第十章・8 -聖王の宿命-

 

「あぁ・・・アレックス。懐かしい響きです。えぇ確かに彼は、アレックスでした」

 ここではない遥か彼方を見つめるように目を細めて微笑みながら、詩人は時折小さく頷きつつ独り言ちた。

「聖王様は、アレックスという御名だったの・・・?」

 カタリナが頭上に疑問符を踊らせながら眉を顰めると、詩人はゆっくりと首を横に振りながら微笑んだ。

「いいえ、アウレリウスです。彼は元々別の名前でしたが、後年アウレリウスへと名を改めたのです。アレックスというのは、そうなる前の愛称です」

 詩人の言葉に、しかしカタリナはまだ潜めた眉を崩さない。

「・・・では、貴方がいう少女の名前は・・・?」
「勿論、アウレリウスです。一般的には男性名称ですが、当時の北方地域では女児にも男性名称を名付けるのは、特段珍しいことではありませんでした。少女の両親が娘の運命を憂い、その宿命に抗うような力強い名前をつけたかったのかもしれませんね。少女は皆に、アーリと呼ばれていました」

 詩人が続ける。
 アーリと呼ばれた少女は強く美しく成長し、宿命に目覚めて死の魅惑を退け、四魔貴族征伐という人類史に残る偉業を成し遂げた。
 その後少女は各地の要人をピドナ暫定政府に集め、一ヶ月以上にも及ぶコングレスを経て、今も西方諸国に受け継がれる様々な律を定めた。

「このコングレスの最も重大な議題は、後の世に再び起こる死蝕に人類が対抗するための知恵の継承について、でした。現代に伝わる全ての律は、そのために定められたのです。そしてその集大成こそが、聖王記。これは制作発案者であるパウルスを筆頭に、即座に編纂が開始されました」

 この時の定めによって聖王三傑の一人であるパウルスがメッサーナ王国の初代国王となり、同じく三傑に数えられたフェルディナントは妻ヒルダと共にヨルド海を渡り、古ロアーヌの地を切り開き、そこに国を建てた。
 三傑の最後の一人ヴァッサールは後年に向けた魔術士育成を目的にモウゼスにて魔術ギルドの立ち上げを行い、そこを終生の地とした。

「ちなみに称号としての聖王、三傑、十二将というのも、コングレスで定められました。まるで最初からそう名乗っていたみたいに聖王記には書かれていますが、勿論そんなことはないです。あくまで、後世に諸々を伝えるための脚色要素ですね。あ、一応私も十二将の一人という設定なんですよ。どこにも名前は出てないシークレット枠ですけどね」
「最後のは今日いち興味ない話題だわ」

 数十年の時間をかけ文字と詩で世界中に広まっていった聖王記は、狙い通り聖王という存在を神格化させていった。各地に散らばる聖王十二将やそれに連なる者たちの活動により方々に教会施設が建ち、そこで数々の逸話を教えられた親子が子守唄や遊び唄代わりに聖王記の英雄譚を口遊む。
 そうして世界は、三百年にも及ぶ平穏の時代を築き上げつつ、次の死蝕へと備えてきたのである。

「元々、聖王という象徴的存在に性別を付与する想定はありませんでした。ですが四魔貴族討伐の一年後に巨竜ドーラを討った時、方針が変わったのです」

 魔龍公ビューネイ去し後、空を支配したのはドーラであった。ドーラはアーリの再三の諌めも聞かず、人里を襲い略奪を繰り返した。
 ドーラを討つのは、アーリの定め。アーリはループを登り、ドーラと対峙し、そして征伐を果たした。

「伝記ほどドラマチックなことはなく、ただただ虚しさの残る出来事でした。アーリは望まぬ戦いに挑み、喪失感と勝利を得た。そして彼女はこの時、ついに考えてしまったのです。ドーラは、この戦いを竜の宿命と言った。では・・・宿命の子である自分の宿命とは、一体なんなのだろうか、とね」

 第二の宿命の子が背負う宿命とは果たして、四魔貴族を討ち、その先に戦友であるドーラをも征伐する、というものであったのだろうか。

「それは否。断じて否。アーリは、怒りでも願望でもなく、静かに確信していました。自らの宿命は、ここが終着地ではない、と。自身の真なる宿命とは、この先にこそあるはずだ、と」
「聖王様の・・・真なる宿命・・・」

 そんな事は、全く考えたことがなかった。
 カタリナはそう思い、無意識に解けていた腕をゆっくりと組み直す。
 聖王は、四魔貴族を征伐した。だがそれは言わば、最初の宿命の子である魔王の後始末をした、という事にすぎない。それをするのが「宿命の子」なのだ、と言われればそれまでなのだが、しかし魔王と対比すると、聖王のここまでの役割は規模が限定的である。

「アーリは、もう一度旅立つ決意をしました。己の宿命が導く先へと、進むために。この旅立ちは三傑を含めた極一部の面子のみに伝えられ、そして聖王記に若干の変更が加えられました」
「・・・その結果、男性を彷彿とさせる聖王像が作られた、ということね。でもそれって、本来の聖王様であるアーリ様と異なる特徴を敢えて付加した、ってわけよね。となるとその意図って、聖王像とアーリ様を引き離すこと・・・のように見えるけど」

 カタリナが考える時の癖で下唇に指を添えながら言うと、詩人は「然り」と言いながら頷いた。

「意図はまさしくその通りで、これには大きく二つの理由があります。一つは、アーリという一人の人間を自由にするため。これまでの彼女の世界に対する献身に最大限の感謝を示し、以後その身を世界に浪費させない。そのために彼女とは似ても似つかぬ、異なる聖王を作り上げたのです。そして、もう一つは・・・」

 もう一つの理由とは即ち、アーリの宿命は間違いなくアビスに関わるものである、と結論付けたから。
 魔王はなぜアビスを、死の星を目指したのか。
 その謎に向き合うところから、アーリの本当の旅が始まる。となれば必ずその道の先には、アビスがある。アーリは旅の中で必ず、深淵を目指すことになるのだ。
 それは第三者から見れば、魔王の軌跡を辿る行為に他ならない、ともいえる。

「・・・その結果としてアーリ様がもし世間から非難されたとて、聖王という偶像に影響は及ばせない。その対策として・・・ということね。分かるけど・・・ちょっと不敬だわ」
「ふふふ、そうですね。でも聖王記を纏めたパウルスというのは、そういう男でした。それにパウルスは、全ての可能性を見据えていました。即ち・・・アーリが己の宿命に向き合った先で、第二の魔王と化す可能性すらも。こればっかりはパウルスも、フェルには最後まで言ってませんでしたけどね」
「えぇ・・・」

 メッサーナ王国の初代国王にして、三百年後にまで伝えられる様々な革新的制度の確立により賢王とも称される、聖王十二将パウルス。
 他国の歴史にさほど興味がないカタリナであっても様々な逸話を知る伝記上の偉人は、思いの外冷徹な人物だったようだ。

「んーまぁ、確かに冷徹でもありましたけどね。でも彼って、ロマンチストでしたよ。凡ゆる可能性を見据えつつも、自らが望む結末はちゃんと持っていて、そこに向かうための準備や仕込みは内心嬉々としてやるんです。聖王記なんてほんと、大部分が彼の創作活動みたいなものじゃないですかね?」
「いやもうキャラわかんないわよ」

 まるで旧知の知人を語るような口ぶりの詩人に、カタリナはついていけないという風に肩を竦めた。
 いや、実際に伝記上の偉人たちと旅をしたという彼にとっては、もはや懐かしい友人のことを語っているに等しいのだろう。
 詩人は続ける。

「とまぁ、こうして本来の聖王たるアーリとは別の聖王が作られることとなったのです。そして実際に聖王記を広めるための仕込みとして、男性の聖王を用意することになりました。そこで立ったのがパウルスの良き部下、アレックスでした。彼は名をアウレリウスへ改め、幾つかの場面では実際に聖王として民の前でも振る舞いました」
「その一つが、指輪の記憶というわけね。でもあのお方・・・アレックス様は、本当に聖王様そのものに見えたわ」

 記憶の中に立っていたアレックスという人は、まさしく聖王記から思い描く聖王様そのもので、あの時はまさか代役であろうとは露ほども思わなかった。

「ふふ、アレックスが聞いたら喜びますよ。彼、筋金入りのアーリファンでしたからね。勿論、彼は聖王を演じるに相応しい実力も備える人物でした。なんなら彼が宿命の子だったとしても、違和感はなかったかもしれません。そういう意味では、三百年前にも宿命の子は二人いた、と言えるのかもしれませんね」

