してくれるよね?」

 キャプテンが半ば縋り付く様にカタリナにそう問いかけると、カタリナは即座に肯定と答えようとした。だが、そこで彼女とキャプテンの前に空かさず割り込んだのは、無論のことハリードであった。

「おっとキャプテン。手伝うのは勿論吝かじゃあないんだが、こいつは昨日の殺人事件の調査とは完全に別口だぜ。それは、勿論分かってくれているよな?」
「む・・・そうだな。では、事件の調査料と合わせて、三千出そう」

 急に現実に引き戻されたキャプテンは、しかしハリードのそれも当然の要求だと理解し答えた。そしてその様子を見ていたカタリナは、このキャプテンの即答の反応にハリードが大層邪悪な笑みを浮かべたのを、見逃さなかった。

「おいおいキャプテン、これはそんじょそこらの調査や討伐とは段違いの仕事だ。もう一声ないと、割に合わないぜ・・・?」

 その瞬間、キャプテンの表情が固まる。そして彼が小さく「足元を見おって・・・」と呟いたのを聞いてカタリナが我が事の様に恥ずかしく思い顔に手を当てたのと同時に、キャプテンはハリードに対して五千オーラムを提示してきた。
 その提示額に、ハリードは満足げに頷く。

「それくらいでいいだろう。で、何をすればいいんだ?」

 後半は、後ろを振り返ってハーマンに対して聞いたものだ。
 その言葉を受けてハーマンは、煙草に火をつけながらいつの間にか手にしていた古い文献を開いた。

「まず、バンガードの内部へ入らなきゃならねぇ。おいキャプテン、この代々の市長の住まいである『船長室』は、その名の通り過去の艦長室の名残ってぇ伝説なんだよな?」
「あ、あぁ・・・そうだ」

 キャプテンがハーマンの言葉を肯定すると、ハーマンは何やら周囲を観察する様にゆっくりと部屋の中を歩き回りながら、手にした杖で何かを調べる様にコツコツと床を突いて回った。
 その様子をカタリナ達が不思議に思いながら見ていると、ハーマンはその視線に応える様に口を開く。

「この街はな、実際観察すればするほど、馬鹿でかい船の上に作られた様な形状をした街なのさ。東西に延びた横長の地形を全て囲う様にある外壁跡と、そこからこの『船長室』に至るまでに丘陵上に盛り上がった地形。まるでここだけ、船みてぇな形なんだよな。んでな、大型軍船ってのは大抵操舵室・・・まぁ艦橋っつーのがあるんだが、船の長がいる場所と艦橋ってのは、大抵の場合、直通通路があるはずなんだよ・・・」

 カツン、とそれまでの音とは違う音が、室内に響く。それは丁度キャプテンが居るあたりの床一面だ。
 ハーマンは無言でキャプテンに退く様に視線で訴える。そしてキャプテンがそれを感じ取ってそのまま退くと、彼は躊躇なく腰に備え付けたバイキングアクスをその床に叩きつけた。

「・・・ほらな」

 派手な衝撃音とともに板張りの床が砕け散ったその下には、なんと急角度で下へと向かう階段が現れたのであった。

 

 

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