第九章・6 -全てを見通す男-

 

 ドンッ!!

 木製の扉を打ち破る勢いで蹴り開け、鼻息荒くバンガード商業ギルド会館の一室へと乱暴に踏み込んできたのは、誰あろうバイロン卿その人だった。
 とはいえ余りにその有様が先日までの彼とかけ離れていることから、その場にいた誰しもが一瞬、彼がバイロンであるということに気付けなかったほどである。
 顔こそ同じで、着ている衣服も確かにウィルミントン製のハイブランドスーツなのだが、しかしいつもの紳士然とした姿勢や振る舞いは、完全にどこかへと消え失せてしまっていた。
 余程急いでここにきたのか、帽子も被らず頭髪は乱れ、興奮からか目は醜く充血し、呼吸も荒い。
 そして手にした杖をまるで棍棒代わりのように握りしめながら、獣じみた前傾姿勢で周囲を威嚇しているのだ。
 その様相はまるで、癇癪を起こして暴れ回らんとする悪徳商人もかくや、というような有様であった。
 その姿を見て、場違いにも思わず失笑してしまったのは、かつての自分の姿をそこに垣間見てしまったからか。
 内心でそう自嘲しながら、ラブ=ドフォーレは至極落ち着いた様子で深くソファに腰掛けたまま、戯けるように大仰に両手を広げて驚いてみせた。

「これはこれは、バイロン卿。随分と遅いご到着でしたな。よもや来られないのではないかと、少々心配してしまいましたよ」
「!!!?・・・貴様、貴様が仕組んだのか!!??」

 ラブの様子を見たバイロンは烈火の如くに怒りの表情へ変わり、手にした杖を振り上げながらラブへと迫る。
 しかしラブの背後に控えていた屈強なボディガードに遮られ、更には慌てたバンガード商業ギルドの職員にも背後から身を押さえられたことで、それ以上ラブに接近することは出来なかった。
 だが彼の怒りは、そんなことで欠片も収まることはない。
 バイロンはギルド職員に羽交い締めにされたまま、半ば叫ぶように口汚くラブを問いただした。

「貴様が!!貴様のような品性の欠片もない豚如きが、この私とフルブライトを嵌めたのか!!??」
「おやおや・・・嵌めたとはまた、とんだ濡れ衣ですな。私が聞き及んでいる限り、今回の事はあくまで御社内での揉め事だと理解しておりますが、ねぇ?」
「き・・・貴様ぁぁぁああああ!!!!!!!」

 ラブの言葉にバイロンは絶叫し、その後は歯が砕けそうなほどに強く口内を噛み締め、力任せに杖を床に叩きつける。
 その様子が大層面白かったのか、自らの性根の悪さを自覚しているラブはニヤリと下卑た笑みを浮かべながら、膝に手をついてゆっくりと立ち上がった。

「私はね、こう聞きましたよ、バイロン卿。何でも・・・どうしたことか今回のトレード終結後、普通なら即座に商業ギルドを通じて動くはずのオーラムが微動だにしない。何故かと言えば、今回のトレード決着と同時にウィルミントン本店以外のほぼ全ての支店で、傘下企業が商会からの離脱を表明してしまったからだ、と。それ故、本店口座の残高だけではトレードで提示したオーラムが用意できなかったから、だそうですねぇ?」
「これは!! これは全く悪質で卑劣な!!! 神聖なる商いの道理を無視した物件独立工作だッ!!! このようなことは断じてッ!! 断じて認められるようなものではないッッ!!!!!!」

 これまた叫ぶようにバイロンが喚き散らすと、対するラブは実に愉快そうに瞳を歪ませながら、さも同情するかのような声色でバイロンへと語りかける。

「えぇえぇ、そうでしょうとも。これはとても悪質な独立工作でしょう。ただし・・・それをトレード相手ではなく身内が起こしたとなると・・・ふふふ、これには全く同情の余地がありませんがなぁ・・・!」

 ついには抑えきれずに、声を上げて笑い出したラブ。それをバイロンは脳が茹で上がりそうなほどに顔全体を熱で赤らめながら、憤怒の表情で睨みつけた。
 全ては、ラブの言う通りであった。
 トレード終結宣言によってバイロンが勝利を確信したその時、既にフルブライト商会の内部では、全てが覆っていた。
 商業ギルドによる正式なトレード終結の報が各国へ発せられる同時に、今回は未曾有の巨額トレードであることから各国に散らばるフルブライト商会傘下の企業に対し、各国商業ギルド支部口座を通じてトレード資金の拠出要請及び集金が行われる算段であった。
 しかしあろうことか、この資金集約要請を商会全体の六割もの傘下企業が全面拒否したのである。
 つまり、物件独立をされたのだ。
 これによりトレードで提示したオーラムの拠出が不可能になったフルブライト商会の醜態は世界中に瞬く間に伝播し、トレード結果以上に各国権力者の耳目を強く引きつけた。

「しかもどうやら独立した企業群、御社の会長が立ち上げた『フルブライト二十三世商会』という名の企業に参画していらっしゃるとか。加えてその企業、なにやら各地の御社残留企業やリブロフ、ナジュ周辺の特定企業に対して既にトレードを仕掛けているそうですなぁ。これでは、ご自慢のリーグからも資金は出せませんな・・・?」

 そういってまたしても笑い出すラブに対し、バイロンは今度こそ言葉にならない叫びを上げながら殴り掛からんとする。
 しかし呆気なくボディガードに弾かれて尻餅をついたバイロンは、血管をはち切れんばかりに顔中に浮かび上がらせながら、ゆっくりと立ち上がった。
 その瞳には、怒りを通り越した狂気が宿っている。
 思わず、その瞳を見たラブは真顔に戻って口を噤んでしまった。

「お前達のような屑に・・・私の・・・私の崇高な目的など、永遠に理解出来まい。もはやこれで、人類の間違いを正すことは不可能になった。人類は、遠からず自らの愚かさによって滅ぶことになる・・・!」

 力なく横に首を振ってそう言い捨てながら、バイロンは懐から細く小さな笛を取り出した。
 場にそぐわない妙な行動に誰もが首を傾げる中、何故かラブだけはバイロンのその動作に、只ならぬ狂気を感じ取った。

「おい、それを止めさせろ!」

 慌ててラブが言葉を発するが、それを聞いたボディガードの反応は遅い。ボディガードが動き出す前に、バイロンはその笛を力一杯に吹き鳴らした。
 その笛の音は、その場にいる者にはほとんど聞こえない。
 冷や汗をかくラブと、それ以外の面々が変わらず怪訝な顔をしていると、それをみて気が狂れたように笑い出したバイロンは、杖を振り翳しながら叫んだ。

「今のはなぁ、外に控えさせているデーモン種族を呼び起こす笛だ・・・愚かな人間たちには聞こえない。お前達は、全員ここで死ね。私は貴様らの死を見届けてからアビスへと降り、人類が滅ぶ様をも虚しく見届けてやろう・・・!」

 その言葉と同時に、建物の外から俄かに人の叫び声が聞こえてくる。

「ふ、ふははははははは!!私の救済を台無しにした人類に、裁きを・・・!!」

 翳した杖の先端をラブへと向けて、高笑いしながら叫ぶバイロン。
 後退りをしながら逃走の手段を即座に模索するラブ。
 何が起きたのかも分からず慌てるばかりのその他の面々。
 だが、どうしたことだろうか。
 バイロンの宣言に反して、外からは最初に叫び声が一度聞こえたきり、そのあとは荘厳なる破壊のコンチェルトも、愚かなる人類の成す悲痛なアンサンブルも、全く聞こえてこない。
 部屋の外からは何やら微かな騒めきだけが、控えめに届いてくるのみであった。

「・・・・・・ぁぁ?」

 求めてやまない悲鳴と惨劇が一向に訪れないことに対し、なんとも気の抜けた声を上げながらバイロンは周囲を見渡す。
 するとそんな彼に応えるかのように、開け放たれたままの扉から何かが、徐に部屋に飛び込んできた。
 その場の視線の全てが、一斉にそれに注がれる。
 飛び込んできたものは、無惨に切り落とされた大型デーモン種族の、未だ血の滴る頭部だった。

「ひ、ひぃぃ!!?」

 最も扉の間近にいたバイロンが、悍ましい表情で絶命しているデーモン種の頭に驚いて再び尻餅をつく。
 するとその後に、扉から部屋の中へと何者かが足を踏み入れてきた。
 その手には先に投げ込まれたものと同じく、恐らくは一瞬のうちに命を奪われ驚愕の表情を残すしかなかったであろう、二体目のデーモン種の頭部。
 それを手に現れた人物は、色素の薄い肌の色をした細身の女だった。
 女は身につけている衣服こそバンガード市民と殆ど変わらぬのだが、彼女の足元を覆うグリーブから発せられる微風に揺れる美しい銀髪が、明らかにこの地方の民ではないということを示している。
 その佇まいには一分の隙もなく、身体は細身なれど強靭にしてしなやか。武具を手に構えてはいないが、腰には小型の剣帯を下げており、見目美しい装飾の小型剣が納まっている。
 デーモン種の亡骸を持ってそこに現れたのは、グゥエインとの戦闘で破損した装備の代わりに街で買った適当な服を身に纏った、カタリナだった。

「・・・全く、街中でなんてもの呼び出してんのよ」

 呆れたようにそう言ったカタリナは、手にしていたもう一つのデーモン種の頭部も床に放り投げ、それらの召喚者であるバイロンへ冷めた視線を向けた。

「貴方が、バイロン卿ね。私の名は、カタリナ=ラウラン。ロアーヌの騎士よ。縁あってバンガードキャプテン直々の依頼を受け、貴方をアビスリーグなる犯罪集団と結託した罪により、この場にて捕縛します」
「・・・え・・・?」

 カタリナがそう言い終わると、彼女の後ろから出てきた二人の衛兵がバイロンを取り押さえ、その手首に縄をかける。
 だが、そうされている間もバイロンは全くこの事態が飲み込めていない様子で、突如現れたカタリナを呆けたように見つめていた。
 バイロンが従えていた従者は、デーモン種族が擬態していたものだ。その数は二体。人間には戦鬼と呼ばれ恐れられる、殆ど伝説上の存在とも言えるほどの凶悪な悪魔である。
 この戦鬼が二体もいれば、このバンガードやウィルミントンなどの都市をすら壊滅させることは難しくない。一介の都市国家が持つような数百人規模の衛兵隊など、問題なく薙ぎ払える程の力を有した存在なのである。
 これほどの強力な悪魔を従えるものは、アビスリーグに与する者の中でもバイロンをおいて他にはいないだろう。
 それが、目の前に突然現れたロアーヌ騎士を名乗る一人の女に、あっさり斬られたというではないか。
 目の前に転がる首がそれを事実たらしめているが、しかしそんなことを普通の人間が出来るはずなどないということも、バイロンは知っている。
 そこで、漸くバイロンは思い出した。

「ロアーヌ騎士・・・そうか貴様が・・・火術要塞を制圧し、魔海侯フォルネウスと魔龍公ビューネイを退けたという・・・」
「さぁ、どうかしら・・・。衛兵さん、あとは任せるわ」

 そう言いながら衛兵に目配せすると、衛兵は捕縛したバイロンを連れ、足早にその場を後にした。

「ふぅー・・・流石に、肝が冷えたな・・・」

 一連の様子を黙って見届けていたラブは、額の冷や汗を袖で拭いながら深く息をはいた。

「流石、というべきかしら。貴方はこの展開、分かっていたみたいね?」
「・・・まぁな。何しろ一歩間違えていれば、あそこに居たのは俺だったわけだからな」

 カタリナが懐から取り出した手拭いでデーモン種を掴んでいた手を拭きながら話しかけると、ラブはこれまた自嘲気味に笑みを浮かべながらそう応えつつ、すっかり気が抜けたようにどかりとソファに座り直した。

「・・・いや、俺もそこまで馬鹿じゃねぇ。間違えることは、もうない。商いにしろ修羅場にしろ、お前らに刃向かおうなんて気は、もう微塵も起きねぇよ」
「あら、随分と殊勝なことね」
「ふん・・・」

 これ以上お前とお喋りをつもりはない。そう態度で表しながらラブがそっぽを向くと、カタリナは軽く肩を竦めた後、特に何を話すでもなくその場を後にする。
 あとに残されたのは、終始何が起こったのか分からずに怯えていた可哀想な商業ギルド職員と、変わらずラブの後ろに控えるボディーガードたちだけだ。

(・・・刃向かう、か。自分で言っといて馬鹿らしい・・・。忌々しいことこの上ないが・・・俺には、あいつらに刃向って自分のタマがある未来が全く見えねぇ。俺にはアビスの連中なんぞよりも彼奴らの方が、余程恐ろしいものに見えるぜ・・・)

 無意識にラブは、自分の上着の内側に入れている数枚の書簡へと手を伸ばしていた。
 その書簡は、このトレードについてラブへの指示が認められた、ピドナ本社からの指示書であった。
 当然その指示書を書いたのは、副社長であるトーマスである。

(幾重にも張られた伏線と仕掛け。結果がどんなパターンであっても、それら幾重にも張られた糸に操られ、帰結する結果は大枠では同じだ・・・。そして最も恐ろしいのは、その結果へと辿り着くためとなったならば、何ら躊躇なく昨日までの成功を全て切り捨てる決断力・・・。無論、俺が離反をした場合のシナリオもあの男の頭にはあったことだろう・・・。その時、俺は間違いなくあのバイロンと同じ道か、それを上回る悪夢の中に・・・)

 それは想像するだけで、とても恐ろしいことだ。
 ラブはその恐ろしい想像を否定するように小さく首を振り、目を瞑って深呼吸をする。
 ラブがこの場に至るまでに行った具体的な行動は、概ねラブ自身の独断によるものが多かった。
 というのも、どちらかといえばトーマスから送られてきた指示書は、具体的な行動にはあまり触れられていなかったからなのだ。
 こうするように仕向けて欲しい、するとこうなると思うので、次にはああなるように流れを作って欲しい。なお、その手段は基本的に任せる。
 そういった「方向性の指示」が主であったのである。
 しかし、その方向性のチャートが恐ろしいほどに細かい。
 膨大な事前調査データと、それを元にした方向性提示への反応予測。資金の流れや情報の伝達速度を見切った変動予測と、此方からのアクションのタイミング指示。それらを元にした様々な市場関心変化の可能性と、このトレードを取り巻く市場と世論全体をも見据えた展開予測。
 実のところ、それらが記された何通かの指示書を見る間にラブは、トーマスに逆らおうという気など完全に消え失せてしまっていた。

(見ている世界そのものが、完全に俺の理解を超えている。これは・・・ここに書いてあるのは最早、予言みたいなもんだ。一体どこまで視えたなら、この膨大な可能性を掌握してここまでの道筋を描くことが出来るってんだ・・・?)

