第九章・7 -ロアーヌ侯の名代-

 

 ただ一条の光すらも届かぬ、黒く、重く、深い、どこまでも只管に続くかのような暗闇。
 まるで死蝕の只中にでもあるかのような絶望感に覆われたその場所は、その空間そのものが、生きとし生けるものの介在を頑なに拒んでいるかのようだ。
 そんな、外界から断絶された醜悪なる地の底。その最も深き場所に揺蕩う暗黒の、中心部。
 気がつけばそこには、圧倒的な存在感を漂わせながら蠢く、四つの気配があった。

「忌々しい・・・」
「あぁ、全くだ・・・三百年前でさえ、これほどの忌々しさはなかった」
「しかしこれも、定めのうちじゃ・・・」
「・・・そう。我らが宿願のための、定められた通過点だ」

 言葉短かに、其々が呟く。

「ふん・・・兎も角、残るゲートは一つに集約された。我らの宿願さえ叶うなら、あとは好きにやればいい」

 何者かが発したその言葉と共に、三つの気配がその場から消える。
 残された一つの気配は、深い闇と静寂に身を任せ、ただそこに佇んでいた。

「好きに、か。無論、そうさせてもらおう。何しろ、三百年も待ち侘びたのだからな・・・」

 どこかに愉悦の響きを感じさせる声を残し、気がつけばそこには何者の気配もなくなった。後には、ただただ深い深淵が横たわっているだけであった。

 

 

 アビスリーグの騒動が収束してから二ヶ月近くが経ち、世界が新緑の季節を迎えんとしている頃。
 各国での様々な任務や情報収集を終えた面々は、その殆どがピドナへと帰還していた。
 しかしながら、その場には戻ってきていない者も幾人かおり、その者らについては現在どこにいて何をしているのか、という点すらも分かっていない。
 それはつまり、ヤーマスで一人別れたサラと、それを追うようにピドナを去ったエレンとハリードであった。
 サラの行方は既に半年以上もの間、ようとして知れず。その目撃情報は、失踪直後にキャンディがファルスピドナ間の宿場町で夜間に見たというのが最後だ。
 一方のエレンハリードの両者については、どうやら旧ナジュ王国首都である神王の塔に向かったという情報までは商業ギルドを通じ得られているが、その後の足取りは矢張り掴めていなかった。
 出来ることならば、今すぐにでも彼女らを探すために全ての業務を投げ出してしまいたいとすら、トーマスは考えている。
 だが、それは己以外の誰もが望まぬこと。
 また、自分が今ここで他の全てを投げ出すことが情勢にどれほどの影響を及ぼすかも理解しているからこそ、彼は動けないし、動かない。
 その大いなる内と外の気持ちがせめぎ合う矛盾を振り払うかのように、トーマスは目の前の新たなる課題へと一心不乱に向かっていた。
 そこに、コンコン、と扉をノックする音が響く。

「どうぞ」

 目の前の書簡に視線を向けたままトーマスが入室を促すと、程なくして扉が開かれ、見慣れた二人が部屋の中へ入ってきた。

「あぁ・・・お二人とも、戻られましたか」

 静かに開かれたドアから部屋の中に入ってきた二人、ミューズとシャールを認めると、トーマスは書簡へと向かっていた意識と手を休め、彼女らに向かい合った。
 酷く疲れた様子のミューズに部屋のソファへの着座を促したシャールは、次いでトーマスへと視線を向けると簡単に状況説明を行う。

「一先ず、旧市街の住人の避難は今朝時点でほぼ完了した。あの辺りをねぐらにしていたならず者共も、流石に異変を察知したのか市外へ散っていったようだ。今の旧市街には、鼠一匹も居やしないだろう」
「短期間での迅速な準備と誘導対応、本当にお疲れ様でした。これも全て、ミューズ様の人望のお陰です」
「いえ・・・旧市街の方々は、その殆どが何らかの事情で新市街を追われた方々。同じ境遇である私だったから、偶々耳を傾けてくれたに過ぎません」

 ミューズは自らの疲れを吐き出すように一息つくと、トーマスにそう答える。
 当然ながら旧市街の住人がそれだけの共通点でミューズの言葉を聞き入れたわけはないとトーマスには分かっているが、今はミューズの返事に浅く頷くに留めた。

「私の方からはこの数日で纏まった状況を含めた現状整理と共有を行えればと思いますが、今日は休まれて明日にしましょうか?」
「いえ、大丈夫です。お聞かせください」

 ミューズの気丈な返事に、トーマスは再度軽く頷いてから手元の書簡をまとめ、ミューズらと対面のソファへ移動し座り直した。

「では・・・。魔王殿から漏れ出した謎の瘴気の影響範囲ですが、現在は旧市街地のおよそ七割ほどまで達しています。おそらくあと一週間程で旧市街全体を飲み込み、此方にまで瘴気が到達するでしょう。次に増加した魔物の活動ですが、現時点ではまだ魔王殿より外に範囲を広げている様子は見受けられません。ただ、魔王殿上空を竜種の群れが飛行していたとの新たな目撃証言があり、一週間前に比べても内部の魔物数は増しているとみて間違いないでしょう」
「・・・道理で、この数日ずっと銀の手がひりついているわけだ・・・」

 トーマスの言葉に、シャールは視線を険しくしながら自らの右腕に装着された銀の手を見る。するとまるでそれに応えるかのように、カシャリ、と銀の手が僅かに鳴った。

 事の起こりは、かれこれ二週間ほど前に遡る。
 突如ピドナ旧市街の奥に聳える旧時代の遺物・魔王殿から、膨大な量の瘴気が外部へと溢れ出し始めたのだ。
 巷ではこれを昨年始めの似たような騒ぎに準え、『第二の予兆』として恐れ慄いた。
 そこから程なくして、溢れ出る瘴気に触れた魔王殿近隣の旧市街住民が謎の体調不良を訴えて倒れはじめた。
 そこからは、ピドナ全体が恐怖と混乱に陥るのに、そう大した時間は掛からなかった。
 即座に旧市街の閉鎖や、更には魔王殿を旧市街ごと焼き討ちしろなどの過激な声も宮廷内で噴出し、それに激昂したミューズがクラウディウス家の所有する土地を用い旧市街の住民を避難させる案を、ルートヴィッヒ軍団長に即日直訴。ルートヴィッヒ軍団長は、同日にこれを承認。
 そこからミューズは今日まで、カタリナカンパニーの全面的な協力を得ながら避難に必要な物資の確保、宮廷内や新市街で根強い『旧市街住民を流入させることへの不安』への説得、そして旧市街住民への避難対応などに奔走していたのであった。

「そしてこちらの軍備状況ですが・・・現時点で近衛騎士団以外の兵力は未だなく、近隣のファルスやスタンレー軍からの援軍についても、ほぼ期待は出来ないだろうとの軍団長の見解です」
「ふん・・・元々あの両軍をけしかけて消耗させたのはルートヴィッヒ自身だ。自業自得だな」

 シャールが忌々しそうに表情を歪めながらそういうと、対して今は至極冷静な様子のミューズが、片目を瞑りながらシャールに視線を投げかけた。

「シャール、今はそのようなことを言っている時ではありません」
「は・・・申し訳ございません」

 ピシャリと飛ばされた主人の言葉に、シャールは姿勢を正して直立する。
 その見慣れぬやりとりに、トーマスは彼女がこの二週間で実に様々な、望まぬ経験というものをしてきたであろうことを感じた。
 特段、彼女が苦心したであろう点は、新市街の有力者や宮廷貴族への説得に違いない。
 自分とは根本から価値観の異なる人種への説得と物事の調整とは、清廉なる彼女にとって大いなる苦行であったはずだ。
 当然ながらこれによる一切の責任をクラウディウスが持つことを条件とされたであろうし、そしてなんらか起こる、もしくは意図的に「起きた」とされるであろう騒動を全て彼女の責任とし、彼女の宮廷内での発言権を弱めていく思惑が貴族や有力者連中にあることも、間違いないだろう。
 己の既得権益を守ろうとする有力者の思考や行動は、常にそうしたものだ。
 ミューズの隣で直立しているシャールなどは、彼女がそうした跳梁跋扈の世界に身を投じている様に、実のところ誰よりも一番心を痛めている。
 それでもきっと彼は、ここまでに愚痴の一つも吐いてこなかったに違いないのだ。
 なのでどうしても心が気安くなるこの瞬間に宮廷事情の話を振ったのは、ちょっと配慮が足りなかったか。そんな風に、トーマスは少し己の言動を省みた。
 しかしなんにせよ、この二週間で旧市街住民の避難完了を成し得たのは、今のミューズの確かな調整手腕である。その結果として勝ち得た冷静さが彼女に似合うとは到底思えないが、しかし彼女は今は自らそれを望み、その仮面を被っているのだ。
 だとしたらこちらが今そのことを下手に心配するのは、むしろ失礼にあたるのだろう。

「・・・なので、つい先日戻られたカタリナ様に、早速ですが宮廷へと赴いていただいています」
「おぉ、カタリナ殿も戻られたか。しかし、なぜ宮廷に?」

 頼もしい戦友の帰還に先ずは喜んだシャールだったが、そこで感じた疑問をそのまま口にする。
 すると、それにはトーマスより先にミューズが浅く頷きながら答えた。

「カタリナ様が、ロアーヌへの物資の見返り・・・ということですね」
「仰る通りです。ですので侯国の名代として、モニカ様がカタリナ様と共に向かいました」

 トーマスはミューズの言葉にうっすらと笑みを浮かべながら答え、手元の書簡をそのままミューズへと手渡した。

「一応手元にある現時点までの情報はお渡ししておきますが、矢張り今は少しおやすみください。せめて、カタリナ様たちがお戻りになられるまでは」
「そうですね・・・お気遣いありがとうございます。それではシャール、いきましょう」
「はっ」

 トーマスから書簡を受け取ったミューズはシャールの手を借りて立ち上がり、ゆっくりとした足取りで部屋を後にする。
 その様子を立ち上がって見届けたトーマスは再度心の中で彼女を労いながら、再び自らの机に戻り作業を再開した。

(当然ながらルートヴィッヒ軍団長との話は、一筋縄では行かないだろう。しかし、きっとモニカ様ならば大丈夫なはずだ・・・)

 如何せん他者の行動を心配しがちなトーマスは、結局作業にあまり手がつかずにもんもんと他の考え事をしながら時間を過ごしてしまうのであった。

 

 

「お初にお目にかかりますわ、ルートヴィッヒ近衛軍団長閣下。わたくし、モニカ=アウスバッハと申します。本日は我が兄にしてロアーヌ侯国侯爵、ミカエル=アウスバッハ=フォン=ロアーヌの名代として、この場に参りました」

 ずらりと武装した衛兵が壁際を埋め尽くした、伝統あるピドナ王宮の謁見の間。モニカはその場に立ち、多くの物珍しそうな視線を浴びながら、ルートヴィッヒに相対していた。
 来る前はピドナ王宮の謁見の間がどれほどのものなのかと思ったものだが、調度品や装飾こそ確かに見事であるものの、こうして立ってみると事前予想したほど広大ではない。何ならロアーヌ宮廷の謁見の間とそこまで大きくは違わないのではないか、などとモニカには感じられた。
 なので思いの外自分から近い距離感で玉座の脇に立つ軍服姿のルートヴィッヒをじっくり観察しつつ、モニカは口上と共に優雅にドレスの裾をつまみながら恭しく一礼をしてみせる。

(ふぅん・・・公的な挨拶の場でも玉座には座らずその脇に立ち、その格好もあくまで貴族然としたものではなく軍服なのですわね・・・。既にメッサーナ王気取りをしていないのは、まだ好感が持てますわ)

「良くぞピドナ王宮へ参られた、モニカ=アウスバッハ殿。流石は噂に聞くロアーヌの華、その噂以上に実物はお美しい。斯様な軍服で出迎えてしまった無骨な軍人の無礼を、どうか許していただきたい」
「いいえ、とんでもございません」

 相手の世辞に短くそう答えながら、モニカはスッと背筋を正す。
 それに合わせてルートヴィッヒも口を結び、彼女の次の言葉を待った。

「先ずは閣下に、我が国を代表して御礼を申し上げたく存じます。先般、我が国と魔物との長期戦線へ貴重な物資の援助を頂きましたこと、誠にありがとうございました。御援助頂いた物資によって戦線が回復し防衛に成功したことは、閣下のお力無くしては成し得なかったことであると、わたくしどもは確信しております」
「いや、対四魔貴族軍との戦線ともなれば、それは言わば世界共通の宿敵。我らとしては聖王様の時より共に歩んできた古き友へ、当然のように手を差し伸べたに過ぎない」
「勿体ないお言葉です」

 にこやかに、そして自然な様子で会話を弾ませる両者。
 ルートヴィッヒの近くに控えていた副軍団長マルセロは、いま世界で最もメッサーナ王に近い自らの主人を前にして、これほどまで威風堂々たるロアーヌの姫の姿に、内心では大きく舌を巻いていた。
 ルートヴィッヒが近衛軍団長としてピドナに君臨してからというもの、各国要人がこの謁見の間に詰め掛けぬ月は一度もなかった。そして、訪れた誰しもが一様にルートヴィッヒの覚えをよくしようと、執拗に主人の顔色を窺ってきたものだった。
 だが、この姫にはそのような打算の素振りは全く見受けられない。
 無論、だからといって無礼というような言葉とは正反対の気品に溢れ、それは単に彼女が見目麗しいからという話では全くない。言うなれば一国を治める侯家の生まれという血筋からくる、揺るぎない誇りと風格。
 佇まい一つから、そこまで感じさせるのだ。
 ロアーヌといえば先代に勝る名君と名高いミカエル侯が特段に有名だが、その妹君までがこのような傑物の風格を漂わせているとは、ロアーヌ侯国は矢張り国家としての要人層が厚いと感じざるを得ない。
 何しろ、その層の厚さを最も代表する存在が、この姫の後ろに今も控えているのだから。

「そこで、我が国としましては閣下からの多大なる恩義に最大限報いるため、いま最もピドナに必要だと確信する我が国の剣とともに、本日ここに馳せ参じた次第でございますわ・・・カタリナ、前へ」
「はっ」

 モニカが自らの背後に向かい声をかけると、彼女の後ろで片膝をつき待機していたカタリナが立ち上がった。
 そしてモニカの横に立ち、ルートヴィッヒへ向かい騎士式の一礼をする。

「お初にお目にかかります、ルートヴィッヒ近衛軍団長閣下。ロアーヌ侯国が騎士、カタリナ=ラウランと申します。お目通り叶い、光栄に存じます」
「おぉ・・・カタリナ殿、お噂はかねがね聞いている。あの十二将ヒルダ様以来の侯国女騎士にして、既に複数の四魔貴族を討伐せし英雄。こうして生ける伝説に会えたこと、こちらこそ光栄に思おう」

 そう言いながらルートヴィッヒは玉座のある壇からカタリナらと同じ高さに降り、一歩カタリナへと近いてみせた。

(・・・あら、少し声色が変わりましたわね・・・。強く美しきに憧れを抱く・・・そうした極一般的な男性のサガは、この方にもご健在のようですわ。でもダメ、カタリナはお兄様のものですわよ)

 内心では一言一句全てに感覚を研ぎ澄ませながら笑顔を絶やさないモニカは、口上を述べたカタリナが半歩下がるのを待ってから再度口を開く。

「ピドナは現在、旧時代の遺物である魔王殿から発せられる強大な瘴気の影響を受け、混乱の途上にあられるかと存じます。魔物の集結もあるとのことで、瘴気と合わせ、通常の軍勢で対抗するには困難を極める状況のご様子。そこで、我が国の誇る最強の剣であれば今のピドナを必ずお救い差し上げることができると思い、それを以て先般の恩義に報いたいと考えております」

 モニカが言葉を述べると、ルートヴィッヒはふむ、と息を吐きながら声を出した。

「残念ですが・・・モニカ姫、それは少々、道理の通らぬ申し出ですな。確かにその者の実力は、今のピドナを救う最も有力な手立てであることに間違いない。しかしその者はロアーヌの騎士であると同時に、我がピドナで商売を営む、我らの内に居る者でもある。我が国内に在る人と物は喫緊の際、近衛軍団長の名の下に徴発権限を我々は有している。つまりその者は我が国においては徴発対象であり、援助対象としてお受けする者とは成り得ません」

 ルートヴィッヒが如何にも人好きされそうな柔和な顔で、しかしモニカの申し出そのものの正当性を全否定する。
 対してモニカは二、三度瞬きをしたものの、顔色ひとつ崩さない。

「あら・・・閣下、それはまた異なことを申されておりますわ。そうした法は当然我が国にもございますが、その論法に当て嵌めてしまうと、御援助頂いた支援物資がミュルスの港についた瞬間から、我が国の徴発対象となってしまいます。聖王様がコングレスで認めし爵位国はメッサーナ王国と共に、相互に協力を惜しまず、決して争うべからず。その大原則の元、わたくしどもはお互いの持てる自国資源を、時に惜しみなく分け与う。此度の双方が直面した危機とは、それに基づくものであると、我が国は解釈しておりますわ」

 モニカのこの言葉に、謁見の間全体が大きくざわついた。
 国家毎の法を持ち出したルートヴィッヒに対し、唯一の国際規範である聖王の教えを軸にモニカは話をしてきているのだ。
 言うまでもないことだが、総合的な国力でメッサーナとロアーヌの双方が争えば、メッサーナの圧勝である。仮にここでルートヴィッヒの機嫌を損ねてロアーヌに何らかの経済的報復を行うなどということがあった場合、他国もそれに追随する可能性は高く、そうなればロアーヌなどはひとたまりもあるまい。

(・・・でも、それは昨年までの話ですわ。我がロアーヌはお兄様が爵位を継いでから、この一年あまりの間に大きく勢力を伸ばしている。単に報復措置など行おうものなら、とても痛いしっぺ返しがありますわ)

