第九章・6 -全てを見通す男-

 

 ドンッ!!

 木製の扉を打ち破る勢いで蹴り開け、鼻息荒くバンガード商業ギルド会館の一室へと乱暴に踏み込んできたのは、誰あろうバイロン卿その人だった。
 とはいえ余りにその有様が先日までの彼とかけ離れていることから、その場にいた誰しもが一瞬、彼がバイロンであるということに気付けなかったほどである。
 顔こそ同じで、着ている衣服も確かにウィルミントン製のハイブランドスーツなのだが、しかしいつもの紳士然とした姿勢や振る舞いは、完全にどこかへと消え失せてしまっていた。
 余程急いでここにきたのか、帽子も被らず頭髪は乱れ、興奮からか目は醜く充血し、呼吸も荒い。
 そして手にした杖をまるで棍棒代わりのように握りしめながら、獣じみた前傾姿勢で周囲を威嚇しているのだ。
 その様相はまるで、癇癪を起こして暴れ回らんとする悪徳商人もかくや、というような有様であった。
 その姿を見て、場違いにも思わず失笑してしまったのは、かつての自分の姿をそこに垣間見てしまったからか。
 内心でそう自嘲しながら、ラブ=ドフォーレは至極落ち着いた様子で深くソファに腰掛けたまま、戯けるように大仰に両手を広げて驚いてみせた。

「これはこれは、バイロン卿。随分と遅いご到着でしたな。よもや来られないのではないかと、少々心配してしまいましたよ」
「!!!?・・・貴様、貴様が仕組んだのか!!??」

 ラブの様子を見たバイロンは烈火の如くに怒りの表情へ変わり、手にした杖を振り上げながらラブへと迫る。
 しかしラブの背後に控えていた屈強なボディガードに遮られ、更には慌てたバンガード商業ギルドの職員にも背後から身を押さえられたことで、それ以上ラブに接近することは出来なかった。
 だが彼の怒りは、そんなことで欠片も収まることはない。
 バイロンはギルド職員に羽交い締めにされたまま、半ば叫ぶように口汚くラブを問いただした。

「貴様が!!貴様のような品性の欠片もない豚如きが、この私とフルブライトを嵌めたのか!!??」
「おやおや・・・嵌めたとはまた、とんだ濡れ衣ですな。私が聞き及んでいる限り、今回の事はあくまで御社内での揉め事だと理解しておりますが、ねぇ?」
「き・・・貴様ぁぁぁああああ!!!!!!!」

 ラブの言葉にバイロンは絶叫し、その後は歯が砕けそうなほどに強く口内を噛み締め、力任せに杖を床に叩きつける。
 その様子が大層面白かったのか、自らの性根の悪さを自覚しているラブはニヤリと下卑た笑みを浮かべながら、膝に手をついてゆっくりと立ち上がった。

「私はね、こう聞きましたよ、バイロン卿。何でも・・・どうしたことか今回のトレード終結後、普通なら即座に商業ギルドを通じて動くはずのオーラムが微動だにしない。何故かと言えば、今回のトレード決着と同時にウィルミントン本店以外のほぼ全ての支店で、傘下企業が商会からの離脱を表明してしまったからだ、と。それ故、本店口座の残高だけではトレードで提示したオーラムが用意できなかったから、だそうですねぇ?」
「これは!! これは全く悪質で卑劣な!!! 神聖なる商いの道理を無視した物件独立工作だッ!!! このようなことは断じてッ!! 断じて認められるようなものではないッッ!!!!!!」

 これまた叫ぶようにバイロンが喚き散らすと、対するラブは実に愉快そうに瞳を歪ませながら、さも同情するかのような声色でバイロンへと語りかける。

「えぇえぇ、そうでしょうとも。これはとても悪質な独立工作でしょう。ただし・・・それをトレード相手ではなく身内が起こしたとなると・・・ふふふ、これには全く同情の余地がありませんがなぁ・・・!」

 ついには抑えきれずに、声を上げて笑い出したラブ。それをバイロンは脳が茹で上がりそうなほどに顔全体を熱で赤らめながら、憤怒の表情で睨みつけた。
 全ては、ラブの言う通りであった。
 トレード終結宣言によってバイロンが勝利を確信したその時、既にフルブライト商会の内部では、全てが覆っていた。
 商業ギルドによる正式なトレード終結の報が各国へ発せられる同時に、今回は未曾有の巨額トレードであることから各国に散らばるフルブライト商会傘下の企業に対し、各国商業ギルド支部口座を通じてトレード資金の拠出要請及び集金が行われる算段であった。
 しかしあろうことか、この資金集約要請を商会全体の六割もの傘下企業が全面拒否したのである。
 つまり、物件独立をされたのだ。
 これによりトレードで提示したオーラムの拠出が不可能になったフルブライト商会の醜態は世界中に瞬く間に伝播し、トレード結果以上に各国権力者の耳目を強く引きつけた。

「しかもどうやら独立した企業群、御社の会長が立ち上げた『フルブライト二十三世商会』という名の企業に参画していらっしゃるとか。加えてその企業、なにやら各地の御社残留企業やリブロフ、ナジュ周辺の特定企業に対して既にトレードを仕掛けているそうですなぁ。これでは、ご自慢のリーグからも資金は出せませんな・・・?」

 そういってまたしても笑い出すラブに対し、バイロンは今度こそ言葉にならない叫びを上げながら殴り掛からんとする。
 しかし呆気なくボディガードに弾かれて尻餅をついたバイロンは、血管をはち切れんばかりに顔中に浮かび上がらせながら、ゆっくりと立ち上がった。
 その瞳には、怒りを通り越した狂気が宿っている。
 思わず、その瞳を見たラブは真顔に戻って口を噤んでしまった。

「お前達のような屑に・・・私の・・・私の崇高な目的など、永遠に理解出来まい。もはやこれで、人類の間違いを正すことは不可能になった。人類は、遠からず自らの愚かさによって滅ぶことになる・・・!」

 力なく横に首を振ってそう言い捨てながら、バイロンは懐から細く小さな笛を取り出した。
 場にそぐわない妙な行動に誰もが首を傾げる中、何故かラブだけはバイロンのその動作に、只ならぬ狂気を感じ取った。

「おい、それを止めさせろ!」

 慌ててラブが言葉を発するが、それを聞いたボディガードの反応は遅い。ボディガードが動き出す前に、バイロンはその笛を力一杯に吹き鳴らした。
 その笛の音は、その場にいる者にはほとんど聞こえない。
 冷や汗をかくラブと、それ以外の面々が変わらず怪訝な顔をしていると、それをみて気が狂れたように笑い出したバイロンは、杖を振り翳しながら叫んだ。

「今のはなぁ、外に控えさせているデーモン種族を呼び起こす笛だ・・・愚かな人間たちには聞こえない。お前達は、全員ここで死ね。私は貴様らの死を見届けてからアビスへと降り、人類が滅ぶ様をも虚しく見届けてやろう・・・!」

 その言葉と同時に、建物の外から俄かに人の叫び声が聞こえてくる。

「ふ、ふははははははは!!私の救済を台無しにした人類に、裁きを・・・!!」

 翳した杖の先端をラブへと向けて、高笑いしながら叫ぶバイロン。
 後退りをしながら逃走の手段を即座に模索するラブ。
 何が起きたのかも分からず慌てるばかりのその他の面々。
 だが、どうしたことだろうか。
 バイロンの宣言に反して、外からは最初に叫び声が一度聞こえたきり、そのあとは荘厳なる破壊のコンチェルトも、愚かなる人類の成す悲痛なアンサンブルも、全く聞こえてこない。
 部屋の外からは何やら微かな騒めきだけが、控えめに届いてくるのみであった。

「・・・・・・ぁぁ?」

 求めてやまない悲鳴と惨劇が一向に訪れないことに対し、なんとも気の抜けた声を上げながらバイロンは周囲を見渡す。
 するとそんな彼に応えるかのように、開け放たれたままの扉から何かが、徐に部屋に飛び込んできた。
 その場の視線の全てが、一斉にそれに注がれる。
 飛び込んできたものは、無惨に切り落とされた大型デーモン種族の、未だ血の滴る頭部だった。

「ひ、ひぃぃ!!?」

 最も扉の間近にいたバイロンが、悍ましい表情で絶命しているデーモン種の頭に驚いて再び尻餅をつく。
 するとその後に、扉から部屋の中へと何者かが足を踏み入れてきた。
 その手には先に投げ込まれたものと同じく、恐らくは一瞬のうちに命を奪われ驚愕の表情を残すしかなかったであろう、二体目のデーモン種の頭部。
 それを手に現れた人物は、色素の薄い肌の色をした細身の女だった。
 女は身につけている衣服こそバンガード市民と殆ど変わらぬのだが、彼女の足元を覆うグリーブから発せられる微風に揺れる美しい銀髪が、明らかにこの地方の民ではないということを示している。
 その佇まいには一分の隙もなく、身体は細身なれど強靭にしてしなやか。武具を手に構えてはいないが、腰には小型の剣帯を下げており、見目美しい装飾の小型剣が納まっている。
 デーモン種の亡骸を持ってそこに現れたのは、グゥエインとの戦闘で破損した装備の代わりに街で買った適当な服を身に纏った、カタリナだった。

「・・・全く、街中でなんてもの呼び出してんのよ」

 呆れたようにそう言ったカタリナは、手にしていたもう一つのデーモン種の頭部も床に放り投げ、それらの召喚者であるバイロンへ冷めた視線を向けた。

「貴方が、バイロン卿ね。私の名は、カタリナ=ラウラン。ロアーヌの騎士よ。縁あってバンガードキャプテン直々の依頼を受け、貴方をアビスリーグなる犯罪集団と結託した罪により、この場にて捕縛します」
「・・・え・・・?」

 カタリナがそう言い終わると、彼女の後ろから出てきた二人の衛兵がバイロンを取り押さえ、その手首に縄をかける。
 だが、そうされている間もバイロンは全くこの事態が飲み込めていない様子で、突如現れたカタリナを呆けたように見つめていた。
 バイロンが従えていた従者は、デーモン種族が擬態していたものだ。その数は二体。人間には戦鬼と呼ばれ恐れられる、殆ど伝説上の存在とも言えるほどの凶悪な悪魔である。
 この戦鬼が二体もいれば、このバンガードやウィルミントンなどの都市をすら壊滅させることは難しくない。一介の都市国家が持つような数百人規模の衛兵隊など、問題なく薙ぎ払える程の力を有した存在なのである。
 これほどの強力な悪魔を従えるものは、アビスリーグに与する者の中でもバイロンをおいて他にはいないだろう。
 それが、目の前に突然現れたロアーヌ騎士を名乗る一人の女に、あっさり斬られたというではないか。
 目の前に転がる首がそれを事実たらしめているが、しかしそんなことを普通の人間が出来るはずなどないということも、バイロンは知っている。
 そこで、漸くバイロンは思い出した。

「ロアーヌ騎士・・・そうか貴様が・・・火術要塞を制圧し、魔海侯フォルネウスと魔龍公ビューネイを退けたという・・・」
「さぁ、どうかしら・・・。衛兵さん、あとは任せるわ」

 そう言いながら衛兵に目配せすると、衛兵は捕縛したバイロンを連れ、足早にその場を後にした。

「ふぅー・・・流石に、肝が冷えたな・・・」

 一連の様子を黙って見届けていたラブは、額の冷や汗を袖で拭いながら深く息をはいた。

「流石、というべきかしら。貴方はこの展開、分かっていたみたいね?」
「・・・まぁな。何しろ一歩間違えていれば、あそこに居たのは俺だったわけだからな」

 カタリナが懐から取り出した手拭いでデーモン種を掴んでいた手を拭きながら話しかけると、ラブはこれまた自嘲気味に笑みを浮かべながらそう応えつつ、すっかり気が抜けたようにどかりとソファに座り直した。

「・・・いや、俺もそこまで馬鹿じゃねぇ。間違えることは、もうない。商いにしろ修羅場にしろ、お前らに刃向かおうなんて気は、もう微塵も起きねぇよ」
「あら、随分と殊勝なことね」
「ふん・・・」

 これ以上お前とお喋りをつもりはない。そう態度で表しながらラブがそっぽを向くと、カタリナは軽く肩を竦めた後、特に何を話すでもなくその場を後にする。
 あとに残されたのは、終始何が起こったのか分からずに怯えていた可哀想な商業ギルド職員と、変わらずラブの後ろに控えるボディーガードたちだけだ。

(・・・刃向かう、か。自分で言っといて馬鹿らしい・・・。忌々しいことこの上ないが・・・俺には、あいつらに刃向って自分のタマがある未来が全く見えねぇ。俺にはアビスの連中なんぞよりも彼奴らの方が、余程恐ろしいものに見えるぜ・・・)

 無意識にラブは、自分の上着の内側に入れている数枚の書簡へと手を伸ばしていた。
 その書簡は、このトレードについてラブへの指示が認められた、ピドナ本社からの指示書であった。
 当然その指示書を書いたのは、副社長であるトーマスである。

(幾重にも張られた伏線と仕掛け。結果がどんなパターンであっても、それら幾重にも張られた糸に操られ、帰結する結果は大枠では同じだ・・・。そして最も恐ろしいのは、その結果へと辿り着くためとなったならば、何ら躊躇なく昨日までの成功を全て切り捨てる決断力・・・。無論、俺が離反をした場合のシナリオもあの男の頭にはあったことだろう・・・。その時、俺は間違いなくあのバイロンと同じ道か、それを上回る悪夢の中に・・・)

 それは想像するだけで、とても恐ろしいことだ。
 ラブはその恐ろしい想像を否定するように小さく首を振り、目を瞑って深呼吸をする。
 ラブがこの場に至るまでに行った具体的な行動は、概ねラブ自身の独断によるものが多かった。
 というのも、どちらかといえばトーマスから送られてきた指示書は、具体的な行動にはあまり触れられていなかったからなのだ。
 こうするように仕向けて欲しい、するとこうなると思うので、次にはああなるように流れを作って欲しい。なお、その手段は基本的に任せる。
 そういった「方向性の指示」が主であったのである。
 しかし、その方向性のチャートが恐ろしいほどに細かい。
 膨大な事前調査データと、それを元にした方向性提示への反応予測。資金の流れや情報の伝達速度を見切った変動予測と、此方からのアクションのタイミング指示。それらを元にした様々な市場関心変化の可能性と、このトレードを取り巻く市場と世論全体をも見据えた展開予測。
 実のところ、それらが記された何通かの指示書を見る間にラブは、トーマスに逆らおうという気など完全に消え失せてしまっていた。

(見ている世界そのものが、完全に俺の理解を超えている。これは・・・ここに書いてあるのは最早、予言みたいなもんだ。一体どこまで視えたなら、この膨大な可能性を掌握してここまでの道筋を描くことが出来るってんだ・・・?)

 彼が今日ここで命拾いをしたのも、何しろトーマスの采配があってのことだった。
 そこに至った手段は、全く分からない。
 全く分からないが、トーマスはウィルミントンで起こったというフルブライト商会本館襲撃事件を殆ど発生と同時に知り得ていて、そこで起こったフルブライト二十三世による新生フルブライト商会設立すらをも読んでおり、このトレードの決着が調印後に覆ることを、一か月前のピドナから「視て」いた。
 早馬で自分が一連の流れを知り得た頃には、状況を既にトーマスから聞いているというロアーヌ騎士を名乗る女が彼の前に現れ、これから起こるかもしれない有事に備えての護衛を担うなどと言われたのである。
 聞けばこの女の名前は、カタリナというではないか。
 カタリナといえば、このカタリナカンパニーの社長の名だ。確かに、その女の顔は以前にメッサーナジャーナルで見た覚えがあった。
 社長を配下の護衛に起用するなんて馬鹿げた采配もそうだが、なにしろここまでの全てを、流通が途絶し陸の孤島と化したピドナから指示しているなど、今この段階になっても全く信じることが出来ない。
 今この場で後を振り返ったら、実は部屋の隅にトーマスが隠れてました、とでもいう方が、余程得心がいくというものだ。

「・・・・・・」

 一応、後ろを振り返ってみる。
 しかし、そこには誰もいる様子はない。

「・・・おい」

 視線を前に戻して気を取り直したラブは、未だ呆けているギルド職員へと声をかけた。

「は、はい?」
「トレード相手が指定金額を振り込まなかった場合はどうなるんだ」
「あ・・・はい、えっと・・・。・・・ルールブックのトレード決着について書かれた第十七条二項で、何らかの事情によりトレード決着金の納付を行えない状況が確定した場合は、これを白紙撤回の上、商会ギルド調査の上で・・・」

 職員が手元にルールブックを取り出して中身を確認しながら読み出すと、その途中でラブは煩わしそうに手を振った。

「後のことは、今はどうでもいい。つまり今回のトレードは、ノーゲームでいいんだな?」
「は・・・はい、そうなります。カタリナカンパニー様は不履行を受けた側になりますので、後日当ギルドを通じて先方からの違約金を受け取る権利が・・・」

 しかしラブは職員の言葉を最後まで聞く気もなく、さっさと立ち上がると扉へ向けて歩き出した。

「後のことは、ピドナ本社とやりとりしてくれ。どうせ流通断絶すらも、間も無く終わりに向かうんだろうからな。俺はもう、お役御免だ」

 ラブは不機嫌そうにそう言いながら立ち止まって、懐からシガーを取り出す。すかさずボディーガードがシガーの端をカットし、もう一人が朱鳥術を組み込ませた魔術具で火を起こした。
 シガーを火に当て、何度か吸って煙が立つと、ラブは勢いよく煙を口内に含み、鼻から吐き出す。

(・・・俺だって、このまま終わる訳にはいかねぇ。トーマスどころか、あのキャンディの小娘にまで舐められたままじゃ、絶対に終われねぇ。とっととヤーマスに戻って、仕事に取り掛からなきゃな・・・。裏稼業になくとも、このドフォーレこそが最も優れた商会だってことを証明してやる・・・そして売上でアイツらの鼻っ柱をへし折ってやるさ・・・)

 既に、新たなビジネスプランはある。そこでの早期垂直立ち上げを脳裏にありありと描きながら、ラブは葉巻を咥えながら足早にバンガードの商業ギルド会館を後にした。

 

 

「ゲヒ・・・ギャヒ・・・ッ!!」

 鈍色の一閃が、寸分違わず人型に擬態した悪魔の頭蓋を貫く。
 小さく断末魔の悲鳴をあげた悪魔は、シャールが放った槍の一撃で呆気なく絶命した。
 その間に同じくミューズとトーマスが、それぞれ術と槍で周囲にいた小型の魔精を屠る。

「・・・よし、討ち漏らしはなさそうだ」

 シャールが周囲を警戒しながらも魔物の気配を感じないことを伝えると、トーマスも同じく周囲にそれらしい気配がないことを確認して折りたたみ式の槍を畳んだ。

 彼らが踏み込んだのは、ピドナ旧市街の片隅にある、ほとんど倒壊間近のような有様の簡素な荒屋だった。その荒屋の外には、申し訳程度に誂えられた木製の看板に「魔王殿観光組合事務所」と書かれている。

「蓋を開けてみればありきたり・・・とも感じますが。しかし企業としての活動実態があまりに無さすぎて、盲点でしたね。灯台下暗し、の助言がなければ、発見が致命的に遅れていたかも知れません」

 そう呟きながらトーマスは、魔物の血飛沫で汚れた卓上の書面を手に取った。そこには、全く利益が出ていない様子の見窄らしい数字が並んだ、空白の目立つ決算表が記してある。

「企業としてのオーラムの動きを見る限りでは、ナジュ地方あたりに本部を置いているものと想定されていましたが・・・リーグの指示役は、ここだったのですね」

 トーマスに倣ってミューズも近くの棚の中身を検分しながら、誰に当てるでもなく呟いた。

「魔物が商売に携わっているどころか、世界規模の同盟まで結成しているとは・・・。この事例以後も、再発を防ぐべく警戒せねばならんな」

 シャールは二人に物品の探索を任せて荒屋の中を警戒するようにしながら、奥の部屋へと慎重に歩を進める。

「・・・トーマス殿、ミューズ様、こちらへ」

 そして奥の部屋に進んだシャールから声をかけられ、二人は一瞬顔を見合わせてからシャールの元へと向かう。
 ちょうど荒屋の奥まった部屋の入り口に立っていたシャールは、近づいてきた二人の気配を察すると体ごと避けるようにして、自らの目線の先にあったものを二人にも見せた。
 元は物置の用途かと思われる狭いその小部屋は、殆どものが置かれておらず、ただ部屋の中央には青白く鳴動する紋様が描かれた不気味な円形の物体が、悍ましい瘴気を微かに漂わせながら鎮座していた。

「これは一体、なんなのでしょう・・・」

 明らかに異様な空気を察してか、ミューズはシャールの後ろに控えたままでそう呟く。
 その判断は賢明だと思いながら、しかしトーマスは歩を進めてシャールよりも先、鳴動する円形の物体に近づいた。

「トーマス殿、あまり近づいては」
「いえ・・・大丈夫です。これは恐らく、魔王殿の深部へと移動するための魔導器です」

 トーマス自身の身に覚えがあるわけではないが、彼にはこれが何なのか、なんとなく分かっていた。自分の中にいつの間にか紛れ込んでいる何者かの記憶が、この台座型の魔導器の正体を教えてくれるのだ。
 だが、辛うじて分かるのは移動用魔導器、という部分までだった。
 これが魔王殿のどこに繋がっていて、それは往復可能なものなのか、片道なのか。人が利用しても大丈夫なものなのか、そうではないのか。
 それら詳細に関するような情報は、掠れた記憶からは判別することは不可能だった。

「・・・これは、ここで壊しましょう。新たに魔物がここから現れても厄介です」

 そう言いながらトーマスが再び槍を取り出そうとすると、それを左手で制したシャールは銀の手に構えた槍を狭い通路で器用に振り上げ、上半身のバネを使って紋章の台座に鋭く突き立てた。
 ガシャリ…と慣れない類の手応えがあり、その後すぐに台座から鳴動は失われ、魔導器はどうやらその機能を永遠に失ったようだ。

「・・・これで、終わったのか?」

 破壊した台座から槍を引き抜きつつ、シャールはどうにも釈然としない様子で、小さくそう呟いた。

「そうですね、これでアビスリーグについては、一先ず元凶を絶ったかと思います。残党と思しき企業もリブロフとナジュに絞られましたので、あとはキャンディとポールが仕留めるでしょう」

 だが、しかし。
 そんな言葉を口にする寸前で飲み込むように少し俯き、トーマスは物言わぬ台座へと視線を落とした。

(・・・このアビスリーグは、魔物が人間に対して、同じ文化レベルでの謀略が可能であるということの証明に他ならない。いや・・・これほどの大規模な行動に移すまでフルブライト二十三世様しか気が付けなかった時点で、もはや人を超える策謀を巡らせることが出来るようになっていると言っていい。そして、恐らくこれを仕掛けたのは・・・)

 ふっと顔を上げたトーマスは、まるで壁の向こうを見るように視線を中空に投げる。
 この粗末な荒屋の先には、スラム化した旧市街の住人ですら好んで立ち入りはしない。なぜならその先には、未だ立ち消えぬ瘴気を漂わせた暗黒時代の遺物、魔王殿が佇んでいるからだ。
 今にも崩れ落ちそうな壁の向こうにあるであろう魔王殿へ視線を向けながら、トーマスは己の中にある妙な確信について、密かに戦慄を覚えていた。

(仕掛けたのは恐らく・・・四魔貴族、魔戦士公アラケスで間違いない。俺の記憶に紛れ込んだ何者かの記憶が、そう告げている・・・)

 現代に生きる人類が知ることのできる四魔貴族に纏わる逸話は、主には聖王記の中に記された聖王による討伐譚と、その前時代について書かれた魔王伝記なる章などに、簡潔な記載があるのみだ。
 そこに記されるアラケスの討伐譚では、聖王三傑たるパウルスの手引きにより魔王殿へと進軍した聖王によって討ち取られた、としか描かれていない。
 また魔戦士公という爵位名からか、後世に生まれた様々な創作物でも、非常に好戦的な存在として描かる事が多いのがアラケス公の常だ。
 しかし、実際の魔戦士公は、そんな単純な存在ではない。

(・・・むしろ他の魔貴族のように天空、海中、密林などの進軍不可能な立地ではなく、唯一進軍が安易な魔王殿に居を構えながら、聖王を最後まで苦しめた存在だ・・・。その事実が指し示すところはつまり、武は元より、そこに知略をも兼ね備えた恐ろしい将であるということ・・・)

 経済界において特段に大きな事変となった、ドフォーレ商会の台頭やアビスリーグの暗躍。これらがそもそも魔戦士公の仕掛けた罠の一つであろうと、今になってトーマスは確信していた。
 奇しくも、聖王記の順をなぞるかのようにして四魔貴族をアビスへと追い返すことに成功しているカタリナらであるが、どうにもトーマスには、この最後の四魔貴族が圧倒的に不気味な存在に思えてならなかった。

(正直、他の魔貴族とは相対する上で難易度が桁違いにも感じる・・・。魔物に加え人をすら動かしてマネーゲームを展開するほど人界に精通し、更にはアビスの魔物を自在に動かすことのできる圧倒的な暴力を兼ね備えた存在・・・。いくらカタリナ様といえど、力一本で押し通せる存在であるとはどうしても思えない・・・)

「・・・トーマス様?」

 壁を見つめたまますっかり押し黙ってしまったトーマスを心配するように、ミューズが傍からトーマスを覗き込む。

「あぁ・・・失礼、なんでもありません。目ぼしい書面を回収して引き上げましょう。この後も、やることは山積みです」

 ミューズの声で物思いから現実に引き戻されたトーマスは気を取り直し、その場から踵を返して書類の散乱した部屋へと戻っていった。

 

 

 終わってみれば、それはまるでお祭り騒ぎのような出来事であった。
 ドフォーレ商会の時を遥かに上回る規模の経済戦争の裏で、一時はメッサーナ王国の存亡すらが揺れ動いていたというのに。
 それがいざ終わってみたら、まるで一夜の熱狂がすっかり醒めてしまったかのように、各方面では静かに粛々と後片付けが行われているのだ。
 正しくそれは非日常の熱に浮かされたお祭り騒ぎそのもので、今はその翌朝に訪れる一抹の虚しさそのもののように、トーマスには感じられた。

(・・・今回は辛うじて切り抜けたか・・・)

 連日の後処理に奔走する中、どうにも眠りが浅く目覚めてしまったトーマスは、一人早朝のピドナ市街地を港の方へ向けて歩きながら物思いに耽る。
 既にアビスリーグを中心とした騒動の終焉から、あっという間に一ヶ月が経とうとしていた。
 その間にカタリナカンパニーの支援を受けて再建の道を歩み出したアルフォンソ海運とメッサーナキャラバンは、取り急ぎ同業他社から船舶や馬車の買い付けを行い、あっという間にピドナの流通は回復。既にピドナ港は、以前と変わりの無い様相を取り戻し始めている。
 メッサーナ王宮からの緊急出庫の継続もあり、銀行機能も危機を脱出。ピドナ内部での経済混乱自体も収束へと向かっている。
 それに伴い各国の動向もピドナ流通断絶以前の状態に表向きは戻り、世界は本当に、まるで何事もなかったかのように振る舞っているのである。
 アビスの魔物が裏で糸を引いていることにすら気が付かず、秘密裏にアビスリーグと取引を行っていた形跡がある各国の要人たち。彼らを今回どうにかすることは、出来ないだろう。
 彼らのように権力ばかり持つ短慮な存在は確かに今後も世界に対するリスクではあるが、恐らくそれは今後ルートヴィッヒ軍団長らが対処をしていく事柄であり、自分たちがこれ以上の関わりを持つことは現時点ではないだろうとトーマスは考えていた。

(・・・ナジュとリブロフ方面でも、アビスリーグの要所を落とす目的でポールとキャンディが上手くトレードを仕切ってくれた。結果として当社の利益は今期も伸長したしな・・・)

 ここは結局相手も本丸でなかったためか想定以上に順調に進み、現地のアビスリーグを根絶すると同時にリブロフ、ナジュ方面にカンパニーの基盤を作ることに成功した。
 これでカタリナカンパニーは、現在描かれている地図上の全地域へと商圏を広げたことになる。これは経済界でも、フルブライト商会に次いで歴史上二社目となる偉業だ。

(そしてそのフルブライト商会は、フルブライト二十三世様を真なる盟主とした新生フルブライト商会へと生まれ変わり、まるで何事もなかったかのように世界一を維持している)

 かねてよりフルブライト二十三世は、父である二十二世からの完全な脱却と実権継承を目論んでいた。それは、出会った頃より分かっていたことだ。
 そのために彼は表向きの無気力を演じ、放蕩外遊と称して世界各地を精力的に回り、水面下で強かに準備を進めていたのである。
 彼の中ではもっと完璧に準備が終わってから事を起こしたかったという展望はあったのだろうが、それを押してこのタイミングで奮起を選択してくれたことは、今回の事態収拾に向けて大いに助かったというもの。
 彼の英断を、心から称えたい。

(準備不足など微塵も感じさせないほど、鮮やかな旧母体の取り込みだった。既に新会社の登記社名もフルブライト商会に戻してしまったというのだから、世間的にはフルブライト商会の中で何が起こったのかさえ、全く分かっていない者が殆どだろうな・・・。そしてバイロンという右腕を失った二十二世様には残念ながら、再起の道はないだろう。勘付いた者がいても、これではもう何ができるわけでもないのは確実だ・・・)

