第八章・4 -駆け落ち?-

 

「カタリナさん、あそこに洞窟の入り口らしきものが見えます・・・!」

 頭髪と思しき部分が無数の蛇で構成された悍しい半人半妖の姿の魔物を斬り捨てたカタリナは、慣れない高所での連続戦闘に息を切らせながらフェアリーの言葉に従って、指差された方角へと目を向ける。するとその先には、確かに山肌に唐突な穴がぽっかりと口を開けている部分があった。

「やっと入り口ね・・・。全く、もっと通行の便を考えた場所に用意してもらいたいものだわ・・・」

 よもや人が来訪することなど、さしもの悪竜も想定外であろうことは当然わかってはいるものの、この過酷な状況には毒吐かずにはいられない様子でカタリナは剣の汚れを振り払いながら呟いた。
 二人が麓の宿場町を発ってから、凡そ五日ほどが経過していた。
 登山の嗜みなど当然ないカタリナは宿場宿の主人から女子供だけでの登山を強く止められたが、それでも行かぬわけにはいかないからと無理やりに今は使われていない荒れ果てた登山道跡を聞き出し、また平時に狩人や鉱夫らが使っていたという中間キャンプ地を経由して高い標高に体を慣れさせつつ、ここまで辿り着いていた。
 確かに空気は平地よりも格段に薄く、この酸素濃度に体を適応させるために時間を費やすことになったのは非常にもどかしかったものだが、一方で幸いなことに、このルーブという山はこれほどの高所にあっても、驚くことに全く寒くなかった。
 近年で噴火の知らせがあったわけではないものの、このルーブ山は今も活動を続ける活火山であり、比較的地面から近い部分に溶岩流があると推定されている。そのため、山肌は思った以上に暖かさを保っているらしい、という説明を宿場宿で受けた。
 だがそれだけでは、この高所に突風の吹き荒れる中でも凍えずに済む、ということは本来あり得ないだろう。
 この通常ではあり得ない気候の原因こそが、詰まるところは、このルーブに棲まう竜の為せる奇跡であるのだという。
 巨龍種はその規格外の体を自在に操るために、体温が非常に高いだろう、ということが研究者の間では定説となっている。そのため巨龍種の多くは、其々の独自器官の他に、その活動を可能とするのに必要とされる膨大な熱量を体内で生成するのだそうだ。
 そしてそれは、体内器官による生物的な熱量の生み出し方だけではなく、朱鳥の加護を生まれながらにして備えている場合が殆どであろうことまでが、最近の研究で凡そ判明しているのだという。
 そして当然その熱量を効率的に維持するには、その棲み家も同じく温暖であるということが大体の場合において必須条件になる。
 そのため、巨龍種が住う場所はその巨龍種の持つ朱鳥の加護の強さに応じて、周囲の気温すら高くなることが多い。この現象が、巨龍の活動における術的な要因の介在を立証する証拠ともなっている。
 これらの理由が、このルーブという山がこの寒気にこの標高にあっても、あまり寒さを感じさせないという結果に繋がっているのであった。

「あっつ・・・ここ本当に冬の山なわけ・・・?」

 そう言った事情を知識としては仕入れていたものの、いざ洞窟内に足を踏み入れてみるとその熱気はよもや冬のそれとは全く無縁に思え、まるで密林にあった火術要塞にでも入り込んだのではないかと思えるほどだ。
 都合よく階段状になっていた箇所を危なげなく下り、程なくして外部の光が届かなくなったところでフェアリーが松明に火を灯しながら奥の様子を観察する。

「・・・どうやら、火山ガスが吹き出している箇所が其処彼処にあるようです。慎重に進みましょう」
「厄介ね・・・。松明で引火とかしなきゃいいけれど」

 カタリナは洞窟内での妖魔の襲撃に備えマスカレイドを小剣の状態で構えながら、足元に気をつけつつ進む。
 そうして進むにつれ、思ったよりもこの洞窟は広々とした空間が広がっており、天井も高いことが分かってきた。その予想外の広さに軽く感嘆しながらカタリナが見渡していると、フェアリーは周囲が広く見渡せるように浮かび上がり、そして何かに耳を済ませるように目を閉じた。

「この空洞は、どうやら溶岩が流れた後に出来たものだそうです」
「溶岩が・・・、ねぇ。正に自然のなせる技ってわけね」

 カタリナが知る溶岩とは、それこそ火術要塞の至る所に湧き出ていたものだが、それが山を流れこのような巨大な空洞を作るなどということは、彼女にはまるで想像もつかないことであった。

「地表を流れる溶岩の表層が冷えて固まっても、その下では熱量を保ったままの溶岩が流れ続け、こうした空洞を作り上げるのだそうです」

 フェアリーの話を興味深く聞きながら注意を怠らず進んでいくが、多少の足元の危うさを除けば、この空洞は非常に快適なものだった。何しろ、山中では幾度となく出会った妖魔の類が、この空洞内では全く存在していないからだ。

「通常ならばこうした山中の空洞には魔物や暗闇を好む生物が入り込むのですが、この空洞の中はあまりにも竜の気が強すぎて、他の生物が寄り付かないのだそうです」
「なるほどね・・・。ていうかフェアリー、それ一体どこから得ている情報なの・・・?」

 とてもためになる話ばかりなのだが、ふとその情報の出所が気になってカタリナが中空のフェアリーに問いかけてみる。するとフェアリーは二度三度瞬きをした後、首を傾げた。

「さぁ・・・この空洞の中にある、何かだと思います。周辺に思念を飛ばしたら返ってきたので、正確には・・・」

 他の生物が寄り付かない、という前提なのに返ってくるその念とやらこそ随分と怪しい気もするのだが、とりあえずそこに突っ込んでも仕方がないだろうという結論に達したカタリナは、適当に相槌を打って先に進むことにした。
 時折岩肌から噴出している火山性のガスを避けるように進んでいくと、更に奥へと二人を誘う段差が現れる。

「・・・この奥のほうから、とても強大な気配を感じます・・・。恐らく、グゥエインのものかと思われます」
「この空洞で大当たりだった、ってことね。兎に角、進みましょう」

 果たして、話し合いというものが成立するのかどうか。
 出たところ勝負の感は否めないが、ここまできたからには覚悟を決めてやるしかないなと腹を括ったカタリナは、慎重に歩を進めた。

 

 

「ふざけないで!!サラは今一体何処にいるの!!!?」

 ピドナ商業地区の一画にてカタリナ・カンパニーの事務所も兼ねるハンス家の一室から、エレンの悲痛な叫び声が部屋の外まで木霊する。
 トーマスとユリアンが宥めるために彼女に相対しているが、先ほどから何度も似たような叫びが聞こえてきていることから察するに、その効果は極めて薄い様子だ。
 やがて、衝突音にも似たような響きと共に勢いよく開かれた扉から飛び出してきたエレンは、その先の広間で彼女らの様子を心配しながら待っていたモニカらを殆ど無視するように通り抜け、一目散に外へと行ってしまった。

「・・・エレン・・・」

 その様子を止められるはずもなく、モニカがただただ心配そうな様子でエレンが去っていったあとの扉を見つめる。
 飛び出してきたエレンに遅れるようにして部屋から出てきたトーマスとユリアンは、非常にバツが悪そうな表情で広間の一行に合流した。
 その場に集まっていたのは彼ら以外に、モニカ、ポール、ロビン、ミューズ、シャール、ブラックだ。
 ミューズらよりも一足早く、エレンら一行は目的であった氷の剣を携えてピドナへと帰ってきていた。
 彼女らの所持していた古代魔術書に関しては引き続き聖都ランスの天文学者ヨハンネスの兄妹であるアンナが解読を進めてくれており、これは子細分かり次第ピドナへと連絡をしてくれるように話がついていた。それを受けてピドナに一度戻ろうという事の運びとなりピドナへと戻ったエレン達だったのだが、トーマスらが居ないことを受けて待機をしていたのだった。
 だが、数日後にいよいよ帰ってきたトーマスらの表情は何やら非常に複雑な様子であり、これは何か事情があるのだな、ということは出迎えた誰もが感じた。
 無論それは帰路におけるルートヴィッヒとの対談によるものであるが、それとは別に予想外にトーマスらの一行の中に最愛の妹の姿を見かけなかったエレンがその事について問うと、トーマスらは更に悲痛な表情を浮かべながら、サラから届いた書状を苦々しい様子でエレンに見せたのだった。

「・・・わたくし、エレンを見てきますわ」

 そう言ってモニカが小走りで広間を後にすると、それを為す術なく見送ったその場の面々は軽く互いに視線を交わし、なんともバツが悪そうに肩を竦ませた。

「・・・ったくガキのお守りじゃあねえんだからよ、キーキーうるせぇな」
「いやまぁそうは言ってもよ、そう簡単に割り切れるもんじゃないだろうさ、血の繋がった姉妹なんだから。ってかほんとにあんた、ハーマンの爺さんなのか・・・?」

 一人飄々と、いつもの調子で煙草に火をつけながら一連の騒動を見ていたブラックが言うのに合わせ、ポールが嗜めるようにいいながらも半分疑いの眼差しでブラックを眺める。
 その感想はユリアンも同様に抱いていたが、彼と初めて会ったロビンはそんなことを露ほども知らず、事も無げに腕を組むのみだった。

「・・・一旦、エレンはモニカ様にお任せしましょう。我々が追いかけても、ああなったエレンは間違いなく聞かないでしょうから」
「・・・同感だ」

 トーマスのその言葉に、ユリアンも深く頷きながら同意する。シノンの若衆の中では最早常識であるのだが、このように気分を害した時のエレンの取り扱いは、非常に繊細なものなのだ。微に入り細を穿つ、というものである。
 そして大抵の場合、周囲が必死に試みるエレンへの接触では状況の改善に一切繋がらない。これには、とにかく時間が必要なのだ。
 彼女の機嫌の回復はいつだって、サラを心配する自発的な気持ちが発端となって起こる。
 自分がこんな事では、サラを守れない。サラの元に戻ろう。その思考によってのみ彼女は機嫌を取り戻し、やがて皆の輪に戻ってくる。
 昔からトーマスは、そんなエレンの行動基準を特段に心配していたものであった。
 もしサラがエレンの元から居なくなったとしたら、エレンは一体どうするのだろうか、と。
 その答えは、この年の始まり、およそ一年前から始まったこの旅の中で多少の変化として彼女に蓄積されてきたはずだが、今ここに至っては矢張り彼女の根本は変わっていないのだと彼には感じ取れた。

「・・・分かった。じゃあこっちはこっちで、必要な話を整理しちまいたい。ヤーマス以降に起こったことを、先ずは聞かせてくれ」

 シノン出身組らの様子からエレンの対応に頷いたポールは、仕切り直すようにそう言って、皆にテーブルにつくように促した。

 

 ああして、幾ら声を荒げて周囲の全てを拒絶したとしても、何も状況は良くなんて、ならない。
 そんなことは、誰よりも自分自身が、痛いほど一番わかっている。だって、愚かしいほどに何度も何度も、それを彼女は繰り返してきたのだから。
 だから毎度毎度、大人げなくこんなことをしている自分をどこか頭の中で冷静な自分が思いっきり冷めた様子で見下ろしていて、本当にそんな自分のことが世界で一番、嫌になる。
 だが、それでも。
 それでもこれは自分にとって必要な、ある種の「儀式」のようなものなのだ。
 こうして兎に角周囲の雑音から一旦離れて自分一人になり物事を見つめ直すことで、全てを投げ出して只々喚き散らしてしまうだけの愚かな自分を何とか抑えるのだ。
 そうして一頻り自分の中で自分をこき下ろした後、暫く何も考えずにただただ気分が落ち込む時間が続く。そうして幾ばくかの時間が過ぎ、いい加減そうしていることに飽きたら、いよいよそこから、これからの自分がやるべきことを考えるのだ。
 手段なんて、なんだって、どうだっていい。
 兎に角重要なのは、やるべき事が何なのか。
 彼女は先ず、それだけしか考えない。
 それが定まれば、あとは我武者羅に前進するだけだ。

(・・・何をするべきって、勿論今直ぐにサラを探しにいく。それ以外の選択肢なんてないわ)

 ハンス邸を飛び出して当ても無く歩きながら、ぐるぐると思考の堂々巡りを繰り返していたエレンは、気がつけば潮風に誘われるままに港まで辿り着いていた。
 サラが、ひょっとしてその辺りにいないものか。
 そんな有り得るわけのない妄想と共に、エレンは何げなく港を見渡しながら続けて歩いた。
 思えばロアーヌでの事件からこの一年で何度も行き来したピドナの港だが、流石に世界一の港は何度来てもその広大さに驚くばかりだ。
 何しろ、同時に数百人を乗船させることが可能なガレオンシップを数十隻も停めることができる程の巨大な港だ。じっくりと見て回るだけで、それこそ一日を費やしてしまうことだろう。
 港には等配置に灯台や検問塔が立っており、そこでは常にピドナ港専任の水先人が行き来の絶えない大小の船舶を忙しなく曳船誘導している。
 その行き来する船を何気なく見ているだけでも、時間はあっという間に過ぎ去ってしまいそうだ。
 港はいくつかの区画に分けられており、停船区画だけでも世界各地のどこに向かうかで場所が異なる。例えばヤーマスやウィルミントン等の大規模な商都が点在し最も往来の多い静海地方との行き来をする船が一番市場に近い区画に位置しており、次いで香辛料を中心とした貿易や観光渡航が盛んな温海地方往来用の区画。そしてピドナの位置するマイカン半島からトリオール海を挟んで南にあるトゥイク半島の都市国家リブロフとの定期便区画の向こうに、ロアーヌやツヴァイク等のヨルド海を往来する航海船がある。
 実のところ船ではロアーヌとの行き来をしていないエレンは、何気なく興味を惹かれて港の奥に位置するヨルド海方面へ向かう船の区画へと歩いていった。
 ぼんやりと眺めているうちに気がついたのだが、こちらの区画に停まっている船は、静海方面に行く船に比べて帆の配置が特徴的だ。
 北のツヴァイク地方から吹き降りる風が特徴的なヨルド海は東西間の航海で真後ろからの風を捉えることが難しく、更には南東のタフターン山から吹く風と海上で頻繁にぶつかり複雑な気流を生み出すので、それに適時対応できる縦帆が採用されているのである。
 無論そんなことなど全く知らないエレンは、形の違う帆の数々を物珍しげに眺めながら歩いて行き、そしてその向かっていた先に突然に、見知った姿を視界に捉えた。

「・・・あれ、ハリード・・・?」

 視線の先には、遠目から見ても分かる特徴的なナジュの衣服に身を包んだ長身の男、ハリードが船着場におり、停泊している客船の近くで船員となにやら話をしているところのようだった。
 今回はピドナ港の圧巻ぶりのお陰でいつもよりもずっと早く気分が晴れていたので、エレンは特に考えるまでもなく、そのままハリードの方へと歩いて向かっていった。

「おっさん、久しぶり。なにしてんの?」
「・・・エレンか」

 ハリードはヤーマスに向かったエレンらとは別でトーマスらピドナ組と行動を共にしていたはずだが、そういえばトーマスらがハンス邸に帰ってきたときには、何処にも彼の姿はなかった。
 しかしそれ以前にサラのことで頭がいっぱいだったエレンはすっかりハリードのことを失念していたのだが、こうして数ヶ月ぶりに会うハリードは、どこか以前の彼とは様子が違うように彼女には思われた。

「なにしてんのよ、こんなとこで」
「別に」

 いやこんなところにいて別にってことはないでしょう、とエレンは思ったものだが、しかしそれを口に出すことなく彼女は目の前の男の様子を窺った。
 どうも、普段とは様子が違うように思ったのだ。
 抑もハリードと会うの自体が数ヶ月ぶりではあるが、その手前まで半年あまり行動を共にしていた彼女から見ると、明らかにこの男の様子は普段と異なる。なんというか、その表情や声色から、以前は常日頃感じていた彼の余裕が感じられないのだ。
 他人の余裕のあるなしが分かる程度には自分の冷静さは戻っているな、等と場違いな分析を頭の隅に追いやり、エレンは次に一歩引いたように姿勢を仰け反らせながら、その場の状況を見極めんとする。
 ハリードは、普段通りの格好だ。この男は常に軽装で、旅のために余計なものを殆ど持ち歩かない。しかし、腰の曲刀カムシーン(本当は違うらしいが、ハリードがそう言い続けるのでエレンもカムシーンと呼ぶことに慣れてしまった)は散歩だろうが遠出だろうが持ち歩いているので、つまりこの姿からは彼の行く先の検討はつきそうにない。
 視線を、彼の周囲に移す。
 彼女らが今立っている場所は、ピドナ港の中でも何方かと言えば奥まった位置だと言える。つまり、敢えて用事がなければ普通はこない場所だと言えるだろう。
 まぁ、そこにまさかの敢えて特段の用事がないのにふらっと来てしまった自分自身がいる時点でこの推察には致命的な矛盾があるような気もするのだが、そこは一旦置いておいて考える。彼女が元々見てみようと思っていたヨルド海方面への船着場は、此処からもう少しだけ奥にある。現在位置はその手前にある区画であり、このマイカン半島の南に広がるトリオール海を挟んで向かいにあるトゥイク半島へと向かう船舶の船着場だ。
 トゥイク半島に向かう船は、基本的に一箇所にしか寄港しない。リブロフだ。
 そしてハリードは自分が話しかける直前まで、傍にいる船員と話をしていた。
 つまりこの場所から察するに、ハリードはここで船に乗ろうとしていた、というようにも見受けられる。

「で、どうするんですかい、旦那」
「あぁ・・・頼む」

 丁度エレンの思考を証明するかのように、恰幅の良い港の船員が小首を傾げながらハリードに声をかける。するとハリードはそれに応え、短く頷いた。

「じゃ、前金で100オーラムいただきますぜ」
「あぁ」

 短くそういって、そのまま懐から素直にオーラム金貨を出して払うハリード。
 これはもう確定で、今のこの男は様子が明らかに可笑しいということにエレンは思い至る。
 如何に世界的に船旅が高額化している状況があるとはいえ、この守銭奴が100オーラム程の大金を一銭たりとも値切ることもなく即払いするなど、普段ならば絶対にあり得ない。
 何しろこの男との旅の幕開けであったミュルスからツヴァイクへの渡航の際も、一切合切船旅の質は求めないから最も安い客室がいい、なんなら船員用の雑魚寝部屋でも良いから兎に角、極限まで安くしろ。そのように乗船案内人に迫っていたほどの男だ。
 仮にも女連れで旅に赴く初っ端からあの光景は一周回って清々しいなとエレンは思ったものだが、そんな彼の通常が、今は全く垣間見えない。
 エレンという女はどうも「女の勘」という類の色恋沙汰に特化した第六感は持ち合わせていないのだが、逆にそういう話題以外の事ならば驚くほど勘が鋭い時がある。
 それが、今だった。

「ハリード、故郷に戻るの?」
「・・・・・・何のことだ」

 唐突なエレンの質問に、ハリードは一瞬答えるのを躊躇うかのようにして言葉を紡いだ。
 一丁前に平然を装おうとしている様子だが、彼女にはそんな内部の揺らぎもお見通しだ。

「おっさん、なんか無くしたって顔してる」
「・・・・・・」

 エレンに唐突にそう言われ、ハリードは何やら憮然とした表情で眉間に皺を寄せる。
 全く、年甲斐もなく表情のわかりやすい男だ。
 だが諦め悪くハリードも一つ息を吐き、それによって冷静さを取り戻して口を開こうとするが、それにもエレンが空かさず牽制した。

「誤魔化しは要らないからね。あたしには分かるの。だってあたしが、そうだから」

 エレンは、彼女の中で絶対の確信を持っていた。この男は、恐らく今、何か大きなものを『無くして』いる。
 お互いに生まれも育ちも年齢も性別も、何もかもが違う。だがそれだと言うのに今のこの男は、自分と全く同じ表情をしているのだ。
 自分だってこんなことを話している余裕は本当は一秒たりともないというのに、まるでこの男の様子は、そんな風に無様に焦るばかりの自分自身を見せつけられているようで、皮肉なほどに彼女は先ほどまでの心中の荒れ模様が嘘のように冷静さを取り戻していた。

「・・・そう、だったな」

 エレンの言い様に全く以て返す言葉を失っていたハリードは、漸く絞り出すようにして、そう言った。
 その納得しきりという雰囲気の言葉がまるで、元々お互いそうであったことを今更思い出したかのような言い草だったものだから、エレンはどうにもその部分には納得がいかずに眉間に皺を寄せる。自分で言っておいてなんだが、このおっさんなんかに自分のそんな姿を見せた覚えは、特にないはずなのだが。

「ふ・・・そんな顔するな。俺にも分かっていることくらいあるんだ」

 エレンが考えていることが表情からあまりにも分かり易く読み取れるので思わず口をついて息が零れ、そのまま言葉を紡ぐ。全く、この女と関わると小難しく悩んでいる自分がどこか馬鹿らしく思えてきてしまう。
 だが、それでも勿論、彼の抱えている空白は何も埋まらない。
 そしてそれは、一方のエレンも同じことなのだ。
 しかし、そういう場合にとりあえず一歩踏み出すためのきっかけを、何かを変えるための手段を、エレンという女は知っている。
 このハリードという男に、既に教えられているのだ。

「一緒に行ってあげる」
「・・・あ?」

 エレンのいきなりの言葉に、ハリードは思わず声を上げる。

「とりあえず船でリブロフに 行くんでしょ。私もそっちに用事あるの。だから、一緒に行ってあげる。さぁ、いきましょ」
「お、おい・・・」

 ハリードが声をかける間も無く、エレンは乗船口へと向かって歩き出してしまった。しかもなんと船賃を要求する船員に対して、連れが一緒に払う、とでも言うような仕草でハリードの指さす始末だ。
 そして当然のように船員がハリードに向かってにやりと笑いかけながら手を差し出してくると、暫し呆気にとられていたハリードは成す術もなく船員に追加の船賃を手渡したのであった。