 にこやかに舌戦を交わすその最中、モニカは心の中に敬愛する兄であるミカエルの姿を思い浮かべながら、揺るがぬ意志を体内に錬成し続けていた。

(・・・とは言え、この理屈では少々分が悪いのも事実。メッサーナを中心とする聖王様により救いをもたらされた各国は、確かに聖王記という『絶対規範』を持っていますわ。言うなれば、これは世界共通の法典。ただし・・・この三百年で風化したしきたりや解釈の分化などが幾つも起こっており、実際問題として国家同士の取り決めに持ち出す交渉材料としては、些か決定打に欠けるのが正直なところ。精々が、建前上の合意根拠として誓約書面の末筆に記載される類のもの)

 モニカのこの見立ては、非常に正しい。
 聖王の教えは今も様々な場面で世界に影響を及ぼし、人々の生活や分化に根付いたものとなっている。だが、こと国家としての取り決めという分野については、正味が建前として用いられる程度のものだ。決して違えることの許されない世界憲法、という程の代物ではない。

「ふふ、流石はモニカ姫、フェルディナント様に連なる敬虔なる聖王教徒であらせられる。しかし、国家の機能や権限は三百年も以前に定められた『お約束』では全く網羅しきれないほどに拡大、変容しているのが今の国際常識です。結論として、先般の我らからの援助物資を貴国は徴発対象としていない。まぁ元々貴国にはなかった物資ですから、それが国際的にも正しいでしょう」

 ルートヴィッヒは後ろに手を組み、あくまで柔和な表情を崩さずに続けた。

「しかし此の者の場合は、根本から条件が異なる。此の者は現在ピドナに活動の拠点を置いているだけではなく、ピドナで経営を行うことで利も得ている。商業ギルドを通じて我が国に本店登記されたカンパニーとして税も納めているし、実際に幾つかの国家事業にも加担したことで、国外では知り得ないピドナ内の情報も有している・・・。そのような存在を有事の際に徴発対象としない国家は、今のこの世界には何処にもございませんよ、モニカ姫」

 ルートヴィッヒは、饒舌に語る。
 国家同士の国力を背景とした軍事経済、国家間取引実績による戦略遊戯において、ルートヴィッヒは圧倒的な実力を持っているのだということを、改めて実感させられた。

「そこで・・・です、モニカ姫。貴国にはもう少し別の援助をお願いしたいと考えているのです。直近、貴国はナジュ方面へと遠征し大きく影響力を拡大しておられる様子。あの神王教団教長ティベリウス殿とも友好条約を結ばれたとか。ついては・・・是非ともミカエル侯のお力を借り、我が国へナジュからの援軍を要請させていただきたいのです。本来ならば世界最強の誉れ高いロアーヌ騎士団のご助力を願いたいところですが、件の長期戦線で大きく疲弊もしていることでしょうからね」

 ナジュからの援軍を要請する。
 これが何を意味するのか、この場において分からぬ者は居ないであろう。つまりこれは、神王教団の協力を仰ぐ、と言うことだ。
 メッサーナでは昨年、様々な面で優遇措置を施し蜜月を築いていた神王教団ピドナ支部の壊滅という、大きな政治的内紛を起こしている。これによるルートヴィッヒ政権への世論反発影響は非常に大きく、火消しや情報統制に苦心したことは、宮廷内ではまだまだ記憶に新しいことだろう。
 そのような国民感情を背景とした最中、ロアーヌから援軍が送られてきたのが神王教団の兵力だとしたら。

(まず確実に、メッサーナ国民のヘイトがロアーヌに向きますわね・・・)

 ピドナとしては未だ記憶に新しい、神王教団との禍根。これを蒸し返すようなことを他国が行おうものならば、世論が国内批判ではなく国外批判に傾くことは、想像に難くない。

(ふぅん・・・クラウディウス家の復権という痛みは伴ったものの、ミューズ様を取り込み世論からの反応をフラットに戻した次は、更に自国のヘイトを外部に分散させ、あとはそれを煽ることで政権としての支持を回復・・・といったところですわね)

 しかもこれは見え方を操作すれば、完全にロアーヌからの『侵略』とも捉えかねられない。
 何しろ此度の魔王殿の問題は、徴発対象としているカタリナという戦力を以って挑むことで、既に一定の勝率を確保している。万が一これが功を奏さなかった場合は撤退戦の中でナジュからの援軍も必要になるだろうが、仮にカタリナのみでこの危機を想定通りに脱したとあれば、このタイミングで訪れたナジュからの援軍は『自国の危機に乗じた神王教団とロアーヌの侵略軍』と市井の目に映ることだろう。
 あとはそれを起点として、如何様にも国際情勢を煽ることができよう。
 これならばどう転んだところで、ロアーヌの勢力を削ぐことができる、

(なるほど・・・自国の危機をすら、外交のその後を見据えて利用する。野心あふれる施政者としては、ある意味あっぱれですわ。まぁでも、お兄様には敵いませんけれど・・・。とまぁ、相手の表面上の狙いは解りましたわ。でも・・・本当に見据えたいのは、その先ですわね)

 モニカは、瞬時の間に思考を巡らせていく。
 ルートヴィッヒがロアーヌの権勢を削ぐ動きをしようとしている。それは今の申し出から読むことが出来た。
 だが、今更メッサーナ王国がそれをする必要が、いったいどこに在るのか。
 それをすることで、ルートヴィッヒはその先に何を成そうとしているのか。
 それが目下一番の関心事であった。
 このまま行けばルートヴィッヒがメッサーナ王を名乗る日は、そう遠くないだろう。そこに、ロアーヌという国の勢力は殆ど関係しない。
 当然ロアーヌがそこに反対をするという可能性はあるが、それこそ一国が反対したところでどうしようもない情勢を、この男ならば容易く整えられるだろう。
 なので、ここでロアーヌを弱体化させる目的は、そういう点とは別のところにあるはずだ。

(ロアーヌを弱体化させることで得られるメリット・・・この男が目指す、その先とは・・・?)

 ここまで、ルートヴィッヒが喋り終えてから数秒。そろそろ、静寂も限界か。

(・・・ふぅ、残念ながらわたくしには今この場この瞬間で、そこを読み切ることは叶いませんわね。きっとお兄様であればその先まで瞬時に読み、この場でもっと情報を引き出せるのでしょうが・・・口惜しいですわ)

 ふっ、とモニカが小さな吐息を漏らすと、その場の全員の視線が彼女に注目する。
 それを意識したのかしていないのか、モニカは姿勢を崩すことなく凛としたまま、より一層華やかに微笑んで見せた。

「ふふ、閣下・・・少々思い違いをなされておられるご様子ですわ」
「・・・ほう、思い違い」

 ルートヴィッヒもまた表情ひとつ崩すことなくモニカに問い返すと、モニカは「はい」と言いながら頷く。

「我が国の誇る騎士、カタリナの取り扱いについて閣下が唐突に言及なされたものですから、わたくしもカタリナについて、我が国としての見解を述べたに過ぎません。それにつきましては近年の国際情勢を鑑みた閣下の知見、とても学びになりますわ。ですが・・・わたくしは元々、カタリナを我が国からの援助してご提案は、しておりません」

 モニカの言葉に、周囲の衛兵や副軍団長マルセロなどは眉間に皺を寄せながら考える。しかし一方のルートヴィッヒは、少し長めの瞬きをひとつする間だけ考えを巡らせ、一言、呟いた。

「・・・・・・言葉の通り、剣、か」
「仰る通りでございます」

 モニカのその言葉と共に、カタリナが再度モニカの横に並び立つように半歩進み、鞘に納められた状態のマスカレイドを胸の高さに掲げた。

「聖王遺物が一つにして我が国の至宝、聖剣マスカレイド。騎士カタリナが魔龍公らを討伐出来たのは、彼女と共にこの剣があってこその事でございます。よもや・・・閣下は聖王様所縁のこの剣までを徴発対象と仰っているわけでは、御座いませんね?」

 モニカのその言葉に、謁見の間に控える衛兵らから再度、小さくないざわめきが巻き起こった。
 聖王記を軸とする規範については、先にルートヴィッヒが指摘したように現在の国際情勢上で強い影響力は持ってない。
 だが、聖王を拝する世界の象徴であり所有者が明確に定められた聖王遺物についてとなると、全く事情は異なってくるのだ。
 例えばレオナルド工房が所有権を持つ聖王遺物、聖王の槍。
 この聖王の槍については、例えピドナ内部にある聖王遺物であろうと、メッサーナ王の個人意向で徴発を行う権限はない。
 それは、聖王が四魔貴族討伐後に開いたコングレスで決められた中でも、最も遵守するべき重大事項として定められたものだ。
 それだけ聖王遺物というものが強大な力を持ち、管理所有権限が絶対的なものなのである。
 故に、ロアーヌ侯家のみがその管理権限を持つマスカレイドについては、侯家以外の誰も取り扱いについて言及する権限を持ち合わせてはいない。
 それだけは三百年たった今も、その先も、永劫変わることはない。

「・・・もちろん、私とてその剣を徴発しようなどとは、微塵も考えてはおりませんよ」

 ルートヴィッヒは相変わらず表情を崩さぬままそう言い、カタリナへと視線を向けた。

「カタリナ殿。パウルス王の予言に記されし八つの光である貴女でも矢張り、魔戦士公に相対するにはその剣が必要か」

 次にはモニカを除いたその場の全ての視線が、カタリナへと注がれる。
 カタリナは視線が集まりきったことを確認してから、ルートヴィッヒの言葉に静かに頷いてみせた。

「・・・はい、閣下。例えピドナが誇る世界一の工房レオナルドの主が打った当代最高の剣であったとしても、四魔貴族に突き立てることは全く敵いません。この剣が無ければ、私などが四魔貴族と相対することは、不可能でしょう。もしこの場での抜剣をご許可いただけるのであれば、そのご証明も可能です」
「ほう、証明・・・許可しよう」

 内心では溢れでる興味を隠しきれぬルートヴィッヒがそう言うと、カタリナはモニカからも距離を取るように数歩下がり、すらりと鞘からマスカレイドを抜き放った。
 その美しい装飾の小剣は確かに見るものの目を見張る装飾美だが、しかしそれでも単なる小剣だった。
 その様を観衆たちが小首を傾げながら見守っていると、カタリナは小さくそっと、囁いた。

「・・・起きなさい、マスカレイド」

 その瞬間であった。
 マスカレイドを中心として謁見の真全体に広がった赤い閃光と強烈な風圧に、居並んでいた衛兵の半数は後ろにガシャリと音を立て尻餅をつき、残りは大きく姿勢を崩した。
 一方、その場から動きこそしなかったものの赤い光から視界を腕で庇ったルートヴィッヒが、閃光と風圧の後にカタリナへと視線を向け直す。
 するとそこには先ほどの小剣ではなく、真紅の刀身を持つ長大な剣が現れていた。
 その姿はあまりに神々しく、美しい。そしてなにより、聖剣マスカレイドの放つ圧倒的な神威の如き存在感に、場の誰しもが飲み込まれている。
 眼前の光景を見たと同時、もはや言われるまでもなく、誰しもが確信させられていた。
 この剣であればこそアビスの脅威にも対することが出来、この剣でなければそれは全く不可能であろう、と。

「・・・なるほど。確かに、我々はこの剣の力を借りなければならないようだ」

 ルートヴィッヒが浅く頷きながらそう言うと、カタリナは一礼しながらマスカレイドの刀身をそっと撫でる。
 するとマスカレイドは淡く発光しながら、瞬く間に元の小剣の姿へと戻っていったのであった。

「・・・如何でしょう、閣下。我が国からのご提案、お気に入りいただけましたでしょうか?」

 その場で唯一、姿勢すらも微動だにしていなかったモニカが、風圧で乱れた髪とドレスの裾をさっと整えてからルートヴィッヒに向き直ってそう言った。

「・・・ロアーヌの国宝、聖剣マスカレイドをお貸しいただけるとは、これ以上ない望外の喜びです、モニカ姫。是非ともそのご提案を、受けさせて頂きたい。先ほどの我々からの要望は、お忘れ頂いて結構です」

 ルートヴィッヒは相変わらず柔和な表情でうっすらと微笑みながらそう言い、対するモニカも極上の笑顔で応える。

「閣下の御恩に報いることができること、我が兄ミカエルもさぞ喜ぶことでしょう。カタリナ、聖剣マスカレイドと共に、立派に勤めを果たしなさい」
「はっ」

 カタリナがモニカの言葉に応えて敬礼の姿勢をとると、満足げに微笑んだモニカはルートヴィッヒに向き直り、優雅に一礼をした。

「それでは閣下、わたくしはこれ以上の長居をしてもお邪魔になってしまいますから、これにて失礼させていただきたく存じます。ピドナと近衛軍団の皆様のご武運を、お祈りしておりますわ」
「モニカ姫の祈りこそ、我らが百万の援軍を得たようなもの。この危機を脱した暁には、是非とも御礼の席を設けさせていただきたいものです」
「はい、その時は喜んで」

 そのままモニカが帰途につくと、続いてカタリナもルートヴィッヒに向かい一礼をした。

「では、私も役目を果たしに向かいます。故国ロアーヌの名にかけて、必ずや閣下へ吉報を持ち帰って参りましょう。それでは」

 それだけ言い終わると、モニカの後を追うようにしてカタリナも即座にその場を後にする。
 謁見の間に集まっていた仕官や衛兵たちは未だ先ほどのマスカレイド覚醒の衝撃に気を取られているようで、そのなかで一人ルートヴィッヒは、ふっと思わず笑みを漏らした。

「ふふ・・・なるほど。八つの光とは武力のみの英傑にあらず、か。良い仲間に恵まれたな・・・ハリードよ」

 

 

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第八章・5 -夢語りのシェヘラザーデ-

 

 松明の明かりを頼りに長い階段状の岩肌を慎重に降りていった先には、自然の洞窟とは思えぬ程、いかにも不自然に何者かによって踏み整えられたような平らな足場が広がっていた。そしてその足場に立つと同時に、酷く焼けつくように肌に纏わりついていた空気が一気に重苦しさを増していくのを、カタリナは確かに感じていた。

(・・・この重圧、まるで四魔貴族に相対するかのよう。これが世界に名高い竜の気配か・・・)

 最早この奥にグゥエインがいるであろうことは明白であり、カタリナは空間が思いの外広々としており動き易さがあることに胸を撫で下ろしながら、いざという時のための算段を頭の中にいつくか思い浮かべつつ、気配の濃くなっていく方へと進む。
 すると程なくして、これまでは松明の明かり以外に全く頼るもののなかった暗黒の視界の中に、ふと煌く光の筋がいくつか見えてきた。

「・・・奥に、何かあるわ」
「・・・そのようですね」

 小声でフェアリーと囁きあいながら慎重に光の方へと進んでいくと、やがてその光の正体は、洞窟の天井に空いた穴から差し込む陽光に照らされた大量の貴金属だということが分かった。
 そして同時に、その後ろに『在る』ものへと強制的に視線が移る。
 そこには、煌びやかに輝く膨大な量の貴金属類にて積み上げられた小高い丘の上に、陽光を浴びながら四肢で鎮座し首をもたげてカタリナ達を見つめる、一頭の雄々しき巨龍の姿が在った。
 ある種の神々しさすら纏ったその姿を、カタリナは固唾を飲みながら視界に収める。
 竜の外皮部分は如何にも頑強そうな鈍色の鱗に覆われているが、首筋から腹部へと向かう部分は仄かに燃える炎の色をしている。
 その全身はカタリナの優に数倍はあろうと思われる大きさであるものの、しかし鈍重な印象は一切受けられない。寧ろ外皮の色彩と相まって、その姿は一振りの鋭利にして巨大な剣を思わせるようだった。
 そんな感想を抱きながらカタリナが竜を見ていると、ほんの一瞬、互いに視線が交わる。
 すると竜は、まるで来訪者たちを歓迎するかのようにその両翼を大きく開いて後ろ立ちになり、そのままゆっくりとカタリナを真正面に据えるように姿勢を変えて座り直してみせた。
 広げてみれば外皮とは全く異なる美しい深紅の翼が織りなす竜の姿は、まさかこの存在が世間に忌み嫌われる悪竜であろうことなど全く信じられないかのように神々しくすら思われ、またその姿でどうしようもなく追憶の念にも駆られ、カタリナは暫しその姿に意識を奪われたのだった。
 すると言葉を紡げずにいたカタリナの前にフェアリーが先ず飛び出し、竜の頭部の真正面まで飛び上がりながら、竜へと語りかけるように見つめる。元々の予定通り、先ずはフェアリーから念話での意思疎通を図ろうとしたのだ。
 だがその行動に反応した竜は、フェアリーの言葉をかき消すように、大きく鼻息を吐いた。

『良い。人語は交わせる』

 陽光に照らされるその外皮を僅かに震わせ、竜の声が空間に響く。その声は想像していたよりも若く精力旺盛なようにも聞こえ、また老成した賢人のようにも聞こえる。人では出すことができぬであろう、不思議な声色だった。

「・・・ここまで導いてくれたのは、やっぱり貴方だったんですね」

 竜の言葉を受けて頷いたフェアリーが声を上げると、竜はそれに答えるようにして視線を細めた。

『人間だけで来ていたのならば、単に『帰れ』としか言わなかっただろうがな。我が住処に妖精族の来訪など、三百年生きてきた中でも初めての経験だ。こんな機会を逃す手はあるまい』

 竜はちらりとカタリナへ視線を投げかけると、フェアリーへと向き直ってそう言った。
 その様子からカタリナは、どうにも自分が殆ど相手にされていない様子であるを察して大変に不服に感じる。が、しかしてそんな事もあろうかとフェアリーに同行してもらったのは矢張り己の賢い選択であったと思い直した。更には相手が人語を解し操ることができることは正に僥倖であると判断し、カタリナも負けじと一歩前に出る。

「私はロアーヌの騎士、カタリナ=ラウランと申します。貴方が・・・ドーラの子グゥエイン、ですね」
『・・・如何にも。我が母はドーラであり、我こそがグゥエインだ。人間よ、妖精族を連れ、一体ここに何をしに来た。まさかその矮小な体一つでこのグゥエインを討伐し、我が財宝を奪いにでも来たか?』

