第六章・10 -家出娘、啖呵を切る-

 

「ハリード!?」
「よう、無事だったようだな」

 物々しい装備に身を包んだ衛兵に通されてやってきた浅黒い肌の傭兵を見たカタリナが思わず驚きの声をあげると、ハリードは場の緊迫感に似合わず陽気な様子で片手を上げた。
 突然の馴染みの来客に駆け寄って一体どうしたのかと問いかけるカタリナに対し、ハリードは腰に装着した愛用の曲刀の柄に片手を乗せながらにやりと笑って見せた。

「なぁに、ポールたちはカンパニー絡みの計略でヤーマスに向かったんだが、その作戦に俺は参加しなかったんでな。要は暇だったって事だ。そこでフェアリーが慌てて飛び出していくもんだから、その時にお前達と連絡を取るつもりだってとこも含めて内容だけ聞いておいたのさ。なんにせよ行き先が密林なら、あのロアーヌ侯であれば是が非でもここを拠点にするだろうと思ってな。まぁ誰かしら居るだろうとは思っていたが、読みは当たりだったようだな」

 だがまぁ一足遅かったようだな、と続けて肩を竦める。カタリナの様子から、既に妖精族救出が終わった事を読み取ったのだろう。
 剣の柄に置いていた手を腰に当て直し、ハリードはまるで観光でもしに来たかの様相で周囲を見渡した。
 彼らが今いるのは、メッサーナ王国の誇る最大規模の海上警戒拠点であるエデッサ要塞だった。ピドナ港を擁するマイカン半島の南に広がるトリオール海と、一大観光リゾートであるグレートアーチに続く温海の境目ほどに位置しているエデッサ島の入り江に建造されたこの要塞は、元々はあの悪名高き海賊ジャッカルが秘密裏に根城としていたとも噂される場所でもある。

「しかし・・・見事なものだ。正に近代建築の粋を集めた砦だな。こいつは生半可な美術品なんかより、余程鑑賞のし甲斐があるってもんだ」

 建設から十年ほどしか経っていないこの要塞は、比較的歴史のある建造物が多い西洋世界の中では特段に新しい大型建造物である。そして近代における軍事活動を最大化させることを目的として作られたこの要塞は、ハリードが言う通り現在用いられる技術の粋を結集させたものと言える。
 またメッサーナ王国王宮近衛軍団の前軍団長であるクレメンスの肝いりの建造物でもあり、ここを近代の近衛軍団における一番の誇りと自負するメッサーナ騎士も少なくないという。

「しかし、ここはメッサーナ近衛軍団の指揮下だろう。来ておいて何だが、よくもまぁ一時的とはいえルートヴィッヒがロアーヌ軍に駐屯を許可したなぁ」
「無論、それはミカエル様のご尽力の賜物よ」

 カタリナらが妖精救出に向かうと同時、ミカエルはいち早くピドナの王宮へと使者を送り出していた。
 無論その内容は有事の際にエデッサ要塞を利用させてもらう旨のものなのだが、ハリードが意外に思うように、この場所を近衛軍団が貸し出すというのは通常であれば全く以って考え難い事だった。何しろ軍事上でも重要な拠点であるが故に、同じメッサーナ王国の同胞とはいえども外部の軍に見せることそのものが、本来は躊躇われるはずなのだ。特に王宮の情勢が落ち着かない今であればこそ、容易にそれは想像できることだった。
 だがミカエルは特に何の策を弄すこともなく使者を送り、そして即に朗報を持って帰らせてみせたのだった。

「ミカエル様は、あれでルートヴィッヒ軍団長の先見性を評価しているわ。考えてみれば今回の神王教団との独自協定直後である事や、妖精族という聖王様縁の種族の救出という行動の大命題。そんな現在状況を加味して今のロアーヌに恩を売るべきか否か、愚か者でなければ分かるはず」

 ミカエルはそれらを加味の上で、何の策もせずエデッサ要塞を借りたいとだけ認めた書簡を使者に持たせ送ったのだ。
 これはリブロフ総督の失態により神王教団絡みでロアーヌに付け入る隙を見出せなかった分を宥める意味も大きく、ルートヴィッヒはその思惑を読んでか知らずか、兎も角ミカエルの思う通りにことが運んだ結果となる。
 つくづく恐ろしい御仁だとハリードは苦笑いで返しながら、それはそうと、と現在状況をカタリナに問うた。

「・・・現在、私達は本国からの援軍を待っている状態よ。援軍の到着を以って密林へ進軍し、四魔貴族アウナスの巣食う火術要塞へと攻め入るわ」
「ふぅむ・・・矢張り攻めるのか。一応聞くが、なぜその判断に至ったのだ?」

 ハリードはこの要塞に着いた時から、懐かしい独特の空気を感じ取っていた。この要塞全体に広がる鋭利な刃物の如く張り詰めた緊張感は、やはり戰前のそれであったようだ。しかしそれは、大いに疑問の残る状況でもあった。
 今回の作戦に於ける第一優先事項は妖精族の救出であり、カタリナの様子からも分かるようにこれは既に為したようだ。その上でこちらの被害をこれ以上出さないようにするならば、一度ここで作戦自体を終了しても良いのではないか。寧ろ通常であれば、その判断ではないのか。そうハリードは聞いてきたのだ。
 カタリナはその言葉に応えようとし、しかしその場では口を噤んだ。そして周囲の衛兵を避けるように来た道に戻るように身を翻し、ハリードを其方へと誘う。

「・・・場所を移しましょう。説明するわ」

 

 

 今より数えて約三百年の昔、絶大なる信頼を置く己が右腕にして初代ロアーヌ侯たるフェルディナントと共にここを訪れた聖王その人は、十二将を導いた奇跡の力を以てしてもなお、自らの生きているうちにこの地を人の住める場所へと再生することを断念したという。
 魔王の時代よりそこは『腐海』と呼ばれ、その常軌を逸した濃度の瘴気が渦巻く空間はこの六百年、人の手が入ることを頑なに拒み続けてきた。
 そんなロアーヌ東方開拓地であるシノンの更に東に位置するこの悍ましき腐れる大森林の入り口に、風変わりな一行が訪れていた。
 先導するのは、騎馬に跨った兵士。装いはロアーヌ国兵士のそれだが、軽装であることから本国軍ではなく近隣地域の駐屯兵だろう。そしてその後ろに続くのは、数十人からなる徒歩の集団。だがその集団は武装を施しているわけではなく、まるで身軽な旅人のような風情。更には背丈の小さなものも少なからず混じっており、一見して女子供の集団といったところか。
 通常であれば魔物の出現する危険性もあるこのようなところを徒歩で女子供が歩くなど自殺行為もいいところだが、不思議とその集団の周りに魔物が寄りつくことは無かった。
 間も無く腐海に入るかどうかというところで兵士が馬を止めると、後ろに続いていた集団の中から歩み出た一人の少女と思しき人影が先頭に出で立ち、眼前に広がる醜悪な瘴気を孕んだ大木を見上げた。
 見上げる姿勢のまま頭から被っていたフードをゆっくりと取り去ると、淡い金髪がふわりと生暖かい風になびいて舞う。
 少女のような人影は、フェアリーだった。

「あの、今更ですが本当にここまでご案内するだけで良かったのですか?」

 馬から降りつつ森の入り口で戸惑いの様子を隠せないロアーヌ兵に対し、まるで腐海の入り口にて集団を阻むかの如く聳り立つ巨大な大木を見上げていたフェアリーが振り返る。
 その動作に合わせ、その場にいる十数人の同行者もロアーヌ兵へと向きを変えた。

「はい、ここで問題ありません。ここまでの道中案内を頂き、有難うございました」

 ぺこりとフェアリーを始めとした一同が頭を下げると、ロアーヌ兵はとんでもないという風に勢いよく首を左右に振った。

「侯爵様からの命でありますので、お気になさらないでください。むしろ私にとっては、まるでお伽話の中にいるような数日間でした。このような体験は二度と出来ないでしょうから、お礼を言いたいのは此方の方かもしれません。せがれにも、良い土産話ができそうです」