(サラが寄越してきた手紙は、リブロフが出処だってトムは言っていた。もう二ヶ月以上も前のことらしいけど、このご時世に女の子の一人旅なんて絶対に目立つわ。足取りが辿れる可能性は、けっして低くはないはず)

 エレンは背後に追い付きながら何やら執拗に抗議の声を上げているハリードを半ば無視するようにしながら歩を進めつつ、思考していた。

(あの子はトムの元で成長して、一年前よりとても逞しくなったと思う。多分あたしなんかより色々と知っていることも多い。でも、それだから安心なんて・・・全く出来ない。あの子をこのまま信じて戻るのを待つなんて、できっこない)

 ロアーヌで喧嘩別れをしてから数ヶ月後にピドナで合流して以降、エレンの目から見てもサラはとても活き活きとしていた。カタリナカンパニーの秘書役として精力的に働きながら、周囲のいろんな人物との交流にも積極的だった。以前の臆病だった性格からは信じられないほど、随分と変わったように感じられたものだ。
 だが、姉としてそんな妹の変化を好ましく思うと同時に、一方では何とも形容し難い小さな違和感が頭の片隅にずっとあったのも事実なのだ。

(あたしだけが取り残されていく、みたいな醜いだけの感情じゃない。いや、それがあたしのなかに全くないわけではないのも事実だけど、兎に角この違和感は・・・そんなんじゃないのよ。もっと漠然としていて掴みにくいけれど無視することは絶対にできない・・・そう、直感みたいなもの)

 今ここでサラを追いかけなければ、もう二度とサラとは会えなくなってしまう。
 大袈裟ではなくそれが本当に起こるかもしれないというような、そんな焦燥感。
 エレンは今この時になって、この直感は全く正しいのだと殆ど確信していた。

「おい、聞いてんのかエレン!」
「なによ、煩いわね!」

 いよいよ肩を掴まれながら制止され、そこで漸くエレンは彼女を引き止めてきたハリードに向かって罵声を浴びせながら振り返る。
 対して、まさか自分の正当極まる抗議に対して『煩いわね』などと乱雑な返しをされるとは思ってもみなかったハリードは大層面食らったようで、言わんとしていた言葉もすぐには出てこなかったようだった。

「なによ、もう船賃払っちゃったんでしょ。ならいつまでも女々しいこと言わないでよ」
「いやお前女々しいとかそういう・・・つかお前、俺が何でリブロフに行くのかとか・・・」
「目的は、リブロフじゃないでしょ」

 ぴしゃりとハリードの言葉を遮るように、エレンがそう断言する。
 するとハリードはその言葉が図星であることを肯定するかのように、続く言葉を発せられずに押し黙った。

「ていうか、どうせ目的なんてないんでしょ。分かるわよ。だって顔にそう書いてあるもの」
「・・・・・・」

 エレンのずけずけとした物言いに、しかしハリードは返す言葉がない。
 だがそこでエレンは追撃をするでもなく、なにを思ったかハリードの手を取り、甲板へと歩いていく。

「お、おい、なんなんだ」

 自分よりも歳が十以上も下の娘に手を引かれるという構図に困惑しながらハリードが声を上げるが、そんなことは知ったことではないエレンは、問答無用で彼を船首付近の甲板の縁まで連れて行った。
 そして船の縁に手をかけられるあたりで立ち止まり、船上を吹き抜ける潮風を全身で受けながら、これから船が向かわんとしている南へと視線を向ける。

「ほら、海を見て風に当たれば、気分も変わるわ」
「・・・お前なぁ・・・」

 ハリードはすっかり呆れた様子でエレンに何かを言おうとするが、しかしエレンはこちらに視線を合わせようともせずに、南の水平へと瞳を向けている。
 その様子を見て又しても彼女にかける言葉を失ったハリードは、結局他にやれることもなく、彼女に倣って南へと視線を傾けた。
 そこには、最近はやたらと見慣れたピドナの港の風景と、そしてその先に広がるトリオール海の景色。
 船の上ということで高さは違えど、先ほども見ていた光景だ。そこに吹き抜ける風も、別段先ほどのものと何が変わるわけでもない。
 だが、それだというのにこれは、一体どうしたことだろう。
 ついさっきまでの自分よりも確かに彼は今、その心が不思議と落ち着いており、静かに前を向いているのだ。

「ね。気分、変わったでしょ」

 その様子を見抜くように横目でハリードをちらりと覗いたエレンは、口の端を吊り上げるようにしながら、ニヤリと笑って見せる。因みにこれはハリードの笑い顔の真似なのだが、本人が思っている以上に全く似ていないので本人にはこれっぽっちも伝わっていない。
 だが自分の中に不思議と冷静さが宿っていることを確かに実感していたハリードは、エレンに応えるように自分の未熟さを皮肉って口の端を吊り上げて返し、そしてエレンの頭をがしがしと乱暴に撫でる。

「やだちょっ、なにすんのよ!」
「礼だ、とっとけ」

 これには予想通りに喚き散らすエレンに対し、ハリードはどこ吹く風で海へ視線を向ける。

「・・・礼を言われる筋合いなんてないわ。まだ何も変わっていない。変えていくのは、これからでしょ」

 乱された頭頂部の髪を整えるように手櫛で流し、トレードマークのポニーテールを結び直しながらエレンが言う。
 対してハリードは肩を竦めながら、一つ息を吐く。

「変わったじゃねえか」

 腰に身につけたカムシーンと名付けている曲刀に手を触れ、半身をエレンへと向ける。

「さっきまで一人だったのが、今は二人だ。これは大きな変化だろうよ」
「ふん・・・一年前のことくらいは、覚えていたみたいね。ボケてなくて安心したわ!」

 ハリードの言葉にエレンは満面の笑みで応え、そしてふと真面目な面持ちに戻って海を見た。

「あたしは、サラを探す。おっさんも向こうで用事が終わったら、手伝ってよね」
「俺よりも目的が明確な分、分かりやすくていいな。前金次第では、考えてやろう」
「おっさん、あたしにそんな金があると思ってんの?」

 そうして他愛のない会話をしながら二人が出港を待っているところに、ふと視界の端に市街地の方面から走ってくる鮮やかな布地の色の衣服を身に纏った人物の姿が映った。
 どうやらその人物は声を発しながら向かって来ていたようで、エレンがその姿にしっかりと気づいた時には、その聞き覚えのある声が耳に届いていた。

「エレンーーー!!」
「あ、モニカ!!」

 走り寄ってきたモニカの姿を認めたエレンは、船の縁から身を乗り出すようにして大きく片手を振った。

「エレン、いったいどこへ行くのです!?ハリード様まで!」
「モニカ!あたし、サラを探しに行くわ!おっさんも野暮用よ!どうかトムに宜しく言っておいて!」

 エレンがモニカに向かって声をあげている合間に、いよいよ二人の乗った船の出港を知らせる鐘の音が辺りに響き渡る。
 もうそこから先は、何やら叫んでいるらしいモニカの声も全く聞こえず、エレンは体全体を使うようにして目一杯手を振るだけだ。

「お前、仮にも母国の侯族を呼び捨てって、まずくないか?」
「いいのよ、第一モニカから言ってきたんだし。ってかおっさん、そういうの気にするタチだっけ?傭兵ってどっちかっていうと反体制主義じゃないの?」
「いやまぁ一般的にはそうかも知れんが、俺にも一応、事情っつうもんがあってだな・・・」

 なんでか気安く呼び合っている二人の様子をみてハリードは思わず突っ込むが、思いの外鋭い返しが来たものだから口籠ってしまう。
 そのまま視線を戻し、港が見えなくなるまでモニカに手を振り続けるエレンを尻目にハリードは船の食堂へと向かうことにした。
 何しろ、予期せぬ出費で二人分の船賃を出すことになったのだ。これはしっかりと元を取らなければ、やっていられないというものなのである。

 

「なーるほどな・・・。状況は大凡、分かったよ」

 ハンス邸にて行われていた話し合いの中で、ウィルミントンからピドナに辿り着くまでの話を聞き終えたポールは、ゆっくりとそう言った。そして自分の中で考えを纏めるようにコツコツと指先で米神の辺りを突きながら、状況整理とこの後に行うべき行動の指針について思考する。

「・・・しかしまぁ、なんつーか流石はルートヴィッヒだな。一本取られた・・・ってか、全く予想だにしなかった行動だわ」
「あぁ。ただ彼の今回の決断は、我々の向かう方向と限りなく近いのも確かだ。今の我々に選べる選択肢は殆どないが、前向きに捉えるしかないだろうね」

 トーマスの見解にポールは薄く頷きながら、しかし直後に彼の隣で視線を落としたまま表情を固くしているままのミューズへと視線を移した。
 当然その更に隣に控えるシャールも同じような表情であり、彼女等からしたらこの状況の好転の仕方は、そう簡単に受け入れられるものではないだろうことが窺える。
 だが、やるからにはそれを飲み込み、理解してもらわねばならないだろう。なので、単刀直入に聞いてみることにした。

「ミューズさんとシャールさん。あんた達は、どう思っているんだ?」
「・・・・・・・」

 二人はポールの問いかけに、しばし無言で応える。だが、ポールは特に答えを急がせようともしない。こういう問題は自分で答えを出さなければならないのだ、ということを、彼はキドラントでの騒動から経験している。
 やがて、ミューズが面を上げた。

「私は、この機を逃すべきではないと、理解しています」

 短く答えるその様子を、ポールは見つめる。
 彼女の瞳には、迷っている様子はない。
 隣のシャールもまた、そんな主君を真っ直ぐに見つめている。既に彼は主君の意志に従うと決めているのだ。

「当然、油断はしません。あの男がいつ我々に仇をなす行動を起こすのか、わかりませんから。でも今暫くは、あの男の提案に乗りましょう。それが我々のためであり、メッサーナの為になると私は理解しています」
「・・・あぁ、そうだな。兎に角こいつはチャンスだ。これを機に逆にこちらがあちらさんを喰っちまうつもりでいこうぜ」

 最愛の父を討った仇に対し、この若い娘はしっかりと折り合いをつけようとしている。それのなんと気丈で、聡明なことか。
 仮に自分があの時にニーナを失った上で祖父や教授と対峙していたら、たとえ全ての事情を知ったところで、彼らに対し何もしないでいられる保証などないと感じてしまうだろう。

「・・・じゃあ、やることは決まっているわけだ。明日のピドナ宮殿でのなんとかの集いとやらで、予定通りロアーヌの戦線への経済的支援を進めるんだな?」
「その通りだよ。そこまでは既にルートヴィッヒ軍団長とも話をしている。今年は現在魔物と交戦中のロアーヌを除いたほぼ全ての主要都市の要人が集まっているらしいから、行動を促す効果は相当に高いだろう」

 ポールの問いかけにトーマスが頷きながらそういうと、ポールは手元の紅茶を一口飲んでから両腕を組んで背もたれに寄り掛かった。

「となると、そこからは例のアビスリーグとやらに関する情報を探っていかなきゃならないな。んー・・・こりゃヤーマスでドフォーレ捌いてもらっているキャンディにも協力を仰いだほうがよさそうだ。ロビン、済まないが一度書簡を持ってヤーマスに渡ってもらえるか?」
「構わない。街がどうなっているのかも気になるしね」

 ロビンの快諾を得ると、今度はブラックへと視線を移す。

「ハーマン・・・じゃないんだよな。ブラック、でいいんだっけ」
「ブラック様でもいいぜ」
「オーケーブラック様、お宅は俺に付き合ってもらうよ。潜って情報収集をするのに、あんたの雷名はめちゃくちゃ役立ちそうだしな」

 軽口に軽快に返してくるポールにブラックがふんと一息吐いて反応すると、ポールはそれに肩を竦めて返しながら話を纏めにかかる。

「よし、ロビンとブラックと俺はすぐにでも動き出そう。情報が上がり次第共有するから、トーマスの旦那はミューズ様やモニカ様を頼むよ。それじゃあ・・・」

 そう言って席を立とうとした丁度その頃合いになって、息を切らせた様子のモニカが帰ってきたところだった。

「モニカ!エレンはどうだった?」

 彼女の姿にいち早く反応したユリアンが問いかけると、モニカは何やら彼女にしては珍しく呆けた様子で、ぽつりとつぶやいた。

「エレンとハリード様が・・・駆け落ちしてしまいました」
「・・・え?」

 モニカの突然の衝撃的な告白に、その場の一同は凍りついたように固まってしまった。

 

 

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第八章・3 -十年前の悪夢-

 

「・・・こんなものでいいですか?」
「ええ、ありがとう。すっきりしたわ」

 世界でも指折りの標高を誇るルーブ山の麓にある実に簡素な宿場宿に、カタリナとフェアリーは登山の準備をするために立ち寄っていた。
 ルーブ山には、こうした幾つかの小規模な宿場が複数の登山ルート上に点在しており、その殆どは様々な鉱山資源の宝庫であるルーブ山脈と商都ヤーマスとを行き来する鉱山作業員や、その作業員らを商売相手とする行商人達の憩いの場として機能している。
 更に以前にはもっと大きな宿場町や農村もちらほらとあったようだが、ルーブ山に棲む悪竜グゥエインによる断続的な被害によって、そのような規模の人里はこの数十年で縮小の一途を辿っていた。
 なので今となっては、最低限の機能を有する簡素な宿と鉱山作業員の作業用に設えられた何もない広場だけがあるのみの殺風景な場所が殆どだ。
 翌朝には直ぐ出発する予定で一泊の宿を取っていたカタリナは、宿の裏手でフェアリーに散髪を頼んでいた。ロアーヌを旅立ってからこの一年ほどですっかり伸びてきていた髪を、旅立った時と同程度まで切り揃えるためだ。

「人間の美的感覚は私たち妖精にはあまり分かりませんが、カタリナさんの髪はとても美しいと思います。なんだか、勿体ない気がしますね」

 自分の頭の後ろあたりを手で触りながらカット部分の具合を確かめて礼を言うカタリナに対し、フェアリーは率直にそんな感想を抱いて口にした。だが、カタリナはそれには少し困ったような顔をして微笑む。

「・・・長い髪は、確かに人間の間では女性を美しく彩るために用いられる慣習ね。髪は女の命、なんて言葉もあるほどよ」
「え、じゃあ今私、カタリナさんの命を切ったんですか・・・!? ひょっとしてLP減りました!?」

 フェアリーのいうえるぴーというものがなんなのかはカタリナにはいまいち理解が及ばなかったが、兎に角そんなに心配するようなものではない、と優しく付け加えた。
 彼女にとって長い髪とは言わば、「かつての自分」を表すものだ。つまりはロアーヌ貴族であり、モニカの侍女であり、そして不相応な幻想を抱く愚か者であった彼女の象徴のようなもの。そんな自分と、少なくとも心の内では確りと決別をする意味で、あの夜に髪を切り落としたのだ。そんな彼女からしてみれば、長い髪に一切の執着などないのである。
 むしろ今となっては短い髪の方が動きやすさもあるし、当たり前だが戦闘には此方の方が適しているなと感じるほどなので、必要に迫られなければ今後も髪を伸ばすということはしないだろうな、とすら考えていた。

「そういえばカタリナさん」

 髪を切るために彼女の首から下を覆っていた布を払いながら、フェアリーが問いかける。

「今更になって聞くのもあれだとは思うんですが、グゥエインという竜は、普通の竜とはどの様に異なるのですか?」

 妖精族の中でも聖王に纏わる記憶は聖王記の内容を中心として継承されており、聖王が四魔貴族の一柱である魔龍公ビューネイを打ち倒すために巨龍ドーラと共闘をしたということは知られている。だが、基本的に人界との接触を絶ってきた妖精族では、この三百年の間に人間を苦しめてきた悪竜グゥエインという存在のことを、殆ど知らなかったのだ。

「うぅん、実は私もそれほど、グゥエインという竜について知っているわけではないのよね」

 フェアリーの問いに何とか応えようと頭の中で考えを巡らせながら、自身も散髪の後片付けをしつつ思考を巡らせた。
 カタリナの知るグゥエインという竜に関する情報は、それこそ世間で噂される悪評以上のものは殆どない。十数年に一度程度の頻度でルーブ周辺を中心として人里を荒らし周り、血肉を喰らい宝物を奪う存在。それだけだ。
 大前提として竜種とは、人に仇為す存在としては異形の中にあって最も恐れられる種族である。
 中でも一部の「巨龍種」と呼ばれる存在が非常に突出した存在感を放っており、その数は基本的に極少数でありながら、個体ごとの脅威は他の妖魔と比肩するべくもないほど強大なものである。
 巨龍種とは巨人族にも全く引けを取らない体躯を持ちながら、その強靭な翼によって飛行能力を持つ。この時点で人類が対抗することそのものが馬鹿らしくなってくるほどの脅威ではるが、更には多くの巨龍種が体内に個体別の独自器官を持っている。主にそれは捕食行動の際に活用される器官だが、猛毒、電流、炎など、それらをブレス状にして口腔部から放射するという、およそ生物としては正に規格外の攻撃手段を持つ。
 グゥエインという竜は、この巨龍種に分類される竜であるとされている。
 ただこのグゥエインという竜に関してが殊更に特別視されている理由としては、他の巨龍種と比べても非常に独特な活動の記録による。
 前述の通りグゥエインは人里を定期的に襲うが、実のところ他の巨龍種にはこのような行動は殆ど観測されていない。また、通常の捕食行動とは別に金銀宝飾物等を意図的に奪うことから、流石に人間にあるような金銭的な意図はないとしながらも、その物質の希少価値を理解する知能を持っているのではないか、と推察されている。
 竜種の研究者によれば、その集めた財の量によって己の力の誇示を表しているのではないか、とも言われている。
 このように、グゥエインという竜は他の巨龍種ともまた異なる存在として、人々に恐れられる存在なのだ。
 そのようなことをフェアリーに話しながら、しかし今回改めて詩人からグゥエインとの対話を提案されたカタリナには、このグゥエインという存在に対して、驚くほど嫌悪感を抱いていなかった。

(・・・それはおそらく、聖王様の記憶が関係しているんでしょうね・・・)

 当然カタリナもグゥエインという竜の存在は幼少の頃から聞き及んでいた。丁度、自身がロアーヌ騎士団候補生であった十年ほど前の時分にグゥエインの人里襲撃の報を聞いていたこともあり、それが悪しき存在である、ということも当然に認識はしている。
 だが此度の詩人からの提案を受けた時に、彼女はグゥエインに対して嫌悪感や拒絶感を抱くことがなかった。何なら寧ろその逆ですらあり、その名を酷く懐かしく感じるような感覚すら覚えたのだ。
 それも、ハリードが指摘したようにグゥエインが友人の子・・・つまり、巨龍ドーラの子であるとするのならば、違和感もない。
 聖王の中ではグゥエインとは、あくまで友人の子であり、人間を脅かす悪竜ではないのだ。その記憶、感覚が指輪を通じて自分にも流れ込んでいるということならば、なんの不思議もない。
 そしてその辺りの事実だけを切り取って考えるならば、グゥエインが天空にて相対するビューネイを討つために自分たちとの共闘という判断に至る可能性は、十分にあるだろう。今回の要請に一定の信憑性があると感じられるのは、そういった部分が大きい。

「・・・でも、今のグゥエインにとって人間とは、寧ろビューネイ以上に憎いのではないでしょうか・・・?」

 カタリナの話を聞きながら、フェアリーがそう呟く。
 カタリナも気になっているのは、正にそこなのであった。
 聖王記によれば、聖王と共にビューネイを討った巨龍ドーラもまた、人里を襲う悪竜であったとされる。そして最終的には聖王の手によって、その命を終えているとされる。
 こうなってくると、何しろグゥエインにとっては、人間とはつまり親殺しの仇敵だということであるはずだ。その上であっても、ドーラと同じように人間に協力をするなどという筋書きは、果たして本当に成立するのだろうか。

「自分の親を殺した相手との共闘・・・か。目的を達成する為の手段としてそれが最良であったとしても、私たち人間はどうしても感情で動く生き物だわ。直ぐに納得なんて、私ならば出来ないかもしれない。人と竜の精神構造を同一に考えることは出来ないのでしょうけれど、もしグゥエインが噂通りに知性を持つ竜であるのならば、どんな判断をするのかしらね・・・」
「そうですね・・・人と竜とは、当然ながら異なる思考を持つ生物だと思います。でもこればっかりは、話をしてみないと予測がつきませんね・・・。あり得ない話ですが、仮に私たち妖精族が大樹を焼き払ったアウナスの陣営と何らかの事情で手を組まなければならない・・・なんてことになったら、それは種族として絶対に考えられないと判断するはずです」

 フェアリーの言葉に神妙な表情で返しながら、カタリナは北に聳える龍峰ルーブへと視線を投げかけた。
 その峰は分厚い黒雲によって覆い隠されており、その様はまるでこれからの世界の行く末を示すかのように、カタリナには思われた。

 

 

 静海、洋上。
 ウィルミントンとピドナを結ぶ航路にて。
 その厳重に武装された数隻の軍船が隊列を成して航海するその様は、まるでこれから大規模な海戦が始まるのではないかと思われるほどに雄々しく、そして荒々しく周囲の漁船からは映ったことだろう。
 その列を成す軍船の中央、一際に立派な軍船のその広々とした船内の一室で、トーマス、ミューズ、シャール、ハリード、ブラックは多くの近衛騎士に囲まれる中、近衛軍団長ルートヴィッヒと対談の席についていた。
 矢張りというべきかルートヴィッヒはトーマスの事も既に調べており、彼が名門メッサーナベント家の嫡子にして、現在経済界を引っ掻き回しているカタリナカンパニーの副社長を務めているということや、隣にいるミューズ等との繋がり、その経緯も、事細かく認識していた。
 その上でルートヴィッヒがこの席で切り出した言葉に、トーマスは思わず耳を疑った。