 彼は己の全てをアウレリウスへと書き換え、人類の象徴として十数年の活動を行い、最後はランスで余生を過ごしたという。
 今ランスにある聖王家もアレックスの血筋であるそうで、全くそこは徹底されているようだ。
 傑物が傑物を呼ぶ、ということなのだろう。少なくともカタリナが見たあの姿は聖王そのものとして疑うべくもなかった。あれ程の空気を纏う人が、聖王アウレリウスの周囲には何人もいたのだろう。
 ここまでの話だけでも、既知の歴史観が、文字通り根底から覆ってしまいそうなものばかりだ。

「ふふふ、歴史とは結局、勝者の物語でしかありませんからね。その時に歴史を動かす者たちによって、都合よく作られるものです」
「歴史は勝者の物語・・・か。言い得て妙ね」

 「聖王」という重すぎる役割を引き受けたアレックスという人物についてや、詩人の知る聖王十二将のことなど、今のカタリナには聞きたいことはそれこそ山ほどある。
 だがなによりまず聞かねばならないことは、明確だ。

「・・・アーリ様のその後の旅は、どのようなものだったの?」

 カタリナがそう問いかけると、詩人は意味深げに笑みを浮かべ、立ち上がった。
 すると二人を取り巻く景色は、無機質な石作りの部屋へと変わっていく。
 それは、二人が元いた場所だった。

「先ほど言った通り、自らの宿命とは何なのかを明らかにすべく、旅をしました。数年に及んだその旅の先で彼女は遂に、己が宿命を知るに至ったのです」

 詩人は謳うように語りながら石棺へと近づき、再びその上に腰を下ろす。

「・・・ですが、残念ながらその仔細を私は語ることができません。私は彼女の旅に最後まで同行しましたが、彼女が視たというものを私は、視ていないのです」

 詩人がそういうと共に、空間はさらに歪み、移ろっていく。
 気がつけば詩人とカタリナは、星空の中にいた。
 普段地上から見上げる星空の、ずっとずっと先。見渡す限り上下左右、全てが星空。
 それは、かつて王家の指輪に見せられたものと同じ光景だった。

「アーリが視たものは、この世界の真実の一部、だったそうです。我々が住む世界の様相や、死蝕の正体、そして・・・この先に世界を待ち受ける、とある運命の存在」

 見渡す限りの星の海からカタリナは、斜め下へと視線を向ける。
 そこには期待通り、暗い星の海に浮かぶ、青く淡く輝く世界があった。
 アレックスは、あれを自分たちが住む世界だと言っていた。

「私たちの世界が、少し先の未来で迎える運命。アーリは、その運命が如何なるものであるのかと、そしてその運命に自分が立ち会うことはない、ということも同時に理解したそうです」

 それらを知ったあとの彼女は、あまり多くを語らなかったという。
 しかしそれは、語りたくなかったのではなく語れなかったのだろう、と詩人は言った。
 それほど彼女が視たものは、人の理解を遥かに超えた代物だったのだ。

「ただ、これだけは言い切っていました。彼女も魔王も、目指すものはやはり一緒だった。そしてそれは、次に現れる宿命の子にしても同じことだ、と。アーリは望み通り、己が宿命の真実を得たのです」

 真実を得たというアーリは、この点についてあまり感情の起伏を見せることはなかったそうだ。
 喜びも怒りも哀しみも、未来への楽観もなく。ただただこの真実をどのように後世へ伝えるべきか、ということだけを見据えていた様子だったという。

「それから彼女は一度メッサーナへ戻り、後世へと幾つかのメッセージを残しました。アレックスが指輪に残したものも、その一つでしょう」

 気がつけば、周囲の景色は再び玄室へと戻っていた。
 カタリナは改めて、指輪に見せられた記憶を脳裏で思い返す。

「聖王様・・・が残されたあのメッセージ、途中が掠れていてうまく聞こえなかった。見た人全員がそうだったらしいわ。だから結局何を伝えたかったのか、ほとんど私たちにはわかっていない。貴方は、知っているの?」
「いえ、私はその場にいなかったので、それは分かりません。ただ・・・」

 詩人はゆっくりとした足取りで進み、カタリナの前に立った。
 カタリナはその意図を図るように、視線を逸らすことなく詩人を見返す。すると詩人は微かに笑みを浮かべ、懐から小さな白い包みを取り出した。

「アーリからのお願いでしてね。これを渡すべき人物を、私はここで待っていたのです。恐らくこれが、最も彼女が残したかったもののはずです」

 カタリナは無言で、詩人から包みを受け取る。
 なめらかな手触りの包布をそっと開くと、そこに包まれていた中身は、錫製と思われる、小さな髪飾りだった。
 三百年前のものにしては、随分と保存状態がいい。だが、モノ自体はお世辞にも質がいいとは言えない代物で、特別な装飾や紋様が施されたわけでもない、ありふれた様相の髪飾りだ。

「いやぁ、直接手渡すことが出来てよかったですよ。流石に私も、どれだけこの体が持つか不透明でしたからね。なので保険として、多分ずっと生きていそうなレオニード伯爵に、ここの鍵を預けておいたんです。アビスを目指す意思があり、その力を持つものに渡してくれ、とね」
「それで伯爵、私に鍵を渡してきたのね・・・」

 確かに、その役割ならば吸血鬼であり永劫の常闇を生きるレオニード伯爵が相応しかろう。
 しかし少しくらいは説明を添えてくれてもよかっただろうに、と軽い不満を抱きながら、カタリナは改めて手元の髪飾りへと視線を落とす。

「それは、アーリが小さい頃から身につけていたものです。彼女はこれを、運命に立ち会う者へ渡してほしいと、私に託しました」

 言われて、カタリナは手にした髪飾りを再度見つめる。
 少し幼さを感じさせる可愛らしい花モチーフの髪飾りは、確かに女児が身につけていそうな代物だ。
 数多くの英傑を率い、四魔貴族討伐を成し遂げた比肩するものなき英雄。その偉大なる存在もまた、一人の人間だったのだと感じさせる。
 この髪飾りには、例えば聖王の槍や聖剣マスカレイドのような代物に感じる類の力は、なにもない。
 だがこれは間違いなく、世界に二つと存在しない、正真正銘の聖王遺物なのだろう。

「・・・運命に立ち会う者。それが、私だと?」
「そりゃまぁ、そうでしょうね。今この世界で貴女以上に相応しい方は、居ないでしょう。あ、一応私も見届けられるところまではやるつもりですから、暫くご一緒させて頂きますけどね」

 そう言いながら詩人は再び歩き出し、カタリナの脇を通り過ぎて出口へと向かう。

「まだまだ聞きたいことは色々あると思いますが、最初に言った通りここはあんまり長居すると良くないので、一旦外へ出ましょうか」
「?・・・えぇ、分かったわ」

 さらりと旅の同行を宣言してきた詩人に促され、カタリナは眉間に皺を寄せながら詩人の後に続く。
 確かにここは独特の瘴気が渦巻いていて、長居はしたくない。
 そしてまだまだ聞きたいことはたくさんあるのも事実なので、ここを出てからも暫く質問攻めにしてやろう。
 そう思いながら詩人の後に続いて、建物の外に出た。

「・・・・・・?」

 外に出ると、入る前と何かが違うような気がして、カタリナは言いようのない違和感に小首を傾げた。
 先ほどまで身体中にまとわりついていた不気味な瘴気が晴れ、清々しい気分ではある。だが、それだけでは説明のつかない、そんな違和感を感じたのである。
 上空を見上げれば、どうも空模様が先ほどとは少し違うか。
 先刻までは陽の光が差し込むような穏やかな天気ではなかったはずだが、今は良く晴れた青空が広がっている。山の天気は移ろいやすいと聞くが、まさにその通りだな、などと思う。
 いや、しかし感じる違和感は、天気の問題ではないと思えた。
 ふと背後を振り返れば、先ほどまで入っていた建物がある。
 だが、そこには入る前と明確な違いがあった。建物の周辺がなぜか、焼き払われたように焦げ付いている。
 入った時はこんな状態ではなかったはずなので、カタリナは訝しげに目を細めた。
 周囲へ視線を向ける。
 すると、少し離れた湖畔で寝そべっているグゥエインがいた。
 カタリナがそちらへ近づいていくと、それに気付いた様子のグゥエインも気怠げに瞳を開き、少しだけ首を上げた。