 まるでせせら嗤うかのように口角を震わせながら、グゥエインが言葉を発する。その言葉と共にグゥエインから発せられる圧が目に見えるように上昇し、思わず体が勝手に臨戦体勢に移行しようとする。それを理性で懸命に抑え付け、カタリナは首を横に振って見せた。

「いいえ、そのような用件ではありません。私は、かつて聖王様が辿ってきたであろう道を歩み、貴方と話をする為にここまで来ました」
『・・・聖王。我が母を滅せし者の道を辿ってきたとなれば、矢張り我を滅しに来たということではないのか?』
「わた・・・!・・・いえ、聖王様は・・・決して望んでドーラを滅したわけではありません。ただ・・・今はそのような話をしに来たわけでも、ありません」

 不意に訪れた大きな感情の揺らぎに、思わずカタリナは眉間を摘むようにして頭を押さえる。今までにないほどの記憶の混濁に軽い目眩を覚えながらも、それを振り払うように軽く頭を振ってからカタリナはグゥエインへと向き直った。

「・・・私は今世界に再び訪れている未曾有の危機に対し、この世界に住む者同士として此れを共に乗り越えたいと願い、ここに馳せ参じました」

 言葉と共に自らに敵意がないことを示すかのように両手を広げて見せ、カタリナはグゥエインを見上げながら続ける。

「確かに聖王様は、貴方の母を討ちました。故に私達人間を憎む気持ちがあろうことは、理解しています。そしてまた我々人間も、数多の同胞を貴方に喰いちぎられました。故に我々の中にも貴方を忌む者がいるのも事実です。ですが・・・それでも今この時に於いては、四魔貴族という共通の敵を討ち果たす為、我々は今一度手を取り合う事が出来るのではないかと、私は信じています。どうか、貴方の言葉をお聞かせ願えませんか」

 カタリナの口上を静かに聞いていたグゥエインは、まるで何事もなかったかのように翼の付け根部分を口先で掻き、そしてカタリナに向き直った。

『・・・アビスゲートは開き始めているが、魔貴族自身が通り抜けてくるには小さすぎる。それで奴らは、おのれの影をこの世界に送りこんできている。宿命の子を見つけだし、ゲートを完全に開くつもりだ。そうなれば、ゲートを閉じることは出来なくなる。今のうちということだ』

 グゥエインの語る言葉にカタリナとフェアリーが目を瞬いていると、グゥエインはまるで人が笑うのと同じような仕草で口元を歪め、火炎混じりの息を薄っすらと吐き出した。

『・・・確かに、母ドーラは聖王と共にビューネイを倒した。そして最後には聖王に殺された。人間とは勝手なものだ。だが、それを我は特にどうとも思わぬ。竜と人とは、予めそういう宿命であると我は解している』

 グゥエインが淡々とそう語るのを聴きながら、カタリナは何故だか胸が強く締め付けられるような想いに駆られるのを感じていた。それは果たして聖王の記憶が齎す感情であるのか、それとも自分の心からくるものなのか。その判別は、彼女にはつかない。
 竜は語りを続けた。

『我は四魔貴族共がアビスゲートを開こうとも、貴様ら人間が憎しみに駆られ我を討伐しに来ようとも、何れも一向に構わぬのだ。それもまた、その者たちが持つ宿命なれば。だが・・・この世界の空に君臨するべきは、誇り高き我ら竜。ビューネイが我が物顔でこの空を飛び回るのはガマンならん。協力してやってもいいぞ』

 グゥエインのその言葉にカタリナが目を見開きながら一歩歩み出ようとするが、しかしグゥエインはそれを羽ばたく風圧で制した。

『協力はしてやってもいい。が・・・其れには先ず、貴様が我の協力者足り得るのか、その実力を試させてもらおう』

 ただそれだけ言うと、徐にグゥエインは足元の金貨を撒き散らすように力強く四肢で立ち、その圧倒的な力を示さんが如くカタリナを視線で射抜いた。
 その姿をみたカタリナは、むしろ好都合とばかりにふっと笑みを浮かべたかと思うと、ここまで抱えてきていた荷を脇に下ろして聖剣マスカレイドを抜き放つ。そして隣まで下がってきたフェアリーに控えているように伝えると、グゥエインに正面から対峙した。

「戦うつもりで来たわけではないけれど・・・貴方がそう言うのならば、示さぬ訳にはいかないでしょうね。私が貴方と共に戦うのに相応しいか、判断を願うわ」

 

 

 世界中が新たなる年の幕開けを間近に控えたその日、メッサーナ王国首都ピドナの新市街を見下ろすピドナ王宮内部にて開かれた各国要人を招いての年次会議は、ここ数年で最も波乱を予感させる様相を見せたのであった。
 この会議終了直後には瞬く間に様々な情報筋を通じて世界中に会議の様子が広まっていったのだが、何しろその内容というのは、まさに近年のメッサーナ界隈の政治的な均衡を一気に崩しかねない程のものとなった。
 歴史上三度目の死蝕直後に、現在までで最後のメッサーナ王となるアルバート王が崩御し、そこから十年を超えて今も続いている王国の内乱。その中で、旧アルバート王の系譜にて最大派閥であり五年前にルートヴィッヒ軍に破れる形で没落したはずのクラウディウス家。そのクラウディウス家がなんとこの度、宮廷内の中央政権に復帰するという事実が会議の冒頭で大々的に示されたのだ。
 しかもその当主には、今現在で最も市井の支持を一身に集めている、前近衛軍団長クレメンス=クラウディウスの一人娘であるミューズ=クラウディア=クラウディウスが立つことも同時に会議内で発表された。
 とはいえ、ここまでの内容は遅かれ早かれあり得ることであろうとは、既に世論の一部では囁かれ始めてもいた。
 その背景には、直近でのルートヴィッヒ政権の急激な求心力の低下がある。
 元より武力侵攻を発端とした血生臭い政変によって誕生したルートヴィッヒ政権は、リブロフ以外の殆どの各都市軍団長からその存在を受け入れられてはいなかった。しかしピドナの実効支配直後から彼が行ってきた中央集権を強固とするための様々な駆け引きや政策に他軍団長は個別に対抗する術を持たず、かといって横の繋がりも希薄な彼らは結局のところ、この五年間真綿で首を絞められ続けてきたのだ。
 それが、数ヶ月前に起こった神王教団ピドナ支部崩壊事件を発端とするルートヴィッヒ政権への不信感の上昇で、急に風向きが変わった。
 奇しくもこの事件の半年ほど前から、ピドナの名門メッサーナベント家が出資し旧クラウディウス商会所属の企業群を母体とした「カタリナカンパニー」の経済界台頭が大きく世界に報じられており、大規模な商いを行う貴族の間では事件による現政権への不信感の上昇と相まって、クラウディウスの系列が何かしらの形で復活するのではないか、とは実しやかに囁かれていたのであった。
 そして二月ほど前に起きた商都ヤーマスでのドフォーレ商会壊滅事件にて、いよいよ満を持してクラウディウス家の直系ミューズが大々的に事件解決の立役者として表舞台に立ち、これも瞬く間に世界に報じられた。
 これによりクラウディウスの復活を望む世論は、一気に過熱膨張していったのだ。
 故にクラウディウス家の政界復帰ということ自体は、ある意味で世間が望んだ通りの展開であるとも言える。
 問題なのは、復帰と共に示された今後の動きについてだった。
 曰く。

『クラウディウス家はルートヴィッヒ軍団長と歩みを共にし、今世界に訪れようとしている危機にメッサーナの総力を上げ立ち向かう所存』

 このように、会議で発表が為されたのである。
 これには各国の要人等も大きく驚愕した。これでは、まんまとクラウディウスがルートヴィッヒに飲み込まれただけの形になってしまったからだ。
 世論が待ち望んだ革命は為されず、ルートヴィッヒ一強体制が更に強化されるだけだと言うことになる。
 誰もが、そう感じた。
 だがこの事態を一層混迷極めさせる内容が、クラウディウス復活に伴っての具体的な今後の活動についてだった。
 先ず告知されたのは、復帰に伴う旧クラウディウス家領地の返還と、そして故クレメンス卿の名誉復活を意図としたであろう記念碑の市内建築。ここ迄は単にクラウディウスに気を回したかのような内容だったが、その後に行われた宮廷の活動方針説明を中心的に語ったのは、なんとルートヴィッヒではなく、ミューズだった。
 彼女の口から発表されたのは、現在ピドナの東方に位置する同盟国家ロアーヌ侯国にて展開されている、推定四魔貴族軍とロアーヌ軍の戦線への経済的支援の即時実施だった。
 これは現在の国際世論にとって最も取り扱いの難しい話題であり、迂闊にこれに触ることは一国の立場ですら、ある種のタブーであるというような空気感で扱われていた。
 なにしろ昨今のアビス勢力による蹂躙は、世界の予測を超えて多岐にわたり大きな被害をもたらしているのだ。そんな話題に対し今世間で最も求心力のあるミューズが力強く宣言した内容は、正に「アビス勢力への徹底抗戦」であった。
 この宣言には、大きな響めきが会議全体を支配した。
 そして次には、ミューズに対する抗議の声でその場は溢れかえったのだ。
 世界最大の王国メッサーナがアビスへの交戦意思を見せるとなれば、これに対するアビスからの報復は文字通り全世界に波及するとして間違いないだろう。そのような世界が確実に流血を伴う決議を正式なコングレスなく突如として宣言した新参のミューズに対し、その場に参加していた面々は当然のように声を荒げた。
 だが、その直後に発せられたミューズの言葉に、その場の全員は押し黙らざるを得なかった。

「認識してください。既に、この世界はアビスによる攻撃に晒されています。これは最早、他人事ではないのです。例えば私が立ち会ったドフォーレの事件は、魔物が既に都市部の人々の暮らしにまで入り込んでいた証拠に他なりません。また、ロアーヌが狙われたのは現戦線が初めてではなく、年始にあったゴドウィンの変自体がアビスの手のものが黒幕となり、裏で糸を引いていたものでした。更に言うならば、ピドナにて春先に起きた『予兆』。これこそ皆様も聞き及んでいるはずです。私はこの予兆に、間近で立ち会いました。その時に現れた悍ましきアビスの魔物は、四魔貴族の復活を明確に示唆しました。そして先月・・・ついに本格的な魔貴族の侵攻が、西の都市、バンガードで起こったのです」

 そうしてミューズがその場に出したのは、魔術師が写したと思しき一枚の写真だった。
 そこには、大地が強引に引き裂かれたかのような様相で険しく切り立った崖と、その先の海面に浮かぶ巨大なバンガードの全景が映し出されていた。
 陸続きのバンガードしか知らぬ彼らの常識の中には一切ない、まるで天変地異でも起こったかのような異様な光景を映し出すその写真を見て大いに響めく面々を前に、ミューズは再度声を張り上げた。

「私には、勝算があります。既に聞き及んでいる方も中にはいるかも知れませんが、四魔貴族のうち、二柱をアビスへと追い返すことに我々は成功しています。バンガードを襲った魔海侯フォルネウスの討伐には、私も同行しました。この写真は、その時に起動した聖王様の作りし伝説の移動要塞バンガードのものです。そして今、魔貴族の二柱をその手で退けた英傑が、ロアーヌ南東のタフターンに巣食うとされる魔龍公ビューネイの討伐に向かっています。ロアーヌの戦線は、それが成し遂げられるまで持たせればいいのです。またロアーヌの復興を迅速に補助することで、我々には一切の隙なしとアビスに知らしめ、二次被害の拡大を防ぐこともできます。既に戦は、始まっているのです。いつどの国が巻き込まれても、おかしくないのです。ならば一刻も早く終わらせねば、被害は拡大するだけ。どうか各国の英知と勇気の、一致団結を」

 その会議に集まった参加者の一人は、後にこの時のミューズの姿についてこう語ったという。

『他の参加者に比べ年端も行かぬ娘でしかないはずのミューズ殿だが、しかし皆を導かんと力強く声を上げるその姿は、はっきりと往年のクレメンス卿を感じさせた。その場の誰もが彼女の言葉に耳を傾けその言葉を受け入れたのは、決して後ろに控えていたルートヴィッヒ卿の影響というだけではないだろう』

 彼の言葉の示した通りに、ミューズの力強い言葉を以ってその場の全員の意思は固まった。魔物の被害は既に各国間の流通にも大きく被害を与えており、遅かれ早かれ手を打たねば国が衰退することは誰もが感じていたところではあったのだ。
 この後は、大まかな今後の行動計画が示された。まず今回の作戦で実際に物資の収集や運搬等の実務を行うのはカタリナカンパニーが中心となって担い、財源や物資は近衛軍団が主に現在備蓄から提供する。なのでこの場に集まった各国代表には、これに関わるオーダーがあった際の優先的な物資融資をお願いしたい、という程度に留められ、それには反対するものはいなかった。
 そして、ここで殊更大きく世間を驚かせたのは、その財源や物資の出どころと共に、カタリナカンパニーがその存在感を大きく世界に知らしめた要因でもある『フルブライト商会同盟』の破棄をその場で宣言した事だった。
 ここに関してはカンパニーを代表して会議に出席していたトーマス=ベント副社長が議中で言及しており、世界経済の一致団結をする上で最も合理的な選択が取引の限定化を招く同盟からの独立であり、これにより同盟に囚われない多方面との連携や取引が可能となる、とのことだった。
 また同盟の破棄により特段カンパニーがピドナ王宮と密接につながる訳ではない、との見解も同時に示した。これは、どこか一部との密接な関わりこそが経済の停滞を招くのだ、というトーマスの主張を殊更に強調させる格好となった。
 更には同様の事態が今後も起こることを想定し各国各地からの多方向即時支援を可能とするため、来期に施行予定であった鉄鋼類への特定品目追徴拡大(作者注:第四章参照)の無期限見送り・・・つまり、実質的な廃止が発表された。
 この知らせには主に各地の軍団長が大いに響めき、そして大いに歓迎した。近年において最も各国軍が殺気立っていた主たる原因となる制度の施政破棄が示されたことで、殊更軍団長等はこの結果を導いたミューズに称賛を送り、勇み喜んでの協力を申し出ることとなる。

 例年であればこの会議以降は連日の宴が催されるのが通例であるものの、今回に至っては世界的な有事とのことで、不安を与えぬよう市街地でのみ通常開催とし宮廷内では明日以降の宴席は控えるように通達がなされ、本会議は解散となった。
 即座に会議での内容を行動に移すとし他国参加者に先んじて一人慌ただしくその場を後にしたトーマスは、そのまま誰と接触することもなく真っ直ぐに早足で宮廷を後にした。
 そして丁度入り口の門を潜り出たところで、衛兵と世間話をするようにしながらその場に待っていたポールと合流する。
 そしてそのまま何気ない様子で会話を交わしながら少し離れて衛兵と距離を取ったところで、トーマスは視線を鋭くしてポールに語りかける。

「・・・参加者は事前情報通り、十七人だ。名簿通りだね」
「了解。んじゃあこっちはこっちで始めるとしますかね」
「ああ、頼むよ。俺もロアーヌへの諸々支援手続きが終わったら直ぐそちらに合流する」
「畏まり。それまでに何かしらは掴んでおきますぜ、副社長」

 短く、互いにそれだけの会話を交わす。するとポールは曲がり角を曲がって衛兵から姿が見えなくなったところで、するりと路地裏に姿を消してしまった。
 それを横目に見届けたトーマスは、ふと立ち止まって宮廷の方へと振り返る。
 宮廷内に残ったミューズと護衛のシャールは、これから各国要人らと軽く懇親会が催されるのでそれに参加する予定だ。流石に一介の商売人でしかない自分がその場に居合わせるわけにも行かないので、そこでの首尾は彼女に任せるしかない。
 だが、先ほどの会議での発言の様子を見ている限り、問題はないだろうとトーマスは踏んでいた。

(年の始め頃に旧市街でお会いした時は病弱さも手伝い、まさに『深窓の令嬢』といった様子だったが・・・。この一年で彼女も、五年・・・いや、六年前の呪縛から解き放たれ、その身に背負った宿命と向き合うことで急激な成長を促されたようだ。おじいさまの言いつけがこれで果たされたのかはまだ決まったわけではないだろうが、一先ず心配はないようだな。まぁ、とは言え相手はあのルートヴィッヒ軍団長だ・・・あの方はどうも、計り知れないほどの何かを感じる。油断はせずにいかないとな・・・)

 一頻り物思いに耽った後、トーマスは気を取り直して商業地区へと姿勢を向け、深呼吸をする。この後は、彼も寝る間も惜しんで各種物資の調達計画と即実行へ向けた調整を行わなければならない。相応の気合を入れねば、対処できない物量だろう。

「さて、集中しないとな。ここからまた暫くは慌ただしくなりそうだ」

 そう自分を奮い立たせるように言い聞かせると、急ぎ足で歩き始めた。

 

 

 温暖な気候のトゥイク半島東岸に位置し、南西に広がる密林からもたらされる豊かな実りや南東のナジュ砂漠との交易を中心に栄える、交易都市リブロフ。
 多彩な気候特性からなる様々な特産品と共に西のウィルミントンにも負けず劣らず芸術文化発信地としての顔も持つこの都市では、今や世界三大商家にも数えられるラザイエフ商会を筆頭に様々な企業が集まり、またピドナのルートヴィッヒ軍団長とも比較的良好な関係値を築く事で堅実な成長を遂げていた。

(・・・全く、ここは相変わらず呑気なものだな)

 実に十年近くぶりにこの都市の土を踏んだハリードは、自身の記憶にある十年前と殆ど変わらずの豊かな街並みを『呑気』と表現しつつ、どこか冷めた目で見回していた。

(ここも、本当はあまり来たくない場所だったがなぁ・・・)