 当然フルブライト二十三世とて、あの極限状況を利用するつもりで勝負に出たのだろう。
 確かにあそこでバイロンごと仕留めるのは、彼の覇道を成すためには良い機会であった。此方が助かったと同時に、彼方も助かったというわけだ。
 正しく、有意義なトレードが出来たと言えるだろう。

「・・・本当に元通りだな」

 気がつけば、港に辿り着いていた。
 既に船舶周辺では人々が忙しなく荷下ろしと搬入に追われており、一ヶ月前の閑散とした港など本当になかったかのようだ。
 トーマスはその様子をみて思わず呟き、次には人混みを避けるようにして大型港湾地区とは反対の小型船用港へと歩み出し、そこで丁度良さそうな小さな埠頭を見かけると、その桟橋の先端まで行ってから徐に、その場に腰を下ろした。

「・・・・・・」

 なに故かトーマスの中には、上手く表現のできない不安が渦巻いていた。
 それは、旧市街であの転送用魔導器を見た時から一ヶ月の間、ずっと彼の中に渦巻いているのだ。

「・・・何かお悩みですか?」

 誰もいない事を確認してから腰掛けたはずの埠頭桟橋であったが、トーマスの背後から、不意にそんな声がかかった。

「・・・何だか貴方が来るのではないかと、少し期待していましたよ」

 トーマスはその声に振り向かず、しかし誰なのか分かっているように答える。

「ふふ・・・お見通しでしたか。カタリナさんは毎回、とても驚いてくれるのですがね」

 そう言いながら桟橋の先端に座るトーマスの横まで歩み寄ってきたのは、朝の閑散とした港にはとても不釣り合いな鮮やかな衣装を見に纏った人物。
 聖王記詠みを自称する詩人だった。

「今回の件、貴方の言葉には大いに助けていただきました。ありがとうございます」
「いえいえ、私は特にはなにも。事態を解決へと導いたのは、間違いなく貴方の手腕によるところでしょう」
「私の手腕・・・ですか」

 詩人の言葉に、トーマスは思わず苦笑する。苦笑というよりもはや、それは自嘲に近いのかもしれない。
 何しろ、彼は今回の件について、まるで自分の力が及ぶような出来事ではなかったなと、いま改めて感じているからだった。

「貴方は、一体何者なのですか?」

 思わず口をついて、そう尋ねる。
 トーマスがこうして詩人と会うのは、もう四度目になるか。
 最初は、ピドナの老舗パブ、ヴィンサントだ。あれは確か、ユリアンとモニカのために開いたささやかな祝宴の席だった。
 次に会ったのは海上要塞と化したバンガードにて、カタリナへロアーヌの危機を知らせに向かった時。そして前回は、このピドナが大いなる混乱に陥る直前だったと記憶している。
 こうして会うのは確かに四度目ではあるが、しかしこの人物が一体何者であり、なにを目的としているのか。それは今の彼にすら、全く掴めるところではないのだ。
 彼はそれを、恐らくとても驚異的な事なのだろうと感じている。

「以前にもここで、カタリナさんに同じ事を問われましたねぇ」

 実に呑気な様子の声色で、詩人はそう言いながら自分の顎を撫でた。
 どうやら、真面に答える気はないようだ。
 トーマスがそう判断して答えを待つでもなく海面へ視線を投げかけていると、詩人はくるりと反転し、海原へ背を向けた。

「まぁそれはまた、いずれ。とはいえ・・・貴方はその時が来る前に、気づくかもしれませんね。何しろ貴方は、どうやら最も色濃く稀代の策謀家の記憶を引き出しているようですからね」

 詩人はそうとだけ言うと、ゆっくりと歩き出した。
 トーマスは肩越しに横目で詩人の後ろ姿を見るが、そこに映るのはやはり、単に派手な衣服と特徴的なとんがり帽子を身につけただけの人物だ。

「あぁ、そうです。現れたからには一応、何かタメになりそうな助言をしておきましょうかね。希少な私の役どころですし」

 そう言って立ち止まった詩人は、トーマスと同じように肩越しで彼を見返しながら、ゆったりとした様子で微笑みながら口を開いた。

「もし今後、皆さんに鍵が必要になったなら。それは、きっとポドールイにあります」
「鍵・・・?」

 ここまでと全く脈絡のないその言葉に、トーマスは思わず上体ごと捻って詩人へと視線を向ける。
 だがそれに対して詩人は帽子を目深に被り直して会釈してみせただけで、再び市街地へと向けて歩き出してしまった。
 トーマスはその後ろ姿をしばし見つめていたが、しかし後を追ったところで仕方がないのだろうなと思い直し、ゆるやかに揺蕩う水面へと向き直った。
 詩人の言葉の意味は、もちろん気に掛かる。
 鍵とは一体、なにを指しているのか。
 ポドールイといえばあのヴァンパイアであるレオニード伯爵の領地だが、鍵と彼とは何か関係があるものなのだろうか。

「・・・まぁいいか」

 そう呟き、トーマスは後頭部に回した手を組み、ごろんと埠頭の桟橋に寝転がった。
 今は、あまり何かを考える気分になれない。
 ただ相変わらず彼の中にある得体の知れない不安と、それをどうにかしようとする彼の中の彼ではない部分との鬩ぎ合いがあって、それをずっと観客席から本当の自分が鑑賞しているような気分だ。
 それを腹の中に抱えながらこの一ヶ月間、いやもっと前から、トーマスは動き続けていた。
 彼は分かっているのだ。
 自分が、元々そこまで強い人間ではないという事を。
 今回の事態にここまで冷静に対処できたのは、本来の自分を超えた八つの光としての授かり物のおかげだ。
 誰よりも素早く情報の収集と伝達が世界中にできたのも、フェアリーの持つ念話能力とそれを中継することができる聖王遺物という強大なオーパーツがあって、初めて成立したものだ。
 それもこれも全部、トーマスが持っていたものではない。
 そういう過ぎた力をトーマスという名の凡人が無理矢理扱っているのだから、そろそろ無理が祟ってくるのではないかな、なんて。
 本当はそんな展開を、少し期待すらしている。

「ユリアン・・・エレン・・・」

 不意に、今は離れている同郷の仲間を想う。
 物事全てに直向きな男友達と、妹想いの男まさりな女友達。彼らと始めたシノンの自警団での日々が、今はとても懐かしい。
 そしてピドナにきてから今に至るまでの怒涛の日々を思い返し、自分の中の不安はなんなのかという部分について、少し認めたくない程度にはすんなりと、自分の中で腑に落ちたのだった。

「サラ・・・」

 ピドナに於いてはよく気の利く秘書であり、同郷の仲間としては活動的な他二人の陰に隠れながらも、その実は芯のしっかりした考えを持つ利発的な妹分。
 そんなサラが彼の元を離れたのも、もう半年以上前の話になる。ピドナに来てからも一緒だった彼女とここまで離れているのは、今までになかった事だ。
 気がつけばひょっこり帰ってくるんじゃないかなんて、今も常に頭のどこかで期待している自分がいる。

「・・・そうだ。俺は弱いし、一人では何ができるわけでもない。それが分かっていれば、まだ大丈夫だ・・・」

 先ほどまでの朝焼けからすっかり青く染め上がった空へ、小さくそう呟く。
 彼の言葉は海風に吹かれ、まるでトーマスの儚い願望もろとも打ち消してしまうかのように、霧散していく。
 そのまま海風と波の音に体を預けながら目を瞑ると、トーマスは束の間の浅い眠りに落ちていった。

 

 

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第九章・5 -敗北-

 

 全世界が注目する、歴史上類を見ない巨額レートで争われたトレード。
 その記念すべき会場となったバンガード商業ギルド会館の一室にて今まさに、その史上最大トレード終了の調印が成されようとしていた。
 この歴史的なトレードは、通常の開催期間とほぼ変わらず凡そ一ヶ月間の中で行われた。
 期間中で両社の間に積み上がったオーラム総額は、なんとここ十年の過去トレード累計額を全て合わせても全く及ばぬほどで、まさしく未踏の領域であった。
 そんなトレードが終結する様子を、至極満足そうな表情でソファに腰掛けながら見下ろしていたバイロンは、その脳裏でゆっくりと、ここまでのことについてを思い返していた。

 バイロンが真なる目的に向けて動き出したここ十数年の中でも、この数ヶ月間は正に正念場。実に、激動の日々であった。
 ただ、それは当然に予想されていた事でもある。
 一年ほど前にピドナ旧市街で起こった、『予兆』。
 全世界へと向けて発せられたあの知らせこそが、世界を取り巻く激動の時代の訪れを告げるものであったのは、明らかだった。
 それに伴い、彼はいつどこで何が起きても良いように急遽の様々な仕込みを行ってきた。そしてその結実が、今まさに目の前で成されようとしているのだ。
 着地としては十分に満足のいくものになったわけだが、しかしここまでの道は決して平坦ではなかった。
 その中でも特段、彼の中で大きく想定外であると判断した出来事が、三つだ。
 まず一つ目は、カタリナカンパニーという無名の新興会社がフルブライト商会にトレードを挑むという、まさに理解不能の暴挙に出たこと。
 激動の時代だからこそというべきか、これは最も大きな想定外であり、そして同時に好都合な想定外でもあった。
 何しろ、アビスリーグという力を利用してフルブライト商会掌握を企てている彼にとって、これは己の『品格』を高める儀式として絶大な利用価値があると考えられたからだ。
 バイロンという男は、ウィルミントンきっての紳士であり、公私共に品位を重んじる。特に商売事に関しては、彼としても確固たる矜持があるのだ。
 例えばドフォーレ商会のような、野蛮で品位の欠片もない、下賎な商い。
 あのような所業は、全く彼の好むところではない。それでいて同じアビスリーグの同志などと、冗談だとしても耐え難い思いだ。
 同じく大規模商会として名の上がるラザイエフ商会も、駄目だ。あそこはドフォーレほど品性下劣ではないが、残念なことにあそこの一族経営者層は類稀なる才覚を持つ者を欠き、その商いの様子からは全く矜持の類が感じられない。このまま無能な一族経営が続けば、自ら手を下さずとも自ずと衰退していくのは、火を見るより明らかだろう。
 そんな彼が最も好ましく思っていたのは、今は亡きクラウディウス商会であった。
 家系や土地柄のためか些か政治力に頼った運営ではあったものの、その商いの仕方には確かな品格があった。ルートヴィッヒ政変により当主が命を落としたことは個人的には非常に残念ではあったが、いずれは排除すべき存在であったことから、心の中で静かに手向けたものだ。
 このような趣向を持つバイロンという男が、世界一の商会であるフルブライト商会を手中に納める。
 この偉業を成し遂げるにあたり、そこには絶対に譲れない条件があった。
 それは即ち、世界中の誰もが彼を世界一の商会の真なる主として歓迎する形での台頭、である。
 聖王の時代から続く、商会の伝統に則った早期の世代交代。それにより一見表舞台に出ることのなくなった旧知の先代会長と、片や実務能力皆無の当代会長。
 その間にいて実質的な商会の実務担当筆頭である彼は、既に経営者としての実力という意味ならば、フルブライト商会を掌握するには申し分ないであろう。
 それは、商業ギルドに属する者であれば誰しもが口にせずとも理解していることであった。
 だが、それだけでは全く駄目なのだ。
 名実共に世界一であり、伝説の聖王の系譜にも連なる、由緒正しい唯一無二の歴史を歩む商会。
 斯様に品格高きフルブライト商会であるからこそ、その当主の名を一族以外の者が引き継ぐには、世界が諸手を挙げて受け入れるような大義名分。即ち、相応の格というものが必要なのである。
 それをバイロンという男が世界に対して示すのに、この誰もが注目する史上最大規模のトレードを越える舞台は、恐らくない。
 そう彼は考えたのであった。

 次に想定外であったのは、そのカタリナカンパニーとのトレードの場に現れた、ラブ=ドフォーレという男の存在だ。
 ラブの父であるモンテロ=ドフォーレが魔物の擬態となっていることは、アビスリーグによる情報網でバイロンも把握していた。故に、単なる商売敵という以上の関心で、彼はドフォーレ商会の動向を十数年注視してきたのである。
 そして昨年、モンテロに扮した魔獣が討たれたと聞いた時、これでドフォーレ商会は完全に終わったなと考えていたのだ。
 しかしてその息子がまさか父の狂気を受け継ぎ、よもやカタリナカンパニーの中に潜伏していようとは。
 これは、彼にとっても全く想定外であった。
 そして当然ながらこれも、彼にとっては実に歓迎するべき想定外だと言えるだろう。
 ラブがカタリナカンパニーの内部で情報を操作し此方と連携することで、トレードの勝敗が更に確固たるものとなるのは間違いないからだ。
 無論、元よりバイロンはラブなどという外的要因を利用せずとも、カタリナカンパニーとのトレードに勝つ算段を確りと確保していた。
 なにしろ彼は商会資産以外に、アビスリーグが保有する莫大な資金を秘密裏に同盟支援金として利用できるのである。
 その保有総額は実に、フルブライト商会総資産の倍額に迫る程にもなる。
 今回カタリナカンパニーが打って出た、ヤーマス塩鉱を担保にする、というこれまでに例をみない集金手法。その着眼点には確かにえらく関心したものだが、それでも此方の資金量を上回ることは不可能だろう。
 ドフォーレ商会とのトレード直後で自社資金の不足に陥っているカタリナカンパニーが、流通孤立状態である今のピドナ王宮と組んで出せるであろう額。
 これは精々が二十億オーラムあたりまでであろう、とバイロンは踏んでいた。対して同盟資金と自社資産を合わせればその倍額まで確保できる彼には、その時点で一分の隙もなかったのである。
 だが、トレードとは単なる物量戦ではない。
 トレード開始前やその期間内に様々な駆け引きが存在しており、それによって着地をどう定めていくかを様々な要素を元に導き出す、芸術品にも近い唯一性のある工程を踏むのである。
 時には一筋縄では行かず、物量ではなく時代の風によって結果が変わるといったようなトレードも、彼は何度も見てきた。
 故に今回の要素の中に入ってきたラブ=ドフォーレという存在は、彼にとっても一世一代であるこのトレードを更に確固たる勝利に導くために時代が齎した要素であると捉えた。
 精々彼も上手く扱い、このトレードの先を理想の展開へ導くべく、事を運ぶだけだ。

 そして最後の想定外は、フルブライト商会の当代会長であるフルブライト二十三世である。
 これは三つの想定外の中で唯一、歓迎すべきではない想定外であるといえた。
 名ばかりの会長風情が、身の程を弁えずに商会内で何やら嗅ぎ回っている様子である、ということ。これは比較的早い段階で、彼の耳にも届いていた。
 そこで彼はフルブライト二十三世を、この機に抹殺することを段取りに加えて実行に移したのである。
 だが驚くべきことに、フルブライト二十三世はそれに抗い生き残った。
 思い描いた通りの着地にならぬこと。それは実に、歓迎すべきでない想定外である。
 とはいえバイロンは、その程度で取り乱すような肝の小さな男ではない。紳士は、無様に喚くことなどあってはならないのだ。
 初手は確実性に欠けるものの騒ぎになり難い手段として、暗殺者による襲撃を採用した。
 そして次には、多少の騒ぎや事後処理が面倒ではあるものの、そのぶん確実性の高い魔物を用いた襲撃を行なった。
 この二つの襲撃を、なんとあのフルブライト二十三世は乗り切ったというのである。
 バイロンの知る甘ったれの小生意気な「ブライトJr」からは考えられない、まさに奇跡としか言いようがない展開だ。魔物をけしかけてウィルミントンからバンガードに戻る最中、襲撃の失敗を聞いた時は、流石に我が耳を疑ったというものだ。
 雇われの暗殺者はともかく、騎士団でもなければ相手にもならない強力な魔獣らを如何にして退けたのか。それは、相応に興味が湧くところではあった。
 まさかとは思うが、ここ最近で噂に聞く四魔貴族討伐の英雄と言われる何処ぞの騎士にでも、たまたま助けてもらったのだろうか。
 この点、仔細に関する興味は尽きない。
 だが、それすらもバイロンは予定外の楽しみとして受け入れようと思えた。
 商売とは、ゆめゆめ想定通りには運ばないものだ。それをこれまでの経験によって深く理解しているからこそ、この状況変化をも加味しながら、バイロンは新たにシナリオを描くだけなのだ。
 何事も、全て筋書き通りでは面白くもない。
 だからこそバイロンはフルブライト二十三世の処遇を今回は急がず、先ずはこのトレードを確実に美しく終えるつもりでいた。
 例え生き延びたフルブライト二十三世がどのように足掻いたとしても、今更このトレードの大勢を崩すことなど出来はしない。そして此方がウィルミントンの街を盾にしていると思い込ませている以上、向こうは迂闊に手を出すことも出来ないのだ。
 陰に隠れて何をこそこそとしていたのか、その理由までは知るところではないが、この程度のシナリオ変更ならば大きな支障はない。

 斯様に想定外の要素がいくつかあったものの、あとはどのようにこのトレードの終結を大々的に世界に喧伝するか、である。
 それこそ、フルブライト二十三世のように各国を外遊し、改めて各地の商業ギルドを通じその存在感を直に知らしめるのも悪くない。
 あとは近々、改めてフルブライト親子に舞台から退場してもらえば、自ずと世界の方から新たな当主を求めるだろう。
 その時こそ、彼が最も輝く時なのでなる。
 脳内でそれらの構想を練っている間にも、バイロンの目の前でトレード終結の調印の準備が、間も無く終了するところであった。

「・・・そ、それでは双方合意の元、フルブライト商会による買収阻止の成立にて本トレードの終結をここに宣言し、双方の調印後は速やかに提示資金を商業ギルド経由で共通口座に納付・・・後にフルブライト商会主導にて権利譲渡取引を行なってください。よろしいですね・・・?」

 立会人となるギルド会館職員の強張った様子の宣言に、バイロンは何の問題もないという様子で頷き、テーブルの向かいにいるラブ=ドフォーレがそれに追随する形で同じく頷いた。
 立会人は今まで見たことがないだろうと思われる擬似オーラム貨幣の山を前に緊張しているのだろうが、反面バイロンとしては少々物足りない結果に終わったな、とも感じていた。
 彼らの目の前に積み上がっている擬似オーラムは、総計で大凡二十五億オーラム分ほど。
 無論、これまでの歴史上でも最も多くのオーラムが積み上げられたトレードであることには、何の疑いの余地もない。
 昨年にあったカタリナカンパニーとドフォーレ商会のトレードでは、これまた歴史上類を見ない額面として合計五億オーラム程が積み上がったと聞き及んでいるが、今回その五倍ともなれば、記録としては当然だろう。
 しかし、元から相手の倍額までを想定していたバイロンからすれば、少々物足りない額で終わったな、というのが正直な感想でもあった。
 今回の提示額面はフルブライト商会が十四億オーラム、カタリナカンパニーが十一億オーラムとなっている。
 ラブが元々このトレードに挑む際の初期裁量として本社から落とされていた額面は、十億オーラムだった。これは、おもてなしを受けた夜に本人から直接、聞き及んでいたことだ。
 つまり着地としてはそこから追加で一億を乗せた格好ではあるが、恐らくそこからもっと積もうと思えば本社に掛け合って積むことはできたのであろう。
 だがラブとしては、最早「そこまで接戦を演じる義理もない」というところなのだろう。
 彼はこの『茶番』をとっとと終わらせ、この後アビスリーグから秘密裏に受ける予定の融資でドフォーレ商会を独立復活させたいのだ。
 実際このトレードの後半二週間ほどは、その殆どがトレード後の話し合いに終始した。これらの内容を先んじて突き詰めたのは用心深いラブが望んだ事だが、その中でラブが想像以上に実務能力に長け、またきめ細やかな論旨進行を行う人物であると発見できたのは、今後の利用想定を固める上では僥倖というものであろう。
 そしてその調整も終わった今となっては、ラブとしては一刻も早く計画を実現させたいことだろう。となるとこのトレードをこれ以上長引かせるなど、一切望まない事であった。
 バイロンとしてはもう少し競り合いによる盛り上がりがあってもいいかとは思っていたが、とはいえこの時点でも歴史上類を見ない最高額トレードであることに変わりはない。ここは、彼の早る気持ちを優先してやっていいだろうと考えた。
 今後バイロンが率いるフルブライト商会としても、ドフォーレという存在がいることは何かと都合が良いことが多い。なので、ドフォーレ復活が早いに越したこともないのは確かだ。

「そ・・・それではここに、これにて本トレード商談の終了を宣言いたします。双方、速やかに拠出資産の納付手続きをお願いいたします」

 立会人であるギルド会館職員の宣言に則り、バイロンとラブの双方はゆっくりと立ち上がってお互いに視線を僅かに交わらせ、積み上げられた擬似オーラム金貨越しに形ばかりの握手を交わしたのであった。

 

 

 全世界が注目した史上最大のトレードは、挑戦者であるカタリナカンパニーではなく、受け手であるフルブライト商会の勝利によって決着した。
 このニュースがそれこそ瞬く間に、世界中にあらゆる手段で伝播していくのに、左程も時間はかからなかった。
 むしろこのトレードの結果をいち早く知るためだけに、各国の特使がバンガードに連日詰めかけていた程である。特使らは幾人もが入れ替わり立ち替わりとなって、段階的な情勢進捗を逐一母国へ連絡し続けていた。
 故に商業ギルドが正式な結果発表を行う頃には既に、各国には大勢が決したことは情報として持ち帰られていたのである。
 ここまで各国が欲しがる今回のトレード勝敗の結果が意味するものは当然ながら、単なる企業同士の勝ち負け、などということではない。
 確かに経済界の今後を占うトレードとしても、今回の勝負は十二分に注目に値する催事ではあっただろう。
 だが今回の結果の真なる価値とは、このトレードの裏に公然と隠されていた『流通孤立によるピドナ弱体化の真偽』である。
 史上三度目となる大災害・死蝕の発生から十七年が過ぎ、アビスの魔物が日夜じりじりと勢力を拡大させていく途上。
 人類の行く末には陰鬱なる暗雲が立ち込めんとしたその最中、ロアーヌ軍による四魔貴族ビューネイの撃退という、人類にとって非常に喜ばしい知らせで幕を開けた本年。
 しかしながら、そこから急転直下で起こったのがピドナ経済危機だった。
 その結果としてアルフォンソ海運とメッサーナキャラバンが経営破綻を起こし、この二大陸海運の破綻により、ピドナを介して世界を繋いでいた流通大動脈は、実に呆気なく断たれてしまった。
 これにより俄然、打倒ルートヴィッヒに色めきたったメッサーナ王国の各都市軍団長を中心に、世界中の主要都市国家のほぼ全てが、メッサーナ王国首都ピドナへの武力侵攻を考えたのである。
 なにしろこの数年間、世界はずっと指を咥えながら見てきたのだ。
 血生臭い政変の結果ピドナを手中にし、その圧倒的な地の利を最大限に活用した狡猾な政策によってルートヴィッヒが世界に振り翳してきた、絶大なる権勢を。
 それは誰しもが羨むほどに圧倒的、かつ魅惑的なものであった。
 そのピドナが今、大いに弱っているのだとしたら。
 なればこの機を活かしルートヴィッヒに代わって偉大なる栄華を欲さぬ権力者など、逆にどれほど居るというのだろうか。
 加えて言うなら、ピドナが経済危機と流通孤立により世界中心都市としての機能を果たせていないという状況は、支配者たるルートヴィッヒの大いなる失態に他ならない。それを救済するという大義名分が通るこの状況ならば、かつてのルートヴィッヒのように私欲に塗れた侵略者の謗りを世論から受けることもないだろう。
 あまりにも状況が、揃っているのであった。
 とはいえ、それでも。
 これだけの条件が揃っていてもなお各国は、如何せん動くに動けないでいた。
 何しろ相手取るのは、あの狡猾なるルートヴィッヒである。
 これら状況の全て、若しくは何れかが「彼の仕掛けたブラフ」である可能性が、どうしても否定出来ないのだ。
 それでなくとも昨年からこの年始にかけての一年ほどで、ピドナでは実に目紛しい情勢の変化があった。
 ピドナ旧市街で突如として起こった、膨大なアビス瘴気の暴走。
 一部では『予兆』とも呼ばれるこの現象の発生を皮切りに、次には近年ピドナで隆盛を誇っていた神王教団支部の壊滅による政権への少なくないダメージ。そして年の後半にはヤーマスの悪徳商会として名高かったドフォーレ商会の成敗によって世間に存在感を示した、前近衞軍団長クレメンス=クラウディウスの娘、ミューズ=クラウディア=クラウディウスの世論台頭。
 そして年末のコングレスにて全世界に向け示された、ルートヴィッヒとミューズの共存体制確立という急転直下の展開。
 これら怒涛の情勢変動により、各国権力者は非常に注意深く興味深く、メッサーナの中心都市へと熱視線を注いでいた。
 そんな中で起きたのが、今回の一連の騒動である。
 ピドナのメインバンクまでが機能停止に追い込まれるほどの経済危機、世界最大の陸海運の破綻による流通断絶と続いて、仕舞いにはなんと、絶対的窮地にあるはずのピドナに本店を置くカタリナカンパニーによる、世界最大企業フルブライト商会へのトレード開始宣言ときた。
 カタリナカンパニーは公言こそされていないが、近衞軍団と最も深く繋がる企業であるとの噂が、昨年末のコングレス以降は絶えなかった。
 そんな企業による過去に類を見ない超大型トレード勃発となれば、当然その背後には近衞軍団がついているであろうと見るのは、少しも可笑しな話ではない。
 この危機的状況の最中に斯様なトレードを行う余裕など、果たして今のピドナにはあるのかどうか。
 これは、経済危機を隠すためのブラフなのか。
 それとも、ブラフだと思わせて挙兵したところを制圧するために張った、狡猾なる罠なのか。
 仮にこれが二重ブラフだとしたら、踊らされた国は只では済まないだろう。
 それどころか、その国の蛮行を理由に世論を味方につけ、更なる流通規制強化へとルートヴィッヒが舵を切る未来までもが、安易に予測がつく。
 だがしかし、単なる危機を隠すためのブラフならば、今こそがピドナを手中に収める千載一遇の機会に他ならないのである。
 その真偽の見極めのためにこそ、このトレードは嘗てないほどに世界の注目を集めたのである。

「・・・だが、そんなことはどうでも良い」

 バイロンはホテルバンガード最上階客室の窓際に立ち、眼下に広がるバンガードの街並みと、その向こうに広がる広大な外海へと向けて小さく呟いた。
 その言葉の通り、彼にとってはそんな凡人たちの事情などは本当にどうでも良いことであった。
 勿論この計略をあの状況から打ち立て実行に移したルートヴィッヒの機転と才覚、そして胆力たるや、流石という他ないとは彼も感じ入っている。
 実際は、単なる時間稼ぎが目的であったとしても。それでもこの計略は、用意周到な準備の上で世界経済の崩壊と人間同士の分断を目的としたアビスリーグ最大の悲願の結実を、チェックメイト寸前から一ヶ月以上も遅らせてみせたのだ。
 これは正に驚嘆、そして賞賛に値する見事な手腕であろう。
 アビスリーグはこの計画のために世界各国の要人に対し、世間に溶け込んだフロント企業を通じて数年もの間、極秘に接触してきた。
 世界中のリーグ拠点と連動して着実に情報を統制操作し、それらを各国要人に都合よくリークしながら、人類世界の中心に位置するメッサーナ王国首都ピドナを機能停止に追い込むその時を、密かに待ち続けていたのだ。
 仮に自分もリーグと同じくそれを悲願としていたのならば、今回のルートヴィッヒには大いに「してやられた」と感じた事だろう。
 しかし繰り返すが、彼にとってはそのようなアビスリーグの悲願もルートヴィッヒの機転も、両者の思惑の中で一喜一憂する凡愚共のことも、全てどうでもよい事だ。
 このトレードの結果により、各国が我先にとピドナへ侵攻し、間も無くアビスリーグ本体の悲願は成就するのだろう。
 そして団結を失った人類は、救世の英雄再誕を自ら否定するのだ。
 かつて聖王がアビスに勝利した背後にあったような人類の結束は、即時には不可能となる。
 人類はその後、間も無くアビスに敗れ、再び四魔貴族による恐怖支配の時代が訪れることになる。

