第八章・10 -竜騎士-

 

 タフターン山とロアーヌの間に敷かれた、長大なるロアーヌ騎士団の防衛拠点。ここに駐屯するロアーヌ軍を取り巻く戦況情勢は、直近のある時を境に一変した。
 第一の転機は、年明け早々にメッサーナ王国からの支援物資が拠点に届いた時点である。
 大量の戦線支援物資と同時に届けられた書簡によれば、これはメッサーナ王国近衛軍団長ルートヴィッヒをはじめとした諸侯とその同盟国の代表が年末にピドナ王宮にて行うコングレス(ロアーヌ侯国は今回は戦時につき欠席した)によって全会一致で採択された結果だという。
 これを即座に受け入れる決断をしたミカエルからの補足によると、この採択の背景には六年前に没落したはずのメッサーナ名族であるクラウディウス家が一枚噛んでいるとの事だった。
 また、本物資の輸送作業を実質的に担ったのは近衛軍団直下の輸送隊ではなく、ピドナに本社を置く「カタリナカンパニー」という企業であることも付記されていた。
 現地拠点の総指揮を務めるブラッドレー将軍は、これらを確認後、即座に物資の分配を開始。
 兵力の補填こそなかったものの豊富に揃った食糧や武器防具、崩れた砦の修繕用材木などを用い、兵の士気を保ちながら強固な防衛ラインを敷き直し、崩れかけていた魔物との戦闘情勢を持ち直しにかかった。
 そしてこれより更に数日の後、第二の転機が訪れた。
 その日、突如として明らかに魔物の攻勢が急速に弱まったことを、前線の兵士たちは計らずも一斉に肌感で察知した。
 それまでは軍として纏まっていた魔物たちは、まるで唐突に知性を失ったかのように疎らな侵攻を行うようになったのだ。隊列や種族ごとの編成などの概念も消え失せ、只々闘争本能に従い個別に襲い掛かるばかりとなったのである。
 当然これは、この戦で殊更に屈強さを増した歴戦のロアーヌ騎士団によって、全く危なげもなく各個撃破されていった。

 そして、魔物の攻勢が鈍化した更に翌日。
 油断しないまでも明らかな希望を見出しつつ警邏についていた物見の兵から、敵軍襲来を知らせる警鐘が鳴り響いた。
 しかも、それは昨日のような鈍化した攻勢などではなかった。
 平時ならば魔物の動静が鈍化するはずの日中に、あろう事か巨大な竜が一頭、突如として防衛戦線上に姿を現したのである。
 その姿は遠目からでも分かるほどの見事な巨躯であり、歴戦のロアーヌ騎士たちはその竜が間違いなく巨龍種であろうということを即座に見抜いた。

「馬鹿な、何故このタイミングで巨龍種なんて・・・!」

 防衛隊の先陣を担うコリンズ将軍は愛用の騎兵槍を強く握り締めながら、苦々しそうに呻く。
 小型、中型種の魔物を対象とした戦闘経験は、ロアーヌ騎士団は他国の追随を許さぬほどに積んでいる。だが大型種ともなると、話は全く別だ。
 そもそも大型種に分類される魔物は、極端にその個体数が少ない。
 人類の生活圏に近い場所での生息も、まずしていない。
 巨人種、デーモン種、巨龍種など、その存在が認識されているもの自体も非常に少ない。主にその存在が見られるのは、語り継がれる伝説や童話の中ばかりだ。
 それがまさか人類生活圏の近いこの戦線に降り立とうなどと、騎士団の誰もが全く予想だにしていなかった。

「広く半円状に歩兵を展開後、中央と左右の要所に騎馬隊を配置。分散突撃し、巨龍種が用いるとされる殲滅砲への対策とする。空中に飛ばれたら手の打ちようがない。地上にいる間に可能な限り損傷を加え、相手が退くのを狙うしかあるまい」

 自らも兜を深く被り、自らの直線上に座する竜を高台から睨みながらブラッドレーが口早に作戦を発すると、それに伴い各部隊を率いる将は持ち場に着くべくその場を駆け出した。

「俺は正面を担当する。必ず一撃、見舞ってみせる」
「・・・頼む、コリンズ。お互い死線ばかり潜るが、必ず生きてまた会おう」
「応よ」

 互いに短くそう言い合い、コリンズは己の愛馬に跨り、迷いなく隊列の先頭へと向かう。
 激動の一年の間に起こった数多の戦で打ち立てた輝かしい戦績から、ロアーヌ騎士団でも最強との噂が立つ「速攻のコリンズ」率いる第一騎馬隊。
 その最強の名を持つ騎馬隊の面々は、誰一人とて怯えた様子もなく、この一大局面の先頭を牽引せんとし真正面から竜へと相対した。

(・・・こりゃあ、リブロフの砦で神王教団相手にした時くらいやべえ感じだ。あの時は詩人さんが助けてくれたが、今回はそういうわけにも行かんだろう。果たして俺の槍が、あのデカブツに届くかどうか・・・やるしかねぇな・・・!)

 コリンズは可動式の面頬をカシャリと落とし、バイザー越しに竜を睨む。
 これまでの人生の回想をしているほどの時間的余裕は、ない。
 標的が飛ぶ前に何としても一撃を加え、退かせる。
 よし、と小さく呟いたコリンズは、突撃のラッパを吹かせるべく右手に持つ槍を高らかに掲げんとした。
 だが、彼がそれをする直前に、直線上に在る竜の異変にふと気が付いた。
 竜は、自らの周囲を囲む騎士団などまるで気にしていないかのように寝そべるような体制を取ったのだ。
 まるっきり、交戦意思がない有様である。
 それだけならば寧ろ好機であるとも取れるが、更に奇妙なことに、その竜の元から、一人の人影が真っ直ぐに此方へと歩いてくるではないか。
 その不思議な光景を凝視していたコリンズは、やがてその抜群に優れた視力で以って、その人物が何者であるのかを誰よりも早く見抜いてみせた。

「・・・おいおい、マジかよ・・・もう何が何だかわからねーな・・・」

 コリンズは呆れ返ったような表情をしつつ、周囲の騎兵に待機の指示を出して馬から降り、面頬を上げて兜を脱ぐ。
 そしてそのまま小脇に兜を抱えたままで待つ彼に気付いて正面から小走りに歩み寄ってきたのは、ロアーヌ騎士団が誇る紅一点にして自軍最強の騎士との誉高い、カタリナ=ラウランであった。

「・・・最近は一気に人間離れしてきたと思っていたが、まさかお前、ついに竜まで従えたってのか?」

 声が届く距離までお互いが近づくと、コリンズはすっかり緊張が解けてしまった様子で肩を竦めながら話しかけた。

「そんなわけないでしょ。あの竜は、ルーブのグゥエイン。四魔貴族ビューネイを討伐するために、協力してもらったの」

 コリンズの相変わらずの軽口に、思わずうっすらと笑みを浮かべながらカタリナが答える。

「いやそれ簡単に言うけどな・・・。っつかビューネイ・・・矢張りお前が討伐に動いていたか。ここの戦線も、突然襲撃が緩くなった。ということはつまり、やったのか」
「ええ、ビューネイは討伐したわ。その事を伝えにここに来たの。直ぐにミカエル様にもお伝えして頂戴」

 カタリナのその言葉を聞き、コリンズは肩に担いでいた槍をゆっくりと降ろしてから地面に刺し、大きく長く、息を吐く。
 それは、二ヶ月あまりにも及んだこの防衛戦線の終結を意味する所作でもあった。

「・・・騎兵隊から司令部へ通達!目の前の竜に交戦意思なし!及び、我が軍の騎士カタリナによる魔龍公ビューネイの討伐完了を確認、と!!」

 コリンズが半身を翻しながら後ろに控えていた部下にそう指示を飛ばすと、騎兵は一瞬の躊躇いの後に指令を受諾し、急ぎ馬を走らせていった。

「・・・やっぱお前はすげえよ、カタリナ。先ずはこの場を代表して礼を言わせてくれ。本当にありがとう」
「いいえ、私はロアーヌ騎士としての役目を果たしたまで。寧ろ私こそ、ここで魔物を食い止め切ってくれた貴方達を心から誇りに思うわ。我らがロアーヌを守ってくれて・・・本当にありがとう」

 そう言いながら二人ともが突き出した拳を軽くぶつけ合うと、自然と周囲からは歓声が湧き上がった。
 その歓声は瞬く間に波打つようにしながら防衛戦線を担う兵士全体に広がり、その場の全員が、この戦いの終焉を確信したのだった。

「奥にブラッドレー達もいる。行こうぜ。ミカエル様には一緒にご報告していくだろ?」

 そう言いながらコリンズがカタリナを誘うと、しかしカタリナはゆっくりと首を横に振った。

「いえ、私は一度、グゥエインと共にルーブへ戻るわ。そこに待たせている仲間もいるの。ミカエル様へのご報告は、任せていいかしら」

 カタリナのその言葉にコリンズはとても残念そうな表情を浮かべるが、かと言って引き止めることはしない。今の彼女の行動を此方の意思でどうにかできるなどと、コリンズは全く考えつきもしないからだ。

「そうか・・・残念だが、お前がそういうのならば仕方ないな」
「ええ。それと、タフターン山の頂上へ調査隊を派遣して頂戴。私が見た限りは山頂を覆っていた霧も完全に晴れ、ビューネイの根城も露わになっているわ。奥には、火術要塞と同じくゲートの存在も確認出来ている。教授やヨハンネスさんが動ければ、それが一番いいとは思うけれど」

 カタリナの言葉に確と頷いたコリンズは、手配を約束して二言三言を最後に交わし、互いに背を向けて別れた。
 そのまま竜の元へと小走りに戻っていくカタリナを背中越しに見送ったコリンズは、ふぅと一息つきながら、軽く空を見上げる。

「・・・こりゃもう実力ってか器そのものが離れすぎてて、流石にもう一回告るとか、無理そうじゃねーか・・・?」

 過去数度の挑戦失敗にも挫けなかったロアーヌ騎士団切っての成長株コリンズであったが、流石の彼をしても、挑まんとする壁の高さには苦笑を浮かべるしかなく、ぽりぽりと頭を掻くのであった。

 

 

 ロアーヌ防衛戦線へ勝利の報を届けてから三日の後、カタリナはグゥエインと共にルーブ山のグゥエインの住処へと舞い戻ってきた。
 瀕死の重傷を負っていたグゥエインの体を労りながらではあったが、それでも三日で地図のほとんど端から端まで移動できてしまうことには、改めて驚きを禁じ得ない。

「お二方とも、お帰りなさい!」

 グゥエインの財宝の間のすぐ近くの穴から降り立ったグゥエインとカタリナを見るや否や、その場にいたフェアリーが文字通り飛び上がりながら二人を出迎えた。

「ただいま、フェアリー」

 グゥエインの背から降り立ちフェアリーとハイタッチをしながら、カタリナは微笑みかける。
 その笑顔が示す意味を理解していたフェアリーは、キラキラと光る瞳の奥から溢れる好奇心を全く隠そうともせずに、カタリナの手を引くようにしながら問いかけた。

「ビューネイ討伐、本当にお疲れ様です!ロアーヌもこれで安泰ですね!して、ビューネイはどのような姿だったんですか!?空中では、どのような戦いだったんですか!?」

 矢継ぎ早の質問に対してカタリナは目の前の好奇心旺盛な妖精を落ち着かせるように「まぁまぁ」と言いながら、先ずはここまでの飛行をしてくれたグゥエインに感謝を述べるべく、振り返った。
 ビューネイから受けたグゥエインの傷は、途中寄った人里や偶然見つけた行商人などから買った傷薬を用い、ある程度は癒すことができている。だが、元の傷がかなり深かったこともあり、まだまだ完全な状態とは言い難かった。

「改めてグゥエインも、本当にお疲れ様。伝説に違わぬ戦ぶりだったわ」
『ふん、ビューネイの影など、相手にもならなかったな』

 怪我の度合いからしたら全くそのようには思わないが、それでも強がって見せるグゥエインの言葉には思わず苦笑しつつも微笑ましく思い、カタリナはそうね、と相槌を打つ。
 そのあとは暫く、予備の傷薬と共に入手しておいた食料を摘みつつ、ビューネイとの戦いの詳細を聞きたがる前のめりのフェアリーにカタリナとグゥエインが交互に応えながら、束の間の穏やかなひと時を過ごした。
 思い返すと、熾烈を極めたフォルネウスとの戦いから、まだひと月少々しか経っていないのだ。短期間の間にこうも命を削るような戦いを繰り返してきたということもあり、流石のカタリナも己の戦果を労う思いで、一際穏やかな気持ちで二人(?)と会話を重ねた。
 フォルネウス、ビューネイとも直接その場には居合わせなかったものの、フェアリーには様々な局面で大きく助けられていた。
 全ての生物と意思を交わすという妖精族の特殊な能力に頼らなければ、全くこれらの偉業を成し遂げることは出来なかったであろう。その分、フェアリーの質問攻めには夜通し全力で付き合ってあげるつもりだ。
 それに今回共に戦ったグゥエインは、全く予想していないほどに高潔な意思を持った戦友となった。
 種族の垣根を越え、カタリナはこの竜を真の友として心から認めていた。そしてそれは恐らくグゥエインもそう感じてくれているのであろうことが、確かに彼女にも感じられる。
 フェアリーを交えながら会話を繰り広げる中で、彼の竜が紡ぐ言葉の端々から、それが彼女にも伝わってくるのだ。命運を共にした者同士だけが恐らく感じられるであろう、互いを尊敬する想い。それが確かに、竜と人との間に出来ていたのである。
 魔龍公との戦いからその後のタフターン山の根城の様子など、三者の会話は夜更けまで途切れることなく続いた。

 

 そしてそのまま一夜が明けた、明朝。
 鮮やかに差し込む朝日に揺り起こされるようにして目が覚めたカタリナは、財宝の敷き詰まった寝床で静かに佇みながら此方を見下ろしているグゥエインの視線に気が付き、何かあるのかと視線で問いかけた。

『母は、どのような気持ちだったのだろうな』
「・・・?」

 紡がれたその言葉の意味を測りかねて首を傾げるカタリナに、しかしグゥエインは全く構わない様子で淡々と続けた。

『我はお前と会うまで、この背に人を乗せて闘おうなどとは、微塵も考えていなかった。それは恐らく、母も同じ考えであっただろう。だが母は聖王と出会い、聖王を背に乗せて闘った。我も今ならば、母がそのように思い直したこと、よく理解できる』

 グゥエインが何かを訴えかけたいと考えていることを察したカタリナは、立ち上がってグゥエインに向き直った。
 グゥエインは、続けた。

『だが、母は竜であり、聖王は人であった。それは我々も、変わらぬこと』

 グゥエインの真珠のように白い瞳は、変わらずカタリナを真っ直ぐに見つめている。その瞳は、どこか悲哀を交わらせた色のようにカタリナには思えた。

『我は、これから人を喰らいに行く』
「ちょ・・・いきなり何で!?」

 唐突なグゥエインの言葉に、カタリナは驚きを隠さずに声を上げた。

『知れたこと。戦で失った英気を養うには、蹂躙こそが至高。竜とは、そういうものだ』
「・・・・・・」

 決して、冗談を言っているわけではない。それは、カタリナにも分かった。
 竜という生物がどのような文化や常識を持ち、動くのかなど分からない。だがグゥエインの言葉には一切の偽りの様子はなく、きっとグゥエインからすれば、人を喰らうというのは正に竜たるが故に当然の行動なのであろうとも思える。
 この竜は、間違いなくこれから人を喰らうつもりなのだ。
 だが、それをそのまま良しとすることは、人間である彼女にはできないことでもあった。

『肉を食らい宝を奪うは竜なるが故の宿命。だからこそ母と聖王は対立し、その果てに母は、聖王によって殺された。お前とて、人を喰らう竜を許してはならぬのが貴様らの道理であるということは、分かっているはずだ』

 グゥエインの言葉は、全くその通りであるとカタリナにも理解できる。
 竜と人の関係性は、三百年の昔から、何一つとして変わってはいないのだ。
 それは、分かっている。
 それでも、このグゥエインという竜と出会ってからの、この一週間程度の短い時間。
 その中でカタリナは目の前の竜が持つ高潔な意思に尊敬の念を抱き、また竜からも自分という人間を認めた上で戰を共にしてくれたのだという確かな感覚が伝わってきていた。
 彼女はそれに、どこか甘い見通しを抱いてしまっていたのかも知れない。
 だがその感覚とは、矢張りドーラと聖王が嘗て抱いたものと同じであって、それはしかし竜と人という間柄を改変するようなものでは、ないというのか。

『だから、思うのだ。母は此の期に及び、どのような気持ちであったのだろうか、と』
「グゥエイン・・・」

 竜と人の精神がどのように触れ合い、又、どのように触れ合うことがないのか。そんな難しいことは、カタリナには全くわからない。それはきっと、グゥエインにしてもそうであるのだろう。
 だが数百年の昔、既に答えの出ているその問いかけであろうというのに、それでもグゥエインは考え、彼女に語っている。

『母は、聖王を疎み、憎しんだのであろうか。我は、今に至ってはそう思わぬ。母は恐らく今の我と同じように人への見方を変化させた。ただ、竜であるが故に、その宿命に従ったまでなのだ。それが今は、よく分かる。我が母は、偉大な竜であった』
「・・・では、他に何が分からないのだというの・・・?」

 カタリナが問いかけた。
 グゥエインは最初に、母がどのような気持ちであったのか、と問いかけてきた。だが今の言葉には、竜なるが故の宿命という、過去から続く絶対の正解しかない。
 グゥエインは、何か別の思考を内包しているのではないか。そのように思ったのだ。

『・・・宿命の、その先だ。我は宿命に従った母の最後を知っている。母は聖王の手によって殺された。その時、母は何と思ったのだろう。逆の場合があったとしてもだ。母が聖王を喰らい、今もなお生き続けていたとしたら、その時、母は何と思っていたのだろうか』

 宿命の、その先。そんなことは、至らなければ誰にも分からないのではないか。
 カタリナは素直にそう思った。
 何もそれは、竜と人だけではない。
 それ以外の様々な生物と、人。または、人同士や、それ以外の生物同士。それらの中にもいくつもの宿命というものが世界の凡ゆる生物にはあって、それらの行く先を否応なく決定付けている。
 当然ながらそれは今に始まったことではなく、過去から繰り返され続け、そしてこれから先も繰り返されていくものなのだろう。
 そのような絶対たる宿命を前にして、宿命のその後を思うことに、意味はあるのだろうか。
 だが、この竜はそれでも考えているのだ。

『宿命により、為すべき答えは出ている。しかし、その宿命を目の前にして、我と母は別の存在だ。我が思うことと母が思うこともまた、別なのであろう。今になって、ふとそれが気になってな』

 そう言い終わると、グゥエインは鈍色の表皮の内にある真紅の翼を広げ、力強く四肢で立ち上がった。

『確かめようではないか』
「・・・。ええ、分かったわ」

 竜と人間、所詮はこうなる定め。
 そんなことは、頭の片隅では既に分かっていた事。元より、場合によっては最初からそうなる覚悟でここに来たことも確かだ。
 無論それは目の前の竜も考えを同じくしており、その上で今こうして、自分に語りかけてくれているのだろう。
 これは言うなれば当初の想定を大きく逸れて、とても尊い事であった。
 宿命を辿ることを前にしてこうして言葉を交わせた事は、望外の喜びである事に他ならない。間違いなくそう断言できる。
 だが、それでも。
 それでも彼女は、矢張り心の奥底では納得がいかないでいるのだ。
 こうして数奇な運命の導きの上に巡り合い、ほんの一時であったとしても心を通わせた存在同士。それが予め定められたままに、他に為す術もなく、殺し合うしかないという宿命。
 このような理不尽が至極当然のような顔をして蔓延るこの現実に、彼女は強い苛立ちを覚えた。
 宿命というただ一点の理不尽のために、友と殺しあう事。
 これに怒らずして一体、他の何に怒れと言うのだろうか。

