第十章・幕間 -少年の独白-

 

 ピドナからツヴァイクへと向かう船の後部甲板で少年は一人、荒々しく波打つヨルド海の水面をじっと見つめていた。

「サラ・・・」

 呟けど、その声はサラに届くはずはなく、波の合間に消えてゆく。
 少年は、まるで自分自身が波間に放り出されたような気分で、ただただ甲板の上で揺られていた。

 魔王殿最奥でサラが自分を深淵から押し出し、アビスゲートの向こうに消えた時。
 その時、少年は再び、生きる意味を失ったと感じた。
 それは束の間だけ自分にも感じられた、生きる意味、という感覚だった。
 少年にはそもそも、最初から望みなど無かった。それこそ生きるという望みすら、なかった。
 記憶にある限り、いつも少年は一人だった。何らかの理由で自分に近づいてくる人や魔物はいたが、それらは区別なく例外なく、皆死んでいった。
 このとき少年は自分が、関わる全てに死をもたらす存在なのだ、ということを理解した。
 そんな自らの宿命を前に、少年は絶望した。
 実は、なぜ絶望したのかは正直、彼自身にもよく分かっていない。
 そもそも彼は生まれてから今まで、絶たれるほどの望みなんて最初から教えられてなかったし、持ってもいないはずだったからだ。それでも彼は自らの宿命に、心から絶望した。
 そしてなぜか彼は、自ら死を選ぶことが出来なかった。望む望まないに関わらず体は意地汚く、必死に生にしがみつくことをやめなかった。自らは他者に死をもたらす存在であるというのに、これは大いなる皮肉だと感じた。
 だから生きるのに最低限必要である以外の周囲との関わりを拒絶しながら、彼は世界を宛てもなく彷徨った。
 彷徨う最中、自分に関わる生き物が次々に死んでいくのを目の当たりにし続けることで、彼は自らの宿命に徐々に心が侵されていくのを自覚していた。
 少年は、恐れていた。
 絶望が絶望でなくなった時、自分は一体どうなってしまうのか、と。
 その、いずれ訪れるであろう得体の知れない感覚を、少年は何よりも恐怖した。一人その恐怖に打ち震えながら、重く冷たく、先の見えない暗闇を這いずり続けていた。

「今なら分かる・・・あの時僕は、既に半分アビスに引き込まれていたんだ。もしずっとあのままだったなら僕はきっと、全てを終わりにするために深淵を目指したことだろう」

 ある時たどり着いた聖都ランスで、聖王の子孫だという人物と出会った。
 少年は聖王なんていう人物には欠片も興味がなかったし、世間一般的に抱くような尊敬の念も、まるで抱いていなかった。
 確かに少年が訪れた全ての街には規模の大小こそあれ必ず聖王教会があり、そこには聖王が定めた秩序が確かに息づいていて、人々は今の世の平和を聖王に感謝していた。
 だがその秩序とやらは、一度も少年を助けてくれたことはなかった。
 それでも、強引に聖王の子孫とやらは人と関わらんとする少年を家へ招き、半ば無理やり王家の指輪を少年の手に取らせた。
 その時、姿なき聖王が指輪を通じて少年に語りかけてきた。
 姿なき声に驚く少年を他所に、聖王を名乗る声は一方的にいくつかのことを彼に告げた。
 少年の宿星が死の星であること。それ故に背負う、大いなる宿命があること。しかしそれがどんな結末を齎すのかは聖王にも全く分からないらしい、ということなどを。
 どれもこれも少年を絶望から救ってくれるような内容ではなかったが、ここで漸く自分が何者であるのかを知るに至った少年は、このとき生まれて初めて、目的を持って行動しようと思った。
 別に世界がどうなろうと、少年に興味はなかった。
 自分にとって絶望しかないこの世界は、そもそも別に好きではなかったから。
 だが、なぜ自分ばかりがそんな理不尽な宿命を背負っているのか。その望まぬ宿命には、一体どんなご大層な理由があるのか。せめてそれくらいは知らなければ、気が済まないと思ったのだ。
 そうして少年は王家の指輪に導かれるまま魔王殿に向かい、騎士カタリナに出会った。
 少年は、指輪がカタリナの元へ渡らんとしていることに、すぐ気付いた。
 そう、聖王の声を自分に聞かせてきた指輪は少年を導いていたわけではなく、指輪自身が在るべき場所に在ろうとしていただけだったのだ。
 声を聞いてからここに至るまで、ひょっとして自分の宿命とは四魔貴族を討伐することなんだろうか等とも考えていた少年は、その役割が自分ではなくカタリナたちにあることを同時に悟った。
 勝手に勘違いしていた自分の行動が馬鹿らしくなって、そのままカタリナに指輪を渡し形ばかりのエールを送った少年は、再び宛てもなく世界を放浪することにした。
 自分の宿星は分かったが、結局その宿星と宿命がどんな意味を持っているのかは分からないまま。
 それでも、自分が何者なのかという事がわかっただけでも良しとすべきか。そんなことを思いながら、少年は以前と変わらず世界を彷徨う日々に戻った。
 それが半年ほども続いたあと、少年は、サラと出会った。
 この出会いを、少年は生涯忘れることはないだろう。

「あの時のサラは・・・すごい強引だったな。エレンさんから君は引っ込み思案だって聞いたけど、僕には信じられないよ。でもそんな強引さのお陰で、僕は君が・・・サラがいるこの世界を、守りたいと思うようになったんだ」