「・・・これで、人類は正しい道を歩むことができる」

 バイロンはこれから起こるであろうことは、破壊と創造である、と捉えていた。
 今の人類の進んでいる道は、生物として全く正しくない。
 無価値な『血筋』や『家柄』などというものに大いなる価値があると信じ込み、個の持ちうる可能性を捨ててしまった。
 才ある者がその才を活かせず朽ち、無価値なものを信じて才能を蔑ろにしてきた凡愚が我が物顔で世界に蔓延っている。そんな人類の先にあるのは、生物としての衰退に他ならない。
 それを止めるには、一度今の世界を、間違いごと壊すしかないのである。そして真に力あるものが始まりの荒野に立ち、全てをやり直す。
 バイロンは、それを望んでいた。
 しかし彼自身には、剣を振るう力はない。
 だから嘗ての聖王のように四魔貴族を打ち倒すのは、彼の役目ではないのだ。それは、次なる宿命の子の役割となるのだろう。
 バイロンは、聖王の後に人類が進むべき道筋を築いたフルブライト十二世や、聖王三傑にも数えられた初代メッサーナ国王パウルスの役を担うつもりでいた。
 彼が最も敬愛する歴史上の人物こそ、聖王三傑にして初代メッサーナ王国の主、建国王パウルスだ。血を捨てきれなかったフルブライトと違い、パウルスはメッサーナの王位継承に養子制度を採用したという点で、非常に素晴らしい。
 これは当時どころか今の時代であっても実に画期的で、人類が正しい道を歩むために必要な決断の第一歩だとバイロンは今も信じて疑わない。
 そして、経済こそが人類の持ちうる力の中で最も素晴らしい力であるのも事実だ。フルブライトは我が子可愛さからか血筋を尊重してしまった点こそ愚かであるが、それでも世界一の力を手にしているということは非常に評価ができる。聖王の伝説に連なるという品格も、申し分ない。
 だからこそ、その力をバイロンが手にし、四魔貴族によって現在の間違った世界が壊され、それを十数年の後に当代の宿命の子が追い払った、まさにその時。
 その時にこそ、人類が正しく歩める道筋を、このバイロンが示す。

「そう、これは人類の救済だ。私にしか成しえぬ、救済。私こそが正しい道を築くための、人類の道標に相応しい」

 不意に、笑みが漏れそうになる。
 バイロンはあくまで上品に口元に手を当て、深く呼吸をして気を落ち着けようとした。
 まだだ、まだ笑う時ではない。
 彼が高らかに笑い祝杯を上げるのは、首都ピドナが陥落したその時であると、以前から決めているのだ。
 大いなる破壊と創造の序曲開演の時にこそ、人類のために祝杯を上げるべきなのだ。
 それまでは、素知らぬ顔でフルブライト商会のことだけを考える振りをしていればいい。
 こうして笑みを堪えるのに痛く苦労するのも、あと数週間程度の辛抱なのだ。

 

 

「組織における属人化や権力の集中というのは、なんとも厄介なものなんだな・・・」

 ピドナ商業地区にある邸宅のテラスで日光浴がてら一人紅茶を啜りつつ、トーマスはティーソーサーの柄に目を落としながら、小さくそう呟いた。
 未曾有の流通断絶という極限状況にあってか、普段ならばビジネスマンの往来が絶えないはずのピドナ商業地区メイン通りも、今は実に静かなものだった。
 この静けさを「不気味」と見ることも出来るのだろうが、トーマスはこの静謐さが何やらシノンの穏やかなさまを思い起こさせるようで、むしろ好ましいとさえ感じていた。
 そんな時には、自分は矢張り生粋の田舎育ちなのだなぁ等と思い、薄らと顔に笑みが浮かぶ。

「まぁ・・・お陰で遂に眠れる獅子が動いたということなら、結果オーライか。いやむしろ想定より良くなった・・・かな?」

 どうしてこうも、計画とは想定通りに行かぬものなのだろう。
 そんなことを思いながら、一方では手元に置かれた二つの書簡に書かれていた報告の内容を、脳内で繰り返し分析し続ける。
 この時点で各方面の最適化に向けた準備は完了しているが、それでも情報と状況は常に動き続けるものだ。目まぐるしく変わる状況を常に加味し、その瞬間瞬間で、最も効果的な一手を打ち続ける。
 なにしろ今この瞬間こそが、一手間違えてしまえば全てが崩壊するかもしれないほどの、とても刺激的な局面なのだから。
 ただその中にあって、トーマスは自分でも拍子抜けするほどに冷静だった。
 自分にはこれほどの胆力があっただろうか、などと、トーマスは素っ頓狂なことを考えてみる。だがそれにはすぐに答えがでる。そこまでの胆力は、間違いなく無かった。
 自分の一手が、世界最大国家の命運を分けてしまうかもしれない。そんな超極限の状況に在って、たかだか一介の開拓村の豪農の跡取りに過ぎない自分が相対し、こうも平然としていられるわけなどないのだ。
 今持っている知識や戦略は、確かにその大凡が自己研鑽の中で身につけてきたことだ。それを元にこの一年ほどは試行錯誤を繰り返して経験を積み、より成長してきた。それは確かに、自分の大いなる糧となっている。
 だが今の自分の精神状態は、明らかにそんな程度の経験値で獲得できるようなものではない。
 どう見ても、生まれてからこれまでの経験を以てして自分が相対するには、この案件は荷が勝ちすぎている。到底、冷静な判断や分析が出来るとは思えない。
 だが、トーマスには断言できる。今の自分は、至極冷静そのものだ。そしてその理由も、おおよそ見当がついている。
 彼はこれくらいの危機的で刺激的な状況を、どうやら『知っている』ようなのだ。この空気に、懐かしさすら感じるほどなのである。
 その感覚を頼りに思い起こすと、脳裏に薄らと過ぎるのは、生と死の狭間で繰り返され続ける極限状態の軍議の風景。
 数多に渡り歩く戦は常に、勝つか死ぬかの二者択一。そしてその繰り返しの先には人類の勝敗という究極の分かれ道。己の選択がそれを決定づける。そのような極限の空気の中で生き続けたような、そんな記憶が薄らと思い起こされる。

(恐らくこれは、聖王十二将の記憶なんだろうな。俺もそうだが、ユリアンやモニカ様たちも急激な身体能力の向上や覚えのない戦闘技術の発現を体験したという。これの契機は完全に、ピドナでカタリナ様と再度の合流を果たしたあの時だ。夢の中で聖王様と思しき方が俺たちに語りかけたあの時に、恐らく聖王十二将の力の片鱗が『八つの光』と目される者たちに継承された。中身はてっきり戦闘技術だけかと思っていたけれど、こんなふうに記憶も薄らと継承されているとは。道理で、一国が滅ぶか否かって程度では動じなくなってしまったはずだ。しかし、記憶の継承なんてしたら人格すら変わってしまうんじゃないか・・・? 俺はどうやらまだ許容範囲内で済んでいるみたいだけど、みんなは大丈夫なのかな・・・。適正とか考えられているのだろうか・・・?)

「トーマス様」

 一人物思いに耽っているところに、彼を呼ぶ声がかかる。呼びかけに応えるようにトーマスが背後に視線を投げかけると、そこにはこのハンス邸に仕える執事が立っていた。
 彼は長らくメッサーナベント家に仕える執事で、この国でトーマスが最も信用を置く人間の一人だ。流石に現在のような状況でもその物腰は大層落ち着いた様子で、これこそ年の功がなせる姿勢というものだろう。

「御用命の調査結果が届きました」
「そうか、ありがとう」

 執事から手渡されたのは、簡素な封を施された新たな書簡。
 素早くその封を解き文面へと視線を走らせると、見る見るうちにトーマスの瞳は細まっていった。

「灯台下暗し・・・か。なるほど、矢張りあの詩人殿の言葉は、金言だったな。全く、彼は一体何者なのか・・・いや、今はそれを考える時じゃ無いな」

 ティーカップに残っていた紅茶をぐっと飲み干し、トーマスは三通の書簡を手に取って立ち上がった。

「さて、仕上げだ・・・爺、みんなを会議室に呼んでくれ」
「畏まりました」

 椅子の背に掛けていた外套を羽織り直したトーマスは、少しずり落ちていた眼鏡を鼻根の定位置に人差し指で戻しながら、足早にテラスを後にした。

 

 

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第九章・3 -お・も・て・な・し-

 

「・・・しかしこれはまた、実に煌びやかな宴席ですな」

 そこは果たしてこの世か、はたまた楽園か。
 老紳士は、見たこともないような火を使わぬ照明器具で華やかに装飾された宴会場と、その中央舞台の上で楽人もなく流れる音楽に合わせて踊る金髪の女性を眺めながら、豪奢な料理が盛られたテーブルの向かいに腰掛けるラブ=ドフォーレへと声をかけた。

「いえいえ、本来ならばバンガード全てを貸し切ってでもおもてなしを差し上げたかったところですよ、バイロン卿」

 ラブはそう答えながら、優雅にヴィンテージワインが注がれたグラスを傾けた。
 今宵の主賓であるこの老紳士は、フルブライト商会要職であると同時に商業都市国家ウィルミントンの執政議会議員を代々務める名家、バイロン家の当主だ。
 その名はウィルミントンで最も名のあるホテルに冠せられているほどで、フルブライト商会においても数代に渡り並々ならぬ功績を共に築き上げてきた家柄でもある。
 このバイロン卿を筆頭に、この日は総勢百名にも迫ろうかというほどのフルブライト商会関係者をこの会場に招いており、各々が最高級の料理と酒、そして数々の趣向を凝らした催しに興じている。
 トレードの際によく用いられるお持て成しの規模としては、間違いなく史上最大だと言えるだろう。

「あの舞台上で踊っておられるのは・・・ひょっとして、かの有名なプロフェッサーですかな?」
「流石はバイロン卿、博識でいらっしゃる。あのツヴァイク公をパトロンとして射止めたというダンスだそうで、私も初めて拝見しましたが、確かにこれは一見の価値がありますな」

 教授がダンスを踊る舞台周辺には、確かに会場にいる大半の来賓が集まっており、大変な盛り上がりを見せていた。
 それは例えば場末の酒場で見られるような、聞き慣れたフィドルやギターに合わせて舞う踊り子のそれとは、全く様相の異なったものであった。
 楽人など周辺に一人も見当たらないというのに、何処からともなく流れ出てくる複数の楽器が奏でる音楽に合わせ、時に激しく、時にムーディーに変調していく演奏に併せて一心不乱に踊り上げている。
 更に、色彩豊かに変化しながら予め敷かれた導線上を動き回る照明演出が場を盛り上げ、そのステージを、嘗てない至上のエンターテイメントへと昇華させているのだ。
 これら音響器具や照明等も教授の自前機材であるらしく、確かにその未知なる演出はこれまで見たことがないようなもの故に、ステージ周辺は異様なほどの盛り上がりを見せていた。

「この後もこの会場では様々な催しを準備しておりますが・・・実はバイロン卿には、このバンガードでしか体験できない特別な席をご用意させていただいてましてな。よろしければ今から、其方へご案内さしあげても?」
「ほう・・・それは楽しみですな」

 そう答えるバイロンに対しラブは上機嫌な様子でグラスの中身を飲み干し、ゆっくりと席から立ち上がった。

「折角ですから、そこで少し面白いお話でもさせていただきましょう。ただ、席の装飾が非常に繊細な場所でしてな。ご同伴は最小限に留めていただけると有り難いのですが」
「・・・では、私と執事のみで向かいましょう。よろしいかな?」
「ええ、もちろんですとも」

 ラブの言葉から何かの意図を察したのか、バイロンは自らの顎髭を撫でつけながら応じつつ立ち上がった。
 そのまま二人と連れの執事は盛り上がりを見せる会場を後にし、すぐ目の前の中央広場へと向かう。
 そこには大きな噴水と巨大なイルカ像が鎮座しており、すぐ近くには護衛が立つ小さな入口があった。

「・・・聖王記に記された伝説の通りに目覚めしバンガードは、この表向きの市街地ではなく、その内部こそが伝説の本懐。今宵、その最も素晴らしい眺望へと、卿をご案内しましょう」

 入口を守る護衛がラブの姿を見てゆっくりと扉を開けると、ラブは仰々しい口上を述べながら、バイロンを中へと招いた。

 

 

 ハンス邸での会議から、二週間ほどが経過していた。
 船や荷馬車の往来が殆ど無くなっていることで、以前からすれば不気味なほどに静かな日中が過ぎ、そして太陽が遠く静海の向こうへ、ゆっくり落ちていった後のピドナ市街。
 このような状況の中、それでも日々の労働を終えた市民たちで中央通りは、にわかに賑やかさを増していく。
 特に、中央通りの中でも集客の良い一等地に店舗を構える老舗パブ、ヴィン・サントには、今日も多くの市民が日中の疲れや不安を癒しに立ち寄っては、思い思いに杯を傾けていた。
 ピドナ全体が未曾有の流通危機に晒されていても、人は一時の憩いを求めてしまうものなのだろうか。

「・・・今頃、バンガードじゃ宴会とかしてる頃かなぁ。なーんかさ、こうしてトレードの結果を待つだけってのも、けっこー落ち着かないよね」

 そんな喧騒に紛れて、テーブルの一箇所に集まった、風変わりな四人の面々。
 その中でも一際奇抜な服装で且つ幼い少女・キャンディは、テーブルの上で頬杖をつきながら、言葉の通り落ち着かなげにそう言った。

「・・・まぁな。しかもその大役の実行者が、あのラブ=ドフォーレだってんだからよ・・・。まったくベントの旦那は肝が据わってるっつーかなんつーか・・・」

 キャンディの正面に座るポールはいつものように肩を竦めながらそう応えると、目の前のビアジョッキを手に取って豪快に傾ける。
 その隣で二人の会話に耳を傾けつつ、紫煙を燻らせながらウィスキーの杯を傾けていたノーラは、テーブルの上に視線を向けた。
 目の前の小さなテーブル上に並べられているのは、バンラスの悪そうな木製の皿にこれでもかというほど盛られた蒸かし芋と、塩漬け肉、鱈の塩漬け、そして芋に振りかける用の塩が少量入った、小皿。

「しっかし・・・塩、ねぇ。前に確かキャンディも言っていたけどさ、こいつが本当にそんなに大きな金を動かすものになるんだねぇ・・・」
「ま、塩がなけりゃなんもかんもすぐ腐っちまって、海に長期間出ることなんてできなかったしな。船乗りにとっちゃ、確かに死活問題だな」

 塩漬けの鱈を一切れ摘み上げて口に放り込みながら、ブラックがノーラに続く。
 それにはポールも、うんうんと頷いてみせた。

「あぁ。それこそ俺の生まれのキドラントなんざ、作物は殆ど育たない土地だからな・・・こんな感じに塩漬けした肉と鱈がなきゃ、あそこじゃ冬すら越せない。正に命の源なんだよな、塩ってのは」

 集まった四者は思い思いにそんなことを言いながら、目の前のつまみと杯を交互に口に運ぶ。

 二週間ほど前にハンス邸でトーマスから明かされた、このピドナ未曾有の危機における、起死回生の為の一手。
 それこそが、カタリナカンパニーからフルブライト商会へのトレード攻勢という、正に前代未聞の超難事だった。
 これを実行に移すにあたり、前年のドフォーレとの対決で殆どの自社資金を放出してしまったカタリナカンパニーが持ち出す、この史上最大規模トレードへの、資金源。
 果たしてこれについてトーマスが提示したものこそ、正に今この食卓に並んでいる『塩』であった。
 より正確を記すならば、ドフォーレ商会所有物件の一つで、現在は一連の騒動により閉鎖しているヤーマス塩鉱から取れる岩塩の『優先取引契約権』というものである。
 全世界の食糧保存事情等に欠かすことのできない『塩』を供給するにあたり、その大規模な生産地というものは実際のところ、この世界では非常に数が少ない。
 この三百年の歴史を顧みても、独自に安定した塩の確保調達手段を保持しているのは、世界を見渡してもツヴァイクとナジュ地方くらいのもので、それ以外は海棲魔物の襲撃と隣り合わせとなり危険度が高い沿岸の塩田事業が主である。
 そんな中、死蝕直後の海運事業拡大を発端とした急成長の末にドフォーレが採掘に成功したのが、件のヤーマス塩鉱であった。
 ドフォーレはここで採れた岩塩を精製し、それを麻薬と少しずつ混ぜながら流通させることで人類を蝕んでいくという大悪行のため、利益度外視で世界中に自社製の塩を供給拡大させていった。
 加えて、元より魔物襲撃の危険性を孕んでいた世界各所の沿岸塩田を、ドフォーレは裏で魔物と組んで集中的に襲撃までしていたのだ。
 それを示す証言も、神王教団ピドナ支部の残党から取れている。
 このように塩に関わる価格操作がこの十年内で秘密裏に行われていた実態が複数判明しており、その影響により塩の供給状態や価格は近年で大きく変動していたのであった。
 ここまでが、世間に未だ秘匿されている、一連のドフォーレ買収劇の裏に潜む真相である。
 だが、仮に、だ。
 仮にドフォーレがそんな悪事を考えず、真っ当に適正価格としてこの塩鉱から出る塩を扱っていたとしたら。
 もしそうしていたならば、それこそ冗談ではなく『一国が建つ』程の、途方もない財を生み出したことであろう。
 この世界における塩鉱とはそれほどまでの、正に金脈にも等しい代物であるのだ。
 事実、現在ヤーマス塩鉱からの供給が途絶えているこの数ヶ月で、世界中の塩の価格は既に倍以上に高騰している。
 その状態にあって安定供給が見込める塩鉱となれば、正にどの商会や国も、喉から手が出るほど欲しいことであろう。

「ヤーマス塩鉱は、現在判明している塩鉱規模としては恐らく世界最大級だからな。ドフォーレはそれを別の目的で使っていたが、本来ならばもっと莫大な利益を生み出せる代物だ。本来ならカンパニーの主力産業として慎重に扱うべきだろうが・・・」
「それを、まさか代理戦争の餌に仕立てちゃうとはねー。ほんとおっそろしいよね、トーマスさんは」

 ポールの言葉にキャンディが果汁で薄めた白ワインの杯を傾けつつ返すと、それには一同が何の疑いの余地もない様子で深く頷いた。
 この塩鉱取引権をオーラム代わりにトレードのテーブルに乗せることで、フルブライトへ対抗して見せよう、というのがトーマスの狙いなのである。
 だが、これを効果的に利用するには、カタリナカンパニーとフルブライトという二社の対立だけでは、残念ながら成り立たない。
 もう一つの要素が、必要だ。
 ここでトーマスが打診をしたのは、誰あろう、世界最大国家メッサーナ王国にて実権を握る、ルートヴィッヒ軍団長その人であった。
 この時トーマスは既にルートヴィッヒへ内々で取引を持ちかけており、仮にメッサーナがこれの優先取引契約権を買った場合の仮提示額面として『十億オーラム』を一時的な条件として引き出していたのである。

「しかもこの取引の恐ろしいのは、塩鉱が麻薬工場と一緒くたになって混ぜ物を世界に流出させていたっつー証拠を、俺たちだけが握っている・・・ってところよ。こいつは、ルートヴィッヒ政権にとって最も表に出てほしくない情報だ。その証拠がこっちにある以上、まだまだ提示額は引き上げにいくことが可能だろうよ」

 腕を組み、周囲を気にしてかテーブルに乗り出すようにしてポールが小声で言うと、反対に気にした様子もなくガタンと音を立てて同じく身を乗り出したキャンディが、うんうんとそれに応えた。

「そこだよね! もし取引権を他の誰かが抑えちゃったら、そこらへんが漏れて世界に全バレする危険性があるもん。そしたらドフォーレを止められなかった今のメッサーナ王宮を、いよいよ誰も信用しなくなっちゃう。そうなんない為にどんだけお金積んでも止めにくるってのは、分かりきってるハナシだよね」
「だーばかたれ!声抑えろっつの・・・。だがまぁ、その通りだな。つまり今回のこのトレードは、カタリナカンパニーとフルブライト商会のトレードっつーより、疑似的なメッサーナとフルブライトのトレードだ。まさかドフォーレ退治の土産をここで使うとは、全く旦那には毎度、度肝を抜かれるよ・・・」

 ポールとキャンディが興奮を抑えられずはしゃぐように盛り上がる様子を尻目に、ノーラとブラックはそれぞれに呆れたような苦笑いをしながら酒の入った杯を傾ける。だが、彼らのいうことは確かな事実なのだ。
 つまり今回トーマスが言い出したこのトレード案は決して無謀な挑戦などではなく、しっかりとした根拠やこれまでの下準備を基にした、勝機を見据えた行動ということなのである。
 それ自体には、トーマスの説明を受けた誰もが彼の手腕に驚嘆し、この勝負への確かな希望を見出したのだ。
 しかし。
 それでも今ここに至り未だ腕を組んでどこか憮然とした表情のノーラは、咥え煙草で呟いた。

「しかしさ。そんな奥の手まで使った世紀の一大トレードだよ? それを、よりにもよってあのドフォーレに任せるってのはね・・・。あたしには、やっぱりちょっとその狙いまではわかんないけどね」

 ノーラの疑問は、最もであろう。そして、そこにブラックが口の端から煙を吐き出しながら同調した。

「まぁそいつには同感だな。それこそトレードの実行役は、発案した副社長様やポール、なんならこのキャンディ嬢ちゃんでもいい。もっと人選のしようがあったんじゃねーか?」

 根元近くまで灰になった吸い殻を椅子の下に落として踏みつけると、途切らせる様子もなく続けて新しい煙草に火を点けながらブラックは続けた。

「俺が言うのもなんだがな。悪人てのは・・・どこまで行っても悪人だ。俺は直接ラブ=ドフォーレってやつを見たことはねぇし、洗脳されてただかなんだかも知らねぇけどよ。どうであれ長く裏家業に浸かってきた奴が、そう簡単にお利口な常識ってやつに従うなんざ・・・思わねぇ方がいいぜ?」

 彼のその言葉には、その場の他の誰にも持たせることのできない、ある種の凄みのようなものが宿っている。

「まぁなんつーか・・・毒には毒を、みたいな感覚だとは思うけどな・・・」

 ブラックの言葉に、どこかいつもと違って歯切れの悪い様子で答えたポールは、フォークに刺した塩漬け肉を口の中に放り込み、エールで一気に流し込んだ。

 

 すっかり陽が落ち、いつにも増して辺りを通る人影が殆どない、ピドナの商業区通り。
 賑やかさを保つ中央通りとは対照的に辺りの大半を暗闇が覆う中で、煌々と明かりが灯るハンス邸の奥まった箇所にある一室。ここにも、四人が集まり杯を交わしている。

「・・・確かに、人選がドフォーレというのは、私も些か気になるところではある。フルブライトとの対決の可能性まで見えていたならば、正直あのままキャンディさんがヤーマスからウィルミントンに向かう方が良かったのではないだろうか?」

 ロビンが陶器製の杯を傾けながら、正面で同じく脚付きのグラスでワインを傾けていたトーマスに向かい、真っ直ぐな瞳で問いかける。

「・・・キャンディやポールには此方でやって欲しいことがある、とのことだったが。それにしても他に選択肢がなかったものか、と思ってしまうのは・・・私も同感だな」

 トーマスがその言葉にどう返答しようかと考えを巡らせていると、控えめな様子でシャールもロビンの言葉に同意するように口を開いた。
 ちなみにこの場でシャールが飲んでいるのは、水だ。別に彼は酒が飲めない訳でも弱い訳でもないが、水が飲めるならば水がいい、というタイプの人間である。スラム街では清潔な水自体がなかなか飲めない、というのも理由にはあるかもしれないが。
 そんな二人の様子とトーマスの表情を交互に見ながら、ミューズは暖かい紅茶にブランデーを数滴垂らしたものを静かに口に運んでいる。

「・・・そうですね。今後の流れに関することなので、この面子ならば、他言無用ということでご説明しましょう。ドフォーレに任せた理由は、勿論いくつかあります」

 トーマスはテーブルに並べられたカットチーズを雑に口に放り込みながら、語り始めた。
 まず、キャンディやポールにトレードを任せなかった理由。
 これは、トレードの後に控える行動に関してどうしても彼らが必要である、というのが最大の理由だ。
 このトレードに思惑通り勝利することができたとして、そのあとはリブロフやナジュあたりの地域にアビスリーグの大凡の拠点が絞られる。そこを速やかに叩くには、どうしてもトレードの知識を備えた人員を派遣する必要があるのだ。
 カタリナカンパニーの中で言えば、現状でそれを担えるのはトーマス、キャンディ、ポールの三人くらいのものなのである。
 とはいえ流石にトーマスがここから動くわけにはいかないので、後の二人に手分けしてそれを実行してもらう、というのが彼の頭の中にある絵だ。
 なにしろフルブライトとのトレード終了からアビスリーグ補足までの猶予期間は、非常に僅かな期間であるだろうと、トーマスは踏んでいる。
 今回のトレードに勝利すれば、確かに此度の大勢は決するだろう。
 だが、ここまで事前に何も此方に悟らせずにピドナの孤立まで事を運んでみせた程の用意周到な集団が、そう簡単に尻尾を掴ませるとは、彼には考えられないでいた。
 大勢が決してから、アビスリーグが地下に潜るまでの、僅かな隙。
 ここを突いて彼らを炙り出し、ここで徹底的に叩き、壊滅させる。それが出来なければ、彼らは再び水面下で次なる企みを進める事であろう。
 何より、ここで逃してしまった後で彼らが次に手を打つとしたら、先ずは今回の解決に動いた面々を個々に暗殺等で動く可能性が非常に高くなる。
 それを阻止するには、ここで必ず仕留めなければならないのだ。
 そのためには速度が最重要で、本来ならばもっと人員がいくらでも欲しいほどである。
 ここに、サラがいてくれたなら。何度もそんなことをトーマスは頭の中で考えたものだが、しかし無い物ねだりをしても仕方がない。

「なるほど・・・ここで仕留めるには、そうするしかなかったということか。それは、理解できる。悪は根絶をしない限り、再び悪巧みをするものだからね」

 ロビンは感心したように小さく何度も頷き、腕を組みながら感想を述べる。

「キャンディとポールがそこに必要なのは分かったが、ではこのトレードの実行者にドフォーレを人選した理由はなんなのだろうか。それもやはりトレードの知識云々という点だけで、そこに人格的な選択要素はなかった、ということに・・・?」
「・・・いえ。ご指摘の通り、当然その不安要素はあります」

 続けて述べられたシャールの鋭い指摘に、トーマスは隠す様子もなく少し困ったような顔で笑いながら応えた。

「ラブ氏は、トレードに関する知識や技術的な能力は元より、今回の相手であるフルブライト商会に関する様々な情報やコネクションも備えており、この局面での配役としては最適解であると言えます。いくら此方の資金的な手札が強力であるとはいえ、それを扱う人物が素人では話になりません。此度のトレードに勝算を見出すという点では彼しか選択肢がなかった・・・というのは、正直なところです」

 そこまで言ってワイングラスの中身をトーマスが飲み干すと、すかさずロビンがやたらと手慣れた仕草でボトルからトーマスのグラスへとワインをサーブする。
 トーマスは恐縮しながらそれを見届けて礼を言い、再度グラスを手に取ってから続けた。

「そして、シャールさんやロビンさんが仰る懸念点も、当然理解しています。例えば今の彼に、ある程度の裁量を持たせた場合。その時彼は、一体どう考え、どう行動するだろうか・・・。それが、今回の采配の鍵になります」

 ラブ氏の父であるモンテロ=ドフォーレが魔物に乗っ取られる前の情報は、何もない。
 そうなると彼の人となりというものは、魔物に操られていた以降で判断するしかないのだ。これについてトーマスは、キャンディがヤーマスに滞在している間、定期的に彼の人となりについて、彼女に観察してもらった結果を手紙で受け取っていた。
 それによればラブ=ドフォーレという人物は、実に「みたまんま」である、というのがキャンディの見解であった。
 でっぷりと脂の乗った身体のあちこちに散りばめた悪趣味なほどに輝く装飾品、己の欲望に非常に忠実で終始傲慢な態度、財力や権力を盾にした人の見下し方。
 それらは魔物に操られていた時となんら変わらぬ・・・つまり、紛う事なき彼自身の性分である、と。

「・・・不安しか抱かない情報だな・・・」

 シャールがそう言うと、それにはミューズとロビンも頷いた。
 トーマスが続ける。
 キャンディが観察してきた短い期間の中でも、彼の行動基準というものが、なんとなく見えてきたのだという。
 彼は先に述べた通りの性分ではあるものの、しかし仕事は驚くほどよく行うのだ。
 現地ではキャンディが監査役を兼ねて活動していたが、その下で動くラブという人物は、実に勤勉に働いていたのである。その働きぶりは、全く他の追随を許さぬほど圧倒的なものであった。
 というより、他が働けていなさすぎる、ということにキャンディは早々に気がついた。
 それは個々の能力云々というより、仕事そのものに慣れてすらいない、といった様相なのだ。
 つまりは驚くべきことに、彼以外に商会経営というものについて尺たる知識を持つものは、ドフォーレ商会の中には一人もいなかったのである。
 それらの状況について不思議に思ったキャンディがラブに尋ねたところ、彼は臆面もなく、こう言ってのけたのだという。

『市長も含めて、この町はグズ共の集まりだ。そして俺は、グズ共のやるグズグズした作業を見ているのが一番イラつくんだよ。だから俺がやっているんだ。この町は俺がいなけりゃ、今だに小さな漁村止まりだったろうさ。それこそ、バンガードのマッキントッシュあたりに食い物にされてただろうな』

 これは、彼の行動基準を表す非常に有用な言葉であろうと、トーマスは感じた。
 彼は、間違いなく優秀だ。いくら魔物に操られていたからといって、彼にそもそも能力がなければ、ドフォーレ商会はこの短期間でここまで大きく成長などしなかった。
 だが一方で、彼は指導者としての性格に向くとは言えない。自分の右腕になるような人物を一切用意していないことが、その確固たる証左だ。しかも、彼はそれでよし、とするきらいがある。
 つまり、彼の中には自分の理想とする水準があり、それに到達するための自己努力を惜しまないという性質が垣間見える。
 強い自己顕示欲。それを事実たらしめる実績と行動力。自らに及ばぬものを見下し、歯牙にも掛けない選民思想。それらで形作られているのが、ラブ=ドフォーレという人物だ。