「クラウディウス家と・・・講和を結びたい・・・!?」
「その通りだ。無論、私が実質的にクレメンス卿の仇であるという事実がある以上、御息女であるミューズ殿においては簡単には受け入れられるものではないだろうということは理解している。だが、その上での提案だ」

 自分とテーブルを挟んで真正面に座するルートヴィッヒのその提案は、トーマスにとっては全く不可解なことであった。なにしろ、このような状況でそのような提案をされる謂れが、彼には全くわからなかったからだ。
 彼の隣に座って表情を固くしているミューズとシャールを視線で確認し、そしてトーマスは改めてルートヴィッヒへと向き直った。

「・・・ルートヴィッヒ軍団長殿。お言葉ですが、この状況で講和という提案には、些か疑問が残ります。正直に申し上げて、今貴方は、この場で我々を海の藻屑とする事もできる。講和どころか、今こそ完全にクラウディウスという家名をこの世界から消し去る事ができるでしょう。これまで貴方がクラウディウス家やその他、貴方に反抗的だった諸侯に行ってきたことを思えば、その渦中での講和という提案にどれほどの信憑性があるのか、私には図りかねます」

 ミューズらに気を遣う事もなく、トーマスは正直にその胸中を語った。この後に及んで、下手な腹の探り合いなどしている状況でもないのだ。
 とはいえ、彼らがこの場にいる近衛騎士団の剣の錆になるということは、あり得ない。
 仮にこの場にいる騎士全員が一斉にトーマスらに斬り掛かってきたとしても、正直この面子ならば負けることは有り得ない。それどころか、この中の誰か一人で相手の制圧すら可能だと思われる。なので、そのような心配しているわけではない。
 抑も、此方からの武力行使という選択肢を取るならば、ここに来る前にウィルミントンのホテルで既に実行していた。
 だが、そんなことをすれば自分たちはまんまと「メッサーナ王国への反逆者」という烙印を押され、全世界から指名手配されるのが落ちだ。それは今後の彼らの活動に取り返しのつかないほどの多大なる不利益を被ることになっただろう。
 だから敢えて、大人しく連行されてきたのである。
 だが今この場だけに限って言えば、さしものトーマスらとて、この船ごと周囲の軍船から大砲の集中砲火をされれば、それで一巻の終わりでもある。このような洋上で海に投げ出されれば、人の身では文字通り海の藻屑となることは免れない。
 それをトーマスと同じく理解しているはずのルートヴィッヒもまた、歯に衣着せぬトーマスの物言いに正面から答えるように薄く頷いた。

「確かに我々には、そう言った選択肢も取ることは可能だ。だが、その選択肢は双方に無益という結論に私は至った。だから、講和という提案をしているのだ」

 ぎりり、と強い歯軋りの音が聞こえる。それに気がついたトーマスが音のした方をみれば、そこには顔面が紅潮し激昂した様がありありとわかるシャールが、今にもルートヴィッヒに襲いかかりそうな様相だった。だが彼は己の膝を折れんばかりに握りしめながら自分を必死に律し、息を荒くしながらも、努めて冷静に口を開いた。

「ルートヴィッヒよ、俺は五年前のあの時、貴様に言ったはずだ。絶対に貴様の軍門になど降らん、と。貴様はその返答として、この俺の右腕の腱を切ったはずだ。それが今更、どの口でそのような戯言をいうのか!」

 己が主君と右腕の力を失った悲しみを背負った戦士は、今にも相手を貫かんとするような闘気を纏っている。そのあまりの覇気に、周囲の騎士達は思わず直立姿勢を崩して慄く。だが、その様にも一切動じる事なく悠然とルートヴィッヒは答えた。

「シャールよ。私は、お前の騎士としてのその誇り高さを、私なりに理解しているつもりだ。だから、此度は我が軍門に降れ、などとは言っておらぬ。あくまで、互いが対等の立場での講和を望んでいるのだ」

 ある意味では鉄面皮、とでもいうのだろうか。
 そんなことを考えながら、トーマスはルートヴィッヒとシャールのやり取りの様子を細かく観察していた。
 このルートヴィッヒという男は、見た目から推察できる年の頃は、恐らくハリード辺りとそう違わないだろう。
 世界最大の国家の実質的な支配者としては、あまりに若い。そういう意味では間違いなく、ミカエルなどと同様に時代に愛され、成る可くして頭角を現した傑物の一人であろう。
 ピドナの支配者となってからも継続した広報に余念がないこの男の顔は、宮殿主宰の催しの際の演説等でトーマスも何度か見かけている。
 その様は実に饒舌で多彩な話術に長け、その整った顔立ちも表情豊かで、人心を掌握することに長けた為政者だというのが、当初のイメージだった。
 だが今この場にて相対している彼の表情は、一体どうしたことだろう。
 確かに表面的には以前から見かける通りに、表情豊かに振る舞っているかのように見える。
 だがこの会談の間中、彼の表情の変化はなんというか、妙に無機質的なのだ。
 だが、いつもの精彩を欠いているというよりは、元が実はそうであったのではないか、と感じる様な違和感なのである。
 幾重にも移り変わる表情の一つ向こうには、一切変わることのない鉄面皮が存在している。今日の彼には、特に瞳にその様な印象があり、それで表面上の表情だけの変化に異様な不気味さを覚えてしまうのだ。
 そしてもう一つトーマスが気になるのは、その声だ。
 ルートヴィッヒのよく通る低めのテノールは耳に心地よく、人の心に語りかけるような響きを持っている。だがその声色は聞くものによっては何処か演技がかっていて、背後に狡猾さが透けて見える様にも感じられた。特にトーマスには最初からその様に感じられていたので、より強く印象に残っている。
 だが今この場に於いては、その声色から其れ等の印象を見出すことは出来ない。
 つまり彼の表情と声色から推察する限り、驚くべきことに彼は真にこの講和という話を推し進めようとしているようなのだ。
 それであるならば、とトーマスは緊迫した空気の中の二人を取り成すようにして身を乗り出した。

「ルートヴィッヒ軍団長殿。双方の講和とは、具体的にどのような条項の上での締結を想定されているのですか?」
「まず、現在近衛軍が管理しているクラウディウス家の屋敷、及び旧クラウディウス家統轄領の返還をさせてもらいたい。第二に、故クレメンス卿の名誉回復を目的としたピドナ新市街での石碑の建築を行わせていただきたい。第三に、今後クラウディウス商会を再興させるという方向性で動かれるならば、その活動に対する近衛軍団としての継続的な支援を約束したい。そして最後に、クラウディウス家が宮廷中枢への復権を望むのならば、それも歓迎しよう」

 それまでの彼にしては実に淡々と、ルートヴィッヒはそう語った。
 その内容は、ミューズ、シャール、そしてカンパニーにとって、全く以て歓迎することしかない条項だ。正直に言えば、あまりに条件が良すぎて此方を馬鹿にしているのかと思いたくなるくらいの提案内容だといえる。これではまるで、戦争の実質敗戦国が提示するような条項とすら言っていい。
 だがトーマスは、彼もまた対面するルートヴィッヒに倣って淡々と真顔のまま、当然のように問いかけた。

「では、我々に対してルートヴィッヒ軍団長殿が望むことは何でしょうか?」
「先の内容で友好条約を結ぶこと以上は、特段望んでいない。だが・・・強いていうならば、この講和と、そしてクラウディウス商会及びその大元であろうカタリナカンパニーへの公的支援という形で以て、一連の世間の軍団に対する反発が止むことを狙う、といったところだ。伝説の四魔貴族をも打倒した稀代の英雄に迎合しようという思考は、なにも特別なことではないということだ」

 その言葉に、トーマスは軽く目を見張る。
 何とこのルートヴィッヒという男は、どうやら既にカタリナらのフォルネウス討伐をすら、把握しているようだった。
 カタリナ達が死闘の末に西太洋から帰還してから、まだ一週間程度だ。それこそ世界では、バンガードが伝説の通りに移動要塞となったことすら未だ知らない人々で溢れかえっているであろう。だというのにこの男は恐らく、バンガードが動いた時から既に情報を得、そして事細かに集めていたのだ。であれば、あの崖でバンガードの帰還を待っていた自分もまた、その一挙一動を完全に把握されていたのだろうという理解に至る。
 だがそれらを踏まえても、この男が一体どのような腹積りであるのかは、相変わらずその表情からは読み取ることは叶わない。とは言え、当然このような場所でこれほどの男が、単なる冗談をいうわけでもないだろう。
 トーマスは短時間の間に目紛しく活動する己の思考を一度止め、冷静になるべく周囲の仲間の様子を伺った。
 ミューズとシャールは、矢張りというべきか怒りと当惑とが入り混じった様子だった。何しろ今のルートヴィッヒの言うことが全て叶うのならば、クラウディウスは五年前の状況を単純に取り戻すだけだということなのだ。
 更には、クラウディウス商会の活動に制限をかけるどころか、全面支援を行うとすら言っている。
 今の状態でクラウディウス商会を再興すれば、クラウディウス家が世論の支持を集めることは容易だ。その上でクラウディウス家が政への参加を行えるともなれば、世論の後押しを上手く用い様々な制度改革へと着手する事も将来的には可能だろう。
 その人気取りを共に行いたいというのは分かる部分ではあるが、それでもこれまでルートヴィッヒが首都ピドナで推し進めてきた様々な政策からは全く以て反していくに等しい提案でしかないし、正にトーマスらが以前に思い描いた通りの方向に進めることが出来る提案であるのだ。
 その出来すぎた内容に強烈な胡散臭さを感じるのは、ある意味で当然の感覚と言えるだろう。
 一方で更に視線を動かせば、ハリードとブラックは、なんらこの手の話には興味がない態度であるように思われた。
 案の定というべきなのか、ブラックは気ままに煙草を燻らせ、ルートヴィッヒの方を向いてもいない。その様を周囲の騎士が睨みつけている事も十中八九本人は分かっていながら、まるでそんな状況をすら面白おかしく楽しむかのように煙を吐き出すのみなのだ。
 そしてハリードは、腕を組んで静かに目を閉じている。まるで眠っているのかと思われるほど微動だにしていないが、その姿勢や纏う空気に一切の隙がないことは、見るだけで分かる。彼はどうやらルートヴィッヒと知らぬ仲ではないような雰囲気であったが、それが今の彼の態度に関係しているのだろうか。
 それらを見渡し終えたトーマスは、ルートヴィッヒに視線を戻した。

「・・・返答は、少々待っていただいても?」
「構わない。突如の話で、考えるところも多いだろう。ピドナに着くまでに決めてもらえればいい」

 これもまた呆気ないほど簡単に、ルートヴィッヒはこの場での返事を求めなかった。
 つまりこれは、彼の中ではこちらが考える時間を与えても何の問題もない、という認識であるということだ。
 トーマスはそこまでを確認すると、分かりましたとだけ述べて、席を立つ仕草をした。それに合わせてハリードとブラックも立ち上がろうとしたが、しかしそこで一人、一切動かないものがいた。
 ミューズだった。
 彼女は、真っ直ぐにルートヴィッヒを見つめ、そしてこの場において初めて口を開いた。

「ルートヴィッヒ軍団長、一つ、質問をよろしいですか」
「・・・伺おう」

 ルートヴィッヒもまた動く様子なく、姿勢を崩さずに彼女に応対した。そしてミューズは、短く質問を口にした。

「お父様を・・・クレメンス=クラウディウスを殺害指示したのは、貴方なのですか」

 しんと、その場が静まり返る。
 何も気にする事なく煙草を燻らせるブラック以外の面々が全て動きを止めたその空間で、ルートヴィッヒは深く息を吐き、そして浅く頷いた。

「直接の指示ではない。だが無論、深く関与はしているし、私が当時それを望んでいたのは事実だ。その真相も、他ならぬ貴女が望むならば語ろう」

 ひんやりと、その場の空気が冷たくなるのが誰しもに感じられた。それは気温で感じるようなものではなく、正に怖気を感じるといったような、そんな冷たさだ。
 それは、魂をすら凍りつかせるという月の精霊の息吹を行使することのできるミューズが、その身に宿す魔力を無意識に拡散させてしまった結果だった。
 だが彼女もまた、激昂の内にありながらも己を律したシャールと同じく、すぐにその魔力の胎動を収めてみせた。

「今は、そのお言葉だけで十分です」

 そういってミューズが立ち上がると、それに合わせてシャールも立ち上がった。そうして部屋の中にいる騎士らに見守られながら、トーマスら一行はその場から外に出て、当てがわれた船室へと案内されていった。
 去りゆく彼らを、ルートヴィッヒは、矢張り表情の読めぬ鉄面皮で見送るのみだった。

 

 

『食い止める、だと?! 背後からも追手が迫る!お前ひとりでどうこうできる数ではない!』

 辺り一体は、既に炎と怒号に支配されていた。
 ゲッシア独自の伝統的な染料で染め上げられた衣服はあっという間に煤で汚れ、挙句には数度となく斬り結んだ返り血で醜悪な斑模様を形成していた。
 歴史あるゲッシアの宮殿が無残にも崩れ去る様を横目に、瓦礫に塗れた道無き道を切り開き掻い潜るようにして、無我夢中で駆け抜ける。
 そしてついには背後からも前方からも悍ましき邪教徒が押し寄せてくることを察知したハリードは、姫と共に隣を走っていたルートヴィッヒが自分の言葉に珍しく冷静さを欠いた様子で怒鳴りつけるのを、場違いにもどこか可笑しささえ覚えながら聞いていた。
 或いは既に自分は、冷静な判断が出来ていないのかもしれない。頭のどこかでそう感じながらも、今の自分にできることはここでの足止めであり、姫を逃すにはこれしかないのだ、と己に言い聞かせ、怒るルートヴィッヒに向き直った。

『ルートヴィッヒ、頼みがある。姫を連れ、お前の祖国、メッサーナに逃げてくれ』
『ハリード!』

 ハリードの言葉に、姫が悲痛な声を上げる。勘弁してほしい。そんな声で名前を呼ばれたら、今し方の決意が、いとも簡単に揺らいでしまいそうになる。
 だが、それは絶対にできない。何より最優先するべきは、姫の命だ。
 自分の覚悟を目で悟ったのか、ルートヴィッヒは苦虫を噛み潰したような表情で、苦悶の声を上げた。

『よもや、我らを逃すための時をかせぐと?』
『なりませぬ!共にハリードも・・・!』

 ルートヴィッヒが決死の様子であるハリードに問いただすと同時に、姫が再度悲痛な声を上げる。だが、その声に応えてはならない。
 決して、応えてはならない。

 

 当てがわれた船室の椅子で船の揺れに身を任せ、浅い眠りに浸っていたハリードは、寝起きが最悪だと言いたげな表情で眉間にシワを寄せながら目を開いた。
 そのままの表情で窓の外を見やると、傾き始めているようだが、それでもまだ陽は高い。時刻は先ほどの会談が終わってから、そう経っていない様子だった。

(・・・見たくもないものを久しぶりに見たな・・・)

 既に微睡は去り、そして勿論、寝起きは最悪だ。このままの状態で無機質な狭い船室の中にいても、気が晴れることはないだろう。
 そう判断したハリードは、フォルネウス戦で折れたものの代わりにバンガードで新たに用意した曲刀を手にして、気分転換に甲板へと出向くことにした。たかだか気分転換にも自らの得物を欠かせない性分は我ながらどうかと思うが、ある意味で此処は敵地のようなものだ。用心には越したことはないだろう。
 そう自嘲気味に思いながら部屋を出ると、程なくして甲板へ向かう階段が通路の先にみえる。軍船内であるというのに一般船舶と比べて通路の広さに国力の強大さを垣間見て皮肉めいた笑みを浮かべながら、波風を求めて外へと登る。
 甲板に出ると、表にいる船員も疎らで、感傷に浸るにはこれ以上ないほどの場所だった。
 なんとはなしに甲板を歩いたハリードは、適当な船の縁に立ち尽くすと、遠く海の向こうに見える陸地へと視線を向けた。
 船の進行方向は、東。となると船の右舷である南側に見えるあの大陸は、南方の密林あたりだろうか。となるとその更に東には、彼の愛して止まない灼熱の故郷、ナジュ砂漠があるのであろう。
 今はもう彼には帰る場所のない、愛するべき故郷だ。

「・・・ハリードよ」

 幾ばくかの間そうしていると、ふと背後に人が近づく気配を感じた。そしてハリードが振り返る前に、先んじて彼を呼ぶ男の声が届く。
 その声は先ほども夢想の中で聞いたばかりだったので、一々振り返らずとも分かる。
 ルートヴィッヒだった。

「・・・何の用だ。今更になって、昔話でもしに来たのか?」

 そういってハリードが振り返ると、そこには先ほどまでの鎧ではなく軍服を纏い、武装も剣のみを腰に下げたルートヴィッヒがいた。先ほど見た時と変わらずの読めない表情のようだが、よく見れば幾分かは外面を省いている様にも見える。それは夢に見た十年前から全く変わっていないようで、しかし改めて見てみれば多少は老けたようにも感じる。ならばそれは、当然自分もそうなのだろうな、と考えた。
 そう。彼の故郷が滅びたあの戦争から、もう十年と言う歳月が流れているのだ。

「お互い、もうそんな間柄ではなかろう。それに俺とお前の間にあるのは、気楽に語れるほど懐かしむような話でもない」
「同意見だ」

 ならば何をしに来た、とは言わなかった。ルートヴィッヒという男はその優れた容姿に反して、昔から何方かといえば必要な時以外は無駄口を叩かぬ、行動派の男だ。だから彼がここに来たのは無論、単なる昔話などをしに来たわけではないのだろうということは、言うまでもなく察しはついている。
 なので、無言で先を促すようにハリードが視線を送ると、ルートヴィッヒはぴくりとも表情を変えずに歩き出し、ハリードの横に並び立って海へと視線を向けた。

「俺はあの時から今まで、何者にも屈しぬ強さを欲し、その為にここまで歩んできた」

 唐突に語り出したルートヴィッヒの言葉に、ハリードは船の縁にもたれ掛かりながら聞き耳を立てる。

「十年前のあの時、俺やお前は、弱かった。俺はあの凄惨な敗戦を経て、己の信を貫くには絶対的な強さが必要なのだと悟った」

 強さ。
 ルートヴィッヒのその言葉に、ハリードは微かに視線を細めた。
 確かに、あの時の自分は弱かった。そして、彼の祖国ゲッシアも自分と同じく、弱かった。
 だから、敗けたのだ。
 英雄アル=アワドの元で興り、数百年続いたゲッシア王朝の唐突な滅亡は、死蝕の数年後という時節も相まって、大いなる時代の変革を世界に印象付ける衝撃的な出来事であった。
 十六年前の死蝕によって、世界は全ての新たな命を失った。
 また悲劇はそれだけに止まらず、世界各地で急激な荒廃を理由とした悲惨な事件が相次いだ。そして、一部の人々はそんな世界を憂い、その救済を『神』に求めた。
 三百年前に四魔貴族から世界を救った聖王は、もういない。ならば今の世界を救うのは、次なる救世主に他ならない。それこそが、魔王を超え聖王をも超えた、神王である、として。
 敬虔なる聖王教国家であるメッサーナ王国の、時の王アルバートと近衛騎士団は、当然にその存在を排除しようとした。そしてメッサーナから迫害された彼らが流れ着いたのが、西方にて聖王を拝しない唯一の国家、ゲッシアだった。
 だが、ゲッシアは英雄アル=アワドが魔王を退けた時から自国力に傾倒する独立王朝であり、ここもまた、異教徒を受け入れることはなかった。
 各地での度重なる迫害に憤慨し、そして遂に蜂起した神王教団が起こした宗教戦争が、聖王暦三百五年のゲッシア戦役である。
 ゲッシア朝は、その長い歴史に浸かり、甘んじ、弱体化していた。その治世は有り体に言って排他的であり、古来からの厳格な階級制度も変わることなく、外部の文明の進化を積極的に受け入れることもなかった。
 確かに蜂起した神王教団は、ゲリラ戦に特化し自爆攻撃まで行う苛烈な戦線を築いた。だが、それでも本来、一国を相手取るには不足していたはずなのだ。それでも、彼らは勝った。
 つまりゲッシアは、その長年の己が傲慢により、自ら滅んだのである。当時の論者は、挙って知ったような口ぶりでそう言った。
 ハリードはその時に故郷、家族、愛する者の全てを失い、それでもついぞ彼自身だけは命を落とすことがなく、喪失感に苛まれながらこの十年という歳月を過ごしてきた。
 しかし、同じくあの時に大半のものを失ったはずのかつての義兄弟ルートヴィッヒは、今こうして世界最大の王国の軍団長として自分の隣に立っている。

「今のその姿が、お前の求めた強さなのか」

 視線は向けないまま、ハリードはそう呟いた。
 すると隣から、ふっと息を漏らす音が聞こえた。ルートヴィッヒが薄く笑った。
 堅物男が笑うと思いの外気色悪いものだな、等と思いながら、ハリードは彼の言葉を待った。

「そうだ。いや・・・そうだった、か」
「なんだ、今は違うのか」

 基本的には物事に対する回答が明快な男のはずだが、それにしてはえらく歯切れが悪い返事だなと感じてハリードが聞き返すと、ルートヴィッヒは先ほど浮かべた苦笑いを崩さぬままに続けた。

