第九章・4 -フルブライト演説-

 

 一年を通じて穏やかな気候であることから、ガーター半島の中でもウィルミントンは特段に住みやすい場所であるとして、古来より住居や観光地としての人気が高い地域だ。
 街の東は波も穏やかな静海に面しており、西には聖王伝説に準えた巡礼地としても名高いデマンダ山脈が連なり、東西で素晴らしい景勝を成している。
 かくして、そんなウィルミントンに一人、悩める青年がいた。

「アビスリーグとは、一体いつから経済界・・・いや、世界そのものに干渉してきていたというのだ・・・?」

 見るからに長い歴史を彷彿とさせる、古式造りの外観をした建物。その二階にある、小さな窓から西日が差し込んだ、質素な調度品が幾つかあるだけの一室。
 世界有数の港湾景観美を誇るとも言われるウィルミントン港から程近い港湾商業通りの一角に、その建物と部屋はあった。
 そこは、他国と比べても群を抜いた量の歴史的建造物数を誇るウィルミントンの中でも、指折りとされる代表的な歴史的建築様式で建てられた老舗工房、すなわちチャールズ自由工房の区画内。
 かの聖王その人に付き従い、三百年の昔に四魔貴族と熾烈な戦いに身を投じた英雄の一人であるチャールズ=フルブライトの名前を冠した、世界で最も有名だとすら言われる工房である。

「調べれば調べるほど、その痕跡は巧妙に隠されている・・・。我が商会における違和感に限れば早々探り出せるかと思っていたが・・・よもや、ここまで分からぬものだとはな・・・」

 小さな部屋には不釣り合いなほどに広い机の上に、これでもかと積み上げられた書簡の山。
 それらを脅威的な速度で読み解き、自らの手元にある手帳へと愛用の羽ペンで要点の記載を行いながらブツブツと独り言を呟き続ける。
 フルブライト二十三世は、かれこれもう二ヶ月近く、短期間の間に幾つか場所を変えては籠るという生活を続けていた。
 なぜ彼がこのような生活をしているのかといえば、これは完全に自衛の観点からだ。
 フルブライト商会の内部に、アビスリーグの魔の手が伸びている。それは、最初は可能性の一つとして行き着いた推測でしかなかった。
 世界各国で秘密裏に活動を行なっているアビスリーグが、世界一の商会を有する商都であるウィルミントンに潜んでいないわけはない。フルブライト二十三世はアビスリーグの存在を察知した直後には、当然の如く真っ先にそう考えたのである。
 そして、もし実際にそうだとしたら。
 なれば代々ウィルミントンの執政官も務めるフルブライト一族との接触を図るのが、この街で最も有効な内部崩壊の道筋だ。
 簡単なことではないが、それでも目的のことを思えばこそ、そこを目指すことは火を見るよりも明らかであるだろう、と考えた。
 もし、彼が現時点で商会の全権を握っているのならば。
 そうだとしたら、自ら考えたその最悪の可能性について、即座に否と言い切ることができたのかもしれない。
 だが実際の彼は、残念ながらこの商会を掌握してはいない。
 確かに肩書きこそフルブライト家の当主にしてフルブライト商会の会長を務めるフルブライト二十三世だが、その実フルブライト商会を意のままに操るのは、先代当主であるフルブライト二十二世、つまり彼の父親であった。
 その父の敷く院政による運営というのが、今のフルブライト商会の実態なのである。
 フルブライト商会は、商会中興の祖にして聖王十二将の一人とも言われるフルブライト十二世の頃から、若い世代への継承を推し進める伝統があった。故にフルブライト二十三世は、若くして会長の座に就いたのである。
 そして彼は、自分の若さ故の過ちを酷く後悔していた。
 元々の彼は自他共に認める通りの、野心家だ。
 商会お膝元であるウィルミントンの街中でも最近は耳に届くことがある、フルブライト商会の「落ち目である」という風潮。これを一掃し、近年業績を伸ばすドフォーレやラザイエフ、ナジュ地方の新興企業を相手に絶対的優位に立ち回り、フルブライト商会の名声を自らの代で最も歴史上大きく輝かせる。
 そんな野望を、己の中に持っている。
 しかしこの野望に強く突き動かされた彼は、父の院政という現実に直面した時、大いに空回りした。
 当然院政を敷くならば、表向きの代表は操りやすいに越したことはない。それこそ、右も左もわからぬ幼子を王の座に据える摂政が如く、だ。
 だが父から引き継いだ会長の就任直後に彼は、父の院政方針に反発して、実に小賢しく立ち回ってしまった。
 それは下手に能力と野心があり、そして経験がなかったからこその大いなる過ちであったと、今の彼は過去の自分のことを酷く悔いている。
 御せないならば、干す。院政を敷く父が実行した彼への対処は、至極当然のことであった。
 血の繋がった親子の情けか、伝統を守ったが故か。彼は、会長職を辞するまでには至らならなかった。
 だが彼の持つ権限はその殆どが削がれ、ウィルミントンにある本店の売上管理のみが主な彼の業務となり、それ以外の業務への干渉権限は基本的にはなくなった。
 その状況に至り、彼は漸く己の行動を顧みた。そして今は雌伏の時であると察し、以後は父に対し挫折によって腐った息子を演じてきた。
 しかしてその裏では放蕩外遊と見せかけて世界各地を回り、兎に角自分に圧倒的に足りなかった経験を積んだ。各地の商会を訪問しては独自の情報網を現地で築き、里帰りした際には本館内でも着実に味方を作り続け、彼が再び権勢を得る機会を虎視眈々と窺っていたのである。
 しかしそうした活動をしていく最中にも、世界経済には常に所々で不穏な様子が見てとれた。
 当然ながら、それを横目に徹底して腐った放蕩息子を演じることも、彼には出来たであろう。だがしかし、彼の正義感は経済界に蔓延る不正を、特段に許せなかった。
 父に勘付かれる危険を犯しながらもピドナでトーマスとカタリナに接触したのは、そういった流れからだったのである。
 思えば、あの時に旧クラウディウス商会系列企業に手を出していた怪しげな企業群というのも、アビスリーグだったのであろう。
 カタリナカンパニーの設立とクラウディウス系企業群の併合の後、直ぐにそれら企業は手を引いたので、彼もそれ以上派手に動くのは難しいことから後追いをしなかったが、それも今となっては失策だったかもしれないと苦虫を噛み潰す思いであった。

「・・・私が現状使える手札では、内部から調べようにもこの辺りが限界か・・・。あとは最早・・・。うーん、出来れば避けたいところだがなー・・・」

 ぶつぶつと一人呟き続けながら、大きく背伸びをするように椅子の背もたれに寄りかかる。そして、思い切り両腕を上に伸ばして背伸びをした。
 すると窓から差し込んだ西陽が丁度いい具合に彼の顔を照らし、その眩さに思わず眉を顰めながら陽光の反対側へと顔を逸らす。

コンコンッ

 果たして丁度そのタイミングにて、彼の視線の先にあるこの部屋の唯一の扉を叩く音が、唐突に室内に響きわたった。

「・・・・・・。どちら様かな?」

 普段は使われることもなく、そこに人が寄り付くことは基本的にない。フルブライト二十三世がいる建物と部屋は、そういう場所だ。
 付け加えるなら、この建物のこの部屋に彼がいるという事実を、建物の所有者であるチャールズ自由工房の人間は実は誰も知らない。
 自分の中で信用がおける一部の者の伝だけを頼り、いくつも潜伏先を転々としていた彼の現在の居場所を知る者は、それこそ商会内には殆どいないはずなのだ。
 そもそも、外面的には彼の予定は現在進行形で、いつもと同じ外遊ということにしている。
 そのような状況でこの部屋にこのタイミングで訪れる者の存在など、通常ならばありえるはずもないのである。
 通常、ならば。
 さて、そんな状況からのこの展開であるからして流石に最悪のシナリオまで即座に考えつつ、フルブライト二十三世は椅子から静かに立ち上がり、扉の向こうへもう一度、誰何した。
 すると、はたして彼の脳内シナリオがそのまま現実のものとなったかのように、返答の代わりに扉の取手が外側から、片手斧で叩き壊されたのであった。
 バキッと派手な音と共に扉の鍵部分が破壊され、その後に不気味なほど静かに扉を開けて部屋に入ってきたのは、眼光鋭い三人の男であった。
 三人とも黒を基調とした装束に身を包み、顔も目の周辺以外は覆い隠されている。日暮れ時のウィルミントンを歩くには、むしろ異様に目立ちそうな格好にも思えた。
 そして当然ながら彼らのことを、フルブライト二十三世は全く知らない。だが、彼らの纏う空気が明らかに表の世界に生きる類のものではないことくらいは、切った張ったとは縁遠い彼にも流石に分かる。

