第十章・8 -聖王の宿命-

 

「あぁ・・・アレックス。懐かしい響きです。えぇ確かに彼は、アレックスでした」

 ここではない遥か彼方を見つめるように目を細めて微笑みながら、詩人は時折小さく頷きつつ独り言ちた。

「聖王様は、アレックスという御名だったの・・・?」

 カタリナが頭上に疑問符を踊らせながら眉を顰めると、詩人はゆっくりと首を横に振りながら微笑んだ。

「いいえ、アウレリウスです。彼は元々別の名前でしたが、後年アウレリウスへと名を改めたのです。アレックスというのは、そうなる前の愛称です」

 詩人の言葉に、しかしカタリナはまだ潜めた眉を崩さない。

「・・・では、貴方がいう少女の名前は・・・?」
「勿論、アウレリウスです。一般的には男性名称ですが、当時の北方地域では女児にも男性名称を名付けるのは、特段珍しいことではありませんでした。少女の両親が娘の運命を憂い、その宿命に抗うような力強い名前をつけたかったのかもしれませんね。少女は皆に、アーリと呼ばれていました」

 詩人が続ける。
 アーリと呼ばれた少女は強く美しく成長し、宿命に目覚めて死の魅惑を退け、四魔貴族征伐という人類史に残る偉業を成し遂げた。
 その後少女は各地の要人をピドナ暫定政府に集め、一ヶ月以上にも及ぶコングレスを経て、今も西方諸国に受け継がれる様々な律を定めた。

「このコングレスの最も重大な議題は、後の世に再び起こる死蝕に人類が対抗するための知恵の継承について、でした。現代に伝わる全ての律は、そのために定められたのです。そしてその集大成こそが、聖王記。これは制作発案者であるパウルスを筆頭に、即座に編纂が開始されました」

 この時の定めによって聖王三傑の一人であるパウルスがメッサーナ王国の初代国王となり、同じく三傑に数えられたフェルディナントは妻ヒルダと共にヨルド海を渡り、古ロアーヌの地を切り開き、そこに国を建てた。
 三傑の最後の一人ヴァッサールは後年に向けた魔術士育成を目的にモウゼスにて魔術ギルドの立ち上げを行い、そこを終生の地とした。

「ちなみに称号としての聖王、三傑、十二将というのも、コングレスで定められました。まるで最初からそう名乗っていたみたいに聖王記には書かれていますが、勿論そんなことはないです。あくまで、後世に諸々を伝えるための脚色要素ですね。あ、一応私も十二将の一人という設定なんですよ。どこにも名前は出てないシークレット枠ですけどね」
「最後のは今日いち興味ない話題だわ」

 数十年の時間をかけ文字と詩で世界中に広まっていった聖王記は、狙い通り聖王という存在を神格化させていった。各地に散らばる聖王十二将やそれに連なる者たちの活動により方々に教会施設が建ち、そこで数々の逸話を教えられた親子が子守唄や遊び唄代わりに聖王記の英雄譚を口遊む。
 そうして世界は、三百年にも及ぶ平穏の時代を築き上げつつ、次の死蝕へと備えてきたのである。

「元々、聖王という象徴的存在に性別を付与する想定はありませんでした。ですが四魔貴族討伐の一年後に巨竜ドーラを討った時、方針が変わったのです」

 魔龍公ビューネイ去し後、空を支配したのはドーラであった。ドーラはアーリの再三の諌めも聞かず、人里を襲い略奪を繰り返した。
 ドーラを討つのは、アーリの定め。アーリはループを登り、ドーラと対峙し、そして征伐を果たした。

「伝記ほどドラマチックなことはなく、ただただ虚しさの残る出来事でした。アーリは望まぬ戦いに挑み、喪失感と勝利を得た。そして彼女はこの時、ついに考えてしまったのです。ドーラは、この戦いを竜の宿命と言った。では・・・宿命の子である自分の宿命とは、一体なんなのだろうか、とね」

 第二の宿命の子が背負う宿命とは果たして、四魔貴族を討ち、その先に戦友であるドーラをも征伐する、というものであったのだろうか。

「それは否。断じて否。アーリは、怒りでも願望でもなく、静かに確信していました。自らの宿命は、ここが終着地ではない、と。自身の真なる宿命とは、この先にこそあるはずだ、と」
「聖王様の・・・真なる宿命・・・」

 そんな事は、全く考えたことがなかった。
 カタリナはそう思い、無意識に解けていた腕をゆっくりと組み直す。
 聖王は、四魔貴族を征伐した。だがそれは言わば、最初の宿命の子である魔王の後始末をした、という事にすぎない。それをするのが「宿命の子」なのだ、と言われればそれまでなのだが、しかし魔王と対比すると、聖王のここまでの役割は規模が限定的である。

「アーリは、もう一度旅立つ決意をしました。己の宿命が導く先へと、進むために。この旅立ちは三傑を含めた極一部の面子のみに伝えられ、そして聖王記に若干の変更が加えられました」
「・・・その結果、男性を彷彿とさせる聖王像が作られた、ということね。でもそれって、本来の聖王様であるアーリ様と異なる特徴を敢えて付加した、ってわけよね。となるとその意図って、聖王像とアーリ様を引き離すこと・・・のように見えるけど」

 カタリナが考える時の癖で下唇に指を添えながら言うと、詩人は「然り」と言いながら頷いた。

「意図はまさしくその通りで、これには大きく二つの理由があります。一つは、アーリという一人の人間を自由にするため。これまでの彼女の世界に対する献身に最大限の感謝を示し、以後その身を世界に浪費させない。そのために彼女とは似ても似つかぬ、異なる聖王を作り上げたのです。そして、もう一つは・・・」

 もう一つの理由とは即ち、アーリの宿命は間違いなくアビスに関わるものである、と結論付けたから。
 魔王はなぜアビスを、死の星を目指したのか。
 その謎に向き合うところから、アーリの本当の旅が始まる。となれば必ずその道の先には、アビスがある。アーリは旅の中で必ず、深淵を目指すことになるのだ。
 それは第三者から見れば、魔王の軌跡を辿る行為に他ならない、ともいえる。

「・・・その結果としてアーリ様がもし世間から非難されたとて、聖王という偶像に影響は及ばせない。その対策として・・・ということね。分かるけど・・・ちょっと不敬だわ」
「ふふふ、そうですね。でも聖王記を纏めたパウルスというのは、そういう男でした。それにパウルスは、全ての可能性を見据えていました。即ち・・・アーリが己の宿命に向き合った先で、第二の魔王と化す可能性すらも。こればっかりはパウルスも、フェルには最後まで言ってませんでしたけどね」
「えぇ・・・」

 メッサーナ王国の初代国王にして、三百年後にまで伝えられる様々な革新的制度の確立により賢王とも称される、聖王十二将パウルス。
 他国の歴史にさほど興味がないカタリナであっても様々な逸話を知る伝記上の偉人は、思いの外冷徹な人物だったようだ。

「んーまぁ、確かに冷徹でもありましたけどね。でも彼って、ロマンチストでしたよ。凡ゆる可能性を見据えつつも、自らが望む結末はちゃんと持っていて、そこに向かうための準備や仕込みは内心嬉々としてやるんです。聖王記なんてほんと、大部分が彼の創作活動みたいなものじゃないですかね?」
「いやもうキャラわかんないわよ」

 まるで旧知の知人を語るような口ぶりの詩人に、カタリナはついていけないという風に肩を竦めた。
 いや、実際に伝記上の偉人たちと旅をしたという彼にとっては、もはや懐かしい友人のことを語っているに等しいのだろう。
 詩人は続ける。

「とまぁ、こうして本来の聖王たるアーリとは別の聖王が作られることとなったのです。そして実際に聖王記を広めるための仕込みとして、男性の聖王を用意することになりました。そこで立ったのがパウルスの良き部下、アレックスでした。彼は名をアウレリウスへ改め、幾つかの場面では実際に聖王として民の前でも振る舞いました」
「その一つが、指輪の記憶というわけね。でもあのお方・・・アレックス様は、本当に聖王様そのものに見えたわ」

 記憶の中に立っていたアレックスという人は、まさしく聖王記から思い描く聖王様そのもので、あの時はまさか代役であろうとは露ほども思わなかった。

「ふふ、アレックスが聞いたら喜びますよ。彼、筋金入りのアーリファンでしたからね。勿論、彼は聖王を演じるに相応しい実力も備える人物でした。なんなら彼が宿命の子だったとしても、違和感はなかったかもしれません。そういう意味では、三百年前にも宿命の子は二人いた、と言えるのかもしれませんね」

 彼は己の全てをアウレリウスへと書き換え、人類の象徴として十数年の活動を行い、最後はランスで余生を過ごしたという。
 今ランスにある聖王家もアレックスの血筋であるそうで、全くそこは徹底されているようだ。
 傑物が傑物を呼ぶ、ということなのだろう。少なくともカタリナが見たあの姿は聖王そのものとして疑うべくもなかった。あれ程の空気を纏う人が、聖王アウレリウスの周囲には何人もいたのだろう。
 ここまでの話だけでも、既知の歴史観が、文字通り根底から覆ってしまいそうなものばかりだ。

「ふふふ、歴史とは結局、勝者の物語でしかありませんからね。その時に歴史を動かす者たちによって、都合よく作られるものです」
「歴史は勝者の物語・・・か。言い得て妙ね」

 「聖王」という重すぎる役割を引き受けたアレックスという人物についてや、詩人の知る聖王十二将のことなど、今のカタリナには聞きたいことはそれこそ山ほどある。
 だがなによりまず聞かねばならないことは、明確だ。

「・・・アーリ様のその後の旅は、どのようなものだったの?」

 カタリナがそう問いかけると、詩人は意味深げに笑みを浮かべ、立ち上がった。
 すると二人を取り巻く景色は、無機質な石作りの部屋へと変わっていく。
 それは、二人が元いた場所だった。

「先ほど言った通り、自らの宿命とは何なのかを明らかにすべく、旅をしました。数年に及んだその旅の先で彼女は遂に、己が宿命を知るに至ったのです」

 詩人は謳うように語りながら石棺へと近づき、再びその上に腰を下ろす。

「・・・ですが、残念ながらその仔細を私は語ることができません。私は彼女の旅に最後まで同行しましたが、彼女が視たというものを私は、視ていないのです」

 詩人がそういうと共に、空間はさらに歪み、移ろっていく。
 気がつけば詩人とカタリナは、星空の中にいた。
 普段地上から見上げる星空の、ずっとずっと先。見渡す限り上下左右、全てが星空。
 それは、かつて王家の指輪に見せられたものと同じ光景だった。

「アーリが視たものは、この世界の真実の一部、だったそうです。我々が住む世界の様相や、死蝕の正体、そして・・・この先に世界を待ち受ける、とある運命の存在」

 見渡す限りの星の海からカタリナは、斜め下へと視線を向ける。
 そこには期待通り、暗い星の海に浮かぶ、青く淡く輝く世界があった。
 アレックスは、あれを自分たちが住む世界だと言っていた。

「私たちの世界が、少し先の未来で迎える運命。アーリは、その運命が如何なるものであるのかと、そしてその運命に自分が立ち会うことはない、ということも同時に理解したそうです」

 それらを知ったあとの彼女は、あまり多くを語らなかったという。
 しかしそれは、語りたくなかったのではなく語れなかったのだろう、と詩人は言った。
 それほど彼女が視たものは、人の理解を遥かに超えた代物だったのだ。

「ただ、これだけは言い切っていました。彼女も魔王も、目指すものはやはり一緒だった。そしてそれは、次に現れる宿命の子にしても同じことだ、と。アーリは望み通り、己が宿命の真実を得たのです」

 真実を得たというアーリは、この点についてあまり感情の起伏を見せることはなかったそうだ。
 喜びも怒りも哀しみも、未来への楽観もなく。ただただこの真実をどのように後世へ伝えるべきか、ということだけを見据えていた様子だったという。

「それから彼女は一度メッサーナへ戻り、後世へと幾つかのメッセージを残しました。アレックスが指輪に残したものも、その一つでしょう」

 気がつけば、周囲の景色は再び玄室へと戻っていた。
 カタリナは改めて、指輪に見せられた記憶を脳裏で思い返す。

「聖王様・・・が残されたあのメッセージ、途中が掠れていてうまく聞こえなかった。見た人全員がそうだったらしいわ。だから結局何を伝えたかったのか、ほとんど私たちにはわかっていない。貴方は、知っているの?」
「いえ、私はその場にいなかったので、それは分かりません。ただ・・・」

 詩人はゆっくりとした足取りで進み、カタリナの前に立った。
 カタリナはその意図を図るように、視線を逸らすことなく詩人を見返す。すると詩人は微かに笑みを浮かべ、懐から小さな白い包みを取り出した。

「アーリからのお願いでしてね。これを渡すべき人物を、私はここで待っていたのです。恐らくこれが、最も彼女が残したかったもののはずです」

 カタリナは無言で、詩人から包みを受け取る。
 なめらかな手触りの包布をそっと開くと、そこに包まれていた中身は、錫製と思われる、小さな髪飾りだった。
 三百年前のものにしては、随分と保存状態がいい。だが、モノ自体はお世辞にも質がいいとは言えない代物で、特別な装飾や紋様が施されたわけでもない、ありふれた様相の髪飾りだ。

「いやぁ、直接手渡すことが出来てよかったですよ。流石に私も、どれだけこの体が持つか不透明でしたからね。なので保険として、多分ずっと生きていそうなレオニード伯爵に、ここの鍵を預けておいたんです。アビスを目指す意思があり、その力を持つものに渡してくれ、とね」
「それで伯爵、私に鍵を渡してきたのね・・・」

 確かに、その役割ならば吸血鬼であり永劫の常闇を生きるレオニード伯爵が相応しかろう。
 しかし少しくらいは説明を添えてくれてもよかっただろうに、と軽い不満を抱きながら、カタリナは改めて手元の髪飾りへと視線を落とす。

「それは、アーリが小さい頃から身につけていたものです。彼女はこれを、運命に立ち会う者へ渡してほしいと、私に託しました」

 言われて、カタリナは手にした髪飾りを再度見つめる。
 少し幼さを感じさせる可愛らしい花モチーフの髪飾りは、確かに女児が身につけていそうな代物だ。
 数多くの英傑を率い、四魔貴族討伐を成し遂げた比肩するものなき英雄。その偉大なる存在もまた、一人の人間だったのだと感じさせる。
 この髪飾りには、例えば聖王の槍や聖剣マスカレイドのような代物に感じる類の力は、なにもない。
 だがこれは間違いなく、世界に二つと存在しない、正真正銘の聖王遺物なのだろう。

「・・・運命に立ち会う者。それが、私だと?」
「そりゃまぁ、そうでしょうね。今この世界で貴女以上に相応しい方は、居ないでしょう。あ、一応私も見届けられるところまではやるつもりですから、暫くご一緒させて頂きますけどね」

 そう言いながら詩人は再び歩き出し、カタリナの脇を通り過ぎて出口へと向かう。

「まだまだ聞きたいことは色々あると思いますが、最初に言った通りここはあんまり長居すると良くないので、一旦外へ出ましょうか」
「?・・・えぇ、分かったわ」

 さらりと旅の同行を宣言してきた詩人に促され、カタリナは眉間に皺を寄せながら詩人の後に続く。
 確かにここは独特の瘴気が渦巻いていて、長居はしたくない。
 そしてまだまだ聞きたいことはたくさんあるのも事実なので、ここを出てからも暫く質問攻めにしてやろう。
 そう思いながら詩人の後に続いて、建物の外に出た。

「・・・・・・?」

 外に出ると、入る前と何かが違うような気がして、カタリナは言いようのない違和感に小首を傾げた。
 先ほどまで身体中にまとわりついていた不気味な瘴気が晴れ、清々しい気分ではある。だが、それだけでは説明のつかない、そんな違和感を感じたのである。
 上空を見上げれば、どうも空模様が先ほどとは少し違うか。
 先刻までは陽の光が差し込むような穏やかな天気ではなかったはずだが、今は良く晴れた青空が広がっている。山の天気は移ろいやすいと聞くが、まさにその通りだな、などと思う。
 いや、しかし感じる違和感は、天気の問題ではないと思えた。
 ふと背後を振り返れば、先ほどまで入っていた建物がある。
 だが、そこには入る前と明確な違いがあった。建物の周辺がなぜか、焼き払われたように焦げ付いている。
 入った時はこんな状態ではなかったはずなので、カタリナは訝しげに目を細めた。
 周囲へ視線を向ける。
 すると、少し離れた湖畔で寝そべっているグゥエインがいた。
 カタリナがそちらへ近づいていくと、それに気付いた様子のグゥエインも気怠げに瞳を開き、少しだけ首を上げた。

『・・・やっと、出てきたか』
「ごめんなさいね、待たせてしまったかしら」

 カタリナは思わず謝りながら、肩を竦める。
 そんなに待たせてしまったつもりはなかったのだが、不思議とグゥエインの声色には確かに、待ちくたびれたぞ、という色が濃く出ているようだったのだ。
 これは、思ったより待たせてしまった感じがする。
 そのカタリナの心の声を聞いたかのように、グゥエインは低く唸ってみせた。

『・・・自覚はないようだな。するとこれは、貴様の仕業か』

 グゥエインは瞳孔を細め、カタリナの後ろにいる詩人を鋭く睨む。
 すると詩人は両手を肩のあたりまで上げながら、敵意がないことを示した。

「あーまぁ、えーっと・・・どちらかというと魔王の仕業、ですかね。これでも、かなり早めに切り上げてきたつもりなんですが」
「・・・?」

 詩人の言っている内容がいまいち理解できず、カタリナは疑問符を浮かべる。
 詩人の言葉を聞きながら不機嫌そうにふしゅるる、と炎混じりの息を吐いたグゥエインは、カタリナへと向き直った。

『一年だ』
「え?」

 グゥエインの言葉にカタリナが全く理解できない様子で反応すると、グゥエインは目を細め、もう一度言った。

『お前がそこに入って、大体一年程度が経った、と言っている』

 グゥエインの言葉を黙って聞き、数秒、その意味を考える。
 そしてカタリナは再度、小首を傾げた。

「・・・・・・は?」

 

 

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第十章・7 -魔王の玄室-

 

 宵闇の国、ポドールイが静寂なる新月の夜(といっても常に暗いので昼夜の区別は曖昧だが)を迎えた頃。
 僅かな星明かりに照らされながら、レオニード城の門前へ雪と共に舞い降りた巨竜を前にして、カタリナは心底呆れたような表情で腕を組みつつ見上げた。

「・・・まさか一日足らずで来るとはね」
『呼んでおいてその言い種とは、我も随分と舐められたものだ。焼き払うぞ』

 随分な出迎えの言葉に応えて口角の隙間から青白い電流を覗かせつつ、巨竜グゥエインが熱り立つ。
 後方から両者を見守る教授は興味津々の様子で竜を観察し、一方ヨハンネスは腰を抜かした様子で雪原にへたり込んでしまっていた。

「つまり貴方、以前私を乗せていた時は速度を調整していたってことね」
『当然だ。人間を背に乗せて全力飛行などしたら、あっという間に吹き飛ぶだろうからな』

 以前ビューネイとの戦いにタフターン山近くまで赴いた時には、大凡二日程度を要した。それでもカタリナはグゥエインの背にしがみつくことが精一杯といったような有様であったから、確かにその倍の速度となれば、為す術なく吹き飛ばされていたであろうことは想像に難くない。

「・・・まぁいいわ。もう体は大丈夫なの?」
『無論だ』

 そう言って翼を広げて見せたグゥエインの巨体は、僅かな傷が残っている様子もない。
 その様子に一先ず安心したカタリナは浅く頷いて微笑みながら、組んでいた腕を解いた。

「ならよかったわ。それで呼び立てた理由なのだけど・・・」
『大方の予想はつく。お前の足では行けぬところへ向かうためであろう』

 カタリナが言い切る前に、グゥエインが口を挟む。
 全く察しのいい相棒に、カタリナは小さく肩をすくめてから、腰のポシェットへと手を伸ばす。そして布に包まれた黒鍵を取り出すと、それを開いてグゥエインに見せてみた。

「この布に、ポドールイを起点にした地図が記してあったわ。目的地はここより更に東・・・見捨てられた地の北方を示しているみたい。何かその辺りに心当たり、ある?」

 差し出された黒鍵と布の匂いを嗅ぐかのように鼻先を近づけて暫し観察していたグゥエインは、もたげていた首を徐に夜空に伸ばし、ゆっくりと東に向けた。

『貴様らが見捨てられた地と呼ぶ場所は、この三百年ずっと、異様な濃さの瘴気に塗れた土地であった。そこに記されている場所は恐らく、最も濃い瘴気の渦巻く場所・・・彼の地の北方にある山脈のあたりだろう。何度かその近辺を通ったことがあるが、空からでもわかる悍ましさであった』
「見捨てられた地の北方の山脈、か・・・。そんなところに一体何が、って言いたいところだけど・・・とにかく行ってみるしかないわね」

 カタリナは自分に納得させるようにそう呟くと、教授とヨハンネスへ振り向く。

「エレン達が聖杯を持って戻ってきたら早速、魔導器製作の着手、よろしくお願いします」
「任せなさい。この私に作れぬものはないわ」
「どこまでプロフェッサーのお手伝いができるかはわかりませんが・・・頑張ります」

 両名の返答を聞いてから軽くお辞儀をすると、カタリナは颯爽とグゥエインの背に乗る。
 なんだかんだカタリナが乗ろうとするのを察して身を屈めてくれるあたり、グゥエインはそこらの奴より実に気遣いのできる竜である。
 グゥエインの背に乗ると、巨龍種が持つ朱鳥の加護がすぐに自分にも伝わってくる。これがないときっと高高度では凍え死んでしまうのだということを体感で知っているカタリナは、ポドールイの寒さも相まって思わずグゥエインの竜鱗を撫でながら安堵の息を吐いた。

「はーあったか・・・」
『我を焚き火か何かと一緒にするな』

 呆れたようにそう呟きながらグゥエインは身を起こし、両翼を雄々しく広げる。それに合わせて周囲の柔らかい雪が舞い上がり、見送る教授らの頬を撫でた。

「じゃあ、行ってきます」

 自分というよりは巨竜が飛び立つ様を観察することに専念している節がある教授に一応手を降り、竜と共に飛び上がる。瞬く間に空高く舞い上がったグゥエインは宵闇に紛れ、東へ進路を取った。

 

 

 見捨てられた地。
 地名というにはあまりにもさもしい名のその地は、現在発行されている世界地図の東の端に広がる、未開の地である。
 いや、未開というのは正確ではないかもしれない。かつてそこには人が住んでいたとされており、今より六百年の昔、魔王によって人が住めぬまでに汚染された地であるからだ。
 その地の北部は、極寒の地。大地は凍てつき、風は凍り、一切の生命を寄せ付けない白銀の地。
 その地の中央部は、腐れし樹海。毒沼と瘴気に塗れた汚染樹林が広がり、その合間には邪悪な魔物が跋扈する醜悪なる腐海。
 その地の南部は、死せる乾きの大地。玄武の恵みを失った砂と岩だけの荒れた地肌が広がる、草ひとつ生えぬ不毛の荒野。
 かの聖王ですら復興を断念したとされるその地は、この六百年の間に人類が手を出してこなかった禁忌の地だ。

「かつて魔王軍が東方へ侵攻した際、見捨てられた地に点在していた諸国は連合軍を組み、天術を用いて魔王軍に対し連戦連勝を重ねたというわ。でもその僅か一年後、魔王自身が戦線に出たことで連合軍はあっさり全滅。東方諸国があったとされる土地がまるごと、瘴気渦巻く死の大地となった・・・というのが聖王記に書かれている概要ね」
『筋書きは知らぬが、死の大地という記述は概ね正しい。幾つか廃墟の類も見た覚えがあるので、それが恐らく滅ぼされた国とやらだろう。しかし・・・』

 地表の観察ができるように比較的低空を飛びながらカタリナの話を聞いていたグゥエインは、飛行しながら怪訝そうに唸った。

『どうにも以前より瘴気が薄い。前はもっと上空でも不快に感じたが、今はこの高さで軽微に感じる程度だ』
「私にはまだ全くわからない・・・竜の感応能力ならではなのかしら。しかし前より瘴気が薄まったというのは、悪いことではないんだろうけれど、気になるわね・・・」

 人類がこの地を六百年の間放置していたのは、まさしくその瘴気が大いに関与していた。
 例えばロアーヌから東に向かう先に広がる腐海は、見捨てられた地の中では最も到達が容易だ。かつて聖王が視察を行ったのも、その辺りだとされている。
 そして聖王は、腐海を覆う瘴気を前に、その地の復興を断念した。腐海の瘴気は、それこそ人が足を踏み入れれば一日と持たず気が触れてしまうほどの濃さであったのだ。

『実際は、北へ向かうほど瘴気の濃度が高くなっていた。この辺りの山岳地帯はその気候以前に、魔物ですら近寄らぬ類の瘴気に覆われていたものだが・・・それが薄まっている』

 グゥエインは眼下に広がる山脈を見下ろしながら、徐々に高度を下げていく。
 山間まで覆うような薄暗く分厚い雲の間をすり抜け、薄暗い山肌を視認できる高さまで降りてくると、間も無くその先には山に囲まれた湖が見えてきた。
 その辺りに来た時、カタリナはふと、自分を呼ぶ声を聞いたような気がした。
 この感覚はここ数年で何度か経験している。間違いなく、聖王遺物が何かに感応した感触だ。

「・・・あの湖の辺り、降ろしてもらえるかしら」

 カタリナに言われる通りにグゥエインは更に降下し、険しい山脈の間にぽつんと置かれたような小さい湖の畔に降り立つ。
 かくしてその湖の畔には、明らかに人工的に作られた石造りの小さな建造物が鎮座していた。
 グゥエインから飛び降りたカタリナが周囲を調べるが、その石造りの建造物以外には何も見当たらない。
 そしてこの建造物には窓らしきものが無く、ただ一つ備え付けられている扉らしきものも、固く閉ざされている様子だった。

「・・・これ、かしらね」
『そのようだな。ここは流石に瘴気が濃い。不快ゆえ、早々に行ってくるがいい』

 グゥエインから実に心のこもった見送りを受けつつ、カタリナは石扉の前に立った。
 見た限りは単なる石壁だが、手で触れてみると、これは単なる石材ではなさそうだということがカタリナにもわかる。なにしろ触れただけで、王家の指輪やブーツなど、身につけている聖王遺物が騒がしいほどに反応を示すのだ。
 これは感覚としては魔王の斧や盾といった、魔王遺物に近い代物に思えた。
 間違いなくここは、魔王に何らか関係のある場所だろう。

(魔王によって汚染された地にある、魔王所縁と思われる建造物か・・・魔王遺物でも眠っているとか・・・?)