「ハリードよ。お前は、世界を救うのか?」

 唐突な質問だった。
 思わずハリードが何を言い出すのだとでも言いたげな顔でルートヴィッヒに視線を向けると、彼は至極真面目な様子でハリードに視線を向けていた。そこでハリードは改めて思い出す。この男は、昔から冗談の類をほとんど言わない男であった、と。

「悪いが、俺が『八つの光』とやらであることを根拠にそれを聞いているのならば・・・答えは否だ。まぁ、余程の前金の上での依頼ということならば、受けるかも知れんがな」

 自分の判断基準は、常に明確だ。
 金になるか、ならないか。それだけでしかない。
 ハリードは、改めて考えるまでもなくそう確信して返答した。
 実のところを言えば、今自分がこうしているのも半分以上は、それが目的である。己の思うところにより行動を共にした側面も確かにあるが、それでもカタリナらとの旅は、単純に様々な事件事案に遭遇することが多く、その中では通常の小さな依頼を幾つ請負っても全く届かないほどの多額の報償金を狙うことが出来た。しかも古代の遺跡やらに足を踏み入れることもあり、そこでの財宝回収も狙える。これなら、稼ぎの選択肢としてはトレジャーハンターも悪くないのではないかと考えてしまうほどだ。
 つい最近ではまさかの四魔貴族などを相手取ることになったが、あの海底宮でも少なくない宝物の回収を行えた。それは一年を只管傭兵業に費やしても、全く届かない様な額だ。戦場と同じく己の命を切り売りしてあれほどの財が稼げるのであれば、それは彼にとって何の不足もない事であった。
 その返答を聞いたルートヴィッヒは、何ら笑うこともなく、そうか、と言って頷いた。

「俺はな、恐らく世界を・・・救おうとしていたのだ」
「ほう・・・祖国の同胞をすら裏切るお前に、よもやそんな高尚な目的があるとは思わなかったな」

 ルートヴィッヒの渾身の冗談に、ハリードは大いに皮肉めいた笑いを浮かべてやる。
 ハリードのいう同胞への裏切りとは、五年前のルートヴィッヒによるピドナ上陸戦のことを指していた。
 当時、既に亡国の王族であるという身分を隠して傭兵業に身を費やしていたハリードは、この戦役でメッサーナ近衛軍団の側に雇われて戦場に馳せ参じていた。戦そのものは流石というべきか時の軍団長であるクレメンス=クラウディウス率いる近衛軍が堂々たる戦いでルートヴィッヒの率いる軍を退け、その際に隊列上翼にて傭兵部隊を率いていたハリードも、この時には大いに稼がせてもらったものだ。
 この時の戦いでは一部隊長であるハリードと敵軍総大将であるルートヴィッヒが直接顔を合わせることはなかったものの、しかし後にハリードは同じメッサーナの民であるはずの近衛軍を攻めたルートヴィッヒの行動がどうしても解せず、後のクレメンス急死によって台頭したルートヴィッヒのいるピドナ宮を尋ねたことがあった。だが、ハリードの何度かの訪問に対してルートヴィッヒが応じることは、ついに一度もなかったのである。
 だが、今更になってその時の真意などを問うつもりは、ハリードにはない。
 もう、そんなことは彼の中では、どうでもいいことなのだ。だが心のどこかで、そんな風に思う事自体が、己の中にあった国を思い民を思う情熱を過去のものとしてしまった何よりの証拠なのであろうな、と無意味に自虐的な感傷にも襲われる。

「・・・己の来た道に言い訳はしない。だが、強くあり何者にも負けぬということは、結果として救世主にすらなるのは世の常なる事だ。だが、俺がそれを目指し進んでいた道の先に、お前たちが忽然と現れた」
「・・・・・・」

 世界最大の大国メッサーナの王位が今や目前にあろうという男が、一体何の理由で自分たちを気にしようというのか。全く話が見えずにハリードが続きを待つと、ルートヴィッヒはハリードに向き直りながら言葉を続けた。

「お前を含む八つの光が、この年の初めに起こったロアーヌでのクーデターを端として活動を開始したことを知り、俺はお前たちの動向を探っていた」
「・・・流石に、情報は筒抜けか」

 これは、恐らくミカエルその人も八つの光であったことも既に知っていると見て良いだろう。メッサーナの間者は文字通り、世界各国各地に潜んでいるようだ。
 ハリードがそんな近衛軍団の情報網に感心していると、ルートヴィッヒはそれに対して皮肉めいた笑みを浮かべた。

「あぁ。だから知りたいことは当然知っているし、知りたくなかったこともまた、知っているのだ」
「知りたくなかったこと、だと?」

 ハリードが眉間に皺を寄せながら尋ねると、ルートヴィッヒは腕を組んで片足に重心を移しながら、どこか自嘲気味な様子で笑みを浮かべた。

「ハリード・・・お前は既に、四魔貴族をすら打倒する力を秘めているのだろう。いや・・・既にその一部の打倒を為した英雄であったな」

 それは、フォルネウスを討伐したことを言っているのだろう。それなら残念ながら自分の功績と言うには全く語弊がある、と言いかけたが、ハリードは今は黙って先を促すことにした。

「先んじてロアーヌもまた、南方密林にあるとされる幻の火術要塞を発見・制圧し、四魔貴族アウナスを打倒した。その際の討伐隊を率いていたのが、フォルネウス討伐にてお前と共にいたというロアーヌの騎士・・・聖剣マスカレイドの所有者であるカタリナ=ラウランであることも伝え聞いている」

 ハリードはルートヴィッヒの言を、黙って聴き続けた。
 そのアウナス討伐に関しても、その実はカタリナらが到着する直前に何者かによってアウナスは既に滅ぼされていたという事情があるのだが、流石にそこまでは伝わっていないらしい。とはいえ、全く舌を巻くには十分な情報収集能力だ。

「特に此度のフォルネウス討伐に関し、あの伝説の移動要塞バンガードを見事起動せしめたその手腕は、実に見事だった。直前のフォルネウス兵の侵攻によって二度と動かすことが叶わぬかもしれなかった、その間際での起動。あれは、どう足掻いてもあの時点の我々には為し得なかったことだ。もしあの時お前たちの機転がなくバンガードがアビスの魔の手に落ち破壊されていれば、最早その時点で世界を救う術が無くなっていただろう」
「・・・・・・ま、そうかもしれんな」

 ルートヴィッヒの言に則って思い返せば、確かにあれは瀬戸際の状況ではあった。
 もしバンガードがあのままフォルネウス兵によって破壊されてしまったとしたら、最果ての島へ辿り着くことも、深海にある海底宮への侵攻も、その全てが不可能になっていただろう。そして再び今の人類がバンガードと同等のものを作り出すには、先ず何よりも結束力というものがない。三百年前に聖王十二将であるフルブライト十二世が中心となって構築した世界経済の結束も、荒廃した世に争わんとする国の結束も、救世を願う人々の結束も。
 勿論、新たなバンガードを今のメッサーナ王国が単独で作り出せるのかといえば、それも現時点では不可能だと言い切れるだろう。それが、最も今のメッサーナを知るルートヴィッヒには解っているのだ。

「つまり、我らでは世界を救えなかった、ということだ。知りたくもなかった己の無力を、改めて思い知らされた」
「ふん・・・随分と殊勝なことだな」

 ハリードが率直に意見を述べると、ルートヴィッヒは何ら動揺することもなく、静かに頷いた。

「思えばもっと以前・・・妖精族を救った時にしても、そうだ。妖精族の里とやらがアウナス軍の侵攻を受けた際、奇しくもロアーヌが軍をトゥイク半島に駐屯させていた。残念ながら今のリブロフの軍は、腑抜けだ。あの時は、ロアーヌの軍でなければ妖精族を救うのは不可能だっただろう。そして火術要塞は、妖精族の助け無くして辿り着くことが適わないと聞く。あの時に妖精族が滅んでいれば、密林からアウナスの侵攻が全世界に広がったかも知れぬ。俺は別に運命論者ではないが、流石にこう立て続けに現実を目の当たりにすれば、宿命がお前達にあり、我らにないということくらいは、理解できる」

 ハリードはルートヴィッヒの言葉を聞きながら姿勢を変え、船の縁に両腕をついて体重を預けた。揺れる軍船の先に、先ほど垣間見た南の大陸を見る。

「これら事実を踏まえ俺は、今直面する脅威から世界を救うという点において、お前たちには及ばぬという結論に至った。だから、今お前たちと対立する道は無益だと判断したのだ」
「・・・だから俺たちを召し抱えるわけでもなく、ただ敵ではないという立ち位置を確保しようって腹か」
「そうだ」

 ルートヴィッヒの言葉には、微塵も嘘偽りがないのだろう。一人称も先ほどの会談の時とは違い、十年前に互いが義兄弟と呼び語り合っていた時のものだ。彼が今この場では本心の言葉を語っているのだろうということが、確かに感じられる。

「お前たちは、恐らく世界を救うのだろう。寧ろ・・・今のお前たちで救えぬのならば、メッサーナは愚か、他の誰にもそれは為し得ぬことだろう」
「ふん、まるで預言者のような口ぶりだな。さながら、初代メッサーナ王パウルスのようだ。流石は、次代メッサーナ国王様といったところか?」

 ハリードの皮肉たっぷりの言葉に、ルートヴィッヒは口の端だけを少しだけ吊り上げて笑った。こんな笑い方は、昔はしなかったな、とハリードは思う。十年で変わったのは、老けた意外にはこんなところか。

「俺は、メッサーナ王を継ぐつもりは、もうない」
「・・・ほう?」

 ここにきて、まさかその大役を自分ではなくミューズあたりにでも任せるつもりか、と思う。なら、それはやめた方がいいだろう、と即座にハリードは考えた。
 ミューズは確かに聡明な娘だが、その眩しすぎるほどの高潔さは、国というものを動かす時に、時に邪魔になるのだ。
 全てが正しさだけで動くほど、国家とは甘くはない。だが、その事実にあの娘は染まらないだろう。そしてそれは国の中枢という、この上無い豊かな苗床の中で跳梁跋扈する数多の役人共の不興を買い、疎まれるうちに絡め取られ失脚するのが落ちだ。それは嫌味ではなく、ハリードは本気でそう思っている。
 だが、ルートヴィッヒの続けた言葉は彼の想像を軽く超えるものだった。

「最近までは、そのつもりだった。それが俺の求める・・・己が歩むべき覇道だと考えていた。だが、それでは未来永劫、お前たちには並べぬだろうと悟った。故に俺は・・・今この世界を席巻する聖王崇拝と依存の歴史から脱却すべく、新たな国家を設立することにした」
「新たな・・・国?」

 その思いがけない言葉にハリードがルートヴィッヒへと視線を向けると、今度はルートヴィッヒが片手を船の縁に乗せて遠く南の大陸へと視線を向けた。

「お前たち八つの光によって世界が救われた後の新たな三百年にて、人類は、更なる強さを求め、進化しなくてはならない。そうしなければ、いつまでも人類はお前たちのような救世主を待つばかりの、弱き存在でしかない。しかし救世主とはどの場所、どの時代にも常にいるものではない。今のままでは、人が危機に瀕し、その時その場に救世主がいなければ、人は全てを諦め失わなくてはならない。それは、紛れもなく今の人類が抱える弱さだ。だから、それを脱却する為の新たな国を興す」

 それはまるで建国の英雄の言葉のようだな、と呑気にハリードは視線を波に移しながら感想を思う。
 確かにルートヴィッヒの言うことは、大枠では理解できる。
 特に己の力のみを信じてこの十年を生きてきたハリードからすれば、他者に頼らぬ生き方というのは、大いに共感しかない。自分以外の何かに拠り所を求めているという意味では、聖王崇拝を軸とした今のメッサーナ王国も神王教団も、大した違いはないと彼は思うのだ。
 だが一方でルートヴィッヒの考えは、かつて独立王朝を築いたゲッシアと、どのような違いがあるのだろうか、とも思う。
 己の力を信じ突き進んだ先に、ゲッシアは腐敗し弱体化の一途を辿り、そして滅んだ。
 隣に佇むかつての義兄弟が歩もうとするその道の先にも、結局はそのような結果が待っているのではないのか。そんなふうにも、彼には思えるのだ。
 だが恐らくは、そんな道を歩んだ一つの国家の滅亡を目の当たりにしているこの男だからこそ、そうはならぬための目算も、きっとあるのだろう。

「・・・お前は、どうするのだ」

 突然に話を振られて、ハリードは危うく素っ頓狂な声を上げるところだった。

「お前は、その旅の先に、何を為そうとしている?」

 単なる興味本位で聞いている様子は、ない。
 それが痛切なほど解るからこそ、ハリードはルートヴィッヒに視線を合わせることはしなかった。
 ルートヴィッヒは十年前の敗戦から、己の信じた覇道を歩み続けている。そしてその結果として一つの答えを見出した彼は、今それを自分に包み隠すことなく話している。
 そう、これは十年前に全てを失い、その覇道の最中で袂を分かった自分に対する、彼なりのけじめなのだろう。
 だが、ハリードにはそれに対する返答など、なかった。

「・・・俺は・・・」

 何を言おうとしたのか、自分でも分からない。
 ただ、何かを自分も言わなくてはならないという強迫観念に駆られて、声を出したに過ぎないのかもしれない。
 いや、本当にそうだろうか。自分は、何かを言いかけたのではないか。
 それは、一体何なのか。
 未だに夢に見る、十年前の悪夢。
 あの時に失った愛する祖国を再興するためと称して、どれだけ意地汚くとも傭兵業に費やしてきた日々。だが本当にそれは、今の自分の望みなのか。
 仮に祖国再建を果たしたとしても、そこにもう、自分が愛した人は、いない。
 それは、本当に自分の望むゲッシアなのか。
 しかしそうではないのだとしたら、ならば一体自分の望みとは、到るべき場所とは、一体何処なのか。
 数瞬の間に様々な思いが、頭の中を駆け巡る。
 だが、そこに答えはない。
 無意識のうちに腰に備えた曲刀の柄を握りながら、ハリードは結局、言葉に詰まってそれ以上は何も言えなかった。

「・・・ふ、お前にはまず、世界を救うという宿命があるのだったな。今は語らずとも、その先に見せてもらおう」

 違う。
 そんなことでは、ないのだ。
 兎に角、そう言おうとしてハリードはルートヴィッヒへと顔を向けた。しかしルートヴィッヒは既に彼に背を向け、歩き出していた。
 そして数歩進んだところで足を止め、ハリードへ振り向くことなく、ただ少しだけ上を向いて言葉を紡いだ。

「我々は・・・生きていくために、選ばなければならない。選ばず止まれば、死が待っているのみだ。だからこそ生きて前に進むには、それしかないのだ」
「・・・・・・」

 その言葉に対する返答を待つでもなく、ルートヴィッヒは歩き去っていった。
 ハリードもまた声を出すことなく、歩き去っていく彼の背中を見つめているのみであった。

 

 

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第八章・2 -世界経済の危機-

 

 西方世界の地図上で最も西にある、各大陸に囲まれた内海の一つである静海と外洋である西太洋に挟まれて南北に延びるガーター半島。この半島の丁度中央あたりの静海沿岸に、半島最大の都市国家である自由都市ウィルミントンがある。
 この街の歴史は非常に古く、実に世界が六百年前の魔王による支配下にあった時分から既に、歴史書にその名が記されている。
 都市国家としての歴史では西方世界最古とされる、現在のツヴァイク領にあるポドールイに次ぐ歴史を誇る都市であり、この街の繁栄は街の代名詞ともいえる存在である世界一の大商会、フルブライト商会の成長と共に歩まれてきた。
 魔王亡き後に四魔貴族が世界を支配した暗黒時代にあっても人々の導き手として数百年に渡り世界経済を支え続けたその偉業を称えられ、メッサーナ王国の手厚い庇護の元で文字通り世界最大の商会として経済界に君臨してきたフルブライト商会を有するこの街は、今もまたメッサーナ首都ピドナに勝るとも劣らない世界経済の中心地として、変わらず存在感を示している。

「・・・あぁ、来てくれたか、トーマス君」

 その歴史あるウィルミントンの北部区画の中でも一際大きな建造物である、フルブライト商会の歴史ある本館。その執務室へと通されたトーマスらは、いつになく神妙な様子のフルブライト二十三世に迎えられ、お辞儀をした。
 数ヶ月ぶりに会ったフルブライト二十三世は、連日の激務のせいなのか表情にどこか疲れがにじみ出ている様にも見える。

「本当はもっと早く来る予定でしたが、諸事情により遅れました。申し訳ございません」
「いや、その辺りの事情は私も聞き及んでいるよ・・・気にしないでくれ。寧ろ、君の祖国ロアーヌが大変な時にこうして態々世界地図の反対側まで呼び立ててしまって、すまないね」

 フルブライト二十三世の言葉にトーマスが恐縮しながら返すと、フルブライト二十三世は自分の傍に佇む大型犬を撫でると、次にトーマスの背後に控えていた人物へと視線を移した。

「そして、ようこそおいでくださいました、ミューズ様、シャール殿。心より歓迎いたします」

 片手を胸の前に添えながらフルブライト二十三世がそう言ってお辞儀をするのに合わせ、トーマスの背後にいた二人も礼を返す。
 二人はバンガードにて無事に再会したトーマスからの要請を受け、ルーブ山へと発つカタリナらを現地で見送ったと同時に街を発ち、このウィルミントンへと赴いていた。

「本来ならば、先ずはこのウィルミントンを楽しんで頂くべく名所のご案内をしたいところですが、どうにもお互い差し迫った事情を抱えてしまっております。故にご来訪直後に大変失礼であるとは存じますが、早速こちらのテーブルにてお話を始めさせていただければと思います」

 そう言ってフルブライト二十三世が彼の背面にある広々としたソファへと促す仕草をすると、トーマスら三人は誘われるままにそこに腰掛けた。
 外に待機していた執事に周辺の人払いを命じて自ら執務室の扉を閉めたフルブライト二十三世は、トーマスらの対面に腰掛けると、テーブル上にあった果実水の瓶から人数分のグラスへとそれを注ぎ、そして神妙な面持ちを崩さぬままに手を膝の上で組んだ。

「今回お三方を態々ここにお呼び立てさせて頂いたのは、他でもない、この世界経済界に於ける未曾有の危機の存在と、その現状をお伝えするためです」
「未曾有の危機・・・ですか」

 その言葉に、トーマスが鸚鵡返しで答える。
 それに対しゆっくりと頷いたフルブライト二十三世は、大変重苦しい様子で口を開いた。

「そう、未曾有の危機だ。現在、世界経済市場では、突如として現れた謎の商会同盟によって大いなる混乱が齎されようとしている」

 フルブライト二十三世が続けて語ったのは、次の様な内容だった。
 フルブライト二十三世が独自に得た情報によれば、なんと世界中に散らばる商人の一部にアビスの魔貴族と裏で繋がりを持ち、その影響力を武器に交易の独占を企む者が現れた、との事だった。
 その商人らは「アビスリーグ」という同盟を秘密裏に組織し、既にその影響は各地の交易に影響を及ぼし始めているのだという。

「アビスリーグ・・・。直近の決算情報でも、そんな禍々しい名の同盟があったとは当社では認識していませんでした」

 トーマスが全くの初耳であるという表情でそう言うと、フルブライト二十三世は然りとばかりに浅く頷いて返した。

「ああ。これに関しては現在、私も各地で秘密裏に調査を進めているのだが・・・残念ながら何処の企業がこのアビスリーグに加盟しているのかは、明確な証拠はないという状況なのだ。だが・・・証拠こそないものの、ある程度の目星は付いている」

 そう言ってフルブライト二十三世はソファから立ち上がり、部屋の窓際近くにあった彼の執務机と思われる非常に立派な作りのデスクの鍵付き引き出しを開け、そこから数枚の紙の束を取って戻ってきた。

「ここ数ヶ月の、各地の取引帳票の一部だ。ここに纏めている企業の売上高と、それに対する経常利益にどうにも違和感を感じてね。一見すると輸送や護衛コストと照らし合わせたら通年通りの順当な数値なのだが、一方で輸送ルートにあたる現地のキャラバンや武装商隊の売上高は、横這いどころか下がってすらいる。これは捉え方によっては、資金を偽装計上して外部に流している様にも見えるのだよ。以前に御社のタ・・・キャンディ嬢が指摘していた、ドフォーレの資金の流れにも通ずるものがあるように思う。かなり巧妙に隠蔽工作が施されているようなので、これを突き止めるのも相当難儀したがね・・・」

 差し出された紙面を受け取ったトーマスは、隣に並んで座っているミューズシャールと共に視線を落とす。そしてその中に記載されていた数字の羅列と共に企業の名を目の当たりにしたトーマスは、彼にしては珍しく驚きを隠さない様子で目を見開いた。

「・・・な、アルフォンソ海運・・・!?」

 彼の目に先ず飛び込んできたのは、メッサーナ王国首都ピドナに本社を置く、紛う事なき世界最大の海運企業として名高い、アルフォンソ海運の名だった。
 実に世界の海運事業の六割に関わるとすら言われる最大手企業の一角で、総資産ランキングは常に十位以内に位置している。
 その他にも幾つか決算ランキング上位数十社に名を連ねる様な企業群がその調書には散見され、トーマスは思わず固唾を飲む。

「・・・これは、商業に疎い私でさえも見知った企業があるな」
「ええ・・・。フルブライト二十三世様、この調書は、失礼ですが真実なのでしょうか・・・?」

 トーマスの隣からその調書を覗き込んでいたシャールとミューズが思わず尋ねると、フルブライト二十三世は、これにも浅く頷く。

「先に言った通り、まだ明確な証拠は有りませんが、かなり信憑性は高いと、私は睨んでいます」
「・・・もしこれが真実ならば、確かにこれは今までにない規模での、未曾有の危機です」