「あー・・・何の用だか、一応聞いても?」

 迅る動悸と、米神を流れる冷や汗。
 それらを無理やり抑え込むように、フルブライト二十三世は努めて冷静を装いながら、落ち着いた調子で相手に声をかける。果たしてこれまで数々の商談で培ってきた交渉術が、この手の輩には通じるものだろうか、などと考えながら。
 言葉を発すると同時、ジリジリと窓際へ距離を取るようにするフルブライト二十三世の問いかけに、しかし三人の男たちは何も答える様子はない。
 この部屋の出入り口は彼らの背後にある壊された扉だけだからか、一々散開するような様子もなし。三人横並びでゆっくりと手にした得物を構えながら、獲物であるフルブライト二十三世へとにじり寄る。

「・・・見たところ君たちは、その筋のプロのようだね。下手に喋らないのは、君たちが間違いなく優秀な証拠だ。反面私は、どうにも喋らないと気が済まない性分でね。言いたいことを言わずにいられないんだ。そこで先ず聞くのだが・・・君たち、雇い主を変える気はないかな。その腕を見込んで、報酬は今の倍額で確約させていただくが」

 先ずは、正攻法による交渉だ。
 トレードとは即ち、聞こえのいい言葉を織り交ぜながら交渉をしつつも結局のところは、オーラム貨幣による殴り合いの物量戦が基本となる。その決着の大部分は、相手を上回る資金力で無慈悲に制圧することで成り立つのだ。
 これこそが、トレードにおける基本中の基本。永遠のスタンダード。制圧の美学なのである。

「・・・・・・・・・」

 しかして、相手は此方の提案に対し、全く意に介する様子がない。フルブライト二十三世は、その様子に内心で大いにため息を吐くのであった。
 偶にいるのだ。こういう、金をいくら積んだとしても頑として態度を曲げない、そんな物件始末屋並みの堅物商談相手が。
 だが、それで大人しく諦めるほどウィルミントンの商人は甘くはないのである。

「・・・君が持っているその武具、よく手入れをされた三日月刀だ。曲刀は、ナジュ地方特産の武具だね。地肌の色から見ても、生まれが其方かとお見受けする。するとひょっとして君たちは、ハマールでの戦いに参加していたのかい?あれは酷い戦いだったね」

 正攻法で駄目なら、搦め手だ。
 黒装束で肌を隠した彼らの、目の周りの僅かに見える地肌。そこには、砂漠の民を思わせる褐色が見え隠れしていた。そして手に持つ得物の曲刀は、これまた砂漠の戦士の象徴たる武装だ。
 トルネードと呼ばれる有名な同国出身傭兵もそうだが、砂漠の戦士が曲刀を持つことには、特別な意味がある。ゲッシア王朝の初代国王にして同国の絶対的英雄であるアル=アワドが用いたとされる曲刀カムシーンを起源とし、砂漠の戦士が曲刀を持つということは、正に国の誇りをその手に扱うということなのだ。
 つまり、彼らは少なくともゲッシア王朝に連なる何らかの信仰を持っている可能性が高い、と読み取ることができる。
 そして、砂漠の民に切っても切れない近年最大の事変が、ハマール湖の戦いだ。
 凡そ十年前に起こったその戦で、建国から六百年近くもの歴史を誇ったゲッシア王朝は、滅亡した。
 世界を襲った三度目の死蝕の後、故クレメンス=クラウディウスからの弾圧政策によりメッサーナを追われた神王教団が己の生存権を賭けてナジュで起こした「聖戦」の結果、敗走したゲッシアの戦士たちの多くは、無念のうちに国元を追われたのである。
 そして戦に生きてきた戦士の多くは他国で傭兵や冒険者に転身し、また、少なくない者たちが野盗や暗殺稼業など裏の生業に身を落としたのだという。
 当然そうして国を追われた戦士達には、神王教団への怨嗟、亡国への無念など、部外者には想像もつかないほどの負の感情が未だに渦巻いているのである。
 砂漠の戦士たちにとって、このハマール湖の戦に纏わる話題は、正に禁句中の禁句であると言っていい。

「・・・黙れ。貴様ら商人風情が、あのことを語るな」

 先頭に位置していた男が、明らかに殺気の増した眼光でフルブライト二十三世を睨みつけながら、短くそう発する。
 当たりか、とフルブライト二十三世は内心でほくそ笑んだ。
 どうやらまだ、この商談には勝ち筋が残っているらしい。

「・・・失礼、君たちの誇りを踏み躙るつもりは毛頭ないんだ。ただ、今ここで私が死ねば、ゲッシア再建の道が遠退く・・・いや、叶わぬことになるかもしれない。それは、誇り高き砂漠の戦士と見受けられる君たちにとっては、知り置くべき情報だと思ってね」

 フルブライト二十三世のその言葉に三人の動きが、はたと止まった。
 同時に先程まで殺気に満ち溢れていた眼光には、若干の戸惑いの色が混ざっている。どうやら、効果は抜群だ。

「・・・・・・。話を続けても?」

 変わらず自分に差し向けられている三日月刀の切っ先に視線を移し、フルブライト二十三世が口を開く。すると、互いに視線を素早く交わした三人は、手にした得物を一旦下ろして話の催促を示したのだった。

 

 

 カタリナカンパニーによるバンガードでのフルブライト商会おもてなしは、過去に類を見ないほどの大盛況のうちに幕を下ろした。
 今回の宴席によりフルブライト商会からカタリナカンパニーへの印象は非常に良いものとなり、今後このトレードの結果がどのような着地をしたとしても、現場レベルでの面立ったいざこざは、確実に起こり辛くなったことだろう。
 夜通し続いた宴席の間、特に親睦を深めたと思われる主催のラブ=ドフォーレとフルブライト商会のバイロンは翌日に改めて現地の商業ギルド会館にて固く握手を交わし、日を置いて再開される商談の着地地点へと大きな前進をみせたと思われた。
 商業ギルド関係者の間ではこの日に一気に話が進むのではとの見方があったようだが、今回のトレードにおけるフルブライト側の決済者であるバイロンが、なんでも所用で一度ウィルミントンに戻らねばならぬ予定となっていたようなのである。
 そのため彼がバンガードに戻る一週間後にトレードが再開されるとのことで、この日は双方一時解散となったのであった。

 陸路ではなく小型で足の速い船を用い、急ぎ海路からウィルミントンに向かったフルブライト商会幹部一行は、宴席の二日後には早々とウィルミントン港へ到着していた。
 そして足早に港から市街地へと向かった一行は、ウィルミントンの美しい眺めを一望できる小高い場所に位置するフルブライト商会の本館へと入っていった。
 館内ですぐさま他の幹部らと一時別れたバイロンは、そのまま真っ直ぐ館内の奥まった場所に位置する会長室と書かれた部屋の前へ辿り着き、その扉を徐に開ける。
 静かに開いた扉の先、部屋の中は一見して無人だ。
 部屋の中央には、応接用に用意されたテーブル。そしてそのテーブルの上にはフルブライト二十三世が愛用している、伝説の怪鳥ワンダーラストの羽を模したとされる飾りがあしらわれたグリーンの帽子が、ぽつりと置かれていた。
 これはオーダーメイドの一点物で、世に二つと存在しないものだ。

「・・・・・・」

 その一点物がここに置いてあるということはつまり、彼がここにきた目的は滞りなく達成された、ということの証左か。
 彼は、これの確認をするためだけに態々このタイミングでウィルミントンへと戻ってきたのだった。
 優秀な商売人とは誰しもが少なからずそうであろうが、バイロンもその例に漏れず、慎重な性格だ。
 今現在行われているカタリナカンパニーとのトレードにおいて、フルブライト商会の、そして彼自身の今後を大きく左右する方針が定まる。そしてその方針を定めるにあたって、現会長であるフルブライト二十三世の存在は、邪魔でしかない。
 バイロンは、彼がこそこそと内部事情を探っているらしいという事実について、早々に認識していた。
 勿論、商会内部ですら大した力を持たないお飾り会長が何をしたところで、実際には大した障害とはならないだろう。
 だが、それはあくまでも今の段階で、という話であって、今後もそうであるとは限らない。
 加えて今後のフルブライト商会を円滑に掌握していくには、分かりやすい対外的な大義名分が必要だ。そのためには遅かれ早かれ、フルブライト二十三世には消えてもらわねばならない。
 ならばいっそ、この機に退場してもらおうと考えた。それを今回の筋書きに足してしまったほうが、様々な面で話が早いのだ。
 そう結論づけたバイロンは、フルブライト二十三世の暗殺を命じた。
 トレード終結の際に思惑通りに話を進めるには、フルブライト二十三世が既にこの世に居ないことを確認しなければならない。
 そのための万全を期す意味で、彼は自らの目で確認をするために戻ってきた。そして彼の前には今、その証左となり得る品が置かれている。
 バイロンは薄らと目尻に笑みを浮かべ、テーブルに歩み寄ると卓上の帽子を掴み取ろうと腰を屈めて手を伸ばした。

「・・・おっと、それは私のお気に入りでしてね。いくら貴方と言えども、お譲りは出来ませんよ。バイロンおじ様」
「!!」

 部屋の物陰から静かに姿を現したフルブライト二十三世の声かけに、びくりとバイロンは小さく身を震わせて動きを止める。
 しかしながらそれはほんの一秒ほどで、バイロンはゆっくりと直立に姿勢を正すと、優雅に手を後ろに組み直しながらフルブライト二十三世へと向き直り、微笑んだ。