「・・・やってやろうじゃないの」

 そう言いながらカタリナはグゥエインを、そしてその先にある宿命とやらを強く睨みつけた。
 そして何故か彼女は即座に踵を返し、ここまで持ってきていた旅の荷物が置かれた壁際へと歩み寄る。
 そこには途中から不穏な気配を察知して二人のことを不安そうに見守っていたフェアリーが居たが、カタリナはそんなフェアリーには曖昧に微笑みかけただけだった。
 しゃがみ込んで荷物の脇においてあったマスカレイドを腰に付け、そして布に包んだ板状のものを荷から取り出し、普段はロングソードを装着している剣帯部分に括り付ける。
 その脇に置いてあった月下美人には手を伸ばす事なく、かなり身軽な状態で再びグゥエインの目の前に戻り、正面に対峙した。
 しかしなんとカタリナは、腰のマスカレイドを抜くことなく、ゆっくりとした動作で両手を軽く横に広げて見せたのである。

『・・・何のつもりだ』

 当然その様子を訝しむグゥエインに対し、カタリナは沸々と体の内側から湧き上がり続ける怒りの感情を隠さないままに睨み返した。

「なんのつもり、じゃないわよスカタン。見ればわかるでしょう。来いって言ってんのよ。大層な御託はいいから、さっさとその宿命とやらに則って、お得意のブレスで私を焼き殺してみせなさい」

 そのあまりの態度の変容ぶりに、グゥエインは虚をつかれた様子で思わず瞳を細めた。

『血迷ったか・・・』

 低く唸りながら、そう呟くグゥエイン。
 しかしまるでそんなことには構う様子もなく、仁王立ちの状態で目前の竜を睨みつけたカタリナは、怒りの感情のままに言葉を続けた。

「血迷ったですって?・・・お生憎様、私は至って正常よ。寧ろそっちこそなによ、さっきまで言っていた御大層なその竜の宿命とやらは、両手広げた仁王立ちの人間は対象外なのかしら。だとしたら随分と都合がいい代物なのね、竜の持つ宿命ってのは!!」

 小気味よく啖呵を切るカタリナ。これにはグゥエインも堪らずふしゅうと色めき立つように口角の端から炎を吹き出し、力を溜め込むように姿勢を低くした。

『・・・吠えよる。よかろう、では望み通りに焼き尽くしてくれる・・・さらばだ、強き人間よ!』

 言い終わると同時にグゥエインは大きく目を見開き、両の翼を大きく広げる。
 大気に溢れる力の元素を翼から取り込むようにしてグゥエインの胴体が内側から淡く光り輝き、竜の体内で純粋な破壊を伴う力へと変革したものが全身を巡り、そして口角へと登っていく。
 口角部から覗く鋭い牙の奥、大きく開け放たれた喉元の中から、溢れんほどの眩い光と共に強烈な雷撃が一直線に放たれた。
 仁王立ちの姿勢からでは全く避ける事も叶わないであろう至近距離からの雷撃一閃は、寸分違わずカタリナを貫いた。
 同時にその威力を証明するかのように強烈な衝撃波が周辺へと広がり、壁際にいたフェアリーは思わず抱えていた荷物ごとごろごろと転がり飛ばされてしまうほどだ。
 視界が塞がれるほどの土煙が巻き上がり、雷撃によって大きく貫かれ崩れた後方の洞窟が崩れる音が遅れて響き渡る。
 そして数秒間に渡り吐き出された一閃が終わり、その直線上にあった地面すらもが焼き爛れ広範囲で抉られた有様が見えるようになってきた頃。
 その雷撃の中心にあったものに、当のグゥエインは正しく目を疑うようにしながら対峙した。

『馬鹿な・・・』

 そこには、先程の仁王立ちの姿のままで何事もなかったかのように佇んでいるカタリナの姿があったのであった。
 カタリナは真っ直ぐにグゥエインを睨みつけたまま軽く咳き込み、舞い上がる土埃を払うように顔の前を掌で仰ぎ、そのまま耳の辺りの髪を何でもないかのように撫で付けた。

「なによ、今の。光る手品を見せろなんて、言った覚えはないわよ」

 カタリナの煽るような台詞に、グゥエインは暫しの沈黙の後、まるで笑うかのように口角を釣り上げ、青い炎を漏らした。

『・・・良いぞ、やるではないか人間!!それでこそ我が背に乗せた者に相応しい!!』

 そう捲し立てながら、グゥエインは歓喜に満ち溢れるかのように後ろ足で立ち上がり、これでもかというほどに翼を広げ、ルーブ山脈中の魔素を集めるようにその身に力を集束させていく。
 一方で竜はあくまでも冷静さを保ったまま、カタリナの周辺をつぶさに観察していた。
 焼け爛れ、未だ紅く明暗する抉り取られた射線上の地面は、どうしたことか彼女の周辺だけなにもなかったかのように残っている。
 何かしらの手段を用いて雷撃を防いだ、という事は確かだろう。
 だが彼女の後ろには再び地面の抉れる様が忽然と続き、その奥の洞窟の大規模な崩落を招いている。
 雷撃は確かにカタリナのいる場所を貫通した、ということだ。となると、まるで彼女の周りだけが何事もなかった、というような状態。非常に奇妙な光景だといえる。

(・・・物理的な防ぎ方ではない。だが、天地六術式に属する結界とも全く様子は異なるように見える・・・)

 体内に集束する力が張り裂けんばかりに稲妻の走りを伴って身体中を駆け巡る中、グゥエインは思考を続けながらカタリナの細部へと観察の目を向ける。

(足元が動いた様子もない。熱量は愚か、それに伴う衝撃波すら相殺しているようだ。これは最早防御というより・・・事象の無効化・・・いや、改変と言ってもいい。だが、それでは大いに不自然だ。あれほどの手段を持っているのならば、何故奴はそれをビューネイとの戦いで用いなかった・・・?)

 これをビューネイとの戦いに用いていたとしたら、戦局は大きく傾いたはずだ。あのように一か八かの決死の行動をせずとも、もっと楽に決着はついたはずである。

(であれば、何らかの制約があるので使わなかった、と見るべきか。確かにこれほどの効果であれば、それは頷ける。彼奴は腰に聖王遺物の剣を持ってはいるが、抜いていない。仮に抜いていないのではなく、抜けないのだ、としたらどうだ。攻撃を行うことができない、という制約。それならばビューネイとの戦闘で使わなかったのは分かる。そして恐らくそれを成し得ているのが・・・)

 グゥエインは、目敏くカタリナの装備の変化を確りと見抜いていた。

(腰に吊るした、あの布に包まれたもの。形状からすれば、盾か。恐らくはあれが、この状態を作り出している。そして何らかの代償を伴う異能の発動は、往々にしてアビスの力が源。となるとあの盾のようなものは・・・大方、魔王遺物といったところか。魔王遺物には、魔王の盾が存在するはずだ。その効果のほどまでは知らぬが、これほどの効果を齎すのであれば相応の品と見るべき。恐らく間違いはなかろう)

 青白くグゥエインの体が光り輝き、竜が蓄える力は正に最高潮に達しようとしていた。
 ビューネイが空を主戦場としたように、グゥエインの最も得意とする戦場は、この根城に他ならない。
 三百年に渡りグゥエインが棲み続けるこの地には主人たる竜の息吹が山岳全体に根付いており、この地でこそグゥエインの雷撃は最も力を発揮する。
 恐らく次の一撃は、先のビューネイの結界をも易々と破るほどの威力を内包しているものとなるだろう。

(アビスの瘴気は、人間には猛毒。しかも力の源が魔王遺物ともなれば、その影響被害は計り知れない。そうか・・・読めたぞ。彼奴、身につけている幾つもの聖王遺物で、それを相殺しておるのか。自らの身体とそれらを全て瘴気の相殺に回すことで盾の効果を引き出しておると見える)

 グゥエインは、再び口角を上げるようにして、その端から炎を溢れさせる。
 その様をカタリナは、冷や汗を垂らすようにしながら見つめていた。

《カタリナさん・・・》

 脳内に、フェアリーの念話が響く。念話であるというのに、その声色がひどく不安げであることが手に取るようにわかるのだから、面白いものだとカタリナは場違いに思った。

《グゥエインさん、魔王の盾の絡繰に気づいています・・・!》
《・・・でしょうね。あいつさっき、笑いやがったわ。気づいた上で、真正面からやるつもりよ》

 三百年の知見は伊達ではない、という事だろう。恐らくは先の防御が魔王の盾の齎す効果である事以外に、自分が何もできない状態であるということまで、見抜かれている様子だとカタリナは判断した。
 全く、この土壇場だというのにとんでも無く頭の回転の早い竜だな、などと呆れ半分に考えながら、しかしカタリナはその上で真正面から挑もうとするグゥエインの狙いが、手に取るように分かっていた。

《別に最初は、そんなつもりじゃなかったけどね。でもこれは、彼奴にとって最も相応しい決着の付け方かもしれないわ・・・》

 そう頭の中で呟きながら、カタリナは額を流れる汗を乱暴に腕で拭った。
 以前にはウンディーネとボルカノの魔術攻撃をこの手法で抑え切った事があるが、その際のこの盾による消耗は非常に大きなものだと感じていた。だが今、先程の雷撃を無効化するために魔王の盾が要求する代償は、既にその時の比ではない程の疲労感を彼女に齎している。
 身に付けている幾つかの聖王遺物の助けがなければ、とうに彼女は力尽きて倒れているだろう。

(・・・これは、我が母を殺した聖王の力との対峙でもある。聖王の時代から幾つも世代を重ね受け継がれてきた人間の力の結実ともいえる我が誇るべき戦友が、更に聖王の力をその身に纏い、我が前に立っているのだ。その力を打ち破り焼き尽くしてこそ、最強の竜であるということの証明に他ならぬ。宿命の先に立つのは、この我である・・・!!)

 内包する雷光によって全身が眩く光り輝くグゥエインは、いよいよその渦巻く力の奔流を解き放つべく、再び力強く四肢で足元の財宝を踏みしめた。
 目の前の相手を焼き尽くすまでは、雷撃を止めるつもりはない。グゥエインは己の存在を賭けて誓っていた。
 力の全てを放出し尽くし己が果てるか、魔王の力の代償に耐えられずカタリナが遺物ごと焼き尽くされるか。
 決着は、二つに一つだ。

「さぁ来なさいよ、グゥエイン!!!」
『ゆくぞ、カタリナよ!!!!』

 直後、その場の全てを覆う眩い閃光が、解き放たれた。
 許容量を大きく超えて溢れる力はグゥエインの身体中から血飛沫と共に吹き出し、だがそれをすらグゥエインは無理矢理に眼前の破壊の集束へと導く。
 天雷の如き轟音と共に放出された全てを焼き尽くさんとする雷光が、グゥエインの眼前の全てを飲み込みながら一直線にルーブ山を貫いた。
 その雷光は先の一撃で崩落を招いていた洞窟を今度こそ跡形もなく消し去り、正しく龍峰ルーブ山を真っ二つに切り裂く光刃となったのである。
 後にその光と衝撃波は天の怒りとも語り継がれ、世界を駆け巡ることとなるほどのものだった。
 その雷光の渦中にあり、カタリナは既に限界を訴え悲鳴をあげる全身を、その研ぎ澄まされた精神力だけでなんとか奮い立たせていた。

(耐えろ、耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ・・・!!!!!!!!)

 食いしばった口の間からはぼたぼたと血が滴り落ち、雷光を無効化せんとし激しく鳴動する魔王の盾は、しかし明らかにその出力を弱めていく。
 無効化の範囲は急速に狭まり、最早彼女の足元まで雷光が迫っている。
 ピシリ、と盾が音を立てた。
 事象の無効化の限界を迎えようとしている魔王の盾が、今にも砕け散ろうとしている音だ。

(耐えろ・・・!・・・私は、こんなところで死んでなどいられない・・・!!!)

 初めに肌が膨大な熱量を感じ、そして衝撃波となる風が彼女の髪を戦がせる。
 そして次には、間も無く砕けんとする魔王の盾の効果範囲を侵すように眩い白と青の閃光が、カタリナを包んでいった。
 盾の限界を察知したカタリナは、咄嗟の判断で腰のマスカレイドを抜き放ち、切っ先を目前へと突き出す。
 そして大きく上段へと構えをとったカタリナは、渾身の叫びと共にマスカレイドを振り下ろした。

「・・・ぉぉぉぉおおおおおおおおおおおお!!!!」

 遂には盾が砕け、事象の無効化を打ち破った雷光がカタリナを飲み込まんとする、その瞬間。
 彼女が振り下ろした聖剣マスカレイドは真紅の閃光を放ち、己を飲み込まんとしていた雷光を、真っ二つに切り裂いた。
 瞬間、巨大な力のぶつかり合いによって起こった爆風が、周囲の全てを吹き飛ばしていく。
 グゥエインの横あたりにまで荷物と共に避難していたフェアリーはそれに巻き込まれて再度後方へ吹き飛ばされ、またカタリナ自身も、爆風に煽られて吹き飛ばされそうになる。
 だが、彼女は残り僅かな力を振り絞り、その場に留まった。
 ここで吹き飛ばされるわけには、いかない。
 何故ならそれが彼女の勝利に他ならないと、彼女は確信していたからだ。
 その確信を、裏付けるかの如く。
 強烈な爆風の収束と共に、ルーブを切り裂いた雷光は、その終わりを迎えた。

「・・・・・・」

 巻き上がる大量の土煙と共に、粉々に砕けた魔王の盾の残骸がカタリナの足元へと落ちていく。
 彼女が身に付けていた外套は肩口から焼け落ち、両の腕を覆っていた小手や衣服も吹き飛ばされていた。
 だがそんなことには構わずに真紅の大剣となったマスカレイドの切先を地面に置いたカタリナは、徐々に落ち着いていく土煙の奥に居るであろうグゥエインを、ただ真っ直ぐに見つめていた。
 彼女の視線の先には、神域に迫らんとするほどの雷光を放ったグゥエインが、その持てる力を全て使い果たしたことを示すように、ぼろぼろと鈍色の表皮が崩れ落ちるままに佇んでいた。

『・・・見事だ』

 断続的に体から吹き出す流血を物ともせず、グゥエインはとても静かな調子で、そう言った。
 そしてその言葉と共に、竜の四肢はその体を支えることすら出来なくなり、ズシンと重い音を立てて財宝の上に倒れ伏す。
 カタリナはマスカレイドを地面に突き刺し、自らの全身の激痛を無理矢理に抑え込むようにしながら、グゥエインの元へふらつきつつも駆け寄って行った。

『・・・母の気持ちが、漸く判った』

 目の前に屈み込み竜の鼻先に手を当てるカタリナを認識し、グゥエインはひどく穏やかな声色で続ける。

『・・・滅びゆく定めならば、せめて友の腕の中で・・・。きっと母はこの時、そう思ったのだ』

 生命の輝きが今にも途絶えんとしているその瞳を、カタリナはじっと見つめていた。
 その様子が見えているのか否かも分からないが、グゥエインが今とても穏やかな気持ちであるのだということは伝わってくる。

『お前も、人間にしては中々だったぞ。聖王のように・・・』

 その言葉と共に、グゥエインはゆっくりと目を瞑る。
 そして、穏やかに眠るようにして、動かなくなった。

「・・・・・・」

 カタリナは竜のその言葉を聞いてから、直ぐ様自分の体に鞭打つようにして、立ち上がる。
 そして眼下に横たわるグゥエインを一瞥すると、未だ収まらぬ憤りと共に呟いた。

「・・・何、自分勝手なことばっか言ってんのよ・・・!」

 

 

 雷光によって一切の遮るものがなくなり、溢れんばかりの陽光がその場に満ちていた。
 陽光はあちらこちらに散らばる金銀の財宝に当たることで、更に方々へきらきらと光を反射している。
 全く冬を思わせぬその暖かい陽光に包まれながら、ゆっくりと竜は意識を覚醒させ、瞳を開いた。

『・・・・・・』

 何故、自分は瞳を開いたのか。
 それが、まず竜には分からなかった。
 自らの宿命に相対し、その宿命に従い自らの生命を終えた。
 それが、竜の持つ最後の記憶だった。
 だというのに、どうして再び、こうして自分は瞳を開いているのだというか。
 グゥエインは殆ど動く様子を見せぬ自らの身体の様子を簡潔に理解すると、痛くしんどそうに頭だけを少し上げ、自らの周囲へと視線を向けた。
 己の持つ渾身の力によって大部分が吹き飛ばされた、哀れな棲家の跡。
 もうすっかり熱が冷めた様子の、焼け爛れ黒ずんだ地面の痕跡。
 何やら自らの周囲に幾つも乱雑に転がる空の薬瓶と、どうやらその薬を幾重にも振り撒かれたらしく薬品の匂いがつんと鼻につく、自らの身体。
 そしてその脇で小さな火を焚いて囲んでいる、見覚えある二つの影。
 それが意味することを遅まきながら理解したグゥエインは、火の横に座るカタリナへと目を向けた。

「・・・やっと起きたわね」
『・・・何のつもりだ』

 何事もなかったかのように声をかけてきたカタリナに対し、グゥエインはあまり穏やかではない怒気を孕んだ声でそう言った。
 これは、明らかに宿命を貶める愚行である。
 そのようなものを許すほど誇りなき軟弱な思考を、グゥエインという竜は持ち合わせてなどいない。
 出来ることならば同時に威嚇の姿勢でもしてやるべきところなのだが、しかし生憎と体はそこまで自由に動いてくれる様子はない。

「・・・なんのつもり、じゃないわよ。貴方ね、自分だけ分かった風で勝手に終わるとか、自己中過ぎるわ。私は、そんなこと許した覚えはないのよ」

 大概こちらも辛そうにしながらゆっくりと立ち上がり、カタリナはグゥエインの目と鼻の先まで歩み寄る。

「貴方が聞いてきたのでしょう。宿命の先に何を思うのか、と。それは貴方だけの問いではなく、私の問いでもあるの。そしてね、私はそれにはこう答えるつもりなのよ。そんなの・・・くそったれだ、ってね」

 育ちの割にはあまりに汚い言葉を使うカタリナに、グゥエインは思わず閉口するような思いで、未だ相手の意図が理解できずに見つめ返した。

「全く何かある毎に宿命宿命宿命って・・・一体この世界の住民は、どんだけ宿命マニアなのよ。生憎と私はね、欠片も気に入らない宿命を『はいそうですか』って受け入れられるほど、寛容な人間ではないの。だから、それに抗おうとしているだけ」
『馬鹿な・・・そのようなことで竜たる我が宿命をも愚弄すガッッ!!??』

 激昂し声を上げたグゥエインの頭部を、なんとカタリナは握りしめた拳で思い切り殴り飛ばした。
 表皮の鱗が二、三枚飛び散るほどの威力で殴られたグゥエインは言葉を遮られ、そして殴ったカタリナの拳もまた、硬質な鱗によって切れたのか血が流れ出す。

「負けたくせに、一丁前に意見述べてんじゃないわよ。制された者は、制した者に従う。それこそが対峙した二者の間にある、ただ一つの不問律よ」

 なんとも理不尽な物言いだが、しかしそんな屁理屈ではこの事態を到底納得することなど出来ない。
 そう考えたグゥエインは、再び睨みつけるようにカタリナを見た。

『それでも抗えぬ宿命は、ある。我らはその理の中で生きているに過ぎぬのだ』
「・・・生憎私は、それが本当に抗えぬ宿命なのかどうかをこの目で確かめるまで、納得なんてする気はないわ。だから」