 一通り目を通した調書の束をテーブルへと置いたトーマスは、フルブライト二十三世と同様に神妙な面持ちで彼に相対した。
 するとフルブライト二十三世はテーブルに置かれた調書に視線を落とし、どうしたことか彼にしては珍しく、非常に歯切れの悪い様子で殊更に小さく呟く様に、言葉を続ける。

「・・・そして、こんな事を君に言うのは全くの恥でしかない事だが・・・しかし言わせてくれ。このアビスリーグの魔手は、このフルブライト商会内部にも、既に及んでいる可能性がある」

 それは、余りに衝撃的な告白だった。
 一体その言葉がどのような状態を示唆しているのかはこの時点では分からなかったが、しかしフルブライト商会は文字通り世界一の企業だ。そのフルブライト商会がアビスに侵食されると言うことは、正に、世界経済の真なる終焉を意味するといっていい。
 そしてここに至りトーマスは、何故自分だけでは無くミューズの同席もフルブライト二十三世が希望してきたのかということに、大凡の確信を得た。
 シャールとミューズが事態のあまりの深刻さに言葉を失い閉口していると、トーマスは座ったままの状態で不意に天を仰ぐ。これは、彼が何かの決断をする時の癖だ。

「・・・貴方程の方がこの様なところで冗談を言うとは、流石に思いません。そのお言葉で、この事態が私の想像以上に恐ろしく深刻であると言うことが、十二分に理解出来ました」

 フルブライト二十三世のとても沈痛な面持ちは、彼の言いたい事、思う所を、その言葉以上に表している様だ。
 トーマスの予測が当たっているのだとすれば、今のフルブライト二十三世の想いとは、どれ程に複雑な事であろうか。
 其れを察したトーマスは、次に視線を窓の外に向け、窓から見下ろす事のできるウィルミントンの街並みを眺めた。
 この自由都市ウィルミントンはピドナほどまでに大きな街ではないが、隅々まで非常に整備の行き届いた、見目麗しく、とても豊かな街だ。
 かの聖王が四魔貴族打倒の旗を掲げる直前に長期の滞在をしたことでも知られるこの街は、フルブライト二十三世にとってもかけがえの無い大切な場所なのであろうと言うことが、この部屋からの一望で察することができる。
 彼はフルブライトという歴史と己の誇りを捨ててでも、この街の、そして世界経済の救済を強く望んでいるのだ。
 トーマスは、視線を戻した。

「・・・では現時点を以って、我がカタリナカンパニーはフルブライト商会との同盟を破棄し、世界経済の救済を成すための覇道を歩みましょう」

 突然のトーマスの言葉に一体何を言い出すのかと、隣のミューズとシャールは全く驚いた様子で彼を見つめるが、しかし彼の正面にいるフルブライト二十三世だけは、何処か物悲しげな微笑みを浮かべながらも、とても満足げに深く頷いた。

「あぁ、君ならば、そう言ってくれると信じていたよ・・・。有難う、トーマス君。身勝手な願いだが、今は君に、世界経済の行く末を託したい。君ならば、必ず成し遂げられるだろう」

 彼は、こうなる事を望んでいた。それがトーマスには痛いほど分かったのだ。
 彼がミューズの同席を希望した理由は、単純だ。彼は、彼女にもこの事態の深刻さを理解してもらい、そして彼女がこの事態に対して立ち上がる事・・・即ち、クラウディウス商会の再興を望んでいるのだ。
 先のドフォーレの一件以降、経済界隈では今現在もクラウディウス商会の復活が実しやかに囁かれている。
 まるで英雄譚の如くに全世界に瞬く間に報じられたミューズとカタリナカンパニーによるドフォーレ商会成敗劇は、経済界は愚か、それとは関係なく単に今の世を嘆く多くの人々にも歓迎され、称賛された。今やミューズは、経済や政権に不満を抱く一部の界隈では救世の英雄視すらされている。
 そんなミューズが率い、嘗て世界三大商会の一角とも言われたクラウディウス商会が再び立ち上がれば、其処には数多くの企業や人々が賛同を希望する事だろう。
 だが、そこにもしアビスの魔手が入り込めば、それは瞬く間に世界を破滅へと陥れる強力な劇薬にもなりかねない。
 だからこそ、これ以降の道でカタリナカンパニーとフルブライト商会は、共に歩む事は出来ないのだ。
 しかしながら、トーマスにはどうしても一つ、引っ掛かる事があった。

「貴方は・・・フルブライト二十三世様は、如何なさるおつもりなのですか」

 彼の希望は、わかった。だが彼自身はこの事実をどの様に受け止め、これからどのように相対する気なのか。それが気になったのだ。
 フルブライト二十三世はそんなトーマスの問いに、数秒の間をおいてから応えた。

「私はこの商会の代表だ。この立場を用い、内外の凡ゆる情報を集めて内部から状況の改善に努めるつもりだよ」
「しかしそれでは・・・貴方の命に危険が及びます・・・!」

 アビスの魔手が伸びているのだとすれば、その可能性は大いにあるという事をトーマスは知っていた。
 事実、アビスの魔手が伸びていたドフォーレは会長であるモンテロがとうの昔に殺害されていたことも後の捜査で判明している。それにロアーヌで起こったゴドウィンの変でも、哀れなる男爵ゴドウィンは、アビスの妖魔に唆された末に命を落としているのだ。
 アビスに関われば、それは即ち己の生命の危機に関わる事なのだと、彼はよく理解していた。
 トーマスのその指摘に、フルブライト二十三世はふっと一息つくと、漸く今日初めて彼特有の不敵な笑みを取り戻し、トーマスに視線を返した。

「なぁに、私は偉大なる祖先、かの聖王に助力したフルブライト十二世やチャールズ=フルブライトの血統を継ぐ、誇り高きフルブライト商会の次期会長だ。己の使命を全うするまで、この命を失うつもりなど微塵もないよ」

 その言葉や表情には、確かに微塵も自分の誇りを疑わない自信が満ち溢れていた。
 それはとても頼もしく見える反面で、しかし同時に危うくも感じる。
 アビスの妖魔というものがどれほど簡単に命を刈り取っていくのかという事を、トーマスはフルブライト二十三世以上によく知っているからだ。
 しかし今ここでそれを伝えたところで、彼は真に理解はしないだろう。それに、ここでやり残したことも多い状態では、例え身の危険をトーマスと同等に感じていたとしても、彼の持つ誇り故に、己の成すべき事を辞めはしないだろう。
 だから、トーマスは今はただ、深くゆっくりと頷いた。

「・・・そのお言葉を聞いて、安心いたしました。ですが、万が一の際には、どうか必ず御命の優先を。身の危険を感じたら、迷わずピドナにお越し下さい。今貴方を失うことは、其れこそが世界経済の真なる終焉を意味します」
「ああ、その時は恥を顧みずお世話になろう・・・。では、健闘を祈る」

 そう言って差し出されたフルブライト二十三世の右手を強く握り返したトーマスは、託された調書を懐にしまってミューズらと共に彼の執務室を後にした。

 

 

「これから、どうするのだ?」

 ウィルミントン南部にあるこの街で最も大きな宿泊施設であるホテルバイロンの最上階の一室にて、同行者であるハリード、ブラックと合流した三人は、今後の動向を決めるために一同が集まっていた。
 ブラックとハリードが其々窓際と部屋の戸を警戒するように立ち位置を取り、そして部屋の中央にある客室用ソファにミューズの隣に腰掛けたシャールからの開口一番の問いに、対するトーマスは軽く腕を組みながら、軽く思案する仕草を見せる。

「・・・先ずは、ピドナでの記者会見を考えています」
「記者会見・・・?」

 聴き慣れぬ単語にシャールが疑問符を浮かべるが、その言葉の真意を彼の隣でいち早く察したミューズが、トーマスの代わりに口を開く。

「クラウディウス商会の復活を・・・そこで世間に、公表するのですね」

 ミューズの言葉に、しかしトーマスは直ぐ様頷くでもなく、真っ直ぐ彼女を見つめ返した。

「・・・それは、あくまで二つある選択肢の内の一つです。もう一つの選択肢は、先ほどフルブライト二十三世様に言った通りにカタリナカンパニーがフルブライト商会との同盟を切り、覇道を歩むことと、それに伴う今後の方針の発表を行うのみ。このルートもあります」

 そう、ここが経済界の・・・いや、今後の世界そのものの行く末をすら左右する程の、とても大きな分かれ道なのだとトーマスは考えていた。
 ここで何方の選択をするのかで、世界中の多くの人々の運命を左右する事になるかもしれない。
 故に、この記者会見をするにあたっては何よりも、この選択権を持つミューズの意向を確りと確認しなければならない。
 トーマスはミューズの真正面に向き直り、口を開いた。

「ミューズ様。仮にクラウディウス商会の復興を記者会見で発表したとしたら、貴女はいよいよ、世界の表舞台にクラウディウス家の後継として大々的に復帰することになってしまいます。そうなれば当然ルートヴィッヒ近衛軍団長は黙ってはいないでしょうし、それ以外にも貴女を貶めるか、又は利用しようとする様々な方面からの接触が、引っ切り無しに起こるでしょう。更には、今以上に身の危険につながることも起こる可能性は、十二分に有り得ます。それらを含め、メッサーナ王国のこの十五年続く内乱は、いよいよ終結へと誘われ始めるでしょう」

 なにも、トーマスはミューズを怖がらせたいわけでもないし、変に奮い立たせたいわけでもない。
 何しろ、彼が言っていることは何の他意もない、単なる事実なのだ。
 それこそ現在ですらドフォーレの一件からの影響を鑑みて用心を重ね、こうして隠密行動をしている。
 それが世間に名だたる大商会を再び興すとなれば、当然世間に顔を出す機会は増える。そうなれば、比例して身の危険も増えるのは紛れもない事実なのである。
 トーマスは、そこを隠そうともせずにはっきりと言い切った。
 彼は、これでミューズが断るならばそれでもいいと、寧ろ、その方が彼女のためにはいいのだとすら思っている。
 ドフォーレの一件は、世間の支持を一時的に受けつつメッサーナの首脳陣を抑えながら行うことのできた、最初で最後の報いの一矢だった。
 あれだけならば、幾らでもこの後に再び平穏な暮らしに戻る算段は立てることができる。あれでメッサーナの主権を握る者達に一泡吹かせたことを良しとして、それで身を引くことは十分に可能なのだ。
 トーマスは抑も、それを確りと示唆した上でミューズにあの場を用意していた。
 だから何方に誘導するでもなく、単純に彼女自身に其々の選択肢の持つ意味を理解してもらい、その上で考え、決めて欲しいと思うのだ。
 そんなトーマスの思惑を理解していたミューズは、膝に置いていた手を強く握りしめると、毅然とした表情でトーマスを見返した。

「私は、もう守られるだけの存在ではありません。お父様の遺志を継ぎ、クラウディウスの誇りに賭けて、己の役目を全うする覚悟はできています」

 そのミューズの言葉に、隣に座るシャールは心中複雑な表情をしながら彼女を見つめる。
 だがミューズはそんな彼の内心を知ってか知らずか、そっと彼の手に自分の手を重ねる。そしてシャールの左手の暖かさをその掌に感じながら、優しく微笑んだ。

「シャール。貴方も力を貸して頂戴。私は今も相変わらず、一人ではまだ何も為せない唯の女です。だから、貴方の守護が必要です」
「・・・御意に」

 シャールの、彼らしい短い返答に満足げに頷きつつ、ミューズはトーマスに向き直った。

「トーマス様。貴方に、この命を委ねます。どうぞ御心の赴くままに、お使いください」
「・・・分かりました。ベントの名にかけて、必ずやミューズ様の願いに応えましょう」

 ミューズの覚悟に正面から向き合う様に、彼女の前に跪いてそう応えたトーマスは、居住まいを正してから今後のスケジュールに関しての説明に移った。

「先ず記者会見ですが、明日にはピドナに向け出発し、本社に戻ったら翌日にでもゲリラ的に、即行います」
「随分と性急なのだな。事前に、今回のアビスリーグとやらについてはこちらでも調査をしなくて良いのか?」

 シャールが慎重を期すべきではと疑問の声を上げるが、それにはトーマスは小さくかぶりを振った。

「フルブライト二十三世様の手腕を以ってしても現時点では明確な証拠が掴めていない以上、我々が改めて調査を重ねても、この調書以上の情報は出てこないだろうと踏んでいます。逆にクラウディウス商会の再興とカタリナカンパニーとの同盟を発表すれば、それに端を発し様々に表舞台や水面化にて動きがある事でしょう。その中で、確信に迫る情報を此方から炙り出します。それに・・・我々はドフォーレの一件で、近衛軍団に目をつけられていますからね。行動に下手に猶予を持たせては、彼らに介入されて動きを制限される恐れがありますから」
「成る程・・・確かにその通りだな」

 シャールが頷くのを見ながら、トーマスは続けた。

「なので此れを最も効果的にするため我々が記者会見後まず一番に行う事は、現在魔龍公ビューネイ軍と戦火を交えているロアーヌ戦線への、経済的支援です」
「・・・成る程、アビスに仇為す行動であれば、アビスリーグも初動で静観はしないだろう、という事ですね」

 ミューズが察し良くトーマスの言葉に応えると、彼は正にその通りと言いながら二人との間に小さな机を寄せ、紙に要点をまとめる様に書き連ねていった。
 ロアーヌへの経済的支援の狙いは、次の様になる。
 先ずは、ミューズの指摘する通り、アビスリーグの動きを早期に暴くための誘発剤としての役割だ。
 アビスリーグの目的は、当然ながら世界経済の独占などではないだろう。ドフォーレの例を見ても分かる通り、最終的にリーグとしての経済活動の行き着く先は、人類を滅ぼすための行動に直結するはずだ。
 このためのプロセスとして、一体何が何処でどう動いているのか。これを確りと見極めなければ、此方から迂闊に攻めることができない。なので、敵対する行動を敢えて大々的に発表することで、彼方からの何かしらの接触を引き起こすのが狙いというわけである。
 そしてもう一つは、これを機にクラウディウス家の立ち位置を世界的に正義の象徴として確立させ、世論の支持を一気に集める事だ。
 対四魔貴族の戦とは、全人類にとって本来最優先にあたる一大有事。しかし今まさにロアーヌがアビスの軍勢と交戦しているところに、未だ各国からの援軍はないという。
 つまりは一様に皆、次に自分たちが狙われ攻められるのを恐れているのだ。
 何しろロアーヌは、魔炎長アウナスの潜む火術要塞を攻め落とした。そうして四魔貴族に相対したからこそ、今、彼らは攻められている。世間には、その様に映ってしまっているのである。

「このままでは、日和見のまま各国は動かないでしょう。戦線も膠着しており、各国が不安視した通りに先行き不透明。状況が変わらなければ、今後も参戦の意思を示す国家は殆ど無いはずです。だがそこに我々がミューズ様の名の下に支援を宣言すれば、少なくとも世論の大きな賛同は得られるはずです。そして無事にカタリナ様が魔龍公ビューネイを討ってくだされば、必ずやロアーヌ軍は勝利します。これを以って、一気に我々が世論を席巻します」

 シャールは、そのトーマスの言葉に固唾を飲んだ。
 一体このトーマスという男は、どこまで大局を見ているというのか。
 まだ歳若く、一般的なこの年頃の男であれば、目の前の事に我武者羅な時分の筈。それがこのトーマスという男は、まるで世界を知り尽くした翁の様に、物事を見通さんとしている。その知見が果たして、八つの光なる聖王三傑パウルスの予言に出てきた存在であるが故なのか、彼には分からない。
 だが間違いなく、彼の言葉には力があり、展望があり、自分たちの気持ちを奮い立たせる。
 シャールもまた、ミューズと共にこの若き青年に己の命を預けてみようと思い至りながら彼の話を聞いていた。

「・・・そうすると、マジで早めに動かないと不味いんじゃないか?」

 トーマスの話に続いたのは、扉の外の警戒をしながら話を聞いていたハリードだった。
 部屋の中の皆が彼に視線を向けると、ハリードは腕を組んで彼らに向かい合うように体勢を変える。

「カタリナがバンガードからルーブに向かったのは、もう五日も前だ。順当に行けばそろそろループ山脈の麓に到達している頃合だろう。ルーブは標高がある山だから高山病対策で体を慣らしながらいくだろうが、それでもあと五日もすればグゥエインの元に到達するだろうな。そこからの説得次第では、すぐに動くことも考えられる。最短でことが運んだことを考えると、此方のスケジュール的には割とギリギリなタイミングだぞ」
「はい、ですので、明日の朝一の便でピドナへ戻り、到着の翌日には記者会見を行うつもりです」

 ハリードの指摘に浅く頷き返しながらトーマスが言うと、ハリードは組んでいた腕を解いて指を一本立てながら更に続ける。

「もう一つ問題があるな。スケジュールはそれで滑り込みだとしても、あとは記者会見の規模だ。各国から記者や来賓を集めるといっても、通常ならピドナの立地でも二週間程は要するだろう。即日の会見では、記者もせいぜい現地のメッサーナジャーナルくらいしか呼べない。それではピドナの外に即座に情報が伝わり難く、情報の流布にかなりの時間がかかってしまう筈だ。それまでにカタリナがカタをつける可能性があるんじゃないか?」

 ハリードの指摘は尤もなことだった。
 この記者会見の要は、言ってしまえばロアーヌが劣勢のうちに、世界に先駆けて唯一の加勢を宣言する、ということだ。
 だがその宣言を世界が知る前にロアーヌが四魔貴族ビューネイに勝利すれば、世界情勢は其処で全く掌を返したようにロアーヌの奮闘を賛美し、彼らへの復興支援を名乗り出る国が出てくるだろう。そこに埋もれる形で情報が流布されても、トーマスの期待する効果は全く得られないことは明白だ。
 ハリードのその指摘にミューズとシャールが唸るが、しかしトーマスはそれにも余裕の表情を崩さない。

「・・・けっ、どうにも気に入らねえな、そこの坊ちゃんはよ。腹の奥に隠していることを晒さねえ」

 窓際を警戒していたはずのブラックが、唐突にそう言った。
 彼はいつの間にか普段通りに煙草に火をつけていたが、風を操り煙を外に逃していたので、それには誰も気が付かなかったようだ。

「・・・出し惜しみをしていたつもりは有りませんでしたが、不興を買ってしまいましたね。確かに私には、そこに対しても目算があります」

 ブラックの指摘に眼鏡の位置を直しながら応えたトーマスは、懐から一枚の封筒を取り出した。

「これは、招待状です。中身はピドナ宮殿にてここ数年行われている、近衛軍団主催の『死触に打ち勝つ集い』のものです。これにより各国の来賓と記者陣がピドナに集結します。これの期日は、丁度一週間後にあたります」
「・・・なるほど、もうそんな時期だったな。確かに、ここ数年はそんな下らん集まりを宮殿でしているという話は、私も聞いている」

 トーマスの持つ封筒に視線を向けながら、シャールが思い出したように呟く。
 もう間も無く世界が一年の終わりを迎えんというこのころ、今から十六年前、三度目の死触は起こった。年の瀬に訪れた未曾有の災厄は未だ世界の人々の記憶に鮮明に残っており、今も人々を苦しめ続けている。
 そんな折、五年前に現在の地位に就いたルートヴィッヒ近衛軍団長が就任翌年から突如として始めたのが、この「死触に打ち勝つ集い」だ。世界の中心都市であるピドナにて各国来賓を招いて行われるこの祭典は実情を言ってしまえば、その名とは全くかけ離れた内容で、つまりは近衛軍団の権威を各国と大衆に示すことに主軸を置いた催しである。
 だが急激な情勢変動があったピドナの状況を見るために各国来賓は初年度から集い、それをルートヴィッヒは実に手厚くもてなした。
 こうなると、そもそもの大義名分が死蝕による被害を各国で相互に補助し、今後懸念されるアビスの魔物を始めとした様々な有事に対応するための話し合いの場として設けられているということも手伝い、ルートヴィッヒの周到な歓迎ぶりに毎年の各国参列は盛況だった。

「この祭典は一週間ほど行われますが、二日ほどの会議の後は丸々宴会です。我々がピドナに帰る頃には会議も終わり宴席の期間ですから、各国記者を会見に集めることは容易だと考えられます。これなら、先行して世界への話題の流布には事欠かないでしょう」
「あの、一つよろしいですか?」

 トーマスの言葉が一区切りついたところで、ミューズが遠慮がちに挙手をする。それにトーマスがどうぞと発言を促すと、ミューズは小さく眉間に皺を寄せるような表情を作りながら続けた。

「記者会見そのものへの、近衛軍団の介入という可能性は考えられませんか?」

 ミューズが言いたいのは、その記者会見自体を近衛軍団が規制しに掛かってくる可能性のことだ。
 何しろカタリナカンパニーは、ドフォーレ商会の一件で完全に近衛軍団とは袂を分かったと言っていい。彼らが手を出せない状況を作り出した上で、ルートヴィッヒが最も警戒していると言っても過言ではないクラウディウス家のミューズを表舞台に担ぎ出したことは、近衛軍団からすれば正に煮え湯を飲まされる思いだったことだろう。
 そのカタリナカンパニーが彼らのお膝元で会見を行うともなれば、何かしらの理由をつけて会見そのものを阻止しに掛かってくる可能性があるのではないか、という指摘だ。
 流石に聡明な彼女の指摘にトーマスは、顎に手を当てて考える。
 確かにミューズの指摘は最もなことで、今や国内で反勢力を見事に防いでいる彼らならば、危険性を察知すれば多少強引な手を使ってでもカンパニーの会見を潰しにかかる可能性は十分に考えられた。