「ははは、流石に息子同然の子の物を貰おうとは思わんよ。久しぶりだね、元気そうで何よりだよ、ブライトJr」
「ふふ、僕のことをそう呼ぶのも、もうバイロンおじ様だけです。ところで、本日は会長室へ一体どの様な御用向きで?」

 部屋の窓際に設置された会長専用の執務机に歩み寄り、その縁に軽く体重を預けながら、フルブライト二十三世が尋ねる。すると、バイロンは片手で自らの顎髭を撫で付ける様にしながら柔和に微笑んだ。

「ここに来る理由なんて、大抵は一つだよ。ブライトJrの元気な姿を偶にはみたくなった、というだけさ。我が子のように接してきた子の事を想うのに、そう大した理由はいるまい」

 そう言いながらバイロンは応接用の机の脇を抜け、フルブライト二十三世へと近づく。
 しかしその歩みは、二人の間に割って入った予期せぬ介入者によって、唐突に止められることとなった。

「・・・これは一体、どういうことかな」

 バイロンとフルブライト二十三世の間に割って入ってきたのは、全身を黒基調とした装束で覆った一人の男だった。
 先ほどのフルブライト二十三世と同じく物陰から音もなく現れた男は、全く無駄のない動きで鞘から引き抜いた三日月刀を、バイロンへと向けて構えている。

「どういうことか説明してほしいのは僕の方ですよ、バイロンおじ様。我が父と共にフルブライト商会を・・・いや、この自由都市ウィルミントンを長年支えてきてくださった貴方が、何故アビスリーグなどに加担しておられるのか・・・?」

 フルブライト二十三世が眼光鋭くバイロンを睨みつけると、しかしそれに対して何ら怯んだ様子のないバイロンは、髭を撫で付ける手を止めた。そして、ふむ、と一つ息を吐く。

「・・・矢張り賊に任せるというのは、良くなかったな。多少の手間がかかるとしても、確実な手段で事を運ばねば、時としてこういうボロがでる。私もまだまだだね」

 そう言って何事もなかったの如く後ろへ振り返り、なんとそのままバイロンは部屋を去ろうとした。
 しかし部屋の扉の前にも二人、廊下から現れた黒装束を纏った男がバイロンの前に立ちはだかる。

「ここから逃すつもりはないです。教えてください、おじ様。何故アビスリーグと手を組んだのですか」
「・・・君に教えたところで、何も分かりはすまいよ。脛齧りっ子のJrにはね」

 後ろ手に組んだ直立姿勢は崩さぬままバイロンは、さして興味のなさそうな瞳で、なんとも面倒臭そうな緩慢な動きでフルブライト二十三世に向き直った。
 あくまでも、こちらの質問にまともに答える気はない様子だ。それであれば、本意ではないものの手荒な手段も致し方ないだろう。
 そう覚悟を決めたフルブライト二十三世が右手を前に突き出すと、それを合図に黒装束の男たちがバイロンを拘束しようと躙り寄る。

「・・・いいのかね。私がすぐに港に戻らなければ、制御を失った魔物達ががこの館やウィルミントンの街中で暴れ回ることになるが」
「・・・なんだと?」

 バイロンの言葉にフルブライト二十三世は怪訝な顔をしながら、突き出した手を気持ち、引き戻した。

「言葉の通りだよ。私はこの通り丸腰だし、今は護衛もいない。加えて言うなら、あのモンテロ=ドフォーレのように魔物が化てもいない。単なる生身の人間だ。・・・かと言って、全く自衛の策を持っていないというわけでもない。それだけの話だよ」

 バイロンは、至極冷静な様子でフルブライト二十三世を見返す。

「私は拷問など受けたこともないから、きっと簡単に吐くかもしれないよ。ただそのための対価は、このウィルミントンの街の消滅だ。この商談、君は受けるかね?」

 フルブライト二十三世は、迷わず即座に突き出していた右手を下げた。
 それを確認した黒装束の男三人は、雇い主である彼の意思を汲み取り、バイロンから距離を取るように一歩離れる。
 この男の言葉は、はったりなどではない。
 紛れもなくその言葉が事実であろうと言うことを、フルブライト二十三世は知っている。
 彼は、物心がつくかつかないかという幼少の頃から、それをよく知っているのだ。偉大なる父の横に常に立っていた、このバイロンという男のことを。
 父であり、現在も商会の実質的な最高権力者である、フルブライト二十二世。その父の絶対的な右腕であり続け、数々の重要な商談を取り仕切ってきた、フルブライト商会きっての辣腕家。
 それがこの、バイロンという男だ。
 フルブライト商会は確かに、世界一の商会だ。だが、特に死蝕前後のここ数十年はドフォーレやクラウディウスなど勢いのある大きな商会が次々と台頭し、ポドールイ地方ではツヴァイク公爵が権勢を振るうことで独自経済圏を確立し始めていた。また、ゲッシア王朝の滅亡と神王教団の躍進によってナジュ経済圏にも結果として活性が起き、混沌としながらも大きく経済的な成長を成し遂げていった。
 そうした激動の時代の最中で、変わらず世界一を維持すること。それは、想像するだけでも非常に困難を極めることであった。
 世間では「最近のフルブライトはいまいちだ」などと揶揄されることもあるが、これだけの激動の中で変わらず世界一という立場を確立しているのは、間違いなくこのバイロンという男の手腕によるところが大きい。
 残念ながら父だけでは、世界一という評価の維持は不可能だったであろう。
 最も近くで父を見てきたフルブライト二十三世をして、そう思わせてしまうほどの確かな手腕。それが、このバイロンという男にはあった。

「・・・リターンが割に合わないトレードをするつもりは、ありません。こちらの準備不足でしたね」
「ふふ、多少は賢明になったようだね、ブライトJr。今回のトレードはノーゲームのようだ。・・・それでは私は、これで失礼するよ」

 両手を後ろに組んだまま、バイロンは何事も無かったかのように颯爽と部屋を後にする。
 部屋には、一時の沈黙が流れた。
 バイロンの背中を苦虫を噛み潰したような表情で見送ったまま固まっていたフルブライト二十三世に対し、役目を終えた三日月刀を鞘に納めた黒装束の男の一人が話しかける。

「・・・いいのか。奴をこのまま逃しても」
「・・・仕方ない。アビスリーグが魔物を従えているのは、紛れもない事実。ああ言われては、迂闊に手は出せない。しかし・・・これはかなり分が悪くなったな・・・」

 フルブライト二十三世にとって、ここでバイロンを確保できなかったのは、非常に手痛いことであった。
 なにしろ、この身の危険がある事を承知で商会内に敢えて残り、自らを囮にしてまで掴んだ、千載一遇のチャンス。それが、この場面だったのだ。
 それを、みすみす棒に振ってしまったのである。

「・・・別にここでなくとも、密かに後を追って何処かで拘束すればいいのではないか?」

 黒装束の男が言う。
 だが、それにもフルブライト二十三世は弱々しく首を横に振り、窓の外に見えるウィルミントンの街並みへと視線を向けた。

「いつ何処で彼を捕らえても、この街を盾に取られていることに変わりはない。つまり、彼の背後にいるアビスリーグそのものを先に潰さなければ、我々は彼に対して常に後手に回ったままということだ」

 さて、こうなってしまったからには、この次の手をどうしたものかと思案する。
 差し当たっては、自分の身を守る手法も新たに考えなければならない。その上で如何なる手段を取るべきかとフルブライト二十三世は腕を組み、ため息と共に口をへの字に曲げてみせた。
 その様子を見て、黒装束の男達も雇い主の動向を待つかのように姿勢を緩ませる。
 だが、そうした束の間の思考時間は、そう長く保つことはなかった。

 ドンッッ!!!

 突然の衝撃音と、それに合わせて館全体が揺れるほどの大きな振動。
 思わずそれによろめきながら、フルブライト二十三世は何事かと周囲を見渡す。
 それと時を同じくして館のあちらこちらから悲鳴と怒号が一気に飛び交い、そして容赦のない幾重もの破壊音が鳴り響き始めた。

「おいおい・・・話が違うじゃないかッ!」

 フルブライト二十三世は盛大に悪態を吐きながら、窓の外を慌てて確認する。
 窓の外から見えるのは、街の中央及び港の方面。そちらには特段、騒ぎの兆候などが見えるわけではない。

「街に騒ぎが起こっているわけではない・・・この館だけを襲って私を始末するつもりか・・・!」

 フルバライト二十三世は応接テーブルの上の帽子を慌てて取り上げ、次に部屋の出入り口ではなく、一見なんの変哲もない部屋の壁へと歩みを進めた。
 フルブライト商会の保有する資産は、一介の都市国家のそれを軽く凌ぐ。それゆえ、様々な面で自衛の手段を欠かすことはない。有事に備えるという事は、商会の人間にとって必然であるのだ。
 フルブライト二十三世が部屋の壁を無造作に押すと、はたしてカチリと開いた仕掛け扉の向こうには、狭い通路が続いていた。王侯貴族の居城にあるそれと同じような、緊急時の脱出路である。
 だがフルブライト二十三世がそこから脱出を試みるより先に、彼に続こうとした黒装束の男の一人がその通路の奥にある強烈な違和感に気付き、慌ててフルブライト二十三世を部屋の中へと引き倒した。