 まだ利用していない薬瓶を足元から拾い、その中身を手の甲に垂らしながら、カタリナは言った。

「だから、一緒に来なさい、グゥエイン」
『・・・何を・・・何を世迷い言を・・・。そもそも竜と人とでは何もかもが違・・・』
「違わないわよ」

 相手の言葉を遮るようにはっきりと言いながら、カタリナは薬瓶の残りを、今しがた自分で殴り飛ばしたグゥエインの頭部に乱暴に振りかけた。
 それは瞬く間に魔術的効能を伴って竜の傷口に染み込み、そこに癒しを齎していく。

「・・・ほら、こうして私にも貴方にも傷薬、ちゃんと効くじゃない。それに貴方と私は何方も目は二つで鼻と口は一つだし、手足も四本で一緒。まぁ図体の大きさとか翼の有無とか細かい違いあはあるけれど・・・何より、この世界に住まい、この世界が強いる宿命とやらに翻弄される存在であるという意味では、何も変わらないわ」

 言っていることは、あまりに大雑把で無茶苦茶だ。
 無茶苦茶でしかないのだが、しかし己の命運を握られたグゥエインには、反論する材料がない。

「私は、気に入らないことには抗う主義なのよ。確かに世の中には多くの不条理が蔓延り、それに従わざるを得ない人々もこの目で見てきたわ。でもね、だからって自分も無条件でそれに身を委ねるなんてのは、真っ平ごめんなの。この身に不条理な宿命が降りかかるというのであれば、それを真っ向から斬り伏せに征く」

 およそ騎士らしからぬその言動に、グゥエインは最早呆れを通り越して諦めの境地に達しようとしながらカタリナを見つめた。
 その視線を受け、カタリナは真っ直ぐに見返しながら続けた。

「だから貴方も、暫く付き合いなさい。無論、私に負けたんだから異論は認めないわよ」

 両の手を腰に当てがい、仁王立ちで言い切る。
 グゥエインはその言葉には只々呆れるばかりで、よもや人と竜とはこうまで精神構造が違うものなのか、と思ったものだった。
 だが、それこそが人の進化というものであるのかもしれない、とも考える。
 竜とは違いこの三百年で何世代にも渡って歩みを連ね、そして、この世界の宿命をすら超えようとするもの。
 それが、人間という生物なのかもしれない。
 そう考え直したグゥエインは、ゆっくりと瞬きをした後、静かに首を垂れた。
 その行動が意味するところを理解したカタリナは、その鼻先にゆっくりと手を置き、不敵に微笑んでみせる。

「安心なさい。ロアーヌ軍はばっちり三食昼寝付き。そんな悲観するほど悪い待遇じゃあないわ」

 後の世に数多の吟遊詩人が競って歌い上げたという、パウルスの予言に導かれし八つの光の英雄譚の中でも、屈指の人気を誇る語り詩。
 この世界で、後にも先にも唯一人となる、竜騎士の誕生。
 これが、その瞬間であった。

 

 

前へ

章目次へ

目次へ

第八章・5 -夢語りのシェヘラザーデ-

 

 松明の明かりを頼りに長い階段状の岩肌を慎重に降りていった先には、自然の洞窟とは思えぬ程、いかにも不自然に何者かによって踏み整えられたような平らな足場が広がっていた。そしてその足場に立つと同時に、酷く焼けつくように肌に纏わりついていた空気が一気に重苦しさを増していくのを、カタリナは確かに感じていた。

(・・・この重圧、まるで四魔貴族に相対するかのよう。これが世界に名高い竜の気配か・・・)

 最早この奥にグゥエインがいるであろうことは明白であり、カタリナは空間が思いの外広々としており動き易さがあることに胸を撫で下ろしながら、いざという時のための算段を頭の中にいつくか思い浮かべつつ、気配の濃くなっていく方へと進む。
 すると程なくして、これまでは松明の明かり以外に全く頼るもののなかった暗黒の視界の中に、ふと煌く光の筋がいくつか見えてきた。

「・・・奥に、何かあるわ」
「・・・そのようですね」

 小声でフェアリーと囁きあいながら慎重に光の方へと進んでいくと、やがてその光の正体は、洞窟の天井に空いた穴から差し込む陽光に照らされた大量の貴金属だということが分かった。
 そして同時に、その後ろに『在る』ものへと強制的に視線が移る。
 そこには、煌びやかに輝く膨大な量の貴金属類にて積み上げられた小高い丘の上に、陽光を浴びながら四肢で鎮座し首をもたげてカタリナ達を見つめる、一頭の雄々しき巨龍の姿が在った。
 ある種の神々しさすら纏ったその姿を、カタリナは固唾を飲みながら視界に収める。
 竜の外皮部分は如何にも頑強そうな鈍色の鱗に覆われているが、首筋から腹部へと向かう部分は仄かに燃える炎の色をしている。
 その全身はカタリナの優に数倍はあろうと思われる大きさであるものの、しかし鈍重な印象は一切受けられない。寧ろ外皮の色彩と相まって、その姿は一振りの鋭利にして巨大な剣を思わせるようだった。
 そんな感想を抱きながらカタリナが竜を見ていると、ほんの一瞬、互いに視線が交わる。
 すると竜は、まるで来訪者たちを歓迎するかのようにその両翼を大きく開いて後ろ立ちになり、そのままゆっくりとカタリナを真正面に据えるように姿勢を変えて座り直してみせた。
 広げてみれば外皮とは全く異なる美しい深紅の翼が織りなす竜の姿は、まさかこの存在が世間に忌み嫌われる悪竜であろうことなど全く信じられないかのように神々しくすら思われ、またその姿でどうしようもなく追憶の念にも駆られ、カタリナは暫しその姿に意識を奪われたのだった。
 すると言葉を紡げずにいたカタリナの前にフェアリーが先ず飛び出し、竜の頭部の真正面まで飛び上がりながら、竜へと語りかけるように見つめる。元々の予定通り、先ずはフェアリーから念話での意思疎通を図ろうとしたのだ。
 だがその行動に反応した竜は、フェアリーの言葉をかき消すように、大きく鼻息を吐いた。

『良い。人語は交わせる』

 陽光に照らされるその外皮を僅かに震わせ、竜の声が空間に響く。その声は想像していたよりも若く精力旺盛なようにも聞こえ、また老成した賢人のようにも聞こえる。人では出すことができぬであろう、不思議な声色だった。

「・・・ここまで導いてくれたのは、やっぱり貴方だったんですね」

 竜の言葉を受けて頷いたフェアリーが声を上げると、竜はそれに答えるようにして視線を細めた。

『人間だけで来ていたのならば、単に『帰れ』としか言わなかっただろうがな。我が住処に妖精族の来訪など、三百年生きてきた中でも初めての経験だ。こんな機会を逃す手はあるまい』

 竜はちらりとカタリナへ視線を投げかけると、フェアリーへと向き直ってそう言った。
 その様子からカタリナは、どうにも自分が殆ど相手にされていない様子であるを察して大変に不服に感じる。が、しかしてそんな事もあろうかとフェアリーに同行してもらったのは矢張り己の賢い選択であったと思い直した。更には相手が人語を解し操ることができることは正に僥倖であると判断し、カタリナも負けじと一歩前に出る。

「私はロアーヌの騎士、カタリナ=ラウランと申します。貴方が・・・ドーラの子グゥエイン、ですね」
『・・・如何にも。我が母はドーラであり、我こそがグゥエインだ。人間よ、妖精族を連れ、一体ここに何をしに来た。まさかその矮小な体一つでこのグゥエインを討伐し、我が財宝を奪いにでも来たか?』

 まるでせせら嗤うかのように口角を震わせながら、グゥエインが言葉を発する。その言葉と共にグゥエインから発せられる圧が目に見えるように上昇し、思わず体が勝手に臨戦体勢に移行しようとする。それを理性で懸命に抑え付け、カタリナは首を横に振って見せた。

「いいえ、そのような用件ではありません。私は、かつて聖王様が辿ってきたであろう道を歩み、貴方と話をする為にここまで来ました」
『・・・聖王。我が母を滅せし者の道を辿ってきたとなれば、矢張り我を滅しに来たということではないのか?』
「わた・・・!・・・いえ、聖王様は・・・決して望んでドーラを滅したわけではありません。ただ・・・今はそのような話をしに来たわけでも、ありません」

 不意に訪れた大きな感情の揺らぎに、思わずカタリナは眉間を摘むようにして頭を押さえる。今までにないほどの記憶の混濁に軽い目眩を覚えながらも、それを振り払うように軽く頭を振ってからカタリナはグゥエインへと向き直った。

「・・・私は今世界に再び訪れている未曾有の危機に対し、この世界に住む者同士として此れを共に乗り越えたいと願い、ここに馳せ参じました」

 言葉と共に自らに敵意がないことを示すかのように両手を広げて見せ、カタリナはグゥエインを見上げながら続ける。

「確かに聖王様は、貴方の母を討ちました。故に私達人間を憎む気持ちがあろうことは、理解しています。そしてまた我々人間も、数多の同胞を貴方に喰いちぎられました。故に我々の中にも貴方を忌む者がいるのも事実です。ですが・・・それでも今この時に於いては、四魔貴族という共通の敵を討ち果たす為、我々は今一度手を取り合う事が出来るのではないかと、私は信じています。どうか、貴方の言葉をお聞かせ願えませんか」

 カタリナの口上を静かに聞いていたグゥエインは、まるで何事もなかったかのように翼の付け根部分を口先で掻き、そしてカタリナに向き直った。

『・・・アビスゲートは開き始めているが、魔貴族自身が通り抜けてくるには小さすぎる。それで奴らは、おのれの影をこの世界に送りこんできている。宿命の子を見つけだし、ゲートを完全に開くつもりだ。そうなれば、ゲートを閉じることは出来なくなる。今のうちということだ』

 グゥエインの語る言葉にカタリナとフェアリーが目を瞬いていると、グゥエインはまるで人が笑うのと同じような仕草で口元を歪め、火炎混じりの息を薄っすらと吐き出した。

『・・・確かに、母ドーラは聖王と共にビューネイを倒した。そして最後には聖王に殺された。人間とは勝手なものだ。だが、それを我は特にどうとも思わぬ。竜と人とは、予めそういう宿命であると我は解している』

 グゥエインが淡々とそう語るのを聴きながら、カタリナは何故だか胸が強く締め付けられるような想いに駆られるのを感じていた。それは果たして聖王の記憶が齎す感情であるのか、それとも自分の心からくるものなのか。その判別は、彼女にはつかない。
 竜は語りを続けた。

『我は四魔貴族共がアビスゲートを開こうとも、貴様ら人間が憎しみに駆られ我を討伐しに来ようとも、何れも一向に構わぬのだ。それもまた、その者たちが持つ宿命なれば。だが・・・この世界の空に君臨するべきは、誇り高き我ら竜。ビューネイが我が物顔でこの空を飛び回るのはガマンならん。協力してやってもいいぞ』

 グゥエインのその言葉にカタリナが目を見開きながら一歩歩み出ようとするが、しかしグゥエインはそれを羽ばたく風圧で制した。

『協力はしてやってもいい。が・・・其れには先ず、貴様が我の協力者足り得るのか、その実力を試させてもらおう』

 ただそれだけ言うと、徐にグゥエインは足元の金貨を撒き散らすように力強く四肢で立ち、その圧倒的な力を示さんが如くカタリナを視線で射抜いた。
 その姿をみたカタリナは、むしろ好都合とばかりにふっと笑みを浮かべたかと思うと、ここまで抱えてきていた荷を脇に下ろして聖剣マスカレイドを抜き放つ。そして隣まで下がってきたフェアリーに控えているように伝えると、グゥエインに正面から対峙した。

「戦うつもりで来たわけではないけれど・・・貴方がそう言うのならば、示さぬ訳にはいかないでしょうね。私が貴方と共に戦うのに相応しいか、判断を願うわ」

 

 

 世界中が新たなる年の幕開けを間近に控えたその日、メッサーナ王国首都ピドナの新市街を見下ろすピドナ王宮内部にて開かれた各国要人を招いての年次会議は、ここ数年で最も波乱を予感させる様相を見せたのであった。
 この会議終了直後には瞬く間に様々な情報筋を通じて世界中に会議の様子が広まっていったのだが、何しろその内容というのは、まさに近年のメッサーナ界隈の政治的な均衡を一気に崩しかねない程のものとなった。
 歴史上三度目の死蝕直後に、現在までで最後のメッサーナ王となるアルバート王が崩御し、そこから十年を超えて今も続いている王国の内乱。その中で、旧アルバート王の系譜にて最大派閥であり五年前にルートヴィッヒ軍に破れる形で没落したはずのクラウディウス家。そのクラウディウス家がなんとこの度、宮廷内の中央政権に復帰するという事実が会議の冒頭で大々的に示されたのだ。
 しかもその当主には、今現在で最も市井の支持を一身に集めている、前近衛軍団長クレメンス=クラウディウスの一人娘であるミューズ=クラウディア=クラウディウスが立つことも同時に会議内で発表された。
 とはいえ、ここまでの内容は遅かれ早かれあり得ることであろうとは、既に世論の一部では囁かれ始めてもいた。
 その背景には、直近でのルートヴィッヒ政権の急激な求心力の低下がある。
 元より武力侵攻を発端とした血生臭い政変によって誕生したルートヴィッヒ政権は、リブロフ以外の殆どの各都市軍団長からその存在を受け入れられてはいなかった。しかしピドナの実効支配直後から彼が行ってきた中央集権を強固とするための様々な駆け引きや政策に他軍団長は個別に対抗する術を持たず、かといって横の繋がりも希薄な彼らは結局のところ、この五年間真綿で首を絞められ続けてきたのだ。
 それが、数ヶ月前に起こった神王教団ピドナ支部崩壊事件を発端とするルートヴィッヒ政権への不信感の上昇で、急に風向きが変わった。
 奇しくもこの事件の半年ほど前から、ピドナの名門メッサーナベント家が出資し旧クラウディウス商会所属の企業群を母体とした「カタリナカンパニー」の経済界台頭が大きく世界に報じられており、大規模な商いを行う貴族の間では事件による現政権への不信感の上昇と相まって、クラウディウスの系列が何かしらの形で復活するのではないか、とは実しやかに囁かれていたのであった。
 そして二月ほど前に起きた商都ヤーマスでのドフォーレ商会壊滅事件にて、いよいよ満を持してクラウディウス家の直系ミューズが大々的に事件解決の立役者として表舞台に立ち、これも瞬く間に世界に報じられた。
 これによりクラウディウスの復活を望む世論は、一気に過熱膨張していったのだ。
 故にクラウディウス家の政界復帰ということ自体は、ある意味で世間が望んだ通りの展開であるとも言える。
 問題なのは、復帰と共に示された今後の動きについてだった。
 曰く。

『クラウディウス家はルートヴィッヒ軍団長と歩みを共にし、今世界に訪れようとしている危機にメッサーナの総力を上げ立ち向かう所存』

 このように、会議で発表が為されたのである。
 これには各国の要人等も大きく驚愕した。これでは、まんまとクラウディウスがルートヴィッヒに飲み込まれただけの形になってしまったからだ。
 世論が待ち望んだ革命は為されず、ルートヴィッヒ一強体制が更に強化されるだけだと言うことになる。
 誰もが、そう感じた。
 だがこの事態を一層混迷極めさせる内容が、クラウディウス復活に伴っての具体的な今後の活動についてだった。
 先ず告知されたのは、復帰に伴う旧クラウディウス家領地の返還と、そして故クレメンス卿の名誉復活を意図としたであろう記念碑の市内建築。ここ迄は単にクラウディウスに気を回したかのような内容だったが、その後に行われた宮廷の活動方針説明を中心的に語ったのは、なんとルートヴィッヒではなく、ミューズだった。
 彼女の口から発表されたのは、現在ピドナの東方に位置する同盟国家ロアーヌ侯国にて展開されている、推定四魔貴族軍とロアーヌ軍の戦線への経済的支援の即時実施だった。
 これは現在の国際世論にとって最も取り扱いの難しい話題であり、迂闊にこれに触ることは一国の立場ですら、ある種のタブーであるというような空気感で扱われていた。
 なにしろ昨今のアビス勢力による蹂躙は、世界の予測を超えて多岐にわたり大きな被害をもたらしているのだ。そんな話題に対し今世間で最も求心力のあるミューズが力強く宣言した内容は、正に「アビス勢力への徹底抗戦」であった。
 この宣言には、大きな響めきが会議全体を支配した。
 そして次には、ミューズに対する抗議の声でその場は溢れかえったのだ。
 世界最大の王国メッサーナがアビスへの交戦意思を見せるとなれば、これに対するアビスからの報復は文字通り全世界に波及するとして間違いないだろう。そのような世界が確実に流血を伴う決議を正式なコングレスなく突如として宣言した新参のミューズに対し、その場に参加していた面々は当然のように声を荒げた。
 だが、その直後に発せられたミューズの言葉に、その場の全員は押し黙らざるを得なかった。

「認識してください。既に、この世界はアビスによる攻撃に晒されています。これは最早、他人事ではないのです。例えば私が立ち会ったドフォーレの事件は、魔物が既に都市部の人々の暮らしにまで入り込んでいた証拠に他なりません。また、ロアーヌが狙われたのは現戦線が初めてではなく、年始にあったゴドウィンの変自体がアビスの手のものが黒幕となり、裏で糸を引いていたものでした。更に言うならば、ピドナにて春先に起きた『予兆』。これこそ皆様も聞き及んでいるはずです。私はこの予兆に、間近で立ち会いました。その時に現れた悍ましきアビスの魔物は、四魔貴族の復活を明確に示唆しました。そして先月・・・ついに本格的な魔貴族の侵攻が、西の都市、バンガードで起こったのです」

 そうしてミューズがその場に出したのは、魔術師が写したと思しき一枚の写真だった。
 そこには、大地が強引に引き裂かれたかのような様相で険しく切り立った崖と、その先の海面に浮かぶ巨大なバンガードの全景が映し出されていた。
 陸続きのバンガードしか知らぬ彼らの常識の中には一切ない、まるで天変地異でも起こったかのような異様な光景を映し出すその写真を見て大いに響めく面々を前に、ミューズは再度声を張り上げた。

「私には、勝算があります。既に聞き及んでいる方も中にはいるかも知れませんが、四魔貴族のうち、二柱をアビスへと追い返すことに我々は成功しています。バンガードを襲った魔海侯フォルネウスの討伐には、私も同行しました。この写真は、その時に起動した聖王様の作りし伝説の移動要塞バンガードのものです。そして今、魔貴族の二柱をその手で退けた英傑が、ロアーヌ南東のタフターンに巣食うとされる魔龍公ビューネイの討伐に向かっています。ロアーヌの戦線は、それが成し遂げられるまで持たせればいいのです。またロアーヌの復興を迅速に補助することで、我々には一切の隙なしとアビスに知らしめ、二次被害の拡大を防ぐこともできます。既に戦は、始まっているのです。いつどの国が巻き込まれても、おかしくないのです。ならば一刻も早く終わらせねば、被害は拡大するだけ。どうか各国の英知と勇気の、一致団結を」

 その会議に集まった参加者の一人は、後にこの時のミューズの姿についてこう語ったという。

『他の参加者に比べ年端も行かぬ娘でしかないはずのミューズ殿だが、しかし皆を導かんと力強く声を上げるその姿は、はっきりと往年のクレメンス卿を感じさせた。その場の誰もが彼女の言葉に耳を傾けその言葉を受け入れたのは、決して後ろに控えていたルートヴィッヒ卿の影響というだけではないだろう』