 サラと同じ宿命を持つ少年には、たとえ世界を隔てるほどに互いが離れていても、サラの命の鼓動が、確かに伝わってくる。
 だから少年は、今この瞬間も確信しているのだ。アビスゲートの向こうでサラはまだ生きている、と。
 エレンは魔王殿から戻った後にそれを聞き、少年を連れて旅立つことを即断した。
 サラの想い、そして自分の想いとは異なるエレンの意思に、少年は大いに戸惑った。
 サラは自分が一人深淵に降りることで、次の死蝕まで続く平和を世界に齎そうとしていた。少年もまた、その役割を自分が引き受けるつもりでいた。それは、二人が旅する間にずっと抱いてきた切なる想いだ。
 だから自分が深淵に行くことが叶わなかった今は、せめてサラの望んだこの世界の平和を、静かに見守るべきなのではないか。
 そう自分に言い聞かせようと、少年は考えた。
 周りにいた人たちも、大多数がそう考えていたはずだ。自分がかつて魔王殿で王家の指輪を手渡し、その宿命に従い見事四魔貴族を討ち果たした騎士カタリナも、そう考えていたようだった。
 サラはまだ深淵で生きている。それは分かっていた。
 そして全てのアビスゲートが閉じた訳ではないということも、少年は感じていた。四魔貴族の守護するゲートは機能を停止したが、それ以外にまだゲートが在るようだということだけは、間違いなく少年には感じられていたのだ。
 ひょっとしたらそのゲートを通じて、サラを助けに行けるかも知れない。
 そんなこと、考えないわけがなかった。
 当たり前だ。少年にとって、サラはこの世界の全てだと言っても過言ではないのだから。
 だが、その行いはサラの願いを否定することに繋がってしまう。それもまた、同時に分かっていた。
 世界のどこかに在るらしい第五のゲートは、とても危険なもの。もしそれに迂闊に手を出したら、他のゲートを閉じた意味がなくなってしまう。世界は一気に聖王以前、災厄の時代へ逆戻りだ。いや、もしかしたらそれ以上の大いなる惨劇が訪れるかも分からない。少年は己の宿命ゆえに、それを確信していた。
 だから少年は、そのことを必死に皆に伝えた。
 幸いなことに周囲の人たちは、誰もが少年と同じ気持ちを抱いてくれたようだった。
 出来ることなら第五のゲートを目指し、サラを助けに行きたい。
 しかしそれは世界を再びアビスの脅威に晒し、サラの願いを踏み躙る行為。
 即ち、世界に仇なす所業である。
 そんなこと世界は望んでいないし、サラも望んでいない。
 だから、彼女が望まないことをするべきではない。この現実を受け入れ、これから先の三百年の平和をしっかりと守ること。それが、この世界に今生きる者たちの務めに他ならない。誰しもが、そう考えた。
 だけど、それを真っ向から否定した人が一人いた。
 エレンだった。
 彼女の言葉は、少年の心を大きく揺さぶった。

 『あたしはサラを探す。生きてるなら必ず探し出して、絶対に連れ戻す』

 サラの望み。
 世界の望み。
 その為に集い戦った人々の宿命。
 少年の話を聞いたエレンは、それらをこれっぽっちも意に介さず、即座にそう言い切ったのだ。
 少年はその言葉に頭を強く殴られたような思いで、そして静かに涙した。

「僕も君も・・・死の星を背負い、世界のために死の星に命運を委ねる宿命だ。でも・・・その宿命だけが絶対なら、僕には心なんて要らなかったはずだよ。だからこれは・・・心を僕に与えた誰かが悪いんだと思う」

 少年は、己の中に生まれた本当の望みを、もう絶対に手放さないと決めた。

「サラ、ごめんね。僕は世界中を敵に回して・・・そして君に嫌われても。それでも・・・君を助けにいく。もう、そう決めたんだ」

 

 

 そこは世界を構成するもの全てが、深淵そのもの。
 見渡す限り上下左右全てが、仄暗い深淵に覆われた場所。
 どこまでも続くその深淵の中、ある一点だけが唐突に、どこからか漏れ出す淡い光で、ゆらゆらと儚げにゆらめいている。
 そのゆらめきの周囲は、まるで時の流れが止まったように静かだった。

 ゆらめきの中心には、一人の少女が居た。
 少女は目を瞑り、僅かな身動き一つすらせず、呼吸をしているのかどうかさえも定かではない。
 だが、少女は生きている。少女の身の内から溢れ出る強烈な生命の輝きと奔流こそが、この深淵をすら侵食せしめんとするゆらめきの源なのだ。
 少女は、世界を隔てる扉そのもの。つまりここに少女の存在がある限り、深淵と扉の先にある世界とは交わることなく、分かたれたままだ。
 当然、いずれ少女の命は尽きるだろう。今は輝かんばかりに溢れ出る生命の奔流とて、無限ではないのだから。
 そして少女の生命の輝きが失われた後、数百年後に再び訪れるであろう時を静かに待つことになる。

 少女とそのゆらめきをじっと見上げる、四つの影があった。

『三百年前とも、六百年前とも異なる、新たなる宿命を背負った子・・・か』
『定めを背負うものが、二人。そのようなことは今まで有り得なかったことじゃ。となればこの娘の定めとは、このまま命を終えるようなものではあるまい』
『二人同時に現れた宿命の子、我々の知らない第五のゲートの存在・・・。今回は、明らかにこれまでと異なるね』
『あぁ・・・そして我らの幻影を滅ぼした、あの不遜な虫けらの存在。あのようなものが宿命の子と別に現れたことも、此度の事態と無関係だとは思えぬ』