「ぃだっ!?」

 首根っこを引っ張られ、背中からひっくり返るように倒れ込んだフルブライト二十三世の、先ほどまで立っていた場所。そこを寸分違わず射抜くように隠し通路の奥から飛来した矢は、そのまま鋭い音を立てて部屋の反対側の壁に突き刺さった。

「ギギ・・・ギ・・・」

 慌てて仕掛け扉から距離をとったフルブライト二十三世らを隠し通路の奥から睨みつつ、弓を構えた醜悪な小柄の獣人が数体部屋へと姿を表す。
 道具を用いる獣人族は非常に知能が高く、そして残忍で狡猾だ。潜んで敵を狙うには、うってつけの配置だと言える。恐らくは、この館のことを知り尽くしたバイロンの差金であろう。
 これは堪らぬと、慌てて部屋の入り口に一同が視線を向ける。しかしそこには既に、襲撃からここまで一直線に進んできたと思われる血塗れの大剣を携えたエルダークラスの大型獣人が数体、こちらも実に醜悪な顔を扉から覗かせていた。

「・・・!!」

 それらを確認した黒装束の男たちの表情には、明らかな焦りの色が出ている。
 当然彼らも戦士として、アビスの瘴気に侵された魔物と相対した経験は幾度もあった。だが、人と同じく武具を扱う程の非常に強力な魔獣と遭遇することなど、余程アビスの瘴気が濃い場所でもなければ普通は有り得ない。
 これほど強力な魔獣を相手する場合、数体程度の群れの討伐でも騎士団一個小隊以上を派遣するのが常であると言えば、その困難さが窺えるというものだろうか。
 つまり、人間四人で相手をするなど、あまりに馬鹿げた状態であるということだ。

「くっ・・・私はこんな所で死ぬわけにはいかないんだ・・・何か、何か手はないか・・・!?」

 部屋からの脱出路は、正面も隠し通路も魔物に道が塞がれている。
 そしてこの部屋の窓は外部からの侵入防止のため、はめ込み式になっている。体当たりした所で、そう簡単に突き抜けはしない。
 そうなると矢張り、目の前の魔物を突破する以外に現状打開の方法はない、ということになる。
 天術に属する太陽の術法を教養の一貫で学んだだけのフルブライト二十三世だが、それでも最大威力で放てば、多少の目眩しくらいにはなるかもしれない。その隙を突くくらいしか、有効な手段は思いつかなかった。
 最早うだうだと悩んでいる時間はない。黒装束の戦士三人に対し、一か八かの一撃離脱を提案しようとフルブライト二十三世が口を開いた、その時だった。
 突然、その場の全員が不可思議な耳鳴りに襲われたのである。

「グギャォォオオ!!??」

 最初にその場に響いたのは、空間そのものを断絶するかのような、聞きなれない高音だった。それと同時に、凄まじい威力を伴う剣圧の一閃が部屋の外で迸る。
 次には、その一閃により胴体を上下で真っ二つにされた大型の獣人たちが、赤黒い血潮を撒き散らしながら宙を舞った。
 そして最後には聞くに耐えない醜い断末魔をその場に残し、会長室の入り口前に陣取っていた大型獣人数体だったものは、物言わぬ肉片となって廊下の反対方向へと吹き飛ばされていった。

「・・・!!?」

 突然起こったその出来事に、その場にいた人も魔物も、一体何事かと部屋の入り口に注目する。
 するとそこから部屋に飛び込んできたのは、鮮やかな緑の髪を靡かせ、魔物の血に濡れた剣を携えた青年。
 ユリアンだった。

「フルブライト様、ご無事ですか!?」
「ユ・・・ユリアン君!!」

 ピドナで幾度か顔を合わせた覚えのある、一度見たら忘れなさそうな緑髪の青年、ユリアン。
 フルブライト二十三世が大いなる驚きと共に彼の名を発した直後、そのユリアンの脇を、今度は一陣の金色の風が通り過ぎた。

「ギャヒッ・・・!?」

 その風が部屋を吹き抜けると同時に、避難路から室内に侵入してきていた小型の獣人数体が、瞬く間に血飛沫を上げながら崩れ落ちる。
 刹那の間に、なす術なく絶命した獣人らの亡骸。それらの中央に留まっていた金色の風の正体は、輝かんばかりに美しい金髪を靡かせた、可憐な容姿の女性だった。

「モ、モニカ様・・・!?」
「ご無事でなによりですわ、フルブライト二十三世様」

 手慣れた手付きで素早く小剣の血振りをしつつ、モニカはこんな場面でも礼儀正しく一礼してみせながら、穏やかな口調でフルブライト二十三世に挨拶を返した。

「・・・よし。モニカ、こっちはもう大丈夫そうだ。そっちはどう?」
「はい、こちらも気配はもうありません。大丈夫そうですわ、ユリアン」

 部屋の外を見渡しながら声を上げたユリアンに、部屋の隠し通路を覗き込みながらモニカが応える。
 つい数秒前までは正に風前の灯といった様相であったフルブライト二十三世らは、どうやら寸でのところで、命拾いをしたようであった。

「た・・・助かった・・・」

 一気に気が抜けたのか、フルブライト二十三世は真っ先にぽすんと床に座り込み、細く長く息を吐いた。
 その様子に対し、黒装束の男三人は未だに状況がうまく飲み込めておらず、構えたままの三日月刀を所在なさげにふらつかせながら、突然現れた二人を交互に見ている。

「・・・ん? あぁ、安心してくれ。彼女らは味方だよ」

 その様子に気がついたフルブライト二十三世がそう声をかけると、黒装束の男たちはまだ信じられないというような様子で、雇い主と二人を交互に見つめる。

「み、味方・・・?」

 腕に覚えがある者たちだからこそ、わかるのだろう。
 今、自分達の目の前で起こった光景。それが、どれだけ信じがたいものであるのか、ということを。
 騎士団一個小隊を要するような討伐対象になりうる魔獣らを、ただの一撃で纏めて斬り飛ばしたなど、それは最早、およそ人類の行える所業とは思えない。
 それこそ、彼らの信ずる中で最も強き猛き英雄であるアル=アワドなどでもないかぎり、そんな出鱈目なことは不可能なはずだ。
 それを、今目の前にいる一見髪の色以外に特徴らしい特徴が見出せない青年が、何でもない様子で為してしまったたのである。
 部屋の中に飛び込んできた女も、同様だ。
 彼らの目を以ってして、その動きを確りと捉えることは出来なかった。精々、その残像が見えた程度だった。
 だというのに、女の足元に転がる小型の獣人だったもの等は、その全てが身体中の急所と思われる場所を何箇所も貫かれて事切れている。
 あの一瞬でそんな芸当が出来る者など、長く戦場に身を置いていた彼らでさえも全く聞いたことなどない。
 つまり黒装束の男たちからしてみれば新たに現れたこの二人こそが、一歩間違えば絶対に逃れることのできない死を齎す得体の知れない存在にすら思えてしまったのである。
 そんな黒装束の男たちの戦慄を他所に、フルブライト二十三世はゆっくりと起き上がり、モニカたちに向き直った。

「・・・しかし、どうしてモニカ様達が・・・って、聞くまでもないですかね。これはトーマス君の差金、ですね?」

 フルブライト二十三世が腕を組んで片目を瞑りながらそう言うと、ユリアンはバツが悪そうに頭を掻き、モニカはお察し下さいとでも言わんばかりに華やかに微笑んでみせた。

「年が明けたあたりから既に、ウィルミントンには滞在しておりました。フルブライト二十三世様のお邪魔にならぬよう、有事以外は表だった動きはせぬようにお守りを、との指示で動いておりましたの」
「・・・さっきの魔物たち、俺たちがこの街に来た時には既に人間に化けて館の周辺をうろついたりしていました。俺、ピドナで化けている奴らを見てきたんで分かるんです。なので先手は打てなくても、何か起きたらすぐ駆けつけられるようにって、近くの宿でずっと張っていました」

 モニカとユリアンが口々にそう答えると、フルブライト二十三世は全てを理解したかのように頷いてみせた。

「バイロンはここまで想定してハナから仕込んでいた、というわけか・・・ふふ、トーマス君に命を救われたな。この貸しは大きくなりそうだ。とはいえ・・・ここからどうしたものか」

 そう呟きながら、フルブライト二十三世は再び思案を始める。
 ここで命が助かったとはいえ、それで状況がなんら好転したというわけではない。後手に回らざるを得ない状況そのものには、変わりなかった。
 そして、そこに彼を悩ませる更なる厄介ごとが舞い込んでくるのも、ある意味では当然の流れと言えるのかもしれなかった。

「ひぃ!!?・・・い、一体これは何事だ・・・!!?」

 慌てた様子で会長室へと走り寄り、道中にある魔物の死体に驚いた様子を隠さずに現れたのは、老いてなお有り余る精力を隠す気のない様子の、上品な格好に身を包んだ壮年の男。
 男の名は、フルブライト二十二世。フルブライト二十三世の父にして、現在のフルブライト商会を陰から操る真のオーナーだった。