 そんな事を自身こそ呑気に思いながら、とても見覚えのある道を歩く。
 リブロフの港に降り立ったと思えば早速情報収集に向かうと言い出したエレンと合流場所の宿だけ決めて別れたハリードは、どうしたものかと思案した後に、特に自分にはすることなどないのだということに思い至り軽い絶望を味わい、そして当てもなく歩き出したのだった。
 しかし、それがかえって良くなかった。
 こうして当てもなくゆっくりと歩き出すと、その視界に入ってくる様々なものが、彼の脳裏に眠っていた多くの過去の光景を呼び覚ますのである。
 彼にとってこのリブロフという街は、それほどに思い出が、ありすぎるのだ。
 なにしろハリードという男は、このリブロフという街に、まだ十代の若かりし頃から頻繁に通い詰めたものだった。
 ゲッシア王朝の王族の一人として生を受けたハリードは若き日の頃、有り体にいってしまえば旧態依然とした王朝の様相に、言いようのない窮屈さを感じていた。
 勘違いはしないでほしいが、彼は自身の生まれや待遇に不満があったことなどは全くなかった。
 王位継承権は下位ながらもゲッシア王族としての宮殿暮らしには一切の不自由もなく、その身近には心から愛するファティーマ姫がおり、また建国の英雄アル=アワドに憧れて始めた剣の修行も、とてもやり甲斐がある。
 つまるところ、彼はとても充実した生活を送っていたのだ。
 だがその一方で、歴史を見返せば見返すほどに建国からこの三百年の間に大きな変化のないゲッシアの日常は、若く好奇心に溢れた彼を十分に満足させるには至らなかったのも事実だった。
 そうして必然的に彼は外の世界に強い興味を持ち、当時の数少ない貿易相手である隣国リブロフへ、何かと理由をつけては出向くようになっていた。
 当時すでに貿易都市として世界的に名が知れていたリブロフでは、ピドナほどではないにせよ実に多くの文化の流通があった。それらの多くはゲッシア内部に流入してくることはなく、故国の中にいては知ることができないものばかりで、そして彼の興味を大いに引き立てるものばかりだったのだ。故に彼は自分の好奇心を大いに満たすことにすっかり夢中となり、リブロフへと足繁く通った。

(・・・彼奴に会ったのも、その時だった)

 そうして何度もリブロフへと出向いている最中で、ハリードはある時、一人の青年騎士と出会った。
 青年はルートヴィッヒという名前で、年も自分と近いこともあり、お互い直ぐに意気投合をした。
 騎士ルートヴィッヒは地元のリブロフ軍団に所属しており、元は騎士の家柄というわけでもないところから一念発起し、軍に志願したのだという。もう既にその時点で、人が生きる道の全てが生まれや血筋で決まるゲッシアからすれば考えられないような世界であり、そのような可能性に溢れる外界への興味は加速度的に増していった。

(・・・あの頃はルートヴィッヒと毎日のようにこのリブロフ中を駆け回ったものだ。彼奴をゲッシア宮殿に招いた時も、宮殿内の保守派の爺様達には随分と苦い顔をされたものだったな)

 単なる部外者を宮殿内に立ち入らせることなど、ゲッシアの常識には全く有り得ないことであった。
 故に一見そのようなことは全くの不可能のようにも思えたものだが、意地になって諦めきれなかったハリードはなんと王朝のそれまでの歴史を隈なく調べ上げ、その中で遂に類似の過去の事例を発見し、ルートヴィッヒと『義兄弟の契り』を結ぶことで半強制的に身内とし、彼の宮殿内への出入りを可能とした。
 宮殿内でルートヴィッヒはハリードの予想通りファティーマ姫とも直ぐに意気投合し、王宮ではよく三人で行動を共にしたものだった。
 あの頃はそう、彼の人生の中で、最も充実していた瞬間だったのかも知れない。

(・・・くだらん)

 いくつもの街の光景から思い起こされる様々な望郷の念を振り払うようにしながら、しかしハリードはそれでも自然と彼の知る場所へと足を向けてしまう。彼の体が、彼の向かう場所を覚えているのだ。
 中央の大通りを城門のある南に下り、突き当たったところを大街道へ続く城門がある西方面とは反対の南東に向かって伸びる小道に入り、道の両側にうず高く積み上げられた色とりどりの煉瓦で作られた細く緩い階段を下っていく。
 世間的にはかなりの高身長であるハリードであっても空しか見えないその階段道を暫く下っていくと、やがて突如として視界が開け、開放感のある小さな展望広場にたどり着く。
 そこは切り立った小さな崖に作られた場所で、晴れた日にはそこから南東のアクバー峠を一望できる隠れた絶景の名所なのだ。
 その展望広場には、シェヘラザーデという名の小さな店がある。そこはナジュの血を引く女主人が切り盛りする酒家で、彼女の語る古いナジュ地方の物語を夜毎客が杯を傾けながら静かに聞き入る、これも地元ではひっそりと名の知れた場所だ。
 彼がここに通い詰めたのも十年以上も前のことだが、こうして無意識のうちに足を向けると矢張りそこには、その馴染みの店が十年前と変わらぬ姿のままあった。在りし日から変わらぬ懐かしい光景にハリードは思わずうっすらと笑みを浮かべながら、カランと鈴の音を立てて店の戸をくぐる。
 ナジュ名産の織物を基調として作られた六席程度の小さなカウンターと二人掛けのテーブル席が二つほどあるだけの小ぢんまりとした店内の様子も、カウンターの中でゆっくりと水煙草を蒸している女主人の有様も、その水煙草独特の心地よい香りで満たされた店内も、まるで十年前そのままだ。
 思わずハリードは、ここは時が止まっているのではないかと勘違いをしてしまうところだった。
 店内にはカウンター席に客が一人いるだけで、他には女主人だけ。まず女主人と視線が絡み、彼女はハリードのことを見ると、ほんの少しだけ視線を細めた。その瞳は怪訝な様子のそれではなく、どこか愛おしみ、慈しむような光を奥に宿している。
 そして次に、他の来店客が物珍しげでもあるかの様子でカウンターから此方へと視線を遣した客の男が、ハリードの顔を見たことで見る見るうちに驚きの表情へと変わり、遂にはガタリと席から立ち上がった。
 そして驚いた表情を崩さずそのままに、大きく口を開く。

「ハリード様!」

 男は、これまた特徴的な砂漠の民の格好をしていた。年の頃は五十あたりに差し掛かろうかというところか。その顔に深く刻まれた皺が、強烈な日差しの中で生きる砂漠民特有の年輪を感じさせた。
 そして何よりその男の顔を見た瞬間に、ハリードも思わず破顔する。
 彼は、まだゲッシア王朝が存在していた時に宮殿によく出入りしていた、王国のお抱え商人だったのだ。十年の時が過ぎたことで多少は老け込んだようにも見えるが、それでもこの顔は忘れない。何しろハリードが外の世界に興味を持つきっかけを与えてくれたのは、彼が宮殿内に齎す様々な異国の品だったからだ。

「おお、久しぶりだな。元気にしているか?」
「はい。ハリード様もお元気そうで何よりです」

 そのままハリードもカウンター席へと腰掛けると、女主人は無言で彼の前に木製の杯を出し、陶器に入った酒と水を順番に注ぐ。すると単体では透明だった酒が水と混ざることで白濁し、独特の色合いを示す。
 これはアラックと呼ばれるナジュ地方で古くから作られる蒸留酒で、この店には基本的にこのアラックしか酒は置いていない。最も、このアラックにもしっかりと等級があり、この店で出されるアラックは品質が良い。均等な白濁は、品質の良いアラックでしか見られないのである。
 続いて突き出されるメゼと呼ばれる前菜も、この店ではおなじみのくるみと唐辛子のペーストだ。思えばハリードはこれにどハマりして、足繁くここに通い始めたのだった。
 この店は、本当に十年前となにも変わっていないのだなとハリードは思う。そうして杯を傾けメゼを摘み、久しぶりに再開した商人の男とこの十年のことなどを語り合った。
 そうして幾度か杯を空にしたところで、ふと会話が途切れたところに男は、思い出したかのようにハリードに語りかけた。

「そういえばハリード様、ファティーマ様が生きているという噂をご存じですか?」
「・・・!?」

 突然のその言葉に、ハリードは思わず杯を傾ける手を止めて目を見開く。そして、直ぐにそのような反応をした己を蔑むように口の端を吊り上げて笑い、杯の中身を一気に飲み干す。

「噂ではファティーマ様が諸王の都にいるというのです。ハリード様は諸王の都の場所をご存じのはず。もしも、噂が本当なら・・・」

 続いて発せられた男のその言葉を聞いて、ハリードはもう一度口の端を吊り上げ、もう一杯を女主人に催促する仕草をしながら男に語り返した。

「あそこは生きている者の行く所ではない。ただの噂だ」

 諸王の都とは、ゲッシアの英雄アル=アワドを初代とした歴々の王族たちの眠る、神聖なるゲッシア王族の墓所・・・所謂ネクロポリスだ。歴代の王が愛用した多くの品々なども共に眠ることから盗掘の被害を警戒し、その場所はゲッシア宮殿のなかでも直系の王族と、王族に近しい極一部のものしか場所を知らない。
 ハリードは王族故に確かにその場所を知ってはいるが、しかしナジュ砂漠の中心地である旧ゲッシア王朝首都にして現在は神王の塔が立つハマール湖の辺りからある特定の時間帯の陽の光を目標に出発することで導かれる諸王の都には、その過酷さから相応の準備をせねば辿り着くことが抑も困難を極める上に、その近くには真面な水源もなく、辿り着いても帰ることがまた困難なのだ。
 それでもそこにゲッシアの王族が命がけで向かうのは、同じく王族の誰かが没し、その身を埋葬する時のみ。
 文字通り、生きている者のいく所ではないのだ。
 それを知っているからこそ、ハリードは目の前の男の話を笑い飛ばす。だが目の前の男も歳のせいか涙脆くなっているようで、昔の話をしてはその栄華を懐かしみ、今はもう無き故郷を思って瞳を潤ませる。そして、一頻り話した後に男は、こういうのだった。

「仮に居ないのならばそれはそれ。ですがこの噂を確かめられるのも、今はもうハリード様だけなのです。ぜひ、諸王の都へ!」
「全く、酔いすぎだぞ。昔よりも酒が弱くなったのではないか?」

 ハリードはどうやら同じ話を繰り返すようになってきた男を宥める様にしながら、自分の杯の中身を飲み干して女主人に勘定を渡した。

「すまないな、今日は王妃の昔語りを聞くほど時間がない。連れがいるものでな。また寄らせてもらおう」

 女主人にそういってから男にも別れの挨拶をし、懐かしの店を後にする。
 外に出ると、もうすっかり陽が落ちていた。どうやらそれなりの時間、この店に居た様だ。
 展望広場で軽く風に当たると、直ぐにきた道を戻って中央通りへ向かう。
 それなりの時間シェヘラザーデに居たので酒の量もそこそこ飲んだはずなのだが、どういうわけか全く酔えないでいる。それもこれも、きっと商人の男がつまらない話をするからだ。

「姫が‥‥生きている‥‥」

 ハリードは自分でも気付かぬ間の無意識にそう呟き、次にはそんなことを言ったことすら忘れた様子で、あとは無言で道を戻っていった。

 やがてどの程度の時間を歩いていたのかも定かではないうちに、気がつけば彼は本日の宿泊場所であるホテルリブロフへと辿り着いていた。ちなみにこのリブロフには同じ名前の宿が何箇所かあるのだが、その中でもハリードが選んだのは最も質素な、あわや民家かと思うほどの規模のものである。
 そしてその宿の入り口の前では、これ以上にないほど分かりやすく憤慨の表情を浮かべたエレンが仁王立ちしながら、歩いてきたハリードを睨みつけていたのだ。

「ちょっと!随分と遅かったじゃないの!」
「ん、ああ、すまんな」

 時間の感覚があまり無かったのかハリードはそんなに悪いとも思っていない様子で、一言そう言った。それは普段ならばたっぷりとエレンの怒りの火に油を注ぐ言動のはずだが、しかしどうしたことかエレンは額に青筋を立ててはいるものの、それ以上の追求をする様子はなかった。
 その代わりエレンはつかつかとハリードの前まで歩み寄ると、至近距離からハリードの顔を見上げる。
 そして、唐突にこう言い放つのであった。

「ハリード、あたしをあんたの故郷まで連れていって。嫌とは言わせないわ」

 

 

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第八章・3 -十年前の悪夢-

 

「・・・こんなものでいいですか?」
「ええ、ありがとう。すっきりしたわ」

 世界でも指折りの標高を誇るルーブ山の麓にある実に簡素な宿場宿に、カタリナとフェアリーは登山の準備をするために立ち寄っていた。
 ルーブ山には、こうした幾つかの小規模な宿場が複数の登山ルート上に点在しており、その殆どは様々な鉱山資源の宝庫であるルーブ山脈と商都ヤーマスとを行き来する鉱山作業員や、その作業員らを商売相手とする行商人達の憩いの場として機能している。
 更に以前にはもっと大きな宿場町や農村もちらほらとあったようだが、ルーブ山に棲む悪竜グゥエインによる断続的な被害によって、そのような規模の人里はこの数十年で縮小の一途を辿っていた。
 なので今となっては、最低限の機能を有する簡素な宿と鉱山作業員の作業用に設えられた何もない広場だけがあるのみの殺風景な場所が殆どだ。
 翌朝には直ぐ出発する予定で一泊の宿を取っていたカタリナは、宿の裏手でフェアリーに散髪を頼んでいた。ロアーヌを旅立ってからこの一年ほどですっかり伸びてきていた髪を、旅立った時と同程度まで切り揃えるためだ。

「人間の美的感覚は私たち妖精にはあまり分かりませんが、カタリナさんの髪はとても美しいと思います。なんだか、勿体ない気がしますね」

 自分の頭の後ろあたりを手で触りながらカット部分の具合を確かめて礼を言うカタリナに対し、フェアリーは率直にそんな感想を抱いて口にした。だが、カタリナはそれには少し困ったような顔をして微笑む。

「・・・長い髪は、確かに人間の間では女性を美しく彩るために用いられる慣習ね。髪は女の命、なんて言葉もあるほどよ」
「え、じゃあ今私、カタリナさんの命を切ったんですか・・・!? ひょっとしてLP減りました!?」

 フェアリーのいうえるぴーというものがなんなのかはカタリナにはいまいち理解が及ばなかったが、兎に角そんなに心配するようなものではない、と優しく付け加えた。
 彼女にとって長い髪とは言わば、「かつての自分」を表すものだ。つまりはロアーヌ貴族であり、モニカの侍女であり、そして不相応な幻想を抱く愚か者であった彼女の象徴のようなもの。そんな自分と、少なくとも心の内では確りと決別をする意味で、あの夜に髪を切り落としたのだ。そんな彼女からしてみれば、長い髪に一切の執着などないのである。
 むしろ今となっては短い髪の方が動きやすさもあるし、当たり前だが戦闘には此方の方が適しているなと感じるほどなので、必要に迫られなければ今後も髪を伸ばすということはしないだろうな、とすら考えていた。

「そういえばカタリナさん」

 髪を切るために彼女の首から下を覆っていた布を払いながら、フェアリーが問いかける。

「今更になって聞くのもあれだとは思うんですが、グゥエインという竜は、普通の竜とはどの様に異なるのですか?」

 妖精族の中でも聖王に纏わる記憶は聖王記の内容を中心として継承されており、聖王が四魔貴族の一柱である魔龍公ビューネイを打ち倒すために巨龍ドーラと共闘をしたということは知られている。だが、基本的に人界との接触を絶ってきた妖精族では、この三百年の間に人間を苦しめてきた悪竜グゥエインという存在のことを、殆ど知らなかったのだ。

「うぅん、実は私もそれほど、グゥエインという竜について知っているわけではないのよね」

 フェアリーの問いに何とか応えようと頭の中で考えを巡らせながら、自身も散髪の後片付けをしつつ思考を巡らせた。
 カタリナの知るグゥエインという竜に関する情報は、それこそ世間で噂される悪評以上のものは殆どない。十数年に一度程度の頻度でルーブ周辺を中心として人里を荒らし周り、血肉を喰らい宝物を奪う存在。それだけだ。
 大前提として竜種とは、人に仇為す存在としては異形の中にあって最も恐れられる種族である。
 中でも一部の「巨龍種」と呼ばれる存在が非常に突出した存在感を放っており、その数は基本的に極少数でありながら、個体ごとの脅威は他の妖魔と比肩するべくもないほど強大なものである。
 巨龍種とは巨人族にも全く引けを取らない体躯を持ちながら、その強靭な翼によって飛行能力を持つ。この時点で人類が対抗することそのものが馬鹿らしくなってくるほどの脅威ではるが、更には多くの巨龍種が体内に個体別の独自器官を持っている。主にそれは捕食行動の際に活用される器官だが、猛毒、電流、炎など、それらをブレス状にして口腔部から放射するという、およそ生物としては正に規格外の攻撃手段を持つ。
 グゥエインという竜は、この巨龍種に分類される竜であるとされている。
 ただこのグゥエインという竜に関してが殊更に特別視されている理由としては、他の巨龍種と比べても非常に独特な活動の記録による。
 前述の通りグゥエインは人里を定期的に襲うが、実のところ他の巨龍種にはこのような行動は殆ど観測されていない。また、通常の捕食行動とは別に金銀宝飾物等を意図的に奪うことから、流石に人間にあるような金銭的な意図はないとしながらも、その物質の希少価値を理解する知能を持っているのではないか、と推察されている。
 竜種の研究者によれば、その集めた財の量によって己の力の誇示を表しているのではないか、とも言われている。
 このように、グゥエインという竜は他の巨龍種ともまた異なる存在として、人々に恐れられる存在なのだ。
 そのようなことをフェアリーに話しながら、しかし今回改めて詩人からグゥエインとの対話を提案されたカタリナには、このグゥエインという存在に対して、驚くほど嫌悪感を抱いていなかった。

(・・・それはおそらく、聖王様の記憶が関係しているんでしょうね・・・)