 彼の言葉の示した通りに、ミューズの力強い言葉を以ってその場の全員の意思は固まった。魔物の被害は既に各国間の流通にも大きく被害を与えており、遅かれ早かれ手を打たねば国が衰退することは誰もが感じていたところではあったのだ。
 この後は、大まかな今後の行動計画が示された。まず今回の作戦で実際に物資の収集や運搬等の実務を行うのはカタリナカンパニーが中心となって担い、財源や物資は近衛軍団が主に現在備蓄から提供する。なのでこの場に集まった各国代表には、これに関わるオーダーがあった際の優先的な物資融資をお願いしたい、という程度に留められ、それには反対するものはいなかった。
 そして、ここで殊更大きく世間を驚かせたのは、その財源や物資の出どころと共に、カタリナカンパニーがその存在感を大きく世界に知らしめた要因でもある『フルブライト商会同盟』の破棄をその場で宣言した事だった。
 ここに関してはカンパニーを代表して会議に出席していたトーマス=ベント副社長が議中で言及しており、世界経済の一致団結をする上で最も合理的な選択が取引の限定化を招く同盟からの独立であり、これにより同盟に囚われない多方面との連携や取引が可能となる、とのことだった。
 また同盟の破棄により特段カンパニーがピドナ王宮と密接につながる訳ではない、との見解も同時に示した。これは、どこか一部との密接な関わりこそが経済の停滞を招くのだ、というトーマスの主張を殊更に強調させる格好となった。
 更には同様の事態が今後も起こることを想定し各国各地からの多方向即時支援を可能とするため、来期に施行予定であった鉄鋼類への特定品目追徴拡大(作者注:第四章参照)の無期限見送り・・・つまり、実質的な廃止が発表された。
 この知らせには主に各地の軍団長が大いに響めき、そして大いに歓迎した。近年において最も各国軍が殺気立っていた主たる原因となる制度の施政破棄が示されたことで、殊更軍団長等はこの結果を導いたミューズに称賛を送り、勇み喜んでの協力を申し出ることとなる。

 例年であればこの会議以降は連日の宴が催されるのが通例であるものの、今回に至っては世界的な有事とのことで、不安を与えぬよう市街地でのみ通常開催とし宮廷内では明日以降の宴席は控えるように通達がなされ、本会議は解散となった。
 即座に会議での内容を行動に移すとし他国参加者に先んじて一人慌ただしくその場を後にしたトーマスは、そのまま誰と接触することもなく真っ直ぐに早足で宮廷を後にした。
 そして丁度入り口の門を潜り出たところで、衛兵と世間話をするようにしながらその場に待っていたポールと合流する。
 そしてそのまま何気ない様子で会話を交わしながら少し離れて衛兵と距離を取ったところで、トーマスは視線を鋭くしてポールに語りかける。

「・・・参加者は事前情報通り、十七人だ。名簿通りだね」
「了解。んじゃあこっちはこっちで始めるとしますかね」
「ああ、頼むよ。俺もロアーヌへの諸々支援手続きが終わったら直ぐそちらに合流する」
「畏まり。それまでに何かしらは掴んでおきますぜ、副社長」

 短く、互いにそれだけの会話を交わす。するとポールは曲がり角を曲がって衛兵から姿が見えなくなったところで、するりと路地裏に姿を消してしまった。
 それを横目に見届けたトーマスは、ふと立ち止まって宮廷の方へと振り返る。
 宮廷内に残ったミューズと護衛のシャールは、これから各国要人らと軽く懇親会が催されるのでそれに参加する予定だ。流石に一介の商売人でしかない自分がその場に居合わせるわけにも行かないので、そこでの首尾は彼女に任せるしかない。
 だが、先ほどの会議での発言の様子を見ている限り、問題はないだろうとトーマスは踏んでいた。

(年の始め頃に旧市街でお会いした時は病弱さも手伝い、まさに『深窓の令嬢』といった様子だったが・・・。この一年で彼女も、五年・・・いや、六年前の呪縛から解き放たれ、その身に背負った宿命と向き合うことで急激な成長を促されたようだ。おじいさまの言いつけがこれで果たされたのかはまだ決まったわけではないだろうが、一先ず心配はないようだな。まぁ、とは言え相手はあのルートヴィッヒ軍団長だ・・・あの方はどうも、計り知れないほどの何かを感じる。油断はせずにいかないとな・・・)

 一頻り物思いに耽った後、トーマスは気を取り直して商業地区へと姿勢を向け、深呼吸をする。この後は、彼も寝る間も惜しんで各種物資の調達計画と即実行へ向けた調整を行わなければならない。相応の気合を入れねば、対処できない物量だろう。

「さて、集中しないとな。ここからまた暫くは慌ただしくなりそうだ」

 そう自分を奮い立たせるように言い聞かせると、急ぎ足で歩き始めた。

 

 

 温暖な気候のトゥイク半島東岸に位置し、南西に広がる密林からもたらされる豊かな実りや南東のナジュ砂漠との交易を中心に栄える、交易都市リブロフ。
 多彩な気候特性からなる様々な特産品と共に西のウィルミントンにも負けず劣らず芸術文化発信地としての顔も持つこの都市では、今や世界三大商家にも数えられるラザイエフ商会を筆頭に様々な企業が集まり、またピドナのルートヴィッヒ軍団長とも比較的良好な関係値を築く事で堅実な成長を遂げていた。

(・・・全く、ここは相変わらず呑気なものだな)

 実に十年近くぶりにこの都市の土を踏んだハリードは、自身の記憶にある十年前と殆ど変わらずの豊かな街並みを『呑気』と表現しつつ、どこか冷めた目で見回していた。

(ここも、本当はあまり来たくない場所だったがなぁ・・・)

 そんな事を自身こそ呑気に思いながら、とても見覚えのある道を歩く。
 リブロフの港に降り立ったと思えば早速情報収集に向かうと言い出したエレンと合流場所の宿だけ決めて別れたハリードは、どうしたものかと思案した後に、特に自分にはすることなどないのだということに思い至り軽い絶望を味わい、そして当てもなく歩き出したのだった。
 しかし、それがかえって良くなかった。
 こうして当てもなくゆっくりと歩き出すと、その視界に入ってくる様々なものが、彼の脳裏に眠っていた多くの過去の光景を呼び覚ますのである。
 彼にとってこのリブロフという街は、それほどに思い出が、ありすぎるのだ。
 なにしろハリードという男は、このリブロフという街に、まだ十代の若かりし頃から頻繁に通い詰めたものだった。
 ゲッシア王朝の王族の一人として生を受けたハリードは若き日の頃、有り体にいってしまえば旧態依然とした王朝の様相に、言いようのない窮屈さを感じていた。
 勘違いはしないでほしいが、彼は自身の生まれや待遇に不満があったことなどは全くなかった。
 王位継承権は下位ながらもゲッシア王族としての宮殿暮らしには一切の不自由もなく、その身近には心から愛するファティーマ姫がおり、また建国の英雄アル=アワドに憧れて始めた剣の修行も、とてもやり甲斐がある。
 つまるところ、彼はとても充実した生活を送っていたのだ。
 だがその一方で、歴史を見返せば見返すほどに建国からこの三百年の間に大きな変化のないゲッシアの日常は、若く好奇心に溢れた彼を十分に満足させるには至らなかったのも事実だった。
 そうして必然的に彼は外の世界に強い興味を持ち、当時の数少ない貿易相手である隣国リブロフへ、何かと理由をつけては出向くようになっていた。
 当時すでに貿易都市として世界的に名が知れていたリブロフでは、ピドナほどではないにせよ実に多くの文化の流通があった。それらの多くはゲッシア内部に流入してくることはなく、故国の中にいては知ることができないものばかりで、そして彼の興味を大いに引き立てるものばかりだったのだ。故に彼は自分の好奇心を大いに満たすことにすっかり夢中となり、リブロフへと足繁く通った。

(・・・彼奴に会ったのも、その時だった)

 そうして何度もリブロフへと出向いている最中で、ハリードはある時、一人の青年騎士と出会った。
 青年はルートヴィッヒという名前で、年も自分と近いこともあり、お互い直ぐに意気投合をした。
 騎士ルートヴィッヒは地元のリブロフ軍団に所属しており、元は騎士の家柄というわけでもないところから一念発起し、軍に志願したのだという。もう既にその時点で、人が生きる道の全てが生まれや血筋で決まるゲッシアからすれば考えられないような世界であり、そのような可能性に溢れる外界への興味は加速度的に増していった。

(・・・あの頃はルートヴィッヒと毎日のようにこのリブロフ中を駆け回ったものだ。彼奴をゲッシア宮殿に招いた時も、宮殿内の保守派の爺様達には随分と苦い顔をされたものだったな)

 単なる部外者を宮殿内に立ち入らせることなど、ゲッシアの常識には全く有り得ないことであった。
 故に一見そのようなことは全くの不可能のようにも思えたものだが、意地になって諦めきれなかったハリードはなんと王朝のそれまでの歴史を隈なく調べ上げ、その中で遂に類似の過去の事例を発見し、ルートヴィッヒと『義兄弟の契り』を結ぶことで半強制的に身内とし、彼の宮殿内への出入りを可能とした。
 宮殿内でルートヴィッヒはハリードの予想通りファティーマ姫とも直ぐに意気投合し、王宮ではよく三人で行動を共にしたものだった。
 あの頃はそう、彼の人生の中で、最も充実していた瞬間だったのかも知れない。

(・・・くだらん)

 いくつもの街の光景から思い起こされる様々な望郷の念を振り払うようにしながら、しかしハリードはそれでも自然と彼の知る場所へと足を向けてしまう。彼の体が、彼の向かう場所を覚えているのだ。
 中央の大通りを城門のある南に下り、突き当たったところを大街道へ続く城門がある西方面とは反対の南東に向かって伸びる小道に入り、道の両側にうず高く積み上げられた色とりどりの煉瓦で作られた細く緩い階段を下っていく。
 世間的にはかなりの高身長であるハリードであっても空しか見えないその階段道を暫く下っていくと、やがて突如として視界が開け、開放感のある小さな展望広場にたどり着く。
 そこは切り立った小さな崖に作られた場所で、晴れた日にはそこから南東のアクバー峠を一望できる隠れた絶景の名所なのだ。
 その展望広場には、シェヘラザーデという名の小さな店がある。そこはナジュの血を引く女主人が切り盛りする酒家で、彼女の語る古いナジュ地方の物語を夜毎客が杯を傾けながら静かに聞き入る、これも地元ではひっそりと名の知れた場所だ。
 彼がここに通い詰めたのも十年以上も前のことだが、こうして無意識のうちに足を向けると矢張りそこには、その馴染みの店が十年前と変わらぬ姿のままあった。在りし日から変わらぬ懐かしい光景にハリードは思わずうっすらと笑みを浮かべながら、カランと鈴の音を立てて店の戸をくぐる。
 ナジュ名産の織物を基調として作られた六席程度の小さなカウンターと二人掛けのテーブル席が二つほどあるだけの小ぢんまりとした店内の様子も、カウンターの中でゆっくりと水煙草を蒸している女主人の有様も、その水煙草独特の心地よい香りで満たされた店内も、まるで十年前そのままだ。
 思わずハリードは、ここは時が止まっているのではないかと勘違いをしてしまうところだった。
 店内にはカウンター席に客が一人いるだけで、他には女主人だけ。まず女主人と視線が絡み、彼女はハリードのことを見ると、ほんの少しだけ視線を細めた。その瞳は怪訝な様子のそれではなく、どこか愛おしみ、慈しむような光を奥に宿している。
 そして次に、他の来店客が物珍しげでもあるかの様子でカウンターから此方へと視線を遣した客の男が、ハリードの顔を見たことで見る見るうちに驚きの表情へと変わり、遂にはガタリと席から立ち上がった。
 そして驚いた表情を崩さずそのままに、大きく口を開く。

「ハリード様!」

 男は、これまた特徴的な砂漠の民の格好をしていた。年の頃は五十あたりに差し掛かろうかというところか。その顔に深く刻まれた皺が、強烈な日差しの中で生きる砂漠民特有の年輪を感じさせた。
 そして何よりその男の顔を見た瞬間に、ハリードも思わず破顔する。
 彼は、まだゲッシア王朝が存在していた時に宮殿によく出入りしていた、王国のお抱え商人だったのだ。十年の時が過ぎたことで多少は老け込んだようにも見えるが、それでもこの顔は忘れない。何しろハリードが外の世界に興味を持つきっかけを与えてくれたのは、彼が宮殿内に齎す様々な異国の品だったからだ。

「おお、久しぶりだな。元気にしているか?」
「はい。ハリード様もお元気そうで何よりです」

 そのままハリードもカウンター席へと腰掛けると、女主人は無言で彼の前に木製の杯を出し、陶器に入った酒と水を順番に注ぐ。すると単体では透明だった酒が水と混ざることで白濁し、独特の色合いを示す。
 これはアラックと呼ばれるナジュ地方で古くから作られる蒸留酒で、この店には基本的にこのアラックしか酒は置いていない。最も、このアラックにもしっかりと等級があり、この店で出されるアラックは品質が良い。均等な白濁は、品質の良いアラックでしか見られないのである。
 続いて突き出されるメゼと呼ばれる前菜も、この店ではおなじみのくるみと唐辛子のペーストだ。思えばハリードはこれにどハマりして、足繁くここに通い始めたのだった。
 この店は、本当に十年前となにも変わっていないのだなとハリードは思う。そうして杯を傾けメゼを摘み、久しぶりに再開した商人の男とこの十年のことなどを語り合った。
 そうして幾度か杯を空にしたところで、ふと会話が途切れたところに男は、思い出したかのようにハリードに語りかけた。

「そういえばハリード様、ファティーマ様が生きているという噂をご存じですか?」
「・・・!?」

 突然のその言葉に、ハリードは思わず杯を傾ける手を止めて目を見開く。そして、直ぐにそのような反応をした己を蔑むように口の端を吊り上げて笑い、杯の中身を一気に飲み干す。

「噂ではファティーマ様が諸王の都にいるというのです。ハリード様は諸王の都の場所をご存じのはず。もしも、噂が本当なら・・・」

 続いて発せられた男のその言葉を聞いて、ハリードはもう一度口の端を吊り上げ、もう一杯を女主人に催促する仕草をしながら男に語り返した。

「あそこは生きている者の行く所ではない。ただの噂だ」

 諸王の都とは、ゲッシアの英雄アル=アワドを初代とした歴々の王族たちの眠る、神聖なるゲッシア王族の墓所・・・所謂ネクロポリスだ。歴代の王が愛用した多くの品々なども共に眠ることから盗掘の被害を警戒し、その場所はゲッシア宮殿のなかでも直系の王族と、王族に近しい極一部のものしか場所を知らない。
 ハリードは王族故に確かにその場所を知ってはいるが、しかしナジュ砂漠の中心地である旧ゲッシア王朝首都にして現在は神王の塔が立つハマール湖の辺りからある特定の時間帯の陽の光を目標に出発することで導かれる諸王の都には、その過酷さから相応の準備をせねば辿り着くことが抑も困難を極める上に、その近くには真面な水源もなく、辿り着いても帰ることがまた困難なのだ。
 それでもそこにゲッシアの王族が命がけで向かうのは、同じく王族の誰かが没し、その身を埋葬する時のみ。
 文字通り、生きている者のいく所ではないのだ。
 それを知っているからこそ、ハリードは目の前の男の話を笑い飛ばす。だが目の前の男も歳のせいか涙脆くなっているようで、昔の話をしてはその栄華を懐かしみ、今はもう無き故郷を思って瞳を潤ませる。そして、一頻り話した後に男は、こういうのだった。

「仮に居ないのならばそれはそれ。ですがこの噂を確かめられるのも、今はもうハリード様だけなのです。ぜひ、諸王の都へ!」
「全く、酔いすぎだぞ。昔よりも酒が弱くなったのではないか?」

 ハリードはどうやら同じ話を繰り返すようになってきた男を宥める様にしながら、自分の杯の中身を飲み干して女主人に勘定を渡した。

「すまないな、今日は王妃の昔語りを聞くほど時間がない。連れがいるものでな。また寄らせてもらおう」

 女主人にそういってから男にも別れの挨拶をし、懐かしの店を後にする。
 外に出ると、もうすっかり陽が落ちていた。どうやらそれなりの時間、この店に居た様だ。
 展望広場で軽く風に当たると、直ぐにきた道を戻って中央通りへ向かう。
 それなりの時間シェヘラザーデに居たので酒の量もそこそこ飲んだはずなのだが、どういうわけか全く酔えないでいる。それもこれも、きっと商人の男がつまらない話をするからだ。

「姫が‥‥生きている‥‥」

 ハリードは自分でも気付かぬ間の無意識にそう呟き、次にはそんなことを言ったことすら忘れた様子で、あとは無言で道を戻っていった。

 やがてどの程度の時間を歩いていたのかも定かではないうちに、気がつけば彼は本日の宿泊場所であるホテルリブロフへと辿り着いていた。ちなみにこのリブロフには同じ名前の宿が何箇所かあるのだが、その中でもハリードが選んだのは最も質素な、あわや民家かと思うほどの規模のものである。
 そしてその宿の入り口の前では、これ以上にないほど分かりやすく憤慨の表情を浮かべたエレンが仁王立ちしながら、歩いてきたハリードを睨みつけていたのだ。

「ちょっと!随分と遅かったじゃないの!」
「ん、ああ、すまんな」

 時間の感覚があまり無かったのかハリードはそんなに悪いとも思っていない様子で、一言そう言った。それは普段ならばたっぷりとエレンの怒りの火に油を注ぐ言動のはずだが、しかしどうしたことかエレンは額に青筋を立ててはいるものの、それ以上の追求をする様子はなかった。
 その代わりエレンはつかつかとハリードの前まで歩み寄ると、至近距離からハリードの顔を見上げる。
 そして、唐突にこう言い放つのであった。

「ハリード、あたしをあんたの故郷まで連れていって。嫌とは言わせないわ」

 

 

前へ

次へ

章目次へ

目次へ

第八章・4 -駆け落ち?-

 

「カタリナさん、あそこに洞窟の入り口らしきものが見えます・・・!」

 頭髪と思しき部分が無数の蛇で構成された悍しい半人半妖の姿の魔物を斬り捨てたカタリナは、慣れない高所での連続戦闘に息を切らせながらフェアリーの言葉に従って、指差された方角へと目を向ける。するとその先には、確かに山肌に唐突な穴がぽっかりと口を開けている部分があった。