「・・・あぁー、やっぱりこの騒ぎですから、来ちゃいますよねぇ・・・」

 余計な面倒事が増えたとでも言わんばかりに目元に手を当て天を仰いだのは、他でもないフルブライト二十三世である。

「ん、何なんだね君たちは一体・・・まぁいい、それよりジュニアよ、これは一体何事だ。お前、今度は何をやらかしたというのだ?」

 フルブライト二十二世は直ぐ近くにいたユリアンを始めとした部外者らしき面々に一瞥をくれたあと、フルブライト二十三世へ向けて声を上げた。

「あー・・・お父様。これにはまぁ、なんというか色々と事情が・・・」

 我ながら歯切れが悪いにも程があるなと思いながら、口を開く。
 しかしその間にも、こちらの聞く耳など全く持たないといった様子で、フルブライト二十二世は集まってきた召使いたちに掃除を命じたりユリアンやモニカへ威圧的に詰問しだしたりと、大忙しだ。

「・・・あー、もう・・・こうなってしまっては、お終いだな・・・。まさか、トーマス君はここまで見通して・・・ふふ、だとしたら末恐ろしい話だ・・・」

 独り言のようにそう呟いたフルブライト二十三世は、周囲の喧騒から逃避するかのように、数秒間目を閉じ、自らの額に拳を添える。
 そして何かを決心したかのように、よし、と呟いて一つ息を吐いた。
 とりあえずは、この場を納めなくてはなるまい。

「・・・済まないが君、その三日月刀、少し借りていいかな?」
「あ、あぁ・・・」

 怒涛の展開に着いていけていない黒装束の男の一人から三日月刀を借りたフルブライト二十三世は、ガヤガヤと五月蝿い部屋の中で静かに、その三日月刀を振り上げた。
 そしてなんと、それを目の前にあった応接用のテーブルに勢いよく叩き付けたのである。

ガンッ

 大きな衝撃音と共に、薄く作られていたテーブルは衝撃に耐えきれずに真っ二つに折れてしまう。
 そしてその突然の奇行に対し、周囲に喚き散らしていたフルブライト二十二世が驚いたように押し黙って自分の息子を見つめる。

「お静かにしていただいて、ありがとう」

 叩きつけた反動で軽く痺れた手を振りながら三日月刀を持ち主に返しつつ、フルブライト二十三世はその場の全員に対して言い聞かせるように、静かに言葉を紡いだ。

「お父様、詳しいことは後ほど話をさせていただきます。ですが今は一刻も早く次の手を打たねば、世界経済を救うことが出来ません」
「な・・・一体何を言って・・・」

 息子の言葉の意味が分からないと言った様子の父が何かを言おうとするのを無視し、フルブライト二十三世は部屋の外に控えていた召使いたちに向かって声をかけた。
 そこに集まっていたのは、この館に古くから仕えている者たちだ。

「みんな。想定より大分早まるが、どうやら動き出す時が来たようだ」

 フルブライト二十三世のその言葉に、館の召使い達は何かを察したかのように目の色を変えた。
 それらの視線の先にいるフルブライト商会の放蕩息子、もとい現会長は、ニヤリと口角を上げてみせる。

「今すぐ各国各都市の商業ギルド会館を通じ、一般公開書面を発送してくれ」

 言葉と共に、胸元の高さで両腕を軽く広げる。
 それはまるで、全てを包み込み、そして掌握するジェスチャーであるかのように周囲の目には映った。

「文言は、当初から伝えておいた通りの一文だ」

 他者が口を挟む余地をどこにも介在させない、ある種の特異な空間がそこには出来ていた。
 まるでこの場所が、彼の独擅による演説会場であるかのように。
 演説者以外は、何人たりとも発言を許されぬ雰囲気に包まれた中。場の中心にいるフルブライト二十三世は、まるで高らかに宣誓でもするかのように、その言葉を発した。

「・・・フルブライト二十三世を知るものきたれ、と」

 

 

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第八章・2 -世界経済の危機-

 

 西方世界の地図上で最も西にある、各大陸に囲まれた内海の一つである静海と外洋である西太洋に挟まれて南北に延びるガーター半島。この半島の丁度中央あたりの静海沿岸に、半島最大の都市国家である自由都市ウィルミントンがある。
 この街の歴史は非常に古く、実に世界が六百年前の魔王による支配下にあった時分から既に、歴史書にその名が記されている。
 都市国家としての歴史では西方世界最古とされる、現在のツヴァイク領にあるポドールイに次ぐ歴史を誇る都市であり、この街の繁栄は街の代名詞ともいえる存在である世界一の大商会、フルブライト商会の成長と共に歩まれてきた。
 魔王亡き後に四魔貴族が世界を支配した暗黒時代にあっても人々の導き手として数百年に渡り世界経済を支え続けたその偉業を称えられ、メッサーナ王国の手厚い庇護の元で文字通り世界最大の商会として経済界に君臨してきたフルブライト商会を有するこの街は、今もまたメッサーナ首都ピドナに勝るとも劣らない世界経済の中心地として、変わらず存在感を示している。

「・・・あぁ、来てくれたか、トーマス君」

 その歴史あるウィルミントンの北部区画の中でも一際大きな建造物である、フルブライト商会の歴史ある本館。その執務室へと通されたトーマスらは、いつになく神妙な様子のフルブライト二十三世に迎えられ、お辞儀をした。
 数ヶ月ぶりに会ったフルブライト二十三世は、連日の激務のせいなのか表情にどこか疲れがにじみ出ている様にも見える。

「本当はもっと早く来る予定でしたが、諸事情により遅れました。申し訳ございません」
「いや、その辺りの事情は私も聞き及んでいるよ・・・気にしないでくれ。寧ろ、君の祖国ロアーヌが大変な時にこうして態々世界地図の反対側まで呼び立ててしまって、すまないね」

 フルブライト二十三世の言葉にトーマスが恐縮しながら返すと、フルブライト二十三世は自分の傍に佇む大型犬を撫でると、次にトーマスの背後に控えていた人物へと視線を移した。

「そして、ようこそおいでくださいました、ミューズ様、シャール殿。心より歓迎いたします」

 片手を胸の前に添えながらフルブライト二十三世がそう言ってお辞儀をするのに合わせ、トーマスの背後にいた二人も礼を返す。
 二人はバンガードにて無事に再会したトーマスからの要請を受け、ルーブ山へと発つカタリナらを現地で見送ったと同時に街を発ち、このウィルミントンへと赴いていた。

「本来ならば、先ずはこのウィルミントンを楽しんで頂くべく名所のご案内をしたいところですが、どうにもお互い差し迫った事情を抱えてしまっております。故にご来訪直後に大変失礼であるとは存じますが、早速こちらのテーブルにてお話を始めさせていただければと思います」

 そう言ってフルブライト二十三世が彼の背面にある広々としたソファへと促す仕草をすると、トーマスら三人は誘われるままにそこに腰掛けた。
 外に待機していた執事に周辺の人払いを命じて自ら執務室の扉を閉めたフルブライト二十三世は、トーマスらの対面に腰掛けると、テーブル上にあった果実水の瓶から人数分のグラスへとそれを注ぎ、そして神妙な面持ちを崩さぬままに手を膝の上で組んだ。

「今回お三方を態々ここにお呼び立てさせて頂いたのは、他でもない、この世界経済界に於ける未曾有の危機の存在と、その現状をお伝えするためです」
「未曾有の危機・・・ですか」

 その言葉に、トーマスが鸚鵡返しで答える。
 それに対しゆっくりと頷いたフルブライト二十三世は、大変重苦しい様子で口を開いた。

「そう、未曾有の危機だ。現在、世界経済市場では、突如として現れた謎の商会同盟によって大いなる混乱が齎されようとしている」

 フルブライト二十三世が続けて語ったのは、次の様な内容だった。
 フルブライト二十三世が独自に得た情報によれば、なんと世界中に散らばる商人の一部にアビスの魔貴族と裏で繋がりを持ち、その影響力を武器に交易の独占を企む者が現れた、との事だった。
 その商人らは「アビスリーグ」という同盟を秘密裏に組織し、既にその影響は各地の交易に影響を及ぼし始めているのだという。

「アビスリーグ・・・。直近の決算情報でも、そんな禍々しい名の同盟があったとは当社では認識していませんでした」

 トーマスが全くの初耳であるという表情でそう言うと、フルブライト二十三世は然りとばかりに浅く頷いて返した。

「ああ。これに関しては現在、私も各地で秘密裏に調査を進めているのだが・・・残念ながら何処の企業がこのアビスリーグに加盟しているのかは、明確な証拠はないという状況なのだ。だが・・・証拠こそないものの、ある程度の目星は付いている」

 そう言ってフルブライト二十三世はソファから立ち上がり、部屋の窓際近くにあった彼の執務机と思われる非常に立派な作りのデスクの鍵付き引き出しを開け、そこから数枚の紙の束を取って戻ってきた。