 当然カタリナもグゥエインという竜の存在は幼少の頃から聞き及んでいた。丁度、自身がロアーヌ騎士団候補生であった十年ほど前の時分にグゥエインの人里襲撃の報を聞いていたこともあり、それが悪しき存在である、ということも当然に認識はしている。
 だが此度の詩人からの提案を受けた時に、彼女はグゥエインに対して嫌悪感や拒絶感を抱くことがなかった。何なら寧ろその逆ですらあり、その名を酷く懐かしく感じるような感覚すら覚えたのだ。
 それも、ハリードが指摘したようにグゥエインが友人の子・・・つまり、巨龍ドーラの子であるとするのならば、違和感もない。
 聖王の中ではグゥエインとは、あくまで友人の子であり、人間を脅かす悪竜ではないのだ。その記憶、感覚が指輪を通じて自分にも流れ込んでいるということならば、なんの不思議もない。
 そしてその辺りの事実だけを切り取って考えるならば、グゥエインが天空にて相対するビューネイを討つために自分たちとの共闘という判断に至る可能性は、十分にあるだろう。今回の要請に一定の信憑性があると感じられるのは、そういった部分が大きい。

「・・・でも、今のグゥエインにとって人間とは、寧ろビューネイ以上に憎いのではないでしょうか・・・?」

 カタリナの話を聞きながら、フェアリーがそう呟く。
 カタリナも気になっているのは、正にそこなのであった。
 聖王記によれば、聖王と共にビューネイを討った巨龍ドーラもまた、人里を襲う悪竜であったとされる。そして最終的には聖王の手によって、その命を終えているとされる。
 こうなってくると、何しろグゥエインにとっては、人間とはつまり親殺しの仇敵だということであるはずだ。その上であっても、ドーラと同じように人間に協力をするなどという筋書きは、果たして本当に成立するのだろうか。

「自分の親を殺した相手との共闘・・・か。目的を達成する為の手段としてそれが最良であったとしても、私たち人間はどうしても感情で動く生き物だわ。直ぐに納得なんて、私ならば出来ないかもしれない。人と竜の精神構造を同一に考えることは出来ないのでしょうけれど、もしグゥエインが噂通りに知性を持つ竜であるのならば、どんな判断をするのかしらね・・・」
「そうですね・・・人と竜とは、当然ながら異なる思考を持つ生物だと思います。でもこればっかりは、話をしてみないと予測がつきませんね・・・。あり得ない話ですが、仮に私たち妖精族が大樹を焼き払ったアウナスの陣営と何らかの事情で手を組まなければならない・・・なんてことになったら、それは種族として絶対に考えられないと判断するはずです」

 フェアリーの言葉に神妙な表情で返しながら、カタリナは北に聳える龍峰ルーブへと視線を投げかけた。
 その峰は分厚い黒雲によって覆い隠されており、その様はまるでこれからの世界の行く末を示すかのように、カタリナには思われた。

 

 

 静海、洋上。
 ウィルミントンとピドナを結ぶ航路にて。
 その厳重に武装された数隻の軍船が隊列を成して航海するその様は、まるでこれから大規模な海戦が始まるのではないかと思われるほどに雄々しく、そして荒々しく周囲の漁船からは映ったことだろう。
 その列を成す軍船の中央、一際に立派な軍船のその広々とした船内の一室で、トーマス、ミューズ、シャール、ハリード、ブラックは多くの近衛騎士に囲まれる中、近衛軍団長ルートヴィッヒと対談の席についていた。
 矢張りというべきかルートヴィッヒはトーマスの事も既に調べており、彼が名門メッサーナベント家の嫡子にして、現在経済界を引っ掻き回しているカタリナカンパニーの副社長を務めているということや、隣にいるミューズ等との繋がり、その経緯も、事細かく認識していた。
 その上でルートヴィッヒがこの席で切り出した言葉に、トーマスは思わず耳を疑った。

「クラウディウス家と・・・講和を結びたい・・・!?」
「その通りだ。無論、私が実質的にクレメンス卿の仇であるという事実がある以上、御息女であるミューズ殿においては簡単には受け入れられるものではないだろうということは理解している。だが、その上での提案だ」

 自分とテーブルを挟んで真正面に座するルートヴィッヒのその提案は、トーマスにとっては全く不可解なことであった。なにしろ、このような状況でそのような提案をされる謂れが、彼には全くわからなかったからだ。
 彼の隣に座って表情を固くしているミューズとシャールを視線で確認し、そしてトーマスは改めてルートヴィッヒへと向き直った。

「・・・ルートヴィッヒ軍団長殿。お言葉ですが、この状況で講和という提案には、些か疑問が残ります。正直に申し上げて、今貴方は、この場で我々を海の藻屑とする事もできる。講和どころか、今こそ完全にクラウディウスという家名をこの世界から消し去る事ができるでしょう。これまで貴方がクラウディウス家やその他、貴方に反抗的だった諸侯に行ってきたことを思えば、その渦中での講和という提案にどれほどの信憑性があるのか、私には図りかねます」

 ミューズらに気を遣う事もなく、トーマスは正直にその胸中を語った。この後に及んで、下手な腹の探り合いなどしている状況でもないのだ。
 とはいえ、彼らがこの場にいる近衛騎士団の剣の錆になるということは、あり得ない。
 仮にこの場にいる騎士全員が一斉にトーマスらに斬り掛かってきたとしても、正直この面子ならば負けることは有り得ない。それどころか、この中の誰か一人で相手の制圧すら可能だと思われる。なので、そのような心配しているわけではない。
 抑も、此方からの武力行使という選択肢を取るならば、ここに来る前にウィルミントンのホテルで既に実行していた。
 だが、そんなことをすれば自分たちはまんまと「メッサーナ王国への反逆者」という烙印を押され、全世界から指名手配されるのが落ちだ。それは今後の彼らの活動に取り返しのつかないほどの多大なる不利益を被ることになっただろう。
 だから敢えて、大人しく連行されてきたのである。
 だが今この場だけに限って言えば、さしものトーマスらとて、この船ごと周囲の軍船から大砲の集中砲火をされれば、それで一巻の終わりでもある。このような洋上で海に投げ出されれば、人の身では文字通り海の藻屑となることは免れない。
 それをトーマスと同じく理解しているはずのルートヴィッヒもまた、歯に衣着せぬトーマスの物言いに正面から答えるように薄く頷いた。

「確かに我々には、そう言った選択肢も取ることは可能だ。だが、その選択肢は双方に無益という結論に私は至った。だから、講和という提案をしているのだ」

 ぎりり、と強い歯軋りの音が聞こえる。それに気がついたトーマスが音のした方をみれば、そこには顔面が紅潮し激昂した様がありありとわかるシャールが、今にもルートヴィッヒに襲いかかりそうな様相だった。だが彼は己の膝を折れんばかりに握りしめながら自分を必死に律し、息を荒くしながらも、努めて冷静に口を開いた。

「ルートヴィッヒよ、俺は五年前のあの時、貴様に言ったはずだ。絶対に貴様の軍門になど降らん、と。貴様はその返答として、この俺の右腕の腱を切ったはずだ。それが今更、どの口でそのような戯言をいうのか!」

 己が主君と右腕の力を失った悲しみを背負った戦士は、今にも相手を貫かんとするような闘気を纏っている。そのあまりの覇気に、周囲の騎士達は思わず直立姿勢を崩して慄く。だが、その様にも一切動じる事なく悠然とルートヴィッヒは答えた。

「シャールよ。私は、お前の騎士としてのその誇り高さを、私なりに理解しているつもりだ。だから、此度は我が軍門に降れ、などとは言っておらぬ。あくまで、互いが対等の立場での講和を望んでいるのだ」

 ある意味では鉄面皮、とでもいうのだろうか。
 そんなことを考えながら、トーマスはルートヴィッヒとシャールのやり取りの様子を細かく観察していた。
 このルートヴィッヒという男は、見た目から推察できる年の頃は、恐らくハリード辺りとそう違わないだろう。
 世界最大の国家の実質的な支配者としては、あまりに若い。そういう意味では間違いなく、ミカエルなどと同様に時代に愛され、成る可くして頭角を現した傑物の一人であろう。
 ピドナの支配者となってからも継続した広報に余念がないこの男の顔は、宮殿主宰の催しの際の演説等でトーマスも何度か見かけている。
 その様は実に饒舌で多彩な話術に長け、その整った顔立ちも表情豊かで、人心を掌握することに長けた為政者だというのが、当初のイメージだった。
 だが今この場にて相対している彼の表情は、一体どうしたことだろう。
 確かに表面的には以前から見かける通りに、表情豊かに振る舞っているかのように見える。
 だがこの会談の間中、彼の表情の変化はなんというか、妙に無機質的なのだ。
 だが、いつもの精彩を欠いているというよりは、元が実はそうであったのではないか、と感じる様な違和感なのである。
 幾重にも移り変わる表情の一つ向こうには、一切変わることのない鉄面皮が存在している。今日の彼には、特に瞳にその様な印象があり、それで表面上の表情だけの変化に異様な不気味さを覚えてしまうのだ。
 そしてもう一つトーマスが気になるのは、その声だ。
 ルートヴィッヒのよく通る低めのテノールは耳に心地よく、人の心に語りかけるような響きを持っている。だがその声色は聞くものによっては何処か演技がかっていて、背後に狡猾さが透けて見える様にも感じられた。特にトーマスには最初からその様に感じられていたので、より強く印象に残っている。
 だが今この場に於いては、その声色から其れ等の印象を見出すことは出来ない。
 つまり彼の表情と声色から推察する限り、驚くべきことに彼は真にこの講和という話を推し進めようとしているようなのだ。
 それであるならば、とトーマスは緊迫した空気の中の二人を取り成すようにして身を乗り出した。

「ルートヴィッヒ軍団長殿。双方の講和とは、具体的にどのような条項の上での締結を想定されているのですか?」
「まず、現在近衛軍が管理しているクラウディウス家の屋敷、及び旧クラウディウス家統轄領の返還をさせてもらいたい。第二に、故クレメンス卿の名誉回復を目的としたピドナ新市街での石碑の建築を行わせていただきたい。第三に、今後クラウディウス商会を再興させるという方向性で動かれるならば、その活動に対する近衛軍団としての継続的な支援を約束したい。そして最後に、クラウディウス家が宮廷中枢への復権を望むのならば、それも歓迎しよう」

 それまでの彼にしては実に淡々と、ルートヴィッヒはそう語った。
 その内容は、ミューズ、シャール、そしてカンパニーにとって、全く以て歓迎することしかない条項だ。正直に言えば、あまりに条件が良すぎて此方を馬鹿にしているのかと思いたくなるくらいの提案内容だといえる。これではまるで、戦争の実質敗戦国が提示するような条項とすら言っていい。
 だがトーマスは、彼もまた対面するルートヴィッヒに倣って淡々と真顔のまま、当然のように問いかけた。

「では、我々に対してルートヴィッヒ軍団長殿が望むことは何でしょうか?」
「先の内容で友好条約を結ぶこと以上は、特段望んでいない。だが・・・強いていうならば、この講和と、そしてクラウディウス商会及びその大元であろうカタリナカンパニーへの公的支援という形で以て、一連の世間の軍団に対する反発が止むことを狙う、といったところだ。伝説の四魔貴族をも打倒した稀代の英雄に迎合しようという思考は、なにも特別なことではないということだ」

 その言葉に、トーマスは軽く目を見張る。
 何とこのルートヴィッヒという男は、どうやら既にカタリナらのフォルネウス討伐をすら、把握しているようだった。
 カタリナ達が死闘の末に西太洋から帰還してから、まだ一週間程度だ。それこそ世界では、バンガードが伝説の通りに移動要塞となったことすら未だ知らない人々で溢れかえっているであろう。だというのにこの男は恐らく、バンガードが動いた時から既に情報を得、そして事細かに集めていたのだ。であれば、あの崖でバンガードの帰還を待っていた自分もまた、その一挙一動を完全に把握されていたのだろうという理解に至る。
 だがそれらを踏まえても、この男が一体どのような腹積りであるのかは、相変わらずその表情からは読み取ることは叶わない。とは言え、当然このような場所でこれほどの男が、単なる冗談をいうわけでもないだろう。
 トーマスは短時間の間に目紛しく活動する己の思考を一度止め、冷静になるべく周囲の仲間の様子を伺った。
 ミューズとシャールは、矢張りというべきか怒りと当惑とが入り混じった様子だった。何しろ今のルートヴィッヒの言うことが全て叶うのならば、クラウディウスは五年前の状況を単純に取り戻すだけだということなのだ。
 更には、クラウディウス商会の活動に制限をかけるどころか、全面支援を行うとすら言っている。
 今の状態でクラウディウス商会を再興すれば、クラウディウス家が世論の支持を集めることは容易だ。その上でクラウディウス家が政への参加を行えるともなれば、世論の後押しを上手く用い様々な制度改革へと着手する事も将来的には可能だろう。
 その人気取りを共に行いたいというのは分かる部分ではあるが、それでもこれまでルートヴィッヒが首都ピドナで推し進めてきた様々な政策からは全く以て反していくに等しい提案でしかないし、正にトーマスらが以前に思い描いた通りの方向に進めることが出来る提案であるのだ。
 その出来すぎた内容に強烈な胡散臭さを感じるのは、ある意味で当然の感覚と言えるだろう。
 一方で更に視線を動かせば、ハリードとブラックは、なんらこの手の話には興味がない態度であるように思われた。
 案の定というべきなのか、ブラックは気ままに煙草を燻らせ、ルートヴィッヒの方を向いてもいない。その様を周囲の騎士が睨みつけている事も十中八九本人は分かっていながら、まるでそんな状況をすら面白おかしく楽しむかのように煙を吐き出すのみなのだ。
 そしてハリードは、腕を組んで静かに目を閉じている。まるで眠っているのかと思われるほど微動だにしていないが、その姿勢や纏う空気に一切の隙がないことは、見るだけで分かる。彼はどうやらルートヴィッヒと知らぬ仲ではないような雰囲気であったが、それが今の彼の態度に関係しているのだろうか。
 それらを見渡し終えたトーマスは、ルートヴィッヒに視線を戻した。

「・・・返答は、少々待っていただいても?」
「構わない。突如の話で、考えるところも多いだろう。ピドナに着くまでに決めてもらえればいい」

 これもまた呆気ないほど簡単に、ルートヴィッヒはこの場での返事を求めなかった。
 つまりこれは、彼の中ではこちらが考える時間を与えても何の問題もない、という認識であるということだ。
 トーマスはそこまでを確認すると、分かりましたとだけ述べて、席を立つ仕草をした。それに合わせてハリードとブラックも立ち上がろうとしたが、しかしそこで一人、一切動かないものがいた。
 ミューズだった。
 彼女は、真っ直ぐにルートヴィッヒを見つめ、そしてこの場において初めて口を開いた。

「ルートヴィッヒ軍団長、一つ、質問をよろしいですか」
「・・・伺おう」

 ルートヴィッヒもまた動く様子なく、姿勢を崩さずに彼女に応対した。そしてミューズは、短く質問を口にした。

「お父様を・・・クレメンス=クラウディウスを殺害指示したのは、貴方なのですか」

 しんと、その場が静まり返る。
 何も気にする事なく煙草を燻らせるブラック以外の面々が全て動きを止めたその空間で、ルートヴィッヒは深く息を吐き、そして浅く頷いた。

「直接の指示ではない。だが無論、深く関与はしているし、私が当時それを望んでいたのは事実だ。その真相も、他ならぬ貴女が望むならば語ろう」

 ひんやりと、その場の空気が冷たくなるのが誰しもに感じられた。それは気温で感じるようなものではなく、正に怖気を感じるといったような、そんな冷たさだ。
 それは、魂をすら凍りつかせるという月の精霊の息吹を行使することのできるミューズが、その身に宿す魔力を無意識に拡散させてしまった結果だった。
 だが彼女もまた、激昂の内にありながらも己を律したシャールと同じく、すぐにその魔力の胎動を収めてみせた。

「今は、そのお言葉だけで十分です」

 そういってミューズが立ち上がると、それに合わせてシャールも立ち上がった。そうして部屋の中にいる騎士らに見守られながら、トーマスら一行はその場から外に出て、当てがわれた船室へと案内されていった。
 去りゆく彼らを、ルートヴィッヒは、矢張り表情の読めぬ鉄面皮で見送るのみだった。

 

 

『食い止める、だと?! 背後からも追手が迫る!お前ひとりでどうこうできる数ではない!』

 辺り一体は、既に炎と怒号に支配されていた。
 ゲッシア独自の伝統的な染料で染め上げられた衣服はあっという間に煤で汚れ、挙句には数度となく斬り結んだ返り血で醜悪な斑模様を形成していた。
 歴史あるゲッシアの宮殿が無残にも崩れ去る様を横目に、瓦礫に塗れた道無き道を切り開き掻い潜るようにして、無我夢中で駆け抜ける。
 そしてついには背後からも前方からも悍ましき邪教徒が押し寄せてくることを察知したハリードは、姫と共に隣を走っていたルートヴィッヒが自分の言葉に珍しく冷静さを欠いた様子で怒鳴りつけるのを、場違いにもどこか可笑しささえ覚えながら聞いていた。
 或いは既に自分は、冷静な判断が出来ていないのかもしれない。頭のどこかでそう感じながらも、今の自分にできることはここでの足止めであり、姫を逃すにはこれしかないのだ、と己に言い聞かせ、怒るルートヴィッヒに向き直った。

『ルートヴィッヒ、頼みがある。姫を連れ、お前の祖国、メッサーナに逃げてくれ』
『ハリード!』

 ハリードの言葉に、姫が悲痛な声を上げる。勘弁してほしい。そんな声で名前を呼ばれたら、今し方の決意が、いとも簡単に揺らいでしまいそうになる。
 だが、それは絶対にできない。何より最優先するべきは、姫の命だ。
 自分の覚悟を目で悟ったのか、ルートヴィッヒは苦虫を噛み潰したような表情で、苦悶の声を上げた。