 彼が今日ここで命拾いをしたのも、何しろトーマスの采配があってのことだった。
 そこに至った手段は、全く分からない。
 全く分からないが、トーマスはウィルミントンで起こったというフルブライト商会本館襲撃事件を殆ど発生と同時に知り得ていて、そこで起こったフルブライト二十三世による新生フルブライト商会設立すらをも読んでおり、このトレードの決着が調印後に覆ることを、一か月前のピドナから「視て」いた。
 早馬で自分が一連の流れを知り得た頃には、状況を既にトーマスから聞いているというロアーヌ騎士を名乗る女が彼の前に現れ、これから起こるかもしれない有事に備えての護衛を担うなどと言われたのである。
 聞けばこの女の名前は、カタリナというではないか。
 カタリナといえば、このカタリナカンパニーの社長の名だ。確かに、その女の顔は以前にメッサーナジャーナルで見た覚えがあった。
 社長を配下の護衛に起用するなんて馬鹿げた采配もそうだが、なにしろここまでの全てを、流通が途絶し陸の孤島と化したピドナから指示しているなど、今この段階になっても全く信じることが出来ない。
 今この場で後を振り返ったら、実は部屋の隅にトーマスが隠れてました、とでもいう方が、余程得心がいくというものだ。

「・・・・・・」

 一応、後ろを振り返ってみる。
 しかし、そこには誰もいる様子はない。

「・・・おい」

 視線を前に戻して気を取り直したラブは、未だ呆けているギルド職員へと声をかけた。

「は、はい?」
「トレード相手が指定金額を振り込まなかった場合はどうなるんだ」
「あ・・・はい、えっと・・・。・・・ルールブックのトレード決着について書かれた第十七条二項で、何らかの事情によりトレード決着金の納付を行えない状況が確定した場合は、これを白紙撤回の上、商会ギルド調査の上で・・・」

 職員が手元にルールブックを取り出して中身を確認しながら読み出すと、その途中でラブは煩わしそうに手を振った。

「後のことは、今はどうでもいい。つまり今回のトレードは、ノーゲームでいいんだな?」
「は・・・はい、そうなります。カタリナカンパニー様は不履行を受けた側になりますので、後日当ギルドを通じて先方からの違約金を受け取る権利が・・・」

 しかしラブは職員の言葉を最後まで聞く気もなく、さっさと立ち上がると扉へ向けて歩き出した。

「後のことは、ピドナ本社とやりとりしてくれ。どうせ流通断絶すらも、間も無く終わりに向かうんだろうからな。俺はもう、お役御免だ」

 ラブは不機嫌そうにそう言いながら立ち止まって、懐からシガーを取り出す。すかさずボディーガードがシガーの端をカットし、もう一人が朱鳥術を組み込ませた魔術具で火を起こした。
 シガーを火に当て、何度か吸って煙が立つと、ラブは勢いよく煙を口内に含み、鼻から吐き出す。

(・・・俺だって、このまま終わる訳にはいかねぇ。トーマスどころか、あのキャンディの小娘にまで舐められたままじゃ、絶対に終われねぇ。とっととヤーマスに戻って、仕事に取り掛からなきゃな・・・。裏稼業になくとも、このドフォーレこそが最も優れた商会だってことを証明してやる・・・そして売上でアイツらの鼻っ柱をへし折ってやるさ・・・)

 既に、新たなビジネスプランはある。そこでの早期垂直立ち上げを脳裏にありありと描きながら、ラブは葉巻を咥えながら足早にバンガードの商業ギルド会館を後にした。

 

 

「ゲヒ・・・ギャヒ・・・ッ!!」

 鈍色の一閃が、寸分違わず人型に擬態した悪魔の頭蓋を貫く。
 小さく断末魔の悲鳴をあげた悪魔は、シャールが放った槍の一撃で呆気なく絶命した。
 その間に同じくミューズとトーマスが、それぞれ術と槍で周囲にいた小型の魔精を屠る。

「・・・よし、討ち漏らしはなさそうだ」

 シャールが周囲を警戒しながらも魔物の気配を感じないことを伝えると、トーマスも同じく周囲にそれらしい気配がないことを確認して折りたたみ式の槍を畳んだ。

 彼らが踏み込んだのは、ピドナ旧市街の片隅にある、ほとんど倒壊間近のような有様の簡素な荒屋だった。その荒屋の外には、申し訳程度に誂えられた木製の看板に「魔王殿観光組合事務所」と書かれている。

「蓋を開けてみればありきたり・・・とも感じますが。しかし企業としての活動実態があまりに無さすぎて、盲点でしたね。灯台下暗し、の助言がなければ、発見が致命的に遅れていたかも知れません」

 そう呟きながらトーマスは、魔物の血飛沫で汚れた卓上の書面を手に取った。そこには、全く利益が出ていない様子の見窄らしい数字が並んだ、空白の目立つ決算表が記してある。

「企業としてのオーラムの動きを見る限りでは、ナジュ地方あたりに本部を置いているものと想定されていましたが・・・リーグの指示役は、ここだったのですね」

 トーマスに倣ってミューズも近くの棚の中身を検分しながら、誰に当てるでもなく呟いた。

「魔物が商売に携わっているどころか、世界規模の同盟まで結成しているとは・・・。この事例以後も、再発を防ぐべく警戒せねばならんな」

 シャールは二人に物品の探索を任せて荒屋の中を警戒するようにしながら、奥の部屋へと慎重に歩を進める。

「・・・トーマス殿、ミューズ様、こちらへ」

 そして奥の部屋に進んだシャールから声をかけられ、二人は一瞬顔を見合わせてからシャールの元へと向かう。
 ちょうど荒屋の奥まった部屋の入り口に立っていたシャールは、近づいてきた二人の気配を察すると体ごと避けるようにして、自らの目線の先にあったものを二人にも見せた。
 元は物置の用途かと思われる狭いその小部屋は、殆どものが置かれておらず、ただ部屋の中央には青白く鳴動する紋様が描かれた不気味な円形の物体が、悍ましい瘴気を微かに漂わせながら鎮座していた。

「これは一体、なんなのでしょう・・・」

 明らかに異様な空気を察してか、ミューズはシャールの後ろに控えたままでそう呟く。
 その判断は賢明だと思いながら、しかしトーマスは歩を進めてシャールよりも先、鳴動する円形の物体に近づいた。

「トーマス殿、あまり近づいては」
「いえ・・・大丈夫です。これは恐らく、魔王殿の深部へと移動するための魔導器です」

 トーマス自身の身に覚えがあるわけではないが、彼にはこれが何なのか、なんとなく分かっていた。自分の中にいつの間にか紛れ込んでいる何者かの記憶が、この台座型の魔導器の正体を教えてくれるのだ。
 だが、辛うじて分かるのは移動用魔導器、という部分までだった。
 これが魔王殿のどこに繋がっていて、それは往復可能なものなのか、片道なのか。人が利用しても大丈夫なものなのか、そうではないのか。
 それら詳細に関するような情報は、掠れた記憶からは判別することは不可能だった。

「・・・これは、ここで壊しましょう。新たに魔物がここから現れても厄介です」

 そう言いながらトーマスが再び槍を取り出そうとすると、それを左手で制したシャールは銀の手に構えた槍を狭い通路で器用に振り上げ、上半身のバネを使って紋章の台座に鋭く突き立てた。
 ガシャリ…と慣れない類の手応えがあり、その後すぐに台座から鳴動は失われ、魔導器はどうやらその機能を永遠に失ったようだ。

「・・・これで、終わったのか?」

 破壊した台座から槍を引き抜きつつ、シャールはどうにも釈然としない様子で、小さくそう呟いた。

「そうですね、これでアビスリーグについては、一先ず元凶を絶ったかと思います。残党と思しき企業もリブロフとナジュに絞られましたので、あとはキャンディとポールが仕留めるでしょう」

 だが、しかし。
 そんな言葉を口にする寸前で飲み込むように少し俯き、トーマスは物言わぬ台座へと視線を落とした。

(・・・このアビスリーグは、魔物が人間に対して、同じ文化レベルでの謀略が可能であるということの証明に他ならない。いや・・・これほどの大規模な行動に移すまでフルブライト二十三世様しか気が付けなかった時点で、もはや人を超える策謀を巡らせることが出来るようになっていると言っていい。そして、恐らくこれを仕掛けたのは・・・)

 ふっと顔を上げたトーマスは、まるで壁の向こうを見るように視線を中空に投げる。
 この粗末な荒屋の先には、スラム化した旧市街の住人ですら好んで立ち入りはしない。なぜならその先には、未だ立ち消えぬ瘴気を漂わせた暗黒時代の遺物、魔王殿が佇んでいるからだ。
 今にも崩れ落ちそうな壁の向こうにあるであろう魔王殿へ視線を向けながら、トーマスは己の中にある妙な確信について、密かに戦慄を覚えていた。

(仕掛けたのは恐らく・・・四魔貴族、魔戦士公アラケスで間違いない。俺の記憶に紛れ込んだ何者かの記憶が、そう告げている・・・)

 現代に生きる人類が知ることのできる四魔貴族に纏わる逸話は、主には聖王記の中に記された聖王による討伐譚と、その前時代について書かれた魔王伝記なる章などに、簡潔な記載があるのみだ。
 そこに記されるアラケスの討伐譚では、聖王三傑たるパウルスの手引きにより魔王殿へと進軍した聖王によって討ち取られた、としか描かれていない。
 また魔戦士公という爵位名からか、後世に生まれた様々な創作物でも、非常に好戦的な存在として描かる事が多いのがアラケス公の常だ。
 しかし、実際の魔戦士公は、そんな単純な存在ではない。

(・・・むしろ他の魔貴族のように天空、海中、密林などの進軍不可能な立地ではなく、唯一進軍が安易な魔王殿に居を構えながら、聖王を最後まで苦しめた存在だ・・・。その事実が指し示すところはつまり、武は元より、そこに知略をも兼ね備えた恐ろしい将であるということ・・・)

 経済界において特段に大きな事変となった、ドフォーレ商会の台頭やアビスリーグの暗躍。これらがそもそも魔戦士公の仕掛けた罠の一つであろうと、今になってトーマスは確信していた。
 奇しくも、聖王記の順をなぞるかのようにして四魔貴族をアビスへと追い返すことに成功しているカタリナらであるが、どうにもトーマスには、この最後の四魔貴族が圧倒的に不気味な存在に思えてならなかった。

(正直、他の魔貴族とは相対する上で難易度が桁違いにも感じる・・・。魔物に加え人をすら動かしてマネーゲームを展開するほど人界に精通し、更にはアビスの魔物を自在に動かすことのできる圧倒的な暴力を兼ね備えた存在・・・。いくらカタリナ様といえど、力一本で押し通せる存在であるとはどうしても思えない・・・)

「・・・トーマス様?」

 壁を見つめたまますっかり押し黙ってしまったトーマスを心配するように、ミューズが傍からトーマスを覗き込む。

「あぁ・・・失礼、なんでもありません。目ぼしい書面を回収して引き上げましょう。この後も、やることは山積みです」

 ミューズの声で物思いから現実に引き戻されたトーマスは気を取り直し、その場から踵を返して書類の散乱した部屋へと戻っていった。

 

 

 終わってみれば、それはまるでお祭り騒ぎのような出来事であった。
 ドフォーレ商会の時を遥かに上回る規模の経済戦争の裏で、一時はメッサーナ王国の存亡すらが揺れ動いていたというのに。
 それがいざ終わってみたら、まるで一夜の熱狂がすっかり醒めてしまったかのように、各方面では静かに粛々と後片付けが行われているのだ。
 正しくそれは非日常の熱に浮かされたお祭り騒ぎそのもので、今はその翌朝に訪れる一抹の虚しさそのもののように、トーマスには感じられた。

(・・・今回は辛うじて切り抜けたか・・・)

 連日の後処理に奔走する中、どうにも眠りが浅く目覚めてしまったトーマスは、一人早朝のピドナ市街地を港の方へ向けて歩きながら物思いに耽る。
 既にアビスリーグを中心とした騒動の終焉から、あっという間に一ヶ月が経とうとしていた。
 その間にカタリナカンパニーの支援を受けて再建の道を歩み出したアルフォンソ海運とメッサーナキャラバンは、取り急ぎ同業他社から船舶や馬車の買い付けを行い、あっという間にピドナの流通は回復。既にピドナ港は、以前と変わりの無い様相を取り戻し始めている。
 メッサーナ王宮からの緊急出庫の継続もあり、銀行機能も危機を脱出。ピドナ内部での経済混乱自体も収束へと向かっている。
 それに伴い各国の動向もピドナ流通断絶以前の状態に表向きは戻り、世界は本当に、まるで何事もなかったかのように振る舞っているのである。
 アビスの魔物が裏で糸を引いていることにすら気が付かず、秘密裏にアビスリーグと取引を行っていた形跡がある各国の要人たち。彼らを今回どうにかすることは、出来ないだろう。
 彼らのように権力ばかり持つ短慮な存在は確かに今後も世界に対するリスクではあるが、恐らくそれは今後ルートヴィッヒ軍団長らが対処をしていく事柄であり、自分たちがこれ以上の関わりを持つことは現時点ではないだろうとトーマスは考えていた。

(・・・ナジュとリブロフ方面でも、アビスリーグの要所を落とす目的でポールとキャンディが上手くトレードを仕切ってくれた。結果として当社の利益は今期も伸長したしな・・・)

 ここは結局相手も本丸でなかったためか想定以上に順調に進み、現地のアビスリーグを根絶すると同時にリブロフ、ナジュ方面にカンパニーの基盤を作ることに成功した。
 これでカタリナカンパニーは、現在描かれている地図上の全地域へと商圏を広げたことになる。これは経済界でも、フルブライト商会に次いで歴史上二社目となる偉業だ。

(そしてそのフルブライト商会は、フルブライト二十三世様を真なる盟主とした新生フルブライト商会へと生まれ変わり、まるで何事もなかったかのように世界一を維持している)

 かねてよりフルブライト二十三世は、父である二十二世からの完全な脱却と実権継承を目論んでいた。それは、出会った頃より分かっていたことだ。
 そのために彼は表向きの無気力を演じ、放蕩外遊と称して世界各地を精力的に回り、水面下で強かに準備を進めていたのである。
 彼の中ではもっと完璧に準備が終わってから事を起こしたかったという展望はあったのだろうが、それを押してこのタイミングで奮起を選択してくれたことは、今回の事態収拾に向けて大いに助かったというもの。
 彼の英断を、心から称えたい。

(準備不足など微塵も感じさせないほど、鮮やかな旧母体の取り込みだった。既に新会社の登記社名もフルブライト商会に戻してしまったというのだから、世間的にはフルブライト商会の中で何が起こったのかさえ、全く分かっていない者が殆どだろうな・・・。そしてバイロンという右腕を失った二十二世様には残念ながら、再起の道はないだろう。勘付いた者がいても、これではもう何ができるわけでもないのは確実だ・・・)

 当然フルブライト二十三世とて、あの極限状況を利用するつもりで勝負に出たのだろう。
 確かにあそこでバイロンごと仕留めるのは、彼の覇道を成すためには良い機会であった。此方が助かったと同時に、彼方も助かったというわけだ。
 正しく、有意義なトレードが出来たと言えるだろう。

「・・・本当に元通りだな」

 気がつけば、港に辿り着いていた。
 既に船舶周辺では人々が忙しなく荷下ろしと搬入に追われており、一ヶ月前の閑散とした港など本当になかったかのようだ。
 トーマスはその様子をみて思わず呟き、次には人混みを避けるようにして大型港湾地区とは反対の小型船用港へと歩み出し、そこで丁度良さそうな小さな埠頭を見かけると、その桟橋の先端まで行ってから徐に、その場に腰を下ろした。

「・・・・・・」

 なに故かトーマスの中には、上手く表現のできない不安が渦巻いていた。
 それは、旧市街であの転送用魔導器を見た時から一ヶ月の間、ずっと彼の中に渦巻いているのだ。

「・・・何かお悩みですか?」

 誰もいない事を確認してから腰掛けたはずの埠頭桟橋であったが、トーマスの背後から、不意にそんな声がかかった。

「・・・何だか貴方が来るのではないかと、少し期待していましたよ」

 トーマスはその声に振り向かず、しかし誰なのか分かっているように答える。

「ふふ・・・お見通しでしたか。カタリナさんは毎回、とても驚いてくれるのですがね」

 そう言いながら桟橋の先端に座るトーマスの横まで歩み寄ってきたのは、朝の閑散とした港にはとても不釣り合いな鮮やかな衣装を見に纏った人物。
 聖王記詠みを自称する詩人だった。

「今回の件、貴方の言葉には大いに助けていただきました。ありがとうございます」
「いえいえ、私は特にはなにも。事態を解決へと導いたのは、間違いなく貴方の手腕によるところでしょう」
「私の手腕・・・ですか」

 詩人の言葉に、トーマスは思わず苦笑する。苦笑というよりもはや、それは自嘲に近いのかもしれない。
 何しろ、彼は今回の件について、まるで自分の力が及ぶような出来事ではなかったなと、いま改めて感じているからだった。

「貴方は、一体何者なのですか?」

 思わず口をついて、そう尋ねる。
 トーマスがこうして詩人と会うのは、もう四度目になるか。
 最初は、ピドナの老舗パブ、ヴィンサントだ。あれは確か、ユリアンとモニカのために開いたささやかな祝宴の席だった。
 次に会ったのは海上要塞と化したバンガードにて、カタリナへロアーヌの危機を知らせに向かった時。そして前回は、このピドナが大いなる混乱に陥る直前だったと記憶している。
 こうして会うのは確かに四度目ではあるが、しかしこの人物が一体何者であり、なにを目的としているのか。それは今の彼にすら、全く掴めるところではないのだ。
 彼はそれを、恐らくとても驚異的な事なのだろうと感じている。

「以前にもここで、カタリナさんに同じ事を問われましたねぇ」

 実に呑気な様子の声色で、詩人はそう言いながら自分の顎を撫でた。
 どうやら、真面に答える気はないようだ。
 トーマスがそう判断して答えを待つでもなく海面へ視線を投げかけていると、詩人はくるりと反転し、海原へ背を向けた。

「まぁそれはまた、いずれ。とはいえ・・・貴方はその時が来る前に、気づくかもしれませんね。何しろ貴方は、どうやら最も色濃く稀代の策謀家の記憶を引き出しているようですからね」

 詩人はそうとだけ言うと、ゆっくりと歩き出した。
 トーマスは肩越しに横目で詩人の後ろ姿を見るが、そこに映るのはやはり、単に派手な衣服と特徴的なとんがり帽子を身につけただけの人物だ。