 そう言って敬礼をしたロアーヌ兵は、引き連れていた馬に再度跨り、集団を残して帰路に着いた。
「・・・貴方に、風の加護が有らんことを」

 フェアリーがそう呟くと、それまで薄らと彼女たちの周りを包んでいた風が、去りゆくロアーヌ兵へと移っていく。清廉なる風は、低級の妖魔が特に嫌うもののひとつだ。彼女たちがここまで何事も無く来られたのは、その風の加護のおかげだった。
 ロアーヌ兵の姿が見えなくなるまで静かに佇んで見届けたフェアリーは、先ほどまで見上げていた大木へと振り返った。
 その途端、フェアリーの周りにいた十数人の同行者達は身につけていたフラワースカーフを脱ぎ去り、各々の本来の姿へと戻っていく。その中には、妖精族の長の姿もあった。
 長はフェアリーへと向き直り、ロアーヌ兵の去っていった方向を見ながら口を開く。

「声を発して話すというのも、悪くないものですね」
「はい。声には、温度があるように思います。思念による意思疎通では感じられない何かが、声にはあると思います」

 思念のみで同族はおろか異種族とすらも意思疎通が成立するという能力を有する妖精族は、通常このように言葉を発することをしない。
 それは妖精族という存在が生まれた時からそうであり、妖精達はそれを何の疑問にも思わずこれまでを過ごしてきた。

「声で話すっていうの、案外面白いわ。特に一定の音による空気の震えが、なんでか不思議と心地よく感じるの」

 フェアリーと同種の妖精が長とフェアリーの周囲を飛び回りながらそう言う。すると、周囲の妖精達もそれに同調するように頷いた。
 飛び回る妖精は回りながら『あ』を空に向けて伸ばす。儚い鈴の音のような声が、腐海の入り口に木霊した。

「それは『歌』です。人間は声による温かさや、冷たさや、時には激しさや弱々しさなんかも。そんなものを、歌に乗せて表現します」
「歌・・・。そう、これが歌なのね」

 妖精はフェアリーの言葉にうんうんと頷き、再び声を伸ばす。普段声を出さないからかその声はか細いが、その音は瞬く間に周囲に広がり、妖精達の目前に広がる禍々しい木々にさえ優しく語りかける。
 すると、その声を浴びた目の前の大木が、ふるい落すように瘴気を体外に解き放っていくのが見てとれた。
 その場にいる妖精達が興味深く見つめる先で、樹々を離れた瘴気はそのまま腐海全体を覆う禍々しい大気に合流するわけでもなく、上空に霧散し確かに消失していく。

「・・・術を用いずとも、瘴気は溶けるのですね。これは良い発見です」

 長がその様を見て微笑みながら、他の面々へと向き直った。

「それでは、ここに新たな私たちの住処を作るために歌いましょう。皆で歌えば、腐海何するもの。あっという間に瑞々しい樹々の寝所が手に入るでしょう」
『はーい』

 一同が長の言葉に頷いて大木へと向かう中、しかしフェアリーだけはそんな同胞の背中を見送るようにその場に佇んでいた。

「行くのですね」

 その様子に気がついていた長がフェアリーに語りかけると、フェアリーは小さく頷いた。

「はい。密林に潜む火術要塞への案内は、私達でなければできません。人間にこうして助けられた以上、少しでも恩を返したく思います」

 フェアリーの言葉に、長は小さく頷く。そして伏し目がちになりながら、ゆっくりと言葉を続けた。

「一族が負うべき仕事を貴方に任せる形になってしまって、ごめんなさい」
「いえ。里を飛び出した時から、私はそうするのだと決めておりました。長はどうか、皆に安寧を」

 フェアリーがふわりと風に舞いながらそう言うと、長は今度はしっかりと頷き、微笑んだ。

「貴方に、森の祝福を」

 長の祝福を受けフェアリーは風に乗って緩く弧を描くように舞い上がり、そして西へと飛んでいった。

 

 

「・・・おいおい、これは一体、何かの冗談なのか?」

 太陽が南中を過ぎた頃合い、ヤーマスの中央商業ギルド会館の大会議室に数人の屈強な部下と共に現れたラブ=ドフォーレは、部屋に入るなりそう言いながら大きく両手を広げて周囲を見渡した。
 世界中でも屈指の規模を誇るヤーマスの中央商業ギルド会館のトレード会場となるここ大会議室にヤーマスのドンたるドフォーレ商会が呼び出されたことは、かつて一度もない。いや、正確に言えばこのヤーマスの大会議室自体が、これまでトレード会場として使われたことが公式記録上は一度もなかった。
 何故ならヤーマスにおけるほとんど全ての取引は、ドフォーレの息のかかった筋が仕切っていたからだ。摩擦や競争など、起こらなかったのだ。
 だものだから、現当主ラブ=ドフォーレがこの大会議室に足を踏み入れるのは、中央会館が出来た時の視察以来で二度目となる。
 そして前回視察の時に見た風景と違うと思われるのは、会議室の中央に設えられた交渉テーブルの片側に鎮座する一人の人物がいる事だけだった。

「ここにはあの狂気を纏った美しい娘が居るわけでも無ければ、噂に聞く美人社長とやらがいるわけでもないようだが・・・。俺はひょっとして、入る部屋を間違えたのか?」

 ラブのその言葉に取り巻きが笑いながら同意する先には、交渉テーブルについたキャンディの姿があった。彼女の脇には、鎮座する愛用のくまちゃん。もう一方の脇には、書類が詰められた鞄。それ以外には、誰も何も見当たらない。
 入り口にいる彼らの声に当然気がついていたキャンディはちらりとそちらに視線を送り、しかし特に動きを見せることもなく目の前の机にすぐ視線を戻した。ラブ達のいる場所からは伺うことこそ出来ないが、彼女の表情には明らかに焦りの様子が見て取れる。

(・・・聴いてた話と全然違うよサラぁ・・・)

 なにしろ、彼女は焦っていた。
 目まぐるしく頭の中ではこの状況をどうするべきなのかと様々な考えが周り巡っていくが、しかし全く予期していなかったこの状況に普段の思考能力も失われたのか、全く考えが纏まらない。

(・・・あかん、だめだ。全っ然考えが纏まらない。ま、まずは状況の整理を・・・)

 自分の右脇に鎮座するくまちゃんの手を強く握りしめながら、キャンディは熱暴走気味の頭を一度強制的に初期化するべく、深く深く深呼吸をした。
 彼女があの夜に突如現れたサラから聞いた話は、こうだった。
 ちょっとしたお使い予定のはずが所用によりすぐヤーマスに戻ることが出来なくなってしまったサラに代わり、キャンディにポールの助手としてヤーマスに向かって欲しい。そこでは対ドフォーレへの工作が進んでおり、二班に分かれての作戦が行われ、その経過は順調。あとは仕込みが全て動き出す一週間後にドフォーレにトレードを仕掛けるので、その際に自分が集めた資料全般をポールに渡して欲しい。その際資料の中身を説明できるよう、一通り読み込んでおいて欲しい。
 ヤーマスの中央商業ギルド会館に指定の日時に辿り着き入館手形を見せてカンパニーの名前を出せば部屋に通されるようになっているはずだから、あとは現場でポールに流れを確認してくれればいい。
 以上、健闘を祈る。

(・・・ポールは何処!?)