『・・・やっと、出てきたか』
「ごめんなさいね、待たせてしまったかしら」

 カタリナは思わず謝りながら、肩を竦める。
 そんなに待たせてしまったつもりはなかったのだが、不思議とグゥエインの声色には確かに、待ちくたびれたぞ、という色が濃く出ているようだったのだ。
 これは、思ったより待たせてしまった感じがする。
 そのカタリナの心の声を聞いたかのように、グゥエインは低く唸ってみせた。

『・・・自覚はないようだな。するとこれは、貴様の仕業か』

 グゥエインは瞳孔を細め、カタリナの後ろにいる詩人を鋭く睨む。
 すると詩人は両手を肩のあたりまで上げながら、敵意がないことを示した。

「あーまぁ、えーっと・・・どちらかというと魔王の仕業、ですかね。これでも、かなり早めに切り上げてきたつもりなんですが」
「・・・?」

 詩人の言っている内容がいまいち理解できず、カタリナは疑問符を浮かべる。
 詩人の言葉を聞きながら不機嫌そうにふしゅるる、と炎混じりの息を吐いたグゥエインは、カタリナへと向き直った。

『一年だ』
「え?」

 グゥエインの言葉にカタリナが全く理解できない様子で反応すると、グゥエインは目を細め、もう一度言った。

『お前がそこに入って、大体一年程度が経った、と言っている』

 グゥエインの言葉を黙って聞き、数秒、その意味を考える。
 そしてカタリナは再度、小首を傾げた。

「・・・・・・は?」

 

 

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第十章・7 -魔王の玄室-

 

 宵闇の国、ポドールイが静寂なる新月の夜(といっても常に暗いので昼夜の区別は曖昧だが)を迎えた頃。
 僅かな星明かりに照らされながら、レオニード城の門前へ雪と共に舞い降りた巨竜を前にして、カタリナは心底呆れたような表情で腕を組みつつ見上げた。

「・・・まさか一日足らずで来るとはね」
『呼んでおいてその言い種とは、我も随分と舐められたものだ。焼き払うぞ』

 随分な出迎えの言葉に応えて口角の隙間から青白い電流を覗かせつつ、巨竜グゥエインが熱り立つ。
 後方から両者を見守る教授は興味津々の様子で竜を観察し、一方ヨハンネスは腰を抜かした様子で雪原にへたり込んでしまっていた。

「つまり貴方、以前私を乗せていた時は速度を調整していたってことね」
『当然だ。人間を背に乗せて全力飛行などしたら、あっという間に吹き飛ぶだろうからな』

 以前ビューネイとの戦いにタフターン山近くまで赴いた時には、大凡二日程度を要した。それでもカタリナはグゥエインの背にしがみつくことが精一杯といったような有様であったから、確かにその倍の速度となれば、為す術なく吹き飛ばされていたであろうことは想像に難くない。

「・・・まぁいいわ。もう体は大丈夫なの?」
『無論だ』

 そう言って翼を広げて見せたグゥエインの巨体は、僅かな傷が残っている様子もない。
 その様子に一先ず安心したカタリナは浅く頷いて微笑みながら、組んでいた腕を解いた。

「ならよかったわ。それで呼び立てた理由なのだけど・・・」
『大方の予想はつく。お前の足では行けぬところへ向かうためであろう』

 カタリナが言い切る前に、グゥエインが口を挟む。
 全く察しのいい相棒に、カタリナは小さく肩をすくめてから、腰のポシェットへと手を伸ばす。そして布に包まれた黒鍵を取り出すと、それを開いてグゥエインに見せてみた。

「この布に、ポドールイを起点にした地図が記してあったわ。目的地はここより更に東・・・見捨てられた地の北方を示しているみたい。何かその辺りに心当たり、ある?」

 差し出された黒鍵と布の匂いを嗅ぐかのように鼻先を近づけて暫し観察していたグゥエインは、もたげていた首を徐に夜空に伸ばし、ゆっくりと東に向けた。

『貴様らが見捨てられた地と呼ぶ場所は、この三百年ずっと、異様な濃さの瘴気に塗れた土地であった。そこに記されている場所は恐らく、最も濃い瘴気の渦巻く場所・・・彼の地の北方にある山脈のあたりだろう。何度かその近辺を通ったことがあるが、空からでもわかる悍ましさであった』
「見捨てられた地の北方の山脈、か・・・。そんなところに一体何が、って言いたいところだけど・・・とにかく行ってみるしかないわね」

 カタリナは自分に納得させるようにそう呟くと、教授とヨハンネスへ振り向く。

「エレン達が聖杯を持って戻ってきたら早速、魔導器製作の着手、よろしくお願いします」
「任せなさい。この私に作れぬものはないわ」
「どこまでプロフェッサーのお手伝いができるかはわかりませんが・・・頑張ります」

 両名の返答を聞いてから軽くお辞儀をすると、カタリナは颯爽とグゥエインの背に乗る。
 なんだかんだカタリナが乗ろうとするのを察して身を屈めてくれるあたり、グゥエインはそこらの奴より実に気遣いのできる竜である。
 グゥエインの背に乗ると、巨龍種が持つ朱鳥の加護がすぐに自分にも伝わってくる。これがないときっと高高度では凍え死んでしまうのだということを体感で知っているカタリナは、ポドールイの寒さも相まって思わずグゥエインの竜鱗を撫でながら安堵の息を吐いた。

「はーあったか・・・」
『我を焚き火か何かと一緒にするな』

 呆れたようにそう呟きながらグゥエインは身を起こし、両翼を雄々しく広げる。それに合わせて周囲の柔らかい雪が舞い上がり、見送る教授らの頬を撫でた。

「じゃあ、行ってきます」

 自分というよりは巨竜が飛び立つ様を観察することに専念している節がある教授に一応手を降り、竜と共に飛び上がる。瞬く間に空高く舞い上がったグゥエインは宵闇に紛れ、東へ進路を取った。

 

 

 見捨てられた地。
 地名というにはあまりにもさもしい名のその地は、現在発行されている世界地図の東の端に広がる、未開の地である。
 いや、未開というのは正確ではないかもしれない。かつてそこには人が住んでいたとされており、今より六百年の昔、魔王によって人が住めぬまでに汚染された地であるからだ。
 その地の北部は、極寒の地。大地は凍てつき、風は凍り、一切の生命を寄せ付けない白銀の地。
 その地の中央部は、腐れし樹海。毒沼と瘴気に塗れた汚染樹林が広がり、その合間には邪悪な魔物が跋扈する醜悪なる腐海。
 その地の南部は、死せる乾きの大地。玄武の恵みを失った砂と岩だけの荒れた地肌が広がる、草ひとつ生えぬ不毛の荒野。
 かの聖王ですら復興を断念したとされるその地は、この六百年の間に人類が手を出してこなかった禁忌の地だ。

「かつて魔王軍が東方へ侵攻した際、見捨てられた地に点在していた諸国は連合軍を組み、天術を用いて魔王軍に対し連戦連勝を重ねたというわ。でもその僅か一年後、魔王自身が戦線に出たことで連合軍はあっさり全滅。東方諸国があったとされる土地がまるごと、瘴気渦巻く死の大地となった・・・というのが聖王記に書かれている概要ね」
『筋書きは知らぬが、死の大地という記述は概ね正しい。幾つか廃墟の類も見た覚えがあるので、それが恐らく滅ぼされた国とやらだろう。しかし・・・』

 地表の観察ができるように比較的低空を飛びながらカタリナの話を聞いていたグゥエインは、飛行しながら怪訝そうに唸った。

『どうにも以前より瘴気が薄い。前はもっと上空でも不快に感じたが、今はこの高さで軽微に感じる程度だ』
「私にはまだ全くわからない・・・竜の感応能力ならではなのかしら。しかし前より瘴気が薄まったというのは、悪いことではないんだろうけれど、気になるわね・・・」

 人類がこの地を六百年の間放置していたのは、まさしくその瘴気が大いに関与していた。
 例えばロアーヌから東に向かう先に広がる腐海は、見捨てられた地の中では最も到達が容易だ。かつて聖王が視察を行ったのも、その辺りだとされている。
 そして聖王は、腐海を覆う瘴気を前に、その地の復興を断念した。腐海の瘴気は、それこそ人が足を踏み入れれば一日と持たず気が触れてしまうほどの濃さであったのだ。