『よもや、我らを逃すための時をかせぐと?』
『なりませぬ!共にハリードも・・・!』

 ルートヴィッヒが決死の様子であるハリードに問いただすと同時に、姫が再度悲痛な声を上げる。だが、その声に応えてはならない。
 決して、応えてはならない。

 

 当てがわれた船室の椅子で船の揺れに身を任せ、浅い眠りに浸っていたハリードは、寝起きが最悪だと言いたげな表情で眉間にシワを寄せながら目を開いた。
 そのままの表情で窓の外を見やると、傾き始めているようだが、それでもまだ陽は高い。時刻は先ほどの会談が終わってから、そう経っていない様子だった。

(・・・見たくもないものを久しぶりに見たな・・・)

 既に微睡は去り、そして勿論、寝起きは最悪だ。このままの状態で無機質な狭い船室の中にいても、気が晴れることはないだろう。
 そう判断したハリードは、フォルネウス戦で折れたものの代わりにバンガードで新たに用意した曲刀を手にして、気分転換に甲板へと出向くことにした。たかだか気分転換にも自らの得物を欠かせない性分は我ながらどうかと思うが、ある意味で此処は敵地のようなものだ。用心には越したことはないだろう。
 そう自嘲気味に思いながら部屋を出ると、程なくして甲板へ向かう階段が通路の先にみえる。軍船内であるというのに一般船舶と比べて通路の広さに国力の強大さを垣間見て皮肉めいた笑みを浮かべながら、波風を求めて外へと登る。
 甲板に出ると、表にいる船員も疎らで、感傷に浸るにはこれ以上ないほどの場所だった。
 なんとはなしに甲板を歩いたハリードは、適当な船の縁に立ち尽くすと、遠く海の向こうに見える陸地へと視線を向けた。
 船の進行方向は、東。となると船の右舷である南側に見えるあの大陸は、南方の密林あたりだろうか。となるとその更に東には、彼の愛して止まない灼熱の故郷、ナジュ砂漠があるのであろう。
 今はもう彼には帰る場所のない、愛するべき故郷だ。

「・・・ハリードよ」

 幾ばくかの間そうしていると、ふと背後に人が近づく気配を感じた。そしてハリードが振り返る前に、先んじて彼を呼ぶ男の声が届く。
 その声は先ほども夢想の中で聞いたばかりだったので、一々振り返らずとも分かる。
 ルートヴィッヒだった。

「・・・何の用だ。今更になって、昔話でもしに来たのか?」

 そういってハリードが振り返ると、そこには先ほどまでの鎧ではなく軍服を纏い、武装も剣のみを腰に下げたルートヴィッヒがいた。先ほど見た時と変わらずの読めない表情のようだが、よく見れば幾分かは外面を省いている様にも見える。それは夢に見た十年前から全く変わっていないようで、しかし改めて見てみれば多少は老けたようにも感じる。ならばそれは、当然自分もそうなのだろうな、と考えた。
 そう。彼の故郷が滅びたあの戦争から、もう十年と言う歳月が流れているのだ。

「お互い、もうそんな間柄ではなかろう。それに俺とお前の間にあるのは、気楽に語れるほど懐かしむような話でもない」
「同意見だ」

 ならば何をしに来た、とは言わなかった。ルートヴィッヒという男はその優れた容姿に反して、昔から何方かといえば必要な時以外は無駄口を叩かぬ、行動派の男だ。だから彼がここに来たのは無論、単なる昔話などをしに来たわけではないのだろうということは、言うまでもなく察しはついている。
 なので、無言で先を促すようにハリードが視線を送ると、ルートヴィッヒはぴくりとも表情を変えずに歩き出し、ハリードの横に並び立って海へと視線を向けた。

「俺はあの時から今まで、何者にも屈しぬ強さを欲し、その為にここまで歩んできた」

 唐突に語り出したルートヴィッヒの言葉に、ハリードは船の縁にもたれ掛かりながら聞き耳を立てる。

「十年前のあの時、俺やお前は、弱かった。俺はあの凄惨な敗戦を経て、己の信を貫くには絶対的な強さが必要なのだと悟った」

 強さ。
 ルートヴィッヒのその言葉に、ハリードは微かに視線を細めた。
 確かに、あの時の自分は弱かった。そして、彼の祖国ゲッシアも自分と同じく、弱かった。
 だから、敗けたのだ。
 英雄アル=アワドの元で興り、数百年続いたゲッシア王朝の唐突な滅亡は、死蝕の数年後という時節も相まって、大いなる時代の変革を世界に印象付ける衝撃的な出来事であった。
 十六年前の死蝕によって、世界は全ての新たな命を失った。
 また悲劇はそれだけに止まらず、世界各地で急激な荒廃を理由とした悲惨な事件が相次いだ。そして、一部の人々はそんな世界を憂い、その救済を『神』に求めた。
 三百年前に四魔貴族から世界を救った聖王は、もういない。ならば今の世界を救うのは、次なる救世主に他ならない。それこそが、魔王を超え聖王をも超えた、神王である、として。
 敬虔なる聖王教国家であるメッサーナ王国の、時の王アルバートと近衛騎士団は、当然にその存在を排除しようとした。そしてメッサーナから迫害された彼らが流れ着いたのが、西方にて聖王を拝しない唯一の国家、ゲッシアだった。
 だが、ゲッシアは英雄アル=アワドが魔王を退けた時から自国力に傾倒する独立王朝であり、ここもまた、異教徒を受け入れることはなかった。
 各地での度重なる迫害に憤慨し、そして遂に蜂起した神王教団が起こした宗教戦争が、聖王暦三百五年のゲッシア戦役である。
 ゲッシア朝は、その長い歴史に浸かり、甘んじ、弱体化していた。その治世は有り体に言って排他的であり、古来からの厳格な階級制度も変わることなく、外部の文明の進化を積極的に受け入れることもなかった。
 確かに蜂起した神王教団は、ゲリラ戦に特化し自爆攻撃まで行う苛烈な戦線を築いた。だが、それでも本来、一国を相手取るには不足していたはずなのだ。それでも、彼らは勝った。
 つまりゲッシアは、その長年の己が傲慢により、自ら滅んだのである。当時の論者は、挙って知ったような口ぶりでそう言った。
 ハリードはその時に故郷、家族、愛する者の全てを失い、それでもついぞ彼自身だけは命を落とすことがなく、喪失感に苛まれながらこの十年という歳月を過ごしてきた。
 しかし、同じくあの時に大半のものを失ったはずのかつての義兄弟ルートヴィッヒは、今こうして世界最大の王国の軍団長として自分の隣に立っている。

「今のその姿が、お前の求めた強さなのか」

 視線は向けないまま、ハリードはそう呟いた。
 すると隣から、ふっと息を漏らす音が聞こえた。ルートヴィッヒが薄く笑った。
 堅物男が笑うと思いの外気色悪いものだな、等と思いながら、ハリードは彼の言葉を待った。

「そうだ。いや・・・そうだった、か」
「なんだ、今は違うのか」

 基本的には物事に対する回答が明快な男のはずだが、それにしてはえらく歯切れが悪い返事だなと感じてハリードが聞き返すと、ルートヴィッヒは先ほど浮かべた苦笑いを崩さぬままに続けた。

「ハリードよ。お前は、世界を救うのか?」

 唐突な質問だった。
 思わずハリードが何を言い出すのだとでも言いたげな顔でルートヴィッヒに視線を向けると、彼は至極真面目な様子でハリードに視線を向けていた。そこでハリードは改めて思い出す。この男は、昔から冗談の類をほとんど言わない男であった、と。

「悪いが、俺が『八つの光』とやらであることを根拠にそれを聞いているのならば・・・答えは否だ。まぁ、余程の前金の上での依頼ということならば、受けるかも知れんがな」

 自分の判断基準は、常に明確だ。
 金になるか、ならないか。それだけでしかない。
 ハリードは、改めて考えるまでもなくそう確信して返答した。
 実のところを言えば、今自分がこうしているのも半分以上は、それが目的である。己の思うところにより行動を共にした側面も確かにあるが、それでもカタリナらとの旅は、単純に様々な事件事案に遭遇することが多く、その中では通常の小さな依頼を幾つ請負っても全く届かないほどの多額の報償金を狙うことが出来た。しかも古代の遺跡やらに足を踏み入れることもあり、そこでの財宝回収も狙える。これなら、稼ぎの選択肢としてはトレジャーハンターも悪くないのではないかと考えてしまうほどだ。
 つい最近ではまさかの四魔貴族などを相手取ることになったが、あの海底宮でも少なくない宝物の回収を行えた。それは一年を只管傭兵業に費やしても、全く届かない様な額だ。戦場と同じく己の命を切り売りしてあれほどの財が稼げるのであれば、それは彼にとって何の不足もない事であった。
 その返答を聞いたルートヴィッヒは、何ら笑うこともなく、そうか、と言って頷いた。

「俺はな、恐らく世界を・・・救おうとしていたのだ」
「ほう・・・祖国の同胞をすら裏切るお前に、よもやそんな高尚な目的があるとは思わなかったな」

 ルートヴィッヒの渾身の冗談に、ハリードは大いに皮肉めいた笑いを浮かべてやる。
 ハリードのいう同胞への裏切りとは、五年前のルートヴィッヒによるピドナ上陸戦のことを指していた。
 当時、既に亡国の王族であるという身分を隠して傭兵業に身を費やしていたハリードは、この戦役でメッサーナ近衛軍団の側に雇われて戦場に馳せ参じていた。戦そのものは流石というべきか時の軍団長であるクレメンス=クラウディウス率いる近衛軍が堂々たる戦いでルートヴィッヒの率いる軍を退け、その際に隊列上翼にて傭兵部隊を率いていたハリードも、この時には大いに稼がせてもらったものだ。
 この時の戦いでは一部隊長であるハリードと敵軍総大将であるルートヴィッヒが直接顔を合わせることはなかったものの、しかし後にハリードは同じメッサーナの民であるはずの近衛軍を攻めたルートヴィッヒの行動がどうしても解せず、後のクレメンス急死によって台頭したルートヴィッヒのいるピドナ宮を尋ねたことがあった。だが、ハリードの何度かの訪問に対してルートヴィッヒが応じることは、ついに一度もなかったのである。
 だが、今更になってその時の真意などを問うつもりは、ハリードにはない。
 もう、そんなことは彼の中では、どうでもいいことなのだ。だが心のどこかで、そんな風に思う事自体が、己の中にあった国を思い民を思う情熱を過去のものとしてしまった何よりの証拠なのであろうな、と無意味に自虐的な感傷にも襲われる。

「・・・己の来た道に言い訳はしない。だが、強くあり何者にも負けぬということは、結果として救世主にすらなるのは世の常なる事だ。だが、俺がそれを目指し進んでいた道の先に、お前たちが忽然と現れた」
「・・・・・・」

 世界最大の大国メッサーナの王位が今や目前にあろうという男が、一体何の理由で自分たちを気にしようというのか。全く話が見えずにハリードが続きを待つと、ルートヴィッヒはハリードに向き直りながら言葉を続けた。

「お前を含む八つの光が、この年の初めに起こったロアーヌでのクーデターを端として活動を開始したことを知り、俺はお前たちの動向を探っていた」
「・・・流石に、情報は筒抜けか」

 これは、恐らくミカエルその人も八つの光であったことも既に知っていると見て良いだろう。メッサーナの間者は文字通り、世界各国各地に潜んでいるようだ。
 ハリードがそんな近衛軍団の情報網に感心していると、ルートヴィッヒはそれに対して皮肉めいた笑みを浮かべた。

「あぁ。だから知りたいことは当然知っているし、知りたくなかったこともまた、知っているのだ」
「知りたくなかったこと、だと?」

 ハリードが眉間に皺を寄せながら尋ねると、ルートヴィッヒは腕を組んで片足に重心を移しながら、どこか自嘲気味な様子で笑みを浮かべた。

「ハリード・・・お前は既に、四魔貴族をすら打倒する力を秘めているのだろう。いや・・・既にその一部の打倒を為した英雄であったな」

 それは、フォルネウスを討伐したことを言っているのだろう。それなら残念ながら自分の功績と言うには全く語弊がある、と言いかけたが、ハリードは今は黙って先を促すことにした。

「先んじてロアーヌもまた、南方密林にあるとされる幻の火術要塞を発見・制圧し、四魔貴族アウナスを打倒した。その際の討伐隊を率いていたのが、フォルネウス討伐にてお前と共にいたというロアーヌの騎士・・・聖剣マスカレイドの所有者であるカタリナ=ラウランであることも伝え聞いている」

 ハリードはルートヴィッヒの言を、黙って聴き続けた。
 そのアウナス討伐に関しても、その実はカタリナらが到着する直前に何者かによってアウナスは既に滅ぼされていたという事情があるのだが、流石にそこまでは伝わっていないらしい。とはいえ、全く舌を巻くには十分な情報収集能力だ。

「特に此度のフォルネウス討伐に関し、あの伝説の移動要塞バンガードを見事起動せしめたその手腕は、実に見事だった。直前のフォルネウス兵の侵攻によって二度と動かすことが叶わぬかもしれなかった、その間際での起動。あれは、どう足掻いてもあの時点の我々には為し得なかったことだ。もしあの時お前たちの機転がなくバンガードがアビスの魔の手に落ち破壊されていれば、最早その時点で世界を救う術が無くなっていただろう」
「・・・・・・ま、そうかもしれんな」

 ルートヴィッヒの言に則って思い返せば、確かにあれは瀬戸際の状況ではあった。
 もしバンガードがあのままフォルネウス兵によって破壊されてしまったとしたら、最果ての島へ辿り着くことも、深海にある海底宮への侵攻も、その全てが不可能になっていただろう。そして再び今の人類がバンガードと同等のものを作り出すには、先ず何よりも結束力というものがない。三百年前に聖王十二将であるフルブライト十二世が中心となって構築した世界経済の結束も、荒廃した世に争わんとする国の結束も、救世を願う人々の結束も。
 勿論、新たなバンガードを今のメッサーナ王国が単独で作り出せるのかといえば、それも現時点では不可能だと言い切れるだろう。それが、最も今のメッサーナを知るルートヴィッヒには解っているのだ。

「つまり、我らでは世界を救えなかった、ということだ。知りたくもなかった己の無力を、改めて思い知らされた」
「ふん・・・随分と殊勝なことだな」

 ハリードが率直に意見を述べると、ルートヴィッヒは何ら動揺することもなく、静かに頷いた。

「思えばもっと以前・・・妖精族を救った時にしても、そうだ。妖精族の里とやらがアウナス軍の侵攻を受けた際、奇しくもロアーヌが軍をトゥイク半島に駐屯させていた。残念ながら今のリブロフの軍は、腑抜けだ。あの時は、ロアーヌの軍でなければ妖精族を救うのは不可能だっただろう。そして火術要塞は、妖精族の助け無くして辿り着くことが適わないと聞く。あの時に妖精族が滅んでいれば、密林からアウナスの侵攻が全世界に広がったかも知れぬ。俺は別に運命論者ではないが、流石にこう立て続けに現実を目の当たりにすれば、宿命がお前達にあり、我らにないということくらいは、理解できる」

 ハリードはルートヴィッヒの言葉を聞きながら姿勢を変え、船の縁に両腕をついて体重を預けた。揺れる軍船の先に、先ほど垣間見た南の大陸を見る。

「これら事実を踏まえ俺は、今直面する脅威から世界を救うという点において、お前たちには及ばぬという結論に至った。だから、今お前たちと対立する道は無益だと判断したのだ」
「・・・だから俺たちを召し抱えるわけでもなく、ただ敵ではないという立ち位置を確保しようって腹か」
「そうだ」

 ルートヴィッヒの言葉には、微塵も嘘偽りがないのだろう。一人称も先ほどの会談の時とは違い、十年前に互いが義兄弟と呼び語り合っていた時のものだ。彼が今この場では本心の言葉を語っているのだろうということが、確かに感じられる。

「お前たちは、恐らく世界を救うのだろう。寧ろ・・・今のお前たちで救えぬのならば、メッサーナは愚か、他の誰にもそれは為し得ぬことだろう」
「ふん、まるで預言者のような口ぶりだな。さながら、初代メッサーナ王パウルスのようだ。流石は、次代メッサーナ国王様といったところか?」

 ハリードの皮肉たっぷりの言葉に、ルートヴィッヒは口の端だけを少しだけ吊り上げて笑った。こんな笑い方は、昔はしなかったな、とハリードは思う。十年で変わったのは、老けた意外にはこんなところか。

「俺は、メッサーナ王を継ぐつもりは、もうない」
「・・・ほう?」

 ここにきて、まさかその大役を自分ではなくミューズあたりにでも任せるつもりか、と思う。なら、それはやめた方がいいだろう、と即座にハリードは考えた。
 ミューズは確かに聡明な娘だが、その眩しすぎるほどの高潔さは、国というものを動かす時に、時に邪魔になるのだ。
 全てが正しさだけで動くほど、国家とは甘くはない。だが、その事実にあの娘は染まらないだろう。そしてそれは国の中枢という、この上無い豊かな苗床の中で跳梁跋扈する数多の役人共の不興を買い、疎まれるうちに絡め取られ失脚するのが落ちだ。それは嫌味ではなく、ハリードは本気でそう思っている。
 だが、ルートヴィッヒの続けた言葉は彼の想像を軽く超えるものだった。

「最近までは、そのつもりだった。それが俺の求める・・・己が歩むべき覇道だと考えていた。だが、それでは未来永劫、お前たちには並べぬだろうと悟った。故に俺は・・・今この世界を席巻する聖王崇拝と依存の歴史から脱却すべく、新たな国家を設立することにした」
「新たな・・・国?」

 その思いがけない言葉にハリードがルートヴィッヒへと視線を向けると、今度はルートヴィッヒが片手を船の縁に乗せて遠く南の大陸へと視線を向けた。

「お前たち八つの光によって世界が救われた後の新たな三百年にて、人類は、更なる強さを求め、進化しなくてはならない。そうしなければ、いつまでも人類はお前たちのような救世主を待つばかりの、弱き存在でしかない。しかし救世主とはどの場所、どの時代にも常にいるものではない。今のままでは、人が危機に瀕し、その時その場に救世主がいなければ、人は全てを諦め失わなくてはならない。それは、紛れもなく今の人類が抱える弱さだ。だから、それを脱却する為の新たな国を興す」