「あぁ、そうです。現れたからには一応、何かタメになりそうな助言をしておきましょうかね。希少な私の役どころですし」

 そう言って立ち止まった詩人は、トーマスと同じように肩越しで彼を見返しながら、ゆったりとした様子で微笑みながら口を開いた。

「もし今後、皆さんに鍵が必要になったなら。それは、きっとポドールイにあります」
「鍵・・・?」

 ここまでと全く脈絡のないその言葉に、トーマスは思わず上体ごと捻って詩人へと視線を向ける。
 だがそれに対して詩人は帽子を目深に被り直して会釈してみせただけで、再び市街地へと向けて歩き出してしまった。
 トーマスはその後ろ姿をしばし見つめていたが、しかし後を追ったところで仕方がないのだろうなと思い直し、ゆるやかに揺蕩う水面へと向き直った。
 詩人の言葉の意味は、もちろん気に掛かる。
 鍵とは一体、なにを指しているのか。
 ポドールイといえばあのヴァンパイアであるレオニード伯爵の領地だが、鍵と彼とは何か関係があるものなのだろうか。

「・・・まぁいいか」

 そう呟き、トーマスは後頭部に回した手を組み、ごろんと埠頭の桟橋に寝転がった。
 今は、あまり何かを考える気分になれない。
 ただ相変わらず彼の中にある得体の知れない不安と、それをどうにかしようとする彼の中の彼ではない部分との鬩ぎ合いがあって、それをずっと観客席から本当の自分が鑑賞しているような気分だ。
 それを腹の中に抱えながらこの一ヶ月間、いやもっと前から、トーマスは動き続けていた。
 彼は分かっているのだ。
 自分が、元々そこまで強い人間ではないという事を。
 今回の事態にここまで冷静に対処できたのは、本来の自分を超えた八つの光としての授かり物のおかげだ。
 誰よりも素早く情報の収集と伝達が世界中にできたのも、フェアリーの持つ念話能力とそれを中継することができる聖王遺物という強大なオーパーツがあって、初めて成立したものだ。
 それもこれも全部、トーマスが持っていたものではない。
 そういう過ぎた力をトーマスという名の凡人が無理矢理扱っているのだから、そろそろ無理が祟ってくるのではないかな、なんて。
 本当はそんな展開を、少し期待すらしている。

「ユリアン・・・エレン・・・」

 不意に、今は離れている同郷の仲間を想う。
 物事全てに直向きな男友達と、妹想いの男まさりな女友達。彼らと始めたシノンの自警団での日々が、今はとても懐かしい。
 そしてピドナにきてから今に至るまでの怒涛の日々を思い返し、自分の中の不安はなんなのかという部分について、少し認めたくない程度にはすんなりと、自分の中で腑に落ちたのだった。

「サラ・・・」

 ピドナに於いてはよく気の利く秘書であり、同郷の仲間としては活動的な他二人の陰に隠れながらも、その実は芯のしっかりした考えを持つ利発的な妹分。
 そんなサラが彼の元を離れたのも、もう半年以上前の話になる。ピドナに来てからも一緒だった彼女とここまで離れているのは、今までになかった事だ。
 気がつけばひょっこり帰ってくるんじゃないかなんて、今も常に頭のどこかで期待している自分がいる。

「・・・そうだ。俺は弱いし、一人では何ができるわけでもない。それが分かっていれば、まだ大丈夫だ・・・」

 先ほどまでの朝焼けからすっかり青く染め上がった空へ、小さくそう呟く。
 彼の言葉は海風に吹かれ、まるでトーマスの儚い願望もろとも打ち消してしまうかのように、霧散していく。
 そのまま海風と波の音に体を預けながら目を瞑ると、トーマスは束の間の浅い眠りに落ちていった。

 

 

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第九章・5 -敗北-

 

 全世界が注目する、歴史上類を見ない巨額レートで争われたトレード。
 その記念すべき会場となったバンガード商業ギルド会館の一室にて今まさに、その史上最大トレード終了の調印が成されようとしていた。
 この歴史的なトレードは、通常の開催期間とほぼ変わらず凡そ一ヶ月間の中で行われた。
 期間中で両社の間に積み上がったオーラム総額は、なんとここ十年の過去トレード累計額を全て合わせても全く及ばぬほどで、まさしく未踏の領域であった。
 そんなトレードが終結する様子を、至極満足そうな表情でソファに腰掛けながら見下ろしていたバイロンは、その脳裏でゆっくりと、ここまでのことについてを思い返していた。

 バイロンが真なる目的に向けて動き出したここ十数年の中でも、この数ヶ月間は正に正念場。実に、激動の日々であった。
 ただ、それは当然に予想されていた事でもある。
 一年ほど前にピドナ旧市街で起こった、『予兆』。
 全世界へと向けて発せられたあの知らせこそが、世界を取り巻く激動の時代の訪れを告げるものであったのは、明らかだった。
 それに伴い、彼はいつどこで何が起きても良いように急遽の様々な仕込みを行ってきた。そしてその結実が、今まさに目の前で成されようとしているのだ。
 着地としては十分に満足のいくものになったわけだが、しかしここまでの道は決して平坦ではなかった。
 その中でも特段、彼の中で大きく想定外であると判断した出来事が、三つだ。
 まず一つ目は、カタリナカンパニーという無名の新興会社がフルブライト商会にトレードを挑むという、まさに理解不能の暴挙に出たこと。
 激動の時代だからこそというべきか、これは最も大きな想定外であり、そして同時に好都合な想定外でもあった。
 何しろ、アビスリーグという力を利用してフルブライト商会掌握を企てている彼にとって、これは己の『品格』を高める儀式として絶大な利用価値があると考えられたからだ。
 バイロンという男は、ウィルミントンきっての紳士であり、公私共に品位を重んじる。特に商売事に関しては、彼としても確固たる矜持があるのだ。
 例えばドフォーレ商会のような、野蛮で品位の欠片もない、下賎な商い。
 あのような所業は、全く彼の好むところではない。それでいて同じアビスリーグの同志などと、冗談だとしても耐え難い思いだ。
 同じく大規模商会として名の上がるラザイエフ商会も、駄目だ。あそこはドフォーレほど品性下劣ではないが、残念なことにあそこの一族経営者層は類稀なる才覚を持つ者を欠き、その商いの様子からは全く矜持の類が感じられない。このまま無能な一族経営が続けば、自ら手を下さずとも自ずと衰退していくのは、火を見るより明らかだろう。
 そんな彼が最も好ましく思っていたのは、今は亡きクラウディウス商会であった。
 家系や土地柄のためか些か政治力に頼った運営ではあったものの、その商いの仕方には確かな品格があった。ルートヴィッヒ政変により当主が命を落としたことは個人的には非常に残念ではあったが、いずれは排除すべき存在であったことから、心の中で静かに手向けたものだ。
 このような趣向を持つバイロンという男が、世界一の商会であるフルブライト商会を手中に納める。
 この偉業を成し遂げるにあたり、そこには絶対に譲れない条件があった。
 それは即ち、世界中の誰もが彼を世界一の商会の真なる主として歓迎する形での台頭、である。
 聖王の時代から続く、商会の伝統に則った早期の世代交代。それにより一見表舞台に出ることのなくなった旧知の先代会長と、片や実務能力皆無の当代会長。
 その間にいて実質的な商会の実務担当筆頭である彼は、既に経営者としての実力という意味ならば、フルブライト商会を掌握するには申し分ないであろう。
 それは、商業ギルドに属する者であれば誰しもが口にせずとも理解していることであった。
 だが、それだけでは全く駄目なのだ。
 名実共に世界一であり、伝説の聖王の系譜にも連なる、由緒正しい唯一無二の歴史を歩む商会。
 斯様に品格高きフルブライト商会であるからこそ、その当主の名を一族以外の者が引き継ぐには、世界が諸手を挙げて受け入れるような大義名分。即ち、相応の格というものが必要なのである。
 それをバイロンという男が世界に対して示すのに、この誰もが注目する史上最大規模のトレードを越える舞台は、恐らくない。
 そう彼は考えたのであった。

 次に想定外であったのは、そのカタリナカンパニーとのトレードの場に現れた、ラブ=ドフォーレという男の存在だ。
 ラブの父であるモンテロ=ドフォーレが魔物の擬態となっていることは、アビスリーグによる情報網でバイロンも把握していた。故に、単なる商売敵という以上の関心で、彼はドフォーレ商会の動向を十数年注視してきたのである。
 そして昨年、モンテロに扮した魔獣が討たれたと聞いた時、これでドフォーレ商会は完全に終わったなと考えていたのだ。
 しかしてその息子がまさか父の狂気を受け継ぎ、よもやカタリナカンパニーの中に潜伏していようとは。
 これは、彼にとっても全く想定外であった。
 そして当然ながらこれも、彼にとっては実に歓迎するべき想定外だと言えるだろう。
 ラブがカタリナカンパニーの内部で情報を操作し此方と連携することで、トレードの勝敗が更に確固たるものとなるのは間違いないからだ。
 無論、元よりバイロンはラブなどという外的要因を利用せずとも、カタリナカンパニーとのトレードに勝つ算段を確りと確保していた。
 なにしろ彼は商会資産以外に、アビスリーグが保有する莫大な資金を秘密裏に同盟支援金として利用できるのである。
 その保有総額は実に、フルブライト商会総資産の倍額に迫る程にもなる。
 今回カタリナカンパニーが打って出た、ヤーマス塩鉱を担保にする、というこれまでに例をみない集金手法。その着眼点には確かにえらく関心したものだが、それでも此方の資金量を上回ることは不可能だろう。
 ドフォーレ商会とのトレード直後で自社資金の不足に陥っているカタリナカンパニーが、流通孤立状態である今のピドナ王宮と組んで出せるであろう額。
 これは精々が二十億オーラムあたりまでであろう、とバイロンは踏んでいた。対して同盟資金と自社資産を合わせればその倍額まで確保できる彼には、その時点で一分の隙もなかったのである。
 だが、トレードとは単なる物量戦ではない。
 トレード開始前やその期間内に様々な駆け引きが存在しており、それによって着地をどう定めていくかを様々な要素を元に導き出す、芸術品にも近い唯一性のある工程を踏むのである。
 時には一筋縄では行かず、物量ではなく時代の風によって結果が変わるといったようなトレードも、彼は何度も見てきた。
 故に今回の要素の中に入ってきたラブ=ドフォーレという存在は、彼にとっても一世一代であるこのトレードを更に確固たる勝利に導くために時代が齎した要素であると捉えた。
 精々彼も上手く扱い、このトレードの先を理想の展開へ導くべく、事を運ぶだけだ。

 そして最後の想定外は、フルブライト商会の当代会長であるフルブライト二十三世である。
 これは三つの想定外の中で唯一、歓迎すべきではない想定外であるといえた。
 名ばかりの会長風情が、身の程を弁えずに商会内で何やら嗅ぎ回っている様子である、ということ。これは比較的早い段階で、彼の耳にも届いていた。
 そこで彼はフルブライト二十三世を、この機に抹殺することを段取りに加えて実行に移したのである。
 だが驚くべきことに、フルブライト二十三世はそれに抗い生き残った。
 思い描いた通りの着地にならぬこと。それは実に、歓迎すべきでない想定外である。
 とはいえバイロンは、その程度で取り乱すような肝の小さな男ではない。紳士は、無様に喚くことなどあってはならないのだ。
 初手は確実性に欠けるものの騒ぎになり難い手段として、暗殺者による襲撃を採用した。
 そして次には、多少の騒ぎや事後処理が面倒ではあるものの、そのぶん確実性の高い魔物を用いた襲撃を行なった。
 この二つの襲撃を、なんとあのフルブライト二十三世は乗り切ったというのである。
 バイロンの知る甘ったれの小生意気な「ブライトJr」からは考えられない、まさに奇跡としか言いようがない展開だ。魔物をけしかけてウィルミントンからバンガードに戻る最中、襲撃の失敗を聞いた時は、流石に我が耳を疑ったというものだ。
 雇われの暗殺者はともかく、騎士団でもなければ相手にもならない強力な魔獣らを如何にして退けたのか。それは、相応に興味が湧くところではあった。
 まさかとは思うが、ここ最近で噂に聞く四魔貴族討伐の英雄と言われる何処ぞの騎士にでも、たまたま助けてもらったのだろうか。
 この点、仔細に関する興味は尽きない。
 だが、それすらもバイロンは予定外の楽しみとして受け入れようと思えた。
 商売とは、ゆめゆめ想定通りには運ばないものだ。それをこれまでの経験によって深く理解しているからこそ、この状況変化をも加味しながら、バイロンは新たにシナリオを描くだけなのだ。
 何事も、全て筋書き通りでは面白くもない。
 だからこそバイロンはフルブライト二十三世の処遇を今回は急がず、先ずはこのトレードを確実に美しく終えるつもりでいた。
 例え生き延びたフルブライト二十三世がどのように足掻いたとしても、今更このトレードの大勢を崩すことなど出来はしない。そして此方がウィルミントンの街を盾にしていると思い込ませている以上、向こうは迂闊に手を出すことも出来ないのだ。
 陰に隠れて何をこそこそとしていたのか、その理由までは知るところではないが、この程度のシナリオ変更ならば大きな支障はない。

 斯様に想定外の要素がいくつかあったものの、あとはどのようにこのトレードの終結を大々的に世界に喧伝するか、である。
 それこそ、フルブライト二十三世のように各国を外遊し、改めて各地の商業ギルドを通じその存在感を直に知らしめるのも悪くない。
 あとは近々、改めてフルブライト親子に舞台から退場してもらえば、自ずと世界の方から新たな当主を求めるだろう。
 その時こそ、彼が最も輝く時なのでなる。
 脳内でそれらの構想を練っている間にも、バイロンの目の前でトレード終結の調印の準備が、間も無く終了するところであった。

「・・・そ、それでは双方合意の元、フルブライト商会による買収阻止の成立にて本トレードの終結をここに宣言し、双方の調印後は速やかに提示資金を商業ギルド経由で共通口座に納付・・・後にフルブライト商会主導にて権利譲渡取引を行なってください。よろしいですね・・・?」

 立会人となるギルド会館職員の強張った様子の宣言に、バイロンは何の問題もないという様子で頷き、テーブルの向かいにいるラブ=ドフォーレがそれに追随する形で同じく頷いた。
 立会人は今まで見たことがないだろうと思われる擬似オーラム貨幣の山を前に緊張しているのだろうが、反面バイロンとしては少々物足りない結果に終わったな、とも感じていた。
 彼らの目の前に積み上がっている擬似オーラムは、総計で大凡二十五億オーラム分ほど。
 無論、これまでの歴史上でも最も多くのオーラムが積み上げられたトレードであることには、何の疑いの余地もない。
 昨年にあったカタリナカンパニーとドフォーレ商会のトレードでは、これまた歴史上類を見ない額面として合計五億オーラム程が積み上がったと聞き及んでいるが、今回その五倍ともなれば、記録としては当然だろう。
 しかし、元から相手の倍額までを想定していたバイロンからすれば、少々物足りない額で終わったな、というのが正直な感想でもあった。
 今回の提示額面はフルブライト商会が十四億オーラム、カタリナカンパニーが十一億オーラムとなっている。
 ラブが元々このトレードに挑む際の初期裁量として本社から落とされていた額面は、十億オーラムだった。これは、おもてなしを受けた夜に本人から直接、聞き及んでいたことだ。
 つまり着地としてはそこから追加で一億を乗せた格好ではあるが、恐らくそこからもっと積もうと思えば本社に掛け合って積むことはできたのであろう。
 だがラブとしては、最早「そこまで接戦を演じる義理もない」というところなのだろう。
 彼はこの『茶番』をとっとと終わらせ、この後アビスリーグから秘密裏に受ける予定の融資でドフォーレ商会を独立復活させたいのだ。
 実際このトレードの後半二週間ほどは、その殆どがトレード後の話し合いに終始した。これらの内容を先んじて突き詰めたのは用心深いラブが望んだ事だが、その中でラブが想像以上に実務能力に長け、またきめ細やかな論旨進行を行う人物であると発見できたのは、今後の利用想定を固める上では僥倖というものであろう。
 そしてその調整も終わった今となっては、ラブとしては一刻も早く計画を実現させたいことだろう。となるとこのトレードをこれ以上長引かせるなど、一切望まない事であった。
 バイロンとしてはもう少し競り合いによる盛り上がりがあってもいいかとは思っていたが、とはいえこの時点でも歴史上類を見ない最高額トレードであることに変わりはない。ここは、彼の早る気持ちを優先してやっていいだろうと考えた。
 今後バイロンが率いるフルブライト商会としても、ドフォーレという存在がいることは何かと都合が良いことが多い。なので、ドフォーレ復活が早いに越したこともないのは確かだ。

「そ・・・それではここに、これにて本トレード商談の終了を宣言いたします。双方、速やかに拠出資産の納付手続きをお願いいたします」

 立会人であるギルド会館職員の宣言に則り、バイロンとラブの双方はゆっくりと立ち上がってお互いに視線を僅かに交わらせ、積み上げられた擬似オーラム金貨越しに形ばかりの握手を交わしたのであった。