『実際は、北へ向かうほど瘴気の濃度が高くなっていた。この辺りの山岳地帯はその気候以前に、魔物ですら近寄らぬ類の瘴気に覆われていたものだが・・・それが薄まっている』

 グゥエインは眼下に広がる山脈を見下ろしながら、徐々に高度を下げていく。
 山間まで覆うような薄暗く分厚い雲の間をすり抜け、薄暗い山肌を視認できる高さまで降りてくると、間も無くその先には山に囲まれた湖が見えてきた。
 その辺りに来た時、カタリナはふと、自分を呼ぶ声を聞いたような気がした。
 この感覚はここ数年で何度か経験している。間違いなく、聖王遺物が何かに感応した感触だ。

「・・・あの湖の辺り、降ろしてもらえるかしら」

 カタリナに言われる通りにグゥエインは更に降下し、険しい山脈の間にぽつんと置かれたような小さい湖の畔に降り立つ。
 かくしてその湖の畔には、明らかに人工的に作られた石造りの小さな建造物が鎮座していた。
 グゥエインから飛び降りたカタリナが周囲を調べるが、その石造りの建造物以外には何も見当たらない。
 そしてこの建造物には窓らしきものが無く、ただ一つ備え付けられている扉らしきものも、固く閉ざされている様子だった。

「・・・これ、かしらね」
『そのようだな。ここは流石に瘴気が濃い。不快ゆえ、早々に行ってくるがいい』

 グゥエインから実に心のこもった見送りを受けつつ、カタリナは石扉の前に立った。
 見た限りは単なる石壁だが、手で触れてみると、これは単なる石材ではなさそうだということがカタリナにもわかる。なにしろ触れただけで、王家の指輪やブーツなど、身につけている聖王遺物が騒がしいほどに反応を示すのだ。
 これは感覚としては魔王の斧や盾といった、魔王遺物に近い代物に思えた。
 間違いなくここは、魔王に何らか関係のある場所だろう。

(魔王によって汚染された地にある、魔王所縁と思われる建造物か・・・魔王遺物でも眠っているとか・・・?)

 扉と思しき模様が描かれた正面の壁には、小さな鍵穴がある。
 カタリナは懐から黒鍵を取り出し、そのまま鍵穴に差し込んでみた。
 すると黒鍵はカタリナが回すでもなく勝手に動き出し、ガチリ、と開錠を知らせる音を発したかと思うと、役目を終えたかのように呆気なく崩れ去ってしまった。
 そして次の瞬間、石扉が黒鍵と同じようにその役目を終えたように音もなく塵状に崩れ、中へと誘う道が開かれる。
 だが、何らかの術でも施されているのか、外から見る中の様子は全くの暗闇で、一歩先すら見通せない。

「・・・・・・」

 カタリナが慎重にその暗闇へと足を踏み入れると、まるでそれを待っていたかのように建物内に淡い灯りが灯る。
 カタリナは特に驚く様子もなく、歩を進めた。
 するとすぐに一本道は終焉を迎え、この建造物の大部分を占めていると思われる広間に出た。
 何の装飾もない無機質な空間が広がる部屋の奥にあるのは、簡素な台座と、その上に鎮座する石棺に石碑。
 そして、石棺の上に座って静かにこちらを見つめる、一つの人影であった。

「・・・まるで、待っていたとでも言いたげね」

 素早く腰のロングソードに手をかけながら、カタリナが睨む先。
 石棺の上に腰掛けている人物は、彼女の問いかけに応える代わりに、僅かに笑みを作ってみせた。

「当然説明は・・・いや、これまでのことも含め私が納得するまで、全てを洗いざらい話してもらう。いいわね」

 カタリナの怒気に満ちた視線を受けながらなお、湛えた笑みを崩さない人物。
 その者こそは、自らを聖王記詠みと自称する風変わりな格好の詩人であった。

 

パチ、パチ、パチ、パチ、パチ・・・

 無音だった空間に、軽快に手を打つ音が滑稽なほど良く響きわたる。
 その拍手の発生源である詩人を睨みつけながら微動だにしないカタリナをよそに、当の詩人は心底愉快そうに笑みを作りながら、次には両手を広げて歓迎を示すポーズをした。

「やはりここに来たのは、貴女でしたね」

 詩人が言葉を発するとなんだか急に瘴気が濃くなったような気がして、思わずカタリナは軽い吐き気を覚えながら眉間に皺を寄せる。
 詩人はそんなカタリナに対して仰々しく会釈を行い、まるでこの空間を案内するかのようにふわりと腕を左右に広げてみせた。

「よくぞ、ここまで辿り着きましたね。ここは悠久の果てへと想いを馳せ、創造主への叛逆を誓い、飽くなき願望と共に長き眠りについた最初の宿命の子・・・魔王の玄室です。つまり・・・」

 詩人は勿体ぶるように、広げていた方の手をゆっくりと自らの胸元に当て、もう片方の手で特徴的なとんがり帽子を脱ぐ。

「つまり、私の玄室です」
「・・・・・・」

 しばし、カタリナは眉間に皺を寄せたまま、無言で目の前の人物を見つめる。
 まず考えたことは、目の前の男が狂人か否か、ということだった。
 魔王やその生まれ変わりを自称する不逞の輩というのは、不思議なことに一定周期で世の中に現れるものだった。その殆どは魔王信仰宗派の中で教祖を自称する賊の類であり、名乗ってから幾許かの後、民衆を誑かす邪教として近隣の軍団に殲滅させられる運命にあった。
 だが恐らく、目の前の人物はそういった類の狂人ではないだろう。
 そもそも気が触れていようがいまいが、人類がこの場所に辿り着くことは不可能に近い。
 それはここまでグゥエインの背に乗ってきたカタリナだからこそ、よくわかる。
 となると目の前の人物は、高い確率で「人間ではない何か」という事になる。
 では、狂人ではなく魔物か?
 いや、それも異なる。
 魔物や妖魔の類には人と見分けがつかない者も確かに存在する(それこそレオニード伯爵などがその典型だ)が、そういった存在は相対すれば、人と異なる気配を必ず感じるものだ。
 特段、聖王遺物を身に付けているカタリナだからこそ、それに気付かぬことはまずない。
 だが今も過去も、この詩人に対してそういった類の違和感を感じたことはなかった。
 では狂人でも魔物でもなければ、魔王か?
 それは、残念ながら彼女には判断のつかぬことであった。

「貴方が・・・魔王・・・?」

 答えの見えぬ思考の行き止まりに当たったカタリナは、漸くそれだけを微かに呟いた。

「貴方が、魔王ですって・・・?」

 今度は、はっきりと声に出す。
 すると詩人は事も無げに浅く頷き、肩を竦めた。

「はい。あーでもまぁ正確にいうと、魔王だった者、のほうが適切ですかね」

 魔王だの魔王だった者だの、そのような言葉遊びを聞きたいわけではないカタリナは、一先ず自分なりの確認を行うことにした。

「・・・冗談にしても、面白くないわ。じゃあなにかしら、貴方、今年で御年六百歳を超えるお体ってわけ? その割には、随分お若く見えるけれど」
「はい、なにせ今は芸事に生きる身ですからね。朝晩のスキンケアは欠かさず、入念に行なっています」

 この軽口。
 これは間違いなく彼女の知る、聖王記詠みを自称するいけ好かない男だ。
 その気配は、やはり人間そのもの。
 だが、聖王遺物を身につけているカタリナですら吐き気を催すほどのアビスの瘴気に塗れたこの場所で平然としていられる人間など居ないこともまた、彼女は知っている。
 だがそんな彼女の心中などまるで気にせぬ様子で、詩人は続けて言葉を発する。

「さて、人類がここまで到達することができたことを祝し、貴女にはとっておきの物語を是非とも披露したいと思います。少々長居には適さない場所で恐縮ですが・・・お聞きになりますか?」

 詩人の言葉に、カタリナは無言で浅く頷く。今の言葉はまるで自分が人類ではないと断じるような言い方であったが、しかしいちいち突っ込みを入れるのも面倒だと考えた。
 カタリナの素直な反応に詩人は満足げに頷き返すと、手にしていたとんがり帽子を再び被り直しながら、ゆっくりと石棺を降りた。