 ここで彼女がまず直面した最大最強と思われる問題は、それだった。彼女が助手として付き添うべき本案件の主役、カタリナカンパニー営業部長たるポールがこの場所の何処にも見当たらないということなのであった。
 彼が居なければ、このトレードがそもそも始まらないのでは無いか。そうか、つまりこのトレードはポールが居ないから無効なのでは無いか。それならば自分はお役御免なのではないか。キャンディの頭の中は、いよいよ焦りで整理がつかなくなってきていた。
 そこに、先ほどまで入り口に居たはずのトレードの相手であろうと思われる恰幅のいい中年男性が、目の前のソファに豪快に座り込んだ。確認しなくても分かる。これがドフォーレ商会の当代当主、ラブ=ドフォーレだろう。会ったことのないキャンディでも分かるほどの威圧感が、大木一本を削って作ったであろう見事な一点ものの机の向こうからひしひしと伝わってくる。

「・・・で、お前はカタリナカンパニーの人間なのか」
「・・・は、はぃ」

 ラブの言葉に、キャンディは数回の瞬きの後にやっと、小さく一言だけ応えた。ラブはそんな様子のキャンディを、射殺すのでは無いかと思うほどに凝視する。それに対しキャンディは目を逸らすことすらも出来ずに受け止め、只管に冷や汗を流し続ける。蛇に睨まれた蛙というのはこういうことなのだな等と、頭の片隅で現実逃避気味に思う。そんな大変に重苦しい時間が、永遠にも続くのでは無いかと思われた。
 しかし何事にも終わりはやってくるように、やがてラブは軽くため息をつき、脇に控える商業ギルド管理員に話しかける。同時にキャンディは今の間に間違いなく寿命が縮んだな等と考えながら、疲労感と共にソファに深く沈み込んだ。

「おい、ここは確かにカタリナカンパニーがドフォーレ商会に挑んだトレードの会場で、こいつが本件におけるカタリナカンパニーの代表で、あとはここで俺が開催時期の宣言をする。間違いないな?」
「は、はい。間違い有りません」

 臆した様子の管理員が、ラブに答える。そこでキャンディは、一瞬だけ淡い期待を抱いた。トーマスの談に寄れば、トレードは受け手が指定日から最大一週間、開催を伸ばす事が出来る。ラブが今日ここで即座に開催することを宣言しなければ、兎に角この状況からは抜け出す事が出来るかもしれない。

「では宣言しよう。現時点を以て我々ドフォーレ商会は申請を受理し、トレード開催をすると」
(だよねーウチでもそうするよー・・・)

 当然のごとく、ラブは迷い無く開催を宣言した。キャンディはその当然の流れに、頭の中を絶望で埋め尽くされながらも妙に冷静にこの流れに同意していた。

「三億オーラムだ」
「・・・へ?」

 開催宣言に続いてそう一言だけ発したラブに対し、キャンディは我ながら素っ頓狂だなと後から思うほどに、あからさまに間の抜けた声を上げた。
 ラブのその言葉に反応したギルド管理員が慌てて部屋の中に設置されている鉄製の扉を開き、中から大量の疑似金貨が積まれた木箱を台車にのせ、その重量に表情を歪めながら必死の形相で押してくる。
 これは通常では対応出来そうに無い大規模トレードの際にギルド会館で用いられる疑似オーラムであり、一枚を一万オーラムとして換算する。キャンディは全く知らなかったことだが、これが積まれた時点で積んだ企業からギルド会館へと即座に一時入金手続が進められ、確かにその企業に申し出るだけの資金が存在していることが確認される。また申告された金額は、トレードが終わるまでは出資者であっても一切手出しをすることが出来ない。
 またここで双方により積まれた金額はトレード終了の際、買い手側が勝てば買い手の積み立てた金額が買収相手へと入金され、逆に受け手側が勝てば受け手が積み立てた金額の三割相当を買い手側から受けとれる仕組みとなる。これはいたずらなトレードの乱発を防ぐための措置であり、またこの制度自体の悪用を防ぐために一度トレードを行った企業同士は四半期の間はトレードの再度申請が行えないように定められている。
 つまりこの時点で、この勝負に負ければカタリナカンパニーは九千万オーラムを失うことになる。
 ギルド管理員が実に事務的にその説明を読み上げるのを、キャンディは隠しようも無いほどに大きく青ざめた様子で聞いていた。

(まって・・・九千万オーラムなんて資金、そもそもカンパニーとしてはオーラムとしてなんて持ってないよ・・・。カンパニーは総資産としてはそりゃ既に一億オーラムは超えているけど、実際のカンパニーの資産の多くは物的資産。これをトレードに使える『資金』として動かすには、本来は多くの時間がかかる。これを急に資金として動かすとなれば折角の資産を損失覚悟で売り払う事になるから、総資産の減少が起こる・・・。ってか急に九千万なんて資金を用意しようとしたら、会社として成り立たなくなる・・・。こいつ、カンパニーをぶっ潰す気だ・・・)

 目の前には、専用の箱で勘定された疑似金貨が三万枚、積み重なっていく。その様を見ながら唖然とした様子のキャンディに対し、ラブはさして興味の無い様子でソファの背もたれへと寄りかかり、管理員に飲み物を催促した。

「・・・カタリナカンパニーとか言ったな。総資産は直近の決算では一億五千六百万オーラム相当。主にツヴァイクやユーステルム等の北国を中心として同規模の中小の企業を数多く買収しており、その取扱品目はフルブライトにも迫るほどの勢いで多岐に渡る・・・企業としては既に中堅に位置し、歴史上珍しくフルブライトの同盟も得ており経済界からはその急成長ぶりも相まって一目置かれている、か。ふむ・・・実に惜しい企業が、消えるものだな」

 手元に用意された資料に目を通しながら、ラブはそう言ってつまらなそうな視線をキャンディに送る。その視線を受けたキャンディは、しかしその言葉に対して何も言い返す言葉を持ち合わせていない。

(・・・そもそも仮に総資産を全て資金変換して挑んだとしたって、既にこの目の前に積み上げられている三億なんていう出鱈目なオーラムを相手にすることが出来ない。傘下、若しくは同盟を結ぶ何処かの企業に資金提供を依頼したって、トレードの最大期間として定められた一ヶ月程度の時間で用意できる資金はたかが知れてる。てかこんなんじゃ一ヶ月どころか三日と持たない。流石に商業ギルド管理員から強制裁定される・・・。やばいよこれ完全に詰んでるじゃん・・・こんなのどうしろってのポール・・・)

 絶望一色に染まった顔色のキャンディをみながら自社資金から三億を拠出するよう書類にサインをし終えたところのラブは、手元に用意された最高級茶葉を用いて作られた紅茶を優雅に啜り、そして盛大にため息を吐いた。

「お前は見た目に反して、ピエロにもならんな。何のつもりだったのか知らんが、単なる虚仮威しの為にトレードをこのドフォーレに仕掛けるとは、正に狂気の沙汰だ。調書に寄れば社長、副社長、営業部長と非常に優秀な人員が揃っているとレポートにもあるが、どいつもこいつも頭のいかれた狂人揃いだったか」

 ラブのその言葉に、それまで必死に頭の中で考えを巡らせていたキャンディはぴたりと動きを止めた。

「とはいえ、まぁお前も災難だったな。どうせお前は幾らか握らされてここに来た口だろうが、そりゃあもうカンパニーが勝ち目無しと悟ってお前をスケープゴートにしながらしっぽ巻いて夜逃げする準備でもしているからだろう」

 三億オーラムという疑似金貨の壁の向こうから哀れむような目で見下ろされるのを感じながら、キャンディは自分の頭から一気に血の気が引いていくような感覚を味わっていた。

「おい、カタリナカンパニーとやらの幹部連中の所在と資金の動きを徹底的に洗い、追い詰めろ。関係者は人っ子一人逃がすんじゃあねえぞ。ドフォーレに喧嘩を売ったことを、文字通り死ぬほど後悔させてやれ。そこのガキも哀れではあるが、トレードの規則に則り資金周りの回収が終わるまでは会館に滞在して貰わなければならない。逃げないように拘束しておけ。あとは気がかりなのはマクシムスガードの娘だな。警備の増強をしなければならんか・・・」