 

 

 全世界が注目した史上最大のトレードは、挑戦者であるカタリナカンパニーではなく、受け手であるフルブライト商会の勝利によって決着した。
 このニュースがそれこそ瞬く間に、世界中にあらゆる手段で伝播していくのに、左程も時間はかからなかった。
 むしろこのトレードの結果をいち早く知るためだけに、各国の特使がバンガードに連日詰めかけていた程である。特使らは幾人もが入れ替わり立ち替わりとなって、段階的な情勢進捗を逐一母国へ連絡し続けていた。
 故に商業ギルドが正式な結果発表を行う頃には既に、各国には大勢が決したことは情報として持ち帰られていたのである。
 ここまで各国が欲しがる今回のトレード勝敗の結果が意味するものは当然ながら、単なる企業同士の勝ち負け、などということではない。
 確かに経済界の今後を占うトレードとしても、今回の勝負は十二分に注目に値する催事ではあっただろう。
 だが今回の結果の真なる価値とは、このトレードの裏に公然と隠されていた『流通孤立によるピドナ弱体化の真偽』である。
 史上三度目となる大災害・死蝕の発生から十七年が過ぎ、アビスの魔物が日夜じりじりと勢力を拡大させていく途上。
 人類の行く末には陰鬱なる暗雲が立ち込めんとしたその最中、ロアーヌ軍による四魔貴族ビューネイの撃退という、人類にとって非常に喜ばしい知らせで幕を開けた本年。
 しかしながら、そこから急転直下で起こったのがピドナ経済危機だった。
 その結果としてアルフォンソ海運とメッサーナキャラバンが経営破綻を起こし、この二大陸海運の破綻により、ピドナを介して世界を繋いでいた流通大動脈は、実に呆気なく断たれてしまった。
 これにより俄然、打倒ルートヴィッヒに色めきたったメッサーナ王国の各都市軍団長を中心に、世界中の主要都市国家のほぼ全てが、メッサーナ王国首都ピドナへの武力侵攻を考えたのである。
 なにしろこの数年間、世界はずっと指を咥えながら見てきたのだ。
 血生臭い政変の結果ピドナを手中にし、その圧倒的な地の利を最大限に活用した狡猾な政策によってルートヴィッヒが世界に振り翳してきた、絶大なる権勢を。
 それは誰しもが羨むほどに圧倒的、かつ魅惑的なものであった。
 そのピドナが今、大いに弱っているのだとしたら。
 なればこの機を活かしルートヴィッヒに代わって偉大なる栄華を欲さぬ権力者など、逆にどれほど居るというのだろうか。
 加えて言うなら、ピドナが経済危機と流通孤立により世界中心都市としての機能を果たせていないという状況は、支配者たるルートヴィッヒの大いなる失態に他ならない。それを救済するという大義名分が通るこの状況ならば、かつてのルートヴィッヒのように私欲に塗れた侵略者の謗りを世論から受けることもないだろう。
 あまりにも状況が、揃っているのであった。
 とはいえ、それでも。
 これだけの条件が揃っていてもなお各国は、如何せん動くに動けないでいた。
 何しろ相手取るのは、あの狡猾なるルートヴィッヒである。
 これら状況の全て、若しくは何れかが「彼の仕掛けたブラフ」である可能性が、どうしても否定出来ないのだ。
 それでなくとも昨年からこの年始にかけての一年ほどで、ピドナでは実に目紛しい情勢の変化があった。
 ピドナ旧市街で突如として起こった、膨大なアビス瘴気の暴走。
 一部では『予兆』とも呼ばれるこの現象の発生を皮切りに、次には近年ピドナで隆盛を誇っていた神王教団支部の壊滅による政権への少なくないダメージ。そして年の後半にはヤーマスの悪徳商会として名高かったドフォーレ商会の成敗によって世間に存在感を示した、前近衞軍団長クレメンス=クラウディウスの娘、ミューズ=クラウディア=クラウディウスの世論台頭。
 そして年末のコングレスにて全世界に向け示された、ルートヴィッヒとミューズの共存体制確立という急転直下の展開。
 これら怒涛の情勢変動により、各国権力者は非常に注意深く興味深く、メッサーナの中心都市へと熱視線を注いでいた。
 そんな中で起きたのが、今回の一連の騒動である。
 ピドナのメインバンクまでが機能停止に追い込まれるほどの経済危機、世界最大の陸海運の破綻による流通断絶と続いて、仕舞いにはなんと、絶対的窮地にあるはずのピドナに本店を置くカタリナカンパニーによる、世界最大企業フルブライト商会へのトレード開始宣言ときた。
 カタリナカンパニーは公言こそされていないが、近衞軍団と最も深く繋がる企業であるとの噂が、昨年末のコングレス以降は絶えなかった。
 そんな企業による過去に類を見ない超大型トレード勃発となれば、当然その背後には近衞軍団がついているであろうと見るのは、少しも可笑しな話ではない。
 この危機的状況の最中に斯様なトレードを行う余裕など、果たして今のピドナにはあるのかどうか。
 これは、経済危機を隠すためのブラフなのか。
 それとも、ブラフだと思わせて挙兵したところを制圧するために張った、狡猾なる罠なのか。
 仮にこれが二重ブラフだとしたら、踊らされた国は只では済まないだろう。
 それどころか、その国の蛮行を理由に世論を味方につけ、更なる流通規制強化へとルートヴィッヒが舵を切る未来までもが、安易に予測がつく。
 だがしかし、単なる危機を隠すためのブラフならば、今こそがピドナを手中に収める千載一遇の機会に他ならないのである。
 その真偽の見極めのためにこそ、このトレードは嘗てないほどに世界の注目を集めたのである。

「・・・だが、そんなことはどうでも良い」

 バイロンはホテルバンガード最上階客室の窓際に立ち、眼下に広がるバンガードの街並みと、その向こうに広がる広大な外海へと向けて小さく呟いた。
 その言葉の通り、彼にとってはそんな凡人たちの事情などは本当にどうでも良いことであった。
 勿論この計略をあの状況から打ち立て実行に移したルートヴィッヒの機転と才覚、そして胆力たるや、流石という他ないとは彼も感じ入っている。
 実際は、単なる時間稼ぎが目的であったとしても。それでもこの計略は、用意周到な準備の上で世界経済の崩壊と人間同士の分断を目的としたアビスリーグ最大の悲願の結実を、チェックメイト寸前から一ヶ月以上も遅らせてみせたのだ。
 これは正に驚嘆、そして賞賛に値する見事な手腕であろう。
 アビスリーグはこの計画のために世界各国の要人に対し、世間に溶け込んだフロント企業を通じて数年もの間、極秘に接触してきた。
 世界中のリーグ拠点と連動して着実に情報を統制操作し、それらを各国要人に都合よくリークしながら、人類世界の中心に位置するメッサーナ王国首都ピドナを機能停止に追い込むその時を、密かに待ち続けていたのだ。
 仮に自分もリーグと同じくそれを悲願としていたのならば、今回のルートヴィッヒには大いに「してやられた」と感じた事だろう。
 しかし繰り返すが、彼にとってはそのようなアビスリーグの悲願もルートヴィッヒの機転も、両者の思惑の中で一喜一憂する凡愚共のことも、全てどうでもよい事だ。
 このトレードの結果により、各国が我先にとピドナへ侵攻し、間も無くアビスリーグ本体の悲願は成就するのだろう。
 そして団結を失った人類は、救世の英雄再誕を自ら否定するのだ。
 かつて聖王がアビスに勝利した背後にあったような人類の結束は、即時には不可能となる。
 人類はその後、間も無くアビスに敗れ、再び四魔貴族による恐怖支配の時代が訪れることになる。

「・・・これで、人類は正しい道を歩むことができる」

 バイロンはこれから起こるであろうことは、破壊と創造である、と捉えていた。
 今の人類の進んでいる道は、生物として全く正しくない。
 無価値な『血筋』や『家柄』などというものに大いなる価値があると信じ込み、個の持ちうる可能性を捨ててしまった。
 才ある者がその才を活かせず朽ち、無価値なものを信じて才能を蔑ろにしてきた凡愚が我が物顔で世界に蔓延っている。そんな人類の先にあるのは、生物としての衰退に他ならない。
 それを止めるには、一度今の世界を、間違いごと壊すしかないのである。そして真に力あるものが始まりの荒野に立ち、全てをやり直す。
 バイロンは、それを望んでいた。
 しかし彼自身には、剣を振るう力はない。
 だから嘗ての聖王のように四魔貴族を打ち倒すのは、彼の役目ではないのだ。それは、次なる宿命の子の役割となるのだろう。
 バイロンは、聖王の後に人類が進むべき道筋を築いたフルブライト十二世や、聖王三傑にも数えられた初代メッサーナ国王パウルスの役を担うつもりでいた。
 彼が最も敬愛する歴史上の人物こそ、聖王三傑にして初代メッサーナ王国の主、建国王パウルスだ。血を捨てきれなかったフルブライトと違い、パウルスはメッサーナの王位継承に養子制度を採用したという点で、非常に素晴らしい。
 これは当時どころか今の時代であっても実に画期的で、人類が正しい道を歩むために必要な決断の第一歩だとバイロンは今も信じて疑わない。
 そして、経済こそが人類の持ちうる力の中で最も素晴らしい力であるのも事実だ。フルブライトは我が子可愛さからか血筋を尊重してしまった点こそ愚かであるが、それでも世界一の力を手にしているということは非常に評価ができる。聖王の伝説に連なるという品格も、申し分ない。
 だからこそ、その力をバイロンが手にし、四魔貴族によって現在の間違った世界が壊され、それを十数年の後に当代の宿命の子が追い払った、まさにその時。
 その時にこそ、人類が正しく歩める道筋を、このバイロンが示す。

「そう、これは人類の救済だ。私にしか成しえぬ、救済。私こそが正しい道を築くための、人類の道標に相応しい」

 不意に、笑みが漏れそうになる。
 バイロンはあくまで上品に口元に手を当て、深く呼吸をして気を落ち着けようとした。
 まだだ、まだ笑う時ではない。
 彼が高らかに笑い祝杯を上げるのは、首都ピドナが陥落したその時であると、以前から決めているのだ。
 大いなる破壊と創造の序曲開演の時にこそ、人類のために祝杯を上げるべきなのだ。
 それまでは、素知らぬ顔でフルブライト商会のことだけを考える振りをしていればいい。
 こうして笑みを堪えるのに痛く苦労するのも、あと数週間程度の辛抱なのだ。

 

 

「組織における属人化や権力の集中というのは、なんとも厄介なものなんだな・・・」

 ピドナ商業地区にある邸宅のテラスで日光浴がてら一人紅茶を啜りつつ、トーマスはティーソーサーの柄に目を落としながら、小さくそう呟いた。
 未曾有の流通断絶という極限状況にあってか、普段ならばビジネスマンの往来が絶えないはずのピドナ商業地区メイン通りも、今は実に静かなものだった。
 この静けさを「不気味」と見ることも出来るのだろうが、トーマスはこの静謐さが何やらシノンの穏やかなさまを思い起こさせるようで、むしろ好ましいとさえ感じていた。
 そんな時には、自分は矢張り生粋の田舎育ちなのだなぁ等と思い、薄らと顔に笑みが浮かぶ。

「まぁ・・・お陰で遂に眠れる獅子が動いたということなら、結果オーライか。いやむしろ想定より良くなった・・・かな?」

 どうしてこうも、計画とは想定通りに行かぬものなのだろう。
 そんなことを思いながら、一方では手元に置かれた二つの書簡に書かれていた報告の内容を、脳内で繰り返し分析し続ける。
 この時点で各方面の最適化に向けた準備は完了しているが、それでも情報と状況は常に動き続けるものだ。目まぐるしく変わる状況を常に加味し、その瞬間瞬間で、最も効果的な一手を打ち続ける。
 なにしろ今この瞬間こそが、一手間違えてしまえば全てが崩壊するかもしれないほどの、とても刺激的な局面なのだから。
 ただその中にあって、トーマスは自分でも拍子抜けするほどに冷静だった。
 自分にはこれほどの胆力があっただろうか、などと、トーマスは素っ頓狂なことを考えてみる。だがそれにはすぐに答えがでる。そこまでの胆力は、間違いなく無かった。
 自分の一手が、世界最大国家の命運を分けてしまうかもしれない。そんな超極限の状況に在って、たかだか一介の開拓村の豪農の跡取りに過ぎない自分が相対し、こうも平然としていられるわけなどないのだ。
 今持っている知識や戦略は、確かにその大凡が自己研鑽の中で身につけてきたことだ。それを元にこの一年ほどは試行錯誤を繰り返して経験を積み、より成長してきた。それは確かに、自分の大いなる糧となっている。
 だが今の自分の精神状態は、明らかにそんな程度の経験値で獲得できるようなものではない。
 どう見ても、生まれてからこれまでの経験を以てして自分が相対するには、この案件は荷が勝ちすぎている。到底、冷静な判断や分析が出来るとは思えない。
 だが、トーマスには断言できる。今の自分は、至極冷静そのものだ。そしてその理由も、おおよそ見当がついている。
 彼はこれくらいの危機的で刺激的な状況を、どうやら『知っている』ようなのだ。この空気に、懐かしさすら感じるほどなのである。
 その感覚を頼りに思い起こすと、脳裏に薄らと過ぎるのは、生と死の狭間で繰り返され続ける極限状態の軍議の風景。
 数多に渡り歩く戦は常に、勝つか死ぬかの二者択一。そしてその繰り返しの先には人類の勝敗という究極の分かれ道。己の選択がそれを決定づける。そのような極限の空気の中で生き続けたような、そんな記憶が薄らと思い起こされる。

(恐らくこれは、聖王十二将の記憶なんだろうな。俺もそうだが、ユリアンやモニカ様たちも急激な身体能力の向上や覚えのない戦闘技術の発現を体験したという。これの契機は完全に、ピドナでカタリナ様と再度の合流を果たしたあの時だ。夢の中で聖王様と思しき方が俺たちに語りかけたあの時に、恐らく聖王十二将の力の片鱗が『八つの光』と目される者たちに継承された。中身はてっきり戦闘技術だけかと思っていたけれど、こんなふうに記憶も薄らと継承されているとは。道理で、一国が滅ぶか否かって程度では動じなくなってしまったはずだ。しかし、記憶の継承なんてしたら人格すら変わってしまうんじゃないか・・・? 俺はどうやらまだ許容範囲内で済んでいるみたいだけど、みんなは大丈夫なのかな・・・。適正とか考えられているのだろうか・・・?)