「とはいえ流石に記憶も朧げですからね・・・所々思い出しながらになるのは、ご容赦ください」

 おほん、と咳払いをした詩人は、まるでこれから詩を詠い始めるかのような素振りで、静かに語り始めた。

「ではまず、私がここに至るまでのお話から始めましょう。時は聖王前歴二百七十年あたり、当時魔王として活動していた私は古メッサーナを始めとした諸国を制圧したのち、軍をゲッシアへと進めました。目指したのは今の世界地図にはない、もっと東の地。貴女にも分かりやすく言うならば、即ち第五のアビスゲートを目指したのです」

 それはまさに、先ほどカタリナがグゥエインに対して語って聞かせた聖王記の歴史だった。

「私がそこを目指した目的とは即ち、この世界の全てに死を伝え、破壊を齎すこと。そして・・・母なる死の星へと還ること」

 瘴気に塗れ陰鬱とした室内には不似合いなほど良く通る声で、詩人は語る。
 六百年の昔、魔王軍が第二次ゲッシア侵攻にて自軍勝利の大勢を決した時、魔王は己が肉体の限界を察知した。
 彼が魔王として行使してきた力は、人の体には余りあるもの。それこそ四魔貴族をすら従えるほどの力を振い続ければ早々に限界が訪れるだろうということは、分かりきっていたことであった。
 この時、多少それが彼の予測より早くきた、というだけであった。
 魔王はすぐに戦線を離れ、暫しの眠りにつくための場所に向かった。
 それが、この地である。

「聖王記第一章第一節『魔王伝記』にて、魔王没すと人々は語った、とされています。なのでまぁ、それに合わせてここを玄室、と呼ぶことにしました。あ、ちなみに一部の歴史学者なんかが、魔王は時の英雄アル=アワドに深傷を負わされたのではーなんて説を提唱していますが、流石に当時の人間に遅れをとるようでは、魔王なんてやっていられませんからね、流石にそれはデマですよ?」

 本気で心外だというように表情でも語りながら、詩人は石棺の後ろにある石碑へと歩み寄り、その石碑へと手を添える。
 すると石碑は塵となって崩れ落ち、奥へと続く通路が現れた。

「少し、場所を変えながら話しましょうか」

 言うだけ言うと、無警戒で通路へ向かう詩人。その背中を背後から蹴り倒してやりたい衝動に駆られるも何とか抑えつつ、カタリナは無言でその後を追った。

「玄室というのは勿論洒落で、死ぬ気は全然なかったんです。無理をさせた体を瘴気で癒し、然るのちに活動再開する。そのためにここを用意したのです。ただ・・・少し想定外が起きましてね」

 魔王「だった者」が次に目覚めたのは、眠り始めてから三百年近く経った頃であった。

「あの目覚めの時は、今も鮮明に覚えています。あれは全く経験したことがない、実に・・・実に、清々しい目覚めでした」

 起きてすぐ、彼は自らの内に起きている異変に気付いたという。
 死に魅入られ、死の星を求る自らの宿星と宿命。それが、一切感じ取れなくなっていたのだ。
 それはまるで長い長い夢から覚めたかのように、眠りにつく前はずっと彼の中で渦巻いていたものが、忽然と消え失せていた。

「ほんと、びっくりするくらいどーでも良くなっちゃってたんですよ。まるで、何度も何度も繰り返した『ごっこ遊び』に突然飽きた子どもみたいに。ただ・・・これは『魔王』が背負っていた宿命の消失を意味するものではありません。その宿命の根源・・・『混沌の意思』とでもいうべきものが、この体を離れただけ。そこだけは、何故かはっきりと確信していました」

 目覚めと共に生きている意味、即ち宿命を失ってしまった男は、目的なく諸国を巡ることにした。
 当時は、四魔貴族による数百年の支配が続いた凄惨たる暗黒時代。町中にさえ人間の死体が幾つも転がり、魔物に体を食いちぎられ絶命していく人間の叫び声が聞こえない日はなかった。
 そんな光景を見ながら男は、世界を覆う瘴気や四魔貴族の力を鑑みれば人が死に絶えるのはそう遠い話ではないだろう、とぼんやり考えていた。
 無論、それに対して何も思うところはない。なにしろ男には為るべきことなど、何もないのだから。
 そうしてただただ混沌の世界を見つめながら放浪する中で、男は北方の寂れた農村を訪れた。
 後の世では聖都ランスと呼ばれるその小さな農村で男は、一人の少女を見つける。
 その少女こそは、世界が選んだ、次なる宿命の子であった。

「ちょっとまって。少女ってどういうこと。それは聖王様ではないの?」

 暫く黙って聞いていたカタリナだったが、流石に口を挟む。
 三百年前の死蝕の際に現れた宿命の子、即ち聖王とは、男だ。
 聖王記に描かれる肖像も、各地に伝わる絵画も、そしてカタリナ自身が王家の指輪を通じて見た姿も。その全てにおいて、聖王は男性だった。
 だというのに今の話に出てくる宿命の子が少女というのは、史実と異なる。

「まぁまぁ、聞いてください」

 しかしてカタリナの質問を軽く受け流しながら、詩人は通路の先にあった扉を開く。
 開かれた扉の先に現れたのは、寂れた農村の入り口であった。どことなくその地形が、聖都ランスのそれに近しいようにも見える。
 慌てて背後を振り返ると、通ってきた扉は既にない。
 そこで漸く、これは王家の指輪に見せられたような幻想の類であろうと気付く。

「あぁそうそう、こんな感じでした。案外覚えているものですね」

 一人勝手に呟きながら、詩人が続ける。
 少女はその出生ゆえか、目立たぬように生かされていた。
 そう仕向けた家族の判断は、少女を生かすという意味では正しい。なにしろこの時代に死蝕を生き残ったなどと分かれば、魔王の再来として直ぐさま命を奪われるであろうからだ。
 死蝕の中で初めて一人生き残り、祝福の子とまで言われた自分とはまるで正反対の境遇だなと、男は他人事のように思った。
 男は考えた。死の星を求る宿命は、この少女に移ったのだのだろう、と。
 であればたとえ少女の家族が少女の出生を秘匿し少女に退屈な生涯を送らせようとしても、宿命は決してそのようなことを許しておかない。
 やがて世界が少女を求め、少女の周りには甘美なる死が、ばら撒かれることになる。
 無垢な少女は死に魅入られ、破壊を求める第二の魔王となり、世界に更なる死を振り撒きながら東を目指していくのだろう。
 それはきっと、男の時よりもずっと楽に進むはずだ。
 なにしろ、舞台は整っている。男の手によって人類の弱体化、四魔貴族の招呼と、多くの仕込みを終えてあるのだ。これならば第二の魔王は、容易く死の星へ到達できることであろう。

「私の中にはすでに、破壊へと駆り立てる衝動はありませんでした。ですが少しだけ、気になったんです。私が目指していたものを引き継ぐこの少女が、はたしてどんな処に向かうのか。私が目指していたものは、どんなものだったのだろうか?」

 そんな小さな興味から、男は少女を暫く観察することに決めた。
 男がランスに滞在を始めた翌年、少女は奴隷商人に攫われた。
 この時代は、人と死の距離が非常に近かった。飢餓、疫病、魔獣被害、そして人間同士の殺戮と略奪。そういったものが人の生活圏と常に近しい距離で起こっていたのだ。だから少女が攫われることも、別段珍しいことでもない。男はそれを助けるでもなく、密かに後を追った。
 すると予め定められていたかのように、奴隷商人の馬車は街道で魔物に襲われた。奴隷商人らは為す術なく食いちぎられ、魔物が荷馬車に迫る。
 男は、見ているだけだった。もし少女がここで死ぬのならば、それは少女と世界にとって最も幸福なことかもしれない。そんなふうに、うっすらと考えながら。
 案の定、というべきだろう。
 少女は助かった。
 魔物を滅し少女を助けたのは、通りかかりの武装小隊であった。小隊の護衛団を率いていたのは雄々しき青年フェルディナント。小隊の主は強き意思の光を瞳に讃えし少女ヒルダであった。
 二人は哀れな少女を元いた場所に帰そうとしたが、少女は涙ながらにそれを拒否した。少女は幼いながらに、感じ取っていたのだ。自らが、村で他の住民から疎まれていたことを。己の出生を原因として家族が苦しんでいたことを。
 困った二人は一先ず少女を連れ、国元であるユーステルムへと帰ることとした。
 こうして少女はユーステルムに辿りつき、そこで三年の月日を数えることとなる。
 カタリナの周囲の景色も移ろい、ランスより更に雪深い街へと視界が変貌していく。こちらも記憶に面影があるので、すぐにユーステルムの街であろうと察しがついた。