「やっと入り口ね・・・。全く、もっと通行の便を考えた場所に用意してもらいたいものだわ・・・」

 よもや人が来訪することなど、さしもの悪竜も想定外であろうことは当然わかってはいるものの、この過酷な状況には毒吐かずにはいられない様子でカタリナは剣の汚れを振り払いながら呟いた。
 二人が麓の宿場町を発ってから、凡そ五日ほどが経過していた。
 登山の嗜みなど当然ないカタリナは宿場宿の主人から女子供だけでの登山を強く止められたが、それでも行かぬわけにはいかないからと無理やりに今は使われていない荒れ果てた登山道跡を聞き出し、また平時に狩人や鉱夫らが使っていたという中間キャンプ地を経由して高い標高に体を慣れさせつつ、ここまで辿り着いていた。
 確かに空気は平地よりも格段に薄く、この酸素濃度に体を適応させるために時間を費やすことになったのは非常にもどかしかったものだが、一方で幸いなことに、このルーブという山はこれほどの高所にあっても、驚くことに全く寒くなかった。
 近年で噴火の知らせがあったわけではないものの、このルーブ山は今も活動を続ける活火山であり、比較的地面から近い部分に溶岩流があると推定されている。そのため、山肌は思った以上に暖かさを保っているらしい、という説明を宿場宿で受けた。
 だがそれだけでは、この高所に突風の吹き荒れる中でも凍えずに済む、ということは本来あり得ないだろう。
 この通常ではあり得ない気候の原因こそが、詰まるところは、このルーブに棲まう竜の為せる奇跡であるのだという。
 巨龍種はその規格外の体を自在に操るために、体温が非常に高いだろう、ということが研究者の間では定説となっている。そのため巨龍種の多くは、其々の独自器官の他に、その活動を可能とするのに必要とされる膨大な熱量を体内で生成するのだそうだ。
 そしてそれは、体内器官による生物的な熱量の生み出し方だけではなく、朱鳥の加護を生まれながらにして備えている場合が殆どであろうことまでが、最近の研究で凡そ判明しているのだという。
 そして当然その熱量を効率的に維持するには、その棲み家も同じく温暖であるということが大体の場合において必須条件になる。
 そのため、巨龍種が住う場所はその巨龍種の持つ朱鳥の加護の強さに応じて、周囲の気温すら高くなることが多い。この現象が、巨龍の活動における術的な要因の介在を立証する証拠ともなっている。
 これらの理由が、このルーブという山がこの寒気にこの標高にあっても、あまり寒さを感じさせないという結果に繋がっているのであった。

「あっつ・・・ここ本当に冬の山なわけ・・・?」

 そう言った事情を知識としては仕入れていたものの、いざ洞窟内に足を踏み入れてみるとその熱気はよもや冬のそれとは全く無縁に思え、まるで密林にあった火術要塞にでも入り込んだのではないかと思えるほどだ。
 都合よく階段状になっていた箇所を危なげなく下り、程なくして外部の光が届かなくなったところでフェアリーが松明に火を灯しながら奥の様子を観察する。

「・・・どうやら、火山ガスが吹き出している箇所が其処彼処にあるようです。慎重に進みましょう」
「厄介ね・・・。松明で引火とかしなきゃいいけれど」

 カタリナは洞窟内での妖魔の襲撃に備えマスカレイドを小剣の状態で構えながら、足元に気をつけつつ進む。
 そうして進むにつれ、思ったよりもこの洞窟は広々とした空間が広がっており、天井も高いことが分かってきた。その予想外の広さに軽く感嘆しながらカタリナが見渡していると、フェアリーは周囲が広く見渡せるように浮かび上がり、そして何かに耳を済ませるように目を閉じた。

「この空洞は、どうやら溶岩が流れた後に出来たものだそうです」
「溶岩が・・・、ねぇ。正に自然のなせる技ってわけね」

 カタリナが知る溶岩とは、それこそ火術要塞の至る所に湧き出ていたものだが、それが山を流れこのような巨大な空洞を作るなどということは、彼女にはまるで想像もつかないことであった。

「地表を流れる溶岩の表層が冷えて固まっても、その下では熱量を保ったままの溶岩が流れ続け、こうした空洞を作り上げるのだそうです」

 フェアリーの話を興味深く聞きながら注意を怠らず進んでいくが、多少の足元の危うさを除けば、この空洞は非常に快適なものだった。何しろ、山中では幾度となく出会った妖魔の類が、この空洞内では全く存在していないからだ。

「通常ならばこうした山中の空洞には魔物や暗闇を好む生物が入り込むのですが、この空洞の中はあまりにも竜の気が強すぎて、他の生物が寄り付かないのだそうです」
「なるほどね・・・。ていうかフェアリー、それ一体どこから得ている情報なの・・・?」

 とてもためになる話ばかりなのだが、ふとその情報の出所が気になってカタリナが中空のフェアリーに問いかけてみる。するとフェアリーは二度三度瞬きをした後、首を傾げた。

「さぁ・・・この空洞の中にある、何かだと思います。周辺に思念を飛ばしたら返ってきたので、正確には・・・」

 他の生物が寄り付かない、という前提なのに返ってくるその念とやらこそ随分と怪しい気もするのだが、とりあえずそこに突っ込んでも仕方がないだろうという結論に達したカタリナは、適当に相槌を打って先に進むことにした。
 時折岩肌から噴出している火山性のガスを避けるように進んでいくと、更に奥へと二人を誘う段差が現れる。

「・・・この奥のほうから、とても強大な気配を感じます・・・。恐らく、グゥエインのものかと思われます」
「この空洞で大当たりだった、ってことね。兎に角、進みましょう」

 果たして、話し合いというものが成立するのかどうか。
 出たところ勝負の感は否めないが、ここまできたからには覚悟を決めてやるしかないなと腹を括ったカタリナは、慎重に歩を進めた。

 

 

「ふざけないで!!サラは今一体何処にいるの!!!?」

 ピドナ商業地区の一画にてカタリナ・カンパニーの事務所も兼ねるハンス家の一室から、エレンの悲痛な叫び声が部屋の外まで木霊する。
 トーマスとユリアンが宥めるために彼女に相対しているが、先ほどから何度も似たような叫びが聞こえてきていることから察するに、その効果は極めて薄い様子だ。
 やがて、衝突音にも似たような響きと共に勢いよく開かれた扉から飛び出してきたエレンは、その先の広間で彼女らの様子を心配しながら待っていたモニカらを殆ど無視するように通り抜け、一目散に外へと行ってしまった。

「・・・エレン・・・」

 その様子を止められるはずもなく、モニカがただただ心配そうな様子でエレンが去っていったあとの扉を見つめる。
 飛び出してきたエレンに遅れるようにして部屋から出てきたトーマスとユリアンは、非常にバツが悪そうな表情で広間の一行に合流した。
 その場に集まっていたのは彼ら以外に、モニカ、ポール、ロビン、ミューズ、シャール、ブラックだ。
 ミューズらよりも一足早く、エレンら一行は目的であった氷の剣を携えてピドナへと帰ってきていた。
 彼女らの所持していた古代魔術書に関しては引き続き聖都ランスの天文学者ヨハンネスの兄妹であるアンナが解読を進めてくれており、これは子細分かり次第ピドナへと連絡をしてくれるように話がついていた。それを受けてピドナに一度戻ろうという事の運びとなりピドナへと戻ったエレン達だったのだが、トーマスらが居ないことを受けて待機をしていたのだった。
 だが、数日後にいよいよ帰ってきたトーマスらの表情は何やら非常に複雑な様子であり、これは何か事情があるのだな、ということは出迎えた誰もが感じた。
 無論それは帰路におけるルートヴィッヒとの対談によるものであるが、それとは別に予想外にトーマスらの一行の中に最愛の妹の姿を見かけなかったエレンがその事について問うと、トーマスらは更に悲痛な表情を浮かべながら、サラから届いた書状を苦々しい様子でエレンに見せたのだった。

「・・・わたくし、エレンを見てきますわ」

 そう言ってモニカが小走りで広間を後にすると、それを為す術なく見送ったその場の面々は軽く互いに視線を交わし、なんともバツが悪そうに肩を竦ませた。

「・・・ったくガキのお守りじゃあねえんだからよ、キーキーうるせぇな」
「いやまぁそうは言ってもよ、そう簡単に割り切れるもんじゃないだろうさ、血の繋がった姉妹なんだから。ってかほんとにあんた、ハーマンの爺さんなのか・・・?」

 一人飄々と、いつもの調子で煙草に火をつけながら一連の騒動を見ていたブラックが言うのに合わせ、ポールが嗜めるようにいいながらも半分疑いの眼差しでブラックを眺める。
 その感想はユリアンも同様に抱いていたが、彼と初めて会ったロビンはそんなことを露ほども知らず、事も無げに腕を組むのみだった。

「・・・一旦、エレンはモニカ様にお任せしましょう。我々が追いかけても、ああなったエレンは間違いなく聞かないでしょうから」
「・・・同感だ」

 トーマスのその言葉に、ユリアンも深く頷きながら同意する。シノンの若衆の中では最早常識であるのだが、このように気分を害した時のエレンの取り扱いは、非常に繊細なものなのだ。微に入り細を穿つ、というものである。
 そして大抵の場合、周囲が必死に試みるエレンへの接触では状況の改善に一切繋がらない。これには、とにかく時間が必要なのだ。
 彼女の機嫌の回復はいつだって、サラを心配する自発的な気持ちが発端となって起こる。
 自分がこんな事では、サラを守れない。サラの元に戻ろう。その思考によってのみ彼女は機嫌を取り戻し、やがて皆の輪に戻ってくる。
 昔からトーマスは、そんなエレンの行動基準を特段に心配していたものであった。
 もしサラがエレンの元から居なくなったとしたら、エレンは一体どうするのだろうか、と。
 その答えは、この年の始まり、およそ一年前から始まったこの旅の中で多少の変化として彼女に蓄積されてきたはずだが、今ここに至っては矢張り彼女の根本は変わっていないのだと彼には感じ取れた。

「・・・分かった。じゃあこっちはこっちで、必要な話を整理しちまいたい。ヤーマス以降に起こったことを、先ずは聞かせてくれ」

 シノン出身組らの様子からエレンの対応に頷いたポールは、仕切り直すようにそう言って、皆にテーブルにつくように促した。

 

 ああして、幾ら声を荒げて周囲の全てを拒絶したとしても、何も状況は良くなんて、ならない。
 そんなことは、誰よりも自分自身が、痛いほど一番わかっている。だって、愚かしいほどに何度も何度も、それを彼女は繰り返してきたのだから。
 だから毎度毎度、大人げなくこんなことをしている自分をどこか頭の中で冷静な自分が思いっきり冷めた様子で見下ろしていて、本当にそんな自分のことが世界で一番、嫌になる。
 だが、それでも。
 それでもこれは自分にとって必要な、ある種の「儀式」のようなものなのだ。
 こうして兎に角周囲の雑音から一旦離れて自分一人になり物事を見つめ直すことで、全てを投げ出して只々喚き散らしてしまうだけの愚かな自分を何とか抑えるのだ。
 そうして一頻り自分の中で自分をこき下ろした後、暫く何も考えずにただただ気分が落ち込む時間が続く。そうして幾ばくかの時間が過ぎ、いい加減そうしていることに飽きたら、いよいよそこから、これからの自分がやるべきことを考えるのだ。
 手段なんて、なんだって、どうだっていい。
 兎に角重要なのは、やるべき事が何なのか。
 彼女は先ず、それだけしか考えない。
 それが定まれば、あとは我武者羅に前進するだけだ。

(・・・何をするべきって、勿論今直ぐにサラを探しにいく。それ以外の選択肢なんてないわ)

 ハンス邸を飛び出して当ても無く歩きながら、ぐるぐると思考の堂々巡りを繰り返していたエレンは、気がつけば潮風に誘われるままに港まで辿り着いていた。
 サラが、ひょっとしてその辺りにいないものか。
 そんな有り得るわけのない妄想と共に、エレンは何げなく港を見渡しながら続けて歩いた。
 思えばロアーヌでの事件からこの一年で何度も行き来したピドナの港だが、流石に世界一の港は何度来てもその広大さに驚くばかりだ。
 何しろ、同時に数百人を乗船させることが可能なガレオンシップを数十隻も停めることができる程の巨大な港だ。じっくりと見て回るだけで、それこそ一日を費やしてしまうことだろう。
 港には等配置に灯台や検問塔が立っており、そこでは常にピドナ港専任の水先人が行き来の絶えない大小の船舶を忙しなく曳船誘導している。
 その行き来する船を何気なく見ているだけでも、時間はあっという間に過ぎ去ってしまいそうだ。
 港はいくつかの区画に分けられており、停船区画だけでも世界各地のどこに向かうかで場所が異なる。例えばヤーマスやウィルミントン等の大規模な商都が点在し最も往来の多い静海地方との行き来をする船が一番市場に近い区画に位置しており、次いで香辛料を中心とした貿易や観光渡航が盛んな温海地方往来用の区画。そしてピドナの位置するマイカン半島からトリオール海を挟んで南にあるトゥイク半島の都市国家リブロフとの定期便区画の向こうに、ロアーヌやツヴァイク等のヨルド海を往来する航海船がある。
 実のところ船ではロアーヌとの行き来をしていないエレンは、何気なく興味を惹かれて港の奥に位置するヨルド海方面へ向かう船の区画へと歩いていった。
 ぼんやりと眺めているうちに気がついたのだが、こちらの区画に停まっている船は、静海方面に行く船に比べて帆の配置が特徴的だ。
 北のツヴァイク地方から吹き降りる風が特徴的なヨルド海は東西間の航海で真後ろからの風を捉えることが難しく、更には南東のタフターン山から吹く風と海上で頻繁にぶつかり複雑な気流を生み出すので、それに適時対応できる縦帆が採用されているのである。
 無論そんなことなど全く知らないエレンは、形の違う帆の数々を物珍しげに眺めながら歩いて行き、そしてその向かっていた先に突然に、見知った姿を視界に捉えた。

「・・・あれ、ハリード・・・?」

 視線の先には、遠目から見ても分かる特徴的なナジュの衣服に身を包んだ長身の男、ハリードが船着場におり、停泊している客船の近くで船員となにやら話をしているところのようだった。
 今回はピドナ港の圧巻ぶりのお陰でいつもよりもずっと早く気分が晴れていたので、エレンは特に考えるまでもなく、そのままハリードの方へと歩いて向かっていった。

「おっさん、久しぶり。なにしてんの?」
「・・・エレンか」

 ハリードはヤーマスに向かったエレンらとは別でトーマスらピドナ組と行動を共にしていたはずだが、そういえばトーマスらがハンス邸に帰ってきたときには、何処にも彼の姿はなかった。
 しかしそれ以前にサラのことで頭がいっぱいだったエレンはすっかりハリードのことを失念していたのだが、こうして数ヶ月ぶりに会うハリードは、どこか以前の彼とは様子が違うように彼女には思われた。

「なにしてんのよ、こんなとこで」
「別に」

 いやこんなところにいて別にってことはないでしょう、とエレンは思ったものだが、しかしそれを口に出すことなく彼女は目の前の男の様子を窺った。
 どうも、普段とは様子が違うように思ったのだ。
 抑もハリードと会うの自体が数ヶ月ぶりではあるが、その手前まで半年あまり行動を共にしていた彼女から見ると、明らかにこの男の様子は普段と異なる。なんというか、その表情や声色から、以前は常日頃感じていた彼の余裕が感じられないのだ。
 他人の余裕のあるなしが分かる程度には自分の冷静さは戻っているな、等と場違いな分析を頭の隅に追いやり、エレンは次に一歩引いたように姿勢を仰け反らせながら、その場の状況を見極めんとする。
 ハリードは、普段通りの格好だ。この男は常に軽装で、旅のために余計なものを殆ど持ち歩かない。しかし、腰の曲刀カムシーン(本当は違うらしいが、ハリードがそう言い続けるのでエレンもカムシーンと呼ぶことに慣れてしまった)は散歩だろうが遠出だろうが持ち歩いているので、つまりこの姿からは彼の行く先の検討はつきそうにない。
 視線を、彼の周囲に移す。
 彼女らが今立っている場所は、ピドナ港の中でも何方かと言えば奥まった位置だと言える。つまり、敢えて用事がなければ普通はこない場所だと言えるだろう。
 まぁ、そこにまさかの敢えて特段の用事がないのにふらっと来てしまった自分自身がいる時点でこの推察には致命的な矛盾があるような気もするのだが、そこは一旦置いておいて考える。彼女が元々見てみようと思っていたヨルド海方面への船着場は、此処からもう少しだけ奥にある。現在位置はその手前にある区画であり、このマイカン半島の南に広がるトリオール海を挟んで向かいにあるトゥイク半島へと向かう船舶の船着場だ。
 トゥイク半島に向かう船は、基本的に一箇所にしか寄港しない。リブロフだ。
 そしてハリードは自分が話しかける直前まで、傍にいる船員と話をしていた。
 つまりこの場所から察するに、ハリードはここで船に乗ろうとしていた、というようにも見受けられる。

「で、どうするんですかい、旦那」
「あぁ・・・頼む」

 丁度エレンの思考を証明するかのように、恰幅の良い港の船員が小首を傾げながらハリードに声をかける。するとハリードはそれに応え、短く頷いた。

「じゃ、前金で100オーラムいただきますぜ」
「あぁ」

 短くそういって、そのまま懐から素直にオーラム金貨を出して払うハリード。
 これはもう確定で、今のこの男は様子が明らかに可笑しいということにエレンは思い至る。
 如何に世界的に船旅が高額化している状況があるとはいえ、この守銭奴が100オーラム程の大金を一銭たりとも値切ることもなく即払いするなど、普段ならば絶対にあり得ない。
 何しろこの男との旅の幕開けであったミュルスからツヴァイクへの渡航の際も、一切合切船旅の質は求めないから最も安い客室がいい、なんなら船員用の雑魚寝部屋でも良いから兎に角、極限まで安くしろ。そのように乗船案内人に迫っていたほどの男だ。
 仮にも女連れで旅に赴く初っ端からあの光景は一周回って清々しいなとエレンは思ったものだが、そんな彼の通常が、今は全く垣間見えない。
 エレンという女はどうも「女の勘」という類の色恋沙汰に特化した第六感は持ち合わせていないのだが、逆にそういう話題以外の事ならば驚くほど勘が鋭い時がある。
 それが、今だった。

「ハリード、故郷に戻るの?」
「・・・・・・何のことだ」

 唐突なエレンの質問に、ハリードは一瞬答えるのを躊躇うかのようにして言葉を紡いだ。
 一丁前に平然を装おうとしている様子だが、彼女にはそんな内部の揺らぎもお見通しだ。

「おっさん、なんか無くしたって顔してる」
「・・・・・・」

 エレンに唐突にそう言われ、ハリードは何やら憮然とした表情で眉間に皺を寄せる。
 全く、年甲斐もなく表情のわかりやすい男だ。
 だが諦め悪くハリードも一つ息を吐き、それによって冷静さを取り戻して口を開こうとするが、それにもエレンが空かさず牽制した。

「誤魔化しは要らないからね。あたしには分かるの。だってあたしが、そうだから」

 エレンは、彼女の中で絶対の確信を持っていた。この男は、恐らく今、何か大きなものを『無くして』いる。
 お互いに生まれも育ちも年齢も性別も、何もかもが違う。だがそれだと言うのに今のこの男は、自分と全く同じ表情をしているのだ。
 自分だってこんなことを話している余裕は本当は一秒たりともないというのに、まるでこの男の様子は、そんな風に無様に焦るばかりの自分自身を見せつけられているようで、皮肉なほどに彼女は先ほどまでの心中の荒れ模様が嘘のように冷静さを取り戻していた。

「・・・そう、だったな」

 エレンの言い様に全く以て返す言葉を失っていたハリードは、漸く絞り出すようにして、そう言った。
 その納得しきりという雰囲気の言葉がまるで、元々お互いそうであったことを今更思い出したかのような言い草だったものだから、エレンはどうにもその部分には納得がいかずに眉間に皺を寄せる。自分で言っておいてなんだが、このおっさんなんかに自分のそんな姿を見せた覚えは、特にないはずなのだが。

「ふ・・・そんな顔するな。俺にも分かっていることくらいあるんだ」

 エレンが考えていることが表情からあまりにも分かり易く読み取れるので思わず口をついて息が零れ、そのまま言葉を紡ぐ。全く、この女と関わると小難しく悩んでいる自分がどこか馬鹿らしく思えてきてしまう。
 だが、それでも勿論、彼の抱えている空白は何も埋まらない。
 そしてそれは、一方のエレンも同じことなのだ。
 しかし、そういう場合にとりあえず一歩踏み出すためのきっかけを、何かを変えるための手段を、エレンという女は知っている。
 このハリードという男に、既に教えられているのだ。