 ラブの言葉に反応して周囲の人間が入り口や窓を塞ぐように動き、それに会わせてギルド管理員がおずおずとキャンディの座るソファの横に立ち、口を開いた。

「・・・ここから何も動く様子が無いのでしたら、我々管理員としても早期のトレード終了を勧告せざるを得ません。カタリナカンパニー代表のキャンディさん。本トレードを、この時点で終了いたしますか?」

 管理員がそう言うものの、しかしキャンディは目の前の三億オーラム相当の疑似金貨のあたりを見つめたまま、微動だにしない。その様子に管理員は肩を竦めてラブへと視線を投げると、ラブはもう一度だけため息を吐いて、立ち上がった。そして疑似三億オーラムの上からキャンディを直接見下ろす。

「おいガキ。お前は単に俺の問いかけに『はい』と応えておけばいい。さぁ、とっととこのトレードの終了を宣言しろ」

 ラブの言葉に、キャンディはゆっくりと顔を上げる。そしてキャンディの円らな瞳が己と交錯したところで、ラブは最後の言葉を待つように目を細めた。
 キャンディは、頭はおろか全身から血の気が引いてしまったような感覚に包まれていた。そして半分感覚が無い両手を、ゆっくりと軽く握るつもりで丸める。だが彼女の意識に反し、その両の拳は爪が肌に食い込むほど強く強く握り込まれていた。その両手の平の痛みが熱を持ち、やがてその熱は逆流する血液の奔流となって頭へと到達する。
 そしてその熱に突き動かされるように、口を開く。

「・・・黙れ、ブタ野郎」
「・・・なんだと?」

 突如の暴言に、ラブは米神を振るわせながらドスの効いた声を発する。だがそんなラブの返答など、既にキャンディは聞いていなかった。
 有り体にいって、キャンディは切れていた。恐らくこの十四年あまりの人生の中で、これは彼女が最も怒りに打ち震えている瞬間であった。
 そしてそのままラブを睨み付けていた視線を手元に戻すと拳の縛めを解き、自分の脇に置いてあった鞄に詰め込まれた大量の資料を乱暴に取り出し、机の上にばさりと広げる。

「確かにカンパニーのみんなはとち狂っているかもしれない。こんなトレード、とても正気の人間がやるようなもんじゃ無いよ。でも・・・」

 手元に広げた幾つもの資料の一つ一つを凝視し、そして同時に頭の中ではこれまでに見聞きした全てを思い出そうとしながら、キャンディは誰に聞かせるわけでもなく独り言のように続ける。

「でも・・・それは絶対に、逃げるためなんかじゃあ無い。みんなは逃げているんじゃ無くて、向かっているんだ。だから、この勝負も負けない。勝つ算段があって、挑んでいるんだ。それは、絶対に間違いない」

 手元にあった全ての資料を広げ、それらの全体を眺めるようにキャンディは立ち上がって見下ろした。それらを見返すこの一瞬の合間にキャンディの脳内はすっかり放熱し、一気に冷静さを取り戻していった。
 ここにあるサラがヤーマスでかき集めた手元の資料と、ポールが事前にピドナ宛てに飛ばしてきた注文の数々。それに沿って自分たちがやってきた内容。そして、最初にポールがピドナで調べ回って集めた情報の数々。

(・・・これら全てに関わってんのは、ウチだけだ。だから、ウチなら分かるはず。ポールの狙いが、絶対に分かるはず・・・だからサラも、ウチにここを託したんだ・・・!)

 そして再び睨み付けるようにラブへと視線を移したキャンディは、彼女の出せる最大限の声で、高らかに叫んだ。

「ウチだってもう逃げないって決めたんだ!だから絶対にウチらは、このトレードに勝つ!」

 

 

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第五章・4 -桟橋の老人-

 

「爺さん、あんたがハーマンか?」

 グレートアーチのサウスビーチにある桟橋で、ハリードは海を眺めていた男に背後から声をかけた。
 幾人かの地元民から聞く事が出来た情報で、既にこの人物の容姿と名前、よくいる場所はわかっていた。
 その声に反応してゆっくりと振り向いたその白髪の男は、義足の左足を引き摺りながら杖をついている。聞いた情報そのままだ。
 顔に刻まれた深い皺は老人のそれだが、それにしてはえらく鋭い隻眼の眼光がハリードを見返してきた。

「なんだ、ブラックの財宝のありかを知りたいのか? 100オーラムで教えるぜ」
「・・・それは無用だ」

 ハリードが辟易した様子でそう答えると、ハーマンと呼ばれた男は不機嫌そうに表情を歪めた。

「・・・じゃあ何の用だ。わざわざ名指しで来た要件ってのは」
「・・・ブラックの・・・いや、ジャッカルの事に詳しい人間を探している。あんたなら、何か知ってるんじゃないかと思ってな」

 ジャッカルという言葉に、ハーマンの眼光は一層鋭く剣呑さを帯びた。
 当たり。そう確信したハリードは、ハーマンの視線を真っ向から受け止めて言葉を待った。
 数秒の間ゆっくりとハリードを観察したハーマンは、鼻を鳴らして姿勢を崩した。

「ジャッカルなら十年前に死んでいる。そんな事ぁ俺でなくても知ってるさ」
「ああ、そうだな。だが、どうやらそのジャッカルの亡霊がピドナにいる様でな。それの判別をできる程度に詳しく知ってる奴を、探しているのさ」

 怪訝そうな顔をするハーマンを前に、ハリードは淡々とそう言った。

「亡霊だと?」
「そうだ。あんた、何か知らないか?」

 一瞬押し黙ったハーマンは、杖をカツカツと桟橋に当てながら無精髭を撫でた。
ハリードがそれに目を細めると、ハーマンは不意に桟橋をビーチに向かって歩き出す。

「詳しく聞かせろ」

 とても義足とは思えない早足で歩いていくハーマンに、ハリードは無言でついていった。
 砂浜を歩いていくハーマンを後ろから眺めていたハリードは、内心で何とはなしに違和感を感じとる。
 どうにもこの老人が、ハリードの目からみると何か不自然なのだ。
 どうやら腕に覚えがあるようだし、口ぶりからすると海賊事情についても詳しいようだが、地元民からこの男の事を事前に聞き込んだ時は、昔からいる偏屈な爺さんだとしか言われなかった。
 しかしハリードが見る限りでは、この男がどうも老境の瀬に至った人物に思えない。それどころか、どこか自分に近い様な何かをすら感じてしまう。それがどう言った類の直感なのかはイマイチ彼にも分かりかねるようだが、兎に角不自然さだけは感じるのだ。
 そんな事を思いながらハリードが連れていかれた先は、何の事はない、しなびたビーチ外れの酒場だった。
 半分壊れた戸をくぐっても視線をよこしただけで無言の店主と、柄の悪そうな数人の客。意外とこういうところの方がうまい酒があるんだよな、などとハリードが考えていたところで、ハーマンは空いていたテーブルにどかりと座り込んだ。

「おいジジイ。いつものくれ」
「ジジイにジジイと言われたかねぇよ。ツケは効かねえぞ」
「いんだよ、財布がある。二つくれ」

 そう言って手を振ったハーマンを見て、店主がハリードに視線を寄越す。
 それに対してハリードが肩を竦めながら席に座ると、店主は手元を動かし始めた。

「・・・で、ジャッカルの亡霊ってのはどういう事だ」

 くたびれた白のジャケットから煙草を取り出して近くのテーブルから引っ張ってきた燭台で火をつけながら、ハーマンは半眼でハリードに問いかけた。
 ハリードは椅子に半身だけ座りながら、逆に質問を返す。

「・・・あんたは、神王教団を知っているか?」
「あん? 宗教に興味は無ぇが、名前くらいは知ってる。それがどうした」

 言いながらハーマンの吐く南国特有の匂いのきつい煙草の煙に顔を顰めたハリードは、顔を背けながら応えた。

「ピドナの神王教団のお偉方連中がな、なんでか挙って赤珊瑚のピアスをしてるのさ。そしてあいつ等は何故か聖王遺物を血眼になって探しててな。そしたら、二年前にピドナで起こった聖王遺物の絡む殺しの事件の中で、ジャッカルっつーキーワードが出てきた」