 四つの影は、少女を見上げながら口々に語る。

『もしかしたら魔王は、こうなることを狙っていたのかも知れんな』
『・・・是非もないことじゃ。例えそうであったとしても、我らの目的は変わらぬ』
『その通り。魔王や人間がどのような目的を持っているにしても、もう我々とは関係ない』
『左様。我らはただ、ゲートの向こうを目指すのみ』

 四つの影は語り、そしてその場から音もなく消えていく。
 そうして何者も居なくなったその場には、変わらず揺らめく淡い光と、その中心にいる少女だけが残った。

 少女は、感じていた。
 この深淵に在る、触れてはならぬものの存在を。
 きっと自分は、ここに来てこの存在を抑えることが本来の宿命だったのだろう、と。
 少女は、願っていた。
 自分が宿命を全うすることで、愛する人達が平穏に暮らすことの出来る、これからの素晴らしい三百年を。
 少女は、望まないと決めていた。
 望んでしまったら、全てを破壊することになる。それが分かっていたから。

 

 

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第九章・7 -ロアーヌ侯の名代-

 

 ただ一条の光すらも届かぬ、黒く、重く、深い、どこまでも只管に続くかのような暗闇。
 まるで死蝕の只中にでもあるかのような絶望感に覆われたその場所は、その空間そのものが、生きとし生けるものの介在を頑なに拒んでいるかのようだ。
 そんな、外界から断絶された醜悪なる地の底。その最も深き場所に揺蕩う暗黒の、中心部。
 気がつけばそこには、圧倒的な存在感を漂わせながら蠢く、四つの気配があった。

「忌々しい・・・」
「あぁ、全くだ・・・三百年前でさえ、これほどの忌々しさはなかった」
「しかしこれも、定めのうちじゃ・・・」
「・・・そう。我らが宿願のための、定められた通過点だ」

 言葉短かに、其々が呟く。

「ふん・・・兎も角、残るゲートは一つに集約された。我らの宿願さえ叶うなら、あとは好きにやればいい」

 何者かが発したその言葉と共に、三つの気配がその場から消える。
 残された一つの気配は、深い闇と静寂に身を任せ、ただそこに佇んでいた。

「好きに、か。無論、そうさせてもらおう。何しろ、三百年も待ち侘びたのだからな・・・」

 どこかに愉悦の響きを感じさせる声を残し、気がつけばそこには何者の気配もなくなった。後には、ただただ深い深淵が横たわっているだけであった。

 

 

 アビスリーグの騒動が収束してから二ヶ月近くが経ち、世界が新緑の季節を迎えんとしている頃。
 各国での様々な任務や情報収集を終えた面々は、その殆どがピドナへと帰還していた。
 しかしながら、その場には戻ってきていない者も幾人かおり、その者らについては現在どこにいて何をしているのか、という点すらも分かっていない。
 それはつまり、ヤーマスで一人別れたサラと、それを追うようにピドナを去ったエレンとハリードであった。
 サラの行方は既に半年以上もの間、ようとして知れず。その目撃情報は、失踪直後にキャンディがファルスピドナ間の宿場町で夜間に見たというのが最後だ。
 一方のエレンハリードの両者については、どうやら旧ナジュ王国首都である神王の塔に向かったという情報までは商業ギルドを通じ得られているが、その後の足取りは矢張り掴めていなかった。
 出来ることならば、今すぐにでも彼女らを探すために全ての業務を投げ出してしまいたいとすら、トーマスは考えている。
 だが、それは己以外の誰もが望まぬこと。
 また、自分が今ここで他の全てを投げ出すことが情勢にどれほどの影響を及ぼすかも理解しているからこそ、彼は動けないし、動かない。
 その大いなる内と外の気持ちがせめぎ合う矛盾を振り払うかのように、トーマスは目の前の新たなる課題へと一心不乱に向かっていた。
 そこに、コンコン、と扉をノックする音が響く。

「どうぞ」

 目の前の書簡に視線を向けたままトーマスが入室を促すと、程なくして扉が開かれ、見慣れた二人が部屋の中へ入ってきた。

「あぁ・・・お二人とも、戻られましたか」

 静かに開かれたドアから部屋の中に入ってきた二人、ミューズとシャールを認めると、トーマスは書簡へと向かっていた意識と手を休め、彼女らに向かい合った。
 酷く疲れた様子のミューズに部屋のソファへの着座を促したシャールは、次いでトーマスへと視線を向けると簡単に状況説明を行う。

「一先ず、旧市街の住人の避難は今朝時点でほぼ完了した。あの辺りをねぐらにしていたならず者共も、流石に異変を察知したのか市外へ散っていったようだ。今の旧市街には、鼠一匹も居やしないだろう」
「短期間での迅速な準備と誘導対応、本当にお疲れ様でした。これも全て、ミューズ様の人望のお陰です」
「いえ・・・旧市街の方々は、その殆どが何らかの事情で新市街を追われた方々。同じ境遇である私だったから、偶々耳を傾けてくれたに過ぎません」

 ミューズは自らの疲れを吐き出すように一息つくと、トーマスにそう答える。
 当然ながら旧市街の住人がそれだけの共通点でミューズの言葉を聞き入れたわけはないとトーマスには分かっているが、今はミューズの返事に浅く頷くに留めた。