「確かに、近衛軍団に対しての何らかの対策は、せねばならないとは考えていました。個人的には直近はこの祭典があったので、我々に対する積極的な動きがあるならば年明けあたりかと考えていましたが・・・。ピドナホテルの会場使用に関しても近衛軍団への報告義務はありましょうから、十分それは考えられますね・・・」

 言葉を紡ぎながらトーマスが思考を巡らせている、その時だった。

「・・・おい」

 トーマスが思案する仕草を見せた所で、窓際にいたブラックが部屋の全員に伝える様に声を上げた。
 それにトーマスらが振り向くと、ブラックは火をもみ消した煙草を窓の外に投げ捨てながら、腰のヴァイキングアクスへと手を伸ばした。

「・・・このホテル、囲まれたぞ」
「・・・なんだって・・・?」

 目を見開いたトーマスが窓際に駆け寄り外の様子を伺うと、なんとこのホテルバイロンは既に武装した軍団に取り囲まれており、地上は騒然とした様相だった。
 遠目の効くブラックが軍団の鎧や側に目を凝らすと、その軍紋は老若男女を問わず世界に知らぬものがないほど、実に有名なものだ。

「・・・近衛軍団だ」
「・・・なんてことだ。まさか、他の対処を全て後回しにして、此方の捕縛に全力で動くとは・・・」

 ここにきて全く予想外の展開にトーマスが苦虫を噛み潰したような表情をしながらこの場の対策を考えている所に、今度はハリードが既に抜刀しながら扉を睨みつけ、一歩離れた。

「此方に来るぞ。数は少なくとも六人以上。武装済みだ」

 ハリードの言葉に、一気にその場の緊張感が高まる。
 やがて部屋の中からも分かるほどの軍靴の音が幾重にも響き、その軍靴の重奏は部屋の前で止まった。
 そして、場違いにも優雅な調子で、部屋がノックされる。

「・・・どうぞ」

 ミューズを庇う様に各々が扉に向かって陣取りながら、トーマスがいつでも術を放てるように準備を行いつつ、覚悟を決めた様に声を上げる。
 それに応える様に、扉がゆっくりと開かれた。
 そしてまず最初に、奇襲を警戒する素振りもなく部屋の中に入ってきたのは、長い金髪を後ろで束ねた、精悍な顔つきの男だった。
 特に周囲の軍団騎士とさして変わらぬ鎧を身に纏っているものの、しかしその男から発せられる圧は、明らかに周囲のそれとは一線を画している。
 その男を見た瞬間、シャール、ミューズ、そしてハリードの表情が大きく歪んだ。

「・・・ルートヴィッヒ」

 そして扉の一番近くにいたハリードが手にした抜身の曲刀を握り締めたまま、やっとのことで絞り出す様にその名を呼ぶ。

「・・・ハリード・・・。久しいな。噂はよく聞いていたが、息災な様で何よりだ」

 ハリードの顔を最初に見たその男・・・ルートヴィッヒは、続けて部屋の中に入ろうとする他の兵を片手を上げて制しながら、自らだけが一歩だけ部屋の中に歩を進めた。
 そして、トーマスとシャールの間から自分のことを真っ直ぐに見つめるミューズへ、合わせるように視線を向ける。

「・・・ミューズ=クラウディア=クラウディウス殿。宿泊先への突然の来訪の無礼、許してほしい。そして更に急な誘いで済まないが、これからピドナへと共に来てもらいたい。ここにいる者も、無論同行してくれて構わない。不必要に騒がないでいただければ、道中の自由は私の名において保障しよう」

 

 

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第七章・10 -魔海侯-

 

 人類と海との密接な関係とは、それこそ聖王や魔王の時代を遥かに遡る昔から、人類史の発展と共に連綿と築かれてきたものだ。
 二つの外海である西太洋と、北海。そして世界各地に繋がる四つの内海である静海、温海、トリオール海、ヨルド海。是等が、今の人類の知る海の全てである。
 特段この世界における是等の海は、大まかには人類にとって二つの関わり方に分別することができる。
 一つは、人類に繁栄をもたらす側面だ。
 人類は塩や魚をはじめとした多くの生きる糧を各地の海から戴き、また、その海を船で渡ることにより、陸路よりはるかに早く、そして多くのものを各地に流通させることで、大きく繁栄してきた。
 正に海なくして、人類のここまでの発展はあり得なかったと断言できよう。
 そしてもう一つは、人類に牙を向く側面。
 海は時に気まぐれに嵐を呼び、一切の情け容赦なく人と荷を積んだ船を沈める。また各地の海を住処とするアビスの妖魔共の襲撃により、船や沿岸の漁村などには定期的に被害が齎されてきた。
 人類にとって海とは、そういうものだった。これらの側面とは、常に歩み続ける事が定めなのである。
 だが、其れ等の要素の中に於いて、ただ一つだけ人類が嘗て、己の意思で挑み、打ち勝った事がある事象がある。
 それこそが、アビスの妖魔の打倒だった。
 今の世にも世界中で教会や吟遊詩人らによって語られる、三百年の昔に聖王が成し遂げた、四魔貴族が一柱、魔海侯フォルネウスの討伐。
 この前代未聞の偉業により、人類はその後数百年、劇的に平和な海との共存を謳歌してきた。
 そして今、再びそれを阻まんとする根源悪の復活が間近に迫っている。
 故に人はまた挑み、再び勝ち取ろうとするのだ。

「・・・でも、この景色は凄いわ・・・」

 今、己が為そうとしているそんな正義とは全くかけ離れた感嘆の吐息とともに、カタリナはゆっくりと頭上を見上げた。
 彼女が立っていたのは、古代の宮殿を思わせる巨大な大理石にて作り上げられた美しい門構えの直下だった。
 天然の作りと思われる珊瑚礁が織り成す海底回廊の所々に、この壮大な大理石による神殿造りの門が構えられている。
 その作りは、一見して非常に高い芸術性を備えている。周囲を緩やかに流れ落ちる滝の様相と相まって、あまりに荘厳。正にその光景は、海底の幻想郷のようであった。
 思わずここが人類に仇なす悪意の本拠地であり、自分がその悪意の根元たる四魔貴族フォルネウスの討伐の為にやってきた、ということをすっかり忘れかけてしまうほど、あまりにそこは美しかった。

「・・・バンガード内部もすごいと思ったけれど、ここはもう何か・・・とんでも無いわね・・・」

 カタリナの後ろで同じく周囲を観察しながら、ウンディーネも同様の感想を抱いたようだった。それに続くハリード、シャール、ミューズ、ハーマンも、其々が思い思いに美しい周囲の光景へと視線を投げかけている。
 まだ水が掃けて間もない海底宮の内部には、逃げ遅れた魚が其処彼処に転がっている。
 一行はそんな魚を近くの水たまりや落ちる滝の向こうに投げ戻しながら兎に角、回廊の奥を目指すこととした。
 イルカ像が噴水の中央で変形したことでバンガードが海中潜航(ボルカノはこれをサブマリンモードと称していた)し、暗く深い深海の向こうにあった海底宮へと辿り着いた際、予測に漏れず案の定、海底宮は海水で満たされていた。
 ここで一行は改めて、どうやって海底宮に入るのか、という問題に直面した。
 かの様に思われた。
 しかしボルカノが玄武の障壁にはまだ出力的な余裕がある事を見つけ、なんとバンガードのみならず、海底宮ごと玄武の障壁で包むという力技を実行するに至ったのだ。
 今になって思えば、元々バンガードのこの能力は、これを見越して作られたものなのだろう。
 そうして海底宮を巻き込んで障壁展開がされ、それまで海底宮を満たしていた海水はその大部分が障壁の外部へと押し出された。こうして、ついにカタリナ等は海底宮内部へと足を踏み入れるに至ったのだ。
 今回の編成では前述の通り、カタリナ、ハリード、シャール、ミューズ、ウンディーネ、ハーマンの六人が討伐班として突入し、後の面々はバンガード側へと留まった。
 海底宮攻略中のバンガードの管理や、また不測の事態へ備えと対応を行うのに航海士(本人は何やら「魔導技師」と自称していたが、誰もそう呼ぼうとはしていない)としてのボルカノは必要不可欠であるとの理由から、前提として彼のバンガード残留は決まっていた。
 更に、同じく不測の事態の際には異変を討伐班へと一早く念話にて連絡する役目を担う為、フェアリーの残留も同時に決定した。
 そして今回の海底宮攻略の鍵となった玄武の障壁の拡張展開によって、事前に用意していたほぼ全ての擬似霊酒の在庫が潰えた。これによりバンガードは残された食料貯蓄の許す期間で大陸への自力帰還の手立てをほぼ失った訳だが、これに関してはロブスター族のボストンが玄武の祈りを用いて必ずバンガードを人界へと導く事を請け負ってくれた。
 彼もまたそのために力を温存するという事で、今回の討伐班には加わらなかったのであった。
 特にボルカノとフェアリーは、平然を装いつつも探索ができない事を内心では悔しがっている筈だ。彼らの分まで悔いの無いよう探索しようと、カタリナは心新たに注意深く周囲を観察しながら歩を進めるのであった。

(・・・あぁ、そうだ、こんなだった。あの時も確か『私』は不謹慎にも、この光景に軽く感動してしまったんだ。確かに『憶えて』いる・・・)

 淡く青く、恐らくはこれも玄武の術式を応用した永久機関が由来と思われる仄かな光を抱く海底回廊を進みながら、カタリナは脳裏に過ぎるどこか懐かしい景色と、そして眼前の絶景を前に考えていた。
 同じく四魔貴族の住処として以前に魔王殿の深部を進んだ時と今とでは、己の精神状態が明らかに異なっているのが良く分かる。
 あの時はそう、正に「熱に浮かされた」ような状態であった、と思い返す。
 単身での度重なる過酷な戦闘と、自分の中を急激に侵食していく異質な『記憶』。
 その記憶に悲鳴を上げる体を凌駕する、何処からか湧き出す圧倒的な、熱量。
 そして、その根底にあったのは『既知なる未知』という、言い表すことのできない矛盾に対する、生理的な恐怖。
 あの時アラケスと対峙した事で「自分」を辛うじて取り戻していなければ、自分は恐らくあの『記憶』に踊らされ殺されていたのだろうと、今になって思う。
 だが、今の自分はあの時とは明確に異なる。
 聖剣マスカレイドを始めとした数多くの聖王遺物を身に纏い、信頼に足る仲間達と共に居る。そして何より、あの時よりも明確に「自分の意思」で、ここに居るのだ。
 そう言えば、あの時は魔王殿に迷い込んだゴンを探しに行ったのだっけ等と、近くで槍を振るうシャールを視界の端に捉えながら思い出す。
 随分と昔のことの様にも思えるが、そう言えばピドナであったあの出来事は、もう一年ほど前になるのか、と気が付く。
 なんと激動の一年であったのだろうな、等と感慨にふけりながら、妖魔を退けつつ先へと進む。
 淡く光る海底回廊を奥へと進んだ先には、なんと驚くべき事に、元より海水に満たされていた様子のない、非常に整備の行き届いた大きな海中庭園があった。
 ここが仄暗い深海であることなど全く信じられない程の、澄んだ豊かな水と、緑と、空気。
 明らかに現代の人類が持つ技術を超越したその建築技術に合わさり、淡い胎動の如き蒼の発光が空間の神秘性を、更なる至高へと昇華させていた。
 そして、その神秘性とは真逆の様相で庭園に設置されていた醜悪な妖魔の石像が、この海底楽園への侵入者を察知して次々と生身に変化し襲いかかってくる。
 景色に感嘆する間も無く、そのうちの一匹を月下美人にて一刀の元に斬り捨てたカタリナは、その間に次々と他の妖魔共を殲滅していく頼もしい仲間達に心中で最大限の感謝を送りつつ、一気にその場を駆け抜けていく。
 庭園の先には天然の巨大なサンゴ礁の岩盤を削り抜いて作られたと思われる立派な神殿造りの門があり、そこに飛び込むと内部は最早完全な人工物と思しき内装が広がっていた。
 大理石を基調として組み上げられた見事な建築美に視線を向ける間も無く、ここでも水棲の様々な妖魔が彼女らに襲い掛かる。
 だがそれらは須く前衛のカタリナ、ハリード、シャールに斬り伏せられ、彼女らに向かう後続の妖魔もミューズとウンディーネが遠距離から魔術による狙撃を行なっていく。そして最後列から全体を見渡すハーマンは、左右からの急襲への対処や進むべき進路の指示などを的確に飛ばす。

(・・・行ける。これなら最奥まで、体力の温存も十分に可能だわ)

 カタリナは魔王殿深部の時と同様に、既に、この海底宮の行き着くべき場所が分かっていた。
 大理石の神殿部を抜けると、そこには又しても海中に有るとは思えない巨大な空洞があった。はるか上を見上げると海水が滝となり、この空間の上部の端々から流れ落ちているのが見て取れる。この状態から、そこがバンガードの玄武の障壁によって空洞となったことが伺える。
 そして空洞の向こうには再び巨大な岩盤と神殿の門があり、ご丁寧にもそこには、カタリナが今まで見た中で一番の大きさだと確信できるほどの、とても巨大な橋が掛かっていた。
 海中に有る筈なのに、まるで元から歩いて渡る事を想定されているような、若しくは地上にあった建造物が突如として海底の珊瑚礁の岩盤と一体化してしまったかのような、そんな、歪な印象を受ける場所だ。
 そして、その神殿間にある巨大な橋を埋め尽くさんとする程のフォルネウス兵へ向かい、ウンディーネが強力な電流を纏った雷球を周囲に展開し、文字通り雨のように降らせていく。
 そして橋の上で為す術なく雷球を浴びて身動きが取れなくなったフォフネウス兵へと、シャールが豪快に手にした槍を振り回しながら突撃し、次々と薙ぎ払っていく。
 その勇猛さには、同じく勇名を馳せるハリードも思わず口笛を吹くほどだ。
 因みに、シャールには神王の塔から持ち帰った聖王の槍を使ってもらおうとカタリナは考えていたが、それは本人から丁重に断りを入れられてしまった。
 曰く、既に分不相応にも聖王遺物たる銀の手を授かっているので、これ以上は自分の手には余る、との事だった。
 王家の指輪を始めとした複数の聖王遺物を常時身につけているカタリナとしては、その言には共感が得られず首を傾げるばかりだった。だが、どうやらミューズが言うには銀の手は時折、勝手に動き出すことがあるのだそうだ。シャールはその特性に、現在進行形で陰ながら苦労しているらしい。その上で聖王の槍も、とは流石に考えられなかったというのが、遠慮の真相のようだ。
 しかしカタリナの思惑外れなどは完全なる杞憂であったと思わせる程に、彼の力は頼もしい。
 ウンディーネとシャールの猛攻を逃れた幸運な(ある意味では不運な)フォルネウス兵をハリードと手分けして殲滅したカタリナは、そのまま一気に橋を駆け抜けた。
 橋を抜けた先は天然の珊瑚礁の洞窟を利用したと思われる道を進み、その更に先では、再び荘厳なる神殿部へと合流する。

(・・・朧げにだけど、思い出せる。そうだ、この先の入り口を右に行ったところで、古文書を見つけたんだった。そういえば、あれの解読はどうなったんだったかしら・・・)

 かつてグレートアーチに渡る際に温海の船上にて遭遇したのと同じ種族と思われる魚人を通り抜け様の一閃にて滅したカタリナは、脳内で反芻される様々な「懐かしい光景」を何とか頭の隅に追いやりながら、最奥を目指す。
 僅かに水が床上に浸水した状態の神殿を進んで行くと、奥に向かうにつれて妖魔の体躯も大きくなっていった。
 以前にユーステルムの氷湖で対峙したのと、これも殆ど同じ種族と思われる巨大な怪魚を難なく斬り捨てたカタリナは、その妖魔から自分の足元に落ちてきた半透明の鱗を拾い上げた。

「巨大魚の鱗ね。持っておいたほうがいいわ。それには玄武様の加護を感じる」

 それをみたウンディーネがそう言うと、カタリナは浅く頷いてそれを懐に忍ばせた。
 序でに、もう少しないかと注意して足元を探す。すると案の定、数枚の鱗を発見することが出来た。それらを拾い上げてハリード達にも配り、皆に玄武の加護を授ける。因みにウンディーネは元から湖水のローブと呼ばれる玄武の加護を編み込んだ魔装を纏っており、此処までの水棲妖魔の猛攻にも随分と涼しい顔をしていたものだ。

「フォルネウスは地の四術式の中でも玄武の力を行使する四魔貴族。玄武の加護があれば、戦闘を優位に進められるはずね」

 全員へと玄武の加護を行き渡らせたカタリナは、後続の皆が準備を終えるよりも早く、次に進むべき進路へと当然のように振り返った。

「・・・やっぱり、全く迷わないのね。貴女が『八つの光』だと言うのが、今更になって理解できてきたわ」

 この海底宮に侵入してから常に先頭を征くカタリナは、ただの一度もこの海底宮の中で迷うことが無かった。
 そして今もまた、二手に分かれた通路から進むべき方向を躊躇いもせずに選んだカタリナに対して、ウンディーネは改めて感心するようにそう言ったのだった。

「まぁ同じ八つの光とかいっても、俺には全くわからんけどな」
「貴方に関しては、なんかの間違いだったんじゃないの?」

 抜身のファルシオンを肩に乗せながらハリードがあっけらかんと言うと、ウンディーネはそれには半顔で答える。それにハリードが、実は俺もそう疑っている、と言いながら肩を竦めて反応すると、ふっと笑って道を進み始める。
 背後のそんな軽口を受けながら、カタリナは間も無く終着点が近いことを感覚で理解しながら、この後に訪れるであろう死闘の前に、一つでも役に立つ情報はないものかと指輪へと意識を集中させていた。

(・・・ダメね、あまり頭の中に具体的な映像が思い浮かべられないわ。建物の形状などは朧げに思い出すことができるけれど、こと戦闘に関してとなると全く具体的なビジョンは見えてこない・・・)

 結局のところ、指輪の記憶で彼女が具体的に見ることができたのは、魔王殿にて謎の少年と会った時と、そしてピドナに謎の少年やミカエル以外で八つの光と目される面々が集まった時に脳裏に流れた映像のみだった。
 それ以外の様々な記憶は映像という形ではなく、気がつけば体に刻み込まれていた戦の動きであったり、今この瞬間のように、ふと瞬間的に道がわかると言った程度のものだ。
 四魔貴族を討伐する為に最も期待すべきは、何より彼らとの戦闘における記憶だ。だがしかし、そういった部分の記憶は全く彼女の中に流れ込んでくることはなかった。

(案外そういうところは残してくれていないのよね。痒いところに手が届かないというかなんというか・・・)

 不謹慎にも三百年前の勇者たちに向かいそのようなことを思いながら、カタリナはそれ以外に何か参考になるものはないかと考えた。
 そうなると彼女に思い出すことができるのは、実際に彼女が戦ったことがある四魔貴族である、魔戦士公アラケスについてだ。

(仮にあの時に今の面々と、今の武具があったら、果たしてどうだっただろう・・・)

 一瞬でも気を抜けば狂ってしまいそうなほどの、瘴気の渦の中。己の死を一瞬で悟ることになんの疑問の余地も挟まないような、圧倒的な存在感。魔神と呼ぶに相応しいその佇まいと、あの存在の凶悪性を具現化したかのような、燃え盛る真紅の魔槍。
 自分があの時出来たのは、あの時思いついた中で最大の剣技(今では彼女の十八番となった神速の二段斬りだ。これを彼女は「逆風の太刀」と名付けた)にて、魔神の右腕を切り飛ばしたことのみ。
 あの時に比べるなら、自分で言うのもどうかと思うが、相当に戦闘技術は向上したと確信している。無論アラケスほどの存在とは対峙していないが、竜種や巨人族を始めとした様々な種族と戦ってきたし、その中で様々な状況からの戦闘経験を積んできた。あの時のように防戦一方になるようなことはないと、慢心ではなく思い返すことができる。
 そして何よりも、今の自分には、聖剣マスカレイドがある。
 これがあればこそ、たとえ自分一人であったとしても、あの時の魔神アラケスにそう簡単に引けを取ることはないと、素直に思う。
 そして更に今は、彼女の周りには五人もの、とても心強い仲間がいるのだ。

(いける。これなら、四魔貴族相手でもなんとかなる。そう、確信できる)

 空間を縦に貫く何本もの巨大な柱が並ぶ通路を走り抜け、一行はこれまでの行程の中でも一際大きな広間へと出た。そしてその広間に入った瞬間、此処がアビスゲートに繋がる最後の場所である事をカタリナは察する。
 全く隠すつもりのない、重苦しく禍々しい瘴気。ゲートからこの広間へと漏れ出ているその瘴気に触れた事で、カタリナ以外の面々も自ずと此処が最後の場所であることを察したようだった。

「・・・これ迄とは、段違いに濃い瘴気ですね・・・。以前の私ならば、これだけで卒倒していたかも知れません」

 固唾を飲みながら、しかしミューズは気丈な面持ちを崩さずにそう言ってのけた。
 その言葉に応えるようにシャールが槍を構え直すと、彼女の前に出るようにしながら周囲を視線で牽制しつつ進む。