 赤珊瑚のピアス、そしてジャッカルの言葉に、ハーマンは露骨に眉間に皺を寄せた。
 それには反応せずにハリードが黙って続きを待つと、ドリンクが運ばれてきたタイミングで漸くハーマンがグラスを持ち上げながら再び口を開いた。

「・・・そいつ等がジャッカル一味だったとして、お前はそれをどうする気だ?」

 問うと言うよりは試すようなその言葉に、ハリードは一瞬考えるように顎に手を当て、徐に肩を竦めて自らもグラスに手を延ばした。

「・・・ジャッカル一味だったとして、そいつ等をどうするわけじゃない。その事実を餌に、それの背後にいるやつ等にまずは一発叩き込みたいのさ。あとは・・・聖王遺物を回収するくらいかね」

 言い終え、グラスに口をつける。
 不純物が混じり混んでくすんだ質の悪そうなロックグラスに注がれた琥珀色の液体は、ウィスキーか何かかと思いきやフレーバーの効いたスピリッツのようだった。

「・・・聖王遺物なんて集めてどうする」

 まるで新鮮な空気に深呼吸をするかのように煙草の煙を肺一杯に満たし、長く細い煙にして吐き出しながらハーマンが言った。
 ただその質問は単なる興味本位なのかなんなのか、声色も先程の問いかけより気の抜けたものだ。
 しかしこれには、ハリードもどう答えたものかと一瞬考えあぐねる。だがあまり深く考えずに口から出ただけの事なので、それに対して多少頭を捻ってみたところで、どうにも大した理由は出てきそうになかった。

「・・・さぁな。それは手に入れてから考える。お宝なんて、そんなもんだろ」

 目線を合わせずにもう一口グラスの中身を舐めるように啜りながらそう言うと、テーブルの向こうではハーマンが鼻で嗤うのが聞こえた。

「はっ、そうだな。お宝ってのはそういうもんだ」

 ハリードの言を気に入ったのか、上機嫌にグラスを傾けながらハーマンは身を乗り出して来た。

「・・・で、てめえは何者だ。何故ジャッカルの事を俺に聞いてきた?」

 ガタンと肘をテーブルに叩きつける音に、店内の視線が二人に集まった。
 およそ老人が放てるとは思えない覇気を身に纏い、射殺さんばかりの視線がハリードに突き刺さる。
 米神を抜けて頭頂に向かって走るような寒気にニヤリと口の端を釣り上げたハリードは、癖でカムシーンの柄に手を掛けながら、しかしゆっくりと肩を竦めてみせた。

「・・・さあな。何故かは確かに俺にも興味はあるんだが、残念ながら知らん。知りたいなら、依頼主に直接聞いてくれ。それと、俺は単なる傭兵だ」

 ハリードのゆらりと躱す様な返答に、ハーマンは一瞬だけピクリと皺だらけの表情を揺らすと、ケッと洩らして再び椅子に背を預け、グラスを傾けた。

「単なる傭兵が聞いて呆れるぜ。んで、その依頼主ってのは何者だ」
「依頼主は・・・人類最強の女、かな」

 思わず口をついて出たハリードのその言葉に、ハーマンはたいそうなしかめっ面を披露した。それの言わんとする所が流石に伝わったのか、ハリードは苦笑いをしながらグラスに口をつける。

「いや、別にふざけて言ってるわけじゃないぞ。それこそ単騎で四魔貴族と喧嘩する位だからな。過言じゃないだろう」
「・・・四魔貴族だと?」

 隻眼を数度瞬きし、ハーマンは何故か四魔貴族という単語にえらく過敏に反応した。
 その変化にハリードが思わず露骨に目を細めるが、ハーマンはお構い無しにハリードに詰め寄った。

「そいつは四魔貴族を殺そうとしてんのか? 聖王遺物を集めるのは、それが目的なのか?」

 まるで仇敵の名を聞いたかの様に突然表情に怒気が走ったハーマンをハリードは怪訝に思いながらも、グラスの中の氷を指で回しながら口を開いた。

「・・・それも、俺の知る所じゃない。そんなに興味があるなら、ついでにそれも直接聞けばいいだろう」
「そいつは何処にいる」

 直ぐ様返ってくる質問に、ハリードは肩を竦めながらグラスの中身を飲み干した。

「さあな。今は分からない。だがあと数日もすれば、このグレートアーチで合流できる予定だな」

 そう言うとハリードは酒場の店主に向かってもう一杯同じものを、とサインし、ゆっくりと立ち上がった。

「・・・尤も、依頼主が質問に応えるかどうかは、おたくが依頼主にとって適う人物かどうか、ってとこが重要だろうがな」

 自分の事を目線で追いかけてきたハーマンに対してそう言うと、ハリードは懐から1オーラムコインを取り出した。

「・・・こいつは前金だ。そいつと、あと一杯はいけるだろ?」

 後半は、グラスを運んできた店主に問いかけた。
 それに店主が眉を上げて応えると、ハリードは満足した様にコインをテーブルに置いてハーマンに背を向ける。

「待て」

 そのままこの場を立ち去ろうとした所を、予想通りと言うべきか、嗄れた声に呼び止められる。
 それに振り返らずに立ち止まって言葉を待ったハリードに、ハーマンが続けた。

「依頼主っつーのが来るまでの間は、てめぇは何処にいるつもりだ?」
「・・・バランタインに宿をとっているが、それがどうした?」

 ハリードの答えに、ハーマンは口笛を吹きながらグラスを傾ける。グレートアーチ随一の高級ホテルを冷やかしたのだろう。
 そして手元近くまで灰になって火種の消えていた煙草を床に放り捨て、新しく取り出して火をつけた。

「事と次第に寄っちゃあ、手を貸さんでもない。だが、だとすれば回収しておきたいもんがあってな。明後日そっちに行くからよ。得物を磨いて待ってろ」

 ハーマンの言葉にふんと鼻を鳴らしたハリードは、そのまま振り返る事なくその場を立ち去る。
 椅子にもたれながらそんなハリードの背中を鋭く眺めたハーマンは、ひとりでにニヤリと笑みを浮かべながらグラスの中身を一気に呷った。

 

 

 いくら世界広しと言えども、恐らく妖精族の長にあれ程まで頭を下げさせたのは自分が初めてなのではなかろうか。
 場違いにそんな事を考えながら、カタリナは二度とは味わえぬかも知れない未知の浮遊感覚に酔いしれた後、ふわりと大樹の根元へと降り立った。
 訪れた時と変わらぬ穏やかな木漏れ日の照らす美しいその場所を記憶の隅に仕舞おうと見渡す間に、フェアリーが風に舞いながらすぐ隣に降りてきた。

「・・・本当にいいの?」

 確認の意味を込めて、カタリナが尋ねる。
 風に揺れる葉音に意識を向ける様に上を向いていたフェアリーは、投げかけられたその言葉に躊躇いなく頷いた。

「妖精は見た目はか弱い感じですが、実は結構強いんですよ。特にアールヴ族などは過去にこの密林において最強の名を欲しいままにし、魔王亡き後から三百年前の四魔貴族討伐に至るまでには、あのアウナス配下の妖術師を撃退するのにも活躍しました」

 そう言ってにこりと微笑んだフェアリーの小柄な体は、上半身が微かに揺らめく薄い絹の様なものに覆われている。
 なんでもこれはフラワースカーフと言われるものだそうで、人の目から妖精の羽を隠してくれるのだそうだ。過去にはこれを用いて妖精も人里に下りる事があったのだとか。
 そして腰のあたりには布で覆われた、その身の丈に不釣り合いな長さの槍。
 これはアーメントゥームと呼ばれる形のもので、妖精族の間では伝統武器なのだそうだ。カタリナにはどうにも土地柄に似合わぬ得物にも感じられたが、そこはあえて彼女が気にするところではなかろう。
 つまるところ、フェアリーはあたかもこれから旅に出ます、的な格好をしているわけなのだ。
 それに平然と頷き、こちらも新たに腰に差した見事な意匠の太刀を慣れない手つきで支えながらも、颯爽と歩き出すカタリナ。