 扉と思しき模様が描かれた正面の壁には、小さな鍵穴がある。
 カタリナは懐から黒鍵を取り出し、そのまま鍵穴に差し込んでみた。
 すると黒鍵はカタリナが回すでもなく勝手に動き出し、ガチリ、と開錠を知らせる音を発したかと思うと、役目を終えたかのように呆気なく崩れ去ってしまった。
 そして次の瞬間、石扉が黒鍵と同じようにその役目を終えたように音もなく塵状に崩れ、中へと誘う道が開かれる。
 だが、何らかの術でも施されているのか、外から見る中の様子は全くの暗闇で、一歩先すら見通せない。

「・・・・・・」

 カタリナが慎重にその暗闇へと足を踏み入れると、まるでそれを待っていたかのように建物内に淡い灯りが灯る。
 カタリナは特に驚く様子もなく、歩を進めた。
 するとすぐに一本道は終焉を迎え、この建造物の大部分を占めていると思われる広間に出た。
 何の装飾もない無機質な空間が広がる部屋の奥にあるのは、簡素な台座と、その上に鎮座する石棺に石碑。
 そして、石棺の上に座って静かにこちらを見つめる、一つの人影であった。

「・・・まるで、待っていたとでも言いたげね」

 素早く腰のロングソードに手をかけながら、カタリナが睨む先。
 石棺の上に腰掛けている人物は、彼女の問いかけに応える代わりに、僅かに笑みを作ってみせた。

「当然説明は・・・いや、これまでのことも含め私が納得するまで、全てを洗いざらい話してもらう。いいわね」

 カタリナの怒気に満ちた視線を受けながらなお、湛えた笑みを崩さない人物。
 その者こそは、自らを聖王記詠みと自称する風変わりな格好の詩人であった。

 

パチ、パチ、パチ、パチ、パチ・・・

 無音だった空間に、軽快に手を打つ音が滑稽なほど良く響きわたる。
 その拍手の発生源である詩人を睨みつけながら微動だにしないカタリナをよそに、当の詩人は心底愉快そうに笑みを作りながら、次には両手を広げて歓迎を示すポーズをした。

「やはりここに来たのは、貴女でしたね」

 詩人が言葉を発するとなんだか急に瘴気が濃くなったような気がして、思わずカタリナは軽い吐き気を覚えながら眉間に皺を寄せる。
 詩人はそんなカタリナに対して仰々しく会釈を行い、まるでこの空間を案内するかのようにふわりと腕を左右に広げてみせた。

「よくぞ、ここまで辿り着きましたね。ここは悠久の果てへと想いを馳せ、創造主への叛逆を誓い、飽くなき願望と共に長き眠りについた最初の宿命の子・・・魔王の玄室です。つまり・・・」

 詩人は勿体ぶるように、広げていた方の手をゆっくりと自らの胸元に当て、もう片方の手で特徴的なとんがり帽子を脱ぐ。

「つまり、私の玄室です」
「・・・・・・」

 しばし、カタリナは眉間に皺を寄せたまま、無言で目の前の人物を見つめる。
 まず考えたことは、目の前の男が狂人か否か、ということだった。
 魔王やその生まれ変わりを自称する不逞の輩というのは、不思議なことに一定周期で世の中に現れるものだった。その殆どは魔王信仰宗派の中で教祖を自称する賊の類であり、名乗ってから幾許かの後、民衆を誑かす邪教として近隣の軍団に殲滅させられる運命にあった。
 だが恐らく、目の前の人物はそういった類の狂人ではないだろう。
 そもそも気が触れていようがいまいが、人類がこの場所に辿り着くことは不可能に近い。
 それはここまでグゥエインの背に乗ってきたカタリナだからこそ、よくわかる。
 となると目の前の人物は、高い確率で「人間ではない何か」という事になる。
 では、狂人ではなく魔物か?
 いや、それも異なる。
 魔物や妖魔の類には人と見分けがつかない者も確かに存在する(それこそレオニード伯爵などがその典型だ)が、そういった存在は相対すれば、人と異なる気配を必ず感じるものだ。
 特段、聖王遺物を身に付けているカタリナだからこそ、それに気付かぬことはまずない。
 だが今も過去も、この詩人に対してそういった類の違和感を感じたことはなかった。
 では狂人でも魔物でもなければ、魔王か?
 それは、残念ながら彼女には判断のつかぬことであった。

「貴方が・・・魔王・・・?」

 答えの見えぬ思考の行き止まりに当たったカタリナは、漸くそれだけを微かに呟いた。

「貴方が、魔王ですって・・・?」

 今度は、はっきりと声に出す。
 すると詩人は事も無げに浅く頷き、肩を竦めた。

「はい。あーでもまぁ正確にいうと、魔王だった者、のほうが適切ですかね」

 魔王だの魔王だった者だの、そのような言葉遊びを聞きたいわけではないカタリナは、一先ず自分なりの確認を行うことにした。

「・・・冗談にしても、面白くないわ。じゃあなにかしら、貴方、今年で御年六百歳を超えるお体ってわけ? その割には、随分お若く見えるけれど」
「はい、なにせ今は芸事に生きる身ですからね。朝晩のスキンケアは欠かさず、入念に行なっています」

 この軽口。
 これは間違いなく彼女の知る、聖王記詠みを自称するいけ好かない男だ。
 その気配は、やはり人間そのもの。
 だが、聖王遺物を身につけているカタリナですら吐き気を催すほどのアビスの瘴気に塗れたこの場所で平然としていられる人間など居ないこともまた、彼女は知っている。
 だがそんな彼女の心中などまるで気にせぬ様子で、詩人は続けて言葉を発する。

「さて、人類がここまで到達することができたことを祝し、貴女にはとっておきの物語を是非とも披露したいと思います。少々長居には適さない場所で恐縮ですが・・・お聞きになりますか?」

 詩人の言葉に、カタリナは無言で浅く頷く。今の言葉はまるで自分が人類ではないと断じるような言い方であったが、しかしいちいち突っ込みを入れるのも面倒だと考えた。
 カタリナの素直な反応に詩人は満足げに頷き返すと、手にしていたとんがり帽子を再び被り直しながら、ゆっくりと石棺を降りた。

「とはいえ流石に記憶も朧げですからね・・・所々思い出しながらになるのは、ご容赦ください」

 おほん、と咳払いをした詩人は、まるでこれから詩を詠い始めるかのような素振りで、静かに語り始めた。

「ではまず、私がここに至るまでのお話から始めましょう。時は聖王前歴二百七十年あたり、当時魔王として活動していた私は古メッサーナを始めとした諸国を制圧したのち、軍をゲッシアへと進めました。目指したのは今の世界地図にはない、もっと東の地。貴女にも分かりやすく言うならば、即ち第五のアビスゲートを目指したのです」

 それはまさに、先ほどカタリナがグゥエインに対して語って聞かせた聖王記の歴史だった。

「私がそこを目指した目的とは即ち、この世界の全てに死を伝え、破壊を齎すこと。そして・・・母なる死の星へと還ること」

 瘴気に塗れ陰鬱とした室内には不似合いなほど良く通る声で、詩人は語る。
 六百年の昔、魔王軍が第二次ゲッシア侵攻にて自軍勝利の大勢を決した時、魔王は己が肉体の限界を察知した。
 彼が魔王として行使してきた力は、人の体には余りあるもの。それこそ四魔貴族をすら従えるほどの力を振い続ければ早々に限界が訪れるだろうということは、分かりきっていたことであった。
 この時、多少それが彼の予測より早くきた、というだけであった。
 魔王はすぐに戦線を離れ、暫しの眠りにつくための場所に向かった。
 それが、この地である。

「聖王記第一章第一節『魔王伝記』にて、魔王没すと人々は語った、とされています。なのでまぁ、それに合わせてここを玄室、と呼ぶことにしました。あ、ちなみに一部の歴史学者なんかが、魔王は時の英雄アル=アワドに深傷を負わされたのではーなんて説を提唱していますが、流石に当時の人間に遅れをとるようでは、魔王なんてやっていられませんからね、流石にそれはデマですよ?」

 本気で心外だというように表情でも語りながら、詩人は石棺の後ろにある石碑へと歩み寄り、その石碑へと手を添える。
 すると石碑は塵となって崩れ落ち、奥へと続く通路が現れた。

「少し、場所を変えながら話しましょうか」

 言うだけ言うと、無警戒で通路へ向かう詩人。その背中を背後から蹴り倒してやりたい衝動に駆られるも何とか抑えつつ、カタリナは無言でその後を追った。

「玄室というのは勿論洒落で、死ぬ気は全然なかったんです。無理をさせた体を瘴気で癒し、然るのちに活動再開する。そのためにここを用意したのです。ただ・・・少し想定外が起きましてね」

 魔王「だった者」が次に目覚めたのは、眠り始めてから三百年近く経った頃であった。

「あの目覚めの時は、今も鮮明に覚えています。あれは全く経験したことがない、実に・・・実に、清々しい目覚めでした」

 起きてすぐ、彼は自らの内に起きている異変に気付いたという。
 死に魅入られ、死の星を求る自らの宿星と宿命。それが、一切感じ取れなくなっていたのだ。
 それはまるで長い長い夢から覚めたかのように、眠りにつく前はずっと彼の中で渦巻いていたものが、忽然と消え失せていた。

「ほんと、びっくりするくらいどーでも良くなっちゃってたんですよ。まるで、何度も何度も繰り返した『ごっこ遊び』に突然飽きた子どもみたいに。ただ・・・これは『魔王』が背負っていた宿命の消失を意味するものではありません。その宿命の根源・・・『混沌の意思』とでもいうべきものが、この体を離れただけ。そこだけは、何故かはっきりと確信していました」

 目覚めと共に生きている意味、即ち宿命を失ってしまった男は、目的なく諸国を巡ることにした。
 当時は、四魔貴族による数百年の支配が続いた凄惨たる暗黒時代。町中にさえ人間の死体が幾つも転がり、魔物に体を食いちぎられ絶命していく人間の叫び声が聞こえない日はなかった。
 そんな光景を見ながら男は、世界を覆う瘴気や四魔貴族の力を鑑みれば人が死に絶えるのはそう遠い話ではないだろう、とぼんやり考えていた。
 無論、それに対して何も思うところはない。なにしろ男には為るべきことなど、何もないのだから。
 そうしてただただ混沌の世界を見つめながら放浪する中で、男は北方の寂れた農村を訪れた。
 後の世では聖都ランスと呼ばれるその小さな農村で男は、一人の少女を見つける。
 その少女こそは、世界が選んだ、次なる宿命の子であった。

「ちょっとまって。少女ってどういうこと。それは聖王様ではないの?」

 暫く黙って聞いていたカタリナだったが、流石に口を挟む。
 三百年前の死蝕の際に現れた宿命の子、即ち聖王とは、男だ。
 聖王記に描かれる肖像も、各地に伝わる絵画も、そしてカタリナ自身が王家の指輪を通じて見た姿も。その全てにおいて、聖王は男性だった。
 だというのに今の話に出てくる宿命の子が少女というのは、史実と異なる。

「まぁまぁ、聞いてください」

 しかしてカタリナの質問を軽く受け流しながら、詩人は通路の先にあった扉を開く。
 開かれた扉の先に現れたのは、寂れた農村の入り口であった。どことなくその地形が、聖都ランスのそれに近しいようにも見える。
 慌てて背後を振り返ると、通ってきた扉は既にない。
 そこで漸く、これは王家の指輪に見せられたような幻想の類であろうと気付く。

「あぁそうそう、こんな感じでした。案外覚えているものですね」

 一人勝手に呟きながら、詩人が続ける。
 少女はその出生ゆえか、目立たぬように生かされていた。
 そう仕向けた家族の判断は、少女を生かすという意味では正しい。なにしろこの時代に死蝕を生き残ったなどと分かれば、魔王の再来として直ぐさま命を奪われるであろうからだ。
 死蝕の中で初めて一人生き残り、祝福の子とまで言われた自分とはまるで正反対の境遇だなと、男は他人事のように思った。
 男は考えた。死の星を求る宿命は、この少女に移ったのだのだろう、と。
 であればたとえ少女の家族が少女の出生を秘匿し少女に退屈な生涯を送らせようとしても、宿命は決してそのようなことを許しておかない。
 やがて世界が少女を求め、少女の周りには甘美なる死が、ばら撒かれることになる。
 無垢な少女は死に魅入られ、破壊を求める第二の魔王となり、世界に更なる死を振り撒きながら東を目指していくのだろう。
 それはきっと、男の時よりもずっと楽に進むはずだ。
 なにしろ、舞台は整っている。男の手によって人類の弱体化、四魔貴族の招呼と、多くの仕込みを終えてあるのだ。これならば第二の魔王は、容易く死の星へ到達できることであろう。

「私の中にはすでに、破壊へと駆り立てる衝動はありませんでした。ですが少しだけ、気になったんです。私が目指していたものを引き継ぐこの少女が、はたしてどんな処に向かうのか。私が目指していたものは、どんなものだったのだろうか?」

 そんな小さな興味から、男は少女を暫く観察することに決めた。
 男がランスに滞在を始めた翌年、少女は奴隷商人に攫われた。
 この時代は、人と死の距離が非常に近かった。飢餓、疫病、魔獣被害、そして人間同士の殺戮と略奪。そういったものが人の生活圏と常に近しい距離で起こっていたのだ。だから少女が攫われることも、別段珍しいことでもない。男はそれを助けるでもなく、密かに後を追った。
 すると予め定められていたかのように、奴隷商人の馬車は街道で魔物に襲われた。奴隷商人らは為す術なく食いちぎられ、魔物が荷馬車に迫る。
 男は、見ているだけだった。もし少女がここで死ぬのならば、それは少女と世界にとって最も幸福なことかもしれない。そんなふうに、うっすらと考えながら。
 案の定、というべきだろう。
 少女は助かった。
 魔物を滅し少女を助けたのは、通りかかりの武装小隊であった。小隊の護衛団を率いていたのは雄々しき青年フェルディナント。小隊の主は強き意思の光を瞳に讃えし少女ヒルダであった。
 二人は哀れな少女を元いた場所に帰そうとしたが、少女は涙ながらにそれを拒否した。少女は幼いながらに、感じ取っていたのだ。自らが、村で他の住民から疎まれていたことを。己の出生を原因として家族が苦しんでいたことを。
 困った二人は一先ず少女を連れ、国元であるユーステルムへと帰ることとした。
 こうして少女はユーステルムに辿りつき、そこで三年の月日を数えることとなる。
 カタリナの周囲の景色も移ろい、ランスより更に雪深い街へと視界が変貌していく。こちらも記憶に面影があるので、すぐにユーステルムの街であろうと察しがついた。

「フェルって一度身内認定すると、すっごい構うんですよね。毎日熱心に剣を教えてましたよ」

 剣技において非凡な才能を見せた少女は、フェルディナントの元でめきめきと腕を上げた。もう少女には、三年前の臆病な面影はなかった。
 この時の少女は、漠然と焦燥感を抱いていた。救いの見えぬ世界で、あらゆる脅威に怯えて暮らす人々。その中で自分がこうして、日々をただ消費することに対して。
 少女は、旅立つことを決めた。まずは世界を知らなければ、なにも始まらない。その想いだけを抱いて。
 同じくユーステルムに居付き、冒険者稼業に身を窶しながら少女を密かに観察していた男は、ここで少女に同行を申し出ることにした。
 少女の兄姉を自称していたフェルディナントとヒルダはたいそう訝しんだが、当の少女は男の申し出を二つ返事で快諾した。
 同じ街に三年もいれば、少女が男のことを見知っていた可能性はあるだろう。無論、それが男を信用する理由にはならない。だというのに男の申し出を承諾したのは、もしかしたら同じ宿命を宿していたもの同士の何かを、感じたのだろうか。

「こうして私はまんまとパーティーに加わり、彼女を間近で観察し続けました」

 カタリナの周囲の景色が、まるで走馬灯でも見せられているかのように様々な場面へと変化していく。
 旅立ちから三年をかけて少女と男は世界を回り、その道中で多くの人々に出会っていった。その中にこそ、後の世に聖王十二将と呼ばれることになる勇士達がいたのである。
 古メッサーナの地では、後に聖王三傑に数えられながらも敵対関係として出会ったパウルスと、その従者アウレリウス。東に行けば、武人オトマン。西では後に少女の後見人となるフルブライト十二世や、その息子チャールズ、従者の臆病なソープ。そして大賢者ヴァッサールなど。
 聖王記をはじめとした歴史書には記載されていない事実や載っていない人物など、その光景を見ているだけでもとんでもない情報量が次々と飛び込んでくる。

「ち、ちょっとまって。色々聞きたいんだけど、一つだけ。アウレリウスって、聖王様の御名よね。パウルス様の部下って、どういうこと?」

 アウレリウスとは、聖王記に刻まれる聖王その人の名だ。ごく一部にその表記があるだけで主には聖王としか記されないが、唯一聖王の人となりを表す名詞として、この世界では広く知れ渡った名である。

「ふふ、ちゃんとそこも話しますよ」

 まるで悪戯の種明かしをするのが勿体無いとでも言いたげに、詩人が笑う。その表情を心底鬱陶しく思いながらも、カタリナは辛抱強く耳を傾けることにした。
 カタリナと詩人を取り巻く景色は更に移ろい、ウィルミントンと思われる場所へと変わった。
 成長した少女は十八歳を迎えた時、フルブライト十二世の養子に迎えられることとなった。
 利発に、そして見目麗しく成長した少女に人並みの幸せを享受してほしいと願ったフルブライト十二世らの想いは、誰にも否定できるものではなかっただろう。
 少女が養子となることを受け入れた時、男はもう、これ以上少女の観察をすることをやめようと考えていた。
 ランスでの邂逅から都合七年ほど少女を見てきたが、その中でどうにもこの少女が自らと同じ道を辿る未来が、思い描けなくなっていたのだ。
 であればもう男には、少女の近くにいる理由もない。
 男は一人、その肉体が滅ぶまで再び世界を宛てなく彷徨おうかと考えた。
 だが、それを止めたのもまた、少女であった。

「彼女ったら酷いんですよ。次の目的が定まるまでは自分の元にいろ、って言うんです。どうせ行く宛てなんてないんだろって決めてかかってるんですよ?」
「その通りじゃないの」

 場面は、満天の星空を仰ぐ山の頂へと移っていく。
 フルブライトの養子となった少女はそこから二年、弛まず戦技の研鑽を重ねた。男は、指導役としてそれに付き従っていた。
 この時、男は少女が以前の焦燥感とも異なる、もっと明確な「何か」に駆り立てられ始めていることを悟っていた。
 だがそれは、かつて男の内に生まれたものとは異なるもの。それこそ、真逆と言ってもいいもの。
 それは死へと向かう誘惑ではなく、溢れる生命力による反発。
 ある夜、少女はデマンダ山脈の最も高い頂に立ち、手にしていた一振りの剣を満天の星空へと翳した、
 すると空に煌めく星々から少女の持つ剣へ、次々と星の力が降り注いでいったのだ。
 それは男がこれまで見てきた、いや、これから見るものも含めてきっと、どんな景色よりも美しいと思わせる光景だった。
 現代には聖王遺物として伝わる比類なき力を秘めた武具が最初に誕生したのは、この瞬間であった。
 七星剣、と名付けられたその剣を鞘に収めた少女は側に控えていた男に振り返り、申し出た。
 四魔貴族を討つための戦いに、ついてきてほしいと。

「笑っちゃいますよね。四魔貴族を呼び寄せた張本人に、追い払う手伝いを頼むんですから」

 男には特に目的などなかったので、それを断る理由もなかった。
 それから間も無くフルブライト十二世によって諸国に四魔貴族討伐の号令が発せられ、戦いが始まった。
 この戦いの最中で、少女の元にはかつて出会った勇士達が続々と集った。
 そうして戦いが始まってから四年、少女が二十四の頃、ついに四魔貴族討伐の偉業が成し遂げられたのである。

「このあたりは聖王記に記してあるので、話すまでもないでしょう。戦いの中で数々の宝具が生まれ、幾つもの尊い犠牲を払い、遂に少女は全てのアビスゲートを閉じたのです」

 いつの間にか周囲の景色は、荒れた山間の崖に移り変わっていた。
 カタリナはこの景色に、なんもなく見覚えがある。恐らくは、ルーブ山脈だろう。
 四魔貴族征伐の後、歴史上で語られた聖王最後の戦いの舞台。

「・・・で、そのあとは巨竜ドーラ征伐譚で終わり、というわけね。じゃあそろそろ、質問をしてもいいかしら」
「私に答えられることならば」

 お待たせしました、とでも言わんばかりに詩人が身近な岩に腰変えるのを半眼で睨みながら、カタリナが口を開いた。

「まず先ほどの質問に答えて。貴方の語った少女とは、一体何者なの。聖王様は、男性のはずよね?」

 まずは、そこだ。
 聖王記には抽象的な挿絵が僅かにあるだけだが、基本は男性として世界に解釈されてきた。
 それにカタリナは二度、その姿を見てもいる。一度目は初めて魔王殿で少年から王家の指輪を受け取った時。二度目は、ピドナでモニカらと合流した時だ。
 その姿はどことなく聖王記の挿絵に似ているような気もして、間違いなくそれが聖王記に記された聖王であろうということを感じさせた。
 しかし詩人は曖昧な笑みを浮かべ、逆にカタリナに問いかけた。

「貴女は、指輪の記録も視ていますよね。記録の中の青年は、自らの名を名乗っていましたか?」

 言われて、カタリナは思い返してみる。聖王様の言葉を聞いたのは、二度目の記憶、ピドナでの時だ。あの時、何と言っていたか。

「・・・いえ、名乗ってはいないわ。ただ確か・・・その場にいたらしいヴァッサール様が、聖王様のことを・・・」

 なんと、呼んでいたか。
 細い記憶の糸を必死に手繰っていたカタリナは、漸くその糸を手繰り寄せ、はっとした表情で顔を上げた。

「・・・アレックス。そう・・・聖王様は、アレックスと呼ばれていたわ」

 

 

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第八章・10 -竜騎士-

 

 タフターン山とロアーヌの間に敷かれた、長大なるロアーヌ騎士団の防衛拠点。ここに駐屯するロアーヌ軍を取り巻く戦況情勢は、直近のある時を境に一変した。
 第一の転機は、年明け早々にメッサーナ王国からの支援物資が拠点に届いた時点である。
 大量の戦線支援物資と同時に届けられた書簡によれば、これはメッサーナ王国近衛軍団長ルートヴィッヒをはじめとした諸侯とその同盟国の代表が年末にピドナ王宮にて行うコングレス(ロアーヌ侯国は今回は戦時につき欠席した)によって全会一致で採択された結果だという。
 これを即座に受け入れる決断をしたミカエルからの補足によると、この採択の背景には六年前に没落したはずのメッサーナ名族であるクラウディウス家が一枚噛んでいるとの事だった。
 また、本物資の輸送作業を実質的に担ったのは近衛軍団直下の輸送隊ではなく、ピドナに本社を置く「カタリナカンパニー」という企業であることも付記されていた。
 現地拠点の総指揮を務めるブラッドレー将軍は、これらを確認後、即座に物資の分配を開始。
 兵力の補填こそなかったものの豊富に揃った食糧や武器防具、崩れた砦の修繕用材木などを用い、兵の士気を保ちながら強固な防衛ラインを敷き直し、崩れかけていた魔物との戦闘情勢を持ち直しにかかった。
 そしてこれより更に数日の後、第二の転機が訪れた。
 その日、突如として明らかに魔物の攻勢が急速に弱まったことを、前線の兵士たちは計らずも一斉に肌感で察知した。
 それまでは軍として纏まっていた魔物たちは、まるで唐突に知性を失ったかのように疎らな侵攻を行うようになったのだ。隊列や種族ごとの編成などの概念も消え失せ、只々闘争本能に従い個別に襲い掛かるばかりとなったのである。
 当然これは、この戦で殊更に屈強さを増した歴戦のロアーヌ騎士団によって、全く危なげもなく各個撃破されていった。

 そして、魔物の攻勢が鈍化した更に翌日。
 油断しないまでも明らかな希望を見出しつつ警邏についていた物見の兵から、敵軍襲来を知らせる警鐘が鳴り響いた。
 しかも、それは昨日のような鈍化した攻勢などではなかった。
 平時ならば魔物の動静が鈍化するはずの日中に、あろう事か巨大な竜が一頭、突如として防衛戦線上に姿を現したのである。
 その姿は遠目からでも分かるほどの見事な巨躯であり、歴戦のロアーヌ騎士たちはその竜が間違いなく巨龍種であろうということを即座に見抜いた。

「馬鹿な、何故このタイミングで巨龍種なんて・・・!」

 防衛隊の先陣を担うコリンズ将軍は愛用の騎兵槍を強く握り締めながら、苦々しそうに呻く。
 小型、中型種の魔物を対象とした戦闘経験は、ロアーヌ騎士団は他国の追随を許さぬほどに積んでいる。だが大型種ともなると、話は全く別だ。
 そもそも大型種に分類される魔物は、極端にその個体数が少ない。
 人類の生活圏に近い場所での生息も、まずしていない。
 巨人種、デーモン種、巨龍種など、その存在が認識されているもの自体も非常に少ない。主にその存在が見られるのは、語り継がれる伝説や童話の中ばかりだ。
 それがまさか人類生活圏の近いこの戦線に降り立とうなどと、騎士団の誰もが全く予想だにしていなかった。

「広く半円状に歩兵を展開後、中央と左右の要所に騎馬隊を配置。分散突撃し、巨龍種が用いるとされる殲滅砲への対策とする。空中に飛ばれたら手の打ちようがない。地上にいる間に可能な限り損傷を加え、相手が退くのを狙うしかあるまい」

 自らも兜を深く被り、自らの直線上に座する竜を高台から睨みながらブラッドレーが口早に作戦を発すると、それに伴い各部隊を率いる将は持ち場に着くべくその場を駆け出した。

「俺は正面を担当する。必ず一撃、見舞ってみせる」
「・・・頼む、コリンズ。お互い死線ばかり潜るが、必ず生きてまた会おう」
「応よ」

 互いに短くそう言い合い、コリンズは己の愛馬に跨り、迷いなく隊列の先頭へと向かう。
 激動の一年の間に起こった数多の戦で打ち立てた輝かしい戦績から、ロアーヌ騎士団でも最強との噂が立つ「速攻のコリンズ」率いる第一騎馬隊。
 その最強の名を持つ騎馬隊の面々は、誰一人とて怯えた様子もなく、この一大局面の先頭を牽引せんとし真正面から竜へと相対した。

(・・・こりゃあ、リブロフの砦で神王教団相手にした時くらいやべえ感じだ。あの時は詩人さんが助けてくれたが、今回はそういうわけにも行かんだろう。果たして俺の槍が、あのデカブツに届くかどうか・・・やるしかねぇな・・・!)