「私の方からはこの数日で纏まった状況を含めた現状整理と共有を行えればと思いますが、今日は休まれて明日にしましょうか?」
「いえ、大丈夫です。お聞かせください」

 ミューズの気丈な返事に、トーマスは再度軽く頷いてから手元の書簡をまとめ、ミューズらと対面のソファへ移動し座り直した。

「では・・・。魔王殿から漏れ出した謎の瘴気の影響範囲ですが、現在は旧市街地のおよそ七割ほどまで達しています。おそらくあと一週間程で旧市街全体を飲み込み、此方にまで瘴気が到達するでしょう。次に増加した魔物の活動ですが、現時点ではまだ魔王殿より外に範囲を広げている様子は見受けられません。ただ、魔王殿上空を竜種の群れが飛行していたとの新たな目撃証言があり、一週間前に比べても内部の魔物数は増しているとみて間違いないでしょう」
「・・・道理で、この数日ずっと銀の手がひりついているわけだ・・・」

 トーマスの言葉に、シャールは視線を険しくしながら自らの右腕に装着された銀の手を見る。するとまるでそれに応えるかのように、カシャリ、と銀の手が僅かに鳴った。

 事の起こりは、かれこれ二週間ほど前に遡る。
 突如ピドナ旧市街の奥に聳える旧時代の遺物・魔王殿から、膨大な量の瘴気が外部へと溢れ出し始めたのだ。
 巷ではこれを昨年始めの似たような騒ぎに準え、『第二の予兆』として恐れ慄いた。
 そこから程なくして、溢れ出る瘴気に触れた魔王殿近隣の旧市街住民が謎の体調不良を訴えて倒れはじめた。
 そこからは、ピドナ全体が恐怖と混乱に陥るのに、そう大した時間は掛からなかった。
 即座に旧市街の閉鎖や、更には魔王殿を旧市街ごと焼き討ちしろなどの過激な声も宮廷内で噴出し、それに激昂したミューズがクラウディウス家の所有する土地を用い旧市街の住民を避難させる案を、ルートヴィッヒ軍団長に即日直訴。ルートヴィッヒ軍団長は、同日にこれを承認。
 そこからミューズは今日まで、カタリナカンパニーの全面的な協力を得ながら避難に必要な物資の確保、宮廷内や新市街で根強い『旧市街住民を流入させることへの不安』への説得、そして旧市街住民への避難対応などに奔走していたのであった。

「そしてこちらの軍備状況ですが・・・現時点で近衛騎士団以外の兵力は未だなく、近隣のファルスやスタンレー軍からの援軍についても、ほぼ期待は出来ないだろうとの軍団長の見解です」
「ふん・・・元々あの両軍をけしかけて消耗させたのはルートヴィッヒ自身だ。自業自得だな」

 シャールが忌々しそうに表情を歪めながらそういうと、対して今は至極冷静な様子のミューズが、片目を瞑りながらシャールに視線を投げかけた。

「シャール、今はそのようなことを言っている時ではありません」
「は・・・申し訳ございません」

 ピシャリと飛ばされた主人の言葉に、シャールは姿勢を正して直立する。
 その見慣れぬやりとりに、トーマスは彼女がこの二週間で実に様々な、望まぬ経験というものをしてきたであろうことを感じた。
 特段、彼女が苦心したであろう点は、新市街の有力者や宮廷貴族への説得に違いない。
 自分とは根本から価値観の異なる人種への説得と物事の調整とは、清廉なる彼女にとって大いなる苦行であったはずだ。
 当然ながらこれによる一切の責任をクラウディウスが持つことを条件とされたであろうし、そしてなんらか起こる、もしくは意図的に「起きた」とされるであろう騒動を全て彼女の責任とし、彼女の宮廷内での発言権を弱めていく思惑が貴族や有力者連中にあることも、間違いないだろう。
 己の既得権益を守ろうとする有力者の思考や行動は、常にそうしたものだ。
 ミューズの隣で直立しているシャールなどは、彼女がそうした跳梁跋扈の世界に身を投じている様に、実のところ誰よりも一番心を痛めている。
 それでもきっと彼は、ここまでに愚痴の一つも吐いてこなかったに違いないのだ。
 なのでどうしても心が気安くなるこの瞬間に宮廷事情の話を振ったのは、ちょっと配慮が足りなかったか。そんな風に、トーマスは少し己の言動を省みた。
 しかしなんにせよ、この二週間で旧市街住民の避難完了を成し得たのは、今のミューズの確かな調整手腕である。その結果として勝ち得た冷静さが彼女に似合うとは到底思えないが、しかし彼女は今は自らそれを望み、その仮面を被っているのだ。
 だとしたらこちらが今そのことを下手に心配するのは、むしろ失礼にあたるのだろう。

「・・・なので、つい先日戻られたカタリナ様に、早速ですが宮廷へと赴いていただいています」
「おぉ、カタリナ殿も戻られたか。しかし、なぜ宮廷に?」

 頼もしい戦友の帰還に先ずは喜んだシャールだったが、そこで感じた疑問をそのまま口にする。
 すると、それにはトーマスより先にミューズが浅く頷きながら答えた。

「カタリナ様が、ロアーヌへの物資の見返り・・・ということですね」
「仰る通りです。ですので侯国の名代として、モニカ様がカタリナ様と共に向かいました」

 トーマスはミューズの言葉にうっすらと笑みを浮かべながら答え、手元の書簡をそのままミューズへと手渡した。

「一応手元にある現時点までの情報はお渡ししておきますが、矢張り今は少しおやすみください。せめて、カタリナ様たちがお戻りになられるまでは」
「そうですね・・・お気遣いありがとうございます。それではシャール、いきましょう」
「はっ」

 トーマスから書簡を受け取ったミューズはシャールの手を借りて立ち上がり、ゆっくりとした足取りで部屋を後にする。
 その様子を立ち上がって見届けたトーマスは再度心の中で彼女を労いながら、再び自らの机に戻り作業を再開した。