「私がそこから導き出した道筋は、彼が望む水準の舞台を用意すること、です。彼が踊るに値する舞台を用意すれば、彼は演者として必ずそこに立つ。私が彼にそれを示すことができるかどうかが、今回彼を采配する上での鍵というわけです。私の器が知れてしまえば、彼は此方の意図せぬ動きをするでしょう」
「それはなんとも・・・我々には想像すら難しい話だな」

 トーマスの言葉を聞きながら、シャールはすっかり眉を顰めつつ唸った。
 彼の覚えているラブとは、最初で最後、ヤーマスでの一連の騒ぎの最後の瞬間だ。それはそれは大層な情けない姿で、キャンディの前で尻餅をついている小悪党丸出しの男、というだけであった。
 それについてつい口を滑らせると、ミューズは酒が効いてきたのか少し上機嫌な様子で相槌を打った。

「だからこそ、トーマス様の狙いに沿うのかもしれませんよ、シャール。物事が自分の想定の上をいく場合には、人としての弱さをちゃんと露呈する。それは、統べる上で活用すべき、有用な特徴です」

 流石は超名門の家系といったところか。帝王学を納めたミューズのその指摘は、非常に説得力があるものであった。
 シャールは、それにこくりと頷く。

「なるほど、確かにミューズ様の仰る通りかもしれません。しかしいずれにせよ・・・私たちに今できるのは、待つことだけですね」

 

 

「強い自己顕示欲。それに見合う実力。そして、それを裏付ける実力主義と排他思想。しかし・・・君にとってはそのどれもが、真実の姿ではない。この席で改めて、そう感じ入るよ」

 地上の宴とは打って変わり、静寂に満たされた、海の中。
 その中にあって、うっすらと青白い光に満たされ、分厚い硝子の壁の向こうから仄暗い海の中を泳ぐ魚たちが、しきりに中の様子を伺うように周辺を遊泳している。
 移動要塞バンガードの海中艦橋に特別に用意された、この世でただ一箇所と言っていいであろう景色を堪能できる、至高の宴席。
 その席について実に満足そうな表情を浮かべたバイロンは、テーブルの向かいに座るラブに向かい、なんでもない様子でそう言った。
 バイロンの言葉を受け、ラブは咥えた葉巻から鼻腔を通じて大量の煙を吐き出し、実に鋭い視線を相手に向けながら口の端を吊り上げる。

「・・・バイロン卿。お察しの通り私はね、こんな下らんトレードなぞに興味はないのです。カタリナカンパニーはヤーマス塩鉱を餌にメッサーナの近衛軍団から資金を巻き上げるつもりだが、それで結果フルブライトに勝ったとしても、私にはなんの関係もない」
「心中、お察ししましょう。此の期に及んで今更メッサーナの犬というのは、些かドフォーレのご子息には不釣り合いだとは感じていたところです。そのお姿には亡き父上もさぞ、お嘆きでしょう」

 バイロンが眉ひとつ動かさずにラブを見返しながらそう言ってのけると、ラブは今度は上機嫌そうに笑い、そして葉巻を蒸した。

「はっはっはっは。流石はバイロン卿、矢張りフルブライトで話すならば貴方様ですな。それでは・・・そろそろ本題に入りましょうか」

 そう言ってラブが左手を軽く上げると、側に控えていた執事が一礼をしながらその場を立ち去っていく。それを見たバイロンもまた、側に控えさせていた執事を艦橋の外へと下がらせた。
 それを横目に見届けたラブは、テーブルの上に両腕を乗り出すように乗せて両の指を組み合わせ、微動だにせぬバイロンへと向かって語りかけた。

「貴方がフルブライトを手中にし、私は再びヤーマスをこの手にする。私は今宵の宴を、そのための門出の宴にしたいと考えているのです」

 ラブが、まるで確認でもするかのように静かにそう語りかける。
 すると、よく動いていた表情筋と違って一度も感情らしきものを示していなかったバイロンの瞳が、ここで微かに色めきたった。

「・・・私がフルブライトを手中に・・・とは、また酔狂なことを。既にフルブライト二十三世様が、社を率いておられますよ」
「バイロン卿。ここでそんな寝言はもう、無しにしましょうよ」

 テーブルに乗せた両肘を支点にしながらさらに身を乗り出すようにしながら、ラブはバイロンの瞳を覗き込む。

「カタリナカンパニーの連中は、大きな勘違いをしている。そもそも、アビスリーグと我々ドフォーレが・・・繋がっていないわけがない」

 ラブのその言葉に、バイロンの瞳は殊更に大きく揺らいでみせた。

「屈辱でしたよ・・・奴らの元で、一時とはいえ道化を演じるのはね。だが、その甲斐あって私はこうしてここに来た。今日この場を皮切りに、愚かな我が父では成し得なかった、完全なる経済の混沌と支配・・・それを私は、この手で成し遂げる」

 バイロンの瞳を射るように見ながら一気にそう捲し立てたラブは、そこで一息つくように身体を椅子の背に預けるように引き下げた。
 そしてうっすらと青い光が差し込んで怪しく赤紫に変色して見えるワイングラスを掲げ、一気に飲み干す。
 その様子を無言で見つめていたバイロンは、うっすらと目を細めるばかりだ。その視線は、いかにもラブを値踏みしている様子である。

「・・・アビスリーグ参画者は、その大いなる意志によって動いており、相互になんら連絡をとっているわけでもない。ただ、目的が同じだからこそ、行き着く先も必ず同じ。だからこそ私には分かるんですよ、バイロン卿」

 火の消えていた葉巻を再び蒸すように数度火元で空気を通し、そしてゆっくりとその煙を鼻腔に通した後、ラブはぐにゃりと悪虐しく口を歪ませた。

「いや・・・我らがアビスリーグ同志、バイロン殿。そうお呼びするべきですかな」

 ラブの言葉に呼応し、バイロンは僅かに口を歪ませ、その瞳を一層怪しく光らせた。

 

 

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第九章・2 -不敵な微笑み-

 

 カタリナカンパニーが世界最大の企業となり、強制的に経済結束を主導してアビスリーグに対抗する。
 最早、絵空事にすら等しいようなトーマスのその発言に、ハンス邸の会議室に集まった全員がトーマスに向かい驚愕と疑問とを伴う視線を向けた。

「おいおい・・・ベントの旦那、今の今でその方針ってのは、流石に無理がないか・・・?」

 あまりに荒唐無稽と思われるその発言に、さしものカンパニー敏腕営業部長ポールも、薄らと冷や汗を浮かべながらトーマスに苦言を呈する。
 トーマスとほぼ等しい程にカンパニーの内部状況を理解していると言って間違いない彼から見ても、様々な側面からその方針は、今の段階で採るべきものではないと思えたからだ。
 周囲の皆も、彼ほどではないにせよその空気感はわかっているのか、それが集合した疑問符として現れている。
 しかし。
 突如そこに、トーマスの爆弾発言に大いに賛同する声が、予想外のところから聞こえてきた。

「めっちゃ面白そうじゃん。それ、ウチも混ぜてよ」

 その声に驚いたトーマス以外の一同が部屋の入り口へと振り替えると、そこには、右腕に愛用のクマちゃんを抱えながら精一杯胸を張って仁王立ちをしてみせる少女、キャンディの姿があった。
 彼女の後ろには、ローブを羽織ったロビンも控えている。

「キャンディ、帰ってたのかい!」

 ノーラが最初に声をかけると、キャンディは大きく手を上げながらノーラに視線を返し、そのまま会議室の空いた椅子に向かっていく。
 そしてその場に集まった一同を素早く確認し、当然の流れの様にブラックに視線を止めた。

「ってか、おっさん誰?」
「けっ、その台詞はいい加減聞き飽きたぜ」

 ハーマンの時の彼しか知らないキャンディが疑問に思うのは当然だが、当のブラックはあまりに聞かれ過ぎたその誰何に、真面に答える気がない様子であった。
 気を利かせたミューズが簡単に経緯と正体とを説明してやると、キャンディは暫し興味深そうにブラックの全身や左足あたりを見回した後、その場での疑問追及は諦めた様子で改めて椅子へと腰掛ける。

「・・・っと、遅くなっちゃってごめん。ちょっと仕込みに時間掛かっちゃった。でも今の話ってことなら、ちゃんと手紙の通りに準備はばっちしだよ」

 キャンディが腰を下ろしながらトーマスに向けたその言葉に、ポールは再び疑問符を頭に浮かべる。

「仕込み・・・? キャンディ、そりゃ一体なんのことだ?」

 昨年の暮れ。
 ドフォーレ商会の一連の事件以降、ヤーマスにて商会立て直しその他の事後処理等をしてもらっていたキャンディへと書簡を届けるようロビンに託したのは、誰あろうポールなのだ。
 これは丁度、昨年末のコングレスが開かれる直前のことであったので、その時点でのルートヴィッヒとの協調体制などの現状を伝えると共に、連動してヤーマス内での新たな調査を依頼するためのものであった。
 なので、今のピドナの状況を見越した類の依頼など、そこに記した覚えは彼には全くなかったのだ。

「あぁ・・・ポール。それは俺が、別でロビンに手紙を渡していたんだ」

 即座にトーマスが名乗り出ると、ポールは首を傾げながらその内容を問うた。
 だが、トーマスに先んじてそれに嬉々として応えたのは、テーブルに大きく身を乗り出してきたキャンディであった。

「そ、ポールからのとは別で、トーマスさんからの手紙があったの。中に書かれていたのはね・・・フルブライト商会への探りと、何個かの仕込みについてだよ」

 ニヤリと笑みを浮かべながらのキャンディのその言葉に、場の一同は改めてトーマスへと視線を向ける。
 特段その中でも、ポールの瞳は全く驚きを隠すつもりもないほど大きく見開かれたもので、これにはトーマスも思わず苦笑いを浮かべてしまうほどであった。

「おいおい、まさか旦那のいう世界最大って・・・。てかキャンディが既に仕込みをしているっつーことは、この展開まで・・・あんたは読んでたってのか・・・!?」
「・・・いや、全てを読んでいたなんてことはないさ。ただ、フルブライト二十三世様からの依頼を受けた時点で、我々が選択する可能性の一つ、としては考えていた。だからいざという時の為に、キャンディに幾つかお願いをしていたまでだよ」

 トーマスとポールの会話は、キャンディを除いたその場の面々には今一、内容の理解に苦しむものであった。そこで、キャンディと同じく空いた席に腰をかけたロビンが口を開く。

「確かに私が書簡を渡したし、ヤーマスではキャンディさんに頼まれて色々と調べに動いたが・・・。あれらの調査には、一体どんな意図があったのだ・・・?」

 ロビンの言葉に今度こそトーマスが応えようとしたが、しかしそこに、やたら興奮気味のポールが割って入った。
 そんな彼の表情は、どこか呆れたような引き攣ったような、そんな表情だ。

「そんなん・・・もう決まってる。トーマスの旦那・・・あんた、フルブライト商会を『買う』つもりだな・・・?」
「な・・・フルブライト商会を!!?」

 とんでもないことを言い出したポールに、思わずシャールが驚きの声を上げた。それと同時に、ぱきり、と音がして彼の装着する銀の手が、持っていたティーカップのハンドルを割ってしまう。
 その声色が含むのは、単なる驚きの感情だけではない。お前たちは、なんたる不敬、なんたる畏れ多いことを口走るのか。その様な感情の方が、寧ろ一番に読み取れるような声だった。
 これは何も、シャールだけがそう感じるということではない。恐らくは世界中で大多数の人間が、彼と同じく感じることであろう。
 フルブライト商会という存在は、それだけこの世界にとって特別な存在なのだ。
 何しろ先ず、この世界で経済に関わる者ともなれば、フルブライト商会の名声とその偉大さを知らぬ等という不届き者は、まず間違いなく存在しないだろう。
 それどころか、例えば商い事とは全く無縁の、それもフルブライト商会の本拠地であるウィルミントンから遠く離れた貧しい農村に住まうような子供たち。その子供たちでさえ、酒場で謳う流れの吟遊詩人や聖王教会で教えられる数々の逸話の中で、その名前程度は耳にしている子供の方が圧倒的に多いはずだ。
 三百年の昔、人類が四魔貴族との死闘を繰り広げたその最中。様々な場面で宿命の子たる聖王を助け、時の世界経済を纏めあげ、聖王軍の勝利に貢献した偉大なる存在。
 それが、フルブライト商会なのである。
 その威光は今も全世界に届いており、この三百年、世界の経済界を常に牽引してきた存在。まさに、名実ともに世界一の企業とは即ち、フルブライト商会のことを指すのだ。
 そのフルブライトを、買収する。
 それが、トーマスの狙いであろうとポールは言ったのである。
 あまりに突拍子がなく、そして荒唐無稽に聞こえてしまうのも無理はないことであった。
 そしてそこに、今度はノーラが理解に苦しむ様な表情で声を上げた。

「ちょっと待っておくれよ。あたしにはその狙いとかあんま良く分からないんだけどさ・・・でも今は、兎に角ピドナの状況を何とかするのが先決なんじゃないかって感じるんだけど、違うのかい?」
「うむ・・・私もノーラ殿と同じ考えだ。単に優先順位として、今は一刻も早くアルフォンソ海運などへの融資などを起点に状況打開をするべきではないのか?」

 ノーラに続き、シャールも執事にティーカップを交換してもらいながらそう付け加えた。
 確かにこの流通の孤立状態を打開しなければ、ピドナの状況はどんどん悪くなるばかりだ。そこを先ずどうにかしなければならないと考えるのは、至極当然のことの様に思われた。
 だがしかし、それは実際には悪手である。
 そうトーマスは確信していた。そこをしっかりと説明せねば、この先の意図にも理解は示してもらえまい。
 トーマスはそう思い、テーブルの上で両手を組み直しながら腰を据えて解説を行おうとする。
 が、そこでミューズが他者とは少し様子の異なる視線で、自分のことをじっと見つめていることに気がついた。その瞳は他者と同じく疑問を持つというよりは、此方の考えを既に察しており、その答え合わせを待つというような色合いだ。
 なので思い直したトーマスは彼女に発言を促す様に、彼女に視線を合わせてから眉を上げ、薄く微笑んで見せる。
 勿論ここは自分から説明しても構わない場面だが、ミューズを介した方が話が早かろうと判断したからである。彼女の持つ魅力、言い換えれば生まれつきのカリスマ性というのは、本人が思う以上に大きいことを彼は知っていた。
 ミューズはトーマスの意図を汲み取り多少驚いた様子だったが、即座にそれに返す様に、浅く頷いた。

「では・・・私からご説明します。恐らく・・・トーマス様の狙いは、より大局を見据えたものです」

 ミューズの開口に皆の視線が集まると、彼女はその場の一人一人に視線を移しながら語り始めた。

「確かに現在のピドナは、流通の断絶によって一時的に外部から孤立しています。この状況は早急に打開しなければ、先の通り他国に侵攻の口実を与える様なもの。それは、紛れもない事実です。ですが、初手で流通改善への着手は根本解決どころか・・・一時凌ぎにすらならない可能性が高いのです」

 ミューズの語ったことは、こうだ。
 アルフォンソ海運やメッサーナキャラバンへの融資、若しくは買収という選択肢。これを現時点で行うことによって得られる効果は、流通の改善までには全く至らない。
 そもそも魔物に破壊された多くの荷馬車や船は直ぐに作り直せるわけではないし、人々に植え付けられた襲撃への恐怖心もまた、修復には相応の時間が掛かる。つまり融資か買収の何れかを行ったところで、即座に以前の状態に戻る、ということはないのだ。
 そして何より、仮に流通環境が以前と同様まで即座に整ったところで、結局のところ魔物に再度襲われるリスクそのものは、全く改善されていない。
 そうなると、作っては破壊されて、の圧倒的に不利な消耗戦を強いられる可能性が高く、襲撃を恐れた従業員の業務拒否も当然考慮せねばならず、それらへの対策が別途必要になってくる。
 単純に、これでは非効率極まりない結果が見えているという話なのであった。

「・・・対して、トーマス様の言うフルブライト商会へのトレードには、その困難さに比例した大きな利点が、三点ほど考えられます。先ず一点目は・・・アビスリーグの組織規模をより正確に読み取り、その正体に近づくこと。つまりは、事態の根本解決を確実に進められることです」

 これの根拠は単純だ。
 まず世界最大企業たるフルブライト商会の買収が仮に成功した場合、フルブライト傘下の世界各国企業をそのままカタリナカンパニーに組み込むこととなる。
 実のところ、複数地方を跨ぐ規模で企業運営をしている商会は数えるほどしかなく、直近ではフルブライト、ドフォーレ、ラザイエフ、そしてカタリナカンパニーがそれに該当する程度だった。
 このうちドフォーレは既にカタリナカンパニーが買収しており、事実上カタリナカンパニーは規模だけで言えば既に世界二位の企業規模となる。そこが更にフルブライトを買収するとなれば、世界に散らばる企業のかなり多くをグループに抱えるということになるのだ。
 そして現時点で、カタリナカンパニー内にアビスリーグからの接触がないことは内部監査済みである。
 これはフルブライト二十三世から話を聞いた直後にトーマスが全支店の昨年帳簿を直接隅から隅まで確認しているので、間違いないことだった。
 アビスリーグは世界各国で活動しつつ同盟範囲を広げておきながらも、世界第二位の規模にまで広がっているカタリナカンパニーと一切接触がない。これは、その事実に安堵する反面で、非常に不可解でもあった。
 それこそ「意図的に避けている」とでも考えない限りは。
 これは、トーマスは事実その通りなのだろうと踏んでいた。
 カタリナカンパニーに関われば、必ず尻尾を掴まれる。それを向こうが理解しているから、敢えて避けているのだ。
 これには思わず、敵ながらいい判断だ、とトーマスはほくそ笑んだものであった。
 トーマスが副社長として実質的に全権を握るカタリナカンパニーは、その内部規律と監査の精度において、他企業では全く比肩できないほどに高度精密化されている。
 元よりこれは、トーマスがフルブライト商会の歴史的な威光と世界に及ぼした影響に多大なる感銘を受け、企業という組織がその影響度からして持たざるを得ぬ「世界に対する社会的責任」を果たす上で絶対に必要であると考え、徹底して実行しているからに他ならなかった。
 経済という巨大な力を持つからこそ、それを統制するための仕組みと外部影響はしっかりと考えねばならない。その気概と実行の精度が、蓋を開ければ既にフルブライトのそれを凌駕していた。それだけの話なのであった。
 そのカタリナカンパニーがフルブライト商会を買収すれば、フルブライト商会の中にアビスリーグの手が伸びている場合、必ず買収の最中に分離するだろう。
 そうするとその分離企業を最優先調査対象としつつ、残りはラザイエフ商会関連企業と、各都市にある独立企業群、そして旧ナジュ王国領の企業群あたりまで絞ることが出来る。
 ここへの調査も買収と並行して行う事で、アビスリーグの本丸へと確実に迫ることができる筈なのだ。先ずはこれなくして、事態の根本的な解決には至らないのである。

「第二に、フルブライト商会の浄化救済を行うことができます。フルブライトとアビスリーグを切り離すことができれば、商会に残り内部調査をされているフルブライト二十三世様のご安全を確保することができるでしょう。最初にアビスリーグの存在を察知したあの方の安全を確保し、改めてその助力を得る事で、更なる迅速な真相解明が期待できるものと考えられます」

 買収によりフルブライト内部に巣食うアビスリーグの手のものを切り離せられれば、これは可能であろう。
 フルブライト商会という存在は、今後も世界にとっては必ず必要になる。そしてそれを統率すべきは当然ながら自分などではなく、高潔なるフルブライト十二世の意志を継がんと奮闘するフルブライト二十三世でなければならない。そうトーマスは考えていた。彼を危険から救い出すことは、正に世界の今後を左右する一大事であるのだ。

「最後に・・・他国のピドナ侵攻判断を遅らせる効果、です。他国が攻め入るまでの猶予ですが・・・恐らくはあと一ヶ月もこの状況が続けば、何れかの都市の軍団が攻め上がってくる可能性はかなり高まるでしょう。ピドナの現在の異変状況は、あと一週間もしないうちに各国に広まります。若しくはアビスリーグが裏から手を引き、既に各都市国家に侵攻を煽っている可能性も考えられます。戦の準備には従来なら短くとも半年程の準備期間を要するとされますが、混乱を突いて各国家の常備軍と備蓄だけで攻め上げるなら、そこまで時間は掛からないでしょう。つまり、その前に彼らを思いとどまらせる何らかの『事件』が必要です。このトレードは、それも兼ねているのだと考えられますが・・・如何でしょうか」
「・・・全くその通りです。ミューズ様、流石のご慧眼ですね」

 こちらの狙いを細部に至り把握してみせたミューズに内心では舌を巻く思いだが、トーマスはそれを望外に嬉しく思いながら微笑み返した。
 三百年の間に渡り世界経済を牽引してきたフルブライト商会への、トレード勃発。これは、全世界が注目せざるを得ない一大事になることは間違いがない。
 そして今回特に重要なのは、それを行うのがピドナに本店を置くカタリナカンパニーである、という点だ。
 奇しくも昨年末のコングレスによってルートヴィッヒ軍団長と、世論に英雄視されるミューズの繋がりが大々的に世界へと示された。そしてその場に、一企業人に過ぎないはずのトーマスが立っていたことを知らぬ各国要人は、居ない。
 経済界においてはカンパニーとクラウディウス家の繋がりは元から判明していたことなので、そこに大きく疑問を抱く者はいなかったであろう。
 そしてそのカタリナカンパニーが、この世界からの孤立状態の渦中にあって、フルブライト商会へトレードを仕掛ける。
 これはつまり、それを実行するだけの余裕がピドナにはある、という事実を世界に知らしめることに他ならない。
 流通と経済の危機という客観的事実と大いに相反するこの事態が起これば、各国は否が応にも慎重に出方を探らざるを得なくなる、というわけである。
 更にいうならば、昨年末コングレスの場でトーマスはカンパニーとフルブライトの同盟破棄を宣言している。この宣言が、ここで予想外に外交思惑に響いてくる。
 コングレスの場では『特段この同盟破棄がカンパニーと近衛軍団との新たな蜜月を表すものではない』との補足を敢えて行っている。だが、ここに至ってカタリナカンパニー対フルブライトのトレードなどが起これば、あの補足が信ずるに値する、などと愚直に考える者の方が少ないのは、火を見るよりも明らかだ。
 これらの意味するところはつまり、この経済危機が『事実なのかフェイクなのか』を各国は何としても見極めなければならなくなる、ということだ。

「・・・旦那、狙いはわかった。だが、肝心のトレードに充てる資金は一体どうするつもりなんだ。ドフォーレ買収の影響はガッツリ残っている。即座に動かせるオーラムは、ぶっちゃけ殆どないはずだが・・・?」

 頭に被っている帽子の特徴的な突起部分を手で弄りながら話を食い入るように聞いていたポールは、一呼吸置いてからトーマスに向かい冷静に問うた。
 彼の指摘は、実に的確だ。なにしろトレードを行うには、ただでさえ莫大な資金が必要になる。そして今回のトレードで狙い通りの効果を目論み行うとなれば、前回ドフォーレの倍以上の稼働資金が必要になるのは間違いない。
 残念ながらカタリナカンパニーにそのような資金は、ない。それはカンパニー内部の情報を把握しているポールには、聞くまでもなく分かりきっていることだった。
 更には、唯一の隠し球であった旧クラウディウス家縁の者たちからの融資も、ドフォーレ戦で用いてしまったのでもう期待はできない。
 その上で、フルブライトに勝負を挑むだけの資金が確保できるとは、到底思えなかったのであった。

「そうだね・・・ただそこは、一応は策があるんだ」

 トーマスは、どこか不敵に笑いながら言った。その表情が大層不気味に見えてしまい、ポールは思わず背筋に震えを感じながら、怖いもの見たさで次の言葉を所望した。

「・・・旦那、一体どうするつもりなんだ・・・?」
「・・・簡単なことさ。ドフォーレが敢えてやらなかった手段を、我々がやるだけだよ」

 そうしてトーマスが少し俯きながら微笑む様は、その場の誰もに等しく、恐ろしいもののように映ったのであった。

 

 

 三百年の昔、かの聖王三傑たる玄武術師ヴァッサールの発案から作り上げ、そこから二度に渡り魔海侯フォルネウス討伐という偉業を成し遂げた海上要塞都市バンガード。
 建造から三百年の時を経て、つい最近に再び大地の鎖を断ち切ったバンガードは、ルーブ地方とガーター半島を結ぶ要所兼、新たに内海と西太洋の海上直通路として、世界中から大いに注目される地となっていた。
 今宵、その海上都市の中でも最も高貴なホテルの宴会場にて、非常に豪奢な催しが開かれていた。

「ようこそおいで下さいました。誠に細やかなおもてなしではありますが、今宵は是非とも楽しんでいかれてください」

 ホテル前に到着した数台の馬車による一団を仰々しい一礼とともにエントランスで迎えたのは、その夜の催しを開いた主催の男だった。
 その男は、非常に肥えた身体をこれでもかと着飾っており、煌びやかな衣服と数々の宝飾品がその動きに合わせてジャラジャラと音を立てている。
 その装飾品だけで開拓民が一生暮らすに困らないであろうほどのものであるが、それらを全く惜しげのない様子でひけらかしながら、ゆっくりと顔を上げた男は馬車から降りてきた今宵のゲスト一団に改めて向き直る。

「・・・まさか、我々がこうして貴殿のおもてなしを受けることになろうとは。以前ならば、思いもしませんでしたな」

 馬車から降りてきたゲストの中で、明らかに周囲と異なる風格を漂わせた老紳士が、ホストの男に向かって軽い会釈をしながらそう告げる。
 この老紳士こそ、世界第一位の企業規模を誇るフルブライト商会の、営業本部長を任される人物であった。フルブライト商会の現会長の先代にあたるフルブライト二十二世の時代から長年辣腕を震ったとされる、業界内ではかなり名の通った大御所である。

「ははは、全く同感です。生前の父は、よく貴方のことを愛憎混じりに語っていましたよ。数奇な運命の末にこうして私が貴方に持て成しの場を用意できたこと、光栄に思います」
「それはそれは・・・ふふ、貴殿も随分と棘が抜けて、ご成長なされた様子。今宵この時ばかりは、日中の闘争を忘れて楽しませていただくとしよう」

 表面上の口上とは全く異なる剣呑な雰囲気を纏った両者は、しかし互いに固く握手を交わしながら微笑んだ。
 商業ギルドに申請された瞬間から世界を震撼させた、フルブライト商会とカタリナカンパニーによる、世紀の一大トレード。
 その実施会場として指定されたこの海上都市バンガードにて、本トレードのカタリナカンパニー側代表として挑む人物こそ、今宵のホストであった。

「・・・さぁ、どうぞお入りください」

 そう言いながらゲスト一団をホテル従業員に会場内へと案内させ、男は会場入りする一団の背中をじっと見ながら、やがて懐から葉巻を一本取り出す。
 彼の側に控えていた執事が慣れた手つきで葉巻の吸い口をシガーカッターで切り落とし、火をつけた。
 何度か吸って火のついた葉巻から、たっぷりの煙を鼻腔を通じて燻らせる。そうしながら男は、どこか憎らしげな表情を浮かべながら、一人その場で凄みをきかせた。

「・・・ったく、どいつもこいつもこの俺様を舐めくさりやがって。今に見てやがれよ・・・」

 世界で最も注目される史上最大のトレードを仕切る、カタリナカンパニー側の人物。
 今こうして葉巻を燻らせるその人物こそは、つい最近まで世界第二位規模の巨大企業を一手に率いていた経済界随一の剛腕、ラブ=ドフォーレその人であった。
 ラブは吐き捨てるようにそう言うと、その「剛腕」の名に似つかわしく実に含みのある笑みを浮かべながら、火をつけたばかりの葉巻を惜しげもなく地面に放り捨て、ゆっくりとした足取りで賑やかさを増す会場へと入っていった。

 

 

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第六章・12 -トレードの終結-

 

「ひっさしぶりじゃん。ウチとのトレードほったらかして、二週間も行方くらましてくれちゃってさぁー?」

 相変わらず地べたにへたり込んだ状態のラブを見下ろしながら、キャンディは彼女なりに最大限嫌味っ気たっぷりな表情でそう言った。とはいえその幼い表情からは嫌味というよりは多少生意気程度の印象しか与えられない様にも思われるが、それでも今のラブには効果的だったようだ。 
 怯えの色が顔に浮かんだラブに気をよくしたのか、キャンディはそのまま畳み掛けるように、脇に抱えていた一枚だけの書面と分厚いファイルを其々彼の目の前に投げ落とした。ラブはそれを虚ろな視線で追い、うっすらと唇を動かす。

「これは・・・」
「紙っぺらの方には、あんたらの現在の総資産が書いてあるよ。ま、超マイナスだけどね。んで束の方には今回の騒動で縁切りを決めた、あんたんとこの元提携企業リストとそれによる減資産額、各港からの返品要請の武具とか交易品とか貯蔵塩量、及びその返金額ね。あとは各国の規定に応じた取引禁止品目を扱ったことによる罰金。取引が行われた数だけあるから、これがアホみたいに膨大な数字になってるかな。ありがたく思ってよね、態々ウチが全部調べて計算してあげたんだから」