「フェルって一度身内認定すると、すっごい構うんですよね。毎日熱心に剣を教えてましたよ」

 剣技において非凡な才能を見せた少女は、フェルディナントの元でめきめきと腕を上げた。もう少女には、三年前の臆病な面影はなかった。
 この時の少女は、漠然と焦燥感を抱いていた。救いの見えぬ世界で、あらゆる脅威に怯えて暮らす人々。その中で自分がこうして、日々をただ消費することに対して。
 少女は、旅立つことを決めた。まずは世界を知らなければ、なにも始まらない。その想いだけを抱いて。
 同じくユーステルムに居付き、冒険者稼業に身を窶しながら少女を密かに観察していた男は、ここで少女に同行を申し出ることにした。
 少女の兄姉を自称していたフェルディナントとヒルダはたいそう訝しんだが、当の少女は男の申し出を二つ返事で快諾した。
 同じ街に三年もいれば、少女が男のことを見知っていた可能性はあるだろう。無論、それが男を信用する理由にはならない。だというのに男の申し出を承諾したのは、もしかしたら同じ宿命を宿していたもの同士の何かを、感じたのだろうか。

「こうして私はまんまとパーティーに加わり、彼女を間近で観察し続けました」

 カタリナの周囲の景色が、まるで走馬灯でも見せられているかのように様々な場面へと変化していく。
 旅立ちから三年をかけて少女と男は世界を回り、その道中で多くの人々に出会っていった。その中にこそ、後の世に聖王十二将と呼ばれることになる勇士達がいたのである。
 古メッサーナの地では、後に聖王三傑に数えられながらも敵対関係として出会ったパウルスと、その従者アウレリウス。東に行けば、武人オトマン。西では後に少女の後見人となるフルブライト十二世や、その息子チャールズ、従者の臆病なソープ。そして大賢者ヴァッサールなど。
 聖王記をはじめとした歴史書には記載されていない事実や載っていない人物など、その光景を見ているだけでもとんでもない情報量が次々と飛び込んでくる。

「ち、ちょっとまって。色々聞きたいんだけど、一つだけ。アウレリウスって、聖王様の御名よね。パウルス様の部下って、どういうこと?」

 アウレリウスとは、聖王記に刻まれる聖王その人の名だ。ごく一部にその表記があるだけで主には聖王としか記されないが、唯一聖王の人となりを表す名詞として、この世界では広く知れ渡った名である。

「ふふ、ちゃんとそこも話しますよ」

 まるで悪戯の種明かしをするのが勿体無いとでも言いたげに、詩人が笑う。その表情を心底鬱陶しく思いながらも、カタリナは辛抱強く耳を傾けることにした。
 カタリナと詩人を取り巻く景色は更に移ろい、ウィルミントンと思われる場所へと変わった。
 成長した少女は十八歳を迎えた時、フルブライト十二世の養子に迎えられることとなった。
 利発に、そして見目麗しく成長した少女に人並みの幸せを享受してほしいと願ったフルブライト十二世らの想いは、誰にも否定できるものではなかっただろう。
 少女が養子となることを受け入れた時、男はもう、これ以上少女の観察をすることをやめようと考えていた。
 ランスでの邂逅から都合七年ほど少女を見てきたが、その中でどうにもこの少女が自らと同じ道を辿る未来が、思い描けなくなっていたのだ。
 であればもう男には、少女の近くにいる理由もない。
 男は一人、その肉体が滅ぶまで再び世界を宛てなく彷徨おうかと考えた。
 だが、それを止めたのもまた、少女であった。

「彼女ったら酷いんですよ。次の目的が定まるまでは自分の元にいろ、って言うんです。どうせ行く宛てなんてないんだろって決めてかかってるんですよ?」
「その通りじゃないの」

 場面は、満天の星空を仰ぐ山の頂へと移っていく。
 フルブライトの養子となった少女はそこから二年、弛まず戦技の研鑽を重ねた。男は、指導役としてそれに付き従っていた。
 この時、男は少女が以前の焦燥感とも異なる、もっと明確な「何か」に駆り立てられ始めていることを悟っていた。
 だがそれは、かつて男の内に生まれたものとは異なるもの。それこそ、真逆と言ってもいいもの。
 それは死へと向かう誘惑ではなく、溢れる生命力による反発。
 ある夜、少女はデマンダ山脈の最も高い頂に立ち、手にしていた一振りの剣を満天の星空へと翳した、
 すると空に煌めく星々から少女の持つ剣へ、次々と星の力が降り注いでいったのだ。
 それは男がこれまで見てきた、いや、これから見るものも含めてきっと、どんな景色よりも美しいと思わせる光景だった。
 現代には聖王遺物として伝わる比類なき力を秘めた武具が最初に誕生したのは、この瞬間であった。
 七星剣、と名付けられたその剣を鞘に収めた少女は側に控えていた男に振り返り、申し出た。
 四魔貴族を討つための戦いに、ついてきてほしいと。

「笑っちゃいますよね。四魔貴族を呼び寄せた張本人に、追い払う手伝いを頼むんですから」

 男には特に目的などなかったので、それを断る理由もなかった。
 それから間も無くフルブライト十二世によって諸国に四魔貴族討伐の号令が発せられ、戦いが始まった。
 この戦いの最中で、少女の元にはかつて出会った勇士達が続々と集った。
 そうして戦いが始まってから四年、少女が二十四の頃、ついに四魔貴族討伐の偉業が成し遂げられたのである。

「このあたりは聖王記に記してあるので、話すまでもないでしょう。戦いの中で数々の宝具が生まれ、幾つもの尊い犠牲を払い、遂に少女は全てのアビスゲートを閉じたのです」

 いつの間にか周囲の景色は、荒れた山間の崖に移り変わっていた。
 カタリナはこの景色に、なんもなく見覚えがある。恐らくは、ルーブ山脈だろう。
 四魔貴族征伐の後、歴史上で語られた聖王最後の戦いの舞台。

「・・・で、そのあとは巨竜ドーラ征伐譚で終わり、というわけね。じゃあそろそろ、質問をしてもいいかしら」
「私に答えられることならば」

 お待たせしました、とでも言わんばかりに詩人が身近な岩に腰変えるのを半眼で睨みながら、カタリナが口を開いた。

「まず先ほどの質問に答えて。貴方の語った少女とは、一体何者なの。聖王様は、男性のはずよね?」

 まずは、そこだ。
 聖王記には抽象的な挿絵が僅かにあるだけだが、基本は男性として世界に解釈されてきた。
 それにカタリナは二度、その姿を見てもいる。一度目は初めて魔王殿で少年から王家の指輪を受け取った時。二度目は、ピドナでモニカらと合流した時だ。
 その姿はどことなく聖王記の挿絵に似ているような気もして、間違いなくそれが聖王記に記された聖王であろうということを感じさせた。
 しかし詩人は曖昧な笑みを浮かべ、逆にカタリナに問いかけた。

「貴女は、指輪の記録も視ていますよね。記録の中の青年は、自らの名を名乗っていましたか?」

 言われて、カタリナは思い返してみる。聖王様の言葉を聞いたのは、二度目の記憶、ピドナでの時だ。あの時、何と言っていたか。

「・・・いえ、名乗ってはいないわ。ただ確か・・・その場にいたらしいヴァッサール様が、聖王様のことを・・・」

 なんと、呼んでいたか。
 細い記憶の糸を必死に手繰っていたカタリナは、漸くその糸を手繰り寄せ、はっとした表情で顔を上げた。

「・・・アレックス。そう・・・聖王様は、アレックスと呼ばれていたわ」

 

 

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第四章・1 -聖王の願い-

 