(当然ながらルートヴィッヒ軍団長との話は、一筋縄では行かないだろう。しかし、きっとモニカ様ならば大丈夫なはずだ・・・)

 如何せん他者の行動を心配しがちなトーマスは、結局作業にあまり手がつかずにもんもんと他の考え事をしながら時間を過ごしてしまうのであった。

 

 

「お初にお目にかかりますわ、ルートヴィッヒ近衛軍団長閣下。わたくし、モニカ=アウスバッハと申します。本日は我が兄にしてロアーヌ侯国侯爵、ミカエル=アウスバッハ=フォン=ロアーヌの名代として、この場に参りました」

 ずらりと武装した衛兵が壁際を埋め尽くした、伝統あるピドナ王宮の謁見の間。モニカはその場に立ち、多くの物珍しそうな視線を浴びながら、ルートヴィッヒに相対していた。
 来る前はピドナ王宮の謁見の間がどれほどのものなのかと思ったものだが、調度品や装飾こそ確かに見事であるものの、こうして立ってみると事前予想したほど広大ではない。何ならロアーヌ宮廷の謁見の間とそこまで大きくは違わないのではないか、などとモニカには感じられた。
 なので思いの外自分から近い距離感で玉座の脇に立つ軍服姿のルートヴィッヒをじっくり観察しつつ、モニカは口上と共に優雅にドレスの裾をつまみながら恭しく一礼をしてみせる。

(ふぅん・・・公的な挨拶の場でも玉座には座らずその脇に立ち、その格好もあくまで貴族然としたものではなく軍服なのですわね・・・。既にメッサーナ王気取りをしていないのは、まだ好感が持てますわ)

「良くぞピドナ王宮へ参られた、モニカ=アウスバッハ殿。流石は噂に聞くロアーヌの華、その噂以上に実物はお美しい。斯様な軍服で出迎えてしまった無骨な軍人の無礼を、どうか許していただきたい」
「いいえ、とんでもございません」

 相手の世辞に短くそう答えながら、モニカはスッと背筋を正す。
 それに合わせてルートヴィッヒも口を結び、彼女の次の言葉を待った。

「先ずは閣下に、我が国を代表して御礼を申し上げたく存じます。先般、我が国と魔物との長期戦線へ貴重な物資の援助を頂きましたこと、誠にありがとうございました。御援助頂いた物資によって戦線が回復し防衛に成功したことは、閣下のお力無くしては成し得なかったことであると、わたくしどもは確信しております」
「いや、対四魔貴族軍との戦線ともなれば、それは言わば世界共通の宿敵。我らとしては聖王様の時より共に歩んできた古き友へ、当然のように手を差し伸べたに過ぎない」
「勿体ないお言葉です」

 にこやかに、そして自然な様子で会話を弾ませる両者。
 ルートヴィッヒの近くに控えていた副軍団長マルセロは、いま世界で最もメッサーナ王に近い自らの主人を前にして、これほどまで威風堂々たるロアーヌの姫の姿に、内心では大きく舌を巻いていた。
 ルートヴィッヒが近衛軍団長としてピドナに君臨してからというもの、各国要人がこの謁見の間に詰め掛けぬ月は一度もなかった。そして、訪れた誰しもが一様にルートヴィッヒの覚えをよくしようと、執拗に主人の顔色を窺ってきたものだった。
 だが、この姫にはそのような打算の素振りは全く見受けられない。
 無論、だからといって無礼というような言葉とは正反対の気品に溢れ、それは単に彼女が見目麗しいからという話では全くない。言うなれば一国を治める侯家の生まれという血筋からくる、揺るぎない誇りと風格。
 佇まい一つから、そこまで感じさせるのだ。
 ロアーヌといえば先代に勝る名君と名高いミカエル侯が特段に有名だが、その妹君までがこのような傑物の風格を漂わせているとは、ロアーヌ侯国は矢張り国家としての要人層が厚いと感じざるを得ない。
 何しろ、その層の厚さを最も代表する存在が、この姫の後ろに今も控えているのだから。

「そこで、我が国としましては閣下からの多大なる恩義に最大限報いるため、いま最もピドナに必要だと確信する我が国の剣とともに、本日ここに馳せ参じた次第でございますわ・・・カタリナ、前へ」
「はっ」

 モニカが自らの背後に向かい声をかけると、彼女の後ろで片膝をつき待機していたカタリナが立ち上がった。
 そしてモニカの横に立ち、ルートヴィッヒへ向かい騎士式の一礼をする。

「お初にお目にかかります、ルートヴィッヒ近衛軍団長閣下。ロアーヌ侯国が騎士、カタリナ=ラウランと申します。お目通り叶い、光栄に存じます」
「おぉ・・・カタリナ殿、お噂はかねがね聞いている。あの十二将ヒルダ様以来の侯国女騎士にして、既に複数の四魔貴族を討伐せし英雄。こうして生ける伝説に会えたこと、こちらこそ光栄に思おう」

 そう言いながらルートヴィッヒは玉座のある壇からカタリナらと同じ高さに降り、一歩カタリナへと近いてみせた。

(・・・あら、少し声色が変わりましたわね・・・。強く美しきに憧れを抱く・・・そうした極一般的な男性のサガは、この方にもご健在のようですわ。でもダメ、カタリナはお兄様のものですわよ)