「本来ならばミューズ様をこのような場所にお連れするべきでは無いのでしょうが・・・」

 そう言いつつも、しかしシャールは既に悟っているのだ。ミューズも、そして自分さえも、何か大きな流れに導かれるままに此処にきているのだということを。

「お父様なら、この状況に於いて静観をすることはありません。私はクラウディウス家の一人として、来るべくして此処に来ているのです」

 ミューズの力強い言葉にシャールが覚悟を決めたように頷くその横では、どこか場違いな様子で笑みを浮かべるハリードとハーマンの姿があった。
 ハリードのそれは、何処か触れてはいけないような悲壮感を漂わせる薄ら笑いであり、その心のうちで一体何を考えているのか、読み取ることは出来ない。
 一方のハーマンは、此方は非常に分かりやすい。この時を待ち望んでいたであろうことがありありと窺える様子で、その生命力を凝縮したような瞳はフォルネウスとの対峙を今か今かと待ち望んでいるかの様に輝いている。

「・・・冷静なんですね」

 そしてカタリナが一番気になったのは、他の四人とはまるで違う様子で広間の先を見つめている、ウンディーネだった。
 彼女の様子には大きく焦ったところもなく、ただ真っ直ぐに目の前を見つめているのみなのだ。そこには焦燥も余裕もなく、至極冷静そのもの。
 この広間の先には聖王記に綴られた伝説のアビスゲートが待っているというのに、それを裏付けるかの様に圧倒的なこの瘴気の渦中に在って、人は、ここまで冷静でいられるものなのだろうか。そんなことをカタリナは、思わず訝しんでしまうほどだ。だから、そのままの感想が口をついて出たのだった。

「そう見えるかしら?」

 カタリナの言葉に小首を傾げながら反応したウンディーネは、直ぐに前に向き直った。そしてゆっくりとした動作で緩く腕を組み、真っ直ぐに前を見つめる。

「私は、言ってしまえば特に四魔貴族なんていう存在と戦う特別な理由もなく、知識探究の末にここにいるだけだもの。それに魔術士っていうのはどうにもね、それが初めての体験であればあるほど、その物事を見定めることに集中しがちな性質なのよ。だから、貴女達がこの場で奮い立てば立つほど、逆に冷静に見えるのかもしれないわね。不快かしら?」
「いえ、そんなことはありません。冷静な人が後衛にいるほうが、前衛としても助かります」

 素直にそう思っただけなのでカタリナがそのままに答えると、ウンディーネはふっと笑って腕組みを解いた。

「私からしたら貴女の様な歳若い、しかも王侯貴族付きの騎士様が態々ここにいる事の方が、余程不思議でならないけれどね。矢張り貴女がここにいるのは、八つの光としての宿命に導かれてきたからなのかしら?」

 ウンディーネのそんな言葉を受け、カタリナもまた広間の先を見据えながら、少し考えた。

「・・・いえ、八つの光とは違う、自分自身の意思です。私が八つの光だったのは、偶々そうだっただけ、という程度にしか考えていません」

 仮に自分の考え方や価値観などが、そもそも『宿命』とやらに捻じ曲げられてしまっていたのだとしたら話は別なのかもしれないが、少なくとも彼女は己の心に己のなんたるかを問うた時、己の、その心が常にロアーヌと共に在るのだ、ということを今も再認識出来る。
 それは幼き頃に彼女が騎士を志した時、騎士候補生の時分にミカエルにその誓いを述べた時、騎士となってからモニカと共に穏やかな日々を過ごしていた時、己の慢心によりマスカレイドを奪われた時、そして己の信念の元にこの場に立つ今この時に於いても、一切変わっていない。

「アビスの脅威を滅する力が私に有るのなら、迷いなくそれを成します。その先に、私が剣を捧げた国の繁栄があると信じて」

 言葉と共に、手にしていた月下美人を納刀し、しっかりと腰に括り付けていた聖剣マスカレイドを替わりに抜き放つ。

「行くわよ、マスカレイド」

 カタリナの呼びかけに応じてマスカレイドが輝きと共に真紅の大剣へと姿を変えたのを合図に、一行は広間の奥にある門を潜って行った。

 殆ど視覚が意味を成さない程の暗闇を慎重に進むと、程なくして仄かな白い光が、道の先にぼんやりと見えてくる。
 その光に向かってそのまま歩を進めると、唐突に通路は終わりを告げ、まるで奥行きが把握できない不可思議な空間に放り出される。
 一行が天を仰げば、其処には禍々しさを具現化したかのような紋章が中空で明暗を繰り返し、その先には天井らしきものすらも見えない。
 そして空間の中央奥には、嘗て魔王殿の最深部で見たものと全く変わらぬ、純白にして醜悪なるアビスの光源。
 その光から生み出される純粋なる瘴気は、魔王殿で感じた其れよりも、心無しか純度が高いようにすら思えた。

「し、死蝕・・・?」

 その悍しいまでの瘴気に、ミューズが顔を強張らせながらそう呟く。
 そう、正にこの空間では、史上最悪の災害である死蝕の、その最中にいるようなものだと言える。

(・・・勘違いではない。魔王殿のあの時よりも、瘴気が濃い・・・)

 まるで此処はアビスそのものなのではないかと、その様に勘違いをしてしまうくらいに。それ程に、この空間に滞留した瘴気は異質で、醜悪で、圧倒的だった。
 先頭に立ったカタリナの背後で、他の皆が圧倒されている事が見ずとも伝わってくる。
無理もないだろうが、しかし圧力が更に上がる事を彼女は知っていた。

「・・・来たわね!!」

 そう言ってマスカレイドを振りかざしたカタリナの檄と殆ど同時に、白い光から巨大にして醜悪なる「何か」が姿を現しはじめる。
 目の前の空間が不自然に振れるように振動し、それまで何も無かった中空に、その「何か」が蠢きながら形成されていく。
 そして彼女らの目前に現れたのは、人など全く及ばぬような大きさの、悍しい姿をした怪魚だった。

「・・・待ちわびたぜ、てめぇを捌ける時をよ・・・」

 ハーマンが腰を落としてバイキングアクスを構えながら、その巨体を見上げる。
 そしてその言葉が届いたのか、まるでその場に充満する瘴気の海を泳ぐ様に光の前に漂う巨大な怪魚は、そのエメラルドグリーンの瞳だけをカタリナ達へと向けた。

『・・・何をしに来た、人間。死星の宿命をすら背負わない人間に、この海底宮に立ち入る資格はない』

 聞くだけで気が狂れてしまいそうな、悍しいその「声」。これだけで、それまで奮っていた筈の戦意など、急激に削がれていくことだろう。
 こんな規格外の存在に、人間の身で太刀打ちなど出来るわけがない。そう確信するには、その声だけで十分過ぎるほどなのだ。

『・・・小さく華奢なその姿は、見ているだけで虫唾が走る。その様な姿でこの海底宮に踏み入る愚かしさは、正に度し難い限りだ』

 言葉の通り、自分にとっては全くの虫螻を見下す様に、怪魚はそう吐き捨てた。

「上等だぜ・・・化物の分際で人間様に楯突いたことを、アビスの掃き溜めで後悔させてやるよ」

 ハーマンはマスカレイドを構えるカタリナに横並び、真っ向から啖呵を切りつつ、その怪魚を見据える。
 アラケスに相対した時など、カタリナは恐怖で真面に言葉を発することすら出来なかったものだが、矢張りこの男は異様に肝が座っているのだろう。

『愚かしい・・・。我が名は、アビスの魔貴族が一柱、魔海侯フォルネウス。その無知故の蛮勇にも、この我が大いなるアビスの慈悲によって、無様なる死を与えてやろう』

 フォルネウスは、その言葉と共にその巨体をカタリナ達へと真正面に向けた。

『先ずは、お前だ』

 発狂を促すほどの圧倒的な瘴気と共に、フォルネウスの巨体が、その大きさからは全く信じられぬ程の速度で動く。
 すると次の瞬間には、最前面にいたカタリナとハーマンに、彼らの視界全面を覆い尽くすほどのサイズの尾ひれが衝突した。

「カタリナ殿!!」

 一歩後ろにいたシャールが叫ぶが、それで何が止まるわけでもない。
 あんな速度で衝突する大質量の物量を真面に受けて、人間が無事に済む訳などない。下手をすれば人としての原型すら留めぬほどに、その体は千切れ飛ぶだろう。
 しかし。

『・・・貴様、何をした・・・?』

 相変わらず地の底から響くような声で、フォルネウスは勝利を宣言する訳ではなく、逆に若干当惑したような声色でそう言った。

「・・・ふっ、やるじゃねーか」

 同じく、凄惨なる現場を目の当たりにした筈にしては余りに軽い口調で、米神から一筋の汗を垂らしたハリードが曲刀を構え直しながら、にやりと笑う。
 彼の視線の先には、先程の立ち位置から殆ど動いた様子のないカタリナと、その隣には変わらずハーマンが無事な様子で居た。
 彼女らを薙ぎ払った筈のフォルネウスの尾ひれは、真横ではなく斜め上に軌道を変えられたようで、今は既に姿勢も元通りになっていた。
 何かが変わったかと言えば、カタリナが正眼に構えていたマスカレイドを、いつの間にか下段構えに変えていた事くらいか。
 彼女が尾ひれの衝突の瞬間に行ったのは、以前魔王殿にてアラケスに用い、アラケスに「無行の位」と呼ばれた高等回避術だった。
 カタリナ自身、手元に構えたマスカレイドに無事を問いかける様に一瞬視線を落とし、そして再びフォルネウスに向き直る。

「いけるわ・・・。物理攻撃は私が全て捌く。皆、全力でお願い!」
「カタリナを先頭にデザートランス隊形!各個最大火力でぶちかますぞ!!」

 カタリナの言葉に被せるようにハリードが曲刀を高らかに掲げながら素早く号令を発し、それに応えて即座に全員が動いた。

「アビスの相を崩したいわ。二人とも術でお願い。私もここは天術で応戦する。玄武術程ではないけれど、威力はまあまあ自信あるのよ」

 極力フォルネウスから距離を取るように飛び退ったウンディーネは、近くに居るシャールとミューズの二人にそう言うと、高速詠唱に入った。そうして紡がれていく印は、ミューズの扱う天術体系の「月術」と対を成す、「太陽術」と呼ばれる紋章であった。
 太陽術は三百年の昔に魔王軍を一度打ち負かした古ゲッシアの連合軍が用いた天術のうち、特にアビスへ効果が高いとされる術式だ。
 それに合わせミューズも大規模術式のために詠唱を始めると、シャールは二人を庇うように位置取りをし、以前に増して大きな灼熱の刃をフォルネウスに放ちながら槍を構えた。

『人間如きが、調子に乗るな!!』

 フォルネウスはシャールの放った火の刃を受けながらも、何ら気にした様子もなくアビスの瘴気を撒き散らしながら激昂した。
 魔神たるフォルネウスの視界から見る人間とは、なんと小さき事か。
 小さくか弱く、触れればそれだけで容易く殺せてしまうほど、儚い存在。それが人間であり、その小さき姿こそが、その象徴なのだ。
 魔神フォルネウスは、その様な存在を何よりも嫌う。
 だからこそ、対照的にフォルネウスは大きく雄々しく醜く、何よりも強大でなければならないのだ。

『・・・これは一体・・・』

 だからこそ、疑問に思うのだ。
 つまり今、魔神フォルネウスは、目の前の生物の行動が全く理解出来ないでいた。
 嘗て自らをその強大な力で従えた『魔王』は、その身に宿したアビスの力があまりに大きく、「器」に過ぎないその魔王の体に対して何かを思うことなどなかった。
 だが今、目の前にいるこの人間達は、その様な圧倒的な力を感じる存在ではない。全く知る通りに小さくか弱い、ただの人間にしか見えない。

『・・・なのに一体、何故』

 翳すは、何者をも切り裂く巨大にして鋭い爪。
 振るうは、巨岩をも吹き飛ばす頑強な尾ひれ。
 突き出すは、硬い鉱石をすら貫く雄々しき角。
 その強大なる質量から繰り出す何れもが、一撃で人を滅ぼすには十分過ぎる程の存在だ。事実フォルネウスは、これまでに何度も、そうして過弱き人を無数に屠ってきたのだ。
 だが其れ等の猛攻を、真紅の大剣を構えた華奢な人間が、全て真正面から受け止める。
 そしてその合間には、場に溢れるアビスの力を削り取らんとする天術の吹雪と焦熱風に、玄武と対を成す朱鳥の加護を宿した灼熱の刃。そして降り注ぐ数多の術式の合間にも確実に自らの身を削ぎ落としていく、竜巻の如き剣の乱舞。
 それは魔神フォルネウスの知る人間ではない、まるで新たなる何かを目の当たりにしているかの様な、そんな感覚をすら覚える。

『貴様らは、本当に我の知る人間なのか・・・?』

 この様な存在を、フォルネウスは知らなかった。
 四つの属性の一つを司る魔神が嘗て三百年前に相対した『最強の人類』は、これまた単なる人間に比べて、明らかに異質ではあった。
 その時も魔神の前には今と同じように幾人もの矮小なる人間が並び立ったものだが、とは言えその中でフォルネウスの知る人間という存在を確実に逸脱していたと感じたのは、確か二人だったと記憶している。
 だが、今この場にて魔神フォルネウスの前に居る六人は、その時の者達とも何処か異なる。
 小さき筈の人間一人一人が、理解し得ぬ何かの『宿命』を持っているかのような、そんな不可思議な印象を持つのだ。

「おい、寝ぼけた顔してんじゃねぇぞ!!」

 人の領域で到達するとは、よもや思ってもいない程の速度。
 その領域にてフォルネウスの眼前に迫ったハリードが、手にした曲刀で以て強力な五月雨式の三段斬りを浴びせる。
 その斬撃が確実に自らの命を大きく削った事を悟り、其処で漸く、魔神フォルネウスは思い直すことにした。
 目の前に相対する是等の存在は、今までの自らの知る『人間』ではないのだ、と。
 フォルネウスが、この三百年の間にアビスの淵で溜め込んできた瘴気の量は莫大だ。それこそ、三百年の昔に自身を滅ぼした『最強の人類』に今、負ける事は絶対に有り得ないだろう。そう、強く確信を得る程度には。
 だからこそ、だ。
 自分が力を溜めたのならば、彼ら人間にもその三百年の間に変化があったと考えるのは、とても自然な事なのだ。
 強きを求める事と強さに溺れる慢心は、全く異なる意識だ。その事実を反省し、この目の前の、新たなる存在に今改めて相対しなければならない。
 フォルネウスは魔神にあるまじきとすら言える思考回路で、そう考えを改めた。
 それまで断続的に続いていたフォルネウスの攻撃が止まった事を感じたカタリナは、下段に構えていたマスカレイドを振り翳し、一足跳びでフォルネウスの懐深くへと飛び込んだ。

「これで・・・!!」

 空間が切り裂かれたのかと錯覚する程の断裂音が、その場に響き渡る。
 アラケスに対して放った時に比べ完全に制御された神速の二段斬りが、確実にフォルネウスの胴を捉えたはずだった。だがフォルネウスは直前に大きく身を捻り、尾鰭の半分ほどを斬り飛ばされるに被害を留め、そして用心深くカタリナ達から距離を取る。
 その行動に間髪入れずに追撃を行おうとしたカタリナだったが、しかし明らかに相手の纏う空気が異質に変貌した事を察し、既のところで思い止まった。近くにいたハリードも、どうやら全く同じ事を肌に感じたようだ。

「・・・不味いな。なにか、えらくヤバい感じがする」
「ええ・・・」

ぽつり・・・

 ハリードとカタリナが緊張した面持ちで剣を握り直したのと時を同じくして、上方から唐突に水が滴ってきた。
 そして一滴だと思ったその水滴は直ぐに後続があり、それはやがてスコールとなってその場に降り注ぐ。その一粒一粒にはアビスの瘴気が混じっており、玄武の加護がなければこれだけで体力を大きく消耗させられてしまいそうだ。

「・・・一体何だってんだ」
「・・・・・・なんてこと」

 場に降り注ぐ突然の雨に困惑した様子のハリードの横で、注意深く魔神を睨んでいたカタリナが、引き攣ったような声で呟く。
 その声に皆が魔神を注視すると、これまで六人が全力で与えてきた数多の傷が、今し方カタリナが切り飛ばした筈の尾鰭も含め、見る見るうちに修復されていくのだ。

「属性加護による自己再生・・・? それにしたって、あんな馬鹿げた速度の修復なんてあり得るの・・・?」

 まるっきり現代魔術理論の外にあるかの様な事象を目の当たりにし、ウンディーネは戦慄した面持ちで、それを見つめる。
 その修復の間にも再度、苛烈に攻め立てねばならないという事は、重々分かっている。
 分かっているのだが、その場にいる誰もが、どうしても動けずにいた。
 何しろ、彼らに相対している今のフォルネウスは、その巨体の何処にも、全く以て「隙」というものが無い様子なのだ。
 ミューズらの天術が中和していたアビスの瘴気も、最早完全に元通り・・・いや、寧ろ当初以上に濃度を増し、この空間に禍々しく満ち満ちている。
 そしてカタリナ達が動けずにいる間に殆ど無傷の状態へと再生し終えたフォルネウスは、先程までの様子とは全く異なる態度で彼女らを見据えた。

『力ある者を、我は評する。そして我こそが、無様に傲りを見せた事を恥じ、詫びよう。お前達は、我が力を知るに相応しい存在だ』

 その言葉と共に、場に充満していた瘴気がフォルネウスの元へと急激に収束する。
 その余りの瘴気の濃度にカタリナは軽く目眩を覚えながら、咄嗟に後続の隊列変更を指示する。

「来るわよ、備えて!!!」

 カタリナの叫びと共に前衛が密集隊形になり、その直ぐ後ろに駆け込んだミューズとウンディーネが隊列全体を覆うように天術の結界を展開する。
 それとほぼ時を同じくして、フォルネウスは自身に収束したアビスの力を、荒ぶるその力の奔流を、一切の躊躇いも無く解き放った。

『アビスの力を知れ!』

 咆哮と同時にフォルネウスの元から爆散した瘴気は、瞬時に巨大な渦を巻く大質量の水へと変換された。
 そしてその渦に、場に犇めくアビスの波動が幾重にも絡みつき、この空間全体を埋め尽くす様に広がる。
 その場の全員がこの直後に感じたのは、水の冷たさだった。
 だが、この「冷たさ」とは単純な温度のそれだけではない。それは非常に明確な「死」を連想させるような、全く生気を感じさせない異様な冷たさなのだ。
 その冷たさが体に執拗に絡みつき、深海の更なる深淵へと引き摺り込まれて二度と目覚めることのないような、そんな感覚に支配されていく。
 それが剣先から腕へ、腕から全身へと、瞬く間に浸食していった。
 防御態勢をとっていたことなど、全くの無意味であるかの様に。
 カタリナ達はその圧倒的な水量に成す術もなく引き摺り込まれる。そして渦の渦中にありながらアビスの力が込められた衝撃波を幾度も身体に叩き込まれ、やがてその身はボロ雑巾の様に渦から床に放り出された。

『・・・天術だけでは無く、玄武の加護も持っていたか。加護無き者には即座に死を齎す深淵の渦を、良く耐えた。だが、我がアビスの波動はその身にはとても心地悪かろう』

 場違いにも、どこか感心したようなフォルネウスの声と共に、散らばって倒れていたカタリナ達に僅かな動きが見られる。
 そして壁に叩きつけられた際に砕けたらしい肩当が崩れ落ちるのを尻目に、瘴気の混じった水を咳き込むとともに吐き出しながら、カタリナが最初に起き上がった。

「・・・っ」

 口の中を切ったか、口内に充満する鉄の味に顔を顰めながら、兎に角、自分の五体が今どれだけ動くのかどうかを先ず確認する。
 両足は、打撲以上の異常は無い。まだ問題なく動く。
 左の二の腕に、あまり直視したくない類の痛みがある。どうやら、砕けた肩当の一部が深く突き刺さっているようだ。
 四肢は血の巡りが悪くなると、途端に力が入らなくなる。これでは、もう先程までのように両手で聖剣マスカレイドを振るうのは難しいだろう。
 冷静に、というよりは戦人の直感でそう判断してマスカレイドを小剣の状態に戻し、切っ先を形の上ではフォルネウスへ向けて牽制を行いつつ、次に自分の背後に素早く視線を向ける。
 ハリードとシャールは、既に立ち上がっている。自分と同等か、それよりは若干負傷が軽そうか。継戦可能のようだ。ミューズもシャールに庇われながら立ち上がろうとしていた。
 ウンディーネもハーマンを立ち上がらせつつ、治癒術を掛けているようだ。
 視界に映る上では、全員が五体欠損を伴う程の大きな怪我はない様子だ。ミューズとウンディーネが施した咄嗟の天術の障壁がなければ、被害はこの様なものでは済まなかっただろう。
 唯一見てとれた被害は、ハーマンの左足がないくらいだ。これは元から無いのを忘れていたという訳ではなく、括り付けていたと思われる木製の義足がもぎ取られた格好だ。
 それ故に、ハーマンは最早これまでの様に立つことも間々ならず、この後はこれまで同様の戦力として換算するのは難しい状況に追い込まれたということになる。
 状況を概ね理解したカタリナは、小剣を構えながらフォルネウスを真っ直ぐに見つめ、思案した。

(・・・読みが、完全に甘かった。この場に入った時の、魔王殿の時より強く感じた瘴気について、私自身が一番慎重になるべきだった・・・)

 アビスゲートは以前から変わらず、まだ完全には開いてはいない。だがしかし、刻一刻とその門は更なる解放を続けていたのだ。そんな事は、考えれば直ぐにわかる事だった筈なのだ。
 そして門の開く度合いが大きくなれば大きくなるほど、四魔貴族の力も当然に比例して大きくなるのだ。
 彼女が単身アラケスと対峙したのは、もう一年程も前の話だ。この一年で彼女は、その取り巻く状況も内包する力も、大きく変動してきたのを実感した筈だ。ならば彼女が変わったのに相手だけがそのままであるなど、当然あるはずも無い。
 だからこそ、あの時と同じ感覚で挑む事が抑も間違いだったのだ。
 隠そうともせず苦虫を噛み潰したような顔をしながら、一瞬だけ後悔する。そして次には、この状況を元に次の行動を模索し始めた。

(・・・此方の与えたダメージは全快されている。対して此方の被害はかなり大きくなった。私もそうだけど、特に前衛の負傷度が大きい・・・一度、撤退を試みるべきか・・・?)