「ここ数ヶ月の、各地の取引帳票の一部だ。ここに纏めている企業の売上高と、それに対する経常利益にどうにも違和感を感じてね。一見すると輸送や護衛コストと照らし合わせたら通年通りの順当な数値なのだが、一方で輸送ルートにあたる現地のキャラバンや武装商隊の売上高は、横這いどころか下がってすらいる。これは捉え方によっては、資金を偽装計上して外部に流している様にも見えるのだよ。以前に御社のタ・・・キャンディ嬢が指摘していた、ドフォーレの資金の流れにも通ずるものがあるように思う。かなり巧妙に隠蔽工作が施されているようなので、これを突き止めるのも相当難儀したがね・・・」

 差し出された紙面を受け取ったトーマスは、隣に並んで座っているミューズシャールと共に視線を落とす。そしてその中に記載されていた数字の羅列と共に企業の名を目の当たりにしたトーマスは、彼にしては珍しく驚きを隠さない様子で目を見開いた。

「・・・な、アルフォンソ海運・・・!?」

 彼の目に先ず飛び込んできたのは、メッサーナ王国首都ピドナに本社を置く、紛う事なき世界最大の海運企業として名高い、アルフォンソ海運の名だった。
 実に世界の海運事業の六割に関わるとすら言われる最大手企業の一角で、総資産ランキングは常に十位以内に位置している。
 その他にも幾つか決算ランキング上位数十社に名を連ねる様な企業群がその調書には散見され、トーマスは思わず固唾を飲む。

「・・・これは、商業に疎い私でさえも見知った企業があるな」
「ええ・・・。フルブライト二十三世様、この調書は、失礼ですが真実なのでしょうか・・・?」

 トーマスの隣からその調書を覗き込んでいたシャールとミューズが思わず尋ねると、フルブライト二十三世は、これにも浅く頷く。

「先に言った通り、まだ明確な証拠は有りませんが、かなり信憑性は高いと、私は睨んでいます」
「・・・もしこれが真実ならば、確かにこれは今までにない規模での、未曾有の危機です」

 一通り目を通した調書の束をテーブルへと置いたトーマスは、フルブライト二十三世と同様に神妙な面持ちで彼に相対した。
 するとフルブライト二十三世はテーブルに置かれた調書に視線を落とし、どうしたことか彼にしては珍しく、非常に歯切れの悪い様子で殊更に小さく呟く様に、言葉を続ける。

「・・・そして、こんな事を君に言うのは全くの恥でしかない事だが・・・しかし言わせてくれ。このアビスリーグの魔手は、このフルブライト商会内部にも、既に及んでいる可能性がある」

 それは、余りに衝撃的な告白だった。
 一体その言葉がどのような状態を示唆しているのかはこの時点では分からなかったが、しかしフルブライト商会は文字通り世界一の企業だ。そのフルブライト商会がアビスに侵食されると言うことは、正に、世界経済の真なる終焉を意味するといっていい。
 そしてここに至りトーマスは、何故自分だけでは無くミューズの同席もフルブライト二十三世が希望してきたのかということに、大凡の確信を得た。
 シャールとミューズが事態のあまりの深刻さに言葉を失い閉口していると、トーマスは座ったままの状態で不意に天を仰ぐ。これは、彼が何かの決断をする時の癖だ。

「・・・貴方程の方がこの様なところで冗談を言うとは、流石に思いません。そのお言葉で、この事態が私の想像以上に恐ろしく深刻であると言うことが、十二分に理解出来ました」

 フルブライト二十三世のとても沈痛な面持ちは、彼の言いたい事、思う所を、その言葉以上に表している様だ。
 トーマスの予測が当たっているのだとすれば、今のフルブライト二十三世の想いとは、どれ程に複雑な事であろうか。
 其れを察したトーマスは、次に視線を窓の外に向け、窓から見下ろす事のできるウィルミントンの街並みを眺めた。
 この自由都市ウィルミントンはピドナほどまでに大きな街ではないが、隅々まで非常に整備の行き届いた、見目麗しく、とても豊かな街だ。
 かの聖王が四魔貴族打倒の旗を掲げる直前に長期の滞在をしたことでも知られるこの街は、フルブライト二十三世にとってもかけがえの無い大切な場所なのであろうと言うことが、この部屋からの一望で察することができる。
 彼はフルブライトという歴史と己の誇りを捨ててでも、この街の、そして世界経済の救済を強く望んでいるのだ。
 トーマスは、視線を戻した。

「・・・では現時点を以って、我がカタリナカンパニーはフルブライト商会との同盟を破棄し、世界経済の救済を成すための覇道を歩みましょう」

 突然のトーマスの言葉に一体何を言い出すのかと、隣のミューズとシャールは全く驚いた様子で彼を見つめるが、しかし彼の正面にいるフルブライト二十三世だけは、何処か物悲しげな微笑みを浮かべながらも、とても満足げに深く頷いた。

「あぁ、君ならば、そう言ってくれると信じていたよ・・・。有難う、トーマス君。身勝手な願いだが、今は君に、世界経済の行く末を託したい。君ならば、必ず成し遂げられるだろう」

 彼は、こうなる事を望んでいた。それがトーマスには痛いほど分かったのだ。
 彼がミューズの同席を希望した理由は、単純だ。彼は、彼女にもこの事態の深刻さを理解してもらい、そして彼女がこの事態に対して立ち上がる事・・・即ち、クラウディウス商会の再興を望んでいるのだ。
 先のドフォーレの一件以降、経済界隈では今現在もクラウディウス商会の復活が実しやかに囁かれている。
 まるで英雄譚の如くに全世界に瞬く間に報じられたミューズとカタリナカンパニーによるドフォーレ商会成敗劇は、経済界は愚か、それとは関係なく単に今の世を嘆く多くの人々にも歓迎され、称賛された。今やミューズは、経済や政権に不満を抱く一部の界隈では救世の英雄視すらされている。
 そんなミューズが率い、嘗て世界三大商会の一角とも言われたクラウディウス商会が再び立ち上がれば、其処には数多くの企業や人々が賛同を希望する事だろう。
 だが、そこにもしアビスの魔手が入り込めば、それは瞬く間に世界を破滅へと陥れる強力な劇薬にもなりかねない。
 だからこそ、これ以降の道でカタリナカンパニーとフルブライト商会は、共に歩む事は出来ないのだ。
 しかしながら、トーマスにはどうしても一つ、引っ掛かる事があった。

「貴方は・・・フルブライト二十三世様は、如何なさるおつもりなのですか」

 彼の希望は、わかった。だが彼自身はこの事実をどの様に受け止め、これからどのように相対する気なのか。それが気になったのだ。
 フルブライト二十三世はそんなトーマスの問いに、数秒の間をおいてから応えた。

「私はこの商会の代表だ。この立場を用い、内外の凡ゆる情報を集めて内部から状況の改善に努めるつもりだよ」
「しかしそれでは・・・貴方の命に危険が及びます・・・!」

 アビスの魔手が伸びているのだとすれば、その可能性は大いにあるという事をトーマスは知っていた。
 事実、アビスの魔手が伸びていたドフォーレは会長であるモンテロがとうの昔に殺害されていたことも後の捜査で判明している。それにロアーヌで起こったゴドウィンの変でも、哀れなる男爵ゴドウィンは、アビスの妖魔に唆された末に命を落としているのだ。
 アビスに関われば、それは即ち己の生命の危機に関わる事なのだと、彼はよく理解していた。
 トーマスのその指摘に、フルブライト二十三世はふっと一息つくと、漸く今日初めて彼特有の不敵な笑みを取り戻し、トーマスに視線を返した。

「なぁに、私は偉大なる祖先、かの聖王に助力したフルブライト十二世やチャールズ=フルブライトの血統を継ぐ、誇り高きフルブライト商会の次期会長だ。己の使命を全うするまで、この命を失うつもりなど微塵もないよ」

 その言葉や表情には、確かに微塵も自分の誇りを疑わない自信が満ち溢れていた。
 それはとても頼もしく見える反面で、しかし同時に危うくも感じる。
 アビスの妖魔というものがどれほど簡単に命を刈り取っていくのかという事を、トーマスはフルブライト二十三世以上によく知っているからだ。
 しかし今ここでそれを伝えたところで、彼は真に理解はしないだろう。それに、ここでやり残したことも多い状態では、例え身の危険をトーマスと同等に感じていたとしても、彼の持つ誇り故に、己の成すべき事を辞めはしないだろう。
 だから、トーマスは今はただ、深くゆっくりと頷いた。

「・・・そのお言葉を聞いて、安心いたしました。ですが、万が一の際には、どうか必ず御命の優先を。身の危険を感じたら、迷わずピドナにお越し下さい。今貴方を失うことは、其れこそが世界経済の真なる終焉を意味します」
「ああ、その時は恥を顧みずお世話になろう・・・。では、健闘を祈る」

 そう言って差し出されたフルブライト二十三世の右手を強く握り返したトーマスは、託された調書を懐にしまってミューズらと共に彼の執務室を後にした。

 

 