「トーマス様」

 一人物思いに耽っているところに、彼を呼ぶ声がかかる。呼びかけに応えるようにトーマスが背後に視線を投げかけると、そこにはこのハンス邸に仕える執事が立っていた。
 彼は長らくメッサーナベント家に仕える執事で、この国でトーマスが最も信用を置く人間の一人だ。流石に現在のような状況でもその物腰は大層落ち着いた様子で、これこそ年の功がなせる姿勢というものだろう。

「御用命の調査結果が届きました」
「そうか、ありがとう」

 執事から手渡されたのは、簡素な封を施された新たな書簡。
 素早くその封を解き文面へと視線を走らせると、見る見るうちにトーマスの瞳は細まっていった。

「灯台下暗し・・・か。なるほど、矢張りあの詩人殿の言葉は、金言だったな。全く、彼は一体何者なのか・・・いや、今はそれを考える時じゃ無いな」

 ティーカップに残っていた紅茶をぐっと飲み干し、トーマスは三通の書簡を手に取って立ち上がった。

「さて、仕上げだ・・・爺、みんなを会議室に呼んでくれ」
「畏まりました」

 椅子の背に掛けていた外套を羽織り直したトーマスは、少しずり落ちていた眼鏡を鼻根の定位置に人差し指で戻しながら、足早にテラスを後にした。

 

 

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第九章・4 -フルブライト演説-

 

 一年を通じて穏やかな気候であることから、ガーター半島の中でもウィルミントンは特段に住みやすい場所であるとして、古来より住居や観光地としての人気が高い地域だ。
 街の東は波も穏やかな静海に面しており、西には聖王伝説に準えた巡礼地としても名高いデマンダ山脈が連なり、東西で素晴らしい景勝を成している。
 かくして、そんなウィルミントンに一人、悩める青年がいた。

「アビスリーグとは、一体いつから経済界・・・いや、世界そのものに干渉してきていたというのだ・・・?」

 見るからに長い歴史を彷彿とさせる、古式造りの外観をした建物。その二階にある、小さな窓から西日が差し込んだ、質素な調度品が幾つかあるだけの一室。
 世界有数の港湾景観美を誇るとも言われるウィルミントン港から程近い港湾商業通りの一角に、その建物と部屋はあった。
 そこは、他国と比べても群を抜いた量の歴史的建造物数を誇るウィルミントンの中でも、指折りとされる代表的な歴史的建築様式で建てられた老舗工房、すなわちチャールズ自由工房の区画内。
 かの聖王その人に付き従い、三百年の昔に四魔貴族と熾烈な戦いに身を投じた英雄の一人であるチャールズ=フルブライトの名前を冠した、世界で最も有名だとすら言われる工房である。

「調べれば調べるほど、その痕跡は巧妙に隠されている・・・。我が商会における違和感に限れば早々探り出せるかと思っていたが・・・よもや、ここまで分からぬものだとはな・・・」

 小さな部屋には不釣り合いなほどに広い机の上に、これでもかと積み上げられた書簡の山。
 それらを脅威的な速度で読み解き、自らの手元にある手帳へと愛用の羽ペンで要点の記載を行いながらブツブツと独り言を呟き続ける。
 フルブライト二十三世は、かれこれもう二ヶ月近く、短期間の間に幾つか場所を変えては籠るという生活を続けていた。
 なぜ彼がこのような生活をしているのかといえば、これは完全に自衛の観点からだ。
 フルブライト商会の内部に、アビスリーグの魔の手が伸びている。それは、最初は可能性の一つとして行き着いた推測でしかなかった。
 世界各国で秘密裏に活動を行なっているアビスリーグが、世界一の商会を有する商都であるウィルミントンに潜んでいないわけはない。フルブライト二十三世はアビスリーグの存在を察知した直後には、当然の如く真っ先にそう考えたのである。
 そして、もし実際にそうだとしたら。
 なれば代々ウィルミントンの執政官も務めるフルブライト一族との接触を図るのが、この街で最も有効な内部崩壊の道筋だ。
 簡単なことではないが、それでも目的のことを思えばこそ、そこを目指すことは火を見るよりも明らかであるだろう、と考えた。
 もし、彼が現時点で商会の全権を握っているのならば。
 そうだとしたら、自ら考えたその最悪の可能性について、即座に否と言い切ることができたのかもしれない。
 だが実際の彼は、残念ながらこの商会を掌握してはいない。
 確かに肩書きこそフルブライト家の当主にしてフルブライト商会の会長を務めるフルブライト二十三世だが、その実フルブライト商会を意のままに操るのは、先代当主であるフルブライト二十二世、つまり彼の父親であった。
 その父の敷く院政による運営というのが、今のフルブライト商会の実態なのである。
 フルブライト商会は、商会中興の祖にして聖王十二将の一人とも言われるフルブライト十二世の頃から、若い世代への継承を推し進める伝統があった。故にフルブライト二十三世は、若くして会長の座に就いたのである。
 そして彼は、自分の若さ故の過ちを酷く後悔していた。
 元々の彼は自他共に認める通りの、野心家だ。
 商会お膝元であるウィルミントンの街中でも最近は耳に届くことがある、フルブライト商会の「落ち目である」という風潮。これを一掃し、近年業績を伸ばすドフォーレやラザイエフ、ナジュ地方の新興企業を相手に絶対的優位に立ち回り、フルブライト商会の名声を自らの代で最も歴史上大きく輝かせる。
 そんな野望を、己の中に持っている。
 しかしこの野望に強く突き動かされた彼は、父の院政という現実に直面した時、大いに空回りした。
 当然院政を敷くならば、表向きの代表は操りやすいに越したことはない。それこそ、右も左もわからぬ幼子を王の座に据える摂政が如く、だ。
 だが父から引き継いだ会長の就任直後に彼は、父の院政方針に反発して、実に小賢しく立ち回ってしまった。
 それは下手に能力と野心があり、そして経験がなかったからこその大いなる過ちであったと、今の彼は過去の自分のことを酷く悔いている。
 御せないならば、干す。院政を敷く父が実行した彼への対処は、至極当然のことであった。
 血の繋がった親子の情けか、伝統を守ったが故か。彼は、会長職を辞するまでには至らならなかった。
 だが彼の持つ権限はその殆どが削がれ、ウィルミントンにある本店の売上管理のみが主な彼の業務となり、それ以外の業務への干渉権限は基本的にはなくなった。
 その状況に至り、彼は漸く己の行動を顧みた。そして今は雌伏の時であると察し、以後は父に対し挫折によって腐った息子を演じてきた。
 しかしてその裏では放蕩外遊と見せかけて世界各地を回り、兎に角自分に圧倒的に足りなかった経験を積んだ。各地の商会を訪問しては独自の情報網を現地で築き、里帰りした際には本館内でも着実に味方を作り続け、彼が再び権勢を得る機会を虎視眈々と窺っていたのである。
 しかしそうした活動をしていく最中にも、世界経済には常に所々で不穏な様子が見てとれた。
 当然ながら、それを横目に徹底して腐った放蕩息子を演じることも、彼には出来たであろう。だがしかし、彼の正義感は経済界に蔓延る不正を、特段に許せなかった。
 父に勘付かれる危険を犯しながらもピドナでトーマスとカタリナに接触したのは、そういった流れからだったのである。
 思えば、あの時に旧クラウディウス商会系列企業に手を出していた怪しげな企業群というのも、アビスリーグだったのであろう。
 カタリナカンパニーの設立とクラウディウス系企業群の併合の後、直ぐにそれら企業は手を引いたので、彼もそれ以上派手に動くのは難しいことから後追いをしなかったが、それも今となっては失策だったかもしれないと苦虫を噛み潰す思いであった。

「・・・私が現状使える手札では、内部から調べようにもこの辺りが限界か・・・。あとは最早・・・。うーん、出来れば避けたいところだがなー・・・」

 ぶつぶつと一人呟き続けながら、大きく背伸びをするように椅子の背もたれに寄りかかる。そして、思い切り両腕を上に伸ばして背伸びをした。
 すると窓から差し込んだ西陽が丁度いい具合に彼の顔を照らし、その眩さに思わず眉を顰めながら陽光の反対側へと顔を逸らす。

コンコンッ

 果たして丁度そのタイミングにて、彼の視線の先にあるこの部屋の唯一の扉を叩く音が、唐突に室内に響きわたった。

「・・・・・・。どちら様かな?」

 普段は使われることもなく、そこに人が寄り付くことは基本的にない。フルブライト二十三世がいる建物と部屋は、そういう場所だ。
 付け加えるなら、この建物のこの部屋に彼がいるという事実を、建物の所有者であるチャールズ自由工房の人間は実は誰も知らない。
 自分の中で信用がおける一部の者の伝だけを頼り、いくつも潜伏先を転々としていた彼の現在の居場所を知る者は、それこそ商会内には殆どいないはずなのだ。
 そもそも、外面的には彼の予定は現在進行形で、いつもと同じ外遊ということにしている。
 そのような状況でこの部屋にこのタイミングで訪れる者の存在など、通常ならばありえるはずもないのである。
 通常、ならば。
 さて、そんな状況からのこの展開であるからして流石に最悪のシナリオまで即座に考えつつ、フルブライト二十三世は椅子から静かに立ち上がり、扉の向こうへもう一度、誰何した。
 すると、はたして彼の脳内シナリオがそのまま現実のものとなったかのように、返答の代わりに扉の取手が外側から、片手斧で叩き壊されたのであった。
 バキッと派手な音と共に扉の鍵部分が破壊され、その後に不気味なほど静かに扉を開けて部屋に入ってきたのは、眼光鋭い三人の男であった。
 三人とも黒を基調とした装束に身を包み、顔も目の周辺以外は覆い隠されている。日暮れ時のウィルミントンを歩くには、むしろ異様に目立ちそうな格好にも思えた。
 そして当然ながら彼らのことを、フルブライト二十三世は全く知らない。だが、彼らの纏う空気が明らかに表の世界に生きる類のものではないことくらいは、切った張ったとは縁遠い彼にも流石に分かる。

「あー・・・何の用だか、一応聞いても?」

 迅る動悸と、米神を流れる冷や汗。
 それらを無理やり抑え込むように、フルブライト二十三世は努めて冷静を装いながら、落ち着いた調子で相手に声をかける。果たしてこれまで数々の商談で培ってきた交渉術が、この手の輩には通じるものだろうか、などと考えながら。
 言葉を発すると同時、ジリジリと窓際へ距離を取るようにするフルブライト二十三世の問いかけに、しかし三人の男たちは何も答える様子はない。
 この部屋の出入り口は彼らの背後にある壊された扉だけだからか、一々散開するような様子もなし。三人横並びでゆっくりと手にした得物を構えながら、獲物であるフルブライト二十三世へとにじり寄る。

「・・・見たところ君たちは、その筋のプロのようだね。下手に喋らないのは、君たちが間違いなく優秀な証拠だ。反面私は、どうにも喋らないと気が済まない性分でね。言いたいことを言わずにいられないんだ。そこで先ず聞くのだが・・・君たち、雇い主を変える気はないかな。その腕を見込んで、報酬は今の倍額で確約させていただくが」

 先ずは、正攻法による交渉だ。
 トレードとは即ち、聞こえのいい言葉を織り交ぜながら交渉をしつつも結局のところは、オーラム貨幣による殴り合いの物量戦が基本となる。その決着の大部分は、相手を上回る資金力で無慈悲に制圧することで成り立つのだ。
 これこそが、トレードにおける基本中の基本。永遠のスタンダード。制圧の美学なのである。

「・・・・・・・・・」

 しかして、相手は此方の提案に対し、全く意に介する様子がない。フルブライト二十三世は、その様子に内心で大いにため息を吐くのであった。
 偶にいるのだ。こういう、金をいくら積んだとしても頑として態度を曲げない、そんな物件始末屋並みの堅物商談相手が。
 だが、それで大人しく諦めるほどウィルミントンの商人は甘くはないのである。

「・・・君が持っているその武具、よく手入れをされた三日月刀だ。曲刀は、ナジュ地方特産の武具だね。地肌の色から見ても、生まれが其方かとお見受けする。するとひょっとして君たちは、ハマールでの戦いに参加していたのかい?あれは酷い戦いだったね」

 正攻法で駄目なら、搦め手だ。
 黒装束で肌を隠した彼らの、目の周りの僅かに見える地肌。そこには、砂漠の民を思わせる褐色が見え隠れしていた。そして手に持つ得物の曲刀は、これまた砂漠の戦士の象徴たる武装だ。
 トルネードと呼ばれる有名な同国出身傭兵もそうだが、砂漠の戦士が曲刀を持つことには、特別な意味がある。ゲッシア王朝の初代国王にして同国の絶対的英雄であるアル=アワドが用いたとされる曲刀カムシーンを起源とし、砂漠の戦士が曲刀を持つということは、正に国の誇りをその手に扱うということなのだ。
 つまり、彼らは少なくともゲッシア王朝に連なる何らかの信仰を持っている可能性が高い、と読み取ることができる。
 そして、砂漠の民に切っても切れない近年最大の事変が、ハマール湖の戦いだ。
 凡そ十年前に起こったその戦で、建国から六百年近くもの歴史を誇ったゲッシア王朝は、滅亡した。
 世界を襲った三度目の死蝕の後、故クレメンス=クラウディウスからの弾圧政策によりメッサーナを追われた神王教団が己の生存権を賭けてナジュで起こした「聖戦」の結果、敗走したゲッシアの戦士たちの多くは、無念のうちに国元を追われたのである。
 そして戦に生きてきた戦士の多くは他国で傭兵や冒険者に転身し、また、少なくない者たちが野盗や暗殺稼業など裏の生業に身を落としたのだという。
 当然そうして国を追われた戦士達には、神王教団への怨嗟、亡国への無念など、部外者には想像もつかないほどの負の感情が未だに渦巻いているのである。
 砂漠の戦士たちにとって、このハマール湖の戦に纏わる話題は、正に禁句中の禁句であると言っていい。

「・・・黙れ。貴様ら商人風情が、あのことを語るな」

 先頭に位置していた男が、明らかに殺気の増した眼光でフルブライト二十三世を睨みつけながら、短くそう発する。
 当たりか、とフルブライト二十三世は内心でほくそ笑んだ。
 どうやらまだ、この商談には勝ち筋が残っているらしい。

「・・・失礼、君たちの誇りを踏み躙るつもりは毛頭ないんだ。ただ、今ここで私が死ねば、ゲッシア再建の道が遠退く・・・いや、叶わぬことになるかもしれない。それは、誇り高き砂漠の戦士と見受けられる君たちにとっては、知り置くべき情報だと思ってね」

 フルブライト二十三世のその言葉に三人の動きが、はたと止まった。
 同時に先程まで殺気に満ち溢れていた眼光には、若干の戸惑いの色が混ざっている。どうやら、効果は抜群だ。

「・・・・・・。話を続けても?」

 変わらず自分に差し向けられている三日月刀の切っ先に視線を移し、フルブライト二十三世が口を開く。すると、互いに視線を素早く交わした三人は、手にした得物を一旦下ろして話の催促を示したのだった。

 

 

 カタリナカンパニーによるバンガードでのフルブライト商会おもてなしは、過去に類を見ないほどの大盛況のうちに幕を下ろした。
 今回の宴席によりフルブライト商会からカタリナカンパニーへの印象は非常に良いものとなり、今後このトレードの結果がどのような着地をしたとしても、現場レベルでの面立ったいざこざは、確実に起こり辛くなったことだろう。
 夜通し続いた宴席の間、特に親睦を深めたと思われる主催のラブ=ドフォーレとフルブライト商会のバイロンは翌日に改めて現地の商業ギルド会館にて固く握手を交わし、日を置いて再開される商談の着地地点へと大きな前進をみせたと思われた。
 商業ギルド関係者の間ではこの日に一気に話が進むのではとの見方があったようだが、今回のトレードにおけるフルブライト側の決済者であるバイロンが、なんでも所用で一度ウィルミントンに戻らねばならぬ予定となっていたようなのである。
 そのため彼がバンガードに戻る一週間後にトレードが再開されるとのことで、この日は双方一時解散となったのであった。

 陸路ではなく小型で足の速い船を用い、急ぎ海路からウィルミントンに向かったフルブライト商会幹部一行は、宴席の二日後には早々とウィルミントン港へ到着していた。
 そして足早に港から市街地へと向かった一行は、ウィルミントンの美しい眺めを一望できる小高い場所に位置するフルブライト商会の本館へと入っていった。
 館内ですぐさま他の幹部らと一時別れたバイロンは、そのまま真っ直ぐ館内の奥まった場所に位置する会長室と書かれた部屋の前へ辿り着き、その扉を徐に開ける。
 静かに開いた扉の先、部屋の中は一見して無人だ。
 部屋の中央には、応接用に用意されたテーブル。そしてそのテーブルの上にはフルブライト二十三世が愛用している、伝説の怪鳥ワンダーラストの羽を模したとされる飾りがあしらわれたグリーンの帽子が、ぽつりと置かれていた。
 これはオーダーメイドの一点物で、世に二つと存在しないものだ。

「・・・・・・」

 その一点物がここに置いてあるということはつまり、彼がここにきた目的は滞りなく達成された、ということの証左か。
 彼は、これの確認をするためだけに態々このタイミングでウィルミントンへと戻ってきたのだった。
 優秀な商売人とは誰しもが少なからずそうであろうが、バイロンもその例に漏れず、慎重な性格だ。
 今現在行われているカタリナカンパニーとのトレードにおいて、フルブライト商会の、そして彼自身の今後を大きく左右する方針が定まる。そしてその方針を定めるにあたって、現会長であるフルブライト二十三世の存在は、邪魔でしかない。
 バイロンは、彼がこそこそと内部事情を探っているらしいという事実について、早々に認識していた。
 勿論、商会内部ですら大した力を持たないお飾り会長が何をしたところで、実際には大した障害とはならないだろう。
 だが、それはあくまでも今の段階で、という話であって、今後もそうであるとは限らない。
 加えて今後のフルブライト商会を円滑に掌握していくには、分かりやすい対外的な大義名分が必要だ。そのためには遅かれ早かれ、フルブライト二十三世には消えてもらわねばならない。
 ならばいっそ、この機に退場してもらおうと考えた。それを今回の筋書きに足してしまったほうが、様々な面で話が早いのだ。
 そう結論づけたバイロンは、フルブライト二十三世の暗殺を命じた。
 トレード終結の際に思惑通りに話を進めるには、フルブライト二十三世が既にこの世に居ないことを確認しなければならない。
 そのための万全を期す意味で、彼は自らの目で確認をするために戻ってきた。そして彼の前には今、その証左となり得る品が置かれている。
 バイロンは薄らと目尻に笑みを浮かべ、テーブルに歩み寄ると卓上の帽子を掴み取ろうと腰を屈めて手を伸ばした。