「一緒に行ってあげる」
「・・・あ?」

 エレンのいきなりの言葉に、ハリードは思わず声を上げる。

「とりあえず船でリブロフに 行くんでしょ。私もそっちに用事あるの。だから、一緒に行ってあげる。さぁ、いきましょ」
「お、おい・・・」

 ハリードが声をかける間も無く、エレンは乗船口へと向かって歩き出してしまった。しかもなんと船賃を要求する船員に対して、連れが一緒に払う、とでも言うような仕草でハリードの指さす始末だ。
 そして当然のように船員がハリードに向かってにやりと笑いかけながら手を差し出してくると、暫し呆気にとられていたハリードは成す術もなく船員に追加の船賃を手渡したのであった。

(サラが寄越してきた手紙は、リブロフが出処だってトムは言っていた。もう二ヶ月以上も前のことらしいけど、このご時世に女の子の一人旅なんて絶対に目立つわ。足取りが辿れる可能性は、けっして低くはないはず)

 エレンは背後に追い付きながら何やら執拗に抗議の声を上げているハリードを半ば無視するようにしながら歩を進めつつ、思考していた。

(あの子はトムの元で成長して、一年前よりとても逞しくなったと思う。多分あたしなんかより色々と知っていることも多い。でも、それだから安心なんて・・・全く出来ない。あの子をこのまま信じて戻るのを待つなんて、できっこない)

 ロアーヌで喧嘩別れをしてから数ヶ月後にピドナで合流して以降、エレンの目から見てもサラはとても活き活きとしていた。カタリナカンパニーの秘書役として精力的に働きながら、周囲のいろんな人物との交流にも積極的だった。以前の臆病だった性格からは信じられないほど、随分と変わったように感じられたものだ。
 だが、姉としてそんな妹の変化を好ましく思うと同時に、一方では何とも形容し難い小さな違和感が頭の片隅にずっとあったのも事実なのだ。

(あたしだけが取り残されていく、みたいな醜いだけの感情じゃない。いや、それがあたしのなかに全くないわけではないのも事実だけど、兎に角この違和感は・・・そんなんじゃないのよ。もっと漠然としていて掴みにくいけれど無視することは絶対にできない・・・そう、直感みたいなもの)

 今ここでサラを追いかけなければ、もう二度とサラとは会えなくなってしまう。
 大袈裟ではなくそれが本当に起こるかもしれないというような、そんな焦燥感。
 エレンは今この時になって、この直感は全く正しいのだと殆ど確信していた。

「おい、聞いてんのかエレン!」
「なによ、煩いわね!」

 いよいよ肩を掴まれながら制止され、そこで漸くエレンは彼女を引き止めてきたハリードに向かって罵声を浴びせながら振り返る。
 対して、まさか自分の正当極まる抗議に対して『煩いわね』などと乱雑な返しをされるとは思ってもみなかったハリードは大層面食らったようで、言わんとしていた言葉もすぐには出てこなかったようだった。

「なによ、もう船賃払っちゃったんでしょ。ならいつまでも女々しいこと言わないでよ」
「いやお前女々しいとかそういう・・・つかお前、俺が何でリブロフに行くのかとか・・・」
「目的は、リブロフじゃないでしょ」

 ぴしゃりとハリードの言葉を遮るように、エレンがそう断言する。
 するとハリードはその言葉が図星であることを肯定するかのように、続く言葉を発せられずに押し黙った。

「ていうか、どうせ目的なんてないんでしょ。分かるわよ。だって顔にそう書いてあるもの」
「・・・・・・」

 エレンのずけずけとした物言いに、しかしハリードは返す言葉がない。
 だがそこでエレンは追撃をするでもなく、なにを思ったかハリードの手を取り、甲板へと歩いていく。

「お、おい、なんなんだ」

 自分よりも歳が十以上も下の娘に手を引かれるという構図に困惑しながらハリードが声を上げるが、そんなことは知ったことではないエレンは、問答無用で彼を船首付近の甲板の縁まで連れて行った。
 そして船の縁に手をかけられるあたりで立ち止まり、船上を吹き抜ける潮風を全身で受けながら、これから船が向かわんとしている南へと視線を向ける。

「ほら、海を見て風に当たれば、気分も変わるわ」
「・・・お前なぁ・・・」

 ハリードはすっかり呆れた様子でエレンに何かを言おうとするが、しかしエレンはこちらに視線を合わせようともせずに、南の水平へと瞳を向けている。
 その様子を見て又しても彼女にかける言葉を失ったハリードは、結局他にやれることもなく、彼女に倣って南へと視線を傾けた。
 そこには、最近はやたらと見慣れたピドナの港の風景と、そしてその先に広がるトリオール海の景色。
 船の上ということで高さは違えど、先ほども見ていた光景だ。そこに吹き抜ける風も、別段先ほどのものと何が変わるわけでもない。
 だが、それだというのにこれは、一体どうしたことだろう。
 ついさっきまでの自分よりも確かに彼は今、その心が不思議と落ち着いており、静かに前を向いているのだ。

「ね。気分、変わったでしょ」

 その様子を見抜くように横目でハリードをちらりと覗いたエレンは、口の端を吊り上げるようにしながら、ニヤリと笑って見せる。因みにこれはハリードの笑い顔の真似なのだが、本人が思っている以上に全く似ていないので本人にはこれっぽっちも伝わっていない。
 だが自分の中に不思議と冷静さが宿っていることを確かに実感していたハリードは、エレンに応えるように自分の未熟さを皮肉って口の端を吊り上げて返し、そしてエレンの頭をがしがしと乱暴に撫でる。

「やだちょっ、なにすんのよ!」
「礼だ、とっとけ」

 これには予想通りに喚き散らすエレンに対し、ハリードはどこ吹く風で海へ視線を向ける。

「・・・礼を言われる筋合いなんてないわ。まだ何も変わっていない。変えていくのは、これからでしょ」

 乱された頭頂部の髪を整えるように手櫛で流し、トレードマークのポニーテールを結び直しながらエレンが言う。
 対してハリードは肩を竦めながら、一つ息を吐く。

「変わったじゃねえか」

 腰に身につけたカムシーンと名付けている曲刀に手を触れ、半身をエレンへと向ける。

「さっきまで一人だったのが、今は二人だ。これは大きな変化だろうよ」
「ふん・・・一年前のことくらいは、覚えていたみたいね。ボケてなくて安心したわ!」

 ハリードの言葉にエレンは満面の笑みで応え、そしてふと真面目な面持ちに戻って海を見た。

「あたしは、サラを探す。おっさんも向こうで用事が終わったら、手伝ってよね」
「俺よりも目的が明確な分、分かりやすくていいな。前金次第では、考えてやろう」
「おっさん、あたしにそんな金があると思ってんの?」

 そうして他愛のない会話をしながら二人が出港を待っているところに、ふと視界の端に市街地の方面から走ってくる鮮やかな布地の色の衣服を身に纏った人物の姿が映った。
 どうやらその人物は声を発しながら向かって来ていたようで、エレンがその姿にしっかりと気づいた時には、その聞き覚えのある声が耳に届いていた。

「エレンーーー!!」
「あ、モニカ!!」

 走り寄ってきたモニカの姿を認めたエレンは、船の縁から身を乗り出すようにして大きく片手を振った。

「エレン、いったいどこへ行くのです!?ハリード様まで!」
「モニカ!あたし、サラを探しに行くわ!おっさんも野暮用よ!どうかトムに宜しく言っておいて!」

 エレンがモニカに向かって声をあげている合間に、いよいよ二人の乗った船の出港を知らせる鐘の音が辺りに響き渡る。
 もうそこから先は、何やら叫んでいるらしいモニカの声も全く聞こえず、エレンは体全体を使うようにして目一杯手を振るだけだ。

「お前、仮にも母国の侯族を呼び捨てって、まずくないか?」
「いいのよ、第一モニカから言ってきたんだし。ってかおっさん、そういうの気にするタチだっけ?傭兵ってどっちかっていうと反体制主義じゃないの?」
「いやまぁ一般的にはそうかも知れんが、俺にも一応、事情っつうもんがあってだな・・・」

 なんでか気安く呼び合っている二人の様子をみてハリードは思わず突っ込むが、思いの外鋭い返しが来たものだから口籠ってしまう。
 そのまま視線を戻し、港が見えなくなるまでモニカに手を振り続けるエレンを尻目にハリードは船の食堂へと向かうことにした。
 何しろ、予期せぬ出費で二人分の船賃を出すことになったのだ。これはしっかりと元を取らなければ、やっていられないというものなのである。

 

「なーるほどな・・・。状況は大凡、分かったよ」

 ハンス邸にて行われていた話し合いの中で、ウィルミントンからピドナに辿り着くまでの話を聞き終えたポールは、ゆっくりとそう言った。そして自分の中で考えを纏めるようにコツコツと指先で米神の辺りを突きながら、状況整理とこの後に行うべき行動の指針について思考する。

「・・・しかしまぁ、なんつーか流石はルートヴィッヒだな。一本取られた・・・ってか、全く予想だにしなかった行動だわ」
「あぁ。ただ彼の今回の決断は、我々の向かう方向と限りなく近いのも確かだ。今の我々に選べる選択肢は殆どないが、前向きに捉えるしかないだろうね」

 トーマスの見解にポールは薄く頷きながら、しかし直後に彼の隣で視線を落としたまま表情を固くしているままのミューズへと視線を移した。
 当然その更に隣に控えるシャールも同じような表情であり、彼女等からしたらこの状況の好転の仕方は、そう簡単に受け入れられるものではないだろうことが窺える。
 だが、やるからにはそれを飲み込み、理解してもらわねばならないだろう。なので、単刀直入に聞いてみることにした。

「ミューズさんとシャールさん。あんた達は、どう思っているんだ?」
「・・・・・・・」

 二人はポールの問いかけに、しばし無言で応える。だが、ポールは特に答えを急がせようともしない。こういう問題は自分で答えを出さなければならないのだ、ということを、彼はキドラントでの騒動から経験している。
 やがて、ミューズが面を上げた。

「私は、この機を逃すべきではないと、理解しています」

 短く答えるその様子を、ポールは見つめる。
 彼女の瞳には、迷っている様子はない。
 隣のシャールもまた、そんな主君を真っ直ぐに見つめている。既に彼は主君の意志に従うと決めているのだ。

「当然、油断はしません。あの男がいつ我々に仇をなす行動を起こすのか、わかりませんから。でも今暫くは、あの男の提案に乗りましょう。それが我々のためであり、メッサーナの為になると私は理解しています」
「・・・あぁ、そうだな。兎に角こいつはチャンスだ。これを機に逆にこちらがあちらさんを喰っちまうつもりでいこうぜ」

 最愛の父を討った仇に対し、この若い娘はしっかりと折り合いをつけようとしている。それのなんと気丈で、聡明なことか。
 仮に自分があの時にニーナを失った上で祖父や教授と対峙していたら、たとえ全ての事情を知ったところで、彼らに対し何もしないでいられる保証などないと感じてしまうだろう。

「・・・じゃあ、やることは決まっているわけだ。明日のピドナ宮殿でのなんとかの集いとやらで、予定通りロアーヌの戦線への経済的支援を進めるんだな?」
「その通りだよ。そこまでは既にルートヴィッヒ軍団長とも話をしている。今年は現在魔物と交戦中のロアーヌを除いたほぼ全ての主要都市の要人が集まっているらしいから、行動を促す効果は相当に高いだろう」

 ポールの問いかけにトーマスが頷きながらそういうと、ポールは手元の紅茶を一口飲んでから両腕を組んで背もたれに寄り掛かった。

「となると、そこからは例のアビスリーグとやらに関する情報を探っていかなきゃならないな。んー・・・こりゃヤーマスでドフォーレ捌いてもらっているキャンディにも協力を仰いだほうがよさそうだ。ロビン、済まないが一度書簡を持ってヤーマスに渡ってもらえるか?」
「構わない。街がどうなっているのかも気になるしね」

 ロビンの快諾を得ると、今度はブラックへと視線を移す。

「ハーマン・・・じゃないんだよな。ブラック、でいいんだっけ」
「ブラック様でもいいぜ」
「オーケーブラック様、お宅は俺に付き合ってもらうよ。潜って情報収集をするのに、あんたの雷名はめちゃくちゃ役立ちそうだしな」

 軽口に軽快に返してくるポールにブラックがふんと一息吐いて反応すると、ポールはそれに肩を竦めて返しながら話を纏めにかかる。

「よし、ロビンとブラックと俺はすぐにでも動き出そう。情報が上がり次第共有するから、トーマスの旦那はミューズ様やモニカ様を頼むよ。それじゃあ・・・」

 そう言って席を立とうとした丁度その頃合いになって、息を切らせた様子のモニカが帰ってきたところだった。

「モニカ!エレンはどうだった?」

 彼女の姿にいち早く反応したユリアンが問いかけると、モニカは何やら彼女にしては珍しく呆けた様子で、ぽつりとつぶやいた。

「エレンとハリード様が・・・駆け落ちしてしまいました」
「・・・え?」

 モニカの突然の衝撃的な告白に、その場の一同は凍りついたように固まってしまった。

 

 

前へ

次へ

章目次へ

目次へ

第八章・3 -十年前の悪夢-

 

「・・・こんなものでいいですか?」
「ええ、ありがとう。すっきりしたわ」

 世界でも指折りの標高を誇るルーブ山の麓にある実に簡素な宿場宿に、カタリナとフェアリーは登山の準備をするために立ち寄っていた。
 ルーブ山には、こうした幾つかの小規模な宿場が複数の登山ルート上に点在しており、その殆どは様々な鉱山資源の宝庫であるルーブ山脈と商都ヤーマスとを行き来する鉱山作業員や、その作業員らを商売相手とする行商人達の憩いの場として機能している。
 更に以前にはもっと大きな宿場町や農村もちらほらとあったようだが、ルーブ山に棲む悪竜グゥエインによる断続的な被害によって、そのような規模の人里はこの数十年で縮小の一途を辿っていた。
 なので今となっては、最低限の機能を有する簡素な宿と鉱山作業員の作業用に設えられた何もない広場だけがあるのみの殺風景な場所が殆どだ。
 翌朝には直ぐ出発する予定で一泊の宿を取っていたカタリナは、宿の裏手でフェアリーに散髪を頼んでいた。ロアーヌを旅立ってからこの一年ほどですっかり伸びてきていた髪を、旅立った時と同程度まで切り揃えるためだ。

「人間の美的感覚は私たち妖精にはあまり分かりませんが、カタリナさんの髪はとても美しいと思います。なんだか、勿体ない気がしますね」

 自分の頭の後ろあたりを手で触りながらカット部分の具合を確かめて礼を言うカタリナに対し、フェアリーは率直にそんな感想を抱いて口にした。だが、カタリナはそれには少し困ったような顔をして微笑む。

「・・・長い髪は、確かに人間の間では女性を美しく彩るために用いられる慣習ね。髪は女の命、なんて言葉もあるほどよ」
「え、じゃあ今私、カタリナさんの命を切ったんですか・・・!? ひょっとしてLP減りました!?」

 フェアリーのいうえるぴーというものがなんなのかはカタリナにはいまいち理解が及ばなかったが、兎に角そんなに心配するようなものではない、と優しく付け加えた。
 彼女にとって長い髪とは言わば、「かつての自分」を表すものだ。つまりはロアーヌ貴族であり、モニカの侍女であり、そして不相応な幻想を抱く愚か者であった彼女の象徴のようなもの。そんな自分と、少なくとも心の内では確りと決別をする意味で、あの夜に髪を切り落としたのだ。そんな彼女からしてみれば、長い髪に一切の執着などないのである。
 むしろ今となっては短い髪の方が動きやすさもあるし、当たり前だが戦闘には此方の方が適しているなと感じるほどなので、必要に迫られなければ今後も髪を伸ばすということはしないだろうな、とすら考えていた。

「そういえばカタリナさん」

 髪を切るために彼女の首から下を覆っていた布を払いながら、フェアリーが問いかける。

「今更になって聞くのもあれだとは思うんですが、グゥエインという竜は、普通の竜とはどの様に異なるのですか?」

 妖精族の中でも聖王に纏わる記憶は聖王記の内容を中心として継承されており、聖王が四魔貴族の一柱である魔龍公ビューネイを打ち倒すために巨龍ドーラと共闘をしたということは知られている。だが、基本的に人界との接触を絶ってきた妖精族では、この三百年の間に人間を苦しめてきた悪竜グゥエインという存在のことを、殆ど知らなかったのだ。

「うぅん、実は私もそれほど、グゥエインという竜について知っているわけではないのよね」

 フェアリーの問いに何とか応えようと頭の中で考えを巡らせながら、自身も散髪の後片付けをしつつ思考を巡らせた。
 カタリナの知るグゥエインという竜に関する情報は、それこそ世間で噂される悪評以上のものは殆どない。十数年に一度程度の頻度でルーブ周辺を中心として人里を荒らし周り、血肉を喰らい宝物を奪う存在。それだけだ。
 大前提として竜種とは、人に仇為す存在としては異形の中にあって最も恐れられる種族である。
 中でも一部の「巨龍種」と呼ばれる存在が非常に突出した存在感を放っており、その数は基本的に極少数でありながら、個体ごとの脅威は他の妖魔と比肩するべくもないほど強大なものである。
 巨龍種とは巨人族にも全く引けを取らない体躯を持ちながら、その強靭な翼によって飛行能力を持つ。この時点で人類が対抗することそのものが馬鹿らしくなってくるほどの脅威ではるが、更には多くの巨龍種が体内に個体別の独自器官を持っている。主にそれは捕食行動の際に活用される器官だが、猛毒、電流、炎など、それらをブレス状にして口腔部から放射するという、およそ生物としては正に規格外の攻撃手段を持つ。
 グゥエインという竜は、この巨龍種に分類される竜であるとされている。
 ただこのグゥエインという竜に関してが殊更に特別視されている理由としては、他の巨龍種と比べても非常に独特な活動の記録による。
 前述の通りグゥエインは人里を定期的に襲うが、実のところ他の巨龍種にはこのような行動は殆ど観測されていない。また、通常の捕食行動とは別に金銀宝飾物等を意図的に奪うことから、流石に人間にあるような金銭的な意図はないとしながらも、その物質の希少価値を理解する知能を持っているのではないか、と推察されている。
 竜種の研究者によれば、その集めた財の量によって己の力の誇示を表しているのではないか、とも言われている。
 このように、グゥエインという竜は他の巨龍種ともまた異なる存在として、人々に恐れられる存在なのだ。
 そのようなことをフェアリーに話しながら、しかし今回改めて詩人からグゥエインとの対話を提案されたカタリナには、このグゥエインという存在に対して、驚くほど嫌悪感を抱いていなかった。

(・・・それはおそらく、聖王様の記憶が関係しているんでしょうね・・・)

 当然カタリナもグゥエインという竜の存在は幼少の頃から聞き及んでいた。丁度、自身がロアーヌ騎士団候補生であった十年ほど前の時分にグゥエインの人里襲撃の報を聞いていたこともあり、それが悪しき存在である、ということも当然に認識はしている。
 だが此度の詩人からの提案を受けた時に、彼女はグゥエインに対して嫌悪感や拒絶感を抱くことがなかった。何なら寧ろその逆ですらあり、その名を酷く懐かしく感じるような感覚すら覚えたのだ。
 それも、ハリードが指摘したようにグゥエインが友人の子・・・つまり、巨龍ドーラの子であるとするのならば、違和感もない。
 聖王の中ではグゥエインとは、あくまで友人の子であり、人間を脅かす悪竜ではないのだ。その記憶、感覚が指輪を通じて自分にも流れ込んでいるということならば、なんの不思議もない。
 そしてその辺りの事実だけを切り取って考えるならば、グゥエインが天空にて相対するビューネイを討つために自分たちとの共闘という判断に至る可能性は、十分にあるだろう。今回の要請に一定の信憑性があると感じられるのは、そういった部分が大きい。