 コリンズは可動式の面頬をカシャリと落とし、バイザー越しに竜を睨む。
 これまでの人生の回想をしているほどの時間的余裕は、ない。
 標的が飛ぶ前に何としても一撃を加え、退かせる。
 よし、と小さく呟いたコリンズは、突撃のラッパを吹かせるべく右手に持つ槍を高らかに掲げんとした。
 だが、彼がそれをする直前に、直線上に在る竜の異変にふと気が付いた。
 竜は、自らの周囲を囲む騎士団などまるで気にしていないかのように寝そべるような体制を取ったのだ。
 まるっきり、交戦意思がない有様である。
 それだけならば寧ろ好機であるとも取れるが、更に奇妙なことに、その竜の元から、一人の人影が真っ直ぐに此方へと歩いてくるではないか。
 その不思議な光景を凝視していたコリンズは、やがてその抜群に優れた視力で以って、その人物が何者であるのかを誰よりも早く見抜いてみせた。

「・・・おいおい、マジかよ・・・もう何が何だかわからねーな・・・」

 コリンズは呆れ返ったような表情をしつつ、周囲の騎兵に待機の指示を出して馬から降り、面頬を上げて兜を脱ぐ。
 そしてそのまま小脇に兜を抱えたままで待つ彼に気付いて正面から小走りに歩み寄ってきたのは、ロアーヌ騎士団が誇る紅一点にして自軍最強の騎士との誉高い、カタリナ=ラウランであった。

「・・・最近は一気に人間離れしてきたと思っていたが、まさかお前、ついに竜まで従えたってのか?」

 声が届く距離までお互いが近づくと、コリンズはすっかり緊張が解けてしまった様子で肩を竦めながら話しかけた。

「そんなわけないでしょ。あの竜は、ルーブのグゥエイン。四魔貴族ビューネイを討伐するために、協力してもらったの」

 コリンズの相変わらずの軽口に、思わずうっすらと笑みを浮かべながらカタリナが答える。

「いやそれ簡単に言うけどな・・・。っつかビューネイ・・・矢張りお前が討伐に動いていたか。ここの戦線も、突然襲撃が緩くなった。ということはつまり、やったのか」
「ええ、ビューネイは討伐したわ。その事を伝えにここに来たの。直ぐにミカエル様にもお伝えして頂戴」

 カタリナのその言葉を聞き、コリンズは肩に担いでいた槍をゆっくりと降ろしてから地面に刺し、大きく長く、息を吐く。
 それは、二ヶ月あまりにも及んだこの防衛戦線の終結を意味する所作でもあった。

「・・・騎兵隊から司令部へ通達!目の前の竜に交戦意思なし!及び、我が軍の騎士カタリナによる魔龍公ビューネイの討伐完了を確認、と!!」

 コリンズが半身を翻しながら後ろに控えていた部下にそう指示を飛ばすと、騎兵は一瞬の躊躇いの後に指令を受諾し、急ぎ馬を走らせていった。

「・・・やっぱお前はすげえよ、カタリナ。先ずはこの場を代表して礼を言わせてくれ。本当にありがとう」
「いいえ、私はロアーヌ騎士としての役目を果たしたまで。寧ろ私こそ、ここで魔物を食い止め切ってくれた貴方達を心から誇りに思うわ。我らがロアーヌを守ってくれて・・・本当にありがとう」

 そう言いながら二人ともが突き出した拳を軽くぶつけ合うと、自然と周囲からは歓声が湧き上がった。
 その歓声は瞬く間に波打つようにしながら防衛戦線を担う兵士全体に広がり、その場の全員が、この戦いの終焉を確信したのだった。

「奥にブラッドレー達もいる。行こうぜ。ミカエル様には一緒にご報告していくだろ?」

 そう言いながらコリンズがカタリナを誘うと、しかしカタリナはゆっくりと首を横に振った。

「いえ、私は一度、グゥエインと共にルーブへ戻るわ。そこに待たせている仲間もいるの。ミカエル様へのご報告は、任せていいかしら」

 カタリナのその言葉にコリンズはとても残念そうな表情を浮かべるが、かと言って引き止めることはしない。今の彼女の行動を此方の意思でどうにかできるなどと、コリンズは全く考えつきもしないからだ。

「そうか・・・残念だが、お前がそういうのならば仕方ないな」
「ええ。それと、タフターン山の頂上へ調査隊を派遣して頂戴。私が見た限りは山頂を覆っていた霧も完全に晴れ、ビューネイの根城も露わになっているわ。奥には、火術要塞と同じくゲートの存在も確認出来ている。教授やヨハンネスさんが動ければ、それが一番いいとは思うけれど」

 カタリナの言葉に確と頷いたコリンズは、手配を約束して二言三言を最後に交わし、互いに背を向けて別れた。
 そのまま竜の元へと小走りに戻っていくカタリナを背中越しに見送ったコリンズは、ふぅと一息つきながら、軽く空を見上げる。

「・・・こりゃもう実力ってか器そのものが離れすぎてて、流石にもう一回告るとか、無理そうじゃねーか・・・?」

 過去数度の挑戦失敗にも挫けなかったロアーヌ騎士団切っての成長株コリンズであったが、流石の彼をしても、挑まんとする壁の高さには苦笑を浮かべるしかなく、ぽりぽりと頭を掻くのであった。

 

 

 ロアーヌ防衛戦線へ勝利の報を届けてから三日の後、カタリナはグゥエインと共にルーブ山のグゥエインの住処へと舞い戻ってきた。
 瀕死の重傷を負っていたグゥエインの体を労りながらではあったが、それでも三日で地図のほとんど端から端まで移動できてしまうことには、改めて驚きを禁じ得ない。

「お二方とも、お帰りなさい!」

 グゥエインの財宝の間のすぐ近くの穴から降り立ったグゥエインとカタリナを見るや否や、その場にいたフェアリーが文字通り飛び上がりながら二人を出迎えた。

「ただいま、フェアリー」

 グゥエインの背から降り立ちフェアリーとハイタッチをしながら、カタリナは微笑みかける。
 その笑顔が示す意味を理解していたフェアリーは、キラキラと光る瞳の奥から溢れる好奇心を全く隠そうともせずに、カタリナの手を引くようにしながら問いかけた。

「ビューネイ討伐、本当にお疲れ様です!ロアーヌもこれで安泰ですね!して、ビューネイはどのような姿だったんですか!?空中では、どのような戦いだったんですか!?」

 矢継ぎ早の質問に対してカタリナは目の前の好奇心旺盛な妖精を落ち着かせるように「まぁまぁ」と言いながら、先ずはここまでの飛行をしてくれたグゥエインに感謝を述べるべく、振り返った。
 ビューネイから受けたグゥエインの傷は、途中寄った人里や偶然見つけた行商人などから買った傷薬を用い、ある程度は癒すことができている。だが、元の傷がかなり深かったこともあり、まだまだ完全な状態とは言い難かった。

「改めてグゥエインも、本当にお疲れ様。伝説に違わぬ戦ぶりだったわ」
『ふん、ビューネイの影など、相手にもならなかったな』

 怪我の度合いからしたら全くそのようには思わないが、それでも強がって見せるグゥエインの言葉には思わず苦笑しつつも微笑ましく思い、カタリナはそうね、と相槌を打つ。
 そのあとは暫く、予備の傷薬と共に入手しておいた食料を摘みつつ、ビューネイとの戦いの詳細を聞きたがる前のめりのフェアリーにカタリナとグゥエインが交互に応えながら、束の間の穏やかなひと時を過ごした。
 思い返すと、熾烈を極めたフォルネウスとの戦いから、まだひと月少々しか経っていないのだ。短期間の間にこうも命を削るような戦いを繰り返してきたということもあり、流石のカタリナも己の戦果を労う思いで、一際穏やかな気持ちで二人(?)と会話を重ねた。
 フォルネウス、ビューネイとも直接その場には居合わせなかったものの、フェアリーには様々な局面で大きく助けられていた。
 全ての生物と意思を交わすという妖精族の特殊な能力に頼らなければ、全くこれらの偉業を成し遂げることは出来なかったであろう。その分、フェアリーの質問攻めには夜通し全力で付き合ってあげるつもりだ。
 それに今回共に戦ったグゥエインは、全く予想していないほどに高潔な意思を持った戦友となった。
 種族の垣根を越え、カタリナはこの竜を真の友として心から認めていた。そしてそれは恐らくグゥエインもそう感じてくれているのであろうことが、確かに彼女にも感じられる。
 フェアリーを交えながら会話を繰り広げる中で、彼の竜が紡ぐ言葉の端々から、それが彼女にも伝わってくるのだ。命運を共にした者同士だけが恐らく感じられるであろう、互いを尊敬する想い。それが確かに、竜と人との間に出来ていたのである。
 魔龍公との戦いからその後のタフターン山の根城の様子など、三者の会話は夜更けまで途切れることなく続いた。

 

 そしてそのまま一夜が明けた、明朝。
 鮮やかに差し込む朝日に揺り起こされるようにして目が覚めたカタリナは、財宝の敷き詰まった寝床で静かに佇みながら此方を見下ろしているグゥエインの視線に気が付き、何かあるのかと視線で問いかけた。

『母は、どのような気持ちだったのだろうな』
「・・・?」

 紡がれたその言葉の意味を測りかねて首を傾げるカタリナに、しかしグゥエインは全く構わない様子で淡々と続けた。

『我はお前と会うまで、この背に人を乗せて闘おうなどとは、微塵も考えていなかった。それは恐らく、母も同じ考えであっただろう。だが母は聖王と出会い、聖王を背に乗せて闘った。我も今ならば、母がそのように思い直したこと、よく理解できる』

 グゥエインが何かを訴えかけたいと考えていることを察したカタリナは、立ち上がってグゥエインに向き直った。
 グゥエインは、続けた。

『だが、母は竜であり、聖王は人であった。それは我々も、変わらぬこと』

 グゥエインの真珠のように白い瞳は、変わらずカタリナを真っ直ぐに見つめている。その瞳は、どこか悲哀を交わらせた色のようにカタリナには思えた。

『我は、これから人を喰らいに行く』
「ちょ・・・いきなり何で!?」

 唐突なグゥエインの言葉に、カタリナは驚きを隠さずに声を上げた。

『知れたこと。戦で失った英気を養うには、蹂躙こそが至高。竜とは、そういうものだ』
「・・・・・・」

 決して、冗談を言っているわけではない。それは、カタリナにも分かった。
 竜という生物がどのような文化や常識を持ち、動くのかなど分からない。だがグゥエインの言葉には一切の偽りの様子はなく、きっとグゥエインからすれば、人を喰らうというのは正に竜たるが故に当然の行動なのであろうとも思える。
 この竜は、間違いなくこれから人を喰らうつもりなのだ。
 だが、それをそのまま良しとすることは、人間である彼女にはできないことでもあった。

『肉を食らい宝を奪うは竜なるが故の宿命。だからこそ母と聖王は対立し、その果てに母は、聖王によって殺された。お前とて、人を喰らう竜を許してはならぬのが貴様らの道理であるということは、分かっているはずだ』

 グゥエインの言葉は、全くその通りであるとカタリナにも理解できる。
 竜と人の関係性は、三百年の昔から、何一つとして変わってはいないのだ。
 それは、分かっている。
 それでも、このグゥエインという竜と出会ってからの、この一週間程度の短い時間。
 その中でカタリナは目の前の竜が持つ高潔な意思に尊敬の念を抱き、また竜からも自分という人間を認めた上で戰を共にしてくれたのだという確かな感覚が伝わってきていた。
 彼女はそれに、どこか甘い見通しを抱いてしまっていたのかも知れない。
 だがその感覚とは、矢張りドーラと聖王が嘗て抱いたものと同じであって、それはしかし竜と人という間柄を改変するようなものでは、ないというのか。

『だから、思うのだ。母は此の期に及び、どのような気持ちであったのだろうか、と』
「グゥエイン・・・」

 竜と人の精神がどのように触れ合い、又、どのように触れ合うことがないのか。そんな難しいことは、カタリナには全くわからない。それはきっと、グゥエインにしてもそうであるのだろう。
 だが数百年の昔、既に答えの出ているその問いかけであろうというのに、それでもグゥエインは考え、彼女に語っている。

『母は、聖王を疎み、憎しんだのであろうか。我は、今に至ってはそう思わぬ。母は恐らく今の我と同じように人への見方を変化させた。ただ、竜であるが故に、その宿命に従ったまでなのだ。それが今は、よく分かる。我が母は、偉大な竜であった』
「・・・では、他に何が分からないのだというの・・・?」

 カタリナが問いかけた。
 グゥエインは最初に、母がどのような気持ちであったのか、と問いかけてきた。だが今の言葉には、竜なるが故の宿命という、過去から続く絶対の正解しかない。
 グゥエインは、何か別の思考を内包しているのではないか。そのように思ったのだ。

『・・・宿命の、その先だ。我は宿命に従った母の最後を知っている。母は聖王の手によって殺された。その時、母は何と思ったのだろう。逆の場合があったとしてもだ。母が聖王を喰らい、今もなお生き続けていたとしたら、その時、母は何と思っていたのだろうか』

 宿命の、その先。そんなことは、至らなければ誰にも分からないのではないか。
 カタリナは素直にそう思った。
 何もそれは、竜と人だけではない。
 それ以外の様々な生物と、人。または、人同士や、それ以外の生物同士。それらの中にもいくつもの宿命というものが世界の凡ゆる生物にはあって、それらの行く先を否応なく決定付けている。
 当然ながらそれは今に始まったことではなく、過去から繰り返され続け、そしてこれから先も繰り返されていくものなのだろう。
 そのような絶対たる宿命を前にして、宿命のその後を思うことに、意味はあるのだろうか。
 だが、この竜はそれでも考えているのだ。

『宿命により、為すべき答えは出ている。しかし、その宿命を目の前にして、我と母は別の存在だ。我が思うことと母が思うこともまた、別なのであろう。今になって、ふとそれが気になってな』

 そう言い終わると、グゥエインは鈍色の表皮の内にある真紅の翼を広げ、力強く四肢で立ち上がった。

『確かめようではないか』
「・・・。ええ、分かったわ」

 竜と人間、所詮はこうなる定め。
 そんなことは、頭の片隅では既に分かっていた事。元より、場合によっては最初からそうなる覚悟でここに来たことも確かだ。
 無論それは目の前の竜も考えを同じくしており、その上で今こうして、自分に語りかけてくれているのだろう。
 これは言うなれば当初の想定を大きく逸れて、とても尊い事であった。
 宿命を辿ることを前にしてこうして言葉を交わせた事は、望外の喜びである事に他ならない。間違いなくそう断言できる。
 だが、それでも。
 それでも彼女は、矢張り心の奥底では納得がいかないでいるのだ。
 こうして数奇な運命の導きの上に巡り合い、ほんの一時であったとしても心を通わせた存在同士。それが予め定められたままに、他に為す術もなく、殺し合うしかないという宿命。
 このような理不尽が至極当然のような顔をして蔓延るこの現実に、彼女は強い苛立ちを覚えた。
 宿命というただ一点の理不尽のために、友と殺しあう事。
 これに怒らずして一体、他の何に怒れと言うのだろうか。

「・・・やってやろうじゃないの」

 そう言いながらカタリナはグゥエインを、そしてその先にある宿命とやらを強く睨みつけた。
 そして何故か彼女は即座に踵を返し、ここまで持ってきていた旅の荷物が置かれた壁際へと歩み寄る。
 そこには途中から不穏な気配を察知して二人のことを不安そうに見守っていたフェアリーが居たが、カタリナはそんなフェアリーには曖昧に微笑みかけただけだった。
 しゃがみ込んで荷物の脇においてあったマスカレイドを腰に付け、そして布に包んだ板状のものを荷から取り出し、普段はロングソードを装着している剣帯部分に括り付ける。
 その脇に置いてあった月下美人には手を伸ばす事なく、かなり身軽な状態で再びグゥエインの目の前に戻り、正面に対峙した。
 しかしなんとカタリナは、腰のマスカレイドを抜くことなく、ゆっくりとした動作で両手を軽く横に広げて見せたのである。

『・・・何のつもりだ』

 当然その様子を訝しむグゥエインに対し、カタリナは沸々と体の内側から湧き上がり続ける怒りの感情を隠さないままに睨み返した。

「なんのつもり、じゃないわよスカタン。見ればわかるでしょう。来いって言ってんのよ。大層な御託はいいから、さっさとその宿命とやらに則って、お得意のブレスで私を焼き殺してみせなさい」

 そのあまりの態度の変容ぶりに、グゥエインは虚をつかれた様子で思わず瞳を細めた。

『血迷ったか・・・』

 低く唸りながら、そう呟くグゥエイン。
 しかしまるでそんなことには構う様子もなく、仁王立ちの状態で目前の竜を睨みつけたカタリナは、怒りの感情のままに言葉を続けた。

「血迷ったですって?・・・お生憎様、私は至って正常よ。寧ろそっちこそなによ、さっきまで言っていた御大層なその竜の宿命とやらは、両手広げた仁王立ちの人間は対象外なのかしら。だとしたら随分と都合がいい代物なのね、竜の持つ宿命ってのは!!」

 小気味よく啖呵を切るカタリナ。これにはグゥエインも堪らずふしゅうと色めき立つように口角の端から炎を吹き出し、力を溜め込むように姿勢を低くした。

『・・・吠えよる。よかろう、では望み通りに焼き尽くしてくれる・・・さらばだ、強き人間よ!』

 言い終わると同時にグゥエインは大きく目を見開き、両の翼を大きく広げる。
 大気に溢れる力の元素を翼から取り込むようにしてグゥエインの胴体が内側から淡く光り輝き、竜の体内で純粋な破壊を伴う力へと変革したものが全身を巡り、そして口角へと登っていく。
 口角部から覗く鋭い牙の奥、大きく開け放たれた喉元の中から、溢れんほどの眩い光と共に強烈な雷撃が一直線に放たれた。
 仁王立ちの姿勢からでは全く避ける事も叶わないであろう至近距離からの雷撃一閃は、寸分違わずカタリナを貫いた。
 同時にその威力を証明するかのように強烈な衝撃波が周辺へと広がり、壁際にいたフェアリーは思わず抱えていた荷物ごとごろごろと転がり飛ばされてしまうほどだ。
 視界が塞がれるほどの土煙が巻き上がり、雷撃によって大きく貫かれ崩れた後方の洞窟が崩れる音が遅れて響き渡る。
 そして数秒間に渡り吐き出された一閃が終わり、その直線上にあった地面すらもが焼き爛れ広範囲で抉られた有様が見えるようになってきた頃。
 その雷撃の中心にあったものに、当のグゥエインは正しく目を疑うようにしながら対峙した。

『馬鹿な・・・』

 そこには、先程の仁王立ちの姿のままで何事もなかったかのように佇んでいるカタリナの姿があったのであった。
 カタリナは真っ直ぐにグゥエインを睨みつけたまま軽く咳き込み、舞い上がる土埃を払うように顔の前を掌で仰ぎ、そのまま耳の辺りの髪を何でもないかのように撫で付けた。

「なによ、今の。光る手品を見せろなんて、言った覚えはないわよ」

 カタリナの煽るような台詞に、グゥエインは暫しの沈黙の後、まるで笑うかのように口角を釣り上げ、青い炎を漏らした。

『・・・良いぞ、やるではないか人間!!それでこそ我が背に乗せた者に相応しい!!』

 そう捲し立てながら、グゥエインは歓喜に満ち溢れるかのように後ろ足で立ち上がり、これでもかというほどに翼を広げ、ルーブ山脈中の魔素を集めるようにその身に力を集束させていく。
 一方で竜はあくまでも冷静さを保ったまま、カタリナの周辺をつぶさに観察していた。
 焼け爛れ、未だ紅く明暗する抉り取られた射線上の地面は、どうしたことか彼女の周辺だけなにもなかったかのように残っている。
 何かしらの手段を用いて雷撃を防いだ、という事は確かだろう。
 だが彼女の後ろには再び地面の抉れる様が忽然と続き、その奥の洞窟の大規模な崩落を招いている。
 雷撃は確かにカタリナのいる場所を貫通した、ということだ。となると、まるで彼女の周りだけが何事もなかった、というような状態。非常に奇妙な光景だといえる。

(・・・物理的な防ぎ方ではない。だが、天地六術式に属する結界とも全く様子は異なるように見える・・・)

 体内に集束する力が張り裂けんばかりに稲妻の走りを伴って身体中を駆け巡る中、グゥエインは思考を続けながらカタリナの細部へと観察の目を向ける。

(足元が動いた様子もない。熱量は愚か、それに伴う衝撃波すら相殺しているようだ。これは最早防御というより・・・事象の無効化・・・いや、改変と言ってもいい。だが、それでは大いに不自然だ。あれほどの手段を持っているのならば、何故奴はそれをビューネイとの戦いで用いなかった・・・?)

 これをビューネイとの戦いに用いていたとしたら、戦局は大きく傾いたはずだ。あのように一か八かの決死の行動をせずとも、もっと楽に決着はついたはずである。

(であれば、何らかの制約があるので使わなかった、と見るべきか。確かにこれほどの効果であれば、それは頷ける。彼奴は腰に聖王遺物の剣を持ってはいるが、抜いていない。仮に抜いていないのではなく、抜けないのだ、としたらどうだ。攻撃を行うことができない、という制約。それならばビューネイとの戦闘で使わなかったのは分かる。そして恐らくそれを成し得ているのが・・・)

 グゥエインは、目敏くカタリナの装備の変化を確りと見抜いていた。

(腰に吊るした、あの布に包まれたもの。形状からすれば、盾か。恐らくはあれが、この状態を作り出している。そして何らかの代償を伴う異能の発動は、往々にしてアビスの力が源。となるとあの盾のようなものは・・・大方、魔王遺物といったところか。魔王遺物には、魔王の盾が存在するはずだ。その効果のほどまでは知らぬが、これほどの効果を齎すのであれば相応の品と見るべき。恐らく間違いはなかろう)

 青白くグゥエインの体が光り輝き、竜が蓄える力は正に最高潮に達しようとしていた。
 ビューネイが空を主戦場としたように、グゥエインの最も得意とする戦場は、この根城に他ならない。
 三百年に渡りグゥエインが棲み続けるこの地には主人たる竜の息吹が山岳全体に根付いており、この地でこそグゥエインの雷撃は最も力を発揮する。
 恐らく次の一撃は、先のビューネイの結界をも易々と破るほどの威力を内包しているものとなるだろう。

(アビスの瘴気は、人間には猛毒。しかも力の源が魔王遺物ともなれば、その影響被害は計り知れない。そうか・・・読めたぞ。彼奴、身につけている幾つもの聖王遺物で、それを相殺しておるのか。自らの身体とそれらを全て瘴気の相殺に回すことで盾の効果を引き出しておると見える)

 グゥエインは、再び口角を上げるようにして、その端から炎を溢れさせる。
 その様をカタリナは、冷や汗を垂らすようにしながら見つめていた。

《カタリナさん・・・》

 脳内に、フェアリーの念話が響く。念話であるというのに、その声色がひどく不安げであることが手に取るようにわかるのだから、面白いものだとカタリナは場違いに思った。

《グゥエインさん、魔王の盾の絡繰に気づいています・・・!》
《・・・でしょうね。あいつさっき、笑いやがったわ。気づいた上で、真正面からやるつもりよ》

 三百年の知見は伊達ではない、という事だろう。恐らくは先の防御が魔王の盾の齎す効果である事以外に、自分が何もできない状態であるということまで、見抜かれている様子だとカタリナは判断した。
 全く、この土壇場だというのにとんでも無く頭の回転の早い竜だな、などと呆れ半分に考えながら、しかしカタリナはその上で真正面から挑もうとするグゥエインの狙いが、手に取るように分かっていた。

《別に最初は、そんなつもりじゃなかったけどね。でもこれは、彼奴にとって最も相応しい決着の付け方かもしれないわ・・・》

 そう頭の中で呟きながら、カタリナは額を流れる汗を乱暴に腕で拭った。
 以前にはウンディーネとボルカノの魔術攻撃をこの手法で抑え切った事があるが、その際のこの盾による消耗は非常に大きなものだと感じていた。だが今、先程の雷撃を無効化するために魔王の盾が要求する代償は、既にその時の比ではない程の疲労感を彼女に齎している。
 身に付けている幾つかの聖王遺物の助けがなければ、とうに彼女は力尽きて倒れているだろう。

(・・・これは、我が母を殺した聖王の力との対峙でもある。聖王の時代から幾つも世代を重ね受け継がれてきた人間の力の結実ともいえる我が誇るべき戦友が、更に聖王の力をその身に纏い、我が前に立っているのだ。その力を打ち破り焼き尽くしてこそ、最強の竜であるということの証明に他ならぬ。宿命の先に立つのは、この我である・・・!!)