 場面は、一昨日の夜に遡る。

『本当にごめんなさい!』

 閉じた瞼の向こうで舞う月光に誘われてうっすらと瞳を開ければ、まず最初に二人の妖精の大変に申し訳なさそうな顔と、そんな言葉が聞こえてきた。勿論それも重なって、二人分。
 如何な理由があってこの状況なのかは起きぬけの頭では欠片も理解したくなかったカタリナだったが、ただ少なくとも、安易に妖精の差し出すティーカップに口を付ける事はしてはならない、という事は身をもって理解していた。

「まさかティーの用意を手伝ってくれた子が、祈りヒナゲシを入れてるなんて思わなくて・・・」

 カタリナが目覚めてから通算六回目くらいの時だっただろうか。フェアリーはまたしても深く頭を下げながら、確かそんな事をいっていた。
 妖精の悪戯好きは、どうやら伝記以上に深刻だったようだ。
 因みに祈りヒナゲシとは妖精達のみが持つ生成法の、睡眠を誘発する飲み薬だそうだ。元来睡眠作用のある雛罌粟の乳汁を過度に濃縮させたものにカモミールの蜜を混ぜながら更に煮詰め、満月の次の夜明けに太陽に顔を向けた葉から滴る朝露と割って作る薬、なのだそう。
 何やら製法だけ聞いているととても美味しそうで、実際ティーは美味しかったような覚えがうっすらとあるのだが、どうにもカタリナには効果覿面過ぎた。
 この事については長も非常に遺憾であったようで、あわや土下座してしまうのではないかと言うくらいにカタリナは謝られた。
 眠り自体は非常に上質なもので寝覚めも良かったので気にしないで欲しいと、 フォローと言えるか微妙な持論を展開して取り敢えずその場は納めたカタリナ。
 そうしてなんとか居眠る前の話題に戻ったところで、少なくともカタリナには優先するべき事項があり、更に自らに課せられているらしい八つの光の使命に関しては同僚(?)と審議中であることを、ここまでの簡単な経緯と共に素直に伝えた。
 この問題については長も現時点での即決を強くは求めていなかったようで、カタリナが示した前向きな姿勢で快く納得をしてくれた。

 問題はといえば、実はこの後である。

 昨今の情勢を感じ取って今回カタリナを里へと招く判断に至った妖精族の長は、頼むばかりでは申し訳ないから何かしら自分にも出来る協力を、としてカタリナに一振りの太刀を差し出してきたのだ。
 差し出されたそれは、かつてカタリナが魔王殿で見た少年が手にしていたような、反りのある細身の大剣。
 その剣は見れば誰もが惚れ惚れするような絢爛たる意匠の鞘に収まり、抜刀すれば大業物固有のしんと冷えた霊威が刀身から滲み出て辺りに静かに広がった。
 その余りの威風に、カタリナは思わず身震いしてしまうほどの代物であったのだ。
 銘を、月下美人。これは聖王の時代より遥か以前、魔王の時代にまで遡り、代々妖精族最強のアールヴが振るってきた太刀だという。
 当然そんなものは受け取れないと大慌てするカタリナだったのだが、長は長で頑として譲らなかったものだから、断れない性格のカタリナは最後には深々と頭を下げながらこれを受け取る羽目になる。
 ここにおいて更に計算外であったのが、月下美人を受け取った直後で何事も断り辛い雰囲気の中、どうした訳かフェアリーがカタリナの旅路に同行したいと名乗り出たことだ。
 曰く、この先は、人だけの責任などではないから。
 そう言って同行を願い出たフェアリーの言葉の意味は、カタリナには分からなかった。
 だがそんな事はお構い無しに長は大変納得された様子でこれまたカタリナに頭を下げながらお願いしてくるものだから、もう好きにして頂戴とカタリナが匙を投げるのに、そう時間はかからなかった。

 それから一日の妖精の里観光を行った後、その明朝カタリナとフェアリーは妖精達に見送られ、密林の西の端、人からはジャングルへの入り口と言われる集落、アケへと向かって出立するのだった。
 そこからグレートアーチのサウスビーチ行きの定期船に乗り、ニ、三日後には目的地へと到着する予定だ。

 

 

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第五章・3 -ティーはいかが?-

 

「ブラックの財宝のありかを知りたくないか?160オーラムで教えるぜ」
「・・・・・・」

 見るからに不機嫌そうなハリードがえらく睨みを効かせた視線でそんな声に応えると、頭髪をモヒカンスタイルにした浅黒い肌の男は答えを聞くでもなく、怯えた風にいそいそとその場を去って行った。

「ったく、とんだリゾートだぜ・・・」

 男の背中に向かって吐き捨てるようにそう言いながら、ハリードは燦々と砂浜を照りつける太陽から苦々しい表情で顔を背けた。照りつける日差しには慣れているつもりだが、どうもここの太陽は勝手が違う。
 ついでに言えば神経の図太い砂漠の行商人とはまた一味違った先の様な応酬も、この数日で既に複数回に及んだのだろう。すっかり呆れ果てた様子でハリードは腰に差した曲刀の位置を直した。
 南国のパラダイス、グレートアーチ。世界に名だたる一大観光地として世界中の民から羨望の眼差しを向けられるこの土地は、噂に違わぬ熱帯のリゾートだ。
 その羨望を勝ち取って羽振り良く娯楽に耽る数多の観光客たちを、ハリードはどこか冷めた視線で眺めていた。
 自分にはほとほと縁がないだろうと思っていたこのような地に、思いがけず辿り着いた。しかし案の定と言うべきか、自分の肌にはここの空気はどうにも合いそうもない。この数日をリゾートで過ごしたハリードは、そんな土地との相性の悪さに確信を持って今の自分にここにいる理由を問いかけていた。
 そこに、彼の前方から海パンに派手派手しい柄のシャツを素肌に着ただけのラフスタイルで、サングラスをかけたポールがやってくる。
 この地と相性抜群の雰囲気をかもし出した、彼の旅仲間だ。

「いつまでもそんなカッコしてるから、いいカモだと思われるんだよ。ちゃんとトルネードの旦那の分も持ってきてるんだから、いい加減着りゃあいいのに」

 どこからどう見てもすっかりバカンス気分の出で立ちであるポールの格好に、ハリードは遠慮なく青筋を立てながらもニヤリと笑って見せた。

「い、や、だ、ね。大体お前、情報収集はどうした!」
「おいおい、俺はちゃんとすることしてるぜ? この辺で海賊ブラックのことを直接知ってたって奴らも見つけたし、一方でなんと、カンパニーのアポもバッチリゲットだ」

 心外だという風に一々煽るような仕草で両手を広げたポールにハリードの青筋がさらに増えるが、そんな様には一切のお構いもなく、あれを見ろよとポールが指差す先に取り敢えず視線を這わす。
 するとそこには、東ロアーヌの厳しい開拓地が育んだ抜群のプロポーションをこれでもかという程に惜しげもなく晒したビキニ姿のエレンが、周囲の男たちの羨望を一身に浴びながら、さしずめ人魚の如く見事な泳ぎを披露していた。
 その様に、苦々しい表情を浮かべながら片手で頭を抑えるハリード。
 この海岸に辿り着いてから数日、はじめこそカタリナ遭難に元気がなかったエレンだったが、昨日を境に「海だー!!」と叫んで颯爽と水着に着替え、暫くずっと、あの調子だ。