「・・・でも、今のグゥエインにとって人間とは、寧ろビューネイ以上に憎いのではないでしょうか・・・?」

 カタリナの話を聞きながら、フェアリーがそう呟く。
 カタリナも気になっているのは、正にそこなのであった。
 聖王記によれば、聖王と共にビューネイを討った巨龍ドーラもまた、人里を襲う悪竜であったとされる。そして最終的には聖王の手によって、その命を終えているとされる。
 こうなってくると、何しろグゥエインにとっては、人間とはつまり親殺しの仇敵だということであるはずだ。その上であっても、ドーラと同じように人間に協力をするなどという筋書きは、果たして本当に成立するのだろうか。

「自分の親を殺した相手との共闘・・・か。目的を達成する為の手段としてそれが最良であったとしても、私たち人間はどうしても感情で動く生き物だわ。直ぐに納得なんて、私ならば出来ないかもしれない。人と竜の精神構造を同一に考えることは出来ないのでしょうけれど、もしグゥエインが噂通りに知性を持つ竜であるのならば、どんな判断をするのかしらね・・・」
「そうですね・・・人と竜とは、当然ながら異なる思考を持つ生物だと思います。でもこればっかりは、話をしてみないと予測がつきませんね・・・。あり得ない話ですが、仮に私たち妖精族が大樹を焼き払ったアウナスの陣営と何らかの事情で手を組まなければならない・・・なんてことになったら、それは種族として絶対に考えられないと判断するはずです」

 フェアリーの言葉に神妙な表情で返しながら、カタリナは北に聳える龍峰ルーブへと視線を投げかけた。
 その峰は分厚い黒雲によって覆い隠されており、その様はまるでこれからの世界の行く末を示すかのように、カタリナには思われた。

 

 

 静海、洋上。
 ウィルミントンとピドナを結ぶ航路にて。
 その厳重に武装された数隻の軍船が隊列を成して航海するその様は、まるでこれから大規模な海戦が始まるのではないかと思われるほどに雄々しく、そして荒々しく周囲の漁船からは映ったことだろう。
 その列を成す軍船の中央、一際に立派な軍船のその広々とした船内の一室で、トーマス、ミューズ、シャール、ハリード、ブラックは多くの近衛騎士に囲まれる中、近衛軍団長ルートヴィッヒと対談の席についていた。
 矢張りというべきかルートヴィッヒはトーマスの事も既に調べており、彼が名門メッサーナベント家の嫡子にして、現在経済界を引っ掻き回しているカタリナカンパニーの副社長を務めているということや、隣にいるミューズ等との繋がり、その経緯も、事細かく認識していた。
 その上でルートヴィッヒがこの席で切り出した言葉に、トーマスは思わず耳を疑った。

「クラウディウス家と・・・講和を結びたい・・・!?」
「その通りだ。無論、私が実質的にクレメンス卿の仇であるという事実がある以上、御息女であるミューズ殿においては簡単には受け入れられるものではないだろうということは理解している。だが、その上での提案だ」

 自分とテーブルを挟んで真正面に座するルートヴィッヒのその提案は、トーマスにとっては全く不可解なことであった。なにしろ、このような状況でそのような提案をされる謂れが、彼には全くわからなかったからだ。
 彼の隣に座って表情を固くしているミューズとシャールを視線で確認し、そしてトーマスは改めてルートヴィッヒへと向き直った。

「・・・ルートヴィッヒ軍団長殿。お言葉ですが、この状況で講和という提案には、些か疑問が残ります。正直に申し上げて、今貴方は、この場で我々を海の藻屑とする事もできる。講和どころか、今こそ完全にクラウディウスという家名をこの世界から消し去る事ができるでしょう。これまで貴方がクラウディウス家やその他、貴方に反抗的だった諸侯に行ってきたことを思えば、その渦中での講和という提案にどれほどの信憑性があるのか、私には図りかねます」

 ミューズらに気を遣う事もなく、トーマスは正直にその胸中を語った。この後に及んで、下手な腹の探り合いなどしている状況でもないのだ。
 とはいえ、彼らがこの場にいる近衛騎士団の剣の錆になるということは、あり得ない。
 仮にこの場にいる騎士全員が一斉にトーマスらに斬り掛かってきたとしても、正直この面子ならば負けることは有り得ない。それどころか、この中の誰か一人で相手の制圧すら可能だと思われる。なので、そのような心配しているわけではない。
 抑も、此方からの武力行使という選択肢を取るならば、ここに来る前にウィルミントンのホテルで既に実行していた。
 だが、そんなことをすれば自分たちはまんまと「メッサーナ王国への反逆者」という烙印を押され、全世界から指名手配されるのが落ちだ。それは今後の彼らの活動に取り返しのつかないほどの多大なる不利益を被ることになっただろう。
 だから敢えて、大人しく連行されてきたのである。
 だが今この場だけに限って言えば、さしものトーマスらとて、この船ごと周囲の軍船から大砲の集中砲火をされれば、それで一巻の終わりでもある。このような洋上で海に投げ出されれば、人の身では文字通り海の藻屑となることは免れない。
 それをトーマスと同じく理解しているはずのルートヴィッヒもまた、歯に衣着せぬトーマスの物言いに正面から答えるように薄く頷いた。

「確かに我々には、そう言った選択肢も取ることは可能だ。だが、その選択肢は双方に無益という結論に私は至った。だから、講和という提案をしているのだ」

 ぎりり、と強い歯軋りの音が聞こえる。それに気がついたトーマスが音のした方をみれば、そこには顔面が紅潮し激昂した様がありありとわかるシャールが、今にもルートヴィッヒに襲いかかりそうな様相だった。だが彼は己の膝を折れんばかりに握りしめながら自分を必死に律し、息を荒くしながらも、努めて冷静に口を開いた。

「ルートヴィッヒよ、俺は五年前のあの時、貴様に言ったはずだ。絶対に貴様の軍門になど降らん、と。貴様はその返答として、この俺の右腕の腱を切ったはずだ。それが今更、どの口でそのような戯言をいうのか!」

 己が主君と右腕の力を失った悲しみを背負った戦士は、今にも相手を貫かんとするような闘気を纏っている。そのあまりの覇気に、周囲の騎士達は思わず直立姿勢を崩して慄く。だが、その様にも一切動じる事なく悠然とルートヴィッヒは答えた。

「シャールよ。私は、お前の騎士としてのその誇り高さを、私なりに理解しているつもりだ。だから、此度は我が軍門に降れ、などとは言っておらぬ。あくまで、互いが対等の立場での講和を望んでいるのだ」

 ある意味では鉄面皮、とでもいうのだろうか。
 そんなことを考えながら、トーマスはルートヴィッヒとシャールのやり取りの様子を細かく観察していた。
 このルートヴィッヒという男は、見た目から推察できる年の頃は、恐らくハリード辺りとそう違わないだろう。
 世界最大の国家の実質的な支配者としては、あまりに若い。そういう意味では間違いなく、ミカエルなどと同様に時代に愛され、成る可くして頭角を現した傑物の一人であろう。
 ピドナの支配者となってからも継続した広報に余念がないこの男の顔は、宮殿主宰の催しの際の演説等でトーマスも何度か見かけている。
 その様は実に饒舌で多彩な話術に長け、その整った顔立ちも表情豊かで、人心を掌握することに長けた為政者だというのが、当初のイメージだった。
 だが今この場にて相対している彼の表情は、一体どうしたことだろう。
 確かに表面的には以前から見かける通りに、表情豊かに振る舞っているかのように見える。
 だがこの会談の間中、彼の表情の変化はなんというか、妙に無機質的なのだ。
 だが、いつもの精彩を欠いているというよりは、元が実はそうであったのではないか、と感じる様な違和感なのである。
 幾重にも移り変わる表情の一つ向こうには、一切変わることのない鉄面皮が存在している。今日の彼には、特に瞳にその様な印象があり、それで表面上の表情だけの変化に異様な不気味さを覚えてしまうのだ。
 そしてもう一つトーマスが気になるのは、その声だ。
 ルートヴィッヒのよく通る低めのテノールは耳に心地よく、人の心に語りかけるような響きを持っている。だがその声色は聞くものによっては何処か演技がかっていて、背後に狡猾さが透けて見える様にも感じられた。特にトーマスには最初からその様に感じられていたので、より強く印象に残っている。
 だが今この場に於いては、その声色から其れ等の印象を見出すことは出来ない。
 つまり彼の表情と声色から推察する限り、驚くべきことに彼は真にこの講和という話を推し進めようとしているようなのだ。
 それであるならば、とトーマスは緊迫した空気の中の二人を取り成すようにして身を乗り出した。

「ルートヴィッヒ軍団長殿。双方の講和とは、具体的にどのような条項の上での締結を想定されているのですか?」
「まず、現在近衛軍が管理しているクラウディウス家の屋敷、及び旧クラウディウス家統轄領の返還をさせてもらいたい。第二に、故クレメンス卿の名誉回復を目的としたピドナ新市街での石碑の建築を行わせていただきたい。第三に、今後クラウディウス商会を再興させるという方向性で動かれるならば、その活動に対する近衛軍団としての継続的な支援を約束したい。そして最後に、クラウディウス家が宮廷中枢への復権を望むのならば、それも歓迎しよう」

 それまでの彼にしては実に淡々と、ルートヴィッヒはそう語った。
 その内容は、ミューズ、シャール、そしてカンパニーにとって、全く以て歓迎することしかない条項だ。正直に言えば、あまりに条件が良すぎて此方を馬鹿にしているのかと思いたくなるくらいの提案内容だといえる。これではまるで、戦争の実質敗戦国が提示するような条項とすら言っていい。
 だがトーマスは、彼もまた対面するルートヴィッヒに倣って淡々と真顔のまま、当然のように問いかけた。

「では、我々に対してルートヴィッヒ軍団長殿が望むことは何でしょうか?」
「先の内容で友好条約を結ぶこと以上は、特段望んでいない。だが・・・強いていうならば、この講和と、そしてクラウディウス商会及びその大元であろうカタリナカンパニーへの公的支援という形で以て、一連の世間の軍団に対する反発が止むことを狙う、といったところだ。伝説の四魔貴族をも打倒した稀代の英雄に迎合しようという思考は、なにも特別なことではないということだ」

 その言葉に、トーマスは軽く目を見張る。
 何とこのルートヴィッヒという男は、どうやら既にカタリナらのフォルネウス討伐をすら、把握しているようだった。
 カタリナ達が死闘の末に西太洋から帰還してから、まだ一週間程度だ。それこそ世界では、バンガードが伝説の通りに移動要塞となったことすら未だ知らない人々で溢れかえっているであろう。だというのにこの男は恐らく、バンガードが動いた時から既に情報を得、そして事細かに集めていたのだ。であれば、あの崖でバンガードの帰還を待っていた自分もまた、その一挙一動を完全に把握されていたのだろうという理解に至る。
 だがそれらを踏まえても、この男が一体どのような腹積りであるのかは、相変わらずその表情からは読み取ることは叶わない。とは言え、当然このような場所でこれほどの男が、単なる冗談をいうわけでもないだろう。
 トーマスは短時間の間に目紛しく活動する己の思考を一度止め、冷静になるべく周囲の仲間の様子を伺った。
 ミューズとシャールは、矢張りというべきか怒りと当惑とが入り混じった様子だった。何しろ今のルートヴィッヒの言うことが全て叶うのならば、クラウディウスは五年前の状況を単純に取り戻すだけだということなのだ。
 更には、クラウディウス商会の活動に制限をかけるどころか、全面支援を行うとすら言っている。
 今の状態でクラウディウス商会を再興すれば、クラウディウス家が世論の支持を集めることは容易だ。その上でクラウディウス家が政への参加を行えるともなれば、世論の後押しを上手く用い様々な制度改革へと着手する事も将来的には可能だろう。
 その人気取りを共に行いたいというのは分かる部分ではあるが、それでもこれまでルートヴィッヒが首都ピドナで推し進めてきた様々な政策からは全く以て反していくに等しい提案でしかないし、正にトーマスらが以前に思い描いた通りの方向に進めることが出来る提案であるのだ。
 その出来すぎた内容に強烈な胡散臭さを感じるのは、ある意味で当然の感覚と言えるだろう。
 一方で更に視線を動かせば、ハリードとブラックは、なんらこの手の話には興味がない態度であるように思われた。
 案の定というべきなのか、ブラックは気ままに煙草を燻らせ、ルートヴィッヒの方を向いてもいない。その様を周囲の騎士が睨みつけている事も十中八九本人は分かっていながら、まるでそんな状況をすら面白おかしく楽しむかのように煙を吐き出すのみなのだ。
 そしてハリードは、腕を組んで静かに目を閉じている。まるで眠っているのかと思われるほど微動だにしていないが、その姿勢や纏う空気に一切の隙がないことは、見るだけで分かる。彼はどうやらルートヴィッヒと知らぬ仲ではないような雰囲気であったが、それが今の彼の態度に関係しているのだろうか。
 それらを見渡し終えたトーマスは、ルートヴィッヒに視線を戻した。

「・・・返答は、少々待っていただいても?」
「構わない。突如の話で、考えるところも多いだろう。ピドナに着くまでに決めてもらえればいい」

 これもまた呆気ないほど簡単に、ルートヴィッヒはこの場での返事を求めなかった。
 つまりこれは、彼の中ではこちらが考える時間を与えても何の問題もない、という認識であるということだ。
 トーマスはそこまでを確認すると、分かりましたとだけ述べて、席を立つ仕草をした。それに合わせてハリードとブラックも立ち上がろうとしたが、しかしそこで一人、一切動かないものがいた。
 ミューズだった。
 彼女は、真っ直ぐにルートヴィッヒを見つめ、そしてこの場において初めて口を開いた。

「ルートヴィッヒ軍団長、一つ、質問をよろしいですか」
「・・・伺おう」

 ルートヴィッヒもまた動く様子なく、姿勢を崩さずに彼女に応対した。そしてミューズは、短く質問を口にした。

「お父様を・・・クレメンス=クラウディウスを殺害指示したのは、貴方なのですか」

 しんと、その場が静まり返る。
 何も気にする事なく煙草を燻らせるブラック以外の面々が全て動きを止めたその空間で、ルートヴィッヒは深く息を吐き、そして浅く頷いた。

「直接の指示ではない。だが無論、深く関与はしているし、私が当時それを望んでいたのは事実だ。その真相も、他ならぬ貴女が望むならば語ろう」

 ひんやりと、その場の空気が冷たくなるのが誰しもに感じられた。それは気温で感じるようなものではなく、正に怖気を感じるといったような、そんな冷たさだ。
 それは、魂をすら凍りつかせるという月の精霊の息吹を行使することのできるミューズが、その身に宿す魔力を無意識に拡散させてしまった結果だった。
 だが彼女もまた、激昂の内にありながらも己を律したシャールと同じく、すぐにその魔力の胎動を収めてみせた。

「今は、そのお言葉だけで十分です」

 そういってミューズが立ち上がると、それに合わせてシャールも立ち上がった。そうして部屋の中にいる騎士らに見守られながら、トーマスら一行はその場から外に出て、当てがわれた船室へと案内されていった。
 去りゆく彼らを、ルートヴィッヒは、矢張り表情の読めぬ鉄面皮で見送るのみだった。

 

 

『食い止める、だと?! 背後からも追手が迫る!お前ひとりでどうこうできる数ではない!』

 辺り一体は、既に炎と怒号に支配されていた。
 ゲッシア独自の伝統的な染料で染め上げられた衣服はあっという間に煤で汚れ、挙句には数度となく斬り結んだ返り血で醜悪な斑模様を形成していた。
 歴史あるゲッシアの宮殿が無残にも崩れ去る様を横目に、瓦礫に塗れた道無き道を切り開き掻い潜るようにして、無我夢中で駆け抜ける。
 そしてついには背後からも前方からも悍ましき邪教徒が押し寄せてくることを察知したハリードは、姫と共に隣を走っていたルートヴィッヒが自分の言葉に珍しく冷静さを欠いた様子で怒鳴りつけるのを、場違いにもどこか可笑しささえ覚えながら聞いていた。
 或いは既に自分は、冷静な判断が出来ていないのかもしれない。頭のどこかでそう感じながらも、今の自分にできることはここでの足止めであり、姫を逃すにはこれしかないのだ、と己に言い聞かせ、怒るルートヴィッヒに向き直った。

『ルートヴィッヒ、頼みがある。姫を連れ、お前の祖国、メッサーナに逃げてくれ』
『ハリード!』

 ハリードの言葉に、姫が悲痛な声を上げる。勘弁してほしい。そんな声で名前を呼ばれたら、今し方の決意が、いとも簡単に揺らいでしまいそうになる。
 だが、それは絶対にできない。何より最優先するべきは、姫の命だ。
 自分の覚悟を目で悟ったのか、ルートヴィッヒは苦虫を噛み潰したような表情で、苦悶の声を上げた。

『よもや、我らを逃すための時をかせぐと?』
『なりませぬ!共にハリードも・・・!』

 ルートヴィッヒが決死の様子であるハリードに問いただすと同時に、姫が再度悲痛な声を上げる。だが、その声に応えてはならない。
 決して、応えてはならない。

 

 当てがわれた船室の椅子で船の揺れに身を任せ、浅い眠りに浸っていたハリードは、寝起きが最悪だと言いたげな表情で眉間にシワを寄せながら目を開いた。
 そのままの表情で窓の外を見やると、傾き始めているようだが、それでもまだ陽は高い。時刻は先ほどの会談が終わってから、そう経っていない様子だった。

(・・・見たくもないものを久しぶりに見たな・・・)

 既に微睡は去り、そして勿論、寝起きは最悪だ。このままの状態で無機質な狭い船室の中にいても、気が晴れることはないだろう。
 そう判断したハリードは、フォルネウス戦で折れたものの代わりにバンガードで新たに用意した曲刀を手にして、気分転換に甲板へと出向くことにした。たかだか気分転換にも自らの得物を欠かせない性分は我ながらどうかと思うが、ある意味で此処は敵地のようなものだ。用心には越したことはないだろう。
 そう自嘲気味に思いながら部屋を出ると、程なくして甲板へ向かう階段が通路の先にみえる。軍船内であるというのに一般船舶と比べて通路の広さに国力の強大さを垣間見て皮肉めいた笑みを浮かべながら、波風を求めて外へと登る。
 甲板に出ると、表にいる船員も疎らで、感傷に浸るにはこれ以上ないほどの場所だった。
 なんとはなしに甲板を歩いたハリードは、適当な船の縁に立ち尽くすと、遠く海の向こうに見える陸地へと視線を向けた。
 船の進行方向は、東。となると船の右舷である南側に見えるあの大陸は、南方の密林あたりだろうか。となるとその更に東には、彼の愛して止まない灼熱の故郷、ナジュ砂漠があるのであろう。
 今はもう彼には帰る場所のない、愛するべき故郷だ。

「・・・ハリードよ」

 幾ばくかの間そうしていると、ふと背後に人が近づく気配を感じた。そしてハリードが振り返る前に、先んじて彼を呼ぶ男の声が届く。
 その声は先ほども夢想の中で聞いたばかりだったので、一々振り返らずとも分かる。
 ルートヴィッヒだった。