 内包する雷光によって全身が眩く光り輝くグゥエインは、いよいよその渦巻く力の奔流を解き放つべく、再び力強く四肢で足元の財宝を踏みしめた。
 目の前の相手を焼き尽くすまでは、雷撃を止めるつもりはない。グゥエインは己の存在を賭けて誓っていた。
 力の全てを放出し尽くし己が果てるか、魔王の力の代償に耐えられずカタリナが遺物ごと焼き尽くされるか。
 決着は、二つに一つだ。

「さぁ来なさいよ、グゥエイン!!!」
『ゆくぞ、カタリナよ!!!!』

 直後、その場の全てを覆う眩い閃光が、解き放たれた。
 許容量を大きく超えて溢れる力はグゥエインの身体中から血飛沫と共に吹き出し、だがそれをすらグゥエインは無理矢理に眼前の破壊の集束へと導く。
 天雷の如き轟音と共に放出された全てを焼き尽くさんとする雷光が、グゥエインの眼前の全てを飲み込みながら一直線にルーブ山を貫いた。
 その雷光は先の一撃で崩落を招いていた洞窟を今度こそ跡形もなく消し去り、正しく龍峰ルーブ山を真っ二つに切り裂く光刃となったのである。
 後にその光と衝撃波は天の怒りとも語り継がれ、世界を駆け巡ることとなるほどのものだった。
 その雷光の渦中にあり、カタリナは既に限界を訴え悲鳴をあげる全身を、その研ぎ澄まされた精神力だけでなんとか奮い立たせていた。

(耐えろ、耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ・・・!!!!!!!!)

 食いしばった口の間からはぼたぼたと血が滴り落ち、雷光を無効化せんとし激しく鳴動する魔王の盾は、しかし明らかにその出力を弱めていく。
 無効化の範囲は急速に狭まり、最早彼女の足元まで雷光が迫っている。
 ピシリ、と盾が音を立てた。
 事象の無効化の限界を迎えようとしている魔王の盾が、今にも砕け散ろうとしている音だ。

(耐えろ・・・!・・・私は、こんなところで死んでなどいられない・・・!!!)

 初めに肌が膨大な熱量を感じ、そして衝撃波となる風が彼女の髪を戦がせる。
 そして次には、間も無く砕けんとする魔王の盾の効果範囲を侵すように眩い白と青の閃光が、カタリナを包んでいった。
 盾の限界を察知したカタリナは、咄嗟の判断で腰のマスカレイドを抜き放ち、切っ先を目前へと突き出す。
 そして大きく上段へと構えをとったカタリナは、渾身の叫びと共にマスカレイドを振り下ろした。

「・・・ぉぉぉぉおおおおおおおおおおおお!!!!」

 遂には盾が砕け、事象の無効化を打ち破った雷光がカタリナを飲み込まんとする、その瞬間。
 彼女が振り下ろした聖剣マスカレイドは真紅の閃光を放ち、己を飲み込まんとしていた雷光を、真っ二つに切り裂いた。
 瞬間、巨大な力のぶつかり合いによって起こった爆風が、周囲の全てを吹き飛ばしていく。
 グゥエインの横あたりにまで荷物と共に避難していたフェアリーはそれに巻き込まれて再度後方へ吹き飛ばされ、またカタリナ自身も、爆風に煽られて吹き飛ばされそうになる。
 だが、彼女は残り僅かな力を振り絞り、その場に留まった。
 ここで吹き飛ばされるわけには、いかない。
 何故ならそれが彼女の勝利に他ならないと、彼女は確信していたからだ。
 その確信を、裏付けるかの如く。
 強烈な爆風の収束と共に、ルーブを切り裂いた雷光は、その終わりを迎えた。

「・・・・・・」

 巻き上がる大量の土煙と共に、粉々に砕けた魔王の盾の残骸がカタリナの足元へと落ちていく。
 彼女が身に付けていた外套は肩口から焼け落ち、両の腕を覆っていた小手や衣服も吹き飛ばされていた。
 だがそんなことには構わずに真紅の大剣となったマスカレイドの切先を地面に置いたカタリナは、徐々に落ち着いていく土煙の奥に居るであろうグゥエインを、ただ真っ直ぐに見つめていた。
 彼女の視線の先には、神域に迫らんとするほどの雷光を放ったグゥエインが、その持てる力を全て使い果たしたことを示すように、ぼろぼろと鈍色の表皮が崩れ落ちるままに佇んでいた。

『・・・見事だ』

 断続的に体から吹き出す流血を物ともせず、グゥエインはとても静かな調子で、そう言った。
 そしてその言葉と共に、竜の四肢はその体を支えることすら出来なくなり、ズシンと重い音を立てて財宝の上に倒れ伏す。
 カタリナはマスカレイドを地面に突き刺し、自らの全身の激痛を無理矢理に抑え込むようにしながら、グゥエインの元へふらつきつつも駆け寄って行った。

『・・・母の気持ちが、漸く判った』

 目の前に屈み込み竜の鼻先に手を当てるカタリナを認識し、グゥエインはひどく穏やかな声色で続ける。

『・・・滅びゆく定めならば、せめて友の腕の中で・・・。きっと母はこの時、そう思ったのだ』

 生命の輝きが今にも途絶えんとしているその瞳を、カタリナはじっと見つめていた。
 その様子が見えているのか否かも分からないが、グゥエインが今とても穏やかな気持ちであるのだということは伝わってくる。

『お前も、人間にしては中々だったぞ。聖王のように・・・』

 その言葉と共に、グゥエインはゆっくりと目を瞑る。
 そして、穏やかに眠るようにして、動かなくなった。

「・・・・・・」

 カタリナは竜のその言葉を聞いてから、直ぐ様自分の体に鞭打つようにして、立ち上がる。
 そして眼下に横たわるグゥエインを一瞥すると、未だ収まらぬ憤りと共に呟いた。

「・・・何、自分勝手なことばっか言ってんのよ・・・!」

 

 

 雷光によって一切の遮るものがなくなり、溢れんばかりの陽光がその場に満ちていた。
 陽光はあちらこちらに散らばる金銀の財宝に当たることで、更に方々へきらきらと光を反射している。
 全く冬を思わせぬその暖かい陽光に包まれながら、ゆっくりと竜は意識を覚醒させ、瞳を開いた。

『・・・・・・』

 何故、自分は瞳を開いたのか。
 それが、まず竜には分からなかった。
 自らの宿命に相対し、その宿命に従い自らの生命を終えた。
 それが、竜の持つ最後の記憶だった。
 だというのに、どうして再び、こうして自分は瞳を開いているのだというか。
 グゥエインは殆ど動く様子を見せぬ自らの身体の様子を簡潔に理解すると、痛くしんどそうに頭だけを少し上げ、自らの周囲へと視線を向けた。
 己の持つ渾身の力によって大部分が吹き飛ばされた、哀れな棲家の跡。
 もうすっかり熱が冷めた様子の、焼け爛れ黒ずんだ地面の痕跡。
 何やら自らの周囲に幾つも乱雑に転がる空の薬瓶と、どうやらその薬を幾重にも振り撒かれたらしく薬品の匂いがつんと鼻につく、自らの身体。
 そしてその脇で小さな火を焚いて囲んでいる、見覚えある二つの影。
 それが意味することを遅まきながら理解したグゥエインは、火の横に座るカタリナへと目を向けた。

「・・・やっと起きたわね」
『・・・何のつもりだ』

 何事もなかったかのように声をかけてきたカタリナに対し、グゥエインはあまり穏やかではない怒気を孕んだ声でそう言った。
 これは、明らかに宿命を貶める愚行である。
 そのようなものを許すほど誇りなき軟弱な思考を、グゥエインという竜は持ち合わせてなどいない。
 出来ることならば同時に威嚇の姿勢でもしてやるべきところなのだが、しかし生憎と体はそこまで自由に動いてくれる様子はない。

「・・・なんのつもり、じゃないわよ。貴方ね、自分だけ分かった風で勝手に終わるとか、自己中過ぎるわ。私は、そんなこと許した覚えはないのよ」

 大概こちらも辛そうにしながらゆっくりと立ち上がり、カタリナはグゥエインの目と鼻の先まで歩み寄る。

「貴方が聞いてきたのでしょう。宿命の先に何を思うのか、と。それは貴方だけの問いではなく、私の問いでもあるの。そしてね、私はそれにはこう答えるつもりなのよ。そんなの・・・くそったれだ、ってね」

 育ちの割にはあまりに汚い言葉を使うカタリナに、グゥエインは思わず閉口するような思いで、未だ相手の意図が理解できずに見つめ返した。

「全く何かある毎に宿命宿命宿命って・・・一体この世界の住民は、どんだけ宿命マニアなのよ。生憎と私はね、欠片も気に入らない宿命を『はいそうですか』って受け入れられるほど、寛容な人間ではないの。だから、それに抗おうとしているだけ」
『馬鹿な・・・そのようなことで竜たる我が宿命をも愚弄すガッッ!!??』

 激昂し声を上げたグゥエインの頭部を、なんとカタリナは握りしめた拳で思い切り殴り飛ばした。
 表皮の鱗が二、三枚飛び散るほどの威力で殴られたグゥエインは言葉を遮られ、そして殴ったカタリナの拳もまた、硬質な鱗によって切れたのか血が流れ出す。

「負けたくせに、一丁前に意見述べてんじゃないわよ。制された者は、制した者に従う。それこそが対峙した二者の間にある、ただ一つの不問律よ」

 なんとも理不尽な物言いだが、しかしそんな屁理屈ではこの事態を到底納得することなど出来ない。
 そう考えたグゥエインは、再び睨みつけるようにカタリナを見た。

『それでも抗えぬ宿命は、ある。我らはその理の中で生きているに過ぎぬのだ』
「・・・生憎私は、それが本当に抗えぬ宿命なのかどうかをこの目で確かめるまで、納得なんてする気はないわ。だから」

 まだ利用していない薬瓶を足元から拾い、その中身を手の甲に垂らしながら、カタリナは言った。

「だから、一緒に来なさい、グゥエイン」
『・・・何を・・・何を世迷い言を・・・。そもそも竜と人とでは何もかもが違・・・』
「違わないわよ」

 相手の言葉を遮るようにはっきりと言いながら、カタリナは薬瓶の残りを、今しがた自分で殴り飛ばしたグゥエインの頭部に乱暴に振りかけた。
 それは瞬く間に魔術的効能を伴って竜の傷口に染み込み、そこに癒しを齎していく。

「・・・ほら、こうして私にも貴方にも傷薬、ちゃんと効くじゃない。それに貴方と私は何方も目は二つで鼻と口は一つだし、手足も四本で一緒。まぁ図体の大きさとか翼の有無とか細かい違いあはあるけれど・・・何より、この世界に住まい、この世界が強いる宿命とやらに翻弄される存在であるという意味では、何も変わらないわ」

 言っていることは、あまりに大雑把で無茶苦茶だ。
 無茶苦茶でしかないのだが、しかし己の命運を握られたグゥエインには、反論する材料がない。

「私は、気に入らないことには抗う主義なのよ。確かに世の中には多くの不条理が蔓延り、それに従わざるを得ない人々もこの目で見てきたわ。でもね、だからって自分も無条件でそれに身を委ねるなんてのは、真っ平ごめんなの。この身に不条理な宿命が降りかかるというのであれば、それを真っ向から斬り伏せに征く」

 およそ騎士らしからぬその言動に、グゥエインは最早呆れを通り越して諦めの境地に達しようとしながらカタリナを見つめた。
 その視線を受け、カタリナは真っ直ぐに見返しながら続けた。

「だから貴方も、暫く付き合いなさい。無論、私に負けたんだから異論は認めないわよ」

 両の手を腰に当てがい、仁王立ちで言い切る。
 グゥエインはその言葉には只々呆れるばかりで、よもや人と竜とはこうまで精神構造が違うものなのか、と思ったものだった。
 だが、それこそが人の進化というものであるのかもしれない、とも考える。
 竜とは違いこの三百年で何世代にも渡って歩みを連ね、そして、この世界の宿命をすら超えようとするもの。
 それが、人間という生物なのかもしれない。
 そう考え直したグゥエインは、ゆっくりと瞬きをした後、静かに首を垂れた。
 その行動が意味するところを理解したカタリナは、その鼻先にゆっくりと手を置き、不敵に微笑んでみせる。

「安心なさい。ロアーヌ軍はばっちり三食昼寝付き。そんな悲観するほど悪い待遇じゃあないわ」

 後の世に数多の吟遊詩人が競って歌い上げたという、パウルスの予言に導かれし八つの光の英雄譚の中でも、屈指の人気を誇る語り詩。
 この世界で、後にも先にも唯一人となる、竜騎士の誕生。
 これが、その瞬間であった。

 

 

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第八章・8 -魔龍公-

 

 アビス、と呼ばれる世界がある。
 深淵という名を冠するその世界には、その名以外に、何もなかった。
 広がる一面の荒野は、その全てが悉く、焦土と化している。
 生けるものの気配は殆どなく、ただ生物としての仕組みを超越した強大な力を持つ魔族のみが巣食う世界。
 その深淵には、特段に強い力を持つ四つの存在があった。
 四魔貴族を称するその者たちは、基本的には互いに不干渉を貫きながらも、ある一点に於いては共通した目的を持っていた。
 その目的とは、アビスから『ゲート』を用いて繋がる、此処とは異なる世界への侵略。
 あの世界には、アビスには無いものが、有る。
 四魔貴族は皆一様に、何故かその世界に強い興味を持ち続けた。
 ゲートの向こうに、まだ見ぬ未知との飽くなき戦いを求め、様々な色形で煌びやかに燃える物を求め、流麗に姿を変える生命に溢れた海を求め、そして突き抜けた美しい青の世界を、求めた。

『・・・』

 三百年振りに訪れた、好機。
 しかし未だゲートは完全に開いておらず、彼らが通るには小さ過ぎる。
 だが自らの力の一部を幻影として送り込むことで、彼らは再びあの世界に顕現することに成功した。
 そして今、彼らの目的を脅かさんとする者たちが、ゲートの向こうにいる。
 それは、果たして三百年前のサーガの再演か。

『・・・またしても、竜と人か』

 そう呟いたのは、深淵の更なる奥底の一点に座する、何者か。
 その者は、何もない周囲と比べて異様にも見える巨大な作りの椅子に座し、肘掛けに載せた腕に軽く頬を預け、その瞳は閉じたまま微動だにしない。
 だがその者の瞼の内には、眼前に広がる無機質なアビスではない、全く別の世界が映し出されていた。
 それは己が送り出した幻影を通して見る、ゲートの向こうの世界。

『・・・』

 瞳をゆっくりと開く。
 そこに映し出されるのは、荒廃した深淵ではない、別の世界。
 アビスのそれとはまた違う姿をした『幻影』は、薄暗い中で白く鳴動するゲートだけがある空間にて、いくらも微動だにせず、中空に浮かんでいた。そこに、瞳を開いたことで意識が宿る。
 その幻影がこの世界で居城としている山は、元の世界たるアビスでの住処に酷似した作りとなっているが、実のところこの住処の主人はそれを全く好ましいとは思っていない。
 ゲートの近くは、アビスの瘴気に侵食されてそうなってしまうというだけなのだ。だからその光景は、むしろ忌々しく思う物ですらある。
 そんな主人にとって真に価値あるものは、この世界の空だけだ。
 青く、どこまでも突き抜けるこの世界の空は、只管に美しい。
 それを愉しむことを邪魔しようというのならば、四魔貴族たる力を以って障害を排除するのみ。
 勿論その幻影は、自分と同じく魔貴族に名を連ねる者たちが、既にこちらの世界での幻影の消失にまで至っていることを識っている。
 今こちらに向かっている人と竜も、その原因の一端なのだろう。
 三百年前、同じくして四魔貴族はこの世界からアビスに突き返されるという屈辱的な過去を経験している。
 だが、それでも向かい来る相手を、自らと同列になど扱わない。
 何故なら、自らは唯一無二で有る、ということを確信しているからだ。
 故に、その存在は相対する者を須く、こう呼称する。

『あわれなムシけらども』

 そう呟き、魔龍公の幻影はその邪悪なる翼を広げ、波打つような暴風を伴いながら空へと舞い上がった。

 

 

 翼を持たぬ人類には、見上げる以外に垣間見る術すら、持たされてはいない。それこそが、幾重の雲の層を突き抜けた、その先にある世界だ。
 地上からは果てしない隔たりの先にある世界へと募らせた一方的な憧憬は、人の背に翼を付けた天使という空想の産物をすら生み出し、空想の中で人は翼を得、想像上の空を舞った。
 当然それだけでは飽き足らず、想像すればするほど更に更に、まだ見ぬその世界に人は恋焦がれ続ける。
 しかし、その募る願いが成就することは、今までも、そしてこれからも、ない。
 なぜなら、人は現実には翼を持たぬからだ。
 どれだけ心から切望しようとも、翼を持たざる者には到達しようのない場所。それが、遥かな天空の世界なのである。
 だが、唯一人。人類史において唯一人だけ、そこに到達したという伝説を持つ人間がいる。
 聖王だ。
 聖王は自らが翼を持たぬ代わりに、翼を持つものと意思を通わせ騎乗し、大空を舞ったのだ。
 人類で唯一天空に到達した聖王は、果たしてその時、一体何を思ったのだろうか。
 それは勿論、聖王その人にしか分からないことなのであろう。なにしろ聖王以外にはそれを見たことのある人間がそもそも居ないのであるから、その思考を推し量ることも、当然ながら不可能なのだ。
 だから、もしそれを推し量ることができる者がいるとしたら、それは聖王と同じくして、その場所に至ることができた者だけなのであろう。
 そして今その世界に、巨竜グゥエインの背に乗り、一人の女が至っていた。

「・・・・・・美しい・・・」

 眼前に広がる圧巻の景色に、思わずカタリナは息を呑む。そして無意識のうちに、そう呟いていた。
 その場所には、青という色のみがあった。
 視界全てが太陽の光に満たされた、純粋なる蒼空。
 その光景は、カタリナが今までの人生で見てきたどんな景色よりも、突き抜けて爽快だ。
 本当の空とは、これのことを言うのか。カタリナはこれから始まるであろう死闘のことすら一瞬忘れてしまうほど、場違いにもそんな感想を抱いていた。あるいは聖王その人も、そんなありきたりな感想などを抱いたのかもしれない。
 こんなにも美しい風景を、例えば彼女が密かに趣味としている絵画にでも描くことができたなら、それはどれほどに素晴らしいことであろうか。
 だが、その願望はすぐに頭の中で打ち消されてしまう。
 何故なら、彼女が知る限りの青という名の付く画材では、到底この空を表現することはできないからだ。そして例え彼女の知らぬ未知の画材があったとしたって、この空をそのまま描くことなど不可能であろう。そう、本能が確信してしまっている。
 この空には、こうしてこの場所に至ることでしか、絶対に出会うことが叶わないものなのだ。
 空を支配する、とは正に、この蒼空をその手中に治めるということなのだろうか。

(・・・それは、もし叶うとしたらどれだけ魅力的なことなのだろう・・・。ほんの少し、気持ちがわからないでもないわね)

 アビスの主人や巨龍種がこの空を欲するのも頷ける等と思いながら、カタリナはしっかりとこの光景を脳裏に焼きつけた。これから命を懸けるのだから、せめてこのくらいの役得はあっても良いだろうと、自分を納得させながら。
 想像よりもずっと穏やかな天空の風に身を任せつつ、深く深く息を吸い、細くゆっくりと吐く。
 そうして待つこと、幾許か。
 やがて頬をすり抜ける風に微かな瘴気が混じり始めたことを敏感にカタリナは察知し、剣帯からマスカレイドを抜き放ちながら、じっと正面を見据えた。
 するとそこからは瞬く間に、肌に突き刺さる瘴気の量が爆発的に増大していく。
 目の前の空の青さは何も変わらぬはずだと言うのに、明らかに視界全体が薄暗く澱んでいくような、そんな錯覚にさえカタリナは襲われた。

「・・・来たわね・・・!!」

 カタリナがそう呟きながら身構えた直後、正面に広がる蒼空の向こうに、一点の黒が浮かび上がる。
 その黒点は見る見るうちに大きくなっていき、やがて醜悪なる異形の存在となって、ついにはグゥエインとカタリナの前に姿を現した。

「・・・・・・」

 その異形に対峙し、カタリナはマスカレイドを手にしながら、ごくりと唾を飲み込む。
 目前に居る存在が間違いなく四魔貴族であろう、ということは分かる。恐らくは王家の指輪から流れ込む記憶であろうが、彼女の脳裏にうっすらとその姿に覚えがあるのもそうだし、何よりその存在が纏う瘴気は、今まで対峙した誰よりも、深く重苦しい。
 それは言うなれば、直視することさえも憚られるほどの醜悪なる瘴気。だがカタリナは己の心を強く保つように言い聞かせながら、真っ直ぐに相手を見据える。
 一見するとその様相は、今までに対峙した四魔貴族の中では最も人間に近い姿だと思えた。
 たおやかな長い金髪を靡かせた、背筋が凍るほどに美しい、女の姿。
 女は淡い紫の布で申し訳程度にその豊満な身の一部を隠すだけの、官能的にすら見える軽装だ。そこだけを見てしまえば、まるで人間そのものだといっても誰も疑うものはいないだろう。強いて言えば、それはあまりに人間離れした美しさをしている、といったくらいか。
 だが、明らかに人間とは違う部分がある。
 女はその背に、人が欲して止まなかった翼を持っていたのだ。
 しかしそれは、人が空想したような白い羽根などではない。
 女のそれは、龍の持つような異形の翼。その背中から対になって左右に大きく広がった数本の赤黒い翼指の間には、血の如き紅さの膜が張り巡らされている。
 そして、その異形の翼を持つ女の身体を取り巻くようにしながら、地獄の底から響くような低く重苦しい唸り声をあげる、邪悪なる三頭の竜の存在があった。
 その頭部の一つは、巨大な赤子の頭部。その首から下は醜悪な瘴気を纏った竜の胴体となり、女に巻きついている。
 その頭部の一つは、巨大な怪鳥の頭部。その首から下は醜悪な瘴気を纏った竜の胴体となり、女に巻きついている。
 その頭部の一つは、巨大な狂犬の頭部。その首から下は醜悪な瘴気を纏った竜の胴体となり、女に巻きついている。
 それら異形の竜を紫の布と共に身体に纏った女は、まるで取るにも足らぬ虫けらをみるような瞳で、こちらを見つめている。

(・・・これが、魔龍公ビューネイ・・・。あんなに強大に感じたフォルネウスよりも、更に強い重圧を感じる・・・でも、負けるわけには行かない・・・!)

 そう、もう後戻りなど出来ないのだ。そう覚悟を決め、息を短く吐く。

『行くぞ』
「ええ・・・さぁいくわよ、マスカレイド!!」

 グゥエインの言葉に応じ、カタリナはマスカレイドを握る手に力を込めた。その彼女の求めに、聖剣マスカレイドは赤い閃光を発しながら長大な赤き刀身の剣へと姿を変えて応える。
 その場で対峙するように滞空していたグゥエインは、声を発するとほぼ同時に頭を前に突き出し、前傾姿勢をとった。そして相手に向かうようにしながらも単なる直線ではなく、速度を乗せるべく斜め下方へと急速に滑空する。
 そのまま下弦を描くように弓形の軌道で反転上昇しながら距離を詰め、上乗せした速度をそのまま威力に変換するようにしてビューネイへと突撃した。
 カタリナはそのすれ違いざまに渾身の斬撃を叩き込むべく姿勢を制御するが、対して先ほどまでと同じ位置に滞空するビューネイは、全く微動だにしない。

「はぁぁあああああ!!!」

 渾身の一撃を叩き込むべく雄叫びを上げながら交錯せんとした、正にその刹那だった。
 ビューネイの身体を中心に、この周辺一帯を飲み込まんとする程に馬鹿げた量の瘴気が突如として生まれた。
 それは瞬時に荒れ狂う暴風の衝撃波となり、ビューネイから全方位に向かって爆散したのである。

『!!?』

 咄嗟にグゥエインは翼を畳み身を丸くして衝撃波を受けるが、そのあまりに強烈な波動に、あろうことかグゥエインの巨体ごと錐揉み状になりながらカタリナは吹き飛ばされてしまった。
 当然のように空中へと勢いよくカタリナの体は放り出されたが、即座に体制を立て直したグゥエインが先の約束通り彼女を受け止める位置まで素早く飛んでくれたことで、辛くもその背に着地する。
 その様を、未だに滞空したまま最初の位置から全く動くことなく、ビューネイはただつまらない物を見るかのような目で眺めていた。
 そして次には少しだけ目を細めて、退屈そうにふんと一息吐いた。

『・・・翼を持たぬムシけらが、この私に触れることなど適わぬと知れ。ムシけらはムシけららしく、無様に地べたを這いつくばっているがいい』

 ビューネイがそう言い放った次の瞬間、彼女を取り巻いていた三匹の異形の竜が彼女の身体を離れ、三方向からグゥエインへと襲いかかってくる。
 グゥエインは一旦これらに対応するためにビューネイから距離を取り、その攻撃を躱すために飛び回らざるを得ない状況となった。
 本来ならば一撃でも多くビューネイへと攻撃を加えなければならない中で無駄な戦闘をせずにいきたいところであったが、しかしこの状況にグゥエインは思わず苦戦を強いられることとなった。
 何しろ、自分とほとんど変わらない大きさの異形の竜と三対一の構図だ。如何に動き回ったとしても、攻撃の全てを去なし切ることはできない。
 直撃は避けているので深傷にはならぬものの、これでは時間とともに損傷が蓄積されていくのは目に見えていた。
 その間グゥエインの背にしがみ付きながら刹那の攻撃の瞬間を伺いつつ、カタリナは兎に角、下手に動かず相手の動きを読むことに集中していた。

(・・・三匹それぞれが異なる得物・・・赤子頭は炎を吐き、鳥頭は目に見えない波動・・・おそらく音波と、あとは嘴の突撃。犬頭は単純な噛みつきか・・・。そしてビューネイ本体は今の所、さっきの衝撃波・・・。ビューネイのあの衝撃波は、フォルネウスが放ってきたアビスの渦にも匹敵する威力だった・・・。それをまさか予備動作もなしに出すなんて・・・。あれを如何にかしなければこの勝負に勝ち目はないけれど、手は今のところ全く思いつかないわ・・・なら兎に角今は、先に邪魔な三匹を屠る・・・先ずは接近できる犬頭・・・!)