「・・・おっと、それは私のお気に入りでしてね。いくら貴方と言えども、お譲りは出来ませんよ。バイロンおじ様」
「!!」

 部屋の物陰から静かに姿を現したフルブライト二十三世の声かけに、びくりとバイロンは小さく身を震わせて動きを止める。
 しかしながらそれはほんの一秒ほどで、バイロンはゆっくりと直立に姿勢を正すと、優雅に手を後ろに組み直しながらフルブライト二十三世へと向き直り、微笑んだ。

「ははは、流石に息子同然の子の物を貰おうとは思わんよ。久しぶりだね、元気そうで何よりだよ、ブライトJr」
「ふふ、僕のことをそう呼ぶのも、もうバイロンおじ様だけです。ところで、本日は会長室へ一体どの様な御用向きで?」

 部屋の窓際に設置された会長専用の執務机に歩み寄り、その縁に軽く体重を預けながら、フルブライト二十三世が尋ねる。すると、バイロンは片手で自らの顎髭を撫で付ける様にしながら柔和に微笑んだ。

「ここに来る理由なんて、大抵は一つだよ。ブライトJrの元気な姿を偶にはみたくなった、というだけさ。我が子のように接してきた子の事を想うのに、そう大した理由はいるまい」

 そう言いながらバイロンは応接用の机の脇を抜け、フルブライト二十三世へと近づく。
 しかしその歩みは、二人の間に割って入った予期せぬ介入者によって、唐突に止められることとなった。

「・・・これは一体、どういうことかな」

 バイロンとフルブライト二十三世の間に割って入ってきたのは、全身を黒基調とした装束で覆った一人の男だった。
 先ほどのフルブライト二十三世と同じく物陰から音もなく現れた男は、全く無駄のない動きで鞘から引き抜いた三日月刀を、バイロンへと向けて構えている。

「どういうことか説明してほしいのは僕の方ですよ、バイロンおじ様。我が父と共にフルブライト商会を・・・いや、この自由都市ウィルミントンを長年支えてきてくださった貴方が、何故アビスリーグなどに加担しておられるのか・・・?」

 フルブライト二十三世が眼光鋭くバイロンを睨みつけると、しかしそれに対して何ら怯んだ様子のないバイロンは、髭を撫で付ける手を止めた。そして、ふむ、と一つ息を吐く。

「・・・矢張り賊に任せるというのは、良くなかったな。多少の手間がかかるとしても、確実な手段で事を運ばねば、時としてこういうボロがでる。私もまだまだだね」

 そう言って何事もなかったの如く後ろへ振り返り、なんとそのままバイロンは部屋を去ろうとした。
 しかし部屋の扉の前にも二人、廊下から現れた黒装束を纏った男がバイロンの前に立ちはだかる。

「ここから逃すつもりはないです。教えてください、おじ様。何故アビスリーグと手を組んだのですか」
「・・・君に教えたところで、何も分かりはすまいよ。脛齧りっ子のJrにはね」

 後ろ手に組んだ直立姿勢は崩さぬままバイロンは、さして興味のなさそうな瞳で、なんとも面倒臭そうな緩慢な動きでフルブライト二十三世に向き直った。
 あくまでも、こちらの質問にまともに答える気はない様子だ。それであれば、本意ではないものの手荒な手段も致し方ないだろう。
 そう覚悟を決めたフルブライト二十三世が右手を前に突き出すと、それを合図に黒装束の男たちがバイロンを拘束しようと躙り寄る。

「・・・いいのかね。私がすぐに港に戻らなければ、制御を失った魔物達ががこの館やウィルミントンの街中で暴れ回ることになるが」
「・・・なんだと?」

 バイロンの言葉にフルブライト二十三世は怪訝な顔をしながら、突き出した手を気持ち、引き戻した。

「言葉の通りだよ。私はこの通り丸腰だし、今は護衛もいない。加えて言うなら、あのモンテロ=ドフォーレのように魔物が化てもいない。単なる生身の人間だ。・・・かと言って、全く自衛の策を持っていないというわけでもない。それだけの話だよ」

 バイロンは、至極冷静な様子でフルブライト二十三世を見返す。

「私は拷問など受けたこともないから、きっと簡単に吐くかもしれないよ。ただそのための対価は、このウィルミントンの街の消滅だ。この商談、君は受けるかね?」

 フルブライト二十三世は、迷わず即座に突き出していた右手を下げた。
 それを確認した黒装束の男三人は、雇い主である彼の意思を汲み取り、バイロンから距離を取るように一歩離れる。
 この男の言葉は、はったりなどではない。
 紛れもなくその言葉が事実であろうと言うことを、フルブライト二十三世は知っている。
 彼は、物心がつくかつかないかという幼少の頃から、それをよく知っているのだ。偉大なる父の横に常に立っていた、このバイロンという男のことを。
 父であり、現在も商会の実質的な最高権力者である、フルブライト二十二世。その父の絶対的な右腕であり続け、数々の重要な商談を取り仕切ってきた、フルブライト商会きっての辣腕家。
 それがこの、バイロンという男だ。
 フルブライト商会は確かに、世界一の商会だ。だが、特に死蝕前後のここ数十年はドフォーレやクラウディウスなど勢いのある大きな商会が次々と台頭し、ポドールイ地方ではツヴァイク公爵が権勢を振るうことで独自経済圏を確立し始めていた。また、ゲッシア王朝の滅亡と神王教団の躍進によってナジュ経済圏にも結果として活性が起き、混沌としながらも大きく経済的な成長を成し遂げていった。
 そうした激動の時代の最中で、変わらず世界一を維持すること。それは、想像するだけでも非常に困難を極めることであった。
 世間では「最近のフルブライトはいまいちだ」などと揶揄されることもあるが、これだけの激動の中で変わらず世界一という立場を確立しているのは、間違いなくこのバイロンという男の手腕によるところが大きい。
 残念ながら父だけでは、世界一という評価の維持は不可能だったであろう。
 最も近くで父を見てきたフルブライト二十三世をして、そう思わせてしまうほどの確かな手腕。それが、このバイロンという男にはあった。

「・・・リターンが割に合わないトレードをするつもりは、ありません。こちらの準備不足でしたね」
「ふふ、多少は賢明になったようだね、ブライトJr。今回のトレードはノーゲームのようだ。・・・それでは私は、これで失礼するよ」

 両手を後ろに組んだまま、バイロンは何事も無かったかのように颯爽と部屋を後にする。
 部屋には、一時の沈黙が流れた。
 バイロンの背中を苦虫を噛み潰したような表情で見送ったまま固まっていたフルブライト二十三世に対し、役目を終えた三日月刀を鞘に納めた黒装束の男の一人が話しかける。

「・・・いいのか。奴をこのまま逃しても」
「・・・仕方ない。アビスリーグが魔物を従えているのは、紛れもない事実。ああ言われては、迂闊に手は出せない。しかし・・・これはかなり分が悪くなったな・・・」

 フルブライト二十三世にとって、ここでバイロンを確保できなかったのは、非常に手痛いことであった。
 なにしろ、この身の危険がある事を承知で商会内に敢えて残り、自らを囮にしてまで掴んだ、千載一遇のチャンス。それが、この場面だったのだ。
 それを、みすみす棒に振ってしまったのである。

「・・・別にここでなくとも、密かに後を追って何処かで拘束すればいいのではないか?」

 黒装束の男が言う。
 だが、それにもフルブライト二十三世は弱々しく首を横に振り、窓の外に見えるウィルミントンの街並みへと視線を向けた。

「いつ何処で彼を捕らえても、この街を盾に取られていることに変わりはない。つまり、彼の背後にいるアビスリーグそのものを先に潰さなければ、我々は彼に対して常に後手に回ったままということだ」

 さて、こうなってしまったからには、この次の手をどうしたものかと思案する。
 差し当たっては、自分の身を守る手法も新たに考えなければならない。その上で如何なる手段を取るべきかとフルブライト二十三世は腕を組み、ため息と共に口をへの字に曲げてみせた。
 その様子を見て、黒装束の男達も雇い主の動向を待つかのように姿勢を緩ませる。
 だが、そうした束の間の思考時間は、そう長く保つことはなかった。

 ドンッッ!!!

 突然の衝撃音と、それに合わせて館全体が揺れるほどの大きな振動。
 思わずそれによろめきながら、フルブライト二十三世は何事かと周囲を見渡す。
 それと時を同じくして館のあちらこちらから悲鳴と怒号が一気に飛び交い、そして容赦のない幾重もの破壊音が鳴り響き始めた。

「おいおい・・・話が違うじゃないかッ!」

 フルブライト二十三世は盛大に悪態を吐きながら、窓の外を慌てて確認する。
 窓の外から見えるのは、街の中央及び港の方面。そちらには特段、騒ぎの兆候などが見えるわけではない。

「街に騒ぎが起こっているわけではない・・・この館だけを襲って私を始末するつもりか・・・!」

 フルバライト二十三世は応接テーブルの上の帽子を慌てて取り上げ、次に部屋の出入り口ではなく、一見なんの変哲もない部屋の壁へと歩みを進めた。
 フルブライト商会の保有する資産は、一介の都市国家のそれを軽く凌ぐ。それゆえ、様々な面で自衛の手段を欠かすことはない。有事に備えるという事は、商会の人間にとって必然であるのだ。
 フルブライト二十三世が部屋の壁を無造作に押すと、はたしてカチリと開いた仕掛け扉の向こうには、狭い通路が続いていた。王侯貴族の居城にあるそれと同じような、緊急時の脱出路である。
 だがフルブライト二十三世がそこから脱出を試みるより先に、彼に続こうとした黒装束の男の一人がその通路の奥にある強烈な違和感に気付き、慌ててフルブライト二十三世を部屋の中へと引き倒した。

「ぃだっ!?」

 首根っこを引っ張られ、背中からひっくり返るように倒れ込んだフルブライト二十三世の、先ほどまで立っていた場所。そこを寸分違わず射抜くように隠し通路の奥から飛来した矢は、そのまま鋭い音を立てて部屋の反対側の壁に突き刺さった。

「ギギ・・・ギ・・・」

 慌てて仕掛け扉から距離をとったフルブライト二十三世らを隠し通路の奥から睨みつつ、弓を構えた醜悪な小柄の獣人が数体部屋へと姿を表す。
 道具を用いる獣人族は非常に知能が高く、そして残忍で狡猾だ。潜んで敵を狙うには、うってつけの配置だと言える。恐らくは、この館のことを知り尽くしたバイロンの差金であろう。
 これは堪らぬと、慌てて部屋の入り口に一同が視線を向ける。しかしそこには既に、襲撃からここまで一直線に進んできたと思われる血塗れの大剣を携えたエルダークラスの大型獣人が数体、こちらも実に醜悪な顔を扉から覗かせていた。

「・・・!!」

 それらを確認した黒装束の男たちの表情には、明らかな焦りの色が出ている。
 当然彼らも戦士として、アビスの瘴気に侵された魔物と相対した経験は幾度もあった。だが、人と同じく武具を扱う程の非常に強力な魔獣と遭遇することなど、余程アビスの瘴気が濃い場所でもなければ普通は有り得ない。
 これほど強力な魔獣を相手する場合、数体程度の群れの討伐でも騎士団一個小隊以上を派遣するのが常であると言えば、その困難さが窺えるというものだろうか。
 つまり、人間四人で相手をするなど、あまりに馬鹿げた状態であるということだ。

「くっ・・・私はこんな所で死ぬわけにはいかないんだ・・・何か、何か手はないか・・・!?」

 部屋からの脱出路は、正面も隠し通路も魔物に道が塞がれている。
 そしてこの部屋の窓は外部からの侵入防止のため、はめ込み式になっている。体当たりした所で、そう簡単に突き抜けはしない。
 そうなると矢張り、目の前の魔物を突破する以外に現状打開の方法はない、ということになる。
 天術に属する太陽の術法を教養の一貫で学んだだけのフルブライト二十三世だが、それでも最大威力で放てば、多少の目眩しくらいにはなるかもしれない。その隙を突くくらいしか、有効な手段は思いつかなかった。
 最早うだうだと悩んでいる時間はない。黒装束の戦士三人に対し、一か八かの一撃離脱を提案しようとフルブライト二十三世が口を開いた、その時だった。
 突然、その場の全員が不可思議な耳鳴りに襲われたのである。

「グギャォォオオ!!??」

 最初にその場に響いたのは、空間そのものを断絶するかのような、聞きなれない高音だった。それと同時に、凄まじい威力を伴う剣圧の一閃が部屋の外で迸る。
 次には、その一閃により胴体を上下で真っ二つにされた大型の獣人たちが、赤黒い血潮を撒き散らしながら宙を舞った。
 そして最後には聞くに耐えない醜い断末魔をその場に残し、会長室の入り口前に陣取っていた大型獣人数体だったものは、物言わぬ肉片となって廊下の反対方向へと吹き飛ばされていった。

「・・・!!?」

 突然起こったその出来事に、その場にいた人も魔物も、一体何事かと部屋の入り口に注目する。
 するとそこから部屋に飛び込んできたのは、鮮やかな緑の髪を靡かせ、魔物の血に濡れた剣を携えた青年。
 ユリアンだった。

「フルブライト様、ご無事ですか!?」
「ユ・・・ユリアン君!!」

 ピドナで幾度か顔を合わせた覚えのある、一度見たら忘れなさそうな緑髪の青年、ユリアン。
 フルブライト二十三世が大いなる驚きと共に彼の名を発した直後、そのユリアンの脇を、今度は一陣の金色の風が通り過ぎた。

「ギャヒッ・・・!?」

 その風が部屋を吹き抜けると同時に、避難路から室内に侵入してきていた小型の獣人数体が、瞬く間に血飛沫を上げながら崩れ落ちる。
 刹那の間に、なす術なく絶命した獣人らの亡骸。それらの中央に留まっていた金色の風の正体は、輝かんばかりに美しい金髪を靡かせた、可憐な容姿の女性だった。

「モ、モニカ様・・・!?」
「ご無事でなによりですわ、フルブライト二十三世様」

 手慣れた手付きで素早く小剣の血振りをしつつ、モニカはこんな場面でも礼儀正しく一礼してみせながら、穏やかな口調でフルブライト二十三世に挨拶を返した。

「・・・よし。モニカ、こっちはもう大丈夫そうだ。そっちはどう?」
「はい、こちらも気配はもうありません。大丈夫そうですわ、ユリアン」

 部屋の外を見渡しながら声を上げたユリアンに、部屋の隠し通路を覗き込みながらモニカが応える。
 つい数秒前までは正に風前の灯といった様相であったフルブライト二十三世らは、どうやら寸でのところで、命拾いをしたようであった。

「た・・・助かった・・・」

 一気に気が抜けたのか、フルブライト二十三世は真っ先にぽすんと床に座り込み、細く長く息を吐いた。
 その様子に対し、黒装束の男三人は未だに状況がうまく飲み込めておらず、構えたままの三日月刀を所在なさげにふらつかせながら、突然現れた二人を交互に見ている。

「・・・ん? あぁ、安心してくれ。彼女らは味方だよ」

 その様子に気がついたフルブライト二十三世がそう声をかけると、黒装束の男たちはまだ信じられないというような様子で、雇い主と二人を交互に見つめる。

「み、味方・・・?」

 腕に覚えがある者たちだからこそ、わかるのだろう。
 今、自分達の目の前で起こった光景。それが、どれだけ信じがたいものであるのか、ということを。
 騎士団一個小隊を要するような討伐対象になりうる魔獣らを、ただの一撃で纏めて斬り飛ばしたなど、それは最早、およそ人類の行える所業とは思えない。
 それこそ、彼らの信ずる中で最も強き猛き英雄であるアル=アワドなどでもないかぎり、そんな出鱈目なことは不可能なはずだ。
 それを、今目の前にいる一見髪の色以外に特徴らしい特徴が見出せない青年が、何でもない様子で為してしまったたのである。
 部屋の中に飛び込んできた女も、同様だ。
 彼らの目を以ってして、その動きを確りと捉えることは出来なかった。精々、その残像が見えた程度だった。
 だというのに、女の足元に転がる小型の獣人だったもの等は、その全てが身体中の急所と思われる場所を何箇所も貫かれて事切れている。
 あの一瞬でそんな芸当が出来る者など、長く戦場に身を置いていた彼らでさえも全く聞いたことなどない。
 つまり黒装束の男たちからしてみれば新たに現れたこの二人こそが、一歩間違えば絶対に逃れることのできない死を齎す得体の知れない存在にすら思えてしまったのである。
 そんな黒装束の男たちの戦慄を他所に、フルブライト二十三世はゆっくりと起き上がり、モニカたちに向き直った。