 内心では一言一句全てに感覚を研ぎ澄ませながら笑顔を絶やさないモニカは、口上を述べたカタリナが半歩下がるのを待ってから再度口を開く。

「ピドナは現在、旧時代の遺物である魔王殿から発せられる強大な瘴気の影響を受け、混乱の途上にあられるかと存じます。魔物の集結もあるとのことで、瘴気と合わせ、通常の軍勢で対抗するには困難を極める状況のご様子。そこで、我が国の誇る最強の剣であれば今のピドナを必ずお救い差し上げることができると思い、それを以て先般の恩義に報いたいと考えております」

 モニカが言葉を述べると、ルートヴィッヒはふむ、と息を吐きながら声を出した。

「残念ですが・・・モニカ姫、それは少々、道理の通らぬ申し出ですな。確かにその者の実力は、今のピドナを救う最も有力な手立てであることに間違いない。しかしその者はロアーヌの騎士であると同時に、我がピドナで商売を営む、我らの内に居る者でもある。我が国内に在る人と物は喫緊の際、近衛軍団長の名の下に徴発権限を我々は有している。つまりその者は我が国においては徴発対象であり、援助対象としてお受けする者とは成り得ません」

 ルートヴィッヒが如何にも人好きされそうな柔和な顔で、しかしモニカの申し出そのものの正当性を全否定する。
 対してモニカは二、三度瞬きをしたものの、顔色ひとつ崩さない。

「あら・・・閣下、それはまた異なことを申されておりますわ。そうした法は当然我が国にもございますが、その論法に当て嵌めてしまうと、御援助頂いた支援物資がミュルスの港についた瞬間から、我が国の徴発対象となってしまいます。聖王様がコングレスで認めし爵位国はメッサーナ王国と共に、相互に協力を惜しまず、決して争うべからず。その大原則の元、わたくしどもはお互いの持てる自国資源を、時に惜しみなく分け与う。此度の双方が直面した危機とは、それに基づくものであると、我が国は解釈しておりますわ」

 モニカのこの言葉に、謁見の間全体が大きくざわついた。
 国家毎の法を持ち出したルートヴィッヒに対し、唯一の国際規範である聖王の教えを軸にモニカは話をしてきているのだ。
 言うまでもないことだが、総合的な国力でメッサーナとロアーヌの双方が争えば、メッサーナの圧勝である。仮にここでルートヴィッヒの機嫌を損ねてロアーヌに何らかの経済的報復を行うなどということがあった場合、他国もそれに追随する可能性は高く、そうなればロアーヌなどはひとたまりもあるまい。

(・・・でも、それは昨年までの話ですわ。我がロアーヌはお兄様が爵位を継いでから、この一年あまりの間に大きく勢力を伸ばしている。単に報復措置など行おうものなら、とても痛いしっぺ返しがありますわ)

 にこやかに舌戦を交わすその最中、モニカは心の中に敬愛する兄であるミカエルの姿を思い浮かべながら、揺るがぬ意志を体内に錬成し続けていた。

(・・・とは言え、この理屈では少々分が悪いのも事実。メッサーナを中心とする聖王様により救いをもたらされた各国は、確かに聖王記という『絶対規範』を持っていますわ。言うなれば、これは世界共通の法典。ただし・・・この三百年で風化したしきたりや解釈の分化などが幾つも起こっており、実際問題として国家同士の取り決めに持ち出す交渉材料としては、些か決定打に欠けるのが正直なところ。精々が、建前上の合意根拠として誓約書面の末筆に記載される類のもの)

 モニカのこの見立ては、非常に正しい。
 聖王の教えは今も様々な場面で世界に影響を及ぼし、人々の生活や分化に根付いたものとなっている。だが、こと国家としての取り決めという分野については、正味が建前として用いられる程度のものだ。決して違えることの許されない世界憲法、という程の代物ではない。

「ふふ、流石はモニカ姫、フェルディナント様に連なる敬虔なる聖王教徒であらせられる。しかし、国家の機能や権限は三百年も以前に定められた『お約束』では全く網羅しきれないほどに拡大、変容しているのが今の国際常識です。結論として、先般の我らからの援助物資を貴国は徴発対象としていない。まぁ元々貴国にはなかった物資ですから、それが国際的にも正しいでしょう」

 ルートヴィッヒは後ろに手を組み、あくまで柔和な表情を崩さずに続けた。

「しかし此の者の場合は、根本から条件が異なる。此の者は現在ピドナに活動の拠点を置いているだけではなく、ピドナで経営を行うことで利も得ている。商業ギルドを通じて我が国に本店登記されたカンパニーとして税も納めているし、実際に幾つかの国家事業にも加担したことで、国外では知り得ないピドナ内の情報も有している・・・。そのような存在を有事の際に徴発対象としない国家は、今のこの世界には何処にもございませんよ、モニカ姫」

 ルートヴィッヒは、饒舌に語る。
 国家同士の国力を背景とした軍事経済、国家間取引実績による戦略遊戯において、ルートヴィッヒは圧倒的な実力を持っているのだということを、改めて実感させられた。

「そこで・・・です、モニカ姫。貴国にはもう少し別の援助をお願いしたいと考えているのです。直近、貴国はナジュ方面へと遠征し大きく影響力を拡大しておられる様子。あの神王教団教長ティベリウス殿とも友好条約を結ばれたとか。ついては・・・是非ともミカエル侯のお力を借り、我が国へナジュからの援軍を要請させていただきたいのです。本来ならば世界最強の誉れ高いロアーヌ騎士団のご助力を願いたいところですが、件の長期戦線で大きく疲弊もしていることでしょうからね」