 ブレスを撒きながら其々の頭を的確に牽制するグゥエインに狙いを伝えるべく、カタリナはマスカレイドで犬頭を指し示した。
 その意図を察したグゥエインは即座にブレスで牽制しながら三頭の頭上をとるように大きく旋回上昇し、上方から犬頭に狙いを定め、旋回軌道を保ちつつ急降下する。
 そして上手く軌道上に相手を捉えての巨体同士のすれ違い様、カタリナの振るったマスカレイドの一閃が犬頭の片目ごと頭部を深く切りつけた。

『グァオオオオオオオオオオッッ」
(・・・浅い!・・・今ので仕留めたかったけれど・・・矢張り、臆さずもっと思い切り振りにいかなきゃ・・・次は斬る・・・!)

 慣れぬ空中戦ということで剣の振りに一点集中しきれなかったものの、今の一撃でカタリナは確かな手応えを感じていた。空中戦における武具の扱いは、何とかなりそうだ。
 それに、どうやら三頭の竜に比べて機動力の面では、グゥエインに大きく分があるようだった。
 相手に勝る速度があるのならば、このままグゥエインのブレスで牽制しながら適時斬撃を叩き込む戦法で、この三頭の各個撃破を狙うことは十分に可能だろう。
 そこまでは、いい。

(・・・とはいえ、やはり問題は・・・)

 忙しなく空中を飛び回り、牽制しつつ少しずつ傷を増やしていくグゥエインを気遣いながら、カタリナは横目で未だ微動だにせぬビューネイ本体を睨む。
 ここまで、ビューネイ本体は腕の一本すらも動かしていない。完全にこちらの戦闘を、ただ見下すように傍観しているだけだ。

(・・・嫌な流れ・・・まるで、アラケスと戦ったあの時のようだわ・・・)

 思い出したくもない光景が、カタリナの脳裏に過ぎる。
 かつて魔王殿の地下にてアビスゲートを前にアラケスと対峙した折、カタリナはこれと同じような戦闘を強制されたのだった。かの魔神が嗾けてきた双頭の獣魔を相手にしたカタリナは、辛くもその獣魔を退けることには成功した。
 だがその間、当のアラケスは只々その戦闘を値踏みでもするように眺めていただけだったのだ。まるで、その後どのようにして遊んでやろうかと企む子供のように。
 そしてその後、カタリナは呆気なくあの強大な魔神に敗れ去ったのだ。

(・・・いえ、これは好機と捉えるべき。相手が油断しているうちに、少しでも優位を確保するのよ・・・!)

 どうしても過ってしまう嫌な思考をかき消すように軽く頭を振ったカタリナは、赤子頭が吐いてきた炎をマスカレイドの一振りで霧散させつつ、目の前の三頭に集中した。

(このままグゥエインに傷を負わせ続けていては、ジリ貧だわ・・・。次の一撃で、仕留める!)

 身を低くしてなるべく風の抵抗を受けないようにしながら、マスカレイドを強く握りしめる。それと息を同じくしてグゥエインは、三頭のうち犬頭と鳥頭の二頭が直線上に並ぶように大きく旋回移動した。手前には、先ほど片目を潰した犬頭を見据えている。
 グゥエインはそこから雷気を纏ったブレスを横薙ぎに吐きつつ、体は一直線に犬頭へと突撃する。するとその後ろにいた鳥頭の竜はブレスをなんとか避けたあとに、犬頭ごと巻き込むようにして強烈な音波を放ってきた。
 だがその音波をものともせず、グゥエインは速度に乗ったまま犬頭の喉元に齧り付く。

『グォ・・・・・・』

 碌に断末魔すらも上げさせぬまま、グゥエインはそのまま豪快に相手の頭部を胴体から咬み千切った。
 そして。

「はぁぁぁぁあああああああああ!!!」

 音波攻撃の直前、グゥエインがブレスを吐きながら突撃している際。その背から大きく前方へと跳躍していたカタリナは、その声に気がついて上空に顔を向けた鳥頭へと一直線に落下し、その頭蓋に深々とマスカレイドを突き刺した。
 こちらも殆ど断末魔の悲鳴をあげることなく力尽き、飛行能力を失って落下を始める。瞬間的にマスカレイドを小剣状態に戻して素早く引き抜き、絶命した鳥頭の額を蹴るように中空に飛び出たカタリナを、そのままグゥエインが難なく確保する。

「よし・・・残るは一頭!」

 カタリナは大きく声を張り上げながら残る赤子頭へと視線を向けると、しかし赤子頭はこちらを警戒する様子もなく、明後日の方向を向いていた。
 それは、ビューネイが佇む方角である。
 それに気がつき、自然とカタリナらもビューネイへと視線を向けた。
 結局そこから赤子頭はこちらに振り返ることもなく、ビューネイの元へと戻っていく。どうやら、これ以上は単体での交戦意思はないようだ。

「・・・いよいよ本体ってことね」
『そのようだな。先のような雑魚とは異なろう。気を引き締めていくぞ』

 カタリナとグゥエインがそう言い合った、その矢先だった。
 不意にビューネイが腕を一振りすると、彼女の近くに控えていた赤子頭の竜が、鮮血とともに跡形もなく吹き飛んでしまったのである。

「なっ・・・!?」

 カタリナが思わずその光景に目を見開いていると、身一つになったビューネイはゆっくりとグゥエインに近づいてきた。

『ムシけら風情が、よく動く。汚らわしいが、私が直々に相手をしてやる』

 その言葉とともに、なんとビューネイの背から、再び三頭の異形の竜が何事もなかったかのように生え出てきたのである。

(な・・・再生・・・。なるほどね・・・いくらこっちが叩き斬ろうが、傍観してていいってわけだ・・・。しかも、再生速度が段違いに速い・・・。フォルネウスの時よりも、明らかにアビスの瘴気が多くこの世界に流れ込んできているのだわ・・・最悪ね・・・)

 先程までの戦いは、正に相手の掌で踊っていたに過ぎないと言う事実をまざまざと見せつけられ、カタリナは内心で大きく舌打ちをしながらマスカレイドを構え直す。

「・・・何か策、ない?」

 小声で、グゥエインに声をかけた。
 正直、このまま突撃したところで先程の衝撃波を喰らえば、吹き飛ばされるだけだ。だが、グゥエインのようにブレスを吐けるわけでもないカタリナには、突撃以外の攻撃手段は全く思いつかない。
 先程の竜二頭に見舞った咄嗟の時間差連携攻撃にしても、結局衝撃波を出されてしまえば結果は同じだ。グゥエインもカタリナも、別々に吹き飛ばされるだけだろう。
 そうなると、まず単純に思いつくのは遠距離からの攻撃ということになる。
 だが、そうなるとカタリナには全く手立てがない。彼女が唯一遠距離に対して持つ有効な手立てといえば、地を這う衝撃波くらいだ。これは空中では出せない。
 そうなると、基本的にはグゥエインの吐く雷撃に頼ることになるのだが。
 当然それはグゥエインも理解しているのか、先ずはその有効性を探るべくグゥエインは大きく翼を広げた。そして大気に満ちた加護を翼から全身に集めるようにして、雷撃の一閃を放つ。
 凄まじい速度で一直線にビューネイへと向かっていったその雷撃は、しかしビューネイの纏う暴風の障壁によって、いとも簡単に止められてしまった。
 更に、そのままビューネイは徐に片手を突き出し、受け止めたグゥエインの雷撃を風の中に閉じ込めて巨大な雷球を作り出してみせた。
 そして眼前の光景に唖然とするカタリナらを尻目に、腕の一振りでその雷球を投げ返してきたのである。
 高速で飛来するそれを紙一重で翻りざまにグゥエインが避けると、ビューネイは態とらしく目を細めながら、実に詰まらなそうに呟いた。

『なんだ、玉遊びでもするのかと思ったが、違ったか。次は、どうするのだ?』

 呆気なく雷撃を防がれてしまったグゥエインは、低く唸る様に吐息を吐く。
 更にその背で成す術なくマスカレイドを構えるだけのカタリナは、一縷の望みをかけて再度、声を掛けてみた。

「・・・どんな感じよ」
『・・・現状では、有効な手立ては思いつかぬ。まだしも我が雷を避けるならば、当てる事が有効であると判断できた。だが正面から受け止められて全くの無傷となると、吐くだけこちらが消耗するのみだ』

 その返答は実に的確に、打つ手なしを彼女にも理解させてくれる。
 カタリナが先のグゥエインと同じく低く唸るように息を吐くと、今度は退屈を持て余した様子のビューネイが動きを見せた。

『終わりか。では、次は此方に付き合ってもらおう』

 言うが早いか、ビューネイは暴風を纏いながら僅かに上昇し、同時に渦巻く風の渦に乗せられた赤子頭の竜の炎が、真っ直ぐにグゥエインへと撃ち放たれた。
 それをグゥエインが旋回して回避すると、その間に彼らのすぐ上へと瞬く間に滑空したビューネイが、再度炎の渦を直上から打ち下ろす。
 それをまた、グゥエインは急反転することによって辛うじて回避をする。

『無様な踊りだな、ムシけらよ』

 もはや防戦一方で続け様の炎の渦を回避するしかないグゥエインを見下しながら、ビューネイは嘲笑った。
 だが、事実として成す術のないグゥエインとカタリナは、その言葉に返すこともなく攻撃を避けるしかない。

(・・・近接攻撃は衝撃波で弾かれるし、遠距離も同じく風の壁を突破できない。今私たちが持っている攻撃手段では、ビューネイに手傷を負わせる事は出来ない・・・。グゥエインも無限に飛べるわけではないし、ここは一度撤退して策を練るべき・・・?)

 回避をグゥエインに任せきりでやれる事がないカタリナは必死に現状分析をするが、しかし光明は見えてこない。
 まるでそれをすら見越して嘲笑うかのように、その間もビューネイの猛攻は続いている。

『ほらどこへ行く。もっと無様に踊って見せよ』

 一旦距離を取るべくグゥエインが後方旋回しようとすると、鳥頭の竜から放たれる超音波が空間振動させグゥエインの足を止める。
 そしてビューネイ自身が持つ魔眼でグゥエインは一瞬金縛りのような状態に陥り、そこに再度炎の渦が見舞われた。
 それを何とかカタリナがマスカレイドの一閃で吹き散らそうとするが、それでも完全に相殺は出来ない。

「うぐっ・・・!」

 抑えきれぬ炎で軽く腕を炙られてカタリナが苦悶の表情を見せると、ビューネイはそれを見て僅かに目尻を下げた。

『良い顔ができるではないか。もっと魅せてみるがいい』

 そう言いながらビューネイは再度グゥエインの真上へと飛来し、炎の渦を吐く。

(・・・だめだわ。ここから逃れることも儘ならない。やはり此処で勝負をかけるしかない・・・。でもどうする・・・何か・・・何か手はないの・・・?)

 最早グゥエインはビューネイの思惑通り回避に専念するしかなく、此処でカタリナが勝機を見出さねば、遠からず彼女らの死は確定するだろう。

(・・・冷静になるのよ、私。ビューネイは文字通り、私をムシけら程にしか見ていない。油断がある。だから私はこうして考えていられる。何しろ聖王様は、かつてこの魔神を打ち破ったのよ。だから私にも、必ず勝機はある・・・)

 降り注ぐように浴びせ続けられる炎と、音波と、魔眼。この調子ではグゥエインの限界は近いだろう。
 焦る気持ちを抑えるように唇を真一文字に結びながら、カタリナはビューネイを見上げた。

(・・・此方の手の内は全て風で防がれる。なら・・・その風をどうにかする方法が何かあれば・・・)

 頭の中のあらゆる記憶の引き出しを開け回るように、思考を巡らせる。
 例えば、真っ当に術式の相剋という観点から対策を考えれば、蒼龍の加護に対する事ができるのは地術、つまり白虎の加護だ。
 だが、地に触れてもいないこの空中では、それは全く現実的ではない。
 そういう意味では改めて思うが、此処は正に、ビューネイの独擅場なのだ。

(・・・ならば奴を地に引き摺り下ろす・・・ううん、それこそ現実的ではないわ。矢張り相剋の視点は使えない。そうすると、あと考えられるのは・・・例えば・・・そう、同等以上の風圧による相殺・・・?)

 力押し、と言う観点は本来なら人間が強力な魔物に対して選択するような手段ではない。だがこの状態では、その程度しか手段らしい手段も思いつかないのだ。
 しかし、自分は元より、グゥエインにもそこまで強い蒼龍の加護が扱えるわけでもない。

「・・・くっ!」

 再度、グゥエインが魔眼に動きを止められたところに炎の渦を見舞われる。それを先ほどと同じくマスカレイドで振り払いながら火傷を増やしたカタリナは、思考を中断されて歯を軋らせた。

「ねぇ、上を取られているの不利じゃない!? なんとか同じ目線まで行けないの!?」
『簡単に言うな。彼奴もそれを分かっている故、先程から防がれている。それに貴様ら人間は知らぬだろうが、これ以上昇ると、天の星海とこの大地の間を別ち吹き荒れる、強大な気流があるのだ。それに巻き込まれれば、この我とて身動きが自由に取れなくなる。どの道、今が真面に動ける限界高度なのだ』

 グゥエインの苦言を受け、そう言うものかと表情を顰めながらビューネイへと向き直らんとした、その最中。
 カタリナは全く根拠のない直感で、己の進むべき活路を見出した。

「グゥエイン・・・その気流っていうのにビューネイを誘い込めないかしら」
『・・・なんだと?』

 グゥエインが怪訝そうな声色で小さく返すと、カタリナは変わらず視線ではビューネイを睨みつけながら、小声で続けた。

「あの風の壁をどうにか出来れば、勝機が見える気がするの。グゥエインですら制御が効かない程の気流なら、ビューネイの障壁や衝撃波も相殺できないかしら」
『・・・確かに、可能性はあるだろう。だが今のような寒期には特に気流が強まるから、殆ど真面に飛べぬぞ。よしんば誘導出来たとしても、此方が満足に動けぬ可能性が高い』
「上等よ。どの道このままでは死ぬわ。なら、可能性がある方に賭けるまで」

 カタリナのその言い草にグゥエインは、ふしゅうと口角の間から息を漏らして応える。まるで、やれやれとでも言いたげに笑っているかのようだ。
 その仕草が妙に人間臭いものだから、カタリナも思わずにやりと口の端を吊り上げた。

『状況が状況だ、乗るしかあるまい。では、どう誘い込む。彼奴とて、好き好んで自由の効かぬ乱気流に付き合うほど馬鹿ではあるまい?』
「そうね・・・あんまりこういうの得意ではないけど、やるだけやってみるわ」

 そういうとカタリナはマスカレイドを小剣状態に戻し、屈んでいた姿勢を止め、凛と背筋を伸ばして吹き抜ける風を全身で受ける。
 その動作の変化にビューネイは軽く目を細めながら、ふと攻撃の手を止めた。それを確認したカタリナは細く長く息を吐き、そしてマスカレイドをビューネイへと向かって突きつけてみせる。

「魔龍公ビューネイ!四魔貴族では魔戦士公アラケスと並ぶ爵位の様だが、その高潔さではアラケスは愚か、魔海侯フォルネウスにも随分と劣るようだ!」
『・・・』

 突然にそう叫ぶカタリナをビューネイは、さもくだらないものを見るような瞳で上から見下ろした。
 アビスの魔神に果たして此方の安い挑発がどれだけ効くのかは全く不明だが、それでもやるだけはやるしかあるまいと、カタリナは続ける。

「貴様は確かに、ここでならば敵は居ないのだろう。戦の定石としても、自身の優位な地形で戦うということは、当然最優先にとるべき戦法!」

 ビューネイの表情は変わらない。だが、かと言って攻撃をしてくるわけではない。一応聞く耳は持ち合わせてくれているようだ。
 ならばと、カタリナは精一杯に声を張り上げた。

「ただし、それはあくまで我ら人間・・・貴様の言うところの『ムシけら』の好む定石。圧倒的な力を有するはずの魔貴族が選ぶには、あまりに姑息。先程から見ていれば、貴様は我らと同じ思考で戦うばかり。魔貴族が随分と見下げ果てたものだ。アラケスやフォルネウスは、我らの全力を真っ向から受け、それを圧倒せんとしてきた。力を持つ者の矜持が、貴様には全くないようだ。魔貴族の公とは、斯様に卑しい思考の持ち主か!」

 突きつけていたマスカレイドを真横に振り薙ぎながら、高らかにカタリナが言い放つ。
 そしてそのいい終わりに合わせ、びくり、とビューネイの目尻が僅かに動いたのを、カタリナは見た気がした。

「自らの優位に浸り、地を這うものを相手にしないのならば、せめて此の天空の凡ゆる場所でだけでも、我らを圧倒して見せるがいい!」

 そこまでを言い放ったカタリナは、再び身を屈めてグゥエインにしっかりと寄り添うように掴まった。

「・・・これで追ってこなきゃ、魔貴族の名折れよ。グゥエイン、お願い」
『ふん・・・悪くない啖呵だった。では、行くぞ』

 ふしゅうと小さく息を吐いたグゥエインは、これまでで最も大きくその両翼を広げ、大気に満ちる加護をその身に収束させる。
 次の瞬間、ビューネイを狙いの中心として、そこから円状の広い範囲を埋め尽くす程の巨大な波状ブレスを撃ち放った。
 無論このブレスでもビューネイの暴風の壁を破ることは叶わなかったが、このブレスの目的は、そこではない。
 ブレスを吐くと同時にグゥエインは大きく羽ばたき、一気に上昇していく。ブレスで目眩しをされた形のビューネイは即座にグゥエインを抑え込む行動には移れず、その隙を突くようにしてグゥエインはビューネイの上へと飛び上がってみせたのだ。

『あれと同じものはもう吐けん。いよいよ決めるしかないぞ』
「いい仕事よグゥエイン!あとはその気流とやらに、賭ける・・・・・・!!?」

 飛び上がって間もなく、明らかに今までとは異なる衝撃を体全体で受ける。
 まるで、越えてはならぬ境界を越えてしまったかのように、世界に拒絶されているかのように。
 そんな風にすら感じてしまうほどの風の奔流が、その場の全てを支配していた。
 まるで先程のビューネイの衝撃波にも近い程の暴風を常に受けているような、圧倒的なまでの気流。それを全身に叩きつけられ、瞬く間にカタリナはグゥエイン諸共に、錐揉み状になりながら成す術なく流される。
 それをグゥエインが必死になって制御せんとする様を、ビューネイは見上げていた。

『・・・ふん、ムシけらなりに考えたか。良かろう。望み通り、そこで潰してやろう』

 誰にでもなく独りそう呟くと、ビューネイはグゥエインらを追いかけるように気流へと入っていく。

「き・・・来たわね・・・!」
『その様だな。さて、此処からどうする』

 轟音と共に吹き荒れる気流の中、懸命に姿勢を保つべく両翼を小刻みに調節しながら広げるグゥエインは、自らの背で身を低くしながらビューネイを睨むカタリナへと伺いを立てた。

「様子見している余裕はないでしょうから、なんとしても一撃のチャンスを作るしかないわ・・・!」

 荒れ狂う風は吹き荒ぶ轟音以外の全てを流してしまうようで、カタリナがいくら声を張り上げても、自分にすらよく聞こえない程だ。
 だがグゥエインはそれでも聞き取ってくれたようで、軽くカタリナに視線を寄越すと、自分たちを追ってきたビューネイへと向き直った。
 すると、犇く轟音の中にあっても、カタリナらの元にはビューネイの言葉が届いてきた。

『確かにこの気流の中では、我がアースライズも真価を発揮せぬ。その剣を我が身に突き立てることができるならば、僅かな勝機はあるやも知れぬ。だが、今すでに姿勢制御すらままならぬ脆弱なムシけらが、ここで一体なんとするというのだ?』

 ビューネイの言うことは、尤もである。
 何しろグゥエインは今、姿勢を保つことで精一杯という状態だ。
 更には不味いことに、この気流に先に入ったのがグゥエインらであるからして、後を追ってきたビューネイに対して風下に位置してしまっている。
 この気流に逆らってビューネイに向かって飛ぶことが、先ず非常に困難な状況なのである。その上、ビューネイの迎撃を掻い潜って一撃を見舞おうというのであるから、これは余りに荒唐無稽な策に思えた。

(何とか風上に位置する事ができれば、それが千載一遇の勝機になるはず。でも・・・この気流に逆らうことはグゥエインでも恐らく難しい・・・)

 風の流れによって対峙する両者は激しく移動を繰り返しながら、散発的に互いを狙った攻撃を仕掛ける。
 だが、その何れもが、互いに中々当たらない。
 ビューネイの放つ火炎の渦も、グゥエインの吐く雷撃も、荒れ狂う気流によって射線が全く定まらないのだ。

(現状は、双方に決め手が欠けているわ・・・でも相手はアビスから流れ込む力があるから、恐らく体力の底はない。なら先に落ちるのは此方・・・。ビューネイは最後に、その間際を突けばいいだけだ。ならばどうする・・・?)

 風に流されながらグゥエインにしがみ付きつつ、必死に思考を巡らせる。
 残念なことに未だ起死回生の一手に辿り着いてはいないが、同時にビューネイの攻撃の精密さも失われているので、思考に集中しやすくなったのはありがたい話ではあった。
 それに彼女の身につけている聖王遺物であるブーツは、地に足をつけている時に体勢を崩されることを回避するための、風の加護が施されている。その纏う風の恩恵によって、この乱気流の中にあっても彼女はなんとか姿勢を保っていられるのだった。

『衝撃に備えろ』
「・・・え!?」

 思考に差し込まれる様に、突然グゥエインがそう呟いた。
 それにカタリナが疑問符を浮かべた次の瞬間、急速に流れの方角を変える乱気流によって、まるで全身を横殴りにでもされたかの様にグゥエインの体ごと進行方向が無理矢理に変わる。

「うわっっっ!!?」

 あまりの衝撃に一瞬グゥエインの背から手を離してしまい、落ちるどころか風を受けて浮き上がる様に中空に放り出されかけたカタリナは、間一髪でグゥエインの翼を掴んで九死に一生を得た。

『天と大地を分つこの風は、世界を巡る様に巨大な円を描いて吹いている。だが真円ではないので、今の様に急激に流れが曲がる箇所が幾つかあるのだ。気をつけねば吹き飛ばされるぞ』
「そう言うのは先に言って頂戴・・・!!」

 命からがらといった様子でグゥエインの背の定位置まで戻ったカタリナが批難するように言うが、それに応えていられるほどグゥエインも暇ではない。
 必死なカタリナらとは対照的に先の見えた戦いに余裕を見せつつ放たれる、散発的なビューネイの攻撃。グゥエインは常にこれらに気を配りながら、困難を極める姿勢制御を続けているのだ。

(・・・・・・あ・・・・・・)

 ふと、その刻。
 カタリナの頭の中に、ある考えが過ぎった。
 それは、とても馬鹿馬鹿しい考えだった。考えというより、もはや妄想と言った方が正しいかもしれない。
 余りに馬鹿げた内容であったので即座に一笑に付さんとしたが、しかしカタリナの本能が、否と呟く。
 どれだけ馬鹿げていることであっても、この決死の局面で垣間見えた己の直感を信じ、敢えて気狂いの様相でそれに賭けるべきと、瞬時に思い至ったのだった。

「・・・次の気流の曲がり角で、仕掛けるわ」

 風の中で、何とか相手に聞こえる様にだけ声量を絞る。その語り掛けにグゥエインが応える仕草を僅かに見せると、カタリナはマスカレイドを強く握り締めながら、グゥエインにというよりは、まるで自分自身に言い聞かせるかの様に言葉を続けた。

「・・・必ず戻ってくる。必ずよ。だから、どうか・・・それまで持ち堪えてね、グゥエイン」

 カタリナのその言葉の意味をグゥエインが図りかねていると、間も無く暴風の畝りが再びカタリナらに襲いかかる。

「頼んだわよ・・・!」

 まるで、暴風に下から突き上げられるように。
 カタリナはグゥエインの背から軽々と放り出され、竜や魔神に比べれば全く華奢なその体ごと、一瞬にして空高く巻き上げられていった。

『・・・・・・!!?』

 同じくして気流の変化に崩された姿勢を戻す事に苦慮していたグゥエインは、大変に驚きながら大きく見開いた竜眼でカタリナを追う。
 だが衝撃と共に風に吹き飛ばされたカタリナの姿は、瞬く間に小さな点となっていった。
 だが、即座には動けない。
 何しろ直ぐに追いかけようにも先程の空ならばともかく、この荒れ狂う乱気流の中では直線飛行がまず困難なのだ。
 それに抑も、今此処でビューネイに背を向けて追いかける仕草を見せれば、そこを狙われて命を落とすことになるだけだろう。
 思考の結果、グゥエインはカタリナを追いかける事をせず、ビューネイとの対峙を継続した。

『あはははは!!』

 その一連の光景を見て、ビューネイは心底可笑しそうに声を上げた。

『おい、羽すら持たぬムシけらが一匹飛ばされたぞ、追いかけなくて良いのか!?』

 挑発する様に音波や炎の渦を乱発しながら、同時にグゥエインに語り掛ける。
 それらを避ける様に常に動き回りながら、グゥエインは考えた。

(・・・あれは、衝撃に飛ばされたと装いながらも、明らかに自ら手を離していた。直前の言動からしても、何か考えがあったのだろう。かといって翼を持たぬ人間が中空に放たれれば、それは落ちて死ぬしかないはずだ。全く行動の意図は読めぬ・・・)

 眼前に迫った炎を雷撃で相殺し、鋭い眼でビューネイを正面から睨む。だがその視線の向こうには、去り際の言葉を放ってきたカタリナの姿を思い描いていた。

(だが・・・あれは必ず戻ると言った。それまで持ち堪えろとも言った。あれは強い生物だ。ならば信ずるに値する、か。ふん・・・ここは一つ、乗せられてやる。我が力にかけて、狙いを全うしてやろうではないか・・・!)