「・・・しかし、どうしてモニカ様達が・・・って、聞くまでもないですかね。これはトーマス君の差金、ですね?」

 フルブライト二十三世が腕を組んで片目を瞑りながらそう言うと、ユリアンはバツが悪そうに頭を掻き、モニカはお察し下さいとでも言わんばかりに華やかに微笑んでみせた。

「年が明けたあたりから既に、ウィルミントンには滞在しておりました。フルブライト二十三世様のお邪魔にならぬよう、有事以外は表だった動きはせぬようにお守りを、との指示で動いておりましたの」
「・・・さっきの魔物たち、俺たちがこの街に来た時には既に人間に化けて館の周辺をうろついたりしていました。俺、ピドナで化けている奴らを見てきたんで分かるんです。なので先手は打てなくても、何か起きたらすぐ駆けつけられるようにって、近くの宿でずっと張っていました」

 モニカとユリアンが口々にそう答えると、フルブライト二十三世は全てを理解したかのように頷いてみせた。

「バイロンはここまで想定してハナから仕込んでいた、というわけか・・・ふふ、トーマス君に命を救われたな。この貸しは大きくなりそうだ。とはいえ・・・ここからどうしたものか」

 そう呟きながら、フルブライト二十三世は再び思案を始める。
 ここで命が助かったとはいえ、それで状況がなんら好転したというわけではない。後手に回らざるを得ない状況そのものには、変わりなかった。
 そして、そこに彼を悩ませる更なる厄介ごとが舞い込んでくるのも、ある意味では当然の流れと言えるのかもしれなかった。

「ひぃ!!?・・・い、一体これは何事だ・・・!!?」

 慌てた様子で会長室へと走り寄り、道中にある魔物の死体に驚いた様子を隠さずに現れたのは、老いてなお有り余る精力を隠す気のない様子の、上品な格好に身を包んだ壮年の男。
 男の名は、フルブライト二十二世。フルブライト二十三世の父にして、現在のフルブライト商会を陰から操る真のオーナーだった。

「・・・あぁー、やっぱりこの騒ぎですから、来ちゃいますよねぇ・・・」

 余計な面倒事が増えたとでも言わんばかりに目元に手を当て天を仰いだのは、他でもないフルブライト二十三世である。

「ん、何なんだね君たちは一体・・・まぁいい、それよりジュニアよ、これは一体何事だ。お前、今度は何をやらかしたというのだ?」

 フルブライト二十二世は直ぐ近くにいたユリアンを始めとした部外者らしき面々に一瞥をくれたあと、フルブライト二十三世へ向けて声を上げた。

「あー・・・お父様。これにはまぁ、なんというか色々と事情が・・・」

 我ながら歯切れが悪いにも程があるなと思いながら、口を開く。
 しかしその間にも、こちらの聞く耳など全く持たないといった様子で、フルブライト二十二世は集まってきた召使いたちに掃除を命じたりユリアンやモニカへ威圧的に詰問しだしたりと、大忙しだ。

「・・・あー、もう・・・こうなってしまっては、お終いだな・・・。まさか、トーマス君はここまで見通して・・・ふふ、だとしたら末恐ろしい話だ・・・」

 独り言のようにそう呟いたフルブライト二十三世は、周囲の喧騒から逃避するかのように、数秒間目を閉じ、自らの額に拳を添える。
 そして何かを決心したかのように、よし、と呟いて一つ息を吐いた。
 とりあえずは、この場を納めなくてはなるまい。

「・・・済まないが君、その三日月刀、少し借りていいかな?」
「あ、あぁ・・・」

 怒涛の展開に着いていけていない黒装束の男の一人から三日月刀を借りたフルブライト二十三世は、ガヤガヤと五月蝿い部屋の中で静かに、その三日月刀を振り上げた。
 そしてなんと、それを目の前にあった応接用のテーブルに勢いよく叩き付けたのである。

ガンッ

 大きな衝撃音と共に、薄く作られていたテーブルは衝撃に耐えきれずに真っ二つに折れてしまう。
 そしてその突然の奇行に対し、周囲に喚き散らしていたフルブライト二十二世が驚いたように押し黙って自分の息子を見つめる。

「お静かにしていただいて、ありがとう」

 叩きつけた反動で軽く痺れた手を振りながら三日月刀を持ち主に返しつつ、フルブライト二十三世はその場の全員に対して言い聞かせるように、静かに言葉を紡いだ。

「お父様、詳しいことは後ほど話をさせていただきます。ですが今は一刻も早く次の手を打たねば、世界経済を救うことが出来ません」
「な・・・一体何を言って・・・」

 息子の言葉の意味が分からないと言った様子の父が何かを言おうとするのを無視し、フルブライト二十三世は部屋の外に控えていた召使いたちに向かって声をかけた。
 そこに集まっていたのは、この館に古くから仕えている者たちだ。

「みんな。想定より大分早まるが、どうやら動き出す時が来たようだ」

 フルブライト二十三世のその言葉に、館の召使い達は何かを察したかのように目の色を変えた。
 それらの視線の先にいるフルブライト商会の放蕩息子、もとい現会長は、ニヤリと口角を上げてみせる。

「今すぐ各国各都市の商業ギルド会館を通じ、一般公開書面を発送してくれ」

 言葉と共に、胸元の高さで両腕を軽く広げる。
 それはまるで、全てを包み込み、そして掌握するジェスチャーであるかのように周囲の目には映った。

「文言は、当初から伝えておいた通りの一文だ」

 他者が口を挟む余地をどこにも介在させない、ある種の特異な空間がそこには出来ていた。
 まるでこの場所が、彼の独擅による演説会場であるかのように。
 演説者以外は、何人たりとも発言を許されぬ雰囲気に包まれた中。場の中心にいるフルブライト二十三世は、まるで高らかに宣誓でもするかのように、その言葉を発した。

「・・・フルブライト二十三世を知るものきたれ、と」

 

 

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第九章・3 -お・も・て・な・し-

 

「・・・しかしこれはまた、実に煌びやかな宴席ですな」

 そこは果たしてこの世か、はたまた楽園か。
 老紳士は、見たこともないような火を使わぬ照明器具で華やかに装飾された宴会場と、その中央舞台の上で楽人もなく流れる音楽に合わせて踊る金髪の女性を眺めながら、豪奢な料理が盛られたテーブルの向かいに腰掛けるラブ=ドフォーレへと声をかけた。

「いえいえ、本来ならばバンガード全てを貸し切ってでもおもてなしを差し上げたかったところですよ、バイロン卿」

 ラブはそう答えながら、優雅にヴィンテージワインが注がれたグラスを傾けた。
 今宵の主賓であるこの老紳士は、フルブライト商会要職であると同時に商業都市国家ウィルミントンの執政議会議員を代々務める名家、バイロン家の当主だ。
 その名はウィルミントンで最も名のあるホテルに冠せられているほどで、フルブライト商会においても数代に渡り並々ならぬ功績を共に築き上げてきた家柄でもある。
 このバイロン卿を筆頭に、この日は総勢百名にも迫ろうかというほどのフルブライト商会関係者をこの会場に招いており、各々が最高級の料理と酒、そして数々の趣向を凝らした催しに興じている。
 トレードの際によく用いられるお持て成しの規模としては、間違いなく史上最大だと言えるだろう。

「あの舞台上で踊っておられるのは・・・ひょっとして、かの有名なプロフェッサーですかな?」
「流石はバイロン卿、博識でいらっしゃる。あのツヴァイク公をパトロンとして射止めたというダンスだそうで、私も初めて拝見しましたが、確かにこれは一見の価値がありますな」

 教授がダンスを踊る舞台周辺には、確かに会場にいる大半の来賓が集まっており、大変な盛り上がりを見せていた。
 それは例えば場末の酒場で見られるような、聞き慣れたフィドルやギターに合わせて舞う踊り子のそれとは、全く様相の異なったものであった。
 楽人など周辺に一人も見当たらないというのに、何処からともなく流れ出てくる複数の楽器が奏でる音楽に合わせ、時に激しく、時にムーディーに変調していく演奏に併せて一心不乱に踊り上げている。
 更に、色彩豊かに変化しながら予め敷かれた導線上を動き回る照明演出が場を盛り上げ、そのステージを、嘗てない至上のエンターテイメントへと昇華させているのだ。
 これら音響器具や照明等も教授の自前機材であるらしく、確かにその未知なる演出はこれまで見たことがないようなもの故に、ステージ周辺は異様なほどの盛り上がりを見せていた。

「この後もこの会場では様々な催しを準備しておりますが・・・実はバイロン卿には、このバンガードでしか体験できない特別な席をご用意させていただいてましてな。よろしければ今から、其方へご案内さしあげても?」
「ほう・・・それは楽しみですな」

 そう答えるバイロンに対しラブは上機嫌な様子でグラスの中身を飲み干し、ゆっくりと席から立ち上がった。

「折角ですから、そこで少し面白いお話でもさせていただきましょう。ただ、席の装飾が非常に繊細な場所でしてな。ご同伴は最小限に留めていただけると有り難いのですが」
「・・・では、私と執事のみで向かいましょう。よろしいかな?」
「ええ、もちろんですとも」

 ラブの言葉から何かの意図を察したのか、バイロンは自らの顎髭を撫でつけながら応じつつ立ち上がった。
 そのまま二人と連れの執事は盛り上がりを見せる会場を後にし、すぐ目の前の中央広場へと向かう。
 そこには大きな噴水と巨大なイルカ像が鎮座しており、すぐ近くには護衛が立つ小さな入口があった。

「・・・聖王記に記された伝説の通りに目覚めしバンガードは、この表向きの市街地ではなく、その内部こそが伝説の本懐。今宵、その最も素晴らしい眺望へと、卿をご案内しましょう」

 入口を守る護衛がラブの姿を見てゆっくりと扉を開けると、ラブは仰々しい口上を述べながら、バイロンを中へと招いた。

 

 

 ハンス邸での会議から、二週間ほどが経過していた。
 船や荷馬車の往来が殆ど無くなっていることで、以前からすれば不気味なほどに静かな日中が過ぎ、そして太陽が遠く静海の向こうへ、ゆっくり落ちていった後のピドナ市街。
 このような状況の中、それでも日々の労働を終えた市民たちで中央通りは、にわかに賑やかさを増していく。
 特に、中央通りの中でも集客の良い一等地に店舗を構える老舗パブ、ヴィン・サントには、今日も多くの市民が日中の疲れや不安を癒しに立ち寄っては、思い思いに杯を傾けていた。
 ピドナ全体が未曾有の流通危機に晒されていても、人は一時の憩いを求めてしまうものなのだろうか。

「・・・今頃、バンガードじゃ宴会とかしてる頃かなぁ。なーんかさ、こうしてトレードの結果を待つだけってのも、けっこー落ち着かないよね」

 そんな喧騒に紛れて、テーブルの一箇所に集まった、風変わりな四人の面々。
 その中でも一際奇抜な服装で且つ幼い少女・キャンディは、テーブルの上で頬杖をつきながら、言葉の通り落ち着かなげにそう言った。

「・・・まぁな。しかもその大役の実行者が、あのラブ=ドフォーレだってんだからよ・・・。まったくベントの旦那は肝が据わってるっつーかなんつーか・・・」

 キャンディの正面に座るポールはいつものように肩を竦めながらそう応えると、目の前のビアジョッキを手に取って豪快に傾ける。
 その隣で二人の会話に耳を傾けつつ、紫煙を燻らせながらウィスキーの杯を傾けていたノーラは、テーブルの上に視線を向けた。
 目の前の小さなテーブル上に並べられているのは、バンラスの悪そうな木製の皿にこれでもかというほど盛られた蒸かし芋と、塩漬け肉、鱈の塩漬け、そして芋に振りかける用の塩が少量入った、小皿。

「しっかし・・・塩、ねぇ。前に確かキャンディも言っていたけどさ、こいつが本当にそんなに大きな金を動かすものになるんだねぇ・・・」
「ま、塩がなけりゃなんもかんもすぐ腐っちまって、海に長期間出ることなんてできなかったしな。船乗りにとっちゃ、確かに死活問題だな」

 塩漬けの鱈を一切れ摘み上げて口に放り込みながら、ブラックがノーラに続く。
 それにはポールも、うんうんと頷いてみせた。

「あぁ。それこそ俺の生まれのキドラントなんざ、作物は殆ど育たない土地だからな・・・こんな感じに塩漬けした肉と鱈がなきゃ、あそこじゃ冬すら越せない。正に命の源なんだよな、塩ってのは」

 集まった四者は思い思いにそんなことを言いながら、目の前のつまみと杯を交互に口に運ぶ。

 二週間ほど前にハンス邸でトーマスから明かされた、このピドナ未曾有の危機における、起死回生の為の一手。
 それこそが、カタリナカンパニーからフルブライト商会へのトレード攻勢という、正に前代未聞の超難事だった。
 これを実行に移すにあたり、前年のドフォーレとの対決で殆どの自社資金を放出してしまったカタリナカンパニーが持ち出す、この史上最大規模トレードへの、資金源。
 果たしてこれについてトーマスが提示したものこそ、正に今この食卓に並んでいる『塩』であった。
 より正確を記すならば、ドフォーレ商会所有物件の一つで、現在は一連の騒動により閉鎖しているヤーマス塩鉱から取れる岩塩の『優先取引契約権』というものである。
 全世界の食糧保存事情等に欠かすことのできない『塩』を供給するにあたり、その大規模な生産地というものは実際のところ、この世界では非常に数が少ない。
 この三百年の歴史を顧みても、独自に安定した塩の確保調達手段を保持しているのは、世界を見渡してもツヴァイクとナジュ地方くらいのもので、それ以外は海棲魔物の襲撃と隣り合わせとなり危険度が高い沿岸の塩田事業が主である。
 そんな中、死蝕直後の海運事業拡大を発端とした急成長の末にドフォーレが採掘に成功したのが、件のヤーマス塩鉱であった。
 ドフォーレはここで採れた岩塩を精製し、それを麻薬と少しずつ混ぜながら流通させることで人類を蝕んでいくという大悪行のため、利益度外視で世界中に自社製の塩を供給拡大させていった。
 加えて、元より魔物襲撃の危険性を孕んでいた世界各所の沿岸塩田を、ドフォーレは裏で魔物と組んで集中的に襲撃までしていたのだ。
 それを示す証言も、神王教団ピドナ支部の残党から取れている。
 このように塩に関わる価格操作がこの十年内で秘密裏に行われていた実態が複数判明しており、その影響により塩の供給状態や価格は近年で大きく変動していたのであった。
 ここまでが、世間に未だ秘匿されている、一連のドフォーレ買収劇の裏に潜む真相である。
 だが、仮に、だ。
 仮にドフォーレがそんな悪事を考えず、真っ当に適正価格としてこの塩鉱から出る塩を扱っていたとしたら。
 もしそうしていたならば、それこそ冗談ではなく『一国が建つ』程の、途方もない財を生み出したことであろう。
 この世界における塩鉱とはそれほどまでの、正に金脈にも等しい代物であるのだ。
 事実、現在ヤーマス塩鉱からの供給が途絶えているこの数ヶ月で、世界中の塩の価格は既に倍以上に高騰している。
 その状態にあって安定供給が見込める塩鉱となれば、正にどの商会や国も、喉から手が出るほど欲しいことであろう。

「ヤーマス塩鉱は、現在判明している塩鉱規模としては恐らく世界最大級だからな。ドフォーレはそれを別の目的で使っていたが、本来ならばもっと莫大な利益を生み出せる代物だ。本来ならカンパニーの主力産業として慎重に扱うべきだろうが・・・」
「それを、まさか代理戦争の餌に仕立てちゃうとはねー。ほんとおっそろしいよね、トーマスさんは」

 ポールの言葉にキャンディが果汁で薄めた白ワインの杯を傾けつつ返すと、それには一同が何の疑いの余地もない様子で深く頷いた。
 この塩鉱取引権をオーラム代わりにトレードのテーブルに乗せることで、フルブライトへ対抗して見せよう、というのがトーマスの狙いなのである。
 だが、これを効果的に利用するには、カタリナカンパニーとフルブライトという二社の対立だけでは、残念ながら成り立たない。
 もう一つの要素が、必要だ。
 ここでトーマスが打診をしたのは、誰あろう、世界最大国家メッサーナ王国にて実権を握る、ルートヴィッヒ軍団長その人であった。
 この時トーマスは既にルートヴィッヒへ内々で取引を持ちかけており、仮にメッサーナがこれの優先取引契約権を買った場合の仮提示額面として『十億オーラム』を一時的な条件として引き出していたのである。

「しかもこの取引の恐ろしいのは、塩鉱が麻薬工場と一緒くたになって混ぜ物を世界に流出させていたっつー証拠を、俺たちだけが握っている・・・ってところよ。こいつは、ルートヴィッヒ政権にとって最も表に出てほしくない情報だ。その証拠がこっちにある以上、まだまだ提示額は引き上げにいくことが可能だろうよ」

 腕を組み、周囲を気にしてかテーブルに乗り出すようにしてポールが小声で言うと、反対に気にした様子もなくガタンと音を立てて同じく身を乗り出したキャンディが、うんうんとそれに応えた。