 この世界には、『聖王』と人々に語り継がれる一人の青年の願いが溢れていた。
 三百年の昔、異世界に君臨する災厄の象徴たる四魔貴族をこの世界からアビスへと追い返したその人は、遠い未来に再度の死蝕が訪れる事を、この時既に感じ取っていた。
 青年は幼い頃に心無い輩に攫われて奴隷となり、後に運命の女神の采配によって様々な人々と出会う為に冒険者として腕を磨きながら世界を旅し、やがて自らの宿星と宿命を知った。
 そこで同時に彼は、この世界のもつ宿命をも知ってしまった。
 後、世に蔓延る全ての四魔貴族を退けてから、彼はついに自らの宿命による役目がここまでであることを悟る。
 だが彼は、感じていた。
 星の宿命は、未だ混沌の渦中にあることを。
 それに自らが介入出来ぬことを悔みながらも、彼は足掻く為、未来の民へと幾つかのメッセージを残した。
 それは今の世にて広く多くの人々には『聖王記』として伝承され、又、後の世に現れるであろう彼と同じく、いや、彼より更に深く星の運命と関わるであろう者達には、頼もしき仲間が用意してくれた指輪にまず、自身の記憶と経験、そして希いを託した。
 そして後世にて聖王三傑と称されるパウルス、フェルディナント、ヴァッサールを始めとした多くの仲間に助けられた彼は、最後にその指輪にある仕掛けを施すことにした。
 遠い未来でこれを持つことになる者が、彼と同じく運命を共に歩む頼もしい仲間を正しく見つけられるように。そして、その宿命に抗えるように。

 世界では魔貴族討伐後に旧メッサーナ王国王宮にて開かれたコングレス(大会議)によって新しい世界の暦や爵位制度などが決められる一方、その指輪は彼の生まれの地であるランスに住む彼の姉に託され、聖王記の雛形は聖王三傑の一人パウルスによって編纂される。
 彼にできるのは、そこまでだった。

 彼は今も願う。星の救済を。そして、救済者たる者たちに、星の加護を。

 

 

「トーマス!」

 路上駐車は流石に危険だから、とピドナ港にある倉庫を借りて術戦車を格納していたカタリナは、丁度そこに到着していたらしいツヴァイクからの客船を出てきた見知った顔の青年を見かけて、手を振りながら声をかけた。
 それに振り向いて驚きの表情と共に笑顔を見せたのは、やはりトーマスだ。

「カタリナ様、やはりお帰りでしたか。しかしどうして港などに・・・ん、君は・・・。情報屋、か?」

 お互い早足で歩み寄りながら仕草でまずは再会を喜びつつ、ふとトーマスはカタリナの後ろにいたポールに目を留めた。するとどうした事かポールもトーマスを見て、まるで旧友と偶然の再会でもしたかのように目を丸くする。

「あっれ、誰かと思えばベントの旦那じゃないっすか。こりゃ久しぶりっすね」

 なにやらポールがまるで先輩に会ったみたいに軽く頭を下げながらそう言うものだから、カタリナはその様子に何事かという表情をする。
 するとトーマスも再会を喜びつつ、カタリナに向き直って説明しはじめた。

「彼は、以前よく世話になっていた情報屋でして。ほら、ミュルスで酒場にいったでしょう。あそこでよく彼から情報を買っていましてね」

 トーマスのその言葉に、カタリナはあぁと思い出した様子で頷いた。

「・・・なんか、意外な所で繋がりってあるのね。私もポールとは丁度ゴドウィンの変の時にロアーヌで知り合ったのだけど、ピドナからのツヴァイク行きの船で偶然再会して、まぁ色々あってね。今は旅に同行してもらっているの。その辺りも後で話しましょう」

 カタリナの言葉にコクリと頷き返したトーマスは、そこで珍しく多少意地悪い感じの笑みを浮かべながらピドナの商業地区の辺りに目をやった。

「私も丁度商談を終えて、ツヴァイクから帰ってきたのですがね。実は今回、とびきりのゲストを館にお招きしています。きっと、カタリナ様は驚きますよ」
「へぇ・・・? でもそんな事いって、またフルブライトさんみたいなのじゃあないでしょうね?」

 意外と根に持っているらしく、これ以上の厄介ごとは懲り懲りだといった表情で肩を竦めるカタリナに、しかしトーマスは笑みを崩さない。
 その真意を図りかねて目を細めたカタリナは、しかし早々に今ここで探っても暴けはしないだろうという結論に達した。

「・・・なんだか不気味ね。まぁいいわ。思いがけず二ヶ月くらいかかってしまったし、まず各々の現状から擦り合わせをしましょう」

 それにトーマスが同意すると、カタリナ達は港から歩き出した。
 港を出るまでの間にカタリナがエレンとハリードを連れてきたことを話すと、トーマスはまた驚いた様子で笑った。
 そのまま街に入るところで、ハリード達が宿を取りに離れているので合流してからハンス邸に向かうと言ってトーマスと一度別れたカタリナとポールは、中央通りでピドナの街並みを多少苦々しい表情で眺めるハリードと、対照的に都会にはしゃぐエレンを直ぐに見つける。
 無事に合流した四人は、寄り道したがるエレンを引っ張りながらピドナの中央通りを宮廷方面へと向かっていった。

 

 メインストリートを過ぎさって商業地区に入った辺りから、どうした事かカタリナは一向に押し黙っていた。
 暫くは三人で和気藹々と会話を展開していたハリード等がその様子に気が付いてカタリナの表情を窺ってみると、彼女の形の整った唇は硬く真一文字に結ばれ、更にはほんのり眉間に皺を寄せている。
 普段は全く見ない彼女のそんな表情に、周囲は途端にえらく心配した。

「・・・おい、大丈夫か? どこか気分でも優れないのか」

 堪らずハリードが声をかけると、それにワンテンポ遅れてカタリナが目の端を微かに震わせながら視線だけを寄越し、次いで口を開いた。

「・・・大丈夫。ただ・・・なんだか急に全身に違和感を感じてるのよ。何かが、身体の中で膨れ上がっていくの・・・。とても大きな・・・意思というか、光というか・・・。よく、分からないのだけど」

 そんな彼女の言葉にハリード達は全く理解が及ばず首を傾げるばかりだったが、抑も自分でも何を言っているのか、カタリナにすら良くわかっていなかった。
 だが確かに全身に得体の知れないものを感じながら、気付けばまるでそれに急かされるかのように、彼女の歩調は早まっていく。
 どうした訳か身体が訴えるその違和感は、トーマス達の待つ邸宅に近付くにつれて次第に大きくなっていった。
 それが何を意味するのか分からずに彼女は不安に駆られるが、しかし自分の中の何かは、なおも執拗に先を急かす。
 最早小走りに近い速度で進んで行くカタリナに、ハリード等は驚きながらも後を追った。
 そうしていよいよ目的地である邸宅の目の前に立った時には、彼女の中の何かは軽く目眩を感じさせる程に大きくなっていた。
 なんとか気を落ち着かせようと深く息を吐いて頭を少し強く振り、ひどく心配する周囲に身振りで問題ないことをアピールする。
 実際の所、何が問題なのかすら彼女にも分からないので、今は兎に角先に行こうと、何かに急かされるままに、そのままドアノブに手を掛けた。
 すると、どうした事だろうか。ひんやりと冷たいはずのドアノブが、確かな熱を持って彼女の手に訴えかけてきた。
 それに、カタリナは確信する。
 間違いなく、何かがこの先で待ち構えている。
 それに応じて体の中に先ほどから巣食う何かが一斉にざわつくが、しかし其れは、所謂警笛ではない。寧ろその真逆に感じられるような、そんな感覚だった。
 カラカラに乾いた喉で無理矢理唾を飲み込み、カタリナは意を決して扉を一気に引いて開く。

 その瞬間だった。
 まるでドアの向こうから強く眩い光に照らされたような強烈な錯覚に陥り、カタリナは思わず腕で目を庇って地面に跪く。

(・・・な、何が起こったの・・・)

 まるで地面に立っていないように、おぼつかない足元。
 そこが暑いのか寒いのかすら肌では感じ取れない、異質な空気。
 暗闇の中でそれだけをまず把握すると、次には気が付けば、先程まで体に感じていた不可思議な感覚はすっかり消え去っていた。
 一つ息を吐き、直前とは打って変わって体が解放されたような気持ちで、カタリナは薄っすらと瞼を開く。
 すると、そこはドアノブの先に期待していた見知ったピドナの邸宅の中ではなく、清廉とした厳かな静けさに包まれる、見知らぬ何処かの宮廷らしき建物の中だった。
 その視界は全体が多少霞がかった様子で、二度三度瞬きしたカタリナは、これが魔王殿の下層で見たものと同じような映像だと直ぐに思い当たる。

(・・・これは、また・・・王家の指輪の記憶・・・? 今度は何だというの・・・)