「・・・何の用だ。今更になって、昔話でもしに来たのか?」

 そういってハリードが振り返ると、そこには先ほどまでの鎧ではなく軍服を纏い、武装も剣のみを腰に下げたルートヴィッヒがいた。先ほど見た時と変わらずの読めない表情のようだが、よく見れば幾分かは外面を省いている様にも見える。それは夢に見た十年前から全く変わっていないようで、しかし改めて見てみれば多少は老けたようにも感じる。ならばそれは、当然自分もそうなのだろうな、と考えた。
 そう。彼の故郷が滅びたあの戦争から、もう十年と言う歳月が流れているのだ。

「お互い、もうそんな間柄ではなかろう。それに俺とお前の間にあるのは、気楽に語れるほど懐かしむような話でもない」
「同意見だ」

 ならば何をしに来た、とは言わなかった。ルートヴィッヒという男はその優れた容姿に反して、昔から何方かといえば必要な時以外は無駄口を叩かぬ、行動派の男だ。だから彼がここに来たのは無論、単なる昔話などをしに来たわけではないのだろうということは、言うまでもなく察しはついている。
 なので、無言で先を促すようにハリードが視線を送ると、ルートヴィッヒはぴくりとも表情を変えずに歩き出し、ハリードの横に並び立って海へと視線を向けた。

「俺はあの時から今まで、何者にも屈しぬ強さを欲し、その為にここまで歩んできた」

 唐突に語り出したルートヴィッヒの言葉に、ハリードは船の縁にもたれ掛かりながら聞き耳を立てる。

「十年前のあの時、俺やお前は、弱かった。俺はあの凄惨な敗戦を経て、己の信を貫くには絶対的な強さが必要なのだと悟った」

 強さ。
 ルートヴィッヒのその言葉に、ハリードは微かに視線を細めた。
 確かに、あの時の自分は弱かった。そして、彼の祖国ゲッシアも自分と同じく、弱かった。
 だから、敗けたのだ。
 英雄アル=アワドの元で興り、数百年続いたゲッシア王朝の唐突な滅亡は、死蝕の数年後という時節も相まって、大いなる時代の変革を世界に印象付ける衝撃的な出来事であった。
 十六年前の死蝕によって、世界は全ての新たな命を失った。
 また悲劇はそれだけに止まらず、世界各地で急激な荒廃を理由とした悲惨な事件が相次いだ。そして、一部の人々はそんな世界を憂い、その救済を『神』に求めた。
 三百年前に四魔貴族から世界を救った聖王は、もういない。ならば今の世界を救うのは、次なる救世主に他ならない。それこそが、魔王を超え聖王をも超えた、神王である、として。
 敬虔なる聖王教国家であるメッサーナ王国の、時の王アルバートと近衛騎士団は、当然にその存在を排除しようとした。そしてメッサーナから迫害された彼らが流れ着いたのが、西方にて聖王を拝しない唯一の国家、ゲッシアだった。
 だが、ゲッシアは英雄アル=アワドが魔王を退けた時から自国力に傾倒する独立王朝であり、ここもまた、異教徒を受け入れることはなかった。
 各地での度重なる迫害に憤慨し、そして遂に蜂起した神王教団が起こした宗教戦争が、聖王暦三百五年のゲッシア戦役である。
 ゲッシア朝は、その長い歴史に浸かり、甘んじ、弱体化していた。その治世は有り体に言って排他的であり、古来からの厳格な階級制度も変わることなく、外部の文明の進化を積極的に受け入れることもなかった。
 確かに蜂起した神王教団は、ゲリラ戦に特化し自爆攻撃まで行う苛烈な戦線を築いた。だが、それでも本来、一国を相手取るには不足していたはずなのだ。それでも、彼らは勝った。
 つまりゲッシアは、その長年の己が傲慢により、自ら滅んだのである。当時の論者は、挙って知ったような口ぶりでそう言った。
 ハリードはその時に故郷、家族、愛する者の全てを失い、それでもついぞ彼自身だけは命を落とすことがなく、喪失感に苛まれながらこの十年という歳月を過ごしてきた。
 しかし、同じくあの時に大半のものを失ったはずのかつての義兄弟ルートヴィッヒは、今こうして世界最大の王国の軍団長として自分の隣に立っている。

「今のその姿が、お前の求めた強さなのか」

 視線は向けないまま、ハリードはそう呟いた。
 すると隣から、ふっと息を漏らす音が聞こえた。ルートヴィッヒが薄く笑った。
 堅物男が笑うと思いの外気色悪いものだな、等と思いながら、ハリードは彼の言葉を待った。

「そうだ。いや・・・そうだった、か」
「なんだ、今は違うのか」

 基本的には物事に対する回答が明快な男のはずだが、それにしてはえらく歯切れが悪い返事だなと感じてハリードが聞き返すと、ルートヴィッヒは先ほど浮かべた苦笑いを崩さぬままに続けた。

「ハリードよ。お前は、世界を救うのか?」

 唐突な質問だった。
 思わずハリードが何を言い出すのだとでも言いたげな顔でルートヴィッヒに視線を向けると、彼は至極真面目な様子でハリードに視線を向けていた。そこでハリードは改めて思い出す。この男は、昔から冗談の類をほとんど言わない男であった、と。

「悪いが、俺が『八つの光』とやらであることを根拠にそれを聞いているのならば・・・答えは否だ。まぁ、余程の前金の上での依頼ということならば、受けるかも知れんがな」

 自分の判断基準は、常に明確だ。
 金になるか、ならないか。それだけでしかない。
 ハリードは、改めて考えるまでもなくそう確信して返答した。
 実のところを言えば、今自分がこうしているのも半分以上は、それが目的である。己の思うところにより行動を共にした側面も確かにあるが、それでもカタリナらとの旅は、単純に様々な事件事案に遭遇することが多く、その中では通常の小さな依頼を幾つ請負っても全く届かないほどの多額の報償金を狙うことが出来た。しかも古代の遺跡やらに足を踏み入れることもあり、そこでの財宝回収も狙える。これなら、稼ぎの選択肢としてはトレジャーハンターも悪くないのではないかと考えてしまうほどだ。
 つい最近ではまさかの四魔貴族などを相手取ることになったが、あの海底宮でも少なくない宝物の回収を行えた。それは一年を只管傭兵業に費やしても、全く届かない様な額だ。戦場と同じく己の命を切り売りしてあれほどの財が稼げるのであれば、それは彼にとって何の不足もない事であった。
 その返答を聞いたルートヴィッヒは、何ら笑うこともなく、そうか、と言って頷いた。

「俺はな、恐らく世界を・・・救おうとしていたのだ」
「ほう・・・祖国の同胞をすら裏切るお前に、よもやそんな高尚な目的があるとは思わなかったな」

 ルートヴィッヒの渾身の冗談に、ハリードは大いに皮肉めいた笑いを浮かべてやる。
 ハリードのいう同胞への裏切りとは、五年前のルートヴィッヒによるピドナ上陸戦のことを指していた。
 当時、既に亡国の王族であるという身分を隠して傭兵業に身を費やしていたハリードは、この戦役でメッサーナ近衛軍団の側に雇われて戦場に馳せ参じていた。戦そのものは流石というべきか時の軍団長であるクレメンス=クラウディウス率いる近衛軍が堂々たる戦いでルートヴィッヒの率いる軍を退け、その際に隊列上翼にて傭兵部隊を率いていたハリードも、この時には大いに稼がせてもらったものだ。
 この時の戦いでは一部隊長であるハリードと敵軍総大将であるルートヴィッヒが直接顔を合わせることはなかったものの、しかし後にハリードは同じメッサーナの民であるはずの近衛軍を攻めたルートヴィッヒの行動がどうしても解せず、後のクレメンス急死によって台頭したルートヴィッヒのいるピドナ宮を尋ねたことがあった。だが、ハリードの何度かの訪問に対してルートヴィッヒが応じることは、ついに一度もなかったのである。
 だが、今更になってその時の真意などを問うつもりは、ハリードにはない。
 もう、そんなことは彼の中では、どうでもいいことなのだ。だが心のどこかで、そんな風に思う事自体が、己の中にあった国を思い民を思う情熱を過去のものとしてしまった何よりの証拠なのであろうな、と無意味に自虐的な感傷にも襲われる。

「・・・己の来た道に言い訳はしない。だが、強くあり何者にも負けぬということは、結果として救世主にすらなるのは世の常なる事だ。だが、俺がそれを目指し進んでいた道の先に、お前たちが忽然と現れた」
「・・・・・・」

 世界最大の大国メッサーナの王位が今や目前にあろうという男が、一体何の理由で自分たちを気にしようというのか。全く話が見えずにハリードが続きを待つと、ルートヴィッヒはハリードに向き直りながら言葉を続けた。

「お前を含む八つの光が、この年の初めに起こったロアーヌでのクーデターを端として活動を開始したことを知り、俺はお前たちの動向を探っていた」
「・・・流石に、情報は筒抜けか」

 これは、恐らくミカエルその人も八つの光であったことも既に知っていると見て良いだろう。メッサーナの間者は文字通り、世界各国各地に潜んでいるようだ。
 ハリードがそんな近衛軍団の情報網に感心していると、ルートヴィッヒはそれに対して皮肉めいた笑みを浮かべた。

「あぁ。だから知りたいことは当然知っているし、知りたくなかったこともまた、知っているのだ」
「知りたくなかったこと、だと?」

 ハリードが眉間に皺を寄せながら尋ねると、ルートヴィッヒは腕を組んで片足に重心を移しながら、どこか自嘲気味な様子で笑みを浮かべた。

「ハリード・・・お前は既に、四魔貴族をすら打倒する力を秘めているのだろう。いや・・・既にその一部の打倒を為した英雄であったな」

 それは、フォルネウスを討伐したことを言っているのだろう。それなら残念ながら自分の功績と言うには全く語弊がある、と言いかけたが、ハリードは今は黙って先を促すことにした。

「先んじてロアーヌもまた、南方密林にあるとされる幻の火術要塞を発見・制圧し、四魔貴族アウナスを打倒した。その際の討伐隊を率いていたのが、フォルネウス討伐にてお前と共にいたというロアーヌの騎士・・・聖剣マスカレイドの所有者であるカタリナ=ラウランであることも伝え聞いている」

 ハリードはルートヴィッヒの言を、黙って聴き続けた。
 そのアウナス討伐に関しても、その実はカタリナらが到着する直前に何者かによってアウナスは既に滅ぼされていたという事情があるのだが、流石にそこまでは伝わっていないらしい。とはいえ、全く舌を巻くには十分な情報収集能力だ。

「特に此度のフォルネウス討伐に関し、あの伝説の移動要塞バンガードを見事起動せしめたその手腕は、実に見事だった。直前のフォルネウス兵の侵攻によって二度と動かすことが叶わぬかもしれなかった、その間際での起動。あれは、どう足掻いてもあの時点の我々には為し得なかったことだ。もしあの時お前たちの機転がなくバンガードがアビスの魔の手に落ち破壊されていれば、最早その時点で世界を救う術が無くなっていただろう」
「・・・・・・ま、そうかもしれんな」

 ルートヴィッヒの言に則って思い返せば、確かにあれは瀬戸際の状況ではあった。
 もしバンガードがあのままフォルネウス兵によって破壊されてしまったとしたら、最果ての島へ辿り着くことも、深海にある海底宮への侵攻も、その全てが不可能になっていただろう。そして再び今の人類がバンガードと同等のものを作り出すには、先ず何よりも結束力というものがない。三百年前に聖王十二将であるフルブライト十二世が中心となって構築した世界経済の結束も、荒廃した世に争わんとする国の結束も、救世を願う人々の結束も。
 勿論、新たなバンガードを今のメッサーナ王国が単独で作り出せるのかといえば、それも現時点では不可能だと言い切れるだろう。それが、最も今のメッサーナを知るルートヴィッヒには解っているのだ。

「つまり、我らでは世界を救えなかった、ということだ。知りたくもなかった己の無力を、改めて思い知らされた」
「ふん・・・随分と殊勝なことだな」

 ハリードが率直に意見を述べると、ルートヴィッヒは何ら動揺することもなく、静かに頷いた。

「思えばもっと以前・・・妖精族を救った時にしても、そうだ。妖精族の里とやらがアウナス軍の侵攻を受けた際、奇しくもロアーヌが軍をトゥイク半島に駐屯させていた。残念ながら今のリブロフの軍は、腑抜けだ。あの時は、ロアーヌの軍でなければ妖精族を救うのは不可能だっただろう。そして火術要塞は、妖精族の助け無くして辿り着くことが適わないと聞く。あの時に妖精族が滅んでいれば、密林からアウナスの侵攻が全世界に広がったかも知れぬ。俺は別に運命論者ではないが、流石にこう立て続けに現実を目の当たりにすれば、宿命がお前達にあり、我らにないということくらいは、理解できる」

 ハリードはルートヴィッヒの言葉を聞きながら姿勢を変え、船の縁に両腕をついて体重を預けた。揺れる軍船の先に、先ほど垣間見た南の大陸を見る。

「これら事実を踏まえ俺は、今直面する脅威から世界を救うという点において、お前たちには及ばぬという結論に至った。だから、今お前たちと対立する道は無益だと判断したのだ」
「・・・だから俺たちを召し抱えるわけでもなく、ただ敵ではないという立ち位置を確保しようって腹か」
「そうだ」

 ルートヴィッヒの言葉には、微塵も嘘偽りがないのだろう。一人称も先ほどの会談の時とは違い、十年前に互いが義兄弟と呼び語り合っていた時のものだ。彼が今この場では本心の言葉を語っているのだろうということが、確かに感じられる。

「お前たちは、恐らく世界を救うのだろう。寧ろ・・・今のお前たちで救えぬのならば、メッサーナは愚か、他の誰にもそれは為し得ぬことだろう」
「ふん、まるで預言者のような口ぶりだな。さながら、初代メッサーナ王パウルスのようだ。流石は、次代メッサーナ国王様といったところか?」

 ハリードの皮肉たっぷりの言葉に、ルートヴィッヒは口の端だけを少しだけ吊り上げて笑った。こんな笑い方は、昔はしなかったな、とハリードは思う。十年で変わったのは、老けた意外にはこんなところか。

「俺は、メッサーナ王を継ぐつもりは、もうない」
「・・・ほう?」

 ここにきて、まさかその大役を自分ではなくミューズあたりにでも任せるつもりか、と思う。なら、それはやめた方がいいだろう、と即座にハリードは考えた。
 ミューズは確かに聡明な娘だが、その眩しすぎるほどの高潔さは、国というものを動かす時に、時に邪魔になるのだ。
 全てが正しさだけで動くほど、国家とは甘くはない。だが、その事実にあの娘は染まらないだろう。そしてそれは国の中枢という、この上無い豊かな苗床の中で跳梁跋扈する数多の役人共の不興を買い、疎まれるうちに絡め取られ失脚するのが落ちだ。それは嫌味ではなく、ハリードは本気でそう思っている。
 だが、ルートヴィッヒの続けた言葉は彼の想像を軽く超えるものだった。

「最近までは、そのつもりだった。それが俺の求める・・・己が歩むべき覇道だと考えていた。だが、それでは未来永劫、お前たちには並べぬだろうと悟った。故に俺は・・・今この世界を席巻する聖王崇拝と依存の歴史から脱却すべく、新たな国家を設立することにした」
「新たな・・・国?」

 その思いがけない言葉にハリードがルートヴィッヒへと視線を向けると、今度はルートヴィッヒが片手を船の縁に乗せて遠く南の大陸へと視線を向けた。

「お前たち八つの光によって世界が救われた後の新たな三百年にて、人類は、更なる強さを求め、進化しなくてはならない。そうしなければ、いつまでも人類はお前たちのような救世主を待つばかりの、弱き存在でしかない。しかし救世主とはどの場所、どの時代にも常にいるものではない。今のままでは、人が危機に瀕し、その時その場に救世主がいなければ、人は全てを諦め失わなくてはならない。それは、紛れもなく今の人類が抱える弱さだ。だから、それを脱却する為の新たな国を興す」

 それはまるで建国の英雄の言葉のようだな、と呑気にハリードは視線を波に移しながら感想を思う。
 確かにルートヴィッヒの言うことは、大枠では理解できる。
 特に己の力のみを信じてこの十年を生きてきたハリードからすれば、他者に頼らぬ生き方というのは、大いに共感しかない。自分以外の何かに拠り所を求めているという意味では、聖王崇拝を軸とした今のメッサーナ王国も神王教団も、大した違いはないと彼は思うのだ。
 だが一方でルートヴィッヒの考えは、かつて独立王朝を築いたゲッシアと、どのような違いがあるのだろうか、とも思う。
 己の力を信じ突き進んだ先に、ゲッシアは腐敗し弱体化の一途を辿り、そして滅んだ。
 隣に佇むかつての義兄弟が歩もうとするその道の先にも、結局はそのような結果が待っているのではないのか。そんなふうにも、彼には思えるのだ。
 だが恐らくは、そんな道を歩んだ一つの国家の滅亡を目の当たりにしているこの男だからこそ、そうはならぬための目算も、きっとあるのだろう。

「・・・お前は、どうするのだ」

 突然に話を振られて、ハリードは危うく素っ頓狂な声を上げるところだった。

「お前は、その旅の先に、何を為そうとしている?」

 単なる興味本位で聞いている様子は、ない。
 それが痛切なほど解るからこそ、ハリードはルートヴィッヒに視線を合わせることはしなかった。
 ルートヴィッヒは十年前の敗戦から、己の信じた覇道を歩み続けている。そしてその結果として一つの答えを見出した彼は、今それを自分に包み隠すことなく話している。
 そう、これは十年前に全てを失い、その覇道の最中で袂を分かった自分に対する、彼なりのけじめなのだろう。
 だが、ハリードにはそれに対する返答など、なかった。

「・・・俺は・・・」

 何を言おうとしたのか、自分でも分からない。
 ただ、何かを自分も言わなくてはならないという強迫観念に駆られて、声を出したに過ぎないのかもしれない。
 いや、本当にそうだろうか。自分は、何かを言いかけたのではないか。
 それは、一体何なのか。
 未だに夢に見る、十年前の悪夢。
 あの時に失った愛する祖国を再興するためと称して、どれだけ意地汚くとも傭兵業に費やしてきた日々。だが本当にそれは、今の自分の望みなのか。
 仮に祖国再建を果たしたとしても、そこにもう、自分が愛した人は、いない。
 それは、本当に自分の望むゲッシアなのか。
 しかしそうではないのだとしたら、ならば一体自分の望みとは、到るべき場所とは、一体何処なのか。
 数瞬の間に様々な思いが、頭の中を駆け巡る。
 だが、そこに答えはない。
 無意識のうちに腰に備えた曲刀の柄を握りながら、ハリードは結局、言葉に詰まってそれ以上は何も言えなかった。

「・・・ふ、お前にはまず、世界を救うという宿命があるのだったな。今は語らずとも、その先に見せてもらおう」

 違う。
 そんなことでは、ないのだ。
 兎に角、そう言おうとしてハリードはルートヴィッヒへと顔を向けた。しかしルートヴィッヒは既に彼に背を向け、歩き出していた。
 そして数歩進んだところで足を止め、ハリードへ振り向くことなく、ただ少しだけ上を向いて言葉を紡いだ。

「我々は・・・生きていくために、選ばなければならない。選ばず止まれば、死が待っているのみだ。だからこそ生きて前に進むには、それしかないのだ」
「・・・・・・」

 その言葉に対する返答を待つでもなく、ルートヴィッヒは歩き去っていった。
 ハリードもまた声を出すことなく、歩き去っていく彼の背中を見つめているのみであった。

 

 

前へ

次へ

章目次へ

目次へ