 キャンディの言葉を聞いて、依然として呆然とした様子のラブが一枚の紙を手に取る。そこには、確かに自社の名前。そして総資産には、こう記されていた。

【−500000000 aurum 】

「マイナス・・・五億オーラム、だと・・・?」
「そうだよ。マイナス五億。細かい数字はそっちのまとめたやつ見てくれればいいけど、結果はそれ。ま、これから各国憲兵がどんないちゃもんつけてくるのかは知らないけどね。でも現状の数字と規則に則った罰金の差し引きは、その数字」

 キャンディの言葉を聞き終わる前に、ラブはまるで目覚めた瞬間遅刻を悟ったかの如くに大慌ての様子で用意された資料に齧りつくようにしながら、その内容を食い入るように確認する。
 マイナス。
 マイナス。
 マイナス。
 その資料に記された数字は、そのどれもが資産減算の嵐だった。そしてそれらは全てキャンディの言う通りの項目で構成されており、彼が見る限りでもその資料には、絶望的な程に疑いの余地がない。
 有り得ない。これは、全く有り得ないことだ。ラブは無意識のうちに、有り得ないと繰り返し呟いていた。
 何故こうなってしまったのか。彼は殆ど機能していないであろう思考能力で、この自体の責任がどこにあるのかを考えた。
 そして、一つの答えにたどり着く。

「・・・そうだ、親父が悪いんだ・・・。こんな、化け物になっちまってこんな騒ぎを起こして・・・」
「・・・あーさっきのあれ、モンテロ氏だったのか。成る程ね、確かにその方がやり易いか」

 ラブの呟きに応えたのは、キャンディの後ろからひょいと顔をのぞかせた男だった。まだ年若い様相で、手には先ほどまで魔物と戦っていた名残からかロングソードを持っている。

「おっと、こりゃ失礼。お初だったな、ドン•ドフォーレ。俺はポールってんだ。一応、カタリナ・カンパニーの営業部長を任されている。ちーっと野暮用があったんで登場がトレードの最終局面になっちまったが、まぁよろしくな」
「トレード・・・?」

 ラブがポールの言葉に対してそれだけ答えると、ポールはにんまりと笑みを浮かべながらロングソードを腰の剣帯に仕舞いつつ頷いた。

「そうさ、トレードだよ。俺はそれを終結させるために、ここにきたのさ。って事で悪いがキャンディ、管理員連れてきてもらっていいか?」
「おっけ。あ、あとでご飯おごる約束、忘れないでよね!経費切るの無しだからね!」
「お、おう、もちろんさ。俺も男だ、二言はない。パーっと祝賀会して、たらふく食わしてやるよ。シーホークのフィッシュボールと豆スープは絶品だからな」

 呆気にとられているラブの目の前で、ポールとキャンディは明るい様子で話を進めていく。
 そして程なくしてキャンディがその場に集まっていた群衆の中からトレード管理員の手を引きながら引っ張り出してくると、ポールはラブに向き直って言葉を続けた。

「さて、キャンディが纏めてくれたその資料には一通り目を通してくれたと思うが、御社の現時点の資産はマイナス五億オーラムだ。因みにこれは、今現在のトレードにてそちらが拠出している三億オーラムを加味していない。これはトレードルールに於いて、トレード拠出金はトレード終了まで出資者であろうと動かすことはできないという部分に拠る」

 そうだ、そういえば自分は彼らとトレードをしていたのだった。ポールの言葉を受けながら、ラブはぼんやりとその事実を思い出していった。

「もう数日もすれば、各国の軍団がお前さんの捕縛令状と罰金の回収のために来るだろう。つまり会社存続の為には、少なくともお前さんはお縄になる前のこの数日の間に五億オーラムを用意しなければならないわけだが・・・」

 最早ドフォーレに、そんな拠出金はない。そんなことはこの目の前の男も、最初から分かっているはずだ。ラブは即座にそう思った。ドフォーレ商会の現在の主軸事業は、間違いなく塩なのである。これが消えれば他の事業の利益分で五億などという数字を賄うことが不可能なのは、部外者でも分かりそうなものだろう。
 ポールはまるでそんなラブの思考を読んでいるかのように、口の端を釣り上げて笑って見せた。

「さて・・・ここでお前さんに、我らの本取引における最大のステークホルダーを紹介しておこう。さぁ、こちらへどうぞ」

 ポールがそういって彼らの後方にいた中の一人に声をかけると、二人の人影がラブの前に姿を表した。
 一人は、とても美しく淡い海色の髪の美女だった。マクシムスガードの金髪の女に勝るとも劣らない、この世の美を集めたような輝く容姿。それはまるで神の手によって作り出された完璧な美術品のような女性だと、ラブは場違いに考えた。そしてその女性の後ろに控えるようにして立っているもう一人は、屈強という言葉をそのまま体現したかのような目つきの鋭い白髪短髪の浅黒い肌をした男だ。その全身は簡素な格好だが何故か右腕だけが二の腕あたりまで美しく神々しい手甲で覆われており、その圧倒的な存在感だけで生半可な賊などは怯んでしまうことだろう。そんな二人の居並ぶ様は、宛ら美しき女王とそれを守護する騎士の如く。
 無論それは、ラブだけが感じた印象ではない。その場に集まり動向を見つめていた民衆全てが、同じように感じ入りながら二人を見つめていた。

「お初にお目にかかります。私は、ミューズ=クラウディア=クラウディウスと申します」

 ミューズの美しい声色で耳に入ってきたクラウディウスという名に、ラブは当然ながら、聞き覚えがあった。それこそは神王教団のメッサーナ王国での台頭のために没落したピドナの名門貴族にして、嘗て経済界に君臨した大商会の名だ。無論のことラブにとっては、商会としてのクラウディウスの方が印象には強く残っていた。あの規模の商会が没落するのは、世界経済に於いてはとても大きな事件だったからだ。

「察していると思うが、こちらはかつてあった大商会、クラウディウス商会のご令嬢だ。元々旧クラウディウス系の企業は弊社に数多く合流しているが、本日は彼女が一門を代表して個人的にカタリナ・カンパニーへ出資してくださるということで、わざわざ弊社の社運を賭けたこのトレード会場へとお招きしている」
「はい、そういうわけなのです。それでは早速ですがポール様、どうぞこちらを」

 そういってミューズは、ポールへと一枚の書状を手渡した。ポールは態とらしくその書状を広げて中の文を確認すると、へたり込んでいるラブに合わせてしゃがみ込んだ。その座り込み方が所謂盗賊座りと揶揄される座り方だったので、シャールが微妙に眉間にしわを寄せている。

「さて、たった今クラウディウス家から融資を受けた。なんとその額、二億オーラムだ。流石はあのクラウディウス一族。一中小企業じゃ逆立ちしても集まらない資金だ。さてラブさんよ。この二億だが・・・意味は、わかるな?」
「・・・それを、このトレードに拠出するというのか」

 幾分か冷静さを取り戻した様子のラブの言葉に、ポールはご名答とばかりにニヤリと笑って見せた。

「・・・一体何のためだ。最早、ドフォーレ商会は死に体。仮に残っても、もう企業としての価値はない。お前達がそのような金を使ってまで買収する意味など、何もないだろう」

 ラブはこの場の急展開を眺める中で、何故かとても頭の中がすっきりしたような感覚にあった。そのお陰か先程までの混乱が嘘のように今は冷静さを取り戻し、そしていつまでも尻餅をつくようにへたり込んでいるのも具合が悪いと思い胡座を描くように座り直しながらポールにそう問うた。 
 つまるところ何のつもりかは知らないが、ポールはたった今融資を受けたばかりの二億をトレードに拠出するつもりのようだ。そうすると、トレードの場にはドフォーレの三億とカタリナカンパニーの二億、計五億オーラムが並ぶこととなる。
 そして今回のトレードを仕掛けたのは、カタリナカンパニーだ。ここで仮にドフォーレがトレードの敗退を宣言すれば買い手・・・つまりカタリナカンパニーの勝利となり、受け手であるドフォーレには買い手側拠出金の全額が振り込まれることになる。つまりドフォーレには、自らの拠出した金額と合わせて五億が振り込まれるということだ。それがあれば、今現在直面している総資産のマイナスを消すことは出来る。そうなれば、取り敢えずドフォーレ商会が潰れるということは、なくなるのだ。
 しかし、果たしてそのようなことを彼らがする意味はなんなのか。それがラブには、全く分からなかった。

「あれ、お宅聞いてなかったのかい、うちの従業員達が何て言ったか。なぁ?」

 ポールはラブの言葉にそう応え、又しても後ろの人影に声をかけた。
 それに応えて現れたのは、二人の美しい女性だった。服装こそあの時と違えど、ラブにとっては忘れもしない、それこそはこれらの出来事の予兆にあたる『宣戦布告』を行なった、マクシムスガードと思われる二人であった。

「ご無沙汰しておりますわ、ラブ=ドフォーレ様」

 そういってモニカが恭しく着衣の裾を摘み上げてお辞儀をする。対照的にエレンは、興味薄げに見下ろすのみだ。

「彼女らは、ちゃんと言っただろ。お宅らの『宝物庫』の中身を全部買い取る、ってな。俺はまぁ、ちょいとそれに用があってね。そりゃ勿論お宅らが潰れてから回収してもいいんだが、そっちの方がこっちにとっても色々と面倒だしな。なら買い取る方が合理的ってわけだ」

 ポールの言葉に、しかしラブは最早どうでもいいという風にふんと一息だけついた。
 確かにドフォーレの港の隠し倉庫に置いてあるものは、世界各地から様々な非合法手段を用いて集めてきた貴重品ばかりだ。だがそれだけに、これらは即座に金に変えることができない。中長期的な資金繰りの一環として、または神王教団等の他方勢力との協力の一環として行なっていたことだが、これも最早、今の彼にとってはどうでもいいことだった。
 文字通り、今の彼はそれらに価値を見出していなかったのだ。
 しかしそれは諦めともどこか違う、彼自身にも理解の及ばない不思議な感覚だった。何故自分は、あのような目的のもとに動いていたのか。それが今になって、何故か全く理解できないでいた。

「・・・好きにしてくれ。もう俺には、何も残されてはいない」
「そうさせてもらうよ。ってことでほれ、キャンディ」

 ポールはそこで改めて、管理員の横に立っていたキャンディを呼び寄せた。

「締めだ。よろしく頼むぜ」
「・・・なーんか癪に触るけど、まぁいいよ。お膳立てに乗ったげる」

 どこか腑に落ちない様子のキャンディだが、しかして本件の止めを担うことには悪い気はしない。気を取り直してふふんと鼻を鳴らすと、改めて管理員へと歩み寄り、会心の笑顔で以って無言で手を伸ばした。
 そんなキャンディににこりと笑顔で応えながら管理員が懐から取り出した書面を受け取ると、キャンディはそのままラブの前にどかりと座り込んだ。そして彼女はラブにその書面を突き出す。

「言ったっしょ。ウチは、このトレードに勝つって。有言実行、しにきたよ」

 太陽の光を反射するように爛々と目を輝かせながらそう言うキャンディに対し、ラブは思わず自嘲気味にふっと笑った。
 そう、彼は確かにこの少女を初見で見下し、舐めてかかった。あの時点で自分がもっと様々なことを考え慎重に事を運ぼうとしていれば、ひょっとしたら今とは違う結末があったかもしれない。
 だが、自分は選択を誤った。そして言葉通り、この少女に負けたのだ。
 しかし不思議と、悔しいという気持ちは彼の中に湧いてこなかった。
 寧ろ全てが終わった事でいっそ清々しさすら覚えつつ、しかしそれでは目の前の少女も納得行かなかろうと思い、ここは敢えて憎まれ口を叩いてやることにする。

「・・・まさかテメェみたいなガキに、このドフォーレが負けるなんてな。くそむかつくぜ」
「言ってろ豚野郎」

 お互いが口汚く罵り合いながら皮肉交じりに笑ったかと思うと、ラブはキャンディから書面を受け取り、管理員が差し出してきたペンでさらさらと署名を施した。そしてその書面を、ペンごとぶっきらぼうに管理人に突き出す。

「ほらよ・・・ドフォーレ商会は現時点にてカタリナカンパニーの買収提案と提供資金を受け入れる事とし、本トレード終了を要請する」
「・・・確かに、確認致しました。それでは、これにて本トレードの終結と致します。双方の拠出金はルールブックに則り即座にドフォーレ商会へと入金を行います。また、本件は買収規模が非常に大きいため、速やかに業務統合の手続きにお進みください」

 管理員がそう宣言したその瞬間に、キャンディは堪らず飛び上がった。

「いぃぃぃよっしゃああああ!!」
「っち、いちいちイラつくガキだぜ・・・」

 ラブはキャンディの様子に悪態を吐きながら、しかしやはり何処か晴れ晴れとした面持ちで空を仰いだ。

 

ドフォーレ事変エピローグ side A

ヤーマス商業ギルド中央会館、トレード管理員の業務日誌より抜粋

『某月某日。投書にてトレード申請あり。なんと、ピドナの企業によるドフォーレ商会を相手取る旨のトレード申請だ。これはヤーマス商業ギルド発足以来最大の珍事と言える。申請企業名は、カタリナカンパニー。メッサーナジャーナルの経済欄では最近よく名前を見る企業だが、これは流石に無謀としか言いようがない。担当するのが自分かと思うと、今から気が重い。ドンは機嫌を損ねると厄介なんだ』

『某月某日、トレードが開始された。が、なんとカタリナカンパニーの代表として会館に訪れたのは、年端も行かぬ少女だった。それこそ、私の息子と変わらんような年頃だ。その後ドンドフォーレも会議室に訪れ、開始宣言後に即座に三億オーラムの拠出。怯える少女のことを見て居られなかったが、なんとその後に売り言葉に買い言葉なのか、少女はドンドフォーレに必ず勝つなどと喧嘩を売ってしまった。その後に色々と資料請求をしてきたが、最早結果は見えているだろう。せめてあの少女があまり過酷な目に遭わないように願うばかりだ』

『某月某日。今日は朝から慌ただしかった。年に一度の麻薬取締ショーかと思ったら、今回は規模が段違いだ。ドフォーレさんも普段よりピリピリしていたように感じる。こちらも許可証等々の発行で港と往復しっぱなしで大忙しだった。昨日から寄宿しているキャンディという少女はうちの取引帳票を勝手に漁っているようだったが、構っている暇もない。問題を起こさなければいいのだが』

『某月某日。とんでもないことが起こった。ヤーマス塩鉱に麻薬精製工場が併設されていたなんて、これは商都ヤーマス始まって以来の大事件だ。ドフォーレさんは体調不良だとかで全く会えないし、麻薬捜査官は慌ただしく一部が引き上げていくし、これから一体どうなることか。こうなると開催中のトレードも、雲行きが怪しくなってきた。キャンディさんは二週間待ってくれと言っていたが、こんな状況では最早トレードどころではないのではなかろうか。しかし職務上放棄するわけにもいかない。とにかく今は状況を見極めるしかない』

『某月某日。麻薬精製工場発見から一週間が経ったが、特に大きな動きはあれからない。ドフォーレさんは相変わらず出てこないし、捜査官も何やら手詰まりの様子だ。今しばらくはこの状況が続くのだろうか。私もすることがないので、今日もキャンディさんと帳簿の整理をしていた。あの子はとても利発的だ。それに妙な人懐っこさがあるので、すっかりこのヤーマスの中央会館内でも人気者になった。彼女の提案でこれまで雑多な管理だった帳簿の整理もとても進んでいるし、とても助かっている。トレードの結果が彼女にとって有益なものになるよう、職務柄肩入れが厳禁なのはわかっているが、願わずにはいられない』

『某月某日。来訪者があった。カタリナカンパニーの営業部長ポールと名乗る男だ。キャンディさんと会った途端にポールという男は何故か驚くしキャンディさんは何やらとても怒った様子で詰め寄っていたが、すぐに二人で部屋に閉じこもって色々と打ち合わせをしていた。その後同じくカタリナカンパニーの従業員を名乗る三名が来訪した。男性一人は緑っぽかった以外にあまり印象にないが女性二人は非常に美しく、館内の皆が見惚れていた。眼福とはああいうものをいうのだろう。その後はキャンディさんだけがまたこの場に残り、初日の時のように何やらずっと計算を繰り返しているようだった。途中様子を見に行った時の彼女の表情は、初日に比べてどこか安心したようだった。やはりあの年頃で一人でここにいるのは負担もあったのだろう。彼女が年相応の子供であるということに、もっと意識を向けなければならなかった。管理員以前に、一人の親として私も反省せねばならない』

『某月某日。またしても大事件だった。このヤーマスの街中に二度も魔物が暴れるなど、まるで聖王様以前の時代のような大事件だ。しかもこの日は、更に歴史的な瞬間でもあった。あのドフォーレが、トレードで敗北したのだ。まさか本当にキャンディさんの勝利で終わるとは、この仕事をやって二十年になるが私も全く予測できなかった。しかし、本当に喜ばしい限りだ。彼女の元でなら、ドフォーレはきっと良き企業として再生するものと信じられる。また驚くべきことに、あの名門クラウディウス商会のご令嬢と名乗る女性にもお目にかかることができた。クラウディウスは私の知る限り最もコンプライアンスに優れた企業だったが、清廉という言葉を表したような美しさのご令嬢を見ると、それは当然だったのだと確信する。これを機にクラウディウスも再興すると言うのなら、それは経済界にとっては大いに歓迎するべき事だろう。兎に角、今夜はこれから祝賀会だ。トレードが終わったからこそ、私も是非とも一言お祝いの言葉を述べに駆けつけなければならない』

『某月某日。珍しくメッサーナ王国軍から早々に正式な事件のあらましが公表された。なんとあの事件の魔物の正体は、ドフォーレ商会会長のモンテロ氏に化けていたということだったのだ。ラブ氏もその魔物に操られていたとのことだそうなので、全く驚くべきことだった。そういえば今年の初めのほうにロアーヌで魔物が手引きした事件があったと記憶しているが、このヤーマスにもこのような事件が起こるとは、予想だにしなかった。ドフォーレは取引禁止の罰金こそ免れなかったが余罪は魔物の策略ということで不問になり、ラブ氏も一度は捕縛されたが直ぐに釈放され、カタリナカンパニーの元で一から出直しとなるようだ。因みに今回の事件で魔物退治に姿を見せていたあの怪傑ロビンは、今回のドフォーレ騒ぎを最初から見抜いていたということでこれまでの罪状が全て消えたとのこと。まぁほとんどドフォーレが憲兵に圧力をかけて罪人に仕立て上げていたようなものなので、これも納得の結果といえる。街の平和を守る怪傑ロビンと、キャンディさんのいるカタリナカンパニーがいれば、きっとこの自由の街ヤーマスは今後益々の発展をしていくことだろう』

 

ドフォーレ事変エピローグ side B

「いやいやいや、まだあたし全っ然今回の内容分かってないんだけど!」

 一連の騒動から漸く街が落ち着きを取り戻してきたその夜、ヤーマスではすっかり定番となったシーホークにてエレンが手にしたジョッキの中身を豪快に飲み干したのち、唐突にそう叫んだ。 
 その言葉に反応して同席していたモニカとユリアンが彼女に視線を向けると、エレンはジョッキのお代わりを通りかかったライムに求めながら彼らに話を振る。

「なんかすっごい万々歳のハッピーエンドっぽい流れだけどさ、ぶっちゃけあたし全然話についてこれてないの。ユリアンとモニカは!?」

 そうエレンに問われ、ユリアンとモニカは其々顔を見合わせた。

「あーまぁ・・・俺も正直よく分かってないけど、元々商売の話されてもあんまりわかんないからなー。モニカは?」
「わたくしは一応ポール様から大凡の話はお伺いしましたので、大枠の理解はしているつもりですが・・・」
「えー、じゃあモニカ教えてよー」

 ボイルソーセージを三本同時にナイフに刺しながらのエレンの願いに、モニカは快く承諾をした。酒が回って機嫌が良くなったのか必要以上にエレンは感謝の意を述べ、更にはお礼と称してモニカにソーセージを一本あーんさせてから、態とらしく真顔になった。

「じゃあじゃあ、あたしそもそも疑問だったんだけどさ。今回のトレードって、ぶっちゃけ勝つ意味あったの?」
「うわ、ほんと根本だなそれ。でも俺も、それ実は思ったなー」

 エレンの最初の問いに、ユリアンも同意を示す。
 彼ら二人の言い分はつまり、こうだ。結局麻薬工場の暴露でドフォーレは壊滅するように仕向けたのだから、態々カンパニーからトレードを仕掛けた挙句に二億オーラムを払ってまで勝つ必要はあったのだろうか、ということであった。
 それに対し、モニカは北方特有のしっかり冷えた辛口の白ワインを頂きながら応じる。

「それはですね、いくつか理由はあったようですわ。中でも一番大きな理由は、わたくしとエレン様で」
「エーレーン!」
「あ・・・すみません。わたくしとエレン・・・で拝見したドフォーレ商会の倉庫にあるものが欲しかったそうですわ」

 途中で注意され、どこか気恥ずかしそうにしながら言い直すモニカに、エレンはやってきたジョッキを受け取りながらにんまりと微笑んで返す。つまるところ、自分は呼び捨てするのに様付けで呼ばれるのが納得いかなかったらしいエレンが、ヤーマス塩鉱の道中でお互い呼び捨てを強引に宣言したのだった。
 その様子を一際微笑ましく眺めていたユリアンは、しかしモニカの言った内容には疑問符を浮かべた。

「そんなに価値があるものだったか・・・。二億オーラムなんて、途方もなさすぎて全く想像が付かないけどな」
「そうですわね。なんでも、聖王遺物に匹敵する程の禁呪が記された魔道書があの中には含まれていたそうですわ。ただ実物の解読をミューズ様に試みてもらったものの、殆ど分からなかったとか。確かにそんなものならば、お金で買えるのならば出す価値はあるのかもしれませんわね。解読については聖王家かモウゼスの魔術ギルドに持ち込む予定らしいですわ」
「なるほどねー」

 あそこがそんなにすごいところだったなんて、と腕を組んで思い出す仕草をしながらエレンが唸ると、モニカも同じく思い出しながら微笑んだ。

「他には勿論、ドフォーレ商会がこれまで築いていたルーブ地方での基盤をそのまま利用できるのは非常に強い、とも言っておりましたわ。塩鉱は統制を失った魔物の巣窟に戻ってしまったので商業利用は断念せざるを得ませんが、それでも海運事業等は流通の上で非常に有利に働きます。それに・・・破産した場合にドフォーレの下請け企業の多くが一気に露頭に迷うことになるのを防ぐ側面もあったのではと、わたくしは思っております」
「あー、確かにそういうのはトムとかすんごい考えそう。道理でお金を惜しまないわけだ。今のが一番納得したかも。でも、ポールとかドヤ顔で『お、俺は魔術書が欲しかっただけだー』とか無駄にカッコつけそう」

 モニカの考察にエレンが頻りに頷きながらジョッキを傾けつつ微妙にポールをディスると、言いそう言いそうとその場の一同に笑いが起きる。そして一頻り笑った後、今度はユリアンが控えめに手を挙げて周囲に聞こえないように多少声を潜めながら口を開いた。

「モニカ、俺からも一つ聞いていいかな。ドフォーレの狙いって、結局なんだったんだろう。あいつらは塩に麻薬を混ぜて流通させていたけど、あれってそもそも麻薬としての価値はないってポールは言っていたし・・・」
「それはロビン様も仰っておりましたが、わたくしはむしろ今回の首謀者がラブ氏ではなく魔物の化けたモンテロ=ドフォーレだったと考えれば得心が行くと思っておりますわ」
「・・・つまり、どゆこと?」

 ユリアンの疑問もまた、至極当然だった。抑も今回の事件を暴く最大のきっかけは、ロビンとユリアン、ポールの三人による塩に擬態した麻薬の秘密裏の摘発に端を発する。
 だが彼らが発見したその『麻薬』は、塩と混ぜており麻薬としては売り物にならない状態だった。これでは、あとで分けることも不可能に近い。だが麻薬としての成分はしっかり含まれているので、人体には有毒だ。少量なれど長期間の服用が続けば、いずれ人類に甚大な被害を齎らしたことは間違いない。
 何故ドフォーレは、稼ぎにもならないのにそのような危険物を流通させていたのか。
 それについてモニカは、この行為の首謀者がラブではなくモンテロであると読んだのだ。

「ポール様も同じ見解でしたが、恐らく本物のモンテロ氏は、死蝕からそう時間が経たぬうちにあの魔物によって殺害されていたものと思われます。そしてモンテロ氏に扮した魔物が長きに渡りドフォーレ商会を支配してきたのならば、その目的は企業の成長などではなく人類に仇為すため・・・そう考えるのが自然ではないでしょうか」
「そうか・・・そういえば捕まってすぐに釈放されたラブ=ドフォーレも『何故こんなことをしたのか、自分でもよくわからない』って言っていたらしい。洗脳みたいなものを受けていたってことなのかな」

 モニカの言葉に、ユリアンもまた頻りに頷きながら答えた。
 そんな二人の言葉を聞きながらジョッキをあおっていたエレンは、一気にその中身を飲み干してから口を開く。

「・・・っぷはぁ、なーるほどねー。じゃあ今回あたし達、ある意味世界を救ったようなもんじゃんね?」
「おお、確かに!」

 今になって気がついたようにユリアンが感嘆の声と共に同意すると、でしょでしょと言いながら気を良くしたエレンはホールのライムに向かって空のジョッキを振った。

「じゃあ世界救済祝いに皆んなでもう一杯!ライムおねがーい!」
「はい喜んでー」

 エレンの快活な声にいつもの調子で応えたライムだったが、普段はあまり明るい雰囲気を出さない彼の表情も今日ばかりはどこか晴れ晴れとして誇らしげであった。

 

ドフォーレ事変エピローグ side C

「なーんて平和に終わってたまるかっての。今日こそは全部教えてよね」
「おいおい・・・早めに寝たほうがいいんじゃないか?」
「はぐらかさない!」

 飲み屋通りの喧騒から離れたヤーマスの宿の一室では、水と果汁で薄めたワインをちびちび啜りながらキャンディがポールに絡んでいた。対するポールはエレンに付き合って流石に連日飲みすぎたのか、ウィスキーを炭酸で割ったものをゆっくりと飲みながらキャンディの様子に肩を竦めて見せた。

「結局さ、ポールは一体いつからドフォーレの正体に気づいていたの?」

 背もたれのある簡素な椅子に逆から座り、背もたれ部分に腕と頭を乗せながらキャンディが矢継ぎ早に続ける。どうやら質問に答えてくれるまで徹底的に居座る様相であるキャンディに、ポールは早々に抵抗など無駄であろうと悟り小さくため息をついてから口を開いた。

「まぁ・・・感づいたのは俺も最近だよ。それこそ、制圧後の神王教団ピドナ支部を漁っている時だ。そこでまず、教団とドフォーレの麻薬を含めた黒い繋がりを示す幾つかの証拠を見つけた。その後に捕縛した教団員に余罪についての尋問をした際、その中に偶然にも過去のガーター塩田襲撃の実行犯がいてな。結局そいつ自身は襲撃の目的も何も知らなかったんだが、俺はどうもそれが気になって、ちと調べようと思ったのさ。因みにモニカ達に頼んだ小芝居も、この時思いついた。あとはまぁ、お前さんが辿ったルートとそう変わりはないと思うぜ」
「でも、ウチは塩と麻薬がごっちゃって部分は読めなかった。ポールはなんでそこまで・・・?」

 ポールがつまみ用に用意していたドライフルーツを断りもなくひょいとつまみながらキャンディが聞くと、ポールはにやりと笑いながら、勘だ、と一言だけ応える。
 それにキャンディがさも胡散臭いものを見るように無言の半眼で応じると、ポールは毎度の如く肩を竦めながら自分もドライフルーツを口に放り込んだ。

「んーまぁ、まず魔物が絡むって時点で首謀者が人間ではない可能性の方が高いとは睨んでいたんだ。なにせ俺はロアーヌ宮廷の一件を、この肌で感じていたしな。こりゃもう経験の差だろう。あとは塩の単価がこれまでの水準からしたらあまりに安価で且つ数年全く動かさない事から、塩流通の主目的が金稼ぎではないんじゃって事も薄っすら思ってはいた。この辺は、普段の値段変動を見続けていなきゃ気付き難いわな。んでまあ、そこから魔物が裏にいるのと過去から麻薬の出所が不明であることを合わせつつ収集した資料を元に、奴らが塩と麻薬を混合しているっつー仮説を立てた。ただピドナでドフォーレの扱う塩を調べた時には反応があんまりにも薄くて確信が持てなかったが、ヤーマスで運良くロビンの協力を得て配合の濃いブツも押さえて確信も持てたし、その内容も内容だったからのんびりやるわけにも行かねーしで、今回一気にやったってわけだな」

 ポールの言葉を一つ一つ噛み砕くように耳を傾けて聞いていたキャンディは、どうやら色々と腑に落ちたように一人頷いた。

「・・・そっか、そこまで確信あったから、メッサーナ王国軍が情報統制して事態をちゃっちゃと締める方向に走ることも分かってたってわけね」
「ご名答。しっかしまぁ、そこまで察するか。お前ホント頭いいのな」