 ふと気が付けば、視界の中には一人の青年が立っていた。それは魔王殿の下層で見た映像の中の青年と同じ顔で、しかしその姿はあの時よりも絢爛であり表情も凛々しく、纏う雰囲気も神々しい。
 青年は静かな動作で周囲を見渡すように眺めると、ゆっくりと口を開く。

「・・・いよいよ、同じ地に八なる光の半数以上が揃いましたね。これより皆さんには、私の知る限りの・・・この星の運命を伝えます」

 夢を見ているように身体が浮いた感覚だったが、青年のその緩やかながらも凛とした声によって意識は研ぎ澄まされ、そして周囲の景色が変貌していく。
 そうして間もなく全てが闇に包まれたかと思えば、次に気が付いた時にはカタリナは満天の星空の中に立っていた。
 先ほどの宮廷の中と同じく見つめる視線の先に立っている青年は、その視線を斜め下にやっている。釣られて其方を向けば、其処には淡く青く輝く大陸が浮いていた。
 薄く丸い輪郭に囲われたそれは、漆黒の砂漠の中のオアシスの様に暖かな光を絶やさない。

「・・・私たちの住む世界です。私たちが住んでいるのは、広大な星の海に漂う小さな小さな島に過ぎない。そして彼処は、我々が多くの苦難の末に手に入れた楽園。ですがその楽園もまた、三百年に一度の脅威にさらされています」

 そう言って青年は上を向くと、其処には遥か遠くから注がれる太陽の光でしかその輪郭が見えないような、黒く濁った丸い星が浮いていた。

「死・・・です。あ・・・も・・・私たち・・・した。・・・存を・・・アビスの・・・あの・・・・・・星へ・・・て・・・」

(何・・・声が途切れて全然聞こえないわ・・・)

 突然視界に広がる映像は乱れ、それに合わせて青年の声も断片的にしか聞こえない。
 蜃気楼のように揺らめく身体で青年はこちらに向き直ると、優しそうな、それでいて強く逞しい意思を感じる瞳をむけた。

「魔王の・・・数・・・目の死・・・世界には・・・まで・・・イレギュラーが・・・・・・れは世界を・・・救う・・・・・・分からない。ですが、貴方達は・・・世・・・救う・・・集った・・・楽園・・・アビスに・・・破壊の・・・造の・・・・・・」

 次第に激しく乱れていく映像の中、耳障りな雑音と共に断片的に耳に届く声にカタリナは近寄ろうと手を伸ばす。
 だが間も無くその映像は再び暗転し、先ほどの宮廷へと戻ってきてしまった。

「・・・私から伝えられるのは、ここまでです」

(・・・ちょっと、何も伝わってこなかったわよ・・・)

 青年の言葉に思わず頭の中で突っ込むカタリナだったが、青年には届かない。
 そして青年は最後に、自分の周囲を再びゆっくりと見渡した。

「ここに、一体何人が集まってこれを見ているのでしょうね。四人でしょうか・・・それともまさか、八人全員でしょうか。お顔を拝見出来ないのが残念ですが・・・、どうか、この星をよろしく頼みました」

 そうして頭を下げる青年を最後に、視界がぼやけ始める。

(・・・まって、一体何を伝えようとしたの、貴方は・・・)

「あ、ちょ・・・待ってくれ、もう少し伸ばせるか、ヴァッサール」

 カタリナの願いが通じたのか、青年は少し慌てた様子でわたわたと手を振った。

「なによアレックス、今ので神々しさが確実に半減したわ」

 視界の後ろから声が聞こえてくるが、カタリナは其方には振り向けない。
 しかしアレックスと呼ばれた青年はぽりぽりと頭を掻き、すまんと手を翳してジェスチャーした。

「・・・後一つだけ、私的な願いをさせて欲しい。きっと私が居なくなってから、私の友人の子供がルーブに残される。もしこれを見た皆様がそいつに会ったら、どうか仲良くしてやって欲しい。小難しいけど、根は良いやつなんだ」

 そう言って青年が再び手を翳すと、また後ろから今度は一つため息が聞こえたかと思ったら、視界が急速にぼやけていった。

(・・・う・・・・・・)

 何度目かの視界の暗転にぐらりと体全体が揺れるような感覚に襲われ、屈んだ状態から徐々に平衡感覚が取り戻されていく。
 霞んでいた視界が少しずつはっきりしてくると、目の前には木目の綺麗に整えられた床があった。

「ちょっとあんたら、大丈夫かい!?」

 まず耳に届いたのは、聞き覚えのある力強い快活な声だった。
 直後にドタドタと足音が響き、カタリナは肩をつかまれる。
 それに顔をあげれば、目の前には心配そうにこちらを覗き込んでいるノーラの姿があった。恐らく自分たちが来るのを知って、ここで待っていてくれたのだろう。
 ノーラに何とか大丈夫だと応えながら、カタリナは眉間を指で押さえた。

「・・・ったく、いつもいきなりなんだから・・・」

 そんな悪態をつきながらゆっくりと立ち上がるカタリナの視界には、何が起きたのかという表情をしているノーラとポールの他に、つい今までの彼女と同じように地面に屈んでいる何人もの人影が飛び込んできた。
 そしてそれを何気なく見回したカタリナはその中に信じられない人物を発見し、そのあまりの驚きに、彼女は立ち上がりざまの中腰姿勢で思わず固まってしまった。

「う・・・今のは、なんだったの・・・」

 次に声をあげたのは、カタリナの背後にいたエレンだった。同じく頭を軽く振って立ち上がるハリードの肩につかまりながらなんとかバランスを取り戻した彼女は、その瞳に今だ地面に膝をついている最愛の妹の姿を見つけ、思わず叫んだ。

「サラ!」

 すぐさま駆け寄り、ふらつくサラを手を貸してやりながら起こし、優しく抱きしめる。

「・・・サラ、大丈夫・・・?」
「・・・お、姉ちゃん・・・?」

 まだ意識がはっきりしていない様子のサラは、抱きしめられた感覚でぼんやりとしながらエレンの背中をペタペタ触って確かめる。

「うぅん・・・、あ、モニカ様、大丈夫ですか!?」

 次に意識を取り戻したユリアンは、隣で屈みこんでいるモニカの肩を掴み、起こしてやる。それに反応して可愛らしい吐息を零しながら起き上がったモニカは、その視線の延長上に中腰で固まっているカタリナを見つけ、目を見開いて駆け寄った。

「カタリナ!」
「モ、モ、モ・・・モニカ様!!」

 モニカの声に合わせて直立になったカタリナは、その胸に飛び込んできたモニカを抱きしめながら目を瞬かせる。

「な、何故モニカ様がここに・・・?」

 思わず周囲を見渡して、ここがロアーヌ宮廷ではないことを確認するカタリナ。
 そこで丁度立ち上がったトーマスは、ずれた眼鏡を直しながらその光景をみて微笑みつつ頭を軽く振った。

「・・・何やら、思わぬ再会イベントでしたね・・・取り合えず皆さん、大丈夫ですか?」

 それに反応するように皆がトーマスに視線を向けると、トーマスは一息ついてから邸宅の奥に体を向けた。

「積もる話もそうですが・・・恐らくここにいるほとんどの方が見た今の現象についても、よく話し合わなければならない様です。兎に角、落ち着いて座れる場所へ行きましょう」

 先ずは皆がトーマスの言葉に従うことにして、ゾロゾロと奥の広間へと移動していった。
その途中、カタリナはそれとなく周囲を見渡す。
 この場にいるのはカタリナと共にきたハリード、エレン、ポール以外に、トーマスとモニカ、サラ、ユリアン、そしてノーラの九人だ。
 そのうち状況を感知していない様子だったのはノーラとポールのみであったので、恐らくそれ以外の全員が今の映像を見たという事だろう。

(・・・あれは、内容からしても八つの光が半数以上集まった事による王家の指輪の反応・・・と見て間違いなさそう。つまりはモニカ様達も、私と同様に八つの光・・・。という事は、魔王殿で出会ったあの少年以外の全員がこれで揃った事になる・・・。なんだか、今まで以上にとんでもない事に巻き込まれそうね・・・)

「・・・おーい、カタリナさん。行かないのかい?」

 気がつけばエントランスに一人佇んでいたカタリナは、皆が向かった扉から覗き込んできたポールの声で我に返った。それに生返事で答えると、その指にはめられた王家の指輪をチラリと見てから、足を前に踏み出した。

 

 

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