「・・・でもあれでエレンちゃん、この辺の奴らからタダで洞窟の情報巻き上げてんだぜ。下手に色目を使えば怖ーいおじさんが待ってるってぇのに、男ってのは馬鹿だねぇ」

 ケラケラと笑いながら言うポールに、当の怖ーいおじさんは更に眉間の皺を増やした。

「・・・んで、旦那の方はなんかいい話はあったかい?」
「ん・・・あぁ。例の片足が義足の爺さんってのが、もうちょい南のビーチ辺りにいるっつー話を聞いてな。午後に足を延ばしてみるつもりだ」
「あー、違う違う」

 ハリードの返答に軽く手を振ってみせたポールは、こそこそとハリードに近寄りながら耳打ちした。

「みたぜぇ? 旦那夕べ、浜辺でパツキンの美人に声かけられてたろ。こーの色男め、早速南国のビーチで熱ーい夜を過ごしたか!」
「ばっ・・・、って、てめえかエレンにリークしたのは! 今朝あいつすげぇ機嫌悪かったんだぞ!」

 どこからそんなところをみていたのか、肘で突ついてくるポールを払い除けながらハリードが吠える。
 それをポールは飛び退きながら一頻り笑うと、ふと顎に手を当てた。

「しかし、南か。俺もそっちに訪問したい企業もあるし、そんなら一緒にいくよ。まぁとりあえずは、メシにしようぜ」

 そう言って彼は浜辺のすぐ近くにあるやけに大きな建物を指差した。
 ハリードがそちらに目を向けると、そこにはグレートアーチで最も有名な高級リゾートパレス、ホテルバランタインがある。
 圧倒的な娯楽設備と客室数。更にはVIP向けに事前予約必須の専用コテージも十数棟配備しているという、正にグレートアーチの現在を象徴するような贅の限りを尽くしたリゾート施設だ。

「あそこ、多分遠くないうちにうちのカンパニーが囲うぜ。挨拶に行ったらえらく気に入られちまってな。今日のランチも支配人のサービスってさ」

 悪い顔をしながら、にやりとポールが笑う。
 軽薄そうな、というかまんま軽薄にしか見えないこの男だが、胆力と商才は大したもんだとハリードも半ば呆れながらその表情に対して肩を竦めた。
 そこに、相変わらず周囲の男たちの視線を集めて止まないエレンが、濡れた髪をかきあげながら歩いてきた。
 すかさずポールがタオルを投げてやると、それをキャッチして髪を拭きながら首を傾げる。

「ごはん?」
「ご名答。今日はホテルバランタインのオープンテラスでブッフェだ」

 やった、と嬉しがりながら水浴びと着替えに向かったエレンを送り出し、男二人は一息つく。
 既に機嫌も直っていたようで良かったとハリードが安心した様子でいると、ポールもふんと鼻を鳴らした。

「ま・・・あの子もやっと安心したんだろ。カタリナさんが無事だってのが分かって」

 そう言ったポールは、手に持っていたバッグから四つ折にされた紙切れを一枚取り出した。
 ずいぶんと古びた様子の羊皮紙には、真新しくも色合いの珍しいインクで流麗な文字がしたためられている。
 それは、カタリナからの手紙だった。

「ジャングルに寄り道ってのは、多分一緒にいた妖精の関係なんだろうねぇ」
「お前の予測は見事に的中していたわけだ。全く大したもんだよ」

 手紙には、要約するとこう記されている。
 無事に南方のジャングル辺りにつくことが出来たが、少し現地で用事が出来た。なので合流が遅れるのでそれまで情報収集に当たって欲しい。その際、片足が義足の老人を探しておいてくれると助かる・・・と。
 この手紙はポール達がグレートアーチに着いてから四日目となるつい昨日になって、ホテルのロビーを尋ねてきた南方のジャングルの玄関口にあたるアケから来たという行商人に受け取った。
 行商人もまた、この手紙を現地の子供から受け取ったそうで、子供はこの手紙をジャングルの入り口で拾ったというのだそうだ。
 グレートアーチのポールへ、とだけ書かれた封筒だったが、律儀に届けてくれた行商人には感謝しなくてはならない。
 なんでもアケでは、子供がとても大事にされているのだそうだ。過去に子供ばかりを狙った人攫いが横行していた反動もあるらしいが、なにより土着の信仰が要因として根強いらしい。
 曰く、子供は妖精の声を聞ける、とのことである。

「しかしまぁ、あの人もつくづくトラブル体質だな。海で漂流してからのジャングル探検とは、まるで熱帯地方のアドベンチャー詰め合わせセットだな」
「俺には、お前らみんなトラブルメイカーに見えるがね・・・」

 それが果たして自分をも指していることをわかっているのかどうなのか、ハリードはそう呟きながら、ホテルバランタインへと向かって歩き出した。

 

 

 見上げたその大樹は、涼やかな風に包まれながら木漏れ日を自らの根元へと降り注がせていた。
 先程までは魔物の気配もあったはずの森は何時の間にか静まりかえり、辺りは清廉とした空気に満ち満ちている。
 ゆっくりとその大樹に手を触れられる位置まで歩み寄ったカタリナは、遥か上空で枝分かれして生い茂る葉を眩しそうに眺めた。

「樹齢は、少なくとも千年を越えるそうです。私達がここに生まれた時、既にあったものなのです」

 カタリナの少し上に浮きながら、同じく大樹を見上げたフェアリーが独り言のようにつぶやく。
 彼女もここに戻ってくるのは数ヶ月ぶりなのだそうで、感慨もあるのだろう。
 道中で聞いた話によれば、フェアリーはある日たまたまジャングルを散歩していた時に不幸にも密漁を行っていたハンターに捕まり、見世物小屋へと売り払われたのだという。
 それから数ヶ月、偶然にも海を渡っての移動の最中にあのような事になったのだそうだ。

「この上で、長がお待ちです」

 そう言ってカタリナに向き直るフェアリーに、当のカタリナは勿論目をパチクリさせた。
 よもやこの先が見えない大樹を、自力でよじ登る訳なのだろうか。
 木登りは苦手というわけではないが、特別に得意でもない。しかもアーマーと剣を持って命綱無しに先の見えないこの大樹を登るのは、おおよそ自殺行為に等しい気がする。
 そんな思考が見事に顔にでていたのだろうか、フェアリーは可笑しそうに微笑みながらゆっくりと首を横に振った。
 その瞬間、地面から風が吹きはじめ、なんとカタリナの身体が体重を忘れてふわりと浮き始める。

「金の粉で飛べるようにはなりませんが・・・ここなら風が、誰しもに羽を与えてくれます。では、参りましょう!」

 そう言って大樹の周りを滑るように飛んでいくフェアリーに合わせ、カタリナの身体も重力の檻から解き放たれて風に乗って舞い上がった。

「凄い・・・空を飛んでる・・・!」

 未知の感覚にすっかりこれまでの思考が全て吹き飛び、まるで少女の様にあどけない表情でカタリナが感嘆の声をあげる。
 その言葉にフェアリーがにこりと笑い、そうこうしているうちに二人はあっという間に、先程までは見上げるばかりであった大樹の枝分かれしている部分に到達した。
 日の光の白と、生い茂る葉の緑。そんな二色のコントラストに包まれながら上昇を続けていたカタリナは、不意に自分が何かの『境界』を越えたことを自覚した。
 それを境に急速な上昇は何時の間にか緩やかなものへと変わり、やがて彼女の体は風を纏いながら細い木の枝の上で静止する。
 そんな彼女の頭上をくるりと回ったフェアリーは、カタリナの視線の高さまで戻ってくると、優雅に両手を広げながら一礼した。

「三百年振りの来客です。ようこそ・・・妖精の里へ」

 さわさわと葉が風に擦れ合う音に混じり、フェアリーの言葉に重なってようこそという声が其処彼処から木霊する。
 それに気が付いてカタリナが周囲をくるりと見渡せば、フェアリーにそっくりなものやもっと小さなもの、人間で言えばカタリナ程度には成熟した体つきのものなど、様々な妖精達が枝葉の間から顔を覗かせては口々に歓迎の言葉を囀っていた。