 キャンディが指摘したのは、今回のトレードが形式通りに終わり、そしてラブ=ドフォーレも逮捕後、即座に釈放された部分に関してだった。
 そりゃこんなの世間に公表できないもんね、とキャンディは続けた。
 なにしろ今回の件はドフォーレの塩が流通していた都市国家全て、それこそ冗談抜きに世界中を巻き込んだ事件である。しかもドフォーレの塩が流通していた数年来、常に麻薬が少量混入していたという状態だ。こんなことを世間にそのまま公表すれば、これまでドフォーレの塩を買って使っていた国や人々に大きな混乱と不安を招くことになる。焦燥、そして恐怖はアビスの瘴気を活発化させる元凶でもある。
 それになにより、これらを全く防ぐことのできなかったことが世間に知れ渡れば、各国の軍団の権威は失われ、信頼も地に落ちることとなる。そればかりは、メッサーナ王国としては何物にも優先して絶対に避けなければならないことだった。

「まぁ、ラブ氏もどうせ釈放に関しては監視付き且つ他言無用が条件ってとこだろう。兎に角メッサーナ王国軍としては本件を世間に深く探られては非常に具合が悪い。だからこそ、魔物が暴れました。ドフォーレは操られてました。でも正義の味方が倒してくれましたで一件落着!・・・としたかったわけだな。まぁ実際ラブ氏の事件直後の様子を見る限り、意識操作らしきものはあったようだしな」
「でも詰まる所、メッサーナ王国軍にとっては丁度いいカモフラージュ代わりにウチらやロビンさんも利用された、ってわけよね。なーんかそう考えると、イマイチ釈然としなくない?」

 キャンディが不機嫌そうにぷくりと頬を膨らませると、ポールは苦笑してみせる。

「なぁに、この展開のほうが寧ろ俺らにとってこそ都合はいいんだ。今頃、王国軍は苦虫を噛み潰してるだろうさ」
「ひょっとしてそれ・・・ミューズ様のこと?」
「・・・お前は本当に十四歳か? 一体、何処まで読んでるんだ?」

 そういってポールは、彼にしては珍しく本当に驚いたように目を丸くしながら声を上げた。
 対するキャンディはそんなポールの言葉に欠伸で応え、グラスの中身を一口啜ってから口を開く。 

「そりゃ誰だって唐突だなって思うでしょ、あそこでミューズ様が来るなんて。まぁ、今ので大体想像はついたけどさ」
「ま、そうだな。単に金を無心するために呼んだわけじゃあないさ。当然これは、トーマスの旦那も咬んでるしな」

 ポールがそう言うと、キャンディはドライフルーツを掻き分けて皿の底に溜まっていたナッツをつまみ上げ、指で弾いて口に放り込みながら曖昧な返事を返した。

「で、どう言うことなの?」
「これが実は今回の一番の狙いでな・・・ずばり、対ルートヴィッヒ体制の確立、だ」

 ポール、そしてトーマスの狙いはそこだった。
 抑も現在のピドナに渦巻く経済界を中心とした様々な問題はルートヴィッヒ軍団長率いる現体制が齎したものであり、それは軍を通さぬ鉄や鋼等に課される特定品目追徴課税等の施行を以て今後より一層加速していく状態であった。この様な横暴が罷り通りこのまま中央集権が続けば、最早誰にもこの流れを止めることができなくなってしまうという所まで事態は来てしまっていた。 

「・・・つまり、クラウディウス復興でもってルートヴィッヒの一党体制を崩すってことか」
「そう言うことだ」

 現在でも既に、ルートヴィッヒ政権に異を唱えるような派閥は宮廷内には存在していない。そしてルートヴィッヒの情報統制や世論対策は実に見事なものだった。無論商業ギルドに組するものからは反感の声も聞こえてはいたものの、大手企業に対して補填策を用意することで抑え込みが成された。だからこそ付け入る隙もなく手をこまねいていたと言うのが、以前までの話だったと言うわけなのだ。

「って事は、切っ掛けは上半期決算発表会だったわけね」

 その絶対的な均衡が崩れたのは、カタリナカンパニーがピドナにて催した上半期決算発表会であった。
 ここで起こった襲撃事件を機に、ある意味ではルートヴィッヒ政権の象徴とも言われていた神王教団ピドナ支部が魔物の巣窟であったという衝撃的な結末で以って瓦解。これにより五年前に神王教団をピドナへと招き入れたルートヴィッヒの責任を追求する声は、流石の彼の情報統制でも完全とはいかなかったのだった。それ程、あの事件はメッサーナの民にとって衝撃的な事件だった。

「現政権に対する不満が大きくなった直後に、かつてピドナで善政を敷いたクラウディウス家の息女による悪徳ドフォーレの退治劇、か・・・。そりゃあの美貌でそんなことされちゃ、世界中にファンも出来ちゃうよねぇ」

 ルートヴィッヒ上陸以前に故アルバート王の遺志を継いで政治を主導していた故クレメンス=クラウディウスは、アルバート王のそれに習い、神王教団のピドナにおける布教活動を認めていなかった。
 当時はそれを横暴として批判する声も少なからず存在していたが、ピドナでの事件を機に改めてクレメンスの判断は正しかったのだと主張する声は、着実に市井の間で広まっていた。

「・・・そっか、だからこのタイミングか。文句言ったらこの事件を根掘り葉掘り突かれるから、黙らざるを得ないってわけね」
「ご明察。ま、因みにこれの筋書きの基本は、俺じゃなくてトーマスの旦那だよ。ほんとあの人は、商売やらせとくには勿体無いと思うよ」

 頭の中の疑問にやっと合点がいった様子で納得顔のキャンディに、ポールはこれで酒をゆっくり飲めるか等と内心胸を撫で下ろしながら言った。
 当然の事ながら常々情報統制を行う中で、ルートヴィッヒ政権は市井の不満を把握していた。同時に、カタリナカンパニーが事件以前からクラウディウス家と関わっている事も当然認識していた。事の有る無しに関わらず、政権を揺るがす要因と成り得るものは先に抑えておくのが常道。だからこそカタリナカンパニーが初めて公に顔を出した上半期決算発表会には、ルートヴィッヒの片腕である副団長マルセロが出席するという、ある意味であからさまな牽制も行なったのである。
 それだけ現政権としては市井の不満の受け皿を作ることは絶対に回避せねばならなかったという事であるし、現状最もそれに成り得る存在こそがクレメンスの秘蔵っ子ミューズであることも明白だったからだ。
 だがそんな彼らの思惑を大きく外れ、事件は起こった。
 先ずは前述の決算発表会襲撃事件に端を発する、神王教団ピドナ支部瓦解事件。
 ある意味でルートヴィッヒ政権の象徴であり、また市井の不満の意図的な受け皿の役割をすら果たしていた神王教団があのような結果で消滅したことは、ルートヴィッヒにとっては非常に大きな痛手であった。
 この事件の火消しには未だ政権が躍起になっているが、しかし教団という受け皿に騙されていたことも含め、民衆の不満は嘗てないほどに膨れ上がっていた。
 そして、今回改めて世界を、軍の信頼を揺るがしかねない大きな事件が起こってしまった。
 それが、このドフォーレの事変である。
 しかもその表向きの収束をクラウディウスが演出するという、ルートヴィッヒにしてみれば考えうる限り最悪の形で、事件は決着した。
 いや、正確に言えば最悪の形というのは語弊がある。
 彼らにとって何より最悪なのは、微量の麻薬が塩に擬態し数年もの間市民に流出し続けていたという事実に王国軍が一切気付いていなかったという無能を世界に晒す事だった。
 これ以上軍の失態が広まれば、最早ミューズ等という受け皿など無くとも民衆の反乱は目に見えている。それこそ今回の件はピドナだけの話ではない。世界中を巻き込む規模の話なのだ。
 実の所、五年前に突如として台頭したルートヴィッヒを内心快く思っていない各都市の軍団関係者も少なからずいる。だからこそ神王教団に続きこの事件がまたしても軍の不手際であると判断されれば、ここぞとばかりに一斉に近衛軍団の責を問うであろう事も明白だった。
 軍としては、己の不手際を問われる事こそ最悪。だからこそ今回正攻法にて表面上の事件解決を齎したクラウディウスに対し、下手に突っ込みを入れるわけにはいかないのだ。
 『騒ぎを収束させたヒーロー』に物申せば、民衆は当然軍を批判するだろう。そして、なぜ批判するのか、と事件の内情を探り始めるだろう。
 それで事件の真相に触れるものが増えれば、それこそもう収集がつかなくなる。
 だから今回のこの機会であればこそ、ミューズは現政権に邪魔をされる事なく表舞台に立つことが出来たのだ。

「・・・しかも、ラブには相応の条件で今回の件を口止めしてんだろうけどウチらはそういうわけにはいかない。ルートヴィッヒは今回口出しをできない上に、依然としてかなり大きなハンディを背負ったままだ」

 そう言ってポールは非常に意地の悪そうな笑みを浮かべた。
 キャンディはそのあまりにはまり役のような悪役面に軽く引きながらも、グラスを傾けながら続きを催促する。

「麻薬工場におけるドフォーレ、麻薬、そして塩の関係性を表す資料は、全て此方で回収し、持ちきれない分は燃やしてある。軍にはドフォーレと麻薬との関連性に関する参考資料こそ提供したが、塩との混合を示唆する資料は渡していないのさ」
「うっわ、考え方が完全に悪役のそれじゃん」

 ポールの言葉にキャンディが半ば呆れ顔でそう言うと、まるでそれが褒め言葉であるかのように上機嫌な様子でポールは笑ってみせた。

「ま、このカードは次の大きな行動を起こす時の切り札だな。暫くの間は、このカードを切ろうと切るまいと、彼らは疑心暗鬼から強気の行動を起こせなくなる。気を付けたいのは、業を煮やしての暗殺関連だな。クレメンス様やフランツ侯の様な事は絶対に避けなきゃならない。これまで以上に、護衛を確りつけなきゃだな」
「・・・本当に怖いのは魔物より人、なんて使い古されたオチはやめて欲しいもんだね」

 キャンディはそう言いながらチビチビとグラスの中身を啜る様に飲んだ。

「ま、何にせよ今回はこれで万々歳さ」
「なーにが万々歳よ。抑もミューズ様とあんな話になってるなら、最初から言ってくれればウチが態々あんなに焦らずに済んだのに。勝つために自社資金もギリギリまで積み立てる算段だったんだからね。皆んなにいっぱいお願いの書面だしちゃったし」

 キャンディがまたしても膨れると、ポールはそれにも笑って応えた。

「はっはっは、すまんすまん。しかしキャンディのそれのおかげで、すっからかんのドフォーレの事業再生に調達した資金を回す余裕ができたんだ。正直再生には年単位で時間が掛かると踏んでいたが、これなら直ぐにでもドフォーレの持っている地盤やインフラを使えそうだ。今期の決算も総資産爆上げだぞ。感謝しているよ」

 ポールに感謝の言葉をかけられてまんざらでもない様子のキャンディは、ふふんと鼻を鳴らし、壁に掛けられた時計に目を向けた。見ればすっかり、そろそろいい時間だ。
 キャンディは残り少なかったグラスの中身を一気に飲み干すと、小さく欠伸を一つして、椅子から立ち上がった。

「ま、大体わかったよ。ウチも今日は寝る」
「あぁ、また明日な。お疲れさん」

 存外素直に部屋を出て行ったキャンディを見送ったポールは、自分もグラスを一気に傾けて中身を飲み干し、そして一息つきながらふと窓の外を眺める。
 見上げれば夜空には、煌々と輝く月が雲の合間から顔を覗かせている。北方で見る月は、ピドナから見上げるそれよりも輪郭がはっきりしているように見えるのだ。しんと冷えた空気が、そうさせるのだろうか。そう思ってふと窓を開けてみると、予想外に肌寒い空気が流れ込んできてすぐに閉じてしまった。

「・・・寒くなってきたな。今頃キドラントは、冬籠りの支度かな」

 窓の外の景色に向かってそう呟いたポールは、テーブルの上の洋燈の火を吹き消し、自分も早々に布団に潜り込んだ。
 まだまだやるべきことは山積みだが、今日ばかりはゆっくり寝てもいいだろう。そう自分に言い聞かせ、間も無く微睡みの中へと落ちて行った。

 

 

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第六章・11 -ドン・ドフォーレの誤算-

 

 鼻息も荒いままに全体重をかけて勢いよくソファに座り込んだキャンディは、両者の間でおろおろしているばかりのギルド管理員に対して自分も飲み物を催促した。頼んだものは、砂糖をたっぷり溶かしたトロピカルティーだ。
 そして矢継ぎ早に、キャンディはここでお昼休憩を一方的に宣言した。兎に角、一度考えを巡らせる時間が必要だと感じた為だ。
 そんな彼女の傍若無人な様子に対し机の向こう側にいるラブは怒りを通り越して最早あきれ顔で、一度自分たちも昼食を取るためにと見張り役を一人入り口付近に残して会議室を後にしていった。その様子をソファからちらりと見ただけで、キャンディは管理員に対して出前のサンドウィッチを頼みながら手元の資料へと視線を落とす。

(さて・・・勢いで勝つとか言っちっけど・・・)

 脇に置いていたくまちゃんを普段の癖で膝の上に抱き寄せ、くまちゃんに覆い被さるようにしながら資料へと視線を落とす。そして羅列されている数字と文章をやや遠巻きに眺めながら、キャンディは可愛く眉間にしわを寄せた。

(そもそも三億オーラムに対抗するような資金なんて、カンパニーには多分ない。うん・・・ないない。そして勿論、自社資金以外のどっからかこさえるってのも難しい)

 自社の直近の決算報告から見る総資産は、先程ラブが読み上げた調書とほぼ変わっていない。無論この二週間で様々に動いた分の変動は加味されていないが、それを加えた上で更に甘めに見積もったとしても、三億等という数字に届くとは到底思えなかった。
 また同盟を組んでいるフルブライトや、社内で進行している各企画グループへからの今期営業利益の緊急拠出を依頼したとしても、精々集まるのは自社資金と合わせて二億あたりが関の山だろうとキャンディはざっくり試算した。

(つかそもそもよ、仮にどうにかして三億をウチらが用意出来たとしたって、対するドフォーレの拠出金が三億で終わるわけがないんだよねー。なんせあっちの直近決算による総資産は十億オーラム相当・・・。改めて考えると、まぁ絶望的な差だよね。なわけで相手を上回る資金を詰んで勝つっていう正攻法は、今回に限っては当てはまんないわけだ。だからこそウチらの戦いは全て事前に集められた資料と情報、そしてポールがきっと今も行ってるはずの仕込みで完成してるはずなんだけど・・・)

 キャンディの手元にある資料は、ドフォーレ商会とカタリナカンパニーの最新の取引帳票。そしてドフォーレの現在の総資産と主な販売商品の流通経路、及びその収益額の概算。その生産方法について等等。特に流通経路やその量、及び現在時点の収益額に関してはサラがこのヤーマスで調査したもののようなので、ほぼ間違いない正確なものが記載されている。

(ここに並んでいる数字を見る限りでは、どっからどうみても見事に数字での勝ち目は無い。そんな相手に対して勝つには・・・・・・。・・・ううん、こっちが戦える数字まで相手を引きずり落とすことが出来りゃいい・・・かな。うん、それ以外には思い当たんない・・・。よし、この線で考えを進めることにしよ。となればドフォーレみたいな規模を相手にちんたら数打っても埒あかないし、一発で最大効果ゲットできるものを狙うしかないよね。そんならドフォーレが一番失って困るのは当然・・・)

 手元の資料に目を落とすと幾つもの数字や商品がそこには羅列されているが、その中でも一際目立つ品目と桁違いの数字を誇る物件がある。それは、ヤーマス塩鉱だった。
 つまり現在のドフォーレにおける最大の収益源は、間違いなく塩なのである。ルーブ地方にあるヤーマス塩鉱から算出される岩塩を精製して食塩を作り、それを世界に流通させる。これが今現在、莫大な利益をドフォーレにもたらしている。

(・・・仕掛けんなら、やっぱこれだよね。ヤーマスでポール達は、対ドフォーレ用の工作を行ってるはず。多分ポールがトーマスさんに頼んで各国に向けて発送した速達も、その一環。勿論、現地にユリアンたちを連れてきたのも関係があるはず。うーん・・・ウチはてっきり商会本館に殴り込みにでも行くのかと思ったけど、そうじゃなかったみたい。じゃ、一体何のためだ・・・?)

 キャンディは用意されたトロピカルティーを一気に半分まで飲み干し、そして徐に資料の束の中から一冊のスクラップブックを引っ張り出した。これはポールがピドナで収集した新聞の切り抜きを纏めたと思われる手製のものだ。ピドナにあった他の数値資料関係より何より、キャンディはポールが態々集めたこのスクラップブックを選んで荷物に入れて持ってきていた。
 それを資料の一番上に乗せ、ペラペラとめくっていく。

(この間はよく見てなかった記事の切り抜きが、まだいくつかあるはず・・・このスクラップブックに、無駄な切り抜きは多分無い。だから、この問題を解決する糸口はこの中にきっとあるはず・・・)

 とはいえ海洋における商業流通関連や魔物被害は、ドフォーレ海運における不審点を導き出す上で大体読み込んでいる。となると、それに関わらない記事は自然と限られてきていた。

(あと目立つのは、ドフォーレの取引禁止品目に関する噂を纏めたものと、ヤーマス都市警護団の出動記録に関する記事か・・・。前者はまあ、昔っからあるやつだ。ドフォーレは昔から盗品の取り扱いや聖王様によって禁止された麻薬の取り扱いに関する噂が絶えなかった。でも、実のところ未だそのしっぽを捕まれたことはないんだよね・・・)

 この噂自体は、商業に関わるものの間ではわりかし有名な話であった。世界各地の港では未だ散発的に麻薬に関する摘発が行われるが、その度に流通経路を摘発した都市国家の軍団が捜査すると、最終的にはこのヤーマスにたどり着く。だがこれまで、ドフォーレに強制捜査が入ったことは一度たりとて無い。それはドフォーレが拒否するどころか寧ろ麻薬に関する調査に非常に協力的で、自社の倉庫の開放は愚かドフォーレの呼びかけによってヤーマス港に倉庫を持つ全ての企業が捜査に応じるように仕向けたりといった行動があったからだ。
 無論これを所謂「ポーズ」であると批判する意見はあるが、事実としてヤーマス港では未だ麻薬そのものが発見されたことが無いことから、ドフォーレを含むヤーマス港を利用する企業には疑いを向ける余地が無いと軍団は判断せざるを得ないのだ。

(でもこの記事を集めたということは・・・ポールはドフォーレと麻薬にはやっぱり繋がりがあると疑った・・・いや、ほぼ確証に近い情報をどっからか手に入れたってことだ。多分現地での工作は、これに関係してるはず。でも・・・単に違法取引をしょっ引くだけならメッサーナ王国軍への情報提供で十分じゃんね・・・。強制捜査が入れば、それで一件落着・・・にはなんないのかな。うん・・・多分、なんないんだ。それで済むなら、ポールはハナからそうしてる。そうしてないって事は、これは軍団による捜査ではなく自分たちで仕留める必要がある。だからポールは手元に戦力が欲しかった・・・ってことかな。うん、確かに海運時代からドフォーレが魔物とグルっていうウチの予測が当たりなら、今回も魔物との戦闘はあり得る。魔物相手ならそりゃ戦力は欲しい。でも・・・あとはこっから塩にどう繋がるか、だよなぁ・・・。ポールがこの情報を集めた上で戦力を揃えたってことは、取りあえず麻薬と魔物までは間違いないと思うけど・・・)

 集中していて見過ごしたか、いつの間にか机に運ばれてきていたサンドウィッチに気がつき有り難くそれを頬張る。分厚く切られたライ麦パンの間に挟まれた良く燻された香ばしいベーコンに、新鮮なレタスとトマトがよく合う。食欲をそそるベーコンの油としゃきしゃきとしたレタスの歯ごたえを楽しみながら、キャンディは行儀悪くスクラップブックに視線を落とし続けた。

(ええっとあとは、都市警護団の出動記録か・・・。これは海洋関係じゃなくて、陸地・・・ルーブ山脈周りや街道とかの魔物発生に対しての掃討作戦が主な記事みたい。竜種みたいな強さが半端ない存在の周りには自然と魔物が集まるっていうし、そりゃ竜峰を仰ぐ地方ともなれば都市警護団もしょっちゅう出動するってわけだ。ご苦労様なことだよ・・・。ってか、記事の頻度だけみると出動めちゃくちゃ多いな・・・年間でかなりの数の出番がある。ルーブ山の麓の周りとかって、結構危ないんだなぁ。この辺の木こりさんとかハンターは大変そうだ・・・。・・・・・・・・麓?)

 二度三度瞬きをしてから何かが引っかかったキャンディは、サラが用意していたヤーマスとルーブ地方の周辺地図を資料の合間から引っ張り出した。これには、先に確認したとおりドフォーレの扱う商材の主な生産地や流通ルートが記載されている。

(・・・ビンゴ。ヤーマス塩鉱って、位置がまんまルーブの麓じゃん・・・。そっか、世界中に流通するほどの産出量を誇る塩鉱だってのにこれまで発見されてなかったのは、魔物に阻まれていたからか。でもドフォーレは魔物と裏で繋がっているから、楽勝でそこに到達できた・・・。よし、繋がる繋がる。ん、でも待てよ・・・それはそれとして、仮に魔物を一時的にどうにかしたって塩鉱そのものは消えるわけでもないんだから、別にポールが魔物を蹴散らしてまで塩鉱にいく意味あんまなくない? となると、じゃあ一体・・・)

 一つ目のサンドウィッチを食べきったキャンディは、間髪入れずに二つ目のサンドウィッチに手を伸ばす。もう一つは北海特産のサーモンをたっぷりと挟み込んだフィッシュサンドだ。脂ののったサーモンに舌鼓を打ちつつ、キャンディは頭を捻る。

(魔物はルーブ山脈の麓・・・あとは塩鉱の辺りにもごろごろ居る。ポールは魔物と相対する為に戦力を揃えた。んで、魔物と麻薬は関わりが・・・ある・・・)

 そこまで考えたところで、キャンディは止まった。
 それはつまり、彼女の中で一つの推論に辿り着いたことを意味していた。

(・・・ドフォーレは麻薬と関わりがあるとポールは踏んでる。でも麻薬は、流通の要である港ではいつも見つかんない。だから保管場所は・・・別にある。簡単には見付からないような、人目に触れない場所・・・例えばヤーマス塩鉱のように魔物が多くて、うっかり近づけないとこに麻薬の保管場所があったらグレート・・・。サラの資料に寄れば、採掘された岩塩の精製は塩鉱の近くで行ってる。もしそこで一緒に麻薬の精製もしてれば、そこから運ばれてくる塩と共に麻薬も移送出来る・・・。あとは港で保管なんてしないでちゃちゃっと速攻船に積み込んで出航しちゃえば、捜査で見つかることも無いんだ・・・)

 額を、嫌な汗が一筋下る。これが単なる妄想であるならいいものの、しかしここに至っては手元に様々な情報や記事が、そしてこれまで見聞きしてきた全てが、キャンディが辿り着いた推測をより真実味のある推測足らしめている。

(そしてポールは主要各国の港に近衛軍団を巻き込む形で速達を送った。ウチが港に持ってったから、送り先は全部覚えてる。確かに大規模港宛てだったけど、その中には何故かツヴァイクは入ってなかった。理由はそう・・・ツヴァイクは、自分らの分くらいは確保できる塩鉱を持っているからだ。そっか、あの送り先は単に大規模港を持ってる都市国家ってわけじゃなく、ドフォーレが塩の流通を行っている港に宛てた速達だったんだ・・・。そこへ近衛軍団を巻き込んでの物々しい速達・・・。単純に考えるならそれは強制捜査の執行令状・・・か。それってつまり、塩と共に麻薬が流通しているってこと・・・!)

 咥えたままだったサンドウィッチをゆっくりと噛みちぎり、碌に噛みもせずにごくりと飲み下す。先ほどまで瑞々しい素材の味わいに舌鼓を打っていたはずなのに、今は全く味がしない。キャンディはサンドウィッチの残りを無理矢理口の中に突っ込み、残りのトロピカルティーで胃に流し込んだ。

(・・・うぉ、ゲロ甘・・・。っと、多分各国の港に速達が届いたのは、ざっくり一週間前。そこで現地での強制捜査が入ったはず・・・。てことはその捜査がビンゴなら、結構時間経ってるしもう間もなく各国から向かってくる捜査団のヤーマス全面調査が入るはず。でも今回のキモとなる塩鉱近くにあるはずの麻薬保管及び精製工場へのアクションは、ぎりぎりまで伏せておかなきゃならない。これが事前にドフォーレに察知されたら、ドフォーレは全力で証拠隠滅に走るに決まっている・・・。いつもと同じく、港の倉庫解放のパフォーマンスで撒かれる・・・。だから塩鉱にだけは、動けば目立つ軍団は初手に使えない。隠密に少数精鋭でそこを叩き、ドフォーレを出し抜いて現場の動かぬ証拠を抑えた上で各国の捜査に合流する・・・そっか、これなら情報提供のタイミング次第じゃ、こっちが各方面の動向を操る事も可能だ・・・流石エグいじゃんね、ポール。よし、大体読めたかな・・・。そうなると・・・)

 そこで何を思ったのかキャンディはバッグの中から十露盤を取り出すと、手元の資料を参照しながらとんでもない速度で数字をはじき出し始めた。ドフォーレの総資産と塩の流通による利益、各国への直近の流通量、自社の資金とサラが纏めてくれていた自社内のグループ各個が排出する利益額。それらを加味しながら、キャンディは黙々と計算を続けていった。

(・・・これらが全て上手くいけば、現在成立している取引が可能な限り全て巻き返される。サラが集めてくれたデータは正確無比。ここに書いてある流通履歴と貯蔵量まで加味するなら、賠償総額は・・・・)

 一頻り珠を弾く音だけが部屋の中に響き渡っていたが、やがてそれはペースを落としていく。入り口に立っているギルド管理員とラブの部下が興味の薄い様子でそれを見ている中、やがて最後にぱちりと音を立てて彼女の手が止まった。それはつまり、計算を終えたということに他ならない。

(ざっくりは出た・・・。これでも結構際どいとは思うけど、きっとポールが勝負に出たということは大丈夫なはず。よし、こうなりゃあとは時間との戦いだ・・・。恐らくは調査に数日。そして各国での処遇等確認なんかでざっくり往復二週間ってとこか・・・。怖いのは、その後。軍団が、余計な欲を出す可能性があるってとこやね。そんなのウチにだって分かる・・・。基本トレードはいかなる事があっても締結をさせるって規定のはずだけど、この規模の事件ともなれば流石にトレードどころじゃなくなっちゃうよね、それは絶対に避けなきゃ。だからその前に準備し、決着をつける・・・一応これも確認しとくか。あとは誤差修正もしなきゃだから、かき集められるだけ最近の取引記録も漁らないと。そういう意味ではここが商業ギルド中央会館なのは渡りに船ってとこか。っしゃ、気合い一発。よーし・・・)

 最後の方は小声に出しながら小さく気合いを入れてむくりと顔を上げたキャンディは、会議室の入り口でキャンディを不審な目で見ながら待機していたギルド管理員のほうを向いた。その視線に気がついた管理員が首を傾げると、キャンディは立ち上がって管理員につかつかと詰め寄っていく。
 そして管理員の目の前で仁王立ちをすると、まるでお菓子を欲しがる子供のように管理員に向かって両手を突き出した。

「紙とペンとインクと蝋、あとトレードのルールブックも頂戴。それと、ここ一ヶ月間のヤーマスの取引記録が全部見たいんだけど」

 

 

 唖然とする、という言葉は、正に今この瞬間の彼のために用意された言葉であったのだろう。
 そう、ラブ=ドフォーレは正に今、唖然としていた。
 どうやら彼はここ数日の間睡眠不足だったのか、その目の下には色濃く隈ができている。また急激な憔悴の影響なのかこの二週間あまりで頭髪には白髪が多く交じり、かなり窶れたようにも見受けられる。
 そのような状態でヤーマス中央市場の大通りに力なくへたり込んだ彼の目の前では、今正に巨大にして醜悪なる形相の悪魔が七人の戦士の手によって屠られたところであった。
 商業都市ヤーマスに突如訪れたこの極限の状況の中、次の瞬間には彼の目の前に七人の戦士とは別の人物が忽然と立ちはだかった。そして地べたに座り込んでいる彼を、勝気な瞳で見下ろしている。
 その人物こそは、彼が二週間前に商業ギルド会館で初めて会ったキャンディという名の年若い少女だった。
 この時になってラブは、この少女を見誤ったことが己の敗因である事を、漸く確信した。

(・・・このガキ、一体なんなんだ・・・こいつら一体、いつから、どこまで仕込んでやがったんだっていうんだ・・・)

 彼のここに至るまでの地獄のような二週間は、この少女と出会った日の翌日に幕を開ける。

 