 グゥエインは大気にあふれる暴風を全身で受ける様に大きく翼を広げ、吹き荒れる風に乗り、まるで風車のように目まぐるしく回転しながら不規則な軌道で飛んでみせた。
 カタリナが背にいた状態では出来なかった芸当だが、その身一つであるならば、話は別だ。
 風は常に、竜と共にある。

『ビューネイよ、貴様は三百年の昔に、聖王と赤龍によって敗れたのだったな』

 流れる様な動きから矢継ぎ早に撃ち放った雷撃をビューネイが回避するのを確認しながら、グゥエインは言葉を発した。

『その時に聖王を背に乗せた赤龍こそ、我が母ドーラだ。貴様は、そのドーラの子にして最強の竜であるこのグゥエインによって今再び、敗れることになろう』

 グゥエインの言葉を聞いていたビューネイは、ふっと笑みを浮かべながら暴風の中でグゥエインへと視線を向けた。そして、まるで吹き荒れる乱気流をものともせず中空に仁王立ちでもするかの如くに構え、堂々とした様で竜に笑いかける。

『確かに我は三百年前、人間と竜に相対した。そういえばその時の竜は、紅かったかもしれぬ。それは覚えている。だが、それらに敗れた覚えはない』
『・・・何?』

 そのビューネイの言葉に、グゥエインは緩やかに旋回していた動きを止めて風に身を任せながら、一言そう返した。

『貴様の言う聖王というのは、あの時の宿命の子の事か。あれは確かに、強い力を持っていた。だがそれでも、破壊する、という点に於いて魔王の力には遠く及ばなかった』
『・・・・・・』

 ビューネイはまるで微風でも受けているかの様に流れる豊かな金髪をかき上げながら、押し黙るグゥエインを見返しつつ微笑んでみせた。

『憶えおけ。我が屈したのは、魔王ただ一人。間違っても貴様らの様なムシけらにではない』
『・・・一体、どう言うことだ?』

 天空の支配者たる魔龍公を打ち破ったのは、聖王と巨龍ドーラではない。言葉をそのままの意味で受け取るならば、そういうことになる。
 だが、それでは全く史実と噛み合わない。
 何しろ、魔王は六百年の昔に死んだ筈だ。三百年前の聖王の時代には居ない存在である。ならば、三百年前の空から魔龍公を退けたのは、一体何だというのか。
 だが、訝しむ反面でグゥエインには、不思議と確信もあった。ビューネイには、全く偽りを語っている様子がないと。
 その言葉、威風、瞳に宿す色。どれをとっても、この魔龍公は真実だけを述べているようにしか受け取れないのだ。

『・・・ならば貴様は、三百年前に何ゆえこの世界から去ったのだ?』

 そうグゥエインが問いかけるが、しかしビューネイはそれには口を開く事なく、炎の渦で応えた。
 それを翻って回避したグゥエインは、眼を細めて相手を睨み返す。
 ビューネイは腕を振り翳し、さらなる攻撃を繰り出す様子だ。どうやら、これ以上を語るつもりはないらしい。

『ふん・・・よかろう。過去が如何なものであるにせよ、今やるべきことは些かも変わらない。貴様と我の何方がこの天空に覇を唱えるのか、それを決するだけだ』

 グゥエインは、力の限りに咆哮した。
 びりびりと、荒れ狂う大気をすら震わせるほどの咆哮にビューネイの動きが一瞬止まる。
 それに合わせてグゥエインは矢継ぎ早に雷撃を吐き出しながら、翼を背後に長く伸ばす様にして風を切り、乱気流の流れの間を縫う様にしてビューネイへと急激に迫る。

『よくこの風の中で動く。もう一匹のムシけらが居ない方が、我と戯れるに相応しいようだな』

 ビューネイは接近するグゥエインを見ながら驚嘆の声を上げつつも、笑ってみせた。
 だが接近戦をそう簡単に許すつもりはないようで、従える三匹の竜が同時にビューネイの前に飛び出し、三位一体の攻撃をグゥエインに見舞った。
 堅牢な鱗を砕く様に牙を突き立てられ、炎で両翼を炙られ、嘴で首元を突き刺される。
 だが、グゥエインは怯む事なく鳥頭をその牙で噛み砕き、犬頭を強烈な尾の一薙ぎではたき落とし、赤子頭の胴を雷撃の一閃で焼き千切った。
 そして確実に絶命させた筈の三匹の竜が即座に再生を始める刹那の空白の間に、グゥエインは錐揉み状に回転しながらそれらを吹き飛ばしつつ前方へと飛び出し、遂にはビューネイの眼前へと迫って見せたのだった。

『あっははははは!!決死の覚悟で我が僕を突破したか!良いぞ!貴様程の竜なら、我が新たな僕に加えてやっても!!』

 邪悪なる両翼を目一杯に広げたビューネイは、心底楽しそうに笑い声を上げながら、グゥエインと自らの間の僅かな空間に、凄まじいまでの魔風の集約を瞬時に生み出した。

『見事これに耐えられた暁には、褒美にその身を喰らい、我が僕としてやろう!!』

 莫大な量のアビスの瘴気を収束させた邪悪なる風が、今まさにビューネイの喉元を咬み千切らんと迫るグゥエインに向かって弾ける。
 それは弾けた直後に分裂し三点に展開され、知覚など不可能だと思えるほどの神速の刃となって空間そのものを裂き、そこにあったもの全てを紙切れの様に切り刻む。

『ガァァァァァァァァアアアアアッ!!!』

 超高速で∇型を描いた風刃の斬撃が、グゥエインの強靭な外皮をいとも簡単に砕き散らし、その奥の骨肉を深く深く抉った。
 首元から両腕、そして両足付け根までに至る広範囲に、致命傷となり得る程の深い斬撃を喰らったグゥエインは、生まれて初めて感じる激痛に耐えかねる様に、悲痛に叫ぶ。
 そして急速に薄れていく意識と感覚の中でグゥエインは、最早姿勢すら保てずによろめき、ぐらついた視線のままに、ふと虚空を見つめた。
 かくして竜はそこに、あるまじき事に、一筋の勝機を見たのだ。

『・・・何!?』

 完全に決まった必殺の風刃を以って勝利を確信していたビューネイは、眼前のその光景に、思わず我が目を疑った。
 夥しい量の血を痛々しくも中空に撒き散らしながら、なんと瀕死の竜はぐるりとその場で横に一回転し、唯一無傷だった尾をビューネイに向かい渾身の力で振るってみせたのである。
 その尾の横薙ぎの一撃はビューネイの胴体をしっかりと捉え、ビューネイを右方向に僅かに弾き飛ばす。

『!!・・・ふん・・・』

 思わぬ反撃を受けた形のビューネイだったが、しかしそれでも、余裕の表情を崩す事はなかった。
 今の一撃には最早、四魔貴族たる存在に手傷を負わせる程の力は全く備わっておらず、実に無意味な最後の悪足掻きであると分かったからだ。
 とはいえ、その意気にはひどく感心させられたのも事実ではあった。

『まさかその傷でなお、我に一撃を加えようとはな。見上げた意思力よ。良かろう。約束通り、お前を我が僕としよう』

 ビューネイがそう言い放った、その直後だった。

 ドンッッ!!!

『!!!!??』

 唐突に背中へ衝撃を受けたビューネイは、いったい何が起きたのかと驚く。
 それはどうやら、なにやら突然に、自分の死角である背中に何かが当たったようだった。
 なにしろビューネイの目の前には瀕死のグゥエインしかいなかったし、他には確かに何もなかった。それは、間違いないはずだ。
 だと言うのに何故か、前を向くビューネイの視線の先には、突如として真紅の刀身が現れていたのである。
 そしてその刀身は、なんと自らの胸部から生えていた。

『ぐぅ・・・!!?』

 自らの体を背後から貫いている真紅の刃の存在を認知したビューネイは、途端に広がる激痛と共に体の中に満ちていた力の喪失感に襲われ、堪らず苦悶の声を上げた。
 そして自らを貫く紅い刀身に確かに見覚えがあったビューネイは、それがどれだけ有り得ない事であるのかということを理解しているが故に、大いに驚愕の表情を浮かべながら、背後にいるであろう存在に向かい呪詛を吐く。

『ムシけらが・・・この我によくも・・・!』

 憎悪を込めて、自らを貫く真紅の刀身を見下ろす。
 ビューネイを背後から刺し貫いていたのは、まさしく聖剣マスカレイドであった。そしてその聖剣を手にしていたのは、誰あろうカタリナだ。
 しかしそれが誰かは兎も角として、何が起こったのか、を全く分かっていない様子のビューネイは、急速に体内の力が失われていくことだけを感じとり、混乱した。
 気流にき飛ばされたはずのムシけらが、一体何をどうしてこうなったのだというのか。
 だが、その混乱も直ぐに収まった。何故ならば最早この傷が、再生には至らないということを感じ取ったからだ。この幻影は、もう間も無く消失する。
 なんという不覚であろうか。
 しかしながらビューネイはこの状況にあって、何故か唐突に、いいようのない面白みを感じ、ふっと笑みを零した。
 よもや魔貴族の公たる自らが、魔王以外を相手にして、この天空に於いて敗れるなどということがあろうとは。
 しかもそれを成したのは、強大な力と強靭な意思で眼前まで迫った雄々しき竜ではなく、全くその存在を歯牙にも掛けなかった、小さき人間であったのだ。
 ビューネイはその事実にこそ最も驚くと同時に、自らの持つ知見から、この驚愕の結果に至ったと思われる一つの推論を最後に立ててみた。

『・・・そう、か。あの宿命の子の役目は、これだったか・・・。ふふふ、まさか三百年の後になって・・・敗れるとはな・・・』

 誰にでもなくそう呟くと、自嘲の笑みを浮かべた魔龍公ビューネイの姿は霞み、そして瞬く間に霧散していった。

「うわっ」

 ビューネイが消えたことで支えを失ったカタリナがそのまま暴風に飛ばされかけたところを、血塗れのグゥエインが辛くも受け止める。

「ありがとう・・・って凄い怪我じゃないの・・・!?」

 グゥエインの傷を見て驚くカタリナを尻目に、苦悶の表情を浮かべながらグゥエインは風に身を任せるようにしつつ急いで降下を始めた。この気流の中で姿勢制御を続けるほど、もう体力は残っていなかったのだ。
 そして間も無く乱気流から抜け出すまで下降したところで、グゥエインは吹き抜ける穏やかな風を身に受けて漸く一息つくように、僅かに息を吐く。

『・・・確かに深傷だが、心配するな。これしきで死にはしない。まぁ・・・死ぬほど痛むがな』

 緩やかに下降していくグゥエインのその言葉に、カタリナは一先ず安心したのか、こちらも小さく息を吐く。

「そう・・・それならよかったわ。そして・・・ありがとう。よく信じて耐えてくれたわね」
『半信半疑ではあったがな。しかし貴様・・・一体なにをしたというのだ?』

 タフターン山を目掛けて下降しながらグゥエインが単刀直入にそう尋ねると、カタリナは懐から高級傷薬を取り出してグゥエインの傷口にかけつつ、ぽつぽつと語った。

「まぁ・・・うまくいったのは完全に運が良かっただけだろうけれど。まぁあの気流を、ちょっと利用したのよ」

 カタリナが言うには、こうだった。
 自分の重量では落ちるどころか巻き上げられるほどの強大な気流であったこと、聖王ブーツの力で多少の風への干渉が行えたこと、そして天と地を分つということはつまり、上に行けば気流には終わりがあると予測できたこと、だ。
 これらを前提に考えた時、彼女はこう思った。
 気流に乗って一気に上昇し、その気流層を抜け出せば再び風の流れが緩い空間に出て速度も落ち、自由落下を始めるのではないか。
 するとその間に激しい気流の中にいるビューネイらが自分を追い抜き、上手くすればその背後へと回ることが可能なのではないか、と。
 このように想像した、というのだ。

「正直どれくらいの高さまで行けばいいのかも全然わからなかったし、聖王様の残してくれた靴でどこまで位置とか下り方向の調整ができるのかも不透明だったし、わりと死ぬ覚悟だったんだけどね・・・」

 カタリナのとんでもない作戦内容の暴露には、さしものグゥエインも思わず唸るしかなかった。全くこれは、命知らずにも程があるというような話でしかない。

「っていうか、何よりキツかったのは気温ね。結果大した時間ではなかったけれど、ほんと凍え死ぬかと思ったわ。竜が持つ朱鳥の加護って大事ね」

 そう言いながらカタリナは、グゥエインの背中に抱きつくようにして暖を取る。

『・・・全く呆れて物も言えない所だが、現実に貴様はその奇策でビューネイを討った。その事実は変わらんのだから、これ以上どうこう言っても仕方がないな』

 これ以上何を言うのも馬鹿らしくなったという様子のグゥエインは、まるで苦笑いするかのように小さく炎の息を吐き出しながらそう呟いた。
 そうこうしているうちに、やがてタフターン山の山頂が眼下にくっきりと見えてくる。
 自ずと、アビスの瘴気が天空に向かい漏れ出している地点も肌で感じられるほどに、はっきりとわかった。

『ゲートはあそこだな。降りるぞ』
「ええ、お願い」

 今ではすっかりグゥエインの背での姿勢の保ち方にも慣れた様子のカタリナは、全身に心地よい風を受けながら、故郷ロアーヌを脅かす元凶たるゲートの元へと降り立っていった。

 

 

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第八章・7 -竜との野営-

 

 思い返せば、空を飛ぶのは人生で二度目だな、などと、ふと思う。
 一度目は、そう。南方は密林の奥にて、妖精族の長に招かれ妖精の里に向かう時に、フェアリーと共に風に乗って。
 あの時に全身で感じた浮遊感は、きっとこの先何年生きていても忘れることはないだろう。これまでの人生の中で最も心躍る瞬間の一つであることに、微塵も疑いの余地はない。
 そして満を持して訪れた人生二度目の飛行体験は、まさかの竜の背中である。
 まるで聖王記に記された伝説をそのままなぞるかの様に、巨龍ドーラの子グゥエインの背に乗り、カタリナは今、遥かな上空を飛んでいた。

(まぁ・・・これ最早飛んでいるっていうか、しがみ付いているって言うのが正しい気もするけど・・・)

 今までに体感したことがない様な、強烈な風圧。それを常に全身に受けながら身を低くして竜の背に乗るその状態は、正直に言えば姿勢を制御するのでやっとだと言っても過言ではない。

(いやこの状況で戦うって相当厳しいわ実際・・・。聖王様は一体どうやったっていうのかしら・・・。武器は剣・・・いや、槍かしら・・・。そういえばノーラさんとこのとか、聖王の槍って言うくらいだし・・・あれ、でもあれはアラケスの魔槍を鍛え直したものよね・・・確かアラケス征伐譚ってビューネイの後だった様な・・・そしたらフォルネウス征伐譚みたいにトライデントとかかしら・・・?)

 伝説とは、勿論多少なりとは誇張されている部分もあるのかもしれない。だが兎も角、聖王は竜の背に乗り戦ったのだ。ならばこの状態で戦う方法は、必ずあるはずなのである。
 それは頭ではわかっているのだが、しかしそれにしても実際この状況に置かれてみると、まるで自由の利かない状況に軽く絶望感を味わう。
 因みに、本来ならばこれに加えて地上との温度差も相当なものの様だが、それは幸いにも巨龍種の持つ朱鳥の加護の影響を自分も間近で受けているので、回避できている様だ。
 それがなかったら、風圧以前にまず凍えて何も出来ないかもしれなかった。

「ねぇグゥエイン!聖王様って、ビューネイとはなんの武器で戦っていたの!?」
『知らぬ。我が生まれた時には聖王は既に戦っていなかった』

 飛行するグゥエインに聞いてみるものの、この釣れない態度である。
 カタリナは盛大に眉間に皺を寄せながら、頭の中で必死に戦い方を模索するのであった。
 グゥエインとカタリナは、グゥエインの住処にて一戦を交えた。正確にはグゥエインによるカタリナの実力を図るための腕試しのようなものであったが、この一戦により双方の距離感は随分と縮まったのを互いに感じていた。
 世間でいう悪竜の誹りは、結果として紛れもない事実ではあるのだろう。だが、相対し剣と言葉を交えた上でのグゥエインという竜の印象は、カタリナにとっては非常に好感の持てる存在だった。
 先ず感じたのは、その精神の高潔さである。
 グゥエイン自身は世界最強の竜を自負する誇り高さからくる言動はあるが、しかしそれは、単なる傲慢とは違う。
 グゥエインには、他者と己を一々比べる様な稚拙な素振りが一切ないのだ。
 それは己の中にある確固たる誇りが為せるものだということを、カタリナは経験則から知っていた。
 グゥエインに感じるそれは、まるでカタリナ自らがその胸に刻む、武人の誇りの様なものにも思えるのだ。
 それを体現し、且つ実力を兼ね備えた存在というのは、人界において考えれば数えるほどしか存在はしないだろう。
 当然ながら人間と竜との精神構造には大きな違いがあるだろうから、彼女の感じるそれが大いに的外れである可能性も否めはしない。
 だが、それでもカタリナが非常に好感を持つには十分すぎる要素を、このグゥエインという竜は備えていた。

 一方のグゥエインは、これまたカタリナという未知との遭遇による自らの思考の変化を、大変興味深く感じていた。
 本来ならば、矮小なる人という種族を軽く捻ってやろうか程度の腹積りが、今彼が背に乗せるカタリナという人間は、先の一戦に於いて全く驚くべき戦闘能力を発揮してみせた。
 今までもグゥエインの元には、数々の討伐目的と思しき人間たちが訪れてきた。それは一国の騎士団であったり、腕に覚えがある様子の冒険者風情であったりした。
 だがその悉くは、実に取るに足らない存在であった。
 グゥエインにとっては何ら工夫も凝らさぬ息の一吐き、爪の一薙ぎで、人間の体というのは直ぐに物言わぬ肉塊に成り果てる。
 グゥエインからすると人間に対する印象はそれ以上でもそれ以下でもなく、つまりは、単なる捕食対象でしかない。それはこれまでもこれからも、揺るぎない生態系として変わることはないものなのだと考えていた。
 だが、今この背に乗る人間は違った。
 人とは思えぬ驚異的な空間把握能力からくる軌道予測と俊敏さで以って、その雷気を伴う息を、鋭い爪を、岩をも噛み砕く牙を避け、恐らくは見舞えば堅牢なる我が鱗をすら断つことが出来るであろう域にまで磨き上げられた、神技の如き剣戟を振るってくる。
 何か一つでも当たればひとたまりも無い筈の此方の攻撃に全く怯む事なく斬撃を放ってくる存在など、未だ嘗てグゥエインは出会ったことがなかった。
 ことここに至るまで、グゥエインは幾度も人を喰らうその度、疑問に思っていたことが一つあった。
 何故、我が母ドーラは聖王などと言う『人間』なぞに討ち果たされたのか、ということだった。
 聖王とて、所詮は人間。そして人間がどれだけ脆く弱く小さな存在であるのかを、竜は知っている。竜と人との間には、超えることなど叶うわけもない圧倒的な力の差があるのだと、そう確信していた。
 だから、母ドーラが聖王に討たれた理由とはつまり、ともすれば己が宿命を忘れてしまった愚考の末なのではないか。
 そのようにすら、グゥエインは考えていた。
 何しろこの三百年の間でグゥエインが学んだ人間という存在はか弱過ぎて、それ以外には到底考えようがなかったのである。
 そして今、改めてグゥエインは思う。
 自分は竜たる宿命を忘れたと思しき母を、そういう意味では侮蔑していたのかもしれない、と。
 だからこそ、今ここに至りグゥエインの思考は突き抜けて晴れやかだった。
 人は、竜と居並ぶ可能性を秘めていたのだ。
 それが、先の一戦で証明された。
 であれば、母は恐らく竜の宿命を紛うことなく全うしたのではないか。その可能性が見えたのである。
 無論、それだからと言ってグゥエインの何が変わるわけでは無い。最強の竜であるグゥエインは、母ドーラがどの様な竜であったのかに関わらず、今までもこれからも只、最強の竜であるだけだ。
 しかし、自らの生みの親が誇るべきであるか否かは、思いの外、思考への影響があるようだ。
 単に、ここ百年くらいで一番と言っていいくらいには、気分が良かった。
 ただそれだけだが、それでもこの発見が今になって自らに齎されたことに、グゥエインは存外の喜び、面白みを感じていたのだ。

『・・・空での狩りは地上と違い、上下左右から獲物との交差線を軸に狙う。何、貴様なら読めるだろう』
「えー・・・つまり、すれ違いざまに叩き込めって事でいいのね!?」
『そうだ。まぁ落ちても拾ってやる。心配はしなくていいぞ』
「ほんとお願いね!?約束よ!?」

 両者がその実力を確認してからは、認め合った同士として互いの精神的な距離は非常に縮まった。
 一戦の後にはフェアリーを交えてカタリナがこれまでの経緯や世界状況などを話すと、グゥエインもまた、己の知るこの三百年の知見を二人に話して聞かせた。
 その中で互いに戦場での意思疎通に堅苦しい言葉遣いは不要にしようと意見が一致し、僭越ながらカタリナとしても大分崩した口調で話す様にした。
 因みに彼女が普段の貴族然とした口調ではなく崩して話すのは、元は騎士団の同期連中だけであった。特にコリンズやパットンといった陽気な連中と騎士候補生の時から長年の寝食を共にしていた事で、その様な口調になったのは致し方ない事だと言える。彼らとは騎士団仲間であると同時に、良き友人でもあった。
 グゥエインとそのような関係になったのかといえば無論そういうことではないのだが、これから共に強大な相手に共に戦いを挑む者同士として、種を超えた奇妙な友情のようなものがカタリナの中に芽生え始めているのは、事実であった。
 対するグゥエインに特段変わった様子はないが、ただ思いの外、この竜は饒舌であるということも分かってきた。
 三百年を生きた竜の語る知見は非常に興味深いものばかりであり、人とは異なる視点で語られる世界の変遷は、想像を超える物語ばかりだった。
 本音を言うと、敬虔なる聖王教徒であるカタリナからすればグゥエインと同じ時代を生きた聖王のことも色々と聞いてはみたいものであったが、しかし流石にこれは、親の仇の話だ。自分が訊かれたら嫌だろうなと思う事は、なるべく訊かないようにした。

(まぉ、戦い方は必要に迫られてさっき聞いてしまったけれど・・・)

 グゥエインはあまりその辺りを気にしているような雰囲気は感じられなかったが、しかし饒舌である竜の口からも聖王の話はこれまでほとんど現れなかったのは確かであった。
 本人の語るところによれば、グゥエインが生まれたのは聖王による四魔貴族征伐が終わった後とのことだ。
 聖王と共にビューネイを討伐した巨龍ドーラは、その後ビューネイに変わり天空を支配した。そしてドーラはその圧倒的な力でいくつもの人里を焼き払い、人を喰らい、財を奪ったという。
 聖王がいくら諫めようとも、ドーラがそれを止めることはなかった。
 そしてついに、聖王は巨龍ドーラを討つべくルーブ山を登った。四魔貴族を退けた英雄同士の戦いは苛烈を極め、その果てに聖王の剣が深々とドーラへと突き刺さり、ドーラは絶命した。
 これは、聖王記にも記されている物語なので、カタリナも幼い頃から教会で聞いてきたものである。
 そうするとグゥエインは生まれた直後に母を殺され、三百年という月日をあの住処で過ごしてきたということなのだろうか。
 その三百年とは、一体どれほどの時間なのであろうか。たかだか二十数年を生きているに過ぎないカタリナには、全く想像もつかない話だ。
 つまり、グゥエインが今どのような考えに至っているのかも、彼女にはおそらく全く分からないだろう。

『この辺りで降りるぞ』

 グゥエインの声で、物思いに耽っていたカタリナの意識が現実に呼び戻される。
 ルーブ山を発ってから比較的低空を飛んでいたグゥエインは、イスカル川沿いに下ってピドナのあるマイカン半島を抜け、そのままロアーヌ地方へ向けてヨルド海を渡ったところで夜を明かすことにした。
 今回は、空中戦となる。つまりは飛行時間がそのまま戦闘時間に直結するので、体力管理の側面から極力、決戦の直前に飛び立つようにしようと事前に相談をしていたのだ。竜とて、無尽蔵に飛び続けられる訳ではないのである。なので、カタリナも何ら疑問に思うことなくそれに従う。

「・・・しかしまぁ、たった二日足らずでルーブからここまで来てしまうなんて。自分の中の常識が全て覆るようだわ」

 つい数日前は世界地図上で北西の果ての山地にいたというのに、今は地図上で最も東に位置する彼女の故郷ロアーヌと地続きの陸地だ。
 しかし思わぬ形で久方ぶりに故郷の大地を踏み締めることになったカタリナだったが、今はその感慨などよりも只々、その驚異的な移動速度に素直に舌を巻いていた。
 これが普通に陸路海路を使っていれば、ルーブの山頂からこのロアーヌ領とポドールイ地方の境あたりの位置までは、どう足掻いても一ヶ月程度はかかるような旅路なのである。それが、飛行ならば二日目の午後には到達してしまうのだ。全く驚くべき話である。