 幾つもの想定で考えを巡らせるものの、実際のところは前進も後退も非常に困難な状況であった。
 フォルネウスは再度瘴気の渦を練り上げに掛かっているようだが、その一方で全く油断なくカタリナ達を見据えている。
 対峙を辞めて背を向ければ、即座にその爪や牙で引き千切られるだろう。
 だが、ここで無闇に攻撃を行ったとしても、またすぐに再生されるのがオチだ。今もなおスコールは絶え間無く降り注ぎ、この空間をアビスと玄武の地相へと固定している。この状況にあって、まさにフォルネウスは無敵であるかの様に思われた。

(・・・不幸中の幸いなのは、私たちも玄武の加護があるから緩やかな治療効果を受けることができている、ということ。だけど、こちらは恐らく、もう一度あの渦が来たら、耐えられない・・・)

 特にアビスの波動はかなり体に響いており、術を得手としないカタリナとハリードは特段その損傷が蓄積されている。正直に言ってしまえば、割と立っているのも辛い状況だ。
 そんな中にあって、しかしカタリナは前を見つめた。
 例え自分がここで朽ちても、それでも次に繋げなければならない。八つの光とは、思えばその為に八つあるのだろう。そう考え直したカタリナは、マスカレイドを構えて真っ直ぐにフォルネウスへと突きつけた。

「私が、なんとしても時間を稼ぐわ。その間に、皆はここから脱出をして頂戴」

 カタリナは横を向き、後ろの面々へ向かってそう言い放った。既に彼女は、覚悟を決めていた。
 彼女の使命は、ここで一秒でも長くフォルネウスを抑えること。他の皆が逃げる時間を稼ぐのだ。そしてあわよくば、フォルネウスの手の内を全て見ることが出来ると尚いい。
 彼女の中には、その知識がきっと他の八つの光にも共有されるはずだ、という朧げな確信があった。
 その確信は、一体どこから来るものなのか。それは例えば、今の彼女の取得技術から一端を垣間見ることが出来る。
 今の彼女の得物は小剣状態のマスカレイドだが、小剣の扱いは指輪の記憶にて桁違いに洗練されている。更に、嘗て魔王殿深部にて流れ込んできた記憶とは別に、このところは別の新たな技術も彼女の中に蓄積されていることが最近になってわかったのだ。
 例えばこの小剣を振るい、今の彼女には非常に強烈な、南十字星を象る超速の五段突きを放つことが出来る。これはつい最近までは全く記憶にない戦技だったものだが、今は何故か彼女の中には確かに存在しているのだ。
 恐らくはこれを、彼女は同じ八つの光の誰か(小剣を用いるとなると、ミカエルかモニカあたりだろうか)が会得したものだろうと考えていた。
 この考えが正しく、ある程度の記憶や技術は共有されるのだとすれば、彼女がここで得るものは、次に戦いを挑むものに、多少なりとも引き継がれるはずなのだ。
 これでは、まるでサラから借りて読んだアバロン伝記の皇帝のようだな、等と場違いに思い出しながら、そう言えばサラは大丈夫なのだろうか、とまるで走馬灯の様に考えが移ろいゆく。

「・・・おいおい、一人だけいいとこ持っていくなよ。今回こそ、俺にも付き合わせろ」

 ふと、カタリナの隣に並び立つように、ハリードが如何にもしんどそうにファルシオンを構えながらそう言った。
 カタリナがちらりとその顔を横目に見ると、その顔は全くこの状況に絶望をしていない。それどころか、この状況をすら楽しんでいるかの様に、実に心の底から笑っているような笑みなのだ。
 正直に言えば彼女一人でどこまで持つのか不安がないわけではなかったので、こうして言ってもらえることは非常に有り難い。後続の撤退に関しては、突破力のあるシャールが先頭となればなんとかなるはずだ。

「・・・助かるわ。けど、笑ってるのキモいわよ」
「ほっとけ」

 それ以上の視線は交わさずに軽口を叩き合い、今まさにフォルネウスへの突撃をかけようとしたその間際。
 彼女らの目の前に、突如として巨大な炎の壁が現れる。
 驚いてカタリナが背後を振り向けば、やはりその炎の壁を発生させたのはシャールだった。

「此方はいいから、急いで!」

 カタリナは一分一秒が惜しいと言った様相でシャールにそういうが、しかしそれに答えたのは、シャールの脇から出てきたウンディーネであった。

「ちょっと・・・頭を冷やしなさい」

 カタリナを制する様にそう言い放ったウンディーネは、彼女もやはり負傷をしているのか、足を軽く引き摺りながらカタリナに近づいて口を開いた。

「捨身の撤退は、最後の手段よ。まだ、試したいことがあるわ」
「・・・試したいこと?」

 聞き返すカタリナに小さく頷いたウンディーネは、炎の壁の向こうにいるはずのフォルネウスを睨む様にしながら、前衛二人に内容を伝える。

「・・・・・・承知したわ」
「こちらも了解だ。ま、いつまでもつか分からんがな」

 カタリナとハリードが其々頷くと、ウンディーネは満足した様に微笑み返しながら後方へと戻った。
 そしてシャールとミューズに指示を出し、陣を組む様にしてフォルネウスへと相対しながら、術式の構築に集中する。

「炎の壁が消える・・・いくぞ!」

 シャールの作り出した炎の壁が揺らめきながらフォルネウスに向かって倒れるのと同時、ハリードとカタリナが突撃をかけた。
 炎の壁には目も触れずに瘴気の集約に集中していたフォルネウスは、左右から攻め立ててくる二人に対応する為、一時的に瘴気の塊の形成を遅くする。前衛二人の役割は、これだけだ。
 その間にシャールは周囲に炎の障壁を張り、スコールの届かない空間を作り出す。そしてウンディーネが詠唱をしながら前方に手を翳すと、ミューズ、シャール、ウンディーネの間に複数の属性を司る紋章が浮かび上がった。

(・・・さて、解読自体は殆ど終わっているとはいえ、いきなり実践なんていうのは、魔術師として実に短絡的だわ。そう・・・実に短絡的で、実に、愉しい・・・)

 ウンディーネは、心の奥底で微笑んだ。
 彼女が今作り出さんとしているのは、古代の大魔術だ。
 モウゼスでの一件の後にカタリナから依頼を受けた古代魔術書の解読をバンガードに乗ってからも進めていたウンディーネは、その魔術書が示す内容が、魔導器の構造にも通ずる「陣形術式」であるということに、早々に気がついていた。
 バンガードの起動術式を観察する中でも古代魔術書の解読に役立つ共通点が幾つも見つかり、バンガードに乗ってからのここまでの道のりは、彼女の魔術士人生の中でも、とりわけ格別に素晴らしい時間の一つだったと断言できるだろう。
 ましてや、彼女が追い求めていた魔術の進化系である連携術のその先にあるべき知識が一気に得られていく快感は、何者にも変えがたいものだった。
 そしてその魔術を、一世一代のこの瞬間に試すことが出来る。
 これが、魔術士冥利に尽きると言わずして、一体、他のなんだというのか。

「・・・ぐぅっ!!」

 シャール、ミューズと共に、ウンディーネの腕の皮膚にも唐突に亀裂が走り、派手に鮮血が吹き出す。

(陣形による循環が不安定か・・・。でもこの類の負荷が掛かるってことは、術式自体は間違いなく発動しているということ。あとはこっちが力技で、これを練り上げるだけ・・・!)

 ついには口元に笑みまで浮かべながら、ウンディーネは全身に走る激痛など物ともしない様子で詠唱の最終段階に入った。
 その間、既に何度も地面に叩きつけられながら、満身創痍でカタリナとハリードがフォルネウスに応戦している。殆ど動けないハーマンも斧の投擲で中距離から援護を行い、可能な限り注意を逸らしていく。
 彼らの尽力により、フォルネウスの元に収束している瘴気は、まだ先ほどのものほど固まってはいない。
 先に放つのは、ウンディーネだ。
 彼女の詠唱の最後の一文が紡がれたことを悟ったシャールとミューズは、こちらも最後に残った己の全魔力を放出させる様に陣に集中する。
 すると、みるみるうちに術士たちを包んでいた炎の障壁が空間を蹂躙するように広がり、それは瞬く間にその場に降り続いていたスコールを消し飛ばした。

『・・・・!?』

 その突然の事態にフォルネウスが動揺した様子でいると、カタリナとハリードは時が来たことを察し、痛む体を引きずって一気にその場を離脱する。
 そして血塗れの腕を振り上げたウンディーネは、朱鳥、月、太陽が三位一体となった純然たる至高の魔力の塊にして、この魔術界に於ける一つの究極の形をその手に宿し、高らかに叫んだ。

「さぁ見せて頂戴・・・クリムゾンフレア!!」

 遂に現代に復活した合成術式が、陣から放たれる。
 これまでに練られた魔力が三人の間に浮かび上がった陣の中を高速で循環して超加速的に膨れ上がり、やがてそれはその場の全てを焦がさんとする灼熱の熱気を纏いながら、一気に中空に吹き荒れた。
 そして瞬時に空間全体を、まるで業火の地獄にでもいるかの様に高温たらしめた熱気は、間も無く吸い寄せられる様に術式の標的であるフォルネウスの中心部へと急激に収束していく。

『な・・・ばかな・・・!!?』

 収束した熱気は一瞬でフォルネウスの巨体をすっぽりと包み込む様に膨らみ、そして直後には内包する莫大な自己魔力量に押し潰されるかの様にその形を歪めて横に伸び、それに合わせて幾重にも炎が奔る。
 刹那、薄暗く不気味な空間だったアビスゲートのある間が、白く染め上げられた。そして、空間が白くなった、という事を認識する間も無く、その場にある全てを吹き飛ばさんとするほどの大爆発が巻き起こったのだ。

(・・・轟音って、こういうのを言うんだろうな・・・)

 最前線を急ぎ退いたとはいえ、まだ爆心地に近いところにいた為に見事に衝撃波で吹き飛ばされながら、カタリナは盛大に耳を擘く大爆音で自分の聴覚が確実に少しイカれたことを自覚しつつ、自力ではどうしようもない浮遊感と共に、呑気にもそんな感想を抱いた。

『・・・ぉ・・・・・・ぉぉぉ・・・』

 それはたった数秒の間に起こった事だった筈なのだが、えらく長いようにも感じられた。
 やがて爆風が止み、空間を支配していた灼熱が去り、熱で歪んでいた視界が元に戻ってきた頃。
 地の底から響き渡るような、重苦しく低い呻き声が空間に響いた。
 爆風に飛ばされ、ミューズらと同じ辺りまで転がり込んでいたカタリナは、もうこれ以上は動けないと必死に訴えかける満身創痍の身体に問答無用で鞭を打ち、なんとか動く右腕を使って上半身だけでも起き上がった。
 そして眼前に広がる光景を目の当たりにし、絶句する。

「・・・・・・」

 爆心地の真下は大きく地面が抉れており、その後方にあるアビスゲートと思われる白い光も、爆発によってゲートの起動装置と思われる仕掛けが大きく破損している関係からか、非常に弱々しくなっていた。
 そして、胴体の八割ほどを完全に消し飛ばされ、文字通り首の皮一枚に近い状況で頭部と胴が繋がった状態のまま宙に浮いているフォルネウスが、視界の中心にあった。
 すっかりこの場にあった玄武の地相は跡形もなく吹き飛び、自己再生も全く行われている様子はない。

『・・・あ、有り得ぬ・・・』

 果たしてあの状態で何処から声を出しているというのか、フォルネウスは殆ど掠れたような呻き声と共に、そう言った。
 そして弱々しくエメラルドグリーンの瞳が光ったかと思えば、僅かながら、霧雨のような雨がその場に降り始める。

「・・・不味いわ・・・自己再生を始める・・・!」

 またしても回復を図ろとしている事を察し、カタリナは立ち上がろうと必死にもがく。
 だが左手にはすっかり力が入らなくなっており、両足も先ほど吹き飛ばされた時に打ちどころが悪かったか、動かそうとすると激しい痛みを感じる。
 直ぐには立ち上がることすらできないという事実を自覚するには、十分過ぎるほどの損傷だ。
 他に何か手段はないかと周囲を見渡せば、ハリードは自分と同じ様な状況で且つ得物のファルシオンが折れているし、大魔術を放った術士三人は疲労の極限へと達して崩れ落ちており、全く動ける様子ではない。
 そして視界には映っていないがハーマンは先のフォルネウスの攻撃の時点で義足を失っており、抑も動く事も間々ならないはずだ。

(・・・なにか・・・なにかないの・・・?)

 緩やかに再生を始めようとするフォルネウスをやけにスローモーションのように視界に捉えながら、自分の中にある記憶を辿り、この一瞬で何か打つ手はないものなのかと脳内で思考が高速回転をする。だが、自分を始めこの場にいる全員が動けない状況では、打つ手などあるはずもない。
 目の前の現実にそれを確信して弱々しく歯軋りをした、その瞬間だった。
 カタリナの視界の横を勢いよく駆け抜ける、人影があった。

「・・・!!?」

 何が起こったのかとカタリナがその影に視線を向けると、その謎の人影は一直線にフォルネウスの懐へと飛び込み、手にしていた仕込み杖を構えた。

「・・・きっちり返してもらったぜ、クソったれめが」
『・・・な・・・に・・・?』

 フォルネウスのエメラルドグリーンの瞳が、自らの懐に飛び込んできたその人物に向けられる。
 それは、見知らぬ男だった。
 抑もフォルネウスには人間の顔など対して見分けもつかないが、兎に角その男は、知らない男だ。なにしろ、つい先ほどまでこの場において戦っていた人間の中にも、この様な男はいなかったからだ。

『貴様は・・・』

 誰だ、と、フォルネウスは続けようとした。
 だが、それは出来なかった。
 男が笑みを浮かべながら抜き放った何かが、視界に止まらぬ速度で、魔神の身体を真っ二つに切り裂いていたのだ。

「抜刀燕返し、ってな。十年、てめぇをぶった切るためにこれだけを鍛え続けてたんだよ」

 その言葉は、届いていたのかいないのか。声にならない断末魔と共に、フォルネウスの巨体が霞み、揺れて次第に消えていく。それを背にしながら、男は懐から煙草を取り出し、慣れた手つきで火をつけた。
 その特徴的な香りが自分の元まで届き、カタリナは眉間に皺を寄せながらその男を見上げた。

「貴方・・・ハーマンなの・・・?」

 なぜカタリナがそう思ったかと言えば、答えは簡単だ。その男が吸っていた煙草の香りが、ハーマンの吸っていたものと同じだったからだ。そして、その服装も、ハーマンのそれと同じなのである。
 だが、カタリナは自分で言っておいてなんだが、にわかには信じられないという表情をしている。
 なにしろ、彼には立派な左足がちゃんとあるのだ。
 一度失った四肢が生えてくる事象など、カタリナの常識の中にはない。だからその時点で、信じられないのは当然なのだ。その他にも、体のサイズ自体が一回り大きくなったようにも見えるし、更には頭髪もハーマンの白髪とは全く違い、豊かな黒髪を生やしているのだ。
 カタリナのそんな困惑した様子を何処か楽しむ様にしながら見ていた男は、銘柄特有のとても甘い香りのする煙草をたっぷりと肺に溜め込んで真っ直ぐ上に向かって吐き出し、手にした仕込み刀を仕舞いながら、にやりと笑った。

「ハーマン爺さんは、死んだ。俺の名前は、ブラックだ」

 自らをブラックと名乗ったその男に、カタリナは数度の瞬きをしながら応える。ブラックといえば、何処かで聞いたことがあるような気がする名前だ。

「・・・そうか、あんた・・・左足がまだあるっつってたのは、生気ごとフォルネウスに喰われていただけだからっつーことだったのか」

 一足先に何とか立ち上がったハリードが、砕けたファルシオンを腰の鞘に納めながらブラックに向かって語りかけた。

「つまりハーマン爺さんの正体は、十年前に西太洋で消息を断った海賊ブラックってわけだ」
「おう、ご名答だ」

 ハーマンの時は眼球にのみ凝縮されていた生命力が、今は彼の体全体から溢れ出しているようだ。海の男特有の筋骨隆々とした体躯、南国特有の艶のある黒髪、そして一層輝きを増した様にも見える、力強い瞳。
 確かにミカエルとはまた違った魅力を感じないわけではないが、しかしちょっと自分のタイプではないかな、とカタリナは分析する。

「・・・あいつの土手っ腹に穴が空いた時に、恐らくあいつの中にあった俺の一部が抜け出したんだ。だからさっき突然、足が生えやがった。体も前みたいに動くし、こりゃあ間違いなくあの木偶をぶった斬れっつー玄武様の思し召しだと感じたってわけよ」

 そういってブラックが二の腕で力瘤を作りながらニカっと笑うと、つられて他の皆にも笑みが浮かぶ。そうして漸く戦闘が終わったのだという実感が訪れると共に、体の痛みが強くなった様にも感じる。
 これはまた、治るのにしばらく時間が掛かりそうだ。

「さて、取り敢えずこいつをぶっ壊せばいいんだよな?」

 そういってブラックは愛用のバイキングアクスを振りかざし、誰からの答えを待つまでもなく、アビスゲートを出現させる装置と思しき純白の光を放つ紋章の中心部に位置する球体へと叩きつけた。

ミシリ・・・

 衝撃音の後に亀裂音が走り、その場を照らしていた白い光が、次第に弱々しくなっていく。それらを一同が無言で見つめている数秒のうちに、やがて光は跡形もなく消えてしまった。
 その瞬間、海底宮を包んでいた空気が静まり返った様に大人しくなる。

「・・・何が起こったんだ?」

 その変化に皆が周囲を見回していると、カタリナはやっとの思いで立ち上がりながら口を開いた。

「恐らく海底宮が、また次の死蝕を待つために眠りについたのよ」
「眠りについた・・・ねぇ。確かにこれは、火術要塞の雰囲気と全く同じだな」

 カタリナの言葉に反応したハリードが、静まり返った海底宮を見回しながら呟く。彼は既に何者かの手によって魔炎長アウナスが滅せられたあとの火術要塞に、カタリナ等と共に踏み込んでいる。確かに今の海底宮の纏う雰囲気は、その時の火術要塞のそれと全く同じ様に感じられるのだ。

「つまり・・・三百年後にまた死蝕が訪れれば、フォルネウスは復活する、というわけなのですね」

 シャールに支えられながら立ち上がったミューズが呟くと、カタリナは小さく頷いた。

「はい。恐らくは、今回よりも更に強力になって復活する、と思われます」
「・・・これより強烈なのか・・・。流石に、そんなものを倒せる気が今は起きんな・・・」

 ミューズを支えるシャールも、彼にしては珍しく弱気な様子で苦笑いをしながらその言葉に反応する。それは、先の戦闘の間に張り詰めていた緊張感から解放されたことによるある種の冗談とも受け取れるが、一方では紛れもない本心だとも感じる。
 そう感じるのは、事実カタリナ自身にしても、強くそう思うからに他ならない。今回にしたって、ウンディーネが古代魔術書の解読を終えていなければ、彼らは全滅を免れなかったことだろう。あの規格外の強大な魔術がなければ、間違いなくこの場の全員の命はなかった。

「・・・兎に角、今は生き延びたことを喜びましょう。本当にありがとう、ウンディーネさ・・・ん・・・」

 そういって、ウンディーネの方を振り向く。
 彼女は上半身を起き上がらせて壁に寄り掛かった状態だったが、しかしまだ立ち上がってはいなかった。それどころか、今までのこちらの言葉が聞こえていたのかどうかも怪しいくらいには顔面蒼白で、呼吸が弱く、体を起き上がらせているのもやっと、というような状態だった。
 そして彼女の両腕からは今も緩やかに血が流れ続け、彼女の周りを紅く染め上げている。
 合成魔術を放った反動は、術を主導した彼女に最も大きく跳ね返っていたのだ。

「ウンディーネさん・・・!」

 そのただ事ではない様子にカタリナが駆け寄ろうとするが、彼女自身も大概全身が重症だ。走り寄ろうとして蹴つまずいてしまったところに、彼女の隣を横切ってウンディーネに駆け寄ったブラックは、脱いだ自分の上着を千切って彼女の両腕を肘の辺りから強く結んで簡易止血し、余った部分で両腕の流血部分を包み、軽々と彼女を抱え上げた。

「このままじゃ危ねぇ。おい、急いでバンガードに戻るぞ」
「ハーマン・・・ブラックさん、先に行って頂戴。私たちも後を追うわ」
「おう、途中でくたばるなよ」

 そう言って勢いよく走り出したブラックに続き、その場の全員も痛む体を引き摺りながらアビスゲートの間を後にした。

 

 

 地図上ではそこにバンガードがあったはずの崖に為す術なく立ち尽くしたトーマスは、周辺の村で聞いたところによるとカタリナ等が向かったとされる西の海を只管に見つめながら、彼にしては珍しく焦りを隠した様子もなく、小さく祈る様に独り言を呟いていた。

「カタリナ様・・・どうか、お急ぎ下さい・・・。このままでは、ロアーヌが・・・!」

 

 

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