 それはまるで建国の英雄の言葉のようだな、と呑気にハリードは視線を波に移しながら感想を思う。
 確かにルートヴィッヒの言うことは、大枠では理解できる。
 特に己の力のみを信じてこの十年を生きてきたハリードからすれば、他者に頼らぬ生き方というのは、大いに共感しかない。自分以外の何かに拠り所を求めているという意味では、聖王崇拝を軸とした今のメッサーナ王国も神王教団も、大した違いはないと彼は思うのだ。
 だが一方でルートヴィッヒの考えは、かつて独立王朝を築いたゲッシアと、どのような違いがあるのだろうか、とも思う。
 己の力を信じ突き進んだ先に、ゲッシアは腐敗し弱体化の一途を辿り、そして滅んだ。
 隣に佇むかつての義兄弟が歩もうとするその道の先にも、結局はそのような結果が待っているのではないのか。そんなふうにも、彼には思えるのだ。
 だが恐らくは、そんな道を歩んだ一つの国家の滅亡を目の当たりにしているこの男だからこそ、そうはならぬための目算も、きっとあるのだろう。

「・・・お前は、どうするのだ」

 突然に話を振られて、ハリードは危うく素っ頓狂な声を上げるところだった。

「お前は、その旅の先に、何を為そうとしている?」

 単なる興味本位で聞いている様子は、ない。
 それが痛切なほど解るからこそ、ハリードはルートヴィッヒに視線を合わせることはしなかった。
 ルートヴィッヒは十年前の敗戦から、己の信じた覇道を歩み続けている。そしてその結果として一つの答えを見出した彼は、今それを自分に包み隠すことなく話している。
 そう、これは十年前に全てを失い、その覇道の最中で袂を分かった自分に対する、彼なりのけじめなのだろう。
 だが、ハリードにはそれに対する返答など、なかった。

「・・・俺は・・・」

 何を言おうとしたのか、自分でも分からない。
 ただ、何かを自分も言わなくてはならないという強迫観念に駆られて、声を出したに過ぎないのかもしれない。
 いや、本当にそうだろうか。自分は、何かを言いかけたのではないか。
 それは、一体何なのか。
 未だに夢に見る、十年前の悪夢。
 あの時に失った愛する祖国を再興するためと称して、どれだけ意地汚くとも傭兵業に費やしてきた日々。だが本当にそれは、今の自分の望みなのか。
 仮に祖国再建を果たしたとしても、そこにもう、自分が愛した人は、いない。
 それは、本当に自分の望むゲッシアなのか。
 しかしそうではないのだとしたら、ならば一体自分の望みとは、到るべき場所とは、一体何処なのか。
 数瞬の間に様々な思いが、頭の中を駆け巡る。
 だが、そこに答えはない。
 無意識のうちに腰に備えた曲刀の柄を握りながら、ハリードは結局、言葉に詰まってそれ以上は何も言えなかった。

「・・・ふ、お前にはまず、世界を救うという宿命があるのだったな。今は語らずとも、その先に見せてもらおう」

 違う。
 そんなことでは、ないのだ。
 兎に角、そう言おうとしてハリードはルートヴィッヒへと顔を向けた。しかしルートヴィッヒは既に彼に背を向け、歩き出していた。
 そして数歩進んだところで足を止め、ハリードへ振り向くことなく、ただ少しだけ上を向いて言葉を紡いだ。

「我々は・・・生きていくために、選ばなければならない。選ばず止まれば、死が待っているのみだ。だからこそ生きて前に進むには、それしかないのだ」
「・・・・・・」

 その言葉に対する返答を待つでもなく、ルートヴィッヒは歩き去っていった。
 ハリードもまた声を出すことなく、歩き去っていく彼の背中を見つめているのみであった。

 

 

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第八章・2 -世界経済の危機-

 

 西方世界の地図上で最も西にある、各大陸に囲まれた内海の一つである静海と外洋である西太洋に挟まれて南北に延びるガーター半島。この半島の丁度中央あたりの静海沿岸に、半島最大の都市国家である自由都市ウィルミントンがある。
 この街の歴史は非常に古く、実に世界が六百年前の魔王による支配下にあった時分から既に、歴史書にその名が記されている。
 都市国家としての歴史では西方世界最古とされる、現在のツヴァイク領にあるポドールイに次ぐ歴史を誇る都市であり、この街の繁栄は街の代名詞ともいえる存在である世界一の大商会、フルブライト商会の成長と共に歩まれてきた。
 魔王亡き後に四魔貴族が世界を支配した暗黒時代にあっても人々の導き手として数百年に渡り世界経済を支え続けたその偉業を称えられ、メッサーナ王国の手厚い庇護の元で文字通り世界最大の商会として経済界に君臨してきたフルブライト商会を有するこの街は、今もまたメッサーナ首都ピドナに勝るとも劣らない世界経済の中心地として、変わらず存在感を示している。

「・・・あぁ、来てくれたか、トーマス君」

 その歴史あるウィルミントンの北部区画の中でも一際大きな建造物である、フルブライト商会の歴史ある本館。その執務室へと通されたトーマスらは、いつになく神妙な様子のフルブライト二十三世に迎えられ、お辞儀をした。
 数ヶ月ぶりに会ったフルブライト二十三世は、連日の激務のせいなのか表情にどこか疲れがにじみ出ている様にも見える。

「本当はもっと早く来る予定でしたが、諸事情により遅れました。申し訳ございません」
「いや、その辺りの事情は私も聞き及んでいるよ・・・気にしないでくれ。寧ろ、君の祖国ロアーヌが大変な時にこうして態々世界地図の反対側まで呼び立ててしまって、すまないね」

 フルブライト二十三世の言葉にトーマスが恐縮しながら返すと、フルブライト二十三世は自分の傍に佇む大型犬を撫でると、次にトーマスの背後に控えていた人物へと視線を移した。

「そして、ようこそおいでくださいました、ミューズ様、シャール殿。心より歓迎いたします」

 片手を胸の前に添えながらフルブライト二十三世がそう言ってお辞儀をするのに合わせ、トーマスの背後にいた二人も礼を返す。
 二人はバンガードにて無事に再会したトーマスからの要請を受け、ルーブ山へと発つカタリナらを現地で見送ったと同時に街を発ち、このウィルミントンへと赴いていた。

「本来ならば、先ずはこのウィルミントンを楽しんで頂くべく名所のご案内をしたいところですが、どうにもお互い差し迫った事情を抱えてしまっております。故にご来訪直後に大変失礼であるとは存じますが、早速こちらのテーブルにてお話を始めさせていただければと思います」

 そう言ってフルブライト二十三世が彼の背面にある広々としたソファへと促す仕草をすると、トーマスら三人は誘われるままにそこに腰掛けた。
 外に待機していた執事に周辺の人払いを命じて自ら執務室の扉を閉めたフルブライト二十三世は、トーマスらの対面に腰掛けると、テーブル上にあった果実水の瓶から人数分のグラスへとそれを注ぎ、そして神妙な面持ちを崩さぬままに手を膝の上で組んだ。

「今回お三方を態々ここにお呼び立てさせて頂いたのは、他でもない、この世界経済界に於ける未曾有の危機の存在と、その現状をお伝えするためです」
「未曾有の危機・・・ですか」

 その言葉に、トーマスが鸚鵡返しで答える。
 それに対しゆっくりと頷いたフルブライト二十三世は、大変重苦しい様子で口を開いた。

「そう、未曾有の危機だ。現在、世界経済市場では、突如として現れた謎の商会同盟によって大いなる混乱が齎されようとしている」

 フルブライト二十三世が続けて語ったのは、次の様な内容だった。
 フルブライト二十三世が独自に得た情報によれば、なんと世界中に散らばる商人の一部にアビスの魔貴族と裏で繋がりを持ち、その影響力を武器に交易の独占を企む者が現れた、との事だった。
 その商人らは「アビスリーグ」という同盟を秘密裏に組織し、既にその影響は各地の交易に影響を及ぼし始めているのだという。

「アビスリーグ・・・。直近の決算情報でも、そんな禍々しい名の同盟があったとは当社では認識していませんでした」

 トーマスが全くの初耳であるという表情でそう言うと、フルブライト二十三世は然りとばかりに浅く頷いて返した。

「ああ。これに関しては現在、私も各地で秘密裏に調査を進めているのだが・・・残念ながら何処の企業がこのアビスリーグに加盟しているのかは、明確な証拠はないという状況なのだ。だが・・・証拠こそないものの、ある程度の目星は付いている」

 そう言ってフルブライト二十三世はソファから立ち上がり、部屋の窓際近くにあった彼の執務机と思われる非常に立派な作りのデスクの鍵付き引き出しを開け、そこから数枚の紙の束を取って戻ってきた。

「ここ数ヶ月の、各地の取引帳票の一部だ。ここに纏めている企業の売上高と、それに対する経常利益にどうにも違和感を感じてね。一見すると輸送や護衛コストと照らし合わせたら通年通りの順当な数値なのだが、一方で輸送ルートにあたる現地のキャラバンや武装商隊の売上高は、横這いどころか下がってすらいる。これは捉え方によっては、資金を偽装計上して外部に流している様にも見えるのだよ。以前に御社のタ・・・キャンディ嬢が指摘していた、ドフォーレの資金の流れにも通ずるものがあるように思う。かなり巧妙に隠蔽工作が施されているようなので、これを突き止めるのも相当難儀したがね・・・」

 差し出された紙面を受け取ったトーマスは、隣に並んで座っているミューズシャールと共に視線を落とす。そしてその中に記載されていた数字の羅列と共に企業の名を目の当たりにしたトーマスは、彼にしては珍しく驚きを隠さない様子で目を見開いた。

「・・・な、アルフォンソ海運・・・!?」

 彼の目に先ず飛び込んできたのは、メッサーナ王国首都ピドナに本社を置く、紛う事なき世界最大の海運企業として名高い、アルフォンソ海運の名だった。
 実に世界の海運事業の六割に関わるとすら言われる最大手企業の一角で、総資産ランキングは常に十位以内に位置している。
 その他にも幾つか決算ランキング上位数十社に名を連ねる様な企業群がその調書には散見され、トーマスは思わず固唾を飲む。

「・・・これは、商業に疎い私でさえも見知った企業があるな」
「ええ・・・。フルブライト二十三世様、この調書は、失礼ですが真実なのでしょうか・・・?」

 トーマスの隣からその調書を覗き込んでいたシャールとミューズが思わず尋ねると、フルブライト二十三世は、これにも浅く頷く。

「先に言った通り、まだ明確な証拠は有りませんが、かなり信憑性は高いと、私は睨んでいます」
「・・・もしこれが真実ならば、確かにこれは今までにない規模での、未曾有の危機です」

 一通り目を通した調書の束をテーブルへと置いたトーマスは、フルブライト二十三世と同様に神妙な面持ちで彼に相対した。
 するとフルブライト二十三世はテーブルに置かれた調書に視線を落とし、どうしたことか彼にしては珍しく、非常に歯切れの悪い様子で殊更に小さく呟く様に、言葉を続ける。

「・・・そして、こんな事を君に言うのは全くの恥でしかない事だが・・・しかし言わせてくれ。このアビスリーグの魔手は、このフルブライト商会内部にも、既に及んでいる可能性がある」

 それは、余りに衝撃的な告白だった。
 一体その言葉がどのような状態を示唆しているのかはこの時点では分からなかったが、しかしフルブライト商会は文字通り世界一の企業だ。そのフルブライト商会がアビスに侵食されると言うことは、正に、世界経済の真なる終焉を意味するといっていい。
 そしてここに至りトーマスは、何故自分だけでは無くミューズの同席もフルブライト二十三世が希望してきたのかということに、大凡の確信を得た。
 シャールとミューズが事態のあまりの深刻さに言葉を失い閉口していると、トーマスは座ったままの状態で不意に天を仰ぐ。これは、彼が何かの決断をする時の癖だ。

「・・・貴方程の方がこの様なところで冗談を言うとは、流石に思いません。そのお言葉で、この事態が私の想像以上に恐ろしく深刻であると言うことが、十二分に理解出来ました」

 フルブライト二十三世のとても沈痛な面持ちは、彼の言いたい事、思う所を、その言葉以上に表している様だ。
 トーマスの予測が当たっているのだとすれば、今のフルブライト二十三世の想いとは、どれ程に複雑な事であろうか。
 其れを察したトーマスは、次に視線を窓の外に向け、窓から見下ろす事のできるウィルミントンの街並みを眺めた。
 この自由都市ウィルミントンはピドナほどまでに大きな街ではないが、隅々まで非常に整備の行き届いた、見目麗しく、とても豊かな街だ。
 かの聖王が四魔貴族打倒の旗を掲げる直前に長期の滞在をしたことでも知られるこの街は、フルブライト二十三世にとってもかけがえの無い大切な場所なのであろうと言うことが、この部屋からの一望で察することができる。
 彼はフルブライトという歴史と己の誇りを捨ててでも、この街の、そして世界経済の救済を強く望んでいるのだ。
 トーマスは、視線を戻した。

「・・・では現時点を以って、我がカタリナカンパニーはフルブライト商会との同盟を破棄し、世界経済の救済を成すための覇道を歩みましょう」

 突然のトーマスの言葉に一体何を言い出すのかと、隣のミューズとシャールは全く驚いた様子で彼を見つめるが、しかし彼の正面にいるフルブライト二十三世だけは、何処か物悲しげな微笑みを浮かべながらも、とても満足げに深く頷いた。

「あぁ、君ならば、そう言ってくれると信じていたよ・・・。有難う、トーマス君。身勝手な願いだが、今は君に、世界経済の行く末を託したい。君ならば、必ず成し遂げられるだろう」

 彼は、こうなる事を望んでいた。それがトーマスには痛いほど分かったのだ。
 彼がミューズの同席を希望した理由は、単純だ。彼は、彼女にもこの事態の深刻さを理解してもらい、そして彼女がこの事態に対して立ち上がる事・・・即ち、クラウディウス商会の再興を望んでいるのだ。
 先のドフォーレの一件以降、経済界隈では今現在もクラウディウス商会の復活が実しやかに囁かれている。
 まるで英雄譚の如くに全世界に瞬く間に報じられたミューズとカタリナカンパニーによるドフォーレ商会成敗劇は、経済界は愚か、それとは関係なく単に今の世を嘆く多くの人々にも歓迎され、称賛された。今やミューズは、経済や政権に不満を抱く一部の界隈では救世の英雄視すらされている。
 そんなミューズが率い、嘗て世界三大商会の一角とも言われたクラウディウス商会が再び立ち上がれば、其処には数多くの企業や人々が賛同を希望する事だろう。
 だが、そこにもしアビスの魔手が入り込めば、それは瞬く間に世界を破滅へと陥れる強力な劇薬にもなりかねない。
 だからこそ、これ以降の道でカタリナカンパニーとフルブライト商会は、共に歩む事は出来ないのだ。
 しかしながら、トーマスにはどうしても一つ、引っ掛かる事があった。

「貴方は・・・フルブライト二十三世様は、如何なさるおつもりなのですか」

 彼の希望は、わかった。だが彼自身はこの事実をどの様に受け止め、これからどのように相対する気なのか。それが気になったのだ。
 フルブライト二十三世はそんなトーマスの問いに、数秒の間をおいてから応えた。

「私はこの商会の代表だ。この立場を用い、内外の凡ゆる情報を集めて内部から状況の改善に努めるつもりだよ」
「しかしそれでは・・・貴方の命に危険が及びます・・・!」

 アビスの魔手が伸びているのだとすれば、その可能性は大いにあるという事をトーマスは知っていた。
 事実、アビスの魔手が伸びていたドフォーレは会長であるモンテロがとうの昔に殺害されていたことも後の捜査で判明している。それにロアーヌで起こったゴドウィンの変でも、哀れなる男爵ゴドウィンは、アビスの妖魔に唆された末に命を落としているのだ。
 アビスに関われば、それは即ち己の生命の危機に関わる事なのだと、彼はよく理解していた。
 トーマスのその指摘に、フルブライト二十三世はふっと一息つくと、漸く今日初めて彼特有の不敵な笑みを取り戻し、トーマスに視線を返した。

「なぁに、私は偉大なる祖先、かの聖王に助力したフルブライト十二世やチャールズ=フルブライトの血統を継ぐ、誇り高きフルブライト商会の次期会長だ。己の使命を全うするまで、この命を失うつもりなど微塵もないよ」

 その言葉や表情には、確かに微塵も自分の誇りを疑わない自信が満ち溢れていた。
 それはとても頼もしく見える反面で、しかし同時に危うくも感じる。
 アビスの妖魔というものがどれほど簡単に命を刈り取っていくのかという事を、トーマスはフルブライト二十三世以上によく知っているからだ。
 しかし今ここでそれを伝えたところで、彼は真に理解はしないだろう。それに、ここでやり残したことも多い状態では、例え身の危険をトーマスと同等に感じていたとしても、彼の持つ誇り故に、己の成すべき事を辞めはしないだろう。
 だから、トーマスは今はただ、深くゆっくりと頷いた。

「・・・そのお言葉を聞いて、安心いたしました。ですが、万が一の際には、どうか必ず御命の優先を。身の危険を感じたら、迷わずピドナにお越し下さい。今貴方を失うことは、其れこそが世界経済の真なる終焉を意味します」
「ああ、その時は恥を顧みずお世話になろう・・・。では、健闘を祈る」

 そう言って差し出されたフルブライト二十三世の右手を強く握り返したトーマスは、託された調書を懐にしまってミューズらと共に彼の執務室を後にした。

 

 