「そこだよね! もし取引権を他の誰かが抑えちゃったら、そこらへんが漏れて世界に全バレする危険性があるもん。そしたらドフォーレを止められなかった今のメッサーナ王宮を、いよいよ誰も信用しなくなっちゃう。そうなんない為にどんだけお金積んでも止めにくるってのは、分かりきってるハナシだよね」
「だーばかたれ!声抑えろっつの・・・。だがまぁ、その通りだな。つまり今回のこのトレードは、カタリナカンパニーとフルブライト商会のトレードっつーより、疑似的なメッサーナとフルブライトのトレードだ。まさかドフォーレ退治の土産をここで使うとは、全く旦那には毎度、度肝を抜かれるよ・・・」

 ポールとキャンディが興奮を抑えられずはしゃぐように盛り上がる様子を尻目に、ノーラとブラックはそれぞれに呆れたような苦笑いをしながら酒の入った杯を傾ける。だが、彼らのいうことは確かな事実なのだ。
 つまり今回トーマスが言い出したこのトレード案は決して無謀な挑戦などではなく、しっかりとした根拠やこれまでの下準備を基にした、勝機を見据えた行動ということなのである。
 それ自体には、トーマスの説明を受けた誰もが彼の手腕に驚嘆し、この勝負への確かな希望を見出したのだ。
 しかし。
 それでも今ここに至り未だ腕を組んでどこか憮然とした表情のノーラは、咥え煙草で呟いた。

「しかしさ。そんな奥の手まで使った世紀の一大トレードだよ? それを、よりにもよってあのドフォーレに任せるってのはね・・・。あたしには、やっぱりちょっとその狙いまではわかんないけどね」

 ノーラの疑問は、最もであろう。そして、そこにブラックが口の端から煙を吐き出しながら同調した。

「まぁそいつには同感だな。それこそトレードの実行役は、発案した副社長様やポール、なんならこのキャンディ嬢ちゃんでもいい。もっと人選のしようがあったんじゃねーか?」

 根元近くまで灰になった吸い殻を椅子の下に落として踏みつけると、途切らせる様子もなく続けて新しい煙草に火を点けながらブラックは続けた。

「俺が言うのもなんだがな。悪人てのは・・・どこまで行っても悪人だ。俺は直接ラブ=ドフォーレってやつを見たことはねぇし、洗脳されてただかなんだかも知らねぇけどよ。どうであれ長く裏家業に浸かってきた奴が、そう簡単にお利口な常識ってやつに従うなんざ・・・思わねぇ方がいいぜ?」

 彼のその言葉には、その場の他の誰にも持たせることのできない、ある種の凄みのようなものが宿っている。

「まぁなんつーか・・・毒には毒を、みたいな感覚だとは思うけどな・・・」

 ブラックの言葉に、どこかいつもと違って歯切れの悪い様子で答えたポールは、フォークに刺した塩漬け肉を口の中に放り込み、エールで一気に流し込んだ。

 

 すっかり陽が落ち、いつにも増して辺りを通る人影が殆どない、ピドナの商業区通り。
 賑やかさを保つ中央通りとは対照的に辺りの大半を暗闇が覆う中で、煌々と明かりが灯るハンス邸の奥まった箇所にある一室。ここにも、四人が集まり杯を交わしている。

「・・・確かに、人選がドフォーレというのは、私も些か気になるところではある。フルブライトとの対決の可能性まで見えていたならば、正直あのままキャンディさんがヤーマスからウィルミントンに向かう方が良かったのではないだろうか?」

 ロビンが陶器製の杯を傾けながら、正面で同じく脚付きのグラスでワインを傾けていたトーマスに向かい、真っ直ぐな瞳で問いかける。

「・・・キャンディやポールには此方でやって欲しいことがある、とのことだったが。それにしても他に選択肢がなかったものか、と思ってしまうのは・・・私も同感だな」

 トーマスがその言葉にどう返答しようかと考えを巡らせていると、控えめな様子でシャールもロビンの言葉に同意するように口を開いた。
 ちなみにこの場でシャールが飲んでいるのは、水だ。別に彼は酒が飲めない訳でも弱い訳でもないが、水が飲めるならば水がいい、というタイプの人間である。スラム街では清潔な水自体がなかなか飲めない、というのも理由にはあるかもしれないが。
 そんな二人の様子とトーマスの表情を交互に見ながら、ミューズは暖かい紅茶にブランデーを数滴垂らしたものを静かに口に運んでいる。

「・・・そうですね。今後の流れに関することなので、この面子ならば、他言無用ということでご説明しましょう。ドフォーレに任せた理由は、勿論いくつかあります」

 トーマスはテーブルに並べられたカットチーズを雑に口に放り込みながら、語り始めた。
 まず、キャンディやポールにトレードを任せなかった理由。
 これは、トレードの後に控える行動に関してどうしても彼らが必要である、というのが最大の理由だ。
 このトレードに思惑通り勝利することができたとして、そのあとはリブロフやナジュあたりの地域にアビスリーグの大凡の拠点が絞られる。そこを速やかに叩くには、どうしてもトレードの知識を備えた人員を派遣する必要があるのだ。
 カタリナカンパニーの中で言えば、現状でそれを担えるのはトーマス、キャンディ、ポールの三人くらいのものなのである。
 とはいえ流石にトーマスがここから動くわけにはいかないので、後の二人に手分けしてそれを実行してもらう、というのが彼の頭の中にある絵だ。
 なにしろフルブライトとのトレード終了からアビスリーグ補足までの猶予期間は、非常に僅かな期間であるだろうと、トーマスは踏んでいる。
 今回のトレードに勝利すれば、確かに此度の大勢は決するだろう。
 だが、ここまで事前に何も此方に悟らせずにピドナの孤立まで事を運んでみせた程の用意周到な集団が、そう簡単に尻尾を掴ませるとは、彼には考えられないでいた。
 大勢が決してから、アビスリーグが地下に潜るまでの、僅かな隙。
 ここを突いて彼らを炙り出し、ここで徹底的に叩き、壊滅させる。それが出来なければ、彼らは再び水面下で次なる企みを進める事であろう。
 何より、ここで逃してしまった後で彼らが次に手を打つとしたら、先ずは今回の解決に動いた面々を個々に暗殺等で動く可能性が非常に高くなる。
 それを阻止するには、ここで必ず仕留めなければならないのだ。
 そのためには速度が最重要で、本来ならばもっと人員がいくらでも欲しいほどである。
 ここに、サラがいてくれたなら。何度もそんなことをトーマスは頭の中で考えたものだが、しかし無い物ねだりをしても仕方がない。

「なるほど・・・ここで仕留めるには、そうするしかなかったということか。それは、理解できる。悪は根絶をしない限り、再び悪巧みをするものだからね」

 ロビンは感心したように小さく何度も頷き、腕を組みながら感想を述べる。

「キャンディとポールがそこに必要なのは分かったが、ではこのトレードの実行者にドフォーレを人選した理由はなんなのだろうか。それもやはりトレードの知識云々という点だけで、そこに人格的な選択要素はなかった、ということに・・・?」
「・・・いえ。ご指摘の通り、当然その不安要素はあります」

 続けて述べられたシャールの鋭い指摘に、トーマスは隠す様子もなく少し困ったような顔で笑いながら応えた。

「ラブ氏は、トレードに関する知識や技術的な能力は元より、今回の相手であるフルブライト商会に関する様々な情報やコネクションも備えており、この局面での配役としては最適解であると言えます。いくら此方の資金的な手札が強力であるとはいえ、それを扱う人物が素人では話になりません。此度のトレードに勝算を見出すという点では彼しか選択肢がなかった・・・というのは、正直なところです」

 そこまで言ってワイングラスの中身をトーマスが飲み干すと、すかさずロビンがやたらと手慣れた仕草でボトルからトーマスのグラスへとワインをサーブする。
 トーマスは恐縮しながらそれを見届けて礼を言い、再度グラスを手に取ってから続けた。

「そして、シャールさんやロビンさんが仰る懸念点も、当然理解しています。例えば今の彼に、ある程度の裁量を持たせた場合。その時彼は、一体どう考え、どう行動するだろうか・・・。それが、今回の采配の鍵になります」

 ラブ氏の父であるモンテロ=ドフォーレが魔物に乗っ取られる前の情報は、何もない。
 そうなると彼の人となりというものは、魔物に操られていた以降で判断するしかないのだ。これについてトーマスは、キャンディがヤーマスに滞在している間、定期的に彼の人となりについて、彼女に観察してもらった結果を手紙で受け取っていた。
 それによればラブ=ドフォーレという人物は、実に「みたまんま」である、というのがキャンディの見解であった。
 でっぷりと脂の乗った身体のあちこちに散りばめた悪趣味なほどに輝く装飾品、己の欲望に非常に忠実で終始傲慢な態度、財力や権力を盾にした人の見下し方。
 それらは魔物に操られていた時となんら変わらぬ・・・つまり、紛う事なき彼自身の性分である、と。

「・・・不安しか抱かない情報だな・・・」

 シャールがそう言うと、それにはミューズとロビンも頷いた。
 トーマスが続ける。
 キャンディが観察してきた短い期間の中でも、彼の行動基準というものが、なんとなく見えてきたのだという。
 彼は先に述べた通りの性分ではあるものの、しかし仕事は驚くほどよく行うのだ。
 現地ではキャンディが監査役を兼ねて活動していたが、その下で動くラブという人物は、実に勤勉に働いていたのである。その働きぶりは、全く他の追随を許さぬほど圧倒的なものであった。
 というより、他が働けていなさすぎる、ということにキャンディは早々に気がついた。
 それは個々の能力云々というより、仕事そのものに慣れてすらいない、といった様相なのだ。
 つまりは驚くべきことに、彼以外に商会経営というものについて尺たる知識を持つものは、ドフォーレ商会の中には一人もいなかったのである。
 それらの状況について不思議に思ったキャンディがラブに尋ねたところ、彼は臆面もなく、こう言ってのけたのだという。

『市長も含めて、この町はグズ共の集まりだ。そして俺は、グズ共のやるグズグズした作業を見ているのが一番イラつくんだよ。だから俺がやっているんだ。この町は俺がいなけりゃ、今だに小さな漁村止まりだったろうさ。それこそ、バンガードのマッキントッシュあたりに食い物にされてただろうな』

 これは、彼の行動基準を表す非常に有用な言葉であろうと、トーマスは感じた。
 彼は、間違いなく優秀だ。いくら魔物に操られていたからといって、彼にそもそも能力がなければ、ドフォーレ商会はこの短期間でここまで大きく成長などしなかった。
 だが一方で、彼は指導者としての性格に向くとは言えない。自分の右腕になるような人物を一切用意していないことが、その確固たる証左だ。しかも、彼はそれでよし、とするきらいがある。
 つまり、彼の中には自分の理想とする水準があり、それに到達するための自己努力を惜しまないという性質が垣間見える。
 強い自己顕示欲。それを事実たらしめる実績と行動力。自らに及ばぬものを見下し、歯牙にも掛けない選民思想。それらで形作られているのが、ラブ=ドフォーレという人物だ。

「私がそこから導き出した道筋は、彼が望む水準の舞台を用意すること、です。彼が踊るに値する舞台を用意すれば、彼は演者として必ずそこに立つ。私が彼にそれを示すことができるかどうかが、今回彼を采配する上での鍵というわけです。私の器が知れてしまえば、彼は此方の意図せぬ動きをするでしょう」
「それはなんとも・・・我々には想像すら難しい話だな」

 トーマスの言葉を聞きながら、シャールはすっかり眉を顰めつつ唸った。
 彼の覚えているラブとは、最初で最後、ヤーマスでの一連の騒ぎの最後の瞬間だ。それはそれは大層な情けない姿で、キャンディの前で尻餅をついている小悪党丸出しの男、というだけであった。
 それについてつい口を滑らせると、ミューズは酒が効いてきたのか少し上機嫌な様子で相槌を打った。

「だからこそ、トーマス様の狙いに沿うのかもしれませんよ、シャール。物事が自分の想定の上をいく場合には、人としての弱さをちゃんと露呈する。それは、統べる上で活用すべき、有用な特徴です」

 流石は超名門の家系といったところか。帝王学を納めたミューズのその指摘は、非常に説得力があるものであった。
 シャールは、それにこくりと頷く。

「なるほど、確かにミューズ様の仰る通りかもしれません。しかしいずれにせよ・・・私たちに今できるのは、待つことだけですね」

 

 

「強い自己顕示欲。それに見合う実力。そして、それを裏付ける実力主義と排他思想。しかし・・・君にとってはそのどれもが、真実の姿ではない。この席で改めて、そう感じ入るよ」

 地上の宴とは打って変わり、静寂に満たされた、海の中。
 その中にあって、うっすらと青白い光に満たされ、分厚い硝子の壁の向こうから仄暗い海の中を泳ぐ魚たちが、しきりに中の様子を伺うように周辺を遊泳している。
 移動要塞バンガードの海中艦橋に特別に用意された、この世でただ一箇所と言っていいであろう景色を堪能できる、至高の宴席。
 その席について実に満足そうな表情を浮かべたバイロンは、テーブルの向かいに座るラブに向かい、なんでもない様子でそう言った。
 バイロンの言葉を受け、ラブは咥えた葉巻から鼻腔を通じて大量の煙を吐き出し、実に鋭い視線を相手に向けながら口の端を吊り上げる。

「・・・バイロン卿。お察しの通り私はね、こんな下らんトレードなぞに興味はないのです。カタリナカンパニーはヤーマス塩鉱を餌にメッサーナの近衛軍団から資金を巻き上げるつもりだが、それで結果フルブライトに勝ったとしても、私にはなんの関係もない」
「心中、お察ししましょう。此の期に及んで今更メッサーナの犬というのは、些かドフォーレのご子息には不釣り合いだとは感じていたところです。そのお姿には亡き父上もさぞ、お嘆きでしょう」

 バイロンが眉ひとつ動かさずにラブを見返しながらそう言ってのけると、ラブは今度は上機嫌そうに笑い、そして葉巻を蒸した。

「はっはっはっは。流石はバイロン卿、矢張りフルブライトで話すならば貴方様ですな。それでは・・・そろそろ本題に入りましょうか」

 そう言ってラブが左手を軽く上げると、側に控えていた執事が一礼をしながらその場を立ち去っていく。それを見たバイロンもまた、側に控えさせていた執事を艦橋の外へと下がらせた。
 それを横目に見届けたラブは、テーブルの上に両腕を乗り出すように乗せて両の指を組み合わせ、微動だにせぬバイロンへと向かって語りかけた。

「貴方がフルブライトを手中にし、私は再びヤーマスをこの手にする。私は今宵の宴を、そのための門出の宴にしたいと考えているのです」

 ラブが、まるで確認でもするかのように静かにそう語りかける。
 すると、よく動いていた表情筋と違って一度も感情らしきものを示していなかったバイロンの瞳が、ここで微かに色めきたった。

「・・・私がフルブライトを手中に・・・とは、また酔狂なことを。既にフルブライト二十三世様が、社を率いておられますよ」
「バイロン卿。ここでそんな寝言はもう、無しにしましょうよ」

 テーブルに乗せた両肘を支点にしながらさらに身を乗り出すようにしながら、ラブはバイロンの瞳を覗き込む。

「カタリナカンパニーの連中は、大きな勘違いをしている。そもそも、アビスリーグと我々ドフォーレが・・・繋がっていないわけがない」

 ラブのその言葉に、バイロンの瞳は殊更に大きく揺らいでみせた。

「屈辱でしたよ・・・奴らの元で、一時とはいえ道化を演じるのはね。だが、その甲斐あって私はこうしてここに来た。今日この場を皮切りに、愚かな我が父では成し得なかった、完全なる経済の混沌と支配・・・それを私は、この手で成し遂げる」

 バイロンの瞳を射るように見ながら一気にそう捲し立てたラブは、そこで一息つくように身体を椅子の背に預けるように引き下げた。
 そしてうっすらと青い光が差し込んで怪しく赤紫に変色して見えるワイングラスを掲げ、一気に飲み干す。
 その様子を無言で見つめていたバイロンは、うっすらと目を細めるばかりだ。その視線は、いかにもラブを値踏みしている様子である。

「・・・アビスリーグ参画者は、その大いなる意志によって動いており、相互になんら連絡をとっているわけでもない。ただ、目的が同じだからこそ、行き着く先も必ず同じ。だからこそ私には分かるんですよ、バイロン卿」

 火の消えていた葉巻を再び蒸すように数度火元で空気を通し、そしてゆっくりとその煙を鼻腔に通した後、ラブはぐにゃりと悪虐しく口を歪ませた。

「いや・・・我らがアビスリーグ同志、バイロン殿。そうお呼びするべきですかな」

 ラブの言葉に呼応し、バイロンは僅かに口を歪ませ、その瞳を一層怪しく光らせた。

 

 

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