『翼なき人間は、不自由なものだ。移動も遅く時間がかかり、その上寿命は短い。我はむしろ、それで良くここまで繁栄したものだなと思うがな』
「いやまぁ仰る通りとしか感じないけれどね」

 人間の寿命は、精々が五十年程度だ。しかもそれは、あくまで都市部に限った話である。これが農村地や貧困層に至っては、もっと短いとも言われている。
 対して巨龍種の寿命は人間の十倍を超えるとも言われている。数百年を生きる竜にとって、人間とは本当に小さな存在に映ることであろう。

『だが、その短い寿命こそが人間をここまで進化させたのかもしれん』
「うぅん、例えばどんなところにそれを感じたの?」

 いまいち想像がつかない様子のカタリナが小首を傾げながら聞くと、グゥエインはどこか眠たそうに瞳を細めながら、ふしゅう、と鼻息を漏らした。

『言わずもがな、先ずはお前のその強さだ。その強さは、貴様ら人間が様々な形で継承の術を見出し、何代にも渡り連綿と受け継がれてきたものの集大成なのだろう。そしてお前のその強さもまた、同じくして後世へ伝わっていくのだろう。それを、数十年という短い周期で行っている。それは、短命種ではない我らには、ないものだ』
「短命種、か。私たちから見たら、貴方が長命種なのだけれどね。でもまぁ、確かにそれはあるかもしれないわね。その技術の継承が五十年か五百年かという話になれば、頻度が多い方が当然改良は進むでしょうし」

 カタリナが腕を組みながらグゥエインの言葉に感想を述べていると、がさり、と遠くで物音がする。
 どうやら、ここに降りてから直ぐに食料調達用に仕掛けていた即席の罠に、何かが引っかかったようだ。
 カタリナが期待を胸にこっそり駆け寄って見てみると、兎が一羽、罠に掛かっていた。

「おぉ・・・やってみれば採れるものね。ポールに感謝しなくちゃ」

 罠の作り方や仕掛ける位置の選定などは、狩の知識があるポールの直伝である。
 丁度携帯食料も底をついていたので、空腹のままで決戦に挑まなくて済むのは非常にありがたい。なんなら一時はグゥエインにどこかの街に降りてもらおうかとも悩んだほどだが、そんなことをすればどう楽観的に予測しても街の混乱が必至なので、腹ごなしは半ば諦めかけていたところだったのだ。
 そのまま直ぐに頭を仕留めてグゥエインの元に獲物を持って戻ると、今度はグゥエインから、なにやら木陰の奥を尻尾で示された。
 カタリナが怪訝な表情をしながらそちらへ視線を向けると、竜からは無言のまま、行ってみろとばかりに尻尾を振られる。それに素直に従って木陰の奥に踏み込んでみると、そこには果たして、少々焦げた様子で横たわる猪の姿があった。

『近くにおったので軽く雷気を通しておいた。それも捌いてみるがいい』
「え、私こんなに食べられないわよ」
『我が食べるのだ。腹は我も空く。ただ、普段と同じでは詰まらぬからな。人間が行う調理とやらで食してみようと思ってな』
「えぇ・・・猪の捌き方なんて分からないわよ・・・まぁ、やってはみるけれど」

 グゥエインに手伝ってもらいながら木に吊るした獲物二頭の頭部を手際良く切り落とし、先ずは血抜きを行う。
 そこから腹部を裂き、大雑把に内臓部分を取り出した。ポールによれば内臓部分も火を通して食せる部位は有るらしいが、カタリナにはその見分けの知見はないので、今回は遠慮する事にした。グゥエインにも一応食べるか聞いてみたが、今回はカタリナに任せるとの事なので、自分と同じ方針をとることとする。
 兎は小型のナイフで切り目を入れてから皮を一気に剥ぐことができたが、猪は同じ要領では上手くいかなかったので、剣でどうにかする事にした。

『ほう、器用に皮を剥くものだな』
「お褒めに預かり光栄ね。ま、初めてやったにしては上出来でしょう」

 多少不恰好ではあるが、かなり薄く毛皮部分だけを剣で切り落としていく。これも普通に考えたら驚異的な神業の部類であろうが、生憎とその技術を精肉に活かす場面は今後はあまりなさそうだろう。
 そこからは部位ごとにざっくりと切り分け、携帯していた塩や胡椒を塗り込んで火にかける。着火をグゥエインに任せた時などは息の一吐きで瞬時に枝が燃え上がるものだから、野営で火をつけるのも竜がいると楽な物だな、などと呑気な感想を抱いた。
 あとは肉の焼き上がりを今か今かと待ち侘びながら、グゥエインと他愛のない話を続けることにする。

「ルーブでも色々聞いたけれど、貴方から見たこの三百年で、なにか大きく変わった事とかってある?」
『・・・特に大きくは変わらんな。強いて言うなら、お前達人間の数が爆発的に増えた位だ。ただ、それが我にはどうにも不自然な様相に見えるがな』
「・・・不自然に?」

 グゥエインのその言葉に、カタリナが訝しげな表情をしながら聞き返す。
 グゥエインは、どうも気に触るのか尻尾でしきりに翼のあたりに飛び回る虫を払いながら、軽く上空を向くように視線を上げた。

『ただ増えただけ、なのだ。これを不自然と見るかどうかも、種により見解は異なるかも知れぬがな』
「随分と含みがある言い方ね。聞かせて頂戴」

 グゥエインが不自然に感じる点とは、こうだった。
 三百年の昔にグゥエインが生まれ出てから十数年もした頃には、もはや彼の竜に仇なすような生物は世界には存在していなかった。だからグゥエインは自由に空を飛び回り、世界の在り方を今日まで見続けてきたのだ。
 その間、聖王の活躍により四魔貴族という脅威から解放され爆発的に人口を増加させ一気に生活圏を広げていった人類だったが、しかしその割に種としての進化は非常に限定的に見えた、と言うのである。

『例えばお前達がバンガードと呼ぶあの島のような物は、我の目から見ても人類が作った最高峰の造形物だ。あのようなものを作り続けたのであれば、我ももう少し人間への興味が湧いたのかも知れぬな。だがこの三百年、あれに匹敵するような物は全く作られておらぬようだ。恐らくあれはお前達が魔導器と呼ぶものに属するのであろうが、その技術の積極的な応用事例が、全く他に見当たらない。お前の持つその剣も、同時期に作られた聖王の遺物だったな。それも、広義では武具というより魔導器であろう。そういったものが、この三百年は全く世に出てきていない。その技術がもっと広まればより多くの益を人類にもたらすことは間違いないだろうに、これは如何にも不自然というものではないか?』
「・・・言われてみれば確かに、それはそうね」

 竜の眼からみたこの三百年の人間の歩みは、この様に不可思議なものであったという。
 逆に変化が見てとれたものといえば先の通り人口増加と、それに伴う食糧事情の改善を元とした農耕技術の多少の発達と、今回グゥエインも気付かされたような武力の継承、と言ったくらいだ。それ以外の人間の種としての進化は、驚くほど停滞しているように見える、というのである。

『その視点で唯一目に見える変化が見えたのは、ここから北西にある森の中の家の周辺くらいだ。あそこにはついここ数年の間に、魔導器を模した不自然な造形物が幾つか現れた。だがそれも、どうやら魔導器とは少々違うもののようだが』
「ここから北西の森の中の家・・・あー、それツヴァイク辺りかしら。なら多分私もそこ知ってるわ・・・」

 そこにあるのは恐らく教授の館であろうと、カタリナは予測した。周囲と違うものがあるとなると、寧ろそれくらいしか思い当たらないのだ。確かにあれは、空から見てもさぞかし異様に映ることだろう。

「魔導器・・・の技術って、そもそも現在に正しく継承されていないみたいなのよね。その館の人も含めて私の知り合いでも何人かその研究をしているみたいだけれど、殆ど手探りみたい。でも確かに、三百年前には実際にあった技術が今はないと言うのは、不思議よね・・・。あ、そろそろいいかも」

 話している間に丁度具合良く火が通った獣肉をカタリナは火から取り出し、小型のナイフで肉に切り込みを入れて中の焼き具合を見た後、そこからは都度切り込みを入れてから噛みちぎるようにして食べる。丸ごと齧り付くのは、淑女としては流石に抵抗があるのである。一方のグゥエインは火すらお構いなしに、炙られている最中の大振りの肉の塊にそのまま齧り付いた。
 ジビエとしては冬に入る前のような獣がたっぷりと栄養を蓄えた最良の時期ではないが、それでも今は空腹が何よりのスパイスとなり、十分に美味だ。あとは出来れば渋みの利いたワインも一緒に欲しいところだが、それは流石に無いものねだりというものだろう。

『ふむ、これが胡椒とやらの味か。意外と悪くないな』

 そのまま齧り付いたあとは何だかんだしっかりと味を感じるように咀嚼しながら、竜が唸る。

『肉は強すぎぬ火で一定時間炙ることで、肉の中の脂が程よく溶け出すのだな。焦がしたりそのまま食べるより、肉質も明らかに柔らかい。普段通りそのまま食べるのも良いが、これはこれで気がむたい時にやるには悪くない』
「随分とグルメな竜ね・・・・。私の旅仲間より、余程上等な食レポよ」

 苦笑しながらグゥエインの感想に応えたカタリナは、それでも自分が捌いた肉にそのような感想を言い渡されたこと自体には悪い気はせず、上機嫌で食事を進めながら先程の話を続けた。

『我も聖王以前の時代は知らぬが、それでも見聞する限り、そこまで大きくは人も人以外も、文明の変化はないはずだ。然るに魔導器という技術の登場は恐らく人類史の中では、非常に大きな転機であろう。それが、聖王が生きていた数十年の期間以降はぱったりと途絶えてしまっている。そこに大いなる不自然さを感じるのは、ある種当然であると言えるのではないか?』
「それは確かに理解できるわ。そうなると、魔導器技術と聖王様には何らかの関係性がある、と想像するのが自然な流れだけれど・・・ただ・・・」

 グゥエインと意見を交わしながら、自分の中にある引っ掛かりがなんなのかを、カタリナは脳内で探っていく。
 彼女が今まで見聞きしてきた中で、この引っ掛かりはいったい何処から感じ取れるのだろうか。それを自らの記憶に問いかけ、振り返ってみる。
 すると、思いのほか早くにその正体は判明した。

「・・・そうだわ。聖王様に関係するもの以外にも、類似するもの、あった。四魔貴族の住処よ」
『ほう・・・そういえばお前は、既に彼奴らとの戦闘経験があるのだったな。であればその住処も見ていると言うわけか。彼奴らの居城には、魔導器があったのか?』
「魔導器・・・かどうかは分からないわ。でも、明らかに私たちが現在持ち得ていない技術が使われていたのは確かよ」

 カタリナの中で最も強く脳裏に焼き付いているのは、彼女がこの戦いに踏み込むこととなった、そのまさに始まりとも言える場所。一番最初に全く意図せず辿り着いた其処は、魔戦士公アラケスが居城とする、魔王殿の地下空間だ。
 魔炎長アウナス、魔海侯フォルネウスの住まう場所にも足を踏み入れた彼女だが、あの魔王城という場所は、彼女が見てきた中でも最も理解に苦しむような構造をしていた。
 そもそも地上部分にみえる魔王殿自体、現在の建築技術で作ることは不可能だとすら言われている。それは、以前にカタリナも伝聞で聞き齧ったことがあった。
 その表す意味は兎も角としても、随所に施された高い芸術性を備える豪奢な調度物の数々。現存する建築技術を軽く凌駕する高さを備えた、驚異的な空間設計。
 建築に従事するものであれば、学べば学ぶほど魔王殿の、その建築物としての圧倒的な造形に恐れ慄くのだという。
 そしてカタリナが辿り着いたその魔王殿の地下には、更に想像を絶する空間が広がっていた。
 紅く脈打つように鳴動する壁面。踏み入れると、全く別の場所に放り出される何らかの仕掛け。部屋の一室であるというのに、まるで夜空に浮かんでいるのではないかとすら錯覚するような、透明な床の部屋。
 思い出そうとすれば、その非常識さは枚挙に遑がない。
 そして二ヶ月程前に海上要塞バンガードの内部を見た時、確かに彼女は思ったのだ。
 水晶玉に合わせて碧く鳴動するバンガードの艦橋は、まるで魔王殿の地下のようではないか、と。
 そして魔王殿とは、聖王よりもずっと以前の、今から六百年前に遡る魔王の時代に作られたものなのだ。

『・・・そこに類似性があるとしたら、つまり魔導器という技術に関連がありそうなのは、聖王というよりは寧ろ魔王まで含めた宿命の子そのもの、というわけか』
「あくまで私の見てきたものを繋げ合わせただけの話だけれど、そこまでとんでも理論ではない・・・と思うわ。魔王と聖王様の共通点がある・・・なんて考え自体、聖王教会的にはど真ん中で禁忌も禁忌でしょうけれど」
『ふん、人間の下らん信仰なぞに興味はない。だが、魔王の恐怖支配にせよその教会を中心とした聖王の信仰支配にせよ、ある意味ではその支配によって人類と魔導器技術の意図的な断絶が図られていた、という見方も出来るであろう』

 ばりばりと肉のついた骨まで食しながらグゥエインが言うと、カタリナは己の信仰心が何やら試されているような気分に陥りながらも、強く今の意見を否定する要素も見当たらずに兎肉を噛みちぎりながら腕を組み直して唸るのであった。

『さて、腹も満たされた。我は明日に備える』
「ううん・・・私もそうするわ。なんだか考えすぎちゃって頭も疲れたし」

 一足先に頭を前足に乗せて眠りについたグゥエインを横目に焚き火を消して簡易的に後始末を終えると、カタリナも満腹感の中で横になった。
 時期的にはまだ寒気の中での野宿だが、巨龍種の持つ加護によって周辺の気温は上がっている。これなら凍える心配は全くないだろう。

(・・・聖王様と魔王の共通点、か。今まで考えもしなかったけれど・・・人智を超越しているという意味でも、確かに似ている。そしてそれが『宿命の子』の特性として時代に顕現するのだとしたら、今の時代にもそれは言えるということになる。うーん・・・だめだめ、こんなの私が考えても仕方ないわ。今は明日の戦いに集中しなきゃ・・・)

 頭が冴えてしまって中々寝れないかと思ったが、慣れない飛行体験でしっかり体は疲労を感じていたようで、そう間を置かずにカタリナもゆっくりと眠りに落ちていった。
 だが、彼女の中に生まれた疑問は、眠りに落ちても消えることはなかった。

 

 

「・・・風が」

 ふと気配を感じて少年が見上げたのは、鬱蒼と生え茂る薄暗い樹々の間から僅かに見える空。
 そこは、真面な生物が住む場所とは到底思えないほどの濃い瘴気が渦巻く、地獄。その地獄に満たされる邪悪な瘴気をたっぷりと吸い込んだ歪な樹々の中に、少年と少女の二人はいた。
 しかし少年少女の周囲だけは、まるで一切の瘴気が掻き消えたかのように清廉としている。
 呟いた少年の言葉と動きに合わせて、一歩先を歩いていた少女もまた、空を見上げた。
 見上げる先で『風』が通り過ぎる様子を確かに感覚で捉えながら、また一歩、時が近づこうとしていることを少女も悟った。

「・・・私達がアウナスの幻影を退けてから、一気に動き出しているみたいだね。これは、予定変更しないとダメかもしれないね」
「・・・そうだね。ごめんよ、僕が鈍間だから」

 少年が自虐するようにそう呟くと、少女は「違うよ」と言いながら首を横に振った。すると後ろで結ばれた長い彼女の癖っ毛が、動きに合わせてふわりと舞い動く。

「私達がこうして動いているから、世界がそれに応えているだけよ。うーん・・・まぁ玄室は調べてみたかったけれど、これはもう向かった方がいいかな」
「そうだね・・・」

 やはり浮かない表情をして俯いている少年に振り返りながら、少女は微笑んだ。

「そんなに落ち込まないの。こっちにきた意味は、十分あったじゃない。貴方のことを知る人に出会えたのだから」
「・・・そう、だね。僕と関わって死んでいない人と出会えたのは、確かに嬉しいことだと思うよ」
「うん、その通り。私たちはきっと、そのためにこっちにきたの。この辺はきっとそう・・・シナリオ通りなのよ。だから、気にしない気にしない」

 それは少年のためを思って努めて明るく、などと言うわけではない。少女は恐らく本心から素直にそう感じていて、その思うままに言葉を紡いでいるのだろう。少年には、そのことが何故かとてもよくわかる。だから、その言葉に素直に元気付けられようと思えるのだ。

「わかったよ、サラ。じゃあ、行こう。えっとそしたら・・・こっちかな?」

 少年はうっすらと笑顔を少女に向け、そしてそれまでとは異なる方角へと視線を向けた。

「うん、そっちだと思うわ。ここを抜けたら街に寄って食材買って、なにか美味しいものを作りましょう。この辺には、食べられるものが全然ないんだもの」

 少女は、そうと決まれば意気揚々とした様子で少年の指し示した方へと歩き始めた。
 少年は、そんな少女の後について歩き出す。
 少年は知っている。その一歩一歩が、終わりに向かう一歩であることを。
 それは、もちろん来てほしくないなんて考えも頭の片隅を過ぎることがある。
 ただそれでも、その時が来たなら彼女のために自分にできることがあるのなら、それはとても素晴らしいことなのかもしれないな、と少年は思っていた。

 

 

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第八章・5 -夢語りのシェヘラザーデ-

 

 松明の明かりを頼りに長い階段状の岩肌を慎重に降りていった先には、自然の洞窟とは思えぬ程、いかにも不自然に何者かによって踏み整えられたような平らな足場が広がっていた。そしてその足場に立つと同時に、酷く焼けつくように肌に纏わりついていた空気が一気に重苦しさを増していくのを、カタリナは確かに感じていた。

(・・・この重圧、まるで四魔貴族に相対するかのよう。これが世界に名高い竜の気配か・・・)

 最早この奥にグゥエインがいるであろうことは明白であり、カタリナは空間が思いの外広々としており動き易さがあることに胸を撫で下ろしながら、いざという時のための算段を頭の中にいつくか思い浮かべつつ、気配の濃くなっていく方へと進む。
 すると程なくして、これまでは松明の明かり以外に全く頼るもののなかった暗黒の視界の中に、ふと煌く光の筋がいくつか見えてきた。

「・・・奥に、何かあるわ」
「・・・そのようですね」

 小声でフェアリーと囁きあいながら慎重に光の方へと進んでいくと、やがてその光の正体は、洞窟の天井に空いた穴から差し込む陽光に照らされた大量の貴金属だということが分かった。
 そして同時に、その後ろに『在る』ものへと強制的に視線が移る。
 そこには、煌びやかに輝く膨大な量の貴金属類にて積み上げられた小高い丘の上に、陽光を浴びながら四肢で鎮座し首をもたげてカタリナ達を見つめる、一頭の雄々しき巨龍の姿が在った。
 ある種の神々しさすら纏ったその姿を、カタリナは固唾を飲みながら視界に収める。
 竜の外皮部分は如何にも頑強そうな鈍色の鱗に覆われているが、首筋から腹部へと向かう部分は仄かに燃える炎の色をしている。
 その全身はカタリナの優に数倍はあろうと思われる大きさであるものの、しかし鈍重な印象は一切受けられない。寧ろ外皮の色彩と相まって、その姿は一振りの鋭利にして巨大な剣を思わせるようだった。
 そんな感想を抱きながらカタリナが竜を見ていると、ほんの一瞬、互いに視線が交わる。
 すると竜は、まるで来訪者たちを歓迎するかのようにその両翼を大きく開いて後ろ立ちになり、そのままゆっくりとカタリナを真正面に据えるように姿勢を変えて座り直してみせた。
 広げてみれば外皮とは全く異なる美しい深紅の翼が織りなす竜の姿は、まさかこの存在が世間に忌み嫌われる悪竜であろうことなど全く信じられないかのように神々しくすら思われ、またその姿でどうしようもなく追憶の念にも駆られ、カタリナは暫しその姿に意識を奪われたのだった。
 すると言葉を紡げずにいたカタリナの前にフェアリーが先ず飛び出し、竜の頭部の真正面まで飛び上がりながら、竜へと語りかけるように見つめる。元々の予定通り、先ずはフェアリーから念話での意思疎通を図ろうとしたのだ。
 だがその行動に反応した竜は、フェアリーの言葉をかき消すように、大きく鼻息を吐いた。

『良い。人語は交わせる』

 陽光に照らされるその外皮を僅かに震わせ、竜の声が空間に響く。その声は想像していたよりも若く精力旺盛なようにも聞こえ、また老成した賢人のようにも聞こえる。人では出すことができぬであろう、不思議な声色だった。

「・・・ここまで導いてくれたのは、やっぱり貴方だったんですね」

 竜の言葉を受けて頷いたフェアリーが声を上げると、竜はそれに答えるようにして視線を細めた。

『人間だけで来ていたのならば、単に『帰れ』としか言わなかっただろうがな。我が住処に妖精族の来訪など、三百年生きてきた中でも初めての経験だ。こんな機会を逃す手はあるまい』

 竜はちらりとカタリナへ視線を投げかけると、フェアリーへと向き直ってそう言った。
 その様子からカタリナは、どうにも自分が殆ど相手にされていない様子であるを察して大変に不服に感じる。が、しかしてそんな事もあろうかとフェアリーに同行してもらったのは矢張り己の賢い選択であったと思い直した。更には相手が人語を解し操ることができることは正に僥倖であると判断し、カタリナも負けじと一歩前に出る。

「私はロアーヌの騎士、カタリナ=ラウランと申します。貴方が・・・ドーラの子グゥエイン、ですね」
『・・・如何にも。我が母はドーラであり、我こそがグゥエインだ。人間よ、妖精族を連れ、一体ここに何をしに来た。まさかその矮小な体一つでこのグゥエインを討伐し、我が財宝を奪いにでも来たか?』

 まるでせせら嗤うかのように口角を震わせながら、グゥエインが言葉を発する。その言葉と共にグゥエインから発せられる圧が目に見えるように上昇し、思わず体が勝手に臨戦体勢に移行しようとする。それを理性で懸命に抑え付け、カタリナは首を横に振って見せた。

「いいえ、そのような用件ではありません。私は、かつて聖王様が辿ってきたであろう道を歩み、貴方と話をする為にここまで来ました」
『・・・聖王。我が母を滅せし者の道を辿ってきたとなれば、矢張り我を滅しに来たということではないのか?』
「わた・・・!・・・いえ、聖王様は・・・決して望んでドーラを滅したわけではありません。ただ・・・今はそのような話をしに来たわけでも、ありません」

 不意に訪れた大きな感情の揺らぎに、思わずカタリナは眉間を摘むようにして頭を押さえる。今までにないほどの記憶の混濁に軽い目眩を覚えながらも、それを振り払うように軽く頭を振ってからカタリナはグゥエインへと向き直った。

「・・・私は今世界に再び訪れている未曾有の危機に対し、この世界に住む者同士として此れを共に乗り越えたいと願い、ここに馳せ参じました」

 言葉と共に自らに敵意がないことを示すかのように両手を広げて見せ、カタリナはグゥエインを見上げながら続ける。

「確かに聖王様は、貴方の母を討ちました。故に私達人間を憎む気持ちがあろうことは、理解しています。そしてまた我々人間も、数多の同胞を貴方に喰いちぎられました。故に我々の中にも貴方を忌む者がいるのも事実です。ですが・・・それでも今この時に於いては、四魔貴族という共通の敵を討ち果たす為、我々は今一度手を取り合う事が出来るのではないかと、私は信じています。どうか、貴方の言葉をお聞かせ願えませんか」

 カタリナの口上を静かに聞いていたグゥエインは、まるで何事もなかったかのように翼の付け根部分を口先で掻き、そしてカタリナに向き直った。

『・・・アビスゲートは開き始めているが、魔貴族自身が通り抜けてくるには小さすぎる。それで奴らは、おのれの影をこの世界に送りこんできている。宿命の子を見つけだし、ゲートを完全に開くつもりだ。そうなれば、ゲートを閉じることは出来なくなる。今のうちということだ』

 グゥエインの語る言葉にカタリナとフェアリーが目を瞬いていると、グゥエインはまるで人が笑うのと同じような仕草で口元を歪め、火炎混じりの息を薄っすらと吐き出した。

『・・・確かに、母ドーラは聖王と共にビューネイを倒した。そして最後には聖王に殺された。人間とは勝手なものだ。だが、それを我は特にどうとも思わぬ。竜と人とは、予めそういう宿命であると我は解している』

 グゥエインが淡々とそう語るのを聴きながら、カタリナは何故だか胸が強く締め付けられるような想いに駆られるのを感じていた。それは果たして聖王の記憶が齎す感情であるのか、それとも自分の心からくるものなのか。その判別は、彼女にはつかない。
 竜は語りを続けた。

『我は四魔貴族共がアビスゲートを開こうとも、貴様ら人間が憎しみに駆られ我を討伐しに来ようとも、何れも一向に構わぬのだ。それもまた、その者たちが持つ宿命なれば。だが・・・この世界の空に君臨するべきは、誇り高き我ら竜。ビューネイが我が物顔でこの空を飛び回るのはガマンならん。協力してやってもいいぞ』

 グゥエインのその言葉にカタリナが目を見開きながら一歩歩み出ようとするが、しかしグゥエインはそれを羽ばたく風圧で制した。

『協力はしてやってもいい。が・・・其れには先ず、貴様が我の協力者足り得るのか、その実力を試させてもらおう』

 ただそれだけ言うと、徐にグゥエインは足元の金貨を撒き散らすように力強く四肢で立ち、その圧倒的な力を示さんが如くカタリナを視線で射抜いた。
 その姿をみたカタリナは、むしろ好都合とばかりにふっと笑みを浮かべたかと思うと、ここまで抱えてきていた荷を脇に下ろして聖剣マスカレイドを抜き放つ。そして隣まで下がってきたフェアリーに控えているように伝えると、グゥエインに正面から対峙した。