「これから、どうするのだ?」

 ウィルミントン南部にあるこの街で最も大きな宿泊施設であるホテルバイロンの最上階の一室にて、同行者であるハリード、ブラックと合流した三人は、今後の動向を決めるために一同が集まっていた。
 ブラックとハリードが其々窓際と部屋の戸を警戒するように立ち位置を取り、そして部屋の中央にある客室用ソファにミューズの隣に腰掛けたシャールからの開口一番の問いに、対するトーマスは軽く腕を組みながら、軽く思案する仕草を見せる。

「・・・先ずは、ピドナでの記者会見を考えています」
「記者会見・・・?」

 聴き慣れぬ単語にシャールが疑問符を浮かべるが、その言葉の真意を彼の隣でいち早く察したミューズが、トーマスの代わりに口を開く。

「クラウディウス商会の復活を・・・そこで世間に、公表するのですね」

 ミューズの言葉に、しかしトーマスは直ぐ様頷くでもなく、真っ直ぐ彼女を見つめ返した。

「・・・それは、あくまで二つある選択肢の内の一つです。もう一つの選択肢は、先ほどフルブライト二十三世様に言った通りにカタリナカンパニーがフルブライト商会との同盟を切り、覇道を歩むことと、それに伴う今後の方針の発表を行うのみ。このルートもあります」

 そう、ここが経済界の・・・いや、今後の世界そのものの行く末をすら左右する程の、とても大きな分かれ道なのだとトーマスは考えていた。
 ここで何方の選択をするのかで、世界中の多くの人々の運命を左右する事になるかもしれない。
 故に、この記者会見をするにあたっては何よりも、この選択権を持つミューズの意向を確りと確認しなければならない。
 トーマスはミューズの真正面に向き直り、口を開いた。

「ミューズ様。仮にクラウディウス商会の復興を記者会見で発表したとしたら、貴女はいよいよ、世界の表舞台にクラウディウス家の後継として大々的に復帰することになってしまいます。そうなれば当然ルートヴィッヒ近衛軍団長は黙ってはいないでしょうし、それ以外にも貴女を貶めるか、又は利用しようとする様々な方面からの接触が、引っ切り無しに起こるでしょう。更には、今以上に身の危険につながることも起こる可能性は、十二分に有り得ます。それらを含め、メッサーナ王国のこの十五年続く内乱は、いよいよ終結へと誘われ始めるでしょう」

 なにも、トーマスはミューズを怖がらせたいわけでもないし、変に奮い立たせたいわけでもない。
 何しろ、彼が言っていることは何の他意もない、単なる事実なのだ。
 それこそ現在ですらドフォーレの一件からの影響を鑑みて用心を重ね、こうして隠密行動をしている。
 それが世間に名だたる大商会を再び興すとなれば、当然世間に顔を出す機会は増える。そうなれば、比例して身の危険も増えるのは紛れもない事実なのである。
 トーマスは、そこを隠そうともせずにはっきりと言い切った。
 彼は、これでミューズが断るならばそれでもいいと、寧ろ、その方が彼女のためにはいいのだとすら思っている。
 ドフォーレの一件は、世間の支持を一時的に受けつつメッサーナの首脳陣を抑えながら行うことのできた、最初で最後の報いの一矢だった。
 あれだけならば、幾らでもこの後に再び平穏な暮らしに戻る算段は立てることができる。あれでメッサーナの主権を握る者達に一泡吹かせたことを良しとして、それで身を引くことは十分に可能なのだ。
 トーマスは抑も、それを確りと示唆した上でミューズにあの場を用意していた。
 だから何方に誘導するでもなく、単純に彼女自身に其々の選択肢の持つ意味を理解してもらい、その上で考え、決めて欲しいと思うのだ。
 そんなトーマスの思惑を理解していたミューズは、膝に置いていた手を強く握りしめると、毅然とした表情でトーマスを見返した。

「私は、もう守られるだけの存在ではありません。お父様の遺志を継ぎ、クラウディウスの誇りに賭けて、己の役目を全うする覚悟はできています」

 そのミューズの言葉に、隣に座るシャールは心中複雑な表情をしながら彼女を見つめる。
 だがミューズはそんな彼の内心を知ってか知らずか、そっと彼の手に自分の手を重ねる。そしてシャールの左手の暖かさをその掌に感じながら、優しく微笑んだ。

「シャール。貴方も力を貸して頂戴。私は今も相変わらず、一人ではまだ何も為せない唯の女です。だから、貴方の守護が必要です」
「・・・御意に」

 シャールの、彼らしい短い返答に満足げに頷きつつ、ミューズはトーマスに向き直った。

「トーマス様。貴方に、この命を委ねます。どうぞ御心の赴くままに、お使いください」
「・・・分かりました。ベントの名にかけて、必ずやミューズ様の願いに応えましょう」

 ミューズの覚悟に正面から向き合う様に、彼女の前に跪いてそう応えたトーマスは、居住まいを正してから今後のスケジュールに関しての説明に移った。

「先ず記者会見ですが、明日にはピドナに向け出発し、本社に戻ったら翌日にでもゲリラ的に、即行います」
「随分と性急なのだな。事前に、今回のアビスリーグとやらについてはこちらでも調査をしなくて良いのか?」

 シャールが慎重を期すべきではと疑問の声を上げるが、それにはトーマスは小さくかぶりを振った。

「フルブライト二十三世様の手腕を以ってしても現時点では明確な証拠が掴めていない以上、我々が改めて調査を重ねても、この調書以上の情報は出てこないだろうと踏んでいます。逆にクラウディウス商会の再興とカタリナカンパニーとの同盟を発表すれば、それに端を発し様々に表舞台や水面化にて動きがある事でしょう。その中で、確信に迫る情報を此方から炙り出します。それに・・・我々はドフォーレの一件で、近衛軍団に目をつけられていますからね。行動に下手に猶予を持たせては、彼らに介入されて動きを制限される恐れがありますから」
「成る程・・・確かにその通りだな」

 シャールが頷くのを見ながら、トーマスは続けた。

「なので此れを最も効果的にするため我々が記者会見後まず一番に行う事は、現在魔龍公ビューネイ軍と戦火を交えているロアーヌ戦線への、経済的支援です」
「・・・成る程、アビスに仇為す行動であれば、アビスリーグも初動で静観はしないだろう、という事ですね」

 ミューズが察し良くトーマスの言葉に応えると、彼は正にその通りと言いながら二人との間に小さな机を寄せ、紙に要点をまとめる様に書き連ねていった。
 ロアーヌへの経済的支援の狙いは、次の様になる。
 先ずは、ミューズの指摘する通り、アビスリーグの動きを早期に暴くための誘発剤としての役割だ。
 アビスリーグの目的は、当然ながら世界経済の独占などではないだろう。ドフォーレの例を見ても分かる通り、最終的にリーグとしての経済活動の行き着く先は、人類を滅ぼすための行動に直結するはずだ。
 このためのプロセスとして、一体何が何処でどう動いているのか。これを確りと見極めなければ、此方から迂闊に攻めることができない。なので、敵対する行動を敢えて大々的に発表することで、彼方からの何かしらの接触を引き起こすのが狙いというわけである。
 そしてもう一つは、これを機にクラウディウス家の立ち位置を世界的に正義の象徴として確立させ、世論の支持を一気に集める事だ。
 対四魔貴族の戦とは、全人類にとって本来最優先にあたる一大有事。しかし今まさにロアーヌがアビスの軍勢と交戦しているところに、未だ各国からの援軍はないという。
 つまりは一様に皆、次に自分たちが狙われ攻められるのを恐れているのだ。
 何しろロアーヌは、魔炎長アウナスの潜む火術要塞を攻め落とした。そうして四魔貴族に相対したからこそ、今、彼らは攻められている。世間には、その様に映ってしまっているのである。

「このままでは、日和見のまま各国は動かないでしょう。戦線も膠着しており、各国が不安視した通りに先行き不透明。状況が変わらなければ、今後も参戦の意思を示す国家は殆ど無いはずです。だがそこに我々がミューズ様の名の下に支援を宣言すれば、少なくとも世論の大きな賛同は得られるはずです。そして無事にカタリナ様が魔龍公ビューネイを討ってくだされば、必ずやロアーヌ軍は勝利します。これを以って、一気に我々が世論を席巻します」

 シャールは、そのトーマスの言葉に固唾を飲んだ。
 一体このトーマスという男は、どこまで大局を見ているというのか。
 まだ歳若く、一般的なこの年頃の男であれば、目の前の事に我武者羅な時分の筈。それがこのトーマスという男は、まるで世界を知り尽くした翁の様に、物事を見通さんとしている。その知見が果たして、八つの光なる聖王三傑パウルスの予言に出てきた存在であるが故なのか、彼には分からない。
 だが間違いなく、彼の言葉には力があり、展望があり、自分たちの気持ちを奮い立たせる。
 シャールもまた、ミューズと共にこの若き青年に己の命を預けてみようと思い至りながら彼の話を聞いていた。

「・・・そうすると、マジで早めに動かないと不味いんじゃないか?」

 トーマスの話に続いたのは、扉の外の警戒をしながら話を聞いていたハリードだった。
 部屋の中の皆が彼に視線を向けると、ハリードは腕を組んで彼らに向かい合うように体勢を変える。

「カタリナがバンガードからルーブに向かったのは、もう五日も前だ。順当に行けばそろそろループ山脈の麓に到達している頃合だろう。ルーブは標高がある山だから高山病対策で体を慣らしながらいくだろうが、それでもあと五日もすればグゥエインの元に到達するだろうな。そこからの説得次第では、すぐに動くことも考えられる。最短でことが運んだことを考えると、此方のスケジュール的には割とギリギリなタイミングだぞ」
「はい、ですので、明日の朝一の便でピドナへ戻り、到着の翌日には記者会見を行うつもりです」

 ハリードの指摘に浅く頷き返しながらトーマスが言うと、ハリードは組んでいた腕を解いて指を一本立てながら更に続ける。

「もう一つ問題があるな。スケジュールはそれで滑り込みだとしても、あとは記者会見の規模だ。各国から記者や来賓を集めるといっても、通常ならピドナの立地でも二週間程は要するだろう。即日の会見では、記者もせいぜい現地のメッサーナジャーナルくらいしか呼べない。それではピドナの外に即座に情報が伝わり難く、情報の流布にかなりの時間がかかってしまう筈だ。それまでにカタリナがカタをつける可能性があるんじゃないか?」

 ハリードの指摘は尤もなことだった。
 この記者会見の要は、言ってしまえばロアーヌが劣勢のうちに、世界に先駆けて唯一の加勢を宣言する、ということだ。
 だがその宣言を世界が知る前にロアーヌが四魔貴族ビューネイに勝利すれば、世界情勢は其処で全く掌を返したようにロアーヌの奮闘を賛美し、彼らへの復興支援を名乗り出る国が出てくるだろう。そこに埋もれる形で情報が流布されても、トーマスの期待する効果は全く得られないことは明白だ。
 ハリードのその指摘にミューズとシャールが唸るが、しかしトーマスはそれにも余裕の表情を崩さない。

「・・・けっ、どうにも気に入らねえな、そこの坊ちゃんはよ。腹の奥に隠していることを晒さねえ」

 窓際を警戒していたはずのブラックが、唐突にそう言った。
 彼はいつの間にか普段通りに煙草に火をつけていたが、風を操り煙を外に逃していたので、それには誰も気が付かなかったようだ。

「・・・出し惜しみをしていたつもりは有りませんでしたが、不興を買ってしまいましたね。確かに私には、そこに対しても目算があります」

 ブラックの指摘に眼鏡の位置を直しながら応えたトーマスは、懐から一枚の封筒を取り出した。

「これは、招待状です。中身はピドナ宮殿にてここ数年行われている、近衛軍団主催の『死触に打ち勝つ集い』のものです。これにより各国の来賓と記者陣がピドナに集結します。これの期日は、丁度一週間後にあたります」
「・・・なるほど、もうそんな時期だったな。確かに、ここ数年はそんな下らん集まりを宮殿でしているという話は、私も聞いている」

 トーマスの持つ封筒に視線を向けながら、シャールが思い出したように呟く。
 もう間も無く世界が一年の終わりを迎えんというこのころ、今から十六年前、三度目の死触は起こった。年の瀬に訪れた未曾有の災厄は未だ世界の人々の記憶に鮮明に残っており、今も人々を苦しめ続けている。
 そんな折、五年前に現在の地位に就いたルートヴィッヒ近衛軍団長が就任翌年から突如として始めたのが、この「死触に打ち勝つ集い」だ。世界の中心都市であるピドナにて各国来賓を招いて行われるこの祭典は実情を言ってしまえば、その名とは全くかけ離れた内容で、つまりは近衛軍団の権威を各国と大衆に示すことに主軸を置いた催しである。
 だが急激な情勢変動があったピドナの状況を見るために各国来賓は初年度から集い、それをルートヴィッヒは実に手厚くもてなした。
 こうなると、そもそもの大義名分が死蝕による被害を各国で相互に補助し、今後懸念されるアビスの魔物を始めとした様々な有事に対応するための話し合いの場として設けられているということも手伝い、ルートヴィッヒの周到な歓迎ぶりに毎年の各国参列は盛況だった。

「この祭典は一週間ほど行われますが、二日ほどの会議の後は丸々宴会です。我々がピドナに帰る頃には会議も終わり宴席の期間ですから、各国記者を会見に集めることは容易だと考えられます。これなら、先行して世界への話題の流布には事欠かないでしょう」
「あの、一つよろしいですか?」

 トーマスの言葉が一区切りついたところで、ミューズが遠慮がちに挙手をする。それにトーマスがどうぞと発言を促すと、ミューズは小さく眉間に皺を寄せるような表情を作りながら続けた。

「記者会見そのものへの、近衛軍団の介入という可能性は考えられませんか?」

 ミューズが言いたいのは、その記者会見自体を近衛軍団が規制しに掛かってくる可能性のことだ。
 何しろカタリナカンパニーは、ドフォーレ商会の一件で完全に近衛軍団とは袂を分かったと言っていい。彼らが手を出せない状況を作り出した上で、ルートヴィッヒが最も警戒していると言っても過言ではないクラウディウス家のミューズを表舞台に担ぎ出したことは、近衛軍団からすれば正に煮え湯を飲まされる思いだったことだろう。
 そのカタリナカンパニーが彼らのお膝元で会見を行うともなれば、何かしらの理由をつけて会見そのものを阻止しに掛かってくる可能性があるのではないか、という指摘だ。
 流石に聡明な彼女の指摘にトーマスは、顎に手を当てて考える。
 確かにミューズの指摘は最もなことで、今や国内で反勢力を見事に防いでいる彼らならば、危険性を察知すれば多少強引な手を使ってでもカンパニーの会見を潰しにかかる可能性は十分に考えられた。

「確かに、近衛軍団に対しての何らかの対策は、せねばならないとは考えていました。個人的には直近はこの祭典があったので、我々に対する積極的な動きがあるならば年明けあたりかと考えていましたが・・・。ピドナホテルの会場使用に関しても近衛軍団への報告義務はありましょうから、十分それは考えられますね・・・」

 言葉を紡ぎながらトーマスが思考を巡らせている、その時だった。

「・・・おい」

 トーマスが思案する仕草を見せた所で、窓際にいたブラックが部屋の全員に伝える様に声を上げた。
 それにトーマスらが振り向くと、ブラックは火をもみ消した煙草を窓の外に投げ捨てながら、腰のヴァイキングアクスへと手を伸ばした。

「・・・このホテル、囲まれたぞ」
「・・・なんだって・・・?」

 目を見開いたトーマスが窓際に駆け寄り外の様子を伺うと、なんとこのホテルバイロンは既に武装した軍団に取り囲まれており、地上は騒然とした様相だった。
 遠目の効くブラックが軍団の鎧や側に目を凝らすと、その軍紋は老若男女を問わず世界に知らぬものがないほど、実に有名なものだ。

「・・・近衛軍団だ」
「・・・なんてことだ。まさか、他の対処を全て後回しにして、此方の捕縛に全力で動くとは・・・」

 ここにきて全く予想外の展開にトーマスが苦虫を噛み潰したような表情をしながらこの場の対策を考えている所に、今度はハリードが既に抜刀しながら扉を睨みつけ、一歩離れた。

「此方に来るぞ。数は少なくとも六人以上。武装済みだ」

 ハリードの言葉に、一気にその場の緊張感が高まる。
 やがて部屋の中からも分かるほどの軍靴の音が幾重にも響き、その軍靴の重奏は部屋の前で止まった。
 そして、場違いにも優雅な調子で、部屋がノックされる。

「・・・どうぞ」

 ミューズを庇う様に各々が扉に向かって陣取りながら、トーマスがいつでも術を放てるように準備を行いつつ、覚悟を決めた様に声を上げる。
 それに応える様に、扉がゆっくりと開かれた。
 そしてまず最初に、奇襲を警戒する素振りもなく部屋の中に入ってきたのは、長い金髪を後ろで束ねた、精悍な顔つきの男だった。
 特に周囲の軍団騎士とさして変わらぬ鎧を身に纏っているものの、しかしその男から発せられる圧は、明らかに周囲のそれとは一線を画している。
 その男を見た瞬間、シャール、ミューズ、そしてハリードの表情が大きく歪んだ。

「・・・ルートヴィッヒ」

 そして扉の一番近くにいたハリードが手にした抜身の曲刀を握り締めたまま、やっとのことで絞り出す様にその名を呼ぶ。

「・・・ハリード・・・。久しいな。噂はよく聞いていたが、息災な様で何よりだ」

 ハリードの顔を最初に見たその男・・・ルートヴィッヒは、続けて部屋の中に入ろうとする他の兵を片手を上げて制しながら、自らだけが一歩だけ部屋の中に歩を進めた。
 そして、トーマスとシャールの間から自分のことを真っ直ぐに見つめるミューズへ、合わせるように視線を向ける。

「・・・ミューズ=クラウディア=クラウディウス殿。宿泊先への突然の来訪の無礼、許してほしい。そして更に急な誘いで済まないが、これからピドナへと共に来てもらいたい。ここにいる者も、無論同行してくれて構わない。不必要に騒がないでいただければ、道中の自由は私の名において保障しよう」

 

 

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