「これから、どうするのだ?」

 ウィルミントン南部にあるこの街で最も大きな宿泊施設であるホテルバイロンの最上階の一室にて、同行者であるハリード、ブラックと合流した三人は、今後の動向を決めるために一同が集まっていた。
 ブラックとハリードが其々窓際と部屋の戸を警戒するように立ち位置を取り、そして部屋の中央にある客室用ソファにミューズの隣に腰掛けたシャールからの開口一番の問いに、対するトーマスは軽く腕を組みながら、軽く思案する仕草を見せる。

「・・・先ずは、ピドナでの記者会見を考えています」
「記者会見・・・?」

 聴き慣れぬ単語にシャールが疑問符を浮かべるが、その言葉の真意を彼の隣でいち早く察したミューズが、トーマスの代わりに口を開く。

「クラウディウス商会の復活を・・・そこで世間に、公表するのですね」

 ミューズの言葉に、しかしトーマスは直ぐ様頷くでもなく、真っ直ぐ彼女を見つめ返した。

「・・・それは、あくまで二つある選択肢の内の一つです。もう一つの選択肢は、先ほどフルブライト二十三世様に言った通りにカタリナカンパニーがフルブライト商会との同盟を切り、覇道を歩むことと、それに伴う今後の方針の発表を行うのみ。このルートもあります」

 そう、ここが経済界の・・・いや、今後の世界そのものの行く末をすら左右する程の、とても大きな分かれ道なのだとトーマスは考えていた。
 ここで何方の選択をするのかで、世界中の多くの人々の運命を左右する事になるかもしれない。
 故に、この記者会見をするにあたっては何よりも、この選択権を持つミューズの意向を確りと確認しなければならない。
 トーマスはミューズの真正面に向き直り、口を開いた。

「ミューズ様。仮にクラウディウス商会の復興を記者会見で発表したとしたら、貴女はいよいよ、世界の表舞台にクラウディウス家の後継として大々的に復帰することになってしまいます。そうなれば当然ルートヴィッヒ近衛軍団長は黙ってはいないでしょうし、それ以外にも貴女を貶めるか、又は利用しようとする様々な方面からの接触が、引っ切り無しに起こるでしょう。更には、今以上に身の危険につながることも起こる可能性は、十二分に有り得ます。それらを含め、メッサーナ王国のこの十五年続く内乱は、いよいよ終結へと誘われ始めるでしょう」

 なにも、トーマスはミューズを怖がらせたいわけでもないし、変に奮い立たせたいわけでもない。
 何しろ、彼が言っていることは何の他意もない、単なる事実なのだ。
 それこそ現在ですらドフォーレの一件からの影響を鑑みて用心を重ね、こうして隠密行動をしている。
 それが世間に名だたる大商会を再び興すとなれば、当然世間に顔を出す機会は増える。そうなれば、比例して身の危険も増えるのは紛れもない事実なのである。
 トーマスは、そこを隠そうともせずにはっきりと言い切った。
 彼は、これでミューズが断るならばそれでもいいと、寧ろ、その方が彼女のためにはいいのだとすら思っている。
 ドフォーレの一件は、世間の支持を一時的に受けつつメッサーナの首脳陣を抑えながら行うことのできた、最初で最後の報いの一矢だった。
 あれだけならば、幾らでもこの後に再び平穏な暮らしに戻る算段は立てることができる。あれでメッサーナの主権を握る者達に一泡吹かせたことを良しとして、それで身を引くことは十分に可能なのだ。
 トーマスは抑も、それを確りと示唆した上でミューズにあの場を用意していた。
 だから何方に誘導するでもなく、単純に彼女自身に其々の選択肢の持つ意味を理解してもらい、その上で考え、決めて欲しいと思うのだ。
 そんなトーマスの思惑を理解していたミューズは、膝に置いていた手を強く握りしめると、毅然とした表情でトーマスを見返した。

「私は、もう守られるだけの存在ではありません。お父様の遺志を継ぎ、クラウディウスの誇りに賭けて、己の役目を全うする覚悟はできています」

 そのミューズの言葉に、隣に座るシャールは心中複雑な表情をしながら彼女を見つめる。
 だがミューズはそんな彼の内心を知ってか知らずか、そっと彼の手に自分の手を重ねる。そしてシャールの左手の暖かさをその掌に感じながら、優しく微笑んだ。

「シャール。貴方も力を貸して頂戴。私は今も相変わらず、一人ではまだ何も為せない唯の女です。だから、貴方の守護が必要です」
「・・・御意に」

 シャールの、彼らしい短い返答に満足げに頷きつつ、ミューズはトーマスに向き直った。

「トーマス様。貴方に、この命を委ねます。どうぞ御心の赴くままに、お使いください」
「・・・分かりました。ベントの名にかけて、必ずやミューズ様の願いに応えましょう」

 ミューズの覚悟に正面から向き合う様に、彼女の前に跪いてそう応えたトーマスは、居住まいを正してから今後のスケジュールに関しての説明に移った。

「先ず記者会見ですが、明日にはピドナに向け出発し、本社に戻ったら翌日にでもゲリラ的に、即行います」
「随分と性急なのだな。事前に、今回のアビスリーグとやらについてはこちらでも調査をしなくて良いのか?」

 シャールが慎重を期すべきではと疑問の声を上げるが、それにはトーマスは小さくかぶりを振った。

「フルブライト二十三世様の手腕を以ってしても現時点では明確な証拠が掴めていない以上、我々が改めて調査を重ねても、この調書以上の情報は出てこないだろうと踏んでいます。逆にクラウディウス商会の再興とカタリナカンパニーとの同盟を発表すれば、それに端を発し様々に表舞台や水面化にて動きがある事でしょう。その中で、確信に迫る情報を此方から炙り出します。それに・・・我々はドフォーレの一件で、近衛軍団に目をつけられていますからね。行動に下手に猶予を持たせては、彼らに介入されて動きを制限される恐れがありますから」
「成る程・・・確かにその通りだな」

 シャールが頷くのを見ながら、トーマスは続けた。

「なので此れを最も効果的にするため我々が記者会見後まず一番に行う事は、現在魔龍公ビューネイ軍と戦火を交えているロアーヌ戦線への、経済的支援です」
「・・・成る程、アビスに仇為す行動であれば、アビスリーグも初動で静観はしないだろう、という事ですね」

 ミューズが察し良くトーマスの言葉に応えると、彼は正にその通りと言いながら二人との間に小さな机を寄せ、紙に要点をまとめる様に書き連ねていった。
 ロアーヌへの経済的支援の狙いは、次の様になる。
 先ずは、ミューズの指摘する通り、アビスリーグの動きを早期に暴くための誘発剤としての役割だ。
 アビスリーグの目的は、当然ながら世界経済の独占などではないだろう。ドフォーレの例を見ても分かる通り、最終的にリーグとしての経済活動の行き着く先は、人類を滅ぼすための行動に直結するはずだ。
 このためのプロセスとして、一体何が何処でどう動いているのか。これを確りと見極めなければ、此方から迂闊に攻めることができない。なので、敵対する行動を敢えて大々的に発表することで、彼方からの何かしらの接触を引き起こすのが狙いというわけである。
 そしてもう一つは、これを機にクラウディウス家の立ち位置を世界的に正義の象徴として確立させ、世論の支持を一気に集める事だ。
 対四魔貴族の戦とは、全人類にとって本来最優先にあたる一大有事。しかし今まさにロアーヌがアビスの軍勢と交戦しているところに、未だ各国からの援軍はないという。
 つまりは一様に皆、次に自分たちが狙われ攻められるのを恐れているのだ。
 何しろロアーヌは、魔炎長アウナスの潜む火術要塞を攻め落とした。そうして四魔貴族に相対したからこそ、今、彼らは攻められている。世間には、その様に映ってしまっているのである。

「このままでは、日和見のまま各国は動かないでしょう。戦線も膠着しており、各国が不安視した通りに先行き不透明。状況が変わらなければ、今後も参戦の意思を示す国家は殆ど無いはずです。だがそこに我々がミューズ様の名の下に支援を宣言すれば、少なくとも世論の大きな賛同は得られるはずです。そして無事にカタリナ様が魔龍公ビューネイを討ってくだされば、必ずやロアーヌ軍は勝利します。これを以って、一気に我々が世論を席巻します」

 シャールは、そのトーマスの言葉に固唾を飲んだ。
 一体このトーマスという男は、どこまで大局を見ているというのか。
 まだ歳若く、一般的なこの年頃の男であれば、目の前の事に我武者羅な時分の筈。それがこのトーマスという男は、まるで世界を知り尽くした翁の様に、物事を見通さんとしている。その知見が果たして、八つの光なる聖王三傑パウルスの予言に出てきた存在であるが故なのか、彼には分からない。
 だが間違いなく、彼の言葉には力があり、展望があり、自分たちの気持ちを奮い立たせる。
 シャールもまた、ミューズと共にこの若き青年に己の命を預けてみようと思い至りながら彼の話を聞いていた。

「・・・そうすると、マジで早めに動かないと不味いんじゃないか?」

 トーマスの話に続いたのは、扉の外の警戒をしながら話を聞いていたハリードだった。
 部屋の中の皆が彼に視線を向けると、ハリードは腕を組んで彼らに向かい合うように体勢を変える。