 初手の三億オーラムという金額の提示で即座にこのトレードの片は付くだろうとラブは殆ど確信していたものだったが、目の前で焦りの表情を浮かべていただけのはずのキャンディという少女は予測に反して折れなかった。寧ろ、それにより焦りが消え奮起をしたかのように猛り、動き出したのだった。
 とはいえ、それは単なる悪足掻きでしかないとラブは考えた。いくら動いたところで、相手企業の資金規模など知れたもの。だからこそ目の前の下らない足掻きに対してなど何も気にすることなく、直ぐに万策尽きてこの少女が諦めるのを座して待つだけ。そう考えていたし、それ以外の結末など予測のしようもなかったのだ。この時点では。

 かくして異変は、その翌日に起こった。
 まだ陽も顔を出さぬ未明の時分に、ヤーマス港は俄かに慌ただしくなった。緊急の寄港要請を出している船舶がヤーマス港沖に突如として複数隻現れたかと思えば、なんとそれらは全てがメッサーナ王国の各都市国家の軍団に所属している軍船であったのだ。
 ラブがその一報を聞いて急ぎ港に駆けつけた頃には、既にヤーマス港に半ば強引に入港した各国軍船から降り立った捜査官による現場倉庫の強制調査が始まっていた。
 だが、ラブはそれを見ても焦らなかった。
 なにしろ強制捜査程度はこれまでに何度も受けているし、所詮彼らの捜査ではここから何も出てきやしないのだ。それを彼は知っていたので、この事態に対しても特に焦ることはしなかったのだ。寧ろいつも通りに倉庫解放を協力してやり、さっさと事態収拾を図ろうとした。
 だが、その認識は間違いであることを彼は直ぐ様思い知らされることとなった。
 騒動の最中でラブの前に現れた捜査官が明かした強制捜査の対象は、麻薬ではなく『塩』だったのだ。そのあと続々と各国の捜査官からも塩の在庫の所在を問われたラブは、さも平静を装いながら『確認をする』とだけ応えた。
 この後の彼の行動は、迅速だったと言えるだろう。万が一の場合に於ける対処を予め決めていたからこその即断で、彼はヤーマス塩鉱近くにある麻薬生成工場の廃止を決めた。そして同時にヤーマス塩鉱周辺の魔物を暴れさせ現場確認を一定期間困難にするよう、早馬を走らせるように指示をした。こうして時間を稼ぎ、その間に生成工場から麻薬生成に関わる部分を根こそぎ消し去ることでこの騒動を落ち着かせようと考えたのだ。
 ヤーマスから塩鉱までは通常なら馬でも二日、徒歩なら四日近くははかかる距離だが、早馬ならば一日で指示が届く。
 何故捜査官が『塩』に着目したのかはこの時点では分からなかった。果たして彼らがどこからどこまでを嗅ぎつけているのかも、定かではない。だが何れにせよ彼の目的を達するためには、ここで全てが露見することは許されないのだ。
 その後日が昇るまでたっぷり捜査官を焦らした後に、ラブは塩の在庫がここにはないことを伝えた。それを聞いた捜査官が慌てて塩鉱へと編成隊を組むのを内心でせせら嗤いながら、これからの計画の再建にどう手を付けたものかと考えを巡らせ始める。
 この時点でラブは、すっかり現在のトレードのことを頭の隅に追いやってしまっていた。完全に忘れたわけでは無かったが、それよりも調査の件の収束を優先させるのが当然と判断したのだ。だから自分は直接ギルド会館に赴かず、配下の者を通じてトレード管理員にトレード早期終了の圧力をかけることしかしなかった。それで十分だと判断したのだ。
 だが彼の計画は、その更に数日後に破綻することとなった。

 各国連合の調査団による、ヤーマス塩鉱に隣接する巨大麻薬精製工場の発見。
 その第一報がヤーマス中を駆け巡ったのは、はたして調査団入港から五日後のことであった。
 全く以て予想だにしなかったこの展開に、ラブは大いに焦りを見せた。これは彼が今まで生きて経験してきた中で考えられる限り、最悪の事態であった。麻薬精製工場は彼の目的を果たす上での本丸だ。ここが見付かってしまったとあっては、彼の計画は、いや、彼らの計画は台無しになってしまうのだ。
 ラブは大いに荒れた。何故魔物の暴走が起きておらず、調査団が帰ってきたのか。自分の指示が届いていないことにラブは怒気を露わにし、商館会議室の家具をなぎ払った。
 そして彼はその様子に怯える部下をその場に置き去りにし、ドフォーレ商会本館に併設する自宅に籠もって体調不良と称し兎に角外部との直接接触を断った。
 この間に都市警備兵や商業ギルドからの使者が幾人もラブの元を訪れたが、その全てを彼は門前払いとした。だが、それは全くの一時凌ぎに過ぎない。状況はあまりに絶望的だ。
 彼が表に引きずり出されるのは最早、時間の問題であった。現時点でさえ、ヤーマス塩鉱と隣接する麻薬精製工場の関係性やその流通経路に関して、塩鉱を所有するドフォーレ商会の社長である彼は本件の最重要参考人という立場だ。
 既に彼を逃がすまいとしてドフォーレ本館及び自宅の周囲には多くの憲兵が日夜を問わず手厚く布陣されており、蟻一匹すら通さないという様相である。これでは、夜闇に紛れて逃げ出す等とことも不可能だろう。また本館から繋がる地下通路は港へと繋がっているが、港もまた全域にわたって一日中厳戒態勢が敷かれているので手詰まりとなる。
 正に、今の彼は八方塞がりだった。
 何故こちらが指示したように魔物の暴走が起こらなかったのかは、こうなってしまってはもう分からない。そして今はもうそれどころでは無く、最悪の場合を考えなければならない段階だった。
 仮に現場で何の隠匿も為されていないと考えたら、程なくして工場に残る資料からドフォーレと麻薬の関連性は暴かれるだろう。そうなれば、その時点でラブの身柄は強制拘束の対象となるのは間違いない。事実、各国の軍団は現地調査団を残して既に祖国へ向けて一度戻り始めており、それはドフォーレが黒幕であった場合の罪状を突きつける場合も加味した処遇を当然に検討するためだろう。
 正に刻一刻と断頭台を待つばかりのような状況で、ラブは何か打開策が無いものかと焦る頭で必死に考えた。
 いっそ全てを、壊してしまおうか。しかし、それは本当に最後の手段だ。いや、最早それは手段でもなんでもないといってもいい。それをしても、なにも事態は好転しないのだから。彼はその選択肢を、頭の片隅に残った最後の理性で否定した。
 だが、矢張りなにも打開策など思い浮かぶことは無く。

 そしてそのまま、一週間が過ぎた。
 この時、これまでずっと部屋に引き篭もっていたラブはすっかり絶望に彩られていた頭の片隅で、ふと疑問に思った。つまりは、『なぜ自分はまだ捕まっていないのか』ということを、だ。
 麻薬工場は確かに天然の洞窟も一部利用した大きな施設だが、とはいえ数十人からなる調査団ならばものの数時間で証拠を見つけることは容易いはずだ。だが既に調査団が工場発見の第一報を持ち帰ってから、一週間が経っている。つまり現時点で自分が拘束されずにいるということは、決して低くない確率で調査団が証拠を発見できていない可能性があるということなのだ。
 指示が実行され魔物が暴れ出したか、現地の部下が異変に気付き上手く証拠隠滅したか、はたまた自分の理解の外にある別の何かか。
 何れにせよ彼は今この瞬間を、この事態を脱する最大の好機と捉えた。何しろ想定されるどの条件の場合にせよ、時間は有限だ。いつ状況が変わるか、全く彼にも分からない。
 ラブはこの一週間絶望に取り憑かれ時間を無駄にしたことを悔やみつつ、しかし行動を起こした。
 彼は父である先代ドフォーレ商会社長、モンテロ=ドフォーレの元を尋ねることにした。
 父モンテロはドフォーレ商会に於いてラブの真なる目的を知る唯一の人物であり、『ある筋』への連絡役を担って貰っている。ラブは、その繋がりを少々使うことにしたのだ。それに元々は彼が商会の実行支配権を引き継いだのはドフォーレが死蝕の後に海運事業を始めた直後であり、それまではモンテロが『土台』を用意し、ラブは彼に付いていく形で共通の目的へ向けて動いていたのだ。だがモンテロはラブに事業を引き継いでからは一切商会としての仕事に関わる事なく、この十数年は半隠居を続けていた。それでも特定の相手への連絡のみはモンテロが担っていたが、それも塩鉱を基盤とした事業計画が軌道に乗ってからは殆ど頼ることも無かった。モンテロに頼らずとも、簡単な指示であればラブから出すことも可能であったからだ。
 だからこそこの十年、ラブはモンテロという存在を殆ど忘れていたと言ってもいい。彼は最早、ただただ静かに自宅の離れで老いさらばえていく、それだけの存在だった。
 だが今は、彼の力が必要だ。
 そう考えたラブは、自宅から続く通路を渡り、離れへと入っていった。

 ヤーマスの中央市場大通りに、数体の魔物が突如として出現。
 翌日から暫く各国の紙面トップを飾ることになるこの衝撃的な事件は、ヤーマスへの調査団入港から十三日目、即ちドフォーレとカタリナカンパニーのトレードが始まってから丁度二週間たった時に発生した。
 都市防壁の上、空から飛来した醜悪なる魔物達は、周囲の憲兵をなぎ倒して大通り中を震え上がらせた。
 ラブは、この混乱に乗じて兎に角一度、ヤーマスからの脱出を図ろうとしていた。
 この時点までは、依然として麻薬精製工場とドフォーレを繋げる直接的な証拠は出てきていないと見て間違いない。何しろ自分が今捕まっていないことが、その何よりの証拠だ。だからこそラブは、兎に角急ぎ麻薬工場へと自らが赴き、状況の確認をする必要があった。再度魔物を用いて現場にいる調査団を駆逐し、自分の目で状況を確かめる。そして麻薬工場とドフォーレの関連性さえ見付からないのならば、あとはなんとでも言い逃れをすればいい。その後は時間をかけて別の手段で計画を進めることは出来るだろう。
 何にせよ彼は状況を確認しなければならない。この騒動は、そのために彼が引き起こしたものだった。
 彼の目論見通りに都市警備の憲兵が幾人相手であっても魔物は全く意に介さず周囲をなぎ払っていき、程なくして狙い通りドフォーレ商会の周囲と港の警備が手薄になるのは時間の問題に思われた。その隙を突いて兎に角街の外へ出ることさえ出来れば、彼は晴れて次の手を打つことが出来るというわけだ。
 だが結果としてこの作戦は、失敗に終わってしまった。
 憲兵では太刀打ちできずに被害が更に中央市場以外へ拡大するかと思われた矢先、依然として暴れまわる魔物のいる広場に颯爽と現れたのは、豊かな長く美しい金髪を携えた軽やかな衣装を身に纏った美女と、パンツスタイルで髪を後ろに纏め上げた勝気な印象の、こちらも目を見張る美女。そしてもう一人はなんと、ヤーマスの巷を賑わすあの怪傑ロビンという三人であった。
 そして金髪の女性とロビンは小剣を操りもう一人の女性は手斧を用いて、瞬く間に魔物を殲滅せしめたという。そのあまりに鮮やかな手際に、中央市場大通りに集まった憲兵と市民からは大歓声が沸き起こり、彼女らはその歓声に軽く手を振って応えたかと思うと、荒れた現場の後片付けへと取り掛かり始めたという。
 結局のところは彼女らの活躍により憲兵の配置の崩れも殆ど起きること無く、ラブが街の外へと逃れることは適わなかった。
 ラブは未だ騒動の熱気が冷めやらぬ街の景色を背にこの報告を聞いて、女二人が間違いなくマクシムスガードであろうと確信した。
 そう、彼はここまで失念していたことを漸く思い出したのだ。
 抑も今回の騒動の切っ掛けは一体なんであったのか。それは決して、調査団の入港などではなかったのだ。
 では、その前日に開始されたトレードなのか。いや、これも違う。
 そのもっと前に、明らかに普段と全く異なる出来事があったのだ。
 それこそが、唐突にドフォーレ商会本館に訪れ港の隠し倉庫で彼らに宣戦布告をした、マクシムスガードと思われる謎の女二人の出現だった。
 宣戦布告をしたにも関わらずトレード会場に現れなかったこと、そしてその翌日から調査団の出現による慌ただしさで完全に忘れていたが、そうなると彼女らの存在こそが、この事態を引き起こした最初の予兆と考えられる。
 今回の魔物騒動を難なく片付けた手腕から見ても、彼女らは矢張り戦闘能力が相当な物であることは分かった。つまり、生半可な事では此方の意図する混乱を引き起こすことすら叶わないということだ。
 だがここまできてもラブは、まだ絶望に染まりはしなかった。
 確かにこの騒動に於いては、残念ながら状況が改善されることは無かった。しかし、自分はまだここからでも挽回出来る力を持っている。そうラブは確信していたのだ。
 そしてその力を存分に振るうためには、ラブは再度モンテロの元を尋ねる必要があった。ドフォーレ商会を引き継いだ頃のように、今こそ父モンテロが持ち自分が持っていないもの全てを受け継がねばならない時が来たのだと、ラブは考えた。

 そして彼はモンテロの全てを受け継ぐため、もう一度彼の元を訪れた。

 

 

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第六章・10 -家出娘、啖呵を切る-

 

「ハリード!?」
「よう、無事だったようだな」

 物々しい装備に身を包んだ衛兵に通されてやってきた浅黒い肌の傭兵を見たカタリナが思わず驚きの声をあげると、ハリードは場の緊迫感に似合わず陽気な様子で片手を上げた。
 突然の馴染みの来客に駆け寄って一体どうしたのかと問いかけるカタリナに対し、ハリードは腰に装着した愛用の曲刀の柄に片手を乗せながらにやりと笑って見せた。

「なぁに、ポールたちはカンパニー絡みの計略でヤーマスに向かったんだが、その作戦に俺は参加しなかったんでな。要は暇だったって事だ。そこでフェアリーが慌てて飛び出していくもんだから、その時にお前達と連絡を取るつもりだってとこも含めて内容だけ聞いておいたのさ。なんにせよ行き先が密林なら、あのロアーヌ侯であれば是が非でもここを拠点にするだろうと思ってな。まぁ誰かしら居るだろうとは思っていたが、読みは当たりだったようだな」

 だがまぁ一足遅かったようだな、と続けて肩を竦める。カタリナの様子から、既に妖精族救出が終わった事を読み取ったのだろう。
 剣の柄に置いていた手を腰に当て直し、ハリードはまるで観光でもしに来たかの様相で周囲を見渡した。
 彼らが今いるのは、メッサーナ王国の誇る最大規模の海上警戒拠点であるエデッサ要塞だった。ピドナ港を擁するマイカン半島の南に広がるトリオール海と、一大観光リゾートであるグレートアーチに続く温海の境目ほどに位置しているエデッサ島の入り江に建造されたこの要塞は、元々はあの悪名高き海賊ジャッカルが秘密裏に根城としていたとも噂される場所でもある。

「しかし・・・見事なものだ。正に近代建築の粋を集めた砦だな。こいつは生半可な美術品なんかより、余程鑑賞のし甲斐があるってもんだ」

 建設から十年ほどしか経っていないこの要塞は、比較的歴史のある建造物が多い西洋世界の中では特段に新しい大型建造物である。そして近代における軍事活動を最大化させることを目的として作られたこの要塞は、ハリードが言う通り現在用いられる技術の粋を結集させたものと言える。
 またメッサーナ王国王宮近衛軍団の前軍団長であるクレメンスの肝いりの建造物でもあり、ここを近代の近衛軍団における一番の誇りと自負するメッサーナ騎士も少なくないという。

「しかし、ここはメッサーナ近衛軍団の指揮下だろう。来ておいて何だが、よくもまぁ一時的とはいえルートヴィッヒがロアーヌ軍に駐屯を許可したなぁ」
「無論、それはミカエル様のご尽力の賜物よ」

 カタリナらが妖精救出に向かうと同時、ミカエルはいち早くピドナの王宮へと使者を送り出していた。
 無論その内容は有事の際にエデッサ要塞を利用させてもらう旨のものなのだが、ハリードが意外に思うように、この場所を近衛軍団が貸し出すというのは通常であれば全く以って考え難い事だった。何しろ軍事上でも重要な拠点であるが故に、同じメッサーナ王国の同胞とはいえども外部の軍に見せることそのものが、本来は躊躇われるはずなのだ。特に王宮の情勢が落ち着かない今であればこそ、容易にそれは想像できることだった。
 だがミカエルは特に何の策を弄すこともなく使者を送り、そして即に朗報を持って帰らせてみせたのだった。

「ミカエル様は、あれでルートヴィッヒ軍団長の先見性を評価しているわ。考えてみれば今回の神王教団との独自協定直後である事や、妖精族という聖王様縁の種族の救出という行動の大命題。そんな現在状況を加味して今のロアーヌに恩を売るべきか否か、愚か者でなければ分かるはず」

 ミカエルはそれらを加味の上で、何の策もせずエデッサ要塞を借りたいとだけ認めた書簡を使者に持たせ送ったのだ。
 これはリブロフ総督の失態により神王教団絡みでロアーヌに付け入る隙を見出せなかった分を宥める意味も大きく、ルートヴィッヒはその思惑を読んでか知らずか、兎も角ミカエルの思う通りにことが運んだ結果となる。
 つくづく恐ろしい御仁だとハリードは苦笑いで返しながら、それはそうと、と現在状況をカタリナに問うた。

「・・・現在、私達は本国からの援軍を待っている状態よ。援軍の到着を以って密林へ進軍し、四魔貴族アウナスの巣食う火術要塞へと攻め入るわ」
「ふぅむ・・・矢張り攻めるのか。一応聞くが、なぜその判断に至ったのだ?」

 ハリードはこの要塞に着いた時から、懐かしい独特の空気を感じ取っていた。この要塞全体に広がる鋭利な刃物の如く張り詰めた緊張感は、やはり戰前のそれであったようだ。しかしそれは、大いに疑問の残る状況でもあった。
 今回の作戦に於ける第一優先事項は妖精族の救出であり、カタリナの様子からも分かるようにこれは既に為したようだ。その上でこちらの被害をこれ以上出さないようにするならば、一度ここで作戦自体を終了しても良いのではないか。寧ろ通常であれば、その判断ではないのか。そうハリードは聞いてきたのだ。
 カタリナはその言葉に応えようとし、しかしその場では口を噤んだ。そして周囲の衛兵を避けるように来た道に戻るように身を翻し、ハリードを其方へと誘う。

「・・・場所を移しましょう。説明するわ」

 

 

 今より数えて約三百年の昔、絶大なる信頼を置く己が右腕にして初代ロアーヌ侯たるフェルディナントと共にここを訪れた聖王その人は、十二将を導いた奇跡の力を以てしてもなお、自らの生きているうちにこの地を人の住める場所へと再生することを断念したという。
 魔王の時代よりそこは『腐海』と呼ばれ、その常軌を逸した濃度の瘴気が渦巻く空間はこの六百年、人の手が入ることを頑なに拒み続けてきた。
 そんなロアーヌ東方開拓地であるシノンの更に東に位置するこの悍ましき腐れる大森林の入り口に、風変わりな一行が訪れていた。
 先導するのは、騎馬に跨った兵士。装いはロアーヌ国兵士のそれだが、軽装であることから本国軍ではなく近隣地域の駐屯兵だろう。そしてその後ろに続くのは、数十人からなる徒歩の集団。だがその集団は武装を施しているわけではなく、まるで身軽な旅人のような風情。更には背丈の小さなものも少なからず混じっており、一見して女子供の集団といったところか。
 通常であれば魔物の出現する危険性もあるこのようなところを徒歩で女子供が歩くなど自殺行為もいいところだが、不思議とその集団の周りに魔物が寄りつくことは無かった。
 間も無く腐海に入るかどうかというところで兵士が馬を止めると、後ろに続いていた集団の中から歩み出た一人の少女と思しき人影が先頭に出で立ち、眼前に広がる醜悪な瘴気を孕んだ大木を見上げた。
 見上げる姿勢のまま頭から被っていたフードをゆっくりと取り去ると、淡い金髪がふわりと生暖かい風になびいて舞う。
 少女のような人影は、フェアリーだった。

「あの、今更ですが本当にここまでご案内するだけで良かったのですか?」

 馬から降りつつ森の入り口で戸惑いの様子を隠せないロアーヌ兵に対し、まるで腐海の入り口にて集団を阻むかの如く聳り立つ巨大な大木を見上げていたフェアリーが振り返る。
 その動作に合わせ、その場にいる十数人の同行者もロアーヌ兵へと向きを変えた。

「はい、ここで問題ありません。ここまでの道中案内を頂き、有難うございました」

 ぺこりとフェアリーを始めとした一同が頭を下げると、ロアーヌ兵はとんでもないという風に勢いよく首を左右に振った。

「侯爵様からの命でありますので、お気になさらないでください。むしろ私にとっては、まるでお伽話の中にいるような数日間でした。このような体験は二度と出来ないでしょうから、お礼を言いたいのは此方の方かもしれません。せがれにも、良い土産話ができそうです」

 そう言って敬礼をしたロアーヌ兵は、引き連れていた馬に再度跨り、集団を残して帰路に着いた。
「・・・貴方に、風の加護が有らんことを」

 フェアリーがそう呟くと、それまで薄らと彼女たちの周りを包んでいた風が、去りゆくロアーヌ兵へと移っていく。清廉なる風は、低級の妖魔が特に嫌うもののひとつだ。彼女たちがここまで何事も無く来られたのは、その風の加護のおかげだった。
 ロアーヌ兵の姿が見えなくなるまで静かに佇んで見届けたフェアリーは、先ほどまで見上げていた大木へと振り返った。
 その途端、フェアリーの周りにいた十数人の同行者達は身につけていたフラワースカーフを脱ぎ去り、各々の本来の姿へと戻っていく。その中には、妖精族の長の姿もあった。
 長はフェアリーへと向き直り、ロアーヌ兵の去っていった方向を見ながら口を開く。

「声を発して話すというのも、悪くないものですね」
「はい。声には、温度があるように思います。思念による意思疎通では感じられない何かが、声にはあると思います」

 思念のみで同族はおろか異種族とすらも意思疎通が成立するという能力を有する妖精族は、通常このように言葉を発することをしない。
 それは妖精族という存在が生まれた時からそうであり、妖精達はそれを何の疑問にも思わずこれまでを過ごしてきた。

「声で話すっていうの、案外面白いわ。特に一定の音による空気の震えが、なんでか不思議と心地よく感じるの」

 フェアリーと同種の妖精が長とフェアリーの周囲を飛び回りながらそう言う。すると、周囲の妖精達もそれに同調するように頷いた。
 飛び回る妖精は回りながら『あ』を空に向けて伸ばす。儚い鈴の音のような声が、腐海の入り口に木霊した。

「それは『歌』です。人間は声による温かさや、冷たさや、時には激しさや弱々しさなんかも。そんなものを、歌に乗せて表現します」
「歌・・・。そう、これが歌なのね」

 妖精はフェアリーの言葉にうんうんと頷き、再び声を伸ばす。普段声を出さないからかその声はか細いが、その音は瞬く間に周囲に広がり、妖精達の目前に広がる禍々しい木々にさえ優しく語りかける。
 すると、その声を浴びた目の前の大木が、ふるい落すように瘴気を体外に解き放っていくのが見てとれた。
 その場にいる妖精達が興味深く見つめる先で、樹々を離れた瘴気はそのまま腐海全体を覆う禍々しい大気に合流するわけでもなく、上空に霧散し確かに消失していく。

「・・・術を用いずとも、瘴気は溶けるのですね。これは良い発見です」

 長がその様を見て微笑みながら、他の面々へと向き直った。

「それでは、ここに新たな私たちの住処を作るために歌いましょう。皆で歌えば、腐海何するもの。あっという間に瑞々しい樹々の寝所が手に入るでしょう」
『はーい』

 一同が長の言葉に頷いて大木へと向かう中、しかしフェアリーだけはそんな同胞の背中を見送るようにその場に佇んでいた。

「行くのですね」

 その様子に気がついていた長がフェアリーに語りかけると、フェアリーは小さく頷いた。

「はい。密林に潜む火術要塞への案内は、私達でなければできません。人間にこうして助けられた以上、少しでも恩を返したく思います」

 フェアリーの言葉に、長は小さく頷く。そして伏し目がちになりながら、ゆっくりと言葉を続けた。

「一族が負うべき仕事を貴方に任せる形になってしまって、ごめんなさい」
「いえ。里を飛び出した時から、私はそうするのだと決めておりました。長はどうか、皆に安寧を」

 フェアリーがふわりと風に舞いながらそう言うと、長は今度はしっかりと頷き、微笑んだ。

「貴方に、森の祝福を」

 長の祝福を受けフェアリーは風に乗って緩く弧を描くように舞い上がり、そして西へと飛んでいった。

 

 

「・・・おいおい、これは一体、何かの冗談なのか?」

 太陽が南中を過ぎた頃合い、ヤーマスの中央商業ギルド会館の大会議室に数人の屈強な部下と共に現れたラブ=ドフォーレは、部屋に入るなりそう言いながら大きく両手を広げて周囲を見渡した。
 世界中でも屈指の規模を誇るヤーマスの中央商業ギルド会館のトレード会場となるここ大会議室にヤーマスのドンたるドフォーレ商会が呼び出されたことは、かつて一度もない。いや、正確に言えばこのヤーマスの大会議室自体が、これまでトレード会場として使われたことが公式記録上は一度もなかった。
 何故ならヤーマスにおけるほとんど全ての取引は、ドフォーレの息のかかった筋が仕切っていたからだ。摩擦や競争など、起こらなかったのだ。
 だものだから、現当主ラブ=ドフォーレがこの大会議室に足を踏み入れるのは、中央会館が出来た時の視察以来で二度目となる。
 そして前回視察の時に見た風景と違うと思われるのは、会議室の中央に設えられた交渉テーブルの片側に鎮座する一人の人物がいる事だけだった。

「ここにはあの狂気を纏った美しい娘が居るわけでも無ければ、噂に聞く美人社長とやらがいるわけでもないようだが・・・。俺はひょっとして、入る部屋を間違えたのか?」

 ラブのその言葉に取り巻きが笑いながら同意する先には、交渉テーブルについたキャンディの姿があった。彼女の脇には、鎮座する愛用のくまちゃん。もう一方の脇には、書類が詰められた鞄。それ以外には、誰も何も見当たらない。
 入り口にいる彼らの声に当然気がついていたキャンディはちらりとそちらに視線を送り、しかし特に動きを見せることもなく目の前の机にすぐ視線を戻した。ラブ達のいる場所からは伺うことこそ出来ないが、彼女の表情には明らかに焦りの様子が見て取れる。

(・・・聴いてた話と全然違うよサラぁ・・・)

 なにしろ、彼女は焦っていた。
 目まぐるしく頭の中ではこの状況をどうするべきなのかと様々な考えが周り巡っていくが、しかし全く予期していなかったこの状況に普段の思考能力も失われたのか、全く考えが纏まらない。

(・・・あかん、だめだ。全っ然考えが纏まらない。ま、まずは状況の整理を・・・)

 自分の右脇に鎮座するくまちゃんの手を強く握りしめながら、キャンディは熱暴走気味の頭を一度強制的に初期化するべく、深く深く深呼吸をした。
 彼女があの夜に突如現れたサラから聞いた話は、こうだった。
 ちょっとしたお使い予定のはずが所用によりすぐヤーマスに戻ることが出来なくなってしまったサラに代わり、キャンディにポールの助手としてヤーマスに向かって欲しい。そこでは対ドフォーレへの工作が進んでおり、二班に分かれての作戦が行われ、その経過は順調。あとは仕込みが全て動き出す一週間後にドフォーレにトレードを仕掛けるので、その際に自分が集めた資料全般をポールに渡して欲しい。その際資料の中身を説明できるよう、一通り読み込んでおいて欲しい。
 ヤーマスの中央商業ギルド会館に指定の日時に辿り着き入館手形を見せてカンパニーの名前を出せば部屋に通されるようになっているはずだから、あとは現場でポールに流れを確認してくれればいい。
 以上、健闘を祈る。

(・・・ポールは何処!?)