 ナジュからの援軍を要請する。
 これが何を意味するのか、この場において分からぬ者は居ないであろう。つまりこれは、神王教団の協力を仰ぐ、と言うことだ。
 メッサーナでは昨年、様々な面で優遇措置を施し蜜月を築いていた神王教団ピドナ支部の壊滅という、大きな政治的内紛を起こしている。これによるルートヴィッヒ政権への世論反発影響は非常に大きく、火消しや情報統制に苦心したことは、宮廷内ではまだまだ記憶に新しいことだろう。
 そのような国民感情を背景とした最中、ロアーヌから援軍が送られてきたのが神王教団の兵力だとしたら。

(まず確実に、メッサーナ国民のヘイトがロアーヌに向きますわね・・・)

 ピドナとしては未だ記憶に新しい、神王教団との禍根。これを蒸し返すようなことを他国が行おうものならば、世論が国内批判ではなく国外批判に傾くことは、想像に難くない。

(ふぅん・・・クラウディウス家の復権という痛みは伴ったものの、ミューズ様を取り込み世論からの反応をフラットに戻した次は、更に自国のヘイトを外部に分散させ、あとはそれを煽ることで政権としての支持を回復・・・といったところですわね)

 しかもこれは見え方を操作すれば、完全にロアーヌからの『侵略』とも捉えかねられない。
 何しろ此度の魔王殿の問題は、徴発対象としているカタリナという戦力を以って挑むことで、既に一定の勝率を確保している。万が一これが功を奏さなかった場合は撤退戦の中でナジュからの援軍も必要になるだろうが、仮にカタリナのみでこの危機を想定通りに脱したとあれば、このタイミングで訪れたナジュからの援軍は『自国の危機に乗じた神王教団とロアーヌの侵略軍』と市井の目に映ることだろう。
 あとはそれを起点として、如何様にも国際情勢を煽ることができよう。
 これならばどう転んだところで、ロアーヌの勢力を削ぐことができる、

(なるほど・・・自国の危機をすら、外交のその後を見据えて利用する。野心あふれる施政者としては、ある意味あっぱれですわ。まぁでも、お兄様には敵いませんけれど・・・。とまぁ、相手の表面上の狙いは解りましたわ。でも・・・本当に見据えたいのは、その先ですわね)

 モニカは、瞬時の間に思考を巡らせていく。
 ルートヴィッヒがロアーヌの権勢を削ぐ動きをしようとしている。それは今の申し出から読むことが出来た。
 だが、今更メッサーナ王国がそれをする必要が、いったいどこに在るのか。
 それをすることで、ルートヴィッヒはその先に何を成そうとしているのか。
 それが目下一番の関心事であった。
 このまま行けばルートヴィッヒがメッサーナ王を名乗る日は、そう遠くないだろう。そこに、ロアーヌという国の勢力は殆ど関係しない。
 当然ロアーヌがそこに反対をするという可能性はあるが、それこそ一国が反対したところでどうしようもない情勢を、この男ならば容易く整えられるだろう。
 なので、ここでロアーヌを弱体化させる目的は、そういう点とは別のところにあるはずだ。

(ロアーヌを弱体化させることで得られるメリット・・・この男が目指す、その先とは・・・?)

 ここまで、ルートヴィッヒが喋り終えてから数秒。そろそろ、静寂も限界か。

(・・・ふぅ、残念ながらわたくしには今この場この瞬間で、そこを読み切ることは叶いませんわね。きっとお兄様であればその先まで瞬時に読み、この場でもっと情報を引き出せるのでしょうが・・・口惜しいですわ)

 ふっ、とモニカが小さな吐息を漏らすと、その場の全員の視線が彼女に注目する。
 それを意識したのかしていないのか、モニカは姿勢を崩すことなく凛としたまま、より一層華やかに微笑んで見せた。

「ふふ、閣下・・・少々思い違いをなされておられるご様子ですわ」
「・・・ほう、思い違い」

 ルートヴィッヒもまた表情ひとつ崩すことなくモニカに問い返すと、モニカは「はい」と言いながら頷く。

「我が国の誇る騎士、カタリナの取り扱いについて閣下が唐突に言及なされたものですから、わたくしもカタリナについて、我が国としての見解を述べたに過ぎません。それにつきましては近年の国際情勢を鑑みた閣下の知見、とても学びになりますわ。ですが・・・わたくしは元々、カタリナを我が国からの援助してご提案は、しておりません」

 モニカの言葉に、周囲の衛兵や副軍団長マルセロなどは眉間に皺を寄せながら考える。しかし一方のルートヴィッヒは、少し長めの瞬きをひとつする間だけ考えを巡らせ、一言、呟いた。

「・・・・・・言葉の通り、剣、か」
「仰る通りでございます」

 モニカのその言葉と共に、カタリナが再度モニカの横に並び立つように半歩進み、鞘に納められた状態のマスカレイドを胸の高さに掲げた。

「聖王遺物が一つにして我が国の至宝、聖剣マスカレイド。騎士カタリナが魔龍公らを討伐出来たのは、彼女と共にこの剣があってこその事でございます。よもや・・・閣下は聖王様所縁のこの剣までを徴発対象と仰っているわけでは、御座いませんね?」