「カタリナがバンガードからルーブに向かったのは、もう五日も前だ。順当に行けばそろそろループ山脈の麓に到達している頃合だろう。ルーブは標高がある山だから高山病対策で体を慣らしながらいくだろうが、それでもあと五日もすればグゥエインの元に到達するだろうな。そこからの説得次第では、すぐに動くことも考えられる。最短でことが運んだことを考えると、此方のスケジュール的には割とギリギリなタイミングだぞ」
「はい、ですので、明日の朝一の便でピドナへ戻り、到着の翌日には記者会見を行うつもりです」

 ハリードの指摘に浅く頷き返しながらトーマスが言うと、ハリードは組んでいた腕を解いて指を一本立てながら更に続ける。

「もう一つ問題があるな。スケジュールはそれで滑り込みだとしても、あとは記者会見の規模だ。各国から記者や来賓を集めるといっても、通常ならピドナの立地でも二週間程は要するだろう。即日の会見では、記者もせいぜい現地のメッサーナジャーナルくらいしか呼べない。それではピドナの外に即座に情報が伝わり難く、情報の流布にかなりの時間がかかってしまう筈だ。それまでにカタリナがカタをつける可能性があるんじゃないか?」

 ハリードの指摘は尤もなことだった。
 この記者会見の要は、言ってしまえばロアーヌが劣勢のうちに、世界に先駆けて唯一の加勢を宣言する、ということだ。
 だがその宣言を世界が知る前にロアーヌが四魔貴族ビューネイに勝利すれば、世界情勢は其処で全く掌を返したようにロアーヌの奮闘を賛美し、彼らへの復興支援を名乗り出る国が出てくるだろう。そこに埋もれる形で情報が流布されても、トーマスの期待する効果は全く得られないことは明白だ。
 ハリードのその指摘にミューズとシャールが唸るが、しかしトーマスはそれにも余裕の表情を崩さない。

「・・・けっ、どうにも気に入らねえな、そこの坊ちゃんはよ。腹の奥に隠していることを晒さねえ」

 窓際を警戒していたはずのブラックが、唐突にそう言った。
 彼はいつの間にか普段通りに煙草に火をつけていたが、風を操り煙を外に逃していたので、それには誰も気が付かなかったようだ。

「・・・出し惜しみをしていたつもりは有りませんでしたが、不興を買ってしまいましたね。確かに私には、そこに対しても目算があります」

 ブラックの指摘に眼鏡の位置を直しながら応えたトーマスは、懐から一枚の封筒を取り出した。

「これは、招待状です。中身はピドナ宮殿にてここ数年行われている、近衛軍団主催の『死触に打ち勝つ集い』のものです。これにより各国の来賓と記者陣がピドナに集結します。これの期日は、丁度一週間後にあたります」
「・・・なるほど、もうそんな時期だったな。確かに、ここ数年はそんな下らん集まりを宮殿でしているという話は、私も聞いている」

 トーマスの持つ封筒に視線を向けながら、シャールが思い出したように呟く。
 もう間も無く世界が一年の終わりを迎えんというこのころ、今から十六年前、三度目の死触は起こった。年の瀬に訪れた未曾有の災厄は未だ世界の人々の記憶に鮮明に残っており、今も人々を苦しめ続けている。
 そんな折、五年前に現在の地位に就いたルートヴィッヒ近衛軍団長が就任翌年から突如として始めたのが、この「死触に打ち勝つ集い」だ。世界の中心都市であるピドナにて各国来賓を招いて行われるこの祭典は実情を言ってしまえば、その名とは全くかけ離れた内容で、つまりは近衛軍団の権威を各国と大衆に示すことに主軸を置いた催しである。
 だが急激な情勢変動があったピドナの状況を見るために各国来賓は初年度から集い、それをルートヴィッヒは実に手厚くもてなした。
 こうなると、そもそもの大義名分が死蝕による被害を各国で相互に補助し、今後懸念されるアビスの魔物を始めとした様々な有事に対応するための話し合いの場として設けられているということも手伝い、ルートヴィッヒの周到な歓迎ぶりに毎年の各国参列は盛況だった。

「この祭典は一週間ほど行われますが、二日ほどの会議の後は丸々宴会です。我々がピドナに帰る頃には会議も終わり宴席の期間ですから、各国記者を会見に集めることは容易だと考えられます。これなら、先行して世界への話題の流布には事欠かないでしょう」
「あの、一つよろしいですか?」

 トーマスの言葉が一区切りついたところで、ミューズが遠慮がちに挙手をする。それにトーマスがどうぞと発言を促すと、ミューズは小さく眉間に皺を寄せるような表情を作りながら続けた。

「記者会見そのものへの、近衛軍団の介入という可能性は考えられませんか?」

 ミューズが言いたいのは、その記者会見自体を近衛軍団が規制しに掛かってくる可能性のことだ。
 何しろカタリナカンパニーは、ドフォーレ商会の一件で完全に近衛軍団とは袂を分かったと言っていい。彼らが手を出せない状況を作り出した上で、ルートヴィッヒが最も警戒していると言っても過言ではないクラウディウス家のミューズを表舞台に担ぎ出したことは、近衛軍団からすれば正に煮え湯を飲まされる思いだったことだろう。
 そのカタリナカンパニーが彼らのお膝元で会見を行うともなれば、何かしらの理由をつけて会見そのものを阻止しに掛かってくる可能性があるのではないか、という指摘だ。
 流石に聡明な彼女の指摘にトーマスは、顎に手を当てて考える。
 確かにミューズの指摘は最もなことで、今や国内で反勢力を見事に防いでいる彼らならば、危険性を察知すれば多少強引な手を使ってでもカンパニーの会見を潰しにかかる可能性は十分に考えられた。

「確かに、近衛軍団に対しての何らかの対策は、せねばならないとは考えていました。個人的には直近はこの祭典があったので、我々に対する積極的な動きがあるならば年明けあたりかと考えていましたが・・・。ピドナホテルの会場使用に関しても近衛軍団への報告義務はありましょうから、十分それは考えられますね・・・」

 言葉を紡ぎながらトーマスが思考を巡らせている、その時だった。

「・・・おい」

 トーマスが思案する仕草を見せた所で、窓際にいたブラックが部屋の全員に伝える様に声を上げた。
 それにトーマスらが振り向くと、ブラックは火をもみ消した煙草を窓の外に投げ捨てながら、腰のヴァイキングアクスへと手を伸ばした。

「・・・このホテル、囲まれたぞ」
「・・・なんだって・・・?」

 目を見開いたトーマスが窓際に駆け寄り外の様子を伺うと、なんとこのホテルバイロンは既に武装した軍団に取り囲まれており、地上は騒然とした様相だった。
 遠目の効くブラックが軍団の鎧や側に目を凝らすと、その軍紋は老若男女を問わず世界に知らぬものがないほど、実に有名なものだ。

「・・・近衛軍団だ」
「・・・なんてことだ。まさか、他の対処を全て後回しにして、此方の捕縛に全力で動くとは・・・」

 ここにきて全く予想外の展開にトーマスが苦虫を噛み潰したような表情をしながらこの場の対策を考えている所に、今度はハリードが既に抜刀しながら扉を睨みつけ、一歩離れた。

「此方に来るぞ。数は少なくとも六人以上。武装済みだ」

 ハリードの言葉に、一気にその場の緊張感が高まる。
 やがて部屋の中からも分かるほどの軍靴の音が幾重にも響き、その軍靴の重奏は部屋の前で止まった。
 そして、場違いにも優雅な調子で、部屋がノックされる。

「・・・どうぞ」

 ミューズを庇う様に各々が扉に向かって陣取りながら、トーマスがいつでも術を放てるように準備を行いつつ、覚悟を決めた様に声を上げる。
 それに応える様に、扉がゆっくりと開かれた。
 そしてまず最初に、奇襲を警戒する素振りもなく部屋の中に入ってきたのは、長い金髪を後ろで束ねた、精悍な顔つきの男だった。
 特に周囲の軍団騎士とさして変わらぬ鎧を身に纏っているものの、しかしその男から発せられる圧は、明らかに周囲のそれとは一線を画している。
 その男を見た瞬間、シャール、ミューズ、そしてハリードの表情が大きく歪んだ。

「・・・ルートヴィッヒ」

 そして扉の一番近くにいたハリードが手にした抜身の曲刀を握り締めたまま、やっとのことで絞り出す様にその名を呼ぶ。

「・・・ハリード・・・。久しいな。噂はよく聞いていたが、息災な様で何よりだ」

 ハリードの顔を最初に見たその男・・・ルートヴィッヒは、続けて部屋の中に入ろうとする他の兵を片手を上げて制しながら、自らだけが一歩だけ部屋の中に歩を進めた。
 そして、トーマスとシャールの間から自分のことを真っ直ぐに見つめるミューズへ、合わせるように視線を向ける。

「・・・ミューズ=クラウディア=クラウディウス殿。宿泊先への突然の来訪の無礼、許してほしい。そして更に急な誘いで済まないが、これからピドナへと共に来てもらいたい。ここにいる者も、無論同行してくれて構わない。不必要に騒がないでいただければ、道中の自由は私の名において保障しよう」

 

 

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