「みんな、貴女を歓迎しています。さ、どうぞ此方へ」

 そう言って木の幹を掘って作られているらしい通路へとフェアリーが誘い、風を纏って重さを感じさせない足取りでカタリナが続いた。
 驚くほど広く間取りされたその大樹の内部は、いくつもの部屋に別れ、そこにはどこから持ってきたのか人間が扱うものと変わりない家具なども並べられている。
 物珍しげにそれらの光景をみながら歩いていれば、今度は隣の大木(といっても下の方で大樹が枝分かれしただけだそうだ)へと移るに当たり、葉や花が彼女の道となってしな垂れてくれる。

「何か・・・夢の中にいる気分だわ」

 実際に彼女は夢の中とやらにも以前行ったはずなのであるが、今目の前に広がる此方の世界の方が余程、夢の世界と呼んでも差し支えないくらいには幻想的な光景だ。

「この上に、私達の長がいます」

 そう言ったフェアリーに導かれるままになだらかにくり抜かれた木のトンネルをくぐり抜け、もう一度花の道を過ぎた先の大きく開けた場所にでる。
 木漏れ日が暖かに空間を満たしたその場所は、小鳥の囀りと擦れ合う葉音と、えも言われぬなにか不思議な香りに包まれたところだった。
 そして、そこには穏やかな顔つきの美しい妖精が、簡素な椅子に座って此方に顔を向けていた。
 互いの視線が絡むと、ぺこりと頭を下げるカタリナに合わせてその妖精も立ち上がって頭を下げる。

「ようこそ、おいで下さいました。この度は我が眷属を魔手よりお救い頂いたこと、森の民を代表しまして心より御礼申し上げます」
「・・・勿体無いお言葉です。ですが、事の発端は恥ずかしくも人間の悪辣さの為した所業。私など、その様な御言葉をかけていただける身分では御座いません」

 貴賓溢れる立ち振る舞いの目の前の妖精に、カタリナは礼を尽くして相対した。
 流石は妖精族の長というだけある。人間で言えば間違いなく王族の器であろうその空気に、知らずカタリナの身体が反応して騎士としての立ち振る舞いになる。

「とんでもありません。本当に感謝しております。あ・・・人間の方が立ち話というのはなんでしょうから、どうぞ此方へ」

 優雅な手振りで長が先程まで自らの座っていた枝の近くを指し示すと、何処からともなくするりと発生した蔦が椅子とテーブルを形どり、ふわりと咲いた花が彩りを飾った。

「ティーを持ってきてくれる?」

 長が柔らかく首を傾げながら声をかけたのは、カタリナの後ろに控えていたフェアリーだ。
 彼女はこくりと頷いて、木々を下っていく。
 それを肩越しに見送ったカタリナは、どうせここまできたのだからと恐縮しながらも長の言葉に甘えてテーブルについた。

「・・・あの子はあれで、とてもお転婆なのです。いつも皆をヒヤヒヤさせて・・・それでもまさかこの様な事態になるなんて思いもしませんでしたから、今回のことは本当に感謝の言葉もありません」

 とてもカタリナにはフェアリーがそんな風には見えないが、ゆっくりと枝に座る長の口からは、そんな言葉が出た。
 確かに、あの嵐の中という土壇場での胆力というか度胸は可憐な見た目に反して見事なものだとは思ったが、妖精というのも見かけによらないものだ。

「いえ、おかげで私はこうして世界で誰も経験したことがない様な・・・とても素敵な体験をさせて頂いています。お礼を言わせていただきたいのは寧ろ私です」

 心の底からそう思い、カタリナは微笑みながらそう応えた。
 少なくとも、ついこの間まで頭を抱えていた問題が全部どうでも良くなってしまうくらいには、カタリナは今回の体験に感動している。
 だが、恐らくティーを馳走するだけの目的でここに呼ばれたわけではないことも薄々感じていたカタリナは、性急ではあるのかもしれないが、それに言及することにした。

「・・・して、本題があるかと存じますが。お話を、お聞かせいただけますか?」

 その言葉をかけられた長は少しだけ間を置き、そしてその美しい顔を俄かに曇らせた。

「・・・はい。八つの光としての宿命をもつ貴女に、お願いしたいことがあります」

 そして紡がれたその言葉に、カタリナは驚きながらもあまり表情には出さず、無言で応えた。
 ちなみに彼女は長にもフェアリーにも、一言も自分が指輪に示されたその事実は言っていないはずだ。
 カタリナの内々の驚き様に気がついたのか、長は優しく微笑んだ。

「・・・私達の様なものには、わかります。聖王様が且つてこの地をお救いになられたとき・・・その時にあのお方が纏っておられた風が、貴女にもあるのです」

 それは、正しく人智を越えた感覚なのだろう。カタリナには理解の及ばぬ領域である様なので、そこには深くは触れないことにした。

「・・・なので、貴女でなければお願いできないのです。この密林の深淵・・・業火の渦巻く火術要塞の奥深くにあるアビスゲートの破壊は・・・」

 予測通り、といえばそうだろう。
 長の口から出たそのお願いに、カタリナはすっと目を細めた。

「・・・一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか?」

 まるで事前に用意していたかの様な不自然なほどに素早いカタリナのレスポンスに、しかし長はゆっくり頷きながらどうぞと言ってくれる。

「・・・この様な言い方が良いのかは分かりませんが・・・。その役目、何故、私でなくてはならないのでしょうか」

 何とも表現が下手なものだ。頭の中で自分の発言を客観的にそう評価しながら、カタリナはそれでも言い繕うことはせずに長の反応を待った。
 長はカタリナの言葉に表情を変えなかったが、一つ瞬きをして視線をテーブルに移した後、再度の瞬きでカタリナの視線に正面から向き合った。

「・・・大変心苦しいのですが、今私の口からは、その理由を申し上げることは出来ません」

 その言葉を聴いた瞬間、カタリナの瞳に、明らかな戸惑いと落胆の色が広がる。
 長はそれをとても申し訳なさそうに見つめたが、しかしそれでも言葉を続けることはなかった。
 途端に妙に重苦しい空気がその場を包み込み、両者が暫し無言となる。
 だが、風がふわりと肩口まで伸びたカタリナの髪を撫でかけた時、カタリナはこれ迄とは一転して悪戯っぽく顔を綻ばせながら口を開いた。

「・・・では、少なくとも私・・・いえ、私達でなければならない・・・という確かな理由は、存在しているのですね・・・?」

 その問いかけには、長は確りと頷いた。
 それに対して目を細め、そしてふぅと一息ついたカタリナは、わざと困り顔で肩を竦めてみせた。

「因みに・・・それっていつ頃わかるのでしょうか?」
「・・・来るべき時、としか。すみません・・・」

 そんな長の答えは、何となく分かっていたものだ。
 だが少なくともこれで、自分たちでなければ出来ない何かが確かにあるという確信だけは得られた。
 今のところはそれで良しとしようと、カタリナは苦笑しながら長に礼を言った。
 すると丁度そのタイミングで、フェアリーがいかにも慣れない手付きでティーポットとカップの乗ったトレンチを持ってきた。

「お、遅れてすみません。慣れないもので、手伝ってもらっていました・・・」

 そう言いながらフェアリーがティーを二つのカップに注ぐと、とてもフローラルで、しかし鼻孔を吹き抜けるような涼しげで不思議な香りが感じられた。
 そっとそのカップを差し出してくるフェアリーに笑顔で礼をいい、カップを取り上げて顔の前に持ってゆき、存分にその香りを楽しむ。
 ハーブティーの一種だろうか。淡いグリーンの色合いは目にも楽しく、そのまま先ずは一口啜った。

「ん・・・美味し・・・」

 とても美味しかった。
 確かにそんな気がしたのだが、しかしそこでカタリナの意識は暗転した。

 

 

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