 モニカのその言葉に、謁見の間に控える衛兵らから再度、小さくないざわめきが巻き起こった。
 聖王記を軸とする規範については、先にルートヴィッヒが指摘したように現在の国際情勢上で強い影響力は持ってない。
 だが、聖王を拝する世界の象徴であり所有者が明確に定められた聖王遺物についてとなると、全く事情は異なってくるのだ。
 例えばレオナルド工房が所有権を持つ聖王遺物、聖王の槍。
 この聖王の槍については、例えピドナ内部にある聖王遺物であろうと、メッサーナ王の個人意向で徴発を行う権限はない。
 それは、聖王が四魔貴族討伐後に開いたコングレスで決められた中でも、最も遵守するべき重大事項として定められたものだ。
 それだけ聖王遺物というものが強大な力を持ち、管理所有権限が絶対的なものなのである。
 故に、ロアーヌ侯家のみがその管理権限を持つマスカレイドについては、侯家以外の誰も取り扱いについて言及する権限を持ち合わせてはいない。
 それだけは三百年たった今も、その先も、永劫変わることはない。

「・・・もちろん、私とてその剣を徴発しようなどとは、微塵も考えてはおりませんよ」

 ルートヴィッヒは相変わらず表情を崩さぬままそう言い、カタリナへと視線を向けた。

「カタリナ殿。パウルス王の予言に記されし八つの光である貴女でも矢張り、魔戦士公に相対するにはその剣が必要か」

 次にはモニカを除いたその場の全ての視線が、カタリナへと注がれる。
 カタリナは視線が集まりきったことを確認してから、ルートヴィッヒの言葉に静かに頷いてみせた。

「・・・はい、閣下。例えピドナが誇る世界一の工房レオナルドの主が打った当代最高の剣であったとしても、四魔貴族に突き立てることは全く敵いません。この剣が無ければ、私などが四魔貴族と相対することは、不可能でしょう。もしこの場での抜剣をご許可いただけるのであれば、そのご証明も可能です」
「ほう、証明・・・許可しよう」

 内心では溢れでる興味を隠しきれぬルートヴィッヒがそう言うと、カタリナはモニカからも距離を取るように数歩下がり、すらりと鞘からマスカレイドを抜き放った。
 その美しい装飾の小剣は確かに見るものの目を見張る装飾美だが、しかしそれでも単なる小剣だった。
 その様を観衆たちが小首を傾げながら見守っていると、カタリナは小さくそっと、囁いた。

「・・・起きなさい、マスカレイド」

 その瞬間であった。
 マスカレイドを中心として謁見の真全体に広がった赤い閃光と強烈な風圧に、居並んでいた衛兵の半数は後ろにガシャリと音を立て尻餅をつき、残りは大きく姿勢を崩した。
 一方、その場から動きこそしなかったものの赤い光から視界を腕で庇ったルートヴィッヒが、閃光と風圧の後にカタリナへと視線を向け直す。
 するとそこには先ほどの小剣ではなく、真紅の刀身を持つ長大な剣が現れていた。
 その姿はあまりに神々しく、美しい。そしてなにより、聖剣マスカレイドの放つ圧倒的な神威の如き存在感に、場の誰しもが飲み込まれている。
 眼前の光景を見たと同時、もはや言われるまでもなく、誰しもが確信させられていた。
 この剣であればこそアビスの脅威にも対することが出来、この剣でなければそれは全く不可能であろう、と。

「・・・なるほど。確かに、我々はこの剣の力を借りなければならないようだ」

 ルートヴィッヒが浅く頷きながらそう言うと、カタリナは一礼しながらマスカレイドの刀身をそっと撫でる。
 するとマスカレイドは淡く発光しながら、瞬く間に元の小剣の姿へと戻っていったのであった。

「・・・如何でしょう、閣下。我が国からのご提案、お気に入りいただけましたでしょうか?」

 その場で唯一、姿勢すらも微動だにしていなかったモニカが、風圧で乱れた髪とドレスの裾をさっと整えてからルートヴィッヒに向き直ってそう言った。

「・・・ロアーヌの国宝、聖剣マスカレイドをお貸しいただけるとは、これ以上ない望外の喜びです、モニカ姫。是非ともそのご提案を、受けさせて頂きたい。先ほどの我々からの要望は、お忘れ頂いて結構です」

 ルートヴィッヒは相変わらず柔和な表情でうっすらと微笑みながらそう言い、対するモニカも極上の笑顔で応える。

「閣下の御恩に報いることができること、我が兄ミカエルもさぞ喜ぶことでしょう。カタリナ、聖剣マスカレイドと共に、立派に勤めを果たしなさい」
「はっ」

 カタリナがモニカの言葉に応えて敬礼の姿勢をとると、満足げに微笑んだモニカはルートヴィッヒに向き直り、優雅に一礼をした。

「それでは閣下、わたくしはこれ以上の長居をしてもお邪魔になってしまいますから、これにて失礼させていただきたく存じます。ピドナと近衛軍団の皆様のご武運を、お祈りしておりますわ」
「モニカ姫の祈りこそ、我らが百万の援軍を得たようなもの。この危機を脱した暁には、是非とも御礼の席を設けさせていただきたいものです」
「はい、その時は喜んで」

 そのままモニカが帰途につくと、続いてカタリナもルートヴィッヒに向かい一礼をした。

「では、私も役目を果たしに向かいます。故国ロアーヌの名にかけて、必ずや閣下へ吉報を持ち帰って参りましょう。それでは」

 それだけ言い終わると、モニカの後を追うようにしてカタリナも即座にその場を後にする。
 謁見の間に集まっていた仕官や衛兵たちは未だ先ほどのマスカレイド覚醒の衝撃に気を取られているようで、そのなかで一人ルートヴィッヒは、ふっと思わず笑みを漏らした。

「ふふ・・・なるほど。八つの光とは武力のみの英傑にあらず、か。良い仲間に恵まれたな・・・ハリードよ」

 

 

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