「戦うつもりで来たわけではないけれど・・・貴方がそう言うのならば、示さぬ訳にはいかないでしょうね。私が貴方と共に戦うのに相応しいか、判断を願うわ」

 

 

 世界中が新たなる年の幕開けを間近に控えたその日、メッサーナ王国首都ピドナの新市街を見下ろすピドナ王宮内部にて開かれた各国要人を招いての年次会議は、ここ数年で最も波乱を予感させる様相を見せたのであった。
 この会議終了直後には瞬く間に様々な情報筋を通じて世界中に会議の様子が広まっていったのだが、何しろその内容というのは、まさに近年のメッサーナ界隈の政治的な均衡を一気に崩しかねない程のものとなった。
 歴史上三度目の死蝕直後に、現在までで最後のメッサーナ王となるアルバート王が崩御し、そこから十年を超えて今も続いている王国の内乱。その中で、旧アルバート王の系譜にて最大派閥であり五年前にルートヴィッヒ軍に破れる形で没落したはずのクラウディウス家。そのクラウディウス家がなんとこの度、宮廷内の中央政権に復帰するという事実が会議の冒頭で大々的に示されたのだ。
 しかもその当主には、今現在で最も市井の支持を一身に集めている、前近衛軍団長クレメンス=クラウディウスの一人娘であるミューズ=クラウディア=クラウディウスが立つことも同時に会議内で発表された。
 とはいえ、ここまでの内容は遅かれ早かれあり得ることであろうとは、既に世論の一部では囁かれ始めてもいた。
 その背景には、直近でのルートヴィッヒ政権の急激な求心力の低下がある。
 元より武力侵攻を発端とした血生臭い政変によって誕生したルートヴィッヒ政権は、リブロフ以外の殆どの各都市軍団長からその存在を受け入れられてはいなかった。しかしピドナの実効支配直後から彼が行ってきた中央集権を強固とするための様々な駆け引きや政策に他軍団長は個別に対抗する術を持たず、かといって横の繋がりも希薄な彼らは結局のところ、この五年間真綿で首を絞められ続けてきたのだ。
 それが、数ヶ月前に起こった神王教団ピドナ支部崩壊事件を発端とするルートヴィッヒ政権への不信感の上昇で、急に風向きが変わった。
 奇しくもこの事件の半年ほど前から、ピドナの名門メッサーナベント家が出資し旧クラウディウス商会所属の企業群を母体とした「カタリナカンパニー」の経済界台頭が大きく世界に報じられており、大規模な商いを行う貴族の間では事件による現政権への不信感の上昇と相まって、クラウディウスの系列が何かしらの形で復活するのではないか、とは実しやかに囁かれていたのであった。
 そして二月ほど前に起きた商都ヤーマスでのドフォーレ商会壊滅事件にて、いよいよ満を持してクラウディウス家の直系ミューズが大々的に事件解決の立役者として表舞台に立ち、これも瞬く間に世界に報じられた。
 これによりクラウディウスの復活を望む世論は、一気に過熱膨張していったのだ。
 故にクラウディウス家の政界復帰ということ自体は、ある意味で世間が望んだ通りの展開であるとも言える。
 問題なのは、復帰と共に示された今後の動きについてだった。
 曰く。

『クラウディウス家はルートヴィッヒ軍団長と歩みを共にし、今世界に訪れようとしている危機にメッサーナの総力を上げ立ち向かう所存』

 このように、会議で発表が為されたのである。
 これには各国の要人等も大きく驚愕した。これでは、まんまとクラウディウスがルートヴィッヒに飲み込まれただけの形になってしまったからだ。
 世論が待ち望んだ革命は為されず、ルートヴィッヒ一強体制が更に強化されるだけだと言うことになる。
 誰もが、そう感じた。
 だがこの事態を一層混迷極めさせる内容が、クラウディウス復活に伴っての具体的な今後の活動についてだった。
 先ず告知されたのは、復帰に伴う旧クラウディウス家領地の返還と、そして故クレメンス卿の名誉復活を意図としたであろう記念碑の市内建築。ここ迄は単にクラウディウスに気を回したかのような内容だったが、その後に行われた宮廷の活動方針説明を中心的に語ったのは、なんとルートヴィッヒではなく、ミューズだった。
 彼女の口から発表されたのは、現在ピドナの東方に位置する同盟国家ロアーヌ侯国にて展開されている、推定四魔貴族軍とロアーヌ軍の戦線への経済的支援の即時実施だった。
 これは現在の国際世論にとって最も取り扱いの難しい話題であり、迂闊にこれに触ることは一国の立場ですら、ある種のタブーであるというような空気感で扱われていた。
 なにしろ昨今のアビス勢力による蹂躙は、世界の予測を超えて多岐にわたり大きな被害をもたらしているのだ。そんな話題に対し今世間で最も求心力のあるミューズが力強く宣言した内容は、正に「アビス勢力への徹底抗戦」であった。
 この宣言には、大きな響めきが会議全体を支配した。
 そして次には、ミューズに対する抗議の声でその場は溢れかえったのだ。
 世界最大の王国メッサーナがアビスへの交戦意思を見せるとなれば、これに対するアビスからの報復は文字通り全世界に波及するとして間違いないだろう。そのような世界が確実に流血を伴う決議を正式なコングレスなく突如として宣言した新参のミューズに対し、その場に参加していた面々は当然のように声を荒げた。
 だが、その直後に発せられたミューズの言葉に、その場の全員は押し黙らざるを得なかった。

「認識してください。既に、この世界はアビスによる攻撃に晒されています。これは最早、他人事ではないのです。例えば私が立ち会ったドフォーレの事件は、魔物が既に都市部の人々の暮らしにまで入り込んでいた証拠に他なりません。また、ロアーヌが狙われたのは現戦線が初めてではなく、年始にあったゴドウィンの変自体がアビスの手のものが黒幕となり、裏で糸を引いていたものでした。更に言うならば、ピドナにて春先に起きた『予兆』。これこそ皆様も聞き及んでいるはずです。私はこの予兆に、間近で立ち会いました。その時に現れた悍ましきアビスの魔物は、四魔貴族の復活を明確に示唆しました。そして先月・・・ついに本格的な魔貴族の侵攻が、西の都市、バンガードで起こったのです」

 そうしてミューズがその場に出したのは、魔術師が写したと思しき一枚の写真だった。
 そこには、大地が強引に引き裂かれたかのような様相で険しく切り立った崖と、その先の海面に浮かぶ巨大なバンガードの全景が映し出されていた。
 陸続きのバンガードしか知らぬ彼らの常識の中には一切ない、まるで天変地異でも起こったかのような異様な光景を映し出すその写真を見て大いに響めく面々を前に、ミューズは再度声を張り上げた。

「私には、勝算があります。既に聞き及んでいる方も中にはいるかも知れませんが、四魔貴族のうち、二柱をアビスへと追い返すことに我々は成功しています。バンガードを襲った魔海侯フォルネウスの討伐には、私も同行しました。この写真は、その時に起動した聖王様の作りし伝説の移動要塞バンガードのものです。そして今、魔貴族の二柱をその手で退けた英傑が、ロアーヌ南東のタフターンに巣食うとされる魔龍公ビューネイの討伐に向かっています。ロアーヌの戦線は、それが成し遂げられるまで持たせればいいのです。またロアーヌの復興を迅速に補助することで、我々には一切の隙なしとアビスに知らしめ、二次被害の拡大を防ぐこともできます。既に戦は、始まっているのです。いつどの国が巻き込まれても、おかしくないのです。ならば一刻も早く終わらせねば、被害は拡大するだけ。どうか各国の英知と勇気の、一致団結を」

 その会議に集まった参加者の一人は、後にこの時のミューズの姿についてこう語ったという。

『他の参加者に比べ年端も行かぬ娘でしかないはずのミューズ殿だが、しかし皆を導かんと力強く声を上げるその姿は、はっきりと往年のクレメンス卿を感じさせた。その場の誰もが彼女の言葉に耳を傾けその言葉を受け入れたのは、決して後ろに控えていたルートヴィッヒ卿の影響というだけではないだろう』

 彼の言葉の示した通りに、ミューズの力強い言葉を以ってその場の全員の意思は固まった。魔物の被害は既に各国間の流通にも大きく被害を与えており、遅かれ早かれ手を打たねば国が衰退することは誰もが感じていたところではあったのだ。
 この後は、大まかな今後の行動計画が示された。まず今回の作戦で実際に物資の収集や運搬等の実務を行うのはカタリナカンパニーが中心となって担い、財源や物資は近衛軍団が主に現在備蓄から提供する。なのでこの場に集まった各国代表には、これに関わるオーダーがあった際の優先的な物資融資をお願いしたい、という程度に留められ、それには反対するものはいなかった。
 そして、ここで殊更大きく世間を驚かせたのは、その財源や物資の出どころと共に、カタリナカンパニーがその存在感を大きく世界に知らしめた要因でもある『フルブライト商会同盟』の破棄をその場で宣言した事だった。
 ここに関してはカンパニーを代表して会議に出席していたトーマス=ベント副社長が議中で言及しており、世界経済の一致団結をする上で最も合理的な選択が取引の限定化を招く同盟からの独立であり、これにより同盟に囚われない多方面との連携や取引が可能となる、とのことだった。
 また同盟の破棄により特段カンパニーがピドナ王宮と密接につながる訳ではない、との見解も同時に示した。これは、どこか一部との密接な関わりこそが経済の停滞を招くのだ、というトーマスの主張を殊更に強調させる格好となった。
 更には同様の事態が今後も起こることを想定し各国各地からの多方向即時支援を可能とするため、来期に施行予定であった鉄鋼類への特定品目追徴拡大(作者注:第四章参照)の無期限見送り・・・つまり、実質的な廃止が発表された。
 この知らせには主に各地の軍団長が大いに響めき、そして大いに歓迎した。近年において最も各国軍が殺気立っていた主たる原因となる制度の施政破棄が示されたことで、殊更軍団長等はこの結果を導いたミューズに称賛を送り、勇み喜んでの協力を申し出ることとなる。

 例年であればこの会議以降は連日の宴が催されるのが通例であるものの、今回に至っては世界的な有事とのことで、不安を与えぬよう市街地でのみ通常開催とし宮廷内では明日以降の宴席は控えるように通達がなされ、本会議は解散となった。
 即座に会議での内容を行動に移すとし他国参加者に先んじて一人慌ただしくその場を後にしたトーマスは、そのまま誰と接触することもなく真っ直ぐに早足で宮廷を後にした。
 そして丁度入り口の門を潜り出たところで、衛兵と世間話をするようにしながらその場に待っていたポールと合流する。
 そしてそのまま何気ない様子で会話を交わしながら少し離れて衛兵と距離を取ったところで、トーマスは視線を鋭くしてポールに語りかける。

「・・・参加者は事前情報通り、十七人だ。名簿通りだね」
「了解。んじゃあこっちはこっちで始めるとしますかね」
「ああ、頼むよ。俺もロアーヌへの諸々支援手続きが終わったら直ぐそちらに合流する」
「畏まり。それまでに何かしらは掴んでおきますぜ、副社長」

 短く、互いにそれだけの会話を交わす。するとポールは曲がり角を曲がって衛兵から姿が見えなくなったところで、するりと路地裏に姿を消してしまった。
 それを横目に見届けたトーマスは、ふと立ち止まって宮廷の方へと振り返る。
 宮廷内に残ったミューズと護衛のシャールは、これから各国要人らと軽く懇親会が催されるのでそれに参加する予定だ。流石に一介の商売人でしかない自分がその場に居合わせるわけにも行かないので、そこでの首尾は彼女に任せるしかない。
 だが、先ほどの会議での発言の様子を見ている限り、問題はないだろうとトーマスは踏んでいた。

(年の始め頃に旧市街でお会いした時は病弱さも手伝い、まさに『深窓の令嬢』といった様子だったが・・・。この一年で彼女も、五年・・・いや、六年前の呪縛から解き放たれ、その身に背負った宿命と向き合うことで急激な成長を促されたようだ。おじいさまの言いつけがこれで果たされたのかはまだ決まったわけではないだろうが、一先ず心配はないようだな。まぁ、とは言え相手はあのルートヴィッヒ軍団長だ・・・あの方はどうも、計り知れないほどの何かを感じる。油断はせずにいかないとな・・・)

 一頻り物思いに耽った後、トーマスは気を取り直して商業地区へと姿勢を向け、深呼吸をする。この後は、彼も寝る間も惜しんで各種物資の調達計画と即実行へ向けた調整を行わなければならない。相応の気合を入れねば、対処できない物量だろう。

「さて、集中しないとな。ここからまた暫くは慌ただしくなりそうだ」

 そう自分を奮い立たせるように言い聞かせると、急ぎ足で歩き始めた。

 

 

 温暖な気候のトゥイク半島東岸に位置し、南西に広がる密林からもたらされる豊かな実りや南東のナジュ砂漠との交易を中心に栄える、交易都市リブロフ。
 多彩な気候特性からなる様々な特産品と共に西のウィルミントンにも負けず劣らず芸術文化発信地としての顔も持つこの都市では、今や世界三大商家にも数えられるラザイエフ商会を筆頭に様々な企業が集まり、またピドナのルートヴィッヒ軍団長とも比較的良好な関係値を築く事で堅実な成長を遂げていた。

(・・・全く、ここは相変わらず呑気なものだな)

 実に十年近くぶりにこの都市の土を踏んだハリードは、自身の記憶にある十年前と殆ど変わらずの豊かな街並みを『呑気』と表現しつつ、どこか冷めた目で見回していた。

(ここも、本当はあまり来たくない場所だったがなぁ・・・)

 そんな事を自身こそ呑気に思いながら、とても見覚えのある道を歩く。
 リブロフの港に降り立ったと思えば早速情報収集に向かうと言い出したエレンと合流場所の宿だけ決めて別れたハリードは、どうしたものかと思案した後に、特に自分にはすることなどないのだということに思い至り軽い絶望を味わい、そして当てもなく歩き出したのだった。
 しかし、それがかえって良くなかった。
 こうして当てもなくゆっくりと歩き出すと、その視界に入ってくる様々なものが、彼の脳裏に眠っていた多くの過去の光景を呼び覚ますのである。
 彼にとってこのリブロフという街は、それほどに思い出が、ありすぎるのだ。
 なにしろハリードという男は、このリブロフという街に、まだ十代の若かりし頃から頻繁に通い詰めたものだった。
 ゲッシア王朝の王族の一人として生を受けたハリードは若き日の頃、有り体にいってしまえば旧態依然とした王朝の様相に、言いようのない窮屈さを感じていた。
 勘違いはしないでほしいが、彼は自身の生まれや待遇に不満があったことなどは全くなかった。
 王位継承権は下位ながらもゲッシア王族としての宮殿暮らしには一切の不自由もなく、その身近には心から愛するファティーマ姫がおり、また建国の英雄アル=アワドに憧れて始めた剣の修行も、とてもやり甲斐がある。
 つまるところ、彼はとても充実した生活を送っていたのだ。
 だがその一方で、歴史を見返せば見返すほどに建国からこの三百年の間に大きな変化のないゲッシアの日常は、若く好奇心に溢れた彼を十分に満足させるには至らなかったのも事実だった。
 そうして必然的に彼は外の世界に強い興味を持ち、当時の数少ない貿易相手である隣国リブロフへ、何かと理由をつけては出向くようになっていた。
 当時すでに貿易都市として世界的に名が知れていたリブロフでは、ピドナほどではないにせよ実に多くの文化の流通があった。それらの多くはゲッシア内部に流入してくることはなく、故国の中にいては知ることができないものばかりで、そして彼の興味を大いに引き立てるものばかりだったのだ。故に彼は自分の好奇心を大いに満たすことにすっかり夢中となり、リブロフへと足繁く通った。

(・・・彼奴に会ったのも、その時だった)

 そうして何度もリブロフへと出向いている最中で、ハリードはある時、一人の青年騎士と出会った。
 青年はルートヴィッヒという名前で、年も自分と近いこともあり、お互い直ぐに意気投合をした。
 騎士ルートヴィッヒは地元のリブロフ軍団に所属しており、元は騎士の家柄というわけでもないところから一念発起し、軍に志願したのだという。もう既にその時点で、人が生きる道の全てが生まれや血筋で決まるゲッシアからすれば考えられないような世界であり、そのような可能性に溢れる外界への興味は加速度的に増していった。

(・・・あの頃はルートヴィッヒと毎日のようにこのリブロフ中を駆け回ったものだ。彼奴をゲッシア宮殿に招いた時も、宮殿内の保守派の爺様達には随分と苦い顔をされたものだったな)

 単なる部外者を宮殿内に立ち入らせることなど、ゲッシアの常識には全く有り得ないことであった。
 故に一見そのようなことは全くの不可能のようにも思えたものだが、意地になって諦めきれなかったハリードはなんと王朝のそれまでの歴史を隈なく調べ上げ、その中で遂に類似の過去の事例を発見し、ルートヴィッヒと『義兄弟の契り』を結ぶことで半強制的に身内とし、彼の宮殿内への出入りを可能とした。
 宮殿内でルートヴィッヒはハリードの予想通りファティーマ姫とも直ぐに意気投合し、王宮ではよく三人で行動を共にしたものだった。
 あの頃はそう、彼の人生の中で、最も充実していた瞬間だったのかも知れない。

(・・・くだらん)

 いくつもの街の光景から思い起こされる様々な望郷の念を振り払うようにしながら、しかしハリードはそれでも自然と彼の知る場所へと足を向けてしまう。彼の体が、彼の向かう場所を覚えているのだ。
 中央の大通りを城門のある南に下り、突き当たったところを大街道へ続く城門がある西方面とは反対の南東に向かって伸びる小道に入り、道の両側にうず高く積み上げられた色とりどりの煉瓦で作られた細く緩い階段を下っていく。
 世間的にはかなりの高身長であるハリードであっても空しか見えないその階段道を暫く下っていくと、やがて突如として視界が開け、開放感のある小さな展望広場にたどり着く。
 そこは切り立った小さな崖に作られた場所で、晴れた日にはそこから南東のアクバー峠を一望できる隠れた絶景の名所なのだ。
 その展望広場には、シェヘラザーデという名の小さな店がある。そこはナジュの血を引く女主人が切り盛りする酒家で、彼女の語る古いナジュ地方の物語を夜毎客が杯を傾けながら静かに聞き入る、これも地元ではひっそりと名の知れた場所だ。
 彼がここに通い詰めたのも十年以上も前のことだが、こうして無意識のうちに足を向けると矢張りそこには、その馴染みの店が十年前と変わらぬ姿のままあった。在りし日から変わらぬ懐かしい光景にハリードは思わずうっすらと笑みを浮かべながら、カランと鈴の音を立てて店の戸をくぐる。
 ナジュ名産の織物を基調として作られた六席程度の小さなカウンターと二人掛けのテーブル席が二つほどあるだけの小ぢんまりとした店内の様子も、カウンターの中でゆっくりと水煙草を蒸している女主人の有様も、その水煙草独特の心地よい香りで満たされた店内も、まるで十年前そのままだ。
 思わずハリードは、ここは時が止まっているのではないかと勘違いをしてしまうところだった。
 店内にはカウンター席に客が一人いるだけで、他には女主人だけ。まず女主人と視線が絡み、彼女はハリードのことを見ると、ほんの少しだけ視線を細めた。その瞳は怪訝な様子のそれではなく、どこか愛おしみ、慈しむような光を奥に宿している。
 そして次に、他の来店客が物珍しげでもあるかの様子でカウンターから此方へと視線を遣した客の男が、ハリードの顔を見たことで見る見るうちに驚きの表情へと変わり、遂にはガタリと席から立ち上がった。
 そして驚いた表情を崩さずそのままに、大きく口を開く。

「ハリード様!」

 男は、これまた特徴的な砂漠の民の格好をしていた。年の頃は五十あたりに差し掛かろうかというところか。その顔に深く刻まれた皺が、強烈な日差しの中で生きる砂漠民特有の年輪を感じさせた。
 そして何よりその男の顔を見た瞬間に、ハリードも思わず破顔する。
 彼は、まだゲッシア王朝が存在していた時に宮殿によく出入りしていた、王国のお抱え商人だったのだ。十年の時が過ぎたことで多少は老け込んだようにも見えるが、それでもこの顔は忘れない。何しろハリードが外の世界に興味を持つきっかけを与えてくれたのは、彼が宮殿内に齎す様々な異国の品だったからだ。

「おお、久しぶりだな。元気にしているか?」
「はい。ハリード様もお元気そうで何よりです」

 そのままハリードもカウンター席へと腰掛けると、女主人は無言で彼の前に木製の杯を出し、陶器に入った酒と水を順番に注ぐ。すると単体では透明だった酒が水と混ざることで白濁し、独特の色合いを示す。
 これはアラックと呼ばれるナジュ地方で古くから作られる蒸留酒で、この店には基本的にこのアラックしか酒は置いていない。最も、このアラックにもしっかりと等級があり、この店で出されるアラックは品質が良い。均等な白濁は、品質の良いアラックでしか見られないのである。
 続いて突き出されるメゼと呼ばれる前菜も、この店ではおなじみのくるみと唐辛子のペーストだ。思えばハリードはこれにどハマりして、足繁くここに通い始めたのだった。
 この店は、本当に十年前となにも変わっていないのだなとハリードは思う。そうして杯を傾けメゼを摘み、久しぶりに再開した商人の男とこの十年のことなどを語り合った。
 そうして幾度か杯を空にしたところで、ふと会話が途切れたところに男は、思い出したかのようにハリードに語りかけた。

「そういえばハリード様、ファティーマ様が生きているという噂をご存じですか?」
「・・・!?」

 突然のその言葉に、ハリードは思わず杯を傾ける手を止めて目を見開く。そして、直ぐにそのような反応をした己を蔑むように口の端を吊り上げて笑い、杯の中身を一気に飲み干す。

「噂ではファティーマ様が諸王の都にいるというのです。ハリード様は諸王の都の場所をご存じのはず。もしも、噂が本当なら・・・」

 続いて発せられた男のその言葉を聞いて、ハリードはもう一度口の端を吊り上げ、もう一杯を女主人に催促する仕草をしながら男に語り返した。

「あそこは生きている者の行く所ではない。ただの噂だ」

 諸王の都とは、ゲッシアの英雄アル=アワドを初代とした歴々の王族たちの眠る、神聖なるゲッシア王族の墓所・・・所謂ネクロポリスだ。歴代の王が愛用した多くの品々なども共に眠ることから盗掘の被害を警戒し、その場所はゲッシア宮殿のなかでも直系の王族と、王族に近しい極一部のものしか場所を知らない。
 ハリードは王族故に確かにその場所を知ってはいるが、しかしナジュ砂漠の中心地である旧ゲッシア王朝首都にして現在は神王の塔が立つハマール湖の辺りからある特定の時間帯の陽の光を目標に出発することで導かれる諸王の都には、その過酷さから相応の準備をせねば辿り着くことが抑も困難を極める上に、その近くには真面な水源もなく、辿り着いても帰ることがまた困難なのだ。
 それでもそこにゲッシアの王族が命がけで向かうのは、同じく王族の誰かが没し、その身を埋葬する時のみ。
 文字通り、生きている者のいく所ではないのだ。
 それを知っているからこそ、ハリードは目の前の男の話を笑い飛ばす。だが目の前の男も歳のせいか涙脆くなっているようで、昔の話をしてはその栄華を懐かしみ、今はもう無き故郷を思って瞳を潤ませる。そして、一頻り話した後に男は、こういうのだった。

「仮に居ないのならばそれはそれ。ですがこの噂を確かめられるのも、今はもうハリード様だけなのです。ぜひ、諸王の都へ!」
「全く、酔いすぎだぞ。昔よりも酒が弱くなったのではないか?」

 ハリードはどうやら同じ話を繰り返すようになってきた男を宥める様にしながら、自分の杯の中身を飲み干して女主人に勘定を渡した。

「すまないな、今日は王妃の昔語りを聞くほど時間がない。連れがいるものでな。また寄らせてもらおう」

 女主人にそういってから男にも別れの挨拶をし、懐かしの店を後にする。
 外に出ると、もうすっかり陽が落ちていた。どうやらそれなりの時間、この店に居た様だ。
 展望広場で軽く風に当たると、直ぐにきた道を戻って中央通りへ向かう。
 それなりの時間シェヘラザーデに居たので酒の量もそこそこ飲んだはずなのだが、どういうわけか全く酔えないでいる。それもこれも、きっと商人の男がつまらない話をするからだ。

「姫が‥‥生きている‥‥」

 ハリードは自分でも気付かぬ間の無意識にそう呟き、次にはそんなことを言ったことすら忘れた様子で、あとは無言で道を戻っていった。

 やがてどの程度の時間を歩いていたのかも定かではないうちに、気がつけば彼は本日の宿泊場所であるホテルリブロフへと辿り着いていた。ちなみにこのリブロフには同じ名前の宿が何箇所かあるのだが、その中でもハリードが選んだのは最も質素な、あわや民家かと思うほどの規模のものである。
 そしてその宿の入り口の前では、これ以上にないほど分かりやすく憤慨の表情を浮かべたエレンが仁王立ちしながら、歩いてきたハリードを睨みつけていたのだ。

「ちょっと!随分と遅かったじゃないの!」
「ん、ああ、すまんな」

 時間の感覚があまり無かったのかハリードはそんなに悪いとも思っていない様子で、一言そう言った。それは普段ならばたっぷりとエレンの怒りの火に油を注ぐ言動のはずだが、しかしどうしたことかエレンは額に青筋を立ててはいるものの、それ以上の追求をする様子はなかった。
 その代わりエレンはつかつかとハリードの前まで歩み寄ると、至近距離からハリードの顔を見上げる。
 そして、唐突にこう言い放つのであった。

「ハリード、あたしをあんたの故郷まで連れていって。嫌とは言わせないわ」

 

 

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