 ここで彼女がまず直面した最大最強と思われる問題は、それだった。彼女が助手として付き添うべき本案件の主役、カタリナカンパニー営業部長たるポールがこの場所の何処にも見当たらないということなのであった。
 彼が居なければ、このトレードがそもそも始まらないのでは無いか。そうか、つまりこのトレードはポールが居ないから無効なのでは無いか。それならば自分はお役御免なのではないか。キャンディの頭の中は、いよいよ焦りで整理がつかなくなってきていた。
 そこに、先ほどまで入り口に居たはずのトレードの相手であろうと思われる恰幅のいい中年男性が、目の前のソファに豪快に座り込んだ。確認しなくても分かる。これがドフォーレ商会の当代当主、ラブ=ドフォーレだろう。会ったことのないキャンディでも分かるほどの威圧感が、大木一本を削って作ったであろう見事な一点ものの机の向こうからひしひしと伝わってくる。

「・・・で、お前はカタリナカンパニーの人間なのか」
「・・・は、はぃ」

 ラブの言葉に、キャンディは数回の瞬きの後にやっと、小さく一言だけ応えた。ラブはそんな様子のキャンディを、射殺すのでは無いかと思うほどに凝視する。それに対しキャンディは目を逸らすことすらも出来ずに受け止め、只管に冷や汗を流し続ける。蛇に睨まれた蛙というのはこういうことなのだな等と、頭の片隅で現実逃避気味に思う。そんな大変に重苦しい時間が、永遠にも続くのでは無いかと思われた。
 しかし何事にも終わりはやってくるように、やがてラブは軽くため息をつき、脇に控える商業ギルド管理員に話しかける。同時にキャンディは今の間に間違いなく寿命が縮んだな等と考えながら、疲労感と共にソファに深く沈み込んだ。

「おい、ここは確かにカタリナカンパニーがドフォーレ商会に挑んだトレードの会場で、こいつが本件におけるカタリナカンパニーの代表で、あとはここで俺が開催時期の宣言をする。間違いないな?」
「は、はい。間違い有りません」

 臆した様子の管理員が、ラブに答える。そこでキャンディは、一瞬だけ淡い期待を抱いた。トーマスの談に寄れば、トレードは受け手が指定日から最大一週間、開催を伸ばす事が出来る。ラブが今日ここで即座に開催することを宣言しなければ、兎に角この状況からは抜け出す事が出来るかもしれない。

「では宣言しよう。現時点を以て我々ドフォーレ商会は申請を受理し、トレード開催をすると」
(だよねーウチでもそうするよー・・・)

 当然のごとく、ラブは迷い無く開催を宣言した。キャンディはその当然の流れに、頭の中を絶望で埋め尽くされながらも妙に冷静にこの流れに同意していた。

「三億オーラムだ」
「・・・へ?」

 開催宣言に続いてそう一言だけ発したラブに対し、キャンディは我ながら素っ頓狂だなと後から思うほどに、あからさまに間の抜けた声を上げた。
 ラブのその言葉に反応したギルド管理員が慌てて部屋の中に設置されている鉄製の扉を開き、中から大量の疑似金貨が積まれた木箱を台車にのせ、その重量に表情を歪めながら必死の形相で押してくる。
 これは通常では対応出来そうに無い大規模トレードの際にギルド会館で用いられる疑似オーラムであり、一枚を一万オーラムとして換算する。キャンディは全く知らなかったことだが、これが積まれた時点で積んだ企業からギルド会館へと即座に一時入金手続が進められ、確かにその企業に申し出るだけの資金が存在していることが確認される。また申告された金額は、トレードが終わるまでは出資者であっても一切手出しをすることが出来ない。
 またここで双方により積まれた金額はトレード終了の際、買い手側が勝てば買い手の積み立てた金額が買収相手へと入金され、逆に受け手側が勝てば受け手が積み立てた金額の三割相当を買い手側から受けとれる仕組みとなる。これはいたずらなトレードの乱発を防ぐための措置であり、またこの制度自体の悪用を防ぐために一度トレードを行った企業同士は四半期の間はトレードの再度申請が行えないように定められている。
 つまりこの時点で、この勝負に負ければカタリナカンパニーは九千万オーラムを失うことになる。
 ギルド管理員が実に事務的にその説明を読み上げるのを、キャンディは隠しようも無いほどに大きく青ざめた様子で聞いていた。

(まって・・・九千万オーラムなんて資金、そもそもカンパニーとしてはオーラムとしてなんて持ってないよ・・・。カンパニーは総資産としてはそりゃ既に一億オーラムは超えているけど、実際のカンパニーの資産の多くは物的資産。これをトレードに使える『資金』として動かすには、本来は多くの時間がかかる。これを急に資金として動かすとなれば折角の資産を損失覚悟で売り払う事になるから、総資産の減少が起こる・・・。ってか急に九千万なんて資金を用意しようとしたら、会社として成り立たなくなる・・・。こいつ、カンパニーをぶっ潰す気だ・・・)

 目の前には、専用の箱で勘定された疑似金貨が三万枚、積み重なっていく。その様を見ながら唖然とした様子のキャンディに対し、ラブはさして興味の無い様子でソファの背もたれへと寄りかかり、管理員に飲み物を催促した。

「・・・カタリナカンパニーとか言ったな。総資産は直近の決算では一億五千六百万オーラム相当。主にツヴァイクやユーステルム等の北国を中心として同規模の中小の企業を数多く買収しており、その取扱品目はフルブライトにも迫るほどの勢いで多岐に渡る・・・企業としては既に中堅に位置し、歴史上珍しくフルブライトの同盟も得ており経済界からはその急成長ぶりも相まって一目置かれている、か。ふむ・・・実に惜しい企業が、消えるものだな」

 手元に用意された資料に目を通しながら、ラブはそう言ってつまらなそうな視線をキャンディに送る。その視線を受けたキャンディは、しかしその言葉に対して何も言い返す言葉を持ち合わせていない。

(・・・そもそも仮に総資産を全て資金変換して挑んだとしたって、既にこの目の前に積み上げられている三億なんていう出鱈目なオーラムを相手にすることが出来ない。傘下、若しくは同盟を結ぶ何処かの企業に資金提供を依頼したって、トレードの最大期間として定められた一ヶ月程度の時間で用意できる資金はたかが知れてる。てかこんなんじゃ一ヶ月どころか三日と持たない。流石に商業ギルド管理員から強制裁定される・・・。やばいよこれ完全に詰んでるじゃん・・・こんなのどうしろってのポール・・・)

 絶望一色に染まった顔色のキャンディをみながら自社資金から三億を拠出するよう書類にサインをし終えたところのラブは、手元に用意された最高級茶葉を用いて作られた紅茶を優雅に啜り、そして盛大にため息を吐いた。

「お前は見た目に反して、ピエロにもならんな。何のつもりだったのか知らんが、単なる虚仮威しの為にトレードをこのドフォーレに仕掛けるとは、正に狂気の沙汰だ。調書に寄れば社長、副社長、営業部長と非常に優秀な人員が揃っているとレポートにもあるが、どいつもこいつも頭のいかれた狂人揃いだったか」

 ラブのその言葉に、それまで必死に頭の中で考えを巡らせていたキャンディはぴたりと動きを止めた。

「とはいえ、まぁお前も災難だったな。どうせお前は幾らか握らされてここに来た口だろうが、そりゃあもうカンパニーが勝ち目無しと悟ってお前をスケープゴートにしながらしっぽ巻いて夜逃げする準備でもしているからだろう」

 三億オーラムという疑似金貨の壁の向こうから哀れむような目で見下ろされるのを感じながら、キャンディは自分の頭から一気に血の気が引いていくような感覚を味わっていた。

「おい、カタリナカンパニーとやらの幹部連中の所在と資金の動きを徹底的に洗い、追い詰めろ。関係者は人っ子一人逃がすんじゃあねえぞ。ドフォーレに喧嘩を売ったことを、文字通り死ぬほど後悔させてやれ。そこのガキも哀れではあるが、トレードの規則に則り資金周りの回収が終わるまでは会館に滞在して貰わなければならない。逃げないように拘束しておけ。あとは気がかりなのはマクシムスガードの娘だな。警備の増強をしなければならんか・・・」

 ラブの言葉に反応して周囲の人間が入り口や窓を塞ぐように動き、それに会わせてギルド管理員がおずおずとキャンディの座るソファの横に立ち、口を開いた。

「・・・ここから何も動く様子が無いのでしたら、我々管理員としても早期のトレード終了を勧告せざるを得ません。カタリナカンパニー代表のキャンディさん。本トレードを、この時点で終了いたしますか?」

 管理員がそう言うものの、しかしキャンディは目の前の三億オーラム相当の疑似金貨のあたりを見つめたまま、微動だにしない。その様子に管理員は肩を竦めてラブへと視線を投げると、ラブはもう一度だけため息を吐いて、立ち上がった。そして疑似三億オーラムの上からキャンディを直接見下ろす。

「おいガキ。お前は単に俺の問いかけに『はい』と応えておけばいい。さぁ、とっととこのトレードの終了を宣言しろ」

 ラブの言葉に、キャンディはゆっくりと顔を上げる。そしてキャンディの円らな瞳が己と交錯したところで、ラブは最後の言葉を待つように目を細めた。
 キャンディは、頭はおろか全身から血の気が引いてしまったような感覚に包まれていた。そして半分感覚が無い両手を、ゆっくりと軽く握るつもりで丸める。だが彼女の意識に反し、その両の拳は爪が肌に食い込むほど強く強く握り込まれていた。その両手の平の痛みが熱を持ち、やがてその熱は逆流する血液の奔流となって頭へと到達する。
 そしてその熱に突き動かされるように、口を開く。

「・・・黙れ、ブタ野郎」
「・・・なんだと?」

 突如の暴言に、ラブは米神を振るわせながらドスの効いた声を発する。だがそんなラブの返答など、既にキャンディは聞いていなかった。
 有り体にいって、キャンディは切れていた。恐らくこの十四年あまりの人生の中で、これは彼女が最も怒りに打ち震えている瞬間であった。
 そしてそのままラブを睨み付けていた視線を手元に戻すと拳の縛めを解き、自分の脇に置いてあった鞄に詰め込まれた大量の資料を乱暴に取り出し、机の上にばさりと広げる。

「確かにカンパニーのみんなはとち狂っているかもしれない。こんなトレード、とても正気の人間がやるようなもんじゃ無いよ。でも・・・」

 手元に広げた幾つもの資料の一つ一つを凝視し、そして同時に頭の中ではこれまでに見聞きした全てを思い出そうとしながら、キャンディは誰に聞かせるわけでもなく独り言のように続ける。

「でも・・・それは絶対に、逃げるためなんかじゃあ無い。みんなは逃げているんじゃ無くて、向かっているんだ。だから、この勝負も負けない。勝つ算段があって、挑んでいるんだ。それは、絶対に間違いない」

 手元にあった全ての資料を広げ、それらの全体を眺めるようにキャンディは立ち上がって見下ろした。それらを見返すこの一瞬の合間にキャンディの脳内はすっかり放熱し、一気に冷静さを取り戻していった。
 ここにあるサラがヤーマスでかき集めた手元の資料と、ポールが事前にピドナ宛てに飛ばしてきた注文の数々。それに沿って自分たちがやってきた内容。そして、最初にポールがピドナで調べ回って集めた情報の数々。

(・・・これら全てに関わってんのは、ウチだけだ。だから、ウチなら分かるはず。ポールの狙いが、絶対に分かるはず・・・だからサラも、ウチにここを託したんだ・・・!)

 そして再び睨み付けるようにラブへと視線を移したキャンディは、彼女の出せる最大限の声で、高らかに叫んだ。

「ウチだってもう逃げないって決めたんだ!だから絶対にウチらは、このトレードに勝つ!」

 

 

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第六章・8 -ドフォーレ商会-

 

 ピドナ商業地区の朝は早い。いや、朝というには如何せん早すぎる暁の時分から、商業地区は既に動き始めている。
 特に港に早朝の船が着くあたりには、空が明るむ前から御構い無しに活発に通りを行く人たちで溢れる。トーマスはその喧騒を特に嫌っていることはないが、前日遅くまで根を詰めてしまった時などは、少々寝起きには辛い時もあるものだ。
 決まってそんな時は少し濃いめの珈琲を執事に頼み、井戸から汲み上げた冷水で顔を洗って背伸びをしつつ、珈琲が淹れられるのを待つ。
 そうして漸くやってきた珈琲を啜っていると、メッセンジャーが朝一入港の船から速達で送られてくる書簡を届けにくる。
 これが、ここ数ヶ月の彼の朝の始まりだ。
 ちなみに速達は大抵がこの位の時間に来るが、通常郵便は港で一箇所に集められてから午前中に振り分け、午後に配達されるという形式である。なので速達には一刻も早い対応を望む案件が認められていることが多い。
 更に言うと大体速達にはある種の癖が決まっていて、どのメッセンジャーが何処の海運お抱えなのかが固まっていることが多い。だから誰が届けにきたのかで、何処からの速達なのかが大凡分かったりするのだ。
 その日最初に商会の入り口に現れたのは、商都ヤーマスからの速達を生業とするメッセンジャーの少年だった。

「ご苦労様」

 メッセンジャーが差し出してきた速達を受け取ったトーマスは、珈琲を啜りながら宛先を確認しようと書簡の裏を確認する。宛先は予想通りと言うべきか、現地に向かっているポールからのものだ。
 足早に自室へと戻り封を解き、中身を確認する。
 中に納められた便箋は四枚。
 二枚が伝達内容らしき文書、後二枚は何やら各地の港の名前が書かれたリストのようだった。

「・・・・・・」

 まだ中身を熟読する前ではあるが、トーマスは確信していた。この書簡の内容は十中八九、とても面倒な内容だ。彼の直感が、そう告げている。
 ふと、周囲に視線を走らせた。そして数秒視線を泳がせた後、思い出す。彼の優秀な秘書役の少女は今、ここにはいないのだと言うことを。
 トーマスは己のど忘れに対し自嘲気味な笑みを浮かべながら、改めて便箋へと視線を落とした。

「・・・トーマスさん、なに朝から笑ってんの?」

 唐突に部屋の扉の方から聞こえてきた声にトーマスが顔を上げると、そこには腰辺りまで伸びている艶やかな淡い赤毛を揺らめかせた寝間着姿のキャンディが、どうやら彼が閉め忘れていたらしい扉からこちらを覗き込んでいた。
 ここ最近彼女は何かと理由をつけてはレオナルド工房とハンス商会を行き来しており、カンパニーの帳簿整理などを手伝ってくれている。
 元々彼女が単独で行っていたレオナルド工房の受付業務に関しては、カンパニー経由での受注拡大に伴い雇入れの拡大をノーラが行ったようで、彼女の専属業務というわけではなくなっていたのだ。
 余談だが、カンパニーとの取引による受注拡大と新王教団ピドナ支部の事件に端を発する王国近衛軍団との繋がりにより、ここ数ヶ月でのレオナルド工房の経営状況は大幅に軌道修正された。これにより世界各国に散らばっていた同工房の元職人たちが復帰を願い出てきているらしく、レオナルド工房は以前のような繁忙を見せ始めている。
 そんなわけで工房の受注発注業務等も新規雇い入れ人材に割り振りをしたらしいキャンディは、数日に一回はミューズの元に泊まりに来つつ様々な業務の手伝いをしてくれている、と言うわけだ。

「あぁ、いや、なんでもないよ」
「・・・ふぅん。それ、速達? 急ぎの内容なんだ?」

 時間帯からして速達であり急ぎだろうと当たりをつけて発言したキャンディの言葉に、トーマスはこくりと頷く。
 キャンディはそれに対しても再度ふうんと曖昧な相槌を返すが、しかしその眼は速達へと真っ直ぐに向けられている。

「・・・それ、ひょっとしてポールから?」
「ご名答だよ。そうだ、都合が悪くな」
「わかった!待っててね!着替えてくる!」

 トーマスが言い終わるより早く、キャンディは大急ぎの様子で廊下を走り去って行った。
 数秒瞬きをしながら彼女の去った後に視線を向けていたトーマスは、ふっと短く笑った後、改めて便箋に向き合った。

 

 

「いらっしゃいませ。ようこそドフォーレ商会本館へ。ごゆっくりとお寛ぎ下さい」

 カランカランと、扉に付けられたベルが来客を知らせようと店内へ向け上品に鳴り響く。
 それに合わせ、よく教育が行き届いているらしく恭しくお辞儀をしながら語りかけてくる店員に、モニカは軽く会釈を返しながら店内へ一歩を踏み入れた。
 その瞬間に彼女の纏う華やかにして気品溢れる花の様な香りが周囲に振り撒かれ、店内の客が思わず彼女へと振り返り、そしてその美しさに目を奪われた。
 長く美しい金髪を後ろで編み込み、控え目だが一目でその宝飾技術の高さが伺える髪留めが高貴なアクセントとなっている。
 身に纏うドレスも一見して仕立ての良さが分かる非常に美しい仕上がりのもので、見る人が見れば、それはモードの最先端を行くリブロフの著名ブランドの一点物である事がすぐに分かる。

「・・・これはこれは、ようこそいらっしゃいました。当商会本館ギャラリーへは、初めてのご来場ですかな。いや、そうでしょうな。この美貌を一眼でも見たのなら、覚えていないなど有り得ないことです」

 程なくしてカウンターの奥から、非常に身なりの良い貴族然とした格好の男性が出迎えてきた。
 それを受け入れるように優雅に軽く一礼をしたモニカは、日除けに被っていた帽子を側に立つエレンに手渡す。
 エレンは執事を意識し、且つ動き易さを重視したパンツスタイルのコーディネートで纏めているが、そのような服装の中でも彼女の生来の美しさがよく現れており、男装の麗人と呼ぶに差し支えない。この二人の組み合わせは、当然のように一気に店内の視線の全てを掻っ攫った。

「ピドナから遊覧で参りました。ヤーマスではまずここをどうしても見てみたかったのです。わたくしは特に宝飾品や服飾、美術品に興味があるのですが、何方かにご案内を願えますか?」

 透き通るような声でモニカが話し掛けてきた男に対してそう言うと、男はゆっくりと頷いた。

「畏まりました。改めまして私がこのドフォーレ商会本館の店主を務めております、ラブ=ドフォーレと申します。早速店内の御案内を致しましょう!」
「ええ、宜しくお願い致します」

 ラブと名乗った店主に連れられ、モニカは優雅な足取りで店内を進んでいく。エレンはその数歩後ろを付き従うように歩きながら、周囲に悟られぬよう細心の注意を払いつつ店内全体に鋭く視線を走らせた。

(外観から予想していたけれど、やはりこの建物自体はかなり大きいみたいね・・・。一見して地上三階層だけど、まぁ地下階層があると見て間違いなさそう。ハリードに言わせれば、何かやましい事があるとしたら、それは大抵地下って相場は決まっているのよね)

 店頭入り口から一つ奥の部屋へと案内され珍しい宝飾品の数々を店主に紹介され感嘆の声を上げているモニカだったが、エレンの目配せを察してその純真無垢の表情のまま、店主に向き直った。

「どれも素晴らしい宝飾品ですわね。ただ・・・」
「おや、お気に召しませんでしたかな?」

 胸の下で軽く腕を組み顎にそっと手を当てながらモニカが少し表情を曇らせると、ラブはその様子を察してお伺いを立ててきた。
 するとモニカは少し上目遣いに店主へと視線を送りながら、隣で見ているエレンですらどきりとするほど、微かでありながらも妖艶な笑みを浮かべてみせた。

「・・・わたくし、ドフォーレ商会様にはもっと素晴らしい美術品や宝飾品の数々がある、と伺ってきましたの。そのために予算も奮発してきたのですけれど、わたくしの思い違いだったのかしら」

 ふと、ラブが視線を細める。
 そしてその視線のまま、まるで値踏みでもするかのようにモニカの全身を改めて舐め回すように眺めた。
 これはこの場にいたのがユリアンであれば後先考えず剣を抜いて暴れそうだ、とエレンは内心で苦笑した。流石と言うべきか、ポールの采配は細やかなものである。

「・・・確かに、我がドフォーレ商会では一部の方々にのみご紹介をする希少商品の取り扱いも御座います。ただ、これは申し訳ありませんが通常ご案内をしていません。お嬢様は、何方様からのご紹介状などはお持ちで?」

 その言葉を待っていたかのように、エレンは一歩前に出ながら封蝋の施された書状を懐から取り出し、ラブに差し出す。
 その封蝋を見て、店主ラブ=ドフォーレは少なからず目を見開いた。

「・・・これは」
「ええ、神王教団ピドナ前支部長、マクシムス様の紹介状です。わたくし、メッサーナにて商いをしております商家のものでして。マクシムス様にはご贔屓にしていただいておりましたの。その折に、ルーブに向かう時にと頂いておりましたのが、その紹介状ですわ」

 モニカの言葉を聞きながら、ラブはまじまじとその封蝋を見つめている。しかし彼は確かにその封蝋を知っており、紛れもなくそれはマクシムスのものであった。その様子をモニカはうっすらと浮かべた笑みを崩さぬままに眺めながら、言葉を続ける。

「残念ながらマクシムス様は先日の事変にてご失脚なされてしまったようですが、ドフォーレ商会としては神王教団との付き合いそのものは未だ密接に持っていらっしゃると、そうお伺いしております。そういったこともあり、是非その希少商品とやらをご紹介していただければと思いますの」

 そこまで言い終わったところで、モニカは相手の反応を待つように腕を組み直した。ラブはその様子にも気がつかぬ様子で暫く考え込んでいたが、やがて視線をモニカへと戻し、難しい表情をして見せた。

「マドモアゼル、確かにこれはマクシムス様の封蝋のご様子。ですが先日の事変から、この封蝋が本当にマクシムス様本人によって封されたものであるのかも、残念ながら私共では判断がつきません。穿った見方をしてしまえば、マクシムス様なき後に何者かが用意をしたものとする可能性を、私共は払拭できないのです」

 これでは商品の紹介はすることができない、とラブが続ける。確かにラブの言葉は、最もだろう。どうやら目の前の人物は、目先の利益には飛びつかず確りと考える強かな男のようだ。
 だが、モニカはそれでも笑みを崩さなかった。

「そうですか、それは困りましたわね。それではそうですね・・・これならば如何かしら。わたくしが、確かにその紹介状を事変以前にマクシムス様から頂いているであろうということをご理解いただけたら、ご紹介いただけますか?」
「・・・無論、それが示されれば。しかしどのように・・・?」

 ラブの言葉に、モニカはうっすらと目を細めた。

「ドフォーレ様やマクシムス様、またその関係者しか知り得ない情報をわたくしが知っていれば、わたくしとマクシムス様の繋がりをご理解頂けるのではないかと思いますが・・・如何でしょう?」
「・・・成る程。しかしながら先の封蝋と同じく、何かの伝票や書状等に残っていては無意味ではありませんか?」
「ええ。ですから、文書にも残っていないもの・・・いえ、残されていてはいけないものならば、ご理解頂けるのではないかと」

 モニカのその言葉に、ラブはいよいよ表情から笑みを消した。エレンは周囲の気配を探るように神経を研ぎ澄ませながら、動向を見守る。

「そこまで仰られるのであれば、余程自信のある情報とお見受けします。是非、お聞かせ願えますか?」
「はい」

 ラブに対しにこやかに頷いたモニカは、周囲に展示してある宝飾品を一つ一つじっくりと眺めながら、まるでその宝石たちに語りかけてでもいるかのように口を開いた。

「当家の商いは、ピドナを擁するマイカン半島を中心とした陸運向け傭兵業でございます。とはいえ、メッサーナキャラバンのような大手との業務契約はなく、地域に根付いた少人数での細々とした商売。それが不思議なご縁で、マクシムス様とは実のところピドナ支部長にご就任なされる以前・・・そう、丁度かのハマール湖での戦いがあった十年程も前からお付き合いがありまして、当家はそれからいくつかのお仕事をご一緒させていただきましたの」

 ハマール湖での戦いでは、ドフォーレ様もさぞご収益を出されたたことでしょうね。そう言いながら、モニカは宝飾品の並ぶ棚の向こう、壁にかけられている絵画へと視線を投げかけた。花瓶に生けられた華やかな花を描いたその絵画へ投げかけるように、言葉を続ける。

「わたくしどもが請け負ったお仕事は当然、陸運中の護衛でございます。マクシムス様と出会って翌年あたりから、年に一、二度ほど、とある『荷運び』の護衛を承りました。いつも運ぶものは一緒。マクシムス様も無茶を承知で仰せられるものですから、それこそ世界中を旅しましたわ。その折に、特段印象的な仕事が一つございます。それは、聖王歴三百八年にお引き受けした長距離の『荷運び』でございます」

 年代が口に出たところでラブは、ふと無表情になる。また部屋の周囲に微かに殺気が混じり始めたことをエレンは察知し、気付かれぬように警戒を強めた。
 モニカは続ける。

「この年、マクシムス様からのご依頼を受け、とある荷物をメッサーナから陸路周りで、なんとガーター半島へ運ばせていただきましたの。とはいえウィルミントンを目指したわけではございません。わたくしたちが向かった先は、そう。今はなき、ガーターウエスト塩田でしたわ」
「もう結構ですよ、マドモアゼル」

 両手を軽く上げ、ラブはモニカの語りを止めに入る。
 だが、モニカは止めなかった。

「わたくしどもの運んだ荷物、それこそは『不幸』。殺戮と破壊でございます。けれどその『不幸の恩恵』を受けた様々な結晶が、ここにある。わたくしは、マクシムス様からそう伺っております」
「わかった、わかった。もうそれ以上は喋らなくて結構だ」

 勘弁してくれとでもいうように、ラブは突然ぎらりとした貪欲な眼底を晒すような目つきに変貌し、半分声を荒げるようにして今度こそモニカの言葉をさえぎった。

「お前たち・・・『マクシムスガード』、だな? 頭領が失脚したというのに、まだ残っていたのか・・・。老若男女を問わず集められた暗殺を生業とする集団だとは俺もマクシムスの旦那から聞いていたが、まさかあんたのような娘までそうだとは・・・」

 モニカは、その言葉に応える代わりであるかのように一層妖艶な笑みを浮かべる。するとラブは額に冷や汗を一筋垂らしながら、一歩後退った。

「・・・何が目的か知らないが、金があるってんなら案内しよう。あんたらを敵には回したくない」

 そう言いながら更に奥の部屋へと向かうラブに、モニカとエレンは颯爽と続いていく。
 奥の部屋は一見して置物も何もない小さな物置用の空間のようだったが、そこには帯剣した屈強な男が四人ほど待機していた。部屋の外から漏れてきていた殺気はこいつらか、とエレンは一人納得する。
 ラブは男どもには目もくれず部屋の端まで歩き、目の前の壁を一箇所、無造作に押した。すると壁は扉のように開き、その先には螺旋状の下り階段が現れる。

「・・・こっちだ。此奴らの事は、そう警戒しないでくれ。あんたたちを一人で案内するほど、こちとら命知らずじゃあないんでね」
「ふふ、賢明なご判断ですわ」

 冗談めかしたモニカの言葉にラブは無理やり作った笑みで答えつつ、部屋の中の男達を引き連れるようにしながら階段へと向かった。そのまま振り返って無言の仕草でモニカ達を誘う。そのままモニカ達が従って階段を下って行くと、直ぐにどこかの店のバックヤードのような所に出た。

「・・・下の階にある、会員制のショップだよ。闇市で回ってきたものや盗掘品とかな、表に出せない商品を売っている。まだ下だ」

 ラブはさらにもう一度仕掛け壁を開け放ち、人一人がやっと通れる程度の細い螺旋階段を地下へと下って行く。恐らくは方向感覚を狂わせることが目的なのであろう。何周も回るように下り、そしてそこから今度はまっすぐ伸びて行く細く狭い道を十数分ほど歩いた。
 するとその先に、唐突に広大な空間が広がっていた。

「・・・ここだ。さぁ、御目当てのもんはなんだ。一応断っておくがな、我々で回収した聖王遺物はちゃんと全部そっちに渡してあるぞ」

 こちらを見ながらそう言って来るラブの言葉を無視するように、モニカとエレンはゆっくりと前進しながら倉庫全体を眺めた。
 天井から漏れ入る光が複数。そしてわずかに潮の香り。恐らくはヤーマス港の地下のどこかに作られた空間であろうことがうかがえる。
 そして改めて、その大きな空間に区分けされて置いてある様々な品へと視線を向けた。
 多くは、古美術品や絵画だ。このような場所に置いていては全く保存によろしくないように思えるが、見ればどれも長く置かれている気配はない。ここはあくまで一時的な置き場所なのであろう。いくつかの品はモニカにもそのルーツが予測できる品々があったが、それらについては特段今の時点で言及しようとは思わなかった。
 少なくとも一通り見て回り、ここで彼女たちの目的は達せられた。
 ここにあるものは、間違いなく盗掘品や盗難された品々だろう。

「・・・さぁ、何を買う。此方としてもあんた方には世話になったことが何度もあるからな。ふっかけやしないぜ?」

 じっくりと品定めをしているように見えるモニカとエレンを見ながら、やや余裕を取り戻した様子でラブは腕を組みながら声をかけてきた。丁度品揃えも大体見てしまったところだったので、モニカとエレンはお互いの顔を見合わせて小さく微笑み合うと、ラブへと向き直る。

「よろしいでしょう。これを買いますわ」

 優雅に右腕を胸の前から後ろへと流すように広げ、半身を後方へと向けるようにしながらモニカは言った。しかし、その仕草と言葉に、ラブは要領を得ないと言った表情で首をかしげる。

「・・・どれだ?」
「ですから、これを、です」

 姿勢を崩さぬまま、モニカは平然と言い放つ。
 そしてその言葉、その意味を唐突に察したラブは、まるで冗談を言う子供を嗜めるような表情を作りかけた。しかしモニカの表情と瞳に一切の曇りがないことを見抜いて、次には大いにたじろいだ。

「お・・・おい、まさかここの品を全部買おう、とか言ってんじゃあないだろうな?」
「・・・あら、そうですわね。それでは足りませんわよね。それでは・・・」

 ラブの言葉に対し、全く頓珍漢な答えを返すモニカ。身を翻して態とらしく思案するオペラ役者さながらの名演技に、エレンは今にも吹き出してしまいそうなのを堪えるのに必死だ。
 そして思案する様子をたっぷり十数秒ほど見せつけたモニカは、ラブに向き直ると同時に、高らかに言い放った。

「改めて、ラブ=ドフォーレ様。わたくし、買いますわ。ドフォーレ商会を。当社から『トレード』を申し込みます。正式な手続きは商館を通じ、一週間後にさせて頂きますわ」

 

 

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